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レアメタル使わない有機LED 「江崎玲於奈賞」に九州大大学院・安達主幹教授茨城県科学技術振興財団(つくば市)は28日、2025年度の「江崎玲於奈賞」に、薄型テレビやスマートフォンの画面などに広く使われている有機発光ダイオード(有機LED)の技術発展に寄与したとして、安達千波矢(ちはや)・九州大大学院工学研究院主幹教授(62)を選出したと発表した。 財団などによると、安達教授は、有機LEDについてレアメタル(希少金属)以外の材料を使う方法を発見。さらに、発光効率の高い高性能のデバイス構造も確認した。これにより、資源に乏しい日本でも有機LED開発が進められる可能性がある。安達主幹教授は「賞を励みとして、今後も物質科学・有機エレクトロニクスの発展に貢献してまいりたい」と話している。 同賞は、04年度の創設。ナノテクノロジー(超微細技術)などに関する分野が対象で、1973年にノーベル物理学賞を受賞し、筑波大学長も務めた江崎玲於奈理事長(100)らが選考委員を務める。2013年の第10回受賞者の北川進・京都大特別教授が今年のノーベル化学賞に選ばれたことで注目を集めている。 歴代の受賞者で初めてノーベル賞受賞者が出たことについて、選考委員会の江崎委員長は「大変うれしく思う。今後もノーベル賞が贈られることを期待している」と語った。☆東北大学発のスタートアップ「AZUL Energy」が開発したのは、これまで高価で希少なレアメタル「白金(プラチナ)」に頼らざるを得なかった燃料電池などの性能を、鉄をベースにした新触媒で実現するという革新的な技術です。高騰や地政学リスクといったエネルギー問題の根幹を揺るがすこのブレークスルーは、なんと青色インクの研究中に偶然発見された次世代エネルギーとして期待される水素燃料電池。この心臓部で、水素と酸素の反応を効率よく進めるために不可欠なのが「触媒」です。この触媒はまさに”魔法の粉”ともいえる存在ですが、その主原料は白金(プラチナ)という非常に高価で希少なレアメタルです。 実は、この白金には大きな課題があります。・希少性と偏在: 世界の年間生産量はわずか約200トン。その約90%を南アフリカとロシアに依存しており、地政学的なリスクを常に抱えています。・普及の壁: 燃料電池車1台には、一般的なガソリン車の排ガス用触媒より1桁多い20~数十グラムの白金が必要です。単純計算では、世界の全生産量を投じても約1000万台分しか作れません。世界の自動車生産台数が年間約1億台であることを考えると、白金触媒に頼るままでは、本格的な水素社会の実現は「机上の空論」になってしまうのです。この問題を解決するため、世界中の研究者が白金に代わる安価で豊富な材料を探し求めてきました。この長年の課題に光を当てたのが、AZUL Energyの技術です。驚くべきことに、この新触媒は、もともとインクジェットなどに使われる青色顔料「フタロシアニン」の研究過程で偶然発見されました。研究室のメンバーが、この顔料の化合物を電池に応用してみようと考えたのが始まりでした。数多くの化合物を試す中で、フタロシアニン分子の中心に鉄原子を配置したものが、驚くほど高い触媒性能を持つことを発見したのです。これは人間の血液に含まれるヘモグロビンにも似た構造で、ありふれた「鉄」が希少な「白金」の役割を代替できる可能性を示しました。まさにセレンディピティ(思いがけない幸運な発見)が、エネルギー問題解決の糸口を見つけ出した瞬間でした。◎レアメタル貧国の日本はPSCの原料のヨウ素だけは世界でトップクラスの資源を有する。 PSCの生産に不可欠な原料の一つがヨウ素であるが、この元素は、PSC構造を形成する際に重要な役割を果たしており、その供給がなければPSCの大量生産は困難である。日本は世界のヨウ素資源の約30%を保有しており、その供給力は国際的に重要な役割を果たしている。国内では、特に千葉県や茨城県の地下水からヨウ素を効率的に採取する技術が確立されており、安定的な供給が可能となっている。このような安定供給は、PSCの生産において日本の国際競争力を維持するための基盤となっている。 日本には、多くの大学や研究機関がPSCの研究を行っている。特に東京大学や物質・材料研究機構(NIMS)は、PSC材料の特性評価や新しい合成方法の開発を行い、産業界との連携も進めている。東京大学の研究グループはPSC材料の結晶構造や耐久性向上に関する研究を進め、国際的にも高く評価されている。NIMSは、PSC材料の特性を評価し、商業化に向けた技術の開発を進めている。これらの研究機関は、PSCの実用化に向けた重要な役割を果たしている。
2025.10.31
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 坐禅の本領 その1 坐禅というと、十把ひとからげに、みな同じように思う人があるが、坐禅にもいろいろある。つまりいうと、坐禅を売り物にしている商売禅もあれば、講釈ばかりしている講釈禅もある。見世物にしている見世物禅もあれば、野狐禅というものもある。そうすると、わたしたちが一口に坐禅といっても、その坐禅の中には、仏の坐禅から地獄の坐禅まである。馬勝(めしょう)比丘という人は、坐禅しながら地獄へおちた。なぜかというと独断できめたからだ。つまり四禅天の悟りを開いておきながら、大羅漢の悟りを開いていると、そう独断で思った。四禅天とは色界の四天のことで初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天のことをいい、つまりこの世における悟りである。本当の悟りではなかった。ところが臨終になってみると、あら!四禅天の悟りじゃ。大羅漢というものは、二度と罪の世には生れぬものであるのにー。ところが罪の世に生れてきた。逆とんぼに地獄へ堕ちた。 坐禅の形はひとつである。けれども坐禅さえすればよいというのではない。坐禅さえすればよいといってわたくしのところへ来ているある人は座蒲団を二つも買うて、そりゃ和尚がきたからというので坐禅をやる。そういうきざな、おっちょこちょいなやり方があるものではない。そういうのは偽坐禅で、そいつをきざ禅という、また鼻の先のぶらさげ禅がある。和尚押え禅というやつじゃ。それ以下の和尚がそれに押さえられるから、まことに気の毒なものである。 そうすると禅というものにいろいろの禅があるわけである。永平寺の二代目懐奘(えじょう)禅師の『光明蔵三昧』という書物の中には、餓鬼道禅がある。物が欲しさに坐禅をする。ちょうど犬が尾をふるように、食べ物を得るために奥さんの膝下で尾をふる。餌を得るために尾をふりながら坐禅する。悟りが欲しさに坐禅する。そうするとこれは未到走作の病といってやはり病人である。この未到走作の病にもうひとつある。なにくそ!と友達と競争でやるやつだ。 わたしもなかなか若い時にはそいつがあって、たいがいな人に負けない、たいていの和尚を感心させたものである。わたしはいまだかつて競争は負けたことがない。喧嘩でありうと飯の食い合いであろうと、結局戦のいって命のやりとりまでやって勝ってきた。結局人間には勝ったけれども自分には負けた。そういうものは未到走作の病で、自分がなっておらんものであるから向こうの物が欲しい、それであるから、餓鬼道禅というのである。また友達同士競争で、お互いに血相を変えて、歯を食いしばってやっている。これ修羅道禅である。また坐禅して、牛のように首をぶらさげて寝ているやつがある。これは畜生善である。(『禅談』p.208-209)
2025.10.31
33鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 209~210ページ 放言居士 藤三郎は、実生活上では二宮尊徳の報徳の教えを基礎としていたが、精神生活上では観世音菩薩を深く信仰していた。毎朝、冷水浴をしたあとで、仏前に向かって観音経1巻を読誦することは、東京へ移転してからは、どんな朝でも欠かしたことがなかった。急用ができて、乗る汽車の時間が迫っているようなときでも、この二つだけは必ずやった。時間がないので、大急ぎで上げている藤三郎の読経の声を聞きながら、家の者は「こんなに忙しい時は、ひと朝くらいやめたってよかりそうなものだのに・・・・」と、ひそかに笑ったものであった。しかし、藤三郎としては、これが一日の活動の源泉であったのであろう。どんなことがあっても決してやめなかった。 藤三郎が観音を信仰するようになったのは、家の宗旨が、観音経(妙法蓮華経)重んずる禅宗であったということにもよるが、そのほかに二宮尊徳が、また観世音菩薩を信仰していたことということにも、影響されたものである。 「報徳記」に、尊徳が、まだ14歳の金次郎のころ、隣村の飯泉村(いいずみむら)の観音堂に参拝した時、行脚(あんぎゃ)の僧がやって来て、堂前にすわって読経した。その経を聞いていると、金次郎は若年なのになぜか歓喜に堪えない気持になった。それで、読経が終ってから、その坊さんに、「いまのお経は、何経ですか?」と問うてみたところ、「これは、観音経であります。」という答えであった。金次郎は不審に思って、「私は、観音経なら、今までにたびたび聞いておりますが、今のように心にしみ通るように分ったことはありませんが・・・・」と尋ねると、僧は、「それは、普通は呉音で棒読みにするから意味が分らないのであるが、今のは国音で訓読したから分ったのであろう」といった。そこで、金次郎は、懐中を探って銭(ぜに)200文を取り出して、「これを、お供えいたしますから、今のお経を、もう一度読んで聞かせ下さい。」と頼んで、ふたたび聞いてすっかり観音の信仰を得たということが書いてある。藤三郎が読んでいたのも、ヤハリ訓読して、だれにも分りやすい観音経であった。 ※ 「報徳記」巻の1【1】二宮先生幼時艱難事跡の大略 抜粋「これより先、先生14歳の時、隣村飯泉村観世音に参拝し、堂の下に坐して念じていたことがあった。忽然として行脚(あんぎゃ)の僧が来て、堂前に坐して読経した。その声は微妙で、その深理は広大で、一たび聞くと了然として心の中が歓喜にみたされた。僧がお経を唱え終わった後、先生は謹んで僧に問うて言った。「今、誦されたお経は何というお経ですか。」僧は答えて言った。「観音経です。」先生は言った。「私はかってしばしば観音経を聞きました。そして今、聞くところと異なっていました。どうして私の心にしみとおって明らかなのでしょうか。」答えて言った。「世で誦しているところは呉音(ごおん)です。今、国音(こくおん)をもって転読しました。これがあなたにお経の意味がわかったゆえんでしょうか。」先生は懐中を探って、銭200文を奉じて言った。「願わくば寸志を差し上げますので、今一たび読経していただけますか」僧はその志を感じて転読すること前のようであった。読みおわって去っていった。その行く所を知らない。先生は胸中がはっきりとして大変喜んで、栢山村の善栄寺(菩提寺)に至って和尚(考牛)に面会して言った。「なんと偉大なことでしょう。観音経の功徳は。その理は広大無量で、その意味するところは・・・」と解説すること流れる水のようであった。和尚は大変に驚いて言った。「私は既に耳順(じじゅん:60歳)を超えている。多年この観音経を誦する事は幾百・千篇になるが、いまだにその深理を理解することができない。そうであるのにあなたは若年なのに一たび読誦するのを聴いて無量の深理を明らかに理解した、ああ、これがいわゆる菩薩の再来というものであろうか。今、野僧はこの寺を退こう、あなたは願わくば、僧となって衆生のためにこの寺に住し、おおいに済度の道を行いたまえ」と言った。先生は固辞して言った。「これは私の望む所ではありません。私は祖先の家を起し、その霊を安んじようとするところで、志す所は出家ではありません」と言って去った。これより後にいよいよ御仏の思いも諸人を救済して安んずるより大なるものはないということを知ったと言われた。」 ※報徳教祖 二宮尊徳翁略伝(福住正兄口述) 抜粋「嗚呼尊徳二宮翁。 真に命(まれなる)世の偉人というべし。 しかれども天資謙恭(へりくだりてうやうやしきこと)。 常に己の功績(てがらいさおし)を説かず。少しく門人の口碑に存するもの有りといえども、その万一を得ず。今に及びてしかして之を記せず。すなわちその徳業 煙散霧消(煙のように散じ霧のように消ゆ)に帰してしかして止む。惜しむ勝(た)えべけん。故にしばらくその概略(あらまし)を記し、もって略伝となし、その詳なるごときは言行録の著に付すと。しか云う。翁 名は尊徳(たかのり)。通称金次郎。相模の国 足柄上郡栢山村の人。父は利右衛門と称す。母は曽我別所村。川窪某の女(むすめ)なり。天明7年7月23日もって生まる。その先は曽我氏に出づ。あんずるに曽我太郎平の祐信。13世の孫。二宮祐周なる者有り。翁はけだしその後か。(略)一日飯泉村を過ぎ観音に詣で、僧の経を読むを聞く。問うて曰く、今誦す所は何ぞ。曰く、法華経普門品なり。曰く、平日聴くところに異なるは何ぞ。曰く、世の誦するところ音なり。今わが読むところ訓なり。すなわち乞うて再びこれを読ましむ。翁憬然(ケイゼン:あきらかに)大いに悟るところあり。すなわちいわく。仏の旨もまた世を救うにほかならざるなり。志ますます堅し。
2025.10.31
194二宮翁夜話巻の3【26】尊徳先生はおっしゃった。仏者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、よく修行するべきである。その地位に至る時は、国家を利益し、世を救うのほかに道はなく、世の中に益ある事を勤めるほかに道はない。たとえば、山に登るようなものだ。山が高く見えるうちは勤めて登るべきである。登りつめたら外に高い山はなく、四方ともに眼下であるようなものだ。この場に至って、仰いでいよいよ高いのはただ天だけである。ここまで登るのを修行という。天の外に高いものがあると見えるうちは勤めて登るがよい。学ぶがよい。二宮翁夜話巻の3【26】翁曰く、仏者も釈迦が有難く思はれ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は、能く修行すべし、其の地位に至る時は、国家を利益し、世を救ふの外に道なく、世の中に益ある事を勤るの外に道なし、譬へば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰れば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し、此の場に至つて、仰ぎて弥々高きは只天のみなり、此処まで登るを修行と云ふ、天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。
2025.10.31
レアアース、中国リスクを回避 大同特殊鋼のモーター用磁石が好調ハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)に使うモーター用の磁石などを手がける大同特殊鋼(名古屋市)は30日、2025年9月中間決算(国際会計基準)が、従来想定を上回って増収増益になったと発表した。同社は産出が中国に偏っている重要鉱物レアアースの一つである「重希土類」を用いずに強力な磁石をつくる技術を持っている。中国側が輸出規制に動くなど、レアアースは米中対立のなかでの交渉材料となっており、供給リスクを意識して、磁石需要が高まっている。 25年9月中間決算は、売上高が前年比0.4%増の2844億円(従来予想2750億円)、最終的なもうけを示す純利益は6.5%増の129億円(同80億円)だった。 清水哲也社長は会見で「磁石事業が想定を上回り、これまでお付き合いしていなかった欧米のメーカーからもかなり強い引き合いをいただいている。その流れは続いており、今後、その効果が出てくる」と説明。想定よりも円安傾向が続いたことや経費圧縮などに取り組んだことなども、業績の上ぶれに寄与したという。
2025.10.30
石破前首相、自民のさらなる保守路線「違和感」/コメ増産方針を転換「不愉快な話」/核禁条約会議「オブザーバーでも参加すべきだった」 インタビューで語る10/30(木) 石破茂前首相(鳥取1区)は、衆院議員会館で中国新聞のインタビューに応じ、3月の核兵器禁止条約第3回締約国会議へのオブザーバー参加の見送りの判断を振り返った。高市早苗首相の下で、公明党が離脱し日本維新の会が加わった連立の枠組みについて批判し、コメ政策の方針転換には違和感を語った。―石破政権の核政策をどう振り返りますか。 今年は被爆80年。個人的にはオブザーバーでもいいから参加すべきだと思っていた。その思いは公明党の斉藤鉄夫代表とも共通していた。ただ、政府全体としてそれができるか、葛藤があった。米国に核抑止を依存していることと矛盾せざるを得ない。為政者としてやむを得ない選択だった。核保有国も参加する核拡散防止条約(NPT)体制がより実効性がある。 私にとって8月6日は特別な日だ。小学6年の時に見た広島の被爆の記録映像は一生忘れない。今年の平和記念式典のスピーチ原稿は何度も書き直し、最後に正田篠枝さんの短歌を入れた。核の悲惨さをあれほど端的に表した歌はない。 ―多くの中国地方選出のベテラン議員が政権を支えました。 中国5県に内閣や自民党の重鎮がいて、そうした方々は「石破降ろし」に加担したわけでもなく、よくお支えいただいた。岸田文雄元首相とは穏健中道という立場を同じくし、政策を継承、発展させた。しゃしゃり出る人ではないが、陰に陽に存在は大きかった。 ―高市首相の新政権をどう見ますか。 今回の自民党総裁選では石破政権を継続してくれるという意味で、林芳正総務相、小泉進次郎防衛相を応援した。そうではない政権がスタートしているが、正規ルールでできたのだから、党員として支えていかなきゃいかん。ただ、無批判に従うということではない。 ―公明党は連立離脱をしました。 自民党が野党で苦しい時、一緒にやってくれたことを忘れたらいかん。維新は新自由主義的。自民党政治がいわゆる保守の路線へさらに傾くことにすごく違和感がある。 ―コメ政策では、石破氏が掲げた増産方針を転換させますね。 不愉快な話だ。コメは安いほどいいとは言わないが、消費者が常に求められる値段であるべきだ。(米価高騰で)コメが足りないのは証明されたようなもの。値段が下がるのはいかんので増産はやめと言われると、それは違う。
2025.10.30
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その11『正法源蔵』現成公案の巻に「仏道を習ふといふは自己を習ふなり」と示されてあるが、これが回光返照の第一級だ。「自己を習ふといふは自己を忘るるなり」これが第二級、そして「自己を忘るるといふは、万物に証せらるるなり、万物に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしめるなり」すなわち自他透明になる。これが第三級である。そしてさらに「悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり」悟りの跡方もなくして、しかも「休歇なる悟迹を長長出ならしむる」のである。今生より未来、尽未来際、今日は今日限り、明日は明日限りと、一生永遠に回光返照して、とめどもなく自己を見つめ自己を体験することが、修行に終わりなしという相(すがた)である。つねに磨き、つねに新しく回光返照してゆく、ここにわれわれの本当の修行がある、回光返照しない者には「雖近而不見(すいごんにふけん)」というて、近いところに仏はあってもみることができない。つねに回光返照する者には。「常在霊鷲山」で、いつでも仏を見ることができる。浄土は近いところにあるわけである。 それだから「言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし、須らく回光返照の退歩を学す」るということが大切なので、これさえ努めれば、「身心自然に脱落して、本来の面目現前」するのである。ここにいたる方法はいろいろあろう。例えば笛も極致になればそうであろうし、武道の奥義もそれであろう。もろもろの芸術もそうでなくてはならないが、何よりもまず坐禅が、回光返照には一番の表門であり、正門である。これが坐禅の本筋である。(『禅談』p.145-146)
2025.10.30
33鈴木藤三郎関係者列伝 月島機械 黒板伝作 その2 「月島機械株式会社史」-黒板伝作- 昭和32年6月28日発行 また、黒板伝作氏の兄黒板勝美博士の親友で飯笹鋼業所主の飯笹小四郎氏が語ったところも当時の鈴木鉄工部の状況と学究肌の黒板氏がやめるに至った事情が窺われる。「とにかく当時の鉄工業界は幼稚極まるもので、また随分乱暴なものだった。鈴木鉄工部でも依頼によって機械を製作したが、技術者としては到底自信のないものでもどんどん納入するのでハラハラして見ていた。技術には全然素人の小野徳太郎という支配人がいたが、その人などが納入に行って難なく納めてしまった。それで別に後から文句も持ち込まれなかったのだから、不思議といえば不思議だが、当時はそれで事が済んだのだった。 ボイラーの時でも、鈴木さんはこうなるはずだという。しかし実際に使ってみるとそうはいかない。材料学の進んでいない時だから、今から考えるとムチャなことをやっていたわけだ。鈴木さんのいうとおりにならないというと、そんなはずはないと鈴木さんは怒号して叱りつける。仕方がないから、取換えの部分品をたくさん用意しておいてダメになると、ひそかに早速取り換える。鈴木さんにはそんなことは言えないから、鈴木さんはただ機械の運転するところだけを見て、うまくいっていると思い込んでいる。そんな調子だった。黒板さんはずっと設計にいて設計の責任者であったが、自分は現場にいて製作方面を受け持っていた。」(同書150頁)黒板氏は明治38年4月に深川区猿江町(現江東区)に日本精製糖会社の機械修繕部職工長の山谷和吉氏(工手学校出で後年山谷機械株式会社社長)と共同で東京鉄工所機械部を設立した。同年8月には京橋区月島東仲通5丁目(現中央区)に東京月島機械製作所を創立した。同年6月には宮崎好文氏が帝大卒業と同時に技師長として入り、明治40年頃から顧問を委嘱し、最高学府出の新鋭の技術者を選び、根岸政一氏、内村最一郎氏、竹村勘?氏に委嘱されているが、これらは鈴木藤三郎氏の鈴木鉄工部が東京帝大出の学士を技師長に採用したやり方などをとりいれたものとも思われる。明治40年、大日本製糖株式会社(明治39年11月、日本精製糖会社と大阪の日本精糖会社と合併、鈴木藤三郎氏は退陣されていた)から小名木川第一、第二両工場の拡張工事があって、東京月島機械製作所が受注し、これが当社の発展の基礎となった。同書26頁では「翻って考えてみるに、もしこの時に鈴木氏が依然として大日本製糖を主宰しておられたならば、あるいはこの拡張工事そのものがなかったかも知れないし、またたとえあったにしても、仕事は当然鈴木鉄工部(同部は明治41年頃、敷地3,500坪、従業員400人を擁して、東京屈指の鉄工所であった)に回って、東京月島機械製作所には注文されなかったであろうと思われる」と感慨を述べている。台湾製糖の橋仔頭工場の建設には鈴木鉄工所が関与し、当時同部に勤務していた黒板氏は、明治36年11月18日神戸出航で初渡台し、同工場を視察した記録「新領土初旅日記」(昭和15年4月発行)があるという。東京月島機械は、堀宗一氏の依頼により塩水港製糖の据付工事を引き受け、ドイツ、イギリスから技師が来た大日本製糖、東洋製糖より期間も早く、成績もよかったという。こうした製糖機械に関する技術の高さから、明治42年に打狗製糖所南投製糖所に赤糖の機械を納め、43年松岡製糖所に諸機械を納入するなどしている。東京月島機械製作所は、製糖機械の国産化に勤め、大正4年第一次世界大戦で、外国品の輸入難などが幸して、製糖機械の注文で活況を呈した。台湾製糖の神戸工場建設には、黒板氏が特に選ばれて、工場監督、設計をまかされ、月島機械からも諸機械を納入した。黒板氏はまた徒弟教育に力を尽くし、多くの技術者の養成をされた。「先生は常に言う。自分は若い時に非常に苦学した。しかし多くの知人から援助を得て学業を終え社会に出た。自分はその恩に報ゆる積りで多くの後輩を援助し養成し、一人でも多く有用な人物を社会に送り出したいのが念願である。また徒弟養成所にしても、機械製作の仕事を勉強してもらってたくさんの良い製品を作り出してもらいたいためである。仕事に精進して一人前の工員となってから月島の工場に勤務してもらいたいのであるが、必ずしも無理に工場に引き留めるわけではない。一人でも多く良い技術者を社会に送り出し国家のために大いに活動してもらいたいのである。徒弟の養成については専門の技術も大切であるが、精神方面の徳育も大切であるとして、訓育につとめたのであります。」(同書70ページ、宮崎好文氏「追想録」より)ここにおいて、鈴木藤三郎氏の報徳の思想は、荏原製作所の畠山一清氏と同様、また黒板氏においても「一人でも多く有用な人物を社会に送り出し、国家のために大いに活動してもらいたい」という念願となって精神面でも受け継がれたかのようである。黒板伝作氏は、昭和8年12月27日逝去された。「一生を通じて、非常な努力家であったこと、よく若い者の面倒を見たこと、利財の蓄積よりも世のため人のために力を尽したことは、多くの人の話や、諸事の記録を見ても判ることで、先生の人柄はここに、滲み出ていると思う。」(同著155ページ)月島機械創業時の職員の山県孝亮氏は昭和18年11月21日当時をこう語った。「黒板さんは学者だったから、人のやれぬこと、新しいこと、研究的なことをやりたがった。わるくいえば経営心理にうとかった。いつも仕事の六割は世の中にないもの、世の中より一歩先に出たもの、研究的なことをやりたがり、したがって利殖は第二になって、いる人の勉強にはなるが、月給をたくさん出すというわけにはいかなかった。いわば学校みたいなところがあった。研究的なことで金をかけて失敗した例といえば、明治43年の精米機械や、大正5年の自転車のソケットなどはいい例だ。外にも熱処理だとか、変圧器など、例が多数ある。そのようなわけで、稽古には雅量があった。本などいくらでも買ってくれた。一時会社の中に特許部を設けていたことがある。」(156頁) ☆ 「鈴木藤三郎氏顕彰第3集」の23ページに「黒板伝作列伝」全5ページをはさみこんで、「月島機械株式会社」に贈呈した。 はたして自社の創業者を載せた本をどう取扱っていただけるのやら。 しかし、こうして列伝を作ると、鈴木藤三郎の生きていた時代が浮かび上がるようである。荏原製作所の創業者畠山一清氏はその自伝で、鈴木藤三郎の報徳の考え方に影響を受け、経営の基盤にした。しかし、また藤三郎の失敗が車内の和の欠如にあると見て、茶の精神を自らの修養に取り入れた。 一方、黒板氏をめぐる評論では鈴木藤三郎を積極的に評価する声は少ないようである。どちらかといえば、その商売人的なところに技術者の誠実さから黒板氏が反発して独立したというような評論が多い。しかし、創造的な仕事を通して国に報いよう、世に役立つ人物を育てようと実践してきたところは、仕事の内容も藤三郎が築いたものを土台にしてきたことと思い合されて、鈴木鉄工部での体験がベースになっているようにも思われてならない。
2025.10.30
飛行中の陸自ヘリにレーザー照射 宮城県利府町の上空 搭乗員らに被害なし陸上自衛隊は訓練飛行中のヘリコプターがレーザー照射を受けたと発表しました。レーザー照射を受けたのは陸上自衛隊東北方面・ヘリコプター隊に所属するUH1J多用途ヘリコプターです。このヘリコプターは29日午後5時20分ごろ、岩手県から宮城県までの間を夜間飛行する訓練を行っていました。その後、宮城県の霞目駐屯地から15キロメートルほど離れた利府町の上空で緑色のレーザーを3秒程度照射されたということです。レーザーを照射されたヘリコプターは当時、2機編成で高度およそ500メートル付近を飛行していて、進行方向に対して右側からレーザーを照射されたということです。機内には機長を含めた6人の隊員が搭乗していましたが、搭乗員や航空機、周辺の地域への被害は確認されていません。レーザーがどこからどのような目的で照射されたかは分かっておらず、陸上自衛隊・東北方面航空隊は警察に通報したということです。陸上自衛隊は「航空機の飛行の安全はもとより乗員や国民の生命を脅かす非常に危険な行為」として、「今回の事案発生を深刻に受け止めています」とコメントしています。
2025.10.30
FRB、政策金利を0.25%引き下げ決定 2会合連続10/30(木) 米連邦準備制度理事会(FRB)は29日、政策金利を0・25%引き下げ、3・75~4%とすることを決めた。利下げは前回9月に続き2会合連続。雇用市場の弱含みが続く中、利下げによって景気を下支えするのが妥当だと判断した。米連邦政府の予算切れに伴う政府機関閉鎖により、多くの経済統計が公表されない異例の事態での利下げとなった。FRBのパウエル議長は今月14日の講演で、民間データや地区連銀の情報網を活用することで足元の経済情勢を見極めると強調。その上で「雇用の下振れリスクは高まっているようだ」と述べ、雇用市場の減速を注視する姿勢を示していた。
2025.10.30
194二宮翁夜話巻の3【26】尊徳先生はおっしゃった。仏者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、よく修行するべきである。その地位に至る時は、国家を利益し、世を救うのほかに道はなく、世の中に益ある事を勤めるほかに道はない。たとえば、山に登るようなものだ。山が高く見えるうちは勤めて登るべきである。登りつめたら外に高い山はなく、四方ともに眼下であるようなものだ。この場に至って、仰いでいよいよ高いのはただ天だけである。ここまで登るのを修行という。天の外に高いものがあると見えるうちは勤めて登るがよい。学ぶがよい。二宮翁夜話巻の3【26】翁曰く、仏者も釈迦が有難く思はれ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は、能く修行すべし、其の地位に至る時は、国家を利益し、世を救ふの外に道なく、世の中に益ある事を勤るの外に道なし、譬へば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰れば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し、此の場に至つて、仰ぎて弥々高きは只天のみなり、此処まで登るを修行と云ふ、天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。
2025.10.30
巨人・桑田二軍監督の電撃退団は“事実上のクビ”…真相は「優勝したのに国際部への異動を打診されていた」巨人の桑田真澄二軍監督(57)の今季限りでの退団が発表された。就任2年目の今季、イースタン・リーグで2位の西武に8ゲーム差をつけて2年ぶり29度目の優勝を果たしていただけに、衝撃が走った。「イースタン優勝後、スポーツ報知のコラムでは<3年、5年、10年後の巨人の将来を見据えつつ、これからも勝利と育成の両立を追及していきます>と記し、来季に向けて意気込んでいた。少なくとも本人はやる気満々で、前日27日まで『みやざきフェニックス・リーグ』の指揮も執っていたフェニックス・リーグの最中に、球団から国際部への“異動”を打診され、ショックを受けていた〇阿部監督率いる一軍が優勝を逃し、その原因を『思うように若手が育っていない』と自らの手腕にも求められたという。期待される若手が伸び悩んでいるのは確か。最終的には桑田二軍監督自ら退団する意向を球団に伝えたが、事実上のクビということです」阿部監督は29日、稲城市のジャイアンツタウンスタジアムで報道陣の取材に応じ、「桑田さんは僕が選手時代から育てていただいた人なので、今回(チームを)離れるということはとても残念です。2軍で優勝したり、そういうすごく貢献をしていただいたので、感謝の気持ちで今はいっぱいです」今年の成績の責任を取って、二岡がヘッドコーチが辞めるとか、2軍監督が責任を取って辞めるとか、これはちょっと尋常じゃないな、なんかあるな。内部で何かあるかも分からない。ちょっと流れが悪いなって思うね。
2025.10.29
青森県で「安居院庄七と鷲山恭平」が藤崎町と弘前学院大学で蔵書となっている 藤崎町は映画「二宮金次郎」の 五十嵐匠監督の出身地である岩手県で「安居院庄七と鷲山恭平」が奥州市立図書館で蔵書となっている 岩手県立図書館で蔵書にしていただけなかった>.<宮城県立図書館で「安居院庄七と鷲山恭平」が蔵書となっている11月1日安居院庄七生誕の地秦野市「全国報徳サミット」開催日時 令和7年11月1日(土)午前9時20分〜午後0時30分場所 メタックス体育館はだの開催趣旨 二宮尊徳が江戸末期荒廃した農村を再建至誠勤労分度推譲の教えを学ぶ
2025.10.29
積丹町 クマ駆除めぐり町議とのトラブルで猟友会出動拒否から1カ月 町民・議会への情報共有不足明らかに10/28(火)北海道の積丹町で、町議とのトラブルをきっかけに猟友会が出動を拒否してから今日で1カ月。町が出動拒否の状況を町民や議会に伝えていなかった先月、積丹町で捕獲された体重284キロのクマ。このクマの駆除をめぐり、地元の猟友会と積丹町議会副議長の男性がトラブルになっています。1カ月経った今も、猟友会は町の出動要請を拒否する事態が続いており、町民は不安な日々を過ごしています。町民)「気持ち的にも不安、ハンターが出動してくれないなら。警察のピストルでは対応できない」先月27日、副議長の自宅近くに設置された箱罠にクマがかかりました。関係者によりますと、副議長と面識のない猟友会のハンターが、現場にいた副議長に「誰ですか」と聞くと、副議長は「誰にモノを言ってるか」と応じ、ハンターが安全のため現場から離れるよう促したところトラブルに発展したといいます。積丹町議会副議長〈関係者の証言〉「こんなに人数が必要なのか。金貰えるからだろ。俺にそんなことするなら駆除もさせないようにするし、議会で予算も減らすからな。辞めさせてやる」一方、HTBの取材に対し副議長はこのように話しています。積丹町議会副議長〈HTBの取材に対し〉「『何で急に撃つんだ』『こんなに人数いるのか』という話はしたが、『辞めさせてやる』とは言っていない。一町議がそんな力を持っているわけがない」このトラブルをめぐり、一部のハンターから「駆除をやりたくない」という声があがったことから、猟友会は町の出動要請を拒否することを決めました。詳しい状況を報道で初めて知ったという別の町議は、町の対応を問題視しています。石田弘美 積丹町議)「情報提供がまずは大事。仮に今解決できてない状況であったとしても、こういう状況なのだと伝えることが行政としての役割」また、今月9日の議会でクマ対策の補正予算が可決されましたが、町から猟友会の出動拒否について説明がなかったといいます。石田弘美 積丹町議)「クマ檻をクマが鍵を暴れて壊す。壊れているので、(町が)修繕費だとかの補正予算を出している。それにも関わらず、猟友会が出動しないという内容については一切報告がない」町は議会に説明しなかったことについて、「事実関係の把握に時間がかかり、議会に報告すべきか判断に迷った」と話しています。いつ出没するか分からないクマ。町は緊急時には猟友会に出動を要請する方針ですが、「対応してもらえるか分からない」としていて、住民の不安な日々に終わりは見えません。ロバーツ監督 26日 「(トロント空港で)遅延があって意図的かどうかは知らないけど 国際線関係は本当に大変 でもまあ、無事についた 間に合った」 28日 「あれは私の失言だった 『intent(意図)』という言葉を使うべきではなかった 私はカナダが大好き」 失言謝罪の見本、副議長も見習わなくちゃね
2025.10.29
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その10 むかし博雅という笛吹があった。朝廷に上って笛を吹く名人である。ある日のこと一人でポツネンと坐っていると、仰山な子分をつれて泥棒がはいってきた。そんなものと争うのはうるさいと思って縁の下へこっそりもぐりこんでいた。泥棒は何もかも車にのせて2,30人の子分にひかせてでていった。大水のでたあとのような大騒ぎの後へ、博雅は縁の下からはいあがってきた。きれいに盗っていったあとに、笛が一本落ちていたのを見た。しかもこの笛は自分の一番大事にしていた笛であった。 思わず手に取った博雅は、何心なく一曲吹いたのである。そうすると笛の音色は天地に和して、天地と自分がとけあったような気持になった、天地いっぱいになって、いい気持で笛を吹いたのである、やがて何やら音がした。気がついて見ると毛むくじゃらの男が前に坐っている。「あんたは何しにきたのだ」というと、「わたしはただいまはいった泥棒です」という。「泥棒さんが、どうしてここへ帰ってきた」とたずねると、「いや、お屋敷へはいって、まとめるものだけまとめて車にのせ、ものの一町半もいった時分に、お屋敷の方から笛の音が聞こえてきました。その笛の音を聞いていると、うれしいとも悲しいとも、大きゅうなったとも小そうなったとも、明るうなったとも、暗うなったとも、何ともともいいようのない気持ちになりました。とうとう地べたにうずくまってなおも音色を聞いておりますと、腹の底までしみ通るような気がして、恥ずかしゅうて、もったいのうて、それから子分たちを帰して盗った品物をみな持ってまいりました。どうぞこれをもどしてください」と手をついてあやまっている。博雅が「ヘエー」といってびっくりしていると、泥棒は「それからわたし一つお願いがあります。わたしを弟子にして笛を教えてもらうことはできませぬか」という。博雅も雅量のある人とみえて、この男を弟子とした。 それから十年の後にこの男は用光(もちみつ)というて笛の名人になった。ある時、土佐の国へいったもどりに海賊に襲われた。海賊がダンビラを引き抜いて首を斬るぞというた時に「臨終の思い出に笛を一曲吹かしてもらいたい、吹き終ってから首を斬ってくれ」と頼んだ。海賊も、「よし、吹け」というので、一曲吹きだした。笛の音色は海の波に和して、天地一枚、すき通るような気持になった。いままでふりあげた海賊の刀がだんだんさがって、恐ろしい顔がだんだん優しゅうなってきた。そうして用光が笛を吹いている間に、船は舵を取り直して難波に着いておった。博雅にその話をすると「お前の笛もやや名人になった」とほめられたという話がある。 これもまた、「霊根に廓達すれば向背にあらず」で、自他法界平等の境涯である。この境涯を得ることは笛も坐禅も同様である。(『禅談』p.144-145)
2025.10.29
33「月島機械株式会社史」-黒板伝作- 昭和32年6月28日発行 黒板伝作氏は、月島機械株式会社創立者である。 黒板伝作氏は、長崎県東彼杵(そのぎ)郡西大村に黒板要平氏の次男として、明治9年6月金沢市に生まれた。要平氏は士族出身で、警察官出身で、折尾瀬(おりおぜ)村長を勤め、母親は小学校の裁縫の先生をしていた。黒板家では、兄勝美氏を東京帝国大学に学ばせていたので、伝作を上級学校に進学させる余裕は家になかった。黒板伝作氏は、大村中学4年を終えて小学校教員の試験を受け、中学校卒業とともに、折尾瀬小学校の准教員として教壇に立った。たまたま県視学が巡視の際に、秀才をこのまま朽ちらせるのは気の毒だ、幸い工業伝習所生徒募集中であるから県から推薦しようということになった。兄勝美氏に相談すると、せっかく学問するなら高等学校に進めと助言を受け、小学校教員を9月まで勤め、学資を貯めて熊本第五高等学校入学が決定した。第二部(工科)に進み、優秀な成績で卒業し、明治30年、東京帝国大学に入学し、工科大学機械工学科に席を置いた。在学中は三菱合資会社奨学貸費を受けていた。 <「月島機械株式会社史」の148~149ページ 「長崎日日新聞」昭和8年9月12日付の「黒板伝作君」より抜粋引用> 二学年に進んだ秋の某日、気持が悪かったので、講義の時間中フイと教室を飛び出して校庭の芝生に寝転んでいると雀が飛んできた。つれづれに苦しんでいた君が小石を拾ってポンと投げると見事にあたった。伝作君が死んだ雀をぶら下げて、投げたツブテがよくあたったものと感心しているのを見つけて、教務所の窓から声をかけたのが機械科主任真野文二博士だった。なぜ講義を受けないのかと叱られたが、正直な君は気持が悪い時はいつもサボっていることを告白した。真野教授は君のボロボロ洋服に尻切れ草履のみすぼらしい姿を見て「靴をはいたらよかろう」「はかなきゃならぬという規則がありますか」「そうハッキリした規則はないようじゃが、しかし見っともない」「靴を買う金があれば、本を買います」「それじゃあ、内職を世話しよう」と、真野教授の世話で、当時発明者としられていた鈴木藤三郎氏経営の鈴木鉄工所に行った。 <同著3ページ>明治33年7月、東京帝国大学工科大学機械科の第25回生、24名中の一人として卒業した。時に満24歳であった。当時最高学府を出た者は、官吏になるのが常識であったが、黒板氏はかねて学生時代に、鈴木鉄工部の支配人小野徳太郎氏に、機械の知識を教えていた縁故と、機械に対する執着から、卒業と同時に同鉄工部の技師として入社し、かたわら日本精製糖株式会社の器械嘱託技師をも勤めた。この間の事情については次のように伝えられている。「鈴木氏が専務たる日本精製糖の機械主任に聘用したいという話が持ち上がり、重役が会いたいというので出かけて、まず工場を見た上で話を決めようと提言したが、工場には秘密な部分があるので、社員でないと見せられないというので言われ、「入社して秘密を盗んで逃げ出したらどうするか」といってサッサと退却した。その率直なところがかえって好感をもって迎えられ、真野教授の口利きで、再度精製糖会社を訪問し、今度は工場を見せてもらったが、学校で教わったくらいでは実際の仕事は分かるものではないことが判ったくらいであった。そして学校卒業後、機械主任として入社することになり、200円前借して苦学生たちまち大尽となった。すると鈴木専務から鈴木鉄工所に入社を勧められ、製糖会社で機械の番をするより鉄工所で機械を作るほうが面白かろうと即座に承諾した。卒業式の翌日、鉄工所に顔を出すと、鈴木社長が卒業証書を持って来たかと訊くので、卒業証書を雇うのか、人を雇うのかと一本参り、かくて若い工学士は工場の人となり、一つには月給のため、二つには自分の将来のため、三つには世間のためと、三人前の勤めをする覚悟で真黒くなって働いた。(長崎日日新聞) 最初は日本精製糖から話があって同社の器械主任として入社することに一応決まったが、その後同社の専務であった鈴木氏から同氏個人の経営になる鈴木鉄工部への入社を勧められ、学生時代から協力した関係もあり、かつ機械の製作に興味を持つ黒板氏としては『鈴木鉄工部』に入社を決定した。しかし鈴木氏と日本精製糖との密接な事業上の関係から、後に日本精製糖の嘱託も兼ねるに至った。明治35年2月5日付けの「技師、黒坂伝作、自今月俸金六拾五円ヲ給ス」という記録があるという。元来、鈴木藤三郎氏は事業家としても、また発明家としても世に知られた人で、日本で初めて氷砂糖の製造に成功し、精製糖、製塩、醤油、魚粉肥料、水産食料品等の発明に及び、またこれらに関する多くの事業をも経営した。特に精製糖については明治28年、英国ハーバー・エンヂニアー社から機械を購入して本邦唯一の精糖工場を経営し、かたわら農場までも開いていた事業家でもあった。日本精製糖株式会社は、明治22年6月、鈴木製糖部と称して鈴木藤三郎氏個人経営の、試験的精製糖工場であったが、明治28年12月、資本金30万円の株式会社となり、黒板氏が関係した当時は、鈴木氏は同社専務取締役兼技師長であった。鈴木鉄工部は鈴木氏が氷砂糖や精製糖を製造する機械を他に依頼して造らせたのでは、思うようなものができないので試作するつもりで明治24年1月始めた工場であった。日本精製糖に隣接した東京府南葛飾郡砂村字治兵衛新田479にあった。黒板氏の鈴木鉄工部での仕事は主として設計技術者として設計の責任者の地位にあった。当然鈴木氏の発明特許には深く関係し、知識と努力を傾けたことは想像できる。入社後一余年後には、鈴木鉄工部の技師長となり、年俸で壱千円余を給せられていたという。鈴木鉄工部を退社したのは、明治38年3月31日で、翌月4月11日には、日本精製糖会社嘱託もやめた。鈴木鉄工部からは「在職中勤勉ノ功ニ依リ」八百円、日本精製糖から「慰労金」として三百円を送られたというから、その功績の次第がしのばれる。明治36年から37年にかけては、陸軍糧秣廠の醤油エキス製造装置、日本精製糖会社の拡張工事に腕を振るったという。明治37年12月鈴木氏発明の鈴木式ボイラーを日本精製糖で採用しようという議が持ち上がり、黒板氏は精製糖会社の重役会の席に呼ばれ、意見を求められた。黒板氏は、技術者としての良心と信念から、鈴木社長(明治36年就任)の前で、自家製ボイラーの採用に反対した。この事件等以後、鈴木、黒板両氏の間がシックリいかなくなった。黒板氏は独立自営の決意をし、翌38年1月には鈴木鉄工所及び日本精製糖会社へ辞意を漏らしたが、鈴木氏は増俸したりして慰留し、辞職を承認しなかった。そこで黒板氏は大学院に通学して更に研究するという名目で、明治38年9月14日付で大学院に入学した。指導教官は井口教授となっている。この間の事情について、真野文二博士はこう語られている。(昭和18年11月26日)「黒板君を自分が実業家鈴木藤三郎氏のところに世話したことは確かである。鈴木氏のところに行った初め、どういうことをしていたかは知らない。それで黒板君も恩人だということで随分懸命に働いてつくしたのだ。 ところが段々働いているうちに、鈴木氏のする仕事が気にいらない。どうも黒板君の主義と違う。まあいわば鈴木のやり方にわるい意味の商売人じみた処があった。そこで黒板君は随分尽していたが、やりきれなくなって、鈴木に別れて独立したいと申し出た。自分の処にも諒解を得にやってきた。 鈴木は資本もないことだしと随分とめた。しかし黒板君は、もう少し真面目にやりたいということで、どうしても独立するといって自分の処にもことわりにきた。それで自分もやるがよかろう、といってやった。とにかく感心な人ですよ。何もないところから、あれまでにやりあげたんだから。」また、昭和8年9月14日付長崎日日新聞の「黒板伝作君」ではこう述べている。「鈴木鉄工部社長鈴木藤三郎氏は、一時発明家として評判された人で、その考案に成る鈴木式ボイラーを全国工場に使用すれば、燃料の節約その他で一億円の節約ができると称し、国益一億円を看板に広く宣伝した。このボイラーの製作には勿論伝作君が手伝ったのであるが、君は効能書きどおりの節約をなしうるかどうかに疑問を持っていた。すると明治37年12月製糖会社が右ボイラーを買うこととなり、重役会に提案された。君は会社の機械部嘱託として重役会に呼ばれて、意見を問われ、売る会社の技師長であり、同時に買う会社の技術主任という二重人格を有する君が、断固反対したので、鈴木氏は真っ赤になり、座は白け渡った。右の機械に関して自信を有せぬ君は、他の会社へなら売るとも自分の会社に買って期待を裏切る事はしたくなかった。それは技術者としての独立した使命で、正しい判断であった。すると翌年の実業之日本正月号に鈴木式ボイラーの事が大々的に掲載されたので、意見の相違は君をして鈴木氏から離反せしめ、切に慰留されるのを振り切って退社したのは、29歳(数え年)の春であった。」
2025.10.29
194二宮翁夜話巻の3【25】尊徳先生がおっしゃった。才知が勝れた者は、おおよそ徳に遠いものである。学問があれば申韓(重刑主義の法家の申不害と韓非子)を主張し、学問がなければ三国志や太閤記を引用する。論語や中庸などには一言も及ばないものである。なぜかといえば、道徳の本理は才知では理解できないものだからである。この類の人は必ず実行することがやさしい中庸を難かしい難しいと言うものである。中庸に、賢者はこれに過ぎる、とある、もっともなことだ。おおよそ世人は、太閤記や三国誌などの俗書を好むけれども、大変よろしくない。そうでなくても争う気が盛んであるのに、偽心が起きはじめる若者に、このような書物を読ませるのは悪いことだ。世人が太閤記や三国誌などをよく読めば、利口になるなどというのは誤りである、心しなければならない。二宮翁夜話巻の3【25】翁曰く、才智勝(すぐ)れたる者は、大凡道徳に遠き物なり、文学あれば申韓を唱へ、文学なければ三国志太閤記を引く、論語中庸などには一言も及ばざる物なり、如何となれば、道徳の本理は才智にては解せぬものなればなるべし、此の流の人は必ず行ひ安き中庸を難しと為る物なり、中庸に、賢者は之に過ぐ、とあり、うべなり、凡そ世人は、太閤記三国誌等の俗書を好めども、甚だ宜(よろ)しからず、さらでだに争気(そうき)盛んに、偽心萌(きざ)し初る若輩の者に、かゝる書を読ましむるは悪し、世人太閤記三国誌等を能く読めば、怜利になるなどゝ云ふは誤りなり、心すべし。
2025.10.29
神奈川県立図書館所蔵の『安居院庄七と鷲山恭平』が「貸出中」になっている、11月1日に安居院庄七生誕の秦野市で「全国報徳サミット」が開催されます以下のアドレスhttps://city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1732856327469/index.html
2025.10.28
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その9 あの指鬘(しまん)外道、すなわち央掘摩羅(おうくつまら)が、99人殺して、百人目に弁当を持ってきた母親を殺そうと思った。そこを仏さんが後ろから呼びかけた。央掘摩羅は仏さんに斬りつけようとした。すると仏さんは影の形にそうがごとく、央掘摩羅が進むだけ退いては説法をした、一足いっては説法を聞き、一足進んでは説法を聞いていたが、とうとう刀を投げ出して仏さんが「善来比丘」とおっしゃっると、「髪地に落ち、衣身に掛かる」というのだから、髪の毛が落ちて坊さんになり、着物が変わってお袈裟になったというのである。 そうして央掘摩羅は、その翌日、はじめて托鉢にでた。すると途中で、非常に難産で苦しんでいる婦人にあった。当時インドには、いまだかつて嘘をいうたことのない人に呪文を唱えてもらうと災難を逃れるとか、安産するとかいう信仰があった。ところが人もあろうに、昨日まで人殺しをやっていた央掘摩羅が「どうぞ安産しますように呪文を唱えてくれ」と頼まれたのである。 びっくりした央掘摩羅は、自分には何にもわからぬ。さっそく仏さんのところにもどってきて、「こういう注文を受けましたが、わたしいかがいたしましょうか」とたずねると、仏さんのいわれるには「かしこにいたりてわれ無始よりこのかた未だかつて生命を害せずといえ」ということであった。それからすぐもどってきて、教えられた通り「我れ無始よりこのかた未だかつて生命を害せず」と唱えると、赤ん坊はやすやすと生まれたというのである。これはそもそも何のことだろう。 なるほど昨日までは人殺しをしておった。しかし立派に回光返照して、いまの自分という者は一切生命を害しない、本当に業障のない境涯になったのである。過去、現在、未来、一切の業障というものがつきはてたのである。その業障のつきはてた央掘摩羅が唱えるのであるから安産したというわけになる。要するに仏教では、一切の善も悪も、功徳も罪も、ことごとく自己に見るのである。遠方にはない。(『禅談』p.143-144)
2025.10.28

33「山本二峰先生小伝」47~54ページ明治35年2月、原料甘蔗運搬専用軽便軌道4マイルの工事竣工、更に39年末、30インチ軌幅の鉄道を布設、初めて機関車による運搬が開始されたが、その以前は、専ら牛車によりて運搬されたものである。 蒸気を用うる機械の運転に伴う原料の残滓は、ややもすれば牛車、手押しトロ運搬の能力を超え、時に甘蔗圧搾を停止するの結果、その搾殻であるバガスを直ちに燃料とする気缶よりの蒸気供給がとだえ、機械も回らず、糖汁の処理もできぬ始末に遭遇し、全社員動員をもって、補助燃料たる薪木運搬に当たねばならぬ事態が発生した。あるいは応急燃料としてセメント樽でも、社宅の垣根の板塀まで運び去る奇観を呈したこともあった。かかる場合において、山本氏支配人は、牛車やトロを後押しして、バガスの運搬をなし、炎天灼熱の日、汗と泥にまみれて工場の雑役にまで協力したものである。創始の際、事業艱難なりとはいえ、大会社の支配人たる氏が、身をもって事に当り、よく堅忍不抜なる気魄を示されたことは、天下の範として伝うべきであろう。 海路運搬は更に難事であった。最初製糖機械を輸入して、これを本島に陸揚げするに際し、風浪のため、船、打狗港(現在の高雄)に入るあたわず、あるいは澎湖島陰に避難し、あるいは神戸に引返し、何回となく神戸、打狗港間を往復したという実例もある。また船腹の問題もあった。当時内地台湾間は、大阪商船の独占するところ、運賃高く、条件厳しく、専横を極めたものである。後年山本氏が専務取締役時代、たまたまヨーロッパ大戦に遭遇し、船腹の不足、船賃の暴騰、その極に達せるとき、最後の打開策として船舶の建造を決行した。言うまでもなく、会社自身運送力の把握により、海運業者の独占的優位の鋒鋩をくじく積極的手段にして、果然勝利は攻勢をとるものの得るところであった。船舶建造の資本と、航路の経常費とを商量すれば、むしろ損失に帰するであろうとは、近視眼的批難の声に過ぎなかったのである。 次は衛生問題である。創業の際、飲料水その他の設備に欠陥多かりしため、「ペスト」流行し、台湾地方病たる「デング熱」「マラリヤ熱」も盛んに猛威をたくましくしうした。ことに「マラリヤ」に対する予防法今日のごとくならず、ために全職工が一斉に発熱し、工場作業一時停頓の状態を呈したが、決死的の意気に燃えていた職工は、病熱の間歇時間を各自交代作業するという悲壮なる工場風景を描出するにいたった。現地管掌の任に当たれる山本支配人は、工場緊急の対応策をとると同時に、専門医の招致、下水道の整備等、寝食を忘れるまで苦心されたのであった。 前述のごとく、機械の故障、原料供給難、海陸運搬の困難、土匪、風土病等の脅威により、第一期の生産額は全製造能力4万担に対し、わずかに18,000担、すなわちその半ばにも達せず、年5朱の配当をかろうじて実行したものの、それは6朱の補助金による配当にして、新興事業の前途、実に憂慮すべき状態であった。ここにおいて、山本支配人は熟慮の結果、先進国の製糖事業の実際を視察し、これによって新計画を樹立すべく決心した。そこで武智氏と相談の上、明治38年6月、技師日比孝一、草鹿砥祐吉、鈴木源吉の3名を帯同、ハワイ糖業視察の途に上った。 果然ハワイの新式工場は、その規模の宏大さ、設備の精巧さにおいて到底台湾のそれとは比較にならなかった。新式製糖機械の製作をホノルル鉄工場に依嘱し、その据付には練達なるアメリカ人技師を派遣することとなった。明治40年末落成を告げたる橋仔頭第二工場は、その建築において、設備と配置において、台湾新式工場建設に画期的模範をたれ、圧搾能力450米トンに及び、その後勃興せし台湾各製糖会社の多くはこれにならうようになった。 然るに当時これを目して精巧に失すとし、あるいは高価に過ぐとなし、阻がいと圧迫を加うるものあった。元来児玉総督及び後藤民政長官は、新式大工場主義を把持していたが、新渡戸稲造、堀宗一両氏のごときは従来の赤糖工場を機械化してゆく漸進主義を唱道し、牛馬によって動かす「オハイオ式」もしくは小規模気缶をもってする「ナイル式」等のものより次第に中間的なる改良糖廓に進み、それより当時10万円工場と称する新式小規模の工場が期待されていた。故に山本支配人の進取的大規模的なる措置と相いれず、むしろこれを過激視し、ついに支配人を東京に引き揚げしむるにしかずとする説が台頭し来たり、井上侯にまで申達するものあるに至った。これ海外先進国糖業の隆盛を招来せしは、実にこの新式大工場の賜なる事実を無視せる固陋の見解であった。山本支配人は一歩も主張をまげず、敢然としてこれに反対し、かつ井上侯に説きてその利害得失をつまびらかにし、借すに歳月をもってせば、必ず事実の上において立証すべしと断言した。 一方、総督府の態度いかん。総督府嘱託たる山田熈氏は、その主張たる新式工場主義による目論見書を殖産課長柳本通義氏の手を経て総督に提出したが、これに理解を持たぬ柳本氏は、目論見書を握りつぶしてしまったので、山田氏は直接後藤民政長官にその主張を説き、更に児玉総督に建言して、大いにその信任を得た。柳本氏及びその属僚は上司を無視したという山田氏に対する反感を、新式工場の上に波及せしめ、ついに山本支配人の主張する大規模的工場論をも白眼視するに至った。 しかも山田氏は積極論者ではあったが、その一徹なる性癖は、山本支配人のカンカンガクガクの直言と相いれず、時にその所説を貫かんとして激論することもあった。ついに山田氏は台湾製糖会社とも絶縁するにいたったのは惜しむべきであった。また 一方長官後藤氏の即興的性行と、山本氏の論理的風格との相違はひいてその管掌の任にあたる総督府と会社との疎隔を来さずには置かなかった。 いかなる難局に立つも、微動だもせぬのは、山本氏の精神力であった。事業達成の前途に横たわるあらゆる障害は、その迫力でことごとく圧倒しまったのである。 山本支配人の高卓なる識見と、果敢なる気魄とは、一時前途を危ぐせられたる製糖会社をして、九鼎大呂よりも重からしむる時期を招来した。大正9年、山本氏が専務取締役時代において、会社は資本金すでに6,300万円に達し、橋仔頭を首とし、阿?、後壁林、車路乾、鳳山、埔里社、台北、東港、旗尾、恒春、湾裡等到るところ壮大なる工場を有し、更に内地精製事業に着手し、神戸、福岡県下荒木村等に工場を建設し、今や台湾製糖のみにて生産年額300万担に達するに至った。 台湾製糖の特性として、牢記すべきことは、その最初の工場設計は全然我が国人の手になり、操業また他の新事業とその選を異にし、一切外国人の指導援助を受くることなく、終始邦人の手により推進発展をして来たことである。あるいはそのやめ、技術の練磨に多くの時間を費やしたかも知れぬが、独自貴重なる体験を積んで、咀嚼洗練せられて来た技術の力は、また偉大といわねばならぬ。 科学的方面における業績としては、工場設備の改良、原料甘蔗に対する改善、糖蜜より酒精の製造開始、技術員の指導養成等、幾多の成果を挙げているが、なかんずく、製糖工場の科学的管理法の創定は、糖業全体としての改良進歩に貢献せるところ甚大である。この科学的管理法の創定は、草鹿砥祐吉氏の苦心の研鑽の結果に係るもので、圧搾原料の重量と、その成分とを出発点とし、圧搾甘蔗の搾出汁の搾出歩合を計算し、搾出汁を分析してその糖分、酸分、転化糖分を測定して、原料甘蔗品質の優劣を比較し、清浄操作に要する石灰乳の適量を検覈し、製糖工程の適否を考査する等、科学的製糖技術改善の原理討究にあるのである。これによって、糖業刷新に寄与せるところ極めて多く、後一般にこれが効果を重要視さるるに至ったが、その当時はこれを閑人の余技視し、冷笑したものである。山本氏は、この科学的精神を尊重し、その分析成績に興味と理解とをたもち、これによる技術の進歩は、不屈の研究精神の賜なりとなし、常にこれが達成を激励支援し、しかも部下の失敗は自らその責に任じ、ゴウも譴責的口吻を漏らすことなく、懇ろに各自の自発的研究を奨励した。かくして集め得た技術の総力は、台湾糖業をして異彩を放つに至らしめたのである。 我が国殖民政策の綱領を体し、現地の資源に立脚して、あらゆる改善を加え、前途の難関を突破して、進取的大糖業の宏基を建設せるは実に鈴木、山本両氏の功績であり、ことに山本氏の終始一貫せる不屈の精神は、近時台頭し来たれる大陸政策に対し、貴重なる教訓と模範とを示すものである。 山本氏は、明治37年取締役に就任、38年常務取締役に、43年専務取締役に、その年更に糖業連合会長に就任、大正4年製糖事業の功労により、藍綬褒章を授与せられ、同14年会社社長に就任、昭和2年路を後進に開き社長を辞任した。<この項目終わり>
2025.10.28
194二宮翁夜話巻の3【24】尊徳先生がおっしゃった。「大学」に、「安んじて、しかしてのち、よく慮(おもんぱか)り、慮りて、しかしてのちよく得」とある。誠にそのとおりである。世人は大体苦しまぎれに、種々の事を思ひはかるために、皆成らないのである。安んじて、しかしてのちによく慮って、事をなすならば、過ちがないであろう。しかしてのちによく得るという。誠に妙である。【24】翁曰く、大学に、安んじて而して后能く慮り、慮りて而して后能く得、とあり、真に然るべし、世人は大体苦し紛れに、種々の事を思ひ謀る故に、皆成らざるなり、安んじて而して后に能く慮りて、事を為さば、過(あやま)ちなかるべし、而して后に能く得ると云へる、真に妙なり。
2025.10.28
秋田市長、県知事として20年以上にわたってこの難題に取り組んできた佐竹敬久前秋田県知事が、地方再生、さらには日本再生へ向けた大胆な持論佐竹氏「深刻なのは若者の流出。上京のパターンがね、昔と今とでは全然違うんだ。昔は集団就職で東京に行っても、単なる賃金の安い労働力として扱われて、地元と対して変わらない扱いだった。でも今は情報化と金融経済で、東京に行けば大企業の本社や待遇のいい会社がいっぱいあるでしょ。秋田にはそういうのがないわけだ。昔は大学に行く人は少なかったから、地元でそれなりの仕事に就いたけど、今じゃ男も女も大卒なのにそれに見合った仕事がない。そりゃ未来ある有望な若者は出てくよな」「金融や情報は、全部集中するんだよ。分散しないんだ。分散するのは農業経済くらいでね。アメリカとか広いところは、それなりに経済圏がいっぱいあっても成立するけど、日本は狭いからどんどん集中していっちゃう。あと、これはあまり誰も指摘したがらないけど、農業の近代化にも原因はある。最新のAIを積んだトラクターなんか、20町歩(20平方メートル、東京ドーム約4個分)を1人でやれるんだから、大規模化すると、農村部からはどんどん人がいなくなる。こればっかりはしょうがないんだ」「上方婚も一因。女性は自分と同等か、格上の男と結婚したいわけだ。学歴、仕事、待遇、給料とかね。秋田は女子の進学率が高いんだ。進学して、短大とか4年制大学に行く。ところが地元に残った男はそこまで学歴も収入も高くない。これじゃあ釣り合わないとなるわけだ。実際、秋田の名士と呼ばれるとこのお嬢さんなんか、ほとんど独身。製造業があっても現場だけで、研究開発とかの幹部社員がいないんだから。 ただ、確かに婚姻率は低いんだけど、秋田では結婚した夫婦の子どもの数はそう少なくない。住宅事情もあるんだろうが、合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの平均数)は実は東京の方が低いんだよ。問題はどう結婚まで持っていくか。農家の嫁も人気がないけど、大規模法人化した農業法人は別。週休2日で、時間外もないし、年次有給休暇もいっぱいある。大事なのは名刺を持つこと。営業部長とか、事業部長とか、生産課長とか、名刺を持てばちゃんとした会社だと女性は本気になるんだよ」「産業構造的に、日本はどんどん欧米先進国から遅れていて、かつて日本がナンバーワンだった技術とか、何もかもが追い抜かれていってる。問題は日本には投資の習慣がないこと。単なる株式投資じゃなく、新技術に対するベンチャー投資。海外では超富裕層が、個人でベンチャーキャピタルにかなりの額を出資してる。仲のいい台湾の前経団連会長なんか、ポケットマネーで年間何十億円も出してるよ。そこで金が回って経済が成長するんだ。 ところが日本は相続税が高いから、企業は金を持ってても、個人の金持ちがいない。地方の中小企業は、頑張っても社長の年収が3000万円ぐらいでしょ。それが半分以上持っていかれるから、中小企業が大企業になれない。相続税が最高で55%なんて、そんな国世界中探したってないよ。台湾は10~15%、欧米だって最高20%ぐらい。金持ちはずるいっていう、日本人の変な平等意識がね。日本は世界最大の社会主義国家なんだよ」「国がオールジャパンで考えなきゃいけない。クマも人も、全部が地方だけの問題じゃないんだ」
2025.10.27
日本で中国産米が販売されていることおよび日本のネットユーザーの反応に、中国のSNS上でも反響が寄せられているQ 仮に不足感が出て、去年と同じようなことが仮に起きることもあるかと思うのですけれども、少しバッファを持たせて調整するなど、そういった考えがあるのかお聞かせください。鈴木農水相 今おっしゃったご指摘は、本当に全くそのとおりだと私自身も思っていまして、様々な今後天候リスクも含めてあるというふうに思っておりますから、そうしたことも考えて、全体で皆さんに、これは生産現場の皆さんと、また消費者の皆さんのこともしっかりと考えて、どの水準が我々として、需給のバランスを保つ、そしてまたそれが、安定的な価格になるという意味で適切なのかということで判断をさせていただいて、今後食糧部会、お諮りをさせていただきたいというふうに思います。Q お米券の配付などの考えも示されていますが、価格にコミットしないという承知をした上で、生産者のためにも、再生産可能な価格というところで、ある程度米の高値を保ったほうがいいという考えでしょうか。鈴木農水相 消費者と言っても、様々な消費者がいますから、様々な立場の皆さんで、そこの価格帯を受け入れていただけるかどうかということも考えなければならないと思いますので、その範囲内の中で、最後はマーケットで決まっていくと思いますし、そこに対して国の責任は、やはり需給の安定。足りないという事態だけは起こさないように努めていくということが大事かと思います。Q 今後増産方向に行くのか、主食用米の減産も含めて調整する方向に行くのか、改めてですけれども大臣の考えをお聞かせください。2030年の生産量、これを791万トンから818万トンに増大をさせるという基本計画の目標の下で、「需要に応じた生産」を進めるというこれまでの方針に変わりはありません。なので、そういう意味で言えば、今の水準よりも減るということではなくて、増えていくということになろうかというふうに思います。私は就任会見でも申し上げましたが、生産者の皆さんから見て、安心して先の見通せる農政を実現をすることが重要であるというふうに考えております。〇JAグループの米卸会社が精米して販売した「滋賀こしひかり」について、「10粒の検体のうち6粒が中国産」と判別されたのです。さらに、「新潟県魚沼産こしひかり」は「10粒中4粒が中国産。残りの6粒も魚沼産コシヒカリではなく、他府県産である可能性が高い」、「京都丹後こしひかり」は「10粒中3粒が中国産」、「新潟産こしひかり」は「10粒中10粒が国産と判別された」という結果でした。この機械の判別精度は92.8%という事です。💛鈴木農水相は「貧乏人はアメリカ米、中国米を食べろ」と言うのかな
2025.10.27
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その8 若い時分のわたしを子どもが見ると、泣きよった。そのころは、むずかしい顔をして、ウンとシャチコばって、力みかえっていたのだから、よほど恐ろしく見えたに違いない。それがこのごろでは、わたしがやさしゅうなったと見えて、赤ん坊でも飛びついてくる。汽車に乗っていると五つ六つの子どもが向こうからようわたしをあやしにくる。いい爺さんに見えるらしい。花咲か爺さんぐらいに見えるかもしれない。 世の中は妙なもので、向こうがやさしゅうしておれば、こちらもやさしゅうなっておる。向こうがすねればこっちもすねる。にらみつければにらんで返す。ホンにお前は鏡の影よというわけである。 ここのところが宝鏡三昧である。だから坐禅ということは、宝鏡三昧ともいえるのである。 わたしの若い時、といっても37,8のころだが、そこから10年そこそこというものは、好景気時代からひき続いて思想問題がやかましくなり、デモクラシーというような我々の食うたこともない妙な名前の思想、ヤレ何何思想、何何思想と沢山な思想が起こって、赤の思想までとびだした。わたしも高等学校や帝大の生徒と永い間つきあっていたために、いろいろな思想にぶつかってきた。 そのころの学生はよう理屈をいいよった。いまはその連中も大部分東京にいるんだが、若い時分にはわたしも身体が良かったから、向こうが歩けばこちらも歩く、坐禅するなら坐禅でこい、しゃべるんならしゃべるんでこいという調子で、夜通し議論することも始終あった。向こうもいろいろな本を読んではぶつかってくる。 向こうは最初から既成仏教というものをありがたがらんのだし、坊さんというものの内容を知らんのだ。仏教を求めて来るのじゃないし、こちらも坊主根性でゆくわけじゃない。いわば素っ裸の取り組みだ。わたしのいうことにひとつでも落ち度があると、その言葉尻をつかまえて議論しにきよる。自分に少しでも、つきものがあるとそれをすり落しにきよる。しかし非常に愉快であった。 それだから、自分というものを既成させない、堕落させない、大人にさせない、一生求めて進んでゆく。若い気持ちで一生送るのは、そういう腕白書生を相手にするに限ると思った。わたしはこんなことして熊本にずっとおったのですが、つまりそれで回光返照する機会が非常に多かった。なんぞあれば、すり落しにくるんですから、たまらない。とにかく一切を自己の内面に見るのである。仏教でいう三界唯一心というのはそれである。 (『禅談』p.141-143)
2025.10.27

33 「山本二峰先生小伝」 41~45ページ 創立総会において、選挙の結果、取締役に鈴木藤三郎、益田孝、陳中和、田島信夫、武智直道の諸氏、監査役に長尾三十郎、上田安三郎、岡本貞烋の諸氏が推され、山本氏は支配人として現場を総管することとなった。社長に鈴木氏、常務には武智氏が就任した。資本金100万円、第1期払込50万円、この50万円に対する年6朱の補助金が、34年以降5か年間、損益いかんにかかわらず、総督府より下付せらるることとなった。橋仔頭工場は、明治34年2月起工、10月に竣工した。その設計は鈴木氏が、精製糖製造に関する経験に基づき、ロック及びニューランド共著の「砂糖」を専門家に訳させ、その書中にある一小設計図を参考としたものであった。諸機械は北海道紋鼈製糖所にて使用せるフランス国製蒸発缶、結晶缶、真空ポンプ、及び操業に至らずして倒れたる八重山糖業会社の英国製5転子圧搾機、大阪汽車会社の製煙管式気缶等の諸古機械に、新たに台湾製糖会社より注文せる英国製5転子圧搾機、三重蒸発缶、結晶缶、分蜜缶、石川島造船所製汽缶、鈴木鉄工部製デフエケーター、フィルタープレックス、タンク等を按排してできあがったものであった。工場竣工と同時に、12月試運転を行ったが、故障百出、幾回も手直しをなし、また実地にこれを試み、ほぼ作業可能の見込みがついたので、明治35年1月15日に始めて実際の作業を開始するを得た。同年5月に第1回製糖工程を修了、その日数百三十一日、製糖額18,502担(約1,850,200斤)、その歩合は、4.32%(すなわち1,000斤の甘蔗を圧搾して43斤2分の砂糖を得ることになる。現今においては、平均130~40斤、最高150斤余の砂糖を得)であった。いかにもその作業の困難にして、技術の不十分なりしかがうかがわれる。然れどもここに至るまでの苦心は実に想像以上であった。作業の困難、技術の未熟に加うるに、原料たる甘蔗の供給難と運搬難、及び土匪賊襲来の脅威、風土病の蔓延等あらゆる障害が新興事業の上に加えられた。山本氏が毅然としてこの苦難の中に立ち、全従業員を統率し、昼夜を分かぬ努力と不屈の精神とは、他日糖業史上に不朽の業績と耀かすに至ったのである。 明治31年(1898)、児玉総督が乃木総督に代り、後藤新平氏が、曾根荒助氏の民政長官を継ぐや、従来の方針をかえて、土匪招降の策を採り、匪徒の投降に対して概ねその請を容れ、努めて寛大の措置をなし、自発的に皇化に帰順するように奨励するところがあった。然るに彼らはこれを目して、かえって己を怖るるがためなりと推断し、ついに総督府の政令を軽んじて盗殺をほしいままにし、既に帰順を匪徒にして誓約に背くもの、踵(きびす)を接して起るにいたった。幸にして33年、匪魁林大旺、簡大獅の徒を死刑に処し、残党また一網打尽、芟除(さんじょ)せらるるに及び、台北一帯の地、ようやく平穏に帰するを得た。然るに中部及び南部の地は、依然として匪徒の出没跳梁はなはだしく、第二師団所属の一隊は、遠く雲林地方に出で、討伐25日に及んだが、匪徒往々意外の地に起り、台中嘉義の襲撃相続くに至り、総督府は終に意を決して土匪掃蕩の強攻策をとり、令を嘉義、塩水港、台南、鳳山、阿?(今の屏東)、蕃薯寮(今の旗山)の諸警察に下し、協力呼応して山野に土匪を捜索せしめ、軍隊及び憲兵を派して、総攻撃を開始し、放弄山の塞を抜き、黄茂松等40人余の巨魁を誅殺し、四隣ようやく静謐に帰するに至った。 糖業中心地たる台湾製糖会社付近一帯の地は、匪徒の跋扈区域で、会社はあたかもその巣窟に囲繞(いにょう)せられているの観があった。周囲の匪賊中には、林少猫のごとき音に聞えた獰猛なる首魁あり。たまたま土匪の頭目が職工に化けて工場に入り込んだくらい、危険千万であった。彼らは襲撃の常套手段として、夜陰牛車に枯草を積み、ひそかにひき来りて、これを建物の側面に接して火を放ち、混乱に乗じ殺傷掠奪をほしいままにするのである。鈴木社長と山本支配人とは合議の上、5万円を投じて、煉瓦造りの洋館を建て、放火に備えるとと同時に、児女避難の収容所を設け、階上露台とベランダには銃眼を作って応戦に備えた。かつて児玉総督が視察の際これを見て、「元来銃眼は外方が狭く、内が開いているものである。この銃眼は外が開いて内が狭い。宛然外弾を受入れるようにできている」と哄笑したという逸話もある。ある時は土匪800名襲来しつつありとの情報が飛び、急遽会社より児玉総督に注進、総督指令下に一個小隊70名の兵士が分遣駐屯され、別に社員30名の壮丁団を結成し、銃30挺の貸下を受け、都合100名の戦闘員が常屯することとなった。この際、山本支配人も鉄砲をにないで、駐在将校から訓練を受くる一人であった。 本島の製糖事業創始の時代には、風土病の脅威以外にかかる苦難が前に横たわっていたのである。 土人は従来糖廓経営においては、その慣習として原料甘蔗を売るということがなかったから、会社がその甘蔗を買収するに際し、価格の標準が立たなかった。そこで支配人は土人経営の糖廓を歴訪し、糖価、製造者、収入、生産費等については子細に調査し逆算で、およそ原料価格いかんと割り出さねばならなかった。この手数を経て、だいたいにおいて正鵠を得た標準が定まったのである。 然し土人側は古来の習慣にしたがい、自ら製造するを安易かつ有利なりとなし、容易に買収に応じないのみか、頑として交渉を拒否する強硬分子もあり、買収の苦慮実に名状すべからざるものがあった。それで総督府にては、警察の手により、頑冥なる拒否者を説得する手段を講ずるにいたったのである。 会社は原料の買収のみに満足するものではなかった。会社自体の基礎を固くするには、買収は勿論、自ら進んで土地を所有することが甘蔗供給難解消の根本方策たるのみならず、品種改良の実際問題よりするも必要欠くべからざることであり、第一にその実行へ邁進したのが山本支配人その人であった。井上侯の炯眼、また早くからこの土地所有説を強調されたが、益田氏のごときは反対の意見であり、当時はむしろ土地所有を冒険なりとする説が多かったのである。それは原料甘蔗を補う方法として可なるも、原料費が買収よりも遙かに高く、かつ土地所有に要する多額の資本固定の不利をいかにするかという意見であった。 然し山本支配人は、強硬にこれを押し切った。会社の死命を制する原料甘蔗の自給性なくんば、いかにして将来の発展を策しうるであろう。採取区域を独断的に決定し、それに信頼するも、それは何時、いかなる事情により変化するや予測をゆるさず。また常に買収価格による掣肘を受け、更に進んで原料買収を拒否する場合を想定せば、まことに寒心にたえず。この根本政策の遂行は、断じて逡巡すべからざるものとなし、その所信に邁進したのであった。後年濁水渓より下、淡水渓間に展開する糖業中心地帯の大半を、台湾製糖会社の勢力下に置き、広大なる沃野を所有地とせる素因を作れるもの実に山本支配人の偉功といわねばならぬ。
2025.10.27
<ワールドシリーズ:ブルージェイズ1-5ドジャース>◇第2戦◇25日(日本時間26日)◇ロジャーズセンター元ヤンキースのデレク・ジーター氏(51)が米放送局「FOX」で、想像を超えた山本由伸投手(27)のピッチングに“謝罪”した。山本は1回無死一、三塁のピンチを切り抜けると、2回も先頭打者の出塁を許しながら無失点。3回に死球から招いたピンチで失点したが、4回以降は1人の走者も出さないパーフェクトピッチングで、2試合連続の完投勝利を飾った。9回を105球、4安打1死球1失点8奪三振の内容。PSでの連続完投は、01年のカート・シリング(ダイヤモンドバックス)以来24年ぶり、ドジャースのワールドシリーズ(WS)での完投は、88年のオーレル・ハーシュハイザー氏以来37年ぶりとなった。山本は初回に23球を投じる立ち上がりも、終わってみれば完投勝利。ジーター氏は「まず、私が間違っていたと認めたい。完全な間違いだった。ヤマモトは素晴らしい投手だけど、トロントに完投できるはずがないと思っていた。初回に23球も投げたが、9イニングを投げきった。トロント相手に完投できると思った人なんていますか? 絶好調なチームに完投したんだ。WS史上でも最高レベルのピッチングだ」と語った。〇熱狂的な地元ブルージェイズのファンも沈黙を余儀なくされた。その様子を象徴するような動画を米メディア『FOXスポーツ』の公式Xが掲載。8回裏、4点差を追うブルージェイズながら山本に封じ込まれ、あっさり2アウトとなる。その瞬間、スタンドでふたりのファンが腕を組んで呆然とした表情を浮かべるシーンを紹介し、「ブルージェイズのファンにとって、ここまでは楽しい夜ではない」とのキャプションをつけた。ブルージェイズのファンにとって、ここまでは楽しい夜ではない
2025.10.27
“大逆転劇”城西大 25年ぶり3度目の優勝!アンカー金子が1分17秒を大逆転、1区から3区間で区間新記録 【全日本大学女子駅伝】10/26(日) ■第43回全日本大学女子駅伝対校選手権大会(26日、宮城・仙台、全6区間・38km )“全日本・富士山”と大学女子駅伝の2大大会の一つ、全日本大学女子駅伝対校選手権大会が宮城県・仙台市で行われ、城西大学が2000年以来、25年ぶり3度目の優勝を果たした。1区・本間香(1年)、2区・兼子心晴(4年)、3区・大西由菜(1年)が3区間連続区間新記録をマーク。5区で3位まで順位を落としたが、アンカーの金子陽向(4年)が1分17秒差を大逆転する劇的優勝となった。関東の大学が優勝するのは2002年の筑波大学以来、23年ぶりとなった。気温15.5℃、やや肌寒く雨模様となった仙台、レース展開の鍵を握る1区(6.6 ㎞)、流れを使い見たい立命館は太田咲雪(3年)を起用、注目の大東文化、城西、名城はルーキーの1年生となった。最初の1㎞は名城・細見芽生(1年)、城西・本間香(1年)とルーキーがレースを引っ張っていった。3㎞過ぎでペースが上がると先頭集団は10チーム、立命館の太田はしっかり付いていった。5㎞付近でここまで引っ張って来た名城・細見が苦しい表情を見せて付いていけなかった。6㎞で先頭は10月の関東大学女子駅伝でデビューで5区で区間新記録と急成長した城西・本間、立命館・太田はその後ろとなった。最後まで城西・本間のスピードは落ちずに区間新記録の21分04秒、城西が25年ぶりに1区をトップでのタスキリレーとなった。立命館が2秒差の2位、大東文化は11秒差で5位、名城は8位。スピード勝負となった1区は6人が区間新記録となった。1年生で好記録をマークした本間は「プレッシャーと緊張が力になった」とホッとした表情を見せた。最短区間の2区(4.0km)、トップの城西は10月の関東大学女子駅伝で2区区間新をマークした兼子心晴(4年)、最初の1㎞で2位・立命館・佐藤ゆあ(1年)との差を付けていった。兼子は12分38秒の区間新記録、城西は2区間で区間新記録とトップをキープ、2位には27秒差で立命館、3位に福岡大、後半に2大エースが控えている大東文化は4位でトップと44秒差。3区(5.8km)、“女王”立命館は去年2区で区間賞の山本釉未(2年)、それでも城西のルーキー・大西由菜(1年)は4㎞手前で徐々に山本との差を開いていった。城西は前半3区間で圧倒的な走り、大西は独走状態でもレースが落ちず、ここでも1年生が18分33秒で区間新をマーク。城西が3区間連続区間新記録でトップを独走。2位には28秒差で東北福祉大、3位は29秒差で立命館、4位は名城、5位は大東文化となった。3区も6人が区間新とハイレベルな戦いとなった。4区(4.8km)、城西の石川苺(3年)は独走状態とキープ、連覇を狙う立命館は3位でタスキを受けた森安桃風(2年)が4位の名城・石松愛朱加(4年)に抜かれると、5位の大東文化・平尾暁絵(3年)に抜かれて苦しい展開となった。城西の石川はトップで5区・本澤美桜(2年)にタスキリレー、2位の東北福祉の早坂優(2年)も好走し、20秒差の2位で5区に。3位は名城、4位に1分15秒差で大東文化のS.ワンジル(3年)がスタートした。最長区間の5区(9.2km)、1.4㎞付近でトップ・城西の本澤と2位東北福祉の村山愛美沙(3年)の差は11秒とタスキを受けた時点から9秒縮まった。4位の大東文化・ワンジルは6月のインカレで5000m・10000mと大会新で二冠と圧倒的なスピードを誇る。タスキを受けて1.7㎞付近で26秒差あった3位の名城・橋本和叶(1年)を抜き去った。中間地点でトップは城西、2位には東北福祉、3位には18秒差で大東文化、5㎞で大東文化のワンジルは2位の東北福祉の村山を捉えると、すぐに1位の城西の本澤もあっという間に抜き去って逆転トップ。その後もスピードは落ちずに差を広げていった。大東文化は史上初めてトップでアンカーにタスキが渡った。ワンジルは28分25秒と歴代2位のタイムで2位の東北福祉には48秒差を付けた。アンカー区間の6区(7.6km)、大東文化は7月のワールドユニバーシティゲームズ女子ハーフマラソンで銅メダルを手にした野田真理耶(3年)、沿道の声援には笑顔を見せるなど冷静な走り、4.7㎞付近では2位に浮上した城西の金子陽向(4年)とは38秒差。残り1㎞で城西の金子が大東文化の野田を捉えて、1分17秒差を逆転、金子が圧巻の走りを見せた。最後の最後までデッドヒートとなり、競技場に入って逃げる金子、チームメイトの待つゴールテープを笑顔で切った。16秒届かなかった大東文化は11度目の2位、まとも悲願達成とは行かなかった。【第43回全日本大学女子駅伝対校選手権大会 上位10チーム結果】優勝:城西大2位:大東文化大3位:名城大4位:東北福祉大5位:立命館大6位:大阪学院大7位:筑波大8位:福岡大********シード権獲得9位:順天堂大10位:日本体育大
2025.10.27
鈴木・新農水相が意欲の「おこめ券」…どのような仕組みに?10/24(金) 高市首相が閣僚らに新たな経済対策の策定を指示する中、鈴木農林水産相は、コメの価格高騰への対応として、「おこめ券」の導入に強い意欲を示している。しかし、ネット上では「また子育て世帯と高齢者にだけばら撒(ま)くのか」など、一部批判の声もあがる。鈴木農水相は24日、改めて発言の真意を説明した。高市新内閣で“コメ担当大臣”に起用された鈴木憲和農水相は、就任にあわせた22日の記者会見で、高止まりが続くコメ価格への対応として、「おこめ券」の配布なども含め、広く検討していく考えを示していた。これまで政府はコメ価格高騰への対応として、「政府備蓄米の放出」という手段を取ってきたが、23日に行われた日本テレビなどによるインタビューの中でも、「おこめ券」などの方が「スピーディーだ」と強調。「おこめ券」の導入に意欲を示した。そもそも鈴木農水相は就任前から、コメ価格の高騰には「おこめ券」の配布で対応すべきで、小泉前農水相が進めた「政府備蓄米の放出」については、「むやみやたらに小手先で備蓄を運用すべきでない」と反対していた。23日の閣議のあとの会見でも、「備蓄米放出のあり方」をめぐり、「(コメの)量が足りていなければ売り渡す。量が足りていれば売り渡さない。これが私としての基本的な考え方」と強調。“価格を下げるため”の「政府備蓄米放出」には否定的な考えを示した。ある政府関係者は、「鈴木農水相は元々、小泉前農水相とは“備蓄米放出への考え方”が違う。現在もその主張は変わっていないということだ」と述べている。ただ、鈴木農水相が「おこめ券」の導入に意欲的だとのニュースが流れると、ネット上では、「価格には介入せずにおこめ券で対応するのは正しい判断」と歓迎する声もあがった一方、「また子育て世帯と高齢者にだけばら撒くのか」「ふざけたアイデア」など批判的な投稿も見られるようになった。こうした中、鈴木農水相は、24日朝の閣議のあとの会見で発言の真意を説明。「必要な地域において、すでに『重点支援(地方)交付金』で対応しているところもあるわけなので、そうした地域をこれからも、物価高騰対策の中で後押ししていくという趣旨だ」と述べた。鈴木農水相が言及した「重点支援地方交付金」は、2023年度に始まったもの。地方公共団体が行う地域の実情にあった物価高対策を支援するための交付金となっている。鈴木農水相は24日朝、「おこめ券」も、この「重点支援地方交付金」の枠組みで対応する考えだと強調。ある政府関係者も、「農水省としてやれるのは、自治体に対して“こんな風に使えるよ”と提示すること。農水省が新しい予算を整備して全国に券を配ることなどできない」と説明した。この「交付金」を使った物価高騰対策では、例えば大阪府はいまも、“お米クーポン”を配布している。鈴木農水相はこの「交付金」の範囲内で、「おこめ券」の導入など、自治体が行う物価高騰対策を後押ししたい考えだ。ただ、ある政府関係者は、「『重点支援地方交付金』では、国が自治体に対する強制力を持てないので、本当にコメを消費者に満遍なく届けたいなら適していないのでは」と指摘している。一方、別の政府関係者は、「大臣があそこまでやる気だと、今後、枠組みがどうなるかわからない」とも話す。「重点支援地方交付金」の中には、国が地方自治体に対して活用方法として推奨する「メニュー」というものがある。現在だと、「電気・ガス支援」や「学校給食費への支援」などがあり、「メニュー」に明記されている事例は、国が地方に対して「どのように交付金を使ってほしいか」という“メッセージ”ともいえる。今後、「おこめ券」が「メニュー」の中に明記されるか、がひとつの論点となりそうだ。宇都宮大学農学部の松平尚也助教授「生産現場あるいは自民党農水族の主張と近い方針を出しているかな、と。買う現場よりも作る現場に近い発言を繰り返している現状ではありますね。価格の高騰対策については後退するんじゃないかと指摘されています」「説明不足の感があります」柳澤秀夫氏「高いお米を買うときの足しにはあると思いますが、おこめ券で米の値段が下がるわけではない。高止まりしてしまうと誰しもが思うことだと思います。根本的な解決のメドは見えてこないと思うんです。丁寧な説明がまだまだ求められる」💛幽霊の正体見たり枯尾花
2025.10.27
194二宮翁夜話巻の3【23】尊徳先生はおっしゃった。儒教で大極と無極という論がある。思慮が及ぶのを大極といい、思慮の及ばないのを無極といっただけだ。思慮が及ばないからといって、無いというわけではない。遠海に波がなく、遠山に木がないようだが、無いわけではない。自分の眼力が及ばないのと同じことだ。【23】翁曰く、儒に大極無極の論あれど、思慮の及ぶを大極と云ひ、思慮の及ばざるを無極と云へるのみ、思慮及ばずとて、無と云ふべからず、遠海波なし遠山木なしと云へど、無きにあらず、我が眼力の及ばざるなり、是れに同じ。
2025.10.27
ドジャース投手コーチ「彼の準備へのこだわりの結果だ」 200投球回を超えた山本由伸の強さの理由2025/10/2昨年10月26日(日本時間27日)のワールドシリーズ第2戦で7回途中1失点で勝利投手となり、世界一に貢献した。今年も同じように第2戦でも流れを呼び込む熱投。日本投手でワールドシリーズで勝利したのは07年の松坂大輔(レッドソックス)と、山本由伸のみ。日本投手初のWSでの複数勝利となった。 ベンチでは、ノートにメモを取る山本に対し、マーク・プライアー投手コーチが横に座って綿密な打ち合わせも行う場面が毎イニング続いた。山本との打ち合わせについて「特別な話し合いはなかった。イニングごとに少し会話はしたけど、“調子はどう?”“うん、大丈夫”という簡単なやりとりだけ。6回あたりからはそんな感じだった。だから、特別に“行けるか?”みたいな会話はなかった」と語った。プライアー投手コーチ「彼がこれほどのパフォーマンスを維持できているのは、まさに“自分の身体を大切に扱っている”からなんだ。彼は本当に時間をかけて自分の身体をケアし、準備を整えている。そのトレーニング方法は、おそらく他の選手たちとは少し違う。とにかく、彼は自分の身体をきちんと管理して、常にベストな状態に保とうとしている。去年は肩の問題があったけれど、今年は一度もペースを崩さず、シーズンを通してずっとフレッシュな状態を保っている。それは本当に彼自身の努力と、準備へのこだわりの結果だ。身体的な面でここまでやり続けるのは簡単なことじゃない。だって、もう34試合も先発しているんだ。それなのに、ここ最近がむしろシーズンで一番いい投球をしている。これは本当に見事だよ」 「今はどの球種も感触が良く、全体の精度も非常に高いレベルにある。だからといって簡単になったわけではないけれど、状況に応じていろいろなことを試せる余裕ができている。シーズンを通して34試合も先発すれば、意識的にも無意識的にもたくさんのことを学ぶ。自分自身のことも、相手チームのこともね。相手チームがどういう“攻略プラン”を立ててくるか――待て、積極的に打て、など、いくつものパターンを見てきた。だから、今年は昨年には得られなかったような情報や経験をたくさん吸収している。それが今、彼の投球にすべて生かされているんだ」プライアー投手コーチは山本の進化についてこう語る。「今はもうメジャーの全チームを相手に投げて打者を熟知している。相手打者がどんなタイプで、どんなアプローチをしてくるのかを理解している。そうした経験の積み重ねが、彼の自信をさらに高めていると思う」3回途中から 20打者連続アウトにとった。試合中、何か変化はあったのかー。「20人連続? それはすごい(笑)。特に何かを変えたわけではない。ここ2か月半ほど、どんな試合展開でもプロセスを崩さず、一貫して取り組んでいる。失点しても、3者三振を取っても、それは変わらない」「彼は同じ投手でありながら、打者には別の顔を見せられる。これがすごく重要。毎試合すべての球種が完璧に機能するわけではないし、それをやり続けるのは簡単ではない。2試合連続で、あれほどの強豪にあの内容を見せたのは本当に驚異的」
2025.10.26
クマ被害相次ぐ秋田県知事、自衛隊派遣の検討を要望へ…人身被害54人超「現場の疲弊も限界」10/26(日)クマによる人身被害が相次いでいることを受け、秋田県の鈴木健太知事は26日、防衛省に自衛隊派遣の検討を要望する考えを明らかにした。今週にも同省を訪問する方向で調整しているという。自身のインスタグラムで、「もはや県と市町村のみで対応できる範囲を超えており、現場の疲弊も限界を迎えつつある」 鈴木知事は、クマを駆除するための自衛隊出動を明確に想定した法令は存在しないとした上で、「通常の災害派遣のように簡単にはいかない」とも記した。 同県内では人身被害が後を絶たず、住民の生活が脅かされる事態が続いている。 26日も鹿角市の民家敷地内で、大根を水洗いしていた住人の農業女性(85)が、体長約1・2メートルのクマに背後から襲われ、頭にけがを負った。人身被害は3日連続となった。 同県警によると、今年の人身被害は26日現在で54人となり、昨年1年間の11人を大幅に上回っている。北秋田市の障害者施設では入居者の女性(73)、東成瀬村では男性(38)がそれぞれクマに襲われて死亡している。 県によると、今年1月から今月26日までの目撃件数は8044件で、昨年1年間の約6倍となっている。9月は857件だったのが、10月は4154件と急増。秋田市のJR秋田駅から約600メートルの千秋公園では25~26日、体長1メートルほどのクマの目撃が相次ぎ、市が公園の利用を一時中止した。部活動帰りで近くを通った秋田市の高校1年杉山奏さん(16)は「駅前の公園までクマが出るのは怖い」と話した。 一方、富山県南砺市では26日午前10時15分頃、親戚宅の庭で柿の実を採っていた女性(75)が、右腕と右側の頭部をかまれて病院に搬送された。命に別条はないという。
2025.10.26
「463億円の男にドジャースは言葉を失う」山本由伸、105球圧巻完投に米重鎮感服 極上の“20人連続斬り”に敬意「99年間で2人目だ」10/26(日)米全国紙『USA TODAY』を代表する重鎮記者でMLBに精通するボブ・ナイチンゲール氏「ヨシノブ・ヤマモトはどうやったら、こんな快挙を成し遂げられるのか? ドジャースは3億2500万ドル(約463億円)の男に言葉を失う」ナイチンゲール氏によると、ワールドシリーズの大舞台で20人連続アウトに打ち取ったのは1956年のドン・ラーセン(完全試合)以来。「ヤマモトは99年間でわずか2人目の快挙を飾った」同氏は試合後、複数のドジャース戦士らに取材。山本の快投についてドジャース一筋18年目のクレイトン・カーショウは「ヨシを形容する言葉は足りないよ。複数の先発で110球未満の完投なんて驚異的だ」と称賛。3度のサイ・ヤング賞左腕も圧巻のピッチングに舌を巻いた。 一塁を守ったフレディ・フリーマンは「ヨシの投球スタイルは完璧だ。無駄な動きがなく、非常に効率的だった」とコメント。デーブ・ロバーツ監督も「今日のヨシは140球でも投げられただろう。先発投手が6、7、8回、そして9回まで投げられるのは素晴らしい」と最後まで絶賛し続けた。 一方、敗れたブルージェイズ側も山本の圧倒的な投球に脱帽だった。1番のスプリンガーは「ヤマモトは信じられないほど、すごかった。エリート選手が素晴らしい内容で試合を支配した」と語り、攻略するには至難の業だったと振り返った。 山本は今ポストシーズンで3勝1敗、防御率1.57とズバ抜けた成績を残している。ナイチンゲール氏は「3億2500万ドルの契約に見合う、いやそれ以上の価値ある働きを見せてくれた」と綴り、ワールドシリーズで異彩を放つ山本の姿に感服して記事を締めくくった。
2025.10.26
山本はグラウンド上のインタビューを終えると、自身が飲んだとみられるペットボトル4本をわしづかみ。ゴミ箱に放り込むと、さらに自身のバック付近からもう一本を片付け、周囲を確認してベンチ裏へと入った。ベン・バーランダー氏はSNSに写真を添え、「山本由伸はポストシーズン2試合連続完投を達成し、ダッグアウトのゴミを片付けてからクラブハウスへ向かった」米ファン「彼は本当に日本人らしい。アメリカ人が学ぶべき日本の社会慣習ですね」「スタジアムは神聖な場所。日本ではゴミを捨てたり唾を吐いたりするのは、競技やフィールドに対して失礼とみなされる」「日本の精神は本当に素晴らしい」「日本では後片付けをするのはマナー」「彼は文字通りトロントを綺麗にした!」
2025.10.26
「これが野球の戻るべき姿の兆しかもしれない」――山本由伸の2連続完投をカーショーも称える10/26(日) クレイトン・カーショー「本当に凄かった。特に1回のピンチを切り抜けたところ。無死一、三塁でブラディ(ゲレロ)を迎えて、あの状況を自分でうまくしのいだ。その後も球数を抑えながら投げ続けた。2回にもエラーがあったし、最初の3イニングはずっとランナーを背負っていたのに、全部切り抜けた。つまり彼は今夜、全てをやってのけたんだ。しかも相手は打撃力のあるチームだから本当に素晴らしかった」山本の良さは「本当に美しい」フォームにあるという。「あの投げ方は完璧だ。無駄な動きが一切なく効率的。そして何でもできる。最初は速球、カーブ、スプリットだけだったのが、今ではシンカー、カッター、スライダーも投げる。つまり、6種類の球種をコマンドして使い分けている」と説明。連敗できない状況で白熱の投手戦に勝った10歳下の右腕を「確かにメジャーではまだ若いけれど、もう7~8年プロとしてやってきているし、日本で3回も最多勝を取っている。だからこういう舞台に慣れている。どんな状況でも動じない。今年は昨年とはまったく別次元だ。本当に凄い」現代野球における「完投」を問われると「時代の流れが違うだけだ。9回まで投げられる力を持っている投手は多い。でも今は優秀な救援陣が控えているし、打者が3巡、4巡するタイミングで違うタイプを見せるのも戦略の一部。ただ、今の山本のような状態であれば150球でも投げられると思う」ポストシーズン(PS)で2試合連続完投をまた見られると思ったか「全く思わなかった。でも、これが“野球が戻るべき姿”の兆しかもしれない。先発同士の真っ向勝負、試合終盤まで投げ合う姿はいつだって魅力的だ。今回の山本のピッチングが将来へのヒントになるかもしれない。そう願っている」
2025.10.26
日ASEAN「法の支配」を強調 首相、初外遊で「自由で開かれたインド太平洋」実現訴え10/26(日) 高市早苗首相は26日、就任後初の外国訪問先のマレーシアで、東南アジア諸国連合(ASEAN)との首脳会議に臨んだ。会議では「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の実現を目指し、「法の支配に基づく国際秩序」の重要性を強調した共同声明を採択した。首相は、ASEAN加盟国の首脳らとも個別に会談し、信頼関係の構築に努めた。首相はASEANとの首脳会議冒頭、「これまでの協力を一層発展させ、ともに強く、豊かになるための取り組みを進めていく。ASEANとともにインド太平洋地域の平和、安定、繁栄を守り抜いていきたい」と述べた。共同声明は、ASEANが提唱する構想「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」とFOIPの結びつきを強めるため、2020年以来、5年ぶりに発出された。日本としては覇権主義的な海洋進出を強める中国を牽制(けんせい)する狙いもある。AOIPとFOIPが本質的な原則を共有していることを「再確認」すると明記した。AOIPの推進が「法の支配に基づく国際秩序」と「自由で開かれたルールに基づくインド太平洋」の促進に寄与するとうたった。首相は会議で、政府開発援助(ODA)や政府安全保障能力強化支援(OSA)を通じ、海洋安保や災害対策などで協力を進めていく方針を示した。サイバーセキュリティーの能力構築や人材育成にも取り組む。経済協力を強化するため事務レベルのワーキンググループを立ち上げるほか、信頼できる人工知能(AI)システムを構築する枠組み「AI共創イニシアチブ」を創設する。首相は会議の前後で、議長国マレーシアのアンワル首相、フィリピンのマルコス大統領、オーストラリアのアルバニージー首相とも個別に会談した。マルコス氏との会談では、安保協力の基盤強化や中比の摩擦が続く南シナ海情勢などを巡って引き続き緊密に連携していくことで一致した。首相は26日夜、政府専用機で帰国の途に就く。
2025.10.26
里芋は【100gあたり640mg】ものカリウムが含まれる、これはじゃがいもの約1.5倍の含有量。カリウムはむくみや高血圧の予防に役立つ。また、里芋特有のぬめり成分であるガラクタンやグルコマンナンといった水溶性食物繊維は、腸内環境を整え、便通の悩みをサポート。さらに、ビタミンB群やビタミンC、葉酸などもバランス良く含む。里芋の炭水化物は主にでんぷん、糖質量は13.1gとじゃがいもよりやや低め。食物繊維には「ガラクタン」「グルコマンナン」など水溶性成分が多く、腸内環境の改善や血糖値の急上昇抑制、便秘予防の効果が期待できる。 ガラクタン:粘り成分で免疫力サポートや血中コレステロール低下に寄与 グルコマンナン:腸内の老廃物を吸着し排出を促進里芋はビタミンB群が豊富、特にB6は代謝をサポートしエネルギー産生を助ける。ビタミンCも6mgと生野菜にはやや劣る、加熱して損失が少なく免疫力アップや美肌維持に貢献。 ビタミンB1:糖質代謝を助け疲労回復を促進 ビタミンB2、B6:皮膚や粘膜の健康維持 葉酸、パントテン酸、ビオチンもバランス良く含有里芋はカリウム640mgと突出して多く、ナトリウム排出作用があり高血圧やむくみ予防に有効。銅やマンガンは成長や美肌形成、マグネシウムは骨や筋肉の健康に貢献。モリブデンは貧血予防にも関与。 カリウム:体内バランス調整、血圧管理 銅:美肌と美髪のサポート マグネシウム・モリブデン:骨・血液の健康維持芋が本当に低カロリーなのか、他の芋類と比較。食材名 カロリー(100gあたり) 糖質(100gあたり) 食物繊維(100gあたり)里芋 53kcal 10.8g 2.3gじゃがいも 76kcal 16.3g 1.3gさつまいも 132kcal 29.7g 2.8gかぼちゃ 93kcal 17.1g 3.5g里芋は、たんぱく質が若干含まれていますが、炭水化物が特に多く、そのほとんどが糖質です。しかし、里芋の炭水化物は単純な糖ではなく、主にでんぷん質で構成されているため、血糖値の上昇が比較的緩やかになります。里芋のGI値(グリセミック・インデックス)は55前後とされ、低~中GI食品に分類されます。これは白米(GI値88)と比べて大幅に低い数値です
2025.10.26

山本由伸、2戦連続完投で24年ぶり快挙!WSの大舞台でチーム救う快投 シリーズ1勝1敗のタイ10/26(日)ワールドシリーズ:ブルージェイズ1-5ドジャース>◇第2戦◇25日(日本時間26日)◇ロジャーズセンタードジャース山本由伸投手(27)がポストシーズン(PS)の大舞台で、24年ぶりの2戦連続完投勝利を飾った。 先制点をもらった直後の1回は、先頭スプリンガーに二塁打。続くルーカスにも左安を許し、無死一、三塁とピンチを招いた。 一歩間違えば大量失点のピンチも、主砲ゲレロは代名詞の「ヨーヨーカーブ」で空振り三振。前日2ランのカークを一直、同じく2ランのバーショをカーブで見逃し三振に仕留めた。 2回は先頭クレメンテの飛球がマウンドの手前に上がると、内野手が見合って名手フリーマンが落球(記録は内野安打)。不運な形で出塁を許したが、バージャーをフルカウントから97マイル(約156キロ)のツーシームで見逃し三振、カイナーファレファを中飛、ヒメネスの痛烈な内野ゴロは、遊撃手ベッツが好守でアウトにした。 3回は先頭スプリンガーに死球を与え、ブ軍ファンから大ブーイング。ルーカスを97・1マイル(約156キロ)の直球で空振り三振に仕留めたが、ゲレロに内角の直球を左翼フェンス直撃の単打で1死一、三塁とされた。 カークには低めのスライダーを中堅後方へ運ばれ失点。バーショーを一ゴロに打ち取り、追加点は許さなかった。 4回以降は、勢いに乗るブルージェイズ打線を寄せ付けず。8回まで93球、4安打1死球1失点8奪三振と好投すると、9回のマウンドにも登場。最後までマウンドを守り切り、PSの大舞台で2試合連続の完投勝利を飾った。 前回登板の14日(同15日)ブルワーズ戦では、9回1失点でメジャー初完投を達成。PSでの連続完投は、01年のカート・シリング(当時ダイヤモンドバックス)以来、24年ぶりとなった。 今季は30試合に登板して12勝8敗、防御率2・49。173回2/3で201奪三振、被打率1割8分3厘、WHIP(1イニングあたり何人の走者を許したかの数値)は0・99だった。 防御率が正式な投手成績として認められた1913年以降で、200奪三振以上、防御率2・50以下、被打率2割以下、WHIP1以下、被長打数35本以下は、68年のボブ・ギブソン以来2人目の快挙だった。山本由伸に敵将が脱帽 ポストシーズン2試合連続完投勝利に「実に驚異的だ」「最高の投球をした」[2025年10月26日ブルージェイズのジョン・シュナイダー監督は山本について問われ「本当にいい投球だった。ポストシーズンで2試合連続完投は、実に驚異的だ。我々にとっては、打席で対するのが難しかった。ストライクゾーンを攻められ、スプリットはゾーン外に落ちて、非常に素晴らしいパフォーマンスだった」と脱帽。山本の投球フォームが独特であるとし「我々はそれに十分に取り組み、備えてきた。だが彼が優れていた。すべての球種においてピッチトンネル*の使い方が優れていたし、球速も出ていたし、投球モーションでタイミングを惑わされた。だが、彼は最高の投球をした」と話した。*ピッチトンネルとは、ボールが通っていく軌道。変化球を投げる時はこの軌道をいかにストレートに近づけることができるかが勝負となる。具体的な数字をあげると、バッターから約7mの地点までストレートと同じ軌道で変化球を投げることができれば、バッターは高い確率でストレートだと錯覚を起こす。ストレートと同じような軌道で変化球を投げることで、ストレート狙いのバッターは手を出す。これがうまくハマれば、空振りを取れなくても打者を打ち取ることが可能。山本 試合後の会見での一問一答 ――試合を最後まで投げ抜くことにどれほどの誇りを感じますか? 「本当に結果的にすごくうれしく思いますし、立ち上がりは球数がたくさんいっただけに、最後までいけると思いませんでしたけど、しっかり1イニングずつ、投げていけたので、(完投という)結果につながったと思います」 ――どういったアジャストをしたか。 「やっていくことは決めてたので、初回はランナーを溜めましたけど、なんとかゼロで乗り切れたので、切り替えて次のイニングにいけましたし、失点した回は、先頭のデッドボールからの失点だったんで、すごく悔しかったですけど、まだ同点だったので、そこもうまく切り替えて投げ続けることができました」 ――登板中にいつもノートに書いているのは知っていますが、今夜は少し頻繁に書いていましたが。 「いつも、全部の試合でやってるんですけど。作戦面のことを書いてます」 ――昨日、ビッグイニングを許して厳しいゲームだった。今日絶対負けられない中でどういう気持ちでマウンドに上がったか。 「初戦やっぱり落としてたのはすごく大きかったですけど、落としただけに、当然ですけど、今日は絶対勝たないといけないなと。すごく気持ちが入りました。それが良い結果につながったと思います」 ――どの時点で完投をイメージできたか。8回投げ終えた後に、9回行く行かないっていうのは、首脳陣とのやり取りは? 「とにかく、1イニングずつに集中してましたけど、5回終わった時に71だったんで。そこでもまだ、9回まで意識してなかったですけど、とにかく1イニングに集中して、結果8回終わった時に、まだ球数も少し余裕があったので、いけるかなと思いました。(首脳陣との続投に関する)会話は特にないです」――相手が空振りをしない。その辺の攻めをどう考えたか。 「僕のピッチングスタイルは、ストライクゾーンにどんどん投げていく。もちろん狙うコースとかはありますけど、基本はどのボールもストライクゾーンを狙って、思いっきり投げていくっていうスタイルなので、特に変えたことは全くないですけど。自分のピッチングに集中しました」 ――スプリットが多かったが。 「作戦面のことはまだ言えませんけど、試合前のブルペンからスプリットがすごく落ちてました。感覚はいつも通りでしたが、数値的にはすごく落ちていたので。試合は一手からも調子は良かった。初回からピンチだったので、自然と増えたんじゃないかなと思います」 ――メジャーリーグで完投するのがいかに稀なことか。プレーオフで2試合連続で成し遂げたことをどう思うか。 「チームの戦力になれたっていう実感がすごくするので、すごくうれしいです」 ――ドジャースに来て、コーファックスやハーシュハイザーのような歴代の名投手がワールドシリーズで完投した歴史をご存知ですか?同じことを達成したことについてどう受け止めるか。 「とにかくうれしいと思います。(歴史的なことは)わからないですけど…」 率直な思いを口にすると、会見からは、ほっこりした笑いと拍手が起きた。
2025.10.26
高齢者の医療費負担、「3割」対象者拡大へ議論本格化…年内に方向性まとめる方針10/26(日) 厚生労働省は、70歳以上の高齢者が医療機関の窓口で支払う医療費の負担について、現役世代と同じ3割とする対象者の拡大に向けた議論を本格化させる。自民党と日本維新の会は連立政権合意書で、医療費の窓口負担について「年齢によらない真に公平な応能負担の実現」と明記しており、同省は年末までに方向性をまとめる方針だ。23日に開かれた社会保障審議会(厚労相の諮問機関)の医療保険部会で、厚労省から、3割負担とする高齢者の基準の見直しを含め、医療費負担のあり方が議題として示された。 現行の窓口負担は、70~74歳は2割、75歳以上の後期高齢者は1割が原則だ。ただ、70歳以上でも「現役並み所得」があれば3割負担となる。75歳以上では、課税所得が145万円以上で、年収が単身世帯で383万円以上、複数人世帯で520万円以上を基準としている。 高齢化や医療の高度化で医療費は膨らみ続けており、現役世代の保険料負担も増加している。政府は、高齢者も含めた「全世代」で社会保障制度を支え合うことを目指し、2023年に閣議決定した改革工程で、3割負担の対象者の見直しを28年度までに検討すると記していた。 社会保険料の負担に対する不満の高まりを受け、維新は7月の参院選で、現役世代1人あたりの社会保険料を年6万円引き下げるとし、高齢者の窓口負担を原則3割に見直すことも盛り込んだ。先の自民総裁選でも、支払い能力のある高齢者に、より負担してもらう「応能負担」の強化を求める主張が相次いでいた。 23日の部会では、厚労省から、後期高齢者の給与所得や金融所得が増えていることを示す資料が出された。委員からは「現役世代の負担軽減は強い経済を作るためにも重要だ」などと、3割負担の対象者拡大に肯定的な意見が目立った一方で、「もう少し、きめ細やかに見る必要がある」と指摘する声も出た。 維新が求めるOTC(医師の処方箋なしで購入できる医薬品)類似薬の保険適用見直しなども含め、年末までに医療保険に関する改革について、一定の結論を出す見通しだ。
2025.10.26
33「山本二峰先生小伝」(旧仮名遣いなどを現代の仮名遣いに直すなど読みやすくした) <以下「山本二峰先生小伝」>31~40ページ 実業家としての二峰先生 明治30年(1897)、日本勧業銀行が創立せられ、川島醇氏初代総裁となった。山本氏はその招聘により鑑定課長に就任した。元来川島という人は、ドイツ系の学者にして、ドイツ遊学時代に面識あり、かつその牧畜工業政策に関する論文、その他の消息を知悉せる先輩であったので、その信頼を負いて枢機に参し、全力を傾けて貢献することを惜しまなかった。 明治31年(1898)6月4日に公布にかゝる日本勧業銀行法の改正の如きも、参画者の一人として、その卓見に負うもの多く、今日同行が地方産業上多大の提掖をなし、遺憾なく機能の発揮をなしつゝあるは、遠く創業時代における方策、その宜しきを得たるに原因するものといわねばならぬ。在職3年、銀行を辞して、大糖業建設の壮途に上ぼることとなった。勧業銀行は、産業開発の金融機関にして、その性質上消極的であり、希望であったのである。この間、隠れたる業績として特筆大書すべきことは、品川子爵を補佐して産業組合法の創定に関する調査研究に従事したことである。産業組合法創定は、その端を遠く明治3年品川子爵のフランス国視察、及び明治4年、平田東助氏のドイツ視察の時に発している。後、平田氏が明治15年に、品川子爵は18年にドイツに再遊し、両氏が同地に会合の際、産業組合の発達が経済界における活動の原動力をなしつつある実況を調査研究するところがあった。時あたかも日本においては欧米資本主義直輸入の結果、経済界の趨勢、資本家に偏重し、貧富の差の激増を見るに至り、是非とも産業組合を本邦に実施するの必要を痛感したのであった。明治24年、松方内閣の内務大臣たりし品川子爵は、当時法制局部長の平田東助氏と共に産業組合の前提たる、信用組合法案を立案起草し、帝国議会に提出する運びになったのであるが、議会解散の為、これが通過を見るに至らず、次いで内閣の更迭となった。越えて27年、山本氏の帰朝するや、品川子爵の依嘱により、右法案の検討に当った。殊に消費組合法の如きは、英国がその発祥地なるが故に、英国視察の新知識に負うものありしは論をまたぬことである。産業組合法は、その後明治30年、農商務省より第11議会に提出、貴族院において時期尚早の理由により否決せられたが、次いで32年第14議会において両院を通過するに至った。後年山本氏が、横田千之助氏と共に、産業組合中央金庫の設置に尽力し、遂にこれが成立をみるに至ったのは、遠くその因をここに発すというべきである。品川子爵は、明治33年2月22日、宿痾終に癒えず、57歳をもって逝いた。山本氏は厳師と知己を一時に喪うたのである。後年驪山の名園、松翠楓紅の間に高く建立せられたる胸像の主は、すなわち品川子爵である。いかに感恩懐徳の誠をいたされたかがわかるであろう。その展墓の作に千里此来懐恵新。 朝衣手掃墓門塵。青山紅葉秋如昼。 中有白頭揮涙人。がある。至情の語、真に惻々人を動かすに足る。 山本氏の半生を賁ざる偉大なる功績は、実に台湾製糖事業である。台湾は氏が多年海外において研鑽せし産業政策を行うべき新天地であった。勧業銀行辞任後、明治33年10月に、初めて製糖事業の創始に関与し、台湾に渡航した。 台湾は、明治28年(1895)6月初旬、樺山大将が初代総督として赴任し、基隆港外横浜丸舟中において、清国全権大臣李経方と授受の式を行い、歴史的調印を完了したのである。当時治安全く就らず、辺陬(へんすう)無備の地は勿論、台北城内といえども、白昼賊匪横行の状態であったが、皇軍の威武よくこれを掃蕩して民心の鎮撫に努め、四疆漸く生業を営み、作息に安ずることが出来たのである。砂糖はいうまでもなく、本島の主要産物であるが、当時総督府の糖業政策未だ立たず、赤糖工場を機械化すべしとの説、欧米新式の分蜜大工場主義を採るべしとの説、相対立し、総督府内においても甲論乙駁、帰一するところなかった。然るに児玉総督の炯眼は、早くも新式大工場を可なりとするの説を容れ、その献作者、総督府嘱託山田?氏を帯同、糖業投資の資本家遊説を兼ね、井上侯の意見を徴し、その支援を得べく、明治33年春上京、侯を内田山の邸に訪い、協議を遂げた結果、台湾製糖会社創設の端緒を開くに至った。 由来台湾統治に要する経費は、多大の国庫負担により、年々経常費が支弁せられ、財政逼迫の折柄、増税提案は毎議会の圧倒的多数をもって否決するところであった。故に予算の逓増に苦慮する政府にとりては、むしろ本島は厄介視されていたくらいである。 台湾総督たるものは、よろしく当時の政状に鑑み、鋭意本島産業の開発を図り、以てその統治に要する財源に充当し、国庫負担の軽減を策すべきで、児玉総督の脳裏、既に「台湾財政の独立」が画かれていたことは、想像に難くないのである。果せるかな、任に現地につくや、後藤民政長官(新平氏)と相呼応して、台湾の三大産業、すなわち砂糖、米、茶の生産と、同時に樟脳産額の増進に着眼し、あいまって本島財政経済の基礎工作を確立せんと企画したのであった。しかしてなかんずく、砂糖を重視した。本島における当時製糖の状態は、旧式糖廓の製糖額およそ80万担、しかもその製法は依然として250年前の旧式を墨守し、その原料たる甘蔗品種も未だかつて改良を試みたることはなき状態にして、自然収穫の低下と、品質の粗悪とを来たし、加うるにいわゆる買弁(仲買人)の悪辣なる圧迫により次第に斯業の衰頽を招来したのである。然れどももし新た智力と財力をこの地に加え、鋭意その増産を図らば、遠からずして当時産額の5倍ないし8倍の増率を示すことは、あながち難事にあらず、更に進んで我が国砂糖の消費を自給自足し得るに至らば、独り台湾財政の確定に資するのみならず、ひいて貿易の不利、正貨の流入を防止し、国家経済に対する偉大なる寄与であらねばならぬ。この意味において、児玉総督の台湾糖業発展促進の提議が、井上侯爵の経済的意図と符合し、終に同侯の支援となったのである。附記、井上児玉二公会合の際に、井上侯の招きにより、アメリカ人ロバルト・アルウヰン氏が参加していた。氏は、慶応4年日本に来遊し、駐日ハワイ公使たりしこともあり、黎明日本の実業界に貢献するところがあった。氏はハワイの糖業を基礎として、台湾新領土の製糖事業に対し、参考に資すべき薀蓄の所有者であったので、井上侯爵がこの提案を検覈せしめ、その協力のもとに、台湾製糖株式会社の創立に関する協議が遂げられたのであった。かくて井上侯は、三井物産の益田孝氏を介し、三井家にその出資方を慫慂せしめたが、同家よりは20万円程度以上の出資は困難なるを知り、一般株主募集の方針を採り、明治33年6月、創立発起人会を開催、井上侯及び伊藤公の斡旋により、宮内省、毛利、三井家等の大株主を獲得し、92名の株主、資本金100万円をもって、33年12月10日、会社の成立を見たのである。これより先、会社を双肩に担うべき人物の銓衡あり。当時糖業専門家の第一人者として、先ず鈴木藤三郎氏をその候補に挙げた。然るに氏は日本精製糖会社の専務である関係上、糖業参加の同意を得たが、本職を捨てて台湾に止まり、新興製糖会社を経営することは、許されぬ事情にあった。侯が考慮の結果、ドイツ新知識の所有者にして農業経済学者たる山本悌二郎氏の外に、実際経営の適材者を見出すことが出来なかった。氏はこの交渉を最初は拒絶したが、再三の懇切なる勧誘終に黙止しがたく、会社の創立に先だち、工場地の選定、甘蔗栽培地の調査を兼ね、鈴木氏と同伴、台湾へ渡航することになった。33年秋10月のことである。目指すは、台南県管下、すなわち現今の高雄州、台南州一帯の地であった。その視察せる現在台湾製糖会社の原料採取区域が、糖業中心地の一半を占有する事実より帰納して、いかにその第一打診が正確なりしかがわかる。初め鈴木氏は、工場候補地として?蓋付近を考慮せるにより、先ずその地を視た。然るに土地買収、その他の点に不利なる条件が尠なくなかったので、180度南方に転回し、打狗(現在の高雄)に赴き、赤糖輸出商として著名なる陳中和を訪いて、糖業に関する意見を徴し、路を東南に取りて鳳山に至り、東して淡水渓を渉り、万舟に出で、更に南下して東港に赴き、平沙曲浦を辿り、枋寮に着いた。この地台南県における糖業地の最南端を占め、これより以前、山ろくを縫うて随所に良好なる原野あり。すなわち枋寮より石光見に通ずる蕃界と東接する広渓たる原野が展開し、更に石光見より北、阿?街(現在の屏東市)付近に延長せられたる沃野、等々のごとき大小幾多の処女地がことごとくこの圏内に包容せられているのである。二人はこれらの地を仔細に検分し、ひとまず台南に帰り、更に大目降(現在の新化)より曾文渓を経て、再び?蓋に出で、南天して北白川宮殿下が皇軍を統率せられて、御上陸の旧蹟である布袋嘴を訪うた。この地に居住する岡山県人某が、製塩業をはじめ、土俗に通じ、善く土民を使役しつつある実況をも視察するところがあった。視察旅行、約25日、足跡の印するところ、濁水渓以南より淡水渓を渡って更に南方に延長せられたる糖業の中心地、すなわち東蕃界に接触する山ろくより西海岸に連なる地域、東西およそ10数里、南北40余里往くとして地味豊饒ならざるなき、甘蔗栽培に絶好の土地区域である。鈴木氏は、20数年来糖業の進展に心血をそそぎ、創業の難をなめ来たりし斯業の先覚者、山本氏は自然科学と精神科学とをドイツに学び、農業の実地を閲覧し来たりし学徒であり、実際家である。両人の観点は期せずして一致し、視察は土地に限らず、天候と潅漑、土地の耕作技能等、微に入り細に入り、ことごとく肯綮にあたるのであった。明治33年12月10日、東京銀行集会所において、創立集会の開催あり。鈴木氏は、総会に検分報告のため上京したが、氏はそのまま台南に滞留することとなった。初め井上侯より慫慂せられしとき、一時はこれを拒絶したが、一たび実地を調査するに及び、産業報国の熱意が、急速度に全部を支配するに至ったのである。
2025.10.26
194二宮翁夜話巻の3【22】尊徳先生はおっしゃった。君子は、食は飽きることを求める事がなく、居宅は安楽であることを求める事もない。仕事は骨を折って働き、無益の言葉は言わず、その上に道の人があればこれについて正す。よほど誉めるかと思うに、学問を好むというだけである。聖人の学はこのように厳格なものである。今日の上で言えば、酒は呑まず仕事はよく稼いで、無益の事はなさない、これが通常の人であると言うようなものである。二宮翁夜話巻の3【22】翁曰く、君子は、食飽かん事を求むる事なく、居安からん事を求むる事なし、仕事は骨を折り、無益の言は云はず、其の上に有道に就いて正す、余程誉むるならんと思ひしに、学を好むと云ふべきのみとあり、聖人の学は厳なる物なり、今日の上にいはゞ、酒は呑まず仕事は稼ぎ、無益の事は為さず、是れ通常の人なり、と云へるが如し。<論語01-14>子の曰わく、君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。先生がいわれた、「君子は腹いっぱいに食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。仕事によくつとめて、ことばを慎重にし、[しかもなお]道義を身に付けた人に就いて[善しあしを]正してもらうというようであれば、学を好むといえるだろうね」
2025.10.26
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その7坐禅が本当に円熟してくると、一堂に何十人坐っていても、十分か二十分は、実にシーンとして、それだけの人間がいるとは思われぬまでに、それこそ物凄いほど静かな澄んだ雰囲気ができる。その雰囲気ができることが大事なのである。僧堂などでも、いやなやつをやらするものだから、首をふったり、モソモソしよる、よう居眠りする。禅宗坊主になった以上は坐禅になりきらねばならぬ。それが、バラバラに徳利を並べたような坐禅では何もならぬ。在家の坐禅では居眠りをようやる。居眠りをやめたと思うたら、五分間に一回位ずつ腕時計を見よる。ソロソロあきてくるとまた船をこごだす、頬杖をつく、そしてこんな足の痛いことはどもならんと横着なことをいう。これでは一番大切な雰囲気などは容易にできない。この雰囲気ができれば、何十人一緒におっても全体が透明になる。一歩進めば、大円鏡智というて、広く大きな鏡の如く、時間空間が透明になる。そこに自己を見出だせば、これはいつもの自己とまた別の自己である。石頭大師が、「回光返照便ち還り来たる。霊根に廓達すれば向背にあらず」というておられるが、われわれが回光返照するというのは、天地と同根、万物と一体の自己を体験するのである。(『禅談』p.140)「回光返照便ち還り来たる」―たとえてみれば鏡を見るようなものである。自己を向こうにおいて見る。それだから、ああなるほど、ここに墨がついているわいと、ようわかるのである。自己を見ることができるのである。ところがわれわれ回光返照しないと、ひとの墨のついたのはわかるが、自分についているのはわからんのである。「霊根に廓達すれば向背にあらず」寒巌禅師の塔に、霊根塔というのがあるが、これは天地と同根、万物と一体になることを表わしたものである。廓達し透明になるのである。広く大きく明らかになることだ。しかるに人間というやつはケチ臭いもので、自分の巾着を見るくらいのことしか考えておらぬ。天地と同根、万物と一体、天地万物が自分にブッ続きのものであることに気がつかないのである。だれかの俗謡に つんとすねればすねって返す にらみつくればにらんで返す ホンにお前は鏡の影よ というのがあるが、社会と自分というものも実はひとつものである。こちらの姿が向こうにうつるのである。(『禅談』p.140-141)
2025.10.26
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その6 人はよう言葉でことをすませてしまう。わたしが若い時に、ある浄土宗の和尚さんから聞いた話だが、ある偉い学者のお上人が、臨終に「わしは一生無駄なことをした。お前たちもわしのようにつまらぬことをするでないぞ」といわれたそうだが、学者にはようこれがある。学問を仕事みたいに頭にドッサリおぼえこんでも何にもならぬ。だから、火という字をおぼえても火とは何の関係もない。水という言葉を知っていても水とは何の関係もない。悟りという字を、いくら王義之の流に上手に書いても、悟りとは何の関係もないのである。だから「言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし」・・・・そういう無駄なことをやめて「須らく回光返照の退歩を学すべし」である。この回光返照の退歩というのは、まさしく坐禅をすることで、字の訳や、典拠をふりまわすようなことをせんでも、宏智(わんし)禅師もいわれているように「退歩は己れにつく」であるから、自己に親しむ工夫をしなければならぬということである。したがってわたしたちの一番努力しなければならぬことは、この回光返照の退歩を学するということだ。左之右之(さしうし)、あらゆる時、あらゆる場合にこの工夫を要するのである。少しびろうな話だが、小便一つさして見てもこれはわかる。ある男が、頭はポマードをつけてペチャっとわけて、立派なネクタイをさげて、宝石入りのピンをさして、われこそは三国一の色男でござい、というような恰好をして豪然と座っていた。やがて便所に立った。この便所がまた檜の柾ではりつめた立派な便所だ。その男が便所からでると女中さんが検査にゆくのだ。もしよごれでもしていると、掃除をしておかないと奥さんに叱られるからだ。いってみるとショボショボこぼれている。さあ女中さんは大ぶつぶつでせっかくの色男もだいなしである。こういうのは小便するのに回光返照の退歩を学さないからである。偉そうに口の先で禅を説いておっても、下駄は六七寸向こうの方へ飛ばしている。人の下駄はデングリ返して泥をつけている、というようなのも、回光返照の学し方が足らぬ証拠である。電車に乗っても汽車に乗っても、この回光返照の退歩を学さなければならぬ。「道は邇(ちか)きに在り」まず足許から工夫を要する。工夫するところどこでも道だ、だから咳ばらいのひとつにしても仕方があるわけだ。要するに生活のすべてに回光返照の退歩を学さなければならないとするならば、生活のすべてが坐禅を正門とするわけである。「豈に坐臥に拘はらんや」とはいうけれども、世の中はまず正門から工夫するのが順序である。この正門が坐禅である。(『禅談』p.138-140)
2025.10.25
194二宮翁夜話巻の3【21】尊徳先生がおっしゃった。論語で哀公が「今年は飢饉で必要な税が不足している。こんなときどうすればよいのでしょうか」有若(孔子の弟子)が答えて言った。「どうして租税を半額(10分の1税)にしないのですか。」これは面白い道理である。私は常に人を諭すに、一日で十銭取って足らなければ、九銭取るがよい。九銭取って足らなければ、八銭取るがよい。人の身代というものは、多く取ればますます不足を生ずる。少なく取っても、不足がない物である、これは理外の理である。二宮翁夜話巻の3【21】翁曰く、哀公問ふ、年饑ゑて用足らず是を如何、有若答へて曰く、何ぞ徹せざるやと、是れ面白き道理なり、予常に人を諭す、一日十銭取つて足らずんば、九銭取るべし、九銭取つて足らずんば、八銭取るべしと、夫れ人の身代は多く取れば益々不足を生じ、少く取りても、不足なき物なり、是れ理外の理なり。■顔淵第十二 297〔読み下し〕哀公(あいこう)、有若(ゆうじゃく)に問(と)うて曰(いわ)く、年(とし)饑(う)えて用(よう)足(た)らず、之(これ)を如何(いか)にせん。有若対(こた)えて曰く、盍(なん)ぞ徹(てつ)せざるや。曰く、二すら吾(われ)猶(なお)足らず、之を如何んぞそれ徹せんや。対えて曰く、百姓(ひゃくせい)足らば、君(きみ)孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰と与にか足らん。〔通釈〕魯の哀公が有若に「今年は飢饉で財政がままならぬが、どうしたものだろうか?」と問うた。有若は「どうして徹(十分の一税)を実施しないのですか?」と云った。哀公は「既に十分の二税を徴収してもまだ足りないというのに、どうして徹などできようか」と云った。これに対して有若は、「人民が豊かになれば君主も富み、人民が貧しければ君主も貧しくなるというのが為政の常道ではありませんか。」と云った。
2025.10.25
