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188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。6 二宮翁高慶の慢心を挫く富田高慶は多病の人であったが、ある時、先生に言うに「私も長くあなたに随身して世の中のためを図ろうと心がけ、多少国家に対しても貢献したように思いますが、天は何ゆえにかくも私を多病ならしむるのでありましょうか?」といって自分の病身について、天を怨むような言葉を漏らした。すると二宮先生は「お前、よく考えて見るがよかろう。鼠は戸棚をかじり天井に穴をあけ、日用の器具などに歯形を当てつつ、夜を徹して働いている。人間から見れば、誠に迷惑で厄介なるものだ。お前は善い事をしたかも知らないが、天から見る時には、あるいは夜を徹して働いて、人間社会に害をなす鼠のようであるのかもしれない」といって風刺されたので、高慶も急所をつかれて大いに参ったという話がある。☆私は幼少の時から国家(相馬藩:福島県相馬市)の衰廃を憂いて、17歳の時、遙かに家を出て、江戸に来て、儒学者の下男となり、家からは一切援助を受けず、下男として働きながら、あるいは書を書き写すなどをした。湯島の聖堂に入って学問することすでに十年過ぎたが、国の衰廃を復興する方法がないのに苦悶していた。ある時、「野州(栃木県)桜町に二宮先生という人がいる。小田原の大久保侯の末葉である宇津家の領村4000石の復興に従事して成果を挙げている」と聞いた。私は大いに感嘆し、数千巻の書を投げ捨てて、すぐに野州に赴いて、先生に面会を求めた。先生はこうおっしゃった。「それ儒学に在る者は、たとえば漆をもって塗り固めたようなもので、それにいくら水をそそいでも何にもならない。どんなに言い聞かせても、一向に受け取ることがない者だ。そのような者に面会しても仕方がない。」と会ってくださらない。私はもとから先生が容易に一面会すら許してくださらないだろうと思っていた、それこそが自分が慕うゆえんだと言って、隣村のある者の家に宿をとった。そして時々面会に行った。しかしやはり面会を許してくださらない。すでに季節は春から秋へと移った。ある時先生が門下の者に問われた。「あの儒学者は帰ったか?」門人は答えた。「今も依然として動く様子がありません。」先生は「それほどの大丈夫であれば、面会を許そう。早く連れて参れ。」と門下の者におっしゃった。私はここに始めて志を達して先生の下で学ぶことができたのだ。(「富田翁談話傍聴筆記」より)
2026.05.06
「森町史」通史編下巻(59~75頁) 第三節 報徳運動の形成と発展安居院兄弟の来遠 1852年(嘉永5)、初老の男が周智郡森町村を訪れた。この人物は安居院(森町史では「あぐい」とルビ)庄七。森町村の新村里助(しんむらりすけ)中村常蔵に招かれ来村したのである。安居院庄七の名は、そのころ近在で少し有名になっていた。「報徳」の「先生」としてである。「報徳」とは、幕末主に北関東において荒廃した村の立て直しを行った二宮尊徳の実践方法や思想をいう。庄七は、その「報徳」を伝える「先生」であった。安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村の修験道の家に生れた。長じて穀物商を営む同郡曽屋村十日市場の安居院家に婿入りし、家を継いだ。庄七には「常に一獲千金を夢みる山家」があり、米相場に手を出した。結果、養家の財産を使い果たしてしまった。そのような時、二宮尊徳なる人物が低利で金を貸し付けるという話を聞きつけ、下野国桜町陣屋の尊徳に会いにいった。1842年(天保13)7月のことであった。ところが多忙をきわめていた尊徳は、門前払いもしない代わりに会ってもくれない。3週間以上滞在したが、尊徳に会うことなくとうとう辞去した。庄七は、金を借りることはできなかったが、しかし風呂たきなどをする中で、尊徳の話を漏れ聞き、自らの生活を深く恥じ、報徳に開眼した。自宅に帰った庄七は、玄米を仕入れ、それをついて白米にし、その白米を仕入れ値で売った。俵、もみがら、小米だけが純益の「元値商」を行ったのである。その後、庄七は弟浅田勇次郎と共に上方にいき、伊勢講のひとつ太々万人講の講元杉浦作兵衛について学び、やがて勧誘に各地を回るようになった。安居院兄弟が遠江国に来たのも万人講勧誘のためだったのである。 最初に遠州に足を踏み入れたのは、弟浅田勇次郎であった。1846年(弘化3)11月、勇次郎は長上郡下石田村(現浜松市)に敬神家の神谷与平治を訪ねた。与平治は、万人講の勧誘にすぐ応じ、雑談の中で尊徳の荒廃村や家政の立て直しを行う話を行う話を聞いた。翌4年に入ると、庄七が同家を訪ね、数日滞在して立て直しの方法や関西で知り得た進んだ農業技術などを伝えた。与平治を含め村民一同はこの説に深く感銘し、同年3月には上石田報徳連中(社)が結成された。 掛川藩の大庄屋で、後に遠江国報徳社の初代社長を務める佐野郡倉真村(現掛川市)の岡田佐平治も下石田の話を伝え聞き、安居院兄弟に会い、報徳の良法を知り、同年12月には牛岡組報徳社を設立した。1849年(嘉永2)には勇次郎の教えを受けて引佐郡気賀宿に気賀社が設立され、さらに1851年には、周智郡片瀬村に片瀬報徳社ができ、ついで同郡平田村にも平田社が設立された。この翌年2月に、庄七は森町村に招かれるが、報徳先生としての評判を、新村里助や中村常蔵は聞いていたのである(鷲山恭平「報徳開拓社安居院義道」)安居院庄七と農業技術 新村里助(しんむらりすけ)は、山中勘左衛門(豊平)の子で、1851年(嘉永4)森町内の廃家新村家を継ぎ、負債74両も引き請けて、細々と家業の古着屋を営んでいた。里助は、衰家を興し貧村を立て直すという江戸で評判の「報徳先生」二宮尊徳の話を聞き、同じく貧しかった中村常蔵といつか会いにいこうと約束していたが、旅費が工面できず果たせずにいた。そんな時、常蔵が佐野郡で「報徳安民」の方法を行っている者の噂を聞きつけてきた。里助は大いに喜び、直ちに一緒に山名郡不入斗(ふにゅうと)村(現袋井市)庄右衛門方にいた「報徳先生」に会いにいった。この「報徳先生」が安居院庄七で、庄七が語る報徳の理念や方法に感銘した里助らは、庄七を森町村の里助の家に招き詳しく教えを乞うことにしたのである。 森町村に入った安居院庄七は、新村里助家に滞在したが、滞在中激症の間欠熱(おこり)にかかってしまった。庄七は数百日病床にあったが、里助らにとっては庄七から報徳を学ぶ絶好の機会であった。里助らは、看病をしながら庄七が持っていた尊徳の教書を筆写したり、その説話を筆記したりして報徳の理解を深めたといわれる(静岡県「静岡県報徳社事績」)。 現在、森町内にある社団法人報本社(1895年(明治28)設立)には581点に及ぶ報徳関係資料が保管されている。ここには、報本社やその所属報徳社の関係資料のほかに新村里助の手によると思われる仕法書や報徳関係書の写本も多数含まれている。こうした写本の多くは、庄七病気滞在中に筆写されたものではないかと思われる。写本中には、庄七の著作もあった。庄七の著作には「報徳作大益細伝記」「報徳勤行歌」「莫忘想」「人間算当勘定」「算法地方大成全」「万作徳用鏡」「極難取続安楽鑑」などがある。このうち「報徳作大益細伝記」と「極難続安楽鑑」の写本が報本社に残されている。 二宮尊徳は、借金の返済方法として、最低限必要な支出の限度額を定めさせ(分度)、倹約してそれ以上に生じた余剰分を返済に充てたり、貯蓄させたり(推譲)した。尊徳は、基本的にこの方法をこの方法を個人、村、藩、幕領のレベルで実施し、成果を上げた。個人が集い社を結ぶ方法、すなわち報徳社を組織する方法は、尊徳の中でなかったわけではないが少なかった。これに対し庄七がとった方法は、報徳社を組織する方法である。これは藩や幕府の権力を背景とした尊徳と一個人あるいは敬神家に過ぎなかった庄七の立場性からきているといえるかもしれない。 森町報徳社は、こうした庄七の指導により組織されたのであり、明治に至り、報徳運動の拠点は、栃木でも神奈川でもなく静岡県がなっていったが、それは報徳社が簇生(そうせい)されるかたちで展開したのであって、その出発点に庄七がいた。この庄七の報徳の特徴は、結社ということのほかに、上方の進んだ農業技術を合わせ伝えたということにある。庄七は遠州に足を踏み入れる前は上方にいた。敬神家として活躍する一方、京都や奈良、大阪など上方筋の進んだ農業技術を見聞した。ここでも見聞をもとに自らの考察を加え伝えたのである。この農業技術は、遠州の農民に大きな影響を与え、報徳運動が遠州で発展するひとつの大きな要因になったと思われる。報本社に所蔵されている「報徳作大益細伝記」は、報徳理解の上に立って庄七の理想とする農業や農民のあり方が語られていると共に、庄七が会得した農業技術の集大成が記されている。「報徳作大益細伝記」により、庄七の農業技術の特徴を挙げると、正条植、苗代の薄まき、株まき、客土・土肥などである。正条植とは、苗の植え付け方のことで、東西南北に正確に一尺五寸(約45.5センチ)の株間をとって植え付ける方法である。施肥が均一にできることや通風や日光の便、除草の便などの効果があるが、水田に一定の形がなかった当時にあっては新奇であった。新村里助も「縄張定木を用ひ方向を正し東西南北縦横一直に 挿することを始め衆に先ちて之を実行したり」(静岡県報徳社事蹟)といわれる。報徳社が発展した遠州では、比較的早くから普及したが、全国的に奨励されたのは1900年(明治33)前後である。正条植は「報徳植」ともよばれたように、報徳社の勧める植え方となっていった。苗代の薄蒔きとは、苗代への播種数を少なくすることである。薄まきは健苗を生み、多収につながるといわれる。明治はじめの中遠地方の播種量は反当たり4升、苗代1坪当たり1升であったが、庄七は反当たり2升から1升5合、1坪当たり2合5勺、2合、1合8勺まくのがよいとした。株まきとは直まき栽培のことである。客土とは性質の異なった土壌を加えることである。客土では、庄七は「和らき田」に山の荒れ地を持ち込むことや畑の土と田の土を入れ替えること、土肥(つちごえ)を入れることなどを勧めた。土肥はごみを入れてつくられたが、こうした客土は、1885年(明治18)前後佐野郡倉真村、山名郡浅羽村、城東郡入山瀬村など各地で実施された(「日本農業全集」63巻)。以上のような庄七の報徳の方法や農業技術を、庄七の病気滞在中に里助らは学んだと思われる。
2026.05.05
13クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)読者はこの演説筆記を頭を痛めて読んだことであろう。そして少しは了解出来るのに驚いたことであろう。記者〔カーライル〕もまたやっとでこれを読んで、かかる演説筆記が世に認められないので、無意味として埋もれていたのに驚いた。クロムウェルは予備などをしないで、思想を発するままに即席の演説をする人であった故、思想は心にも溢れても言辞はすこぶる蕪雑なものであった。そして後には自分でも記憶しておらぬのだ。しかし聴衆にはよく解ったのである。これを不可解だと罵るのは、人間が段々愚かになってくる次代以後の事である。聴衆によく解ったというのは表情や語調の助けによるのだがー元来かかる演説がわかるには、少しは演説者の精神をも知らねば、大確信を焔と吐く人の演説の解らぬというのは、その人が不透明な人であるからである。例の文士がこの演説を批評した語を引用してみよう〔訳者注、実はカーライル自身の批評である〕。「訳の解った読者はこの演説を解し得るであろう。一生懸命にこれを解読する人は、これが解し得べく信じ得べき者となって、真実、深刻、豪気の閃華を発するであろう。オリバーの演説は彼の精神の著しく発せられたものである、-これぞ全ての言説の根本義ではないか、オリバーを訥弁家と呼ばんか、彼こそ真正なる雄弁家ではないか。『雄弁術とよ、雄弁術とよ、雄弁術とはある事を正直に語ることである。然るにこの外に雄弁の方法をかれこれ言うがごときは、誤れるの甚だしきものである。やれ立派な演説をしたとか、立派な本を書いたとかー愚や極まっている。むしろ沈黙して事を実行するにしかず。真実を行う人のみ、他人より謹聴せらるる資格を有するのである。『世に虚偽の弁ほど悪しきものはない、人間という者は、ノブリスの言うたように言語の権化であって、ただしゃべるために生れたもので、外に目的はないのであろうか。二本脚の雄弁術のバケモノなどは実に恐ろしい。自分は雄弁術を知らぬオリバーを好む。』 書翰第190、191〔訳者曰く、共に些細のもの故省く〕。さて再び小議会の事に戻ろう。この議会は極めて熱心に5ヶ月以上もその目的の実現を計ったのであるが、努力すればするほど反対の声が盛んに起こり、思慮ある人々はこの遣り方では成功覚束なしとなした。この議会の歴史は埋もれてよくわからぬが、5ヶ月間に種々の善法案を生み、新参議院を造り、必要なる支出を可決し、その他平生の常務を果した。(この参議院の議員31人の中、16人はオリバーの臨時に設けた旧参議院議員にして、15人は新しい人であった。この31人は議会の公選によりて参議院議員となったのである)。しかし急激にしてあまりに理想を主としたこの小議会の措置には、反対の声ゴウゴウとして起こり、議会はある問題について10日間も大討議をした後、12月12日遂に、「この議会の存在は共和国の利とならざるにより、クロムウェルより託せられたる施政権を彼に返納すべき事」を決議して、一切の政務をクロムウェルに託して、議員は皆帰郷して再びもとの私人に還った。 クロムウェルは大いに驚いた。これには彼自身がイングランド国に対し、また天に対して責任がある、事はやや重大である。彼も参議院も、将校会議も十分善後策を講じねばならぬ。もう、この混乱を鎮めこの紛糾をひらくべき一人の主権者を置くより外に道のないことは、彼らに解った(われわれにも解る)、これを王と呼ばうが、最大有能者と呼ぼうが、保安者と呼ぼうが、とにその誰であるが、最大有能者と呼ぼうが、保安官と呼ぼうが、とにかくその誰であるかは既に明らかである。まだピューリタニズムは生きている。この人がたてば事はなお進もう。議会解散後、国内の興奮は大なるものであったろう。クロムウェルは将校会議を招き、各地の中心人物をこれに加えて、祈祷の数を重ねて相談した。その協議の模様は今日少しも解らぬが結果だけは明らかである、12月16日この結果は世界に知れた。イングランド人の最有力者オリバー・クロムウェルは以後治政の頭首たるべく、その役名を「イングランド・スコットランド・アイルランド共和国守護官」(Lord Protecter of the Commonwealth of England,Scotlando and Ireland)と称し、外に政府、参議院等の政務機関あるべしと。時にクロムウェルは55歳、身長は5フィート10インチ、頑丈なる体格にして威厳あり。様子は半ば軍人式、その容貌は勇気と信仰にみち精力と誠直を語る、高貴なる英雄的容貌である。 さて第7篇はここに終る。これから彼の守護官時代の事蹟を、幸いになお残れる材料によりてうかがってみよう。 中巻 終り
2026.05.05
13クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (2)演説第1140人の中、2人を除くの外は皆招集に応じて来た。皆立派な人々であった。誠実にして神を畏るるの人々で、訳の解らぬ人々は一人もおらなかった。これを小議会(The Little Parliment)といい、7月4日に開会した。この議会の歴史はのこっておらず、彼らのなした事及び為さんとしたことは到底わからぬ。ただし、下に掲げるオリバーの演説は当時の事情を知るべき一閃光である。2世紀後の今日、この末世においてこれを読んでことごとく了解することは難い。しかし忠実にこれに傾聴したならば少しは解る事もあろう。暗中に葬られおりし当時の事の中、その2、3を知り得るであろう。また小議会というものの性質も少しは明らかになるであろう。 紳士諸君、諸君を議員として招集いたしました理由は既に明瞭であろうと思います。国難の初めより神の為したまいし重ね重ねの有難き摂理の次第を、少々申し上げとうございます。諸君も短期議会以前よりの内憂については、よくご承知の事でくわしく申し上ぐるに及びませんが、神は軍事に経験なき少数者に力を賜いて、これを戦場の勇者となして、絶大の勝利をえせしめました。しかもこれただ信仰によりて終始する覚悟をいたしただけのことでありますのに、神はそのすべての企画を、手段方法の拙劣なるにも係らず、成功せしめたまいました。軍隊が大なる成功を得しほかにも、種々の大事件が起こりました。悪逆者-ことにその首魁-に正当の罰が与えられました。この国はともかくも共和国の名を得ました。官制改革が行われまして、上院は廃せられました。国民の代表たる下院も、議員は精選変更を経て少数となりました。神はこれにて休みたまわず、共和政の最初に起こりました種々の騒擾、陰謀、反乱等の鎮定せられたのは、偏にその御力によったのであります。実に忘るべからざる御恩恵であります。アイルランド・スコットランドの反抗も、ウースターの大恩恵をもって終に終息いたしました。以上の御恩恵の次第を詳細にお話しする時間のないのは残念に思うところでございます。以上はただただその概要でありまして、その一歩一歩の進行に摂理のあとを見ざるは一つもござりません。我ら各自が感謝と信頼とに充たされんがために、くわしく申し上げたいのでありますが、それが出来ないのは誠に残念でございます。 われわれがウースター戦勝より帰りました時には、かくまで神の援助の歴史を有することである故、その御恩恵の空しくならざらんことを望みまして、この大恩恵は政治にたずさわる人々をも動かして、神を有する政府として恥ずかしからぬ立派な施政に出でしむることであろうと予期いたしました。私は彼ら為政者の為した事柄をくわしく申しあぐるに堪えませんが、ここに我らの非常手段に出づるのやむなきに至った理由だけを開陳いたそうと思います。我ら戦争に従いし者が凱旋致しました時には、我らは国民が血を流し財を費やしただけの十分の酬にあずかることを熱望し、それがための必要なる方法手段を見出さんことを願いました。我らは温順の態度をとって議員にこれらの件について請願し、我らのうち議席をもっておる者もあり、議員と知己の者もあること故、議会を動かして事に当らしめんと種々画策努力いたしました。ところが議会はこれに対して極めて冷淡でありました。然るに国民は皆不満を抱いて、約束した事柄の速やかに実行せられんことを我らに迫り、我らも誠直をもって終始せんには、ぜひこれを実現しなければならないことを知っておりました。それ故我らは議員とたびたび相談会を開きまして、我らの忠実と誠直とを尽して、彼らが神と人民とに対する責務を立派に果さんことを望みました。我らはこのことを懇望し懇願したのでございます。しかし効果は少しもなかったのでございます。それ故、われわれは何か外に良法はなきものかと一心に考え始めました。その時議員諸君は新議会の制成法を討究して、表面は新たに議員を選挙するように見せて、実は自分等が長く議員の席を保とうと計りました。我らはこれに断乎として反対いたしました。かくの如くにして、我らの努力も主義もことごとく空に帰して、ピューリタンの精神が一も実行せられぬ事となりては、この上もなく遺憾であります。それ故われらは、議会のこの行動をその進行するにままにまかせてわれわの獲得したる自由を再び敵人(王党)のために失うような事をしまいと決心いたしました。我らは自由と権利を明白なる神と人民との敵にわたすわけに忍びません。かつ天道のまさに地におちんとするを黙視するあたわずして、われらは遂にわれらに臨む責務を自覚するに至りました。暴圧的態度は我らの悪虐なる戦闘よりもなお悪しと思うところであります故、我らは議員の勇退せんことを穏やかに願ったのでございます。我らは彼ら以外の人に国事を託するより外にこの危急を脱する道はないと考え、これについての我らの責務を自覚いたしました。いろいろ申し上げればきりがありませんが、とにかく議会が既に長期を経まして、かつ一旦解散を約束したのに、今日名を新議会制成に借りて事実非解散にしようというのは、大なる背信的行為であると我らは思いました。われらが議員のおもなる者と開いた最後の相談会の席上において、我らが懇談に対して、彼らは「この議会を継続する外に国民の利になる方法なし」とのその希望を開陳しました。これに対して我らは、議員に選ばれし人の誰々であるかを知らぬうちは、新議会法案を定むるわけには行くまいと答え、新議員のまかに長老派を含むや否やを尋ね、かつこの主義を中途にして離れたものを議員たらしむべからずと思い切って申しました。我らは我が党を離れたる人々や中立者の手に国事をまかせることを好みませんでした。もちろん他派の兄弟たりとも我らはこれを愛します。さりながらこれを枢要の地にすえて他の人民をことごとくその支配下に置くというのは、おのずから別事であります。紳士諸君、我々は右のことを述べて議員の反省を促しましたが、彼らは「この議会を継続さするより外に道なし」と答うるのみであります。かくてははてしなきと存じました故、我らは更に一の案を提出いたしました。それは外患内憂こもごも至るの今日、応急の措置は極めて必要である故、議会が自己の政権をある少数の立派な人物にわたしてはいかにとの勧誘でありました。我らはキリストの道のための深き慮りよりこの提言をなしたつもりでありますが、彼らは依然として「今の議会の継続」を叫ぶのみでありました。私たちはまじめに再考せんことを彼らに求めました。彼らはともかくも明日まで熟考する由を答えて去りました。さる時に2、3の領袖は、再び我らと会合するまではこの新議会法案の進行等を為さずと約束しました。このような次第でございまして、我らはあるいは明日意見の一致を見るを得べきかと、心ひそかに喜んでおりました。翌朝我らが集っておりましたところへ、議会は新議会法案を大急ぎにて審議中なりとの報知が来ました。我らはいやしくも一国の選良たるものがかかる背信の行為に出ずることを信ずるあたわずして、3、4回目の報告が来るまでこれを虚報と思いました。しかし遂にそれが事実とわかりました。かくして国民の自由が、自由のために戦わざりし者の手に落つることをわれわれは恐れました。もはや黙過すべきにあらずと我らは決心して、ここに議会は解散せられたのであります。長々と申し上げましたが、我々は諸君に前議会解散の主義維持の上に必要やむべからざりしことをお伝えいたしたいのであります。議会解散の結果として、信仰深くしてこの主義を託するに足るところの諸君を、新議員としてお招きするという非常手段に出でたのでございます。 なお少しく申し上げたいことがあります。われわれは右のごとき世の常ならぬ行為をいたしましたが、我々は政権を軍隊に収めようという考えでなしたのではなく、神もし許したまわば国内各地方より集めし適当なる人々にこれをわたそうという単一純正の精神をもってこれを為したのであります。かかる精神よりして諸君にご迷惑を願ったのでありまして、諸君に国家の大事を御託し申すについて、徳義上われわれより少しく申し上げる次第でございます。諸君が国政に当らるることとなったのは大能の不可思議なる摂理によることと私は思います。国に政治なかるべからざる以上、しかしてこの政治を悪人の手に渡すべからざる以上、必然の道としてまた御摂理として、弱き我らの手を通して、これが諸君に臨んだのであります。弱き手たる我らが諸君の責務について一言申し上げまするのを、あしからずお聴きくださらんことをお願いいたします。なにとぞ諸君の僕たる我らが僕たる職務を尽くしまするのを、御許容あらんことを切望いたします。長くは申しあげませんが、私の深く感じている聖語を申し上げたいのであります。ホゼア書11章12節に「エフライムはいつわりをもって、イスラエルの家はたばかりをもって我を囲めり。ユダは神と信ある聖徒とにつきし」とあります。われらイングランド国民はただ感謝会や断食をもって神を囲んでおりましたが、それは何もなりません。われらは神と聖徒とに従うユダたるべきではありませんか。諸君は諸君をこの地位に招きし聖徒(信者)に忠信をもって対すべきではありませんか。またサムエル後書23章3節に「人を治むる者は神を畏れて正しからざるべからず」とございます。諸君に忠言を呈するよりは、諸君が愛憐真実をもって治め得るよう祈りましょう。祈りて諸君のために天よりの智慧を求めましょう。これ今日幾万の聖徒の為しているところです。しかしなお私は次の聖語を思い出します。「上よりの智慧は第一に潔く、次に平和、寛容、柔順、かつ憐れみと善き実みち、人を偏り見ずまた偽りなきものなり。」(ヤコブ書3章17節)というのでございます。私は「上よりの智慧」を仰いで真実なる判断の行われることを切望してやみません。「真実の判断」は諸君にも信者にも不信者にも同様に公正ならんことを教えます。これ我らの義務であります。私は時々申したことがあります。不信者よりは信者に対しては少しは不親切をなしてもよろしいと。とにかく両者に対して善をなさねばなりません。モーセやパウロの精神が諸君の精神たらんことを私は祈ってやみません。モーセは死をもって民衆の罪の赦免を祈り(出エジプト記第32章32節)、パウ同胞のためにはほろびをも厭いませんでした(ローマ書9章3節)、実に彼らは深き愛の人でありました。次に諸君の聖徒に対して忠信ならんことを望みます。われらすべての聖徒に対して尊重愛敬を持つべきであります。長老派の聖徒に対しても愛を抱かずしては、聖徒に忠信なりとはいい得ません。私は征戦中などにたびたびイザヤ書第41章を読みましたが、「われ荒野に香柏、ねむの木、もちの木及び油の木を植え、砂漠に松、杉及びツゲを共に置かん」とエホバは申されました。その目的は「彼らこれを見てエホバの手のなしたまうところなるを知」らんがためであります。神はわが国にたびたびの大救済を賜いましたが、その目的は全群のために神がこれをなしたまいしことを人々の知らんがためであります。されば諸君が全群の世話をせられんことを望みます(言う必要はないでしょうが、)もし最もつまらなきキリスト信者、最も誤れるキリスト信者なりとも、諸君のもとに平和に住まんと願うならば、これを保護すべきであると思います。福音の伝播及び伝道者の奨励について十分努力せられんことを願います。パウロはローマ書の11章までにおいて、神の救済、福音の根底等について説明せし後、「その身を神の意に適うきよき活ける供え物として神に捧げよ」と勧めております。そしてたかぶらずして各人の与えられた賜物(能力)を用いんことを勧めています。私は伝道者の心霊的に事に当たらんことを望んでやまぬものであります。なお一言だけ申し上げとうございます。実に今日のごとき日はありません。今日諸君を招くに当たってキリストは告白せられ、また招かれし諸君もキリストを告白す。実に「キリストの力の日」であります。「汝の勢いの日に汝の民は聖なる美わしき衣をつけ、心より喜びて己をささげん」(詩篇150篇3節)とあります。神は多くの血と困難との後、この大恩恵をわれらに与えたまう。実に私はかかる幸福の日に逢おうとは予期しませんでした。決して予期しませんでした。諸君各自は別々の地より来りてお互いを知りますまいが、我々はキリストを信じ、人民を愛する人の外は推挙しなかったことをここに申し上げます。イザヤ書43章21節に「この民はわが誉れを述べしめんとて、我れ己れのために造れるなり」とあります。諸君は実にこれに該当しているのではありませんか。実に諸君は神が「己れのために造れる」ものであります。諸君の自己の意志によらず、招かれてここに来たのでありますが、この主権を握る一団の出来るまでの種々の努力流血を思いめぐらし、かつこの一団の急きょとして出現するようになったことを考えますれば、私は諸君がたしかに大能者に招かれてここに至ったのであることを信ぜざるを得ません。実にキリストを告白するかかる一団の主権に立ったことはいまだかつてありません。国民の公選による代議制度は私の最も願うところ、いつかは国民がこれにたえる程の立派な民となれるでありましょう。すべてが主の民となりて、すべてがキリストを告白するうちに至らんことは私の切願であります。かくして彼らは初めて自由の民となれるのであります。神を畏るる人々が彼らを奴隷状態より救い出したのであって、同じく神を畏るる人々が今日彼らを治めつつあることを彼らに知らせていただきたいものでございます。-脇道に入りましたが、諸君の招かれたるや実に不可思議であって、たしかに諸君は高き使命をもって神に招かれたのであります。これまさに大事を始むべきときではありませんか。神は今日まで軍隊をたすけ守りて、これに大事をなさしめたまいましたが、これよりは内政をたすけたまうことと信じます。われら頭を挙げて信仰的勇気を起こすべきではありませんか。実に諸君は今日治政の権をゆだねられたのであります。私はまた詩編第68篇に諸君の注意を喚起いたします。これ実に神の民の勝利の予言であります。実に壮美なる一大詩歌であります。その勝利は神のなしたまうところであると歌っております。暑苦しいところで長い間苦しめ申しましたが、これを要するにわれら軍人側の言いたいことはこうでございます。われらは諸君を神の恩恵指導にまかせます。かくしてわれらは自己の持ち場につきまして、この上の神のみわざにために、また神の諸君に与えたまいし権威に対して、しもべとして働きとうございます。イングランド・スコットランド・アイルランド3国の軍人及び海上にある軍人も、皆この点において同心一致していることを、私は誓って申し上ぐることが出来ます。また全国各地の教会もわれらの行動に賛成を表して参りました。これでもはや申し上ぐることはありません。 ただひとこと付け加えますが、国事多端にして一刻も渋滞を許しませず、海上の事、アイルランド駐屯軍、スコットランド駐屯軍等の事は極めて緊要であります故、諸君もご同意下さることと信じまして、数日前私は仮に参議院を新たに組織いたしました。この参議院は熱心事にあたっております。その議員のうち8,9人は前議会の議員であります。私は当時自分の上に移り来たりし権威によりてこれを組織いたしたのでありますが、この参議院は議会の従属として仕事を致しまするので、諸君の許す期間内だけ存在する権利があるのでございます。 [訳者いわく、以上原文の大意を翻訳したのである。原文は措辞すこぶる蕪雑にして到底丁寧なる翻訳にたえない。読者のこの大意の翻訳をもって満足せられんことを望む]。
2026.05.05
13クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (3)書翰第189-第191この「小議会」と呼ばれるピューリタンの会合は近世史上最も著しい会合ではなかったが、最も著しい目的を抱く会合であった。今まで人間の最上規範と見られていた聖書の真理を社会的に実現しようというのである。最も高尚なる、最も必要なる企画である。既にキリストの敵を滅したれば今やキリストの国を建設せんとーこれ彼らの目的であった。彼らはこれに失敗した。失敗したのは当然である。種々の障害が彼らの進路をさえぎった。全世界がこれに反抗した。こうなっては失敗するもやむをえない。かくて「小議会」も解散せねばならぬことになった。 書翰第189小議会は既に7週間ばかり開会したが、これに対するクロムウェルの感想はこの手紙においていよいよ窺われる。親しきチャールズよ、あまり近状をお知らせいたさざるが、小生が万事において福音的に行い得るようお祈りくださることと信じおり。今日は小生が最も教友(信仰の友)の援助を要する時なり。聖徒が皆小生の仕事を認めくれること願いけれども、そうは参らず、彼ら各々意見区々にして、小生の彼らに対する愛は認められず、小生は彼らのために生命を棄てんと致しているものを。されど小生は神はこの誤解を晴らしたまうことと信じおる。おお愛の罵られることいかにたやすきぞや。もし人々が争わずして、愛と温和とをもって「判断」を下さば、真正の智慧に達し得べきものを・・・・・・時々小生は「願わくは鳩のごとく翼のあらんことを、さらばわれ飛び去りて平安を得ん・・・・・・われ速やかに逃れて暴風と狂風とを離れん」(詩篇55篇6節、8節)と叫び申す。されどともかくも主我れを生かしたまうを感謝いたしおり。無遠慮に心事を吐露いたし段御海容くだされたし。余のために貴君及びご友人の祈祷をこう。御愛妻によろしくお伝えくだされたし。御生児の祝福を祈り申す。将校士官全体によろしく願い上ぐ、以上。 1653年8月22日(ホワイトホールにて)オリバー・クロムウェル アイルランド駐屯軍総司令官中将フリートウッド様
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第187これはアイルランドに赴任したフリートウッドに宛てたる私信である。日付けはわからない。彼が任命せられたるは7月10日のことであるが、彼が寡婦ブリジッド・アイヤトン(クロムウェルの娘)と結婚した日も、アイルランドに赴任した日も、はっきりとわからない。この手紙もここにはさんで適当であるか知らない。愛するチャールズよ、愛にみてるお手紙拝誦つかまつる。貴君が小生一家についての希望こそ、また実に小生が貴君ご一家について希求するところなり。万事が好都合に参るものならねども、神在りて欠陥補われて余りあり。彼は我ら親戚間の慰安を豊かならしむるわけなり。彼の在ることは慰安中の慰安、歓楽中の歓楽なり。貴君の愛妻によろしくお伝えくだされたく、彼女が奴隷的精神に陥らぬことを小生は願えり。恐怖はこの精神より自ら生まれ申す。これが消毒薬は愛なり。恐怖はいう、このことを為せしならば、またこのことを避けしならば、よろしかりしものをと、-彼女はかかる無益の推理に苦しむならん。愛はいう、キリストあり、キリストを通して神あり、父は大慈大愛にして、長く忍び、真と善にみち、不正、破戒、罪悪をゆるす。而してその性は愛なりー無限不易の愛なり、父とキリストより我らに対しての新約は「恩恵」なり。これ霊魂に臨むもの、霊魂はただこれを受くればよろしと。さればキリストは力なき人のために、そのなお罪人たり敵人たるに死したるなり。さるにても我らなお己れのうちに安慰を見出さんと致すべきにや。神の愛こそ我らが安慰の根源なり。これ我らの不動点なり。我ら自身のなかには荏弱あるのみなり。信従的行為は完全たり得ずして「恩恵」に値せず、信仰も行為として為さるれば同様なり。ただ信仰は我らをキリストに往かしむる点において貴く、このキリストのなかに我らの完全なる休息平安あり。またキリストに在りて我ら神に重んぜられ、受け入れらるるなり。これ「上への召し」なり。我らをしてここにのみ安息せしめよ。すべての士官に伝声をこう。小生はまことに毎日彼らのために祈りおり。主、貴君に智慧、信仰、忍耐を豊かに与え給わんことを祈れり。また貴君の天性の「順従」をも警められよ。小生のためにも御祈りくだされたし、以上。 1652年-ホワイトホールにおいてオリバー・クロムウェル アイルランド駐屯軍総指揮官中将フリートウッド様書翰第188これはちょっとした手紙であるが、この日付が右の大事件の2,3日後になっている点だけが面白い。議会がなくなったので、当時軍総指揮官クロムウェルのほかに権威者は一人もいない有様であった。ケンブリッジ州の「沼地(フェンズ)」の排水計画はこの頃再興して、クロムウェルも発起人の一人であった。ところが一隊の暴民が起こってこの工事の邪魔をしたので、この手紙がオリバーから出でた。パーカー氏よ、ケンブリッジ州に暴民起こりて排水工事を覆さんとする由、伝聞つかまつる。ついては鎮撫のため大尉を長とする一隊の兵を差向け申したきに付き、この儀ご承諾なし下されたし、以上。 1653年4月23日(ホワイトホールにおいて)オリバー・クロムウェル 沼地(フェンズ)排水事業発起人代表者パーカー殿 4月22日には「大将クロムウェル及び将校会議よりの宣言」なるものが出でて、遠からずして清教徒のおもなる者より成る新議会の起こるべきことを人民に公告した。そして6月6日には各地の敬虔誠実なるおもなる清教徒140人に向かって、招集状を発し、来たって議会を組織せんことを求めた。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 第7編 小議会 1651年-1653年 (1)書翰第184-第1881651年9月3日のウースター戦勝より1653年の4月20日の長期議会解散までの19ヶ月間は、オリバーの一生においてはなはだ重大の期間であるが、それが歴史上の文書においてはなはだ明瞭になっておらぬ。衒学者連は今まで当時の歴史やなどを種々出し、今でも出すが何らの光明をその時代に投ぜぬ、無きに等しき書物である。この頃からオリバーの手紙が急に少なくなるため、以後の彼の経歴も、イングランドの歴史もはなはだ朦朧となってしまう。まあ、クロムウェルの演説が最大の確実なる材料である。長期議会も末となって、例のブライド大佐の議会掃浄後は人これをランプ議会とよんだ。しかしとにかくイングランドの政治は、この議会の手中に在ったのだが、はなはだ有名無実であった。議員の中には優秀高邁の人もないでもなかったが、議員の名は共和政府の頭首なるも、その能力においては副位に立った。共和政の運命は議会の討議によらずして、クロムウェルの転戦によった。彼一度敗れなば共和政は転覆したのであった。なるほど議会は各種の手段方法を講じ、賢明慎重の措置をなしたであろう。しかし、共和政の核心はトリーダ、ダンバー、ウースターにあった。ここにおいてか、この百人ばかりの一団がどうなるであろうという実際問題が起こって来るわけなのである。彼ら今主権の地に立てども、元来が主権的人物ではない。バルストロード、セーント・ジョンの如きはもちろん、ハリー・マーテン、小ヴェーンのごとき傑物といえども、いまだ大器をもって許すことはできぬ。彼らは永久に主権者たるべきでない。もちろん彼らにもそんな意思はない。元来この長期議会は、1649年の4月末日には自ら解散するはずであった。解散の決議案が通過したのである。さりながら共和国が生き死にの戦いをしている間に、新議会の選挙などを行うことは出来ぬ故、ともかくも彼らは解散しないで、毎水曜日ごとに全院委員会を開いてこのことを熟考することにした。そして11カ月もこんな事を続けていた。1651年9月16日、クロムウェルのウースターよりロンドンに凱旋した時も、この議会はやはり不相応の有様であった。世人は侮って「ランプ(臀部)議会」と呼んだ・クロムウェルが議会に復するや、またこの解散問題が起こって、とにかく解散の時期を定めることとなり、満3年後に解散するということに定まった。ちと長すぎる故、場合によっては短くせねばなるまい。書翰第184〔訳者曰く、この手紙は10月2日付、ロンドンよりアメリカ大陸ニュー・イングランド州ボストン教会牧師コットン師に送ったものである。カーライル自身がその注に言っているとおり、別に珍しいこともない〕この頃であるが(その日ははっきりせぬ)、クロムウェルの請求で「大官会議」とでも名づくべき相談会が開かれた。その事はバルストロードが我々に伝えている。ある日議長レンサルの家に議会及び軍隊の領袖大官が集って、既に長期議会も次第に解散することになった今日、この国の政体をいかに定むべきかという問題について論じた。実に面倒な問題であった。当時のおもなる人々の意見を今日聞くのは面白いが、何分にもバルストロードの記述が曖昧もこであって、十分信ずるに足らない。されどこれを要するに、この相談会においてはクロムウェルより政体問題を提出したので、これを純共和政とすべきか、あるいは王を頂いて、その下に共和政に近き政治をやろうかという問題なのである。ハリスン、ホイットロック、サー・トーマス・ウドリントン、大佐フリートウッド(ウースター戦の勇将)、高等裁判所長セーント・ジョン、大佐デスバロウ(クロムウェルの義兄弟)、大佐フォーレー(クロムウェルのいとこ)等がこの日のおもなる紳士であったが、軍人側は絶対性共和政を主張し、法律家側はチャールズ1世の第3王子を迎えて王政共和混合をやろうと主張した。クロムウェルだけははっきりした意見を出さなかったということである。-とにかくたいした結果もなくて、この相談会は散会となった。 1651年12月8日。悲しき報知がアイルランドより来た(ことにオリバー一家に取りては)、代理太守のアイヤトンが不眠不休の公務に困憊して、熱病にかかって死んだという報知である。11月16日病床の人となり、26日にはたおれたという。彼の若き妻ブリジット・アイヤトン(クロムウェルの娘)は、今は寡婦アイヤトンとなって悲痛の人となった。ペンにも剣にも長じたる勇敢明敏なる彼アイヤトン将軍は遂に世を去った。多くの勇士はこれを哀悼した。例の衒学者君は、アイヤトンが生きていたならば、クロムウェルの憲法違反を制止し得たであろうなどという。〔訳者注、憲法違反とは彼の強制的議会解散等を指すのであろう〕、アイヤトンははなはだしくクロムウェルを畏敬していたのであるから、クロムウェルが断然決心してしまったことに反対するなどという事はあるまい。博学なる我が友よ、安んじて可なり!ラムパートがアイヤトンの後任となったが赴任しなかった。そしてフリートウッド大佐が新たに代理太守となって赴任した。それから寡婦アイヤトンは鰥夫(やもめ)フリートウッドの妻となった。アイヤトンの葬儀は、イングランドにおいて公葬をもって立派に行われた。1652年3月25日。ランプ議会が今より2年前になお活気にみちておった頃、イングランド国法律改正を企画し、ために特別委員が挙げられたけれど、この委員会は次第に沈睡してしまった。クロムウェルがウースター戦勝より凱旋するや、この委員会は急に眼を擦って起き上がり、大まじめになって旧問題の再研究をやり、そして3月25日にはそれに関するある法案がパルストロードによりて提出された。つまらぬ小法案であるがこれについて長々と討論を始め、3月のスミレは6月のバラとなったが、いまだに討論をしている始末-永久に討論をするつもりであろう。ああ彼ら果しくよくイングランド国法律を改革し得る人士なるか。この法律改正提議の第4日目に、有名な「ブラック・マンデー」なるものが起こった。この日空前の大日食が起こったのであった。農夫は田を去り、鳥はなきて巣に帰り、諸星空に現わるという有様にて天地晦冥となった。この異象は何ごとかを暗示するかごとく見えた。この国会が法律改正などによりてこのイングランド国に理想の神国を建て得ることを、しめしたであろうか?1652年7月9日。一大事件、オランダとの戦争起こる。オランダはチャールズ1世処刑の後は、新共和国に対して悪感を抱き、イングランドよりも親しまんとするもこれを斥けて、イングランドに対して無礼に無礼を重ねた。共和政府よりの使節ドリスラスはオランダにて暗殺され、チャールズ2世は歓待せられる。そして新使節のセーント・ジョンはまじめに相手にされぬので、たちまち帰国して有名なる航海条例を通過させた。曰く、外国輸入品はイングランド船によるか、またはその貨物出産国の船によるほかは、イングランドに入るあたわずと。これによりて当時諸外国の産物をイングランドに輸入したるオランダを苦しめ、それと比例してイングランドの海上の利益を増した。オランダはこれに対して抗議を提出し、談判破裂して遂に宣戦の布告となった。この戦いは海戦にして、イングランドの陸将ブレーク、ディーン、モンクは海将となり、陸軍兵士は艦上の人となった。そしてオランダは連戦連敗の悲運をなめた。世はしばし外戦に熱中して議会問題は下火となり、ともかくも国家多事の再故議会は暫く現存するということになった。それからオランダ戦争のため共和政府は多額の軍費を要し、これが調達法として、王の領地の残部や王党員の財産を没収した。書翰第185〔訳者曰く、これは小事に関する短翰なる故略す〕。 議会というものにおいては、ある事の決定のためには、それがただ正義であるというだけでは定まらない。与党を造らなければならない。まことに「繁文縟礼」というやつが、共和政府の議会において甚だしく人の精神を束縛した。彼ら議員は口先ではなお少しはもっともらしいことを言うが、一国の選良などという資格はないのだ。幸いに議会のほかに、生き死にの戦闘に血を流して、主義をまもった将校士官の固き一団があったからよいものの、然らずば共和国はどうなったことであろう。多くの熱誠の士はクロムウェル及び将校に対して、自ら衝に当って事件の解決をなされたしと望み来った。これに対してクロムウェルと将校等は答えた。待て、辛抱せよ。議会なお国事に当らんと。 これを要するに、このランプ議会なるものが当時の清教徒の高き理想を実現すること能わざりしことは、識者に解ったであろう。議会こそは実に「障害」そのものの体現である。我らの戦って奇跡的に獲たところの物が、我らの物であって我らのものでない。議会の繁文縟礼のもとに抑えられていまだ我らの手に入らない、神の光輝のなかに敵は滅したれども、神の国はいまだ顕われそうにもない。悲しからずとせんや。 元来かかる崇高なる理想は実現するに難い。単にスチュアート王朝のみならず、すべての悪魔的王朝はこれに反対する。クロムウェルはこれに対して言う。然り、難い、甚だ難い、さりながら我らが全心をささげてこれが端緒をなりとも始める事をせずして、ただ坐して討論をしているばかりでは実に禍である。静止して動かざるは誰ぞ、手を着けて後を顧みるは誰ぞ、この数年間の大神恩は更に大なる事を約束するにあらずや。而してすべてがこの75人の一団〔議会〕、この繁文縟礼に終るべきやと。 我がクロムウェルよ、憐れなるイングランド国の心臓の底より無言の声の汝に語るものあらざるか?クロムウェルは種々の声を聞きて、そのうち何れが天の声なるかを鑑別して、これに従う。彼はこの頃は深き沈思に耽ったことであろう。 1652年8月13日。この日クロムウェル軍の将校士官より「請願」が議会に来た。この請願には次のごとき各種の注文が含まれていた。 一、真実なる法律の改正、 一、英国に福音的政府建設のための方法を講ずること、 一、教会及び政府より無頼悪徳の徒を除くこと、 一、新議会成制のための法案を急ぎ審議すること、 一、このランプ議会の事実的に解散せらるること、 これを要するに、イングランド国が福音的真理の支配するところとならんことを願ったのである。クロムウェルは議員よりかかる請願運動を制止せんことを臨まれたが、彼は冷淡であった。彼はむしろこの将校等の運動の先導者たらんと欲したのである。議長レンサルは微笑してこの軍人の請願を受けたが、この微笑はアザミを食った動物の苦笑であったであろう。1652年9月14日。この請願によりて、今まで眠っていた「新議会制成案」が再び眼をこすって醒め出した。もう周囲の声が大分高くなってきたので、議員等も何とかこの問題をせねばならなくなった。もう二度と眠らぬ。けれども新議会をどういうふうに造ろうかということが問題であった。彼らは「我らはいかにすべきか」という問題に接したのである。彼らはランプ議会となった。もはや長く議員たることは出来ぬ。されどいかにすべきかを知らなかった。10月の月中、11、2回も将校と議会の領袖との間に下相談会があった。けれども何事も決定せぬ。新議会を制成することは難い。さりとてこの老朽議会を続けることは出来ぬ。いかにすべきか?将校連は言った。「人民の投票によらずして議員側と将校側とが全国より敬虔賢良の士をまじめに選びて、これに一際の問題を託し、現任議員は速やかに解散帰郷すべし」と。これは軍隊及びクロムウェルの意見であった。これに対して議会側は何のかのと反対した。さらば他に良手段あるかと反問さるれば、どうも今の議会をこのまま続けるよりほかに良手段なしと苦しそうに答えた。 書翰第186〔訳者曰く、時事の中心に関せざる些細のもの故省く〕。
