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女性の愛情と母親の愛情と父親の愛情と男の愛情、いろんな「○○」の愛情がある。LAに住む彼女ブリーが抱いた息子トビーへの愛情は、それのどれでもあり、どれでもない。もうすぐ肉体的にも女性になる手術を控えたブリーは、いつも化粧と胸の位置をを気にしていた。だがまだ、排泄は男のそれで、毎日のホルモン摂取は絶対に欠かせられない。だが、スタンリーだった時に出会った女性がNYで息子を産んでいたことを知ることになる。しかも彼はストリート・ボーイ、甘いルックスを活かして男に抱かれていた。窃盗の罪で捕まった息子を引き取った費用は、ブリーが手術に使うはずのお金である。NYからLAへ車での二人旅出会う人は二人を「母と息子」と勘違いする。何も知らせず養父の元へトビーを送り届けようとしたが、小さな違和感が積み重なり、トビーは彼を男だと知ってしまう。別の作品では美しい女性の姿を見せるフェリシティ・ハフマンのブリーには舌を巻く。風呂や排泄のシーンも自然にこなして、衣裳や小道具以上に仕草や表情でトランスセクシャルの人物を演じきっている。口悪く、歪んで育ったトビーだが、ナイーブな内面をケヴィン・ゼガーズが魅力的に演じる。いくども「母と息子」に間違われ、お金を取られ、ホルモン剤もなくなって、トラブル続きの連続だが、そのトラブルも小さな笑いにつながる演出である。トラブルを乗り切るごとに少しづつ、ブリーとトビーの間に愛情が育まれていく。ブリーは時には手厳しくトビーを真っ直ぐ叱る。トビーもまたブリーをどこかで受け入れている。ブリーとトビーの愛情。他人の目に自然にうつった「母と息子」なのだろう。トビーは女性としてブリーに魅力を感じていたようだし、実際には「父と息子」なのだが。だがまぎれもないのは、ブリーの「愛情」、トビーの「愛情」であるということ。ブリーは困りに困って実家に逃げ込むが、彼女の外見はスタンリーという息子の女装でしかない。彼女の両親は父親と母親の愛情に加え、孫への愛情をトビーにも与えようとするが、その愛情はブリーがトビーへ示すものとは違っていた。女性が、男性が、女性らしく、男性らしく示す愛情と、個人がそれぞれに抱く愛情は決してイコールではない。その人の感情はその人だけのもので、人それぞれに形が違うだけのものだから、上手くつながれば上手くいくのだし、食い違えば離れていくのだ、きっと。ブリーがトビーの探す父親だったと知ったとき彼は悔しくてたまらなかっただろう。彼のこれまでの人生は父親の不在が影響している。ブリーが真実を隠していたことが、この旅で生まれた彼女への愛情を裏切ったのだ。嘘は愛情を裏切る。だが、愛情というものは実に不思議で、時間をおけば再び蘇える場合がある。一度断たれた絆が再び始まる場合もある。だから、この映画のラストシーンは再び始まるのである。「父と息子」ではあるが「母と息子」かも知れない。一つの部屋にいる二人は家族なのである。「トランスアメリカ」公式サイト
2007.06.30
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「インドに行けば一生働かなくてもいい」インド、インド、インドに行くには一人だいたい、いくらくらい必要だあ?猫だらけの家に住む猫じじいの猫を焼いて食べてるようなリョウスケ、カホル、ヒラジの三人組、全く働いてないから、金銭感覚、まるでナシ。(猫を食べていると申し上げましたが猫を焼いているという残虐シーンはございません)(ただし猫じじいの家の猫が一匹行方不明)佐藤隆太が演じるリョウスケはいいとして、緑のジャージ上下を小汚く着こなす、温水洋一のカホルは25才であると言いだす。二人の兄貴分のヒラジは知る人ぞ知る初代ビシバシステムの緋田康人。監督三木聡と温水、緋田の三人が原作のようなこの作品、上映までは長い道のりであったという。インドである、インド。かといってリョウスケ、カホル、ヒラジが目的をもってビッグビジネスに精を出すはずはない。円筒型の郵便ボスト壊し、郵便物の切手をはがして郵便局で換金。そんなもんで稼げる金額は微々たるもんである。