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真島稲荷神社根津神社から東へ10分程歩いた三浦坂と赤字坂の中間にある路地の突き当りに鎮座します鎮座地は、現在細かく区画され、住宅が密集する地域です鎮座地の谷中2丁目一帯は以前、旧谷中真島町の一部でした周辺は上野台地の裾にあたり、根津神社方向にかけて坂が多いところで、真島稲荷の南の筋には三浦坂、北の筋には赤字坂など、坂に名前がつけられています。三浦坂は江戸期の三浦志摩守の下屋敷に通じる坂で、赤字坂は、明治期の資産家で後に破綻した渡辺氏の別宅へ通じ、大きな区画が多かったこの神社はそうした屋敷内に祀られていたのでは、そんな想像すら抱かせます上は明治期とほぼ現在の地図で赤枠が真島稲荷神社と三浦坂、赤字坂を示したもの神社の印はなく、鎮座地は現在ほど細かく区切られていません三浦坂と赤字坂の中間にある路地は、大名時計博物館の西斜面で突き当りになりますそこに神社が鎮座しています笹が生い茂る斜面中程に覆屋があり、路地から社殿まで写真のように石段が作られています鳥居は石段の幅に合わせてあるため縦長の印象を受けます鳥居の額束には真島稲荷と記されています神社全景切妻屋根に向拝が付けられ、神社幕、鈴、燈籠も備えられていますもちろん覆屋の前では狐が守護しています真島稲荷神社の一帯は、江戸時代に神が宿る森と、そこに鎮座する神社を江戸七森と呼ばれたようで、当時の神社周辺の環境が想像できるものかも知れません他に江戸廿一森、江戸三森など色々あるようです江戸七森は以下の七社を指すようです・椙(すぎ)森 椙森神社 中央区日本橋堀留町・初音森 初音森神社 中央区東日本橋・柳森 柳森神社 千代田区神田須田町・吾嬬森 吾嬬神社 墨田区立花・竹森 竹森神社 中央区日本橋小伝馬町・烏森 烏森神社 港区新橋・笹森 真島稲荷神社 台東区谷中この中で自身が訪れた神社は、江戸名所図会に挿絵が残る烏森神社当時は松や杉などが生い茂る杜に神社が鎮座していた様子が描かれているここ真島稲荷神社周辺が笹森と名が残る事から、当時は笹が生い茂る一帯だったのでしょう覆屋の前を守護する狛狐玉と巻物を咥え、真新しい前掛けがかけられた狐寄進年は見ていませんが、それほど古いものではないようです本殿は銅葺屋根の一間社流造で千鳥破風が付くもので、小型ですが破風や虹梁、木鼻など意匠が施されています戸の前に鏡と陶製の一対の狐の姿がありますこちらに祀られている祭神は・・・現地に由緒などがないため、推測になりますが、宇迦之御魂神または倉稲魂命であると思われます社殿左の擁壁に埋め込まれているプレート、そこには「奉納敷地 昭和63年2月吉日」とあり、他にも「真島稲荷改築奉納 昭和63年2月吉日」の碑がありましたこれらから、昭和63年以前より鎮座していると思われますが、今昔マップの明治頃の鎮座地を見ても、鳥居らしき姿はありません江戸七森のひとつとあるので、創建が昭和とも思えません江戸名所図会を確認しましたが、眞島稲荷の挿絵や記述は見つからなかった鎮座地は細かく区画され、住宅が密集しています旧谷中真島町のこの辺りは、上野台地の裾にあたり、西にかけて坂の多いところで、一番低い場所を藍染川が流れ(暗渠となり現存)不忍池の西側に注いでいました江戸時代は武家屋敷、明治の頃には資産家の別宅や寺院が残る大きな区画だった事から、そうした屋敷内に祀られていたものが、ここに社地を与えられ祀られた、そんな想像すら湧いてくる詳細は分からなかったが、地元で今も崇敬されているのが伝わってくる稲荷さんです本殿前から下町情緒の漂う谷中の路地を見下ろす路地を戻り、その先を左に進み三浦坂に向かいます三浦坂狭い道幅の緩やかな坂が大名時計博物館方向に続きます下町の狭い通りですが、お洒落なお店がひっそり点在するあったりは東京らしい根津神社付近のお店の混雑が嘘のようでした坂の上り口にある三浦坂解説三浦坂 台東区谷中一丁目四番「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれた安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があった別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという平成四年十一月 台東区教育委員会」東京というと、灰色のビルに囲まれた風景や、忙しく歩き回る人々によって生じる閉塞感が強く印象づけられますしかし、そんな中でも静寂が漂い、下町の風情が残る場所が存在することに、安堵の気持ちを覚えます真島稲荷神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 東京都台東区谷中2-1-5根津神社から徒歩 / 東へ徒歩約10分公共交通機関アクセス / 地下鉄千代田線「根津」駅より徒歩約6分関連記事 /・根津神社 (文京区根津)・湯島天満宮 (文京区湯島)・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ過去記事 / 烏森神社
2024.05.24
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湯島天満宮から不忍池の西側を北上した文京区根津に鎮座する根津神社湯島天満宮から徒歩で約2㌔、時間にして約30分程で社頭に辿り着けます千代田線利用なら湯島駅から乗車し、根津駅で降車すれば20分程だろう根津神社社頭3月30日から4月30日の間、境内ではつつじ祭りが開催され、国内外の参拝客で賑わっていました通常は落ち着いた雰囲気の神社も、この期間中は混雑しており、自由に歩くのが難しい状況でした左に社号標は「准勅祭社 根津神社」とあります准勅祭社とは、全国に鎮座する16社の勅祭社に準ずる社格として、明治元年に東京近郊の12社が指定されました明治3年にその制度は廃止され、これらの神社は府県社や郷社となりました直前に参拝した神田神社もそのひとつになります朱色の明神鳥居の額は根津神社鳥居をくぐり、境内のつつじと楼門の眺め有料でつつじ苑に入れますが、入るにも列ができており諦めました鑑賞するには離れて見ていた方がいいのかもしれないこのつつじ苑、戦災で被災した社殿の修復後、荒れていたこの丘に、花期や種類の違う3000株のつつじが植えられたことにはじまるそうです色とりどりに咲き移る3000株のつつじ、これだけ纏まると圧巻の美しさがある神橋と楼門神橋から楼門・拝殿方向の眺め根津神社の由緒は古く日本武尊の東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したことにはじまると伝わりますその後も文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています楼門瓦葺の入母屋造で、全体は朱で塗られ、組物など色鮮やかに彩色された三間一戸の楼門で左右の間に随神が安置されています文化庁DBによれば江戸時代の宝永3年(1706)当時のもので、戦災や震災から免れ、江戸内の神社の楼門では唯一残っているものという楼門の額左右の間に安置されている随神制作時期など詳細は分かりませんが、右側の像は徳川光圀(水戸黄門)の姿と言われています上は根津神社社殿全景由緒は古く、日本武尊が東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したと伝わり、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています神仏習合時は根津権現社と呼ばれ、神素盞烏尊(十一面観音菩薩)、相殿に山王大権現(薬師如来)、八幡大菩薩(阿弥陀如来)を祀る根津三社大権現と呼ばれていたようです現在地は江戸時代、徳川綱重の山手屋敷であり、のちに六代将軍綱豊(家宣)の生誕の地で、五代将軍徳川綱吉が兄綱重の子綱豊(家宣)を養嗣子に定めると、家宣の産土神である根津権現社に屋敷地を献納、楼門をはじめとした現在の社殿を整備し、宝永3年(1706)に千駄木の旧社地より遷宮したのが現在の根津神社の姿です境内右の神楽殿神社HPによれば「文京区の無形文化財の社伝神楽「三座ノ舞」などが奉納さる」とありましたが、建立時期など紹介されておらず、文化庁DBにも載っていなかった唐門・透塀宝永3年(1706)建立当初からの建物唐門は銅瓦葺の一間一戸で妻側に唐破風がある平唐門以前は天井に墨絵の龍が描かれてあったらしい両側の銅瓦葺の透塀社殿全周約200mを取り囲むもので、300年を経た今も傾きや歪のない塀ですHPによれば基礎工事は地中8mの深さまで施されているというこれら社殿の造営には全国の諸大名が関り、各藩の技術が注がれ、天下普請と言われただけのことはある参拝にはこの列に加わる、左手に手水舎がありますが撮るのを忘れていました拝殿前の凛々しい狛犬拝殿全景社殿は拝殿と後方の幣殿・本殿が一体となった権現造りで建立当初からのもの千鳥破風・唐破風向拝の連なりの眺め徳川の権威を示す様に豪華な装飾が施されています破風飾りなどに見られる卍の紋が神仏習合当時の名残を感じさせます江戸時代は天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺を務めていたとされます拝殿額根津神社の揮毫は有栖川宮幟仁親王(1812~86)によるもの権現造りの社殿側面の眺めここから左手の透塀にある西門くぐると境内社の乙女稲荷神社、駒込稲荷に続きます乙女稲荷神社社頭鳥居の右側の参道には出店が並び、後方の池を見下ろすように舞台造りの乙女稲荷神社が鎮座します小池から眺める乙女稲荷神社社殿に至る参道は奉納鳥居が連なり、信仰の篤さを物語っています拝所の額は「乙女稲荷社」とあります乙女稲荷神社祭神は倉稲魂命由緒は根津神社の遷座時、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞が祀られたことにはじまり、当時は穴稲荷と呼ばれていたそうです社殿の前は参拝する方、ポーズを決めて写真を撮る方でごった返し、参拝のみで写真には収めていません社殿から北に進むと駒込稲荷に至りますこの辺りにくると写真のような石仏が安置されていますこれは庚申塔と呼ばれ、暦の庚申の日の夜に集まり、般若心経を唱え、語らいながら夜を明かす、江戸時代に流行した民間信仰の名残で庚申塔自体、多様な形態があります庚申塔は道の辻などに塔が建てられ、明治以降は都市化に伴い、根津神社へ遷されてきたものです解説から一部抜粋①青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(1668)駒込村・施主15名②観音像・庚申供養・施主12名③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主26名④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主1名⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都鳥?