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砂入神社。不明社(十軒神社)から北西に5分ほど、名鉄の線路が作る三角地帯の東角方向に向かいます。次の目的地は西枇杷島町砂入町に鎮座する「砂入(すいり)神社」です。不明社(十軒神社)から生活道を進むと左に社殿が現れます。鎮座地は砂入地内の五差路の角にあり、制限のある三角形の社地の頂点に社殿が建てられています。西側から社地全体の眺め。社頭は右の建物の手前にあります。三角形の社地を玉垣が囲み、社頭の分かり難い神社で、社標や鳥居は変形地ならではの配置になっています。そのひとつがこの社標。社名は参道に向いて建てられ、その後方に手水鉢が置かれています。そして昭和9年に寄進された鳥居も社地の中に立てられ、拝殿に参道が続いています。奥に進むほど狭くなる社地を上手く利用し、南向きの神社の体裁が作られています。参道中ほどの常夜灯と拝殿・本殿の眺め。拝殿前の狛犬、寄進年は未確認。拝殿から本殿域の眺め。砂入神社の境内には由緒を示すものはなく、境内の鳥居の寄進年しか見ておらず、創建時期や祭神の情報は不明です。流造の本殿は三つの扉が見られ、三柱祀られているようです。愛知県神社庁はじめ、西春日井郡誌など目を通しましたが情報は得られません。時系列で地図や航空写真から砂入をみていくと、大正9年頃までは一面田んぼが広がっており、集落はなく、神社の姿は見られません。昭和20年頃の航空写真になって、三角形の社地に社殿らしき姿や民家が見られます。ここから先は推測になります。鳥居の寄進が昭和9年ともあり、農地の宅地化が進み、次々に家々が立ち並びはじめます。それまであった小さな社を三角形の社地に合祀し、砂入神社として創建されたものかもしれませんね。祭神は天照大神、須佐之男命、迦具土神だろうか。詳細は分からずじまいですが、砂入の守り神として親しまれているようです。砂入神社祭神 / 不明創建 / 不明 境内社 / ・・・氏子域 / 砂入例祭 / 不明所在地 / 清須市西枇杷島町砂入不明社(十軒神社)から砂入神社 / 不明社(十軒神社)神社から北西に400㍍・徒歩5分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)・辰新田 屋根神・村社 松原神社・六軒神社・橋詰神社(西枇杷島町橋詰)・不明社(十軒神社)
2025.02.17
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前回掲載した橋詰神社から美濃路沿いを東へ進み、庄内堤沿いの不明社(十軒神社)へ向かいます。大正時代と現在の地図から今回の徘徊ルートと今回掲載するスポットをマップに落として見ました。左のマーカーが前回記載した橋詰神社になります。橋詰神社から美濃路沿いを東へ100㍍、2分ほどの場所に写真の道標とモニュメントが置かれています。体格のいい上半身裸の男性が肩に担ぐ大きな大根、このモチーフはどこか見覚えがある。これは尾張名所図会の挿絵にも描かれている人物で、当時は美濃路を行き交う人々で街道沿いは賑わい、市も立っていたようで、江戸時代後期には方領大根が商われていたことも描かれています。左手には道標と解説板が立てられています。道標には文政10年(1827)と刻まれており、外観に大きな風化もなく、200年を経たものには見えません。傍らの解説。「美濃路道標・美濃路は江戸時代、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として発達しました。 当時、旅をするのに道標や一里塚はなくてはならないものでした。 見落すはずはないものでしょう。・道標には次のように彫られています。 東 にしハ つしまてん王きよす宿みち 西 飛がしハ とうかいどうなごや道 南 文政10年丁亥七月吉日 北 いわくら道 南 支政十丁余七月吉日 北 いまくら道・この道標は文政十年(1827)に建てられた、旧枇杷島橋小橋のたもとに安置されていたものです。 交通の要地であった当地の歴史を物語る大切な道標です。」「なくてはならないもの」確かにそうだね。ここまで歩いた美濃路は、庄内川を渡り名古屋城下へとつながり、堤沿いに上流に続く道は岩倉街道となり小牧城下へ向かいます。この道標から庄内川対岸の中島黒體龍王大神付近にもこうした道標が立てられています。かつてのこのあたり、庄内川を挟み現在の清州と対岸の西区を行き来するには渡しに頼るしかありませんでした。川の中ほどには中島と呼ばれる洲があり、中島には集落も出来ていました。1622年(元和8)、この中島を中継として挿絵にある大小二つの橋が架けられました。尾張名所図会には「国中第一の大橋で、東西に二橋を架け、大橋は長さ七十二間(約130㍍)、小橋二十七間(約48㍍)、杭・桁・梁・高欄其他に至るまで桧材を用い、結構の善美で見るものを驚せ、両橋の間に中島があり南北六町(約600㍍)ばかり川中へ墾出す」とも記されています。多少盛り気味とも思える内容ですが、当時の技術では庄内川の川幅を一つの橋で架ける事は難しく、中島が無ければ実現しなかったともいえます。この二つの橋により一段と人・物の流れは円滑になりました。レリーフには尾張名所図会の青果市の賑わいが描かれています。往時は江戸の千住や大阪の天満と並ぶ、日本三大市場のひとつに数えられるほどで賑わったようです。道標から岩倉街道を上流に向かうと写真の名鉄本線と犬山線の踏切付近に至ります。踏切の右の建物は、尾張西枇杷島まつりで曳き回される橋詰町の「王義之車」山車庫。享和2年(1802)に建造されたものだという。名鉄本線と犬山線が交わるため、運が悪いと結構待たされます。ここの左側は本線と犬山線が分岐するトライアングル地帯で、鉄道マニアの間では有名なスポットなんだとか。岩倉街道沿いの堤の左に小さな社が祀られています。ここが今回の目的地になります。個人的に、こうして堤沿いに佇む神社を見ると「天王社」か「津島社」と相場が決まっていると思い込んでしまいますが、グーグル先生によれば「十軒神社」とあります。所在地は西枇杷島町十軒裏で、現地では「十軒神社」として肯定するものがなく、由緒等も見られず社名は定かになりません。駄目もとで愛知県神社の登録神社を探して見ましたが、登録リストには載っていません。頼りにしていた西春日井郡誌にも所在地、社名ともに記載がなかった。ならば今昔マップはどうかとみて見ると、鳥居の姿もない。このブログでは不明社(十軒神社)として表記します。神社正面全景。手前の常夜灯は昭和4年(1929)の寄進年が刻まれていましたが、社名までは刻まれていませんでした。綺麗な基壇上の玉垣にも社名につながるものは見られず、賽銭を供え、拝んではみたものの、何を祈願すればよかったのやら。すぐ西側にハイキングの立ち寄りポイントの老舗味噌屋がありますが、そこで聞けばスッキリする回答が得られたのかもしれない。運良く祭礼日と重なれば、吊るされた提灯を見ればスッキリするのだろう。不明社(十軒神社)祭神 / 不明創建 / 不明 境内社 / ・・・氏子域 / 十軒裏例祭 / 不明所在地 / 清須市西枇杷島町十軒裏65橋詰神社から / 橋詰神社から美濃路沿いに東へ400㍍、徒歩5分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)・辰新田 屋根神・村社 松原神社・六軒神社・橋詰神社(西枇杷島町橋詰)過去記事・中島黒體龍王大神社
2025.02.14
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前回の六軒神社から美濃路を5分ほど東に向かった先の橋詰神社に向かいます。写真は美濃路沿いの問屋記念館前の観光マップ。美濃路は東海道(宮宿)と中山道(垂井)を結ぶ全長57Kmの脇往還として整備され、江戸と京・大阪を結ぶ幹線で、人や物が行き交い、尾張名所図会にも当時の街道の賑わいが描かれています。街道の面影が残る道筋や五条川堤の桜に清州城、「尾張西枇杷島まつり」など見所の多い地域。街道を進むと新幹線と東海道本線の高架が現れ、その右手に尾張西枇杷島まつりで曳き回される5輌の山車のひとつ、東六軒町の奉享車を収める山車庫が現れます。建造が文化2年(1805)とされ、以来町内で受け継がれています。6月一週の土・日の祭り当日まではこちらで保管されます。橋詰神社は更に街道を進み、県道190号線の高架を目指します。赤い大きな扉が象徴的な問屋町の頼朝車山車庫と右手の橋詰神社社頭全景。この山車庫に保管されている頼朝車は、享和2年(1802)の建造とされ、大きさは西枇杷島一を誇るといいます。社頭は右手に大正14年(1925)に寄進された「橋詰神社」の社標と石造り神明鳥居が建てられています。右手は美濃路の上を横切る高架は近年新設された県道190号の橋脚。橋詰神社の詳細については境内に由緒書きがなく調べが必要でした。いつものように、愛知神社庁を見るも、清須市の掲載神社一覧には社名・所在地ともに橋詰神社の記載は見つからなかった。大正12年(1923)に出版された「西春日井郡誌」の橋詰神社の記述は以下。「橋詰神社西枇杷島町大字下小田井字橋詰町五十七番地にあり。須佐之男命を祀れる村社にして、承應三年(1654)の勸請なりといふ。尾張地名考には寛文四年(1664)とある。元は、天王社と稱したりしが、當地古、橋爪町又は橋詰町と呼びし故いつとなく斯くは町名を冠するに至りたり。境内面積191坪、社殿と拜殿あり。境内神社に神明社(祭神 天照大神)、熱田社(祭神 倭建命)、秋葉社(祭神 火具土命)、金刀比羅社(祭神 大物主神)あり。當社賓に徳川公より拜領の太鼓(中三呎)一あり。例祭は6月11日にして、祭車二輛を出し、町内を曳き巡り、観衆群り来りて難沓を極。枇杷島祭りの体に詳設すべし。」とありました。はじまりは天王社、神明社として祀れたようですが、現在の橋詰神社に社名が変えられたのは明治に入ってからのようです。現地は県道橋脚西側の美濃路に接し、南向きに鎮座しており、社殿は真新しいものでした。以前は橋脚東側に鎮座していましたが、令和2年(2020)県道190号線の道路拡張にともない、現在の西側に遷座を余儀なくされ、遷座するにあたり、社殿の建て替えが行われたようで、山車庫もその際に新たに移転されたようです。社殿の真新しさに比べ、境内寄進物の手水鉢や狛犬、常夜灯などに年代の違いを感じるのは遷座前のものが移築されているからで、先人の思いが込められた寄進物、老朽化で危険なものでなければ移築を選択するのは良いことだ。鳥居先から境内の眺め。参道右手の手水舎、手水鉢は嘉永元年(1848)に寄進されたもの。光り輝く提灯櫓と年代を感じさせる常夜灯や狛犬。拝殿全景。拝殿右手にも鳥居が見られ、境内社の秋葉社と金刀比羅社が纏められています。拝殿前の黒ずんだ狛犬は大正14年(1925)に寄進されたもので、大量生産されたものと容姿が違います。拝殿額は「天王宮」とある、一皮むいてリフレッシュされたものだろうか。格子戸から本殿域の眺め、本殿の造りは・・・分からない。拝殿左から社殿の眺め、本殿は内削木の千木が付く神明造のようで、本殿域左にも不明社祀られているようです。西春日井郡誌から察するに左手は熱田社だろうか・・・分からない。境内社の秋葉社と金刀比羅社。灯明台(大正13年)や鳥居、燈籠も移築されたようですね。秋葉社(右)と金刀比羅社。板宮造の社に大きな劣化はなく、これも5年前に新調されたものだろうか。手水舎から見る境内全景。新たな場所の新たな社殿、氏子や崇敬者に護られて、祭りとともに歴史と風格を増していくことだろう。橋詰神社祭神 / 須佐之男命創建 / 承應3年(1654)境内社 / 秋葉社、金刀比羅社、不明社氏子域 / 橋詰町例祭 / 6月第一土・日(尾張西枇杷島まつり)所在地 / 清須市西枇杷島町橋詰57番地六軒神社から橋詰神社 / 六軒神社から美濃路沿いに東へ100㍍、徒歩5分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)・辰新田 屋根神・村社 松原神社・六軒神社
2025.02.13
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前回掲載した松原神社から、美濃路を5分ほど東に向かった、美濃路沿いに社頭を構える神社が六軒神社です。美濃路沿いに南を向いた六軒神社社頭全景。右手に「六軒神社」社標があり、神明鳥居の一ノ鳥居は参道の少し先に建てられています。街道と接しているため、間口が狭く、奥に長い社地で、参道の先に二ノ鳥居と社殿がある。大正7年(1917)寄進の一ノ鳥居から境内の眺め。参道脇には明治20年(1887)に寄進された常夜灯が社殿に続きます。参道中ほどから玉垣が社地を囲っており、その先に二ノ鳥居と社殿、左に大きく伸びた杜を持っています。境内には私の見た限り六軒神社の由緒書きは見当たらなかった。また、愛知神社庁清須市の掲載神社一覧から社名・所在地ともに六軒神社の記載は見つからなかった。大正12年(1923)に出版された「西春日井郡誌」による六軒神社の記述は以下。 「六軒神社西枇杷島町大字下小田井字東六軒町十番地にあり。祭神 須佐之男命、伊邪那肢命、伊邪那美命、火具槌命を祀れる村社なり。勸請年月詳ならず。大正二年十一月十日、末社洲原社、秋葉社を合祀す。境内208坪、神殿、玉串御門、三玉垣等あり。境内神社洲原社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冊尊)秋葉社(祭神 火具槌尊二所)あり。例祭六月十一日、祭車二輛を出し大に阪ふ。 社寶に徳川公より拝領の太鼓あり(直径一尺六寸五分、立一尺四寸五分、丸六尺四分) 」とあった。創建は明暦2年(1656)と伝わり、境内には文政7年(1824)の銘の入る手水鉢等が寄進されていました。「祭車二輛」については、200年の歴史を持つ「尾張西枇杷島まつり」では、橋詰町、問屋町、東六軒町、西六軒町、杁西町の5輌の山車が曳き回されます。東六軒町の山車は泰亨車、西六軒町が紅塵車と呼ばれているそうです。現地。境内社の内容は一部「西春日井郡誌」と違いが見られ。境内には記載のない金毘羅社が祀られ、洲原社、秋葉社の個別の社は見当たらなかった。本殿が三社相殿のため、そちらに祀られていると思われます。参道を進むと、境内は横に広がりを持ち、左側に境内社の金毘羅大権現が祀られています。本殿域全景。金毘羅大権現の石標は大正の元号が刻まれ、写真右手の大きな自然石にも文字が刻まれていましたが読み取れませんでした。金毘羅社から見る六軒神社社殿全景。漱水と刻まれた「手水鉢」の側面に文政7年(1824)の銘も見えます。二ノ鳥居前の常夜灯。竿には〇正4年と銘が刻まれていますが、〇が大なのか天なのか良く分からなかった。二ノ鳥居前の狛犬。拝殿全景。右三つ巴の紋が入れられた賽銭箱もあり、外観は神明造の拝殿に見えますが、神門でもあり、祭文殿の役割を持つような造りの建物。このブログでは拝殿としておきます。拝殿の扉は開け放たれており、渡廊の先の本殿が間近に見えます。内部の扁額は「六軒社」正面の本殿は三社相殿。拝殿妻側に古い額が掛けられています、施凱と書いてあるような、〇はなんだろう・・・分からない。本殿全景。神明造で棟には鰹木と内削ぎの千木が付くもの。東六軒の町並み聳える杜は、数本の楠の巨木が形作っています。江戸時代から受け継がれてきた六軒神社、この町のシンボルツリーと言っても過言ではないでしょう。六軒神社祭神 / 須佐之男命、伊邪那肢命、伊邪那美命、火具槌命創建 / 不明(明暦2年とも)境内社 / 金刀比羅神社氏子域 / 東六軒町、西六軒町例祭 / 6月第一土・日(尾張西枇杷島まつり)所在地 / 清須市西枇杷島町東六軒10番松原神社から六軒神社 / 松原神社から美濃路沿いに東へ350㍍、徒歩5分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)・辰新田 屋根神・村社 松原神社
2025.02.12
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東笹子原屋根神から美濃路沿いを東へ。屋根神から徒歩1~2分ほどの場所に「村社 松原神社」が鎮座しています。街道から見た社頭の第一印象は境内に聳える6本ほどのイチョウの大木です。社頭は右側に大正元年寄進の「村社 松原神社」社号標と石の神明鳥居を構えています。参道右手の注連縄が巻かれたイチョウの古木。龍の祠と呼ばれる樹洞があり、中に社も祀られています。平成6年に改築された際の記念碑。参道左の手水鉢(寄進年未確認)境内の「松原神社由緒」鎮座地:愛知県西春日井郡西枇杷島町辰新田39番地境内:140坪御祭神:須佐之男命を主神として、ほかに火之迦具土神と大物主命を奉斎する。「尾張徇行記」によれば、松原神社の創建は、今から約330年前の寛文8年(1668)である。現存の棟札には天明7年(1687)に天王社を勧請したことが記されている。創建時には親しく天王社と呼ばれていた様で、明治9年(1876)の棟札には松原神社とあり、 その頃から松原神社と呼ばれるようになる。ただ、天保2年(1831)の棟札に「松原神社素戔鳴尊社」と記す。境内には樹齢推定4・500年の「いちょう」のご神木がある。現存の拝殿は、享和元年(1801)約200年前桧皮葺で造営され、昭和37年(1962)に瓦葺し、代々の「子供連中」の教えの場でした。古い石造常夜燈に「安政4年(1857)丁巳正月吉日」の一対が残る。境内正面本殿には次のお三神を奉る。摂社として津島社(津島市):須佐之男命。摂社として秋葉社(静岡県):火之迦具土神。末社として出雲社(島根県):大物主命。境内左側脇殿には金刀比羅社(香川県):大物主命を奉る。犬物主命は四国から出雲に渡られたと謂れ、大国主命とも謂れる。庶民の間では、大黒様として親しまれてきた神様である。年中行事 1月2日:新年祭1月14日:左義長2月中旬:祈年祭6月第1土・日曜日:大祭(例祭)10月1日:秋祭り11月下旬:新嘗祭「語り伝え」須佐之男命は天照大神の弟神で、常に庶民をおまもりくださる、無病息災、学問、技術の進歩、商売繁盛、家内安全の神と語り伝えられています。昔々、須佐之男命は出雲の国、肥の川の上流で村人を長年苦しめ続けてきた、八頭・八尾をもった八俣の大蛇を退治し、その尾から天之叢雲の剱を得たことが伝えられています。後に、日本武尊は、焼津の草原(静岡県)で八方から焼き討ちの火攻めに遭われたときに、天之叢雲の剱で燃え盛る草を薙ぎ伏せて身を護る事ができたと伝えられ、熱田神宮に奉られています。火之迦具土神は須佐之男命の弟神で、火災、火難除け、火の恵みの神様と語り伝えられています。大物主命は須佐之男命の娘婿にあたる神様で、無病息災、商売繁盛、家内安全、旅行の安全、海上・陸上の交通安全の神様と伝えられています。大物主命は大変おもいやりの深い神様で、因幡の国で、ワニ(鱶か鮫と云われている)を騙して、怒ったワニに毛をむしりとられ、赤裸にされていた、白兎を助けられたことが伝えられてます。」大正12年出版された「西春日井郡誌」に由緒書きに記載されていない一文があったのでここに挙げておきます。それは境内社の秋葉社、金刀比羅社は「大正2年に当社に勧請された」ものとありました。因みに愛知県神社の登録に、所在地検索から神社の登録はなく得るものはありませんでした。参道左側の金刀比羅社。四方吹き抜けの木造妻入り拝殿全景。当初は舞殿かと思いましたが、由緒に拝殿とあるので間違いないでしょう。境内のイチョウの幹を見上げると、ところどころに乳根と呼ばれる瘤がみられます。まだまだ垂れ下がるほど大きく成長していませんが、樹齢を重ねるとともに生まれてきます。乳のように見えることから乳根とも呼ばれ、神社によっては珍重され注連縄を張り、出産後の母乳が出るようにと崇敬の対象にもなります。名古屋城の北側に鎮座する多奈波太神社の「乳いちょう」は見事な乳でした。妻壁には松や鳥の彫飾りが施されていますが、社名を記した神額は見当たりません。拝殿から本殿方向の眺め。本殿域全景。一対の狛犬(大正元年)と常夜灯(安政四年)が立てられ、一段高く盛られた本殿域に神明造の本殿が祀られています。狛犬はこの一対と本殿前にも小さな狛犬が安置されています。本殿正面全景。鰹木6本、内削ぎ千木が施された神明造です。本殿の扉の前を守護する狛犬。これ以上寄れませんが、細かな意匠と阿形の牙は石から彫られた物には見えません、素材はなんだろうか。小さいながら精悍で凛々しい姿をしたものです。この本殿に須佐之男命、火之迦具土神、大物主命の三柱が祀られている。火の神が町を護り、火の神を祀る神社はイチョウの古木が護る。イチョウが色づき、境内が黄に染まる頃、もう一度訪れたい神社です。落葉したイチョウは後の始末も大変だが、境内は綺麗に清掃され崇敬の篤さが伺われる神社です。さて、コースは見所ポイントの「西枇杷島問屋記念館」に立ち寄り、再び、来た道を戻って、県道126号線から南に向った先の「みずとぴぁ庄内 庄内川水防センター」に向かうのですが、我家はそのまま美濃路を東に向かいました。村社 松原神社祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神、大物主命創建 / 天明7年(1687)の棟札境内社 / 金刀比羅神社氏子域 / 不明例祭 / 由緒に記載所在地 / 清須市西枇杷町辰新田39辰新田屋根神から松原神社 / 東笹子原屋根神から美濃路沿いに東へ75㍍、徒歩1~2分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)・辰新田 屋根神過去記事・『多奈波太神社』
2025.02.09
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東笹子原屋根神から尾張屋の前の通りを南に進み美濃路に向かいます。コースでは美濃路を左ですが、再びコースアウトして右折、柴田家住宅を目指します。ここは大正時代の地図でも、街道沿いに町屋が立ち並ぶ地域。目的地は柴田家住宅右脇の辰新田の屋根神さまです。写真右の建物は、美濃路から見た柴田家住宅。街道に南面して建つ切妻、2階建の平入家屋で、瓦葺の下屋庇をつけた平入の家屋。元々は飴類の製造・販売を営んでいたお店で、明治29年(1896)に建築されたもので、防火のため塗籠(ぬりごめ)壁になっています。建物は国登録の文化財に指定されています、目的は建物ではなく屋根神さまです。外観に庇があり、軒下に祀られていそうですが、屋根神は祀られていませんでした。ここに屋根神が写っているのですが、前を通っても存在に気が付きませんでした。ここまで近寄ると屋根神の存在に気が付きます。右手の柱の上に台が作られ、モダンな覆屋が乗せられていました。かみさんが気付いていなければ諦めるところでした。街道を見通す高い場所から東を向いて祀られています。見上げる高さのため、覆屋の中の本殿の様子は窺がえず、一社単独なのか三社なのか分かりません。社には新しい榊が供えられ、日々お世話されているようです。これは梯子がなければ至難の業です。柴田家住宅と隣の新しい民家の間にあり、この建物の建替によりここに祀られたのか定かではなく、調べてみましたが詳細は分かりませんでした。覆屋はオールステンレスでしょうか、鏡のように輝く斬新な屋根神さまです。辰新田屋根神祭神 / 不明創建 / 不明氏子域 / 不明例祭 / 不明所在地 / 清須市西枇杷島町辰新田65東笹子原屋根神から辰新田屋根神 / 東笹子原屋根神から美濃路沿いに西へ300㍍、徒歩5分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)・屋根神さまと題目塔 (西枇杷島町東笹子原)
2025.02.08
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宮前神明社から南へ進み、名鉄名古屋本線を越え1.4km、徒歩20分ほど、西枇杷島町東笹子原の屋根神さまを訪れます。名鉄名古屋本線を越え西に向かい、守口漬の老舗「尾張屋」に立ち寄るコースとなっていました。今回取り上げる屋根神さまの鎮座地は、「尾張屋」の一筋東から細い路地に入った先に鎮座します。幅員は狭く、車ではとても訪れられない路地で、大正時代の地図を見る限り、美濃路の北側沿いに密集する集落の中に祀られています。その路地の左側に写真の東笹子原の屋根神さまは祀られています。古い趣の漂う通りですが、建て替えも進み、趣きを変えようとしています。屋根神さまは、建て替えに伴って地に降りたものと思われ、民家の敷地の一画に社殿が建てられています。幅員があれば駐車スペースになっていたのだろう。屋根神さまの正面全景。切妻屋根の拝所の先は玉垣になっており、参拝者はここまです。社殿は板宮造の三社相殿。一般的に熱田神宮、津島神社、秋葉神社の三社が祀られます。地域により熱田神宮が氏神に置き換わったりするので、祭礼の時に吊るされる提灯を見れば一目瞭然でしょう。創建時期は推測ですが江戸末期か明治に入ってからだろうか。詳細は不明です。屋根神さまのはじまりは定かではありませんが、城下、街道など人々が集まり、長屋造りの家屋が連なるようになると、疫病や火災の発生は他人事でなく、そこに住む者には身近な問題として捉えるようになり、隣組や講など組織され、地域全体で対応するコミュニティーが生まれます。屋根神さまも、天王信仰、秋葉信仰など、講員の活動で熱田、津島、秋葉など地域の災い除けを祈願し、小社を祀りますが、長屋の連なる街並みにそうした小社を祀る場所もなく、軒下に祀られるようになった。この地方固有の屋根神ですが、愛知以外の岐阜などの古い町並みで見られます。災い除けは屋根神以外にも、京都の町屋の屋根や軒下の小さな社の中に鍾馗像を見かけると思います。怖い顔の鬼瓦や水の文字が入るもの、鯱など上げられるのも、その家の守り神として上げられますが、建築様式も変わり、怖い顔の鬼瓦もあまり見かけなくなりました。題目塔。屋根神さまの近くの路地の一画に建てられています。後の面の銘文を見ることができませんでしたが、正面に「南妙法蓮華経」、左は「一天四海皆歸妙法、後五百歳中廣流布」、右に「南無日蓮大菩薩」と刻まれています。後五百歳中廣流布は、釈迦の入滅から五百年刻みで五つの時期に分け、五五百歳の後の五百歳を指す、断絶せず広めよという釈迦の教え。釈迦の入滅は紀元前544年やその翌年543年など諸説あるようですが、西暦2025年今年は仏暦で2568年になります。屋根神さまと題目塔祭神 / 不明創建 / 不明氏子域 / 不明例祭 / 不明所在地 / 清須市西枇杷島町東笹子原452神明社から屋根神さま / 宮前公園から南へ進み、名鉄名古屋本線を越え1.4km、徒歩20分ほど参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)・宮前 神明社(西枇杷島町宮前)