胡散臭い神の啓示もあってインドに行こうと盛り上がったように見えて盛り上がってやる気になるような三人でもなく、多彩な登場人物が絡んでも起承転結もなく物語は進んでいく。トルエン中毒のチエミには鍾乳洞が好きなヤクザな恋人ササキがいるけれど、なんとなく同世代のリョウスケが気になってる。リョウスケは花沢というまともなサラリーマンの友人に、働けよと促されたりするけれども、ハンバーガーショップのバイトは上手くいかなかった。ちょっとボテトをオススメしたりできないのた。インバさん。インバさんは街の中に流れる、汚い川にいつも裸でつかっていてニコニコしている。インバさんの足はもう二本足ではなくて、魚みたいになっていそうである。インバさん、インバさん。インバさんは昔、働いていたそうだ。廃工場にある飛べないロケット。リョウスケは秘密のスイッチをチエミに教える。チエミは飛ばすにはトルエンと燃料タンクにぶちこむ。ササキはそのロケットで飛ぼうとした。小さなサンダル工場は借金まみれになっていて社長も従業員も起死回生を狙って新デザインサンダルを考案しようとしているけど、うまくいきそうな感じ0%。働いていてもお金は貯まらない。チエミにはタンクという友人がいる。いつもタンクの上にいるセーラー服の美女である。タンクはトルエン中毒で、それで死んでしまった妖精のような女性。いくら若くてもそやって命を落とす場合もあるんだな。三木聡監督の世界のコネタを演じるのは、なんとも豪華な俳優陣である。あんなところにもこんなところにも、有名どころから通好みの方々まで百花繚乱。主人公三人組と実のある絡みかたはロクにしない。なあんか一応インドには行くつもりの三人組。伝説の男になるんだと息巻くゲシル先輩の便乗して、銀行の金を強奪するのに参加する。一応、そこんとこ、クライマックス。なにせ、街の人(エキストラ?)も参加して、登場人物も何人か参加して、ヘン顔のイラストの紙袋をそれぞれカブリ、ダダダダと金を手づかみで強奪して街中逃げ回るんだからヘンな感じ。目的意識、責任感、そういうもんのないところにいる三人組。なんのために生きてるのか、とか、人生の意義をどうのこうの考えない作品である。そのまんま、その場を生きている。天然。インドに行っても行かなくても、結果がどうあれ、夜露をしのげる布団があればラッキーなのだ。飛べないロケット。廃工場にうち捨てられた飛べないロケット。みんなそれまでの人生があって、ジレンマを抱えているんだろうけど、そういうストーリーは一切語られないのである。猫を焼いてる場面がなかったように。それにしても、日本という国は、食べ物も生活必需品も結構捨てられているからリョウスケたちの生活にリアリティがある。インドに行こうとした三人組。いつか行くかも知れないし、一生行けないかも知れない。もしくは一生行かないかも知れないのである。「ダメジン」公式サイト
2007.06.30
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芸術とはここまでやることでもあるのだ。芸術の定義は難しい。だが広義の意味でなら専門外の人間も論ずることは可能だろう。空も雲もそして屹立した岩山も風そよぐ穂先、またはスパルタの町並み、何よりも堂々たる存在感も持つレオニダス王が現れた瞬間、スクリーンは一枚の絵画となる。風景と人物の絶妙の配置。飛び散る血の流れさえも全体と調和し、遠近が世界を無限に広げる。はためくスパルタ戦士の赤いマントといとも簡単に胴体から離れる人の頭。その戦いの向こうでも剣は人間の肉を切り裂き、顔も見分けられぬ程のペルシャ帝国の大軍が彼方からも絶えず押し寄せてくる。芸術には奥行きがある。敵と味方善と悪、そして、生と死。紀元前480年、現代と重なる過去の時間、芸術とは時を超越し、人を未知の場所へ飛ばす。だが現代は決して消え去ることはない。古の芸術作品を鑑賞するのは、まぎれもなく現代を生きる者たちである。アメリカで作られたこの作品は、敵であるペルシャ帝国に痛烈な姿で表現する。実際に台詞の端々には煽動ともとれる言葉が存在する。芸術とは暖かく強く優しいものばかりではない。無神経で傍若無人、節度の欠けたものでもある。だからこそ芸術とは金や権力といった世俗とは無縁で無垢にもなりえるし感動を呼び覚ます。時に、血腥く辛辣でもあり、憎悪や皮肉の対象にもなりうるだろうが。