2026.05.05
アメリカ中央軍 米船籍の商船2隻がホルムズ海峡通過と発表 トランプ大統領はホルムズ海峡を安全に通過させる活動の開始を発表5/4(月)イラン、米軍艦へミサイル 「警告目的」、命中せず5/4(月)アメリカ中央軍はペルシャ湾からの船舶の退避支援の第一弾として、アメリカ船籍の商船2隻がホルムズ海峡を通過したと発表イランの精鋭軍事組織「革命防衛隊」に近いタスニム通信は4日、イラン軍が原油輸送の要衝ホルムズ海峡へ近づいた米海軍の駆逐艦に対し、警告のため巡航ミサイルなどを発射したと伝えた。 命中はしておらず、米中央軍はSNSで「米艦は攻撃を受けていない」と強調した。 同通信によれば、米艦はオマーン湾でレーダーを消してホルムズ海峡へ接近。イラン軍が「海峡進入は停戦違反と見なす」と無線で警告したものの無視されたため、ミサイルや無人機を近くに放ったという。イラン軍は声明で「このような危険な行動の責任は敵が負うことになる」と主張した。 米、拿捕イラン船乗員をパキスタンへ移送 イラン側に引き渡しへ5/4(月) 国は、4月にオマーン湾で拿捕(だほ) したイラン船籍の貨物船「TOUSKA」の乗組員22人をパキスタンへ退避させ、4日にイラン当局に引き渡す。パキスタン外務省が発表した。パキスタン外務省は今回の措置を「信頼醸成措置」とした。米軍は4月19日、イランの海運会社IRISL傘下のTOUSKAを砲撃。TOUSKAが動けなくなったところで乗り込み拿捕し、船員を拘束した。その後、船員は一部釈放されたが、なお22人が拘束されていた。拿捕当時、米中央軍は、TOUSKAが米国の封鎖措置に違反したとし、乗組員が6時間にわたる度重なる警告に従わなかったと述べた。イランは、拿捕は「違法で国際法違反」と非難し、船舶や乗組員の即時解放を要求していた。パキスタン外務省によると、TOUSKAは必要な修理を終えた後、所有者に返還されるためパキスタンの領海へ移動するとしている。イランの小型船7隻撃沈とトランプ氏5/5(火) トランプ米大統領は4日、交流サイト(SNS)でイランの小型船7隻を撃沈したと明らかにした。AP通信によると、米軍高官はイランの小型船がホルムズ海峡で民間船舶を標的にしていたと説明した。イラン、UAEにミサイル攻撃 米国の海峡通過措置に対抗か5/5(火) アラブ首長国連邦(UAE)の国防省は4日、イランから複数の巡航ミサイルが飛来したと発表した。UAE当局によると、東部フジャイラの石油産業地区でも同日、無人機攻撃があり大規模な火災が発生した。米国がホルムズ海峡で船舶を安全に通過させる措置を開始したことに対抗した可能性がある。トランプ米大統領は4日、イランの小型船7隻を撃沈したと明らかにした。攻撃の応酬になれば、停戦が危機に陥る恐れがある。 一方、イラン国営テレビは4日、イランにはUAEを攻撃する計画はないとする軍事筋の話を報じた。 UAE国防省などによると、イランからの巡航ミサイルは少なくとも4発飛来し、うち3発を迎撃、1発は海に落下したという。フジャイラでの火災ではインド人3人がけがをした。英海事当局によると、UAEの沖合では貨物船で火災が発生した。原因は明らかになっていない。 AP通信によると、米軍高官は、米軍が撃沈したイランの小型船について、ホルムズ海峡で民間船舶を標的にしていたと説明した。〇トランプ米大統領はSNSで、イランが韓国の貨物船などに攻撃を行ったと指摘。「恐らく韓国は(航行支援)ミッションに参加する時だ」と述べた。ベッセント財務長官、中国と同盟国にホルムズ海峡での作戦参加を要請ベッセント米財務長官は4日、世界の原油取引にとって重要なホルムズ海峡について、船舶を護衛する米国主導の作戦に参加するよう同盟国や中国に呼びかけた。一方で、同海峡は米国が完全に支配しているとも主張した。 ベッセント氏は「中国が外交で役割を果たし、イランに海峡を開放させるか見てみよう」とFOXニュースで述べた。その上で、「イランは最大のテロ支援国家であり、中国は同国のエネルギーの90%を購入している。つまり中国は最大のテロ支援国家に資金を提供していることになる」とも語った。 トランプ米大統領は約1週間後に中国の習近平国家主席と会談する予定。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(6)書翰第182、第182ウースターの戦いウースターの戦いは1651年9月3日の夕、ダンバー会戦の一週年に行なわれた。どうせスコットランド人は敗れるに定まっているのだが、一挙にして敗れるか、または小戦、長囲の数々を重ねて惨風血雨を長びかすかの二途がある。そして前者がこの度の運命である。実に完全なる敗北!イングランド・スコットランド相争はこの一撃に全き終結を見、第二撃の必要はなかった。スコットランド兵はどう猛決死の戦闘をなした。クロムウェルは自身、砲火をおかして戦闘を指揮した。スコットランド軍は優勢のイングランド軍に囲まれて援兵の来る見込みもなく、今はこれまでと歩騎もろともに突出して、セヴァーン河のかなたこなたに戦いしも、遂に勝利を得なかった。クロムウェルはちょっと背進したが、軍を整えて再び敵と会し、スコットランド軍は各側に全敗してしまった。彼らの激闘は臨終のあがきのみ。大蛇に巻かれたるライオンのもがきのみ。4、5時間の死闘も何の効ぞ。スコットランド軍は遂に市中に追いかえされ、死にもの狂いに争いしも、市の北端に追い迫られて、ここに全軍壊滅した。あわれ、悲惨なる光景よ、歩兵は全部殺されまたは捕獲され、騎兵は散乱した。王は何とかして逃れた。 書翰第182〔訳者曰く、これは戦勝の夜おそく、国会議長に宛て認めた戦報であるが、次の書翰り重複する故省く〕。 書翰第183貴下よ、神が共和国のため、またその民のために為し給いし大業の正報をなす能わざれども、沈黙するに忍ばざるまま、ともかくも解りしところだけをお知らせ申す。初めは勝敗未決なりしが、遂に味方の全勝となり、敵軍全く潰乱し、味方はこれを追うて市街戦と相成り申せり。敵の死者ははなはだ多し。捕虜は5、6千を数え、中に将校、士官、及び貴人多し。ハミルトン公、ローセス伯、ロオダーデール伯の如きもその中に交わりおり。我らは大部隊を追撃軍と致せしが、この追撃軍は敵の多勢を捕獲したる由なり。なお、落武者等は各地のイングランド兵に苦しめらるる事と存ず。敵には1万6千強の兵ありて、決してらくな戦にはあらざりしも、味方は幸いに200人を失わず。ご送遣の新募兵は良く戦いて功績多し。彼らを早速帰還いたせし故、国内の安穏満足を生むことなり。実に大なる慈悲、絶大なる神愛なり。願わくはこの大救済を与えたまいし神を讃美し、恩恵にたのみて驕慢に陥ることなく、主を畏るることの官民に行き渡り、愛なる神への感謝として、貴殿等より正義、公道、慈悲、真実の出でんことを、これ貴下の卑しき僕の祈願なり、以上。 1651年9月4日、ウースターにおいてオリバー・クロムウェル イングランド国議会議長ウィリアム・レンサル殿 この書翰は翌日ロンドンの各教壇より発表せられて、感謝の声は天に昇った。ウースターにては、捕虜は大寺院に収容せられて茫然たるに、街には人馬の死屍相交わり重なるの惨状目も当てられぬ有様であった。 これがクロムウェルの戦闘、かつ戦勝の最後であった。もちろん彼の生涯は、この後も前と同様に戦いの連続であった。けれどもこの以後は剣の戦いはなかった。彼の剣はここに鞘(さや)に収まった。しかし戦闘休止の命令はいまだ出でぬ。 チャールズ・スチューアートによりて「誓約」を達せんとのスコットランド為政家の計画は、ここに終わりを告げた。後、王政復活となりて彼らはチャールズを信仰の擁護者と仰いだが、あまりに有難くないことがわかったが、とにかく「誓約王」としては彼は海外に走りて、2度と姿を現わさなかった。ウースターの戦いは事の中核を砕いた。ただモンク将軍が依然スコットランド国におって、処々の残火を滅ぼすことに励んだのみである。 9月1日にモンクはダンディー城を囲み、勧降に応ぜざるため、これを強襲し市街は兵火に焼け、惨憺凄惨たる修羅場を現出した。無口のモンクは憤激して火のような激闘をなした。 その前に新スコットランド委員会が、このダンディーの救助法を講じるために会議を開こうとしているのを、敏捷なるモンクに囲まれ、その議員は船でロンドン塔に送られた。その中には老将リーヴィン、名将レスレー等が加わっていた。これレスレーの公生涯の最後である。後、彼はスウェーデンのクリスチナ女王のとりなしによって放免され、ファイフ州の故郷に田園の人となったが、間もなく世を去った。秀抜なる将軍-されど不幸なりしよ、かつては大功をもたてし将軍、さらば我らここに君と別れん。 スコットランドの反抗はここに終った。ラムパートは翌年の夏、ハイランドの騒乱を正確熱心をもって押し鎮めた。寡黙なる人、ほとんど語らず、多少考え、為し得べきことを実行する人。 かくして、スコットランドもまたアイルランド同様クロムウェルの治下に属した。しかしこれを治めることははなはだ困難であった。スコットランドの治者階級、ことに僧職ははなはだしく彼に反対した。モンクが彼の副将としてスコットランド国の保安に任じたるほか、クロムウェルはできるだけのことをなしたようである。彼は新裁判官を遣った。彼はもちろん「抗議派」を保護したが、またある広き範囲まで「決議派」をも寛恕した。彼はスコットランドをイングランドと融合せしめんと欲して種々の道を講じた。要するに彼はスコットランド国のためになれかしと出来るだけの努力をし、スコットランド人は彼を喜ばざりしも、彼は事実上スコットランド国の善を増した。 スコットランド人の理想を彼は間接に実現した人であった。彼はチャールズ王なしにスコットランド人の「誓約」を成就する(チャールズ王を奉じてはこのことは出来ぬ)真のスコットランドの統治者であった。しかし彼らは彼を知らずして、頑強に彼を妨げた。実に一国民も一個人も、自己の真意の奥底を自ら真正に知っているものではない。種々の妄想や邪念が我々の遺志をおおうてこれを隠すものである。されば我ら一度明らかに己れの真意を知り、決然としてそれを目指し進まば、勝利は既に得られたるに等しいのである。 たとえば、スコットランド人のうち、また隣国人のうち、誰か「誓約」の真意を理解して、その皮相よりこれを識別し、而してこれを実現せん信仰的勇気をもって努めし者ぞ、これ異端者と言われ、冒涜者と罵らるるクロムウェルその人ではないか。げにクロムウェルの治世8年間ほどスコットランド国に平和と敬虔の充ちたことはない。秩序は保たれ、正しき裁判は行われ、悪徳は抑圧され罰せられた。この8年間こそ大なる平和と繁昌の時であった。これスコットランド人自ら言うところである。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第180遂に危機は来た。スターリングのスコットランド王、スコットランド軍は、イングランド軍の側面進撃に因りて供給を断たれ、防禦を無効ならしめたれば、スターリングを出でて南に進み、イングランド共和国の中心を衝かんとした。これ事の成否を一挙に決せんとするもの、死に者狂いの行為である。彼らがイングランドに侵入せば、あるいはその他の王党、長老派王党、その他不平連の来投するあらん、あるいはなからん!彼らは8月6日(水曜)カーライルを経てイングランドに入った。ファイツ州バーンチスランドより7月29日に国会議長に宛て貴下よ、我が軍はスターリングの敵軍の糧食供給をジョンストンに妨げんため、同地攻略と決定いたし、軍の大部はジョンストンに向かって進軍し、たちまちこれを降伏いたさせ申せり。然るにスターリングの敵が南方に進出せしとの報に接せし故、守備隊をジョンストンに止め、中将モンクに5、6千の兵を与えてスターリングを我が手に収めしめ、本軍は急速力をもって南に引き還し申せり。今日フォース河口湾を渡り申し、死に者狂いに南進したる敵に是非とも追いつく覚悟なり。敵イングランドに侵入しては人心を乱し困難を惹起すべきにより、我らは全力を注いで敵を食いとめ申すべし。事ここに至りたるははなはだ残念ながら、我らは一日も早く動乱を鎮定して、またまた難渋なる冬営をなすことなく、かつイングランド政府に多くの出費を煩わすことなからんために、今回の側面攻撃に出でたる次第なり。我らにしてフォース河の南北に各々大軍を有し得なば、敵の南進を優に阻み得たるも、然らざる以上、今回の事は已むを得ざる儀と存ぜり。されば貴殿等においても勇気を奮い、信念に確立して、速やかに兵をもって、我らが敵に追いつくまでの間、敵を支え止めんことを願えり。我ら一度敵に追いつくまでの間、敵を支え止めんことを願えり。我ら一度敵に追いつきなば、全力をもって敵を討ち申すべく、神必ず我らをたすけて、すでに意気沮喪せる敵のたやすく敗れんこと疑いなし。我らなお弱く、彼らなおなお強かりし時さえも、神ブレストンに彼らを覆滅したまいしは我らの忘るるあたわざるところならずや。主に頼ることのみ貴殿らが事業の生命なり。少将ハリソン及び大佐リッチは部下の兵を率いて、敵の行動に注意しその進軍を牽制いたすべし。少将ラムパートは今日騎兵の大部隊を率いて、敵の後陣に向かいて進撃いたせり。小生は騎兵の残部と歩兵9か連隊を携えて、急速力をもって進軍致しおり。スコットランド国にはモンク中将のもとに大部隊を止め申せり、以上。 1651年8月4日、レースにおいてオリバー・クロムウェル イングランド国議会議長ウィリアム・レンサル殿スコットランド軍はイングランドに入りしも、王党の来投する者なく、長躯してランカ州を南に向かって貫き、オリントンを占領して四方の都市を招きしも従うものなく、「王のため」「王のため」と連呼すれども、王の祝福を祈る人はない。スコットランド軍はロンドン街道を南方に曲がりてウースター市に進み、このところに止まった。有名なる王党員ダービー伯は、マン島を出でて中途に王を奉送し後、ランカ州に兵を挙げしも、リルバーンとロバート大佐はワイガンに彼を襲うてその軍勢を覆滅した。伯は負傷して辛くウースターの王営に逃げこんだ。哀れ、後には断頭台まで行くのである。クロムウェルはヨーク州、ノチンガム州、カエントリー、ストラトフォードと進みて、民兵の加わるもの次第に多く、潮のごとくウースターに押し寄せて、3万以上の兵をもってこれを囲んだ。王よりロンドン市会に宛てたる勧降書は焼きすてられて、全ロンドン、全イングランドは既に決意するところあった。8月22日、ロンドンにおいて、陰謀の首魁として監禁中なりし牧師クリストファー・ラブは死刑に処せられ、公衆の大なる感触をひき起こした。回顧すればかつてチャールズ1世がノチンガムに兵を起こしたのも、8月22日のことであったが、今また同月同日に僣王(せんおう)チャールズ2世がウースターに王旗を翻し、而してクリストファーラブは断頭台の人となった。書翰第181例の疑惑躊躇しているフォートン卿も、この際、兵を挙げて共和政府のために尽さば、両者にとりて幸いなりとて、クロムウェルは卿に宛てて例の愛情に溢れた勧告状を送った。これが書翰第181である。〔訳者曰く、その文面の訳載を省く〕、しかしフォートン卿は遂にクロムウェルの共働者とならなかった。ただし同じく疑惑党に属せしディックノオトン、ロバート・ハモンド等はその態度を改めた。チャールズ2世の王旗は既に6日間ウースターに翻った。而して8月26日(木曜)には、3万人の将たるクロムウェルの旗も見え始めた。なお必要あらば来たり加わらんとしている兵が、外に8万人もあったそうだ。
2026.05.05
国力増進の根本策 日本精製糖会社長鈴木藤三郎(第1集104-108ページ)(「実業世界太平洋」第3巻第9号 明治37年1月1日発行) 私たちがこのように生活する東京の大都会、百余万人の飲料水を玉川から引いた人はどのような人かと問うに、人これに答えることのできない者が多いであろう。もしその人がなければ、とうてい今日この盛大な大都会を見ることはできなかった。飲料水の創設者は、換言するならば東京大都会の創設者といっても過言ではないほどである。そうなのにその人を知らないのはどうしてであろうか。これは全く上に述べた四者、軍人、政治家、敵討ち、大盗賊の外であるためである。また私が以前伊豆に遊んだときに、佐野地方27村ばかりの田地に灌漑する水は、箱根の湖の口から多くの山腹をうがって、これを引いたものである。そしてその創設者を問うてみると水を引いた恩恵に浴している農民でさえも、よくその名を知る者はない。これは不思議な事ではないだろうか。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第175-第177訳者曰く、この3つの書翰(その第一は国会議長に、第二第三は参議院議長に宛てしもの)は、戦報にしてくわしく訳する必要はなき故、その内容を簡略に紹介することにしよう。フォース河の河口湾を超えて、ファイツ州に入りしイングランドの一部隊は、大佐オヴァートンと指揮官とする1,400人の歩兵部隊であったが(外に騎兵も少しはあった)、後少将ラムパートは歩兵2カ連隊及び騎兵2カ連隊を率いて、同じくこの地に突入し、インヴァーケーシングに敵の大軍に会してこれを撃破し、主将等を生け捕りした。クロムウェルはこれを「言い尽くしがたき恩恵」と呼んだ。やがてインチがーヴィーもバーンチスランドも砲艦の攻撃に堪えずして、いよいよ降伏し、クロムウェルは自身ファイツ州に進み入った。7月24日には、本隊の大部をファイフ州に遣り、河口湾のこの方には歩騎兵各々4カ連隊ばかり止まった。敵はイングランド軍に北東へ出られたので、西方から新軍を得たり糧食の供給を受けようと計った。敵将の逃避的戦法も多少の効ありしと見え、7月26日発の参議院議長に宛てた手紙(書翰第177)には兵の疾病に苦しむ者多きこと、兵器の欠乏、軍費の不足等を訴えて、速やかなる供給を乞うている。書翰第178親しき兄弟よ、ご来書は小生の最も喜ぶところなり。わが子リチャードの貴宅帰還は遅延せしことと信ず。小生は彼の妻の安産を祈りおり。わが子は給与を超えて負債を起せし由、誠に賛成致し難し。給与だけにて暮らすが最上の道にてこれ有り。もちろん適当なる気晴らしは、決して咎むべきここれ無し。また彼の益になる事には十分以上を支出する考えなり。さりながら遊楽を人生の主とし、神に仕えずして欲情に仕え、而して為に時と金を多く費やすごときは、よろしからざることなり。貴兄よ、願わくは彼に教え、彼をして主のみ旨に適うよう人生を送り、これがためにキリストより力を求めしめよ。これ最も貴きことにて、快楽を排するにはあらずして、快楽と良心の平和とを伴わしむるものなり。願わくはこの事を我が子に伝えくだされたし。まことに小生は彼と彼の妻を愛し、二人のためにかく申し送る次第なり。小生は2人に対して、できるだけ慰謝及び奨励を与えんとするものなり。げに目下は貴き聖徒の血を流して同胞の平安のために働きおる時なれば、小生はわが子の逸楽には賛成致し難し。ウリヤのダヴィデに対する言葉こそ貴し(サムエル後書11章11節)。小生は、吝嗇にてかく申し上ぐるにあらざるを、大兄の信ぜんことを願う。小生はわが子の信仰的生涯を忠実に送らんことを願うまま、出来るだけの忠言を彼に与えたし。かつ貴兄を通してこれを伝うることを最良の法と存ぜり。願わくは以上の事をわが子にお伝えくだされたし。また我が娘〔リチャードの娘〕にも小生の愛をお伝えくだされたし。小生はしばしば熱心に彼女の安産を祈り申せり。皆々様によろしく御鳳声くだされたし、以上。 1651年7月28日、(バーンチスランドにて)オリバー・クロムウェル ハースレーにある 愛する兄弟リチャード・メーヤー様 書翰第179〔訳者曰く、これはファイツ州バーンチスランドより7月29日に国会議長に宛てて、バーンチスランド占領等を報ぜし短翰である。省く〕。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第173最愛の妻よ、多忙中ながらこの便を利用せざるあたわず。余は余の心情を占領せる愛する妻に書を送るを好むものなり。汝の健霊を聞きてはなはだ喜び、主ますます恩寵を御身に加えんことを祈れり。御身は主がその聖顔の輝きを御身に示さんことを第一に願うべし。主、御身をもって周囲の人の好模範たらしめ、すべての御身の祈りを聴き、常に御身をうけたまわんことを祈る。御身の子息と娘〔リチャード夫妻〕の御身とともに留まるを聴きて喜ぶ。御身が彼に対して忠言の機あらんことを望む。母上及び一同によろしく伝声をこう。なおなお御身の愛する人のために祈りくれよ、以上。 1651年5月3日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル ホワイト・ホール内に在る我が愛する妻エリザベス・クロムウェルへ エジンバラに還った日にしたためたのである。「汝の子息と娘」とあるのはリチャード夫妻が訪問中であったのであろう。クロムウェルの善良なる老母はなお生きておって、不思議な世に不思議な事を見つつも、自分の子については喜び誇っていたことであろう。この頃、アイア港へ風雨のために寄せつけられた一小船をその地のイングランド軍守営が押えて調べると、一大事が発覚された。イングランドの長老的王党、純王党等がスコットランド人及びチャールズ2世と結んで、共和政府を倒そうという陰謀があって、ロンドン長老派僧侶クリストファー・ラブがことに深くこれに関係していた。この小船はマン島のダーヴィー伯に、この件について密旨を伝えるためであった。クリストファー・ラブ等は5月7日捕えられ、参議院はこの事件のために多忙であった。 クロムウェルはグラスゴウ訪問のために、病は3度目の復発をなし、参議院は保養のためにイングランドに帰る事を勧め、また2人の国医をロンドンより彼のもとに送った。医者の一人をベーツと呼び、一人をライトという。クロムウェルは感謝した。しかし帰還する必要なしと答えた。書翰第174卿よ、転地療養のために帰還するの自由を与うとの議会の命令書、まさに拝受仕れり。今回の小生の病苦はなかなかに激烈にてこれ有り。死期も近かるべく思われしも、主は予期に反して小生を救い出したまい、小生は「彼は我が霊魂を陰府(よみ)よりあげたまえり」(詩篇30篇3節)と再びいい得るに至れり。-卿よ、議会より小生に示したる寛容は、感謝してこれを長くこれを記憶に止むべし。二国医をはるばる送り来せし点について、小生は参議院に対して感謝の意を呈し申す。二国医の奨励と指示により、小生も大分快方に向かうにつき、神許したまわば、再び与えられたる立場にて働き得べし。スコットランド国征討の事たる小生のごとき脆き者の上に立つことにてはあらず、これ実に神の事業にして、当然栄えべきものなり。これに加わる者、皆この事を信じて、心を励まし万事に信仰をもって努めんこと、これ小生の祈願なり、以上。 1651年6月3日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル 参議院議長殿 クロムウェルの病は一時は重病で、この夏中はもつまいかと危ぶまれた。幸いにも快方におもむいて、6月の5日には再び戦線の人となり得た。今や戦闘は激烈となり始めたが、まだ大なる結果は出でぬ。6月25日、全軍ペントランド丘の旧営に帰り、西進して7月2日にはリンリスゴウを発し、敵の本営スターリングに近寄りて、敵を脅かして城を出でて戦わしめようとした。されども、敵は防禦を堅くしていて更に出てこぬ。彼らの見ている前で、カレンダー城を取ったり、外にも損害を与えたりしたが、彼らは出てこぬ。デーヴィット・レスリーは副将であるが事実上の大将で、例の故智を用いて得意の逃避的戦法を採った。ここにおいてイングランド軍はその一部をファイフ州に突入せしめて、敵の側面に進撃し、かつはスターリングの糧道の一を断とうと計った。クロムウェルはこの間にちょっとグラスゴウ第3回訪問をなした。また陰謀の首魁クリストファー・ラブは7月5日死刑の宣告を受けた。
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)この2月4日に、クロムウェルがこの手紙と前の手紙を書いている頃、彼の軍は冬営を出でて西方スターリングに向かいて進み、彼もまた翌日その後をおうた。そして3日間、雪とあられと風と雨とを犯して進んだが、進軍あまりに困難なるため、4日目には遂にエジンバラに引き返したーみぞれに上着を白くして、されど勇気衰えざらんと努めつつ。スターリングのスコットランド兵は気が気でなかっただろうが、あられが彼らの味方となった。 書翰第167オクスフォード大学会議はクロムウェルの書翰を受取って、これが議場に読み上げられた時、満場拍手をもってこれを承認し、クロムウェルはオクスフォード大学総長ということになった。彼は以後、軍務繁劇の間にありて、種々の点においてきわめて忠実にこの大学のために尽くすところあった。〔訳者曰く、この書翰はこの大学に関しての事についてであるが、肝要ならぬ故省く。〕 書翰第168、第169〔訳者曰く、ともに些事に関するもの故訳出せぬ。〕 書翰第170かの2月初旬の雪中行軍はクロムウェルの上に重き病をもたらした。病は癒えんとして再発し、また再発して6月まで続き、共和政府と有司の心痛は多大であった。卿よ、ご芳墨拝誦、小生のごときつまらぬ者に対して病状を顧慮せられ、多大の同情、尊敬を賜うこと、感謝の極みなり。卿よ、小生はイングランド国にとりては不用の人物なり。つまらぬ人間なり。今日まで死骨なり。而して今も主に対し貴殿等に対して愚かなる僕なり。小生は病にたおるるかと存じたれども、主はこれを許したまわざるようなり。されども、卿よ、小生は主に対して更に忠実報恩の態度に出で、卿らに対して更に有用勤勉なるを得るに至らずば、生きんことを願わず。小生は、卿及びすべて公職に在る者が、その目撃したる主の大いなる聖業(みわざ)によりて、栄光を主に帰せんことを神に祈る者なり。これ卿のいやしき僕の偽らざる祈りなり、以上。 1651年3月24日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル 参議院議長殿3月18日のエジンバラよりの特別至急便で、「大将は回復して、今日は士官と会食し、はなはだ快活であった」という報知がロンドンへ行った。この下旬には彼は平生のごとく軍務を見得るにいたった。 書翰第171次の手紙は説明なくてわかるであろう。最愛の妻よ、我が外なる人〔肉体〕は次第に力付きて余は主に感謝いたしおり。されども我が心なおよく天父を愛し、聖顔の光を拝し得るに至らずば、肉体の回復は余を満足せしめず。これは生命より勝れるものなり。この待望の中に余は住しおり。余のために祈れよ、余は既に汝と家族のために祈りおり。全部の神、汝らに霊的祝福を賜わらんことを祈る。あわれなるベチー(息女エリザベス・クロムウェル)に主の大慈悲を思い起さしめ給え。余は彼女が困苦のなかに主を求め、主に還り、主に従わんことを祈る。余は絶えず熱心に彼女と彼女の夫のために祈りおり。彼らは余の最も愛する者、悪魔彼らを誘わんことを怖る(まことに我らは誘われやすく、悪魔は狡猾なり)、神、彼らに真の敬虔を与え給わんことを祈る。彼らをして真実に神を求めしめよ。さらばこれを見出すを得ん。もしディック・クロムウェル〔リチャード・クロムウェル〕とその妻とが汝らとともに住みおらば、よろしく伝声あれ。余は彼らのために祈る。余は彼らを熱愛す。-病後の衰弱にてこの上記しがたし。今は疲れおり、以上。 1651年4月12日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル ホワイト・ホール内に在る我が愛する妻エリザベス・クロムウェルへ 書翰第172〔訳者曰く、肝要の事に関せず、その短き手紙なる故省く。〕
2026.05.05
「永平家訓抄話」澤木興道 4-14「夜來、長沙、永平拂子頭上に來り宿して眠り、寐語して聲を作すこと、再三、斯の頌を誦す」こういうことは、われわれにでも、古人の偈、古人の説法が、耳鳴りすることがある。また何やら去年読んだ本の一つの偈、一つの説法が耳鳴りしてくることがある。こういうことをつまり、昔の長沙が、道元禅師の御胸のうちに来り宿して眠り、寝言をいうと言われたのである。長沙の、「学道の人真を識らず、祇だ従来の識神を認むるがためなり、無始劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」という偈が、よっぽど高祖の胸を強く打つものがあったに違いない。そこでいつも耳鳴りしていたのであろう。そこで長沙が自分の胸のうちに宿って再三この頌を誦するとおっしゃったのである。 夢といえば、長沙もこれ夢中の説法、釈迦の一代も夢中の説法であることは『正法眼蔵』の夢中の説夢の中に出て来るが、『法華経』の安楽行品にそのことが出ておる。達磨の一代もことごとくこれ夢中の説法である。「仍って永平、聊か其の韻を續ぐ」と、次韻をされるのである。そこで「良久して曰く」良久ということは、今でいえば間を置くというような理屈で、ウッとしばらく間を置いて、これからが、永平道元禅師の続韻の偈である。「學道は直に須く眞に体達すべし」学道は申すまでもなく、参禅学道のことで、真に体達する、すなわち、仏法の真実に体達するのでなければならない。あるいはこれを法性真如の正体に体達するといってもよいが、つまり本来無自性不可得ということを体達することである。不可得ということを体達するのであるから、仏法というのは恐れ入ったものである。それが仏道修行というと、何か積み上げるようなものならば、それは我だけの話になってしまう。だから不可得、無所得ということを体得することは、なかなかたいへんなことである。積み上げたらそれだけ間違うておる。學道は直に須く眞に体達すべし、といわれるわけがここにある。 そこでわたしたちは坐禅をすることにしても、それが不可得、無所得ということを体得するのでなければならないので、どうしても只管打座することになるわけである。その只管打座の坐禅はどうするのか。それはただ坐るということである。ただ坐るということなら、何にもならん。「そんなこと馬鹿らしいじゃないですか」と必ずいわれるにきまっておる。事実、馬鹿らしいものである。つまり、そのつまらない坐禅が、只管打座である。(「永平家訓抄話」p.311-312)
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(6)書翰第162-第181クロムウェルはエジンバラに冬営して春の来復を待った。後にこのところで一身の過労と気候の不順が因をなして大病にかかった。スコットランド兵はスターリングに立て籠りて濠を深うして備え、一生懸命に新兵を募っている。一月元日には王の戴冠式を挙行して、全く王と一致した印となした。クロムウェル大将はフォース河以南のスコットランド南部の主であった。彼の軍は各地の城砦を降し、匪徒を鎮圧し、国の平穏を計りて至らざるなかったーこの事は古書にも十分に出ているが、読者はよろしくこれを想像してよかろう。 書翰第162-第164〔評者曰く、この三書翰は些細な事に関せるもの故省く〕。 書翰第165シモンズという御用メダル氏が、その筋の命によりダンバー戦勝記念のメダルを造るために、ロンドンからクロムウェルの姿を取りに来た。クロムウェルは虚栄事としてこれを斥けんと欲し。紳士諸君、小生に関する点においては極めて些細なる事のために、はるばるシモンズ氏の来たれることただただ驚くのほかこれ無し。小生はダンバーにおける主の大恩の記念と軍隊に対する謝恩とを、最も高貴なる目的として提出致したし。これを表明せんには、メダルの一面に「議会」を刻し、他面に「軍隊」を刻し、その上部にその日、我らの標語たりし「万軍の主」の語(The Lord of Hosts)を記さば十分なり。貴殿等よりのご厚情としてこれを願うを得ば、失礼ながらこの儀切願いたせり。小生の提議にして適当ならずと思わるるならば、何とご決定あるも苦しからざれども、小生の肖像を刻することだけはなにとぞ御中止くだされたし、以上。 1651年2月4日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル (ロンドンに在る)陸軍委員会御中しかし、委員の方ではクロムウェルのこの提議を用いないで、シモンズにクロムウェルの像を刻せるメダルの鋳製を命じた。このメダルはいまも残っているが、その像はクロムウェル生き写しであるそうだ。書翰第166シモンズと相前後して、種々の人がそれぞれの用事で、イングランドからクロムウェルのこの冬営に来たらしい。オクスフォードからは次のような用件で来た。第一内乱の終わりごろには衰滅に瀕していたオクスフォード大学も、その後根本的に改革せられ、ペンブローク伯フィリップが1648年の春、総長としてこの地に赴いた。そしてともかくもこれを有意義の学堂となした。ところが先ごろ、ペンブローク伯が死んだので、大学会議はクロムウェルを総長に推薦してその応諾をこいにきたのにたいして、彼は次のごとく答えた。紳士諸君、貴殿等が小生を貴大学の総長に選びて甚大の名誉を賜わること、ご派遣の代表者諸君よりまさに承る。深く感謝の意を表し申す。さりながら、貴殿らのためまた小生のため一言申し上げたし。貴殿らのは小生を推薦さるるはご随意のことながら、小生としては自身のその職に極めて不適当なることをここに申し上げざるを得ず。かつまた総長の職たる時間と場所の自由を要するに、目下は神、小生をこの地に置きたまい、jこの地の仕事終る時はまた当分アイルランドにおることに定まりおれば(彼は1649年6月に、向う3カ年間アイルランド太守たるべく任命されたのである)、貴殿らのために尽すことあたわず。小生は虚偽の謙遜をもってこの栄誉の地位を辞して、貴殿らの愛顧と自由を汚さんとするにあらず。またこの辞退をもって貴殿らを軽視する事となさざらんことを願う。ご再考を促さんために、かく打ち明けて申し上る次第、決して怠慢を欲するにあらず。さりながらこの栄誉を受けざるべからずとならば、小生が身をもって親しく貴殿らのために尽くし得るに至るまでは、貴校に生れたる学術と信仰とが、来たらんキリストの王国において役立つものとならんことを、絶えず祈り申すべし。かつ万事において、貴校及び貴殿らの忠実なる友人たり得んよう、自己の乏しき能力と趣味を改善せんと努力致すべし、以上。 1651年2月4日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル オクスフォード大学副総長博士 グリーンウッド殿ほか大学会議委員皆々様
2026.05.05
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた5 二宮翁と富田高慶との初体面富田高慶は相馬の藩士で江戸の聖堂で10年も儒教を学んだ人であったが、無理をして学問をしたものと見えて多くは病気がちで、芝巴町辺の磯野という医師の所へ通っていた。患者の少ない比較的閑の時には、富国安民という国家問題について、折々磯野と論難したということである。そういうことがたびたびあったので、ある時これも患者の一人である野州から来ていた某(ぼう)というものが、高慶に向かって、「お前さんはしきりに己の師とうるに足る人物がないと言われるが、私の国にはこの頃、二宮尊徳というエライ人が来ておってしきりに宇津家の仕法をしている。この人であればお前さんの先生には十分であろう」と言われたので高慶は早速その所持していた書物をばすべて売って、それを旅費としてわざわざ野州表まで訪れて行った。いろいろ難儀の末にようやく野州桜町の宇津家の陣屋に着いて、二宮先生に面会を求めたところが、先生が言われるのに「聞けばお前は江戸の学者であるそうだ、ところが俺は百姓である。百姓が学者に会ったとて、何の益もなかろう」と、たびたび懇望したにもかかわらず、断乎として面会を謝絶された。しかし、世の中は捨てる神あれば助ける神ありで、その取次ぎをした人は桜町の某というもので、その時先生の門下生として陣屋で学んでいた人である。この人があまりに気の毒に思って、高慶もナカナカの人物であるから、貴重な時間を無益に費やすのもいかないというので、今でいう夜学校を開いて桜町の若い者を教育したということである。このようにすること約半年ばかりで、人格の高い上に学識のある高慶のことであるから、そのことが村の評判となって、遂には先生の耳にも達した。そこで先生はこの噂を聞いて、大変にその所業に感じたものと見えて、今度は羽織袴を持たせて先生の方から面会を許すというので、高慶を陣屋へ迎えられた。ところがその初対面の話がナカナカ面白い。なにしろ高慶の方では先生の知遇に感じて、飛び立つごとき喜びで、早速翁の前に出た。翁はいきなり「お前は学者であるそうだが、豆という字を知っているか?」と言われたので、高慶は「さよう心得ております」と答えた。そこで先生は「そうであれば、一つ豆という字を書いて見よ」といわれる。高慶は豆の字を肉太にしかも明瞭に書いた。ところが、先生が言われるには「お前の書いた豆は馬が食うか、多分この豆は馬が食うまい」と言いつつ、門弟に言いつけて、蔵から一掴みの豆を持って来らせ、「俺の作った豆は馬は食うぞ」と言ってそれを高慶の前に置かれたということである。これが両人物の初対面の問答であった。高慶は非常に理屈というものは国家天下を救うに足らないということを知って、これからり誠心誠意を尽くし、二宮先生の弟子になったということである。「富田高慶」広瀬豊・広瀬敏子共著p.16 富田は生来病身で、江戸遊学中もたびたび病気にかかって、自然に医者に縁故が深かった。これも江戸滞留中のことであるが、ある時、磯野孝道(また弘道とも書く)という医者にかかった。もと儒学出の医者であるから、専門のほかに救国済民の話も出たようである。(全、4の310)その弟子で助手格の奥田公民もかたわらでその話を聞いていたが、やがて自分の郷里の近くに二宮先生という方がおられて、その救国済民の大業を実際にやって、非常な好成績をあげ、近国に大評判になっているということを語った。富田が二宮先生の名を知ったのはこの時で、実に天保10年(1839)に当る。彼がやみがたい少年の理想を抱いて遊学の途に上がってから、およそ10年目である。・・・・・p.20 奥田公民は、常陸国真壁郡小栗村字加草の人である。小栗村は、二宮先生が管理している物井村の南隣に当る下高田村と接しているので、桜町とも一里ぐらいしか離れていない。しかも江戸から桜町に行く通路に当っている。そこで富田はまず加草の奥田家に行って、二宮先生への入門の手続きを考えた。来て見ると、先生の名声はさらに高く、方々から桜町に来て教えを乞おうとする人があまりにも多いので、来訪者はまず下高田村の百姓、大山太助という人か、下館の畳屋源吉という人かに、必ず紹介を頼む例となっていた。この二人はまず案内係である。 富田は、この二人ともに依頼したが、主に太助に頼んだ。・・・・・ 富田が始めて太助に連れられて桜町に来たのは、天保10年(1839)6月1日である。同行者には、伯耆国(ほうきのくに:主に鳥取県)の医者で荒木尚一という人があった。・・・・・ 富田はそれ以来、先生の下に何度も訪ねたが、入門どころか、面会すら容易に許されないことが分った。二宮先生は、「自分は実際家で、文学をもてあそぶ学者に用はない」という次第で、富田は暫く太助の家に仮住まいし、寺子屋を始めて生活の道を立て、ゆっくりと腰をすえて、機の熟するのを祈りつつ待っていようと決心した。そしてしばしば桜町に出向いては入門を嘆願するという持久戦である。そこで時には室外に漏れる先生の談話に耳を傾け、雨の中にも、夜半にも、先生の声を求めて、たたずみつくしたと伝えられている。 その年、6月11日に、二宮先生は公用で桜町を出立して小田原へ行き、8月1日に帰任。9月末になって、ようやく富田の熱心とその人物の程が認められたと見えて、面会を許されたのである。・・・・・ いよいよ面会を許されると、今日のいわゆるメンタルテストが行われた。言い伝えによれば、先生は富田に豆という字を書かせ、みずからは豆の実物を持ってきて、豆の文字は食われないが、自分が持っている豆は食える。学問と実際とはこれほど違うのだ、と教えられた。それからまた先生は富田から相馬藩の衰退のほどをくわしく聴き取って、「わが法を用いれば相馬の復興は期して待つべし」と確言された。富田が驚喜して、その理由を尋ねると、先生は答えて、「ここに包装した樽がある。その一滴をなめてみれば、その中は酒か醤油か分かるように、君は相馬藩という樽の中の一滴だ。小臣の次男でそれほどに熱心ならば、他は推して知るべし。一藩ことごとく一致して復興の事業に精進したならば、必ず成功するであろう」と教え諭されたとも言い伝えられている。(大槻吉直著『富田高慶翁伝』)
2026.05.05
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第151西方軍の二将は右の抗議をスコットランド委員会へ提出した後、クロムウェルが同じスコットランド委員会へ宛てて送った抗議的書翰〔書翰第150〕の写しを前に置いて腕をこまねいた。そして公の返翰は送らなかったが、質疑6か条を具して私信をクロムウェルに発した。〔訳者曰く、クロムウェルは10月25日エジンバラよりこれに対して返書を送った。例のごとく霊味豊かなるものであるが、前翰と同一趣意である故ここに訳出せぬ〕。これに対して返事は来なかったが、西方軍には一騒動起ったらしく、ストレーハンは身をひくというようなことになった。そして西方軍は自分だけの道を進んで行ったーその結果は後に出る。書翰第152クロムウェルはダルケース地方の匪徒の一根拠地を抜こうとした。貴下よ、貴下もし部下と共に城を出でてこれを我が軍に渡すならば、武器財物及びその他の必要品を携帯し行くの自由を得べし。貴下の城中に在る者はかつて我が兵を残害したる者どもなり。貴下もし余をして貴城を攻撃するのやむなきに至らしめば、面白からぬ結果の及ぶを期されたし。即答を待つ、以上。 1650年11月18日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル ボースウィック城主将殿 城将はこれに応じ、15日間の猶予を与えられ、すべて準備を了し、妻と子、財宝を携えて城を出で、かくてダルケース地方やカーライル道の辺りは前よりも穏やかになった。書翰第153カーとストレーハンの抗議提出はまたまた分離紛糾の種を蒔いた。僧職の方ではどうしてよいか解らぬという。スコットランド委員会の中にも意見は区々であった。北方の極端派なる純王党はいまだ全く消滅せず。而して西方の極端派なるこの「抗議派」には、真面目なる人々の同情し加担する者多くなった。どこに行っても紛々またまた擾々。かかる抗議を発しながら、イングランド軍とは講和せずして戦いを継続しようというのは、狂気の沙汰と見えよう。この計画はカーのやったのでストレーハンのではないようである。とにかく紛擾の際には人々の画策などは一致せぬもので、何もしないのが一番賢いのである。さてラムパートは3千の騎兵を携えて、カーに対すべく西方に赴いた。その結果はこの手紙に出ている。カー大佐はカーミュノックという所に陣していて、この攻撃をラムパートに加えたのであるそうだ。貴下よ、敵の間のある画策の結果を今日知るにつき、お知らせ申す。少将ラムパート、兵站総監フォレーは数日前グラスゴウへ向け進軍致せり。敵はハミルトン町のラムパート軍を襲いたるも、優渥なる神恩によりて、彼はこれを撃退し百人を殺し、百人を捕獲致せり。彼はなお敵軍追撃中なり。敵将カー以下将校多く捕えられたりとのことなり。敵の全軍散乱いたせり。敵よりラムパート軍に襲いかかりて、かえりてその覆滅を早めたることとて、誠に不思議なる御摂理のほど有難き極みなり。少将と兵站総監とはなお追撃中なり。敵の大佐ロビン・モントゴマリー騎兵4、5連隊を率いてスターリングより出で来りたるも(カー軍を迎えんためか)、この有様に立往生致せり。ストレーハン等数名の士官は既に1か月も前にこの西方軍を去り、カーが全軍を統べおり。我らが今日まで、スコットランド国の神を畏るる者と我らとの間に意志の疎通せんことを祈り、かつ努め得たること、偏に主のお導きによることと感謝致しおり。さりながら、我らを信任する者に対する我らの職責をまげてまでも、この事をなさんとはせざりしことと存ず。この誠実については主も嘉し給いたるわけにて、将来もまた然らんと信じおり。また貴殿等が神民の益を念とせらるる間は、主は貴殿等を嘉し給うことと信じ申す。スコットランド国の誠実なる信者にして事のためにたおれたるものに対して、甚大なる同情哀悼を表せり。まことに近時は、神スコットランド国の僧俗の心を動かし給いて、次第に我らの主義の正当なるを認むる人々増し、依然として害悪党に結ぶものもあれども、過去の行動を悔い、己れらの軽挙妄動が凄風惨雨の源となりしことを覚りて、その王党熱の醒めし者次第に多からんと致せり。ご加祷を祈る、以上。 1650年12月4日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル イングランド国議会議長ウィリアム・レンサル殿 大佐カー気違いじみた計画はここに終焉を告げた。カーは重傷を受けてもはや戦場の人となるあたわざるべく、ストレーハン等は反逆者と定められたので、公然クロムウェル軍に帰順した。-ただしストレーハンは間もなく死んだ。西方軍は散乱して、一部はスターリングのスコットランド軍に合したが、大部は正業に帰りて、再び武器をとらじと決心した。両極端派がたおれたので、今は中間派すなわち官人派のみが残った。この派は害悪党をも全部吸収して増大した。この派の出した「公けの決議」がスコットランド議会をも僧職議会をも通過したので、これを「決議派」とも呼ぶ。クロムウェルは、今や真の害悪派のみを敵としてもつことになったのを幸いとした。不幸なるは「決議派」なるかな。彼ら万一クロムウェルを破り得るとも、偽善の暴王を戴きおりては何する者ぞ!
