全11件 (11件中 1-11件目)
1
まさに王道人生……チャンピオン!1999年1月31日はプロレスラージャイアント馬場さんの命日である。今年で13回忌を迎える。馬場さん亡き後のプロレス界はどんどん縮小しており、馬場さんをしのぐスター選手も生まれていない。しかも、皮肉なもので馬場さんの後継者といわれていたジャンボ鶴田や三沢光晴の各選手もこの世を去っている。あの豪快な巨人ファイトのインターナショナルヘビー級チャンピオン時代。小さなパートナーアントニオ猪木とのタッグのお手本を見せてくれたインターナショナルタッグチャンピオン時代。老獪さとテクニックで相手を倒すPWFヘビー級チャンピオン時代。世界一とは強さよりも受身と器用さが求めれれることを教えてくれたNWA世界ヘビー級へのチャレンジと3度の奪取。自ら前座に登場し、強くなければメインは取れないことを選手やファンたちに教えてくれたプロレス道への悟り。ジャイアント馬場さんの命日は「王道プロレス」の命日でもあったようだ。もう一度馬場さんのファイトが見たい。合掌2011年1月30日記
2011年01月30日
コメント(1)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●番外編 今夜 ジャイアント馬場復活!?第10450回 2009年1月1日~僕と馬場さんの勝手な連帯~●番外編 今夜 ジャイアント馬場復活!? 謹賀新年今年もよろしくお願いいたします。さて、楽天日記の先輩「芸能裁判研究班の日記」さんの情報によりますと、1月1日の今夜9時からBS日テレで、昭和の日本プロレス界を代表するプロレスラー、ジャイアント馬場をしのぶ特別番組「俺たちは忘れない…10年目の再会 ジャイアント馬場 蘇る16文キック」が放送されるそうです。 全盛期のジャイアント馬場は昭和三十年代後半から四十五年までなので、全日本プロレスを旗揚げする以前の「日本プロレス」時代。その勇士をする人は少なくなっているだけに、若い方にもぜひ観ていただきたい番組です。詳しくは下記のホームページで……◆「芸能裁判研究班の日記」こんな時代だから10年目の再会・ジャイアント馬場◆スポーツ報知のホームページ (イラスト:ジャイアント馬場対大木金太郎戦 当時の週刊ファイトに掲載されました)■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ ●番外編 今夜 ジャイアント馬場復活!?僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2009年01月01日
コメント(1)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●第9回 ジャイアント馬場引退試合第1045回 2008年11月4日~僕と馬場さんの勝手な連帯~第9回 ジャイアント馬場引退試合 1999年5・2東京ドーム観戦記 1999年5月2日、朝7時1分の山形新幹線つばさに乗り米沢(山形県)を出発、10時前には東京ドームに到着した。各所にグッズ売場があり、山下書店前では馬場写真集が山と詰まれて呼び込みをしていた。 大阪から来たというアルバイターをしている青年と並びながら全盛期の馬場さんの話をする。「父から聞いたことがあります」とその青年は言う。 この日はジャイアント馬場の引退試合だった。 この年、1月31日に大腸がんが原因でジャイアント馬場さんは亡くなっていた。61歳だった。 当人が居ない東京ドームで「ジャイアント馬場引退記念興行」が行われることになった。 会場に入り、席に着くと次々の客が入ってくる。 一席隣の青年に話かける。出身は青森であることや初めての観戦であることを教えてくれた。「青森だったらカシンや船木の出身でしょう」 しばらくすると隣の席にも青年が来る。その青年はタレントだとい。いつの間にか3人は仲良く観戦する。 12時に開場になるが客足は遅く、午後2時の第1試合ぎりぎりになってようやく満員状態となる。 第1試合の菊池の表情が頼もしい。馳やライガーとタッグを組み、三沢、小川組と戦わせてみたいものだ。 菊池が場外にいってマイクを取り出してから頭突き攻撃をする。「ゴン、ゴン」と頭がぶつかり合う音が会場に聞こえた。なるほど、ドームは広すぎて音がほとんど聞こえないことに気付いた。音量効果が必要だ。 サスケが入場するときにIWGPベルトを肩に担いで来たときは会場から「オー」と歓喜?が上がった。誰もが期待と不安の全日本プロレス開国予告なのか。 サスケ、タイガー、ハヤブサらは完全に「開国」を意識しての試合であり、それを十分に受けて次に結び付けようとしている小川に意気と責任を感じた。恒原、モスマンの得意業も格闘技系で生きていたが、小川とサスケはしっかりとプロレスをしていた。 川田と馳戦はハラハラドキドキの試合だった。お互いに受け身が取れにくそうで、危ない箇所がたくさんあった。二人共ブランクのためか試合慣れをしていないためなのか、不安だらけの試合だった。次回はお互いにコンデションを良くして臨んでいただきたい。 三冠ヘビー級はこれでもか、これでもかという「全日本の社長への踏み絵」ともいうべき試合であった。 次期社長最右翼の三沢光晴に巨漢ベイダーがチャレンジする。普段タイトルマッチであればいつフォールされてもおかしくないない試合なのに、短時間で大ワザを連発し、しかもフォールになかなか行かないのには驚いた。ベーダーも馬場元子さんら首脳部から使命を請けての戦いのような感じがしたのは僕だけだろうか。 この苦しみに絶えぬいた三沢にエールをおくると共に、新生三沢体制の全日本の門出はたいへんなアツレキがあることを感じられる。 馬場引退試合は、ただただ涙、涙の連続だった。「レフリーはジョー樋口がいいね」と、隣の青年と話していたら、希望どおりに樋口さんがレフリーだった。 僕が小学校、中学校の時に「プロレスアワー」で観た名試合が特設画面に写しだされる。すべてが日本プロレス時代の映像だ。このリングにドリーファンクJRが第2代PWF会長として立ってもらいたかったのが僕の願いでもあった。 この試合にはきっとリングサイド席にもう一つの放送席があったに違いない。それは故人となった日本テレビ清水アナウンサー、解説山田隆さんの席である。もう一つの実況中継がきっと行われていたのではないだろうか。 僕はお別れのゴングがなると、馬場さんに問うた。「馬場さん。他からの攻撃をどう受けたらいいのですか?」 テンゴングがなる。「攻撃を受けるのではなく、独自にきり開け」と、ジャイアント馬場が僕の心に呼びかけてきた。 ありがとうジャイアント馬場。 さようならジャイアント馬場―。(おわり) 事実経過に基づいて描いておりますが、ご本人や関係者の名誉のためにも、登場人物のの心理や考えは作者の想像の範囲であることをお断りしておきます。 (イラスト:ジャイアント馬場対大木金太郎戦 当時の週刊ファイトに掲載されました)■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第9回 ジャイアント馬場引退試合僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年11月04日
コメント(2)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~第8回 無事、これ名馬第1041回 2008年10月18日 1991年5月20日、全日本プロレス・スーパーパワーシリーズ福島会場。 体育館の通路で馬場さんは一生懸命にスキップしたり、その場で走るしぐさを繰り返していた。 1990年11月30日 帯広の試合中、リングから落ちた時に左大腿骨亀裂骨折。三か月の入院を余儀なくされた。 50歳を過ぎたジャイアント馬場選手の復帰は誰もが無理だと思った。 その馬場さんが、僕の目の前でピョンピョンと動いているではないか。 とても軽やかだ。大きい体なのに軽やかでしかも動作も早い。 つい最近まで骨折していたとは思われない。事情を知らない人がみたならば、とても骨折をして入院をしていた人だとは考えないだろう。 野球選手の時には「脳腫瘍」で大手術をし、さらには風呂場で転んで「左肘のけが」によりプロ野球投手生命を断念した馬場正平だった。 何度かの危機が「馬場正平」を襲ってきた。 その馬場さんが「ジャイアント馬場」になってからは、「無事、これ名馬」がぴったりの馬場さんだった。 やはり今回もそうだ。 流石、馬場さん! もうじき復活だ。■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第8回 無事、これ名馬僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年10月18日
コメント(2)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~第7回 直訴する少年・未来へ第1040回 2008年10月17日 直訴する少年・未来へ 1998年7月24日、日本武道館で馬場元子さんに直訴する少年がいた。「今中3です。来年中学を卒業したら全日本プロレスに入りたいのです」「高校でアマレスをやってからにしなさい。秋山選手や馳さんもアマレス出身だけど、アマレス出身の人ってみんな頭いいわよ。強くなくてもいいから、巧いレスラーになりなさい。待ってるからね」 元子さんは、笑顔でやさしく諭した。少年は高校進学に少し心が傾いた。「やっぱりアマレスか……」 少年の名はオサム。 僕の長男である。■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第7回 直訴する少年・未来へ僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年10月17日