(くにがまえに庚)馬米村・施主7名 区内に現存するものでは最古、都内最古は足立区花畑にある元和9年(1623)のもの⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主10名、宝永六己丑(1709)時代の流れから居場所のなくなったものが、背中合わせに纏められ安置されています庚申塔から先に鎮座する駒込稲荷神社その前に安置されている狛狐長いはずの頭や尻尾は欠け落ちてしまい、狐というより猫のフォルムに近いもの駒込稲荷神社根津神社が千駄木村より遷座する以前、この地が旧甲府藩邸時代の守り神として祀られたもので、本殿の遷座に伴って末社となった祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、倉稲魂命、級長津彦命、級長戸辺命をお祀りする乙女稲荷社は混み合っていましたが、駒込稲荷神社を訪れる参拝者は少ないようです北参道全景駒込稲荷神社から根津神社本殿後方沿いの参道を東に進んだ先にあり、表参道程の混雑もなく本来の神社らしい落ち着いた佇まいを感じさせるつつじ祭り期間の混雑を避けるなら、朝一番か夕方に訪れるのがいいかもしれない静かでしっとりと咲くつつじの姿を見ることができるだろう祭り期間中の昼間の境内が混むのは当然としても、周辺の飲食店までアトラクション待ちのような長い列ができるのには少々困惑しました根津神社創建 / 不詳、現在地遷座は宝永3年(1706)祭神 / 須佐之男命、大山咋神、誉田別命、大国主命、菅原道真公境内社 / 乙女稲荷社、駒込稲荷神社例祭 / 9月21日所在地 / 東京都文京区根津1-28-9参拝日 / 2024/04/25関連記事 /・湯島天満宮 (文京区湯島)・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ
2024.05.23
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東京都文京区湯島な鎮座する湯島天満宮湯島天神として知られる神社で、先に参拝した神田神社から徒歩で北に10分程の所に鎮座します社名が示す様に、境内には梅や撫で牛が安置され、祭神は菅原道真が祀られています神社の創建は古く、雄略天皇2年(485)の創建と伝わります当初は戸隠神社(長野県戸隠)から分祀した天之手力雄命を祀った神社として始まり、後に天神信仰の広まりにより菅原道真を合祀し、今では湯島天満宮と親しまれ、学問の神様として知られています府社 湯島天神表参道神田神社から清水坂を上り、丘陵地の尾根沿いの突き当りに社頭が現れます遠目に見える境内には修学旅行生の制服姿が目立ちますここから右手の隅田川方向にかけては、どこを行こうが坂しかない街中にあって田舎感漂う我家の立地環境によく似ているが、そうした立地に多様な店舗や背の高いビルが密集するあたりは東京らしい湯島神社表鳥居全景鋳造製の明神鳥居は笠木までの高さが約7㍍程あるだろうか都内に現存する鋳造製の鳥居では最古(1667年)とされ、東京都指定有形文化財になっています右手の社号標は「府社 湯島神社」とある表鳥居の大石の上に乗る柱の下部は、柱円周の4カ所に狛犬が施されていますこの狛犬の頭が丁度撫でやすい高さにあり、多くの人が撫でたのか、頭部は光り輝いていました狛犬の頭を撫でれば、すぐ近くの大学にも合格できる・・・?表鳥居から左の先にも大鳥居が建てられています天満宮笠木や額には梅紋があしらわれています湯島神社由緒「祭神 菅原道真公、天之手力雄命例祭 5月25日湯島天満宮(湯島天神)は、雄略天皇2年(458)に創建され、天之手力雄命を奉斎したのが始まり正平10年(1355)に郷民が菅原道真公の偉徳を慕い、本社に勧請文明10年(1478)太田道灌により再建天正18年(1590)には徳川家康公が江戸城に入り、当社を崇敬天正19年(1591)家康公は豊島郡湯島郷に朱印地を寄進その後も学者や文人の参拝は続き、徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移したことで、この地は文教の中心となり、湯島天満宮の崇敬がさらに高まりました元禄16年(1703)火災で全焼、宝永元年に綱吉公より金五百両を受ける明治5年(1873)郷社明治18年(1885)社殿改築、府社に昇格平成7年(1995)総檜造りで社殿を再建平成12年(2000)湯島神社から湯島天満宮へ改称」神社のはじまりとなった天之手力雄命は御存知のように力持ちの神様で岩戸隠れの際に岩戸の陰から、顔をのぞかせた天照を引きずり出し、この世に明るさを取り戻した立役者この際に吹き飛ばされた岩戸は信州にまで飛ばされ、戸隠山にぶつかり今の山容になったとされますそこに鎮座するのが戸隠神社で、はじまりは雄略天皇2年(458)にここから分祀され当地に祀られたことにはじまる後に菅原道真公が藤原時平の讒言から大宰府に左遷され恨みながら亡くなると、京では天変地異や疫病が頻発し、人々は不安を募らせ、道真の左遷に関わったとされる藤原菅根の落雷による死去、延長8年(930)の宮中で雨乞いの協議中に落雷で藤原清貫が死去するなど、道真公の怨霊の仕業との噂が広まりましたこのような背景から、菅原道真公は「火雷天神」と称され、「天満大自在天神」の神号を賜ったことから彼の神霊への信仰が「天神信仰」として世間に広まり、やがて正平10年(1355)に菅原道真公が祀られるようになり、現在は学問の神の印象が強く、天之手力雄命の影は薄いような気がします天三 火伏三社稲荷社鳥居をくぐった包丁塚の右手に鎮座する神社詳細は定かではないが、旧町名の湯島天神町3の商店主らによる天三火伏三社稲荷社奉賛会があるようで、現在の表鳥居前の通りに該当するようで、その町内にあった神社をこちらに祀ったものと思われます創建や祭神は不明手水舎境内には多くの梅の樹が植えられており、撫で牛や瓦に入れられた梅紋など、道真公の天満宮色が濃い拝殿正面の眺めこの辺りが修学旅行の集合写真撮影場所になっているようで、表鳥居から風の如くやってきては、写真を撮り、社殿後方の切り通し坂で待つバスに忙しなく乗り込んでいくしばし待ってようやく視界は開けました、左右に個性的な狛犬がいましたがアップを撮り忘れました学業の神様だけに修学旅行の定番コースになっているのかもしれない・・・後方から次の波がやってきたようだ、この場所は譲ることにしよう現社殿は平成7年(1995)に総檜造りで再建された権現造唐破風向拝や木鼻飾りなどは、コンクリート造りには見られない、木造ならではの職人技の見所がある拝殿左から社殿後方に廻り込む入母屋銅葺屋根の拝殿と本殿は石の間で繋がれ一つの建物として形作られ、右手の参集殿と拝殿は渡廊で結ばれています本殿後方に鎮座する境内社ここに二社が祀られています左が笹塚稲荷神社で右が戸隠神社戸隠神社湯島神社のはじまりとされる戸隠神社は境内北側の切り通し坂を背にしてひっそりと鎮座する個性的な顔の狛犬が守護する春日造りの社に天手力雄命が祀られています笹塚稲荷神社一間社流造で創建や祭神の詳細は定かではないですが、恐らく宇賀之御魂神を祀るものと思われます戸隠神社の右から切り通し坂に続く石段が伸び、途中に平成の改築時に新たに作られた登龍門があります切り通し坂から湯島天満宮を訪れる時、この門と「湯島天満宮」の新しい社標が目印になる当日だけの光景かもしれませんが、ここ切り通し坂に観光バスが連なり、駈け下りてくる生徒をピックアップして次の目的地に向け走り去っていく、修学旅行とはこんなに忙しなかったかなぁ湯島天満宮創建 / 雄略天皇2年(458)祭神 / 天手力雄命、菅原道真公境内社 / 天三火伏三社稲荷社、戸隠神社、笹塚稲荷神社所在地 / 東京都文京区湯島3-30-1参拝日 / 2024/04/25神田神社から徒歩アクセス / 北方向へ約10分(700㍍)関連記事 /・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ過去記事・キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」
2024.05.20
