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まあ、なんてステキなお部屋なんでしょう。不動産屋のセールスレディのフリアさん。お部屋をお客様に案内していても、気もそぞろ、だって、外観はボロボロなのに、お部屋の中は高級感さえ漂う、趣味のいい雰囲気。なんといっても夢のウォーターベッドがありました。だから、住み始めることにしました。リストラされてる旦那を呼んじゃったりしちゃって。それが、彼女の悲劇のはじまり。いや、喜劇のはじまり。後に彼女は眼をひんむいて、叫び倒して、このアパートの住人から逃げ回るハメになる。演じるのは、カルメン・マウラ、1945年生まれのスペインの大女優。いいお部屋ではありました。でも水が漏れてきました、ゴキブリが落ちてきました。なにせ、上の住人だってお婆さんは、もう死んでいて飼い猫が食ってしまってたくらいですから。嗚呼、ブラックコメディ。住人たちには秘密があったのです。そのお婆さん、キニエラというサッカーくじで大当たりして、3億ペセタもの大金を貯め込んでいたんで、いつか、みんなで山分けしようと、20年間、ず~~と、待ってたんです。彼女が死ぬのを。でも、見つけてしまった。フリアさん、ラッキー♪とばかりに。一致団結する住民たち。このアパートはもう鉄の掟を持つ共同体。3億ペセタはみんなのもの。誰が誰で何で、どうしたのが知っているのが共同体。知っていても全てを受け入れてくれる共同体。善も悪も、美徳も欲も、夢も希望も。そして、罪も。フリアさんを殺さなきゃ!ダースベーダーオタクの青年に、マトリックスジャンプのおばあちゃん。無惨にもエレベータで二分割された男は、恐らく死んでしまっただろう。嗚呼、ブラックコメディ。心癒す物語は、モチロン必要不可欠なのだけど、時には、現実を。でも、直視するのは辛いから、ブラックコメディで笑ってみる、苦笑いする。みんなのしあわせを、奪うものは許さない。フリアさんVS住民たちの屋上の攻防戦。果たした勝者は誰に?
2005.01.31
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仇でありながら、命の恩人。成長した遮那王は、自分の過去にある、ポッカリ空いた「穴」を埋めようとしていた。父は源義朝、源氏の棟梁、母、常磐の隣りにいたのは平清盛、竹とんぼをつくってくれた父のような大きな存在。だが、父を殺した仇でもある。限られた世界にいれば、限られた情報だけで世界を測ればいい。だが、遮那王の世界は広がっていく。洛中の様子は日々様変わりしていた。清盛の出家と後白河上皇との確執、僧兵を持つ寺院の台頭と抗争、全ての責任を負わされた叡山の僧、弁慶は、理不尽な仕打ちに平家と寺院に恨みを募らせていた。広がる、世界。誰も確固たる道を教えてはくれないのだ。道標がないままに、進むのは、不安がつきまとう。受け入れよ、鬼一法眼は言う、世界はあるがまま。だが、受け入れるには、まだ幼い魂。自分がまだ、どこに立っているかもわからない。それでも世界は広がっていくから、荒ぶるままに、所在を探す。遮那王の若さが、色濃く描きだされる。自分が何者かわからずに、自分の未来を探せずに、ただ、荒ぶるままに、所在を探す。所在を探すのは、若さだけがその所以とは限らない。乳飲み子を抱えた母親は、子を守り生き残るために清盛に身を任せた。常磐御前、彼女は母であったのだ。理不尽の中に放り込まれれば、自分の所在もまた宙ぶらりんとなる。武蔵坊弁慶、狂おしいほどの身の置き所のなさが、刀狩りへと向かわせる。対するは、平家一門。清盛の子ら、縁の者たちは威風堂々と。栄華に所在を置く者たちに、迷いなどない。自分が何者であるか。所在を知れば、行く道が定まる。受け入れられるのか、否か。全ての事象は相反する方向に向いている。だからこそ、道を選ぶには自分の所在が必要。全てを受け入れることが出来れば。受け入れられれば、運命はもっと穏やかになる。だが、そうはいかない。そうは、いかない。探しつづける自分の所在、見つかるとは限らない。それでも、歴史は物語る。源氏と平家、命をかけた争いへと向かう道程。そのとき遮那王は源義経なのである。追記:映像は美しかったです。滝沢くんも。若い時代の、自分が何者で、これからどうしたらいい?って不安を微妙に表現されてました。(修行ってそのハケ口?)ただ、今の彼なりの考えってのが、もう少し見えても、共感しやすかったかな、とも。個人的には、弁慶の、理不尽に対する怒りの方が、ず~っと、興味深かった。
2005.01.30
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案外、簡単なのだ。とにかく制服というのは便利なもので、中身などお構いなしで相手は即座に判断してくれる。後はビクビクせずに堂々としてればいい。ダメ押しで専門用語は少しばかり知っていればいいが、知らなければ相手に意見を求めればいい。さすがは、プロだ。何でも良く知っているし、何でも出来る、何でもやってくれる。1963年、NYブロンクスヴィル。16歳のフランク・アバグネイルJrの家庭は崩壊する。事業に失敗した父と浮気をする母と。じゃあ、今までの幸せな家庭って、一体なんだったんだ?コツコツと積み上げてきたものが、瞬く間に崩壊してしまうのだ、まるで、全部、幻。パイロットの制服で、ウィットにとんだ会話で微笑み、「この小切手を現金に換えてくれないか」ほんの数分の人間関係、だが、手にするお金は莫大。だが、あのFBI捜査官は、追いかけてくる。カール・ハンラティ、堅物を絵にかいたような仏頂面。小切手には時差がある、不渡りになる前にトンズラすればいい。あの時は、まいった、オッサン、部屋を嗅ぎつけた。ナリキリホテルマンになって、間一髪のセーフだったが、ウザイほど、執念深い奴なのだ。しかし、本当に簡単。医者というのは、エラくなると自分で何もしないのか。下っ端にやらせて、褒めてやれば喜ばれて、こんな仕事なら、免許なんていらない。みんな、騙されている。だが、どうして、アイツは騙されない?これは「子供の犯行」と、カール・ハンラティは気づいていた、メリークリスマス、クリスマスでも働いていやがるFBI捜査官。あ、俺もだ。思い込ませるのは、簡単。思い込ませるのは、簡単。本当のことは言っても言わなくても、相手が勝手に思い込んでくれる、のだけど。本気で幸せな家庭を築こうとしたとき、コレまでのツケが、災難のように降りかかってくる。レオナルド・ディカプリオ×トム・ハンクス。二人の持ち味をスティーブン・スピルバーグ監督が料理する。メインディッシュの素材も見事だが、店の内装も皿も照明も粋で、何よりも、味付けがいい。もうヌーベルキュイジーヌではない、何もかも行き届いた巨匠の仕事である。案外、簡単ではあった。だが、難しいこともある。難しいから上手くいかず、壊れてゆくのだ。捕まってしまったというのに、俺はカールには何もかも話してしまっていた。よくやったよな、このオッサン、コツコツ積み上げたものが幻になったりするけど、神の気まぐれのように報われることもあるのである。案外、難しい。難しいけれど、だからこそ、次の道は一直線に進んでいけるのだ。どんな道も、本当は歩き続けるのが難しい。
2005.01.29
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まだ、眠いのに朝はやってくる。今日は50件近い注文が入ってきてしまった。ヒューゴは身体を捻らせながら起き上がりなんとか身支度と整える。だが、今日は一人ではこなせない。彼女の仕事はプール清掃。外見は20代前半、いや10代にも見えそうな娘。いつもは一人で仕事をこなしているようだ。働く、とは「傍を楽にする」、はたをらくにする、ということだと言う。働く、とは何も、労働と金銭の交換、だけじゃない。まず働かされるのは、ヒューゴの母親。ギャンブルの借金の肩代わりを賃金に娘の相棒を勤める。次に働かされるのは、ヒューゴの父親。コロラド川まで、給水車に乗ってプールの水を汲みにいく。ギャングのチッカリーニの無理な注文である。実は、ヒューゴ、そのギャングに脅されていた。時間に遅れれば、とってもヤバい。そんなことなど知らない父は麻薬中毒である。筋萎縮性側索硬化症(ALS)のフロイド。彼の笑顔は本当にステキだ。目が回るほど忙しいヒューゴを癒していたことだろう。車椅子に取り付けられた人工声帯で会話する。その言葉の一つが母親のギャンブル狂に火をつけた。同じ名前の馬が出走する。彼はゲンカツギにトラックに乗せられ、母親のギャンブルに付き合わされることになった。もちろん、仕事が終わってからである。働く、ヒューゴ。彼女は、彼を救っていた。笑うこと、話しかけること、頭をかいてくれたりした。彼女と空想の中で恋愛関係になったりした。一人で用便ができないフロイドに、みんなが支え合って彼を助ける。ヒューゴは彼の性器をバケツの方へ向けていた。フロイドは、大きな働きをした。ヒューゴの父が乗っていた給水車が壊れていたのだ。せっかく汲んできた水が、帰路の間にダダモレ。人工声帯でも、彼は弁が立つ。ギャングとヒューゴの諍いをなんとか丸めて、彼女の窮地を救っていた。働く、とは。はたをらくにすることだ。労働と金銭の交換、だけじゃない。ヒューゴのアリッサ・ミラノが魅力的。おまけに、彼女の周囲の役者が味のある演技を見せる。マルコム・マクドウェル、キャシー・モリアーティロバート・ダウニー・Jr、ショーン・ペン。フロイド役のパトリック・デンプシーは秀逸。それぞれの役にそれぞれの物語が見える。ロバート・ダウニー監督作品。働いて得られるものも多い。働いても何かが得られるとは限らない。無惨に殺されるエキストラ。水色の靴の変わりに人形を得た奇妙な男。母はギャンブルに大勝ちし、父の心は今、充たされている。ヒューゴとフロイドに愛が芽生えた。最高の時間が与えられても、別れはすぐにやってくる。フロイドと同じ病で亡くなった、監督の奥様に捧げられた映画である。
2005.01.28