2025.02.07
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西枇杷島町宮前鎮座「神明社」前回掲載した宮前公園と道路を隔てた南側の区画の南西に鳥居を構えています。小場塚弁財天と隣接する公園を横切り移動しても徒歩1分ほどの距離。宮前 神明社社頭全景。社頭右に「村社 神明社」の社号標があり、社頭には石の神明鳥居とくぐった先に木造の蕃塀があります。社頭の石段を上るとすぐ目の前に控え柱を持った木造の蕃塀が建てられており、その先の拝殿・本殿を下界と遮断しています。境内左の手水鉢(寄進年未確認)。境内右から社殿全景。玉垣の先は宮前公園、小場塚弁財天になります拝殿正面の梁に飾られている龍の彫飾り。一対の狛犬が守護する本殿域全景。狛犬は子持ち、毬持ちで寄進年は見忘れました。神明造の本殿正面全景。鰹木は6本、千木は内削ぎです。当神社には由緒碑がなく、愛知県神社庁の所在地から検索をかけてみましたが、該当する神社はみられなかった。大正12年(1923)に出版された「西春日井郡誌」に目を通すと記述がありました。「神明社。西枇杷島町大字小場塚新田字五畝割434番地にあり。天照大神を祀れる村社にして、慶安5年(1652)の創建なり。境内260坪、神殿と拜殿とあり、境内神社に津島社(祭神 須佐之男命)、秋葉社(祭神 火具土命)あり、例祭は10月1日神樂を行ふ。」とありました。過去の地図を見てみると43年頃までは小場塚の東海道本線の脇に鳥居(赤点)が記されていますが、その後、印はなくなり、昭和61年頃から現在の鎮座地に鳥居が描かれます。現在の小場塚には神明社はなく、新幹線や東海道本線の線路が中央を横切っており、この神明社も小場塚弁財天同様に鉄道敷設に伴いここに遷座したものと思われます。祭神は天照大神。境内社に津島社、秋葉社と書かれていますが、本殿域右の境内に秋葉社は祀られていますが、本殿域に津島社の姿は見られません。本殿に天照大神と須佐之男命も合祀されているのだろうか。本殿域前の常夜灯、右側が秋葉社の本殿域です。常夜灯の竿には安政(1855-1860)の元号があり、6年と刻まれているようにも見えます。板宮造の秋葉神社正面全景。小場塚新田に集落が立ち並び、町の火伏として祀られたものでしょうか、詳細は不明です。社頭南側から社地全景の眺め。小場塚弁財天と宮前 神明社、田園地帯が広がっていた時代から、近代化への歩みと共にこの地に落ち着いた神社なのだろう。宮前 神明社祭神 / 天照大神創建 / 慶安5年(1652)境内社 / 津島社、秋葉社氏子域 / ・・・例祭 / 10月1日兼務社 / 不明 所在地 / 清須市西枇杷島町宮前2-30小場塚弁財天から神明社 / 宮前公園から100㍍徒歩1分参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)・小場塚弁財天(西枇杷島町)
2025.02.04
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前回の助七神明社からの続きになる今回は、本来のコースの立ち寄りスポットになっている「小場塚弁財天」になります。助七神明社からは、新川沿いに上流に向かい、新川大橋を渡った右側の宮前公園に小場塚弁財天が鎮座します。大正時代の地図でみると、鎮座地はかつて小場塚新田として開けた場所で、小場塚集落の北側に位置しており、集落から少し南の美濃路沿いに土器野新田の集落がある。小場塚の町名を冠していますが、所在地は西枇杷島町宮前になります。社頭全景。橋を渡った右側に細い道が小場塚弁財天へ続いています。コースの立ち寄りポイントでもあり、小さな境内は多くの参拝者が訪れています。社頭は石の明神鳥居を構え、右手に大正4年寄進の「辨財天神社」社標があります。境内左の手水舎。後方の石標には「遷座記念」と刻まれており、現在の小場塚はかつての農地から鉄道の敷設により大きく変わっているので、それに伴い遷座されたのでしょう。玉垣の先は宮前公園です。境内の建物は鳥居とこの手水舎、参道の先の狛犬と本殿のシンプルなものです。境内左に瓢箪型の弁天池があり、おねがいと書かれた看板を見ると「拝殿内土足禁止」と書かれていました。以前は鳥居の先に拝殿もあったようです。本殿を守護する狛犬、いつものようにひと回りすれば不審人物に思われかねない、ここはやめておこう。という事で、阿形のみで台座も見ていません。本殿正面全景。軒唐破風の付く流造のようです。境内左から本殿の眺め。祭神の弁財天は七福神の一神で、琵琶を持った女神、芸事の神、財福、縁結びの神として信仰されています。こちらの辨財天神社の歴史は古く、治承3年(279)尾張に流された藤原師長と尾張井戸田の横江氏の娘との伝承にちなんで建てられ、弁天様の持つ琵琶とつながりがあり、宮前公園の由緒を読むとなんとなくつながってきます。参考までに愛知県神社庁清州に登録の有無を調べましたが、登録神社28社には登録されていませんでした。「小場塚弁財天(市寸島社)一 由緒創建の時期は不明である。太政大臣藤原師長と尾張井戸田の豪族横江氏の娘との悲恋伝承にちなんだ社である。「琵琶塚弁財天縁起」には次のような話しが伝えられている。治承3年(279)、平清盛のために尾張に流された師長は横江氏の娘と知りあう。治承5年、罪を赦されて都に帰ることになり、別れを惜しんで土器野の里までついてきた娘に、守り本尊の弁財天と愛用の琵琶を形見に残した。娘は別れの悲しさのあまり淵に身を投げて果てた。里人がこの娘を弔うため塚をたて、弁財天を祀った。この塚を姨塚といい、村名の元にもなった。かつては、小場塚弁財天として親しまれていたが、明治に入り、市寸島社と称するようになった。祭神は市杵島比賣命である。一 社宝、他「琵琶塚 弁財天縁起版木」(町指定文化財第10号)嘉永7年(1854)、弁財天社再建にあたり、弁財天社の起こりをしたためたものである。・毎年五月第一日曜日に大祭(弁天祭り)が行われる。 清須市教育委員会 」過去記事で名古屋市瑞穂区土市町に鎮座する嶋川稲荷を取り上げていますが、そこには藤原師長(もろなが)の謫居趾の碑があり、師長が当地に身を寄せていたとされます。師長は琵琶の演奏に優れ、彼の琵琶は「白菊の琵琶」と呼ばれていたそうです。尾張名所図会にも、師長とその右に白菊の琵琶が描かれ、傍らには女性の姿が描かれています。京へ召還となった師宣を見送りにきた娘は、別れの悲しさから琵琶と共に身を投じたのがこの地だという。枇杷島の地名の由来は、この故事に由来するとも言われます。立ち寄りポイントに小場塚弁財天が選ばれた意味も伝わってくる。公園には師宣を慕った娘の心のように白い花が咲き始めていました。写真は南側の宮前公園の眺め。公園の先に神社のシルエットが浮かんでいます。コースから外れますが向かう事にします。小場塚弁財天(辨財天神社)祭神 / 弁財天(市寸島比賣命)創建 / 不明境内社 / ・・・氏子域 / ・・・例祭 / 五月第一日曜日 兼務社 / ・・・ 所在地 / 清須市西枇杷島町宮前2-56助七 神明社から小場塚弁財天 / 新川沿いに上流の新川大橋を渡り右側。0.6km、約10分参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)・助七 神明社(清須市助七東山中)過去記事・瑞穂区§2『嶋川稲荷』
2025.02.03
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助七神明社。清須市助七地内の新川右岸堤防横にある神社。須佐能男社から徒歩で、新川沿いを上流へ1.2km、約20分ほどの場所になります。鎮座地は、明治39年(1906)当時の寺野村の一部で、町制時の助七新田からきている。その後、新川町に合併、後に清須市に合併し、助七新田から新田が外され助七となったようです。すぐ傍に東海道本線・新幹線の橋梁があり、橋梁の下を県道59号線が続いています。上は大正時代と現在の鎮座地周辺の地図になります。この時代だと新幹線も城北線も現れません。助七神明社は、勝川-枇杷島間を繋ぐ現在の城北線の着工に伴い現在地に遷座した神社のようです。新川堤の西側に南西向きに社頭を構えています。社地後方の四角い建物は、2010年に稼働した助七ポンプ場で、低地のこの辺りにとっては水神的存在。助七新田社頭全景。左に「村社神明社」の社標と神明鳥居を構え、社殿は正面の舞殿と後方の本殿を収める大きな覆屋が主な社殿。参道を入ると左側に写真の手水鉢があり、昭和49年移転改築記念のプレートが埋め込まれていました。境内の由緒碑。「祭神 天照大御神、素戔嗚命境内末社 津島社 秋葉社当地は寛永11年頃(1634)、助七と称する農人、寺野村よりこの地を譲り受け、刻苦営々拓いて美田を作り、その親族及び来住者により一部落を成せり。住民相計ってこの地を浮地と定め氏神として創建したと伝えられている。尾張徇行記には慶長(1596-1615)以前の開発と記してある。大正2年(1913)、台風により拝殿倒壊し新築。大正12年(1923)本殿を新築。昭和45年(1970)水場土地改良事業により境内の整備を実施。昭和49年、日本国有鉄道瀬戸線新設の為本殿を移転し同時に玉垣の新築工事を施工せり神明社」とあります。左の碑には平成27年(2015)に本殿が再建されたことを伝えています。尾張徇行記をもとに記されているので、改めて見る事もないだろう。参考までに愛知県神社庁の登録神社を調べて見ました、清州市登録神社に名を連ねており、その内容は以下。「神社名:神明社(通称 助七神明社)御祭神:天照大神氏子域:助七例祭:10月14日」というもの。助七さんの尽力があって農地が広がった土地ということ。今ではその美田も姿を変え、宅地化され民家が立ち並んでいます。社殿全景。社殿は全て木造で、氏子の支援もあり傷みの無いこぢんまりとした神社。境内も綺麗に清掃されており崇敬の篤さが伺われます。舞殿左に境内社の秋葉神社が祀られています。大正時代、一面に田んぼの広がるこの辺り、小さな集落の火伏を祈願して祀られたものだろう。板宮造の秋葉神社とポストのような賽銭箱。舞殿から本殿の眺め。本殿手前に一対の狛犬と常夜灯があります。舞殿側面の眺め。重い屋根を支える隅柱を、揺れからしっかり支える補強が印象的です。本殿域全景。高い石垣の上に神門と覆屋が一体となり、本殿を収めています。狛犬(寄進年未確認)神門正面の眺め。本殿域全体を大きな覆屋が風雨から護っている。本殿域には2社祀られており、神明造の本殿に天照大御神、素戔嗚命が祀られている。由緒からすると、左の社は「津島社」だろうか。参拝を終え、新川大橋を渡りルートに復帰。先に見える橋梁を黄色の車両が通るとラッキーだが、そこまで甘くはないようです。助七 神明社祭神 / 天照大御神、素戔嗚命創建 / 不明(寛永11年以降)境内社 / 秋葉神社、津島社氏子域 / 助七例祭 / 10月14日兼務社 / 不明 所在地 / 清須市助七東山中25須佐能男社から神明社 / 新川沿いに上流へ1.2km、約20分参拝日 / 2025/01/18関連記事・須佐之男社(清須市須ケ口)
2025.02.02
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今日、1月31日、東京で財務省職員登庁時間帯に合わせて、「財務省解体デモ」が行われました。今回が3回目ということです。このデモが行われていることは、メディアではほとんど報道されていません。国から情報を得て、世間に発信する業界にとって、報道を行うことで排除されることは今後の活動に重大な影響を与える恐れがあります。メディアは編集段階から国に対する忖度を行い、フィルタリングされた情報しか流さないことが懸念されます。国にとって不都合な情報は、その恩恵を受ける業界でも不都合な事実となり得ます。こうした内容については、事実の公表すら行われず、デモの趣旨も表に出されません。もし自分が若い頃に報道の立場にいたら、間違いなく取り上げていたでしょう。現在の報道の自由とは本質的に違うものであり、不都合な事実が伝えられない現状を再認識する必要があります。庶民にはゴシップ記事やアイドルの不祥事など、関心度の高い報道を繰り返し、不都合な事実に対し視線が向かないように情報操作されていることを再認識して、自分なりの判断をする必要があります。日本も意思表示ができる国になってきたようですが、暴動を起こす国にだけはしたくありません。それは国の政策次第であり、今後の対応にかかっていると思います。さてどこの局が触れるのだろうか、興味深く見て見よう。
2025.01.31
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1月18日、名鉄の「150年以上続く伝統の味を守る『尾張屋』『ナカモみそ』の礎を体感コース」を歩いてきました。名鉄名古屋本線「須ヶ口駅」をスタート→小場塚弁財天→尾張屋守口漬老舗→庄内川水防センター→ナカモみそ→日本最古の歩道橋跡→壱番屋記念館などのチェックポイントを経て名鉄犬山線「中小田井駅」をゴールとする全長約8kmほどのコース。コースは旧美濃街道を通ることから、古い町並みに鎮座する神社や屋根神さまが見られることを期待し、チェックポイント以外はルートから脱線することが多く、ゴールも地下鉄庄内緑地公園としていました。須ヶ口駅南出口。須ヶ口駅でルートマップを頂き、いざスタート、県道126号線(旧美濃街道)を南方向に向かいます。駅から約6分ほど、約400メートルの旧美濃街道沿いに鎮座する須佐之男社に立ち寄りました。 所在地は清須市須ケ口2110。神社境内右手に旗本公民館分館があります。 街道沿いのこの辺りの町名は、現在須ケ口となっていますが、ここに来る途中「旗本」バス停を見かけました、そしてここ「旗本」公民館。ここから少し北に「外町」がありますが、由来は清須城外堀の旧称「外町」から来ているという。「旗本」と名が残ることから、街道沿いには旗本屋敷や茶屋・商店が軒を連ね、今よりも活気があったと思われます。 尾張名所図会の挿絵には、顔を隠しながら遊女を求める武士の姿は描かれていましたが、当神社の記述は見られなかった。過去の地図では明治から昭和55年以前には鳥居の印がなく、昭和55年から記されるようになりますが、それをもって新しいと決めつけることは出来ません。境内には明治の元号が刻まれた寄進物もあり、江戸末期にはここに鎮座していたと考えられます。web情報によれば、「慶長12年(1607)に津島神社から勧請し、津島社と呼ばれていた」とされますが、参考文献が不明なため、ここでは創建時期は不明とさせて頂きます。右手の須佐之男社社標は昭和10年(1935)に寄進されたもの。石の神明鳥居は明治41年(1908)に寄進されたものです。鳥居をくぐると左側に手水鉢と生け込み燈籠が見える。竿に銘文が刻まれていましたが、私には全文を読み取れなかった。舞殿。木造瓦葺の四方吹き抜けで、妻壁に掲げられる大きな神額が目を引く。須佐之男社扁額。舞殿から拝殿方向の眺め。舞殿全景。この後方が旗本公民館分館。木造瓦葺の横拝殿で、右手の社務所とは屋根で繋がっています。拝殿前の石の賽銭箱は面白い構造で、地下に埋設された箱に収まるようになっている。なくならない賽銭泥棒、これくらい必要な時代なんだろう。拝殿前の昭和7年(1932)に寄進された狛犬。いい顔つきをしています。蟇股の龍、長い髭と生々しい鱗のディテールが際立っており、目を引きつけるポイントです。格子戸から本殿域の眺め。本殿の左右に境内社が祀られています、本殿の造りはここからでは良く分かりません。どうやら流造のようですが、境内社の社名までは分かりません。拝殿左から本殿の眺め。右の燈籠の竿には寄進者と「東京市」の銘が見られ、明治頃に東京の崇敬者から寄進されたようです。清須にありながら、関東から寄進を受けるとは。本殿域後方は線路が迫り、赤い車両の姿見られます。この写真に写っているのは名鉄電車の新川検車支区です。左に見える森が須佐之男社の杜です。ここは車両の点検や事故時の運行整理の拠点で、最大78両を収容できるそうで、さまざまな車両を見ることができます。ちなみに、この日はドクターイエローが走るとのことでした。新川近くの新幹線橋脚付近には長いレンズを持った鉄道マニアが陣取っていたそうです。須佐之男社から南に進み、コースに復帰し新川沿いを上流に向かいます。コースは「清須市役所交差点」を右折し新川小橋を渡るのですが、我家はこのまま直進し、「清須市役所北交差点」まで遡り、さらに直進し新幹線の高架方向に向かいました。須佐之男社(清須市須ケ口)祭神 / 須佐之男命創建 / 不明 境内社 / 不明氏子域 / 不明例祭 / 不明兼務社 / 不明 所在地 / 清須市須ケ口2110参拝日 / 2025/01/18関連記事
2025.01.30
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北新町平池交差点を左折し北新田川に架かる橋の手前を左折し川沿いに進みます。川沿いに駐車余地があるので車はそこに停めて、少し自分の足で歩きましょう。北新田川堤の道路は車一台がやっとの幅員の狭い道路で、散策をされる方も有り、路駐は避けて道路脇の余地に停め近隣の方に迷惑だけはかけたくないものです。左の田畑の中ほどに朱の鳥居と小さな森が見えますが、そこが目的地の狐塚稲荷社です。この道路を少し先に進むと、左に細い道が伸び、稲荷社に続いています。上は明治頃とほぼ現在の鎮座地周辺の地図。岩藤神明社から車で2~3分程の位置になります。周囲は田畑が広がり、明治の頃と現在の景色は大きく変わっていません。大きく変わったとすれば、東名高速とその後造られた日進JCと名古屋瀬戸道路の無機質な高架橋が視界を遮っています。冬枯れた田畑の中の朱の鳥居と小さな森の緑がとても存在感がある。冷たい流れの中で小魚を求めて佇む鷺の姿。飛び去る訳でもなく、一定の距離を保ちながらじっと小魚を探しているが、少しでも距離を縮めると飛び立つ態勢に切り替わる。食事のお邪魔なので遠巻きに通り過ぎる。狐塚稲荷社の遠景、このすぐ南には岩藤川が流れています。東側の北新町相野山に鎮座する相野山八幡神社の由緒によれば、岩藤川と北新田川に挟まれたこの辺り一帯は、慶安元年(1652)に北新田開墾のため三河各地から移り住んだ入植者により開かれた地域とされます。それに伴い創建されたのが相野山八幡神社で、北新田川を境にして岩崎町、岩崎川を隔てて岩藤町と接しています。稲荷社は現在の北新町の西外れ狐塚の田畑の中に鎮座地します。近隣の兼務社と思われる主たる神社に目を通しましたが、新田開発に伴い祀られたものか、近年に入り祀られたものか、創建や由緒について分からず、明治までの地図には鳥居の印は見られず、航空写真を見る限り、昭和36年には畑の中に神社が確認できます。神社全景。多くの奉納鳥居が立ち並び、鳥居をくぐり左に180度曲がった先に本殿が建てられています。鳥居の扁額には狐塚稲荷社とあります。社名の狐塚は地名からか、社名から地名がついたものか分かりません。比較的新しい奉納鳥居の先は休耕田が迫り、長い社地は確保できなかったようです。左に回り込むと本殿前にも奉納鳥居が建てられ、その先の基壇の上に朱色の覆屋が建てられています。覆屋の中の本殿は石の社。稲荷社とありますが、覆屋や境内には狐感は見られません。新しい花も供えられており、今も崇敬されているようです。そして、ここに訪れるのは崇敬者だけではなさそうですね。黒い扉に付けられた痕跡は何を物語っているのだろうか。近くの相野山八幡神社の社頭には「イノシシ出没注意」の看板もありました、猿投山では熊やニホンカモシカも現れます。開発されたとはいえ緑が多く残る地域、何がいても不思議ではありません。意外に神社の主、狐の散歩道なのかもしれない。田畑の中にポツンと佇む狐塚稲荷社、好きな光景です。怪しい色の雲も流れてきました。鷺のように飛んで帰れれば、信号待ちや渋滞もないのだろうが、そろそろ帰途に着く事にします。狐塚稲荷社祭神 / 不明創建 / 不明 境内社 / ・・・氏子域 / ・・・例祭 / ・・・兼務社 / ・・・ 所在地 / 日進市北新町狐塚参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮・岩崎神明社 ・岩藤神明社過去記事・相野山 八幡神社
2025.01.29
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岩崎神明社から県道217号線を東に進み、日進JC方向に車を走らせ、県道233号線と交わる岩崎交差点を目指してください。目的地の岩藤神明社は、岩崎交差点の突き当たりに位置しています。県道から境内駐車場へのアプローチは少し手間取るかもしれません。交差点の突き当たりは、ガードレールが続いて入口がないように見えますが、正面にガードレールの切れ間があるので、そこに入っていくと境内に入れます。写真の社頭は、県道233号線沿いにほぼ南向きに社殿が建てられており、右手に岩藤公民館、社頭の手前が消防団詰所で、この一画が地域のコミュニティーの中心となっているようです。社地の後方には天白川の支流岩藤川が流れています。社頭右に神明社の社標(平成12年)、左に造営記念碑(平成12年)が立てられており、石の神明鳥居の先に神明造の社殿、社殿左に境内社が纏められています。鳥居から社殿の眺め。寄進年は比較的新しく、平成12年(2000)に寄進されたものでした。境内左の手水舎、手水鉢。境内右から社殿の全景。平成12年に新たに刷新されたようで、外観に傷みはなく綺麗な社殿です。境内の由緒、内容は以下。「岩藤神明社由緒当地は正保3年(1646)岩崎越、本郷越、岩作越、又三河寺部越よりの祖十一戸が移住し新田を起こす、その後岩崎村、藤島村の両村名より岩藤新田村となる。岩藤神明社は寛文13年3月(1673)に創建され、岩藤新田村(現岩藤町)の氏神として祀る。(区保存資料より抄出)現在では合祀されている天王社の祭(天王祭り)が毎年7月に盛大に行われる。旧御社殿は上葺の棟札より明治17年に再建し、昭和5年12月に建立されたもので、以後改修を重ねたが永年の風雪による老朽化が著しく、この度境内地の有効利用も考慮し旧本段より北側に全面御造営された。祭神 天照皇大神祭神 須佐之男神祭神 大山津見神御造営概要境内地 約1,111平方米(約336坪)本殿、祝詞殿、拝殿(木造平屋建鋼板葺)、47,59平方米(14.39坪)造営期間 発足 平成10年2月11日完成 平成12年5月14日造営総額 7,300万円余」愛知県神社庁に登録があり、岩藤神明社の情報は以下のようなものでした。「祭神:天照皇大神氏子域:日進市岩藤町例祭:10月第1日曜日兼務社:白山宮」明治当時から神社西側の通りは、現在の長久手市岩作と日進市岩崎を結ぶ古くからの道で、外観は新しいが、長く受け継がれてきた神社です。拝殿正面全景。拝殿に続く石段の前で一対の狛犬が守護する。左手の境内社と石碑の眺め。狛犬は昭和5年(1930)に寄進されたもので、刷新される前から神社を守護してきた面々です。この時期のものだと、後に大陸から輸入されてくるものとは違い、風貌に貫禄が漂います。拝殿全景。拝殿額は神明社。拝殿から本殿方向の眺め。内部は木の温もりを感じさせるもので、五七の桐が神紋のようです。大きな鏡の先の3枚の扉に天照皇大神、須佐之男神、大山津見神が祀られています。拝殿から南側の社頭の眺め。前を横切るのが県道233号線になります。拝殿左の板宮造の境内社二社。社名や由緒は分かりません。境内社の奥の記念碑と忠魂碑、その奥に注連縄の張られた岩が視界に入ります。岩に近寄ってみると、それは庚申塔でした。年代は確認していません。古くからの道筋、そこに出来た集落に庚申講が広まっていたのだろう。現在も続いているのか定かではないけれど、こうした碑の近くには集会場が作られ、庚申の日には人びとが集い、寝てしまうと動きだす三尸虫を封じるため、一晩中飲食をしながら過ごしたそうだ。今のように娯楽もない時代なので、真に封じるのが目的なのか、菓子を持ち寄り情報交換することが楽しみだったのか微妙かも知れないが、市街地で見かけることもなくなりました。社殿西側から眺める社殿。本殿は神明造のようで、内削ぎの千木は見られますが、鰹木の数までは確認できなかった。本殿後方の御神木。社地裏側の岩藤川の細い流れ、正面の橋の名は「天王橋」。毎年7月に行われる岩藤天王祭では、日進市唯一の山車が曳き回されます。この祭り、昭和の一時期に中止されていたそうですが、昭和56年から再び行われるようになった聞きます。ちょうちん車と呼ばれるこの山車は、社殿右の大きな保管庫の中でその日を待っているようです。岩藤神明社祭神 / 天照皇大神、須佐之男神、大山津見神創建 / 寛文13年3月(1673)境内社 / 不明社2社氏子域 / 日進市岩藤町例祭 / 10月第1日曜日兼務社 / 白山宮所在地 / 日進市岩藤町所寒525-1参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮・岩崎神明社
2025.01.28