2026.05.04
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第154-第160次はエジンバラ城の事件である。坑道の開鑿は岩が堅くて、はかばかしく進行せぬ。そうこうしているうちにクロムウェルが砲撃の配備は完全に整い、12月12日、3ヶ月の長囲の後、いよいよ砲丸をもって敵を驚かし、開城勧告状を送った。〔評者曰く、これに対して守将より返答あり、初めは容易に降伏しそうもなかったが、交渉往返数回を重ねて後、守将ダンダスは遂に19日条件の協定成立した上で、城を明け渡した。その間の交渉の文書が書翰第154より第160に至る7回の手紙である。多くは短翰であるが、これをことごとく訳出して中途の経過を知るも繁雑にして利益なかるべければ、これを省く〕。 公示余とエジンバラ守将ウォーター・ダンタスとの間に協定成り、この協定により、人民にして城内に財貨を有する者は、自由に城に入りてこれを持ち帰るを得べし。さればかかる人民は本月19日より24日迄の間に城内より財貨を持ち出すを得。我が軍の将士は人民のこの行動において危害を受けざるよう十分の監視をなすべし。もし我が兵にして人民を犯すあらば死をもって酬いらるべし。また人民に危害の加えらるるを黙視する士官あらば、彼もまた死に当るべし。 1650年12月19日これを発すオリバー・クロムウェル かくてスコットランド兵はエジンバラ城をクロムウェルの手に渡して城を出でた。守将ダンタス等は、スタリーングの司令部よりは反逆者くらいに見られた。彼らは公然または陰然抗議派の人として行動したのである。そしてクロムウェルの軍に投じてしまってもよい人々である。-事実彼らの大部は次第にクロムウェル軍に加わった。次にこの事件の報告書がある。かくてスコットランド兵はエジンバラ城をクロムウェルの手に渡して城を出でた。守将ダンタス等は、スタリーングの司令部よりは反逆者くらいに見られた。彼らは公然または陰然抗議派の人として行動したのである。そしてクロムウェルの軍に投じてしまってもよい人々である。-事実彼らの大部は次第にクロムウェル軍に加わった。次にこの事件の報告書がある。 書翰第161貴下よ、神、今日11時頃エジンバラ城を我らの手に帰さしめ給う。よりて簡略にご報告致すべし。12日城に向かいて降伏を勧め、交渉往復数回、遂に城は我が手に入り申す。実に神恩は大なり。もし敵降らざりしならば、多大の犠牲を払うも攻略容易ならず、而して攻城中は他の仕事を企つるなたわずという不便に陥り申すべし。この城の我が手に帰したるは我らの智慧熟練のためにあらず。全然、神のみ手によるともうさざるを得ず。スコットランド国において、この城ほど黄銅砲を多く有するは他にあるまじく、小生はその黄銅砲及び兵器弾薬の我が手に帰せし物の表を同封致せり。まずはこれにて擱筆す、以上。 1650年12月24日、エジンバラにてオリバー・クロムウェル イングランド国議会議長ウィリアム・レンサル殿
2026.05.04
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第149大将クロムウェルは「質問4項」を城中の僧職に提出して沈思黙考を促しつつ、翌々日敵勢の様子をうかがうべく西方に出発した。・・・・・・14日(土曜日)スターリングに向かって6マイル程進軍、翌日は雨天のためようようリンリスゴウまで進み、16日にはファルカークまで、その翌日はスターリングに迫り申す。18日(水曜日)には全軍城下に集りて攻撃の準備整い申す。然れどもこの町には兵多くして奪取やや難かるべく、かつ神これを我が手に渡したまうとも、味方の守営地としてははなはだ好適ならざるべき理由を発見いたす故、ひとまず引き揚ぐることに決定いたせり。19日我らはリンリスゴウに帰着いたす。王がスターリングに戻りしとかにて、スターリングにては祝砲殷々たりとの噂を、我らはその夜耳にいたせり。20日我らは無事エジンバラに帰着いたせり。この地にて時々敵の小砲撃あれど味方に損害なく、いたって穏やかに暮しおり。市民の中には帰り来たりし者も少々これ有り。我らの彼らに丁寧にして、求めし物の代価を払うを見て、逃避を悔い店を開いて営業致しおり。城中には15か月以上を支え得る糧食ある由の噂これ有り。この冬スコットランド国民は我らの真情を解し我らの主義を認むるに至るならんと主の御恩恵を通して信じおり(今日まで彼らは頑ななりしも)。小生はスコットランドにおいて順良なる民と不毛の国とを見出すことと存じおりしに、事実はちょうどこれと反対にしてエジンバラ辺にては地味ははなはだ肥沃なれども、人民は欺瞞にたけおり、以上。 1650年9月25日、エジンバラにおいてオリバー・クロムウェル 参議院議長殿 これら紛糾のなかにスコットランドをいかにすべきかは難問題であった。スコットランド国には味方もあるが、敵も多い。いかにすべきか?いずれにするもエジンバラ城攻略は目下の急務である。そして遂に坑道をうがって城を取ることにした。9月29日いよいよその作業にかかり始めた。(5)書翰第150-第161憐れなスコットランド人がチャールズ・スチュアート〔2世チャールズ〕にキリストのカンムリをくっつけようとした馬鹿馬鹿しい紛擾の海を、我らは海岸からチラリと見るだけにしよう。憐れなる民よ。彼らは「誓約王」を得たものの、この誓約王は実は名実相反の最たる者で、善は彼及びその徒党より出ずることなく、ただ災禍と無益が生るるのみであった。スコットランド国民のかの高潔なる目的がかかる徒輩に導かれて、次第に混乱し、衰退し、遂に覆滅するに至ることいたましき極みである。クロムウェルがここにスコットランド国民の精神を採り用いないならば、そはたちまち亡ぶるであろう。スコットランド人は夢想だにせざらんも、クロムウェルこそ実はスコットランドの味方なれ(かつてアイルランドの味方なりしがごとく)、オリバー今この地に来らずば、スコットランド国の大業たるそのピューリタニズムはどうなることであろう。我らはスコットランド国よりのクロムウェルの手紙がよくわかるために、簡単にスコットランド紛擾の模様を記そう。スコットランドの第一軍はダンバーに殲滅してその企画全く破れたれば、スコットランド委員会、僧職委員会及びスコットランド民一般は善後策に腐心し、いかにして戦いを続け得んかと一生懸命に考えた。そしてここに自ら3つの派が生れた。すなわち中間派と両極端派とである。中間派は官吏派にてアーガイル等官人の属するところ、新兵を募りて軍を補充し誓約せるチャールズ2世を奉じて前同様戦闘を続けようというのが、この派の主張であった。「否!」と極端派は答えた。もう誓約だのなんだのとそんな腐儒的行動は止めにして、ただチャールズ王を奉じて主として王の為の利をはかり、万人をしてこれに加わらしめんと叫んだ。公然たる「害悪党」または王党である。中将ミッドルトン、ハントリー侯等これが首領ににして、ハイランド地方で兵を募ったり、宣言を発したりしている。そして王を迎え取った。この派に対しては、デーヴィッド・レスレー将軍も終りには兵を進めねばならなかった。が間もなく官人の勧誘や軍の強圧のために、この極端派は鎮圧されて中間派に加わってしまった。 この極端派と相対する別の極端派があった。極端派といってもこれは精神的の方なので、この派は西部諸州を根拠として、カー大佐とストレーハン大佐を将とする西方軍を有しており、この地方の貴族その他の有力者はたいていこの派に加わっていた。「誓約」を守ること堅く、しかもその偽物を嫌った。カー大佐の事は前に出でた通り有名な将校で、ストレーハンもまた名将であって、クロムウェルとは旧知の間柄で、とにかくイングランド国側に傾くとの批難を蒙りつつあった。彼らはスコットランド国委員会の許可を得て約5千の西方軍を起こし、いまだその態度を明らかにせずして考察中にあるもののごとく、機至るまでは王にも従わず、レスレーの下にもつかずと公言した。しかして王の虚偽の人なるを悟っていて、これに従うを危うしとなした。クロムウェルはこの派に眼を注ぎ、彼らもまたクロムウェルを注視した。そのいかに発展したかは後にわかる。 ここにスコットランドの施政者に対する書翰があるが、この書翰はたいした効もなかった。 書翰第150卿らよ、我が軍がスコットランド侵入の理由及び目的につき、かつまた流血の惨を避けて事をなさんとの我らの配慮につきては、既にしばしば明瞭に開陳いたせり。然るにたびたびのご返翰によりて、貴殿らは我らが貴殿らに対して抱くほどの愛を我らに対して抱かざるを知り申せり。貴殿らは、諸悪の根源にして虚偽欺瞞の権化たるかの人〔チャールズ2世〕を迎えて、種々の困難に陥り、異端者として我らを目するの偏見に執し、ために、キリスト教的愛心に基きて鮮血野を彩らざる前に申し出たる我らの提言を拒絶致さる。戦禍無辜の民に及びて流血飢饉の彼らに臨むを思い、戦乱のかえりて「害悪党」の利を増すべきを考え、かつ我らが抱く愛情と真理の偽りなきを知るが故に、この一事を申し上げざるを得ず。もし貴殿等にして、国の平和を害し民の苦悩を増し、神の栄光を損じてまでも、かの人〔チャールズ2世〕のために尽くさんとするならばいざ知らず、然らずば、イングランドの民が無事平穏に貴国の隣りに住し得るの保証を、イングランドに与えよ。然らば貴国民はイングランドの民と永久の平和に在るを得て、宗教上においてまた政治上においてイングランド人の好意に浴し得べし。貴殿等この提言を拒まば神いかに貴殿らに対し給うかは、今日までの実例これを証しおり。以上。 1650年10月9日、リンリスゴウにてオリバー・クロムウェル スターリング(又は他のところ) に在るスコットランド王国委員会御中 スコットランド国委員会は、この手紙に対しては、だいぶ日を置いてから形式的の返事をしたばかりであった。この書翰の写しが「西方軍」へも送られたが、西方軍にては慎重にこれについて考究し、クロムウェルと文通するようになり、終にはクロムウェルのグラスゴウ訪問となった。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(4)書翰第147-第149〔評者曰く、原文には記していないが、エジンバラの市街はイングランド兵の手に入り、クロムウェルは5,6,7日の中にエジンバラに来り、スコットランド兵は僧侶とともに城に立て籠もったことと推定される〕。クロムウェルは8日(日曜日)エジンバラ市の各教会に説教のなきを見て、兵站総監エドワード・フォーレーをしてエジンバラ城守将に宛てて、「城中にある市中の自己の教会に来りて自由に説教するを得べく、イングランド軍総指揮官はこれを妨げざるべきことを将卒に申し置くべし」という意味を伝えた。これは9日のことであった。これに対して守将ダンダスより即日僧侶連の意志を伝え来った。曰く、「早速貴意に応ずべきであるが、貴党がイングランド、アイルランド、スコットランド国において僧職迫害を為したのを知っているから、暫く見合わせよう」と、この皮肉な返答に対してクロムウェルは際立った応答をした。 書翰第147貴下よ、我らが城中の僧職に寛大に申し出たる親切は寛大に応ぜらるることと存じたる次第なり。彼らその返書においていうがごとく、果たして「主に仕うるを念とする」ならば、想像の生みたる迫害くらいは意とせずして我が提言に応ずべきはずと愚考つかまつる。イングランドにおいては牧師は保護せられて、福音を伝うるの自由を有しおり。ただいたずらに政府に反抗するを許さざるのみ。イングランドにおいても、アイルランドにおいても、福音宣伝を妨げられたる者は一人もあらず、スコットランドにおいても我が軍の入国以来、いまだ牧師を苦しめしことあらず。キリストの宣伝者たるものは物の真実を語られたし。僧侶が大改革を叫びながら、この世の俗権に近づき俗権に頼りてこの事を為さんとし、チャールズ王のごときを奉じて成功を計るはその愚及ぶべからず。神の国はかかる拙手段にて建てらるるものにはこれ無し。我らをもって不当の侵入をなす者との批難ありしが、さらば貴国のハミルトン軍のイングランド侵入のごときはいかん。我らの侵入の理由についてはしばしば公表せしところにて、卿らはこれに耳をふさぐとも神はたしかに聴きたまいしことと信ぜり。彼ら(エジンバラ城中の僧侶)は、神は暫時聖顔を彼らに隠したるわけにて間もなく聖顔の顕わるることを期待しおる由なるが、神が彼らに聖顔を隠し給うもいなむに足らず。彼らにして、城を滅ぼし驕慢を滅ぼすものにして新エルサレムの石垣を築くに堪うるところの神の言、すなわち聖霊の剣に、全面的に頼るにあらずば、全世界の崇め貴ぶ神国をいかにして実現するを得べし、以上。 1650年9月9日、エジンバラにおいてオリバー・クロムウェル エジンバラ城守将殿 スコットランド国の僧侶どもは、僧職就任以来こんな鋭利な叱責を受けたことはなかったろう、オリバーのこの言に、エジンバラ城なりいずこなりに在る虚偽の勢力を破壊する甚だ危険な光輝がひらめいている。これに対して、やはり同日に守将ダンダスより僧職の意見を伝えて来ったが、超えて12日(木曜日)クロムウェルは再び長文の手紙を書いて、彼らの意見を反駁した。衒学者はまずい文章だというだろうが、作文はオリバーの職業ではなかったよ、この点を除いて他はすべて立派なものである。書翰第148〔評者曰く、これは今云うた長文の手紙でありが、その精神において前翰と略々同じき故略す。この手紙の中に彼は質問4項を封入して送ったが、これは詰問する意味ではなくして反省を求めたものであった〕。これに対して城中より前言を繰り返して答え来ったが、クロムウェルのほうではもう相手にしなかった。この上はただ「断」の一字あるのみである。公 示神の有難き御摂理により、エジンバラ市及びレース町は我が権内に落ちたれば、たびたび繰り返して告示したることながら、念のためまたまたここに公示す。スコットランド人民にして兵器を手にせざる者は、イングランド軍、エジンバラ市及びレース町に自由に商品を携え来りて市場を開くを得べし。その際我が兵がその生命財産をそこなうことなきよう保護せらるべし。市及び町の住民もその商品をあきなうことを得べく、兵士の奪掠にあわざるよう保護せらるべし。我が軍の士卒はこれに関して注意するところあれ、もし背かば厳罰伴わん。 1650年9月14日、エジンバラにおいて発すオリバー・クロムウェルエジンバラ及びレースにおいてラッパを吹き、太鼓を打ちてこれを公示すべし。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第143最愛の我が妻よ、余は長く書く時をもたず。されど汝よりの来書に、しばしば汝と子どもとを忘れぬようにとの注文あるは、はなはだその意を得ず。げに余りに汝を愛せずば他面において余り過つこともなきものを、汝は何ものよりも余にいとしーこの語をもって満足せられよ。主、絶大の恩恵を我らに賜わる。余が薄信もこれによりて支えられる。余も近頃は老人となりて老衰のいちじるしく迫るを感じれども、我が「内なる人」はいちじるしく強められ申す。我が朽つべき体は早く朽ちよ!我らが今回の成功についてはハリー・エーンまたはキルバート・ピカリングこれを詳報すべし。一同によろしく、以上。 1650年9月4日、ダンバーにてオリバー・クロムウェル ホワイト・ホオルにある 我が愛する妻エリザベス・クロムウェルへ 書翰第144親しき兄弟よ、主スコットランドにおいて大恩恵を賜わりたれば、目下多忙なれども、この際貴兄にお知らせいたさざるあたわず。水曜日(火曜日を記すべきを誤記せり。かつ綴り字に誤りあり。もって彼の繁忙を知る)我らはスコットランド軍と戦い申す。敵は2万、味方は1万1千にして病者多し。祈祷多時にして、約1時間ほこを交えしが、敵兵3千を殺し1万を捕獲し、兵器弾薬の捕獲極めて多し。味方は死者30人を出さず。これ主の為し給いし事にして、我らの目にあやしとするところなり。君よ、すべての栄光を神に帰せよ。ご家族一同をしてしかせしめよ。 1650年9月4日、ダンバーにてオリバー・クロムウェル ハースレーにある 愛する兄弟リチャード・メーヤー様 追伸、ご令閨様始めご一同によろしくお伝えくだされたし。ドル〔ドロシーすなわちリチャード・クロムウェルの妻〕には彼女と彼女の子を忘れずとお伝えくだされたし。彼女よりの手紙はあまり礼儀正しき書きぶりにて物足らず。もう少し率直の手紙を望めり。小生は彼女と彼女の夫との上に祝福を祈れり。彼らは暇ありながらあまり手紙を書かず、2人とも怠け者にてはなはだよろしからず。書翰第146ダンバー会戦の翌日、クロムウェルはフォートン卿に次のごとく書き送った。フォートン卿等の当時の位置については、書簡118に出た通りであるので、クロムウェルはこの大勝を知らせる気になったのであろう。我が親しい卿よ、余は貴兄を愛す、主を愛せよ、推論に欺かれ給うな!セーント・ジョーンズ公園において先日貴兄と語りし際、まことに小生は暴慢なりき。小生はしつこく己の立脚地について語り、貴兄等に対する余の観察を忌憚なく申し上げき、曰く「貴君及びヘンリー・ローレンス、ロバート・ハモンド等は推論に囚われし人々なり」と。貴君が自己の良心的満足を欲せられるよろしき事なれども、誠直ということは純粋に信仰的ならざるときは、誤りやすきものなり。主、貴兄及びすべての我が親友を教えんことを祈る。近時のトランサンクションズ(聖処分)に関してのご判断は誤謬なりと小生は存じ申す。自己の判断力もあまりこれに頼れば誘惑となり、罠となる。「成功」とてもまた然り。ノオトン、モンテーグ等にもこのことを知らせたく、貴兄よりよろしくお伝えくだされたし。愛が小生の推理に打ち勝つときは、小生の愚もまた善を為すべきを知り申す。優勝は偏頗の批評を生みやすきもの、願わくは誠直に小生を判断せられんことを請い申す。この大事件において主はいかに恵み深かりしぞ!主よ、なんじの仁慈を我らの眼より隠すなかれ!御令閨様によろしく、以上。 1650年9月4日、ダンバーにおいてオリバー・クロムウェル フォートン卿様書翰第145アイルランドにて同一主義のために戦える女婿アイヤトン中将等に対して、クロムウェルは忙中を割いて戦勝を報じ、慰謝奨励するところあった。貴君よ、貴君よりの御消息は余りなけれど、貴君が小生を忘れざることを小生は知りおり。小生もまた貴君を忘れずと思い給え。祈りの坐において小生はしばしば君を思いだせり。-主の御手、君をたすけてウォーターフォード、ダンカノン、カサーロー等を攻略せられし由、主の御名の讃むべきか。我らは世にも稀なる難戦を終り申す・・・・・・〔訳者曰く、この間に戦報あれど上述と重複する故略す〕。・・・・・・戦の前や、我らの位置ははなはだ憐れにして敵の軽侮威嚇に会せしも、主、大なる慰安をもって我らを支持し給う。多忙中ながらも、神のこの大恩恵〔神はこれによりて聖名の栄光を顕わし、聖徒に元気を賜う〕を貴君等にお知らせ申すは、一には貴君等のこれを知りて歓喜讃美に溢るべきを思うがため、-には我ら苦境に在りし時、貴君らの成功を開きて元気を得しが故に、貴君らもまた我らの成功によりて激励を得べきを思うがためなり。主、貴君らと我らを恵みて残りの生を御報謝の中に送り得んことを祈る。君と共にある我らの親しき友人各位によろしくお伝えくだされたし、以上。 1650年9月4日、ダンバーにて君の慈父にして真友なるオリバー・クロムウェル アイルランド代理太守アイヤトン中将 この手紙にはプリジェット・アイヤトン〔クロムウェルの娘にしてアイヤトンの妻〕のことは少しも出ないが、彼女は戦塵のモウモウたるを見ずに。無事ロンドンに、父と夫と離れて暮らしているのである。-そしてその勇敢なる夫には再び逢わぬであろう。〔訳者注、アイヤトンは後アイルランドに客死した〕。
2026.05.04
14クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第143最愛の我が妻よ、余は長く書く時をもたず。されど汝よりの来書に、しばしば汝と子どもとを忘れぬようにとの注文あるは、はなはだその意を得ず。げに余りに汝を愛せずば他面において余り過つこともなきものを、汝は何ものよりも余にいとしーこの語をもって満足せられよ。主、絶大の恩恵を我らに賜わる。余が薄信もこれによりて支えられる。余も近頃は老人となりて老衰のいちじるしく迫るを感じれども、我が「内なる人」はいちじるしく強められ申す。我が朽つべき体は早く朽ちよ!我らが今回の成功についてはハリー・エーンまたはキルバート・ピカリングこれを詳報すべし。一同によろしく、以上。 1650年9月4日、ダンバーにてオリバー・クロムウェル ホワイト・ホオルにある 我が愛する妻エリザベス・クロムウェルへ 書翰第144親しき兄弟よ、主スコットランドにおいて大恩恵を賜わりたれば、目下多忙なれども、この際貴兄にお知らせいたさざるあたわず。水曜日(火曜日を記すべきを誤記せり。かつ綴り字に誤りあり。もって彼の繁忙を知る)我らはスコットランド軍と戦い申す。敵は2万、味方は1万1千にして病者多し。祈祷多時にして、約1時間ほこを交えしが、敵兵3千を殺し1万を捕獲し、兵器弾薬の捕獲極めて多し。味方は死者30人を出さず。これ主の為し給いし事にして、我らの目にあやしとするところなり。君よ、すべての栄光を神に帰せよ。ご家族一同をしてしかせしめよ。 1650年9月4日、ダンバーにてオリバー・クロムウェル ハースレーにある 愛する兄弟リチャード・メーヤー様 追伸、ご令閨様始めご一同によろしくお伝えくだされたし。ドル〔ドロシーすなわちリチャード・クロムウェルの妻〕には彼女と彼女の子を忘れずとお伝えくだされたし。彼女よりの手紙はあまり礼儀正しき書きぶりにて物足らず。もう少し率直の手紙を望めり。小生は彼女と彼女の夫との上に祝福を祈れり。彼らは暇ありながらあまり手紙を書かず、2人とも怠け者にてはなはだよろしからず。書翰第145アイルランドにて同一主義のために戦える女婿アイヤトン中将等に対して、クロムウェルは忙中を割いて戦勝を報じ、慰謝奨励するところあった。貴君よ、貴君よりの御消息は余りなけれど、貴君が小生を忘れざることを小生は知りおり。小生もまた貴君を忘れずと思い給え。祈りの坐において小生はしばしば君を思いだせり。-主の御手、君をたすけてウォーターフォード、ダンカノン、カサーロー等を攻略せられし由、主の御名の讃むべきか。我らは世にも稀なる難戦を終り申す・・・・・・〔訳者曰く、この間に戦報あれど上述と重複する故略す〕。・・・・・・戦の前や、我らの位置ははなはだ憐れにして敵の軽侮威嚇に会せしも、主、大なる慰安をもって我らを支持し給う。多忙中ながらも、神のこの大恩恵〔神はこれによりて聖名の栄光を顕わし、聖徒に元気を賜う〕を貴君等にお知らせ申すは、一には貴君等のこれを知りて歓喜讃美に溢るべきを思うがため、-には我ら苦境に在りし時、貴君らの成功を開きて元気を得しが故に、貴君らもまた我らの成功によりて激励を得べきを思うがためなり。主、貴君らと我らを恵みて残りの生を御報謝の中に送り得んことを祈る。君と共にある我らの親しき友人各位によろしくお伝えくだされたし、以上。 1650年9月4日、ダンバーにて君の慈父にして真友なるオリバー・クロムウェル アイルランド代理太守アイヤトン中将 この手紙にはプリジェット・アイヤトン〔クロムウェルの娘にしてアイヤトンの妻〕のことは少しも出ないが、彼女は戦塵のモウモウたるを見ずに。無事ロンドンに、父と夫と離れて暮らしているのである。-そしてその勇敢なる夫には再び逢わぬであろう。〔訳者注、アイヤトンは後アイルランドに客死した〕。
2026.05.04
目黒蓮×塩野瑛久 不安を楽しさに変えて挑む “信じて疑う”役者道目黒蓮が元伝説の殺し屋・坂本を演じている「SAKAMOTO DAYS」が現在大ヒット公開中だ。クライマックスのシーンで坂本と激しい闘いを繰り広げているのが鹿島役の塩野瑛久だ。共に特殊メイクで驚異的な変貌を遂げ、人間離れしたアクションシーンに挑んだふたり。今作のイベントのためにカナダから一時帰国をした目黒と話題作への出演が相次ぐ塩野のスペシャル対談が実現。――クライマックスでの坂本と鹿島の壮絶なバトル、迫力満点ですごく見応えあるものでした。ハードなアクションの中におふたりのテンポ感も絶妙な掛け合いもあって面白かったです。目黒蓮(以下、目黒) 坂本と鹿島のシーンは、アクションで対立する場面が多かったんですよ。アクションはある程度、信頼できていないと、ギリギリまで攻めれない部分もあるのですが、アクションの中で「これだけ行って大丈夫なんだな」と、徐々に信頼が築けていけたのは、相手が塩野さんだったからだと思います。塩野瑛久(以下、塩野) いい画が撮れることに対してストイックなところがあります。例えば、蹴りを避ける時、カメラのアングル的に頭2個分ぐらいまで足が来ないとギリギリに避けたように見えないかなとモニターを見ていて思ったので、目黒くんが1番決まった蹴りを1番いいところで避けなければという緊張感を持ちながらやっていました。でも、それが楽しかったです。目黒 すごく、いい緊張感がありましたよね。塩野 目黒くんは運動神経もいいですし、信頼して、ギリギリまで、攻められました。映画の大きいスクリーンでは、ちょっとした遠慮が、分かりやすく出てしまう世界なので、ギリギリまで攻められたのは良かったです。――鹿島のバトル中に坂本が葵からかかってきた電話に出るというコミカルなシーンのやり取りも息ぴったりで、めちゃくちゃ面白かったです。そんなコメディ芝居のやりとりはいかがでしたか。目黒 あのシーンは福田監督から、「ここはこういう風にしてほしい」と土台となる部分を伝えてもらって。その中で、自分たちで「こういうものもできたら」とプラスできることを考えたんですよね。ツッコミをいれたり、一言入れたりしてましたよね。塩野 そうするとカットがかかる寸前に、監督の笑い声が響き渡って(笑)。目黒 そう、トンネルの中でね。塩野 トンネルで撮ったバトルシーンは、声が響くんです。結構みんな、いつも以上に現場で静かにしないと、音が入ってしまう状態でした。そんな中、アドリブ部分で二人が何かやると、監督の笑い声が響いて。カットがかかった後に監督が「ごめん、ごめん」と。「俺、カットかかる前に笑い声をあげちゃって、使える? 大丈夫?」とすごく心配していました。スタッフさんが確認されたら「ギリギリ大丈夫だった」とおっしゃっていて、無事、監督の笑い声は入ってなかったです(笑)。――思わず監督が笑ったというのは、どの場面ですか?塩野 坂本と鹿島のやり取りで、終わりどころが、僕らも分からない状態でした。どこで終わるって決めていないので。ずっとやり続けて、台詞に戻る瞬間を目黒くんが見つけて、戻るんですけど。セリフに戻った後の、僕のツッコミみたいなのは、その場で自然に出た言葉でした。目黒 そうでしたね。塩野 そのツッコミは不意打ちだったので、ツボにはまったらしく(笑)。塩野 僕は、福田組は初めてですが、福田組ならではの緩急の部分は保ちながらやりたいなと思っていました。そこを意識した結果、緊張感がありつつも、傍から見るとちょっとおかしい、みたいなところに繋がったのかなと思います。――鹿島のツッコミ、面白かったです。塩野 本当はもっと自由にお芝居ができたら、攻めたいろんなことができたんですけどね。目黒 でも、しっかりキャラクターの感情を持った中での動きでしたね。――本当に原作にはない福田監督ならではの笑いが盛り込まれたシーンでした。目黒 インの1発目のテイクがボイル戦だったんですよ。ワンカットめで特殊メイクの状態で撮影に挑むというのが初めてだったので、あれだけの特殊メイクをして、撮影をした前例がなかった。メイクを作ってくださる方たちも「こんな分厚い特殊メイクは正直したことない」という世界だったので、どこまで特殊メイクを崩さずに挑めるのか未知の領域に飛び込む緊張感もあったんです。そしたら、アクションシーンぐらい汗をかいてしまって、早速メイクが崩れてしまった。そんな中、コミカルなシーンも、1つの笑いを生み出そうと頑張っていましたね。坂本の心情に、「葵たちの元へ帰りたい」という坂本の真剣な思いがあるので、笑わせに行こうとしているのではなくて、真剣にその思いを持った上で動いて、笑ってくれたら、いいなという気持ちでやってました。――そこでの目黒さんはあまり見せたことのない顔をしていましたね。目黒 確かにあまり見せたことはなかったですね。これまでお芝居シーンは重めの感じが多くて、その深い感じが良かったですけど。でも、真剣にやるということは、どのジャンルにおいても変わらないことなので。ただ、真剣に本気でやってました。――個性的なキャラクターで縛りもある中、セリフ以外の部分でやりとりしていたんですね。塩野 福田監督は楽しく現場を作られていますが、厳しい演出家の部分もあり、何か試されている感じがしたんです。監督が望む笑いのシーンになったのかも大切なんですが、僕の中のキャラクターを守るという正義を大切にしました。目黒 それはしっかりキャラクターの中の感情の動きをもった上でやるっていうことですよね。僕もそれをすごく大事にしてたんですよ。坂本の葵たちの元に帰りたいっていう感情の動きがある中でやってました。――目黒さんはふくよか坂本とスマートな坂本を演じ分け、鹿島は顔に特殊なメイクを施してのお芝居で、いろいろ制約がある中のお芝居は大変そうですね。目黒 ふくよかな坂本の状態で、もうどこまで自分が動けるのかも分からないし、本当に未知で。やってみたら、首が左に向かない、右にも向けないとか、やっぱり色々な問題が出てくるんですよ。汗がどこかの隙間から漏れ出てくることもありましたし。どこかのパーツを取ったら、もう絵に描いたように、溜まった水が出てきたり(笑)。ここまで寝っ転んじゃったら、もう立ち上がれないという状態になったり。自分の体験値を張り巡らせて、この範囲にとどめておけば次の動きに入っていけるななど、色々な挑戦がありましたね。でも、トライしていくことが楽しかったです。誰も正解を持ってないし、「こうやったらいいよ」とか、「あの人はこういう風にやっていた」とか、そういうものがなかったので。周りのスタッフの方々が本当に助けて下さったおかげでできました。――特殊メイクも4時間かかったそうですね。目黒 特殊メイクは、1パーツずつオーダーメイドなんですよ。しかも、撮影が終わり外してしまったら、もうそれは一度きりで、終わり。あれを作るのに、多分スタッフの方々は、「失敗しちゃったな。もう1回作ろう」ということを何回も繰り返しチャレンジされていたと思います。周りの方たちも、みんなでトライしていくことができたので、喜びがすごくあって。その感じが楽しかったですし、新しい達成感を味わえました。塩野 目黒くんは、ふくよかな坂本の状態で何回も練習をするわけにもいかないので、テストと本番の2回ほどで、感覚を自分の中で見つけながらやらなければいけない緊迫感があったと思います。決められた通りに動くことはできても、坂本として魅力的に動くとなると……。キャラクターが魅力的に見えるようなアクション、素振り、一瞬のものをたった2回のカットで決めなければいけないという。アクションをする中で、頭をフル回転させていましたよね?目黒 いや、本当にそうなんですよ。鹿島はどうでした?塩野 原作は続きがありますが、僕たちがやっているのは2時間の中で、絶対に終わる物語。その中で坂本の前に最後に立ちはだかることができる役どころなので、とにかく鹿島を不気味に、強そうに、1歩踏み込んだところで見せなければいけない。坂本の攻撃を食らうたびに鹿島は関節が外れるんですが、そうすることによって鹿島の不気味さも出せるし、坂本の一撃がどれだけ強いかというのを表現できると思って挑みました。目黒 鹿島の1個1個の不気味な動き、すごかったです。アクションや殺陣で、重要だなと思ったことがあったんですよね。パンチやキック、攻撃をしているほうが派手に上手く、カッコよく見えるかもしれないけど、実際はそれを受けてる、くらってる方が重要で、その受け方が上手ければ上手いほどすごく見える。このリアクションが大事なんです。塩野さんはそのリアクションの部分が結構多かったと思うんですよ。攻撃されて、全てのリアクションをこぼさずに拾って、鹿島のクオリティを高いところまで持っていく難しさがあったと思います。――お互いリスペクトを持って現場に立っていたことが今のお話から伝わってきました。塩野 実は、僕は目黒くんが出演されていた『silent』がめちゃくちゃ好きなんです。当時、ファンの方へ向けたライブ配信でもその話をしたくらいなんです。だから今回、共演が実現して鹿島として対峙できて、すごく嬉しかったです。同じく『silent』以降に目黒くんのことを知った方よりも、僕は目黒くんのことを知っているみたいな気持ちです(笑)。目黒 ふふふ。いや、有難いです(笑)。塩野 共演してみて、目黒くんの魅力をひとことで言うなら、誠実さにあると思いました。目黒 いやいや、塩野さんこそ、僕から見て、すごく誠実な方だなと思います。現場を一緒にやると1つ1つ丁寧にやってらっしゃるなということが分かります。あと、僕、今まで年齢が近い方とお芝居することが意外と少なかったんですよ。今回、お芝居を一緒にやらせてもらって、いつもとはまた違った刺激をもらいました。もっと一緒にできたら楽しいんじゃないかなと思って。これだけでは足りないですよね(笑)。塩野 ご一緒できるように頑張ります!――もし再共演されるなら、どんな作品がご希望ですか。目黒 どんなのがいいかな。今回はアクションをぶつけあったから、繊細なものも、面白いかもしれないですね。塩野 そうですね。これまでに出られていた作品で繊細な目黒くんを見てきましたが、今回のようなコミカルな役も演じられて、本当に多才な方なんだな、と。だから、どんな作品でもご一緒できたら、楽しめると思うので、どんな作品でも嬉しいです。――この作品は、お二人にとって色々な挑戦が詰まった作品になったと思います。目黒さんは現在、カナダに長期滞在しての撮影に挑まれている日々を送っていると思いますが、新たなチャレンジをする時は、毎回どのような想いで挑まれているのでしょう。目黒 カナダで作品に参加することには、もちろん並々ならぬ覚悟を決めてトライしに行きました、でもやっぱり少し不安もあったんです。――それは緊張で?目黒 はい。車の中で撮影に向かっている瞬間もそうでしたね。そのとき、これが人間が不安になった時の感情、心の動きなんだなと思って。でも、それは今しか感じられないことだと思うんです。今日の夜になれば、もう感じられなくなってしまうかもしれない。この気持ちになれるのは、今しかないものなんだと、その瞬間にしかない感情の波に乗る楽しさを少し俯瞰で感じられました。――目をそらさず、1つ1つの感情を受け止めて、その瞬間を感じるのってすごく大切なことかもしれないですね。目黒 不安よりも、この先の5年後、10年後の自分がどうなっているのかという楽しみが勝るというか。そのような感じです。塩野 僕は常に自分の価値観とセンスみたいなものを信じて、一方では疑って、そんなことを繰り返しながらずっとチャレンジしていきたいです。――疑うんですね。塩野 “自分ならできる”という気持ちを信じています。とりあえずやっている最中は自分のことをとにかく信じる。でも、俯瞰で自分を見た時に、絶対に甘く見積もらないというところは、意識しています。周りが「良かった」と言って下さるのを常に疑っているタイプです。自分の目で見て、自分がまだまだだと思ったら、とことん追い求める姿勢で、極めていきたいです。目黒 お話を聞いていて、すごい分かるな、と。疑いますよね。どこか自信を持っていてやっていることにも、不安があるから頑張れる。疑うから、不安だから、しっかり準備するんですよ。もう誰よりも準備する。これで余裕だと思って準備しないのと、全然違うと思う。塩野 わかります。準備するのはもちろんですが、いざ現場に立って、パフォーマンスをする瞬間には、絶対その気持ちは置いてこないとダメだとも思う。僕らもプロとしてやっているので、疑ったまま現場に臨むのは絶対良くないじゃないですか。だから、やるものに対しては絶対に信じる。目黒 これだけ準備したし、っていう、ね。塩野 自信を持って現場では過ごしているけど、終わった後に僕はちょっと自分のことを厳しめで見ながら次に活かそうとします。目黒 もうその繰り返しですよね。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第140〔評者曰く、前半、月末よりダンバーの戦いまでに至る戦報の部分上述と重複する故略す〕。・・・・・・さればこの戦いこそ神がイングランド国とその民に与え給いし最も大なる恩恵の一なり。「神これを為し給えり」というは至ってたやすし。されど、主の栄光を顕わし主の称賛を受くるようの改善進歩を施し、主のご恩恵の空しくならざらんことを努むるは貴兄等の責任なり。貴兄等議員諸君が貴兄等の奴僕たる我ら〔クロムウェル軍〕を認めずして、ただ神をのみ認めんこと願う。また神の民を認めんことを願う。貴兄等が自己を否認して、而も議員たるの権威を認め、これを用いて、イングランドの平和を乱さんと謀る暴慢無礼の徒を(そのいかなる口実を有するとも)懲らさんことを願う。おさえらるる者をはなち、憐れなる捕らわれ人の呻吟に耳を傾け、すべての職業に伴う害悪を除かんとつとめられたし。もし少数を富まさんがために多数を貧者とするがごとき職業あらば、これ共和政の本旨に背けり。貴兄等の奴僕〔クロムウェル等〕に戦闘の力を賜わる神は、神の栄光のため共和国の栄誉のため、貴兄等にもまた施政改善の力を賜わるべし。-然る上においては単に英国の幸福のみに止まらず、各国もまたこれにならいて、ついに世界万民の利福と相成るべし。貴兄等の精々この事に当り給わんこと、我らの懇願するところにこれ有り。我らこの国に来りし以来、専ら流血を避けて円満の解決を見んと欲せり。これスコットランド人もまた神をおそるる民なる故なり。さればたびたびスコットランド国人民に我らの真情を披瀝したれども、僧職等は我らの意志の人民に伝わるを妨げり。このたびの戦いに僧職等の中に死せし者もある由、これ主の大いなる御手と存ぜり。彼らは愚かなる牧者にして、この世の政治に干渉し、この世の政権と結びていわゆる「キリストの王国」を建てんとの愚図に出で、神国建設のための唯一真正の力なる神の言、聖霊の剣〔真の剣にあらず〕を蔑視する輩なり。望むらくは彼らが福音の単純に帰りて、イエスの宣伝のみを為さんことを。この長信をゆるされよ、以上。 1650年9月14日、ダンバーにおいてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿書翰第141ダンバーの戦いの前日にハスルリッジに宛ててしたためた手紙(書翰第139)は、つい出さずにしまって、この書翰第141の中に封入して送られたのである。貴君よ、別紙(書翰第139)によりて、会戦前における我らの地位をご了解相成りたく、以て今回の勝利のいかに大なる天恩なるかを知られたし。今回の戦勝についての小生の感想は議会まで申し出ずるに付き、貴君にはただ戦勝の報告に止め申す。これ主が貴君の心を開きて恩恵的思惟に入らしむることを信ずるが故なり。なお主、我ら業を祝し給わば、エジンバラ、レース、スターリングブリッジ等においてなお開戦の機会を与えらるることと愚察まかり在り。かかる次第なれば、兵力の充実こそ願わしく、ついてはなにとぞ貴軍の至急ご来援あらんことを願い上げる。まず目下整いおるだけの兵をトムリンソンに与えて至急に来たらしめ、残余を貴君が統率して来ることは最も機宜に適することと思われ申す。願わくは機会を失わず時を失わざらんことを、敵にも相当の企画あるべければ、現われたる機会を採るは我らの利なり、以上。 1650年9月4日、ダンバーにおいてオリバー・クロムウェル ニューカスル(または他の処)にあるサー・アーサー・ハスルリッジ様(至急、至急) 書翰第142〔評者曰く、これは9月4日に参議院議長に宛て、戦後の模様を報じたものである。少将ラムバートに6個大隊を付してエジンバラに向かわせたことや、捕虜の処分に苦しんでその半数を解き放ったことなどが記してある。訳出を略す〕。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)ダンバー半島の基底は、ベルヘーヴン湾の岸より起こりてブロックスマウス邸(ハウス)に至りて海に入る。この間約1マイル半、ブロックスマウス邸はロックスバーグ伯の邸宅であって、その名の示すとおりブロック川の河口に立つ。