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ファンタジーの実体は、何%かは空想、何%かは法螺。そして何%かは現実で出来ているもの。メタファー、暗喩、暗い喩えと書いて、暗喩と読む。エドワード・ブルームの語る人生はファンタジー。ティム・バートン監督の独特の映像に隠されたものに、勝手に意味を見出してみるのも酔狂。感動的なラストシーンの涙も醒めやらぬまま、阿呆は阿呆なりに、枝葉末節を拾ってみる。■ヤマタノオロチと大ナマズの隠れた秘密。大ナマズをつかまえたエドワード・ブルーム。大ナマズとなったエドワード・ブルーム。日本にも『古事記』というお話があって、ヤマタノオロチという大きな蛇が出てきたりする。頭が八つ、尾が八つ、そんな動物、観たことない。だが荒れ狂う自然災害のことを指しているとも言われている。大ナマズのエドワード・ブルーム。掴まえとしても掴まえられない彼のようだ。■さて、彼は浮気をしていたのか。家に帰らなかったというエドワード・ブルーム。スペクターのジェニファーは「お父さんにとっての女性は2種類、お母さんと、それ以外の女性」と言っていたけれど。■水仙と墨俣城の秘密。すいません、すいません、謝っておきます。映画のイメージと、違うことを考えてました。エドワード・ブルームって豊臣秀吉キャラなんだもん。墨俣城ってね、彼が一夜で造ったっていう伝説のあるお城のことなんだってば。■人生には靴のいらない時代がある。スペクターの街にいる限り、靴はいらないのである。丁度いい言葉が見つかった「モラトリアム」という奴だ。居心地のいい場所だから、外に出られない。刺激がないから詩人も言葉が浮かばなくなる。社会に出る前の猶予期間、暖かい場所、有難い場所だということだな。■青年はいつも、イバラの道へ。靴もないのにエドワードは足を血だらけにして歩かなきゃならない。覚悟はあっても準備なしで飛び出してくのが若気の至り。社会に出たら、やっぱり最初はキズだらけ。でも、友達は待っていてくれたのだ。大きな大きな友達である。■大きな友達、彼の名は「夢」。それ、大きすぎだ、エドワード!■時間の止まる恋、早回りする恋。わかるよ、わかるよ、わかり過ぎるよ、その感じ~。■二人で一人の歌姫をどうみるか。戦争に駆り出されたエドワードが出会った二人で一人の歌姫。女性というもの、正反対の性格を持っているというのか。女性が二人いても、たいして差がなかったのか。なにせ、「奥さん」と「それ以外の女性」だからねえ。それとも、それとも?■息子が父から譲りうけたもの。スペクターのジェニファーに会いにいったウィル。古びた家に住む彼女から語られる、ちょっと変わったエドワードのエピソード。それが本当か、嘘なのか、結論は出ないだろう。だが彼女は、言ったのである。「あなたはエドワードの現実」と。物語の住人ではなく、物語を解釈できる側にいる。実は観客も、物語を解釈できる側にいる。■チョットダケよ、想像力で補って。サーカス時代のエドワードを演じるユアン・マクレガー。ライオンの口に頭をツッコンで、とっても危険である。もしかして、ライオンのぬいぐるみの口に頭を入れてるだけでも、とっても危険に見えるのである、チョットダケの演出。補うのは人の想像力、マイナスにもプラスにも働く。■スペクターへの恩返し。世話になったもんね、食わしてもらったもんね。いろいろと、感謝しなくちゃね。■父はナマズだもん、掴めないわな。最後は息子、ウィルの法螺ばなし。川を悠々と泳ぐ大ナマズとなったエドワード・ブルーム。息子が彼を理解する暇を与えず、スウーと去っていく父親。かつて、エドワードは自分の「死」を魔女の目に観た。それがどんな「死」であったか、実はそれよりも、彼が「死」を見つめて生きてきたことを示唆していると思うのだ。人は生まれて、いつか死ぬ、現実には死にかけた事件を示唆しているかも知れない、が。「死」が、見えれば「生」の意味が変わってくる。物語の登場人物たちが参列しての葬式である。みんな何かを語っている。その物語の中に「生」が詰まってるんだろうな。
2005.01.27
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憶えておいでだろうか。暗闇の森、迷子の森。より広い世界に飛び出してみたのはいいが、胸はたちまち、不安で充たされてゆく。暗闇の森、迷子の森。その時の不安を憶えておいでだろうか。死の瞬間を予め知れば、それ以外で死ぬことはない。少年のエドワード・ブルームは魔女の右目を覗き込む。さて、何が視えたのか。誰にも内容は語られることはなかったが。夢を語る場所が現実。現実をそのまま、語れない。だが、彼は憶えている。水を恋しがるエドワード・ブルーム。もうすぐ、死が訪れる。今は、家族に囲まれている。愛する妻のサンドラと、息子のウィル。もうひとり、お腹の大きいウィルの妻のジョセフィーン。彼は、自分も息子も喋りたがりだと笑っていた。父は口で喋り、息子は書いて喋る、と。息子は何百回と聞かされた父の過去の人生の物語を、ずっと、ホラ話だとばかり思っていた。でも、彼は憶えている。大きな、大きな、大きすぎるほど大きな男と、一緒に街を出たのは、小さな街の大きな男になりたくないから。日常を重ねていく毎日を望むなら、靴はいらない。靴のない街は、靴のいらない街。大地の感触は暖かい。サーカスの団長は狼で、故郷の詩人は銀行強盗をおっぱじめる。全部、憶えている。その時の気持ちを、彼は全部。口から出てくるのは夢のようなファンタジー。ホラ話の連続に、子供ならいざしらず、大人になった息子は眉をひそめる。事実を、正確に記憶することは人間には不可能だ。憶えているのは、その時の気持ちのみ、そして、その時の気持ちは、感情によって脚色される。どれほど、妻を愛していたか。それは、敷き詰められた黄色の絨毯、一面の水仙の庭が「愛情」の全て、である。憶えておいでだろうか。これまでの自分の愉しいこと、辛いこと。それを物語にしたとすれば、どんな言葉で彩られることだろう。どんな言葉で。どんな言葉も、それは自分だ。偽りのない気持ちだ。夢を語る場所が現実。現実をそのまま、語れない。エドワードに死が訪れようとしていた。しかし魔女の右目に視た自分の死を語れない。代わりに息子は言葉を探しながらエドワードの視たであろう死を語り始める。父の物語の終幕に相応しい物語、たくさんの人にみとられ、大ナマズとなり川を泳いでいく。憶えておいでだろうか。暗闇の森、迷子の森。その時の不安を憶えておいでだろうか。現実はそのまま語れない。それでも言葉は、多くを物語っている。偽りのない自分自身を。
2005.01.26
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虹の都、光の港、キネマの天地。もしも、願いが叶うなら。しかし、願いは叶わないから不器用に生きるしかない。時代は流れて、映画スタアの顔も変わる。いつまでも変わらず、大部屋で小さな役をこなす役者もいる。男に捨てられて身ごもった女優がいる。「上がってこい、ヤス!!」土方歳三に扮した倉岡銀四郎、ギンちゃんが、池田屋の階段から転がり落ちたヤスに手を差し伸べる。流石、華のある役者だ、ギンちゃんの声は本当に、よく通る。奈落のヤスにしっかりと届いている。見事に斬られたヤスは、キズだらけの身体を引きずって、階段を一段ずつ上ってゆく、一段ずつ。ヤス、もうすぐ父親になるヤス。「コレがコレだから」とキズを増やしながら、小夏のために危険な役を引き受けて、部屋に電化製品で埋め尽くしたヤス。もうすぐ父親になるんだ、その子の本当の父親はギンちゃんだけど、そんなことは関係ない、小夏の腹の中の子の父親は、間違いなくヤスだ。時代に寄り添って生きれたなら。時代に乗っかって生きれたなら。いつまでも記憶に残る、銀幕のスタアたち。だが、そうはなれぬ者たちは、不器用に生きるしかない、不器用に、不器用に。松坂慶子の小夏あっての華やかさ。しかし、映画を盛り上げたのは二人の男優だ。風間杜夫のギンちゃんは直球でカッコイイ。近くに入れば迷惑この上なさそな感情の起伏の激しさも、何故だか可愛らしく見えるほどだ。平田満のヤスは、カッコワルサを魅力的に演じ、小夏に対する複雑な感情も細やかに演じている。後に、幅広い役柄をこなすなくてはならない役者の魅力は、存分に、存分すぎるほどにこの映画で味わえる。本家本元のつかこうへいの脚本を得ての映画化。深作欣二監督作品である。この監督の作品に出会えばいつも「熱気」を感じる。まさしく不器用に生きるしかない三人の男女に生きる力、なのだろう。ギンちゃんの格好は本当にキマっている。帽子は斜めに、派手なネクタイに派手なジャケット。彼の世界の中心に自分を据えて生きてきた。自分より坂本龍馬役が目だって不機嫌になったり、女にフラレりゃ、落ち込んだり。ヤスの視線はそんなギンちゃんに一直線。ギンちゃん、ギンちゃん、ギンちゃん、ギンちゃん。小夏は最初、ギンちゃんが好きだったはずだが、ギンちゃん一筋のヤスに愛想をつかしていたりもしたが、いざ、階段落ちの本番、ヤスが心配でたまらない。みな、不器用だ。時代に乗っかって生きられない。だから、這いつくばる。だから、挫折する。でもヤスは今、階段から這い上がろうとしている。「上がってこい、ヤス!!」ギンちゃんの手が差し伸べられる。虹の都、光の港、キネマの天地。虹の都、光の港、キネマの天地。
2005.01.25