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日進市本郷町宮下の白山宮から車で県道57号線を北上し、岩崎交差点を左折して右側の丘陵地に鎮座する岩崎神明社までは、所要時間約5~6分ほどです。社頭左には大きな参拝者駐車場もあり、車の駐車場所には困りません。岩崎神明社は、愛知県日進市岩崎町に位置する神社で、岩崎町の人々にとって重要な拠り所であり、古くから多くの参拝者を迎えてきました。今回は、岩崎神明社の歴史、見どころ、などご紹介します。社頭は生活道路に面しており、東側は児童公園と接しています。参道の右側には「神明神社」の社標(1929)があり、長い参道が鳥居に続いています。社殿はほぼ南向きに建てられています。上は明治時代の地図です。当時はまだ現在のように宅地化が進んでおらず、岩崎村の外れに鳥居の姿が見られます。社頭の前の道は西に続き、現在の県道217号線となり、梅森坂交差点に至る古くからの道のようです。丘陵の高みから、南の集落を見守るように社殿が鎮座します。長い参道の中ほどから見る社殿の眺めは、郊外の神社らしい広々とした境内と大きな空が広がっています。参道先の石段から鳥居と社殿の眺め。石の神明鳥居と右側に手水舎があり、鳥居正面に切妻屋根の拝殿と右側に境内社がまとめられています。手水舎、手水鉢。左の石碑は由緒書き。内容は以下。「当社は天照皇大御神を奉祀し、文明5年(1473)巳9月創立。元当社は赤池村の氏神なり。丹羽帯刀没落後、岩﨑北髙上地内の台地にあり。その後更に現在の処に移し祀ると伝え、この地域住民の守護神として深い信仰をあつめている。然るところ昭和34年(1959)伊勢湾台風以来、度々の災害により境内地は土砂崩壊、陥没等により本殿周辺はもとより諸施設は危険状態となったので協議の上安泰を期するため、この地に境内地を移転し本殿、祝詞殿、拝殿、社務所等の造営並に境内一般の整備を行い、神社の面目を一新した。ここにその概要を録して記念となす。昭和48年9月16日」と詳細に書かれており、地史の確認まではしていません。愛知県神社庁に登録がありましたが、内容的には由緒を越えるものは記されておらず、神職不在の神社で白山宮が兼務社という事だけは分かりました。境内右から社殿の全景。一対の狛犬が守護する拝殿は神明造のコンクリート製で6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。境内右側の境内社。左から須佐之男社・神明神社・御鍬社・熱田社・山神社が祀られています。拝殿前を守護する狛犬は昭和48年(1973)に寄進されたもの。拝殿正面の眺め。岩崎神明社の社殿は拝殿・祝詞殿がコンクリート造りで、本殿域の本殿は白壁に囲われているため、見通せませんが木造の神明造の様です。外観は現代的な素材を使いながらも伝統的な様式を保っています。神社は地域の祭りや行事を通じて、地域のコミュニティ活性化に一役買っています。周囲は静かな住宅街で、ストレス社会の現代、誰しも抱える日常生活の悩みや不安から一時的に解放し、心の安らぎを感じることができます。拝殿に掲げられた扁額は「神明社」拝殿左から見た本殿。 棟持ち柱が神明造のトレードマークです。大棟に載せられた内削ぎ千木と6本の鰹木。ご存知のように千木は、屋根の両端に取り付けられる装飾部材です。水平にカットされた内削ぎ千木は女神を祀るともされ、垂直にカットされた外削ぎ千木は男神を祀る神社に取り付けられるとされていますが、実際には女神でありながら外削ぎの千木がある場合もあります。屋根の上に水平に取り付けられる丸太状の飾り鰹木は、その数が偶数なら女神、奇数なら男神を祀るとされていますが、こちらも同様で一概にそうとは言えない場合もあります。長い歴史のある神社だと過程で祭神が変わったりする場合もあるので、装飾として捉えるのがいいかもしれませんね。参拝を終え、拝殿から社頭を眺める。鳥居は昭和9年(1934)に寄進されたものです。社頭左の庚申塔。 庚申信仰に基づいて建てられたもので、その始まりは古く、平安時代に大陸から伝わったものとも言われます。庚申信仰は、人の体内に三尸虫(さんしちゅう)という虫がいると信じられ、60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜に天帝に悪事を報告するとされ、その結果早死にすると信じられたようです。三尸虫が報告に行く庚申の日の夜は眠らずに徹夜して語り合い、猿田彦や青面金剛を拝むなどして、三尸虫が報告に行くことを避ける目的で行われ、江戸時代には庶民の間で広く広まったようです。こうした庚申塔は、街道沿いや村落の入り口などに置かれ、ある種村の守り神としての役割も持っていたと言われます。この庚申塔が移設されたものか定かではありませんが、明治の地図では、牧野池に通じるこの通りは古くからの道と見られるため、銘文は残念ながら読み取れず時代も分かりませんが、この道沿いにあったものと思われます。周辺には岩崎城や天白川沿いには飯田街道が東西に延びています。また、岩崎城古墳、白山古墳があり、これらの立地からも、この地域は古くから歴史的に重要な場所であったと思われます。写真は社地東側の児童公園の脇にある地蔵堂。ひと昔前、地域に安置されていたものが、宅地化にともないここに集約されたものだろうか。やさしい表情の地蔵さんに問いかけても、一切教えてはくれるわけもなく。岩崎神明社創建 / 文明5年(1473)祭神 / 天照皇大神境内社 / 須佐之男社・神明神社・御鍬社・熱田社・山神社氏子域 / 日進市岩崎町例祭 / 9月第2日曜日兼務社 白山宮白山宮から神明社 / 車移動、北西に1.8km、約5分所在地 / 日進市岩崎町神明5-25参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮
2025.01.25
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24日、総務省が発表した2024年通年の全国消費者物価指数について大きな違和感を覚えます。「全国消費者物価指数(20年=100、変動の大きい生鮮食品を除く)は前年に比べ2・5%上昇の107・9だった。日銀が掲げる2%の物価目標を3年連続で上回り、物価高が定着しつつある。上昇率は23年(3・1%)を下回ったものの、22年(2・3%)より高い水準だった。全522品目のうち、8割超に当たる440品目が上昇した。」とある。日本では「生鮮食品を除く総合」が「コアCPI」と呼ばれ、物価の基調を見る際には生鮮食品価格の動きが無視されることが多いです。しかし、我々が物価高を「実感」するのは、日銀や総務省がデータとして除外している生鮮食品やエネルギーの価格ではないのかい。これが政府と我々庶民の感覚の乖離要因となっています。異常気象や原油・円安要因を考慮すると、継続的な対策が取りにくい事は理解できますが、庶民から見て政府の物価対策に対し、「不満」になっている。今日、日銀政策金利の利上げが図られました、預金を持つ者には朗報だが、反面住宅ローンを抱える世代や購入を検討する者には負担増となるため、家計に与える影響は見過ごせるものではないでしょう。物価上昇を超える賃上げが行われる大企業やパワーカップルは収支がプラスとなるでしょうが、大企業・中小企業に勤務する人の割合は全体の約半数に過ぎません。他の半数は小企業・小売り・非正規雇用で働いている人たちであり、これらの人々や年金受給者は物価上昇に見合う賃上げは追いついていないのが現状です。ピラミッドの底辺を支える層に視線を向けた対策が必要だ。どうすればいいか・・・いろいろあると思うのだが、選挙やばくないですか?石破さん
2025.01.25
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日進市本郷町宮下鎮座「白山宮」野方神明社から車で北東へ5分ほど、田畑の広がる天白川右岸に、島のようにこんもりと盛り上がった森が見えてきます。今回の目的地「白山宮」はこの森のなかに鎮座します。鎮座地を南側から眺めた風景。森の入口には大きな神社幟が風に揺れています。社頭南側には広い臨時駐車場が設けられ、現在造成が進む中で、この景色もいずれ見通せなくなるのでしょう。写真は臨時駐車場から社頭の眺めです。緑豊濃い森の入口には「白山宮 初詣」と書かれた神社幟がはためき、静かな田舎の雰囲気が漂っています。社頭から参道の眺め。右手に、金色に輝く十六葉菊紋の入った白山宮の社標があり、鳥居の先から拝殿に向けて緩やかな上りのスロープが続いて行きます。鳥居は石造の明神鳥居。鳥居右の祭神記。「白山宮 御鎮座年不詳菊理媛命、伊弉冉命、大巳貴命。明治40年藤枝村より合祀。大山祇命、稲田姫命、木花開耶姫命。猿投社 天保11年勧請。大臼命。明治42年藤島より合祀。天照皇大神、大山祇命、大物主命、稲倉魂命、恩兼命、市杵島姫命、木花開耶姫命。」鳥居扁額は白山宮、右の柱に彫られているのは大巳貴命だろうか。柱の後方に白山古墳の石標が立てられています。玉垣の入口から白山古墳へ続く道の眺め。古墳はこの坂を少し上ったところにあります。白山古墳正面の眺め。正式には白山第一号墳と呼ばれるようです。鎖が張られ、これ以上は入れませんが、こうして見ると小さな円墳が二つ並んでいる様に見えます。これは一つの大きな円墳で、掘削され、石室の入口を隔てて二つの墳丘に見えているだけの様です。見えている石室入口は、周辺地域古墳を参考に復元されたようです。解説の内容は以下。「白山古墳 (白山第一号墳) 日進市指定文化財 (昭和56年)。直径約14㍍の円墳で、石組みの横穴式石室(全長7㍍、幅約2㍍)。石材は市内岩崎町の御嶽山の変成岩に似ている。副葬品は金環、鉄刀、装飾須恵器。築造は6世紀代と推定される。昭和55年に発掘調査。殆ど崩壊していた石室は、周辺地域の群集墳を参考に横穴式石室の一部を復元してある。遺物は岩崎城歴史記念館に展示。」面白いのは使用されている石は、ここから2㌔ほど北の御嶽山のものと似ているという事。手前の大岩など見ていると、御嶽山に鎮座する岩崎白山神社境内の穴不動周辺で見かけるものと確かに似ています。そうまでして誰を埋葬したのか興味が湧いてきます。岩崎城の歴史記念館付近には岩崎城古墳もあり、あそこの横穴式石室も群集墳を参考に復元されたものでした。機会をみていってみるかな。白山古墳から参道に戻り少し進むと右側に祓戸大神が祀られています。祓戸社や祓戸大神が祀られている神社では、自身の穢れを祓い清めるため最初に参拝する神様。ここから少し先で石段の参道にかわります。参道先の神馬像。参道左の境内社。右から、えびす社(北側島守護神):事代主命、神明社(丹波島守護神)、秋葉社(西側島守護神)、御嶽社:(石根島守護神)。その左の蓮理木と縁むすび社。個別の二つの株が成長と共に癒着してできるものを蓮理木と呼び、癒着の仕方も様々で特に珍しいものでもありません。こうして根元付近でひとつになり、それぞれが成長するものもあれば、途中から一つに結びつくものや、他の種類の樹と結びつくものなど多々あります。そうしたことから「縁結び」「夫婦和合」の象徴として信仰の対象とされます、信じるか信じないかは貴方次第です。この石段を上れば、趣きのある檜皮葺の手水舎と正面に風格漂う拝殿が間近になる。最後の石段の手前に百度石と一千日参拝と刻まれた石標が立っています。その奥に朱の鳥居があり、その先は龍谷寺になります。鳥居の手前から足王社の裏に続くスロープがあり、上に向かうと、白山宮の東の鳥居に続いています。そのスロープを進み境内に向かいます。すぐに白山宮東鳥居、社殿側面が現れ、左が足王社になります。このまま境内へ。社殿右側には幾つか境内社が祀られています。赤い社は稲荷社のようだ、だとすると先程の朱の鳥居はこの稲荷社のものか?、鳥居を見ておくべきだったか。右手に二社祀られています。右手の流造の社は秋葉神社、左の板宮造の社が山神社。赤い社は白山宮稲荷社。本殿域右の香良洲神社。白山宮「香良洲神社」略記。「御祭神 稚日女命(婦人の守護神)。由緒明治20年頃、近隣氏子の中に婦人病で悩む人々が多くあり、快癒を祈るため三重県津市の香良洲神社から御分霊を勧請し、覆屋を造営、祭礼を斎行。その結果、婦人病が和らいだと伝えられる。大正7年には香良洲社崇敬講社が誕生。祭礼には何万人もの参詣者があったと大正風土記に記載されています。今日では出産の母子安全や婦人病快癒を願う人々に広く崇敬されている。」立派な覆屋の中に祀られている社殿は、暗くて造りまでは分からなかった。足王社。別名サッカー神社とも呼ばれるようで、屋根の滑らかな曲線が美しいモダンな社殿。「足王社略記 祭神 足名椎神昔、藤島町には飯田街道裏街道と呼ばれた街道があり、商人や旅人達が道中の足の安全を祈願する足名椎神をお祀りする祠があった。時代の流れと共に街道を行き交う人々も少なくなり、街道隣接(藤島町大根)の個人宅に祀られていたが、終戦前後に当宮に勧請したのが起源とされる。平成13年(2001)の境内整備事業に併せ社殿も新しくなり、なでると痛みがとれるという信仰を持つ「痛みとり石」も祀られ多くの参拝者が訪れるようになった。足腰の神様から「サッカー神社」とも呼ばれるようになり、日本代表のエンブレムがはいった御守、絵馬 も授与され全国のサポーターも参拝。平成28年(2016)に、足王社新設並に境内地東面整備事業として新社殿が造営された。」その名の通り、足の神様。誰しも老いと共に直面する、足の衰えを良い方向に導いてくれる。まずはここで鏡に向かい参拝し、撫で布料500円と賽銭を納め、左から中に入り安置されている「痛みとり石」を撫で布で撫で、持ち帰って撫で布で患部を撫でると傷みが改善される御利益がある。こちらが「痛みとり石」、多くの願いを受け、石の表面はピカピカで滑らかなものです。こちらがその撫で布。拝殿正面全景。主祭神は菊理姫命で、多様な結びを授けてくれる神として知られる。拝殿前を守護する狛犬。趣きのある手水舎。軒唐破風が施され、鬼板に菊の紋も入れられ、日進総鎮護の格式の高さが窺われる。大きな自然石からくり抜いた手水鉢と龍口、龍は柄杓を近づけると清水を注いでくれる。「白山宮記一 祭神:菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命。一 祭典神事:例祭十月十日、小猿投祭十月十一日、茅の輪祭七月二十八日(疫病除け輪くぐり神事)一 境内神社:猿投社、外十社一 境内地:参千九百六拾七坪(13114㎡)一 由緒:創立年代は不詳だが、縁起以前に加賀(石川県)白山の御分霊を勧請。延長5年(927)に本部岩崎の本居神に海部郡藤島神社を合祀し、5ヶ村の総氏神として崇敬される。大永3年(1523)、城主丹羽若狭守氏清が祭祀を奉修、湯立・笠おどり・棒の手・馬の塔(敵馬)の神事が氏子によって伝承され「白山の馬まつり」として親しまれるが現在は中絶している。天保12年(1842)、小塚甚太夫知隆が猿投社を建立し、三州猿投神社の御分霊を勧請し小猿投祭が始まる。明治5年(1872)に郷社。同40年(1965)に常錦供進神社。戦後宗教法人となり、昭和42年(1967)から大造営開始、社殿・境内を改築整備し「白山宮」と改称。昭和44年(1969)に5級社(旧県社)に昇格。」拝殿額。拝殿左の猿投社。流造の社殿の前に陶製の小さな狛犬の姿がある、祭神は大碓命が祀られています。大碓命は日本武尊の兄にあたり、命の墓所は豊田市の猿投神社の北に聳える猿投山の奥深く、西の宮から少し上がった高みにあります。日進の総鎮守白山宮、規模のみならず、古墳も残る長い歴史を有する神社でした。白山宮創建 / 不詳祭神 / 菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命境内社 / 祓戸大神、えびす社、神明社、秋葉社、御嶽社、縁むすび社、秋葉神社、山神社、足王社、白山宮稲荷社、香良洲神社、猿投社境外社 / 高帝龍王龍神所在地 / 愛知県日進市本郷町宮下519野方神明社から白山宮 / 車移動、 距離2km、5分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社過去記事・駅ちかウォーキング2017SPRING「竹の小径から岩崎城」を歩く・『高帝龍王龍神』名古屋市名東区高針2丁目・三河国三之宮 猿投神社 5「西の宮」
2025.01.24
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牧野ヶ池緑地から今回の目的地野方神明社へは、車で南東に15分かからない距離に鎮座します。日進市役所の西方に位置し、天白川左岸に広がる田園地帯の、こんもりとした森の中に社殿があります。野方神明社の社地全景。見通しのいい田園地帯にあって、この森の存在は、日本の原風景を感じさせる佇まいです。手前の田んぼは神社の御神田のようです。上は明治と現在の地図の比較で、赤枠が鎮座地になります。当時の地図では、鎮座地南は飯田街道が東西に延びており、街道沿いに野方東、街道北側に野方西集落が点在しています。現在の鎮座地も当時と大きく変わる事はなく、天白川沿いに田畑が多く残っています。野方神明社は当時の地図にも記されており、新田開発に伴い鎮守として祀られた神社と思われます。社地は南の道路側に社頭を構えており、参道の奥に鳥居が建てられています。駐車場は社頭から参道を少し進んだ右側に駐車場がありますが、社頭入口は間口が狭く、小回りの利かない自分の車は一発で入れないので、東側の田んぼ脇の路肩に車を停め社頭へ向かいました。社頭から参道の眺め。道路を沿いに神明社の燈籠が目印で、右側が駐車場です。普通の車なら何ら問題なく入れるでしょう。参道から鳥居方向の眺め。年明け間もないこともあり、野方神明社の神社幟が立てられています。鳥居前から境内の眺め。左に社務所があり、正面の社殿とその右側に境内社が祀られています。境内右手の手水舎。手水鉢には龍のシルエットが浮かんでいます。シルエットの主はこの方。手水鉢の背面には寄進年の元文5年(1741)と刻まれていました。鎮座地の野方の名の由来は「野を起こして畑に開拓」したことから付けられたようで、この辺りの新田開発の歴史は調べていませんが、岩崎城近隣の新田開発が慶安元年(1648)に始まっていたようなので、同時期には人の手が入り、元文5年には集落は作られ、村中安全のために神社が必要とされたようです。手水舎から社殿全景。拝殿・幣殿・覆屋と右手に境内社が祀られています。愛知県神社庁に登録があり、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「神明社祭神 天照大御神氏子地域 日進市野方町、浅田町、岩崎町、梅森町、香久山、野方町、藤塚。例祭日 10月第2日曜日。」とだけ書かれていました。当神社は神職はおらず、普段は氏子の手により維持管理され、東郷町春木狐塚に鎮座する富士浅間神社が祭祀を兼務するようです。富士浅間神社のHPには、兼務神社の詳細が記されており、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「野方神明社御祭神 天照大御神、豊受大神、菅原道真。創建は明らかではないが、寛文覚書に「神明」と記されている事より江戸時代初期には既に祭られていたと考えられる。社蔵の棟札には元文5年(1741)、天照大御神、八幡大菩薩、春日大明神と記され、尾張誌、徇行記にも同様に記されている。この点現在と異なっている。恐らくは明治後年の強引な合祀令によるものと思われる。近年神明社では隣の田んぼにもち米を育て「御神田」として、秋には其れで餅つきをしている。野方町氏神 香具山氏神。」元文5年(1741)の棟札が残り、手水鉢にもその年号が見られるため、それが創建時期とはいえないまでも、江戸時代初期にはこの地の守り神として崇敬され、代々受け継がれて来たものと思えます。境内東側には石碑が建てられています。拝殿は瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。神社幕の神紋は五七の桐。拝殿から本殿方向の眺め。本殿域の前を守護する狛犬。台座に文字が刻まれていたが判読できなかったが、昭和・大正時代のものではなさそうです。拝殿右から本殿の眺め。覆屋の中に祀られている本殿は千木が内削ぎなのは分かりますが、造りや鰹木などは分からなかった。本殿右の境内社。6社祀られており、右から津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社と並び、大きい板宮造りの社の社名は分からなかった。ひょっとして火伏の神だろうか。境内東の石碑。右から日清日露戦役記念碑、殉国の碑、招魂社が祀られています。社務所横の遥拝所、向きは遥か先の伊勢神宮方向を向いています。境内から社頭の眺め。鳥居は昭和59年(1984)に寄進されたものでした。野方神明社創建 / 不明、元文5年(1741)の棟札、手水鉢に同年の寄進年があり。祭神 / 天照大御神、豊受大神、菅原道真境内社 / 津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社、不明社、招魂社所在地 / 愛知県日進市野方町清水566牧野ヶ池緑地 西口南側駐車場から野方神明社 / 車移動、 距離5km、12分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社
2025.01.23
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光風園神社。梅森坂神社から次の目的地光風園神社へは、東に向かい、県道219号線の先にある東名古屋病院を目指します。Gマップのルートでは、病院敷地沿いの北側道路から行けるように示しますが、北側の道路からは病院敷地のフェンスがあり、敷地内に鎮座する光風園神社には行けません。以前、車で訪れたことがあり、その時は車を停める場所もなく、走りながら探しましたが、入口が分からず見送ったことがあります。今回は車を牧野ヶ池緑地公園に置いて来たのでその心配はない。神社参道は病院正門から左に向かい、施設北側を進み、東外れの駐車場から訪れる事になります。駐車場から北側の森の眺め。神社はこの森の中に鎮座しています。駐車場北側の森に写真の参道が作られています。参道入口には光風園神社の縦看板があり、岡の上に参道が伸びています。入口の石段の先は山道が伸びていき、その先の鳥居に続きます。木製の鳥居は二つ建てられています。一ノ鳥居の額は光風園神社。いつ頃建てられたものか分かりませんが、笠木や額は苔むし腐敗が進んでいます。その先のニノ鳥居は更に腐食が激しく、鳥居の左に手水舎、正面に本殿も見えています。冬の時期だからまだしも、草木に勢いのある時期に歩きたくない道かもしれない。手水舎と本殿。こちらの手水舎も朽ちかけています。手水鉢。正面に「文化13年丙子 奉献神明宮」と刻まれています。文化13年は西暦1816年、今から200年前に寄進されたものです。当初は神明宮と呼ばれていたようです。鎮座地は現在の名東区の東外れに位置し、日進市と隣接する丘陵地にあります。南には天白川が流れ、この地域は南垂の立地にあります。 大正9年当時の地図では、南の天白川沿いに洞、梅森の集落、北側は牧野池付近に猪高村高針、東は日進村岩崎の集落が見られますが、鎮座地周辺には集落の姿は見られませんでした。現在のように住宅地として開発が進んだのは昭和に入ってからです。神社は東名古屋病院の敷地北側に鎮座しています。東名古屋病院は、昭和15年(1940)に開設された結核療養施設である梅森光風園が前身です。昭和43年(1968)に八事療養所と合併し、国立療養所東名古屋病院となり、現在に至ります。 療養施設時代の航空写真からも、当時かなりの療養棟が建てられていたことがわかります。奇しくも、神社名はその光風園の名を冠しており、いろいろと背景を想像したくなりますが、「文化13年神明宮」の手水鉢はそのような想像を否定しているようです。それがいつから光風園となったかです。当神社の創建時期や由緒について調べて見ましたが、具体的な資料やweb情報が得られず、神社についてこれ以上書き添えることがありませんが、当初は神明宮として祀られていたのは間違いないようです。参道脇の猿の腰掛。正式名称は知りませんが、子供の頃からこのように呼んでいます。試した事はありませんが、漢方薬として煎じて飲まれたり、癌にも効くと云われたこともあるものです。これで何年物か分かりませんが、茸は裾野が広く、SNS情報から素人が迂闊に手を出すのは絶対にやめた方がいい。本殿の手前は再び石段となり、綺麗な石で作られた基壇の上に本殿が祀られています。本殿正面全景。基壇脇の貼り紙。参拝のみに留めて欲しいとのこと。既に神社の由緒を伝え、管理をする方はいないのだろうか。病院敷地にあるため、法人として賽銭の扱いに困惑している様子が伺われます。本殿域全景。神明造の社で千木は内削ぎ、鰹木は確認できるものが2本載っています。左には落ちてしまった鰹木が纏められています。最後に手が入れられたのがいつか分かりませんが、このまま朽ちていくのだろうか。本殿域から社頭方向の眺め。鳥居はともかく、200年前の先人が祀った理由を知り、本殿に一部修復の手が差し伸べられることを期待したい。山や田畑が消え住宅地に移り変わり、その土地の小さな社が消えたところで生活に影響はないのだろうが、先人達の思いはそこで途切れる。さて、牧野ヶ池緑地公園に停めた車までもう一歩きしよう。光風園神社創建 / 不明、手水鉢に文化13年神明宮の銘がある。祭神 / 不明所在地 / 名古屋市名東区梅森坂3-341-7梅森坂神社から光風園神社 / 距離0.65km、徒歩9分参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社
2025.01.20
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白美龍神社を後に、牧野ヶ池緑地公園の南側から公園東方向の梅森坂神社に向かいます。距離にして約2.4㌔、40分弱の移動距離になります。牧野ヶ池緑地公園南側の坂が多い閑静な住宅地、その一角に写真の梅森坂神社が鎮座しています。Gマップ上では梅森坂神社として表示されますが、現地を訪ねたところ梅森坂神社の社名を示す額や社標は見られず、橘の会という団体管理の神社のようで、愛知県神社庁、法人名を頼りに検索してみましたが良く分からなかった。この記事では梅森坂神社とさせてもらいます。社頭全景、良く手入れされた境内が気持ちがいい。木製鳥居を構え、玉砂利が敷き詰められた参道の先に本殿が祀られています。鳥居右手の由緒は以下内容。「主祭神 天之御中主命、天照大御神。御由緒昭和44年に世界平和と国家安泰・衆生済度のお働きの為に下がられ、翌昭和45年に橘の会を創設するも、社殿及び境内狭小の為、平成30年1月8日にこの地へ御遷座されました。」祭神の天之御中主神は古事記の天地創世・天地開闢神話の最初に登場する神で、独神となって身を隠し、唯一冒頭にしか現れない最高神とされます。天照大御神は国土創造の神、伊邪那岐、伊邪那美から生まれ、古事記や日本書紀では最高神とされる女神で皇室の祖神とされています。参道左の手水舎。参道は本殿前で左に分かれているようです。梅森坂神社本殿。4本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造で、天之御中主命、天照大御神が祀られています。本殿左の社には二見興玉大神を祀るようです。伊勢市二見の二見興玉神社から勧請されたものと思われます。興玉大神(猿田彦大神)は人々が過ち無く過ごせるように導いてくれる神とされます。お伊勢さん参りで最初に訪れる二見興玉神社は禊の神社、夫婦岩や天の岩屋は記憶に残るところ。この社の前にもお馴染みの蛙も置かれていました。小さな神社ですが、佇まいはどことなく伊勢神宮に通じる神聖さが漂う。梅森坂神社遷座 / 平成30年祭神 / 天之御中主神、天照大御神二見興玉社 / 二見興玉大神所在地 / 名古屋市名東区梅森坂西2-807白美龍神社から梅森坂神社 / 距離2.4km、徒歩34分参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社