スパルタ戦士300人は、まさにこの作品そのものを凝縮している。敵の命を省みず、自分の命を省みず、ただ国の未来と愛する者のためだけに戦う戦士たち。最初の戦いには勝利しても、圧倒的な大軍を前に抜け道を知られては生きて国へ戻ることなど考えられない。彼らには未来はないのである。だが、最後まで己れの信念を貫き通した。ザック・スナイダー監督作品。フランク・ミラーの原作を忠実に再現しようとしたという。何もかも完全に再現するのは不可能だろうが、完全に近づけれようした信念ははっきりと感じた。この作品の映像はその信念の結集だろう。戦士を顕在化した役者たちもまたこの作品の重要な存在である。彼らなしに「300」という絵画はありえない。レオニダス王の存在感を肉体と声で表現したジェラルド・バトラーは確実に代表作を一つ増やしたことになるだろう。テルモピュライでの決戦、そこに至るまでのレオニダス王の葛藤も、彼はしっかりと演じきっている。信念は政治と金にひれ伏す。だが貫き通した信念には後悔がない。血にまみれ見返りもなく弾圧の対象にもなるが、愛され記憶となり語り継がれることもある。芸術とは信念を貫いた故の結果なのかも知れない。貫くことは簡単ではない。どこまでもどこまでも続く終わりのない道。だがそれを求め、高みを目指す気概のあふれる作品には自然と価値というものが生まれると思うのだ。
2007.06.29
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キャプテン・ジャック・スパロウ。ジャックは平凡な名前に雀がひっついて、酔っぱらったようにだがいつも踊っているように歩く男が踏みしめる地面は、しっかりとした大地だった試しがない。そこでも、ここでも、そしてあそこでもだ、死の世界、デイヴィ・ジョーンズ・ロッカーの中にいても彼はまるで踊っているように歩いていた。海賊を知るものに与えられるのは死のみ。凄惨な処刑のシーンが冒頭から続く。だが、一人の少年の歌が始まるとその死の意味は全く正反対の意味をもつものとなる。有無をいわさず老若男女問わず、振りかざされた権力によって奪われていく悲惨な命だが、それでも魂の「自由」だけは誰にも奪えないのだと言っているようである。そう、自由。自由だ、自由と言う言葉がこの作品にはとても良く似合う。FREEDOM、拘束されないこと、そして自由という文字は、全てが「自」から始まることを現している。「自」すなわち、自分、おのれ、一人称。キャプテン・ジャック・スパロウ。いつも船上で颯爽と皆の前に姿を現す時の彼は、仲間に囲まれていた試しがない。多くは一人で決断し、一人で行動し、いつのまにか周囲が巻き込まれてしまっている。ウィル・ターナー、エリザベス・スワン、彼と出会わなければ違う人生を歩むはずだった二人は、彼と出会ったから愛し合うことになり、思いもかけぬ運命に放りだされてしまうのだ。自由だ、自由。海の上で波と戯れるように歩くのはキャプテン・ジャック・スパロウという男。彼にとって誰が敵で誰が味方かということはもうどうでもよく、もちろん、金や権力も彼を縛る力になるうるわけはない。ただ行く手に何があるかわからないような宝の地図だったり、隠された黄金だったり、得体が知れなくともが胸躍らせるものを彼の目の前にぶら下げればもうそれで一巻の終わり、キャプテン・ジャック・スパロウは航海に出てしまうのだ。たったひとりでも。何にも拘束されずに。だから、自由だ。自由とは「自」から始まることを現している。たくさんのジャック・スパロウが度々現れて、時には正反対の意見の言ったりしている。ひとりの人間の中にはたくさんの「自分」がいるものだ。その「自分」たちが一つの結論を出す。誰にも頼らずに、誰かの責任にすることもなく、自分で決めて、自分で行動してどんな結果も甘んじて受ける覚悟を持つこと、「自由」にはそんな厳しさもある。だから自由を好まない人間がいる。自由になれない人間もいる。しかしどこかで「自由」に憧れるのだ。合理性と権力を求めたベケット卿。自分の地位をなかなか捨てきれなかったノリントン。サオ・フェンやバルバロッサのしがらみ、心臓をとられたデイヴィ・ジョーンズは不自由である。ゴア・ヴァービンスキー監督作品。