コメント(1)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~第6回 元子さん第1039回 2008年10月12日 元子さんとの出会い 1995年1月24日、僕と長男オサム、祖母ふみは凍る雪道をそろそろ歩きながら、山形県営体育館に向かう。 この日は全日本プロレス世界タッグ選手権試合だった。 腸閉塞で山形大学付属病院に入院中だったオサムは小学5年生だった。 生まれて間もない時から入退院を繰り返していたので、オサムのプロレス好きは病院でも有名になっていた。 オサムは「生のプロレスがどうしても観たい」と医師に交渉し、夜9時までの外出許可をもらった。気の利いた看護婦さんは、プロレスの割引券を持って来てくれた。 冷え込む外から体育館に入るととうに試合は始まっていた。 会場はリングを除き、照明がおとされていた。 目が慣れるまでには時間は掛からなかった。 会場に入るとすぐにある女性と目があった。 その女性は、会場でパイプ椅子の背凭れに腰を下ろしている客に注意をしていたところだった。 女性は私たちに近づいて来ながら、軽く頭を下げ、親しく微笑む。 僕は、その女性に祖母とオサムを紹介しながら、 オサムが入院中のことや、84歳の祖母が馬場さんのファンであることなどを説明した。「全日本プロレスサービスの社長さんの、○○○○さんです」と祖母とオサムに紹介したが、会場の歓声で祖母にもオサムにも聞こえなかった。「ちょっと待ってね」と言って女性は売店に小走りをして行って、すぐに帰ってきた。そして大きなバッジを祖母に渡した。「早く元気になってね」とオサムに微笑む。 席に向かうとオサムが尋ねた。「今の人、おとうさんの同級生?…」「ジャイアント馬場さんの奥さんだよ」「ええええー、馬場さんの!?」と祖母のふみは驚く。「若いなあ」とオサム。 この日からオサムも祖母もすっかり元子ファンになる。 もちろん僕もである。 僕たちの前列席には、全日本女子プロレスの井上京子選手とその家族がいた。 オサムは午後8時30分ごろ「おとうさん。病院に帰ろう。外出時間を守らないと」言った。 世界タッグの最中である。 大きな会場を僕たちはゆっくり歩いた。リングでの闘いは会場をわかせていた。「馬場さんの奥さんはもういないがなあ?」 祖母が言った。 そして、「もう一回会いたいなあ」 とも。 バッチは祖母からオサムの手に移っていた。オサムはそのバッチを左手に握り締めていた。 オサムも祖母も馬場元子さんと会ったことがとてもうれしかった。 心が暖かくなった。■(イラスト・山形県営体育館での馬場元子さんの横顔)~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第6回 元子さん僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年10月12日
コメント(4)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~第5回 勝手な因縁第1037回 2008年10月4日 祖父長吉の永眠 僕の祖父長吉が最後に観たテレビが、全日本プロレス中継・チャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」だった。「鶴田は将来プロレス界を背負って立つ奴だ」 長吉の最後のメッセージとなった。 そして翌朝容態が悪化して舟山病院へ入院した。 1977年6月19日、祖父長吉が病死する。享年73歳だった。 お棺には発売直後の月刊プロレスを入れる。あのがチャンピオンカーニバル「馬場対鶴田戦」が掲載されていたからだ。 それから全日本旗上げ興行の時もらったカレンダーも入れた。 みちのくはじめとの因縁? 1978年、トーアカマタが国際プロレスから全日本プロレスに移籍した初のシリーズが米沢で行われた。5月13日のことである。 翌日秋田では馬場さんが持つPWFヘビー級タイトルに、いきなりカマタが挑戦する異例のタイトルマッチだ。 カマタの試合を、ドアの向こうから観ている馬場さんが印象的だった。 カマタは巨体に似合わぬドロップキックを放す。会場はウァーと歓喜がおこる。すると馬場さんはドアを閉めた。 ジャイアント馬場は、D・マラビアとシングルマッチで対戦し快勝した。 この時の馬場さんは頭髪を伸ばし、パーマをかけていた。 動きがよくない。