2025.01.19
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白美龍神社。名古屋市名東区の高針ジャンクションの東に広がる牧野ヶ池緑地公園は、牧野池を中心とした芝生広場や豊かな緑が残された癒しの場です。牧野ヶ池緑地西口南側駐車場から蛇のように曲がりくねる高針ジャンクションの眺め。冬のこの時期は寒々とした光景ですが、桜の時期になると表情は華やぎます。この公園の南側はグラウンドが隣接しており、今回の目的地白美龍神(羽白美衣龍神)はグラウンドの南外れの東の森の中に鎮座します。駐車場から南のグランウンド方向に向かうと森の入口に白美龍神の幟旗が立てられています。そこから案内板に従い怪しい小道を分け入っていきます。神社へは少なくとも三つのルートがあり、駐車場北側の道路から東に進むと鳥居のある正参道ですが、社殿まで一番距離は長く、ちょっとしたトレッキング気分の道です。写真のグランウンド沿いに2カ所の参拝道があります。アンダーパスを過ぎると正面に幟が見えてくるので、そこが入口。入口全景。ここから更に右に進むと三つ目の参道がありますが、社殿までの距離は短いのですが一部段差が大きいのでお勧めしません。何れの道も粘土質なので、雨後は足元が滑りやすくなります。この道を真っすぐ登り、二股から右に進みます。二股から右の参拝道。社殿手前で少し高低差のある細い道になりますが概ね歩きやすい道が続きます。道は周りの樹々の根っこが蛇のように横切っているので足元は要注意です。高低のある道を登りきると右手に境内が見えてきます。撮影時間からみると入口からここまで7分ほどです。幟旗で境内の様子は見えませんが、多くのウオーキング客で賑わっていました。五合上池のゴルフ場フェンス際から鳥居と境内を見上げる。境内から本殿の眺め。左手では破魔矢や白蛇の御守りが売られています。蛇は財運と健康運をもたらすとされ、昔から蛇の抜け殻を財布に忍ばせると金運に恵まれると云われています。身近で蛇を見ることがなくなり、抜け殻も見かけなくなりましたが、昔は大事に忍ばせていました。しかし、減ることはあっても一向に増えないことに気付いてからは、蛇にすがるのはやめました。社殿は一部白いシートで覆われていますが、一間社流造で五合池に向かって鎮座しています。多くの幟旗がはためき、多くの方に崇敬されているのが分かります。普段は静かな境内なのですが、巳年の今年は平年以上に多くの方参拝客やTVの取材があるようです。五合池方向を撮りたくても撮れない状況でした。拝所の軒下には風鈴が吊るされ、木枯らしに吹かれて澄んだ音を奏でています。社の前に祭神である弁財天の神使とされる蛇の大好物の卵が供えられ、蛇の重軽石や蜷局を巻いた白蛇が安置されています。写真は以前訪れた時に本殿に掲示されていた由緒と平成16年(2004)中日新聞の切り抜き。左の由緒には以下のように書かれていました。「白美龍神 羽白美衣龍神「はくびりゅうじん」の由緒鎮座地 名東区猪高町大字高針山ノ中御祭神 白美龍神 女神御神徳 病気平癒・痛風・神経痛・腰から下の病・大願成就・金運・財運・商売繁盛・縁結び・家庭円満・子孫繁栄・開運除けに霊験あり。創建年 昭和28年(1953)11月27日昭和28年夏、愛知カンツリー倶楽部ゴルフコース建設に従事する人達が、大白蛇を目撃した。大白蛇は五合池の面に姿を見せて泳いだ。目撃したのは40人で恐怖のあまり、悪感、発熱、数日床に伏せ地元高針村では一日も早く白蛇をお祀りして村の隆盛と、ゴルフコース工事の安全を祈ろうという声が高まり、地元の御嶽行者に祈祷によれば、これは霊妙なる神通力を有する白蛇にしてこの地に棲。既に江戸時代に出現せられたる。ゴルフコースの建設でだんだん住み家を狭められ、ついに人前に姿を現してしまった。龍神として祀れば姿を消し祭祀怠らずは祭神として永く池に棲む大願成就の神力を発揮するものの御神を許されて、龍神として祀れば姿を消し祭祀怠らずば祭神として永く池に潜み大願成就の神力を発揮するものなりとの御神託を得たり。この神社建設には地元の人々だけでなく、当時の愛知県知事 桑原幹根氏の働きにより愛知県の財界からも寄付を集め五合池を見下ろす丘の上に造られました。建設から既に67年が経ち社の老朽化が進んでいます。御参拝の皆様と縁神様を結んで頂き奉賛金をお納めいただけると幸いです。毎月27日を以て縁日と定め春秋の二回、大祭を行うものなり。」とあります。右の新聞のコピーは「東山ゴルフ場に大蛇出現」という衝撃的な見出しとなっています。内容は「50年ぶりに社が建て替えられた」ことを報じるものでしたが、見出し以上に本文に興味が湧きました。ただ、写真からは詳細が読み取れなかった。大勢の人が目撃した大蛇は、長さ三間(約5.45㍍)あるいは三間半とも云われ、胴廻りは二尺(約0.6㍍)余りでアナコンダ並みの長さがあったようです。体が白くなる所謂アルビノは自然界では珍しい事ではないけれど、目撃当時、海外からアナコンダのような蛇が販売されていたか定かではないけれど、個人で飼っていたものが野に放たれたものと推測したい。しかし江戸時代から大蛇が目撃され、繁殖していたとなると話は変わってきます。昭和28年当時では、今のように手軽に映像に残せる時代ではないだけに、目撃談は否定できないが、工事の進捗が進むにつれ、居場所を失い姿を消したということだろうか。目撃談を通じて見えてくるのは、大蛇はただの生き物以上の存在であり、広域避難場所も担うゴルフ場開発に係わる人々にとって神の存在を示唆するものであったのだろう。金の宝珠に巻き付く神使の蛇は、左の白蛇はまだしも、右の白蛇の目つきと牙は頂けないものがあります。パンフレットではこの重軽石の愛称は巳ちゃんと呼ぶようです。愛称は可愛くて、石なんですが、個人的にはこの形態の重軽石は試さない事にしています。こちらの白龍の方かまだ受け入れやすい。巳年ということで蛇に因んで白美龍神社を参拝しました。普段は心細くなるような山の中の境内も、今年は訪れる参拝客は多そうです。白美龍神社創建 / 昭和28年(1953)、2003年遷座50周年に合わせ建て替え。祭神 / 白美龍神所在地 / 名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中参拝日 / 2025/01/09過去記事・「白美龍神(羽白美衣龍神)」
2025.01.18
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政府補助金打ち切りによるガソリン価格高騰はある程度周知されていたものの、現実にその日が訪れると看過できない金額なのを実感する。車オーナーや車が切り離せない関連企業には大きな痛手でしかない。国や政権与党は支出をやめる時は速やかに実行するが、暫定税率・二重課税の廃止は一向に現実化させない。国と歩調を合わせるように、ニュースも燃料高騰の背景や要因について報道せず、アイドルのスキャンダルなど、今さらの話題に庶民の視線を逸らせようとしている気がしてならない。何ひとつ自国で賄えず、輸入に依存するこの国にあって、円安を容認しガソリン市場価格の高騰が、車を持っていない者にも大きく影響することは誰しも理解していると思います。安くなるものは何ひとつないといっても過言ではない。東京ではキャベツ一玉1000円とも聞きますが、野菜もまた気候の影響だけではなく、使われる肥料や燃料も輸入なので安くなる要素はない。何も策を講じず補助金だけ打ち切れば、少しばかり還付金を支給し庶民の機嫌を窺おうが、円安を容認し続ける限り、家計にとっては焼け石に水。一般庶民は安い物を求め走り回る。それでも食料品の消費税免税もしようともせず、円安で恩恵を受ける輸出企業や個人から相応の受益者負担をお願いする考えもない。円安で恩恵を受ける企業は最高益を続け、札束で人材を買いあさり、税金や政党支援金として還元してくれる国や政党にとってはありがたいお得意様だろう。一方で円安の負の影響を受ける企業や庶民にその負担を強い続けている。所得の不平等さを測る指標のひとつとしてジニ係数を聞いたことはあると思います。そこから税や各種社会保険料、年金や児童手当などを差し引いた再分配所得ジニ係数があります。0から1の値で現され、係数が上がるほど格差が大きいことを指し、0.4を超えると治安が乱れ暴動などが生まれるといいます。2021年、厚労省の日本のジニ係数は0.57で、再分配所得ジニ係数が0.38とどちらも過去最大(厚労省「令和3年所得再分配調査」)を示したそうで、OECD平均のジニ係数は0.316からみると格差拡大傾向が続き、再分配所得ジニ係数も緩やかに増加傾向にあり、社会保障制度が脆弱化している事を示しています。格差社会の代表格アメリカは先進国の中では別格の0.4で、ことあるごとに乱れています。国や政権与党はそこを目指しているようです。制度や税を変えようが、日本人は主義主張を表にしたり、政策に興味を示さない国民性なので、ある意味甘く見られているのかもしれません。能登の復興の遅れもそのひとつかもしれません。あれが東京で起きればまた違ってきます。そこには首都圏と地方の格差が見え隠れします。機能の一極集中は避け、地方に分散させるとしたはずだった。楽観的に見ても、震災や噴火災害が起これば、空すら見えない建物や人の密集した都市は脆弱そのもの。東京のオフィス空き家率は約6%、住宅に至っては約10%ともいわれます。人口は40年以上前に予見されていた通り確実に減り、そこにさらに新たなインフラや住宅の建設に事欠かない。一方で被災地では落ち着いて生活する家すら持てていない方もいる。支援金や募金も総額や使途が明確にされず、過去の事例からも、影で私腹を肥やす者がいないとは言えない状況。日本人の勤勉さや道徳、倫理などは風化し、どんどん明文化しないといけない時代になってきた。いろいろな部分で分配ができていないと感じる昨今。もはや国のリーダーや政党、議員も新しい人材に刷新する必要がある。差し当たって、暫定税率と二重関税の撤廃は速やかに実施してほしい。
2025.01.17
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洲原神社から東に向かい、山王公園で左に進み勝川天王社に向かいます。上は前回使用した明治の地図で洲原神社と勝川天王社を赤枠で囲っています。目的地は赤のマーカー、ここまでの距離は約600㍍、5分もあれば移動できます。南西側から見た勝川天王社全景。昭和23年(1948)に大字勝川の一部から、勝川新町として成立した比較的新しい町名で、勝川新町のほぼ中央に位置し、南東に社頭を構えた細長い社地で一部は玉垣で囲まれています。舞殿の左側に勝川天王社の本殿が祀られています。舞殿は切妻瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのものです。社頭から社殿の全景。社頭に社標はなく、勝川天王社とありますが、赤い社の先入観も有り、天王社の実感は薄いかもしれない。しかし、ここまでくる間で見かけた公園が山王公園とあるだけに、疑ってかかってはいけないかもしれません。右の掲示板には勝川天神社(春日井市勝川町)祈願祭の案内が掲示されており、勝川天王社の祭事も兼務されているのかもしれません。新年らしい光景だ。舞殿後方の本殿。真新しい台座の上に板宮造の本殿が祀られています。本殿には社名札はなく、本殿域の玉垣にもそれらしき社名は見られなかった。玉垣は平成8年(1996)のもので、この年に手が入れられたようです。明治から現在までの地図を見る限り、ここに鳥居の印はありません。しかし、昭和20年(1945)の航空写真では一面の田圃の中に社地らしき姿が見られました。また、明治頃の地図には、現在の妙慶町3あたりに鳥居が描かれていますが、大正時代になると鳥居は消え、現在の妙慶町3に神社はありません。いろいろ瞑想したくなりますが、勝川天王社の由来や創建等は分かりません。本殿後方から社頭の眺め。何か社名に繋がるものがありそうなものですが探しきれなかったです。ムンムンとしたものがありますがここで帰途に着く事にします。勝川天王社から西へ20分程歩いて名鉄小牧線味美駅へ到着。2025年初歩きは平坦な道のりの全行程7.8km。しばらく来ていない間に川沿いは様相が変わった所も多かっただけに、川沿いを歩いてみる必要がありそうです。丁度電車が入ってきました、それに乗車し喜んで平安通まで乗って行ったは良かったが、敬老パスを利用の方は一旦、名古屋市内の味鋺駅で下車、再入場して次の電車に乗り換える事をお勧めします。(敬老パス有効区間は前提が名古屋市内での利用になります)勝川天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 春日井市勝川新町2-153十五丁公園-勝川天王社 / 北東に0.6km、8分ほど勝川天王社-味美駅 / 西へ1.2km、20分弱参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋・2025年初歩き2 水分橋から春日山古墳(春日山弁財天・春日山御嶽神社)・2025年初歩き3 十五丁公園の洲原神社過去記事・勝川#1 『勝川天神社』
2025.01.15
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春日山公園の道標から国道302号線を越え、北東へ約1.6km、徒歩25分ほど先の春日井市知多町の十五丁公園に向かいます。白山西横断地下道。勝川と枇杷島を結ぶ城北線味美駅と国道302号線を渡るための地下道。城北線は一度乗りたいとは思っていますがなかなか縁がない路線。地下道は、明り取りもあり内部は思ったより明るく、壁には子供達の絵が展示され、ギャラリーになっており、冷たいコンクリートの空間に温もりを与えてくれます。作者にとっては歳を重ねて訪れた時、子供に自慢できる思い出になるのでは。八田川。名二環(国道302号線)北側の人道橋から庄内川方向の南の眺め。こうして見ると実に怖い所だ、人の想定が自然の振舞いに通じるのだろうか、この下で地震に遭いたくない場所だ、車で名二環を走るたびにリスクを感じる構造です。知多町3の十五丁公園。春日井にあって知多町とはなにかしっくりこない。町名の由来を調べて見ると理由が分かりました。この周辺の新田開発のため、寛文3年(1663)知多郡藪村、現在の東海市養父町界隈の移住者により新田開発され、それに伴い知多東・知多屋敷と称されたようです。1891年頃の地図を見ると、犬山街道と下街道に沿って大きな集落ができていますが、八田川左岸のこの辺りは小さな集落が点在する程度で、八田川にかけて八田与吉新田が広がる地帯。田畑が消え、今のように区画整理・住宅が広がるようになったのは昭和以降のこと。今回訪れるのは十五丁公園内の北西角に鎮座する洲原神社。子どもらが遊ぶ公園に佇む神社は好きな光景です。公園内の角に玉垣で囲った社地の高い台座の上に社が祀られています。Gマップによれば「川原神社」の社名は出てくるがコメントがなく、現地を訪れても社名札はなく、裏付けとなるものが全くありません。webの川原神社情報や過去の地図をみても神社に関する情報は得られず不明社とするつもりでいました。「郷土誌かすがい」にこの神社について記述がありました。まず、この神社は川原神社ではなく「洲原神社」と呼ばれています。「郷土誌かすがい」から一部抜粋した内容は以下です。「昭和の洲原詣その2知多町の十五丁公園北西隅に洲原神社の小祠が祀られている。この社は、昭和49年まで付近の平手庸明氏宅地内に奉祀されていたが、区画整理により現在地に移され、同51年6月に移転を完了した。十五丁場洲原社創建の由緒は次のように伝えられている。天保の大飢饉がおさまった翌天保9年(1838)、この地方に害虫が大発生して農作物が食い荒らされ皆無となった。人々は雑草、木の皮まで食い尽くす悲惨な状態であったという。翌天保10年、十五丁場の集落の寄り合いで、集落のリーダーが中心になり、五穀豊穣の神として知られる美濃洲原神社を当集落へ分神として迎えることにした。毎年4、5月頃に集落の代表が洲原神社に参拝し、お札を受けてきたという。現在でも、今年の豊作を祈願して参拝する。」洲原神社は、岐阜県美濃市須原の長良川右岸に鎮座し、主祭神は伊邪那岐命を祀る古社です。周辺から田畑が減少し、農作物は作る側から買う側になってしまった今日、農作物の豊穣を祈願する習わしが今も受け継がれているのだろうか。広い意味で買う側になったとはいえ、作物の豊穣を祈願しない訳にはいかない。昨年の米不足・野菜の不作・高騰は日々実感します、ないものは金で解決できるはずもなく、作物を育てる知識と土壌を失ってはいけない。我家の猫の額ほどの小さな菜園でも最近は野菜を植える機会が多くなってきた。それとて昨今の異常気象では上手く育たなくなった、土を育てる知識がないのである。ものが無くなるとそれを盗む者が現れ、やがては豊かな土壌を盗むそんな時代になってしまうのだろうか。新田の豊穣を祈願した洲原神社、「雑草や木の皮まで食い尽くす」そんな現実が訪れないことを願いたいものだが、既に動き出している実感がありますねぇ。洲原神社創建 / 天保10年(1839)祭神 / 伊邪那岐命所在地 / 春日井市知多町3-104春日山弁才天から十五丁公園 / 北東に1.6km、25分ほど参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋・2025年初歩き2 水分橋から春日山古墳(春日山弁財天・春日山御嶽神社)過去記事・「洲原神社」
2025.01.14
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初歩き2の今回は水分橋から春日山に向かい、春日山弁財天へ参拝します。写真は水分橋から対岸の庄内用水元杁樋門方向の眺め。ちょうどこの辺りに旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)の橋梁が架けられていた場所になります。ここから北を見ると築堤が残り徐々に高さが低くなっていきます。この先は既に一部に民家や駐車場に姿を変えています。築堤は消え、線路もなく電車も通る事はありませんが、線路内立入禁止看板が掲げられています。地上を走って来た小牧線は、ここから200㍍ほど先の県道162号線あたりから地下に消えていきます。更に北進し、味鋺駅付近から左に進路を変え、県道102号線を北上、地蔵川を渡り戸田公園に向かいます。戸田公園。地蔵川右岸沿いにある公園、この界隈には次の目的地、味美春日山古墳や白山神社の鎮座する味美二子山古墳が隣接しています。後方に見えているのは冨士山滑り台で古墳ではありません、味美春日山古墳へはここから徒歩10分ほど、ここで少し一休み。味美春日山古墳全景。古墳を含め春日山公園として整備されており、春日山弁才天は墳丘の上に祀られています。春日山には犬山街道を挟んだ二子山に鎮座する白山神社の御旅所や春日神社がありましたが、寛永年間に御旅所は春日山から現在の二子山に移され、大正7年(1918)には春日神社も白山神社に合祀されました。味美春日山古墳を南側から見た全景。古墳は6世紀後半の古墳時代のものとされる前方後円墳と云われます。実際に訪れた印象では右手が後円部で左側が前方部、中央の階段部分がくびれ部分のように感じます。春日山弁才天と御嶽神社は左の前方部に祀られています。こちらは北側から見た味美春日山古墳。春日井市古墳散策マップの春日山古墳解説は以下のようなものでした。「二子山古墳に後続すると推定され、現在は春日山公園内に保存されています。かつて巨石が掘り出され白山神社に運ばれたという記録があり、埋葬施設は横穴式石室の可能性が考えられます。」とありました。そう聞いて白山神社の写真を改めて見直すと社頭の由緒碑の台座など、それらしい岩が使われています。それほど人の手が入っていながら出土品は不明とある。敢えて古墳と言われなければ、小高い小山の上に鎮座する神社の印象しかないかも知れません古墳を実感させるものは後円部に建てられた「春日山古墳」の石柱くらいで、古墳に関する解説板など特に見られなかった。墳丘から前方部の御嶽神社の全景。右手には「南無大悲観世音菩薩、南無大師遍照金剛」の大きな石碑が建てられてます。左側の斜面に小さな社の姿があります。どうやらこちらが春日山弁才天のようです。公園南側から見る春日山弁才天。左に春日山弁才天縁起の石碑があり、社は大きく育った椎の樹の根元に祀られています。お賽銭はこの不思議な形の賽銭箱に入れます。これ、遠目には陶器なのかと思っていましたが、近寄ってよく見ると金属製のもの。この形どこかで見た事がありませんか。気体の種類は分からないですが、これはガスボンベの空容器を加工したものではないだろうか。ここに硬貨を入れると澄んだいい音が出て、いいアイディアだと感心しました。「春日山弁財天縁起この地方は、17世紀中頃までは味鏡原と呼ばれる荒れはてた原野もあったが、南西部の湿地帯では新田の開拓が始まり、人の集まりはやがて集落となり、村人の暮らしも次第に良くなり、人々は更なる平安を願い苦しい労働のなか、村の辻々には石仏を、小高い塚には祠を祀り、天災疫病等の退散を祈願し、心のよりどころとしました。江戸時代下期の頃、当村住人周左衛門は人々に請われ、護国院第廿七世實如和尚の勧めも有り、同寺境内に祀られていた大弁財天女尊をお迎えして、当春日山南西麓に祀りましたが、参拝者の不便等の為、ほどなく現在の中新町1-9-5へ遷され、以降約百四十有余年あまたの人々の信仰を集めてまいりましたが、時代変わり、再び当初の地春日山に遷座するにあたり、嘉永の昔村人が使用した礎石を新しい社の脇に据えたことを添えて略記とする。平成七年三月吉日」この弁才天はもともと、南に20分ほど歩いた庄内川右岸に鎮座する護国院から遷されたもので、護国院⇒春日山⇒中新町⇒春日山と三回も動かされたようです。具体的な創建時期は定かではないようですが、この地に戻ったのは30年前の平成7年(1995)のようです。今日も地元の方の参拝者も見え、賽銭を投じる澄んだいい音が聞こえてきます。春日山御嶽神社、ここにもあの賽銭箱が置かれています。左手に霊神碑、中央に祭神や多くの霊神を記した石碑、右手に祠が祀られ、後方にも複数の社が見られます。石碑の上部の内容は以下。「八海山大頭羅神三国狭槌尊、大己貴命、大日大聖不動明王、国常立尊、少彦名命、白川大神、三笠山刀利天宮豊斟停尊、覚明霊神、普寛霊神」霊峰御嶽は、二人の行者により開かれました。その一人、普寛霊神は王滝口修験道の開祖であり、もう一人の覚明霊神は黒沢口修験道を開いた行者で、地元牛山町出身です。出生の地でもあることから、この地域では御嶽神社はよく見かけられます。右手の祠と奥の社。カッラーン〃、参拝させてもらいます。祠の額には神變大菩薩とあります。神變大菩薩とは役小角(役行者)のことで、光格天皇より「神變大菩薩」の諡号が与えられたもので、祠の中に役行者が安置されます。後方の社、右は国府宮神社、左に稲荷大明神が祀られています。その左の二社は右が秋葉神社、左の赤い社は津島神社。その左、右から八海山、御嶽神社、白川大権現、摩利支天が祀られています。これで古墳の上に祀られている社は参拝しました、次の目的地に向かう事にします。春日山公園の東北角に写真の道標が立てられていました。もとからここにあったものか、道路整備に伴いここに移されたものかは不明ですが、すぐ近くを上街道が北へ伸びるだけに道標には違和感はない。標の一面を除いた三面には以下のように彫られています。「是よ里十八丁常安寺・天保七年(1837)丙申二月十五日・三国伝来釈迦如来 」とありました。「常安寺」とは、ここから空港方向に約2kmほどの豊山町に鎮座する常安寺を指し示すものでしょう。次の目標は、この道標から北東へ15丁ほどの15丁公園に向かいます。春日山弁才天・御嶽神社・春日山古墳弁才天創建 / 不明御嶽神社創建 / 不明境内社 / 秋葉神社、津島神社、国府宮神社、稲荷大明神所在地 / 春日井市中新町2-21訪問日 / 2025/01/05水分橋から春日山弁才天徒歩ルート / 距離2.3km、移動時間約35分参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋過去記事・味美 『白山神社』・『味鏡山 天永寺 護国院』・萬松山常安寺
2025.01.13