活劇としての見せ場の多かった「1」やクラーケンとの戦いなど派手な映像の多かった「2」に比べエピソードを詰め込みすぎた「ワールド・エンド」はスケールが小さくなっている。だがこの作品の登場人物には息吹がある。ウィルやエリザベスはゆうに及ばず、ブラックパール号のクルーたちでさえも物語の中で割り当てられた役柄を演じているのではなく、それぞれが自分らしく生きているように見える。ハリウッド娯楽大作の看板以上に、しっかりとした中身を持っていると思えるのだ。キャプテン・ジャック・スパロウ。彼は父親に「人間が小粒になった」と漏らしていた。世界は広がりはしないのだ。怯えることはない、世界へと駆け出すのも自由。だが、自由には厳しい結果も待ち受けている。だが、何かに囚われることは悪ではない。大地に足をつけてしっかり生きる人生は悪ではない。そこから動かないと決めたのなら、それもまた「自由」から決めたことに変わりない。そうすると決めたのが自分である限り。エンドロール後の映像にある恋人たちのあふれんばかりの幸せが全てを物語っているだろう。キャプテン・ジャック・スパロウ。彼は「自由」である。だから私たちは愛してやまないのだと思うのだ。
2007.06.28
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生まれ落ちた時に押された刻印は、簡単には消えやしないだろう。ヴィンセント・フリーマン、自然分娩で生まれた彼に押された刻印は遺伝子的に劣った「不適正者」しかも30才まで生きられないだろうと宣告されていた。近未来、近未来という、現代よりそんなに遠くない未来を描いた作品の中で、人種や民族とは違う境界線が引かれていた。「適性者」「不適正者」遺伝子というレベルでかけられる篩いには個人の力というものが全く通用しない。空高く舞い上がるロケット。ヴィンセントはそのロケットに乗りたかった。だが彼は「不適正者」、劣性遺伝子を排除されずに生まれてきた。はるか彼方、空の彼方宇宙へと夢を飛ばすヴィンセント・フリーマン。彼は今、宇宙開発を手がける「ガタカ社」にいる。もちろん「不適正者」の彼が就職試験に受かるはずもない。しかも宇宙飛行士になれるはずもない。だが、彼は諦めなかった。生まれ落ちた時に押された刻印。だが、ヴィンセントが抗った。DNAのブローカーから最高級の遺伝子を持つジェローム・ユージーン・モローを紹介されその血液で「ガタカ社」のDNAチェックをやり過ごしまさに宇宙飛行士に選ばれようとしていた。まっすぐに宇宙を目指すヴィンセントと、超エリートの水泳選手だったが自殺により下半身不随となったユージーン。「適性者」「不適正者」だが運命は遺伝子ではじき出される結果ではなく、もっと曖昧で不確実な結果を彼らに与えようとしていた。空と、地。ヴィンセントのロケットの炎とユージーンを焼く炎。アンドリュー・W・ニコル監督。1998年の作品になるがその映像はもう一つの様式美だ。無機質にも見えるが登場人物の強い感情は明確すぎるほどに画面にあふれている。しかも殺人事件とヴィンセントの弟が絡み、ヴィンセントの秘密もあいまって、エンターテイメント性も豊富に含まれている。ヴィンセントを演じるイーサン・ホーク、ユージーンを好演するジュード・ロウをはじめとする魅力的な俳優陣の演技は、映像の持つ世界観のシンボルとなり物語のメッセージを伝えてくれている。生まれ落ちた時に押された刻印。その刻印から逃れられない、と、諦めたときから決まる運命があるのだ。諦めなかったから決まる運命もあるのだ。ただ。結果が必ずしも幸運をもたらすとは限らないが。そう、人の運命は何も、刻印だけで決まるものではなく、もっと曖昧で不確実な要素が絡まった故に、一つの結果が生まれるのだと思えてくる。宇宙に行くために受けた最後の検査で、ヴィンセントの正体はばれてしまう。だが、検査技師は穏やかな表情で彼を助ける。その時に技師の心の声が聞こえた気がした。「がんばれ」ヴィンセントの血の滲むような努力が報われるようにと願う人の温かい感情。ヴィンセントのロケットの炎とユージーンを焼く炎。静かな様式美のある映像。だがこの物語は熱いのだ。篤いのた。
2007.06.27
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