このところはクロムウェル軍の占めおる最左端の地点である。この小川はラマームアに源を発し、レスレーの陣するドウーン丘の裾を回りて、このところにて海に入る。この小川は深い、草深き谷を通るが、この谷というのは深さ40フィート、幅はその数倍もあって、数千年数万年の間に、次第次第に川のためほりさげられて出来たものである。オリバーの軍はこの川の左岸に沿うてー川とダンバー町との間にー陣をひいたのである。クロムウェルは部下の士官とともに、月曜一日をこの配陣に費やした。同じ日の黎明、レスレーはこの小川の右岸を占領すべくまず騎兵を丘上より降し、午後4時頃よりは次第に全軍丘を降りて、川と丘との間の狭地に陣を取る。すなわちこの月曜日(9月2日)には篠つく雨と吹きすさぶ風の中に、ブロック川の両岸に(敵は右岸に味方は左岸に)陣列が布かれたのであった。敵にせよ、味方にせよ、攻撃を開始せんにはまず第一にこの川と谷を超えねばならぬという大不便に立つのである。オリバーの陣列の背後(陣列と町との間)には天幕小屋がたくさん散在している。一個大隊に一つ宛ての野営である。この野営のある地は凹凸の多い低地で、現今は秋風に金波の至らぬ隈もないが、当時はその一部のみが耕地で残部(あと)は荒草離々たる有様であった。この日驟雨を伴う風は烈しく吹き、幕屋はからくも立っていた。この朝クロムウェル軍の砲はわずかに1軒しかない農家に運ばれた。ほかにも一つ小屋が谷の底、河畔に立っているが、この辺りは谷が浅いので、川の「通路」となっているのである。ブロック川にはも一つ「通路」がある。今の「ロンドン道」はこの通路をよぎるのである。前にいった「通路」よりは1マイルも東に寄って河口のブロックスマウス邸に近い辺りにある。このところは谷の両岸の傾斜が緩やかで人馬の通れるほどの坂路となっているのである。ただし、両岸すなわちレスリー軍側の方にてはいよいよけわしく、高まりて高地となり、トウーン丘の起端をなしている。この通路において、ダンバー会戦の血劇は起こったのである。げにやここに天下になされたる義勇軍(ヒロイズム)墓が記念碑なしに立つのである。まことに一英雄の足跡がここにあるのである!この日の夕暮れ、オリバーはランバートを携えてブロックスマウス邸の庭を散歩していた。ふと見れば、レスレーは丘を降りて対岸の傾斜せる耕地に陣し、騎兵の左翼部隊の大部を右翼に牽きて、全線次第に右へ右へと動く、読めたり、読めたり!彼はブロックスマウス邸とその傍らの「通路」を占領せんとするのである。かくしてしまえばいつでもクロムウェル軍を衝くことができる。敵は思うた。もうクロムウェルは袋の中の鼠である。逃げることはできぬ。全軍の覆滅期して待つべしと。ある伝説によるとレスレーが僧職委員会(軍に同行せる)に迫られて、心ならずもなした攻撃法であって、クロムウェルは敵のこの右進をみて「主、我らを救い給えり」と叫んだとか。レスレーがこの進軍をなしたのは、自ら死地に入ったようなもので、その原因にについては種々の説があるが、要するにレスレーは何かに強いられてこの日終日全軍を丘より降して右に進めたのである。そしてクロムウェルはこの敵軍の運動の目的とするところを見抜いたのである。ブロックスマウス邸に敵のこの運動をみたるクロムウェルはランバートにいう。「我らより進んで敵をうつはよろしからず。敵の右翼は谷に開けた地に来りあれば、いずれよりもうつことを得。その本隊は丘と川との間の狭い地にあれば、兵を動かす余地なく、右翼を前面と側面とより我が全軍を挙げてうたば、逃げ場は無ければその本隊の上に崩れかからん。然らば全軍の覆滅易々たらん」と。ランバートは熱心にいうた。「小官もこの事を進言せんと思いいたり」と。たまたまこの場に現われしモンクもまたこれに同意した。ここに軍略定まって、攻撃開始は明朝払暁と定まった。兵はこの難戦を前に控えて皆その武器を抱えて寝た。風吹きすさびし一夜よ、9月2日は今の暦によれば9月12日である。収穫月はアラレをふらす雲の中に深く隠れていた。祈れ、祈れ、死闘近づけり、祈れ。而して火薬を湿らすなかれ!覚悟せよ。丈夫のごとく振舞えよ!-かくのごとくにして彼らはこの夜を送り、ダンバー半島とブロック川とをして永く我らの記念地たらしめた。われらイングランド人は幕屋を持ちしもスコットランド兵はこれを持たず、荒ぶる海は低く重く動きて硬岩の入り江をうち、大血戦を予表するがごとし。外は海と暴風、我らのほかは皆眠れりーただ大能者の風の翼に乗れるを想う。午前3時、スコットランドの歩兵は命によりて一中隊に2の火縄を残して他を悉く消し、いなむらのかげに結び難き夢を結ぶ。さめよ汝イングランド兵、いましめよ、祈れよ、そして火薬を湿らすな。午前4時命令来る。曰くホッグソンの連隊を先頭として全軍ブロックスマウス邸に進み、ブロック川の「通路」を渡り、敵の右翼を撃破すべしと。その前、我がホッグソン少佐は陣列を巡視して、一旗兵旗手の祈れるを認め、馬首をめぐらしてしばしこれを傾聴していたが、やがてともに祈祷を始めた。この下士は極めて熱心に祈りて少佐に百倍の勇気を与え、少佐はまたこの事実を士卒に語りてこれを励ましたという。まことや天は我らに救出の道を拓きたり!時しも月は黒雲に乗りて物凄く輝き、東方セーント・アブの岬には既に黎明の微光を見る。攻撃の時は来た。けれどもラムバートの姿は見えぬ。彼は遥か右翼の陣列を整えていたのであった。オリバーはラムバートの遅きにしきりにいらだった。スコットランド兵の右翼もさめて我らをうたんとするがごとく、ラッパは一度響いた。然るに攻撃を指揮すべきラムバートはいまだ来ない。クロムウェルはいらだった。-見よ、ラムバートは遂に現われた。たちまち聴く、ラッパの声は鋭く夜の沈黙を破り、砲は前線に添うて鳴った。「万軍のエホバよ!万軍のエホバよ」と。進め、我が勇士よ、進め!この右翼部隊攻撃は45分間の激戦猛闘であった。味方の砲銃火は対岸の敵の主力を見舞った。-然しスコットランド軍右翼の騎兵隊は、槍騎を一列に連ねて猛然として襲い来り、我ら一度は少しく退いた。されども神は我らに力を賜い、我らは歩騎もろとも敵に殺到してこれを蹂躙した。右翼の敗兵はコッパース通路(パス)に走った者もあるが、大部は味方の本隊の歩兵の上に崩れかかった。あわれなる歩兵よ、既に対岸より銃砲火を浴びて、いまだ火縄すら全部燃えつかざるに、今新たに味方の騎兵の崩壊し来たれるがためにその馬蹄に蹂躙せられ終わった。その場に死せし者実に3千を越えた。秘書ラッシワスは議長に報じていうた。「余はいまだ歩騎の攻撃のかくまでに成功せしを見ず」と。時にあたかも旭日の第一光は海角の上にゲルマン海〔北海〕より出でた。詩篇作者は歌う。 ねがわくは神起き給え その仇はことごとく散り、 神を悪むものは 聖前より逃げ去らんことを。〔66篇第1節〕と、まことにそのごとくスコットランド軍は全く撹乱されて、残軍は右に走り左に逃れ、混乱してダンバーを指して逃げる者さえ少なくなかった。ハッカーは追撃軍を導きてハッヂントンまでおうた。その前イングランド軍はクロムウェルの命によりドウーン丘の麓に止まりて、詩篇第117篇をバンガーの譜に合わせて、心ゆくばかり天空に向かって歌った。 もろもろの国よ 汝らエホバを讃めまつれ もろもろの民よ 汝らエホバを称めまつれ そは我らに賜う そのあわれみは大なり エホバの真実はとこしなえに絶ゆることなし エホバを讃めまつれ歌い終わってまた追撃に移った。 捕虜1万、高官名士にして捕獲せられしもの多く、刃の錆となったものも少なくなかった。僧職委員会の僧侶にして殺されしもの捕らわれしものもあった。 デーヴィッド・レスリー大将は逃げる事にも強くて、9時にはエジンバラに帰着した。老リーヴン〔敵の副将?〕はレスリーほどには敏活でなく、やっと午後2時に着いた。悲惨の極みではないか。思い見よ。1644年1月、スコットランド人がイングランドの民軍を援けて王党をたおさんと、「満目皚々(がいがい)たる白雲に膝を没してダンバーを去」〔上巻167頁〕った以来の変化を、場所は同じきに事はあまりに違うではないか。当時彼らは「誓約」によりて起ち、今もまた誓約によりて起ったのであるが、彼らは誓約の文句に拘泥し、イングランド人はその実によったために、ここに二者の衝突を来たし、ついにスコットランド人はその誓約とともに覆滅されたのである。-スコットランド人よ、今は学ぶ処あれ、卿らが誓約の文字は再び復活せざるべし。されどその精神、実質は決して死することはあらじ。 かくのごときが実にダンバーの戦争であった。世にも珍しき圧倒的勝利であった。 公 示スコットランド兵にして、負傷のために退却するあたわずして、そのまま戦場に止まるものありと聞く。スコットランドの人民に戦場に入りて自国の負傷兵を担いて、適当の場所に運び去るも随意なりと知らしめよ。イングランドの将卒はこのことを含み置くべし。 1650年9月4日、ダンバーにおいて発すオリバー・クロムウェル
2026.05.04

梅岡女学校付属看護婦養成所にスコットランドからバーンズがやってきた。バーンズはいきなり英語でまくしたて、英語ができる直美が通訳を担当。「今日からこの学校で看護を教えるマーガレット・バーンズです。ナイチンゲールの看護を学んできました。ナイチンゲール女史の精神は私の中にある」とあいさつし、すぐに授業を始めるといい、1期生7人を教員宿舎へ連れていった。エプロンをつけたバーンズはここが教室だとし、まずベッドのシーツを替えさせた。それは今後毎日やる作業で、全教員のベッドのシーツを替えろという。バーンズは拳ぶんほど窓を開けた後、まず見本を見せると言ってシーツをきれいに敷いた。最初に玉田多江(生田絵梨花)にやらせたが、その途中で「This is not nursing!(これは看護ではありません!)」と注意。他の生徒にも「This is not nursing! Try again」を連呼し、初日から夕方までシーツを替えさせた。ダメ出しされたりんは「何が看護なのでしょう?」と反論するが、バーンズは「自分で考えなさい」と言って理由は教えない。それから毎日、朝はシーツ交換をしてその後は掃除。バーンズはきれいにした台所まわりだけでなく、窓のホコリまできれいにするよう求め、換気を徹底させた。バーンズの目的が分からないまま、この作業が続いた約1カ月後、「That’s nursing」とやっと合格をもらえるようになった。そんななか、バーンズは「だいぶ清潔を保てるようになりました」と言いながらも、「しかし、皆さん自身が不潔です」とダメ出し。髪型を変え、自分で結うよう指示した。日本髪は油で固めて結い上げるもので洗髪は月に1回ほど。バーンズはまず舎監の松井エイ(玄理)からだとして、戸惑う松井を座らせ、日本髪を洋髪に変えさせた。松井の新しい髪型を見た生徒たちの表情は固まった。X「もう先生のことが好きだわ」「間違いなく良い先生」「なかなかいいキャラなんでない?」「バーンズ先生出てきて俄然面白くなってきた」アグネス・ヴェッチスコットランドのエディンバラの生まれ。1874年に旧エディンバラ王立救貧院病院看護学校にて一期生として入学し、看護を学ぶ。卒業翌月にエディンバラ王立救貧院病院で看護婦を始め、その後、セント・メアリー病院や新エディンバラ王立救貧院病院でも勤務を行った。1881年に病院を自分の希望で退職し、同年に兄が宣教医をしていた清朝に向かった。1887年(明治20年)9月、日本に招かれて訪れ、翌月、東京帝国大学(現在の東京大学)医科大学第一病院の看護教師として着任した。1年間、同病院で看護教育に当たる中、当時滞日していた宣教師のメアリー・トゥルーが創設した桜井女学校からの大関和や鈴木雅らの依託生を同病院の看護婦や副看護婦と合わせて指導し、看護方法の講義のほか西洋式の看病術を病院で実地に教授して、日本の看護の近代化に大きく貢献した。1888年(明治21年)11月に任期満了となり離日した。ヴェッチの教育のもと、桜井女学校からの依託生6人を含む28人が看護婦として養成され、うち1人が看護教師として養成された。1942年に故郷のエディンバラで死去。100歳没。〇ナイチンゲールは、生涯のうちで神の声を4回聞いたという。最初は16歳の時。「1837年2月7日、神は私に語りかけられ、『神に仕えよ』と命じられた」とメモに書いています。神の声は、初めて病院の職に就く前やクリミア戦争の前など、彼女の人生のうちで特に重要な時に語りかけた。24歳になる少しまえに、つぎのようなことを書き残している。「私のように二重、三重もの罪を犯した人間が、さらに罪を犯すとどうなるか、この苦しみはだれにもわからないだろう。神をこれほど苦しませた人間はいないだろう。誰にもまして恵まれた環境にありながら、私は罪を犯してしまったのだ。」アメリカの社会事業家で盲学校も初めて創設したサムエル・ハウ博士の言葉が彼女の生き方を後押しする。上流階級の若い女性が看護の仕事に一生を捧げることについてどう思うかという彼女の質問に、ハウ博士は答えた。「それは確かに異例のことです。しかし私は『進みなさい』と言いましょう。もし、そのような生き方が自分の示された生き方だ、自分の天職だと感じるのであれば、その心のひらめきに従って行動しなさい。他者の幸いのために自分の義務を行っていく限り、決してそれは間違っていないということが分かってくるでしょう。たとえ、どんな道に導かれようとも、選んだ道をひたすら進みなさい。そうすれば神はあなたと共にあるでしょう」25歳のとき、彼女は両親や家族に自分の希望を言った。母親は驚きと恐れのために、震え上がった。母親は看護婦になるなどは恥ずべき願いだとし、父親も「看護などという愚かなことを!」と軽蔑をこめて語った。「年ごとに若さを失っていくだけで、私が生き続けていても何に得るところもありません。…私は塵芥(ちりあくた)ほどの価値もない人間です。ああ、何か、強い力が働いて、このいまわしい人生を過去に押しやってくれないものでしょうか。」「…私はどん底まで落ち込んだ。私のみじめさと心の空しさはとても筆舌に尽くせるものではない。」「…今朝の自分は、涙に魂までも流れ果てる思いである。胸をえぐる悲しみ、孤独の苦しみ、このどうしようもない淋しさ、……」「もう私は生きていけない。主よ、どうかおゆるし下さい。そしてどうか今日私に死を与えて下さい。」「…黄泉(よみ)の悲しみが私を取り巻いている。どうか神様が私の魂を黄泉の世界に捨ておかれませんように。」「…鋤で魂をえぐられる思いだ。」彼女が25歳の頃、ある社会的地位もある人から結婚の申し込みを受けた。彼女は、ふつうの上流階級の人生を送ることを断念していたために、その申し出を断った。しかしそれによって相手の人は打撃を受け、その家の人とは絶交になった。それまでにも数々の悩みと苦しみにさいなまれていた彼女は、そのことによっていっそう苦しみもだえた。「ああ神様、神様、どうしてあなたは私を見放されたのですか!」という以外に言葉もありません。もう私にとっては人生は真っ暗闇です。このようなとるに足らないことでどうして私たちはこんなに苦しまねばならないのか。…」彼女が30歳になったころに彼女はだれにも言えない心のなかの叫びや苦しみを書き記していた。それは鉛筆のなぐりがきで、筆跡も不安定、判読できないほどのものであった。「3月7日 神は朝、私を呼ばれて、神のために、ただ神のためだけに、わが身の名声を顧みずに、善をなす意志があるかと問われた。」3月8日 つぎの質問についてじっくり考える。女子修道院長はこう私に問うた。「あなたは、全世界を支配されている神と、あなたの小さな名声との板ばさみになって、万が一にも迷うのですか。」「何千、何万の苦しんでいる人々の存在を思うとき……農民たちの小屋という小屋には、同情さえも受け付けない苦しみが満ちているのを目にするとき ― そうしてこの世はすべてあいも変わらず朝ごとに同じことを繰り返している。 ― そしてこのさまよえる地球は永遠の沈黙を守りつつ、何事もないかのように、これまた冷徹な星々の間を、その単調な軌道のうえを、容赦なく回り続けるのです。こんなことなら死よりも、生きている方がいっそうわびしいというものです。」「私はあらゆることを他人からの賞賛を得るためにやっている」「『ああ、神様、どうしてあなたは私を見放されたのですか』という以外に言葉もありません。私の人生は真っ暗闇です。このような取るに足らないことでどうして私たちはこんなに苦しまねばならないのか」「今日で私は30歳、キリストが伝道を始められた年だ。もう子供っぽいことはたくさん。人を好きになることも、結婚ももう結構。主よ、どうぞ御心のみを、私への御心のみを為してください。主よ、御心を。御心を」5月12日 今日で私は30歳、キリストが伝道を始められた年だ。もう子供っぽいことはたくさん。人を好きになることも、結婚ももう結構。 主よ、どうぞ御心のみを、私への御心のみをなして下さい。主よ、御心を、御心を。5月21日 私は30歳。…ただ神の御心のみを全うし、自分の栄光を願うことのないように…。6月7日 …こんな最悪の状態に落ち込んだことは初めてだ。三〇歳になったら、自分の魂はいやされると思っていた。もう八ヶ月間も…ただの一日たりとも私は罪を犯さなかった日はない。…この実に憐れむべき私を、この死のからだから救い出してくれるのは誰であろうか。6月17日…一晩中眠れず、肉体も精神も衰えきって、もうだめ…。私は奴隷同然。…ただもう眠ること以外にこの世では望むことはない。7月1日 寝床に伏し、神に救いを求めて祈る。💛クロムウェルと同様、ナイチンゲールもまた、『神に仕えよ』と命じられた と信じ、自らの使命として看護を行った。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第137〔評者曰く、これを8月14日ペントランド丘上の陣営より敵将レスレーに与えし書翰にて、書翰第136と同一趣旨のもの故訳載せぬ〕。スコットランド国側の方にも真面目な信者がいるので、イングランド軍の数回の宣言に因りて次第にクロムウェル等の真意を解し始め、ここに平和の解決を見るような曙光が現われ、現に敵の雄将ギルバート・カー大佐の如きは数回イングランド軍の代表者と会見する所あった。-然し事情ありて平和の望みも失せた。それかと云って、スコットランド兵は戦陣に固執して出でて戦うことをせぬ。イングランド軍は示威的にエジンバラ付近を回り、ペントランド丘に陣し、またマッセルバラに退いて補給を得、再びペントランド丘に帰り、眼下の絶景に戦陣の憂いを忘る。紺碧の海は渺茫として際涯なく、金色の麦畑はそよ風に涼し、ベンロモンド山よりバスの岩に至る間、ハイランドの山々は朦朧として雲霧の中にあり、されど戦は少しもない。秋分は十日以内に来らんとし気候ははなはだ悪く、兵は続々として病に臥す。風と潮の具合によってはビスケットすらもダンバー以北にて陸揚げすることはできぬ有様である。 書翰第138貴下よ、前便以来、敵はエジンバラの西側なる陣地に固着して会戦を好まざれば、我らは再び敵に近づきて戦いを挑まんと欲して前進いたせり。すなわち〔1650年8月〕27日我らはエジンバラの西側をスターリングに向かって進みしところ、敵これをさえぎらんとして急速力をもって進み来り、ここに両軍の先鋒は衝突して小競り合いを始めたり。よって我が全軍は敵の全軍に当りたるも、その地は沼など多くして両軍近接するあたわざる有様にて、困りおり。されば我より数百発の砲丸を放ち、彼またこれに応じたるのみにて終れり。我が死傷は兵卒20を出でず。敵は80人を失い、死者の中には将校もありしとか。かかる始末にて敵を撃退するあたわず。かつ糧食もなくなりたる故、水曜の午前10時頃退却を開始いたせり。敵は我が退却を認むるや急遽退却いたせり。多分我が軍が彼らとエジンバラの間をおさえることと誤想したことなるべし。この夜我らはエジンバラより1マイル、敵陣より1マイルの辺りに夜営いたせり。恐ろしき嵐の一夜なりき。敵はこの夜レース湾とエジンバラの間に出でて我らの糧道をたたんとせしも、神これを妨げ給いければ、翌朝我らは無事海岸にいたりて船より新たに糧食の供給を得申せり。この際敵は丘上にありて我らを下に見たるも、何ら戦意を表さずに終れり。目下の状況あらあら右のごとくなり、以上。 1650年8月30日、マッセルバラにてオリバー・クロムウェル ホワイト・ホールの参議院にて 何 某 殿 クロムウェルがこの手紙をマッセルバラにてしたためし後、直ちに軍議開かれて、重大の決議が定まった。病は流行し、天候は険悪にて糧食の供給は不確実、かつ敵は挑戦に応ぜざれば、この地に止まるも害あって益なし。ダンバーには港あり、要害の地なり。かつスコットランド国における唯一の味方たるイングランド艦も停泊しおれば、いざダンバーに退かんと。31日の夕べ、クロムウェルは陣営を焼きてダンバー指して行く。敵将レスリーこれをおうて進む。クロムウェルは土曜日の夜、ハッジントンを通り、翌日曜日には終日行軍してダンバーに到る。而してレスリーはクロムウェル軍の後陣を圧しつつダンバーに迫る。 (3)書翰第139-第146 ダンバーの戦いダンバーの小村は、目のとどく限りの海岸に突出せるいくたの巌岬の上に、高く天風にさらされて立つ。海は美に、地味はよし、暗澹たる硬巌の岸はジャーマン海の怒涛をさえぎる。セーント・アブの岬は東方の地平線を画し、西方には深き入り江ありてベルヘーベンの漁村立つ。陰鬱なるバスその他巌島はあまた海上に散在する。ベルヘーベンの入り江よりセーント・アブの岬に至る間に、ダンバーはその付近一帯の地とともに半島を形造る。この半島の基底に添いて、クロムウェルの軍は1650年9月2日(月曜日)、その陣営とダンバー町とを後に据えて、窘窮〔きんきゅう:非常に苦しみ困ること〕の有様において陣列を布いた。今や彼はスコットランドにおいてこの地より外に有するところなく、彼の船は沖に兵を積みて待てども、見ゆる限りには地上に一の援助なし。ダンバーより小1マイル内地に寄りて一帯の丘陵あり。ラマームアの高地と称し、沼多く荒草離々としてヤギのほかに住む者もない。この高地の一端に在る高き丘上に、老レスレーは兵を布いた。土地の人はこの丘をダン、ドウーン、ダウンなどと呼んだ。勝ち誇れるスコットランド軍は兵数2万を超え、スコットランド王国委員は多くの大官と共にこれに従い、まことやスコットランドの精華をここに集めしものであった。日曜の夜以来、彼レスレーはこの丘上に陣し、虎爪を拡げてクロムウェルのダンバー半島を一つかみにせんとするがごとき位を取りて、オリバーの動静を窺うている。左方コックバーンズ通路(パス)は敵にふさがれてしまった。オリバーは後ろは海なり、前にはレスリーあり、ドウーンの丘あり、ラマームアの高地あり。レスリーの軍は2万3千にして(あるいは2万7千という)追撃の元気にみち、オリバーの兵はその半数にして背進軍の意気や沮喪しやすし。彼の前途や如何? 書翰第139 ニューカスルの守将ハスルリッジに宛てクロムウェルはこの手紙を書いた。彼は難境に処して何らつぶやくところなく、真面目に敏活にその時その時の事務を処理したのである。ある人は彼について言うた。「クロムウェルは強き人である。戦況味方に利あらずして他人(ひと)皆絶望せるのとき、希望は火の柱のごとく彼の中に輝く」と。実に彼こそ人類の真王である。彼今や難戦に入らんとす。親愛なる君よ、我らは今、難戦に入らんと致しおり。敵はコッパーズパスを閉塞致し、神業ならではこれを通るあたわず。我らここに在りて病疫しょう猖獗(しょうけつ)、日に数を減じおり。貴君の軍が直ちに我らを援け得るほどに準備整いおらざるは小生の察するところなり。さりながら、我らはどうなろうとも、貴君においてはできるだけ兵備を整えらるるこそよろしかるべし。事はすべての良民に関係致せり。もし貴軍にてコッパーズパスの背面に襲い来るを得るとせば、我らは海より糧食の供給を得べし。されど最上の道は独り賢き神知り給う。万事は善に向かいて動く。-主讃むべきかな。げにや我らは主に大なる希望を懐く。その恩恵は我らの十分に実験せしところなり、以上。 1650年9月2日、ダンバーにおいてオリバー・クロムウェル ニューカスル(または他の処)にあるサー・アーサー・ハスルリッジ殿(至急、至急)
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第134ドロシー・クロムウェル(リチャード・クロムウェルの妻)はこどもを生んだらしい。然しこのこどもは間もなく死んだようである。クロムウェルはノオサムバーランド州に入りて後、この手紙を嫁の家へ出した。親しき兄弟よ、ロンドンにて事務多端、遂にご無沙汰いたせり。貴兄及びご家族に対する小生の愛情に変りなきは、小生のこころこれを証す。小生は貴兄らのためにしばしば祈り申す。こどもの様子聞きたきものなり。父(リチャード)と母(ドロシー)の小生に無音なるは、はなはだよろしからず。リチャードは怠け者なれども、ドル〔ドロシー〕はも少し良い人間のはずなるが、多分リチャードに損なわれたるか、この由彼女にお伝え下されたし。小生にして彼ら夫婦の如き閑暇を有しなば、時々おたより申し上げリ。我が娘〔ドロシー〕妊娠中ならばとにかく、保育中にある事とてその無音ゆるしがたし。主彼らを恵み給わんことを祈る。兄が我が子に忠言を与え給わんことをこう。たしかに彼はこれを要せり。彼は危険多き年齢にあり。而してこの世は空しき世なり、おお早くキリストのもとに行きたきものかなーこの世に求むべきものなし、この世の高位大業ー求むべき値なし。小生は主に逢わんとの希望のほかには慰謝これ無きなり。今回の事の如きゆめゆめ小生の企つる処にはあらず。ただ主によばれて事に当るのみなり。されば、主そのあわれなる僕(しもべ)を用いてその意を遂げ給うとの確信はこれ有り。この点においてはなにとぞご加護くだされたく、皆々さまによろしくご鶴声くだされたし。以上。 1650年7月17日、アニックにてオリバー・クロムウェル ハースレーの家にある愛する兄弟リチャード・メーヤー様 7月22日全軍バーウィクを通過し、国境を越えて、モーヂントンに2日滞陣した。スコットランド人は恐れてその前に逃げた。僧侶はイングランド軍を悪魔の使者なりと人民に教えた。「異端者及び?信者の軍」とはスコットランド国におけるイングランド軍の別名であった。イングランド軍は「スコットランド国の聖徒に対しての宣言」及び「スコットランド国一般人民に対する公示」を発表して、人民のイングランド人を奪掠者、虐殺者となすの誤謬を正し、聖徒に告ぐルニ、チャールズ・スチュアートとその与党の側には真理の存せざること、イングランド人は「誓約」の実を求むる者なると、イングランド軍は?信者の集合にあらず、神の忠僕に対しては一毫も敵意を抱かざるものなることをもってした。-真摯切実なる文書にしてオリバーの意志は随処に発露しおれど、彼の筆にあらざる故、これを掲げない。スコットランド人は議会の厳命によりて、家財をひっさげてエジンンバラ方面に走ったが、家妻は多く家に残っていた。そしてその中にはイングランド軍にパンなどを給したものもある。ホッグソンの語るところによれば、モオジントンに宿れる月曜の夜、全軍既に国境を越えしこととて、クロムウェルは大訓示を士官及び兵卒に与えた。その大意は、大事前にあればキリスト信者としてまた軍人としてますます勤勉慎重なれ、我ら今日まで恩恵に浴せし事多ければ、忠実善良に歩みて、更に同一の恩恵を望むべきにあらずやというにあった。全国は喝采をもってこの訓示にむくいた。一週の後、クロムウェルは議長ブラッドショウに次のごとく報じた。書翰第135〔評者曰く、この手紙は7月30日マッセルバラより参議院議長ブラッドショウに宛て、同地付近の小競り合いの模様を報じたものであるが、あまり重要でないと思う故、これを訳出せぬーこの書翰によりて察するに、敵将レスレーは成るべく戦闘を避けて、イングランド軍の糧道を絶ち、イングランド軍の飢餓と疾病に困憊して戦わざるに退くを待つという巧妙なる兵略をとったのである。〕慎重なる一週の後、スコットランド将デーヴィッド・レスレーはレース湾の岸よりカルトンの丘までに陣列を敷きて、これより一歩も進まず、全エジンバラ、否全スコットランドは彼に豊かなる供給をなすべく後に控えている。いかに誘うも彼は軍を進めぬ。スコットランド国内諸派の動揺ははなはだしきも、レスレーのみはその砲をかかえてこの処に固執す。彼の軍はあまり立派な軍とはいえぬ。将校士官には兵事を解せぬ者が多かった。さればレスレーたる者ますます守勢に出でざるを得ぬ。彼はエジンバラの近郊なる一村に宿し、はなはだ用心深く構えこんでいる、クロムウェルはこれを誘い出して戦おうとする。この二将のこの一ヶ月はおおよそこんな風であった。 書翰第136クロムウェルの前述の宣言に対してスコットランド国側より反駁あり、クロムウェルまたこれに応じて駁論を公けにし、スコットランド国またこれに答うるという風で、互いに論じあったものだが、書翰第136はクロムウェツよりスコットランド国僧職僧会に宛てたる、かかる反駁書の一である。卿らよ、卿らの我が軍の宣言に対する返答書拝見せり。我が僧職はそれに答うるの辞を草したれば、同封にて送り申す。このたびの事において卿らが神意に叶うか我らが神意に従えるかは、神の慈愛によりて定めることなり。されば我らはこの結果をすべてを処理する全能者に任せ申せり。ただし我らは光明と慰安の日に増し加わるを知り、遠からずして神その大能を現わし給いて、万人これを認むることと確信致しおり。卿らは、我らの神の事について、我らを審(さば)く、而して卿らは頑なにして巧みなる語をもって、人民の中に偏見を懐かしめたり。人民は、良心の問題については一人一人が神に対して責を負うべきなるをあまりに卿らに盲従し過ぎたり。-これ彼らを破滅に導くにあらざるかと我らは危ぶみおり。卿らは我らよりスコットランド国人民に告げし公書を隠して人民に示さず(彼らこれを見なば、我らの彼らに対する愛情をも知らん者を-殊に神を恐るる者は)、然れども我らは卿らより来る文書を自由に兵卒に示す故、たくさんお送り越されたし。余はこれを恐れず。我らは人として各種の宣言公示をなすか、あるいは主のため、主の民の為にこれをなすか?まことに我らは卿らの数〔大軍の意か〕を恐れず、また己にも信任を置かず。我らは卿らの軍に対し得べし。(神に祈る、我らをもって誇るものとなすなかれ)と信じおり。我ら卿らに近よりし以来、神は聖顔を隠し給いしことこれ無し。卿らの罪大なり。無辜の民の血を流すの責を受け給うなかれ(卿らは王及び誓約をおおい飾って民を欺き、民の眼を暗くせり)、卿らは他を批難し自己を神言の上に立てりという。卿らのいうところ、悉く神言の上に立てりという。卿らのいうところ、悉く神言に応ぜるか、願くは自らを欺き給うなかれ。教訓に教訓を加え、度(のり)に度を加うるも、主の誤はある人には審判の語となりて後に倒れ、損なわれ、ワナに掛りて捕えらるべし。〔イザヤ書第28章13節〕、使徒行伝第2章にあるが如く、世が以て狂気と認むる霊的充実もあらん、また霊的酩酊といわるる肉的信頼(誤解せる教えの上に立てる)もあり、死と立てし契約あり、冥府(よみ)と結びし契約あり、(イザヤ書28の15)、我ら卿らの契約をもってこの類となすにはあらず、されどこの事において悪しき肉の人と同盟するも、なおかつ神の契約にして霊的なりと云い得べきや、願わくは三思せられたし。イザヤ書第28章を5節より15節まで読みて、命を与うるものは聖霊なることを知られたし。主、卿らと我らに聖意を為すの明を与え給わんことを祈る、願わくは神恩、卿らの上にあれ、以上。 1650年8月3日、マッセルバラにてオリバー・クロムウェル スコットランド国僧職総会御中 (もし総会開会中ならぬ時は僧職委員会へ)
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 第6編 スコットランド出征 1650年-1651年 (1)スコットランド出征スコットランド人といえば、初め「ピューリタンの王政反抗」の急先鋒にして、イングランドのピューリタンと結びて圧制政治の破壊に努めたもので、その目的たるや、聖書の神法の地上の実現にあったのである。彼らは今もなおこの目的を確保しているが、それの実現方法についてだいぶ誤謬に陥るようになった。けだしこれ、かかる大事業には是非無くてはならぬ英雄的指導者を、彼らは欠いていたからである。かつて彼らのなした「誓約(カベナント)」は、今は死せる儀文として彼らを重く圧し固く束縛した。彼らもまた「衒学者」であって「詩人」ではなかった。彼らは天に星なき茫々たる大海に入りて航行の道を失った。スコットランド人のピューリタン企画における過誤、不幸は数多かったが、彼らの中にその事に耐うるだけの偉人のなかったことが最大の不幸である。文字や形式の囚うるところとならずして、深くその精神にうがち入りて天の霊気に触るる底の人物がなかった。もしオリバー・クロムウェルにしてスコットランド人ならんか、英雄国民に英雄王を与えしもの、必ずその面目を一新したであろう。然り、クロムウェルにしてスコットランド国の人ならんか、全世界はピューリタン化したであろう。全世界を聖書的に改造せんと長く努力したであろう!深き直観力と高貴なる大胆さによりて動くクロムウェルの代わりに、アーガイルだのラウドンだの衒学者階級の人がたくさんいた。スコットランド国委員会も僧職委員会も形式に囚われていた。インスピレーションなしの神政-これは極めて望みのない事だ。人民は一生懸命になっている。そしてどこへ?どこへ?と尋ねている。指導者連は青くなったり、まごまごしたりして、甲は止まれ!と叫ぶ。乙は後ろへ!と命ず。丙は前へ!とおい。-大混乱!大混雑!そして鎮圧すべき偉人はいない。スコットランド国の「誓約(カベナント)」の趣意は、聖書の神法を大ブリテン国に実現するというにある。然しスチュアート家を王に戴くということも明記してある。一方に聖書の神聖なる大法を立て、他方にチャールズ1世なりチャールズ2世なりのスチュアート王を置く-こんな方程式はとても解けるものではない。あわれなるはスコットランド国の為政者なるよ。されどかかる為政家のほかに指導者を有せざりしスコットランド国人民の、さらにあわれなるかな。いな、人民のほうは後には良くなったが、為政者は一向ダメである。彼らはスコットランド国を治めたことは(真の意味において)ないのである。治めようとつとむべき己れの義務さえも知らなかったのである。ああ世に衒学者ほど恐ろしいものはない。彼は己を安全な人間ときめているが、最も恐ろしい結果が彼から生れる。人間の罪悪にも種々あるが、神の声を聞かざるの罪-真理は白日の中に明々たるに形式、伝説のほかには耳をかさざるの罪-然り、これ実に最も恐るべき天罰を招くの罪である。それはさておき、あわれなるスコットランド国の為政者たちは、チャールズ2世をして「誓約」を採用せしめようと血迷った骨折をした。なるほどこうすれば紙の上の文字は助かるが、神聖なる事実そのものは失せてしまう。若きチャールズは彼らの要請と一身の境遇に迫られて、「誓約」を採用した。彼らは、チャールズ王をおしたてて神の政治を地上に行おうという無理な計画のために誤られて、無理無理にチャールズ王に誓約を強いたのである。恐ろしき罪よ。彼らは「害悪党」を排斥しながら、その首領を解りきった糊塗的理由の下に奉戴する。かくて、スチュアート家に生まれたという事のほかには何ら誇るところなき、あまり感服も出来ない一青年は、「誓約を採れる王」として神政施行の舞台に出でんとする、地上最も破格の事件というべきである。 さればスコットランド国とイングランド国共和政府の間に風雲の急を告げ来ったのは、自ずからなる成行きである。共和政府はクロムウェルをアイルランドより召喚し、彼のために軍を備えた。スコットランド国もまた兵を整えた。向うから攻めて来るかこちらから攻めて行くかという段になった。アイルランドの紛糾をひらきしクロムウェルはここにまたスコットランドの紛糾にたづさわらねばならぬ。クロムウェルはフェアファクスの総指揮官たらんことを一心に説き勧めたが、フェアファクスの固く辞して受けぬため、彼は総指揮官に任ぜられて行くことになった。ラッドローの記事によるに、この頃ある日クロムウェルがラッドローに会見を申し込み、参議院に会せしとき、別室に誘いて、2人が密談をしたことがある。けだしクロムウェルは、ラッドローをもってアイルランドのアイヤトンの副将たるに好適の人物なりと認めて、その就任を勧誘したのであった。そのとき種々話した中にも、今地上に行われいる神の大摂理について述べ、また詩編第110篇について小一時間も語ったそうだ。最後の一事はラッドローをして大いに奇異の感を起さしめたというが、ラッドローならぬ近世の読者は、このことにクロムウェルの特色を見るであろう。これからスコットランド国遠征に出ようとするに当って、我らもまたこのダビデの詩を読もうではないか。さればイングランド国最大の人が、ヘブライの詩編を通して、預言者的熱誠をもってこの神の世界をみたことを想像し得るであろう。実に久遠よりほとばしり出でし沈黙の発声がこの詩である。エホバわが主にのたまふ、我汝の仇を汝の承足(しょうそく)とする迄は、わが右に座すべしヱホバは汝の力の杖をシオンよりつきいださしめ給はん、汝はもろもろの民のなかに王となるべし。汝のいきほひの日に汝の民は聖なるうるはしき衣をつけ、心よりよろこびて己をささげん、汝は朝の胎よりいづる壮(わか)きものの露をもてり。ヱホバ誓をたてて聖意をかへさせ給ふことなし、汝はメルキセデクの様にひとしく、とこしへに祭司たり。主は汝の右にありてそのいかりの日に王等をうち給へり。主はもろもろの国の中にて審判を行ひ給はん、この処にもかの処にも屍をみたしめ、寛濶(ひろやか)なる地を統(す)ぶる首領(かしら)をうち給へり。彼(か)れ道のほとりの川より汲てのみかくて首(かうべ)を挙(あげ)ん。この考えをもってオリバー・クロムウェルは戦いにいった。ノヴリスのいわゆる「神に酔える人」である。近世のヨーロッパ歴史において、あるいは古のアジア歴史において、この世の俗事をなすにこれほどの神的感興をもってせる者他にありや?久遠の光輝に沐浴してこの朦朧世界を歩む。彼こそは世に稀れなる人物である。彼は強烈なる力をもって永遠より出でしもの、この世に彼らに抗し得るものなし、事や偉大なりー悲壮なり、我らをして黙さしむるの事なり、イスラエルのダビデより古し、人類の原始のごとく古しー而して君が想えるよりもひろき方法にて、実現せられん!(2)書翰第133-第138書翰第133〔訳者曰く、これは議長レンサルにあてし手紙で、ある人のために計るところあったもの、彼の愛心を表わす好材料である。訳載を略す〕 1650年6月26日(水曜日)、クロムウェルをイングランド軍の総指揮官とするの議は議会を通過した。あらゆる人々は彼に祝賀の意を表わした。彼は急ぎ準備を整えた。3日の後、彼は軍を率いて北方に向かった。クロムウェル来るとの報ははなはだしくスコットランド人を驚かした。 ラムバートは少将たり。従弟フォーレーは兵站総監たり。大佐の中にはオヴァートンあり、ブライドあり、ジョージ・モンクあり(この人黙々として人の言を傾聴するのみ、されど実行の正確尺寸も誤らず)、ヨーク州の大尉ホッグソンあり、軍の北進するに従いて、右より左より馳せ加わるもの多く、イングランド・スコットランドの国境トウィード河を渡らんとするや、兵数1万6千に達す。今までフェアファクスの秘書役たりしジョン・ラッシワスはこの役、クロムウェルの秘書役として北行した。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第131ここに右と同日に子息リチャードにあてたる手紙と、その岳父メーヤーに送った手紙がある。この2でアイルランドよりのクロムウェルの書翰は終る。親しき兄弟よ、多忙につき、こちらの模様を通信致さざりしが、小生はたびたび議会へは公報を送りたれば、多分世評にてこの地の戦況をご知悉のことと存ず。ただ一事申し上げたきことこれ有り。主、我らと共にありて我らの手をもってその栄光を顕しおり。我らは弱兵の集合なればこの事は疑いなき事実なり。まことに我らの仕事は、我らの智力、勇気、力量の生みたるものにあらず。ただ先立ちたまえる主のみ足の跡にしたがうのみなり。我らはキルケニー市を取り、また多くの重要地を陥れ申す。我らこの事について何といわんか。神、我らと共にあらば、誰か我らに抗し得ん。誰か神と戦いて勝たんや。誰か神意に抗し得んや。主は愛の中に我らを護る。ご加祷を乞う。小生は貴家のために時々祈りおり。