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息子達の帰省もあり、暮れから正月にかけては飲み食いばかり。この間、初詣以外は家からほとんど出ない生活でした。体重計を覗いてみると驚愕の結果だった、体が重いのも当然だ。撮り溜めしていた写真は使い切り、今日から平常営業です。蛇年の初歩きは余り混雑しない場所で足慣らし、という事で地下鉄名城線の平安通駅から北に向かい、三階橋の袂に鎮座する黒体龍神を参拝し、名鉄小牧線味美駅までの8kmを歩いて来ました。写真は平安通駅3番出口からの眺め、ここから左に進み矢田川・庄内川を越え、県営名古屋空港方面に向かいます。歩き始めて20分程で黒川樋門到着。庄内川から矢田川の地下を流れ導かれた水は、堀川へ用水を導くために設けたもので、ここから黒川へ流れ込みます。3連の樋門の中央に2つの石段があり、樋門の上屋は木造で復元されたもので、その下には門を上げ下げする巻上機があります。樋門後方には三階橋ポンプ場があります。樋門上部は木造の人道橋となっています。石造の黒川樋門は、明治初期の黒川開削時に原型が出来、明治43年頃の改築時に今のような姿となった。その後、取り壊されるも、昭和55年に現在の姿に復元されました。「天然プールの碑。かつてこの地には明治9~10年の黒川開削の時に造られた池があり、ここより黒門・庄内用水・御用水・志賀、上飯田用水に分水していた。いつの頃からか、この池は天然プールと呼ばれるようになり、たくさんの子供たちが水遊びに集まり、水泳や魚釣りなどの思い出を残していった。百年にわたり人々に愛されてきたこの天然プールも昭和52年の三階橋ポンプ所建設により姿を消し、今は明治末期築造の石組樋門がわずかに昔を忍ばせている。名古屋市 昭和58年8月」樋門脇の地蔵堂。以前は現在地より下流の夫婦橋の傍ら祀られていましたが、上飯田通や県道の整備に伴いこの地に遷されたもの。堂内には地蔵と馬頭観音像が安置されています。黒川樋門は令和2年景観重要建造物に指定されました。この先の三階橋ポンプ場の西隣に、荒子川に至る全長28kmの庄内用水の始点があります。三階橋から矢田川上流の眺め。対岸から三階橋と黒川樋門方向の眺め。三階橋の由来は矢田川の地下に堀川、その上に架かる橋なので三階橋と付けられたという。写真は2021年に訪れた時の右岸から三階橋方向の眺め。この堤上には赤い社が印象的な天王社が祀られていました。現在は後方の守西ポンプ場や旧名鉄小牧線の築堤が見通せるようになり、堤の上から赤い社の姿は消えていました。廃社なのか、新たな場所に移されたものか不明です。瀬古1丁目「天王社」過去記事 / 「庄内用水元杁」から瀬古1丁目「天王社」守西ポンプ場の南に残る旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)の築堤から庄内用水元杁樋門方向の眺め。築堤には枕木はありませんが、バラストが残り、瀬古親水遊歩道沿いには橋台の遺構が残っています。旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)は、大曽根-犬山間を結ぶ路線として計画されましたが、計画変更により、上飯田駅から新小牧駅までの路線として開業(1931)されました。後に、地下鉄上飯田連絡線の開通(2003)により、名鉄小牧線が地下鉄と接続されることになりました。旧名鉄小牧線の上飯田駅から味鋺駅までの地上区間は、これに伴い廃線となりました。二つの河川を越えることから、こうした築堤と橋台が築かれました。この橋台の脇の畑に小さな社が祀られていました。橋台と社。畑の隅の大岩の上に板宮造の社が祀られ、注連縄と榊も供えられています。消えた天王社はここに?と思いたくなりますが、過去に撮った写真の中にも小さく映り込んでおり、天王社とは別の社のようです。社名札もなく詳細は不明ですが今も崇敬されているようです。不明社創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区瀬古1ここの上を電車が通り、庄内川を越えた味鋺駅で小牧線と勝川線(1937年廃線)が接続していました。左側の守山瀬古親水遊歩道の瀬古橋付近には、小牧線開業当初には瀬古駅がありましたが、1942年に廃駅となり二つの河川に挟まれたこの地区から鉄道駅はなくなりました。堀川瀬古親水遊歩道。堀川に続く流れの中には水藻がゆらめき、小魚の姿も見られ、歩いていても気持ちのいい歩道が続きます。庄内用水元杁樋門。明治10年(1877)、庄内川に架かる水分橋から矢田川の伏越間で完成するも腐朽が進み、明治43年(1910)に作られたもので「現存する重要な土木遺産2800選」に選定されています。消石灰と真砂を混ぜて捏ねられた「たたき」と呼ばれる人造石で、二つのアーチ型水門。「現存する重要な土木遺産2800選」に選定されています。樋門上部の上屋には開閉用の舵輪のようなハンドルが見られます。ここから右手が庄内川となり、目の前に県道102号線の水分橋が架かっています。水分橋に出てみて驚いた、水分橋の架かる堤の様相が一変していました。以前の堤には小さな森があり、樹々に隠されるように黒体龍神が鎮座していました。橋梁改築に伴い、鎮座地の森は伐採、土手は盛り土され、黒体龍神の姿がなくなっていました。道路を渡り、周囲を見渡してみても鳥居の姿も見られなかった。蛇年最初の参拝は黒体龍神と思い来たけれど・・・2019年当時の『黒体龍神』今ではこの杜や神社も盛り土の下になってしまったのか。山王社同様、廃社になってしまったのか?どこか近くに遷されたものか、もう一度この周囲を訪れてみようと思います。過去記事 / 『黒体龍神』水分橋から庄内用水頭首工の眺め。ここで庄内川の水位を調整し、元杁樋門に注水する堰で、明治10年(1877)の黒川開削の際の仮堰が始まりで、堰が破損・流出する都度補修を繰り返していましたが、昭和29年(1954)に現在の形になりました。以前はこの上流に小牧線の橋梁が架けられていました。黒体龍神や天王社が消えていたのは残念ですが、庄内川を渡り味鋺駅方向に向かいます。平安通駅からここまでの距離約2.5km、所要時間約40分訪問日 / 2025/01/05地下鉄名城線平安通から名鉄小牧線味美駅全ルート / 8km約2時間
2025.01.10
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春日井市味美西本町「神明社」は、県営名古屋空港の南東角に鎮座しています。写真は味美上ノ町交差点から東方向の眺めです。左右を横切るのは県道102号線(犬山街道)で、手前には県道62号線があります。直進すると名鉄小牧線の踏切があり、混雑する交差点です。江戸時代、名古屋から犬山城方面へは、清水口から安井、味鋺に向かう犬山街道(稲置街道)が利用されていました。名古屋から矢田川や庄内川を越えるあたりは低湿地帯の不便な道でしたが、明治10年(1877)の黒川開削で出た土を盛土して道路として整備されました。翌年には水分橋も架けられ、整備された道を犬山街道と呼び、後に県道となりました。以前は小牧・犬山方面に抜ける際は良く利用しましたが、なにせ片側一車線で時間の読めない道でした。今回の西本町「神明社」は、この古い道筋の味美上ノ町交差点の北角に鎮座します。社地全景。左側は県道62号線になり、県道側からだと歩道沿いに立てられた看板が目隠しとなり、社頭にあたる東側には、社標や鳥居などはなく、分かり難いかもしれません。社地には大きな樹々はなく、ガランとした社地に東向きに舞殿と本殿が建てられ、すっきりとした外観です。舞殿から本殿殿方向の眺め。瓦葺の四方吹き抜けの舞殿は、柱に筋違が入れられ重い屋根を支えています。舞殿左脇に石仏が安置されています。石仏は馬頭観音で犬山街道を向いて安置されています。光背の銘文を見忘れましたが、この風貌からすると、明治から江戸時代末期のもののように見られます。舞殿から本殿域の眺め。正面の相殿の他に右側に一社祀られています。板宮造りの相殿には四社が祀られており、左から津島神社、秋葉神社、皇大神宮、白山神社が並んでいます。神社の創建について調べましたが、以下のような結果となりました。まず、愛知県神社庁には登録がありませんでした。次に『郷土史春日井』を調べてみましたが、記述を見つけることができませんでした。また、時系列地図で明治時代まで遡って確認しても神社を示すものはなく、昭和中期の航空写真では、現在の鎮座地に街道前まで続く長い建物が建てられているのが見られます。津島神社、秋葉神社、皇大神宮の組み合わせは、地に降りた屋根神ではないかとも考えられますが、それはあくまで個人の推測に過ぎません。創建時期や由緒については、確かな情報はわかりませんでした。本殿域右側の国府宮神社。詳細はわかりません。社地北側から本殿域側面の眺め。大正時代には南側の県道はまだなく、街道沿いの上ノ町と西海道の集落の間に位置しており、こぢんまりとした神社ですが、これら集落の氏神として祀られたものでしょうか。神明社創建 / 不詳祭神 / 天照皇大神境内社 / 津島神社、秋葉神社、白山神社、国府宮神社所在地 / 春日井市味美西本町2260-2参拝日 / 2024/12/26公共交通機関 / 名鉄小牧線春日井駅から南へ徒歩20分
2025.01.09
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東郷町春木白土の山神神社から県道36号線を西へ5分程移動すると、そこはもう名古屋市緑区に入ります。神の倉交差点を右折、次の交差点を右折すれば今回の目的地「徳一稲荷」到着です。上は昭和43年頃の地図とほぼ同時期の航空写真。赤枠が「徳一稲荷」で右のマーカーが山神神社になります。鎮座地の神(かん)の倉の「神」とは、近隣の緑区熊の前に鎮座する熊野神社(左のマーカー)の所在する山を「神ノ倉」と称したことに由来するらしい。地図を見る限り、この頃でも周囲の山と谷筋に田畑が広がる一帯で民家の少ないのが分かります。これ以降、更に山は消え、急速にベッドタウンに変貌する事になります。徳一稲荷の創建は比較的新しく、地図には鳥居は描かれていませんが明治中頃の事です。明治頃だと一面山だったものと思われます。徳一稲荷は愛知県神社庁に登録がなく、徳一稲荷として宗教法人登録もみられないようです。つまり私設神社の可能性が高いかもしれません。宅地化され、新しい民家が立ち並ぶ一画に徳一稲荷の社地があります。境内へは地域の方以外の参拝を拒むもののではなく、自由に参拝できる環境です。境内全景。手入れの行き届いた植垣の中は、玉砂利が敷き詰められた手入れされた境内になっています。中央に朱の明神鳥居が立てられ、その先に板宮造りの本殿が祀られています。徳一稲荷の鳥居扁額。本殿と徳一稲荷謂れの石標。「徳一稲荷の謂れ明治の中頃、赤松の山中で村人が狐を捕えて食ってしまった。その年は、日照りで稲が枯れ、お蚕が死に絶えた。困った村人が、熱田伝馬町のわたやの婆さに拝んでもらうと、狐の祟りとお告げがあった。村人は祠や鳥居奉納して狐を手厚く供養して豊作を願った。徳一稲荷と親しまれ、以来今日まで供養が行われている。平成二十九年九月吉日有志一同。」とありました。この内容からすれば、創建は明治時代となり、祭神は所謂稲荷神ではなく、食べられた狐そのもので、その霊を鎮め、日照りを解消する目的で祀られたもの。あまり狐を食すなんて聞かないし、身近で狐は見かけないけれど、何年か前に知多四国を回っている際に、知多半島では狐が自然繁殖していると聞いたことがあります。狐はジビエとしてもあまり聞きません、その理由にエキノコックスはじめとした寄生虫の存在が知られています。加熱し、しっかり茹でて、臭みを和らげれば、味や肉質に拘らなければ食べられるようです。狐を食べたことと日照りに因果関係があるわけではありませんが、そこまで追い詰められた過去があったという事です、このような過去の出来事が神社の創建につながったのでしょう。人は普段しないことをした場合、不都合な事象を祟りとして、原因をその行為に結び付け、悔い改めるために何かをしようとします。飽食の時代に生き、肉や植物を当たり前のように食べていますが、生きものを頂く自然への畏敬の念や感謝の気持ちを忘れていないだろうか。祟りとか否定的な自分から見ると、一匹の狐の霊を鎮める徳一稲荷は、自然への感謝の気持ちを持ち続けることを伝えているように思えます。食べられてしまった狐が鎮まる板宮造りの本殿。参道から境内の全景。明治のころは樹々に包まれ、狐も生息していたであろうこの地域、今も狐はいるのだろうか。徳一稲荷創建 / 明治中期祭神 / ・・・境内社 / ・・・氏子地域 / ・・・例祭日 / ・・・参拝日 / 2024/12/05所在地 / 名古屋市緑区神の倉3山神神社から徳一稲荷車移動 / 距離1.1㌔、移動時間約5分関連記事・山神神社・白土山神神社
2025.01.08
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東郷町春木白土鎮座山神神社。東郷町と聞くと名古屋市内に住む者のイメージは遠い印象を持ちますが、昨年12月、かみさんの免許更新で天白区平針を訪れた際、更新待ちの時間を利用して訪れました。神社は運転免許試験場から東へ5-6分の東郷町の丘陵地に鎮座します。神社は南垂の丘陵地、県道36号線の白土西交差点の北側に位置します。地下鉄桜通線の徳重駅から県道36号線を東に向かい、40分(2.7㌔)ほど歩くと社頭に到着します。途中には徳重熊野社や徳一稲荷もあり、退屈せず楽しめるでしょう。鳥居は東向きに建てられ、南北に長い社地を持っています。駐車場は、この先に境内の出入り口があるので、そちらから境内に停めさせて頂きました。鳥居から見る境内の眺め。鳥居をくぐると参道は右に折れ、境内右側に昭和2年寄進の「山神神社」社標が立てられています。石灯籠の右に保存されている旧神楽殿の鬼瓦。現在の広い境内には神楽殿はありませんが、過去には神楽殿が建てられていたようです。手水鉢には水が張られ、色付いたイチョウの葉が浮かんでいました。鳥居脇の太い幹のイチョウと大正11年に寄進された石灯籠。当神社の由緒は境内で見かける事はなく、愛知県神社庁を調べて見ると、東郷町には4社の登録があり、山神神社も以下の内容で掲載されていました。「御祭神 大山咋神氏子地域 愛知郡東郷町:涼松、春木、兵庫、三ツ池、緑区:白土、東神の倉例祭日 10月第1日曜日」・・・相変わらずの内容です。当神社は神職常駐の神社ではなく、普段は氏子により管理されている神社で、祭祀は富士浅間神社(愛知郡東郷町春木狐塚3801)が兼務します。そちらのHPには以下の由緒が掲載されていました。「氏子地区が名古屋市緑区神ノ倉一帯と東郷町の白土に跨っている珍しいお宮です。由緒創建については、文化4年(1811)「奉勧請山神一社」の棟札より明らかである。また、この事は「尾張徇行記」によれば、寛政期以前に人家が無かったと記されていることよりもわかる。白土の地名の由来である磨砂の産出と共に部落が発展してきた。」とありました。東部丘陵地の宅地化による造成と共に、そこから出る磨砂土は造成資材として使われ、猿投山周辺にも大規模な採掘所があるように、この辺りでも多く産出されていたようです。磨砂土はもともと花崗岩で、そこに含まれる石英や長石が長年の風化により出来上がった土で、茶色いのは粘土状に風化した長石によるものらしい。上質なものは白みが強く焼き物の原料に使われ、猿投山で見たトロミルはそのために使われていました。また、wikiに当社の記述があり、その内容は以下のものでした。「寛政11年(1799)4月、傍示本村白土元山に勧請し奉斎。棟札には「元山を『山ノ神』と尊称し、此の地の下の磨砂を採ることを禁ず」とある。当時の氏子は8戸であり、祭礼当日には村中山へ入ることを休んで神前に集い、和楽の1日を過ごしていた。これを「山の子遊び」と言っていた。 後に、祭礼当日には平針街道を通行する人々に茶菓子、寿司および赤飯の握りなどを振る舞うことが慣わしとなった。 なお、昭和30年頃の祭礼日は10月19日とされていた。」とあります。引用先が「東郷村誌(1980)とあるので「国立国会図書館デジタルコレクション」から確認してみたいが正月休みはログインできないので後日確認します。磨砂採掘地趾。東郷町の町名由来によると「白粘土や磨砂が採掘されたので、いつの頃からか住民の間で「白土」というようになり、それが地名になった」と紹介されていました。勝手な推測ですが、古い地図から神社の存在を調べてみると、明治・大正の地図には鳥居の印はなく、当時は山と田んぼばかりで、現在の県道沿いに小さな集落が点在する程度でした。そうした場所なので、それ以前の時代に山の神が祀られていたのかもしれません。古い地図をみてみると、昭和43年の地図になって鳥居が現れます、寛政期(1789-1801)に人家が無かったとというのも頷けます。現在のような姿になったのは、周囲の景色から田畑や山の姿が消え始めた明治・大正時期だと思われます。まさにこの土地と共に生まれ、変貌を見続けてきた神社でしょう。ニノ鳥居から拝殿の眺め。鳥居の先の参道を守護する狛犬。寄進年を見忘れましたが、昭和初期か大正末期のものだと思います。鳥居から先の石段から切妻平入の拝殿の眺め。「山神神社」拝殿額。拝殿から幣殿・本殿の眺め。神紋は「折敷に縮み三文字」だろうか、あまり見覚えのない紋です。現在の社殿が修築されたのは比較的最近のようです。拝殿右から幣殿・本殿と境内社の眺め。板宮造の境内社。左が津島神社、右に秋葉神社が祀られています。本殿後方から社殿全景の眺め。本殿は神明造で大棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付きます。境内の片隅で見かけた古い社殿の解説。現在のニノ鳥居あたりに四方吹き抜けの神楽殿が描かれており、これが社頭の鬼瓦でしょう。この看板には年度の記載はありませんが、社殿建替前は磨砂採掘地趾の石標は石段左にあり、慰霊碑、津島神社が石段の両脇に祀られていたようです。上段の拝所の両脇に秋葉神社、多賀神社が祀られていたようです。多賀神社.....見落としたか?本殿左の境内社、以前はここに秋葉神社が祀られていました。現在は故郷を一望できる高みに白戸神社戦没者慰霊碑が祀られています。拝殿前から境内、白土の街の眺め。石段脇の桜の樹に絡みついたツルの紅葉がとても鮮やかでした。山神神社創建 / 寛政11年(1799)祭神 / 大山咋神境内社 / 津島神社、秋葉神社、白戸神社戦没者慰霊碑氏子地域 / 涼松、春木、兵庫、三ツ池、緑区:白土、東神の倉例祭日 / 10月第1日曜日参拝日 / 2024/12/05所在地 / 愛知郡東郷町春木白土1愛知県警察運転免許試験場から車移動 / 距離2.4㌔、移動時間約7-8分
2025.01.05
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前回の三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」から引き続きとなります。今回は「西の宮」、本社(里宮)と東の宮・西の宮(奥宮)の猿投三社大明神巡拝はコンプリートとなります。東の宮の参拝を終え、社頭に降りてきました。周囲の樹々の影も長くなり、明るいうちの下山を考えると西の宮は諦め、左に進むべきか悩みました。14:55暗くなる不安を抱きながらも、西陽も入るので社頭の右の細い道を西の宮に向け歩き出しました。15:01舗装された林道を5分前後下っていくと、西の宮の社頭が見えてきます。社頭全景。右手に「猿投神社 西の宮」の社標(1969)、左手にコースマップと西の宮解説が立てられています。「西の宮猿投山の西の峯にあたる山頂付近の大字鷲取にあり、猿投神社を本社とする西方の奥の宮です。創建は東の宮と同じ記録を残すところから、ほぼ同じ時期の平安時代後期と推定されます。このお宮には、南朝方の忠臣児嶋高徳が寄進した木の葉丸という長巻(太刀)があったと伝えられています。境内に観音を本尊とする寺が建っていました。ここから約200m先御墓所(大碓命の墓)大碓命は景行天皇の皇子で小碓命(日本武尊)の兄弟と言われています。猿投山で蛇に噛まれて亡くなったと伝えられ、これが縁で猿投神社の祭神として祀られています。墓所は西の宮と隣接しており、石垣に囲まれており、中は土盛の半円型になっています。土盛は七色の土を使って築かれ、棺は土器で作られたと云われています。なお、小碓命は日本武尊として有名です。西の宮から約70m先猿投地域会議」道標も整備され、所要時間も併記されており、コースは分かりやすいけれど、距離や時間はどこまでも目安。帰途は東を歩くか、西を歩くか、はたまた登山道を戻るかは、お天道様と相談です。石の神明鳥居をくぐって参拝道を登りはじめます。15:11鳥居から境内までの距離は比較的短く、10分程で上の視界が開けてきます。参拝道は一部に手摺も用意されており、東の宮と比較すれば登りやすいかもしれません。登り切ると境内が開け、正面に石の宮社殿が現れます。境内社こそないものの、礎石や社殿の造りは東の宮と同じです。15:15ベンチに腰掛け息を整えます。社殿正面全景。鰹木6本、外削ぎ千木で、軒側に向拝が付くものです。西の宮の創建も定かではなく、社頭の解説では「東の宮と同じ記録を残すところから、ほぼ同じ時期の平安時代後期と推定されます」とありますが、未詳のようです。西加茂郡誌によれば西の宮正殿の左間に大碓尊、中間に活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)、右間には大足彦忍代別尊(景行天皇)を祀り、本地仏の観世音菩薩を安置した本地堂と社を神主一人、社家一人が奉仕したとあります。右から社殿側面の眺め。社殿右側の大碓命墓への石段。15:18「景行天皇皇子 大碓命墓 宮内庁」とあります。大碓尊について「景行天皇第一皇子、景行天皇50年美濃に封じられ、景行天皇52年(122)に猿投山に登られ、蛇毒で42歳で亡くなり山上に葬られた。」とも書かれます。一方で亡くなり方は毒蛇ではなく、小碓命(日本武尊)に討伐されたとか諸説あります。どこまでいっても真実は分からないが、この高みの大碓命墓所は、「古来から垣があり御廟所として崇敬され、そのなかには土器の破片が散乱していた」という。この内容からすると、古くから古墳としてここにあったようです。明治8年(1875)に調査が行われ、大碓命の墓所であるとが治定され、周囲の玉垣など整備され、守部一人が置かれたようです。何が治定の決め手になったのか分かりませんが「景行天皇皇子 大碓命墓 宮内庁」の現実から、小碓命(日本武尊)による討伐説や蛇毒説は、もうひとひねり必要なのかな。大正9年(1919)、付近の宮山の火災で延焼し域内樹木や玉垣を焼失、翌年石垣やコンクリート製の玉垣に改築されたのが現在の墓所の姿です。現在はこの看板が示す様に宮内庁管理となっており、石段や手摺が整い、東の宮と少し違った様相です。登り始めるとすぐに道標が現れます、ここは直進です。15:201~2分程で大碓命墓所に至ります。しっかりした石垣と玉垣が墓所を囲んでいます。その玉垣の門の先には鳥居が建てられています。鳥居の先は、こんもりとした円墳状になっており、ここが大碓命の葬送地、県内にある2カ所の陵墓のひとつになります。15:24さあ、下山しよう。この日一人で登ってくるとき、小学生の低学年の集団が駆け下りてきた。その時はとても心強く感じたが、それ以降は休憩所以外、東の宮を含めてハイカーに出逢う事は少なく心細かった。ここ西の宮でもそれは同じでした。社頭が見えてきました。この林道、車でも走ってこれるだけに、罰ゲームのように歩いてくる必要はないのかもしれない。しかし、時短と称して早送りやショートカットするこのご時世、我慢する事も必要な事だと思う。15:35ここからの下山は先程下ってきた林道を東の宮まで登り、そこから登山道か林道で駐車場まで戻るか、この社頭から右手に下って本社まで戻るかの選択です。陽が傾いた樹々の中の登山道を、疲れた足で下ればろくな事はない。西側に当たる右側を下り、猿投七滝方向から下りてもいいが本社まで戻る事になります。ここは東の宮まで林道を上り、そのままクネクネ道の林道を下り御門杉に出る我慢のルートを選択しました。東の宮の分岐から林道を10分ほど下ったところで、私より年配で上を目指す二人組にすれ違いました。この時間に上を目指す人に出逢うのはトレイルランナーくらいだろうと思っていましたが、帰りを考えると高齢者(いくつを指すのか不明ですが)のハイカーにはお勧めしません。ルートも整備され、歩きやすい629㍍の低山ハイクかもしれませんが、ここは神の鎮まる山です、毒蛇に噛まれるやもしれません、油断は禁物です。17:03クネクネ道の林道を歩き、大悲殿東昌寺に戻った頃には本堂に灯りが入り、満車だった駐車場も数台の車のみとなっていました。ほんとこの時期は動ける時間の少ない事。今回は三角点までは諦め、本社・東の宮・西の宮を訪れましたが、陽が長くなった頃に三角点まで訪れて見ようと思います。三河国三之宮 猿投神社 5「西の宮・大碓命墓所」創建 / 未詳祭神 / 大碓尊、大足彦忍代別尊(景行天皇)、活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)境内社 / ・・・ 所在地 / 豊田市猿投町東の宮社頭から西の宮社頭徒歩 / 約450m6分御門杉から東の宮・西の宮・駐車場まで徒歩 / 距離11km・約3時間参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」・三河国三之宮 猿投神社 2「山中観音堂・大悲殿東昌寺」・三河国三之宮 猿投神社 3「トロミル水車・水神・馬頭観音・お倉岩」・三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」過去記事・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2025.01.04