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隣人に麻薬の売人が住んでいなけりゃ、4人の運命は変わったかも知れない。そもそも、エディが仲間たちから集めて金で、ポルノ界の帝王、でもって、ギャングのボスと賭けをして、10万ポンドの元手を50万ポンドの借金に変えなきゃ隣人が何を言おうが聞き流していたはずだ。上流階級出身ウィンストンがパブリックスクールの仲間と作った麻薬を盗んじまうと言う計画を盗み聞きして横取りを結構。エディ、トム、ベーコン、ソープ。テンデバラバラな個性の彼らだが、いつもフザケあってるみたいで仲がいい。50万ポンドを1週間で返さなければならないのに。イギリス、イーストエンド。薄汚れた街のカッコヨサ、壁も、道路も、札束とカードと、拳銃と死体。女の尻も男のアホさも、カッコヨク切り取られる。音楽に至っては、言葉にするのは野暮だ。ガイ・リッチー監督だ。映画を愉しみながら、聞くのがイチバンいい。まだまだ、登場人物が足りない。だが、全員を紹介するのは到底無理。例えば、トムが拳銃をギリシャ人から調達するが、使い物にならなさそうな骨董拳銃に実は価値があって、ギャングのハリーが狙ってただなんて知るわきゃないのだし、それを盗むのにも、ハリーの部下のバリーや、泥棒のディーンやゲイリーやらが絡んで、4人の青年たちの手にその拳銃が渡るまでの間にも登場人物たちががいたりする。ヌケてたり、バカだったり、憎めない奴らばかりである。そもそも、だ。エディの父親がJDじゃなければハリーは彼など見向きもしなかったに違いない。その昔、ハリーはJDにゲームで負けたのだ。息子をイカサマで嵌めて、JDのバーを奪って復讐しようという魂胆。このJDを演じるのがスティングだ。カッコイイ。金と麻薬、骨董拳銃。それらをみんなで奪い合う。4人組はただただ、イカサマゲームに嵌められて、強奪計画を横取りして、成功して祝杯をあげるだけ。それだけなのに、それらを巡って、死体の山が築かれる。隣人に麻薬の売人が住んでいようが、父親が元・ギャンブラーでギャングとの勝負に勝ってその金でバーを経営していても。骨董拳銃の価値を知らない奴も知ってる奴も、どんなことだって、いろんな人物が絡んでる。まだ、登場人物が足りない。そもそも、だ。ギャンブルで金儲けなんて余程の才能がないと出来ない。父親は息子に教えるべきだし、友達なら金を貸してはいけない。だが、教えなかったし、貸してしまったのだ。で、負けてしまったから、泥沼にはまっちまった。まあ、そんな倫理観なんてクソくらえだ。もう、4人は隣人の話を聞いちまった。50万ポンドを1週間で返さなければならない。4人は強奪計画を決行して成功してもスッカラカン。奴らにはそれだけのことでも、実は、話したこともねー奴も含めてイッパイいる関係者。見事な脚本が、多くの登場人物の関係を観ている間に解きほぐしてゆく。そもそも、だ。隣人に麻薬の売人が住んでいなけりゃ、4人の運命は変わったかも知れない、と、いうことが全ての原因でもなんでもない。そもそも、だ。一体、何がそもそも、だ?だが、全員が関係者。
2005.01.24
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遮那王。鞍馬寺の覚日律師に授けられた新しい名。名前には常に、想いが託される。毘盧遮那仏、身光・智光の大光明で全宇宙を照らす仏の名は、彼に託された想いの深さを物語る。幼き童は、健やかに成長し、天真爛漫な性格は、外へ外へと向かっていく。当然のように人々の目に触れる。源義朝の遺児、牛若丸。彼の存在は、敗れ去った者たちの心に希望となる。もう洛中にはいられない。母、常磐に伴われ、彼の住まいは、鞍馬寺へ。常磐の想いは、一本の笛に託される。今生の別れと決意しながら、別れがたい母の想いが託される。1167年、武士として初めて、従一位太政大臣に任ぜられる平清盛。六波羅様と呼ばれ、京に住まいながらも、西国への想い、未だ消えず。平家一門三十二人の手による写経を厳島へ納める。優雅な装飾は平家の栄華そのもの。その栄華、続かんことを願ってのこと、時の権力者の想い、今も一部が宮島に残っていると言う。形を持たないから、想いは森羅万象に存在する。鬼一法眼の手が自然の流れを動かす。形を持たないから、人の想いも森羅万象に溶け込んでゆく。彼の想いも。洛中へと、鞍馬寺を抜けだす遮那王。源義朝の遺児、源氏の御曹司、その出自を巡る人の想いの断片を知る。自分に託された人の想いの断片を知る。清盛の笑顔しか知らぬ彼が、清盛が父の敵だと知る。そうして彼の中でも今までと違う想いが、少しづつ、育まれてゆく。育まれてゆく想い。最初は小さな想いであってもやがて大きな歴史のうねりとなる。形のないもの、だが、見えぬだけなのだ、一つの出来事に至る、人の想いは、過去の時間の中に育まれた経緯が必ずある。後に起こる源氏の反乱。平家の栄華はいつまでの続かない。牛若丸が共に遊んだ平家の子らと戦うのだ。それはさまざまな人の想いが重なり、招いた一つの結果である。
2005.01.23
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シービスケット、奮起する。前を走る馬がいるからだ。競馬場全体が、歓声という「熱」に包まれ、実況の声もヒートアップする。皆が応援している。応援とは、自分がそこに現実を感じたからこそ、気持ちを託せるものである。小さな馬の上に乗るのは、身体の大きな騎手。ジョニー“レッド”ボラード。天涯孤独の青年は赤い服を着て、シービスケットと心を合わせ走っている。小さな馬体、大きな騎手。それは、競馬の世界ではハンディとなる。多かれ少なかれ、誰にでもハンディがある。比べることでその重さを量ることは出来ず、重さを感じてしまえば、ドンドン膨れあがり、質量を増す。孤独、劣等感、自己嫌悪、無力感、不安、恐怖、怯え。そして、絶望。どれかに属する感情というものは、感じるほどに重さを増す。1929年の10月、ウォール街で株が大暴落。多くの人たちが財産と職を失っていた。アメリカの歴史のマイナスはさまざまな人々に波及する。時代の、変わり目。自動車ディーラーと呼ばれるハワード。成功し、栄華を極めるも、15歳の息子を亡くす。自動車産業の隆盛で職をなくしたカウボーイ、トム・スミス。老いた彼に新しく生きる道は難しい。二人の男もまた、マイナスからのスタート。ハンディキャップを背負ったままシービスケットという馬のいる場所に集う。どんな世界でも「王者」はいる。先頭を軽々を走り、常に拍手喝采を浴びている。東部の三冠馬ウォーアドミラル、オーナーは大富豪、リドル氏である。シービスケットの前をずっと前を走り続けてきた「王者」だが、ハワードもトム・スミスも、そしてレッドも、諦めることなく勝とうとした。待望のマッチレース。事故で足を負傷したレッドに代わって、シービスケットには“アイスマン”ウルフが騎乗。だが、ハワードも、トム・スミスも、病室で観戦するレッドも乗せて、小さな馬は「王者」を追い抜いてゆく。競馬場全体が、歓声という「熱」に包まる。応援、しているのだ。マイナスからスタートして、諦めることなく走る者たちに。応援に「熱」が入る。走ってゆけるのだ。追い抜くことは可能なのだ。例えスタートが、マイナスからだとしても。応援しながらも、心は馬上に。さまざまなハンディを背負いながらも、日常を生きる人々がシービスケットに乗っている。今まさに、走っているシービスケット。夢ではない、現実。幅広い世代の名優三人が集う。トビーマグワイア、ジェフ・ブリッジス、そしてクリス・クーパー。競馬の世界を舞台にしたとはいえ、ゲイリー・ロス監督は格調高い映像で三人の男の人生を描いて見せる。足を負傷したレッドに靱帯を損傷したシービスケット。再び、マイナスからのスタートである。ノンフィクションを原作にした物語。脚色や演出を省いたとしても、夢ではない、現実。応援とは、自分がそこに現実を感じたからこそ、気持ちを託せるものである。走ることは可能なのだ。今、まさに、シービスケットは走っている。
2005.01.22
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スリー、ツー、ワンと、3秒数えてギャグのなかった場面ナシ!雲上に鮫の背ビレが泳いでる?ジャージャン、ジャージャン・・、もちろん音楽はジョン・ウィリアムズのテーマ曲。登場するのは、原題の「AIRPLANE !」全く、もう。オープニングから、ネタはアホアホである。空港の入口。黄色いタクシーが客を乗せる。が、運転手はスグ戻る言って出ていってしまう。その男の名は、テッド・ストライカー。パイロットが全員食中毒になってしまう飛行機を急遽、操縦してシカゴ空港に着陸させたのだから、ヒーローと言えばヒーローである。したが、彼のタクシーには客が乗ったばかり。果たして客はどうなってしまったか。スチュワーデスの元彼女、イレインを追いかけて、ストライカーは飛行機に乗ってしまった。運命の飛行機に。主役二人がアホやってるうちに、脇役がなんかヘンなことをやっていて音楽がドンドンくずれていって、勘違いな小道具が自己主張していたりして、字幕を読むのも見逃せないのである。1980年の作品。映画パロディ、ダジャレ、ベタなコネタ、バイオレンスも笑いに、シモネタも随所に、ジャンルを越えて機関銃のように連射される。口をアングリ、頬が緩む。余りにも多いから、緩みっぱなし。魚を食べた乗客・乗組員が、次々と食中毒に倒れてしまった。口からエンドレスに卵を産むご婦人も。なんと、オーバー機長のテーブルにも、見るからに奇怪な魚の骨の残った食器の皿が。まずは、スチュワーデスのイレインが機長席に座り、機内放送を。「ご心配は要りませんが、 どなたか操縦の出来る方はいませんか」乗客は絶叫し、天井にぶら下がり、豊満な乳房が画面を占領する。操縦経験があったのはたった一人。テッド・ストライカー。だが、彼は大戦中、仲間を死に追いやり、二度と操縦が出来ないトラウマに苛まれて、おそらくそのせいでタクシーの運転手をしていた。もちろん、飛行機の操縦は初めて。だが、この状況。彼しか頼みの綱はない。ここで名俳優をご紹介。機長の命令でイレインがボタンを押すと、現れたるは「自動操縦士」くん。風船人形の彼はなかなか、ニヒルな顔である。だが、やる気がないと萎んでしまう。しかし、空気の挿入口は股間にある。イレインが空気を入れてあげるしかないのだ。・・・しばらくして、二人。アノ後の独特の表情でタバコを吸っていたりした。ストライカーの必死の着陸。管制塔は受け入れ態勢にテンヤワンヤだ。目印にと、光輝く滑走路。だが突然、消灯する。オチャメすぎる管制官が一人いて、ちょっとばかり悪戯にコンセントを抜いていた。ちょっとだけ、だったけど、無事着陸する飛行機。悪天候の中。ず~~~と、プロペラ音で飛んでいた。ブルンブルンブルン~~。レスリー・ニールセンと、ピーター・グレイブスの顔が見える。チョイ役含め、膨大な出演者。大物も多いらしい。だが、イチバンの大物は「自動操縦士」くん。助手席に「彼女」の風船人形をのせて、空港から飛び去ってゆくのだ、まるで、愛の遊覧飛行!!さてさて。この映画、クレジットの後も、最後まで、ご覧あれ。ラストを締めくくるのは、ストライカーのタクシーの乗客なのである。AFI笑えるアメリカ映画ベスト100、第10位!