会場からは、「社長は疲れているから本気で攻めるなよ~」 と、野次が飛ぶ。 確かにこの時の馬場さんは腰痛がひどい時期だった。秋田では馬場さんは王座をカマタに譲ることになる。 僕もまた、この時ギックリ腰に悩んでいた。「馬場さんと同じだ!」 密かに思った。 また、僕は結膜炎で目医者にもかかっていた。 一方、外人選手の一人マリオ・ミラノが結膜炎にかかっていたため、ジャンボ鶴田をはじめ多くの選手が結膜炎にかかってしまった。「全日本のみんなと同じだ!?」 ふたつの病に僕は何か浅からぬ因縁を感じた。■(イラスト・ジャイアント馬場の横顔)~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第5回 勝手な因縁僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年10月04日
コメント(2)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●第4回 やさしい目 照れ屋の馬場さん第1036回 2008年9月28日 1975年12月14日、オープン選手権米沢大会。超満員だった。マシオ駒さんと再会。会場の米沢市営体育館の中で、マシオ駒さんといろんな話をした。 馬場さんが僕たちの傍をゆっくりと見下ろしながら通る。 駒さんは馬場さんに「オッス!!」と挨拶する。 とても大きい、すごく大きくたくましい。馬場さんの大きさは傍でさらに感じる。 そしてやさしい目が印象的だ。「ところで来年の2月に新日本が武道館大会だそうですよ。どんなビッグマッチなのでしょうね?」 と僕が問うと、マシオさんの表情が厳しくなり、「それ本当!?。うむ、む、む」 と訊きなおしてきた。「週刊ファイトの記事の中で、カールゴッチのコメントにそうありました」 と、言うと、マシオ駒さんは唸り、顔色を変えた。「失礼!」 と言って控え室に消えていった。 翌年早々格闘技世界一戦猪木対ルスカ戦をマスコミが大きく取り扱うことになる。 会場で迷子が出た。メイエベント試合に先だって、迷子がドリー・ファンクJR(元NWAヘビー級世界チャンピオン)に抱かれリングに上がる。 百田光浩リングアナウンサー(力道山の長男)がリングで迷子の親に呼びかける。 この時の入場者数5700人(主催者発表)。全日本プロレス米沢大会最高の入りだった。 試合が終わって、ファンたちはレスラーが体育館をあとにするところを眺めている。「あっ!ジャイアント馬場だ!!」 ファンが握手を求めるとジャイアント馬場は自ら手を隠す。ファンは二度と会場に行かない。晩年の馬場さんでは想像もつかない行為である。 僕はそのファンを慰める。「馬場さんは照れ屋さんだからね」と。しかし、握手を拒否されたファンたちの中で、照れ屋の馬場さんを感じた人はいるだろうか。 誤解を受けたのではないかと心配になった。 この日、ジャイアント馬場は、ザ・デストロイヤーと組み、ドンレオ・ジョナサン、アブドラザブッチャー組と対戦した。 事実経過に基づいて描いておりますが、ご本人や関係者の名誉のためにも、登場人物のの心理や考えは作者の想像の範囲であることをお断りしておきます。 (イラスト:アントニオ猪木)■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第4回 やさしい目 照れ屋の馬場さん僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年09月28日
コメント(6)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●第3回 火事場の力 全日本プロレス福島大会第1035回 2008年9月26日~僕と馬場さんの勝手な連帯~第3回 火事場の力 全日本プロレス福島大会 1974年11月2日ジャイアントシリーズ第二弾福島大会はたいへんな幕開けだった。 11月とはいっても寒さが半端でなかった。風も強い。 試合開始直後に会場の福島体育館向かいにある工業高校から出火。 私たち観客は秋の寒い会場で、震えながら恐怖の火事を見る。 11月では、外はあっという間に暗くなる。そこにあざやかな火の色だ。 あいにくの強風に学校は見る見る火に包まれていく。 大きな火の子が体育館の屋根を超して、陰の民家に降る。屋根に上って火の子を払はらう住人たち。その姿を見ながら、火事の恐ろしさと会場の寒さに震えてしまった。 「あっ馬場だ!!馬場が家財運びを手伝っているぞ」と2階席の誰かが叫ぶ。何と馬場を先頭にレスラーたちは高校や民家の家財運びを手伝っていた。外人選手のブラックジャックマリガンたちもまで。 火事が治まると市議会議長がリングに上がり、感謝の言葉をジャイアント馬場さんに述べる。