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2025年新年最初の記事でありながら、今だ昨年11月の猿投山山中を彷徨っています。こんな調子ですが、今年もよろしくお願いします。猿投山の御門杉から猿投神社の奥之院ともいえる、東の宮、西の宮の両宮を目指し、陽が傾きだした猿投山登山道を登り始めます。登山道は丸太の階段が整備されており、歩きやすい道が続きますが、気を抜くと痛い代償を払うことになります。13:25樹々に包まれた山道から、視界が開けると、簡易舗装された林道に出ます。そこからは道標の休憩所に向かう登山道を進みます。13:32東の宮に向け、道標に従い上を目指します。13:44休憩所付近の東海自然歩道の解説板。この時間の休憩所は下山者の方が多いように見えました。13:56ここも道標に従い右に進みます。ここから少し歩くと再び林道に出るので、左に進みます。14:00林道沿いの東の宮社頭。この付近にはトイレもあり、一息入れて水分補給するには良い場所です。社標右側の東の宮解説。「猿投山の東の峯頂上近くは、茂吉ヶ峯の地名を残し、猿投神社を本社とする東方の奥の宮です。東方の宮は室町幕府初代将軍足利尊氏寄進の槍と鏡があったと伝えられており、室町時代の貞和5年(1349)に記録のある祭礼記にその名がみられます。創建は不詳ですが平安時代後期と推定されます。このお宮にも寺院が建立されて本尊は薬師如来を安置していました。(ここから約900m先)猿投地域会議」石の神明鳥居をくぐり、東の宮までは約25分程の登りが続きます。14:13参道の眺め。東の宮が鎮座するのは、この先の猿投山東方山上の茂吉峯と呼ばれる場所に鎮座します。こうした道が続き、鈍った足は悲鳴を上げはじめる、万一フラリと左に踏み外せば・・・転げ落ちる。14:20さほど時間は過ぎていないが、この登りがやたらと長く感じます。昔は新しい靴の足慣らしに訪れたもので、三角点までは一歩きの記憶しかありません。14:23あと5分の道標。熊やら蜂やらの注意看板、看板は見ないが猪だっている。注意と云われてもねぇ。こんな道の向こうからそれらが下りてきたら・・・どうしろと、「コンチワー」で許してくれる訳もなく。頼むよ、熊鈴二重連。14:24東の宮が見えてきた、周囲に獣の気配なし。右手に手水鉢、石段の前に一対の燈籠。燈籠の寄進年を見るのを忘れましたが、雰囲気は以前もこんな感じだったような・・・境内全景。社殿の手前に残る礎石、神仏分離以前に鎮座した薬師如来を安置した本地堂の名残だろうか。以前は東の宮・西の宮の神輿を、山中観音堂の御旅所に安置し、猿投神社の四方殿に御遷し、神事の後に再び御輿を両宮に担ぎ上げる猿投祀りが執り行われていたといいます。その際は近隣の三ヵ国、200近い村々から猿投神社に献馬や棒の手が奉納されたと云われます。明治・大正期にかけて、そうした往時の盛大さは徐々に衰退していったようです。14:27・・・約40年前の記憶ではこんなに綺麗じゃなかった気もするのだが。当時は見向きもせず左を通り抜けるだけだったので記憶は怪しいものがある。本殿は2年ほど前に一部修繕されたようです。そこまでは分かったけれど、約40年前が印象の通りだったのか、裏付けるものが今のところ見つからない。大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌によれば、猿投神社の勧請は「仲哀天皇元年(192)勅願により猿投山下に祀る。東の宮は成務天皇の御代本社創立に先立つ60余年前、西の宮は未詳で一説に白鳳13年(私年号684)という。東の宮正殿の左間には大碓尊、中間に大足彦忍代別尊(景行天皇)、右間には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を祀り、神主一人、神官二人、社家四人が本地仏の観世音を安置し、多くの僧坊の僧侶が奉仕した」と記されていました。また、大碓尊について「景行天皇第一皇子、景行天皇50年美濃に封じられ、景行天皇52年(122)に猿投山に登られ、蛇毒で42歳で亡くなり山上に葬られた。」とも書かれています。次に向かう西の宮後方の高みに大碓命墓所があり、宮内庁により治定されています。東の宮本殿正面の眺め。西加茂郡誌に「三間」とありますが、こうして見ると確かにそのように見えます。祭神は左に大碓尊、中央に大足彦忍代別尊(景行天皇)、右に活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)が祀られている。本殿右側の眺め。神明造で大棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が付き、正面の軒に向拝が付くものです。本殿域全景。東の宮には本殿の他に右側に境内社が祀られています。境内社正面。社殿の前の水が入ったPETボトルは、榊立ての水が枯れているのに気づいた方が、それで補充するため置かれているもの。この社については社名札はなく、社頭の解説、猿投町史、西加茂郡誌に記載もなく詳細は不明です。境内左から道標と東の宮の眺め。社殿左に続く登山道から猿投山の山頂までは約1km、25分の道のりです。陽も傾いているので西の宮の巡拝に向かいます。14:35社殿から堂の礎石と登ってきた参道の眺め。境内は四方を背の高い杉に包まれているので、この時間でも薄暗く感じます。静まりかえった境内に自分一人。14:36登りでは気が付かなかったが、参道の杉の樹洞に賽銭箱を発見しました。何が祀られているのか不明ですが、賽銭をいれ「変なのに出逢わないように」と自分に暗示をかける。西側が開けている参道ではまだまだ明るい。14:50無事社頭に到着。西の宮へは鳥居前の舗装路を右に下っていきます。三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」創建 / 不明(仲哀天皇元年(152)以前)祭神 / 大碓尊、大足彦忍代別尊(景行天皇)、活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)境内社 / 不明社1社 所在地 / 豊田市猿投町御門杉から東の宮徒歩 / 約2.1km50分参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」・三河国三之宮 猿投神社 2「山中観音堂・大悲殿東昌寺」・三河国三之宮 猿投神社 3「トロミル水車・水神・馬頭観音・お倉岩」
2025.01.03
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本年もよろしくお願いいたします
2025.01.01
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前回は、猿投神社登山者用駐車場の向かいに鎮座する山中観音堂・大悲殿東昌寺を訪れました。今回は猿投山東峯の東宮と西峯の西宮に向け登山道を歩いて向かいます。駐車場近辺にある東海自然歩道 豊田市コース案内図。赤枠で囲った部分の駐車場(赤点)から登山道で左上の二つの赤点が並ぶ東宮と西宮を目指します。コース上の赤線が行きのルート、緑の線は足元が暗くなったので車道を歩くルートにしました。まずは、恒例の熊出没注意の案内板。色々書いてありますが、人を恐れなくなったZ世代の熊や猪に遭遇しない事を祈るしかない。この時期なのでよもや蛇は出ないだろう、そこらへんは本社でお願いしたのだが・・・駐車場から数分で右手に「猿投川砂防ダム」が見えてきます。撮影時間から見ると、砂防ダムから5分の道路右側に「水神」と右手に石祠が祀られています。鑿跡が残る素朴な形の祠で、いつの時代のものか分かりません。石祠には文字が刻まれておらず、詳細は不明ですが、どちらにも新しい榊が供えられていました。「水神」から2分ほど進むと籠川に架かる小さな橋の左に水車小屋が見えてきます。かつての猿投山には「トロミル水車」と呼ばれ水車が多数存在しました。これはコンクリート製の建屋に鉄製の水車をもつ、復元されたものです。この水車の起源は、猿投山の地質と日本有数の歴史を持つ窯業地瀬戸に深い関りがあります。猿投山は花こう岩が風化した山で、全体がサバ(真砂土)と呼ばれる陶器に適した原料に恵まれていました。この辺りのサバは鉄分などの不純物が少ない乳白色のサバが採れたそうです。そうした地の利を生かし、猿投に猿投窯が生まれ、古くから須恵器が焼かれていたそうです。そのサバが山の北側の瀬戸に伝わり大きく花を咲かせたようです。この水車は、原料のサバを中央のドラムに入れ、水力により回転させて細かく粉砕、左の小さな水槽に流し込み原料を採取する一大プラントでした。こうしたトロミルは大正5年(1916)頃から現れ、人出に変わり原料の増産に寄与しました。猿投山周辺に採掘所が多いのも、太古の自然が作り出した恵みです。「トロミル水車」側面の眺め。復元されたものとはいえ、現在も滑らかに水車は回転しています。現在は観光用として本来の仕事はしていませんが、絶え間なく回り続けているため、柵で囲われ近くに寄る事はできません。「トロミル水車(復元) 猿投地区では、焼き物に適した良質な土が取れるため、古くから窯業が盛んでした。トロミルは、サバ土から良質な陶磁器の原料を作るもので、このような水車を利用したしくみは、昭和40年代頃電力におされ姿を消しました。 山からとったサバ土をふるいにかけ、サバ部分だけをトロミルに入れ、水を加えて2昼夜回転させると、中に入っている種石(栗石)によって押しつぶされ泥状になります。これを乾燥させたものが良質な陶磁器の原料となり、おもに瀬戸へ送られていました。 豊田市 商業観光課」細い流れになった籠川沿いを更に上へ歩いて行きます。河原を見ると、白い砂が堆積し、じゃらじゃらした小石や岩のある見慣れた河原の様相とは違っているのが分かると思います。馬頭観音。撮影時間からみるとトロミル水車のすぐ先に祀られているようです。道路左側の「火気に注意」が目印かな。馬頭観音から10分弱で花崗岩の一枚岩お倉岩が現れます。お倉の謂れは分かりませんが、こうして見ると馬に付ける鞍のように見えてきます。お倉岩のすぐ先が猿投神社東宮、西宮に続く登山口になります。歩きやすかった道路もここまで、左に進みそこから先は丸太で出来た階段が続きます。ルートはポイントごとに道標やマップが整備されており、踏み外さない限り整備された安全な道です。御門杉。二本の杉が寄り添うようにまっすぐ空に向かって聳えています。ここから登山道です。写真データで13:10東宮に向けて登りだす。ここから先は両手がふさがるのでカメラはリュックにしまいこんで、御守りの熊鈴二重連で出発。最後に登った30年前の印象では、三角点まで長い道のりの印象はなかった気がするが錯覚かな。陽射しは傾き、帰りが心配になります。三河国三之宮 猿投神社 3 「トロミル水車・水神・馬頭観音・お倉岩」所在地 / 豊田市猿投町大城4参拝日 / 2024/11/06山中観音堂から御門杉徒歩 / 約1.4km、徒歩25分関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」・三河国三之宮 猿投神社 2「山中観音堂・大悲殿東昌寺」2024年最後の記事となりますが、猿投神社の神々に、新たな年をすべての人が平穏に迎えられますように祈願いたしました。
2024.12.31
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猿投神社本社の参拝を終え、猿投山登山のため参拝者駐車場から境内東側の道路を奥に進み登山者用駐車場に車を移動。今回はこの駐車場の東に鎮座する山中観音堂・大悲殿東昌寺を取り上げます。写真は猿投山から下山してから撮影したものですが、この駐車場は昼頃だと平日でもほゞ満車。以前はそれほど駐車に困らなかったが、低山登山ブーム以降は訪れる人も多くなり駐車もままならなくなったようです。当初は下山して明るければ山中観音堂・大悲殿東昌寺の参拝を予定していましたが、駐車場の空き待ち時間に参拝したもの。駐車場周辺の東海自然歩道のマップ。若い頃には、ここから雲興寺まで往復したり、当時飼っていた相棒(ハスキー)と三角点まで良く散歩に訪れた思い出多い場所で、今ではとてもそんな気力はないけれど、猿投神社を参拝したからには東宮・西宮までは歩いて行かねば。行くだけじゃダメか、戻らないとね。駐車場の向かいにある山中観音堂の入口。山門の類はなく、右手に「猿投神社 山中観音堂」の石標と解説板が立てられています。解説の内容は以下。「市指定文化財(建造物)猿投神社 山中観音堂山中観音堂は猿投神社の北東に位置し、神社の鬼門を守る仏堂として、室町時代末期頃に建立されたとされる。猿投神社の神宮寺の建物として唯一残された仏堂であり、神仏習合の名残を留める建物として歴史的な価値は高い。また、豊田市内に残る仏堂建築として、最古の建造物である。観音堂は、桁行三間、梁間二間、宝形造、茅葺で現在は瓦型銅板で茅屋根を覆っている。堂内は、内陣と外陣を区画する格子戸を設置し、江戸時代の密教系仏堂の様式を踏襲している。現在は、明治初頭の廃仏毀釈により散逸した神宮寺の仏像が安置されている。豊田市」尚、本尊の千手観音像は平安時代中期の作で、県指定文化財てす。石橋のすぐ先に観音堂の姿がみてとれます。参道左の手水鉢と地蔵。入口付近は樹々に包まれ薄暗い雰囲気ですが、石段から先は明るい境内が広がります。参道から山中観音堂全景。豊田市内最古の仏堂建築とありますが、外観の印象は意外に朽ちた所もなく、宝形屋根が印象的な堂です。以前の観音堂の記憶がないのですが、瓦型銅板屋根など見る限り、近年改修されたように見えます。神仏習合時の猿投神社は、多くの堂宇や僧坊があり、盛期には16坊があったそうで、山中観音堂もそのなかの一つでした。本社の北東に位置し、陰陽道の悪い鬼が出入りする方向に千手観音像と堂を置き、鬼門からやってくる鬼を追い払う役割を担っています。山中観音堂は、明治維新の神仏分離令が出るまで猿投神社の一部でした。この令が出されると、多くお堂や仏像などが壊されることになりますが、当時の猿投神社宮司が山中観音堂は、「境内の外にあり神社に関係がない」と主張したために、堂や仏像が破却から免れたとされます。かみさま・ほとけさまと拝み、1000年以上もの歴史を持った神仏習合も、江戸時代に入ると徐々に廃仏毀釈の機運が生まれ、明治政府による神仏分離令が廃仏毀釈を加速しました。その結果、多くの寺院の歴史的建造物や仏像など貴重な遺産は破壊され、紛失或いは売却されるなどして散在していきました。中にはそうした流れから免れるため、同じ敷地の神社と寺に壁を作ることで破却から免れた例も多々残ります。明治政府がそれに気づき、歴史的文化財保護の視点から「古器旧物保存方」を布告したのが明治4年(1871)のことです。既に寺院が消えてしまった地域も生まれていました。山中観音堂は、1000年以上の受け継がれてきた神仏習合時を名残を伝えています。境内南側から山中観音堂と隣に鎮座する大悲殿東昌寺の鐘楼の眺め。堂の前に一対の石灯篭がありましたが寄進年は見忘れました。観音堂左に祀られていた地蔵と一字一石塔。上の三文字がはっきり読み取れないですが、俗にお経の一字を刻んだ石を埋設し、その上に標を立てたものを一字一石塔と呼ぶそうで、果たしてそれにあたるのかはよく分からないが、塔自体はかなり古そうなものでした。方形屋根の露盤に輪宝紋が入っていますが、上に飾られているものが何か良く分かりません。堂正面の眺め。戸の左には三河新四国18番札所の木札、右手に観音堂の御朱印サンプルが架けられており、御朱印はお隣の17番札所の東昌寺ではなく、猿投神社で授与されているようです。堂内には千手観音像の他に、神仏分離により破却された近隣のお堂で祀られていた仏像が安置されているようです。正面に注連縄が架けられた建物の用途は良く分からなかった。猿投神社の御輿の収蔵庫だろうか。観音堂の参拝を終え、石橋を渡って右側の参道の先に鎮座する大悲殿東昌寺に参拝します。山中観音堂創建 / 室町時代末期頃本尊 / 千手観音像霊場 / 三河新四国18番札所所在地 / 豊田市猿投町大城猿投神社参拝者駐車場から猿投山登山者用駐車場 / 約1分大悲殿東昌寺入口。左手に「曹洞宗 猿投山 大悲殿」の寺号標があります。右手に見えている建物が観音堂の入口になります。参道脇の観音像。大悲殿と名が付く様にこの寺にはこうした観音像が幾つも立てられています。訪れた時は庭師が入り、選定作業の真っ最中。東昌寺は天正3年(1575)、当時の河田村、現在の新城市川田付近に創建された曹洞宗のお寺で、昭和7年(1932)に三河の禅僧 魯宗和尚により猿投山に移転され、現在に至る寺です。過去の地図をみてみるとこの地にこの本堂を大悲殿といい、周辺では東昌寺というより、大悲殿の名が通るのかもしれません。東昌寺の本尊は山中観音堂の千手観世音菩薩の御分霊。大きな寄棟瓦葺の建物に本堂入口の向拝と右手の寺務所入口の唐破風向拝が付き、大棟に大悲殿の文字が入っています。入口の向拝から本堂の眺め。向拝柱に「三河新四国 第十七番・大悲殿」の木札と軒下の大悲殿の額。大悲殿の書は曹洞宗永平寺68代官庁の大規正信禅師(1862-1944)によるもの。観音堂から見えていたのが入母屋瓦葺屋根のこの鐘楼、梁の透彫りが目を引く。昭和に入って移転されたこともあり、梵鐘の鋳造がいつ頃か気になるも剪定の妨げになるためこれ以上寄るのは遠慮する。鐘楼の向かいに三十三観世音菩薩の覆屋。近寄ってみたいところですが、またの機会にしておきます。お隣の観音堂の御朱印が猿投神社で授与とありました。多くの坊を有していた猿投神社ですが、隣同士ですが昭和に入り移転してきた東昌寺とは少しばかり距離を感じました。大悲殿東昌寺創建 / 天正3年(1575)、昭和7年当地に移転。宗派 / 曹洞宗本尊 / 千手観世音菩薩所在地 / 豊田市猿投町大城4参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」
2024.12.30
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前回掲載した猿投神社一之鳥居。そこから県道沿いに北へ、徒歩40分ほどで三河国三之宮猿投神社に到着です。写真は二之鳥居から総門の眺め。総門は、県道349号線と加納IC方向からの道路が交わる三叉路の角に建っています。総門。右手に大正15年(1926)建立の「猿投神社」社標が立っています。総門脇の由緒。「猿投神社鎮座地:豊田市猿投町大城五番地御祭神:主祭神 大碓命(景行天皇第一皇子で日本武尊と双生児)相殿:景行天皇(第十二代)、垂仁天皇(第十一代)創祀沿革:創祀は社伝によれば、第十四代仲哀天皇元年(192)勅願により、現在の地に祀るとある。猿投山東峯東宮、西峯に西宮を祀り、猿投三社大明神と崇敬され、平安時代に制定された延喜の制では延喜式内社に定められた。三河国国内神明帳に「正一位猿投大明神」と記載され、「三河三宮」と称された。神領は776石で、三河国の神社では最も多く、明治維新まで徳川幕府より附与された。猿投祭りと棒の手:猿投祭りは、古来旧暦九月八日、九日の重陽の節句に行われたので、「節句祭」と呼ばれ、三河、尾張、美濃三ヵ国186ヶ村は合宿をつくり、棒の手を奉納した。東照軍鑑によれば「天文23年(1554)、岩崎城主丹羽勘助氏次、猿投神社に奉納」とあり、現在も棒の手保存会により伝承され、秋の例祭に奉納されている。」一宮とは、平安時代から中世にかけて、令制国が自発的に付けた階級的序列で、由緒深く信仰の篤い神社が自然と有力な地位を獲得し、他の神社よりも上位に位置付けられた神社のことで、新たに任じられた国司が巡拝する順番を現しているともされています。一宮がその国の中で最上位の神社とされ、その後に二宮、三宮・・・と階級付けられたもので、時には神社が変えられたり、同じ国内で同一格付けを2社が名乗ることもあります。三河国の一之宮は豊川市一宮町に鎮座する砥鹿神社、二之宮は知立市西町に鎮座する知立神社になり、三之宮がここ猿投神社にあたります。総門の切妻屋根を支える左右の本柱に冠木を載せ、前後に4本の控え柱を持つ四脚門で、切妻屋根に6本の鰹木、内削ぎの千木が載るものです。総門から参道の眺め。門は妻壁や天井を持たないシンプルなもので、ある意味力強さすら感じるもの。見上げれば規則正しく組まれた垂木は丸見えです。総門の先の参道は、太い幹の杉並木が三之鳥居へ続きます。解説によれば、総門から三之鳥居までの参道は100メートルあるとのことです。参道脇の神馬像。手水舎。龍口から絶え間なく清水が注がれていました。今年は意図的に龍口を写真に収めてきましたが、来年の干支は蛇かぁ。三之鳥居から拝殿の眺め。猿投神社の始まりは、景行天皇から大碓命に東征を命じたが、怖気づいて逃げてしまう。東征は弟の日本武尊により成し遂げられるが、大碓命は美濃国に封じられ、この猿投山山中で蛇毒により亡くなったという。猿投山西峯の西宮の背後には大碓命の墓所や流れ出た血を洗い清めたとされる血洗い滝があります。社伝によれば、神社の創建は仲哀天皇元年(192)と伝わります。境内の猿投神社解説。「猿神社一、創祀、沿革創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、 東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。神階は、三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(967)国幣の小社。明治の制(1872)県社。一宮制が行われるや三河三宮となる。神領は、織豊時代より明治維新まで776石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿投白鳳寺と呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。二、御祭神大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)景行天皇(第12代)垂仁天皇(第11代)三、大祭初午祭(旧曆2月初午の日)例祭(10月第2土、日曜日)四、棒の手(愛知県無形民俗文化財)奉納の起源は不詳だが、天文22年(1553)、岩崎城主(現日進町)丹羽勘助氏次公が村民に教え、塾達者が奉納したとある。最盛期には三河、尾張、美濃三国よ り186ヶ村より奉納があり、現在は愛知県無形民俗文化財に指定されている。五、宝物太刀 銘行安 平安時代 国指定文化財黒漆太刀 無銘 鎌倉時代 国指定文化財樫鳥糸威鎧 平安時代 国指定文化財神号額 鎌倉時代(1304) 国指定文化財馬面 江戸時代(1601) 県指定文化財豊田市教育委員会 」猿投神社の主な社殿には、総門、神輿殿、宝物庫、太鼓殿、拝殿、四方殿、中門、本殿、回廊、神饌所が立ち並んでいます。これらの社殿は嘉永6年(1853)の大火によって一度焼失しましたが、その後再建されました。また、伊勢湾台風の際にも一部が被害を受け、その後再建されたものが現在の社殿として混在しています。社伝によれば、天武天皇白鳳年間に勅願によって神宮寺の白鳳寺が建立され、本社に阿弥陀如来、東宮に薬師如来、西宮に観世音菩薩を本地仏とし、盛期には16坊があったようですが、神仏分離以降はそれら破却されたということです。写真は、三之鳥居から総門方向の参道の眺め。大きな神明鳥居から総門までの参道は、樹齢を重ねた杉が立ち並び、静かで厳粛な雰囲気が漂ってきます。境内全景。正面が拝殿で右に太鼓楼、後方が中門・本殿域になり、更に後方は神体山の猿投山です。この日は、本社の参拝を12:30に終え、猿投山の東宮、西宮を巡拝し戻って来たのは16:30を過ぎていました。この時期は陽が短いので、山陰では足元も暗くなります、昼過ぎからの登拝はそれなりの準備をした方が賢明です。太鼓楼。入母屋屋根で下層は吹き抜けで、貫に飾すら見られませんが、上層の貫は木鼻が施され、かなり大きな太鼓が置かれています。太鼓楼から拝殿と四方殿、中門の眺め。拝殿(左)と四方殿。拝殿は切妻妻入りで梁間3間、桁行5間の大きな建物で、使われている木材も立派なものです。各部の飾りは少なく、シンプルなものです。それに対し右手の切妻屋根の四方殿は、建てられた年代が違うのか木鼻飾りや妻壁にも意匠が見られます。拝殿から三之鳥居方向の眺め。大きな屋根を支える柱が整然と連なっています。10月第2土、日曜日に行われる例祭ではここで棒の手が奉納されるそうです。素朴な意匠が施された四方殿から拝殿の眺め。四方殿内部より中門を望む。中門右の絵馬掛けには珍しい鎌の形の絵馬が無数に架けられています。中門前の狛犬、寄進年は見忘れました。中門。切妻で平入で軒唐破風が付く四脚門。大きな拝殿を持っていますが、礼拝はこの中門の前で行うそうです。「正一位猿投大明神」と書かれた神号額が掛けられていますが、これが由緒に書かれている「鎌倉時代」の神号額なのか定かではありません。奉納されている鎌は「左鎌」と称し、祭神の大碓命が左利きだったとされ、安全を祈願して「左鎌」の絵馬や鎌を付けた奉納額が奉納されています。虹梁の上の蟇股は鶴が施されています。境内左から回廊、中門、境内社の眺め。中門の先にある祝詞殿や本殿の姿は見ることができません。中門左の祈祷所入口と回廊。蟇股には三匹の猿が施され、木鼻には獏?が飾られています。神社HPに猿投ついて以下のように記されていました。猿投山とサナゲの語義について「社蔵縁起書」に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿なり。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起こる」とある。延喜式神名帳では「狭投」と表記し、三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。由来について諸説あるようです。・景行天皇が猿を海に投げたより起こった。・山容が鐸ににているから。・鐸を木の枝につけて祭祀を行った。・大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった。など諸説あり、どれも定かではないようで、個人的には猿投温泉の猿投伝説が受け入れやすいかな。中門右の境内社。三か所の拝所があり、左から熱田社、塞神社、中央が八柱神社、右が大国社と小社の拝所になっています。左の5本の鰹木と内削木千木が載る神明造りの社が熱田社。右が塞神社、流造の大きな社が八柱神社、少し小型の流造の社が大国社。熱田社の左奥に小さく見える神明造の社が猿投神社の本殿かも知れません。八柱神社と大国社、その右に板宮造りの小社が祀られています。神社合祀令(1906)により一時的に延喜式内社の廣沢天神社が合祀されましたが、後に廣沢川付近の元の鎮座地に戻されました。社殿左側の境内社全景。猿投山の豊かな杜の恵みが二筋の滝となって流れていきます。手水鉢には小さな龍口があり、途切れることなく清水が注がれています。流れの先に鎮座する厳島社(弁天社)。その左の山肌に岩が組まれ、一筋の小さな瀧が流れています、これが御手洗乃滝。流れから先は禁足地です。右手に石標が二つありますが、それぞれ何が刻まれているようですが読み取れません。左の石標の下部に見える赤い部分を拡大したところ、不動明王の姿が現れました。以上で猿投神社本社の参拝は終わりです。いよいよ境内三之鳥居から東に出て、籠川沿いを上流に向かいます。その傍らに神輿殿があります、元来は猿投山上に神輿をあげ、山上のお旅所から本社に渡御されたといわれます。12:30過ぎ、山中観音堂を訪れながら、猿投山東峯の東宮、西峯の西宮巡拝に向かいます。猿投神社社格 / 三河国三宮 旧県社創建 / 仲哀天皇元年(192)祭神 / 大碓命 、配祀 / 景行天皇 垂仁天皇境内社 / 塞神社、熱田社、塞神社、八柱神社、大国社、不明社、厳島社所在地 / 豊田市猿投町大城5一之鳥居から猿投神社参拝者駐車場 / 一之鳥居から5分ほど参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2024.12.29