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神田神社神田明神として知られ、東京の中心、神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です写真は神田神社鳥居から随神門の眺め鳥居扁額は「神田神社」随神門昭和51年に建造された総檜造りで鮮やかな漆塗りの門で、左右の間に随神が安置されています随神門左の由緒と手水舎随神門左の由緒祭神一の宮 大己貴命、二の宮 少彦名命、二の宮 平将門命正式名称は神田神社で東京都心108町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、東京の食を支える市場発祥の地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々から崇敬されている御神徳は縁結び、家内安全、商売繁盛、社運隆昌、除災厄除、病気平癒当社は天平2年(730)、出雲氏族の真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された、江戸東京の中で最も歴史のある神社の一つ慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康が合戦に臨む際、当社で戦勝のご祈祷を行ない、9月15日、神田祭の日に勝利し天下統一を果たしたこれ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました家康が江戸に幕府を開き、江戸城(皇居)の拡張に伴い、慶長8年(1603)に神田台へ、さらに元和2年(1616)に城の表鬼門にあたるこの地に遷座以来「江戸総鎮守」として幕府・庶民から崇敬された明治に入り「准勅祭社」「東京府社」に定められ皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しく参拝された社殿は昭和9年(1934)に日本最初の鉄筋コンクリート・総漆塗りの権現造として建立されたもの祭礼の神田祭りは、二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内で将軍が上覧したことから、御用祭り・天下祭りとも呼ばれ、江戸三大祭の一つに数えられている現在は神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の108町会を巡行する「新幸祭」と氏子の町神輿約100基が神社に宮入りする「神宮宮入」を中心に賑やかに行われています2030年に創建1300年を迎える古社である手水鉢の寄進年は確認していませんが、関東大震災、東京大空襲の影響を受けているので、古来からの建物や寄進物は少ないかもしれません左右の間の随神像境内から眺める随神門境内左のだいこく様御朱印は、後方の神田明神文化交流センターで書置きを頂きました随神門から社殿の眺め左手に授与所、正面の社殿左側と後方に境内社が祀られています拝殿前の狛犬昔飼っていた大型犬が、ボール遊びをしてほしい時にこうした仕草をとっていたのを思い出します境内右から拝殿の眺め大きな狛犬の阿形の右に岩で組まれた山が築かれていますここにもう一組の狛犬の姿があります石獅子江戸時代の享保年間(1716~1785)に栃木県の名工・石切藤兵衛により造られ文久2年(1862)に両替商達から神田神社に奉納されたもの岩が組まれた獅子山の頂に獅子の夫婦、下に谷底へ落とされた子獅子の様子を表現している関東大震災で被災し、親獅子2頭以外は全て平成に再建されたもの親獅子2頭は千代田区指定文化財子獅子が谷底へ落とされ、親獅子が見守る光景は、昨今の過保護な子育ての在り方にあって、過度な厳しさと見なされてしまうかもしれません個人的には、手を差し伸べずに試練を乗り越える様を見守るのも必要だと感じます拝殿左から拝殿全景の眺め現在の社殿は震災後の昭和9年(1934)に建立された当時のもので、東京大空襲では、境内に焼夷弾が落とされたが、コンクリート造りの社殿は幸いにも焼失から免れたもの拝殿左に神馬舎がありますが、当日の暑さから「あかりちゃん」も日陰でくつろいでいた神馬舎左から右手、社殿後方にかけて境内社が鎮座します左側から魚河岸水神社「祭神 弥都波能売命祭礼 5月5日当神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願して、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(現在の千代田区大手町)に鎮座された元和年間に神田神社と共にこの地に遷り、大市場交易神と称されたその後、水神社と改称明治24年(1891)魚河岸水神社と改称、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の信仰により支えられている魚河岸会の所有した神輿は江戸の代表的山車だったが関東大震災で烏有に帰した昭和30年、当時の山車を再現し、隔年に行われる神田祭で拝観する事ができる」拝殿額には「水神」とある三天王 三の宮 小舟町八雲神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 6月6日当神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された小舟町は貞享年間(1688)までは小伝馬町と呼ばれ、御仮屋があり神輿が渡御されたことから小舟町の天王社と称されていた明治以前は江戸町域の廟疫退散のため、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に御輿を奉安祈願が行われた「東都歳時記」によれば当時の天王祭は1丁目に御仮屋が出来、大提灯・大注連縄が張られ2丁目には、七、八間の絹張の神文が造られその左右に随神が置かれ長さ5丈の杉の木を植え込み、鰹節の樽積が高々と重ねられた3丁目には、須佐之男命、稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭大幟をたて神輿の神幸を待った御輿は6月10日に明神境内から発興し、氏子180ヶ町を巡り、還興するのは13日か14日、その間の里程は13里(一里は約3.9 km)に及んだとされ、そのことから13里天王ともいわれた近年は八雲祭と改められ、小舟町街中に御仮屋がたてられ、大御輿の神幸が不定期に斎行される」拝殿左右に鉄製の天水桶が置かれている三天王 二の宮 大伝馬町八雲神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 6月5日当神社は江戸時代以前より祀られていたと伝わる三天王の二の宮天王祭は6月5日明神境内から発興し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御し、8日還興していたこの事から大伝馬町天王と称されたこの祭りは元和元年(1615)より行われ、江戸時代には他の天王祭と共に賑わいの一つとされた今日でも大伝馬町1丁目・本町3丁目東町会の諫鼓会の人々から篤く信仰されているまた、「べったら市」も神田神社兼務社の日本橋宝田恵比須神社で諫鼓会の人々により継承されている」三天王 一の宮 江戸神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 5月14日大宝2年(702)、武蔵国豊嶋郡江戸の地(現在の皇居内)に創建された大江戸最古の地主神古くは江戸大明神、江戸の天王と称されていた鎌倉時代、江戸氏の氏神として崇敬、その後も太田道灌築城より、上杉氏、北条氏など引き継き城内に祀られたが、慶長8年(1603)江戸城拡張に神田神社と共に神田台に遷る元和2年、(1616)現在地に遷座宿時代中期以降は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称更に明治18年(1885)に江戸神社と改称この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれ、貞享年間に神田多町一帯に青物商が集まり市場の形態が整い、市場の守護神として崇敬されてきた現社殿は平成元年神田市場が大田区東海に移転するにあたり、大御輿を御神座として再建鎮座された三天王祭・一の宮江戸神社の祭り起源は慶長18年(1613)と伝わり、神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内から発興し、南伝馬町の御仮屋に入り氏子の町々を渡御して14日還興され、神幸の様子は実に勇壮厳粛な行列だったと伝わる現存する大御輿は通称「千貫神輿」として親しまれ、神田祭りに担がれる凡そ200基の神輿の象徴である」江戸神社から更に右手を進み社殿後方に向かうと最初に祀られているのが浦安稲荷神社HPによると、「元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもので、天保14年に遷座された祭礼日 - 3月午の日」とあった由緒碑がありましたが、乱反射して内容は分からなかった三宿稲荷神社祭神 宇迦之御魂神祭礼 10月初旬創建の年代は不詳江戸時代より神田三河町二丁目、(他に皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併され、昭和10年司町一丁目に改称更に昭和41年内神田一、二丁目に編入され内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていたその後、当社神主邸内で祀られていた内山稲荷を合祀し神田神社末社として奉斎されていた現社殿は昭和41年10月に再建され、金刀比羅大神と共に鎮座する金刀比羅神社祭神 