馬場さんはどうでもいいような顔して、リングの中から上半身をロープにゆだねた。挨拶をしている議長にお尻をむける格好は、いかにも失礼に見えた。 意外な馬場さんを見せ付けられて僕はショックだった。 午後8時半をとうに過ぎてからのゴングだった。 この日は、ジャイアント馬場は、売り出し中のジャンボ鶴田と組み、キラーブルックス、ディックマードック組と対戦した。 この試合も、どの試合も寒さと火事の疲れのせいか、ファイトはいまいちだった。 10時過ぎに試合が終わる。 寒い会場から外に出る。焼けた臭いが漂う。皮肉なことに外は火事の後だけに暖かい。「来年も全日本プロレスをよろしくお願いします」 サムソンクツワダ選手だった。体育館の出口で客の一人ひとりに挨拶をしている。僕が、「クツワダさん。がんばって下さい」 と言うと、両手で握手をしてきた。柔らかい手だった。「ハイ、ハイ……ありがとうございます」 このクツワダさんの挨拶で、馬場さんの市議会議長に対する失礼も、なかみの薄いファイトも許せるような気がした。■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第3回 火事場の力 全日本プロレス福島大会僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年09月26日
コメント(2)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●第2回 創立全日本プロレス米沢大会・天童大会第1033回 2008年9月18日~僕と馬場さんの勝手な連帯~第2回 創立全日本プロレス米沢大会・天童大会僕と馬場さんの勝手な連帯第2回 創立全日本プロレス米沢大会・天童大会 1972年9月ジャイアント馬場と日本テレビは全日本プロレスを旗上げ。同年12月6日、ヘビー級争奪選手権が米沢大会で行われた。 黄金のカードであるジャイアント馬場対アブドラーザブッチャーは日本テレビで録画中継された。 山形県米沢市では日本プロレス以来のプロレス興行に、多くの大人たちは胸とときめかせてこの日を待っていた。 そう、当時はチケットも高く、「背広組」といわれる年齢層の高い男性たちが主な観客だった。 僕は祖父の長吉にチケットを買ってプレゼントした。確かリングサイドA席だったと思う。 祖父は「一緒に行かないか」 と、僕を誘った。 当時、僕は18歳。米沢市選挙管理委員会で臨時職員として働いていた。この年は農業委員会の選挙から衆議院選挙などで毎晩遅く、土日は関係なく働いていたので、生で観たい思いを我慢して働くことにした。 選挙管理委員会のある市役所の真ん前が、プロレス会場の米沢市営体育館だった。 市役所の駐車場は午後からどんどん自動車が増えていく。そして体育館前にはいい大人たちが列を作っていく。 それを市役所の4階の高窓から眺める僕だった。 祖父は僕へのお土産に、会場で買ったパ ンフレットと非売品のカレンダーを持ってきた。「ブッチャーが会場で暴れて、逃げ回る人で試合どころではなかった。テレビの方がよく観られる」 と、どうも不満のようだった。 1975年8月17日第2次サマーアクションシリーズ天童大会を観た。 会場は野外だった。 シートで会場を囲っていた。 デビュー間もない大仁田選に「大仁田さんがんばって」と言うと、パンフレットを売っている田中さんが、「大仁田!お前も有名になったな。よかったな」 と声をかける。 渕選手のスタッフや先輩たちへの気配りが目立った。試合が終わってタクシーに乗る先輩たちと、タクシーの運転手に丁寧に頭を下げる渕選手が印象的だった。 マシオ駒選手に声を掛ける。 駒選手は馬場さんの信頼する人の一人だと聞いていた。 僕はマシオ駒選手のメキシコでの活躍をたたえる。マシオ駒選手は、それを喜んで淡々と話相手になってくれた。僕が猪木の馬場に対する挑戦問題に触れると「うちの社長は大人ですから」と、いったのが印象的だった。 つまり、違う団体同士のトップがそう簡単に闘える訳が無いこと、ライバルのテレビ局が資本参加しているのにどうクリアするのか、売名行為やおもしろおかしくマスコミを通じて中傷するような行為は、いい大人がすることではないと言った。 まだ、二十歳前後の僕に対してここまで話してくれるマシオ駒選手に驚いた。 キングカーチスイヤウケヤやブルラモスが控え室のテントではやさしい顔でニコニコしているのに、それを見つけた僕たちはビックリ。「あんなやさしい笑顔とは……」 僕は見てはいけないものを見てしまった罪悪感を抱いてしまった。 その笑顔の主は、いよいよ出番になるとワーワー吠えて醜い表情をするのには参った。 また、攻撃にも驚いた。 この日の試合は、グレート小鹿、ジャイアント馬場組対ブルラモス、Kイヤウケヤ組のタッグマッチだった。 ジャンボ鶴田や小鹿には手加減するが、ジャイアント馬場には遠慮をしないでガンガン攻撃をかけるのには驚いた。 デストロイヤーの覆面十番勝負に挑む「ブラックデビル」もこの大会に登場したが、来日前のPR写真で見ていたブラックデビルはあんこ型だった。 昨日の土曜日夜8時の「全日本プロレス中継」は生中継だったが、ブラックデビルが事前のPR写真とは別人のように長身で体格が大きい。 なんで急に中身を替えたのかと、ガッカリした。 ジャイアント馬場を攻めるブルラモスを見てて、あのPR写真のあんこ型のブラックデビルにそっくりではないか。 そして覆面から覗く目や鼻の感じが、ブルラモスと同じだと気付いてしまった。 覆面十番勝負のマスクマンには以前もデックマードックが扮したりして、覆面十番勝負のために作られたマスクマンは不評だった。 だから攻撃や体型に特長のあるブルラモスのブラックデビルでは、また正体がバレルからと、急に他の外人選手に変更されたのだろうと想像された。 なんだかプロレスが小さくなっていくようで、僕はとても心配になってくるのだった。 (イラスト:アブドラ・ザ・ブッチャー カラーで描きましたが、原画が行方不明でした)■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第2回 創立全日本プロレス米沢大会・天童大会僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年09月18日
コメント(6)
~僕と馬場さんの勝手な連帯~●第一回 出会い 長井小学校での大会第1032回 2008年9月17日~僕と馬場さんの勝手な連帯~第一回 出会い 長井小学校での大会僕と馬場さんの勝手な連帯第一回 出会い 長井小学校での大会 力道山死後の日本プロレスのエースは豊登だった。ごっついカブトムシのような豊登はどうみてもエースやヒーローにはほど遠い存在だった。そんな昭和39年秋に日本プロレスが初めて置賜にやって来た。 プロレス大好きの祖父長吉は孫の僕(小学校5年生)を連れて、早朝米坂線、長井線と乗り継いで、米沢から長井までやって来た。 お昼ごろ長井に着いた二人は既に心は一つになり、共に口数も少なく緊張していた。親戚の大竹電気に立ち寄り、頼んでおいた前売券を受け取った。とても高い値段の前売券だった。 長井小学校グランドの特設会場にはムシロが敷かれ、選手たちはテントを控え室にしていた。秋晴れの暑い日差しの中で、長吉と僕は対戦カードが載っている大判のパンフレットを見ながら試合開始を待つ。 パンフレットには近日行われる「デストロイヤーシリーズ」(選手のリングネームをシリーズ名にするほど、この頃のデストロイヤーは度肝を抜く凄い悪役レスラーだった。そして凄い人気だった。)の紹介が印象に残っている。 若手レスラーによるバトルロイヤルには、やたら動物の名前を持つレスラーたちが出場していた。 猿吉、鹿、熊などである。 あまり見慣れないバトルロイヤルは爪を立てて相手の背中をかきむしるなど、笑いを誘うことが主で僕はつまらないと思ったが、それでも祖父の長吉はいつものように肩に力を入れて観戦していた。 そんな時、会場の遠くに大きな人が現れた。 立見客の頭がその人の胸までしかなく、誰もが試合よりもそちらに目を向ける。「おじいちゃん。馬場だあ」と、指をさす僕に、長吉は、「馬場だ。アメリカから帰って来たんだ」と言った。 この時が僕と馬場さんとの初めての出会いである。 当時の馬場さんはまだグリーンボーイだが、アメリカでは力道山以上の活躍をしており、少年雑誌などでは次期エースは馬場さんと書くほど注目を浴びていた。 僕の記憶に間違いがなければ、馬場さんはこの当時まだ「ジャイアント」を名乗っていなかったように思う。本名の「馬場正平」だったかもしれない。 馬場さんは両手を組んでリングの試合を熱心に観ていた。 とても凛々しい目をしているのが印象的だった。 確か長井大会での馬場さんは試合をしなかった。 今もこの長井大会の思い出は、数々の試合の思い出ではなく、この大きな馬場さんのことだけが僕の思い出になっている。 事実経過に基づいて描いておりますが、ご本人や関係者の名誉のためにも、登場人物のの心理や考えは作者の想像の範囲であることをお断りしておきます。 (イラスト:ジャイアント馬場対大木金太郎戦 当時の週刊ファイトに掲載されました)■~僕と馬場さんの勝手な連帯~ 第一回 出会い 長井小学校での大会僕の大好きなジャイアント馬場さんの思い出です 「山形マンガ少年」まとめてご覧いただけます。第三部『熱い夏の日』のホームページ第一部「はじめちゃんの東京騒動記」のホームページ第二部「旅立ちの歌」のホームページ
2008年09月16日
コメント(6)
全11件 (11件中 1-11件目)
1