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今年も残り少なくなり、商業施設や政府の補助金打ち切りによりガソリンスタンドなど、平日でも軒並み人や車が多くなってきました。今年1年、猿投山周辺の社寺を巡ってきました。小さな社も含め、まだまだ訪れていない場所も多くあります。11月6日、年を越す前に区切りとして紅葉にはまだ早く、青々とした猿投山の麓に鎮座する猿投神社を訪れてきました。猿投神社というと、山門前に建てられた金色の大鳥居が印象に残る神社です。ここに至る道筋に鳥居はなく、初めて猿投神社を訪れるとこの大鳥居が一之鳥居と捉えがちです。しかし、これは一之鳥居ではなくニ之鳥居となります。金色の大鳥居から南へ2.3㌔ほど、徒歩40分ほどの県道349号線脇の森の中に一之鳥居は立っています。鳥居の周辺は右手の森の先が県道で、森の西側は籠川に向け、田畑が広がる開放感のある場所になります。猿投神社の一之鳥居は中央の森の中にひっそりと佇んでいます。写真は、県道から見た鳥居の立つ森の入口です。写真は明るく調整していますが、車で通り掛かっても案内板がないため、気付かないことが多いでしょう。左側の森の中に鳥居の柱の一部が僅かに見えています。現地に駐車場はないので、籠川沿いの駐車余地に駐車するか、猿投神社の駐車場から40分ほど歩くかの二択になります。道路から一歩踏み込むと、入口とはかけ離れて雑草が刈り取られ、綺麗に開けた広場が現れます。その奥にポツンと猿投神社の一之鳥居が建てられています。一之鳥居全景。鳥居の手前左に解説板が立てられ、石造の神明鳥居前には幟立てがあり、右側に「猿投神社一之鳥居」の石標が立てられています。右手の解説。「一の鳥居加納町と舞木町の境にあり、今は舞木町で管理しています。猿投神社の一の鳥居とも二の鳥居ともいわれています。古くは、梅坪村に一の鳥居があり、同地にはかつて鳥居下の地名が残されていました。江戸時代の安永8年(1779)に西宮の観音堂を建て直した際の古材を売却した代金で建てたことが始まりで、現在のものは平成6年(1994)11月に建てられたものです。猿投神社の十月の大祭には舞木町の人たちがのぼり立てを行っています。猿投地域会議」解説にある、往古の一之鳥居があったとされる梅坪村は、ここから約10㌔南の籠川が矢作川合流する辺りに梅坪の地名があり、このあたりにあったものと推測すると随分長い参道が続いていたようです。猿投神社の創建は定かではなく、白鳳時代の書物にも記された古社です。江戸時代には矢作川の水運が盛んになり、現在の平井町に平江湊、現在の長興寺付近に下江湊という川湊が作られ、人や物資が集まったと思われます。この川湊から猿投神社に詣でるための参道が築かれ、一之鳥居が建てられていても不自然なことではないでしょう。ここが現在の猿投神社の一之鳥居です。正面の神明鳥居や右手の「猿投神社一之鳥居」の石標は、平成7年(1995)に寄進されたものです。鳥居の先は竹藪に遮られ、神社が鎮座する猿投山は見通すことは出来ません。鳥居後方の左右に、平成以前に建てられていた鳥居の跡と思われる基礎部分が残っていました。柱の間隔は現在のものより若干幅が広く、丸い柱の跡もくっきり見られます。鳥居正面から南側の眺め。鳥居の先には収穫を終えた稲田や果樹園が広がっています。猿投神社や、猿投山の奥深くに鎮座する東の宮や西の宮を巡拝するための、最初の入口がこの鳥居になります。猿投神社一之鳥居所在地 / 豊田市加納町向井山車アクセス / 八草インターチェンジから国道248号線、篠原町上り花交差点左折東進。所要時間20分ほど。訪問日 / 2024/11/6
2024.12.28
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天満神社から約1km、約12分程で旧縣社 等彌(とみ)神社の社頭に到着。社頭の前は県道37号線が横切り、桜の名所吉野に続きます。県道から見る等彌神社社頭。社頭には伊勢神宮遷宮(2013)の際、内宮から譲渡された神明鳥居を構え、右手に「縣社 等彌神社」の社標が立てられています。鎮座地は、奈良県桜井市の鳥見山(とりみやま)の西麓に位置し、社殿は鳥見山の豊かな杜に包まれています。神社の歴史は古く、創建年代は定かではありませんが、延喜式神名帳(927)の大和國城上郡に等弥神社として記載のある古社です。鎮座地の鳥見山は、初代天皇である神武天皇が、橿原宮で即位後の神武天皇4年(657)に、皇祖神及び天津神を祀った霊畤(まつりにわ)と伝えられる山、古来、この山で大嘗祭が行われた場所が霊畤です。鳥見山には霊畤拝所の石標が立てられており、境内から整備された登山道を登って行けば辿り着けるようです。拝所から更に頂に向け登り、尾根沿いにある白庭の石碑の先に霊畤の石碑が残されています。当初の鎮座地は鳥見山の奥深くに鎮座していましたが、天永3年(1112)に起きた豪雨により、山崩れにより社殿を失い、その年に現在の場所に遷座したと伝えられます。鳥見山の北側には大和川が流れ、その対岸には大物主大神が降臨したとされる磐座のある禁足地三輪山が迫っています。ここには大神神社が鎮座し、山そのものが御神体のため本殿をもたず、拝殿から御神体の三輪山に祈りを捧げる、古来の神祀りの形式が今も継承され続けています。参道入口の境内案内図。「建国の聖地 等彌神社」とあります。二の鳥居をくぐると境内は大きく三つに分かれており、昼でも薄暗く、多くの石灯籠が連なる参道を進むと右手に「下津尾社」、更に奥の「上津尾社」、「桜井市護国神社」の社殿が鎮座し、参道脇には多くの社が祀られています。社務所の向かいにある手水鉢には龍ではなく亀が清水を注いでいます。この亀、実は龍が生んだ9匹の子(竜生九子)のひとつで、贔屓(ひき)と呼ばれる伝説の生きもの。どう見ても亀には見えても、とても龍の子とは思えない姿ですが、重きを負うことを好むとされ、手水鉢の下や燈籠などにこうした亀の姿が見られます。二の鳥居は石の明神鳥居。手前で一対の狛犬が守護します。頭部の形に特徴のあるもので、年代は見ていませんが、一部苔生した風貌は貫禄のあるものです。鳥居前の石段を上ると、参道が上津尾社へ続いています。鳥居扁額「等彌神社」。大和名所図会では能登祠(宮)と呼ばれていたようですが、由来は良く分からなかった。参道左の御祓殿石。石灯籠の続く参道の右に下津尾社が見えてきます。参道は薄暗く荘厳な趣が漂っています。実際はかなり薄暗く、写真は明るくしています。猿田彦大神社。みちひらきの神、猿田彦大神らしい方位石が置かれていますが、使い方が良く分からない。下津尾社社殿。切妻平入の拝殿とその奥の本殿域には春日造の社が二社祀られています。境内の左には恵比寿社が祀られています。昼だというのに提灯には灯りが入れられています。拝殿から本殿域の眺め。往古の等彌神社は、この下津尾社が信仰の中心的存在だったようで、この付近には能登寺と呼ばれた神宮寺があったとも言われます。能登宮の由来はそこからきたものかもしれません。本殿域前の石段の両脇に安置されている小型の狛犬。体格に見合わない大きな毬を抑え込んでいます。本殿域の二社。右側の社は八幡社で、御祭神は、磐余明神(神武天皇)、品陀和気命。左側の社は春日社で、御祭神は、高皇産霊神、天児屋根命。恵比寿社から下津尾社の社殿全景。元文元年(1736)、この境内から人型の土偶が見つかりました。それは八咫烏の立像とされ、当社の御神体のようで、社務所でそのレプリカを見ることはできますが、良く見る八咫烏の姿とはかけ離れたものです。流造の恵比寿社。下津尾社の向かいに鎮座する、愛宕社(右)と覆屋の下に金毘羅社が祀られています。参道はその先で二手に分かれ、まっすぐ進むと上津尾社の鳥居に続き、写真の表参道を進むと、本殿正面に続きます。護国神社を左に見ながら表参道を進むと、正面に朱の鳥居、右手に上津尾社拝殿が見えてきます。鳥居の右には「鳥見山霊畤」の石標と鳥見山稲荷神社の立て看板があります。ここが、稲荷神社を経て霊畤に続く鳥見山散策路になっているようです。今回は散策路には踏み込まず、拝殿に向かいます。この石段を上がれば上津尾社拝殿。上津尾社拝殿全景。境内には多くのモミジがあり、紅葉の時期はライトアップもされ、華やかな印象に変わると思います。拝殿は入母屋造りで、向拝には千鳥破風が付くもので、祭神は大日霊貴命(天照大神)を祀ります。本殿の造りまでは見通せませんでした。拝殿前の狛犬(寄進年未確認)。拝殿正面。提灯には左巴の紋が入っています。拝殿から幣殿、本殿の眺め。色鮮やかな奉納額は平成に寄進された新しいものが多かった。境内左側は玉垣に囲まれた弓張社が祀られていました。祭神は桜井弓張皇女。拝殿右の石の明神鳥居。百度石があった分かれ道から直進するとこの鳥居を経て拝殿に通じています。鳥居も燈籠も苔に包まれようとしています。ここから、あの二股に戻り護国神社に向かいます。正参道の脇に護国神社に向かう参道があり、右側(北)に石の明神鳥居を構えた護国神社が鎮座します。杜に差し込む陽光がスポットライトのように社殿を浮かび上がらせていました。下津尾社の拝殿と同様に、床の無い四方吹き抜けの切妻平入拝殿。流造の本殿には、当地から出征し祖国のために亡くなった英霊が鎮まる。ここから、参道を下に進むと社務所横に通じており、社務所の前の小池には、意富加牟豆美命(おおかむずみのみこと)を祀る桃神社が祀られていますが、参拝し忘れました。今回は奥の深い神社の一部しか参拝できなかった。この時期はどうにも陽が短かく、歩いて廻れる範囲も限定されるので季節を変え、次回は鳥見山霊畤含めてゆっくりと訪れて見たい。等彌(とみ)神社創建 / 不明上津尾社祭神 / 天照大神下津尾社右殿祭神 / 神武天皇、応神天皇、右殿祭神 / 高皇産霊尊、天児屋命境内社 / 黒龍社、弓張社、鳥見山稲荷社、愛宕社、金毘羅社、恵比須社、護国神社、桃神社所在地 / 奈良県桜井市桜井1176天満神社から等彌(とみ)神社 / 北東へ0.85km、約12分強参拝日 / 2024/11/12関連記事 ・安倍山文殊院と三輪のどぶろく買い出し散策・「安倍山 文殊院」奈良県桜井市阿部・「天満神社」奈良県桜井市河西
2024.12.25
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文殊院東参道の前の坂路を東に向かい、艸墓(くさはか)古墳を左に見ながら寺川方向の等彌(とみ)神社を目指し歩いて行きます。写真は移動途中の桜井市河西で見かけた村社 天満神社。寺川左岸の住宅が立ち並ぶ中、古墳のような小高い山があり、参道はその頂に続いていました。この辺りを歩いていると、こうして樹々が生い茂り、こんもりと盛られていると「これも古墳なのかい」と思いたくなります。奈良に限らず古墳の上に神社が祀られる例は珍しくないことです。ここが古墳だったのか、少し調べてみましたが、古墳とする記録は見つかりませんでした。社頭全景。右手に「村社天満神社」の社号標があり、緩やかに続く石段は頂きに向け続いています。石段を過ぎると、参道は緩やかに左に向きを変え、鳥居の先の杜の中に続いています。右手の山並みは、談山神社が鎮座する、談山、音羽山方向になるのだろうか。大正5年(1916)に寄進された石の明神鳥居。額には「天満神社」と刻まれています。燈籠の立ち並ぶ参道は意外に短く、鳥居をくぐると左手に社務所が見えてきます。社頭ではランチの時間を気にして待つかみさんがいる、これは有難い。ささっと写真を撮って参拝を済ませられそうです。石段を登り切った境内の眺め。山の頂は南北に長く整地され、左に社務所、右手に手水舎、正面にニの鳥居と社殿の配置です。下から見た時は鬱蒼とした森でしたが、意外に陽光が降り注ぐ明るい境内が広がっています。境内右の撫で牛と手水舎、手水鉢は文政10年(1827)に寄進されたもので、後方には忠魂碑が建てられています。拝殿全景。石の明神鳥居の先には一対の狛犬が守護し、切妻平入の拝殿の前面は格子戸になっています。拝殿左には影になり見づらいですが、覆屋に納められた境内社が祀られています。ニの鳥居の額。寄進年未確認の狛犬。拝殿左の覆屋には稲荷神社(左)と厳島神社が祀られています。天満神社の由緒について調べてみましたが、奈良県神社庁に登録はありましたが、創建までは言及しておらず、境内で見たもので古い寄進物の元号は文政10年(1827)、なので大和名所図会(1791)を見ていくと何か分かるかも知れません。境内社脇から本殿の眺め。恐らく流造の社のように見えます、ここに菅原道真公が祀られている。境内では梅の紋は見受けなかったが、本殿の大棟に梅紋が飾られているので間違いないでしょう。拝殿横から社務所、境内の眺め。村社 天満神社、どこかに由緒が掲げられていたのかも知れないが、待たせている身なので潔く社頭に戻ります。長い歴史を持つ土地柄、知名度の低い小さな神社でも、造成された街中の神社以上の長い歴史を持っていたりします。今こうして振り返ると、天満神社は妙に温もりを感じる神社だった気がします。そう感じさせたのは木漏れ日の温もりだったのかナ。天満神社創建 / 不明祭神 / 菅原道真境内社 / 稲荷神社、厳島神社所在地 / 奈良県桜井市河西373文殊院から天満神社 / 東へ0.7km、約11分強参拝日 / 2024/11/12関連記事 ・安倍山文殊院と三輪のどぶろく買い出し散策・「安倍山 文殊院」奈良県桜井市阿部
2024.12.24
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奈良県桜井市阿部「安倍文殊院」最寄駅は近鉄桜井駅、名古屋から特急だと桜井には停車しないので、伊勢中川で乗り換えが必要になります。久し振りの電車旅、急ぎの旅でもないので、のんびりと桜井までの車窓の眺めを楽しもう。桜井駅から南へ約15分ほど歩いた桜井市谷地内の三叉路で「左 土舞臺(台)、右 安倍文殊院」とある道標を見かけた。(道標の位置)ここから道標に従い100㍍ほど先の三叉路で、左に続く緩やかな登り坂を進んでいきます。心細くなるような細い道を道なりに進み、小さな溜池を右手に見ながら歩いて行けば安倍文殊院は近い。道標から10分ほど、写真の安倍山文殊の石標に辿り着きます。ここを先に進めば文殊院の駐車場に至ります。G先生は正門ではなく、東山門に導いてくれました、まぁ良しとしよう。桜井駅からここまで1.5km程、途中Google先生を疑い、遠回りしたため、移動に30分ほどかかりました。東山門から駐車場に入ると、正面に花の広場と方型屋根の不動堂が見えてきます。この時期の花の広場は、コスモスが植えられ、境内に彩りを添えてくれるのですが、訪れた時には最盛期は過ぎていました。観光客で溢れているんだろうなと予感していましたが、最盛期を過ぎた花の広場に人影もなく一安心。上は境内の文殊院の伽藍配置。文殊院の所在地は奈良県桜井市阿部645。鎮座地は、安倍丘陵の西端に位置する華厳宗の寺院で、山号は安倍山、院号は文殊院。正式名称は安倍山崇敬寺文殊院で、別名「知恵の文殊」、学業成就の寺として知られ、獅子に乗った国宝の文殊菩薩像を本尊とする寺です。また、平安時代の陰陽師、安倍晴明の出生地とも伝わる寺で、境内東の文殊池を見下ろす高台には晴明が天体観測を行った「天体観測の地」があります。そこから西の眺めは伽藍が一望でき、その先の藤原京跡や、耳成山、畝伏山、遠く二上山が一望できます。境内の伽藍は安倍倉梯麻呂、安倍晴明、開運弁財天を祀る金閣浮御堂霊宝館と本堂、礼堂、清明堂、稲荷社、白山堂、不動堂が主な伽藍で、拝観料は、金閣浮御堂前の発券所で浮御堂と本堂の共通拝観券1200円を買い求め、本堂の祈祷所で記念品の文殊菩薩像のポストカードと落雁、御守りを頂いて本堂内拝観の流れです。駐車場から右手の境内の眺め。正面が本堂、礼堂で、右手の斜面に続く赤い鳥居は稲荷社へ続いています。伽藍北側の山の頂に鎮座する稲荷社。駐車場から南の眺め。目の前の文殊池には、六角形の屋根を持つ金閣浮御堂霊宝館が建てられています。堂の軒下に掛けられている額には「弁財天 仲麻呂堂」とある。この堂には奈良時代の遣唐使 安倍仲麻呂と、平安時代の陰陽師 安倍晴明の肖像画などが安置されています。堂の外周は七参り業場となっており、堂を一周して「〇✖にならないように」と祈願し、この額の下の納札箱に札を納め、それを七回繰り返してから内陣を拝観します。内陣には大和七福神の一つ、開運弁財天像が安置されており、なかでも秘仏十二天軸は春夏秋冬において3幅ずつ公開されています、4月末の弁財天大祭では全てが公開されます。堂から見る文殊池と本堂、礼堂。池の周囲にもコスモスは植えられていますが、存在感は薄くなっていました。文殊池に浮かぶ金閣浮御堂。こちらの境内は四季折々の花に包まれます。この時期はコスモス、既にピークは過ぎていましたが、遅咲きの花が境内を彩っていました。対岸の花の広場は、コスモス迷路が作られますが、大部分がピークを過ぎており、浮御堂右側の花が比較的綺麗に咲いていました。浮御堂前の西古墳。西とつく様に、境内の白山堂左の山肌には東古墳もあります。飛鳥時代に造立されたもので、国の指定史跡の中で特に重要とされる「特別史跡」に指定されています。古墳の特別史跡指定は明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳と共に、文殊院境内の二か所が指定を受けています。内部は、大化元年(645)当時のまま保存されており、巨大な花崗岩を加工し、左右対称に石組みがされています。また玄室の天井岩は一枚の石で、大きさは15㎡あり、中央部分がアーチ状に削られ、築造技術の美しさは日本一とされるものです。内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」が安置されていますが、大化元年(645)に初の左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくら はしまろ)が、安倍一族の氏寺として文殊院を創建しました。この墓は、安倍倉梯麻呂の墓とも伝えられています。側壁の石組などは、今でも緻密に組まれた状態を維持しています。伽藍全景。左の手水舎、右手に見える本堂は手前に能楽舞台を備えたもので、元は安倍寺満願寺の本堂だったもの。本堂奥に本尊の文殊菩薩を安置する大収蔵庫があります。宝珠院は鎌倉時代には塔頭寺院二十八坊を有する大和十五大寺の一つとして栄えましたが、永禄6年(1563)松永弾正の兵火を受け一山ほとんどが火災で焼失、寛文5年(1665)に現在の本堂(文殊堂)が再建されました。手水舎。龍口からは勢いよく清水が注がれていました。鉢には銘が刻まれていましたが、読み取れなかった。本堂。前側の三方が吹き抜けになっており、能楽舞台として使われるようです。本殿の山号額。個人拝観でしたが、バスツアーの御祈祷と重なり、一緒に御祈祷をしてもらえました。御祈祷を終えると、内陣手前から本尊の文殊菩薩像を拝むことができます。ツアー客は慌ただしく拝観を終え本堂を後にしていきます、 個人拝観の自分達は静まり返った本堂でじっくり鑑賞できます。こちらが騎獅文殊菩薩像(HPから引用)。何かで見た記憶があり、実物を見るのは今回が初めて。内陣中央の獅子に乗る文殊菩薩は高さ7mで日本最大といわれます。仏師快慶が建仁3年(1203)~承久2年(1220)の17年をかけ作られたもので、国宝に指定されています。文殊菩薩の両脇でお供するのは、右側が優填王(左)、善財童子、左側が仏陀波利三蔵(右)、最勝老人です。群像は、文殊菩薩が乗る獅子の手綱を優填王が持ち、善財童子が先導役を務め、仏陀波利三蔵と最勝老人が左に付き添う姿で構成されています。この姿は、雲海を渡り、衆生の魔を払い、智恵を授けるための説法の旅に出かけている様子を表しています。この姿が本来の姿です。しかし2024年7月~2025年5月の期間だけ、文殊菩薩が約15年ぶりに獅子から降りている姿を拝観できます。上記期間だけ、獅子から降りた文殊菩薩が公開されています。獅子の上から降り、訪れた者と同じ目線で進むべき方向へ導いてくれます。今回も天眼鏡を忘れたため、脇侍の表情や光背の細部まで見る事はできなかった。御真言はオン・アラハシャ・ノウ。今年、空也上人像の実物を間近に見て、強烈な印象を受けましたが、この騎獅文殊菩薩像もそれに匹敵するものです。堂内には、大化の改新の談合の地、多武峰に鎮座し、廃仏毀釈で廃寺となった妙楽寺(現談山神社)の本尊釈迦三尊像(重要文化財)も安置されています。本殿左の本坊、ここから南に進むと表門へ続きます。鐘楼右側に稲荷社の鳥居があり、山の頂の社に続きます。額には「正一位 権大明神」とあります。稲荷社は古来より安倍晴明の母親と伝承される白狐・信太森葛葉稲荷をお祀りしています。江戸時代までは西古墳の頂上に鎮座していたようですが、現在はこの頂きから、清明を祀る浮御堂を見守っています。花の広場入口に鎮座する不動堂。不動堂から境内を東に向かうと写真の十一面観音が安置されています。白山堂左にある東古墳。飛鳥時代に造立されたもので、「閼伽井(あかい)の窟」と呼ばれています。閼伽井とは「閼伽水の井戸」の意で、横穴式石室や横穴墓など、玄室と外部を結ぶ通路の中程に、古来より枯れることのない泉があったことに由来しています。緻密な石組の西古墳同様、飛鳥時代のものとされますが、東古墳にはそうした緻密さはあまり感じられない。白山堂。「白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿で、国の重要文化財にも指定されています。御祭神は全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神である菊理媛神(くくりひめのかみ)で、当山の鎮守です。白山信仰と陰陽道は古くより深く結びついた為、安倍晴明ゆかりの当山に白山神社の末社が勧請されました。菊理媛神は『日本書紀』によると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の縁を取り持たれた神様で、菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、古来より縁結びの神様としても信仰されています。「縁」は巡り合わせでもあることから、人と人を結ぶ良縁成就も御祈願下さい。」朱の玉垣が社殿を取り囲んでいます。柿葺屋根を銅板で覆った社は流造のもので、戸は三枚あります。白山堂から右手の文殊池を見下ろす高台に鎮座する晴明堂。大きな覆屋の下に安倍晴明をお祀りする社が祀られています。社は平成16年(2004)、安倍晴明千回忌を迎える記念に200年振りに再建されたものと言う。軒下に魔除けの呪符五芒星が輝いています。社の前の「如意宝珠」は、あらゆる願いを意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳があると信じられているそうです。如意宝珠を撫で、魔除け方位災難除けを祈願するものです。晴明堂の西の天体観測の地に立てば、眼下に秋桜迷路や文殊池に浮かぶ浮御堂と境内、遠く耳成山と二上山を一望できます。当所の安倍寺は、現在地から南西約300メートルの地にあり、法隆寺式伽藍配置の大寺院だったようです。この地へは鎌倉時代に移転しましたが、かつての鎮座地も視界に入っているのかもしれません。安倍山文殊院山号 / 安倍山院号 / 文殊院宗派 / 華厳宗開基 / 安倍倉梯麻呂本尊 / 文殊菩薩創建 / 大化元年(645)境内社 / 稲荷社、白山大権現、清明堂所在地 / 奈良県桜井市阿部645近鉄桜井駅から文殊院 / 南に1.4km、約20分強参拝日 / 2024/11/12関連記事 ・安倍山文殊院と三輪のどぶろく買い出し散策
2024.12.23
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城屋敷神明社から南に向かい、新大正橋の袂に鎮座する集慶山 凌雲寺までは徒歩2分ほど。所在地は中村区稲葉地本通3丁目になります。やがて右側に凌雲寺の寺号標が現れるので、この道を真っすぐ進めば凌雲寺です。正面の森の向こうには庄内川の流れが迫っています。この日の区切りは庄内川の堤まで、凌雲寺を参拝し帰途に着きます。道は突き当り、右が山門になります。突き当りには小さな堂と解説板があります。突き当りの境内全景。左手に忠魂碑、中央に小堂、山門に続く築地塀。手入れされた庭が印象に残ります。小堂は地蔵尊が安置される地蔵堂で右手の解説板は名古屋市教育委員会の凌雲寺解説板です。その内容は以下内容です。「凌雲寺 集慶山と号し、臨済宗妙心寺派 永正年中(1504~21)稲葉地城主津田信光(織田信長の伯父に当たる人)の創建で、南溟紹化和尚を開祖とする。 織田信長が幼少のころ、この寺で手習いをしたと伝えられる。 墓地の宝篋印塔には「前豊州大守泰翁玄凌禅定門天文五年丙申十月廿八日」(一五三六)とあり、信光のものであることが知られる。 名古屋市教育委員会」参道を右に進めばすぐに山門。左手に石碑がありますが、アップを撮り忘れ、全文読み取れません。最近こうした忘れが多くなってきた…悲しいが老いというものだ。山門から境内の眺め。手入れの行き届いた庭に重厚感のある山門、趣のある寺だと思います。幼少期の信長は、清州から庄内川を越えて、この門をくぐり手習いに訪れていた。山門をくぐり、正面の本堂、庫裏、方丈の眺め。境内右手の鐘楼。冷たい質感のコンクリート造りに比べ、整った伽藍は全て木造、見た目に温もりと趣があり、この寺の歴史が伝わってくる。梵鐘。南無観世音菩薩と刻まれており、鋳造年月までは見ていません。山門左の放生池と池の中ほどの亀島に祀られている辨弁才天社。この放生池の生い立ちは、天文4年(1535)の庄内川の大洪水の際に残ったもので、自然が牙をむいた時の怖さを今も伝えるものです。綺麗に手入れされた庭園に祀られている弁才天社。左から本堂、庫裏、方丈の眺め。現在の伽藍は、明治24年(1891)の10月28日に起きた濃尾地震(M8級)で倒壊しましたが、明治31年(1898)、再建されたもので、庫裏は平成元年(1989)に法隆寺に出入りする棟梁の手で建築されたもの。本堂は寄棟瓦葺で、木の色合いと白壁の対比が美しい落ち着いた外観の建物です。本堂前の手水鉢。本堂全景。創建は既に解説板で書かれている通りです。尾張志(1752)愛知郡の凌雲寺の記述から一部抜粋すると以下のように書かれていました。「凌雲寺凌雲寺は稲葉地村にあり、集慶山という京都の妙心寺に属す。永正3年(1506)に津田豊後守によって創建され、僧南溟を開祖とする。天文5年(1536)10月28日、豊後守は前豊州大守泰翁玄凌禅定門として葬られ、摘男玄蕃はじめ子孫歴代の墓がある。織田信長公幼き頃、この寺で叔父(信光)に読み書きを習う、本堂前庭に草紙を枝に掛けた掛け松という松があったが、近年枯れたようである。塔頭・末寺も9坊あり、境内に釈迦堂・弁財天社有り」と記されていました。山号額。明治に再建された際の額だろうか。放生池の畔に立つ仏像。その視線は亀島に注がれているようです。苔庭に安置されている石仏は、像容も良く分からず、いつ頃のものかもわからなかった。この石仏から鐘楼、山門の眺め。訪れたのが11月8日、境内に紅葉の訪れるのはもう少し先のようでした。山門から南の正参道の眺め。正面の石段を登ると太閤通で、右には庄内川に架かる新大正橋も目の前です。碑文を見忘れた山門前の石碑は、創建間もない頃の永禄3年(1560)のものでした。正参道から地蔵堂、山門の眺め。太閤通りから見た境内。この高低差、庄内川の氾濫から街を護っているのが延々と続く庄内堤防だ。帰りは、ここから少し東に向かった稲葉地バス停から、暖房の効いたバスに揺られて帰る事にします。集慶山 凌雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 永正3年(1506)開山 / 南溟紹化開基 / 津田豊後守本尊 / 観世音菩薩訪問日 / 2024/11/08所在地 / 名古屋市中村区稲葉地本通3-18 南西に向かい、県道68号線新大正橋方向へ25分ほど関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)・豊國神社 (豊臣秀吉誕生の地)・加藤清正が出陣祈願をしたとされる 八幡社・東宿 明神社・秋葉神社と地蔵堂・城屋敷 神明社