大物主命、金山彦命、天御中主命祭礼 10月10日天明3年(1783)、武蔵国豊島郡薬研掘(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建江戸時代、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が奉行されていた明治6年(1873)村社に列格往古は隅田川往来の船人の守護神として崇敬され、後に町の発展とともに商家・飲食業・遊芸を生業とする人々から崇敬されている昭和41年、宗教法人を解散しこの地に社殿を建立、三宿稲荷大神と共に鎮座した境内の水盤側面に文化2年(1805)と刻まれています水盤解説「千代田区指定文化財 平成9年(1997)指定この水盤は文化2年(1805)2月伊勢屋治兵衛が奉納安政3年(1856)6月、神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈の人々により再建された炭薪問屋・人宿・六組飛脚問屋などの町人が関わっている神田神社や末社の金刀比羅神社・三宿稲荷神社と、町人たちの関りを知ることができる」末廣稲荷神社当日は鳥居の前の藤の花が見頃を迎え、鮮やかな朱塗りの社殿を一層引き立てていました末広稲荷神社由緒「祭神 宇迦之御魂神祭礼 3月午の日創建の年代は不詳ですが、元和2年(1616)頃とされる古社往古より庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷として崇敬されている現社殿は昭和41年2月28日に東京鰹節類卸商組合により再建」末廣稲荷の前を彩る藤の幹回り小さな石の祠と多くの狐が祀られていました合祀殿(左)と祖霊社合祀殿は平成24年に旧・籠祖神社社地に建立されたもの猿田彦神、塩土老翁神を祀る籠祖神社をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)、富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)の七社を合祀している。右の祖霊社は神田明神を崇敬した氏子・崇敬者の先祖をお祀りする社上は境内の籠祖神社由緒「古くは寛政7年(1795)、現在の小伝馬町の籠職人、葛籠職人らの祖神として神田明神に鎮座されたもので現在も食神として崇敬されている境内には寛永から昭和にかけて奉納された石造寄進物が残されている」籠祖神社の頃から寄進された石造物群震災や戦災から免れ、先人達思いが今も境内に保存されています境内から随神門、社頭の眺めTVやドラマに登場する事もある神田明神聖地巡礼で訪れる人、海外から訪れる観光客が多いものと覚悟していた実際に訪れて見るとそこまでのことはなかった神田神社創建 / 天平2年(730)祭神 / 大己貴命、少彦名命、平将門命境内社 / 魚河岸水神社、小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社、江戸神社、浦安稲荷、三宿稲荷神社、金刀比羅神社、末廣稲荷神社、合祀殿、祖霊社所在地 / 東京都千代田区外神田2-16-2参拝日 / 2024/04/25関連記事 / GW前にディズニーリゾートへ
2024.05.19
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今回は前回掲載した辨財尊天から水堀沿いを4・5分南下した右側の屋根神を取り上げます堀の口5の不明社でも少し触れましたが、水堀の水源は御用水で確保されましたが、堀の水位調整のため辰之口水道大樋を造り、過剰な水は堀川へ逃がし水位の安定化を図りました上は尾張名所図会に描かれた名古屋城と水堀絵図の実線の赤丸が今回掲載する屋根神さまが祀られているあたりで、丁度辰之口水道大樋の横あたりに鎮座しています破線の赤丸は堀の口5の不明社と辨財尊天になります西区樋の口町1の屋根神さま全景過去にも訪れていますが、今も当時の印象のまま祀られています傾いた覆屋も当時のまま、幾分傾斜がましたように思えます力技でよいしょっとばかり垂直にして、梁を入れればまだまだいけそうな気がするのですが、手が回らないのでしょう覆屋の下には屋根違いの三社造りの社が祀られています覆屋の外観は寂しい限りですが、社は綺麗に手入れされ、日々御世話される方が見えるようですこの社について由緒や祀られた時期は良く分かっていません1945年(昭和20)の名古屋大空襲から復興を遂げ、樋の口町あたりの住居は比較的新しい建物が多いことから、被災前から祀られていた屋根神さまが、戦後この形で祀られたと思われます三つの扉には秋葉社、熱田社、津島社の札が納められているはずです供えられた榊も新しく、樋の口町1の守り神は今も健在なようです西区堀の口1 屋根神さま創建 / 不明祭神 / 不明辨財尊天から徒歩アクセス / 徒歩4分、約300㍍南下した右側地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩16分参拝日 / 2024/03/10所在地 / 名古屋市西区樋の口町1-15関連記事 / ・辨財天・瀧王不動明王・御深地蔵大菩薩・西区堀の口5 不明社過去記事 / ・樋の口町の屋根神様
2024.05.18
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前回に続き、今回も名古屋城西側の水掘の西側にある樋の口町からです樋の口町5の不明社から現在建設中のウェスティンナゴヤキャッスル方向に水堀沿いを進んだ右側に今回掲載する辨財天、瀧王不動明王、御深地蔵大菩薩が鎮座しています辨財天堂・瀧王不動明王全景堂は西北隅櫓方向を向いて建ち、右手に赤い覆屋が南向きに建てられています堂の妻壁に架けられている「辨財天」の額堂の扉は少し開けられており、堂内の様子を窺うことが出来ました神仏習合色が色濃く残り、左側に弘法大師像とその右に鏡が祀られ中央に龍の彫が施された大きな鏡台に置かれた大型の鏡、更に右にも二枚の鏡が祀られています龍の鏡台が置かれた社を瀧王不動明王と考察すると辨財天はどれなんだろう何れも詳細が分からず、ここに書き添えることはできません右手の覆屋全景覆屋に祀られた社とその左にも一社祀られていますが、詳細は不明弁財天の幟が立っていますが、この二社と無関係と思われます覆屋内の社外観から判断するのは難しいかぁただ虹梁の彫飾りをよく見ると狐の姿が彫られ、瀧王不動明王とは思えない雰囲気です「稲荷社ですかぁ」と思いたくなりますが、他に狐の姿も見られないので怪しところです分かりません左の社も…分かりません取り敢えず拍手して拝むことにする御深地蔵大菩薩(左)と辨財天堂の全景ホテル建設工事中の防護壁の北東角の一画に御深地蔵大菩薩と不明社、お地蔵さまが祀られています辨財天堂と関係しているのか?これも分かりません御深地蔵大菩薩全景中央の大きな像が御深地蔵大菩薩右の社は不明社、左の覆屋には左に重軽石とその後ろに石像、右側にも石像が安置されていますweb情報ですが、中央の御深地蔵大菩薩は昭和32年(1957)に新たに寄進された二代目とのこともともとの地蔵尊は、名古屋城築城時の慶長15年(1610)に創られたもので、築城工事に伴い犠牲となった人々の霊を鎮めるために建てられたと伝わります初代の御深地蔵大菩薩は、名古屋城の絵図を見ていけば記されている可能性もあるかもしれないですねしかし初代の像はその後の空襲で被災し、それに代わるものが現在の像となっています何れも水堀に向かって祀られているのはそうしたこともあるようです辨財尊天創建 / 不明祭神 / 不明瀧王不動明王創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区樋の口町4-14御深地蔵大菩薩所在地 / 名古屋市西区樋の口町3地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩16分参拝日 / 2024/03/10関連記事 / ・西区堀の口5 不明社
2024.05.17
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不明社何かの用事で名古屋城西の丸外濠あたりを通りかかった際、西区樋の口町5の一画で小さな社を見付けました情報としてはなにも得られませんが、ここに「小さな社がありましたよ」程度に掲載する事にしますこの西の丸外濠沿いを歩いていると、現在建設中のウェスティンナゴヤキャッスル付近にかけて、小さな社が点在していますまず、樋の口町の名の由来は名古屋城築城に伴い付けられたと言っても過言ではないようです慶長15年(1610)、名古屋城の普請が始まり、堀・石垣が工事が進み、御深井丸西・北の水堀も完成したととされます清州越により多くの商人・職人が移住し城下町の発展とともに、湧水量が追い付かず、水堀や御蓮池の水が不足するようになったそうです水事情を改善するため、延宝4年(1676)、庄内川の水を矢田川の下をくぐらせ(伏越)て御用水が造られましたしかし一方で大雨により水位が高くなり過ぎるため、この堀から堀川に逃がす水位調整施設が必要になり、その施設がこの辺りにあったことからこの名が来ているようです当所は堀の北岸のうち、東側は護岸がされず、御蓮池とつながっていたといいます現在東側に護岸がありますが、それが作られたのは意外に新しく、明治25年(1892)頃に現在の名城公園に練兵場が造られた際に護岸が出来たと言われます写真は西北隅櫓古名は戌亥櫓、清州櫓とも呼ばれ、清州城天守を移築したものされています昭和39年の解体修理の際、清州城天守の古い部材を転用し元和5年(1619)頃に造営されたことが明らかになったという国の重要文化財で三重櫓としては熊本城の宇土櫓に次ぐ規模のものという事です西区堀の口5の不明社はこの櫓の西向いに祀られています鎮座地全景民家の敷地の一角、歩道側に扉が設けられ社地があり、右側に地域広報板が立てられている個人祭祀の神さまなのか地域の神さまなのか外見から判断できませんなので扉を開けて参拝するのは避けました東西に細長い社地の奥に覆屋があり、高い基段の上に社は祀られています板宮造りの社には戸が三つあることから、屋根神さまのように秋葉神社、熱田神宮、津島神社の三社をお祀りしているのかも知れませんしかし、これを屋根神さまとするには情報がありません綺麗に手入れされ、大切にされているようです機会があれば地元の方に伺いたいと思います不明社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区樋の口町5地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩15分参拝日 / 2024/03/10