神、我が娘〔リチャード・クロムウェルの嫁〕を恵みたまわんことを祈る。我が子リチャードについては万事ご忠告のほど、願い上ぐ。ご家族皆々様によろしくごほう声くだされたし。以上。 1650年4月2日、カリックにてオリバー・クロムウェル ハムプ州ハースレーにある我が愛兄リチャード・メーヤー様書翰第132ディック・クロムウェルよ、〔ディックはリチャードの略呼称〕御身の手紙を嬉しく読めり。私はすべて心の偽らざるままの表白をよろこべり。御身の今の境遇にあるは主の恩恵によるなれば、十分これに感謝して万事に神の栄光をあらわすよう勤められたし。絶えず神を求むることに全力を傾注し、他のことを第二、第三とせよ。キリストにおいて神を知らんと努めよ。キリストこそすべての中心、永久の命なり。真智は文学的ならず、また思弁的ならず。内的にして「世にあるところの欲の滅びを免れ神の性質をもたし」(ペテロ後書1章4節)むるもの、パウロのいいしがごとき知識なり。 さのみならず、我れ主キリストイエスをしるをもって、最も勝れたることとするが故に、すべてのものを損となす。我れ彼のために既にこれらのすべてのものを損ぜしかどこれを糞土のごとく思へり。これキリストをえ、かつ信仰に基きて神より出づる義、すなわち律法によれる己が義にあらず、キリストを信ずるによれる所の義をもちて、キリストの中におり、また彼とその復活の力を知り、その死のありさまにしたがいて彼の苦しみに興り、とにもかくにも死にたる者のよみがえることを得んがためなり(ピリピ書第3章の一部)かかる知識の我らのなかにいかに乏しきぞや。余は御身のために祈らん。妻を愛せよとは不用の忠告ならん。いかに妻を愛すべきかは主御身に教えし給いしならん、結婚は洗礼聖餐の式にはあらねど、清き床と愛のある所、この夫妻の結合は教会とキリストの結合に似おり。御身真に妻を愛しえば、この愛は教会とその中の霊魂とに対するキリストの愛なり。御身の妻によろしくお伝えくだされたく、私が彼女を深く愛する由、申し聞えくだされたし。メーヤー一家の人々によろしく願いあぐ。-ディックよ、主の恩恵充ち足らんことを祈る。 1650年4月2日、カリックにてオリバー・クロムウェル ハムブ州ハースレーにある愛する子リチャード・クロムウェル殿 クロムウェルは、イングランドに帰る前に、2千のアルスター州兵がこのところを最後と死守せるクロンメル城を攻撃して、大激戦の後、遂にこの城をイングランドのものとした。5月9日のことで、敵味方とも死傷多く、イングランド軍はアイルランドにて初めてかかる強猛な敵にあったと叫んだ。イングランドにおいてもアイルランドにおいても、これほど勇猛なる攻撃とこれほど強硬なる防禦はかつてなかったということである。守将はヒュー・オッネルといって評判の勇将であるが、誤れる主義に立ったからかてぬのである。勇猛の戦闘も功を奏せぬのである。オッネルはよそへ行ってその戦闘の天才を発揮するがよかろう。ここにいては宝も宝の役をなさぬ。クロムウェルは、降参したアイルランド士官に外国行きを許したので、フランスやスペインなどへ行ってその地でそのところの戦いに加わったものが多かった。お蔭で彼らの本国(アイルランド)は平穏となった。クロムウェルはウォーターフォードをもくだそうとおもったが、議会より新たに召喚状来り、スコットランドの雲行きが大いに険悪となった故、アイヤトンを自分の代理に任じて、5月下旬舟に乗り、イングランドに向かって帆を揚げた。彼は9ヶ月ほどアイルランドにいて立派に仕事をなしとげた。クロムウェルはブリストルで大歓迎を受けし後、ロンドンに向かいて急ぎしが、5月31日(金曜日)首府は上を下へと大騒ぎして彼を迎えた。実にはなばなしき大歓迎であった。-賀儀、祝賀、祝砲、万歳の声は入り乱れた-一時は英雄崇拝、されど最上のそれではない。この時ある人がへつらって「閣下の凱旋をみんためのおびただしき群集よ」というたのに対して、クロムウェルは静かに答えたそうである。「然り、されど余がもし絞首台に上がらんか、なお多数の人集らん」と。 クロムウェルのアイルランド出征はまあこんなものであった。アイルランド人はいまだにこれを「クロムウェルの禍」と呼んでいる。後事はアイヤトンが引き受けたのだが、アイヤトンは熱病のために翌年死し、堅実なるラドローがその後を襲うた。その後アイルランドの事には、共和政府議会とそのかかりの文官が当ることになった。これは当然のことであるが、然しアイルランド問題については、クロムウェルが最上の権限を握っていた。「イングランド議会はアイルランド人を掃滅する計画であったが、うまくゆかぬので、全部をコンノート州の沼地へ押し込めてしまった」などという伝説があるが、これは例のクラレンドンなどから出たもので、根も葉もない誤伝である。後、ピューリタン衰えて再び王党の世となって後、彼はもう安心だと考えて、風説に基づいてかかる事を書きのこしたのであろう。彼の筆は150年前も権威をもっていて、こんな誤伝がたくさん伝わったわけである。共和政府のアイルランドに対する処置は、ちゃんと立派な文書にのこっていて、クラレンドン等の誤謬を証している。第一、農工商等の普通人はすべてそのまま業務に安んじて訊問、刑罰を免れた。第二、首領連、そむいた郷士、法王党貴族等は各人罪に応ずる罰を受けた。第三、1641年のイングランド人に虐殺に加担した者や、イングランドに裏切りした連中は決して許されず、死罪、追放、財産没収に処せられた。勿論最初に審問して証拠が挙がってからのことである。第四、ある期間はイングランドに背いたがイングランド人虐殺には関係しなかった者は、所有地を没収されたが、コンノート州に価格3分の1の土地が給与された。第五、明らかに法王党にしてイングランド議会に好意を表せざりし人々は所有地3分の1を没収されて、そのままその地に住むことになった。かくして、アイルランド人民はイングランド政府の下に安んじて業に従うこととなり、国は再び旧の秩序に帰り、平和の風は涼しく野に山に吹いた。いな、新しい治世は奮い、それに勝っていた。人民は耕し、堀り、鎚(つち)打ちて給料の払われざることなく、彼らが一国を成せし以来、かつてなかりし程に真理は彼らに語られ、また彼らに対して行われた。クラレンドンさえも、この時アイルランドは未曾有の繁栄に達したというておる。まことに信じうべきことである。虚偽を行い虚偽を語るを止めて、真理を行い真理を語りなば、誰か憐れなるアイルランドの繁栄するを妨げ得ん。このままに続いたならば、アイルランドはますます発達して新教徒活躍に進みいったであろうものを、新教の教会も出来て真実、敬虔、公平、秩序の真福音は次第に広がらんとしたである故、かの心霊界の抑圧物は衰え去ったであろうものを、惜しむべし。王政復古起こりてこの国におけるピューリタンの仕事は根底から切り倒されてしまった。そしてアイルランドは今みるように進み来ったのである。ああ「クロムウェルの禍」と彼らが呪っているその物こそ、かえって彼らを救うに足る天来の真福音ではなかったろうか。
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第124書翰第125〔訳者曰く、書翰第124はクロムウェルより守将に宛てて、その提出の条件の全部には応じ難き由を申し送ったものである。また第125は市長に宛てて交渉不調を通知しやりしものである。訳載を略す〕。攻撃の合図は下り、破隙より突貫せし隊は成功しなかったが、ユーアー軍は市の一部を占領してしまった。さあ、これからトリーダ以上の猛襲が行われることであろう。キルケニー市長ジェームズ・アーチダキンはクロムウェルに返書をしたためて、守将より提出せし条件を適当と認むることを告げ、かつ休戦の上、交渉を開始せんことを願い来った。これに対してクロムウェルは答えた。 書翰第126貴下よ、神の摂理を感じ悔いて我が軍に服せんとする者に対しては、余は愛憐を表さざるを得ず。貴下及び貴下等市民にしてこの態度に出づる上は、余は貴下等のため、ますます寛大の処置に出づべし。市の住民の位置に関しては、昨日守将まで申し送りし点を彼は貴下等に伝えしことと信ぜり〔訳者曰く書翰第124において、市民は守備隊と一致行動を取らざるを宜しとすと勧告せしことを指すか〕、その後、神は我らの占領区域をひろげたもうて、我らはますます有利の地に立ちたるも、市にして我が軍に降る上は、余は市に対して有利の処置を取るべし。余は市の奪掠にあうことを悲しむが故に我が兵士に向かって、後に市民より金を出さしむべければ襲撃の際は奪掠を働くなかれ。もし奪掠する者は死罪に処せらるべしと既に告示致せり。されば市民にして守兵を助けて抵抗することなき限り、余は神助により、飽くまでこの事を守るべし。余は兵力をもって襲うよりも、降伏を勧めて平和のうちに事を終えんと欲する者、もって余が住民の劫掠にあうを救い、無辜の血を流さしめざらんと努むることを知られたし。願わくは熟思もって最善の決意に出でんことを。 1650年3月26日、キルケニーの前に陣してオリバー・クロムウェル キルケニー市長殿 市長からは降伏を勧められ、ユーアー大佐からは威嚇され、運命の神からは迫られて、守将バトラーの獅子吼もだいぶんやわらいできた。26日彼は降伏の意思を表わし、開城条件協定のため、委員の任命と談判中の休戦を乞い来った。書翰第127〔訳載を略す〕書翰第128〔訳載を略す〕クロムウェルは大体においてバトラーの申し込みを承諾して、その由を申し送った〔書翰第127〕。バトラーから細かい打ち合わせがあって、クロムウェルはこれに返事を送って〔書翰第128〕、いよいよ両方の委員が市の一部に会して談判を開始することとなった。この談判は27日の午後に行われた。先方からは、4人の協定委員が市の守将と城の守将が署名した委任状を携えて来た。無事に談判は決了した。市も守将も全く降った。市は某日までに2千ポンドの償金を出すことになり、それまで委員の中2人はイングランド軍に人質となった。守兵は、軍人の体面を維持して歩武堂々とこのところを出ずることになったが、市を離るる2マイルにして武器一切を棄てねばならぬ(ただし、王党に対する防衛のため100挺の小銃と100本の槍だけを許された)、かくして彼らは去ったーそうしてキルケニー攻囲はみんなに都合よく済んだ。記者と読者のためにも都合よくここに済んだ。 書翰第129〔訳者曰く、この書翰は些事に関したものでむしろ省くほうがよいと思う故、その説明と共に略す〕書翰第130議長閣下、カハー略取以来、かつて一度議会軍に働きし者にしてこの度、敵に加われる大佐以下の士官を数多く死に処せり。敵将カスルヘーヴンとフェラル中将とが、キルケニー付近及びカアロー、レーリン橋辺に占すると聞き、我らは進んでその方面に向かい、処々を陥れて次第に進軍致せり。ダブリン方面より来りて我らに加わるはずのヒューソン大佐の一隊は、レーリンまで来りしとの報知ありし後、余は大佐に同地の攻略を命じ、大佐はその地の堅塁を陥れ、またバロー河上の橋梁を手に入れ申せり。かくてマンスリー州とリンスター州との連絡成り申せり。かくてヒューソン大佐と我らとはゴウランにて相会したるが、この町には堅固の塁ありて大佐ハモンドというもの、その守将たり。一度は余の勧降を拒みたるも、我が軍の鉾先に驚きて遂に降伏開城致せり。 ここにおいて我らはキルケニーに向かうことに決し、3月22日、市に近づき、その夜、直ちに守将に勧降状を送り申せり〔訳者曰く、この時の戦況及び交渉の模様は前述せし故ここに訳さず〕・・・・・・さすがの敵も遂に降伏の意を表わす故、別紙のごとき開城条件の下に市と城を我が手に収めり。-城は防備きわめて堅固にしてかつ広く、もし敵にして降伏せざりしならば、市を占領せし上、更に城に向かって新たに攻撃を開始せずばならず、しかしてこの攻撃は多大の損害を我が軍に与えしことと想われ申せり。されば別紙条件にて平和の中にこの地を取りたるは、特別なる天恩と感謝いたしおり。かかる間にカントエル城砦も、我らに開城を申し込み来りし故、その提出せし条件を承認して受け取り申せり。またアボット大佐はエニンスナグを手に入れ申せり。高級副官サドラーはチッペンーリ郡及びキルケニー郡に活動して数砦を陥れ申せり。-我らは本営をキルケニー市より遥か北方に進めて敵に迫り申せり。このところにて神の恩恵の下になお勝利を得んことを期待致せり。我が軍の辛苦困難も一通りならず、もし軍費来らずば、この征討を続くること出来がたし。もし軍費来たらばこの戦役も間もなく決了致すべく、したがってイングランドが軍備負担をするも長きことにはこれ無しと存ぜり。願わくはこの点において至急の処置に出でられたし。最後に申し上ぐ。占領地増すに従い、兵員のますます多きを要する次第にこれ有りところ、貴政府5千の応募兵のうち、いまだ2千のみしか来らざるしぎなり。-さて公務について上述のごとく申し上げし後、自己一身の事に関して明瞭正直に申し上げたきことこれ有り。 貴殿等が小生の帰英を望む由の私報にはたびたび接したれども、貴殿より公文の召喚状来たらざるうちに、この地を去るは、少しく軽躁なりと存じおるところ、3月22日に貴下の書翰手に落ち申せり。1月22日付けの手紙が3月22日に着きたるわけにて、これは気候の険悪と出船の都合とに原因致せしわけなり。ご芳墨によれば、召喚の理由は「冬営中にて戦争も出来ざる故」とのことなるが、すでに余らは1月29日以来活動しおる故、いかに致してよろしきや迷いおり。なお2月26日ご発送の貴書には、召喚云々について一語これ無し故、小生はここに謹んで貴殿等の真意を折り返しお尋ね致せり。いかなるご命令にも迅速に服従致すべけれど、神の与えたまいし仕事に従うことが小生の第一希望なり。以上。 1650年4月2日、カリックにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿
2026.05.04
15クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (11)書翰第119-第121 議長からの召喚状は未だ到着しないのに、その噂は既に伝わり来り、敵はこれを好機となして更に新運動を開始せんとす。我がクロムウェルは2月の(1月末よりの)空が例になく晴れわたっているを好機として、再び戦場の人となった。あわれなアイルランド人は互いに破門しあったりなどしてゴタゴタをやっている。オーモンドはチャールズ王を招こうと手紙を書いている。例のキルニケーの「最上会議」は召喚の声を発している。今はクロムウェルの好機だ。2月の空の晴れていること! 書翰第119〔訳者曰く、この手紙はイングランド軍が冬営より出デテロッグヒル、フェサード、カラン等の攻略をなしたことの報知で、議長レンサルに宛てて2月15日カスルタウンより発したるものである。彼一度軍を率いて出ずるや、到るところ、風を望んで降る有様を知るに足る、その訳載を省く〕。 書翰第120英国博物館の書類の中に、「オリバーのアイルランド征討物語」という稿本があるがところどころ欠損していて、極めて断片的である故、余り役に立つ材料ではない。しかし、いつかは俗好事家諸君の手にかかって印刷に付せられることであろうか。ただし次の2つの書翰がその中に出ているが、これは他の書にはないもの故、保存する値があろう。貴下よ、ここまで進軍致すにつき、例によりて条件を提出して降伏を勧めり。貴君らは荷物、武器、兵器を携えて城を棄て去るを得べし。我らもし砲撃のやむなきに出でんか、貴下等の惨害ははなはだしかるべし。流血を避けんがため、あえてこの書を呈せり。 1650年2月24日、カハーの前に陣してオリバー・クロムウェル カハー城守将殿書翰第121貴下よ、・・・・・・神はなおイングランド国の利を増進したまう。シューア河中の一島の巌上に立つカハー城は、一兵をも血塗らずして我が手に帰せり。キルチナン城もまた我に一の死者なくして陥れり。我らはまたシューア河上金橋(ゴールデンブリッジ)の城砦をも奪取したるが、この際味方6人を失えり。我らはリメリック郡にも味方の城砦をたくさん有しおり。かくして日ならずして敵の勢力衰える事疑いこれ無し。 1650年3月5日、カシュルにてオリバー・クロムウェル 参議院議長ジョン・ブラッドショウ殿 (11)書翰第122-第132 ヘンリー・クロムウェルやブロージル卿などは、リメリック郡にて大いに敵を圧迫しており、その他の大佐もあちらこちらで、アイルランド軍を苦しめているので、敵はキルケニーに逃れた。一度キルケニー陥らば、敵はこの夏はもはや活動できまい。そこでクロムウェルは3月22日(金曜日)キルケニーに来り、その夜直ちに例の勧降状を城に送った。その成行き次の通り。 書翰第122〔訳者曰く、これはキルケニーの城将、市長、市参事会員に宛てた開城勧告書である。訳載を略す〕。 キルケニーには守将が2人いた。一人は市の守将、一人は城の守将である。その外に市長、市民、市吏員あり。また例の「キルケニー最上会議」の残党たる僧職連もいた。この人々は、この勧誘状に対して何とか返事せねばならぬと騒ぎ立てた。翌朝、市の守将サー・オーター・バトラーは偉い決心で(少なくても偉い顔と偉い声で)答え来った。その答えは「陛下のためにこの市を死守す」という趣旨の極めて簡単なものであった。 ここにおいてクロムウェルは砲陣を布く地点を選定することになって、念のため更に明細に開城条件を言い送ったが、この手紙は今残っておらぬ。この手紙に対して月曜日の朝、守将は「不名誉の条件の下に降伏するよりは、寧ろ城を枕として死せん」と強硬に拒絶して来た。 されば月曜日には、たった3門しかない大砲で砲撃を開始することになったが、まず次の返書を守将に与えた。 書翰第123〔訳者曰く、これは交渉断絶を通知しやりしものである。これを略す〕。 守将バトラーはクロムウェル軍の砲撃開始に驚いてか、急に自分の開城条件を列挙して、条件によっては城を開け渡すという意志を表わし来った。かつこの条件交渉中の戦闘行為中止を要求し来った。その条件がはなはだ手前勝手のものである故、クロムウェルは構わず砲撃して、城壁の一部を破った。また別の側からは、大佐ユーアーが一千の兵をもって市を攻撃せんとしている。市の方からは条件をあらためて協約を乞い来った。
2026.05.04
16クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)アイルランド太守(クロムウェル)はすぐこの召喚に応じようと思ったが、スコットランドの事情いまだなお急ならざるに、アイルランドの事、いまだ鎮定にいたらざるを思うて、なおしばらく猶予することにした。彼はマンチェスター州において、否全アイルランド全体について、なお為すべき多くの事があった。-この手紙がレンサルの手についた少し前、彼はフィリップ・ホティートン卿に次の手紙を送った。 書翰第118フォートン卿は、この前はダービーハウス委員会にいて、忙しい人であったが、目下は参議院に列している。彼はいま事にかかわるのをやめて大いに懐疑躊躇のなかにいる。[訳者注:彼はクロムウェル等行動について喜ばぬところがあるのである]熱烈なるピューリタンで愛国者なる彼も、あまりに考え過ぎて憲法論とか何とかいう理論の中に頭をつきこんで、大いに迷っているのである。彼のような種類の人は当時たくさんあった。憤然として剣を按じて起ち、何ら疑うところなくして猛然として戦いたる民党の勇士が、今は自分たちが奮戦の生みたる結果を見て、少しく意外の感にうたれているのである。王の処刑、上院の廃止等の高手的行動が果たして神の嘉したまうところなるか等の疑問を抱いておったのである。クロムウェルはここに十分の友情をもってフォートンの疑惑を解かんとする。我が親しき友よ、小生は貴兄を真に愛する者、愚かしきも想像の上に立ちて2,3申し上ぐるところあるも、これ一に偽りなき愛のためなりとおゆるしくだされたし。手紙をもって貴兄の疑惑について論述し、ご抗議に答えんは空しきことなり。ご疑問の筋筋についても十分考察致せしが幸いに自己一身においては何らやましきところなきを感謝致しおり。我らもし余り個々の出来事にとらわれし節は、神の大いなるみわざを疑うことに成れり。議員について、「これ9年間善き者は除かれ最も悪しき者のみ残る」との批評これある由。されど、この9年間に神の為したまいしところいかん。大事はなお続きて動きつつあり。この誹謗を警戒せられよ。「神の所業」の方法に心を痛めたまうなかれ。恐らくは他に方法なかりしならん。神ピネハスの熱心的行為を嘉したまししごとく[民数記略25章-9]、もし理性による法律論よりも熱心による高手的手段をうけたまうとせばいかん、卿にしてこの「熱心」を神の嘉したまうことを、外的事実により、また善人の胸底に応じて、見たまいしならばいかん。貴兄の神の業より退きたまうを小生にして恐れなばいかん。-おお他人の誹謗のため、誤れる推論のために、貴兄のこの挙に出ずるは悲し。「このやり方はよろしからず。他のやりかたに従えば十分の満足あり」との抗論も、「満足」ということだけを第一とせばよろしけれど、とかく「安全」「利益」等の考慮を伴うをいかんせん。これら考慮は我らの歩む行程に霧を散らし暗黒、「不満足」を生むものなり。おお、我らの欺きやすき心よ!おおこのへつらいの世よ!神の為したまう中の最劣なるものもこの世のなす最上より優れた!我ら推理によりて主の用を発見せんとするは難しとも難し。むしろ主の用と信ずる所に身を投ずるにしかず。卿の我らと行動を共にせんこと願わし。さりとて我らは今連戦連勝にはなく、この後も肉の悩みは多かるべし。神、我らを導きたまう。貴兄が他党と結ばざる限りは、貴兄の心は貴兄の憐れなる友人等[クロムウェル等]に眷恋することは小生の疑わざるところ、而して貴兄が他と結ばんことは、我らは賤しむべきものなりとも、神許したまわずと信ぜり。ご家族、ご親戚が貴兄を誘惑して過ちに陥らしむるものたらざらんことを願う。恩恵は誘惑たらしむべきものにあらず。されど我らはしばしばこれを為すものなり。神、大兄を導きて聖意に従わしめ、真理の中に平安を与えんことを祈る。君の真実なる友のためにお祈り下されたし。以上。 1650年1月1日、コークにてオリバー・クロムウェル フォートン卿 追伸、小生は、主にありて熱情をもって愛する友なるロバート・ハモンドより来翰に接したるが、その手紙はいたく小生を悲しませ申せり。小生はその手紙の全精神が彼が誘惑に陥りし結果ならざるかを恐れおり。されど、神、彼の誤謬を正したまうならんと信ず。小生は彼に手紙をしたためたけれども、なにぶん目下その機なし。ああ小生は暫時なりとも親しく彼と会談いたしたし。多分彼に害を与うることはなかるべし。 フォートンとその「疑惑」については[この疑惑を抱くものはたくさんあった。我ら後になお記すところあろう。フォートン、若きハモンド大佐、若きモンテーグ大佐、トム・エストロー、ヘンリ-・ローレンス等の推理的疑惑、及びセント・ジェームズ公園におけるクロムウェルとの会談については間もなく述べよう。中には後、十分の「満足」を得たものもあり。しからざる者もあった。(10)アイルランド太守宣言 欺むかれたる人民をさまさんため当時アイルランドには「キルケニーの最上会議」という貴族僧侶等があって、ロ^マ・カトリック教の立場に立って種々の画策、命令、実行をした。歴史上から見ては、何やら更に訳のわからぬ一団で、まあ朦朧たる痩せこけた影のような者だ。そしてその結果は大体より見て、「虚偽」であった。その中にアイルランド的愛国心の閃きもあり、人間の勇気の輝きもあるが、何分にも狂暴、残忍、憎悪、喧噪、虚偽を特色としたので、とうとうクロムウェルの出現を必要とするに至ったのである。クロムウェルのために彼らのアイルランド反逆はここに蹂躙し去られんとしたので、彼らはここに諸分派合同の必要を感じ、過ぐる12月(1649年の)4日に僧職連の大会合をクロンマクノイズというところに開いた。そして3週間も会議を続けたという。この会議の結果は諸派の大合同となって現れたが、まことに上皮だけの浅い合同一致で、1か月もたたない中に破れてしまった。しかし、この時、彼らのアイルランド人民に対して発表した告文をクロムウェルが見て、これに応ずべく次の宣言を公けにしたのである。一の太守の発表した公文でこれほど著しいものはあるまい。よくよくこれを読んだならば、昔のままの真実と聖なる熱火は輝き出でて、我らすべてに多少の益を与えるであろう。この僧職の告文というのはつまらぬものであるが、その大意だけちょっと申し上げよう。第一には、今までローマ・カトリックに分派があったが、以後一致合同すと宣言してあって、これに20人余の監督の署名がある。次には、これら監督より一般の僧俗に種々の注文がある中にも、目下国を犯しつつおる「Idle boys」[クロムウェル軍を指す]の鎮圧のため、国中の祈祷の要求せられておるなどは面白い。第三には、イングランドはアイルランド人の半ばを虐殺し、半ばを海外へ流謫して、全くその後を断とうと計っているのである故、決してその甘言に欺かるるなかれ。全アイルランド人は貴賤貧富の別なく来たって「大合同」をたすけよ。このままにては、虐殺か放逐の外なしと記してある。クロムウェルは重にこの第三の言に憤りを発したのであるが、全体についても十分駁論して敵の妄言を痛快に撃破している。 欺むかれ誘われたる人民をさまさんための アイルランド太守の宣言 -光明に眼を閉じざる者には満足を与うる者には満足を与うる宣言- クロンマクノイズの会議においてアイルランドローマ・カトリック教監督僧侶によりて近頃発表せられたる宣言に対する返答クロンマクノイズの会議において作成せられたる、ローマ・カトリック教監督僧侶の宣言に対して、余は簡単に答うるところあらんとす。彼らは各自の間の相違を棄てて心より「一致」せりという。またこの戦いたるや、アイルランドの教会のため、国民のため、陛下のためなりと主張せり。果たして然るか。彼らは霊的会議の開催は俗権の干渉を受けずと主張しながら、かえって決議を作りて俗事に干渉するは何の故ぞや。識者ありてもし彼らのいわゆる「一致」なるものの真相と目的を知らばすこぶるこれを軽視するならん。かつ彼らは何ら人民に計るところアラズして、人民をして己らに同意せしめんとす。愚ならずとせんや。彼らは「俗聖」の一致和解という。僧俗(Prelates and Laity)というがごとき区別的、反キリスト教的の語を用いて一を高しとし、一を低しとすればこそ、その間に「和解」を要するほどの「分離」「相違」を生ずるなれ。「僧」といい「俗」という。これ偽(にせ)キリスト教会にのみある語あり。職責の相違はありたれど「僧」といい「俗」というがごとき区別的述語なし。この語を生みしは卿ら(僧侶に対していう)の驕慢なり。この区別を保つは貪欲のためなり。すなわち人民をして僧職を潔しと思わしめ、その聖潔を購わんとして金を出さしめんがためなり。古の律法学士及びパリサイ人のごとく、律法を人民に知らしめずして、「律法を知らざるこの衆民は罰すべきものなり」といいて誇らんがためなり。余は卿ら〔訳者注、以下すべて僧侶等に対していう〕の「一致」を恐れてこの言をなすにあらず、卿らの一致はシメオンとレビの一致のごとし〔創世記34章〕。「結べよ、汝ら砕かるべし、互いにはかれ、ついに空しくならん」、我らは神の我らと共にあるを信じて疑わず。卿らは「共通の敵」と叫ぶ。イングランド人をさしていうならん。偽善者よ、かつてアイルランドはイングランドと結びおりしにあらずや。2国間に平和融合ありしにあらずや。然るに卿らは自らこの融合を破りたり。卿らはイングランド人に対して、天人共にゆるさざる古今未曾有得の大虐殺(老若男女の別なく)を行えり。しかもこれ、何らイングランドよりの挑戦なく、非行なき昌平の時なりしにおいてをや。「平和のため」と高唱し、「共通の敵に対しての一致」と驕呼する卿らによりて、この大悪事は使嗾(しぞく)せられたり。かくてもなお。「神は我らの側にあり」との我が言は誤れりや。 卿らはいう。「我ら大監督、監督、高僧はここに一致結合す。しかして教会の利益及び特権のため、各監督、僧侶の名誉、威厳、領地、権利、及び所有物のために我らは一体として立たんとす。また国王の権利を進め、国民の利益を増さんとす、我らの一人たりとも、分離し、または全体に向て反対するをゆるさず」と。教会の利益のため僧侶の利益のために、国民を戦乱の中に投ぜんとす。何ぞ過てるの甚だしき、卿らの戦わんとするはいわゆる「教会税」のためなるか、教会の収入のためなるか、これ卿らの教会の信仰のためなるか、何れにするも挙戦の理由として不合理ならずや。いわゆる「教会収入」のためならんか、これいずくんぞ争闘の理由たらしむべけんや。パウロは「働く者のその給料を得るはむべなり」とはいいながらも、自らは天幕製造に衣食して教会よりの支給を厭えり。-「教会の権力、管轄権」云々を叫ぶがごときは愚もまたはなはだし。キリストいわずや「されど汝らの中においては然すべからず。かしらたんと欲する者はすべての人の僕(しもべ)とならん」と。彼はまことに「人をつかうためにあらず、かえって人につかわれ」んがために来りしなり。教会の信仰、教義のために戦うというがごときはなお過てり。これ恩恵により聖霊に源するもの、何ぞ剣をもって争うべけんや。「聖徒が一度伝えられし信仰の道のために力を尽して戦わんことを」〔ユダ書第3節〕勧めし人は、またカイン、パラム、コラの精神を避くべきことを〔同第11節〕説き、「その徳をいと聖き信仰の上に建て」〔同第20節〕よといいたり。何ぞ剣戟を借りて争うべけんや。「陛下のため」と卿らは叫ぶ。陛下とは何れの陛下ぞ。フランスか、スペインか、スコットランドか、卿らのある者はスペイン王をアイルランドの主権者に推戴せんと企てしとか。スコットランドは小に過ぎるためか、あるいはその宗教において十分卿らと一致せざるがためか、卿らは彼(チャールズ2世)に満足せざる時は、たちまち他の「陛下」を求めること易々たらん。卿らはかつて彼の父王が余りに卿らの要求に応じすぎたるため、これを排したり。然るに今にしてその子を「陛下」と呼ぶ。矛盾もまたはなはだしからずや。子あるいは父よりもなお多く卿らと一致せしか、さる事あらんや。要するに卿らの「陛下陛下」と叫ぶは一時の便宜のみ。必ずしもスコットランド王チャールズのためにはあらず。誰人にてもよろしきなり。卿らはまた「人民のために」と最後に言いたり。否申し訳に付け加えたり。ああ憐れなるは「俗人」(僧職に対して)なるかな。卿らの王と卿らの教会とが多年実行せし例を踏みて、卿らと卿らの王はここにまた人民を駕御し、人民を追い使わんとす。しかれども、今や世は政権、教権の二重の圧迫を知り始めて、これを振り落とさんと目覚めたり。既に両者を振り落とし得たるもあり。「人民は王と教会のために存し、信徒は法王と僧職のために存す」との卿ら得意の論は、今や粉砕し始めたり。恐らくは「人民」は卿らの思うほどに動かざるべし。さりながら、「人民のために戦うなり」と信ぜしめんとするが故に、余は卿らの欺瞞を明らかにして、彼らをして余に信頼せしめんと欲す。これ余がこの公示の第一項目なり。されば余は卿らの宣言に戴するところをことごとく答うべし。 卿らの錯雑せる宣言の内容を順序正しく言えば、卿らは人民の危険に瀕せるを警告して、その危険を説明せるが、その第一はローマ・カトリック教絶滅の危険、第二は生命の危険、第三は財産の危険なりとなすもののごとし。しかしてこれら危険を避けんがために、第一に議会軍総指揮官に欺かれざることを注意し、第二に戦争に出づることを勧め、第三に多少の僧職受任をなせり。しかしてこれらの面倒を見るは、一に「羊に対する牧者の関係」によるとせり。卿らは牧者をもって任じて自ら高しとし、人民を羊と称して差別見に執す。卿らは国人を恐ろしき叛逆に入らしめ、ために国を荒し人を殺し、なおかつ彼らを呼びて我が羊群(むれ)となすや。卿らは彼らを養わず、その有害なる偽せキリスト教的教義及び実行をもって彼らを毒す。卿らは彼らに神の真理を隠して、無意味なる階級及び所伝を与う。卿らの「羊群」は信仰のことについては毫も考うるところなく、これを教会にまかせて平然たり。彼らは少しも活ける信仰を伝えられず。かくてもなお彼らは「彼らの宗教を失う」の危険ありや。失うほどの物を所有しおるや。第一に卿らは「ローマ・カトリック教絶滅」を我らの目的の一とすれども、これ全く事実に反したる断定のみ。我らのこの国に入りしは、卿らが叛逆してイングランドの主権を振り落とさんとせしがためなり。我らがエクスフォード、ロス、トリーダ3城砦の攻略において、卿らの言うごとき、何らローマ・カトリック教絶滅の行為なし。この国の人民がいかなる信念うぃ抱くとも、我らはこれを左右するあたわず。ただ愛心と忍耐とをもって彼らに対し、神が彼らにより善き心を与うるの日を待たんのみ。第二に我らは「この国の住民の生命をそこなう」ものなりとの推定なるが、彼らは(クロムウェルは今や人民をあいてとして語り、僧侶を第三者として第三人称にて呼ぶ)これが理由を一も示さず。ただ漫然これをいうのみ。理由を有せざるか、あるいは理由を挙げずとも、人民は彼らの断定をそのままうけ入るると思えるならん。彼らは我らが「普通人民の根絶を企画す」る由を言い、「ローマ・カトリック教徒を虐殺し追放せずしては、ローマ・カトリック教絶滅は行われざるがためなり」と叫ぶ。普通人民は卿ら〔再び僧職等に対していう〕のいわゆる憐れなる「俗人」にして、ローマ・カトリック教の何たるかを知らず。然るにこの人民が卿らの教会の利害とローマ・カトリック教の存亡とに大関係を有するにや。彼ら無くば、ローマ・カトリック教は亡ぶるにや。卿らはしか思わざるなり。卿らは自己のみをもってローマ・カトリック教の柱石となし、普通人民は圧制政治に服し卿らに盲従する限りにおいてこれに役立つものとなす。卿らはいう。イングランド人の目的はローマ・カトリック教絶滅にあり、しかしてこれはローマ・カトリック教を残害せずしては行われず。故に人民の虐殺をはかると。卿らの宗教が真のものにせよ、偽せのものにせよ、我らはこの人民を除く必要は少しもなし。もし真の宗教ならんか、今は既に堕落したるものにて(余は敢ていう。これローマ・カトリック教会に誘惑されたなめなり)敢て人民をそこないてこれを滅ぼす要なし。また偽せの宗教ならんか。これが絶滅を計るほどの値なし。我ら宗教の変換を欲すとするも、敢て虐殺追放の手段に訴うる要なし。ただ聖書あり。しかして足れり。これ人道と善生涯と異説者間の信義を生むの書なり。この「信義」を我らこの憐れなる民に対して行わんとす。ただ卿ら彼らを使嗾して戦場に出でしめ、もって我らの好意を受けざらしめんとせるのみ。卿らは「虐殺、残害、追放」と号呼すれども、我らこの土に入りし以来、武器を執らざる者を一人たりとも、不合理に殺したる例はなし。追放云々の批難に対しては、余は最もこれに関するところ深き人民一般に対していうところあらんとす。問題は生命毀損又は追放にあり。さて前者について言はんに、余はこの国の民が法に背きて法の命ずる審問による場合の外、その命を奪わず、また部下をして奪わしめず。追放は、これを今日まで戦闘に従いし者のうち、死に該当する者に対して行いしのみ。されば余はここに宣す。人民にして僧侶らに使嗾せられて武器を執らばいざ知らず、然らずば殺害または追放に逢うことなしと。 第三に「人民の財産を毀損す」との批難あり。卿らはいう。イングランド軍はアイルランド人の財産を没収して、この地にイングランド人の植民地を起さんことを目的として侵入し来たれるもの、今しばらく人民の財産に対して寛大なるがごとけれども、これは一時の策略にして、戦勝後ことごとくこれを奪う目算なりと。卿らはイングランド軍がかかる目的にて渡海し来れるものとなすや。幾百万の費用をかけて、僅かに数十万の金を出す土地購買者を求めるほどの迂遠をいかで為し得んや。-余はここに我が軍渡来の真因を語らん。イングランドは正義公道を貫かんとする時は、犠牲危難は多くとも必ず大能の助けあることをたびたび経験せり。我らは正義公道のために来たれることを信じて疑わず。我らは、我が同胞のこの国にて罪なくして殺戮せられし理由をたださんがために来れり。イングランドの主権を振り落とし、人間社会の敵として立つ彼の匪徒の一群を、破らんために来たれり。神の援助により、この国にイングランド自由の光輝を放たんために来たれり(イングランドはこの国にてこの事をなすの権利あり)-もしアイルランド人にして卿らのごとき誘惑者の言に従わずば、この自由に興りて、イングランド人と等しき幸福に沐浴するを得んなり。〔原著者注、この場合の「自由」の語はアイルランドの味方を大いに驚かすことであろう。然り、これは近世の人が軽佻に用いるあの「自由」とは違う。クロムウェルは「天の正法に対する厳重なる服従」の意味において自由の語を用うるのである。天の正法とは永久の真理の上に立つ法である〕余はなお人民一般に向かって一言して以てその適従するところを知らしめん。もしかつて武器をとりし者にして、今降参してその事情をイングランドに明らかに訴えなば、イングランドは十分にこれを審議して寛大の処置を取るべしと信ず。今武器を手にせる者にして、イングランドに降りて将来の臣従を誓いなば、その叛逆の主導者にあらざる限り、同じく情け深き待遇を受けん。また兵卒にして武器を棄てて家に帰り、静粛に業につかんと思う者は、随意にしかなすべし。然れどもなお頑として戦場に出づる者は、天の刑罰を受くるのほかなし。この叛乱に関係せざりし貴族、紳士、人民は法律の与うる生命、財産、自由の保護を得ること確実なり。また農工商等各種の職業においても同様の保護を受けん。彼らは正直、平和の民にして、常にイングランドに対して好意を表し来りたれば、イングランドに対して好意を表来りたれば、イングランド人同様の待遇を受け、同じ割合の租税を負担することとならん。またもし我が兵にして彼らを虐遇せんか、確証挙りなば最も厳重にこれを処罰すべし。彼らは全くイングランド同様に保護せられん。余既に上述の言をなし、これを実行せんと欲す、もしこの国の民にして僧職等の言に従わんか、いかなる惨害破滅臨むとも敢て関せじ。余は喜んで峻厳の態度に出でん。 この公示には、日付も署名もないが、自分は研究の結果、1660年1月15日以後にヨオルにてクロムウェルが起稿し、29日にコークにて印刷に付せられたものと推定する。(この日、軍は冬期休養を終って再び出陣した)-げに著しき公文書なるかな。
2026.05.04

高橋一生主演『ラプソディ・ラプソディ』公開|利重剛監督13年ぶり新作、主演は「高橋一生しか考えられなかった」5/2(土)『さよならドビュッシー』(2013年)以来13年ぶりとなる利重剛監督の新作映画『ラプソディ・ラプソディ』の公開記念舞台挨拶が5月2日(土)、東京・テアトル新宿で行われた。舞台挨拶には利重監督、出演者の高橋一生、呉城久美、芹澤興人が登壇。利重監督は、満席の会場を見て「うれしい」と呟いた。それを高橋に暴露されると、「普段はあまり緊張しないのに、今日はちょっと興奮しています。大切に育てた子どもを社会に出すような感じ。あとは祈るしかないけれど、皆さんがニコニコしているのでホッとしています」と笑みを浮かべた。利重監督は「脚本の時点から横浜の匂いが向いている気がしまして。劇中の街の描写、経路、建物の位置関係などのリアリティはしっかりしています。その街だからこそ起きるようなドラマの展開を求めているんです」本作は、過去の苦い経験から「絶対に怒らない」と決めた主人公と、知らぬ間に人を傷つけてしまうヒロインとの不器用な恋を描くオリジナル作品。名バイプレイヤーとして知られる利重も、キーパーソン役として出演を果たしている。高橋を起用した理由について、利重監督は「優しくて、ちょっといびつで、チャーミングなこの役を、本当に生きている人間のように演じられる稀有な俳優。(高橋の存在を)思いついた時から頭がいっぱいになって、他の人は考えられなかった」と明かした。対する高橋は、「なぜ今、自分に声をかけたのだろう」と感じ、監督と面談したという。「結果的に『楽しくなるからやろう』と言われ、『はい』と答えた」と振り返った。高橋が感情を爆発させるシーンでは、カットを割らずに長回しで演じることを、高橋自ら提案した。「役柄をつかむために綱渡りだったので、何度かやると鮮度が失われるし、カットを分割したら難しくなると思い、お願いした」と説明。利重監督も、「スタッフも覚悟を決めていたからできた」と感謝を伝えた。映画では初の大役となるヒロインに抜てきされた呉城は、「攻撃的な部分が前に出るキャラクターですが、愛される人であってほしい、幸せになってほしいと思える部分を表現できるよう、頑張りました」と感慨を語る。撮影の帰り道は連日のように涙を流していたといい、「周りの方々が凄すぎて、毎日感動していました。人生が動いていると思うと、涙が出てしまうんです」と照れながら語った。さらに利重監督は、「怒らずにいると人生にはまだまだ楽しいこと、面白いことがたくさんありますよ」と観客に呼びかけた。高橋は「日常がいとおしくなる作品。監督の指揮の下でお芝居ができ、いろいろなものを作品に反映させることができた。寓話的でありながら、現実も迫ってくる物語。観た人の心が温かくなり、それが伝播していけばと思います」と言葉に力を込めた。〇一見特異な設定が、なぜ「自分の話」に見えるのか――幹夫と繁子は、どうやって生まれていったのでしょうか。利重剛監督(以下、利重):幹夫のことは、僕自身、どこか近いところがあるんです。子どもの頃、自分が怒りっぽいことが嫌でした。10代後半も生意気だと言われたりして、血の気が多いなと思っていたところもあって、怒らない人になりたいと思っていました。――監督が怒りっぽかったとは意外です。幹夫も、かつて自分が怒ってしまったことを抱え続けている人です。利重:人を巻き込んで傷つけたくないから、距離を置く。そうすれば寂しくても、自分が寂しいだけで済んじゃうわけですから。そんなところをちょっと膨らませていきました。――幹夫だけでなく、繁子や、幹夫の同僚の毒島りずむ(池脇千鶴)も含めて、孤独を選んでいるようなところがあります。利重:みんな、自分のせいじゃないことを自分のせいだと思い込んで過ごしてきた人たちだと思うんです。自己評価がすごく低い。りずむだって、“毒島りずむ”という名前によって、それなりにいじめられてきたのだろうと考えられる。本当は可愛いのに、自分は可愛くないんだと思い込んでしまっている。人付き合いが嫌いなんじゃなくて、優しさから孤独を選んでいる。そういう人たちを僕は好きだし、そういう人たちがちょっとずつ何かのきっかけで繋がって、「まだ面白いことあるかもしれないな」と思える希望を見たかったんです。――主演の高橋一生さんへのオファーの経緯を教えてください。利重:最初は繁子役から探していました。「彼女が決まらないと幹夫も……」と直感していたので。いろいろ悩んでいるうちに1年以上が過ぎて、遅すぎますけど、逆発想で幹夫役から考えることにしました。そうしたらふと、本当にふっと「一生くんはどうだろう」と閃いて。プライベートで連絡を取り合うような親交はなく、ドラマ(『凪のお暇』)で親子役をちょっとやらせてもらったことがあるくらいでした。ダメ元で声をかけたら受けてくれまして。――決め手はどこにあったのでしょう。利重:やっぱり演技力です。技としての演技じゃなくて、本当に“その人になる”ということができる人。幹夫という人物を必ず掴んで作り上げてくれるだろうという、圧倒的な信頼感がありました。実際、僕以上に脚本を読み込んできてくれましたし、現場でもいい刺激と提案をくれました。――現場での提案というのは。利重:「この言葉の方がいいんじゃないですか」というセリフの提案が結構ありました。自分が書いたセリフより良いセリフになってしまったりも(笑)。「たしかに幹夫くんだったらそう言うよね」とか、「お客さんに伝わりやすいかもね」というのがちょこちょこありましたね。役者さんの方が役をよくわかっているんです。――私は幹夫に感情移入して観ていたのですが、だからこそ繁子のことがとても気になりました。そして呉城久美さん(『まんぷく』)の演じる繁子は本当にステキでした。利重:一生くんが決まって、次は相手役。魅力的かつ実力のある女優さんは多いのですが、名前を並べただけで、その映画がイメージできてしまう感じは避けたいと思いました。かといって完全な新人では困ります。呉城さんは『さよなら ほやマン』(2023)のヒロイン役も良かった。――『さよならほやマン』、良かったです。利重:ですよね。『長崎-閃光の影で-』(2025)では役者として共演したのですが、控室の彼女を見ていて面白い雰囲気の人だなと思いました。体育館のような場所が控室だったんですけど、そこにふわっといる自然な居方が、何だか良くて。それで彼女のことを調べてみたら、たくさんお仕事されている。――呉城さんは京都大学法学部卒業の才女でもありますね。『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(テレビ朝日)に出られている姿なども見たことがあります。利重:そうなんです。言ってみれば最高裁の裁判官になるような人が、女優をしているというところも含めて、なんか面白い。一生くんとの化学変化がどうなるか読めないところがベストでした。「臆病な芝居」を見事に見せた池脇千鶴先に話題の出た池脇千鶴の演じるりずむは、YouTubeに公開された本編からの1シーン映像だけで、公開前から話題を集めている。あのシーンは、孤独を選んでバリアの中にいた幹夫の背中を押すきっかけとなる重要シーンであり、池脇らしい巧さが光る。映画『ラプソディ・ラプソディ』公式YouTubeより――毒島りずむ役の池脇千鶴さんもさすがでした。利重:本当に素晴らしい女優さんなので、いつか一緒に組みたいとかねがね思っていました。池脇さんとは、彼女の映画デビュー作である『大阪物語』(市川準監督)のとき、僕は現場を観に行っていて、みんなにご挨拶して、池脇さんとも少しお話もさせていただいていました。その後も高橋伴明監督の映画(『丘を越えて』)でまたお会いして、「いつか監督としてもご一緒できたら嬉しいですね」とお伝えしていたので、ようやく叶ったという感じです。――実際に監督としてお仕事されていかがでしたか。利重:見事だと思いました。臆病な芝居というんでしょうか。りずむは密かに幹夫に想いを寄せているわけですが、そういう役の難しさを、あれだけ繊細に演じてくれた。見事なまでの臆病さ、本当に素晴らしいです。 監督が演じる幹夫のおじさん大介や、芹澤興人の演じる繁子の友人ゲイチも、それぞれに魅力的で心に残る。 キャストについて聞いた前編に続き、後編では映画誕生の経緯や撮影秘話を聞いた。〇人付き合いを避けながら生きてきた男性が、いつの間にか知らない女性に籍を入れられていたことをきっかけに、人生が思わぬ方向へ動き出す様子をユーモラスに描く。少し天然で絶対に怒らない男・夏野幹夫(高橋)は、パスポート更新のため戸籍謄本を取得するが、そこに全く身に覚えのない「続柄:妻」の文字を見て驚く。「繁子」という女性が自分と勝手に籍を入れていたことを知った幹夫は、正体不明の彼女を探しはじめる。やがて、街角の小さな花屋で繁子を発見するが、彼女は触れるものすべてを壊してしまう、型破りな女性だった。そんな繁子に振り回される幹夫だったが、奇妙な出会いはいつしかふたりの人生に思いがけない変化をもたらしていく。――利重剛監督が13年ぶりにメガホンをとり、自身のルーツである横浜を舞台に描き出した映画「ラプソディ・ラプソディ」。オファーを受けた時、そして、脚本を読んだ時の感想をお聞かせください。利重さんは元々俳優としても監督としても尊敬していた方で、作品は僕が中高生くらいの頃から見ていました。久々の監督作で、まさか自分に声をかけていただけるとは思ってもいなかったので、とても光栄に思いました。脚本を読むととても人情味あふれるコミカルなストーリーで、利重さんがこれまで撮られてきた作品とはまた違った印象を受けたのを覚えています。ただ、幹夫のような、周囲と少し距離を置いて生きて来たようなキャラクターをここ十数年ほど演じていなかったので、「今の僕の年齢で大丈夫だろうか?」という懸念はありました。そのことは監督にも正直にお伝えしたのですが、尊敬する利重さんが僕にならできると思ってオファーしてくださったということだと思ったので、お受けさせていただきました。●“絶対に怒らない”幹夫役 カットがかかる度に「大丈夫かな?」「助けてあげたいな」と心配になった―高橋さん演じる夏野幹夫は、穏やかで優しい性格ながら、過去のトラウマから“絶対に怒らない”ことを決め、人と深く関わることを避けてきた人物です。演じられていかがでしたか。幹夫というキャラクターが面白いのは、“自分”を押し殺せば、周りとうまくやっていけるだろうと勘違いしているところなんです。でもやっぱり人と関わっていくためには、少なからず自分自身の本質的な部分と向き合わなくてはいけません。これがもし20代の役だったら周りが手を差し伸べてくれたかもしれないですが、幹夫はもう大人なので、カットがかかる度に「幹夫くん、大丈夫かな?」「助けてあげたいな」と心配になってしまい、監督とも相談する時間が多かったような気がします。そう感じるということは僕が上から目線で幹夫を見てしまっていることになるので、彼に少しずつ寄り添うためにアプローチの仕方を探っていきました。いつもだったら「そういう生き方もあるよね」と役を受け入れることが多いのですが、そういう意味で今回は割と特殊な現場だったのかもしれません。●破天荒で衝動的なヒロインの受け止め方――ある日、住民票に身に覚えのない「続柄:妻」の文字を見つけるという、衝撃的な展開から物語は動き出します。この「身に覚えのない結婚」を起点に始まる物語、そして呉城久美さん演じる破天荒で衝動的なヒロイン・繁子というキャラクターをどう受け止められましたか。もし僕が幹夫の立場だったとしても、「なぜ見ず知らずの他人と結婚するという判断に至ってしまったんだろう?」「どんな人なんだろう?」と、気になって相手を捜してしまうと思うので、そこは幹夫の行動に共感しました。幹夫はたまたま近くで見つかったから良かったですが、遠くにいる人かもしれないですし…本当にそんなことが起きたら人を雇って捜してもらうしかないでしょうね(笑)。でも幹夫は、結婚をきっかけに誰かを知るという経験をしない限りは、多分一生一人だったと思うので、天の采配だったのかもしれません。繁子は家族から蔑ろにされながら生きてきて、感情のコントロールの仕方が分からずに暴走してしまった人。それに対して、幹夫の周りにいる人たちはとても優しいですが、二人とも自分の本質に蓋をしてしまった人間という意味では似た者同士なのだと思います。そんな二人が出会ったことによって、幹夫は繁子に、繁子は幹夫に自分を投影していく。人付き合いを通して感情が発露したことによって、本当の意味で自分と向き合うことができた。本作はそれをドラマチックな成長譚としてではなく、淡々とした日常の中で何かが少しずつ変わっていくように描いているのが利重さんらしさなのかなと思いました。●全編横浜ロケの感想は?「日本なのに日本ではないような独特な雰囲気の街」――本作は横浜市中区の全面協力のもと、全編横浜ロケで行われました。劇中には実在のレストランや花屋も登場しますが、撮影を通して感じた街の印象はいかがでしたか。横浜は異国の香りがしつつどこか雑多でメルヘンチック、日本なのに日本ではないような独特な雰囲気の街だと思います。横浜で撮影することは多いのですが、全編横浜ロケというのは特殊な体験でした。赤レンガの異国情緒溢れる建物は東京駅や日本橋のあたりに少し残っていますが、横浜には今も整然と並んでいる。これだけ地震の多い国で、あの光景が残っているのは文化保護の観点から見ても素晴らしいことだと思いましたし、ある意味遺跡のような場所をロケ地として使わせて頂くわけですから、寓話感というか、ファンタジーっぽさが良い方向に出ていたら嬉しいなと思います。池脇千鶴映画配給会社ビターズ・エンドの公式YouTubeで公開された予告映像では、池脇が号泣するシーンの紹介され、わずか9日間で95万回以上再生され話題になった。本作の初期のタイトルはジョージ・ガーシュウィンの名曲『ラプソディ・イン・ブルー』だったのだとか。監督であり主人公の叔父として出演している利重剛によると、その時には「ラプソディは狂詩曲、しかも自由な楽曲形式だから、けっこう合うんじゃないか」と仮でつけていたそうですが、最終的には「単語を重ねたかわいらしい響きと、基本は2人の話」ということで『ラプソディ・ラプソディ』というタイトルにしたのだそうです。その言葉通り、本作は「誰かとの関係はラプソディのように自由でもいいかも」と肯定しているような作品でもありました。「いつの間にか知らない女性に籍を入れられていた」というとんでもない関係の始まりから、そのような気づきに行き着く。利重剛監督は「映画館を出た後もまだ映画が続いているように感じる映画が大好きです」と前置きをしながら、「街を眺めながら、あの主人公たちはその後どうしてるかなと想像してもらえるような作品を目指して作りました。『そう、たまにはこんな感じのものを見たかったんだよ』と言ってもらえるような作品になっていればうれしいです」と語っています。
2026.05.04
老化は「徐々に」ではなく「一気に」くる。2026年研究で判明した、老化が加速する“2つの年齢”と今すぐすべきこと長く健康的な人生を送るチャンスを高めるために、私たちができることはたくさんある。「実年齢」を下げるような生活習慣を取り入れるのもそのひとつだ。老化は、長くダラダラと続くプロセスのように感じるかもしれないが、実はそうではないらしい。老化は一直線に進むものではないことを裏付ける研究があり、科学者たちは体内で老化が加速する2つの特定の時期を発見したと発表している。学術誌『Nature Aging』に発表された2024年の研究は、老化が一定のペースではなく、一気に進む時期があることを示唆している。そして今回、老化が一直線ではないという説を裏付ける新たな研究が発表され、老化が加速しやすい「新たな時期」が特定された。学術誌『Cell』に掲載されたこの海外の研究では、不慮の外傷性脳損傷で亡くなった14歳から68歳までの76人の臓器提供者から採取した血液と組織サンプルを分析した。組織サンプルは、心血管、消化器、免疫、内分泌、呼吸器、皮膚、筋肉といった体内のシステムを調べている。研究チームは、これらのシステムで見つかったタンパク質のカタログを作成し、提供者の年齢とともにこれらのタンパク質のレベルがどのように変化するかを調べた。(タンパク質は細胞の成長を促進する働きがあり、タンパク質のレベルが低いということは、若い頃のように細胞がうまく再生されていないことを示唆している)。このデータを、疾患や関連遺伝子のデータベースと照らし合わせた結果、心血管疾患、脂肪肝、肝臓関連の腫瘍など、さまざまな疾患に関連する48種類のタンパク質の発現が、年齢とともに増加していることが判明した。調査結果によると、最も大きな変化が起きたのは45歳から55歳の間だった。この時期、多くの組織で大きな変化が見られたという。最も劇的な変化が起きたのは、大動脈(心臓から体全体に血液を送る主要な動脈)であり、膵臓や脾臓でも同様の変化が見られた。研究者たちは最終的に、50歳前後に「老化の変曲点」があり、「血管は早期に老化する組織であり、老化の影響を著しく受けやすい」と結論づけている。では、これらの研究結果は一体何を意味しているのだろうか?海外の研究チームは、「なぜ50歳がターニングポイントなのか」については深く掘り下げておらず、単にこの時期に一部の臓器や身体システムで老化が加速するようだと発見したに過ぎない。「遺伝的なものなのか、炎症によるものなのか……なぜ50歳前後でこのようなことが起こるのかは、まだよくわかっていません」と、ジョン・フディマ医師は語る。この研究が示しているのは、正常な細胞機能に必要な主要なタンパク質が50歳前後で減少する傾向があるということだ、と彼は言う。メリッサ・バチェラー博士は、ホルモンの変化が関係している可能性があると指摘する。「50歳になる頃には、ホルモンの変化を経験し始めます」と彼女は語る。「筋肉量が減り、代謝も落ちてきますが、それはすべて自然な老化プロセスの一部なのです」この研究は比較的小規模なものであり、誰もが同時にこうした変化を経験することを必ずしも証明するものではない、とバート・マンデルバウム医師は指摘する。彼は、老化のプロセスは極めて個人的なものだと強調している。「老化について、皆さんに理解していただきたい重要なことが2つあります」と彼は言う。「ひとつはゲノミクス、つまり『あなたがどんな遺伝子を持っているか』ということです。そしてもうひとつは、『あなたがその遺伝子に対して何をするか』です」。遺伝子はあなたがどのように老化していくかの基礎を築くが、あなたの生活習慣はそれにプラスにもマイナスにも影響を与える、とマンデルバウム医師は言う。「そこが本当に重要なポイントなのです」と彼は付け加える。バチェラー博士もこれに同意する。「その変化がどれくらいの早さで現れるかは、人によって異なります」と彼女は言う。「多くはライフスタイルにかかっています。もしあなたがあまり良くない生活習慣を持っているなら、より良い習慣を持っている人よりも早く老化してしまうでしょう」。つまり、習慣を少し変えるだけでも、この老化の加速ポイントを遅らせる大きな効果が期待できるはずだ。専門家たちは、健康的に年齢を重ねるためには、日々のライフスタイルの選択が極めて重要だと強調している。「上手に年齢を重ねることは、人々が思っているほど運任せではありません」とバチェラー博士は言う。「日常生活の中に、小さな健康習慣を組み込んでいくことが大切なのです」専門家が推奨するアクションは以下の通り。さっそく今日から取り入れてみよう。毎晩7時間以上の睡眠をとる。 この推奨睡眠時間は、全身の健康をサポートするとバチェラー博士は言う。体を動かし続ける。 1日を通してできる限りアクティブに過ごすことが重要だ。「座りっぱなしは、新しい喫煙(タバコと同じくらい体に悪い)と言われています」とバチェラー博士。「座りすぎないように気をつけてください」筋力トレーニングを取り入れる。 いつもの運動ルーティンに筋トレをプラスしてみよう。「私たちのホルモンや筋肉量が変化する中で、これは本当に重要なことです」とバチェラー博士。健康的な食事を心がける。 「基本に戻ることです。加工を最小限に抑えた食品で、健康的でバランスの取れた食事をとってください」とフディマ医師。日本の読者なら、和食を中心としたバランスの良い食事を意識するのもおすすめだ。ストレスをうまく管理する。 ストレスをコントロールするために自分なりのリラックス方法を見つけることは、心身の健康をサポートするのに役立つはずだ。最終的にマンデルバウム医師は、「あなたは、あなたが食べ、飲み、考え、行動した結果そのものです」と強調する。しかし彼は同時に、全体的な健康に目を向けることの重要性も指摘している。ひとつの分野だけに集中して他をおろそかにしてはいけない。「健康に対して、総合的かつ包括的なアプローチをとらなければなりません」と彼は言う。「あなたの体は、あなたが与える良いものにも悪いものにも、きちんと応えてくれるのです」年齢を重ねることは私たちの目標でもあるが、長寿をサポートするために健康的なライフスタイルを送る努力をすることが大切だとバチェラー博士は語る。「衰えや老いは、加齢に伴う避けられない運命ではありません」
2026.05.04
16クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第115この頃、水師提督ブレークは、その艦隊を率いてアイルランドの海にありて勢威を張り、陸上のクロムウェルと協力して王党の火の手を消そうとしている。王党のラパート親王は叛鑑の残余を以てブレークを避けてキンセール砲台の援護の下に隠れている。憐れなる親王は海上に逃れてかなたこなたと彷徨の生活をなし、海賊然たるありさまー後、間もなく艦をも棄てた。モーリス親王もやはり海上の漂浪をやっていたが、西インド辺りで艦が沈んで人も鼠もいっしょに海底へ沈んでしまった。〔訳者曰く、この手紙の訳載を略す。11月14日にロスより議長レンサルに送ったもので、クーク及びヨオルの開城等戦いの状況を報じ、終わりにイングランド兵の大部分が病にかかれることをしるして、援兵と軍資の送遣をこうてある。〕 書翰第116この手紙には日付がない。また、したためた場所もしるされておらぬ。しかし、場所は文面により「ウォーターフォード」の前であると思う。日も11月の25日(日曜日)であろうか。〔訳者曰く、この手紙の前半は各地の戦報で、その終わりにウォーターフォード攻撃の模様がしるしてある。複雑無味なる故略す。〕貴下よ、これらの事について何をいわんか?これらをなしたるは肉の手なるか?これ、人間の智慧、力量なるか?これ、ただ主なり。かく思わざる人は神の呪うところとならん!貴下よ、事は大能の指導に因りて為されし。神は人々の心を動かして、我が国の下につかしめたまう。我が軍の中には戦場よりも病院に適せる兵、極めて多く、敵もこの事を知りいたるも、いかんともするあたわざりしなり。忠良なる人々の栄誉を神に帰せんこと願わし。政道に立つ人の、この事に由りて心情と霊魂に教えらるるところ多く、神に近寄り、高貴なる生涯をもって、主を讃美せんことは小生の切願するところにこれ有り。また我が党の人にあらざる各方面の兄弟がこの大恩恵に由りて神を讃美せんことは小生の切願するところにこれ有り。また我が党の人にあらざる各方面の兄弟がこの大恩恵によりて神を讃美するに一致せんことを望み申せり。家の父にしてかく恵み深きに、子供らの間に葛藤不和のあるは何の態ぞ。この勝利は神が英国今回の政変を嘉(よみ)したまう証拠なりと認められざるまでも、願わくは万人をしてこの勝利もかの政変も共に神の正審判にしてその偉業なりと認めしめよ。神は誇れる者を引きおろし、無辜(むこ)の流血にこたえしめ、その敵を粉砕する者なることを認めしめよ。我らは国の安寧平和を求めんと欲するもの、彼らもまたこれを求むる心を主よりたまわらんことを祈れり。以上。 1649年11月-日、ウォーターフォードの前に陣してオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 書翰第115この頃、水師提督ブレークは、その艦隊を率いてアイルランドの海にありて勢威を張り、陸上のクロムウェルと協力して王党の火の手を消そうとしている。王党のラパート親王は叛鑑の残余を以てブレークを避けてキンセール砲台の援護の下に隠れている。憐れなる親王は海上に逃れてかなたこなたと彷徨の生活をなし、海賊然たるありさまー後、間もなく艦をも棄てた。モーリス親王もやはり海上の漂浪をやっていたが、西インド辺りで艦が沈んで人も鼠もいっしょに海底へ沈んでしまった。〔訳者曰く、この手紙の訳載を略す。11月14日にロスより議長レンサルに送ったもので、クーク及びヨオルの開城等戦いの状況を報じ、終わりにイングランド兵の大部分が病にかかれることをしるして、援兵と軍資の送遣をこうてある。〕書翰第117議長閣下、前便後、間もなく、天候はなはだ騒暴をきわめおり理由により、我らは冬営地に退きて、神が活動の機を与えたまうまで、兵の休養をなすことに一決致せり。我らは本月2日ウォーターフォードの囲いを解いて退き申す。小生はいまだかつてこの日のごとき天候の悪しき日に、行軍したる事これ無し。この朝、敵営に2千近くの歩騎兵の増援ありたるを我らは認め申せり。この日はダンガーヴァンより8マイルをへだてたるキルマックトマスまで進み、翌朝ここを去りたるに、ブロージル卿より騎兵の一隊来り会し申す。その報ずるところによれば、卿は近頃ダンガーヴァンをくだし、2、3千のマンスター兵を従えて10マイルほど離れたる地にいる由なり。神はこれらの吉事をもって恩恵を垂れ給う間に、その知慧と測り難き聖意とをもって一事を起こして、我らをして聖意いかんを真摯に探らしめたまう。願う、我らの聖意を知りてこれに任せ得んことを。そはかの高貴なる中将(マイクル・ジョンズ)が遂に熱病の犯すところとなりて苦悶数日の後、たおれたる事なり。彼が生前の勇気と高節と忠良とは、小生が申すまでもなくその行為これを証せり。英国の損害実に少なからず。小生もまた気高き友、働きの伴侶を失いし。実に神の我らに与えたまいし苦き杯なり。まことに我らは目下狂乱の隊なり。されど我らは神の前に生き、神の命じたまいし時の間働き、その後は静粛に休むべし。さりながら苦き杯の底には甘みのあるものなり。敵はバロー河畔の我が塁を取り返さんと企て、少将フェラルはウォーターフォードより進み出でたりとの報に接し、小生は大佐ザンキーに味方の救助を命ぜり。大佐は途上小敵を駆逐しつつ塁に達したるに、塁は大軍の敵勢に囲まれいたれば、大佐はただちに戦いて遂にこれを駆逐致せり。捕虜350を数う中に、少佐オッネール、変節漢ワガン(大佐にしてダンカノンの守将)その他士官多し。この大勝を得るについて、味方にはただ一人の負傷者を出したるのみなり。敵の少将フェラル間もなく来援したるも、たちまち見苦しくも退却致し、ウォーターフォード城に入れり。目下の状況にてはなおなお攻戦は続かんが、我らは摂理のみ手にのみ従う覚悟なり。神その恩恵を以て我らが攻戦の期間を短くしたまわんことを誰か望まざらん。このほかに小生の望みなし。また努力なし、以上。 1649年12月19日、コークにおいてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 アイルランド軍の総大将オーモンド侯は、この敗戦をウォーターフォードのある高所からみていたそうだ。「変節漢ワガン」というのは、かつて議会軍の将たりしに、1648年、例のハミルトン軍に参加し、その後大胆狂猛を以て名をあらわした男である。彼は幸いにもこの時ここで殺されずに済んで、4年ほど後ハイランド地方に蜂起したる新スコットランド叛乱に加わって有名となった。そして間もなく世を去った。 この書翰が議長の手に届いたのは1月18日のことであった。この頃は冬期の郵便はこのくらい手間のとれたものであった。この日、議会では、クロムウェルの帰国して議会に出席することを要求することに決し、議長レンサルはこの旨をクロムウェルに申し送ることになった。クロムウェル召喚の理由はこうであった。この頃チャールズ2世がスコットランドへ行くという噂が次第に確実となり、スコットランド人が王のために兵を挙ぐる企画は大いに議会を驚かしたので、議会のある者は大将フェアファクスにスコットランド国出征の急を説いたところ、大将はこんな事には一向冷淡であって、彼は頑固な長老派信者であったその夫人に御せられて、むしろスコットランド国に好意を有していることがわかった。そこで議会では、クロムウェルの冬営地に退きたるを好機として、彼を召喚したのである。
2026.05.04
16クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第112 これはクロムウェルが議長レンサルに宛てたるロス開城の公文通知である。 貴下よ、我らはウェクスフォードを去りて、バロー河上のロス町に来る。この町は7、8百トンの舟の来り得る港なり。我らは17日(水曜日)に大砲3門を携えてこの地に来り、この夕べ、勧降状を城に送りたれども返答なし。彼らには2、3日前、歩兵1千の増援ありしとか、翌日は砲撃の準備を致せしが、千五百人以上のイングランド人、スコットランド人、アイルランド人、混合の援兵が河を越えて、城に入るを目撃致せり。オーモンド、キャスルハヴン、アーヅ卿は対岸にありてこれを指揮致せり。翌朝、我が砲兵、射撃を開始せしところ、城将より返翰来り、かくして交渉開かれし。敵は大砲を携えて城を去りたしと主張し、小生は砲と弾薬の引渡しを要求せしが、敵は遂に我が請求をいれ、多大の兵器弾薬を残して城を去れり。敵のマンスター州、兵中に在りしおおよそ5百のイングランド人は我が軍に帰順致せり。この守営の陥落は我が軍に休養を与え、またマンスター進撃に便ならしめ、まことに好時期に下りたる御恵みなり。ただただ我が軍は神がこの憐れなる一隊を導き給いつつあるを信じ、彼の名のみ高められんことを願い、かつ人々がこのこの御恵みを受くるに恥じざる行動に出でんことを祈るのみなり。これ小生が熱願なり、以上。 1649年10月25日、ロスにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 追伸、ホートン大佐は流行病のためこの頃逝去致せり。大佐は純正勇猛の士、その功績の記念せられんことを望めり。 憐れなるホートンよ、彼は自由公道のために尽すところ多かりしが、遂に戦地の流行病にたおれてしまった。アイルランド地方は、戦乱のためにこの以前よりはなはだしく荒廃して、飢えた人が道に横たわるありさま、疫病もまたはげしかったのである。ただしクロムウェル軍には糧食の供給豊かであったという話。(6)書翰第113-第118トリーダ及びウェクスフォードの撃破とロスの降伏とはアイルランド戦乱の主脳を砕いたのであって、残余はアイルランド全体、殊に北西部によろよろとひょろついているものの、間もなく鎮定という気色を示した。この冬中マンスター州地方におけるその往生際の苦しみと、クロムウェルの行動とを、次の6つの書翰が示すのである。 書翰第113 ここにまた家庭的な小さなひらめきがある。この際、荒野の花というべきものである。メーヤーは12月12日ハースレーにて、これを受取ったそうだ。親しき兄弟よ、はなはだ多忙ながらこの機を失うを好まざるまま、一書呈し申す。小生は貴兄とご家族とのためにことごとに祈りおり。ディック〔リチャード〕は怠惰者なれば、小生は彼より手紙の来るを予期せざるも、我が娘〔リチャードの妻〕の破約は小生の大いに怒るところなりとお伝えくだされたく、彼女はこれを償うならんと存ぜり。ウェクスフォードとロスの攻略後、コーク及びヨオルの2城、我らに降りて、神はマンスターにおいて、我らに大なる地歩を賜れり。その他の小守営の降り来りしもの一々揚げ難し。主の為したまうところ驚異すべし。彼の手のみこれらをなせり。願わくは主のみ崇められんことを。小生は近侍いちじるしく健康を損じしが、幸いに支えられおりし。願わくはお祈りくだされたし。また我が子息は更に更に神の事について思うようお勧めくだされたし。俗世の事に何の利かあらん!小生は我が子息がキリストにありて妻を愛し、彼女もキリストにありて、夫を愛せんことを願いおれり。小生もまたキリストにありて2人を愛したく願いおれり。ご家族皆々様によろしくご鶴声くだされたし、以上。1649年11月13日、ロスにおいて オリバー・クロムウェルハースレーにある愛する兄弟リチャード・メーヤー殿 書翰第114〔訳者曰く、これは11月14日の日付で参議院議員トーマス・スコットに宛てたものである〕
2026.05.04

シリアスで重厚な作品に参加することも多かった目黒は、これまで「観てくださる方に“なにか伝えたい”と、誰かのために挑むことが多かった」ものの、本作は「自分のために出演したいと思った」という。「お話をいただく前から、『SAKAMOTO DAYS』が大好きでした。原作の1、2巻が出たくらいから、『ものすごくおもしろいな』と思いながら読んでいたんです。まさか自分が実写で坂本を演じさせていただける日がくるなんて、1ミリも思ってもいませんでした」と原作ファンとしての想いをあふれさせ、「アクションに興味があり、突き詰めていきたいと思っている分野でした。さらにコメディにも挑戦してみたいという気持ちがあったので、『SAKAMOTO DAYS』は自分のやりたいもの、興味があるものが凝縮されている作品。だからこそ、自分のために出演したいと思いました」と力強く語る。坂本は特異なキャラクターであるだけに、Snow Manのメンバーも全員、目を丸くしていたそうで、「『SAKAMOTO DAYS』が実写化されるという驚きと、坂本というキャラクターを僕が演じさせていただくという衝撃。みんな『マジか!すごいな!』と驚きながら、すごく喜んでくれました」とにっこり。坂本というキャラクターの魅力について、「家族の前で見せる表情と、外で見せる圧倒的な強さ。そのギャップがすごくステキ」だと熱っぽく話し、「原作がすごく好きで、リスペクトがあるからこそ、僕と同じように原作を好きな方にもしっかりと届くような作品にしたいと思いました。また原作を読んだことがないという方にも、僕が原作を読んだ時のようなおもしろさがスクリーンを通して伝わるといいなと思いますし、生身の人間が動いているからこそのよさも出せるよう、幅広い方に喜んでいただける作品にしたいと感じていました」と、強い意気込みと共に撮影に臨んでいたことを明かす。そしてコメディの名手として知られる福田監督とのタッグも、「ウキウキ、ワクワクでした」と大きな喜びとなった。“家族と過ごすうちに推定体重140kgのふくよかボディになった坂本”と、“本気モードになるとカロリーが大量消費され、急激に痩せ細るスマートな坂本”のどちらも目黒が演じ、キレキレのアクションを披露している。目黒がふくよかな坂本に扮したビジュアルが解禁になるとSNSでも大きな話題を呼んだが、特殊メイクを施してふくよかな坂本を演じるという企画を聞いた際には、彼自身も「ふくよかな姿で、どこまで戦えるのだろうか。未知の世界だなと思いました」と興奮を覚えたと打ち明ける。その世界へと向かうためにはアクション練習にも励み、「どうなるかわからないので、とにかく自分のやれることは“練習をしまくる”ということ。ひたすら練習をしていました」とストイックな姿勢を吐露。伝説の殺し屋を演じるうえで必要だったのは、スピード感と打撃力だったそうで「アクション練習は、まずしっかりと基礎をやりつつ、スピード感を出してマットを殴ったり、腰を乗せて蹴りを繰り出したり。連打する場面も多いので、ひたすらマットを殴り続けたりもしていました。そうしたらある日、皮が剥けてしまって拳から血が出てしまって。その瞬間は一生懸命やっていてわからなかったんですが、気をつけなければいけないなと思いました」と語る。毎日、約4時間に及ぶ特殊メイクを経て、ふくよかな坂本に変身した。目黒は「徐々に坂本が出来上がっていく。その過程を見ているのも、とても楽しかったです。初めてふくよかな坂本になった姿を目の当たりにした時は、すごくおもしろくて。たくさん写真を撮ってしまいました」と笑顔。「クランクイン初日、最初のシーンから早速、ふくよかな坂本のシーンだったんです。午前中はすべて特殊メイクのために時間を使い、午後からようやくその姿になれて。特殊メイクのチームの皆さんも、『ここまでの特殊メイクをしたことはない』とおっしゃっていました」と、スタッフにとっても前人未到の領域だったのだとか。「自分が頑張って、実際に太って演じたらどうなるかなと思ったりもしたんですが、今回は痩せているほうも演じなければいけないので…」と笑いながら、「ふくよかな姿でのワイヤーアクションもあるし、すべてにおいて未知。撮影前から特殊メイクのリハーサルをしたり、ボディについても改良を続けていきました。スタッフの方々も『これはどうなるんだろう』と、みんなで一緒に未知なるものと戦っていた感覚があります。問題が出てくると、それに対してどうやって攻略するか、改善していくのかと、一つ一つ取り組んでいく感じですね。実際に撮影が始まってみると、出てくる汗の量も想定外のものだったり、予想外のこともたくさん出てきます。プロ集団の皆さんのお力を借りながら未知の世界に挑んでいく時間は、ものすごくワクワクするものでした」とチーム一丸となった撮影を思い出しながら、「毎日、汗だくでしたが、ものすごくやりがいがあって、本当に楽しかったです」と感無量の面持ちを見せる。とりわけ苦労したのは「重心が低い位置でのアクション」だという。「ふくよかな坂本はお腹が出ているので、しゃがんだ時にもお腹がぽっこりとしていて。重心を下にしながら、どれくらいスピード感を出せるのかという難しさも感じました。何回かやり直すカットもありましたが、悔しさをバネに『絶対に行けるぞ!』と気合を入れてトライして」と奮闘しながらアクションの楽しさも噛み締め、「これからもいろいろなアクションにチャレンジしたいなと思いました。いつでも動ける自分でいたい」とさらなる意欲をのぞかせていた。「ここまでのアクションに挑戦したのは初めてで、新しい自分とこれまでにない自信に出会えた。これだけのものを背負ってアクションをやったとしたら、生身の自分だったらどれくらい動けるだろうかという自信にもつながりました」と幸福感をにじませた目黒。そんな彼がアクションと同じくらい「汗をかいた」というのが、「挑戦してみたいと思っていた」コメディの部分だ。撮影初日から福田組らしい撮影を味わったというが、「笑いをこらえるのが大変だったシーンもたくさんある」と告白。「アクションも笑いも、スクリーンを通して観客の皆さんに届けるためには全力。観てくれる方を笑わせるためには、全力でやらないとコメディとして成立しないんだと思いました」と発見も多かったといい、「福田監督のなかで『このシーンは、こういうイメージで』とお伝えいただきながら、そこにさらに自分でもいろいろ足していきたいなと思って。監督とは、よく話し合いをしていました」と、タッグの充実ぶりをうかがわせた。笑いを起こすコツについては「自分のなかでは、『よし、これは笑ってもらえるだろう』という感覚はなくて。真剣に、一生懸命にやるしかない。観に来てくださった皆さんが、笑ってくれたらいいなと。皆さんが笑ってくれた後に、自信がついてくるかもしれない」と期待を膨らませる。やりたいものが詰まった作品で、主演を果たした。共演者にも個性豊かな面々が顔を揃えたが、座長として心がけていたことはあるだろうか?目黒は、「ふくよかな坂本になっている時は、皆さんとコミュニケーションを取るのがなかなか難しくて」と苦笑い。「とんでもない量の汗が出るんですが、汗が出過ぎると特殊メイクが取れて撮影ができなくなってしまう。本番以外の時間は、“どれだけ汗をかかないか”ということが大事でした。対策として、特殊メイクのボディの下、僕の皮膚に触れるところに氷水を流す装置を用意していただいて。僕はいつも、撮影の合間や休憩時間もなるべく現場にいたいタイプなんですが、今回は特殊メイクが取れてしまったら皆さんにご迷惑がかかってしまうので、一回、一回、その装置のところに戻るようにしていました。ひたすら『汗、ひけ!』と思っていました」と撮影の合間もこれまでにはない時間を過ごし、「その分、スマートな坂本の時に皆さんとお話できたらいいなと思っていました」と振り返る。坂本の妻、葵を演じたのは上戸彩。目黒は「ふくよかな坂本の時にはメイクが取れてしまうといけないので、あまり喋ることができないんですが、上戸さんがその状況をおもしろがって僕にすごく話しかけてきて」と思わず吹き出しながら、「僕は『笑わせないでもらっていいですか』と答えたりと、その場をいつも和ませてくれました。本当に気さくな方なんです」と感謝しきり。「葵との掛け合いは、おもしろいシーンがたくさんありました。坂本を含め数人が葵に怒られるシーンなど、上戸さんのお芝居も振り切っていて。すごく楽しい場面になっています」とアピールする。坂本のよき相棒となるシンを演じた高橋文哉とも最高の絆を育み、「『SAKAMOTO DAYS』において、坂本とシンの関係性はとても大きなもの。文哉くんとだからこそ、アクションでもお互いの呼吸やテンポを合わせることができたと感じています。文哉くんには相手に合わせる力があり、隅々まで周りの状況を見て、把握する力がある。そして、とても真面目でしっかりした方なんです。文哉くんとだからこそ、本作における坂本とシンの関係性を築けた。一緒にやれて、ものすごくうれしかったです」と全幅の信頼を寄せる。「坂本は、葵と出会って“ノーキル”をモットーに生きるようになった。それからは“家族が第一”という考えで生きている。そういう男性は、僕も魅力的だと思います」と坂本に愛情を傾けた目黒。そんな支えとなる存在の大切さを語る目黒に、Snow Manのメンバーに家族のような温かさや絆を感じる瞬間について聞いてみると、「いつも笑わせてくれるので」と回答。「たとえば佐久間(大介)くんとは、『オレがお前を笑わせるよ』『いや、オレもお前を笑わせるよ』みたいなやり取りをすることもあります。僕は絶対に勝てないんですけど」と微笑みながら、「佐久間くんって、夜中であろうとなんであろうとテンションが変わらないんです。いつも笑わせてもらって、元気をもらっています」とメンバーの存在が元気の源にもなっていると話していた。《目黒蓮のキャスティングも話題!》