

TODA BUILDINGの建設地には江戸狩野四家の宗家である中橋狩野家の屋敷がありました。浮世絵師歌川広重(1797-1858)が嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごした住居跡も隣にあります。婦人用薬の特効である喜谷実母散の商店発祥の地でありました。江戸城内で御神輿を歴代将軍が上覧され、格式の上で最高の祭りであった山王祭に期限する町神輿は明治になると氏子域内を巡行します。この町神輿を常設展示しました。江戸東京のメインストリートと過言ではない東海道(現中央通り)に面する敷地東側に縦断する南北に通じる道を「文化歴史の道」と称しました。


中橋狩野家屋敷跡
江戸時代初期、この地は入堀でした。入堀は17世紀中ごろまでには埋め立てられ、大鋸町という町人地になりました。大鋸町には幕府奥絵師(御用絵師)である江戸狩野四家の宗家である中橋狩野家の屋敷があり、幕末まで続きました。ほかの三家は、鍛冶橋狩野、木挽町狩野、浜町狩野です。中橋狩野家の初代は永徳の孫の安信で、江戸時代初期、京都にいたところ江戸に呼ばれて宗家を継ぎ、中橋狩野家を興しました。一族で有名な探幽は、安信の兄にあたります。探幽は鍛冶橋狩野家を興しました。
また、この地では平成28年(2016)から令和2年(2020)にかけて京橋一丁目遺跡の発掘調査が行われ、狩野家の屋敷跡が発見されました。
屋敷には池があり、その中からは多くの絵の具を溶かす用途とみられる皿(パレット)が出土しました。小皿の中には、赤や黒、緑色の顔料などがわずかに残っていたものも見つかり、実際にこの地で絵が描かれていたことがわかりました。
江戸時代の絵師の屋敷跡が発掘調査されたのは区内でははじめてのことで、全国的にも珍しい事例です。
協力:中央区教育委員会



歌川広重住居跡
浮世絵師の歌川広重(1797-1858)が嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年を過ごした住居跡です。広重は幕府の定火消同心の安藤源右衛門の長男として、八代州河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。13歳の時に父母を失い、父と同じく定火消同心になりましたが、文化8年(1811)15歳の時に歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
霊岸島も保永堂から出した「東海道五拾三次」以来、風景画家として有名になり、江戸についても「東都名所」「江戸近郊八景之内」などを残しました。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地での代表作です。住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家の屋敷の隣にあり、2階建ての独立家屋だったといいます。
協力:中央区教育委員会



婦人薬「實母散(じつぼさん)」発祥の地
(中央区京橋一丁目9番地あたり)
實母散じつぼさんとは江戸時代から続く婦人用薬で、産前産後の血の道の妙薬と言われ、江戸楓もみじ河岸(後の中橋大鋸町〜現在の中央区京橋一丁目9番地辺り)の喜谷きたに市郎右衛門本舗を本家として全国に流布しました。
「喜谷實母散」の創業は正徳3年(1713年) と言われており、その事情は当時の江戸南町奉行根岸鎮衛ねぎししずもりが著した『耳袋』に詳しく記述されております。
◆創業秘話~燐家の産婦を救った實母散
近江の国より江戸に出て、楓河岸で薪炭業を営んでいた喜谷家の太祖喜谷藤兵衛光長の養嗣となった喜谷市郎右衛門養益は家業を継ぎ、薪炭業を営んでおりましたが、たまたま実弟が紹介してきた長崎の医師某が江戸での要件が長引き困っているのを憐み、自家に引き取り、3年余り懇切に世話をしました。
そのようなある時、隣家の娘が産気づき、殊の外の難産となり、その両親が市郎右衛門に救いを求めに来ました。この窮状を聞き及んだ医師某は、隣家の産婦を診断の上、例え効果が現れずとも恨まないことを条件に一服の薬を与えたところ、間もなくして妊婦の苦しみが去り、お産を終えることができました。死産ではありましたが、母親は無事でありました。
諸医に見放された隣家の産婦を救った医師の薬の処方は市郎右衛門を驚嘆させました。医師は3年ほど世話になって長崎に引き揚げることになりましたが、市郎右衛門の要請に応え、且つ優遇の厚誼に報いるために、医師某も喜んでその秘伝の処方の詳細を市郎右衛門に与えました。
かくして、隣家の難産の婦人の起死回生を助けた妙薬の話は周囲に伝わり、江戸市内はもとより、四方八方から人を介して求めに来るものは多く、その妙薬があたかも慈母の赤子における如きをもって「實母散」と命名して、広く世間に発売することとなりました。それは正徳3年 (1713年) のことでありました。
平成25年(2013年)
~創業300周年を記念して建立~
喜谷市郎右衛門本家

京橋一丁目町会の御神輿
この御神輿は戦後の昭和二十六年に町内の活気を取り戻そうと、京橋一丁目東町会と西町会がひとつとなり、行徳関ヶ島の御輿師である後藤直光氏制作してもらったものです。
制作から70年たった令和四年、行徳の中台製作所にて大改修を行っていただきました。台輪(担ぎ棒が通っている土台部分)は二尺三寸ですが、厚みのある木、鋳物製の鳳凰などにより、見た目より重量のある神輿になっています。
この神輿の特徴は、こんもりとした屋根に延屋根の反りなどバランスのとれた美しさにあります。また側面の彫刻は、技工をより際立たせるためあえて色を付けない「白木」であり、裏側も彫ることで遠近感を出している「厚み(立体感)」が大きな特徴です。また、台輪の四方に施された四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻や、鳳凰の表情にも注目してもらえればと思います。
京橋一丁目町会
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