2024.05.14
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三筒町の八柱神社から県道353号線(大平折平線)を西に向かい峠を越えます白川町の信号のある交差点を左折、石畳ふれあい広場で右折し、高根山東麗に鎮座する石畳 八柱神社に向かいます神社までの移動距離は3.2㌔、約10分程でした上の写真は石畳ふれあい広場西側から直進した石畳町中道地区の写真神社へは普通車では近寄れないので歩いて行く方が賢明です①が麓から上ってくると最初に目にする光景です②は神社方向に通じる細い車道③は神社に向かう道④が社頭に向かう道まず現地についてこの入口が分からず、②の先に車一台止められる余地があり、そこに駐車して入口を探す事から始まりました社頭に向かう④の道を進んだ先の光景道は二手に分かれ、竹藪沿いを奥に進みました結果として、右手からも境内の舞殿横に繋がっていました竹藪を抜けると鳥居と社号標の真横に至ります鳥居の正面はフェンスで仕切られており、ここが社頭と言っていいでしょう八柱神社社標と歩いてきた参道?寄進年は昭和18年(1943)のものでした精一杯フェンスに寄って撮影した石造明神鳥居と舞殿に続く参道の眺め鳥居の寄進年も昭和18年(1943)で額は「八柱神社」舞殿と拝殿の眺め境内右手に境内社と見慣れた解説板が立てられています舞殿全景木造の方形造?で下部に腰板が張られた四方吹き抜けのもの舞殿左に藁馬が奉納されています藁馬祭礼用なのか、奉納されたものか定かではありませんが、こうした藁馬に神さまが乗ると信じられ、祭礼が終われば厄除けに燃やされるものと思っていましたが稲を収穫した後の藁は、昔から生活必需品で、身の回りの履物から縄、畑の飼料や建物の素材として利用されてきました米を得た後の廃棄物ではなく、日常生活と藁は密接に関わってきたのです舞殿から祭文殿の眺め大正11年に寄進された一対の常夜灯がありますが、狛犬の姿はありません祭文殿入母屋瓦葺の妻入り祭文殿で後方の鞘堂に繋がっています社殿全景鞘堂全景鞘堂内の本殿は春日造りの一間社本殿前には手で綯わられた注連縄と藁が供えられていました境内の解説板「15等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市石畳町上曽根39番地2祭神 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、市杵島姫命、瑞津姫命、田心姫命由緒社伝に寛文八戌申年(1668)11月21日勧請とある往古より石畳の氏神として崇敬明治6年(1873)村社に列格大正元年(1912)12月27日御殿建立昭和28年(1953)10月11日祭文殿新築例祭日 10月第二日曜日特殊神事 神輿」wiki情報によれば、藁縄の売却代を元手に高根山の荒れ地に植林が行われ、昭和28年(1953)にはその売却益で本殿が建立されたとある西加茂郡誌に記された八柱神社の記述は以下でした「村社天忍穂耳尊他七柱創建 未詳氏子 大字上渡合石畳祭礼余興 献馬・棒の手」境内には以下の境内社がありますが、そこについての言及はなく、詳細は良く分からなかった境内右の境内社社名札がなく詳細は不明ですが、覆屋の中に「天王社・金比羅社社堂が再建」の木札が掛けられていました左に二つの石の社があり、〇〇稲荷大明神と〇〇大権現と彫られていましたが、肝心の〇〇は写真から読み取れなかった右の板宮造りの二社が天王社・金比羅社と思われます多くの寄進者により、昭和に入り再建されたようです社地右から境内の眺め参道から社頭の眺め今はフェンスでここから先は進めませんが、その先は樹々が伐採され長い参道が続いていたように見えます今回の中馬街道沿いの神社巡りも石畳町の八柱神社でひと区切りとなりますこの後は、麓にある石畳ふれあい広場の足湯で足の疲れを癒し帰路に着きました猿投神社を訪れる前に、周辺の神社を巡ろうと始めましたが、参拝を見送った神社もあります爽やかな風が吹く新緑が綺麗な時期に、猿投神社と猿投山の三角点まで行きたいと思います石畳町 八柱神社創建 / 天正3年(1575)祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命境内社 / 不明社4社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 所在地 / 豊田市石畳町キビ夫西市野々町 八柱神社から車アクセス / 神社から県道353号線(上渡合土岐線)を西に向かい、引地交差点の信号を左折、石畳ふれあい広場で右折・直進、距離3.2㌔、約10分程 参拝日 / 2024/04/18今回の走行ルート / 起点名古屋市役所から往復約80km周辺の神社関連記事 / ・三箇町「八柱神社・農村舞台」 ・八劔神社 (豊田市西市野々町)・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.13
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前回掲載した八剱社から、車で東へ10分程の豊田市三箇町森前に向かい、八柱神社を訪れました写真は県道13号線三箇町地内の交差点を撮影したものこの道を直進すると木瀬町の国道419号線に至ります神社はここで右折した右側にありますここで右折すると、右手には土地改良碑が見え、その後方には三箇町公民館があります神社はその後方の山の頂に鎮座します社頭全景右手に石碑と薬師庵があり、細い道が社頭に続いています車は公民館裏手に停めさせてもらいました社頭は左手に大正7年(1918)に寄進された「村社 八柱神社」の社号標、正面の鳥居の脇に常夜灯、手水鉢、由緒書きがあります石造明神鳥居は大正6年(1917)に寄進されたもので、額は「八柱社」と刻まれていますそこから石段の先を見上げると、農村舞台が覆い被さるように建っていますお馴染みの解説「十二等級 八柱神社 旧指定村社鎮座地 豊田市三筒町森前14番地祭神 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命由緒 社伝に天正3年(1575)霜月16日創建とされています 慶長5年(1600)9月、尾州犬山藩主 成瀬彦太夫この地に来て当社を深く崇敬 称宜の位を京都にて受け、姓に鳥居を給い、帰国の途中、伊勢皇太神宮より神鏡を受け社殿に納め奉仕 した 領主久永岩見守年々米一俵を奉納する 明治5年10月、村社に列し、大正7年10月1日指定社となる例祭日 10月12日」とある参考までに、西加茂郡誌には創建未詳と記されていました、内容は以下「村社 八柱神社創建 未詳祭礼 10月12日所在地 藤岡村大字三筒例祭恒例余興 献馬、巫子舞」とありました石段右の手水鉢は大正7年(1918)に寄進されたもの石段中ほどに境内社の姿があり、石段の降り口のすぐ目の前に農村舞台が迫る石段中ほどに祀られている境内社参拝はしたものの、社名札がなく詳細は不明石段から農村舞台の梁が一望できる農村舞台から境内の眺め舞台に壁はなく、四方吹き抜けで隅柱には支えが付けられ、入母屋瓦葺の屋根を支えています豊田市農村舞台のリストに載っており、それによれば、安政3年(1856)の建立ということです当初は茅葺だったと思われます石段側の長い梁には3本の側柱が入っています舞台全景祭りともなれば、この広い境内に住民が集い、余興を楽しむのだろう舞台が今も現役なのかは分からなかったそれにしても周囲の杉の見事な事、舞台も小さく見える舞台の正面が八柱神社社殿城壁を思わせる石垣の上に入母屋瓦葺の拝殿と後方の覆屋が建てられています拝殿正面全景手前に狛犬の姿年齢不詳の狛犬は子連れ毬持ちのもの拝殿から本殿方向の眺め本殿の左右にも社の姿が見えます社殿側面拝殿と本殿は渡廊で結ばれています石垣が積まれた上に本殿が建てられており、拝殿からこの渡廊で本殿に行き来できるようになっています本殿域全景檜皮葺の一間社流造で、左右に板宮造りの社が祀られています本殿の脇にある社は、どれも社名札がなく、詳細は不明です拝殿から見下ろす農村舞台山里の小さな集落に鎮座する神社ですが、手入れの行き届いた広々とした境内は、参拝に訪れても居心地がいいものです降り口から社頭の眺め社頭前を横切る道路は県道353号線、次はこの県道を右に向かい峠を越えて白川町方向に向かいます社頭右の薬師庵左に殉国戦士之碑などが立てられており、薬師庵の右に二つの祠が祀られています薬師庵手前に手水鉢と弘法大師像、弥勒菩薩など石像が安置されています薬師庵の額内部を見る事は出来なかった右手の二つの祠左の祠の中の社は不明ですが、右の社には白い狐の姿がありました公民館から東の三箇町集落の眺め周辺の山々は新緑の淡い緑が綺麗な時期を迎えていました三箇町 八柱神社・農村舞台創建 / 天正3年(1575)祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命境内社 / 不明社2社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 三箇町所在地 / 豊田市三箇町森前10西市野々町 八劔神社から車アクセス / 神社から県道352号線(上渡合土岐線)を南下、白川町信号左折県道13号線で右折、直進し三箇町公民館まで、距離4㌔、約10分程 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・八劔神社 (豊田市西市野々町)・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.12
