MM2022のブログ

PR

×

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2026.05.05
XML
カテゴリ: 遠州報徳
「森町史」通史編下巻(59~75頁)   第三節 報徳運動の形成と発展安居院兄弟の来遠 1852年(嘉永5)、初老の男が周智郡森町村を訪れた。この人物は安居院(森町史では「あぐい」とルビ)庄七。森町村の新村里助(しんむらりすけ)中村常蔵に招かれ来村したのである。安居院庄七の名は、そのころ近在で少し有名になっていた。「報徳」の「先生」としてである。「報徳」とは、幕末主に北関東において荒廃した村の立て直しを行った二宮尊徳の実践方法や思想をいう。庄七は、その「報徳」を伝える「先生」であった。安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村の修験道の家に生れた。長じて穀物商を営む同郡曽屋村十日市場の安居院家に婿入りし、家を継いだ。庄七には「常に一獲千金を夢みる山家」があり、米相場に手を出した。結果、養家の財産を使い果たしてしまった。そのような時、二宮尊徳なる人物が低利で金を貸し付けるという話を聞きつけ、下野国桜町陣屋の尊徳に会いにいった。1842年(天保13)7月のことであった。ところが多忙をきわめていた尊徳は、門前払いもしない代わりに会ってもくれない。3週間以上滞在したが、尊徳に会うことなくとうとう辞去した。庄七は、金を借りることはできなかったが、しかし風呂たきなどをする中で、尊徳の話を漏れ聞き、自らの生活を深く恥じ、報徳に開眼した。自宅に帰った庄七は、玄米を仕入れ、それをついて白米にし、その白米を仕入れ値で売った。俵、もみがら、小米だけが純益の「元値商」を行ったのである。その後、庄七は弟浅田勇次郎と共に上方にいき、伊勢講のひとつ太々万人講の講元杉浦作兵衛について学び、やがて勧誘に各地を回るようになった。安居院兄弟が遠江国に来たのも万人講勧誘のためだったのである。 最初に遠州に足を踏み入れたのは、弟浅田勇次郎であった。1846年(弘化3)11月、勇次郎は長上郡下石田村(現浜松市)に敬神家の神谷与平治を訪ねた。与平治は、万人講の勧誘にすぐ応じ、雑談の中で尊徳の荒廃村や家政の立て直しを行う話を行う話を聞いた。翌4年に入ると、庄七が同家を訪ね、数日滞在して立て直しの方法や関西で知り得た進んだ農業技術などを伝えた。与平治を含め村民一同はこの説に深く感銘し、同年3月には上石田報徳連中(社)が結成された。 掛川藩の大庄屋で、後に遠江国報徳社の初代社長を務める佐野郡倉真村(現掛川市)の岡田佐平治も下石田の話を伝え聞き、安居院兄弟に会い、報徳の良法を知り、同年12月には牛岡組報徳社を設立した。1849年(嘉永2)には勇次郎の教えを受けて引佐郡気賀宿に気賀社が設立され、さらに1851年には、周智郡片瀬村に片瀬報徳社ができ、ついで同郡平田村にも平田社が設立された。この翌年2月に、庄七は森町村に招かれるが、報徳先生としての評判を、新村里助や中村常蔵は聞いていたのである(鷲山恭平「報徳開拓社安居院義道」) 安居院庄七と農業技術





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.05.05 16:33:54


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: