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前回分「僕のプロフィル的な話(6) 中3の7月の「トイレ掃除」事件。」の続きです。 中3の7月には、「トイレ掃除」事件に続き、「球技大会練習」事件も起こりました。この事件もまた、僕には全く落ち度はありませんでした。 僕を打ちのめすために、クラス委員長Kが事実をねじ曲げて作出した「でっち上げ」の事件だったのです。 詳細は次のようなものでした。 当時、僕が通っていた中学校では、期末試験の終了後、1学期が終わる前に、恒例行事として、クラス対抗の「球技大会」が催されていました。 そのために、7月の体育の時間は、その球技の練習をしていたのですが、体育の時間だけでは足りず、放課後、あるいは、土曜日の昼から練習をするということもありました。 僕の中学時代は、全ての土曜日は、休みではなく、午前中は授業がありました。 それで、土曜日の昼から、「球技大会」の練習をする際は、解散前のホームルームの時間にクラス委員長が「今日は昼から練習をするから、ご飯を食べたら、みんな、また学校に集まって」と声をかけることが、全てのクラスで行われていました。 ところが、僕のクラスでは、クラス委員長Kがそのことを怠り、ホームルームでは告知せず、全員が帰宅してから、家に電話をかけて、「学校に戻って来てくれ」と知らせていました。 学校にいる間に告知しないなんて、ナンセンスです。こんなことをやっていては、とんでもなく、効率が悪い。 この当時は、携帯やスマホなんて無かったから、下校して、家にいないと、Kからの電話に出ることができません。 下校してしまうと、家には帰っても、すぐに出かけて、なかなか、連絡がつかない者が多かったのです。 僕もそうでした。 僕は土曜日も夕方から塾に通っていましたが、学校から帰ると、着替えて、昼食を済ませてから、2時前後には、同じ塾に通う「塾友」の家に行っていました。 塾が始まる時間までの3時間程度を、その「塾友」の部屋で過ごし、多くの時間は分からない問題を教え合ったりしていました。 勉強とは関係のない音楽の話などもしました。 既述の通り、中3時代、僕は所属していたクラスでは浮いていたので、そのクラスに友達は1人もいませんでした。 専ら、僕は、他のクラスの生徒で同じ塾に通っている同級生たちと親しくしていたのです。 このことをクラス委員長のKは知りませんでした。 というか、そもそも、僕はKには、塾に通っていることを内緒にしていました。 それを知られると、またバッシングの材料に使われることが目に見えていたからです。 実は、クラスには、僕の他にも、塾に通っている生徒はたくさんいました。 3人に1人は通っていたと思います。 しかし、塾に通っていても、誰もそのことを口にしません。 既述の通り、クラスでは「勉強して成績が良くなること=悪いこと」というような空気がクラス委員長Kらによって醸成されていました。 みんな、塾に通っていることを知られることが怖かったのです。 でも、Kらは、ただ塾に通っているだけでは牙は剥きません。塾に通っていても、成績が良くならなければ、バッシングは無いのです。「球技大会練習」事件がまさにそうでした。 その7月の土曜日、下校して、「塾友」の家に出かけた後、Kから電話があったそうです。僕の母が受けました。 そこで、Kは「自分はクラス委員長をしていて、球技大会の練習をするため、至急、似蛭田妖くんと連絡を取りたい」と僕の母に言葉巧みに迫り、僕が「塾友」の家にいて、その後、僕が彼と一緒に塾に行く情報を入手しました。 迂闊に僕の個人情報を漏らした母も母でしたが、僕はこのことを月曜日に登校するまで一切知りませんでした。母も、その後、この件は解決したものと考え、僕にKから電話があったことを告げなかったのです。 月曜日の朝、何も知らずに登校すると、早々に、Kから次のように怒鳴られて、その後、多くのクラスメート達から猛烈なバッシングを受けました。「似蛭田妖くん! お前は球技大会の練習より、塾に行って勉強することが大事なのか! それに、お前は、このクラスにいるクラスメート達よりも、他のクラスの奴と親しくしているそうじゃないか! お前、俺たちを舐めてんのか!」 僕も一方的に言われっぱなしになるのではなく、反駁しました。「言いがかりはよせ! そもそも、下校した後で、電話をかけて来られても、出かけると電話に出られないだろ! 球技大会の練習をするんだったら、下校する前に、ホームルームの時間にそう皆に伝えるべきだった。今回の失敗は、100%、そうしなかったK君の落ち度じゃないか! おい、K君、結局、練習に参加した者は何人いたのか? 僕以外に不参加者は何人いたのかよ」 Kは都合が悪いことには答えませんでした。 練習に参加したのは、全体の半分にも満たなかったそうです。 僕を含む不参加者の方が圧倒的に多かったのです。 結局、Kは、「似蛭田妖は球技大会の練習よりも、自分の勉強のために塾に行くことを優先した」という話をでっち上げて、このことを強調しようとしたのですが、優先するも何も、僕は練習があることを知らなかったのです。また、知らなかったことについて、僕に落ち度はありませんでした。 クラスメート達も、Kの扇動に惑わされて感情的にならず、冷静に考えれば、僕が悪くないことは理解できたはずでした。 何が何でも、似蛭田妖を叩いてやろう。潰してやろう。 そこにあるのは、純然たる悪意そのものに他なりませんでした。 僕はこのことを担任に相談しました。 すると、担任は「とことん話をして、お互いに分かり合えばいいじゃないか。みんな友達じゃないか。仲間じゃないか。話せば、分かり合えるよ」と言いました。 小学生から中学生にかけて視聴したテレビの青春ドラマで何度も耳にした、陳腐でうんざりするような教師のセリフそのものでした。
2021.01.31
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前回分「僕のプロフィル的な話(5) 悪の扇動者だったクラス委員長。」の続きです。 既述の通り、中3の1学期には、僕と圧倒的多数のクラスメート達との人間関係は壊れ、毎日、僕は針の筵に座っているような状況でした。 油断して、僅かでも隙を見せると、「成績が急上昇していること」と結び付けられ、難癖を付けられました。 本来、中学1年時、約300人中、100番内にも入っていなかった非優等生が、猛勉強をして、中3になって、7番、5番と席次を上げて行くことはポジティブに捉えられるべきことですが、僕が所属していたクラスではネガティブに捉えられました。 ただ、例外的に、1人のクラスメートだけは、この事態を中立的に傍観することができました。東京方面から転校してきた女子でした。 彼女曰く、「私は転校してきたから、前々からの人間関係などは知らないけど、私が見る限り、似蛭田妖くんは一生懸命頑張って、成績が良くなったわけで、何ら、問題はないと思う。要は、クラス委員長たちは、似蛭田妖くんを素直に認めることが出来ずに、逆恨みして、攻撃しているだけだと思う。クラス委員長たちは、実は、自分たちも、成績が良くなるということに価値観を感じているのに、そうでないふりをしていると思う」 この女子の転校生の発言に対して、K達は、次のように反論しました。「それは違うぞ。自分達は、妬みや逆恨みから似蛭田妖くんを攻撃しているのではない。似蛭田妖は、自己本位で身勝手な人間でクラスの和を乱すから、クラスのみんなを代表して、みんなのために、やってるんだよ」 とても心外でした。K達が言ったことは、全くの事実無根でした。 僕はクラスの和を乱すようなことはやっていません。 このような中、中3の7月に「トイレ掃除」事件が起こりました。 僕が通っていた中学校では、1日の授業が全て終わると、解散前のホームルームの時間の前に、全ての生徒で、教室や校庭、トイレなどの掃除をすることになっていました。 その時、僕はトイレ掃除の当番数名のうちの一員だったので、7月という暑い時節ではありましたが、ホースとデッキブラシを使って、便器から床から、念入りに綺麗にしました。 そして、掃除の終了時間数分前には、作業が終了したので、ぼおっとして、トイレの前の廊下に立っていました。 汗だくで、腕が疲れたので、そうせざるを得なかったのです。他の掃除仲間は教室に戻って行きました。 すると、そこに、たまたま、職員室に行っていたクラス委員長のKが通りががり、次のような言いがかりを付けたのです。「似蛭田妖くん! 掃除をさぼっちゃ、ダメじゃないか! お前、一体、どういうつもりなんだよ! 似蛭田妖くん! 学校はね、自分さえ、成績が良くなればいいって、そういう所じゃないんだよ! みんなのために汗を流すことも大切なんだよ!」 そしてKは、この後、教室に戻り、「似蛭田妖は掃除をさぼった」と言いふらしました。 僕と一緒にトイレ掃除をしたクラスメート数名は真実を知っていましたが、K達と事を構えることが出来ずに、僕を庇ってくれません。 まあ、それは仕方がないにしても、僕が驚いたことは、この後、担任から、「似蛭田妖くん。掃除はちゃんとやろうね」とお叱りを受けたことでした。 担任は、クラス委員長Kの言うことを100%信用していました。 勿論、僕は担任に真相を話しましたが、担任は真相を知っても、Kを叱ろうとはしませんでした。 実は、この担任にも問題があったのですが、そのことは別の機会にお話しようと思います。 要は、最終的に暴力事件が起きて、大阪と福岡の高校を受験できなくなったことの責任は、加害生徒たちだけにあるのではなく、この担任にもあるということです。
2021.01.31
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前回分「僕のプロフィル的な話(4) クラス委員長がバッシングの首謀者。」の続きです。 僕をバッシングした首謀者が、男のクラス委員長であったことは既述しました。 今回は、その内容について、この男のクラス委員長(Kという)が僕に対して行った悪魔の所業について、お話しようと思います。 当時、僕が通っていた市立の中学校では、クラス委員長は2人いました。男女それぞれ1人ずつです。そして、1学期(前期)が終われば、新たに選挙で2、3学期(後期)のクラス委員長を決める慣わしでした。 僕へのバッシングの首謀者だったKは、1学期(前期)の男のクラス委員長でした。 もともと、僕は、Kとは知らぬ間柄ではありませんでした。既述したように、彼は小学校1,2年時のクラスメートだった上、当時は円満な間柄だったのです。 彼とは中3のクラス編成で(小学2年時以来)7年ぶりにクラスメートになりました。 4月に新学期が始まった当初も、悪い関係ではありませんでした。 Kとの関係が破綻したのは、5月に中間試験があって、その答案が返却された直後でした。 僕は、英語、数学、国語、理科、社会の5科目のうち、3科目がクラスで1位か2位でしたが、Kは、1位か2位に入った科目が全くなかったことが原因でした。 試験の答案が返却された日の休み時間、Kはクラス全員に聞こえるように叫んだのです。「誰かさんは、どうせ、家でガリ勉をやったんだろうが、ガリ勉すれば、誰だって、良い点を取れるに決まってるよ。俺は、誰かさんみたいに、勉強だけをやってるわけじゃない。勉強だけが全てじゃないから」 Kは言葉巧みにクラスメート達を扇動しました。 7月に期末試験の答案が返却された際も、同様のことが起こりました。 もともと「勉強なんてしたくない」という心理が、多かれ少なかれ、「成績優秀者であるなし」とは無関係に全ての人間にあると思われます。 僕だって、先生や親から言われたくらいでは本気で勉強しようとは思いませんでした。既述の「心に響く親戚2人による説諭」が無ければ、僕が塾に行くことはなく、成績急上昇なんてあり得なかったと自分でも思うのです。 だから、Kの気持ちも、Kの扇動に乗って、僕に批判的になる圧倒的多数のクラスメート達の気持ちも、理解できない訳ではありませんでした。 でも、僕だったら、言動には出しませんけどね。 Kが僕に批判的な発言をし出した当初、すぐに同調していたのが、女子のクラス委員長と、同じく女子で生徒会委員を務めていたクラスメートでした。彼女たちは、間髪入れずにKをアシストしていました。 例えば、こういう風に。「K君が言う通りだわ。似蛭田妖くん! 勉強だけが全てじゃないでしょ! 似蛭田妖くんは自分のことしか考えていないんでしょ。似蛭田妖くんは欠陥人間だわ」 本来、僕のように、たった半年程度の猛勉強で成績が急上昇した者には、称賛や労いの言葉があって然るべきであるのですが、クラスでリーダー格だった3人が僕を非難するものだから、クラス全体に「猛勉強で成績を急上昇させること=悪いこと」と認識するような空気が醸成されて行きました。 魔女裁判やホロコーストと同じです。 そこには、法や道理なんてありませんでした。そこは、非人道や理不尽が堂々とまかり通る空間(教室)でした。 あっという間に圧倒的多数のクラスメートたちは、Kの扇動に乗せられて、感情的になって、冷静な判断能力を失い、善悪の判断ができなくなりました。 Kは、先生が教室に居ない休み時間、頻繁に「誰かさんのように、自分さえ勉強ができれば良いと考えているような奴は・・・」と言って、僕を罵りました。 Kが「誰かさん」と言えば、即、それは僕のことだとクラスの全員が理解しました。 僕は1度だけ、Kに言い返したことがありました。「ちょっと、K君。僕の成績が良くなったことを逆恨みして、言いがかりを付けるのはやめろよ。僕は人の何倍も努力したんだよ。だから、K君。僕の平和を乱さないでくれよ」と。 すると、Kに扇動されたクラスメートが数名出て来て、Kに代わって、僕に反論してきました。「似蛭田妖くん。言いがかりを付けているのはお前だ。やめろよ。K君に絡むのは」「おい、似蛭田妖くん。平和を乱しているのもお前だ。お前のおかげでクラスが楽しく行かなくなってるじゃないか」 このブログの読者の皆様方・・ これは作り話ではありません・・・ 実話なのです。
2021.01.30
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前回分「僕のプロフィル的な話(3) 暴力被害の発端は成績の急上昇。」の続きです。 現在の市立中学校の仕組みがどうなっているのかは知りませんが、僕の中学時代は、中間試験と期末試験、それに出題範囲無制限の試験(僕の学校では実力試験と呼ばれていました)などでクラスで1番の点数を取ると、ほとんどの教科の先生たちは、その点数とその得点者の氏名をクラスメート40数名の前で公表していました。 単にクラスで1番というだけでなく、7クラス全体で、つまり学年で1番であった場合、全てのクラスの生徒全員に、その旨が伝えられていました。 また、過半数の学科の先生たちは、1番の得点とその得点者の氏名だけではなく、2番、3番の得点と得点者の氏名までも公表していました。 これで、ほとんど全科目の僕の得点はみんなに知られることになりました。 僕には、このことは有難迷惑でした。 出来ることなら、僕の得点や僕の氏名を公表してほしくなかった。 先生たちに「僕の氏名を出さないで下さい。秘密にして下さい」とお願いしたこともあります。 しかし、先生たちからは「お前ひとりの事情のために、長年続いている学校のやり方を変えることは出来ない」と却下されました。 僕がなぜ、このようなお願いをしなければならなかったのか、それは前回分で説明した通り、みんながみんな、僕の成績上昇を素直に評価してくれるクラスメートたち、あるいは同級生たちではなかったからです。 2つの塾に通い、努力に努力を重ねた成果は、時間が経つにつれて、より顕在化して行きました。 既述したように、試験を受ける都度、点数が伸び、席次が上がって行きました。 破竹の勢いと言うか、龍が天に昇るような勢いと言うか、兎に角、僕は、前途洋々たる好調ムードを持続させていました。努力することに手を抜かなかったからです。 しかし、僕の、この成績の急上昇は、クラスでは、ほんの一部の級友達から敬意を持たれて容認されるようになっただけでした。僕は、圧倒的多数の級友達からは疎まれて忌み嫌われるようになっていきました。 僕に対するクラス全体のムードをそのように仕向けていたのは、男女それぞれのクラス委員長と生徒会の委員をしていたクラスメートでした。 彼らが僕を攻撃するようになった理由は、僕が彼らの成績を追い抜いたからです。 僕が通っていた中学は、小学校で同級生だった児童が全員入学します。そして、中学3年時、成績上位ベスト10に入るような生徒は、僕以外は全員がもともと小学校の低学年の頃から勉強が出来て、それが中学3年まで継続している優等生ばかりでした。 そして、僕以外の成績上位者は全員、中学3年になる以前の小中学校の何れかの時点でクラス委員長や生徒会の委員などを経験したことがあるような者ばかりでした。 僕は、小中学校時代、一度もクラス委員長や生徒会の委員を経験したことはありません。 彼らのように、小学校時代から塾に通って努力していた優等生ではなかった僕。クラス委員長も生徒会委員もやったことがない僕。 そんな僕に成績が抜かれたことがショックだったのだと思います。 だから、僕を叩くことで自分達の精神の安定を図ろうとしたのでしょう。 僕から見ると、否、僕から見なくても、誰が見ても、これから僕がお話することは理不尽な逆恨みによる悪しき所業でしかありません。 中3の1年間、クラスメートが僕を疎んじ、忌み嫌うような雰囲気を作り、クラスメートを扇動した一番の首謀者は男子のクラス委員長でした。 実は、彼は小学校の1,2年の時のクラスメートで、その当時は仲良くしていた人物でした。
2021.01.29
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前回分「僕のプロフィル的な話(2) 高校受験の直前、集団暴力の被害に。」の続きです。 僕は、幼少期から、問題なく、つまり、大人の社会で言うところの「法令を遵守し、倫理道徳に背かない」生き方をしてきたので、自分から他人にチョッカイを出して揉め事を作ったことはありませんでした。 ただ、自分が努めて問題なく生きていても、他人から突っ込まれて揉め事が起こることはありましたが、このような手合には、以降、細心の注意を払って対応したので、大きなトラブルに発展するということは皆無でした。 僕に全く問題がなく、どんなに真面目に正直に思いやりを持って生きていても、僕に言いがかりを付けて、僕をやり込めようとする手合がいることは、小学校の低学年の頃から身に染みて分かっていました。 ところで、僕が長崎県内の市立の小学校と中学校に通ったことは既述しましたが、僕はこの義務教育の期間、概ね、目立たない子供でした。 それは、学業も運動も優秀でなかったからです。まあ、全く努力していなかったから当たり前のことだったのですが。 5段階の成績評価では3が多かったです。何かの科目で4を取ると、代わりに他の科目で2を取るというような状況でした。 現在の少子化の時代とは様相が違いますが、昔、僕が通っていた中学校は1クラス42名から43名というのが7クラスあって、学年で300名ほどの同級生がいました。 中1時、僕の成績の席次は、この約300名の中で100番内にも入らない程度のとてもお粗末なものでした。 このような状況下、僕に大きな転機が訪れることになりました。 実は、僕の近い親戚には、関西地区の旧帝国立大卒や旧六の国立医学部卒で、最終的にそれぞれ、某一流企業の取締役になったり、東京で開業して院長になった人達がいるのですが、その方々から、中2の夏頃、とても心に響くお叱りを受けました。 それで、中2の2学期から、まずは英語だけを教える塾に通い、中3になってからは、英数国社理の5教科全科目を教える、もう一つの塾に通うこととなりました。 塾の先生方からは、「ただ、塾に来るだけじゃ駄目だ。真剣に内容を理解しようと努めないと成績は伸びないぞ。予習と復習は必ずやれ」とはっぱをかけられました。 僕は、2つの塾の先生の指導通りに勉強しました。 勉強で使うテキスト、問題集は塾の先生方が決め、僕はそれらを完全に理解するまで頑張りました。「これは絶対に暗記しなければならない」と塾の先生が配布したプリント類は、完璧に根性で頭の中に叩き込みました。 当時の僕の1日の生活は、次のようなものでした。 朝8時に起きて学校に行って、学校の授業の合間や昼休みなどに、塾の先生から貰ったプリント類とにらめっこする。 学校から帰ったら、着替えず、制服のまま、まず速攻で学校の宿題を片付けます。 そして、着替えて、早めの夕食を取って、6時前には塾に出かける。 塾の授業が終わって帰宅するのは10時前。 その後、風呂に入って、夜食を食べて、深夜2時近くまで、塾での勉強の予習と復習。 終わると、歯を磨かず、部屋の電気も消さずに寝床に倒れ込んで、そのまま「グーグー」というようなことが頻繁にありました。 このような努力を神様も評価して下さったのだと思います。 1つ目の塾に通い出した後の中2の(出題範囲無制限の)試験の結果は、約300人中50番ほどの席次に。 そして、2度の中3の(出題範囲無制限の)試験の結果は、それぞれ、7番、5番と、僕の成績は大きく躍進しました。 試験を受けるたびに上昇を続ける僕の成績を、僕の両親と塾の先生方は喜んでくれました。 学校内では、「大多数」の学校の先生方、それに「一部」の同級生たちは素直に評価してくれました。 でも、「一部」の学校の先生方、そして「大多数」の同級生たちの反応は背筋が凍るようなものでした。 素直に人を認めることが出来ない人間がいるわけです。 認めない、あるいは、認めたくないなら、それはそれで良いのです。 僕も、全ての人間から認めてもらいたいと、そんな、おこがましいことは考えていなかった。 僕は、両親と親戚、それに塾の先生方だけに認めてもらえば、それだけで、良かったんだよ。 そもそも、試験で何点取ったと、僕は自分から口外したことなんて1度もなかったわけだ。 試験が終わって、答案を返却する際、学校の先生たちが、僕が頼みもしないのに、僕が100点だったとか、97点だったとか、クラスメート達に公表した。 このことが、僕が暴力事件の被害者になる遠因になったのだった。
2021.01.29
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前回分「僕のプロフィル的な話(1) 高校は「青雲高校」に行きました。」に続く、僕のプロフィル的な話です。 先に、僕は小学校と中学校は長崎県内の市立の学校にそれぞれ通い、高校は私立の青雲高校に行ったことをお話しました。 そして、この青雲高校は当時通っていた進学塾の方針で受験しただけで、本来、僕が入学したいと思っていた志望校ではなかったこと。志望していた大阪の某国立大の付属高校と府立の高校、それに福岡の久留米附設高校は「ある事情」のために受験できなかったこともお話しました。 すばり言います。 その「ある事情」とは、高校受験直前の中学3年の1月、複数のクラスメートによる集団的暴力行為によって怪我をさせられたことです。 この怪我のために、青雲高校は辛うじて受験できましたが、久留米附設高校は(負傷部分の悪化のため)受験できませんでした。 また、この怪我のために、中学3年生の2月の、中学校最後の定期試験を受験できず、大阪の某国立大学の付属高校と府立の高校も受験を断念することになりました。 僕に暴力を振るった加害者のクラスメート達は、ただのクラスメート達ではありません。 クラス委員長や生徒会の会長をしていた成績優秀な優等生達でした。 暴力を振るわれた場所は、僕の家の僕の部屋です。 その時、正月が終わり、高校受験が間近に迫っていたというのに、運悪く、インフルエンザに罹患し、なかなか治らなかったので、学校を休んで、医師が処方した薬を飲んで寝ていました。 すると「見舞いに来ました」と言って、クラスメートの優等生4人が突如、我が家に乱入。僕の母の制止を振り切って、高熱状態で就寝中だった僕の顔面を殴り、枕とシーツが血で真っ赤に染まったのでした。 殴った者は4人の中の1人ですが、他の3人は、僕が暴力から逃げることができないように僕の周りを固めていました。 暴力行為を終えて、撤収する際、加害者達はそれぞれ次のような捨て台詞を口にしました。「お前がクラスの和を乱すから、こうなるんだ」「お前が急に勉強ができるようになったから、それが悪い」「お前が寝たふりしたから、こうなったんだぞ」 このことは、この暴力事件の後、今日に至る数十年の間、通っていた中学校の関係者だけでなく、優に100名を超える部外の人達にも話してきたことです。 つまり、僕は「善意にして無過失」であったので、僕は100%の被害者でありました。 実は、この暴力事件は、加害者生徒4名だけに責任があるのではなく、担任教師の数々の軽挙妄動(個人情報の流出、約束違反など)にも責められるべき点がありました。 これらのことは、次回、お話しようと思います。
2021.01.27
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昨年3月7日にこのブログを始めました。 これまで、本ブログで触れてきた内容は、専ら、「対馬放火殺人事件」の裁判員裁判に関する話や、その裁判員を務めたことによる僕自身の後遺症の話、或いは、判決に不満を持つ人物による「嫌がらせ行為」の話などでした。 つまり、僕自身のプロフィル的な話はありませんでした。 それで、読者の方々から、上記の話以外のことにも触れてほしい旨を求められることが、時折ありました。 さて、本日は、そのようなご要望に応えたいと思う次第です。 ただし、「僕」=「似蛭田妖」が特定されるような情報は明らかにすることは出来ません。 この点は、どうかご了解下さいませ。 僕のプロフィル的なことについて、僕がお話したいことと、読者の皆様方がお知りになりたいことは、一致しないと思います。 だから、おそらくは皆様方がお知りになりたいであろうことを忖度して、話していくことにしますね。 それでは。 今、たまたま、私立の中学高校受験がたけなわでありますので、この話題から入らせていただきます。 実は、この僕(似蛭田妖)も、昔、その私立高校の受験を体験しているのです。 どのくらい昔のことなのかに触れることはご勘弁ください。年齢がばれますので。 僕は、小学校と中学校は市立に行きましたが、高校は私立の青雲高校に行きました。 学校法人青雲学園が設置する青雲中学と青雲高校は、長崎県西彼杵郡時津町の辺鄙な山奥にあります。 僕がこの高校に入学したのは「青雲の志を胸に抱いた」からではありませんでした。 率直な話、この高校は、僕が心から入学したいと思っていた高校ではありませんでした。 僕が志望していた高校は、大阪の某国立大学の付属高校か、府立の某高校か、福岡の久留米附設高校などでした。 ある事情があって、これらの学校を受験することが出来なくなったので、やむをえず、青雲高校に入学することになったのです。 当時、通っていた塾の方針で、青雲高校は受験することになっていたので、それに従いましたが、僕は、当初、合格しても入学するつもりなんて無かったのです。
2021.01.26
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僕の老親(ともに80代)は、様々な持病があって、それぞれ、複数の病院に、もともと通院していました。 加えて、老父(88歳)については、「嫌がらせ行為」のトバッチリを受けて転倒。硬膜下血腫を罹患していることは何度も記述してきました。 老父と老母が通っている病院は予約制なので、これまで、「嫌がらせ行為」が発生すると、その影響で病院に行くことができなくなって、診察日を変更してもらう。その変更後の診察日も、また、更なる「嫌がらせ行為」のために、再変更をしてもらうということが、何度も起きていました。 そして、昨日、このような度重なる変更、再変更に業を煮やした老父の脳神経外科の主治医から、ついに、「患者側の都合で、コロコロ、予定を変えないで下さい。迷惑しますから」とダメ出しを受けることになりました。 その主治医は、所轄の警察署も解決できないでいる「嫌がらせ行為」のことは知りません。 僕も僕の老父も、知らせていなかったためです。 そもそも、老父の硬膜下血腫の原因である転倒が、「嫌がらせ行為」によるものであることさえ、主治医には言っていないのです。 このブログをご覧になってこられた皆さんなら、もう、お分かりかと思いますが、老父の主治医に「嫌がらせ行為」のことを知らせると、単に、主治医の怒りを「嫌がらせ行為」の加害者に向けさせることだけでは済まされず、長期間、この問題を解決できないでいる警察の不甲斐なさ、ないし失態についても、主治医に認識させることになってしまいます。 そうすると、今後、診察の都度、この「嫌がらせ行為」とそれに対応する警察のリアルな実態について、主治医も情報を共有することになり、先々、加害者だけでなく、所轄署ないしS警部補の責任をも追及することなった際、主治医も巻き込んでしまうのではないかと懸念する次第です。 だから、主治医に真実を知らせることに、ずっと躊躇していたのです。 そして、もう一つ。 S警部補から、「警察の不手際を、医師にまで話しやがって。この野郎!」と逆恨みをされることも怖かったのです。 しかし、本日、警察に2度電話して、S警部補の部下であるMさんとKさんから、それぞれ、「そのようなことを病院の医師に話すことに、警察のことは気にせずに良いですよ」と言われ、2人の音声を録音しました。 これで安心です。 S警部補どの。 できるだけ、あなたの事は話題にしないように、医師には真実を話すつもりですが、僕が話したことで、僕を逆怨みするようなことはしないで下さいね。
2021.01.21
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驚くべきことが起きました。 今年になっても、相変わらず、理不尽な「嫌がらせ行為」は続いているのですが、たまたま、加害者が油断した隙に、初めて、警察署に通報することが出来ました。 ところが、通報を受けた所轄署の内勤警察官がこの情報を外勤の警察官に連絡しなかったため、警察官は到着せず、僕は一方的に「嫌がらせ行為」を受け続け、満足した加害者は立ち去ってしまいました。 実は、「もし、嫌がらせ行為の最中に警察署に連絡することが可能なら、連絡してくれ。警察官を向かわせる。署内の全員に徹底させておくから」と、僕は、再三、この件の担当の所轄署警務課相談係長のS警部補から言われていました。 繰り返します。 このことは、僕の方から、警察にお願いしたのではないですよ。 これはS警部補の方から、言い出したことでした。彼は何度も、「もし、嫌がらせ行為の最中に警察署に連絡することが可能なら、連絡してくれ。警察官を向かわせる。署内の全員に徹底させておくから」と言ったのです。 証拠の音声データもあります。 ところが、実際に、そのような状況が生じ、S警部補から言われた通り、所轄署に連絡したのに、警察は何もしてくれませんでした。 僕が連絡した所轄署の人は、とても、S警部補から事情を聴いていたとは思えなかった。事情を全く知らない風でした。 S警部補どの。 結局、「署内の全員に徹底させておく」と言った話は嘘だったんですよね。 僕を逆恨みしての報復と捉えてよろしいですか?
2021.01.14
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これまで、何度も既述してきましたが、受刑者は対馬放火殺人事件の発生から50日後に逮捕されました。 警察は早い段階から、確認される範囲内で、殺害されたFさんが最後に会っていた人物は受刑者であることを把握していましたが、容疑者候補の1位から3位くらいまでは、同時に殺害されたS子さんの交遊関係の中にいる人物かいた人物、またはFさんS子さんの両方に恨みを抱いたことがある人物であるとメディアにはリークしていたのです。 その中で容疑者の有力候補だったのは交際相手の男性でした。 通常、最後に会っていた人物が疑われるのは、殺人事件では致し方ないことですが、この対馬放火殺人事件に限っては、受刑者は最初から強く疑われていた訳ではなかったのです。 メディアにリークした人物たちを含む、警察が強く容疑者候補だと信じ込んだ人物たちが次から次に捜査線上から消え、その消えた理由もメディア関係者は十分に警察から説明を受けた訳ではありませんでしたが、メディア関係者としても取材に行き詰まり、どうしようもなくなって、「最後に会っていた人物」である受刑者に取材を繰り返した次第でした。 その時、受刑者は仕事がなく、暇な状態でした。このことについて、受刑者に落ち度はありませんでした。 なぜなら、Fさんの漁船の整備の仕事は、依頼主のFさんが死亡したので、もはや継続することが出来ません。そして、Fさんの漁船の整備のため、受刑者は他の仕事を受けていなかったからです。 取材に来たメディア関係者たちに受刑者は真摯に対応しましたが、あるメディア関係者からは「忙しいと言いながらも、実際は暇だったから取材に応じた」旨のことを報道されました。 しかし、このメディアの論調は間違っていると、受刑者の同業者たちは言っています。 仕事が無いなら無いで、仕事を受注するために、受刑者は外に出かける必要があったはずなので、押しかけてきたメディア関係者に長時間付き合う時間はなかったはずだと言うのです。 