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岐阜県と愛知県の県境に鎮座する金刀比羅神社を後にして、次の目的地 八劔神社へは、県道352号線(上渡合土岐線)を南下し豊田市西市野々町集落に向かいます県道右側の里を見下ろす小山の前に社頭を構えます写真は金刀比羅神社方向の県道352号線参拝者駐車場は道沿いには見当たらず道路脇の路肩に駐車させてもらいました社頭はここから左方向の歩道を進んで行きます県道南側から八劔神社の社地全景を眺める社頭正面の眺め小高い山の斜面を開いて境内が作られ、周囲を杉の杜が囲んでいます歩道から写真のように石段が築かれ、その上の鳥居に続きます石段の中程に踊り場があり、そこに八劔神社の社標が立てられ、左手に由緒が掲げられています「十二等級 八劔神社 旧指定村社鎮座地 豊田市西市野々町森下250番地祭神 日本武尊、大碓命由緒 社伝に承久3年(1220)山中氏の祖が勧請鎮祭したとされている 後の永徳2年(1382)、文明5年(11473)、寛永15年(1638)に社殿の造営が行われた 元禄13年(1700)社殿を改め猿投神社より大碓皇子を分祀、堂殿に迎え祀った 遠近の人々子安神として尊崇し、明治5年()10月指定村社となる 美濃・尾張・三河特殊仰として、俗に彦屋の神と称し、多くの安産の祈願者が訪れる」見慣れた由緒書きは豊田市に戻って来た証だろう参考までに、西加茂郡誌では創建時期に少し違いが見られました「村社 八劔神社創建 大同元年(806)祭礼 10月21日所在地 西市野々町例祭恒例余興 献馬、巫子舞」とありました由緒にある承久3年(1220)に対し、大正15年(1926)西加茂郡教育委員会から出版された西加茂郡誌では大同元年(806)と記されています因みに猿投神社の創建が第14代仲哀天皇元年(192)とされるので、どちらをとったとしてもこの地域にあって堂々たる古社である事が分かります右手の社標(大正5年寄進)の前に手水鉢があり、そこから奥に向かって参道があります先には左手の慰霊碑があり、更に奥に小堂が建てられていました境内右隅に建つ小堂軒下に「四国八十八ケ所霊場」の木札があり、堂内を眺めて見ると弘法大師の姿も見える事から、この建物は弘法堂のようです再び鳥居前に戻り、境内を眺める石の明神鳥居は大正6年健之のもので、額は八劔神社とある境内左手の眺め手前に入母屋瓦葺の四方吹き抜けの建物と後方に社務所らしき建物があります右手の眺め二段に積まれた石垣の上に社殿が建てられています社殿正面の眺め一段目に常夜灯、狛犬があり、上段に社殿、左に宝物庫と思われる建物と境内社が纏められています拝殿右の大きく枝を張った巨木が印象に残ります石段下から拝殿の眺め拝殿は入母屋瓦葺の平入で一間の向拝が付くもので、後方で本殿を収める覆屋と繋がっています一段目の狛犬と二対の常夜灯狛犬の台座には昭和3年11月と刻まれている拝殿中央は前後吹き抜けで、両脇が翼殿になっており、祭文殿としての色合いが強く、全体的に拘った彫飾りのないシンプルな外観です拝殿から格子戸の先の本殿の眺めここから本殿の姿は良く見えず、参拝してから後ろに回り込んで見ます拝殿右の壁に無数の底の無い柄杓や、穴があけられた柄杓が奉納されていますこれは、出産を控え、底抜け柄杓を奉納し安産を祈願する風習で、こうした風習は古くから伝わっていますこうして祈願する事でかつては産婆さんがいらないほど安産に恵まれたと言われています拝殿右の巨木「西市野々のアカガシ市指定文化財 昭和49年(1974)2月10日樹高 21.6㍍胸高囲 4㍍根回り 15.1㍍枝張り 8㍍枝は地上3㍍から張り出し、最大8㍍に及び、幹の内部は中空ですが、樹勢は良好で葉数が多いのが特徴です平成24年3月豊田市教育委員会」2012年当時に記されたもので、実際に見上げると、ここに書かれている以上に見事な樹で、名の通り大きくなるにつれて樹皮は赤みを帯びてきます秋になるとドングリ状の実をつけ、イノシシや熊等の野生動物の食料にもなるつまり、彼らの餌場ということか…拝殿右側から覆屋下の本殿檜皮葺の一間社流造で虹梁や海老虹梁等には拝殿では見られなかった彫が施されています拝殿から境内を見下ろす左は神楽殿なのか農村舞台なのか定かではありませんここで本来は拝殿左の境内社を参拝するつもりでいましたが、アカガシと本殿を眺めて満足したのか、境内社に向かうのをすっかり忘れていました板宮造りの社と石の社が纏められていますが、また近くを訪れるので写真に収め掲載しておきます現在豊田市には82棟程の農村舞台があると云う事で、豊田市の農村舞台DBに森下の八劔神社はリストアップされていないようですが、長い虹梁で一間として作られたこの建物は、神楽殿と云うよりも、周辺で見られる農村舞台の趣が漂います立派な材木が使われた梁間3間、桁行6間の舞台いつ頃建てられたものか棟札を探すも見当たらず、定かではありません八剱神社創建 / 不明祭神 / 日本武尊、大碓命境内社 / 例祭 / 10月第2土曜日氏子域 / 西市野々町所在地 / 豊田市西市野々町森下250金刀比羅神社から車アクセス / 神社から県道352号線(上渡合土岐線)を南下、西市野々町平成地内の社頭まで1.4㌔、約3分程 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.11
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前回掲載した稲荷神社から国道363号線を戻り、行先表示板の豊田方向に進み、上渡合土岐線を2.3㌔先進んだ右側に今回掲載する金刀比羅神社の社頭があります社頭の上渡合土岐線から鶴里方向の眺め緩い下りの右カーブに写真の津島宮の赤い鳥居見えますそこが金刀比羅神社の社頭になり、この鳥居のすぐ左側に駐車スペースがあります県道から見る社頭の眺望社頭は杉や檜の山林で、県道から舗装された参道が境内に続いています石の明神鳥居が立っていますが、車窓からでは分かり難いかもしれません参道右に昭和2年に建てられた「岐阜県名所 三国山 金刀比羅宮」の石標と石碑があります「岐阜県名所」とはなんだろう、検索するもその内容はわからなかった明治32年(1899)に寄進された鳥居について、詳細を確認するために額部分のクローズアップを撮影しましたが、逆光のため文字の読み取りが困難でした鳥居から参道を進むと社殿が見えてきます境内の全景右に社務所と正面の左右に翼殿が付く拝殿、本殿は拝殿平側に接続する鞘殿に祀られています社殿全景由緒らしきものが見当たらず、岐阜県神社庁から調べて見た結果は以下「金刀比羅神社所在地 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地通称 金刀比羅さま主祭神 大物主命由緒由来 そうし、縁由不明祭礼 3月第1日曜日」とあり、鞘殿に祀られている流造の本殿が掲載されていました鶴里は鶴里村誌として纏められているようですが、web公開されていないため、詳細を知るには図書館に行くしかなさそうです石段左に真赤に燃え盛る火焔光背を持った不動明王と右に水神が祀られています年代は分かりませんが、中央の像は苔に包まれようとしています深い杜に包まれ鎮座する拝殿全景拝殿額はないけれど、鬼をはじめ瓦には金の文字が入る拝殿に接続する鞘殿静けさだけが漂う境内これを書いている頃、尾張旭市東部で猪が人を襲い、北海道ではヒグマが車に突進してきた報道が流れていた人里から離れ、樹々に包まれた神社に独り身を置くと良からぬ妄想を描く以前はそんな事気にもせず、藪漕ぎをしたこともありますが歳と共に臆病になったものです怪しい姿に出逢うことなく社頭に戻る金刀比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主命境内社 / 津島宮、水神例祭 / 3月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地稲荷神社 (鶴里町柿野)から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り、豊田、瀬戸・多治見の表示板で豊田方向に左折、県道13号線の2.3㌔先右側、約3分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.08
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GW何処に出かけても渋滞と人波が付きまとう長い休み家族サービスで観光地・帰省で運転疲れのドライバーにとっては、長いoffモードからonへの切り替えが上手くいかない事でしょう我家はGW期間中どこにも出かけなかったしかしGW期間には多様なイベントが催され、「出かけない」という選択肢はなかなか難しいものです岐阜県瑞浪市土岐町の「中島醸造」で5月3・4・5日にかけて蔵開き【春の宴2024】が開かれており開催中日の4日に訪れてきました酒蔵の横に繋がる土岐橋は、今も架け替え工事中で少し下流の仮設橋へ迂回することになります象徴的な屋根が重なる酒蔵の建物をこの角度で眺められるのも迂回のおかげかも知れない中島醸造全景創業は元祿15年(1702)、初代中島 小左衛門用信が年貢米を活かし酒造りを始め、300年以上の歴史を持つ酒蔵だけに建物にも趣があります日本酒フェスで小左衛門を飲む機会があり、それ以来蔵開きに訪れるようになりました知られる銘柄は「始祿」で、馴染みのある「小左衛門」の銘柄は2000年にリリースされたもので意外と新しい中島醸造の知名度を上げたのも「小左衛門」の貢献が大きいと思います門をくぐると御神木の榎が聳え、庭に大きな影を落としています以前はここがメイン会場で、テーブル・椅子が並び、屋台の出店もありました久し振りに訪れるとかなりリニューアルされ、御神木の周囲に石のテーブルと椅子が置かれ、以前の直売所はカフェになり、新たな魅力発信に取り組んでいるようです現在、メイン会場は蔵の内部に移され、炎天下を避けられるようになりました前回は割烹弁当が予約できましたが、今回それはなく、出店もありませんなので酒蔵近くのスーパーで酒の肴を買い求めてから訪れましたチケットを買い求め、20種類の日本酒のリストから好みと思われる酒をチョイスする今回は濁り酒もリストに加わっていましたが、残念ながら試飲することはできませんでしたまずは無料試飲大吟醸三種の飲み比べ、価格もそれなりにお高い甘味ではなく、旨味を感じるスッキリした飲み心地が好みの我家のランク付けは、価格考慮してロ・ハ・イの順でした会場ではスーパーでも見慣れたものから、限定販売のものなど直販されており帰りに、下の写真の限定販売品を2種類、土産用に購入しました今回ほゞ20種類を試飲しましたが、その中で⑱「最仕込貴醸酒 黄麹生」が貴腐ワインのようで面白い日本酒でした当然ながらとても甘いので、ぐいぐい飲むお酒ではありません以前は椅子に座って、ゆっくりと一日を楽しむことができましたが、立ち飲みスタイルになってからは、お客さんの回転が早くなったように感じます一通り美味しいお酒を堪能し、瑞浪橋経由であまから本店の五平餅を食べながら電車に乗るこの日は沿線の土岐市や高蔵寺でイベントが開催され、特に旧中央本線の愛岐トンネルが開放されていたこともあり、瑞浪乗車の自分達は余裕で座れましたが電車は混雑していましたほろ酔い気分に電車の揺れは心地いい、危うく降車駅を乗り過ごすところでした今夜のお酒はこれ次は5月19日、四日市で開催される「三重の大酒蔵市」です中島醸造 / 岐阜県瑞浪市土岐町7181-1訪問日 / 2024/05/04関連記事 / 「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました
2024.05.07
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前回掲載した銀幣社 白鳥神社から車で僅か1分程の距離にある妻木川の対岸に鎮座する稲荷神社に立ち寄りました白鳥神社から国道を西に向かい、一本目の道を左に入ると森の中に赤い奉納鳥居が連なる社頭が見えます参拝者用の駐車場はないため、通行の妨げにならない路肩に駐車することをお勧めします国道から左折すると写真の社頭が目に付くはずです社頭全景神明鳥居の右手に「稲荷神社」の社標(昭和30年10月寄進)と手水鉢があります鳥居をくぐると、稲荷の使い狐が鎮座していますその先には、奉納鳥居の連なる石段が山の奥へと伸びています柿野の里山にありながら、多くの鳥居が奉納されています最初の石段を上りきると写真のように平坦な境内が現れます手前の石標には「施主 上郷中」とあります・・・?鎮座地は現在鶴里町となっていますが、ここから少し北に妻木町上郷地区があり、以前はその一部に属していたことを示しているのかもしれません上郷地区の城山には土岐頼重が築城した妻木城址がありますが、その4代目頼照は妻木氏と称し代々居城したと云われ、万治元年(1658)に城は廃城となったようです常夜灯の先に覆屋が見えてきます左手の石標は明治44年(1911)に寄進されたもの当、稲荷神社について調べて見ましたが由緒等を知る手掛かりは得られませんでしたまた岐阜県神社庁の一覧に当神社は掲載されていなかった社頭の鳥居の寄進年が新しいので、創建時期は新しいものと思いましたが、「施主 上郷中」の石標やこの石標などから、創建は明治以前に遡るのかもしれません覆屋全景中には流造の本殿が祀られ、左に廿二夜塔が立てられています鶴里の田畑を見下ろす様に祀られる本殿祭神は定かではありませんが、恐らく倉稲魂命であろうと推測します廿二夜塔建立は明治34年(1901)と刻まれています稲荷神社社殿全景集落から離れていますが、綺麗に手入れされ、今も崇敬されているようです稲荷神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / ・・・例祭 / 不明所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野銀幣社 白鳥神社から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り一本目で左折、約1分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.06
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前回掲載した白鳥神社(柿野3660)から国道363号線を東進する事約5分程鶴里町交番の前に今回紹介する銀幣社 白鳥神社が鎮座します写真は鶴里町交番(右)と国道を挟んで白鳥神社社頭の眺めこの辺りは中馬街道の宿場として白鳥神社から東方にかけて集落が作られていたこの国道を直進すると明智方向へ伸びています国道から白鳥神社社地の眺めこの時期は源平咲きの梅が見頃を迎えていました社頭全景鳥居の先に二本の杉が聳え立っており、社殿は更に奥の山の裾野に鎮座します右の社号標は「郷社 白鳥神社」とあり、大正元年(1912)に寄進されたもの正面の石の明神鳥居も大正元年(1912)に寄進されたものでした鳥居の左に手水舎があり、右には百度石をはじめとする石碑が立てられています手水舎と手水鉢鉢の寄進年は読み取れなかったが、そこには金色の眼をした龍の姿があります右の石標左が百度石で他に記念碑が立てられています石段上り口の由緒「銀幣社白鳥神社鎮座地 土岐市端里町柿野字陣屋2262番地主祭神 日本武尊(小唯命)由緒創祀不詳、社伝によれば猿投神社の創建時に、 主祭神大唯命の弟君の日本武尊(小確命)を柿野に祀ったと伝えられているが、確証がないのて創建伝説とされている平安時代に制定された美濃国神明帳(977年頃) 「正五位下垣野明神」と記載され此の地の守護神として垣野明神が祀られていたこれが「柿野」の 地名の出自となっている依って10世紀前半の創建と推定されている柿野の産土神で明治6年(1875)に郷社と なり昭和28年に銀幣社に指定された末社熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例大祭建国記念祭 2月11日に近い日曜日初午・祈年祭 3月随時例大祭 10月第1日曜日新穀感謝祭 11月随時七五三詣り 11月随時」銀幣社があることから、瀬戸市から僅かばかり東に来ただけで、すでにここが岐阜県であることを実感します明治初期には、神社は県社、郷社、村社という格付けがされていました戦後には、全国の神社が一律に、平等に扱われることとなり、この制度は廃止されましたしかし、岐阜県では、社格が一律であることはおかしいと考え、金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類する、岐阜県固有の社格制度を導入しました境内全景右に社務所、その奥が農村舞台で正面の社殿と右側に境内社と射場があります今は使われていない農村舞台この舞台の建立時期などの詳細は分からなかった境内右の境内社と射場杉に包まれた斜面に社地を造り、三社が祀られていました右から白山神社、若宮神社、尺地神社この日は紅白の幕が張られていましたその向かいが垣野弓道場「柿」ではなく「垣」で表記されていました射場後方の斜面に蜜蜂の巣箱が設置されていましたこの辺りの神社の境内にはこうした巣箱が置かれているのをよく見かけます射場から左の社殿の眺め手前に樹齢を重ねた御神木と拝殿・幣殿・覆屋の社殿が見えます大きな瘤のある太い幹の少し上から、太い側枝に分かれ、上に伸びていますいかにも御神木らしい風格が漂います石段から拝殿の眺め拝殿前の狛犬(寄進年不明)はシンプルな造形の垂れ耳のものシンプルな意匠の社殿です岐阜県神社庁による当社の解説は以下の通りです「創祀未詳本國帳所載土岐郡七座の内垣野明神と称す里伝に曰く即ち本村当國土岐郡南方の山間に在りて三河國加茂郡と接す同郡猿枝山に鎮座の神は大碓命なり之れ当社に祭る神小碓命の御兄に坐せり故に当社は猿枝山同時に鎮座ありと云へり又、嘉吉2年(1442)11月葺き替えの棟札に武藤右衛門と記せり、其の頃の領主と見えたり何の所に居住人なるや知りがたし当社従来本村の産土神なり」創建について猿投神社と同時期に鎮座とあるが実際どうなんだろう嘉吉2年(1442)葺き替えの棟札までは間違いがないだろう、社頭の由緒にあるように伝説と捉えるべきだろう文中の「猿枝山」は恐らく猿投山の誤記と思われますここでも「垣野」の表記が現れた、現在の柿野になったのがいつ頃なのか気になってくる拝殿右側から覆屋方向の眺め覆屋右の境内社右から神明神社、杵築神社、熊野神社が祀られています覆屋左の境内社右から八幡神社、津島神社、猿投神社が祀られています覆屋の中の本殿は恐らく檜皮葺の一間社流造のように見えます拝殿の三面に廻り縁が付けられており、軒から一間向拝が迫り出しています拝殿から眺める手入れの行き届いた広い境内国道から車で直接境内に乗り入る事が出来そうです境内から鳥居の眺めです石段の前で鳥居の様に剪定された松が印象に残る常夜灯(1912)の前はかつて馬が行き交った中馬街道、旅の疲れは柿野温泉が癒してくれる銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例祭 / 10月10日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2240白鳥神社 (鶴里町柿野3660)から車アクセス / 白鳥神社から国道363号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.05