2005.01.21
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清掃員の青年と大金持ちの社長令嬢。簡単に出会うはずのない二人が、簡単じゃない状況で出会って恋に落ちてゆく。その上、二人の恋は天使が二人を結びつけるために出動、なんだか無理のある設定なのに、だからこそ、この二人なのである。ユアン・マクレガーとキャメロン・ディアス。ダニー・ボイル監督作品。原題は「A LIFE LESS ORDINARY 」清掃員の青年、ロバートは作家志望。いつも床を一生懸命モップで拭いてばかりのようだ。どうも生きるのがヘタなタイプのようで、バカ正直で弱きな性格である。普通はそんな男に社長令嬢との恋は望めない。天使のオライリーとジャクソンは考えた。まずはロバートを不幸のドン底にたたき落とす。清掃員として勤めていた会社をクビになり、ムカついて社長のもとへ直談判。そこにいた社長令嬢セリーンを誘拐して、山小屋へ逃げてしまうことになるのだけれど。無理があるなあ、絶対に無理があるのだけど、目が離せない。誘拐劇もロバートには荷が重い。いつのまにか、セリーンのやりたい放題になってゆく。身代金の要求などの実務もこなせない彼に、テキパキ指示を与えるのは被害者のはずの彼女。冒頭から、セリーンは、屋敷の使用人の頭にリンゴをのせて拳銃でぶち抜いたりしゃってる。何かと日常にためていた不満が一気に爆発したようだ。とかくこの映画、女性が強いのだ。天使のコンビ、二人組も、女性の方がターミネーター状態で不死身。その上、天使を演じる役者が芸達者、ホリー・ハンター&デルロイ・リンド。天使の書いたニセのロバートのラブレターにバカ正直な彼はそのアイテムを利用しきれない。ユアンの演じる情けない男は絶品である。ミュージカル仕立てで主役二人も歌っているが、キャメロンの天使爛漫なオンチっぷりもステキである。無理だらけの設定を乗り越えて、それでもくっついてしまうのは赤い糸のなせるワザか。ラブ・ストーリーというもの、最後のオチがハッピーエンドであろうが、それまで何が起きるかが見物である。例え無理の連続でも二人は熱くキスをする。その瞬間は普通のラブ・ストーリー。だがそこに行きつくまでが、普通じゃないラブ・ストーリー。
2005.01.20
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自主退学。この言葉が孕む問題点についぞ考えることはなく私が学校を卒業した。1990年に放送されたタモリ主演のTVドラマ、実は細かいストーリーは覚えてはいない、だが、今でも鮮明にこの作品のテーマを覚えている。東京都の私立高校、底辺校と行ってもいいだろう。学校は、数名のとんでもない不良生徒に困り果てているようだった。そこへ赴任してきたタモリの演じる教師の、あまり教育には興味なさそうな感じは覚えている。だが、彼も憤慨するような出来事が学校内で起きていたのである。「今度問題を起こしたら、 学校側ではもう、対処できない」ほんとうにとんでもない生徒だった。だが、校長や学校を管理する側にはどこか余裕があった。寧ろ不良生徒たちが問題を起こすのを待っているかのような風情さえある。つまり、学校側は問題を起こしたことを理由に、生徒たちを「自主退学」に追い込んでいたのである。「ああ、うるせえ、こんな学校、 こっちから、辞めてやる!!」 学校側が生徒を辞めさせれば、人権問題やら何やら、学校側にも傷がつく。その点、「自主退学」は便利である。生徒は自らの意志で学校から出ていってくれるのだ。未来に夢をかけて学校を辞める子供ならば、それも人生の選択肢である、背中を押してあげらえる。だが、この作品での自主退学は違う。まるで、厄介払いだ。子供は法律や社会の通念やら、いろんなものに守られているかも知れない。若さの特権は多少の無法も許されることかも知れない。だが、大人の刃は鋭いのである。体力では若さに勝てるはずもないだろうが、培った経験や理屈による逆襲は、子供など簡単に抹殺してしまえるのだ。学校という組織によりかかる大人も、必死で組織を守らなければならないのは確かだ。是非や善悪は別にして「自主退学」という方法論は大人の生き残るための防御として存在していた。学校は「教育」の場である。そんな理想は「学校経営」の前では無惨に崩れ、「社会」そのものを憎む人間を放りだしてゆく。自主退学。その言葉の孕む問題を知らずに私は卒業した。もう社会人になっていた私は学校も既に社会だったと思い出していた。要らぬものは切り捨てられる、都合の悪いものは切り捨てられる。使えぬものは切り捨てられる。社会というものの、もうひとつの側面。そして「自主退学」にはもうひとつの罠がある。「自主退学」を免れるには、問題を起こさぬこと、つまりは社会に順応すること。だが、ドラマとは言え、無気力そうなタモリ演じる教師が生徒のためにガンバッテいたと記憶している。暖かいものも社会にはある。理想でもなんでもない、この作品にもモデルがあるという。ちゃんとこの問題に向き合っている方がいる証拠だ。資料として、退学処分になる条件を引用しておこう。学校教育法施行規則13条3項。一 性行不良で改善の見込がないと認められる者 二 学力劣等で成業の見込がないと認められる者 三 正当の理由がなくて出席常でない者 四 学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者第十三条 には以下のように書かれている。校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。-------なにぶん記憶を便りに、物語をイメージして台詞を書かせていただいたりしています。実際と違う点はご容赦ください。参考:学校教育法施行規則
2005.01.19
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知らず知らずのうちに年齢は増えてゆく。ただ、数が増えるだけでない「老い」は身体の機能を衰えさせ、注意力も散漫になり疲れやすくもなる。昔、教師をしていた老婦人のミス・デイジー。夫にはとうに先立たれ、でも、相変わらず、背筋をシャンとして凛として生きている。だが、さすがに車の運転はおぼつかなくなってきた。一人息子は心配して、よこしたのは運転手。彼女よりも年上の黒人男性、ホーク。1948年から20年間、奇妙な縁でいつも共にいたデイジーとホークの物語である。知らず知らずのうちに年齢を重ねる。その年齢の中にあるのは二人の歴史である。アメリカ南部の少数のユダヤ人のデイジーと、黒人のホークには少なからず差別の体験がある。年齢を重ねて「慣れ」というものがあったとしても、多感な青春時代、二人はどれだけ、辛い想いをしたことだろう。過ぎ去った時間があるからこそ、老いた二人の現在がある。知らず知らずのうちに。最初は運転手など金持ちの道楽のようだと、乗車拒否を続けていたデイジーがやがて、後部座席に座る。背筋をシャンとして凛としている彼女、だが悪態ばかりついてそうも憎たらしい。それでもホークは穏やかに職務を全うし、彼女の心の表にも裏にも誠実に対応していた。そんな時間の積み重ねがいつのまにか友情に代わっていったのだ。知らず知らずのうちに。知らず知らずのうちに。車の中という限られた空間でただ座っている姿だけでも役柄が滲みでる。ジェシカ・ダンディとモーガン・フリーマン。名優が演じるのは舞台劇でもある物語。まず、観客が観るのは二人の演技となる。二人は十分、観客を酔わせてくれる。知らず知らずのうちに年齢を重ねる。だがこれまでの人生が老いた自分を認めない。ワガママになるのはそのせいでもある。自分のことが自分で出来なくなるのを簡単に認められるだろうか。老いた自分を受け入れて生きたとしても、同時に捨てなければならないものも多いはず。デイジーはそれらを捨てられず、ホークはそれらを認める。彼は元・教師であったデイジーから読み書きを学び始める。知らず知らずのうちに。二人を巡る人々は二人を差別していた。ユダヤ人の女性と黒人の運転手。キング牧師の演説会に黒人は入れない。差別される側のデイジーもどこかで黒人を差別していた。だが、いつしか時間が過ぎ去り、デイジーの記憶が忘却に混じってゆき、ボケとともに老人ホームで晩年を迎えることになる。だが二人の「現在」。子供に戻ったデイジーを慈しむホーク。そこに至るまでの道程は二人の中にある。その道程がなければ辿りつけなかった場所なのだ。年齢の分だけ過ぎ去った時間があって、やっと辿りつける場所がある。みんな、どこかへ行くのだ。それぞれの、場所へ。
2005.01.18
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「NO CG! NO STORY! ONLY STANT!!」予告編のウリ文句はそういうことだったらしい。そんじょそこらのカーチェイスじゃない。バイクをゴーカートで追っかけてくんだからね~。ホンマ、その違和感と疾走感に喝采。ハーディ・マーティンス、監督がスタントなしで演じたドイツ映画、いやはや、スタントマン出身の役者が監督した冒険活劇。原案も監督だから、一人三役以上、CGなし!ドイツ版「インディ・ジョーンズ」実はそんだけで、物語は言い表せるけど、一筋縄ではいかないミョウチクリンな熱さがある。編集の上手さとか、膨大な製作費とか、そんなもん、吹っ飛ばしちまったところには、『魂』みたいなもんを感じてしまったりするのである。話は映画とそれるけど。物語に酔いながらも感じてしまうは監督の『映画魂』。ああ、こんな映画、作りたかったんだな、って。『エイリアンVSプレデター』『カンフー・ハッスル』つまりはイワユル、「××バカ」『カスケーダー』という映画は「スタントバカ」決してあなどれやしないのだ。それどころか、スゴイかもしれない。「バカ」になれるってことは、全身全霊、人生を愉しむってことでもあり、後ろ指さされてもドオってことない無敵さもある。それに誰にでも、多かれ少なかれ「バカ」の要素は持ってたりする気もする。美術館の学芸員の女性と元スタントマンが時価2億5千マルクのロシアの秘宝、「琥珀の部屋」を探す旅に。ドイツのお金の単位はドルに直すと、130億とか160億とかってことになるらしい。もちろん、ナチスの秘密組織も絡んでワヤクチャ。やたら黄色い乗り物を乗り回し、「あんなところから」と思うとこから落ちて、トラックの下をスルリと抜ける。そもそも元スタントマンの設定が、南米ベネズエラのカラカスってとこで隠遁生活、そこへ火種の女性学芸員が命カラガラ逃げてくる、つ~か、落ちてきてから始まるお話、一応ラブロマンスにも発展する、とか、物語を書き始めるとワケわかんなくなってくる。やっぱり「××バカ」の話を続けよう。『ロード・オブ・ザ・リング』を観ていると、ひたすら思う、ピーター・ジャクソン監督のこだわり。『ザ・ロイヤルテネンバウム』監督、キャスト、この映画に関わる人たちはこの映画をとっても愛しているように見えた。「こだわり」と「愛」は、カタチはないのに、とっても濃ゆい力になって否応なく溢れてくる。はっきりと言葉になっているわけでもなく、はっきりと輪郭をなしているわけでもないのに、伝わってくるものがあったりする。なんと不思議なもんだろう。どんな映画であっても、要は人の「力」なのだと思うのである。CGもまた人の「力」だと思ったりするけれど、スタントもまた人の「力」だと思うのである。「バカ」になれるってことは、全身全霊、人生を愉しむってことでもあり、後ろ指さされてもドオってことない無敵の存在になれることかも知れない。
2005.01.17
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全てを受け入れる「器」など人にあろうはずがない。平清盛の妻、時子、夫のなした子供たちを育てあげ夫亡き後も、平家の精神的支柱となる彼女も、常磐と牛若のみは受け入れられない。源氏の流れを組みながらも仇の寵愛を受けることの出来た女性を。福原遷都に夢をかけて。それは半年ももたない儚い夢ではあったが、平清盛の理想は、戦のない世の中を表している。大輪田泊のある交易の地には船が行き交い、金色の日輪がその地の繁栄を祝福する。まぎれもなく今の清盛には夢を実現するだけの「器」の広さがあった。彼の夢を、全身で受け止める童は牛若、齢7歳、だが彼は父の「器」にあるものを目を見開いて吸収する。大きな「器」に接することで、子供は未来を知る物差しを得る。少年の宗盛、大きすぎる父の「器」と、出来すぎた嫡男、重盛の「器」の前に、自分の「器」の小ささを日々、思い知る。だが、後の平家の棟梁となる運命。望みはあるのだ、理想も、夢ももちろんある。だが、人の「器」は全てを受け入れられない。常磐もまた、自分の運命を受け入れながらも、いましばらくと、牛若を過ごすことを懇願する。生まれたばかりの能子との別れの痛みを受け入れられる「器」なぞあり得ない。深い哀しみは人の「器」では受け止められない。逆に、人を押し潰してしまうもの。牛若のこれから。彼の運命を彼は受け止められるのか。彼の「器」は源氏の御曹司であることを、兄、頼朝との確執を受け止められるのか。現代でも、戦乱の世であろうとも、全てを受け入れる「器」など人にあろうはずがない。だからこそ、人と人との間には愛情も憎悪も、訪れてしまうのだろう。
2005.01.16
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誰も近づくな。俺は危険だから、危険、危険。自分のテリトリーに柵を巡らせて、凶暴な顔した自作の似顔絵を立看板にして人間たちに注意を促している。小さなラッパを耳にのせたシュレック。大きな腹で、息はクサイけど、目、鼻、口、何もかもデカい顔の表情は豊かで、それは彼の心の豊かさを物語っている。自分のテリトリー。それを、完璧にしようとするのは、ファークアウト卿、背は小さいが態度はデカい。だからこそ、いらないものは排除する。王国に存在するお伽ばなしの登場人物を排除して、求めたのは、完璧な結婚相手のお姫さま。フィオナ姫を選んだのはいいが、彼女は、ドラゴンのいる塔に閉じこめられている。彼は自分で彼女は救いに行かないで、部下に行かせようとして、部下を倒してしまったシュレックに姫を救出に行かせてしまった。自分のテリトリーに柵を巡らせていたシュレック。けど、ロバのドンキーにつきあってると、相手にしているうちに感情が表に出てくる。黙らせるのが至難の業というほどのオシャベリに、閉口したり、怒ったり、笑ったり。彼の豊かな感情は、相手がいれば止まることを知らない。特に友情や愛情なんていうものは自分には似合わないとイチバン彼が思っていた。フィオナ姫に対する気持ちもやっぱりナカナカ素直になれない。コンピューターが生み出したキャラクターたち。技術の力が生み出す繊細な表情に驚く。彼らはまぎれもなく、演技しているのだ。おとぎ話の世界の奥行きのある背景が美しい。そして、縦横無尽のカメラワークが、多彩なアクションシーンを盛り上げている。遊び心もたっぷりに。フィオナ姫のワイヤーアクション、ピンクのドラゴンにクッキーマン、その他大勢。音楽と台詞は明快に、ノリがいい。映画を愉しくする工夫は、盛りだくさん。フィオナ姫には呪いがかけられていた。昼は昼の姿、しかし、夜は夜の姿。真実の相手とキスをすれば、呪いは解けるという。ドンキー曰く、フェロモンいっぱいのシュレックとフィオナ姫。最初は、お互いの柵にお互いを入れなかったが、なにしろ、二人は豊かな感情を持っていた。豊かすぐて誤解はあったけれど、柵を壊して相手を迎え入れれば、すぐに解けてしまったわだかまりである。誰も近づくな。柵を巡らせば傷つくことは少ない。だが、相手を迎え入れれば笑顔を観ることができるシュレックとドンキー、シュレックとフィオナ姫。友情と愛情の瞬間が鮮やかに見える物語。外見で判断すると大切なものを見失う。そしてこの映画も、外見以上に中味は温かく優しく、不思議な説得力に満ちていたのである。
2005.01.15
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この視界。そう、視えるもの、全て。Aというものが赤色に視えたとしてもそれが他人には青色に視えることさえある。世界は明るすぎて彼には眩すぎる。ニューヨークのグランドセントラル駅に突然現れたサングラスの男。彼の名はプロート 、自らをK-PAX星人と名乗っていた。地球人。そう自己申告する機会など、よっぽどでないと訪れないだろう。せいぜい、海外旅行に行けば、現地の言葉で「日本人」と言うくらいだ。自分で自分を自己申告する。私は何者か。駅でスリに間違われたプロートは、自分を大まじめに宇宙人だと申告して精神病院に送られるハメになる。プロートの担当となったパウエル医師には、患者がどう自己申告しようが精神の病ゆえの架空の申告としか思えない。だがプロートは天文学者が驚くほどに、K-PAX星の天文図を描き、バナナを皮ごと食べたり、犬と会話して見せたりする。突然いなくなったかと思えば、木の上で読書をしていたりと不可解な行動。彼はいつも大まじめで、とても嘘をついてるとは思えない。K-PAX星人だと名乗るプロート。精神病院の患者たちは彼の言葉を信じていた。自分は何者か探し続ける患者たちは、プロートの言葉をまっすぐに受け入れる。病気恐怖症のアーニーは、プロートに導かれ庭に出られるようになった。強迫観念症のハウイーは青い鳥を探し始める。「三つの任務が完了すれば病気は治る」そのプロートの言葉を信じることが出来たから、不安を打ち消すためは強迫行為は必要なくなっていた。自分で、自分を申告する。他人と交わることのないのがこの世界だ、家族の存在しない星、1,000万光年彼方のK-PAX、プロートの生きる世界はそこ。プロートの視える世界はそこ。だが、パウエル医師は丹念に調査し、ロバートと言う男の存在を知る。アメリカの山奥で、強盗に、妻と子供を殺され犯人を殺害し、近くの川に身を投げたプロートと同じ顔の男。プロートを演じるのはケビン・スペイシー。彼は自分の個性埋没させることなく、役を自分に近づけ、映画の中で同化する。パウエル医師はジェフ・ブリックス、悲劇の末に逃避した患者としてプロートと接し、自分の内面とも人間味たっぷりに戦っている。「7月27日にK-PAXへ戻る」その日、間違いなくプロートに変化が起こった。彼の病室は、朝の光に包まれていた。だが、身体はベッドの下に。もう彼は、自分が何者か語れなくなっていた。プロートとは別人の顔をしている。彼が本当にロバートであったとしても、何も視えてないのだ、語ることは出来ない。自分が、何者か。患者の一人が病院から消えていた。K-PAXへ行きたいと願っていた女性。プロートと名乗った男が、彼女と連れて行ったと信じる方がシックリくる。彼はいつも大まじめで語っていた。自分は、K-PAX星人だと。
2005.01.14
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頭のネジをユルめよう。2~3本じゃ足りないから、この際だ、50本くらいは、ユルユルに。三池崇史監督プレゼンツ、異色ミュージカル・ホラー・コメディ。豪華キャストが親子になって人里離れた山ン中でペンション開業しておるぞ。空気はとってもイイけれど、お客なんぞ来るハズない場所であったのだ。案の定、お客第1号は見るからに陰気で、でもって、自殺してしまったのである。韓国映画「クワイエット・ファミリー」が元ネタ。しかれども日本人だけ喜べる小ネタが満載。沢田研二は「TOKIO」を歌っているし、勿論「愛の水中花」と言えば松坂慶子、二人は夫婦。丹波哲郎ジイちゃんの行き先は大霊界だし、忌野清四郎はゾンビダンスしながら踊っている。おお、そうだ、このお話。ペンションに来る客は次々となんだかワカンないけど死んでゆくのである。ラララ~♪歌って踊りながらァ~♪両親の第二の人生を半ば冷ややかに観るのは娘と息子役の西田尚美、武田真治。だが、ペンションは死体ばかりで大災難。人気力士が腹上死して女は圧死したりしている。家族団結して頑張らなければならなかった。今度はマトモな客かな~と、淡い期待をしても、また死んでゆく~ラララ~♪お客さ~ん~~。ハリウッドはよく莫大な費用でおバカ映画を作ってるが日本映画はヒトアジ違うようだ。本格的なCGや本格的なミュージカルは一つもない。本格的にエキストラを集めて本格的なホラーやら本格的なコメディもない。なんかイイ感じのテキトーでやっちゃってくれてるキャストが豪華なのは三池監督の人望だろう。クレイアニメと死体のメイクで金かけたのか?ほどよくぬるくマッタリと、しかし展開はクレイジーである。しかし、まあ、今さらながら、ジュリーとキヨシローさんは歌がいいぞ~。三池崇史監督の暴走は続く。高尚な映画的才能を見せるつー欲はないのか。コンスタントに映画を発表し続ける。アイデアと実行の人、なのだろう。違う監督ならばもっと上手い演出が出来たとしても、作品にならなきゃ意味がないのだ。「TOKIO」に「愛の水中花」外国の方が映画祭向きじゃないネタである。確信犯か。次から次への大災難を、洗い流すかのように起きる山の噴火。埋めたはずの死体が次から次へと流れだして、死体遺棄の罪は、うやむやになってしまう。やっと、家族に幸せが訪れる。ちなみに一家の名字は片栗、カタクリさん。大災難を乗り越えて、一家は真の意味で団結していたのである。
2005.01.13