「SHOGUN 将軍」の“製作総指揮夫婦”がはじめて明かす撮影秘話「女たちは戦いの中にいる」5/2(土)真田広之が主演とエグゼクティブ・プロデューサーを務め、新登場の和忠役を「Snow Man」の目黒蓮がオーディションで掴んだことも話題のハリウッド製作ドラマ「SHOGUN 将軍」シーズン2の撮影が、カナダ・バンクーバーで進んでいる。“日本人キャスト”が“日本語”で演じる「戦国武将のストーリー」に世界が熱狂。そんな前代未聞の成功を牽引したのが、製作総指揮であり脚本も手掛けたレイチェル・コンドウとジャスティン・マークス。実生活でもパートナーである2人に、CREA WEBが単独インタビュー。 シーズン1の意外なエピソード、盟友・真田広之への思い、そして元々は小説家であり、この作品で初めてエンターテインメントの世界に飛び込んだレイチェル・コンドウが、ワーク・ライフ・バランスに悩んでたどり着いた結論は、とても胸に響くものとなった。――色々なインタビューを受けてきたと思いますが、「SHOGUN 将軍」ファンのために、ぜひ今まで話したことのない、とっておきのエピソードを教えてもらえませんか? コンドウ うちの犬が一瞬だけ出演してるんだけど、それじゃあ面白くないですよねえ……あ、思い出した! 私、遊女役でちらっと出演しているんですよ。――ええ! どこにですか? 全然気づきませんでした! マークス 遊郭のシーンで、ベテラン遊女その2、としてね(笑)。実はレイチェルはもう少し目立つ、ベテラン遊女その1を演じるはずだったんだけど、その役はもう一人のプロデューサー、エリコ(宮川絵里子)がやることになったんだ。コンドウ 私が下手過ぎて、降格させられちゃった(笑)。マークス だってエリコの方が、お辞儀が上手だったからね(笑)。これは本当にとっておきのエピソードですよ。コンドウ しかも、エリコと私は遊女役にすごく一生懸命取り組んだのに、さらっと撮っただけで、結局、誰かさんが(ちらっと隣のジャスティンを見る)、私たちの出番のほとんどをカットしてしまったんです。だから私が出ていることに多くの人は気づかないと思います(笑)。マークス だって僕はすごく公平なプロデューサーだから、自分にも他人にも厳しいんです。自分のことだって、演技が下手だったらカットするよ。実はエピソード1で、船乗りの死体役をやっているのは僕なんですよ。コンドウ 踏んづけられている死体の手、あれは彼の手なんです(笑)。マークス 僕は自分のショーで死体の役を演じるのが好きなんです。あの撮影は最終日にやったんですが、3時間も船のデッキで死体として転がっていられるなんて、最高のアイデアだと思ったんです。だって僕が唯一、眠れる時間だったんですから(笑)。でも編集の段階で、残念ながら僕の出番も一瞬だけになってしまいました。本当はもっと長いシーンになるはずだったんですが。コンドウ あなた、2コマくらい映った? あっという間に消えちゃった(笑)。マークス 大いなる犠牲だね。この作品のための。――注意深く見ていれば、コンドウさんのことを見つけられますか? コンドウ 目を大きく開けて、瞬きをしないでじーっと見ていれば、見つけられるかも。エピソード8です。ジェイソン ジョン・ブラックソーン(按針)と仲間が揉めるシーンで出てくる、経験豊富な遊女ですよ。――徳川家康がモデルになっている吉井虎永役を演じ、プロデューサーも務める真田広之さんからは、一緒に仕事をすることで何か影響を受けましたか? コンドウ もちろん、とても影響を受けました。ジェイソン 全てにおいて、ですね。僕らはよく、「この作品は東洋でも西洋でもない。これはイースト・ミーツ・ウエストの世界なんだ」と言ってるんですが、その精神を体現しているのは真田広之以外にいません。 彼は5歳の頃から俳優として活躍し、日本で素晴らしいキャリアを築き上げたのち、その翼を世界に広げることを決意しました。真田さんは日本の映画業界の仕組みを熟知しており、日々僕らは教えられましたし、同時にハリウッドの映画産業の仕組みも理解している。つまり、僕らのイースト・ミーツ・ウエストの世界の共通語ともいうべきものが、真田広之さんなんです。二つの精神が交わり、二つの文化を結ぶ。そのゴールを目指すためにあるべきは寛大さであり、それこそが真田広之という人であり、彼の持つ言葉なんですね。素晴らしいです。――ところで、CREA WEBの読者は主に30代、40代の女性です。日本では、女性たちの多くは自身のキャリアと私生活、いわゆるワーク・ライフ・バランスをどう成立させるのかに悩んでいます。お二人は2018年から「SHOGUN 将軍」のプロジェクトに参画し、コロナ禍での撮影を経て、2024年にシーズン1が配信されるまでに6年もの歳月を要しています。その間にコンドウさんの妊娠、出産があったそうですが、キャリアと私生活をどのように配分されているのでしょうか? コンドウ 私もその点は、ものすごく苦労しているのでよくわかります。仕事と私生活、両方とも同時に上手くやるなんて、無茶苦茶難しいというか、ほとんど無理なんですよ。だから、どちらも完璧じゃなくていい。「優」じゃなくて、「可」でいいんです。私自身、仕事の上ではプロフェッショナルになりたい、プロの世界の一員になりたいという強い願望がありました。でも同時に、子供を持ちたい、育てたいという願望がそれと同じくらいに、いやそれ以上に強くあったんです。だから私もとても悩みました。――同じ悩みを抱える女性たちに、アドバイスをいただけますか? コンドウ 私がいつも自分自身に言い聞かせていることは、仕事も実生活も、「どちらも、まあまあでいい」ということ。日々の生活は格闘だし、私もただただ今日一日をやり遂げることしか考えていません。とにかく次の1時間を頑張ろう、まずは目の前のことをやり遂げよう、という感じなんです。おそらく、これはどの女性も身に覚えのある感覚なんじゃないかな? 私からアドバイスがあるとしたら、「自分に優しくして。あなたはもう自己ベストを出しているから、それで十分」ということ。ほどほどで良いと知ることが、大切だと思いますね。ジェイソン 女性はいつも闘っているんだ。コンドウ そう、そうなの! なんでそれをもっと早く言ってくれないの? (笑)。このドラマのシーズン1とは、「女たちは戦いの中にいる」。それこそが真実なんです。レイチェル・コンドウ米ハワイ州マウイ島出身。曽祖父母が日本から移民した、日系アメリカ人。作家としていくつかの小説を文芸誌に発表し、2019年には「Girl of Few Seasons」が、その年の全米を代表する短編小説に贈られる オー・ヘンリー賞に入選。ドラマ「SHOGUN 将軍」 に、夫であるジャスティン・マークスと共に製作総指揮、共同クリエイター、脚本家として参加。エミー賞、ゴールデン・グローブ賞などを受賞した。ジャスティン・マークス米テキサス州出身。脚本家として幾つかの作品を手がけ、映画版『ジャングル・ブック』(2016)では米アカデミー賞脚色賞にノミネート。2018年に「SHOGUN 将軍」の企画を立ち上げ(ショウランナー)、妻のレイチェル・コンドウと共に製作総指揮、共同クリエイター、脚本家を務め、エミー賞、ゴールデングローブ賞など数々の賞を受賞。『トップガン マーヴェリック』(2022)の原案も手がけた。SHOGUN 将軍ジェームズ・クラヴェルの小説をもとに、シーズン1では、1600年、英国人航海士ジョン・ブラックソーン(コスモ・ジャーヴィス)が日本に漂着し、戦国大名・吉井虎永(真田広之)の家臣となり、通訳の鞠子(アンナ・サワイ)らと交流していく中で、按針という名で激動の時代を生き抜いていく姿を描いた。シーズン2では、エグゼクティブ・プロデューサーに昇格した真田広之をはじめ、二階堂ふみ、トミー・バストウらが続投し、目黒蓮、水川あさみ、窪田正孝ら新たなキャストも加わり、原作にはない10年後の虎永の野望が描かれる。目黒のコメント■目黒蓮/和忠(かずただ)役目黒蓮です。この度SHOGUN2に出演させて頂くこととなりました。去年、ディズニープラスでSHOGUNの配信を観させて頂いた時、これまでの海外で表現される日本の描かれ方との違いや壮大さに感動して、自分も日本人としてこの作品に絶対に出演したいと強く思いました。そこからチームのこと、真田広之さんの思いやこれまでの活動、SHOGUNについての記事を調べるところから始めました。今年に入ってオーディションに参加させて頂けることとなって、映像を送ったりアメリカのチームの方とのオーディションを行って、念願のSHOGUNへの参加が決まって本当に夢のようです。僕はこの1年、SHOGUNの撮影をしているところをずっとイメージしてきました。たくさんの方が積み上げてきたものをしっかりと受け取って、SHOGUNという作品を大切に僕に与えられた役を形にしたいと思います。みなさん、SHOGUN2の配信を、ぜひ楽しみにしていてください。〇目黒は激しいアクションシーンが見どころの主演映画「SAKAMOTO DAYS」に思い入れがあり、メガホンを取った福田雄一監督にも恩義を感じているという。「撮影中から『SHOGUN』への挑戦が決まっていた。万が一、ケガでもしたら、目黒さんの夢への挑戦が白紙になってしまう。そこで監督らスタッフは危険なシーンに代役を立てることを伝えた。こうした気遣いに目黒さんはいたく感動していたそうだ」(制作関係者) 最終的には目黒が「やります!」と直訴し自ら演じ切ったそうだが、映画の〝大事な日〟に帰国したのは、作品への愛情の裏返しと言えそうだ。 すでに続編の制作も決定しているという同作。カナダで磨きをかけた演技で福田監督を驚かせる日も近そうだ。
2026.05.04
16クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) オーモンド侯はダンドーク、トリムの2城に市街(まち)を焼いて逃ぐべしとの命令を伝えたが、彼らはトリーダの戦況に目を回して市街など焼く暇もないと急ぎはなれた。されば2つの町はそのまま新太守の手に落ちた。次に、彼は大佐ウェナブルズに12連隊の兵を授けて、ある方面に行かしめたが、その事は次の手紙に明らかである。 書翰第106貴下よ、カーリングフォード回復等の用務を帯びて、トリーダを出でたる大佐エナブルズより昨夜通信これ有り。彼は、カーリングフォードに着して、開城を勧告せしところ、3個の城と、港をおさめる一個の塁とは彼に降り、火薬40箱、大砲7門、その他分捕品これ有る由なり。ウェナブルズは更に騎兵一隊を率い、歩兵の後続を命じて、ニューリーに進みしが、歩兵の来着以前、敵は勧降に応じて城を明け渡せし由なり。その他2、3の彼の報告によるに北方地方の事、はなはだ味方のために好望なり。小生はこの報告の参議院へも致されんことを望めり。諸君がこれらの恩恵に接して、すべてを神の栄光に帰せんこと、これ小生の神に祈るところなり。何となれば彼のみがすべてこれら甚大の恩恵の付与者なり。軍は今夕ウィックロー郡アークローに止まるべく、この地は当地より3、40マイル隔たれり。小生も神恩により今日この地へ参るべし、以上。 1649年9月27日、ダブリンにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 ウェナブルズは北都を走り回って着々として功を奏しつつあった。一度夜襲に出くわしたばかりで、たいした損害もなかった。クロムウェルはこの日ダブリンを出でて南方に進み、更に大いに新たに為すところあらんとしている。 (6)書翰第108-第112ロスウェクスフォードはクーク大佐これを守り、軍はさらにロスに急ぎ進んだ。ロスは舟の通えるバロー河の岸に立つ町で四周に壁をめぐらしてある。10月17日軍はロスに向かって陣し、同日クロムウェルは勧降状を城に送った。 書翰第108貴下よ、余はアイルランドに入りし以来、城を攻むる際は必ず先方の利益となるべき条件を提出して、城の明け渡しを請求するを常とし、未だ一回も突然攻撃を開始せしことなく、以て流血の惨を避けんと努めし。我が軍の訪ひし場所とその住民に苦害を与えざるは、余の主義なり。(ただし彼らにして片意地なる場合は自ら別なり)この地とこの住民についても同様の措置に出でんがため、ロス町を我が手に渡さんことをここに勧告致す。 1649年10月17日、ロスの前に陣してオリバー・クロムウェル ロス城指揮官殿 これを城に送った後、攻撃準備を整えた。アイルランド軍の総大将オーモンドやアーヅ、キャスルヴン等諸将は河の対岸にありて、千五百の歩兵を援軍として城に入れた、敵将インテクインも2、3日前まで城中にあったという。19日(金曜日)にはイングランド軍は砲撃を開始したが、城将より返答が来た。かくして数回の文書の往復があって交渉を重ねている間にも、イングランド軍は休戦せず、時々砲撃を加えて威力を示したが、遂に協定成立して城と町は無事クロムウェルの手に帰した。この地は重要な場所であり、またイングランド兵休養の好地であった。城中にあった5、6百のイングランド人は例のごとくクロムウェル軍に加わった。オーモンド麾下のアイルランド王党も下らぬ主義のために死ぬより生きたほうがよかろう。〔訳者曰く、書翰第109、第110、第111は右城将ルカス・ターフに宛てたる交渉の文書であるが、その内容において次掲の手紙と重複する故省く。〕
2026.05.04
〈「ばけばけ」より断然濃厚〉【小泉八雲、18歳年下妻セツへの愛情表現】妻は「女神」。人力車から抱いて下ろし「女王のように着飾らせている」と綴って…『八雲の妻 小泉セツの生涯』小泉八雲と妻セツをモデルにしたNHK連続テレビ小説『ばけばけ』が、惜しまれつつ最終回を迎えました。 主人公トキ(髙石あかり)と夫・ヘブン(トミー・バストウ)が結ばれるにあたっては、ドラマでも「ラシャメン(洋妾)」差別や国際結婚の難しさが描かれましたが、実際のセツも当初は「妾」と見られていました。 それを覆したのは、八雲自身が示したセツへの深い“愛情表現”。八雲の親友・西田千太郎(吉沢亮が演じた錦織友一のモデル)が、日記の表現を「ヘルン氏ノ妾」から「せつ氏」にたちまち変えたほど。 『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)から、家族に恵まれない人生を送っていた八雲が40歳で結婚した年下妻セツをいかに大切にしたか、その“愛情エピソード”ハーンとセツは、6月22日に北堀町の士族屋敷(現在の小泉八雲旧居)へ引越して、セツの表現を使えば「一家を持った」。それに先立って、西田に「救済」への取り成しを依頼した実母のチエは、ハーンから、殿町も先に住んだ家からほど遠からぬ所に、小さな家を借りてもらい、家財道具の調達を受けて、生活を再開している。このチエの救済に関する取り次ぎを記した西田の日記でも、セツの存在をあらわにしてハーンの私生活を報道した『山陰新聞』(6月28日)でも、セツは「ヘルン氏の妾」であった。しかし、「思ひ出の記」で語られている山鳩の話からでさえ、2人の心がお互いに対して、次第に開かれていったことが推し量られる。そして、セツがハーンから真に愛されるようになったことは、ハーンがチェンバレンに宛てた7月25日付の手紙の中で、「日本の女性は何と優しいのでしょう。日本民族の善への可能性は、この日本女性の中に集約されているようです」と書いていることにも窺える。ハーンはかねて西田と夏休みの「漫遊」を計画し、7月26日から、その最初の逗留地と決めていた杵築の稲佐(いなさ)の浜に来ていたが、2日後にセツが加わり、結局、8月10日まで杵築の地に滞在した。この杵築滞在の初めの時点で、ハーンとセツの関係が充分に成熟していたことは、次の一事から察することが出来るであろう。それは2人の長男の一雄が、父ハーンの語ったこととして伝えているエピソードである。セツが「来てくれ」というハーンの手紙を受けて、稲佐浜の養神館(ようしんかん)(因幡屋別館⦅いなばやべっかん⦆)に着いた時に、ハーンは海岸に出ていたが、彼が宿に戻り階段を上がって来るところを、セツが階上から「優しい清い微かな声」で、「アナタ」と呼びかけたということであり、その時、セツが来ているとは思わなかったハーンには、あたかも、セツの魂が抜け出て来ているように思え、また「女神」であるかのように感じられたというのである(「亡き母を語る」)。その日2人は、西田から離れて因幡屋本館に移ったが、そこの養女で、ハーンから「宿のきれいな娘」と呼ばれた17、8歳のタニは、ハーンがセツを人力車から抱いて下ろすという、当時の日本人には信じ難い光景を見て、晩年まで忘れなかった(梶谷泰之『へるん先生生活記』)。疑いもなく、この時点で2人は、お互いに幸福であったのである。 その昔、セツの曽祖父で歌人であった真種が、千家俊信の娘と結ばれた杵築は、セツとハーンが夫婦の結合を完成させる舞台ともなった。出雲大社の大鳥居近くには森山家(もりやまけ)があり、トミの養家の高浜家からシンという女が嫁いでいた。また、森山家と縁続きの医師で英語を話す西山関一郎(にしやませきいちろう)が、因幡屋に来てハーンと談じているという(『大社の史話』五三号)。さらに、少し離れた日御碕(ひのみさき)には日御碕神社があり、その宮司を務める小野男爵家は、セツの実母方の従姉であるせい(金篇に斎と書く)子の嫁ぎ先であった。2週間、杵築に滞在する間に、2人の関係は、夫婦となったことを、そうしたセツの縁者たちに披露できるところまで熟するに至ったものと思われる。あるいは、こうした縁者たちとの接触の機会がある役割を演じて、すでに内で熟していた関係が、外部に明らかにしてという意味での「結婚」の形をとって、固められたと言えるかも知れない。8月4日、ハーンは大社宮司の千家家に招かれ、彼のために特別に取り計らわれた豊年踊りを見物した。『出雲大社教祖霊日記』の8月4日の条に、「ヘルン氏外二名豊年手踊見物に来り」との記載があるというが、『西田千太郎日記』の記載、それに「思ひ出の記」の表現から考えて、西田とともにセツが同行したことは、明らかである。そして、あるいは、この大社訪問の折に、セツとハーンによる、ある意味が籠められた参拝があったのかも知れない。なぜなら、後に『The Student』という英字誌がハーンの訃を報じた時に、「出雲大神宮にて結婚を挙行し」と記しているが、それは、セツの口から「出雲大神宮で」という言葉が出たためという可能性も考えられるからである。それはともあれ、5年後に法的手続きによって結婚が確定した時に、2人はこの日本随一の縁結びの大神の社殿に参拝している。 大社で踊りを見物した3日後の8月7日、ハーン・セツ・西田の3人は、舟で日御碕を訪れ、西田が日記で「せつ氏ノ縁家」と明記している小野男爵家に招かれて、午餐の饗応を受けた。その家には、セツがよく知り賢夫人として尊敬していた祖母が、老いの日を送ってもいたのである。この訪問の折にハーンが、セツと夫婦になったことをセツの従姉夫婦に伝えていることは、まず確実としなければならない。それは、西田が、10日前ですら日記に以前と同じ「ヘルン氏ノ妾」と書いていたのに、この7日の夜には、以後用いられる「せつ氏」の表現を使っていることからも察せられる。 ハーンは、セツの杵築到着の翌日、西田とともに千家家の饗応に招かれた時には「大酔」し、8月4日、再び招かれて豊年踊りを見物した時には、時の移るのを忘れて踊りに興じ、夜中の2時に至った。また『君が代』を教わり、3人でよく歌い、そんな時には子供のように無邪気だったと、セツは「思ひ出の記」の中で語っている。ハーンは人生の晩夏にあったが、間違いなく夏の陽を楽しんでおり、セツもその気分を共にしていたように思われる。結局、ハーンと西田の夏休みの「漫遊」は計画変更となり、8月10日、3人で一旦松江に戻った後、西田は1人で大阪に向けて旅立った。 一方ハーンは11日に、友人のペイジ・M・ベイカーに宛てて手紙を書き、その中でセツとの結婚を報じて、「もちろん、妻の写真はお送り致します。お話しておかなければならないことは、国籍法上の問題があるため、ただ今のところは、ただ日本風に結婚しているということです」と述べ、続いて、国籍の違う2人の結婚に絡む法律上の問題を、セツヘの温かい配慮を籠めて詳細に書き記している。 その3日後、ハーンとセツは連れ立って、『知られぬ日本の面影』所収の「日本海に沿って」で描かれる、「2人だけの初めての長旅」に出た。松江に帰った翌々日(8月末日)には、西田を西洋料理の昼食に招いた─「3人で旅行の話を致しまして愉快でした」とセツは語っている。 ハーンは、アメリカにいる親友のエルウッド・ヘンドリック宛の手紙で、「私の家庭生活は、この上なく幸福なものとなり、まさに私がこの地を去りたいと思い始めた時に、私をこの土地にしっかりと縛りつけることになってしまいました」と記した後、先に引用したチェンバレン宛書簡に見られる日本女性の賛美を繰り返して、「総じて、女性たちは私が今まで見て来た中で、間違いなく最も優しい存在です。日本人の善いもののすべてが彼女たちの中に籠められています」と書いているのであって、セツとの結婚に大いに満足していることがよく示されている。 彼は同じヘンドリックへの手紙の中で、「妻を女王のように着飾らせている」とも書いているが、女中の八百は、後年この頃を回想して、「節子さんは終始日本服で、髷は丸髷(まるまげ)、実に立派な奥様ぶりで大層先生の気に入っておりました」と語っている。 セツもまたハーンに尽くした。彼の目のためには、八百の母に月1回の一畑薬師への代参を頼んだし、彼の健康によく気を配って、1年後にハーンが、久しい間自分がこんなに強いと感じたことはなく、着物が小さくなってしまったと言った時に、セツは「良い奥さんを持ったからだわ」と応じたものである。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)オーモンド侯はダンドーク、トリムの2城に市街(まち)を焼いて逃ぐべしとの命令を伝えたが、彼らはトリーダの戦況に目を回して市街など焼く暇もないと急ぎはなれた。されば2つの町はそのまま新太守の手に落ちた。次に、彼は大佐ウェナブルズに12連隊の兵を授けて、ある方面に行かしめたが、その事は次の手紙に明らかである。 書翰第106貴下よ、カーリングフォード回復等の用務を帯びて、トリーダを出でたる大佐エナブルズより昨夜通信これ有り。彼は、カーリングフォードに着して、開城を勧告せしところ、3個の城と、港をおさめる一個の塁とは彼に降り、火薬40箱、大砲7門、その他分捕品これ有る由なり。ウェナブルズは更に騎兵一隊を率い、歩兵の後続を命じて、ニューリーに進みしが、歩兵の来着以前、敵は勧降に応じて城を明け渡せし由なり。その他2、3の彼の報告によるに北方地方の事、はなはだ味方のために好望なり。小生はこの報告の参議院へも致されんことを望めり。諸君がこれらの恩恵に接して、すべてを神の栄光に帰せんこと、これ小生の神に祈るところなり。何となれば彼のみがすべてこれら甚大の恩恵の付与者なり。軍は今夕ウィックロー郡アークローに止まるべく、この地は当地より3、40マイル隔たれり。小生も神恩により今日この地へ参るべし、以上。 1649年9月27日、ダブリンにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 ウェナブルズは北都を走り回って着々として功を奏しつつあった。一度夜襲に出くわしたばかりで、たいした損害もなかった。クロムウェルはこの日ダブリンを出でて南方に進み、更に大いに新たに為すところあらんとしている。 (6)書翰第107 ウェクスフォードの襲撃貴下よ、軍は9月23日頃、ダブリンを出て、ウィックロー郡に入り、14マイルほど進みてキリンカリック守営を降し、ここに歩兵一大隊を残し、更に進みて、さながら無人の野を行くがごとく、遂にオーモンド侯爵家の最初のすみかたるアークロー城に迫れり。この城はかつて侯爵の要害堅固にかためしものなるが、城兵は我が軍の近接するや城を棄てて走れり。よってここにも歩兵一大隊を残せり。我らはさらにウェクスフォード方面に進み、途中の堅城リムブリックは我らの着せし前日、城兵これを焼いて跡なく、なおファーンズに進みしに、この城もまたレーノルズ大差の勧降に応じしにつき、一大隊を止めり。かくてスラニー河を超えてその夜エニンスコーシー村に入り、城に向かって降伏を勧めしも最初は応ぜざりしが、遂に城兵は兵器弾薬を残して城を去りし。10月1日(月曜日)いよいよウェクスフォードに着きし。この地の守営は堅牢無比を以て自 ら任じ、守将はデービッド・シノットと申す大佐なり。味方の勧降及び敵の返答等すべてこの際の顛末は別紙往返の文書これに示しおれり。〔訳者曰く、この間に敵味方間の往復の文書の写しあり。これを略す。要するに敵の降伏条件の全部には応じ難しというクロムウェルの最後の通牒に対して、敵方より返事なく、クロムウェルが町を戦禍より免れしめんとの苦心もあだとなって、遂に戦いは行われたのである。〕・・・・・・敵は遂に城を棄てて町に入り、我が兵これを追撃して町に入り、市場まで到りしに、このところに敵兵は頑強なる抵抗をなし、我が兵はこれを破りて逆らう者をことごとく刃にかけり。逃れんとして舟を争い、300人は水に溺れり。敵の死者は2千を下らざるべく、味方は多分20人を失わざるべし。まことに我らは町の破壊せられず町民の生命財産の安固ならんことを念とせしも、神これを許したまわず。彼らの上に正当なる審判を下したまいて、彼らがかつて無数の新教徒に対して行いたる惨逆を今碧血を以てつぐなわしめり!今日まで新教徒が彼らより受けたる残害は、聞けば聞くほど、むごたらしきものなり。我が兵はたくさんの分捕品を致せり。もし町民にして前もって河の向こう側に品物を運ばざりしならば、分捕品はなお多かりしならん。携え得ざるほどの重き物は、我が国の用に差し出すべく、鉄、獣皮、獣脂、塩等はなはだ多くこれ有り。その他砲銃・船舶等あげて数うべからず。この町は今、英国の権内に立つ。住民の中、再び住み得ん者は20に1なるべく、大部は逃げ、殺されしも多し。されば正直なる民の来たってこの地に住まんことははなはだ望ましく、家もありその他の設備もあり、万事好都合なり。交易の中心にして漁場としても好適、かつ要害堅固の地なり。かく神はまたまた恩恵を我が国に賜る。栄光第一に彼に帰すべく、真に薄弱なる兵力を以て、ただ信念の力によりて、この事を成就したること、これまた神の恩賜なり、以上。 1649年10月14日、エクスフォードにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 若きチャールズ2世は、ヂャージー島まで来り着いて、アイルランドに行こうと思っているのだが、多分この戦報を聞いて驚きためらうことであろう。スコットランドでは、既に彼を国王に戴いたが、何でもダチョウでなくては呑みきれないような窮屈な条件を以て、身動きのならぬほど、王を束縛したらしい。されば憐れなる王はどこへいったらよかろうかとだいぶんまごついていた。この頃、エジンバラ辺りではいろいろな風説があった。やれクロムウェルはアイルランドで大敗して戦死したとか、やれ洪水のごとく向かうところ敵無なきありさまであるとか、トリードやウェクスフォードで老若男女の別なく虐殺をしたとか、風説は風説を生むありさまであった。この風説によりてある詩人がこんな歌を作った。 クロムウェルは死んだ、生きた、また死んだ、 殺されて三度生き返った 無理もない、地獄の使者だもの。 そして今度は我々をいじめに来る、 同じように我々を苦しめる、 親友の悪魔から助言を受けてまたひと仕事する。 (6)書翰第108-第112ロスウェクスフォードはクーク大佐これを守り、軍はさらにロスに急ぎ進んだ。ロスは舟の通えるバロー河の岸に立つ町で四周に壁をめぐらしてある。10月17日軍はロスに向かって陣し、同日クロムウェルは勧降状を城に送った。 書翰第108貴下よ、余はアイルランドに入りし以来、城を攻むる際は必ず先方の利益となるべき条件を提出して、城の明け渡しを請求するを常とし、未だ一回も突然攻撃を開始せしことなく、以て流血の惨を避けんと努めし。我が軍の訪ひし場所とその住民に苦害を与えざるは、余の主義なり。(ただし彼らにして片意地なる場合は自ら別なり)この地とこの住民についても同様の措置に出でんがため、ロス町を我が手に渡さんことをここに勧告致す。 1649年10月17日、ロスの前に陣してオリバー・クロムウェル ロス城指揮官殿 これを城に送った後、攻撃準備を整えた。アイルランド軍の総大将オーモンドやアーヅ、キャスルヴン等諸将は河の対岸にありて、千五百の歩兵を援軍として城に入れた、敵将インテクインも2、3日前まで城中にあったという。19日(金曜日)にはイングランド軍は砲撃を開始したが、城将より返答が来た。かくして数回の文書の往復があって交渉を重ねている間にも、イングランド軍は休戦せず、時々砲撃を加えて威力を示したが、遂に協定成立して城と町は無事クロムウェルの手に帰した。この地は重要な場所であり、またイングランド兵休養の好地であった。城中にあった5、6百のイングランド人は例のごとくクロムウェル軍に加わった。オーモンド麾下のアイルランド王党も下らぬ主義のために死ぬより生きたほうがよかろう。〔訳者曰く、書翰第109、第110、第111は右城将ルカス・ターフに宛てたる交渉の文書であるが、その内容において次掲の手紙と重複する故省く。〕
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第105〔訳者曰く、これはダブリン上陸以来の経過を下院議長に報じたるものにて、前半トリーダ襲撃の詳報を略す。〕・・・・・・かくて敵はついに城をすてて退却を開始するにつき、小生はこれを鏖殺すべしとの命令を発せり。小生も情熱せし折柄とて町に在りて武器を執るものはことごとく殺すべき由、命令す。この夜、我が兵は2千人を殺せしことと存ず。セント・ピーターズ寺院の高塔その他2、3か所に逃げ入りたる敵ありて、招降に応ぜざる故、小生はこの高塔を焚くべく命ぜり。その他降伏せし数団のうち一人を抜きて殺し、残余の逃遁を許したるもあり。また全隊を無事去らしめたるもこれ有り(武器を剥ぎて)。この事たるや、無辜(むこ)の血に手をよごしたる悪徒に対する大能者の正しき審判にして、将来の流血を防ぐものなりと信ず。かく信じてこそ初めてこの行為の合理を保し得べく、然らずとしては悔恨を生むのみなり。この守営の将卒は敵軍の華とうたわれたる武勇の士にして、位置は守るによろしく、人は剽悍なれば、我が軍の必滅を信じいたる次第なり。この戦勝の後、小生はダンドークに騎兵を送り、敵すでに去りて、守る人なきこの城を占領せしめ、また他の一砦も我が手に帰せり。またトリム付近にスコットランド人の守りおる一守営へも騎兵一隊を遣りしが、スコットランド人はトリーダの戦報に肝をつぶして大砲を残して逃げ去れり。いかにしてかかる戦勝を得たりしか?大なる業は力によらず聖霊によるとは我らの覚悟せしところ、この事まことにこれを証して余りあるべし。聖霊我が士に勇気を起さしめ、ついに最後の勝利を得たり。ただ神のみ光栄をもつ。セント・ピーターズ寺院に逃れたる敵一千人を攻めて剣下に倒せしが、この際混雑のため、僧侶も全部刃(やいば)の錆と相成れり。我が軍にありては負傷者は多きも、死者は百を算せずと存ず。この征戦をして早く結了せしめんため、議会が我が軍の維持支給において十分の考慮を致されんことを願えり。この点については、いまこそ神の与えたまいし最良の機会なり。大軍の維持は英国にとりて重荷と見えんも、現下の一奮発は以て戦禍の結末を早めるべく、小生のこの請求も無理にはあらず。もし神、この戦を早く終らしめば、戦って空しからずと申すべきか。我らの中には病人も多く、新分子の注入を要すに付き、なにとぞ歩兵数連隊を新たにご派遣くだされたし。すでに我が手に入りし守営を守り、また今後我が手に帰すべき各守営を守るべき兵数を考えるに、増援なくては我が軍の兵数は減ずるのみなり、以上。1649年9月17日、ダブリンにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 トリーダの襲撃とはこんなものであった。その内的意味を十分に悟らざるにおいては、その外形の強烈なる。ただ人をして反感を催さしむ。クロムウェルは厳粛かつ深刻に「大能者の正しき審判にして、将来の流血を防ぐものなり」という。そして我らはこれを事実なりと認む。この思い切ったやりかたは実にアイルランド戦役の死命を制せりと称すべきもの、次のエクスフォード襲撃の獰猛と相並んで行われて、しかしてその後はもう襲撃あるいは虐殺の必要はなかったのである。狂暴を抑えるための一時の非常手段であった。バラ水の外科医君には他のやりかたもあっただろうが、それはオリバー式ではない。オリバー式をしてオリバー式たらしめよ。オーモンド侯はダンドーク、トリムの2城に市街(まち)を焼いて逃ぐべしとの命令を伝えたが、彼らはトリーダの戦況に目を回して市街など焼く暇もないと急ぎはなれた。されば2つの町はそのまま新太守の手に落ちた。次に、彼は大佐ウェナブルズに12連隊の兵を授けて、ある方面に行かしめたが、その事は次の手紙に明らかである。 書翰第106貴下よ、カーリングフォード回復等の用務を帯びて、トリーダを出でたる大佐エナブルズより昨夜通信これ有り。彼は、カーリングフォードに着して、開城を勧告せしところ、3個の城と、港をおさめる一個の塁とは彼に降り、火薬40箱、大砲7門、その他分捕品これ有る由なり。ウェナブルズは更に騎兵一隊を率い、歩兵の後続を命じて、ニューリーに進みしが、歩兵の来着以前、敵は勧降に応じて城を明け渡せし由なり。その他2、3の彼の報告によるに北方地方の事、はなはだ味方のために好望なり。小生はこの報告の参議院へも致されんことを望めり。諸君がこれらの恩恵に接して、すべてを神の栄光に帰せんこと、これ小生の神に祈るところなり。何となれば彼のみがすべてこれら甚大の恩恵の付与者なり。軍は今夕ウィックロー郡アークローに止まるべく、この地は当地より3、40マイル隔たれり。小生も神恩により今日この地へ参るべし、以上。 1649年9月27日、ダブリンにてオリバー・クロムウェル 英国議会議長ウィリアム・レンサル殿 ウェナブルズは北都を走り回って着々として功を奏しつつあった。一度夜襲に出くわしたばかりで、たいした損害もなかった。クロムウェルはこの日ダブリンを出でて南方に進み、更に大いに新たに為すところあらんとしている。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 超えて8月15日、クロムウェルは順風におわれて、ダブリンに到着し、非常なる歓迎を受け、この偉人をみんと欲して群集は雲霞のごとく街(まち)に充満した。彼は適当の場所において車をとどめ車上に立ち上がって一場の演説ををなした。この演説はのこっておらぬがおおよそ次のような趣意であった。神は余を護りて無事この地に来たらしめたまいし故、余は大能の摂理によりて、戦禍のため王党のために諸君の失いたる自由と財産を取り戻し得ることと信ずる。真摯にこの虚党討滅の事業に同情し、福音の宣布と真理及び平和の確立を望み、この乱麻のごときアイルランドをもとの幸福、静謐にかえさんと願う者は、英国議会及び余よりの保護と厚遇とを得ること確実である、云々。この演説は人民の大喝采を博し、「我らは君とともに生死せん」と皆叫んだという話である。 書翰第102〔略す〕 (4)アイルランド太守宣言マイケル・ジョンズ中将の軍はクロムウェルより見れば、はなはだ不満足なものであった。彼はこれを新士官の下に編成し直し、ことに悪兵をおいて熱心これが改造に努めた。軍隊の大掃浄であって、士官等の不平も少なくなかったが、しかし公務としてはぜひここまでやらねばならぬ。新しい立場に立って進まねばならぬ時である。大覚悟を要する時である。生半(なまなか)の事ではいけない。さればここにクロムウェルの発した宣言を見てもらいたい。 オリバー・クロムウェルの特命により印刷に付して全アイルランドに公表する宣言余は兵にして人民に対して奪掠・凌辱等の悪行為に出ずる者ありと聞き、神によって以後、かかる悪事を厳密に抑止せんと決意せり。余は我が指揮下にあるすべての士官・兵卒に警告し、かつ要請す。以後、かかる悪行に出ずるなかれ。すべて敵軍に加わりおらざる人民に対しては害を加うるなかれ。また特命によらずしてはその所有物に係るなかれ。敵軍に加わらざる人民にして、軍隊に糧食を携え来るは、その進軍中にあれ、屯営中にあれ、守備隊にてあれ、自由にして合法なり。しかしてこの場合にはその持参品に対して代価を得べし。また議会軍の維持その他公用のため適当に課さられたる負担を払いて、穏和に振舞う者は、1月1日まで安らかに家に住み得て、その生命・財産は軍隊の保護を受くべし。しかして我が軍の占領地域に住まんと欲する者は、1月1日までにダブリンの検事総長に、現在及び将来の保護を出願すべし。兵は皆人民の保護を為すべし。これに背きて害を加うる者には厳罰を以て酬ゆべし。士官は部下の兵にこの事なきよう特に注意すべし。余はこの軍規に背く者を厳罰せんと神によって決心したれば、もし士官にしてこれを怠り、または部下の違反者を不問に付する等のことあらば、放逐またはその外の罰を受くべし。1649年8月24日、ダブリンにて発すオリバー・クロムウェル(4)アイルランド戦役アイルランド戦役の歴史はモウロウとしてよく知れぬ。この国は、1641年の末に叛乱が起ってその叛乱が殺戮と変った以来、絶えず争闘、奪掠、破門、背逆等に悩まされて、空前絶後の惨風血雨の悲劇的舞台であった。その歴史は乱麻のごとく入り乱れて、とても人間の記憶に上らぬ。絵ではない。黒いかたまりである。党派あり、またその奥に党派あり、外と戦い、また相互に戦う、ローマ公教徒に2派ありて主張を異にし、監督主義の忠君的王党はオーモンド侯を戴きて誓約には反対し、アルスターの長老派は忠君的にして誓約を主張し、これにマイケル・ジョンズ中将の王も制約もいらぬという共和党が英国より来ていて、これらがこの8年間すったもんだと入り乱れて騒いだので、何がどうしたのか、事の真相はかいもくわからぬ。オリバーのアイルランドに着いた頃には、このアイルランドの諸党派が皆一致して共和政府反対の旗を押し立てたので、創始したばかりの共和政府にとってははなはだ危険であった。オーモンド侯というのは第二内乱の時、ハミルトン公と結ぼうと謀った男で、今度の諸派連合の謀主である。ローマ公教徒も、この地に逃げ込んだ英の長老派も、アルスター州にいるスコットランド人も、いずれも皆オーモンドの下に相結びて、いわゆる「弑虐者(レシサイズ)反対」の声を揚げた。彼らはチャールズ王の王子を招いてアイルランド王となし、以て英の共和政府に当らんと欲した。チャールズの子はスコットランドへかアイルランドへかと迷っている。そしてクロムウェルの来た頃には、全アイルランドの中、ダブリンとデリーの外は皆王党に属し、前者は前述のとおりこの頃までに包囲を受け、後者は今なお包囲を受けているというありさま、実に恐ろしい全アイルランドの一致!けれどもその実は鉄と泥との混合である。クロムウェルは敵の実情をはかり、鉄斧一閃これを粉砕し尽して、再び起つあたわざるまでに至らしめた。憐れなるはアイルランドの民なるかな。1641年、彼らの奮起せしや、その要求は「信教の自由」であった。要求は正しかった。けれどもその行動ははなはだ不可解である。ものすごき殺戮や血の雨がこれに伴った。要求は正当であっても、その行動はそもそも誤れるのはなはだしきものであった。背逆と殺戮-これらは何の結果を生むか?8年間の騒擾荒乱は事をますます非にした。彼らに勇気はあった。いわゆる愛国心もあった。けれどもこの外の必要物を多く欠いていた。その為すところはまくで滅茶苦茶である。その隊は混乱の塊である。訓練も何もない。乱暴の徒というべきものである。この8年間のアイルランドは史上いまだ無かりし修羅の巷(ちまた)であった。悪魔が地獄から上がってきて、美なる神土を縦横に汚しつくしたのである。暗黒不可解の8か年である。しかしてここに8年の後、天火来たって、全アイルランドを照らすのである。クロムウェルのアイルランドにおける行動については、批難の声が高い〔訳者注、虐殺云々の批難である。〕吾人は今ここでこの問題に入る気はない。ただ彼のアイルランド戦役中の書翰を並べるだけのことだ。凶暴騒擾の国を鎮めるのにバラ水を以てしようとする人士にとっては、これらの書翰はものすごきものであろう。クロムウェルの行為は恐ろしい外科手術であった。審判であった。けれどもこれを凶悪なる殺戮と見る人もある。オルバー・クロムウェルは神の審判を信じた。著者〔カーライル〕もこれを信ずる一人である。事は同一である。ただこれを審判と見るか殺戮と見るかである。オリバーの時代には神の審判という事が信ぜられていた。やれ「死刑廃止」だの、ルソー的博愛主義だの、なお罪に沈めるこの世にバラ水の散布をするだのいうたわごとは聞えなかった。人は刑罰廃止を思わず、神法の励行を願った。善と悪の相違は天界と地獄のそれの如しと信じた。心の底から確信した。ただ滅亡に向かって急ぎつつあるこの末世に至って、善悪を混合して糖蜜を造ったり、ルソー的泣き虫主義、普遍的赦免及び慈愛などいう膏薬を練り上げてわいわい騒ぎ立っているのだ。甘いけれども毒のある糖蜜で、クロムウェルが夢にもこんなものを知らなかったのは、末世に生れた我々よりも幸福であった。こんな物を頭と心からおい払ってしまって、クロムウェルのこれらの書翰を見、この世に行わるる天の道に活きた目を注ぐ人は、ここに貴むべき一団を認めるであろう。義なる神の兵士と自信している武装せる一軍人が、峻厳に、強烈に、神の敵に対して神の裁判を行う図!喜ばしい国ではない。敬虔と恐怖とを以て見るべき図である。ちょっと見て直ぐ惚れるような画ではない。汝はかかる絵画を愛するか、天よりの電光を見て「神聖なる光」と叫び得るか、汝自身の生涯が永久の深淵、久遠の光輝の中にあるか、汝自身も自己の立場に在りて神の正義の使者たりしや、もし然らばオリバーの行動を明瞭に判断し得ん。然らずば然らじ。オリバーの文辞は粗雑でかつ古く、一度は戦場にありて、神の声として彼に轟きしものも、今はわかり悪くなっている。読者がことごとく明瞭に了解することは難いであろう。要するに平和なきに「平和、平和」と叫ぶこの偽善時代には、オリバーの行為のごときは認められがたいものである。いずれ十分に認められる時代も来るであろう。彼の軍事上の書翰たるや、実に粗雑な、巌のごとく荒いものであるが、その中に意味あり、精気あり、深みあり、彼は心に神の真理を抱いてこの乱れたるアイルランドに来り、左手に議会の法令、天地の大法を握り、右手に星光爛たる三尺の刀を携う。しかして混乱せる民に向かいていう。「汝、流血の民よ、見よ、我が真理を語り、かつ行わんために来る。ここに議会の法令あり。これ我ら、微力の清教徒が神の大法にかたどりて作りしもの、不完全なれども、我らその完成を期す。これに服従してこれが下に静平真実を保たばよし、然らざらんか、汝らの生命を断つに剣あり!二の一を選べ!」と。しかして彼らは反抗を選んだ。クロムウェルを信じなかった。トリーダにおいて彼らは彼の勧降をしりぞけた。彼は城を攻撃し、約束どおり鏖殺(おうさつ:みなごろし)した。ただし自己の兵にして奪掠をなすものあればこれを縊殺した。エクスフォードの守営も彼の勧降を拒んだ故、同じく鏖殺を以て酬いられた。彼は口から出した言葉は必ず実行する。空言は吐かぬ。彼においては言即ち行である。彼は彼らにとって真の友なりしを、彼らはこれを認めざりしなり。哀れなるアイルランドよ! まあ彼の書翰を読むことにしよう。彼には物すごい憤怒があった。が、この憤怒は哀憐、愛情、やさしき涙を伴うていた。峻厳を伴わぬ優しさは取るに足らぬ。まず公道がなくては真の愛憐はない。ただ偽りの愛憐のみである。またトリーダの城にはイングランド人もだいぶんおったのに、「サクソン人の残虐」などというて、人種的憎悪の影を伝うることは、以後やめるべきである。(6)書翰第103-第106 トリーダの襲撃次掲の第一の手紙は、第二、第三の手紙を読むとよくわかる。第二、第三の手紙で当時のクロムウェルの措置の真相を知ることができる。余はトリーダの城将に勧降して慈悲を示したるも、彼はこれこれを応ぜざりし故、彼らはかのごとき災禍に逢えり。貴下もしこれに鑑みて守営を英議会に引き渡さば、流血を免れ得べし。然らずして禍、貴下に臨むも、責は貴下にあるべし。以上1649年9月12日、トリーダにてオリバー・クロムウェル ダンドーク守衛殿ダンドークの守将はこの書翰を受け取らなかったのでろうか。ダンドークとその士官等の運命は後に明らかである。 書翰第104貴下よ神はトリーダにおける我らの努力を祝福したまえり。敵は3千人以上にして頑強に抵抗し、初め我が兵1千人突入せしも撃退されし。されど神、新たなる勇気を我が兵に賜り、彼らは再び突撃して遂に敵を破れり。我らは防禦者の全部を剣下に倒せり。思うに30人と無事に逃れし者はなかるべし。実に驚くべき大恩恵ならずや。敵は歩兵騎兵3千の精鋭を、最良なる士官の下に、サー・アーサー・アシュトンを主将として、城砦に入れ置きしわけにて、7,8個連隊より成れり。士官の無事逃れさりしはただ一人のみなりとことなり。これによりて敵の恐怖することはなはだしく、この悲惨なる鏖殺(おうさつ)は、神の慈愛によりて、以後の流血をおおいに救い得べしと確信いたせり。このこと一に、神愛の然らしめしところ、願わくはこれによりて神のみ崇められんことを、以上。1649年9月16日、ダブリンにてオリバー・クロムウェル 参議院議長ジョン・ブラッドショウ殿