33「熱と誠」-茶の精神を貫いて- 畠山一清著<以下「熱と誠」ダイヤモンド社1965年12月発行より> 鈴木社長の温情に涙(35~ページ) 月給倍増で嬉し涙 元来、私の家はゆたかでなかった。だから、就職したならば、親孝行というほどではないが、なんとかして相当の仕送りをして両親を助けたいという気持だった。 就職してちょうど1年目、私の月給は倍の100円になった。当時、100円の月給とりなどそうザラにはいなかった。少なくとも勤続10年くらいの人でなければもらえなかった。それがもらえたのだから、うれしさよりも先に、ビックリしてしまった。 私は社長のあたたかい心にすっかり感動し、ホロリと嬉し涙を流してしまった。 それにしても、就職たった1年で、どうして月給が倍増になったのだろうか。はじめはどうしても分からなかった。私自身は、大いにハッスルして仕事をしていたつもりだから、1年たてば、少しは月給が上がるだろう、とは思っていたが、まさか倍増になろうとは考えてもみなかった。私は、すぐ社長にお礼を述べ、ついでに倍額の理由をお尋ねした。実は、社長の厚い情が秘められていたのだった。それには、当時の私の「家庭の事情」を書かねばならない。 親孝行をしようと思った父親は、私が大学卒業の翌年の暮れ、郷里金沢で病死してしまった。涙のかわくいとまもなく、その10日目に、今度は相続者である長兄が急死するという悲運に見舞われた。 長兄と私は年が十も違っていたので、家のことはすべて長兄が面倒をみていた。だが、この悲運を境に、それまで全くのフルーランサーで気楽な身分であった、私はいきなり二重の重荷を背負わなければならなくなった。 私は金沢へ帰り、家を整理して老母をつれ、また、長兄が住んでいた名古屋に立ち寄り、ここも整理して兄嫁と家族を連れて東京へ戻った。 広い世間には、私のような経験をなさった方もいると思うが、こんなとき、早速困るのが生活費だ。口では、家族を安心させるようなことを言っても、本心は、心細くてどうしようもない。何とかしなければと、心はあせるが、アテはない。20代の私に貯えがあるはずもないし、まして売り食いできるような品物もない。すっかり憂鬱になってしまった。 社長は、こうした私の窮状に同情して、月給を上げてくれたのであった。 人づかいのうまい鈴木社長 徳川家康は『人生は重荷を負うて遠い路を行くが如し』といったという。私は、父と兄の死によって、一挙に重い荷物を背負ったわけだ。私にとっては、またとない試練であった。そして、『生あるもの必ず滅す』というあたりまえのことが、人ごとでなく、実感としてわかるようになった。 それからというものは、なにごとにつけても、死の覚悟ができたというか、つまり、命がけでやれば、どんな困難にも打ち勝つことができる、という自信がわいてくるようになった。 以来、徳川家康じゃないが、人間は『荷物』がないと軽くていかん、と思うようになり、なるべく荷物を担うように心がけている。 ともかく、そのときは鈴木社長の温情で、家族がふえたとはいえ、なんとかやっていけるようになった。私は深く社長に感謝した。と同時に、こんなことを考えたのである。それは、鈴木社長の『人づかいのうまさ』ということである。かりに、私の場合、月給が倍増になったことによって、家族もろとも鈴木社長に感謝し、私自身もいっそう、社長のために働こうという決意に燃えたことはいうまでもない。 一方、会社側にしてみれば、40円や50円よけいに出したところで、会社の経営にひびくというものでもない。ところが、もらったほうにすれば、たいへん恩恵を感じるのである。だから、月給を上げてくれた鈴木社長は、心にくいほど人情の機微を心得ておられたことになる。 しかし、いくら大人物の鈴木社長でも、意味もなく、月給を上げたりするはずがない。少々自慢をさせていただくなら、私という男が、鈴木社長にとって、手離すことのできない社員だったからだと思う。 それにしても、私が最もおカネが欲しいときに、月給を一挙に倍増してくれるとは、全く敬服のほかはない。この腹の太さ、タイミングの妙、まさに経営者たるもの、大いに見習うべきことではないだろうか。 悲運に終わった恩人・鈴木藤三郎(39ページ~) 氷砂糖の研究に熱中 私の人生観、経営観に大きな影響を与えた鈴木藤三郎さんのことについて、もう少し書きつづってみよう。 氏は、遠州(静岡県)の砂糖屋さんだった。非常に研究熱心な人で、亡くなられるまでにとった特許の数は、160件にも及んでいる。 とくに氏は氷砂糖の研究に熱中し、苦心惨憺したようだが、ついにその製造に成功した。これにより、間もなく日本精製糖という会社を創立し、その会社で氷砂糖の製造をやるようになった。 そして、これを機会に、明治座で宣伝芝居をやった。外題は覚えていないが、氏をモデルにしたもので、ストーリーは、つぎのようなものであった。 氏が氷砂糖の製造に熱中し、真空中に蒸発する糖汁から氷砂糖の結晶ができる状況をみるために、毎日、真空の缶の中にはいって研究を続けたところ、日がたつに従って、氏のからだに異変が起こった。熱のためにだんだん頭髪が抜け、丸坊主になってしまったのである。それでも、氏は黙々と研究を続けたーという筋書きで、その熱情と非凡な発明はたいへん観衆に感動を与えた。余談になるが、この芝居が縁で、ご本尊の鈴木社長に、ちょっとしたロマンの花が咲いた話をつけ加えておこう。 そのころ、芝居見物というのは、引手茶屋からくりこんだものだった。いまと違って、椅子席ではなく、桟敷、マス席になっていたものだ。もちろん土足は禁物。席にすわれば、赤い毛布に座ぶとんがおいてあり、たいへん風情があった。また出前方の男衆や給仕の女性もおり、料理や酒は茶屋から運んでくれる。ともあれ、昔は芝居小屋全体が、風流な場所だったのである。 肝心の芝居のほうは人気上々。とくに、丸坊主になるシーンにくると、場内は水を打ったように静まる。連日、大入りの盛況ぶりであった。 らくが近くなったある日、ご本尊の鈴木社長が社員をつれて総見することになった。鈴木さんを迎える茶屋では、いま評判の芝居のモデルがくるというので、どんな偉い人だろうと、女将のおしげさんはじめ店の者はたいへんな張切りようであった。 いよいよ鈴木さんが乗り込んできた。まるで、有名な俳優を迎えるような大さわぎである。店の前は、一目、本物を見ようと芸者衆でテンヤワンヤ。茶屋の男衆は整理に大わらわだ。一方、鈴木さんのところの挨拶に出た女将のおしげさんは、一目見るなり、ボーッとなってしまった。芝居とちがって、ハゲ頭どころか、フサフサとした黒髪の聞きしにまさる男ぶり。風采といい、態度、物ごし、すべてが彼女の胸をこがしてしまったのだ。 すっかり感じ入ったおしげさんは、下にもおかぬ、行き届いたもてなしの限りを尽くした。据膳食わぬは男の恥とか。やがて、おしげさんの茶屋は売り払われ、日本橋の中洲に見越しの松の門構え、堂々たる別邸に、おしげさんが住むようになった。 以来、鈴木社長は、毎朝7時の出勤まえに、その別邸をたずねることに相成る。肥馬にムチ打って、未明の5時に出かけ、お茶の1ぱいものんで、定刻の7時5分くらい前には必ず会社の門にはいる。 私が小名木川の土手を歩いていると、よく朝がけの鈴木社長に出会ったものである。おしげさんは相当の女傑だったらしく、自分のカネを鈴木社長の事業につぎこんでいたらしい。社長と口喧嘩をした際に、「世の中に身許金を積んでお妾になるものがありますか」などといっていた。
2025.10.25
静岡県で「安居院庄七と鷲山恭平」が新たに伊豆の国市立図書館の蔵書となった既に蔵書の県市町図書館等静岡県袋井市、森町、御殿場市、菊川市、掛川市、富士市、静岡市、湖西市、牧ヶ原市、三島市、沼津市、富士宮市、浜松市静岡文化芸術大学
2025.10.24
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)回光返照 その5 ここでいう回光返照というのは、ふつうの言葉では実行というけれども、実行というだけではうまく響かない。回光返照というのは言葉であり、概念であり、理念である。しかしそれをわれわれ自身の生活に移して、生活に即したものとなれば、つまり境涯になるわけである。この境涯になってしまえば、概念でもなく理念でもない。そこではじめて「ゆく先にわが家ありけりかたつむり」ともいえるし、「庵小なりといえども法界を含む」ともいえる。その物になりきってしまうことである。 禅宗坊主に「脚下を照顧せよ」と言う言葉がある。足許を照らせということである。さらにいえば貴様はどうかということである。そうすると「脚下を照顧せよ」ということは、自己の生活にいつもたちもどれということである。 それには大きい鏡に始終自分を写してみることである。地獄でいうたら浄玻璃の鏡である。 地獄、極楽の絵を見ると、よく亡者をひっつかまえて鏡を見せているのがある。鏡には荷物を持って逃げようとしているところがうつっている。この鏡がすなわちわれわれの業績で、めいめい自分で持っているわけである。そしてめいめいの境涯に相応した業をうつしている。専門の言葉でいえば、これが第八阿頼耶識である。 その鏡の中二、何にもうつらない世界、そういう世界はいったいどこにあるのか。この何にもうつらない世界は悟りの世界であり、坐禅の世界である。でる意気、ひく息に、でる息はでる息ぎり、ひく息はひく息ぎりに、ねんねん不断に回光返照して、本当の自分を見つめてゆく世界である。ここのところを『普勧坐禅儀』には「所以に須らく言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし」 とおおせられてある。(『禅談』p.137-138)
2025.10.24

第12回報徳講座を以下の要領で開催いたします。本日(22日)より、申込を受付いたします。当メール返信にてお願いいたします。(講演1) 「報徳で現代を考える」 大日本報徳社社長 鷲山恭彦様(講演2) 「堀越報徳社の歩みと課題」 堀越報徳社理事長 山本克宏様(講演3) 「報徳と我が企業」 (株)オフィスホリウチ代表取締役 堀内善弘様
2025.10.24
33「熱と誠」-茶の精神を貫いて- 畠山一清著 畠山一清は、荏原製作所創立者である。 畠山一清は、明治14年4月金沢市に生まれた。家は、能登国は畠山氏から出ていて、初代は七尾城主だった。畠山氏は京都の出身で、能登に金箔、能登上布、輪島塗の技法をもたらし善政をほどこしたのだという。しかし、明治維新の廃藩置県で知行はめしあげられ、父は『士道会社』という酪農の会社を創立した。しかし武家の商法で事業は失敗し、一清が子どもの頃は食うや食わずの貧乏暮らしだった。このため一清は佐渡の義兄の世話になり佐渡の高等学校を卒業し、中学のとき、金沢に戻った。 一清は、金沢の中学を卒業して、第四高等学校に入り、東京帝国大学の機械工学科に入った。義兄から学資の援助を受けていたので、学業に徹し、少しでも多く資料や本を買うため、数学や英語の家庭教師もやった。卒業論文は「固形体の力の伝道」で一番で卒業した。 <以下「熱と誠」ダイヤモンド社1965年12月発行より>28~33ページ 技師長として就職 初任給は50円 さて学校を卒業し、最初に就職したのが鈴木鉄工所という小さな会社だった。ここに就職するまでは、「寄らば大樹のかげ」ときめていた私ではあったが、縁あって就職した以上、思いきり働いてみようという気になった。 鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。 この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。 初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。 私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 経営のバックボーンは報徳精神 報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。 いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ」という論旨から成り立っているのである。 趣旨はまことに立派である。しかし、それを実践するとなると、大変難しいことなのである。 早い話が、報徳の教えを立派に遂行するには、まず「我」を滅却しなければならないのだ。 およそ人間が自分のことを考えるくらい愚劣で不幸なものはないそうだが、私もそう思う。自己を超越し、自己というものを少しも考慮に入れないで仕事はできないものか。仕事だけではない、遊ぶ場合だって同じだ。無我夢中になって遊べばおもしろいが、自己があって遊んだのでは少しもおもしろくない。また、酒をのむにしても、商売のためにのむ酒はあまりうまくないのである。(略) 私の子供時代には、そんな自己中心の気苦労はなかった。小さいころから、「武士は敷居をまたげば7人の敵がある」とさとされ、いつ、どこで死んでも悔いのないよう、ふだんから教育されたものだった。とくに士族の子弟は、ことさら厳しく「常在戦場」の心構えをたたきこまれたようだ。 つまり、いつも死の覚悟をもち、命を投げ出して君の馬前に尽くす、というようなことを、開かされていたのである。 封建制度にも良さがある いまどき、封建制度の話を持ち出すと、蛇蝎のごとく、きらわれるかもしれないが、封建制度にだって、民主主義にない、良い点がたくさんあると思う。・・・ 元来、封建制度の根本となっているのは、忠孝の道である。君に忠を尽くし、親に孝を致すというのが基本だ。 この忠孝の道は、自分本位の考えではできないことである。つまり自己犠牲の精神に徹することであり、それが封建制度の精神でもあるわけだ。この精神こそ、たんに忠孝だけでなく、なにごとをするにも欠くことのできないたいせつなことなのである。いわば諸事成功のカギといっても過言ではないのである。(略) 思えば鈴木藤三郎さんの精神こそ、封建制度の真髄にふれていると思う。そして、その精神は、鈴木さんの薫陶を受けた私の処世訓ともなっているのである。 氏は、新入社員がはいってくると、まず応接間へ連れて行く。そこには、50号ほどの油絵が、立派な額に入れてかけてある。堂々たる紳士が、燕尾服の上に坊主の袈裟をかけた、一見奇妙な絵だ。その絵の前で、氏は、「これはオレが60歳になったときの姿だ。いま51歳だから、もう10年もすると、この姿になり、郷土遠州の地に報徳寺を建てて、報徳教を伝道する。世間には坊主や、牧師、神主の数は多いが、はたして、人のご厄介にならずに世の中を救い、人を助けている人がいるだろうか。人のご厄介になっているものが、人を救うことはできるはずがない。オレは、60歳まで事業をやって、カネをもうけ、人のご厄介にならぬだけの貯えを残したうえで、報徳宗の坊主になり、世の中を救うつもりだ。そのとき、こういう姿になるのだ・・・」と話すのであった。なみなみならぬ決意である。私は、目の前の絵もさることながら、この話に強く感銘を受けたのである。 私の50年に及ぶ企業経営は、この報徳精神の影響が大きく底流となっているのである。私は、金もうけ優先の企業経営は考えたことがない。まず、国家、社会のためになる製品をつくり、株主の利益、社員の生活向上を願うことを第一条件としてきた。それが結局、会社自体の繁栄につながる大きな要素だと信じるからである。 よく、人に経営理念を問われることが、私は、いつもこの話を持ち出す。むずかしい理屈をならべるよりも、端的にして要を得ているからだ。経営に『理念』はたしかに必要なことだ。しかし、それを自分のものとして咀嚼し、実行してこそ、意義があるのではないだろうか。毎日3時間かかって出社 鈴木社長の温情に涙(34~ページ) 毎日3時間かかって出社 私は、2度、サラリーマン時代を経験している。最初が鈴木鉄工所。2番目がポンプの会社だった。それだけに、サラリーマン生活の辛さ楽しさは十分知っているつもりでいる。私の場合は、辛さよりも楽しさのほうがはるかに多かったようだ。 鈴木鉄工所の勤務は朝7時から午後5時まで。10時間勤務だった。7時にはちゃんと、社長の前にある出勤簿に判を押さなければならない。少しでも遅れると、社長はご機嫌ななめ。5時の退社時間カッキリに帰ってしまうようでは、これもダメ。時間前に出社して5時半頃退社するようでなければ、社長はうるさいのである。 当時、私は、小石川の伝通院より先の高等師範学校の前に住んでいた。伝通院まで歩き、そこから電車に乗って深川の高橋まで行くのだが、伝通院の始発電車に乗るためには、どうしても4時くらいに家を出なければ出社に遅れる。 高橋からは、ポンポン蒸気船に乗ることもあるが、たいていは小名木川の土手を歩いていくため、会社まで3時間はかかる。そんな調子だから、夜は家に着くのが8時くらいになり、飯を食ってゴロリと寝るだけで、まるでカラスみたいだ苦笑したものだ。 そのうえ、小名木川というところは、油煙が多くて、スズメの鼻の穴が真っ黒になるといわれるほどの煤煙地区なのだ。こんな思いをして通っていたのでは、しまいにからだをこわしてしまう。いっそ、会社を辞めようかーと、すっかり考えこんでしまったこともあった。 しかし、月がたつに従って苦にならなくなった。習慣ということもあったろうが、それにもまして、鈴木社長の報徳精神が身についてきたからではなかったろうか。 特に私の場合は、技師長としての重責がある。人よりも多く働かねばならない。よほどの事情がない限り、休んだり、遅刻したり、早退したりはしなかった。今流でいえば、大いにハッスルしたのである。
2025.10.24
194二宮翁夜話巻の3【20】尊徳先生がおっしゃった。論語に、孔子に問う時、孔子が知らずと答える事がしばしばある。これは知らないのではなく、教える場合ではないのと、教えてもためにならない場合がある。今日、金持の家に借用を申し込むのに、先方で折りあしく金がないというのと、同じ場合である。知らずということに大きな味わいがある。よく味わってその意味を解しなさい。二宮翁夜話巻の3【20】翁曰く、論語に、孔子に問ふ時、孔子知らずと答ふる事しばしばあり。是は知らざるにあらず、教ふべき場合にあらざると、教ふるも益なき時となり。今日金持の家に借用を云ひ込むに、先方にて折悪く金員なしと云ふに、同じ場合なり、知らずと云ふに大(だい)なる味ひあり、能く味ひて其の意を解すべし。
2025.10.24
「安居院庄七と鷲山恭平」が茨城県で筑西市、桜川市に次いで茨城県立図書館で蔵書となった👏
2025.10.23
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