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アメリカの北西部、小さな町の麓にある山ダンテズ・ビーク。住民たちはずっとその山が休火山だと信じて疑わなかった。現在ではもう、「休火山」「死火山」とは呼ばれなくなっていうのだと言う。火山活動を停止しているか、学問的な断定できず、なおかつ誤解を生みやすいから。例えば、だ。若いカップルが天然温泉を見つけていた。雰囲気のいい露天風呂である。はしゃぎながら入浴していたが、突然、下から気泡が湧きだしていた。赤い物体が吹き出している。彼らの命が奪われたのは言うまでもないだろう。火山地質学者ハリーが町に訪れたのは、ダンテズ・ビークの地殻変動を全米地質学調査団がキャッチしたからだった。次々を発見される地震と噴火の兆候。だが、完全な休火山と思われてきたのだ、「町全体が溶岩流に飲み込まれる」などということになればパニックは必至である。町の人たちは事実を受け入れようとしない。これまでの生活を簡単には捨てられない。ハリーは町の女性市長レイチェルに直談判する。ハリーやレイチェルの奮闘も間に合わずダンテズ・ビークは噴火し、町はパニックとなる。窓を割り、居間に飛び込む溶岩流。溶岩流に追われモータボートで湖の対岸へ向かおうとするも、酸性となった湖面でスクリューが解けてしまう。不気味に湖面には魚が白い腹を見せて浮いている。また、溶岩流を車で疾走する場面も。当時のCGを駆使し再現されるのは、人災で必要以上に広がってしまった自然災害。1997年公開の映画。町や人が救いを求め逃げまどうさまは、パニック映画という側面以上に、事実と重なる。1995年1月17日、阪神淡路大震災。真っ暗になった町。全てを飲み干そうとするかのような溶岩流。ハリーたちは瓦礫の中に閉じこめられてしまう。火山地質学者ハリーはピアース・ブロスナン。市長のレイチェルはリンダ・ハミルトン、アクションに強い俳優が派手な見せ場ではなく自然災害という現実に十分起こるうる環境の中で足元をしっかり見据えて演じている。ハリーの警告を受け入れない町の有力者や、再調査で安全圏だというハリーの同僚のエピソードなど、リアルな設定が盛り込まれている。町が飲み込まれる。確かにそんな事実を簡単には受け入れられない。だが、ラストシーンに映る救助隊と傷ついた人々の姿は何度も観た光景である。生命を落とした人も多数いる。阪神淡路大震災より2年後の映画。そして今も、同じ悲劇が続いている。
2005.01.12
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何故、彼が逮捕されるのか。妻と子と慎ましやかに暮らす聾唖の青年。彼に何が出来るというのか。昭和天皇の玉音放送。それは、台湾の新たな受難の幕開け。海に面した山村の船問屋の林家の四人の兄弟たちを軸にして、台湾の歴史のタブーと言われた2・28事件が描かれる。四男、文清を演じたのは梁朝偉、トニー・レオンの出世作と言われている。1989年、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督作品。長回しのカメラは街並みや当時の暮らしを穏やかに、ゆるやかなに映し出す。日本が第二次世界大戦で敗戦した後も、台湾にはまだ、日本のカゲが色濃く残っている。日本語や、日本の歌、そして、林家の四人の兄弟のうち、次男と三男は、日本兵として出兵していた。精神を病んで戻ってきた三男は上海からやってきたヤクザと揉めて密告されることになる。つまりは、日本兵として同胞を撃ったと。そうだとしてもやむを得ないことだろうが、そのイザコザが長男の死につながってゆく。歴史を語るのは難しい。拙いが少しだけ映画の背景として知り得たことを記しておきたいと思う。1945年、日本敗戦の年。中国では、それまで日本と戦っていた国民党と共産党の内戦が激化する。史上空前の民衆弾圧事件2・28事件が起こったのは1947年。台北市の闇市のタバコ売りの女性と警官のもみ合いが自然発生的に群衆暴動へと広がってしまった。「省籍矛盾」もともと台湾に生まれ暮らしてきた本省人と、大陸から移り住んできた外省人。国民党の政府は、反体制運動を取り締まり、台湾の人々の弾圧を始める。そんな時代の中でも彼の純粋さはが消えなかったのはその境遇の上なのだろう。幼い頃に事故で聾唖となった林家の文清。写真館を営む彼が、他人と会話する手段が筆談。後に妻となる寛美との紙の上の会話が最初は微笑ましくもある。文清の聾唖は広東語しか話せないというトニー・レオンのための設定とされている。だが、彼は無垢に役を演じきっている。寛美への愛情と、彼女の兄・寛榮との友情。友情ゆえに文清も祖国のために戦おうとするが。だが、文清は戦いから遠ざけられる。妻と子との慎ましやかな暮らしが彼に訪れる。それでいいではないか、と思うのだ。政府転覆?共産党に通じている?彼に何ができるというのか。何故、彼にまで、弾圧の手が伸びてしまったのか。囚われの文清と寛美の筆談が音のない静かな「嘆き」となって画面を覆う。哀しい歌が流れている。
2005.01.11
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抱えきれないほどの感情が行き先をなくしてしまったのだ。それを解放する方法はセシリにとって肌の温もりしかありえない。車の中で何度も何度も、ヨアヒムとセシリはキスをしていた。最後にもう一度キス、そしてドアを閉めたヨアヒムが交通事故に遭うが。すぐさま駆け寄ってきたのは運転していたマリー。同乗していた娘スティーネは、動揺を隠せない。路上を赤く染めるヨアヒムの血。抱えきれない感情。愛情の膨張は、感情の中でも厄介だ。首から下が不随になってしまったヨアヒムの心の痛みは大きく、セシリにさえ心を閉ざす。彼に向けられたセシリの愛情は行き先をなくしてしまった。加害者となった妻マリーを慰め、医者であるニルスは病院でヨアヒムの心配をするセシリに声をかける。彼は妻だけでなく彼女の心の拠り所にも本気でなろうとしているように見える。抱えきれない感情。障害なく愛しい人に向けられれば、抱き合ったりキスをしたり肌を重ね合ったりそれが出来れば解き放たれるもの、セシリの若さは「感情」の重みに絶えきれず、ニルスの体温をもとめニルスは彼女を受け入れる。そして日常とは違う彼女の体温に彼は本気で惹かれる。抱えきれない感情。膨張する感情は熱と体積を持ちは増大する。感情の解放を。解放が「しあわせ」に繋がるわけでなく。冒頭にドグマ95が謳われている。デンマークの映画。セシリ、ニルス、ヨアヒム、マリー。主な登場人物のどんな感情も、それが例え過ちにみえてもなお、否定することは出来ない。むしろ、そうならざるを得ないと思うのだ。全ての感情を押さえ込むことは出来ない。矛盾を包括した四人の「感情」は共感を誘うほどリアルに描かれている。手足も性器も使えなくなったヨアヒム、セシリに別れを告げる笑顔が印象的である。現状での彼なりの答えである。何も後悔はないと清々しい顔のニルス、セシリに別れを告げる笑顔が印象的である。そのときの感情は全て本物、もう、戻ることは出来す、時は流れてゆく。四人とも、伝えることは出来なくても自分が愛した人たちの、しあわせを願っているように見える。離れていても、きっと。
2005.01.10
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播磨一ノ谷の合戦から始まる。戦うは源氏、源義経を大将とする一軍。海辺にいるは、平家、次々と集まるは、宗盛、重盛ら。ともに名前も顔も知る者たちが戦いにもそこへ至る経緯がある。平清盛を中心に話は展開する。渡哲也の清盛に松坂慶子の妻、時子。はたまた清盛に、義経の母常磐。男と女を巡るバランスの良い配置に、長めのカメラワークと役者たちの顔と言葉による感情表現。繊細で日本絵巻の様相を見せる。池禅尼の南風洋子やお徳の白石加代子、ベテラン女優の台詞の時代がかった抑揚は、前年の大河ドラマを払拭する。義経の原点は、五年後にある。赤ん坊として母と洛中に住んでから。清盛を本当の父のように慕う義経。平家の手のひらにいた彼が後に、どのように描かれ、源氏の旗頭の一人となるか。そして彼がどのようにして、後世にヒーローのような存在となってゆくのか。義経の生涯は短い。異聞もあるが1159年から89年のたった30年。今回も1年間、老人にならない主人公となる。前年の大河ドラマが現代を感じさせただけに、今回のはじまりは、純然たる時代劇に見える。主人公は若いが脇を固めるのは名優揃い。特に最初のうちは本格的に時代劇を演じきれる方々が多い。観る側の受け取り方で逆に現代が見える気がする。個人的に愉しみなのはオセロの中島知子、松島尚美の出演か(笑)冒頭の殺陣が、松平健以外ショボかったのが心配。実はその他にも心配が多く、見続けられるか自分のモチベーションも心配。しかし、久しぶりの時代劇。オープニングだけでなく本編にも美しい月が。自然は美しく、人々が溶けあっている。はじまりは月夜の舞台の如く。
2005.01.09
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「恋愛」の感情というもの。コイツはやたらとカタチをとりたがる。ローズ座の劇作家ウィリアム・シェイクスピアスランプから脱出できずに悶々としていた。1593年、エリザベス朝のロンドン。テムズ川をはさんで対岸のカーテン座とともに、芝居はブームだったが疫病の流行もあり閉鎖されていた。そうなると借金もかさむから劇場主もシェイクスピアの新作には実に大きな期待を寄せてたりする。出会うべき恋人たちというもの、出会うべき運命だったと思えるほどに、裕福な商人の娘ヴァイオラ嬢はシェイクスピア・ファン。最初から彼女は彼を理解していたし、彼もまた自分の作品を理解してくれていて、なおかつ美しい女性である、「恋」は当然のように落ちてくる。いや、恋に落ちたシェイクスピアだ。SHAKESPEARE IN LOVEただし、問題は彼女がトマス・ケントと名乗り男装して彼と接近してしまったことにある。さまざまな登場人物が絡んで、話がややこしくなるのはシェイクスピア風。絢爛たるセットに衣装に、マーローの刺殺事件まで交えて虚々実々で展開する物語は、実にスムーズに愉しく観ることができる。グウィネス・パルトロウの男装がチャーミングジェフリー・ラッシュ他、脇役たちのアソビゴコロ、ベン・アフレック、ルパート・エヴェレットまで小さな役で。主役ジョセフ・ファインズが目立たなくなってはいるのもご愛嬌。やはり、群衆劇の側面もある。虚々実々を織り交ぜて。シェイスクピアのインスピレーションはヴァイオラ嬢によって刺激される。「恋」は何かと相手に語りかける。相手に語りかけながら自問自答している。「ロミオとジュリエット」身分違いの恋は、シェイスクピアとヴァイオラ嬢の恋。本当は言いたいことと、やっぱり、言えないことが重なって出来上がるは悲恋の物語。「恋愛」の感情というもの。コイツはやたらとカタチをとりたがる。いつまでも抱えてはいられない。抱えすぎては爆発しそうになる。誤解と誤解が重なりあって、しっちゃかめっちゃかなのもシェイクスピア風。とにかくトマス・ケント=ヴァイオラ嬢で大騒動。シェイクスピアは結婚していたし、ヴァイオラ嬢は家が決めた結婚目前。「ロミオとジュリエット」の上演もテンヤワンヤ。それをしっかり治めるのはエリザベス女王、ジュディ・リンチの貫禄。ツルの一声を決める人材はとんでもない第三者かとんでもない大立者に決まっている。やがては一件落着する。「恋愛」の感情というもの、コイツはやたらとカタチをとりたがる。喜劇か悲劇どちらになるかはともかくとして愛する二人が二人だけの世界になろうともシェイクスピア風になれば大騒動になる。案外「恋愛」って奴はそういうものかも知れない。
2005.01.08
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今度こそ、完璧な計画で。1956年の作品。若きスタンリー・キューブリック監督が試みたのは時間を立体的に組み立てたフィルム・ノワール。登場人物とは無関係なナレーションが、5人の男たちを中心にした動きを絡め合わせてゆく。目指すは競馬場にある現金の強奪計画。まさに、完璧な計画。失敗した場合のBプランまで用意されている。刑務所を出所したばかりのジョニーは、今度こそ完璧な計画で大仕事を成功させたかった。集めた仲間たちもどこか彼と同じ匂いがする。借金があったり、妻にいいとこ見せたかったり、どこか一攫千金の夢を追う男たち。競馬場という舞台が本当に彼らには似合っている。ジョニーの計画は完璧。完璧たる所以は、ゆるやかだが「余裕」が設定されているところにある。所要時間にも気を配り、関係者には潤沢に報酬を。彼を巡る人間関係に何の不安材料もない。7時20分にその場所にやってきた人物A。次に人物Bがいる7時の状況が映し出される。時間を遡って構成された演出で人物Aと人物Bの役割が違和感なく飲み込める。進行したかと思われた時間は、逆行して計画とは別の私生活が映し出される。問題になってくるのは競馬場の窓口係とその妻の関係。計画のAプランは彼らから破綻する。90分を切る映画の中に、エピソードの一つ一つが緻密に組み立てられている。緻密すぎるほどの組み立てられている。おそらく、どんな物語であっても、この監督は緻密に組み立てたであろう。無駄と思う映像を見つけることが出来ない。逆に、無駄が見つからないことがこの映画の魅力を損なっていると思うほどに。Aプランは無惨に失敗する。Bプランに関しては「鞄」の大きさを考慮してなかったの除けばほぼ完璧だったと言えるだろう。トラブルも乗り越え、成功しそうにさえ見える。だが最後は、逃げ場のない行き止まり。200万ドルの札束が舞うシーンには言葉をなくす。その散ってゆくさま、散っている時間にさえ気を配られている。犯罪に関わった者たちは全てさまざまな「頃合い」で切り捨てられている。感情を寄せ付けない完璧さ。若きスタンリー・キューブリック監督実力、というものなのだろう。
2005.01.07
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圧倒的な戦闘シーン。映画の大半が、二つの闘いに集約されている。人間VSコンピュータ。ザイオンに投下される巨大なドリルは、地下の都市をぶち抜いてゆく。大蛇のようにうねりながら群がり降りてくるセンティネルは複数のアームで、人間の命を次々と奪ってゆく。結局は戦争になるのだ。だが戦争に織り込まれた個人の戦いは熱い。APUと呼ばれるヒト型のメカに乗ったミフネ隊長。ジーたちはギリギリのタイミングでドリルを粉砕する。キッドは勇気をふりしぼり扉を開けて、ナイロビとモーフィアスの船を迎え入れる。だが力の差は歴然。ザイオンの人々が助かる道は、ネオに託される。この世界は現実という「箱庭」その「箱庭」の材料たるプログラムのソースにネオは、「箱庭」から完全に分離したスミスの消去を申し出る。エージェント・スミス、無数のスミス。仮想現実の意識はすべて、スミスに乗っ取られていた。ネオVSエージェント・スミス。トリニティの死を乗り越えて、ネオは戦う。戦いには結果がある。ザイオンの人々が救われるには一つしか道はない、エージェント・スミスの抹消。そうすれば、マトリックスのプログラムは滞りなく進行することができる。だが、エージェント・スミスの抹消は、ネオの存在意義の消滅を意味する。逆にネオが抹消すれば、エージェント・スミスは存在意義を無くす。二人の戦いは、プログラムのイベント。惑わされそうになる。愛情を謳ったヒーローとヒロイン。陳腐な結末を迎えたように見えても、マトリックスとザイオンが生き残ったことに意味がある。両者もまた対を成すもの、何故なら、プログラムにつながれる者もいれば、プログラムにつながれない者もいる。戦いで失った命の数もまた、そう。歴史が物語る様々な災害は、人口の調整だという「説」さえある。全ては因果関係?原因があるから結果はある?だが、その「プログラム」につながれぬ、端数もまた存在する。端数が積み重なれば「ムーブメント」となる。ネオはまた現れるだろう。希望にうち砕かれるモーフィアスも、愛情に生きるトリニティも。そしてもちろんエージェント・スミスも。役割は無数にあり、世界は役割に動かされカタチを成す。だが世界がないと、役割は意味を成さない。自分の役割の「正解」など、見えるはずもなく。世界が動き出せば、朝の陽光が街を照らす。そして1日が始まり全てが動きだす。ただ、それだけ、それが、全て。
2005.01.06
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ほんの少し先の未来を読み解くことは実はそんなに難しくはない。高層ビルから落ちてゆくトリニティ。彼女の愛する男性が救世主だという運命を持つ。黒のスーツをまとった戦士はエージェントに射抜かれて落ちてゆく。ネオは少し先の未来を予見していた。マトリックスという仮想現実。それは映画を観る側の現実と酷似している。だが、仮想現実と現実の差を見極める目を私たちは持っていないのだ。それは現実というのが「箱庭」であるという証明。自分の「箱庭」からは出ることが出来ないが、逆に別の「箱庭」を眺めることなら可能だ。コンピュータが構築する世界。三次元の立体的なゲームの主人公となり、仮想現実で戯れるのはロール・プレイング・ゲーム。イベントをクリアすれば何が起こるのか、プログラマは知っている。ボタンを押して、出来上がる料理。ボタンを押したから、出来上がるという因果関係。原因と結果。ザイオンという現実。マトリックスという仮想現実から離脱した人間。彼らは穴の空いた汚れた衣服を着てギリギリの生活をしている。マトリックスという仮想現実は彼らを許さない。当然だ、ロール・プレイング・ゲームとは、人間の意識が戯れているものなのだ。彼らはスイッチをオンにし、侵入しなければ、プログラムは永遠に作動しない。つまりは生命を得ることが出来ないのだ。現実と仮想現実。なんでもゲームをすれば、パターンは見えてくる。ネオが辿りついたアーキテクトはネオの顔をした救世主と幾度も面会している。だから、次に救世主が何を選択するのか、幾通りのパターンからはじきだすことができる。最良の選択肢、ベストではなく、ベター。マトリックス リローデッド結論のない、第2章。ウォッシャウスキー兄弟は世界観を提供する。相互依存する現実と仮想現実。救世主としての力を増したネオと、ウィルスのように増殖するエージェント・スミス。片方が存在すればもう片方も存在する。片方が強大になれば当然、もう、片方も。メロビンジアンとハーセフォニー愛のない夫婦がいれば、リンクとジー、離れていても夫婦の絆は確かだ。反対すれば賛成する。逃げる者もいれば戦う者もいる。この映画の表面的な価値は紛れもなく映像にある。世界を描きだすための惜しみない力を注がれた映像。ほんの少し先の未来なら。トリニティは作戦を成功させるために、ネオの忠告を無視してマトリックスに侵入する。エージェントに見つかった彼女は、高層ビルの窓を破り転落する。彼女を助けるのはネオの「愛」という感情。何もしないまま滅びゆくよりも、戦って得られる未来を選択したいモーフィアス。その選択は王道だが、その選択と滅びの未来は、同じ姿をしているかも知れない。それを知ってもなお、人は戦えるのか。すべては因果関係?選択が、未来を決める?ネオの力はより強大となる。そして全ての敵はより強大となる。結論のない、第2章。だが、現実と仮想現実を描き出すために映像には惜しみなく力が注がれている。
2005.01.05
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華やかな社交界で二人は出会った。恋をして結婚して夫婦となった。コール・ポーター、1891年生まれ作曲家。40年にわたり870曲におよぶ映画やミュージカルの歌曲を作詞作曲。「キス・ミー,ケイト」「エニシング・ゴーズ」スタンダードナンバーも彼の作品。リンダ・リー、<パリで最も美しい離婚女性>は彼の妻となり、彼のミューズとなった。ケビン・クライン、アシュレイ・ジャッドのコンビが、華やかな世界に生きる夫婦を演じている。だが、二人は夫婦だった。世界がどれだけ煌びやかであろうとも、血のつながらない男と女、長く共にいて誰よりも近しい存在。裕福な家庭に生まれた二人。リンダは一度、手をいれた手袋は捨てるという。その手袋を宝物のようにもらいうけるポーター。恋は成立したというのに、問題はある。ポーターの愛情は「男性」にも向けられていた。それをもリンダは許すと言う。「独立したカップルとして二人で夢を」若い恋人たちの未来に陰りなど、映らない。ミュージカル仕立ての映画である。ケビン・クライン、アシュレイ・ジャッドも歌っている。パリからヴェネチア、そしてアメリカへ。ミュージカル、映画と成功を収めるポッターとともに、彼の楽曲がミュージシャンたちに歌われている。ナタリー・コール、シェリル・クロウアラニス・モリセットに、ロビー・ウィリアムス、エルヴィス・コステロも登場する。ポッターがスランプになれば、リンダはアメリカから人を呼んで打開する。ポッターが自信をなくせば彼女が力づけ背中を押す。上手くいくときと上手くいかないときを夫婦はともに経験する。華やかな世界の映画である。才能豊かでウィットあふれるポーターと、美しいリンダのカップルは異世界の住人にも見える。豪華ゲストの歌はうっとりと。歌を聞く映画でもある。だが、その歌がやがて二人そのものに。恋をして結婚して夫婦となった。上手くいくときと上手くいかないときを夫婦はともに経験する。小さな出来事の積み重ねが続き、お互い皺を顔に刻み年を経ていく。世界がどれだけ煌びやかであろうとも、血のつながらない男と女、長く共にいて誰よりも近しい存在。一度は別居した二人だが、落馬したポーターの前にリンダが戻ってくる。医者は足を切断することを進めるがリンダが許さない。彼女は両足で歩けないことも、ピアノのペタルが踏めなくなることも、彼のプライドが許さないと拒否する。このエピソードは後にリンダの死後にも登場する。「彼女が生きていれば、決して切らなかった」友人の一人が洩らした台詞は真実だろう。一つ一つが夫婦のエピソード。歌の中にそれらが生き続けている。リンダに捧げるポーターの歌に溢れるのは、彼女とともに暮らした日々の豊かさ。死の間際で彼女に愛を語るポッターはすべての歌が君のための歌とうそぶくが、全部は嘘、でも、一部は確実にそうだと嬉しそうに微笑みながら先に逝く彼女。それもまた、夫婦のエピソード。物語は不思議な演出家ゲイブと死期の迫ったポーターの客席での掛け合いで始まる。オープニングは華やかに、そしてエンディングも華やかに。ピアノに手を伸ばすポーターの傍らには真珠の首飾りに黒いドレスのリンダがいる。タキシードのポーター、出会った頃の二人となる。誰よりも近しい存在。だが、何もかもさらけ出すのではなく、相手には正装で敬意を表しながら。DE-LOVELY原題は否定語のついた褒め言葉。やはり夫婦の物語である。