2026.05.04
職務怠慢を勧める そこで会社に関係の深い渋沢が乗りだし、藤山雷太に整理案を作らせた。藤山はこれまでこの会社に関係はなかったが、しきりに砂糖会社の状態の悪いことを攻撃していた。そしてその案によって、もちろん渋沢のお声がかりもあって、三井も三菱も、急に貸金を回収しようとすれば、会社は潰れる。会社が潰れれば大きな損をしなければならん。だから取立てを猶予して十分整理させ、会社を復興させようということにみな賛成した。 ところが会社は、百数十万円の税金を滞納している。これを大蔵省から取立てられた日には、会社は丸潰れであって、整理案もなにもあったものではない。どうしても大蔵省に嘆願して、税金の支払いを猶予してもらおうというので、渋沢から桂公に泣きついた。桂公がそのことを私にいって、渋沢がこういってきたが、なんとかならんかという。私は、それに対して「法律の規定では、税金を取らぬとか、猶予するとかいう規定はどこにもありません。だから法律上なにか方法があるかといわれるなら、それはどんなに研究しても方法はありません。しかしもし大蔵省が職務怠慢とか、職務曠廃というそしりを受け、非難を被ってもかまわん。大きな会社を救済するために、大蔵大臣が責任を負う覚悟があれば一つの方法があります。それは大蔵省が、滞納処分をすることをしないで、これを見送っておれば、事実上納税を猶予したことになります。その代わり、これが会計検査院や帝国議会に知れれば、非常な非難を受けます。それを覚悟の上なら、やれんことはありません」といったら、桂公は即座に「よろしい。おれが責任を取るから、やってくれ」ということで、話は一ぺんにきまった。 話はきまったが、私は会社の整理案なるものを一応見ておく必要があるので、そのことをいってやると、藤山が書類をもって説明に来た。私は藤山とは初対面であったが、彼は実にぺらぺらよくしゃべる。しかし彼の説明には筋道が通っていて、よく呑み込めたから、これなら整理もできんことはあるまいと、彼らの望み通り、滞納処分をしないことにした。そして結局会社の整理が出来た。だから大日本製糖の再生の恩人は、渋沢栄一翁はもちろんだが、三井の早川千吉郎、三菱の豊川良平の両君も非常に尽力したものである。しかしそれにしても桂公の庇護に頼ること大であったことを、会社側も感じていたのであろう。 その後藤山が亡くなり、東京会館で追悼式が開かれ、私にも案内状がきた。私はそういう席へ出るのが億劫なので、断りの返事を出した。ところが息子の愛一郎君がやってきて、あなたが出ないと、折角の追悼会が淋しいものになるから、ぜひ出て欲しいという。出席すると、追悼の言葉を述べてくれという。そこで私は、前に掲げたように、日糖救済の経過や藤山君の説明振りのよかったこと、それで大蔵省がみずからの責任を負う覚悟をした次第を述べた。愛一郎君らはそれで満足したのか、追悼演説は私だけで、外にだれも立たせなかった。それは多分日糖の関係者らが、深く当時のことを銘記しておったからであると、ひそかに感じた次第であった。(この稿終わり)★若槻礼次郎回顧録では、鈴木藤三郎については「どういう事情か知らんが、鈴木が社長を辞めた」とある。その後、渋沢栄一の意向で後任を「政府の信用のある人がいいだろう」と大蔵省に社長のあっせんを求めてきて、当時の農商務省農政局長の酒匂常明氏をあてた旨が記されている。 あるいは鈴木藤三郎が手塩にかけて大成してきた日本精製糖会社を追い出されるように退出させたシナリオを承認したのは、渋沢栄一かもしれないとも思われなくもない。 渋沢は藤三郎が社長退任後できた大日本製糖会社の相談役としておさまっており、その後の政・官の調整役を積極的に担っている。 渋沢は藤三郎が日本精製糖を株式会社にしようとしたとき「自分は学歴のない人間は信用しない」と株式会社化への協力を断り、あまつさえ大阪に精製糖会社を設立し対抗した。 そのこともあってか、藤三郎は「自分は3回人を信じそこなった。その一人が渋沢翁である」と述懐していたという。 渋沢は明治日本がつくりあげた政・官・財を調整する役割をになっており、いろんな場面でその能力を発揮するが、その影での活躍はあきらかにされてはいない。 若槻礼次郎回顧録はそうした渋沢の一面をうかがわせるものでもある。 ※日糖最近十年史(大日本製糖株式会社 大正8年4月27日発行)そもそも本社は明治29年1月東京市外小名木川畔において故鈴木藤三郎氏の経営せる小規模なる製糖所の組織を改め日本精製糖株式会社と称し創立せられしものにして、最初は資本金わずかに30万円に過ぎざりしが、時運の進歩に伴い、漸次発展して明治38年1月には資本金400万円に増加したり。・・・支配人磯村音介氏、参事秋山一裕氏等はその重役に着任以前、大阪の伊藤茂七氏等と気脈を通じ、東京大阪両精糖会社及び大里製糖所を合同し一挙にして内地における独占的地位を獲得せんとする急進主義を高唱し、株主中の同志を糾合して有志団体なるものを組織し、左の5か条の実行条件をもって当時の社長たる鈴木藤三郎氏に迫りたり。一 内に競争を止め、外に進行せんがため、内地台湾における既設製糖会社と一大合同を計画する事二 精製糖原料供給のため台南に一大工場を新設する事三 清国における販路拡張のため同国適当の地に一大工場を新設する事四 以上の計画を実行せんがため必要に応じ現在未払金壱百万円を払込ましむること五 なお必要に応じ更に資本金を増加して八百万円ないし千万円とする事この時はすでに有志団体の株数、鈴木氏等の勢力を凌駕したれば鈴木氏は明治39年7月10日臨時総会を招集して重役改選の件を付議し、右の条件実行、時機尚早なるを理由として後事を有志団体に託して自ら辞任を申出で同列重役と共に退場するや、同日の総会はすこぶる紛擾を極めたれども、結局旧重役と有志団体と双方より重役を選挙してひとまず閉会せり。 然るに、旧重役と有志団体とは糖界前途に対する見解を異にし、氷炭あい容れざるをもって両立すべくもあらず、旧重役は断然就任を肯ぜざるをもって、村井吉兵衛氏の主唱にて大株主会を開き、新重役のみをもって事業経営にあたることに決し、同年9月20日臨時総会を開き(1)日本精糖株式会社と合併の件(2)資本金増加の件(3)定款改正の件等を付議して条件実行に着手し10月10日継続会を開きて右3件の全部を可決しいよいよ左の諸氏を重役に選任せり。 磯村音介 秋山一裕 伊藤茂七 中村清蔵 馬越恭平 渡辺福三郎 高津久右衛門 前田亀之助 (以上取締役) 後藤長兵衛 鈴木久五郎 福川忠平 恒川新助 藤本清兵衛 (以上監査役)右の中、磯村氏は専務、秋山氏は常務に任じてその中堅となり、別に男爵渋沢栄一氏を相談役に推戴し、間もなく当時農商局長たりし農学博士酒匂常明氏を社長に擁立し明治39年11月いよいよ大阪の日本精糖株式会社と合併し資本金を一躍壱千弐百万円に増額し大日本製糖株式会社と改称したり。<その後の大日本製糖株式会社の主な経緯>明治39年12月台湾斗六庁管内に工場設立の許可を得、翌年1月藤沢静象氏ほか職員は工場新設のため台湾に上る。明治40年8月大里製糖所買収、明治41年4月に横浜・神戸の両精糖会社と製造協定契約。これらの資金の大半を社債借入金に求めたため、後に財政難を招いた。さらに日本政府の財政難から砂糖消費税引上げの動きが出てくると、反対運動を行うとともに、見越し輸入、砂糖官営化で活路を開こうとして、失敗。明治42年瓜生震氏が新監査役として入社し、従来の配当は虚偽の計算に基づくという事実を発表するや、明治42年から各新聞紙は一斉にその内情を批難した。酒匂常明社長らは責任をとって辞任した。後継の経営者として金子直吉氏などあがるもことごとく拒絶され難航した。明治42年4月11日、いわゆる砂糖疑獄といわれる旧重役に対する裁判所の検挙事件が起こった。明治42年4月27日日本橋倶楽部で開催された臨時総会で、藤山雷太などを取締役に選出し、役員会で藤山氏を社長に推選した。同年7月11日前社長酒匂氏は麻布の自宅で拳銃自殺した。その前日、藤山社長に「君の如き識見手腕を有する後継者を得たるはわが国糖業のため、はたまた会社のため実に慶事の至りなり。よろしく頼む」と遺書を送って後事を託した。他の一は 処決追記とせしものなり。その処決と題するものは先ず、「余は明治39年の11月迄は内は聖恩に浴して賜る所の俸禄を以て妻児と共に幸福なる家庭を結び、外は要職を奉じて聊か国利民福の為め尽す事十数年なりしに、此月突然糖業の統一発展に従事す可き勧誘を受く」と筆を起し、入社以来の不明を悔い責任の免れ難き為め処決する旨を記し、彦九郎、崋山の自殺、隆盛の入水、世を感じたる心事を察す可しと云い、最後に先輩友人の長久なる寿福と深厚なる同情友誼を謝し、なお家族の事に及び「最愛の児よ、児等は眼前に貧窮と云ふ大敵に逼迫せり、去りながら恐るゝこと勿れ、健康と忍耐と勇気とは無限の資本なり、悲歎に換ふるに奮闘を以てせよ、忠孝節義、家を興し国に尽せよ、斯は言へるも顧みれば児尚ほ幼なるもの多し、憐む可し、児の母は今より稀有の艱難に遭遇するなり、長じたる者先づ此の消息を解し、長幼相率ひ、相携へ、能く母の命に服従し、他日誓て母に慰安と幸福とを供する事の為に勉励せよ」と結べり。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第100新太守クロムウェルは初めアイルランドのマンスター州を志した。彼はすでにダブリンにてオーモンド軍に囲まれている中将マイクル・ジョンズ(もと大佐)をたすけるために、2、3の連隊をその地におくった。ところが8月2日突然敵軍が大破して囲を解いて去り、マイクル・ジョンズは大勝を得た故、クロムウェルは急に方針を変えてダブリンに向かうことにし、8月13日ミルフォード港を出港した。これは月曜日のことであったが、水曜日には少将アイヤトンが別軍を率いて渡航した。彼は副将ジョンズ中将の次位すなわち第3位の指揮官であった。船のジョン号が風と潮具合とを計って、なおミルフォードの港にあった時、クロムウェルの妻と子リチャードは父の安全なる前程を祈るために訪ねて来たが、その帰る時、リチャードにこの書翰を託したのである。愛する兄弟よ、我が子の貴宅に帰るに託して一書差し上げたく、かつまた昨日中将ジョンズより得たる大吉報をお知らせ申したし。オーモンド侯は1万9千人の兵を以てダブリンを囲みおり。なお1万の応援軍あるとの事なるところ、ジョンズは歩兵4千、騎兵千2百を以て城中より突出し、オーモンドの全軍を覆し、その場に4千を殺し、2,517を捕獲し、その中3百は士官にて、中には将校等も交わりおり。実に大なる恩恵、夢想の実現なり。ああ我ら何というべき!主、我らの霊を感謝を以て充たし、我らは一生中、彼を讃美し、彼の慈悲を忘れざる人となるべし。この事、我らの信仰と愛とを強めて、より困難なる時に備えしむべし。願わくは小生が与えられし道において正しく歩み得んよう祈られよ!なにとぞ我が子に適当の忠言をお与えくださるべく、彼が満足の中におるは結構なれど、満足にとらえらるることを小生は怖れおり。彼が歴史、数学等を学ばんことはよろしかるべく、これ怠惰または現世的満足に勝る事にて、また人を公事に適せしむるものなり。かかる面倒を願うも御心安立の上なり。なにとぞご夫人及びご令嬢によろしく。その外皆々様によろしく、以上。1649年8月3日、ミルフォード港、ジョン号船上において オリバー・クロムウェルハースレーにある愛する兄弟リチャード・メーヤー様 さて、アイルランドにおけるジョンズ中将の大勝利については、議会の歓び限りなく、彼のために有利なる議決を為した。 書翰第101これも右と同じ日に、同じ人に(リチャード・クロムウェル)によりて運ばれたる手紙である。我が親愛なる娘よ、(子の嫁に対して)御身の手紙ははなはだ喜ばし。私は御身を愛しおるもの、御身よりの贈り物は何によらず喜ばし。さればつまらぬご助言申し上げたし。何よりもまず神を求め、神の御声を聴くことが大切なり。御身にして怠るなくば、主の声は耳または心に聞ゆるものなり。御身の良人にも勧めてこの態度を取らしめたまえ。現世の快楽や有形の事件を第二、第三とせられよ。キリストにおける信仰によりてこれらの上に出でられよ。然らずしては真にこれらを利用し、または味わうことできがたし。御身の淑徳増し、主にして救い主なるイエス・キリストをますます深く味わんことを祈る。主は近し。これその所為(わざ)にて明らかなり。アイルランドにおける主の大恩恵はあきらかにこれを示せり。委細は良人より聞きたまえ。我ら皆感謝の思いに溢れざるべからず。我らかかる恩恵について神を讃美せんには、大いにキリストの精神を要す。我が親しき娘よ、主御身を恵まんことを祈る。1649年8月13日、ミルフォード港、ジョン号船上において 御身の親愛なる父オリバー・クロムウェルハースレーにある愛する娘ドロシー・クロムウェルに これらの家庭的書翰は、これより載する彼の物凄く、暗澹たる、峻厳なる書翰の一列と相対して、温味と敬虔とに富んだものであることは、実に不可思議なる対照(コントラスト)である。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(3)書翰第97-第102 1649年7月10日(火曜日)。この夕5時頃、アイルランド太守オリバー・クロムウェルはいよいよアイルランドに向かって進軍を開始した。ウィンザーよりブリストルへ行くという順序である。彼の威儀同々たる行列は前古未曾有と称すべく、彼は立派な6頭立ての馬車にて進み、麾下の将校等また馬車をもってこれにしたがい、80人の護衛兵は彼の周囲を囲んだ。アイルランドのオーモンド卿はこの勇敢なる来襲軍に応じなければならぬ。勝てば大なる名誉、負けても不名誉ではないという境地にあった。オーモンド卿が「王を与えよ。然らずば何をも与うるなかれ」というに対し、彼らは「共和国を与えよ、然らずば何をも与うるなかれ」という。クロムウェルの軍旗は白であった。このようにして我がオリバー・クロムウェルはアイルランド出征の人となった。出征に先立ちて種々の用務の中に、次の二の事にたずさわったことがその手紙でわかる。書翰第97〔訳者曰く、これは出征の前日書いた手紙で、参議院議員ハリントンにあて、ある人の事についてある依頼をなしたものである。これを略す〕。書翰第98 これは前の手紙よりもなお大急ぎで、出発の当日したためたもので、自分と同じくケンブリッジより選ばれたる代議士のために計るところあったのである。 貴下よ、 小生に対する貴下の長きご愛顧の故をもって、小生はここに我が「同区選出議員」の小なる請願の貴下によりて議会に提出せられ、かつ聴許を得んことを願う。彼はここまで来り、したがいて己の職業を失いしのみならず、公事のために受けし損害はなはだしきものこれあり。彼は真実不断の熱誠をもって我が党のために尽くし、資産の損耗多大なりと信ず。彼の願いを充たすは、彼に対する当然の務めにてもあり、慈悲なり。また小生としては貴下のご厚誼として感謝するところなり。以上。1649年7月10日、ロンドンにて オリバー・クロムウェルウィリアム・レンサル殿 クロムウェルの「同区選出議員」は、ジョン・ローリー氏であった。この人の「損害」「職業」「資産」ないし経歴のいかなりしかは、いまだにわからぬ。弁護士であったと想像する人もあり。清教主義の商人であったともいう。彼は1640年の短期議会にはクロムウェルと席を同じうしなかったが、その後、共に議会に選ばれたのである。 ローリーは1645年にはケンブリッジの町長をしたが、その後は一向わからず、今突然この手紙の中に現われたのである。 この書翰がクロムウェルのアイルランド出征の当日にしたためられたものであることは、書翰の日付が証明している。多分委員会室か何かにクロムウェルがいて、多端の事務に忙殺されている間を、ローリーは何とかしてクリムウェルに面謁して、この手紙を書いてもらったのであろう。そしてこの手紙は大いに効果を奏し、記録によれば、ローリーの小請願は聴かれて、300ポンドの金が彼の損害をあがなうべく、彼に与えられたということである。 後、クロムウェルの子、リチャードが守護官たりし時、ジョン・ローリーという人がちょっと現われるが、これがその本人であるか、あるいは同名異人であるかよくわからぬが、その後ジョン・ローリーなどいう人は一向出て来ない、出てくるはずもない。あとは暗の葬るところ、もう言うこともない。書翰第99 クロムウェルの子息リチャードは結婚して嫁の生家メーヤー家にあり、嫁の父メーヤーはクロムウェルにあて、少佐ロング昇進の件を依頼してきたので、クロムウェルは次の返事を出した。親しき兄弟よ、ご芳墨拝誦、貴意に関しては十分の注意と最善の判断力とをもって致すべし。貴君ご一家のご昌福を拝察し、欣喜の次第なり。小生は我が娘(リチャードの嫁)の清廉を祈りおるものにて、彼女もこの事を知るならんと存ず。彼女の時々小生に文通せんことを望みおる由お伝えくだされたく、これによりてご一家の模様もあいわかり、また彼女の筆の練習ともあいなるべきか。愚息についてはなにとぞ万端ご注意ご勧励くだされたく、彼は喜んでご忠告に従うべし。小生は彼の真摯ならんことを願えり。時勢はこれを要せり。我が姉妹〔メーヤー夫人〕の壮健を祈れり。また我が従妹(いとこ)アン〔メーヤー嬢〕に良縁のあらんことを祈れり。お二人にさまによろしくご鶴声くだされたし。かつまたご一家皆々様にもよろしく小生の愛情をお伝えくだされたく、小生はご一同さまの上に主の祝福を祈れり。小生今回の出征については何とぞお祈りくだされたし。愚妻は当地へちょっと参る途中、多分貴宅に立ち寄るべし。切にご一家のご清福を祈る、以上。1649年7月19日、ブリストルにて オリバー・クロムウェルハースレーにある愛する兄弟リチャード・メーヤー様メーヤーはこの手紙の裏に「1649年7月27日受取る」と書き記したとのことである。少佐ロングという人のことは一向にわからぬ。クロムウェルがこの人にために的当の処置を為すと返事をしたことの外は、どうなったことか一向わかっておらぬ。
2026.05.04
「永平家訓抄話」澤木興道 4-13 世の中にはいいことさえすればいいといって、いいことがわかっておるように思っておる人がある。この間もわたしがあるところに行ったら、そこではわたしを招待するというので風呂を直してくれる人がいたそうだ。今時分のことじゃからだいぶ金がかかったらしい。山中じゃから材木は自分のところの材木であったかもしれんが、あったにしても金にすれば大したものであろう。ところが、わたしが行っておっても、肝腎な普請を寄付した人は仏法を聞きに来ないで、一番しまいに菓子箱一つ持ってきた。はたの人が「結構なお話じゃった。明日は午前と午後、それでしまいじゃからあなたもおいでになったらどうですか」というたら、「いや、わかっております。わたしは、いいことで、せんならんことは知っている。悪いことはせんから、何も聞かんでもいい」それはかつて村の要職を勤めたり、県会議員になったりしたその部落の利け役で、誰でも「へっ」という調子であつかっておった。もちろんこの寺の和尚も「へっ」といった具合だったに違いない。寺の和尚はお金をいつももらうものじゃから、もう何をいわれてもご無理ごもっとも、ところがその人の顔の勾配を見ても、いいことがいいとわかったような単純な顔である。いいことをしておるのだから、別に何も悪いことはせん、もう聞かなくてもわかっております・・・・・それがずいぶんあぶない話である。いいことというのが、どこからどこまでがいいのか、それがわからん。もっとも、仏教では妄想と仏性との距離を五十二段にもわけて説明しているくらいだから、ざっとものをいうてもらっては困る。 あるところの管長候補者、わしらより若いのじゃろう。五十か六十そこそこの人であるが、もちろん、悟っていることになっている。ところがその人は嫁さんがあっては、もし独身者が対立候補に現れた場合にはたいへんだとばかり、嫁さんのないことにしておかねばというので、嫁さんと子供をよそへあずけている。つまりご本人は独身になったことにして管長を待っておるわけである。第三者のわたしらからは、彼氏の心の中のたくらみが、あまりにも見えすぎて、むしろ滑稽といいたいところである。それでも本人は仏法をわかったつもりでいる。やはり、わからん者にはわからんものだと見える。 仏法の中には管長んあていうものはない。立候補までしてなるような地位もないのが仏法である。もしそんなものがあるとすると、それは人間の地位だけの話で、そんなことを望むような人には仏法は思いもよらんことだと申さねばならない。ちょっとしたところだが、仏法と妄想のとんでもないはきちがいをやるものである。妙なところで悪魔がすれ違う。だから仏魔同面というて、仏さまと同じ顔つきして悪魔が出て来る。また悪魔と同じ顔つきして仏さんが出て来ることもある。たとえば地蔵さんが罪人の裁判をする。そのときには閻魔さんとなる。片方では閻魔さんになって錫杖を持って食いつくような顔をして怒っているが、片方では地蔵さんとして助ける。同じ品物が、閻魔さんになったり、地蔵さんになったりする。そうするとこれが仏性か、これが妄想かということはざっとはいわれるものではない。悟ったという妄想もあるし、信心したという妄想もあり、あくびした仏性もあるかもしれん。ここに顕微鏡でも見えないような微妙な妄想と仏性との取り違えがある。仏者のもっとも用心しなければならない取り違いは「無始劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」ということである。このあやまり、この鏡に照らしてあやまりを離れねばならん。こう道元禅師は結ばれるのである。(「永平家訓抄話」p.309-311)
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)1649年4月20日(金曜日)。中将クロムウェルはアイルランド出征を承諾し、ロンドン市は金を貸すこととなり、この日ホワイトホールに軍事会議が開かれて、出征すべき連隊の選定をした。祈祷して後、くじ引きということに定まり、その結果歩兵14箇連隊、騎兵14箇連隊、併せて28箇連隊が出征することになった。行くことにきまった連隊の士官は皆一様に喜んだが、兵卒はことごとくそうはゆかなかった。兵士はリルバーンらの鼓吹によりて過激な自由主義を抱き、新しき束縛の出現を面白からず思い、共和国に多大の注文をなしていたのである。4月26日(木曜日)。この夜フォーレーの連隊の間に一大騒動が起った。兵士のある者はいろいろな注文を提出して、不穏の行動に出て、旗手より軍旗を奪いなどした。大将フェアファクスと中将クロムウェルとは急行してこれを鎮め、15人を捕えて軍法会議に回し、5人は有罪に定められしもゆるされ、ロックシャーという者のみ翌朝パウル寺の墓地に射殺された。23歳の勇敢なる若者にして、7年間も従軍し、信仰も厚かったが、自由に対して熱烈なる渇仰心を抱き、神的黄金時代をあまり近く望み過ぎたのだ、あわれなるロックシャーよ!彼は群集の涙の中に倒れた。やがて次の週間が来た。月曜日彼の葬式は行われた。その葬式は実に非常なる同情の中に行われた。数千人がこの葬列に加わった。皆胸と帽子に濃緑色または黒色のリボンを着けていた。婦人の一隊が後に続いた。一列ウェストミンスターの墓地に到着するや、行列に加わるを不謹慎となした数千の人が更に加わった。この葬式をもって議会と軍隊とに対する反抗と見る人が多かった。また会葬者を「平等組」と呼んだ人もあった。しかし彼らは人の評などを耳にかけなかった。5月9日。リチャード・クロムウェルの結婚は無事に済んだ。リチャードの父はハイド公園で閲兵をしている。兵の中には濃緑色のリボンを着けている者もある。クロムウェルは熱心に彼らの誤謬について説いた。曰く、議会は今日までともかくも全力を尽くしたのである。「違反者」を罰してしまい、先日は自ら解散を議決して後の議会に道を開いた。貿易を保護し、強固なる海軍を得た。反乱者処罰について批難あるが、軍律にたえぬような者は軍人として不適当である。速やかに武器を捨てるがよい云々と。この説諭は大いに効果があって濃緑色のリボンは捨てられた。この閲兵は水曜日のことであったが、リルバーンらロンドン塔の捕囚は各々独房に入れられて、更に厳しき監視を加えられた。今や危機は来った。火はオクスフォード州、グロースター州、司令部のあるソオルスベリー市(ウィルツ州)等の隊伍の間に起り、四方八方に大火は天を焦がさんとしている。オクスフォード州においては大尉トムソンなる者が200の兵を率いて、「新しき束縛」と呼号し、「自由の完成」と叫び、ロックヤー等の復讐を望んだ。この仲間はその大佐より攻められて敗走してしまったが、トムソンは数人と共に逃れて、なお処々を徘徊す。ソオルズベリーにてもこれに応じて一千の兵は叛乱を企てフェアファクスとクロムウェルとはその鎮定に急遽出発した。中佐リルバーンの大いに活躍すべき時なんだが、堅い壁に囲まれていては何も出来ぬ。5月24日(月曜日)。日曜一日、2将軍は急行してソオルズベリーに向かい、叛徒はこれを聞いて北方バッキンガム州に向かって走り、またバーク州に向かって走り、2将軍は猛烈にこれをおうた。叛徒はウォンテージに走り、更にオクスフォード州を志して、流れを渡ってバオフォードに到着し、疲れ果てて眠りに入った。-2将軍は月曜日50マイルに近き長追いを為し、クロムウェルはその真夜中に叛徒に襲いかかった。-かくして彼は叛乱を平らげ、平等主義を砕いた。次は軍法会議という順序になる。5月17日(木曜日)。この日、バーフォードの墓地において、この叛乱に加わりし旗手トムソン(トムソン大尉の弟)は2人の伍長と共に銃殺された。トムソンは悔悟の意を表し、人民の祈祷を望んで潔く倒れた。伍長の一人は射手に「うて」と命令して決然として死んだ。もう一人の伍長はあくまでも確信のために死すという態度で、終りまで射手等の顔を眺め、ごうも恐怖の色を表さなかった。-こんなふうに彼らは死んだ。彼らの確信によれば英国自由のための勇者であった。誤れる伍長よ!さりながら誤れるチャールズ・スチュアートのためにも涙を惜しまざりし歴史は、これらあわれなる伍長のためにも一掬の涙を惜しまぬであろう。アーノルドよ、ロックヤーよ、その他英国自由のための誤れる殉教者よ、汝ら願わくは安らけく眠れよかし!第四番目に射殺さるべく現われたる旗手デーンは、悔悟の意志を表してフェアファクスより赦免され、ここにおいて銃殺は終わりを告げた。かくてクロムウェルは叛徒の中、処刑さるる事に定まれる者どもを寺院に集め、叱責し、説諭し、しかして特典をもって赦免する由を言い渡した。誤れる者どもよ。神の大命によるこの主義をこぼたんとするか、去れ。悔いよ。再びそむくなかれ。恐らくはより悪しき禍にあわんと。彼らは泣いて自己の連隊に戻り、快活にアイルランド進軍に加わった。-旗手トムソンの兄、大尉トムソンはあくまで叛乱の意志かたく、ついに一日逃れ去りて一小林に入り、おい迫る者に向かって発砲し、死すとも服従せずと叫んだ。が、ついに一伍長の7連発銃のためにたおれてしまった。これでこのおそろしき大火災もことごとく消えて一片の残火もなくなった。極端改革主義はなお200年も潜んでおらねばならぬ。「平等組」の主張は英国の政治または軍事の方面には無い。けれども心霊的方面にはたしかにある。もうセーント・ジョージ山に豆を植えたり、バーフォード付近を馬で駆け回ったりすることは止めたが、クエーカー派等の宗教的方面に姿を現わした。衒学者君は、昔クエーカー派等に対して寛容の行われなかったのを嘆くであろう。しかしもし彼がセント・ジョージ山に豆を植えたり、バーフォード辺を駆け回るのを見たならば、真面目な世において「確信」というものは、地上の静粛にして速やかなる実行を意味するものであろうと悟るであろう。〔5〕月の17日(木曜日)の夜、大将、中将及び重なる将校はオクスフォードに到着し、オールソールズ・コレッジに宿し、司令部をしばらくここに置くことにした。そしてすでに改革されたる大学より非常なる歓待を受け優遇にあずかった。ドクター、マスター、バチェラーなどという学位を多くの人が貰った。しかしアイルランドの模様を早く記さねばならぬ故、ここにオクスフォードの事はくわしく記すまい。この頃下院に感謝会あり。ロンドン市の感謝祭は7月7日(木曜日)に行われ、(全英国のそれは21日に挙行された)市は国会議員、将校士官、その他朝野の諸名士を招いて一大饗宴を催した。また400ポンドの金を市の貧民に与えて彼らをして鼓吹せしめた。-しかしアイルランドの方が忙しい故、これらの事は詳述しないことにしよう。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第93〔1649年〕3月25日、クロムウェルは大多忙の中に、メーヤー氏の親戚に託して短翰をメーヤー氏に送り、先方の申込みのほとんど全部を承諾した。大多忙中に書いた手紙とは一見してわかる。この手紙を持って行った親戚というのはバートン氏という人である。クロムウェルの総指揮官任命は議会においても承認され、その条件も定まったので、彼は大に忙しくなったのである。〔訳者曰く、この間に書翰あり。今述べし通りの趣意のものにて、ほとんど全部メイヤー氏に譲歩したというてもよいほどの点まで条件を改めて、その速やかなる同意を求め、結婚の早き成立を望んだものである。前の書翰を略せし関係上これをも略す。〕かかる間に、軍隊内の純自由派は、クロムウェル等が権勢の地に立ちて漸く専断の風あるを不快とし、これに反抗するの色を表わし始むるにいたった。中佐ジョン・リルバーシ等は小冊子などを配布して、英国が古い束縛断ち切って、また新しい束縛を得たのであると公言した。〔訳者註、なるほどこれは側面観として半面の真理を有する断定である。クロムウェル等はたしかにその形においては完全なる自由国を建てたのではない。自由とか不自由とか、圧制とか民権尊重とかいう問題は彼らの知らぬところである。彼らは私欲のための圧抑政治を破壊して神の政治を始めようとしたのである。そしてその理想を行うためには、必要の場合には自由をも与えるし、また専断政治をもするのである。この理想なくして、ただ自由のみを唯一の頼みとするものの、クロムウェル等に反対するのは当然である〕、ためにリルバーン及びその徒党のリチャード・オヴァートン、ウィリアム・オルウィン、トーマス・ブリンスは、間もなくロンドン塔へ監禁されてしまった。これは3月27日の事である。今や実に軍隊にもまた一般社会にも、はなはだ危険なるパンだねがあるのである。曰く、神の敵は滅ぼされ、重なる「違反者」は罰せられ、「敬神の党派」が勝ったのに、「神的黄金時代」はなぜ直ちに来ないのであるかと。彼らは革命の結果の自分等の思うようにならなかったのに悶えたのである。書翰第95 書翰第96〔訳者曰く、前者は4月6日付け、後者は4月15日の書翰である。ともに結婚事件に関するもので、ことに後者はすべての結婚条件に応ずるという趣意である。前同断の理由にて省く。なお曰く、訳者はこの辺においては余り書翰の訳を略し過ぎたように見えるが、これこの結婚事件の紛糾錯雑の中に入ることの、いささかの利なきを思うてのことである。〕クロムウェルがアイルランドに出発する前には、まだまだ処理すべき事が多かった。軍資金はいまだ調達されず、軍隊の組成にある困難があった。書翰第95の認められた翌週のこと、議会の委員(クロムウェルもサー・ハリー・ヴェーンもこの委員の一員であった)はロンドン市に行って、軍資として12万ポンドを貸すや否やを知らんとした。市会議事堂においてクロムウェルの説明あり。また討論あり。遂に市は軍資を貸そうということになった。さてこれで軍隊の組成ができると、すぐ出征するというわけだが-?-書翰第96飛んで、ここに子息リチャードの結婚は決定し、1649年5月1日に式が挙げられた。さてこの新夫婦の運命はいかに。リチャードはクロムウェルの死後、その後を襲うたが、たちまち退職のやむなきに会した。彼は1712年7月12日齢86にしてチェスハントに死し、妻は1676年1月5日ハースレーにて死して、その地に葬られた。妻は生家に帰っていたのである。1世紀の後、ハースレーのメーヤー家の邸宅は他人の手に帰したが、その時古い壁の間から金属のさびた棒を見出した。これは共和政府の大?(だいじ)であったとやら。 (2)平等組ドロシー・メーヤー嬢は婚姻の晴着を選択し、リチャード・クロムウェルは花のごとき新婚生活を夢見ている間に、リチャードの父及びその他のためには、公事に関する一のはなはだ目出たからぬ事件が発生して、直ちにその処分をせねばならなくなった。これは平等組(Levellers)と呼ぶ一味の連中についてである。前にも言った通り、1647年既に軍隊の中に叛乱を企つるものありて、政治上及び宗教上に完全なる自由を獲得して、速やかに地上の神的黄金時代を実現せざるべからずという理想を標榜した。叛徒の巨魁11人は軍職をはく奪されて軍法会議に回され、死刑の宣告を受け、その一人アーナルドは直ちに銃殺されて叛乱は一時鎮静した。その後の戦闘、「違反者」処分、自由共和国建設等は軍隊をして多忙ならしめた。然るに今や深き民政思想のパン種は再び発酵して恐るべき大混乱を起さんとす。平等組というもの、すなわちこれである。これカルヴィン的過激主義と称すべきもの、その出現は2世紀早すぎるのである。ホイットロックの著書などによりて当時のありさまを見ると、おおよそこんなふうである。ちょうどバートン氏が例の結婚事件について下手な尽力をしている頃、平等組がサレー州に起って山を掘って豆などを蒔いて騒いでいるという報知が参議院に達した。エヴェラートという者がその巨魁で自ら預言者と称し、ウィンスタンレーもまた巨魁の一人であった。仲間は30人であったが、間もなく4千になると号していた。彼らは人民の来投を求め衣食の供給を約した。しかしサレー州の白亜丘に新紀元を始めんとせしこれら狂妄の徒は、ついに捕えられてしまった。1649年4月20日、エヴェラートとウィンスタンレーは大将フェアファクスの前にいでて、自分等の行動を弁明した。エヴェラートはいうた。「自分はユダヤ人である。そして英国の有様を見るに、ウィリアム王の英国入以来、神の民〔英国人〕は、自分達の祖先がエジプトにて受けしよりもはなはだしき圧制暴虐を受け来った。しかし今救いの時は来た。神は人民を救い出して地の産物を十分に恵むべし。自分らは宇宙を原始の状態に戻さんとするもの、地の産を享受して万人ともに喜ぶ理想社会を造り、貧窮者に分ち与え、衣なき者には衣を与えんとす、自分らは人の財産に手をつくるを欲せず、ただ不毛の地を拓きて産を得んとするのである。しかし間もなく万人来り投じてその財産を提出し、ここに共産社会起るであろうと。これがこの連中の山を耕し始めた理由である。かくして新紀元を造ろうというのである。来り投ずる者には衣食を与えよう、金は要らぬ、武器をもって己をまもる要なし。政府には服従する。ただ近く来るべき機会を待ってさえいればよいというた。フェアファクスの前に引き出されて脱帽せぬ。理由を尋ねられたら、大将も同じ人類であるからと答えた。「敬(とうと)ぶべきひとはこれを敬べ」(ローマ書13章7節)という句の意味いかんと反問されると、かかる質問をなす者の口は閉さるべしと答えた。
2026.05.04
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