受刑者としても、メディアが取材している最中、迂闊にその場を離れると、「やましいから逃げた」と思われるので、それが嫌で付き合ってやったとも考えられるのです。 取材中、テレビ関係の人達はカメラを回しっぱなしにすることが多く、また新聞記者は何十枚も写真を撮ります。 しかし、テレビ放送や紙面では、その中のほんの一部しか使われないのです。 メディア関係者が受刑者を取材した段階では、まだ、警察は受刑者の逮捕を決定していませんでした。 でも、Fさんと最後にあった人物であるということで、受刑者が容疑者の候補者であることはメディア関係者は把握していました。 だから、メディア関係者が受刑者を取材していた際の心の内は、こう考えられるのです。「彼は犯人かも知れないし、そうじゃないかもしれない。でも、そんなことは、取材している我々にはどうでもいいことだ。彼が犯人なら、撮影した画像の中で、やましそうな表情をしているところを使う。犯人でなければ、亡くなったFさんを気の毒がっているような表情のところか、事件に巻き込まれて迷惑したような表情をしているところを使えばいい」 取材陣を事務所に通し、真摯に対応している受刑者。 取材中、内容が内容なだけに暗い表情になる場面が殆どだったろう。 本当の犯人なら、こんな屈託のない笑顔を見せることは出来ないと取材したクルーの皆さんは思われませんでしたか。 この画を使われたのは、本音では「(警察や検察を利する)有罪の印象操作には加担したくない」と思っておられたからだと理解してもよろしいですか?
2021.01.05
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読者の皆様方。 明けましておめでとうございます。 今年も、どうかよろしくお願い申し上げます。 さて、年頭に当たって、是非、申し上げたいことがあります。 それは、僕の信条についてです。 僕は、自分さえ良ければ、自分さえ豊かに暮らせて、自分さえ生理的社会的欲求を満たすことが出来れば、他の事はどうなってもいいとは考えることが出来ない人間です。 周りに、何ら問題がなく、真っ当に一生懸命に生きているのに、理不尽なこと、筋が通らないことで苦しんでいる人がいると、僕は納得できません。 僕は以前、そこそこ恵まれた待遇のサラリーマンでしたが、非正規の従業員達が正社員とほとんど変わらない仕事をしているのに、少ない収入しか得られず、苦しい生活を強いられている実態を目の当たりにして、とても気の毒に思いました。 僕の部下には非正規社員が多くいたのです。 僕の仕事が評価されて、表彰されて営業報奨金など金一封をいただいた際、表彰された僕以外の社員達は、そのお金を高級車を買う頭金にするなど、自分達の贅沢な生活に直結させていましたが、僕はそういうことができませんでした。 いっそのこと、非正規の人達に営業報奨金を全額渡して、「みんなで分けなさい」と言ってやろうと考えたことが何回もあります。 でも、結局、それは実行しませんでした。 それをやると、非正規の人達の職業人としての尊厳を傷つけるかも知れないことに気付いたからです。 だから、僕は、自分が貰った営業報奨金を職場の親睦会費にしていました。 最初は全額、親睦会費にしていましたが、そのうち、非正規の人達が気の毒がり、「そんなお金で飲み食いできない」と言うので、彼らの精神的負担も考慮して、一部のみを親睦会費にするようにしました。 たとえば、歓迎会、送別会、忘年会などの宴会の費用で、参加者が一人当たり5000円を負担する場合、僕が営業報奨金から4000円を出すから、君たちは1000円だけ負担しなさいと、1万円の時は、僕が8000円出すから、2000円だけ負担しなさいというようにしたのです。 非正規社員の部下達からは、とても感謝をされました。 でも、それ以上に感謝したいのは僕の方でした。 僕は、社会の歪みによって理不尽にも苦しんでいる人が周囲にいるというのに、「自分は頑張って、この競争社会の中で勝ち抜いてきたんだから、贅沢が許されるんだ」なんて考えることは出来ないし、また、それを実行することもできませんでした。 もし、非正規の部下達が僕の営業報奨金で飲食してくれないと、僕の心が壊れていました。 僕には、なんら問題もなく真っ当に生きているのに、苦しんだり、悲しんだりする人が周りにいるのに、それを見て見ぬふりして、自分だけが幸せを享受しようなんてそんなことは出来ないのです。 その苦しみや悲しみの原因が、構造的な社会の歪みを放置している人達に由来するものであれば、尚更です。 だから、冤罪で苦しむ人たちの問題についても義憤を覚えるのです。
2021.01.01
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