2005.01.04
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世の中にはちゃ~んと、働かんでも金に困らん職業がある。いわゆる、マルチ商法の胴元という奴。最初だけちーとばかり辛抱してガンバって、組織を大きくしていけば、何もせんでもお金が入ってくるらしい。今回の『ナニワ金融道6』は、灰原達之くん、そこに自分の金融道を見出すが。これまでの『ナニワ金融道』金子高利社長の「帝国金融」に金を借りることになるいろんな客が主役と言ってもよかった。金借りてカタにはめられたり、ニッチモサッチもいかんようになった客に金って奴は・・と人生を観る。語り手は中居正広演じる、灰原達之、彼もまた手形の裏書きしたり、保証人になったり、スレスレのところをわたって街金の金融マン6年目。もともとは焼肉屋のバイトくん、人のイイ彼は、勿論、売り上げナンバー1の金ぴか背広の桑田澄男たちのようには悟りきれない。何がなんでも金を借りさせ、取り立てるクワタはん。小林薫、毎度のことで絶好調である。彼の目は、泥沼に入ってでも金を借りる人間が選別できるようである。今回は竹下樹理、高岡早紀演じるパチンコ狂の主婦。案の定、250万借りて、カタにはめられる。ダンナに黙って身体売って稼いだお金持ってパチンコへ。なんか、幸せそうである。灰原くんにも彼女が出来る。市村朱美、ネイティブ関西弁の池脇千鶴が演じる。実は恋愛商法のプロ、そして、脚本は、彼女に「金(カネ)」というもんのいっちゃんイタイとこを語らせている。カネをとったら人間関係は断ち切られてゆく。間違いなく。だからこそ、今回の大ネタはマルチ商法。働かんでも金に困らんようになるのはステキやけど、マルチはまず、親兄弟、友達の勧誘からはじまる。お互いに好きおうた灰原と朱美だが、二人はドップリ、「カネ」に漬かっている。『クロサギ』という詐欺を扱った漫画があって、4巻目に扱われているのが共済組合の詐欺。ホンマ、おおざっぱな説明で申し訳ないけど、保険会社に比べれば、無認可でも組織しやすいのが共済。対象を限定すれば、助け合いとして保障を商品化できる。掛け捨てで月掛金は2,000円くらいから。払いやすい金額だから紹介もしやすい。保険なんで、もちろん毎月振り込まれてくる。振り込まれる度に発生するのはリベートである。紹介した人がまた人に紹介すれば、その一部もリベートとしてフトコロに入る。実は、共済の月掛金は、運営費やプールを差し引いても三分の一くらいが残るんで、災害のあったところへ寄付したり、「割戻金」として加入者に戻されたりするのがホント。そのお金をマルチの胴元はフトコロに入れている。規制は国会とかでも討議されてるけど、マルチと「全うな」無認可共済のボーダーは微妙で難しいらしい。さて、そのマルチこそ、灰原くんの金融道、有能なマルチ商法の営業レディ、古井富士子に融資を画策する彼。マルチに参加させる客の資金を「帝国金融」でご用意する。けれども、一部の刑事をマルチ絡みで敵に回してたから、ホンマ、ムッチャンクッチャンになる。警察は古井富士子も、「帝国金融」も潰そうとしていた。ハッキリ言って、時代の流れである。おそらく緒方拳の金子社長とクワタはんがいなければ、街金「帝国金融」も潰れていた。キャッシング、そんな横文字で、気軽に「カネ」を借りられるようになった世の中。時代は笑顔の女性と無人ATM。クワタはんが営業してカネ貸さなくてもカネを借りられるシステムは身近にある。警察権力はもう、マルチでも街金でもなくソッチへ行ってるみたいである。無店舗「090金融」はケータイで連絡。こちらもクワタはんが営業せんでも客は来る。今回は何度も灰原くんが言っていた。「借りた金は返してください!」ウルフルズの主題歌じゃないけれど、情け容赦なく灰原くんは取り立てを行っている。彼の「借りた金は返してください!」は厳しい。優しい青年は自分の心を隠してまで言う。「借りた金」というのはそういうものなのだと、肝に銘じなきゃならない。プロデューサーの山口雅俊氏が緒方拳が「もう街金の時代じゃないだろう」と話していたというネタを紹介してくれている。正月そうそう、『ナニワ金融道6』はシビアである。クワタはんがいなけりゃ、笑いも少なかった。だが今まで以上に「カネ」ってもんと真正面からぶつかった作品に仕上がっている。
2005.01.03
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成人の通過儀礼は、地球上にも数多く存在する。多くはいかに恐怖に絶えられるか、時には死と隣り合わせな儀式ではあるが、乗り越えられた者に与えられるは「成人」の称号。今、地球に降りたとうとする若きプレデター。彼、もしくは彼女らもまた試練の時を迎えようとしていた。エイリアンとプレデター映画史に残る激闘を繰り広げた地球外生物。二つの種族の対決はイベントと言っても過言ではない。お馴染みの戦い方で絡み合う姿は、映像の迫力とともに不思議な感覚がある。しかもその二つの種族は、地球上の失われた古代文明に密接に関係していた。優れた文明を持ったプレデターは南極に巨大なピラミッドを打ち立て、そこを種族の通過儀礼に利用していたのである。エジプトのピラミッドの外観、アステカやカンボジアの古代文明の内観、世紀の大発見に色めき立つ人間たち。資金を提供することと引き替えにウエイランド社は学者や冒険家を集めて、武器をも携行し発掘チームを編成する。一夜にしてプレデターに掘られたトンネルを潜り、ピラミッドの内部へと侵入してゆく。余命わずかなウエイランド社長も同行。有能な学者たちは古代文明の謎を解き明かしてゆくが、次々と人間たちは二つの種族に殺されてゆく。失われた古代文明と同じように。目の前の強大な力を前にすれば、生き残るための選択は二つに絞られる。屈服するのか、闘うのか。古代文明はプレデターに屈服し、「生贄の間」にて自らエイリアンを寄生させる。やがてピラミッドにエイリアンが繁殖し、そこはプレデターの儀式の間となる。プレデターが敗北したとき、古代文明は、一瞬にして失われてしまった。屈服するのか、闘うのか。エイリアンシリーズと同じく闘うのは女性。冒険家のレックス、最後の最後まで闘い続ける。その闘いの先にあるものは。迫力のある映像は後半に集中する。しかも、登場人物に感情移入する間もなく次から次へと、人間は死んでゆく。だが、それがこの映画の特色を際だたせる。ただ、繁殖するのみの、エイリアン。闘い、生き残ることこそ全てのプレデター。そして感情と理性に揺らぎ、常に選択を強いられる人間たち。地球上と同様、違いこそ争いの引き金、エイリアンとプレデターが認め合うことはない。だが、プレデターはレックスを認める。闘い続けた彼女は、彼らの敵ではなくなっていた。地球外生物のSFホラーが成人の通過儀礼と古代文明の滅亡に置きかえられる。まだ、こんな方法があったのか、と思う。そして、一つの命題が残される。宇宙規模での強大な力にいつ人類は征服されてしまうかわからない。その時、どう選択するのか。屈服か、闘うのか。
2005.01.02
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2005年1月1日。最初の一作目はオバカ映画で。なんて幸せなめぐり合わせだろう。「サッカーを教えてよ」子供にせがまれようが、チャウ・シンチー、登場シーンでボールを凹まし粉砕する。サッカーはストーリーには関係なく、ただただ、『少林サッカー』を粉砕してみせる。心意気って奴でもある。周星馳、1962年6月22日生まれ、彼の映画はいつ観ても「男の子」がイッパイいる。その「男の子」はいつも、ヘヘン!と腕を腰にやって鼻を膨らませ、勝手にライバル作って競争ばかりしていたりする。ハリウッド映画に敬意を表してか。斧頭会の組長は蝶ネクタイにビシッとキメて、オールバックで部下を従え踊っている。ミュージカルみたいに踊るヤクザたちに、斧で足斬る、頭飛ばす、の残虐シーン。中国で有名な映画監督をチョイ役で殺して、腑抜け警察とか抗争とかあったりする。文化革命前後の中国のネオン街は作り込んである。ヘヘン!と鼻を膨らませてる「男の子」はギャング映画のカッコヨサと競争してたりする。本物の戦いは豚小屋砦にて。出るわ出るわ、貧困地区で実力を隠して生きるカンフーの達人。そのへんのおっちゃん、兄ちゃんは街を守るために、ギャングと闘う。彼らの型の一つ一つがキチンと決まっているから、主役なしのバトルシーンにも見応えがある。チャウ・シンチーが連れてきたのは、京劇出身、スタント出身、本物の達人たち、ヘヘン!と鼻を膨らませてる「男の子」はカンフーの凄さを見せるためには手を抜かない。勿論、アニメは大好きで、野を越え山越え谷越えの爆走シーン。超高速で動く足は、絵で描いたらグルグル渦巻き、看板に身体が当たれば、ヒトガタが残される。ムキムキの子供やムチャ強いオバチャン、チビだと油断すれば、実はムチャでかい人、アニメで出来るなら、実写でもと、ヘヘン!と鼻を膨らませてる「男の子」は自分の観たものを、映像にしてご満悦である。で、もって。勿論、妄想はしまくっている。「男の子」は自分が一番強いはずなのだ。だから、街のチンピラだったシンは、カンフーマスターとなり、敵を倒してゆく。敵はやっぱり卑怯者、「降参」と言ってから隠し持った武器を出すとこあたり、「男の子」に抜かりはない。彼は常に完璧を目指しているようだ。ついでに、勿論、恋愛も。今回の彼の映画は完璧さを期すためにいつものように、女優さんにオバカな役をあててない。ヒーローの恋愛はペロペロキャンディのように、甘く、意味なく、プラトニック。ヒーロー誕生の逸話は一冊の本から。「如来神掌」子供用のチープな手書きのカンフー教則本。騙されて買わされた本ではあったけれど、全てはそこから始まったりするのだ。エリート街道まっしぐらのヒーローは作り物で、ホントは、道ばたでヒーローが生まれてる、かも知れない。(推測!)ヘヘン!と腕を腰にやって鼻を膨らませ、勝手にライバル作って競争ばかりしていたりする「男の子」。そのために費やす労力がなんと莫大なことか。アホである。勿論、ホメ言葉である。
2005.01.01
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