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鶴里 白鳥神社白岩 八王子神社から国道363号線を東進し、峠道の岐阜県境を越えると、視界が広がり、柿野町鶴里地内に到着します今回ご紹介する鶴里 白鳥神社は、国道沿いの左側に鎮座しています参拝者用の駐車スペースはありませんが、国道沿いには退避スペースがあり、そこに駐車することができます国道から眺める鶴里 白鳥神社の社頭です三国山の北嶺に位置し、三国の名が示すように、古くは尾張、三河、美濃の三国にまたがっていました中馬街道沿いの山間に僅かに開けた里に農地が広がり、田畑を取り巻くように民家が点在する長閑な場所に神社が鎮座しています社頭前の国道は、この先、三国茶屋を経て柿野温泉方向に続いています国道と並行するように社頭があり、右手に白鳥神社の社標(1981年寄進)と石の明神鳥居を構えていますまた、国道沿いに石仏群や小さな祠が祀られています社頭から見上げる境内は、山の斜面を何段かに整地し、鳥居から始まる長い参道が社殿に続きます鳥居の扁額は「白鳥神社」日本武尊(倭建命)が東国平定の帰途、伊吹山で大蛇の毒で息絶えた際、白鳥となって飛び去ったとされる白鳥信仰から始まったとされ、日本武尊を祀る神社です鳥居をくぐると目の前に石段常夜灯の先からまた一段上がると狛犬の姿があるその上に杉の木や広葉樹の杜に包まれた社殿がある上の境内から参拝に訪れる参拝者を見下ろすように狛犬が安置されています昭和14年(1939)に寄進された狛犬狛犬から左の石垣の前に、湧き水が注がれる手水鉢が置かれています鉢の寄進年は明確に読めませんが文政3年(1820)と刻まれ、多くの寄進者の名が刻まれています最後の石段を上がると、目の前に拝殿が迫ってきます岐阜県になると、由緒や創建を調べる資料も変わってきます取り敢えず、岐阜県神社庁から得られた結果として、鶴里町柿野には白鳥神社が二社鎮座していることが分かりました鶴里町柿野3660に鎮座する当社についての記述は、祭神と祭礼日のみでしたこれは、地史を見る必要がありますが、そこから得られた情報は後日、ここに書き加えることとして、先に進めます拝殿内から本殿方向の眺め本殿の造りは全く見る事が出来ません祀られているのが倭建命一柱だけとは思えない大きな扉です社殿全景入母屋平入の拝殿に切妻の幣殿と覆屋がひとつに繋がっています覆屋の左の境内社「氏神 ?山宮」と彫られていますが、?の部分が読めなかった覆屋の右の境内社三社を収めており、社の右に社名の書かれた木札がありましたが不鮮明で読めなかった当社の西側に雨沢公民館がありますが、そちらで何か情報が得られるかもしれません右にあるのは養蜂箱なので、迂闊に近づいたり触らないのが賢明以上が鶴里 白鳥神社となります狛犬が見守る広い境内と社頭の眺め参拝を終え国道から社頭と道路脇の石仏群を眺める聖観音像とと祠の中に祀られる馬頭観音像祠から右手の石仏群国道沿いや中馬街道沿いではこうした馬頭観音の姿をよく見かけます一番右外れの祠の左に石碑は「村中安全 薬師如来」、右手の社は不明ですが、左側に「庚」と彫られた鬼瓦が置かれており、現在の祠の形になる前は瓦葺の庚申堂だったようです国道南側から田植えを前にした田園と、この地を見守る白鳥神社の社叢の眺め正面の二本の大きな杉が社殿の場所を示しています、ここで久し振りにカエルの鳴き声を聞きました社頭の前が「予約相乗りタクシーのってこ」柿野線の「雨沢公民館」停留所になっていました路線図利用方法はこちら鶴里 白鳥神社創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 不明社4社例祭 / 11月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3660白岩 八王子神社から車アクセス / 八王子神社から国道353号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.02
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4月18日、瀬戸方面の岩巣山の北嶺の神社を回ってきましたこの時期は街から離れた清々しい光景が広がる郊外の神社巡りが気分がいいこの日天気は悪くなかったが、黄砂の影響から曇天のような空模様でした若葉が芽吹きだした山々の緑も精彩に欠けていました名古屋から約一時間程瀬戸市東部の白岩町に到着写真は山間を縫うように明智方向へ続く国道363号線の白岩地内の光景今回の目的地白岩町の八王子神社は、瀬戸市コミュニティバス片草線の白岩町バス停の北側に社頭を構えていますバス停から八王子神社社頭の眺め白岩町は古くはしら岩郷と呼ばれ、江戸時代は尾張国春日井郡の尾張藩領の白岩村で、後に東春日井郡白岩村となり、上品野村、品野村と編入・合併を経て現在は瀬戸市白岩町であるこの国道沿いには中馬街道の解説を多く見かけます古くは中山道・下街道の脇往還道として東濃と瀬戸を経て名古屋を結ぶ信州飯田街道と呼ばれ、馬で塩や物資が運ばれ、中馬街道とも呼ばれています麓の品野は馬継地として栄え、馬継地から白岩町北側の山間に続く道は、坂瀬坂と呼ばれ九十九折れの厳しい道が続き雨沢峠に伸びており文化庁歴史の道100選のひとつになっています現在は山間を縫うように国道363号線が明智方向へ続いています社頭右側の表忠碑国道沿いの斜面から境内に続く石段が上に伸びており、石段の先には社殿が覗いている白岩町 八王子神社について明治24年(1891)の地図には既に鳥居の印が記載されており、神社について調べて見ると創建は正保元年(1644)以前とされ、祭神は須佐之男命と天照大神との誓約で誕生した五男三女神を祀つる、瀬戸市白岩集落の氏神様である神社庁の解説によれば例祭は10月第4日曜日とあった神仏習合色の残る神社というのが訪れた感想です石段中ほどで階段は途切れ踊り場となっており、左側に行者堂と石仏群が安置されています三方は石が積まれ、大きな一枚岩を上に乗せて作られた石祠祠内には明和7年(1770)の銘が刻まれた役行者の石像が安置されています石段脇に5体の石仏があります銘文は確認していませんが、その佇まいから古い年代を感じますここから再び石段がはじまります石段を上りきると目の前に拝殿が見えますその先の山の斜面には石垣が組まれ社地が造られており、そこに社殿が建てられています石段左の手水鉢すぐ下の国道を時折通り過ぎるトラックやバイクの音が漏れてくるが、杉の杜に包まれた境内は静寂に包まれている境内左から社地全景右の舞殿と石段上の拝殿、本殿が主な建物で、本殿左に境内社が祀られています舞殿から本殿方向の眺め舞殿は入母屋妻入りで桁行2間、梁間一間の瓦葺屋根のもの石段入口から拝殿の眺め高く積まれた石垣は左右で積み方や使われる石が違う様に見える拝殿前に一対の常夜灯がありますが狛犬の姿はないようです拝殿と本殿側面全景拝殿から本殿の眺め本殿の前に二対の小さな狛犬の姿があった流造の本殿の左側には社名が不明な境内社があり、本殿の右側にも境内社が存在します境内左の斜面に赤い社が祀られています社名札はありませんが白い狐の姿があるので稲荷社のようです拝殿から下の境内の眺めこうして見下ろすと石垣の高さも伝わるだろうか手前の常夜灯は大正2年(1913)に寄進されたものでした舞殿から石段方向眺め6本の柱で瓦屋根を支えています境内から社頭を見下ろす油断すると痛い目に合いそうな石段です、手摺がありがたい石段途中から南の岩巣山方向の眺め3月28日にこの道を走りましたが、その時と比べて山々の樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました八王子神社創建 / 不明祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 白岩町所在地 / 瀬戸市白岩町385深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 名古屋市役所から車で約1時間 公共交通機関 / 瀬戸市コミュニティバス しなのバスセンターから瀬戸市コミュニティバス片草線で白岩町バス停降車参拝日 / 2024/04/18関連記事 / 今回移動ルート
2024.05.01
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