2024.12.20
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前回掲載した豊幡町の秋葉神社を後にして、庄内川に架かる新大正橋方向の西に向け25分ほど歩きます。庄内川の高い堤沿いを歩いていく正面に森が見えてきます。この森が今回の目的地の城屋敷 神明社の杜になります。社頭へは道なりに左に進むと東参道、更に進むと正参道に続きます。東参道。当初はこちらが正参道と勘違いし境内に進みましたが、ここから先に進むと正参道の社頭に出ます。東参道には石の神明鳥居と社号標が立てられ、脇参道とは思えない立派な構えです。鳥居が寄進されたのは昭和2年(1927)でした。脇参道を守護する大正11年(1922)寄進の狛犬。脇参道の先には控え柱の付く蕃塀。寄進年は昭和10年(1935)で、腰壁には一対の獅子、中央に馬が彫られ、連子窓の上には、水面の上に2匹の龍が彫られていました。番塀から見る社殿全景。社殿はほぼ南向きに、拝殿・幣殿・本殿と繋がっています。拝殿の正面の南側に正参道があり、一旦正参道に回り込む事にしました。道路沿いに南へ回り込み社頭全景を眺める。社頭には正面の神明鳥居の他、左に「稲葉地城趾」の石標、右手に石碑が置かれ、複数の解説が立てられており、参道は正面の拝殿に続いています。名古屋市教育委員会による「稲葉地城跡」解説。「稲葉地城跡 稲葉地城は、このあたりにあり、築城年代は諸説あるため定かではない。尾張志によれば、東西四十間(約73メートル)、南北五六間(約102メートル)の城館であった。城主は津田豊後守(織田信長の叔父に当たる人)であり、玄蕃允、興三郎、小籐次と続いた。興三郎は永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、小籐次は天正十年(1582)の本能寺変で戦死した。神明社の南西に位置する凌雲寺に、豊後守の法名を記した宝篋印塔がある。」社頭右の「稲葉地村古城主 津田豊後守城趾之石」。「稲葉地村古城主 津田豊後守城趾之石」解説。「元文4年9月1日(1739)の大洪水で、庄内川の堤防が決壊し城跡も流出してしまった。その後、天保4年(1833)に城跡の畑からこの石が出てきて、当初庭石として3年程使っていたが、その後神明社に移された。 と天保7年(1836)津田家の書類に記述されている。津田豊後守について「津田豊後守とは誰か」について諸説ありますが、「稲葉地 津田氏の由来 津田保雄著」及び「中村歴史の会編纂 稲葉地村」の記述によると、稲葉地津田氏の祖、織田豊後守は岩倉城主で織田敏定の庇護を受け、敏定の末息子敏元を養子嗣に迎え、居城を稲葉地に構え、津田を名乗ったとされる。敏元は信長の母の姉を室に迎えた(従って敏元は信長の伯父)。その子玄蕃は信長と敵対する清須織田軍と稲葉地川(庄内川)で織田信光の援軍が到着するまで全力で戦ったとされる(萱津の戦い:稲葉地川の戦い)。玄蕃は父豊後守の墓を凌雲寺に建立。墓石には「当寺開基津田豊後守法名凌雲寺殿前豊州太守泰翁公大居士」と あり、裏面には「天文5年(1536年)10月28日没 津田玄蕃建立」と書かれている。玄蕃の子与三郎は桶狭間の戦いで鷲津砦で戦死、その子小藤次は本能寺の変で戦死。信長が幼少の頃、津田家に預けられ凌雲寺で学問したことからも、信長織田家と津田家は特別な間柄だったことがうかがわれる。」信長の叔父は織田信光として思われがちですが、この「津田豊後守とは誰か」を読むと、織田敏定の末息子敏元を養子に迎えたとあり、信光ではないようです。二枚の立て看板些細な違いで、どちらも信長の叔父に当たるにしても、明確に整理した方がありがたい。こうした場合は地元の口伝を尊重します。城について中村区岩塚宿散策コースでは以下の紹介されていました。「祭神天照大御神。稲葉地城址の碑があります。稲葉地城は織田信長の伯父津田豊後守の居城。四代小藤次が京都本能寺の変(1582)で戦死し、以後廃城となったと伝えられます。」とある。確かに、京都市中京区寺町の本能寺には、境内の戦没慰霊碑の前に立てられた戦没者一覧に津田小藤次の名は記されており、彼の死とともに城は絶えてしまったようです。ななかなか参道に進めませんが、かつての稲葉地を伝える案内板をもう1枚。「稲葉地は、庄内川東岸の沖積地帯に位置する。現在の神明社付近には、室町時代後期に、津田豊後守によって稲葉地城が築かれた。「信長公記」によると、天文21年(1552)に尾張の統一をめざす織田信長が、那古野城から「稲葉地の川端」まで出陣し、ここで「いなばじ川」(庄内川)を渡って、清州城の坂井大膳らの軍勢に勝利したとある(萱津の戦い)。弘化4年(1847)の村絵図によると、村の西側と北側に集落があり、上ノ切、下ノ切、西市場、東宿などの字名があった。東側と南側には田畑が広がり、水路が縦横に流れる、農村風景が広がっていた。昭和5年(1930)に土地区画整理事業が開始された。その後は整然とした道路が整備され、住宅地として人口が増えていった。」上の地図の明治から現在までの地図を見ていても、東から順次西に住宅地となっていく変貌ぶりが見て取れます。かつての田畑が広がる光景はもはや見る影もありません。今も変わらないものといえば、西を流れる庄内川と、神社後方の庄内堤がその面影を残しています。参道から拝殿方向の境内の眺め。左に手水舎、境内社が連なり、右手に神馬像が安置されています。手水舎。こちらの龍は絶え間なく清水を注いでいました。手水舎の先の境内社。左から千我麻社、白山社、八幡社、倉稲魂社、鎮守社、十二所社、津島社の7社が整然と祀られています。テント地の覆屋はあまり見覚えがなく、この手法もありだなと感じます。傍らの境内社の解説は以下。「城屋敷神明社七支社について大正4年(1915)9月24日、それまで稲葉地村のあちこちに鎮座されていた無格社の津島社、十二所社、鎮守社、倉稲魂社、八幡社、千我麻社、白山社の七社を末社として境内に祀りました。・津島社 御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと):ヤマタノオロチを退治した草那藝之大刀を天照御大神に献上(三種の神器の刀)・十二所社 御祭神:櫛御気之命(くしみけぬのみこと):須佐之男命と同一の祭神とされている。・鎮守社 御祭神:鎮守神:特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神・倉稲魂社 御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと):五穀豊穣・商売繁盛・健康祈願・金運上昇のご利益・八幡社 御祭神:八幡神(やはたのかみ):出世開運・武運長久・良縁祈願・安産祈願などのご利益・千代麻社 御祭神:乎止与命(おとよのみこと):知恵授け・商売繁盛のご利益・白山社 御祭神:菊理姫命(くくりひめのみこと)他二神:縁結び・延命長寿・家内安全・厄除け・安産など沢山のご利益」各社の歴史は不明ですが、城屋敷神明社(赤丸部分)を中心とした、かつての鎮座地が示されています。大正9年頃の地図では、何れの社も稲葉地集落と田畑の境に祀られていたようにみえます。拝殿全景。創建時期は不明ですが、当社には正保4年(1647)が棟札が残るとされ、創建は更に遡る事になります。小藤次が本能寺の変(1582)で戦死、後に城は廃城とあるので、この神社は稲葉地城と共にはじまったとも思えます。尾張志(1752)によると、稲葉地村に神明三社と記されており、愛知県神社庁に同社の登録があり、その内容は以下のようなものでした。「氏子地域 中村区:稲上町、城屋敷町、靖国町例祭日 10月7日」と実に簡単なものでした。拝殿前を守護する狛犬、寄進年は未確認です。神明社の拝殿額、揮毫は二条弼基、伊勢神宮大宮司によるもの。拝殿から幣殿の眺め、五七の桐が神紋のようです。社殿全景。全体はコンクリート造りで神明造の本殿の大棟には内削ぎの千木と6本の鰹木が載せられています。本殿左の神統流棒術記念碑と碑文解説。碑文の冒頭のみ抜粋。「尾張国愛知郡稲葉地郷は中村の中にある。昔織田家家臣の津田豊後守居城当時、その家臣は武芸の鍛錬に励んでいた、天文年中には住民も自衛のため手を初め、有事の際には忠勤できることを望み鍛錬していた。この技を神統流棒の手として号するようになり、後世に継承されていった。」webから神統流棒術を調べて見ましたが、現在も披露されているのかは不明でした。拝殿から振り返り社頭を眺める。開発や害虫被害から、身近であまり松を見なくなった気がしますが、境内には立派な黒松が多く見られ、保存樹に指定されています。次の目的地は、社頭から南へ2~3分程の場所に鎮座する集慶山 凌雲寺です。城屋敷 神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神、天児屋根命、誉田別命境内社 / 千我麻社、白山社、八幡社、倉稲魂社、鎮守社、十二所社、津島社所在地 / 名古屋市中村区城屋敷町4-10-1秋葉神社から城屋敷 神明社徒歩移動 / 南西に向かい、県道68号線新大正橋方向へ25分ほど訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)・豊國神社 (豊臣秀吉誕生の地)・加藤清正が出陣祈願をしたとされる 八幡社・東宿 明神社・秋葉神社と地蔵堂
2024.12.19
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前回掲載した東宿明神社から、名古屋競輪場のある南東方向へ徒歩6分ほどの中村区豊幡町35に鎮座する秋葉神社に向かいます。名古屋競輪場の北側に位置し、秋葉神社を探し求めるより、豊幡町公民館と地元の方に尋ねると分かりやすいかもしれません。写真は公民館の前の通りから、東の名駅ビル群の眺め。今回の目的地の豊幡町秋葉神社の全景。秋葉神社そのものがこの地区の公民館にもなっているようです。こうした、公民館と町の守り神「秋葉神社」が一つの建屋に同居する光景は、市内でも見かけることがあります。住民の集う場所に、町の守り神をお祀りするのは身近に感じられ、手入れも行き届きいい発想だと思います。私の住む町にも過去には弘法堂があり、ここで祭りや盆踊り、消防団の打ち合わせなど人々の参集に使われていました。その入口には町の守護神秋葉神社が祀られており、訪れた人々はまず秋葉さんをお参りして堂に入っていたのを子供ながらに記憶しています。その堂も、集会所や消防団詰所の整備、女人講や近隣同士の結びつきの衰退に伴い荒廃が進み、どちらも消えていきました。それにしても、当神社を訪れる際、典型的な神社の外観や杜を頼りに歩いていると、見過ごしてしまうかもしれません。事実、それとは知らず、左の小さな堂が目に止まり立ち止まったところ、そこが偶然秋葉神社でした。公民館の壁に掲げられていた秋葉神社と地蔵菩薩の解説。左の解説は堂の解説で、右が公民館の中に祀られている秋葉神社の解説でしょう。これによれば秋葉神社の祭神は秋葉三尺坊大権現をお祀りするようです。創建時期は不詳のようです。公民館入口に掲げられた秋葉神社の扁額。扉は固く閉じられており、内部の社を目にすることは出来ませんでした。建物の外観も新しく、いまでも町のコミュニティーの場として機能しているようです。公民館左の地蔵堂。解説から引用すれば、ここには地蔵尊、弘法大師、天照大神が祀られているようです。創建は文化9年(1812)とあります。堂の格子戸にレンズを当てて一枚撮ってみました。弘法大師や天照大神の社らしき姿は捉えきれませんでしたが、大きく地蔵様の姿を捉えることができました。2世紀前の先人達が町の平穏と子どもたちの健やかな成長を願い祀ったものでしょう。カラフルな帽子と前掛けは印象に残るものです。秋葉神社と地蔵堂秋葉神社創建 / 不詳祭神 / 秋葉三尺坊大権現地蔵堂創建 / 文化9年(1812)祭神 / 地蔵尊、弘法大師、日本武尊所在地 / 名古屋市中村区豊幡町35東宿明神社から秋葉神社徒歩移動 / 西へ5~6分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)・豊國神社 (豊臣秀吉誕生の地)・加藤清正が出陣祈願をしたとされる 八幡社・東宿 明神社
2024.12.18
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八幡社から西へ5分ほどの中村区東宿町。住宅街の中に、玉垣で囲われたこんもりとした東宿 明神社の森が見えてきます。東宿 明神社の社叢全景。大きな樹々が少ないこの辺りにあって、見上げるばかりの樹々の聳えるこの杜は、一目で神社の存在を示しています。この写真の左側に社頭を構えているので、社地の南側に回り込みます。東宿 明神社社頭の眺め。間口は狭いですが、鳥居をくぐると右に広がっています。鳥居と社号標の眺め。左の社号標は大正14年(1925)に寄進されたもので「村社 明神社」と刻まれていました。社号標の左に立てられている「萱津の東宿跡」解説。「この地は萱津の東宿といわれ、庄内川をはさみ萱津宿の出郷として、京より美濃を経て鎌倉に行く交通の要衝であった。また盛んに市の立ったところで、鎌倉時代の紀行文「東関紀行」に、「萱津の東宿の前をすぐれば、そこらの人あつまりて、里もひびくばかりにののしりあへり。今日は、市の日になむとぞいふなる。」と当時の賑わいを記している。名古屋市教育委員会」鳥居の扁額は「明神社」、この鳥居も大正14年に寄進されたものでした。参道脇の東宿明神社由緒。祭神 日本武尊祭典神事 秋大祭 十月十ニ日、祈念祭 旧暦一月十五日に近い日曜日、新嘗祭 十一月三日、歳旦祭 一月三日由緒当社は鎌倉時代の建歴、貞応年間(約780年前)に熱田神宮摂社 日本武尊を当部落の鎮守御産土神として奉斎したもので、当時鎌倉街道(小栗街道)が通じ京都鎌倉間の宿駅として栄えた頃の社である。仁治三年(1242)秋源行京都より鎌倉に下る紀行文に「東関紀行」という名著がある。書中の一節に「萱津の東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて、里も響くばかりに罵りあへり。今日は、市の日になむあたりたるぞいふなる。」「往還のたぐひ手毎に空しからぬ家土産も、彼の「見ての宮人に語らん」と詠める、花のかたみには様かはりて覚ゆ 見てのみや 人にかたらん さくらはなの 手ごとに折りて いへづとにせむ(古今集)花ならぬ いろ香も知らぬ市人のいたづらならで帰る家づと 古渡を過ぎ熱田の宮に参詣でぬ、とある。以来幾多の興廃を経て現在に至っている。現在の社殿は大正十三年十月起工三カ年の歳月を費やして御造営、昭和二年十月御遷宮の儀式を執行したものである。その後、平成八年九月に全社殿、屋根葺き替えなどの大修築を完工した。参考までに愛知県神社庁で検索すると東宿明神社として登録がありました。内容は氏子地域のみで、それによれば中村区の宿跡町、中村町、東宿町、靖国町氏神さまのようです。境内の蕃塀(1927年寄進)と拝殿の眺め。社殿の右手には境内社2社祀られています。境内右の手水舎。入母屋平入りで、正面に千鳥破風を持つむ拝殿の全景。拝殿額。拝殿から幣殿の眺め。幣殿前の狛犬。幣殿の全景。高い石垣の上に幣殿・本殿が建てられています。本殿は流造のようです。日本武尊をお祀りする東宿明神社、本殿の千木は内削ぎ、鰹木は4本載せられています。明神と冠し、歴史のある神社なので以前の祭神は日本武尊ではなかったと思われます。地史にも目を通し、同社を示す記述はあるものの、創建時期や祭神の具体的な記述は見られませんでした。社殿右の境内社は神明鳥居。鳥居の先に並ぶ境内社。左手の社は神明造、右は板宮造りの社で、どちらも社名札はなく、寄進物から社名を推測できるものはなく不明社です。拝殿から社頭の眺め。往古は萱津の東宿として多くの人が行き交い、人々は市で土産を買い求めて家路につく、明神社の周辺はそんな賑わいがあったようです。現在は、過去の賑わいが信じられない静かな住宅街に変貌しています。東宿明神社創建 / 貞応年間(約780年前)祭神 / 日本武尊境内社 / 不明社2社所在地 / 名古屋市中村区東宿町1-57八幡社から東宿明神社徒歩移動 / 西へ5分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)・豊國神社 (豊臣秀吉誕生の地)・加藤清正が出陣祈願をしたとされる 八幡社
2024.12.15
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前回に引き続き、今回も中村公園内に鎮座する八幡社を取り上げます。写真は、中村公園のひょうたん池越しに見る太閤神社の眺めです。緑豊かな木々のなかのひょうたん池、その先には、太閤秀吉を祀る豊国神社が佇んでいます。今回は、このひょうたん池の北側に鎮座するのが今回の八幡社になります。戦国時代の歴史を感じさせる場所であり、その静かな佇まいが、訪れる人々に癒しと安らぎを提供します。この地図は、中村公園の全体図を示しており、園内のランドマークや見所が示されており、八幡社は赤丸で囲まれた部分に鎮座しています。八幡社の社頭全景です。静寂の漂う園内、緑の樹々の中に石の明神鳥居と右脇に八幡社の社標が立てられており、参道の先から本殿へ続く覆屋がいています。鳥居脇の八幡社由緒。「由緒御祭神 応神天皇例祭日 体育の日この神社は加藤清正候出陣にあたり武運長久を祈願せし御社なり慶長15年名古屋城天守閣建立の際、境内の樟の大木を棟木に使ったと言い伝られ、その後植えられた樟は今なお生繁されています」清正公(1562年~1611年)が出陣にあたり武運長久を八幡社で祈願したとあります。天保3年(1832)に編纂された尾張名所図会の挿絵をみると、絵の左上に「清正・・・」と書かれているようにも見えます。中村公園や太閤神社は明治以降の創建なので、ここには描かれていませんが、「清正・・・」位置が現在の八幡社の鎮座地付近とみた時、この挿絵に鳥居や社の姿は見られないようです。明治の地図を見てもここに鳥居の印は見られなかった。尾張府志(1830~1844)に、この解説に近い記述はみられましたが、創建時期までの言及はありませんでした。この神社が清正公と所縁があったとしても、なんら不思議はないのですが、いま見る神社のイメージとはかけ離れたものだったのかもしれません。参考までに、愛知県神社庁から中村町字高畑52番地の八幡社として登録はされていましたが、内容は社頭の由緒に満たないものでした。今回、境内の寄進物の寄進年を悉く見忘れてしまい、現在の社殿の建立時期も定かではありません。八幡社の石造りの額には「八幡社」と刻まれています。参道から拝所・本殿の眺め。園内を訪れる方は多いようですが、意外に八幡社へ参拝される方は見られないようです。現在の祭神は応神天皇。西側から社殿全景の眺め。拝所から本殿までを覆う長い覆屋が印象的です。八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇所在地 / 名古屋市中村区中村町字高畑52豊國神社から八幡社徒歩移動 / 西へ2分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)・豊國神社 (豊臣秀吉誕生の地)
2024.12.14
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中村区中村町、豊國神社の赤い大鳥居が、この町のランドマークです。写真は豊國神社参道から南の大鳥居の眺め。豊國神社の象徴であるこの大鳥居は、大正10年(1921)、中村区が名古屋市に編入されたのを記念して昭和4年に竣工したコンクリート製のもので、全長約24.5m、柱の直径は2.5mという。完成当時は日本一の大きさを誇ったそうで、町のランドマークとして存在感を放っています。街の光景と大きな鳥居、松並木の参道が続く風景が広がっています。写真は豊國神社前交差点から見た豊國神社の二ノ鳥居の眺めです。中村の街の中で、緑あふれる一帯は中村公園として整備され、住民の憩いの場として親しまれています。この公園の中心に、豊臣秀吉を祀る豊國神社が鎮座しています。ニノ鳥居は木造の明神鳥居で、島木に金色の五七の桐紋が飾られ豊臣秀吉を象徴するものです。鳥居右側に「豊國神社」の社標が立てられ、鳥居の先には一対の石灯籠と狛犬が参道を守護しています。社頭入口の中村公園マップ。明治34年(1901)に開園した中村公園、園内には豊國神社をはじめ、豊公誕生之地碑や小出秀政宅跡など、秀吉と所縁のある歴史スポットや中村小劇場などの文施設が集約されています。参道から社殿の眺め。緑豊かな公園の木々と青空が広がり、その先に三ノ鳥居と社殿が建てられています。神橋の先は、凛々しい表情の一対の狛犬が参道を見守っています。参道両脇には木製灯篭が連なり社殿へ繋がります。豊國神社は豊臣秀吉公の生誕地に明治18年(1885)、地元の有志らによって創建された神社になります。祭神は豊臣秀吉公です。地元の農民から天下人となった豊臣秀吉公を、今も慕う地元の人々が、その御神徳にあやかろうと参拝に訪れます。写真は神橋を渡った左の手水舎。この手水舎には、豊臣秀吉を象徴する金色の瓢箪が飾られています。手水舎に飾られた金色の瓢箪。この瓢箪は彼の馬印としても使用され、秀吉の象徴的なアイテムの一つで、清水を注ぐのも龍ではなく瓢箪から注がれています。写真は木造の三ノ鳥居と社殿全景です。三ノ鳥居を通り抜けると、厳かな雰囲気を醸し出す社殿は、拝殿と幣殿、本殿と繋がっており、地元出身の天下人を慕う人々により建てられたものです。写真は三ノ鳥居から本殿の眺めです。拝殿背後にある本殿の大棟には、5本の鰹木と外削ぎの置き千木が載せられています。写真は豊國神社の拝殿の全景です。拝殿は切妻平入の造りで、緑青に覆われた銅葺屋根の木造で、右側に祭神の秀吉公の肖像画が掛けられています。拝殿軒下の「豊太閣」と書かれた木製の額が掲げられ、この額の下で豊臣秀吉公に祈りを捧げます。愛知県神社庁に登録があり、それによれば祭神は豊臣秀吉公、氏子域と祭礼日が5月18日前日曜日とだけ紹介されていました。拝殿から振り返って見た参道の眺めです。瓢箪形の絵馬か吊り下げられ、多くのおみくじも見られ、訪れる人々の願いや祈りが込められていることがうかがえます。豊國神社の社殿右側に立てられた石碑には「豊公誕生之地」と刻まれ、碑の周囲は玉垣が囲み、この場所の重要性を示しています。傍らには金色の瓢箪が設置されています。豊臣秀吉の生誕地解説。「天文5年(1536)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子として生まれた。幼名を「小竹」または「日吉丸」と称しました。姉智子(関白秀次生母)は同父同母り姉、小一郎秀長(大和大納言)と朝日姫(徳川家康の正室)は、異父同母の弟妹である。出生地については、区内下中村町という説もある。」生誕地から見た豊國神社の本殿の屋根。本殿の造までは見て取れません。社殿後方から本殿の眺め。写真は社殿後方に建てられた初代 中村勘三郎 生誕記念像。初代中村勘三郎は江戸時代を代表する歌舞伎役者で、江戸歌舞伎の開祖と云われています。プレートには、豊國神社の宮司、近藤一夫氏の名前が記されています。写真は、豊國神社の西側のひょうたん池。繁華街の中に位置しながらも、この公園は豊かな緑に囲まれた静寂のオアシスです。池の中央の小さな噴水と周囲を取り巻く木々が癒しの空間を提供しています。この穏やかな風景に豊國神社が調和しており、都会の喧騒を離れ、この静かな空間で心を落ち着けることができます。豊國神社創建 / 明治18年(1885)祭神 / 豊臣秀吉公所在地 / 名古屋市中村区中村町字木下屋敷常泉寺から豊國神社徒歩移動 / 西へ3分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)・太閤山 常泉寺(豊臣秀吉公誕生地)
2024.12.13
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師走に入り、普段にもまして不審な電話が固定電話に入ってきます。以前より「屋根の修理」「下水の清掃」「宝飾品の買い取り」etc、etc……今の世の中、まっとうに働かず、人から騙し取ろうとすることを生業にする者の多い事。普段からこうした電話は、かみさんは受話器を一切取らない。 それが正解です。対して自分は、敢えてホイホイと電話を取り、相手と話がしたくなる。以前から警察#9110に相談し「協力するから逮捕しないか」と持ち掛けていますが、マンパワーが足りない現場の実情を伝えられているので、「家に伺う」「現金・キャッシュカードを預かりに来る」そんな時には110番し、所謂引っかかったふり作戦に積極的に協力するのが自分の方針。今回のことのはじまりは数か月前、肉声で「総務省〇✖課の〇✖と名乗る」人物から「9月に通知を出したが支払われないので、この電話番号は使用できなくなる」との内容だった。この時は「そりゃあ大変だね、お手数をかけますね、もう一度所属部署とお名前、電話番号教えてくれる?」と返すと、相手は「エッ?」と一言発し、「死ね!」言い残し一方的に電話を切った。それ以降、最近は自動音声で総務省をかたる「お使いの電話は、あと2時間で使えなくなる、オペレーターに繋ぐには1番を押してください」の電話がかかってきており、自動音声はからかう事も出来ず、すぐに切っていた。こうした事で被害に遭う事例が多く警察に事実を報告したところ、最近そうした通報が多いので「絶対に音声電話に従わないように」とのことで、頑張って逮捕に繋げてくださいと激励し会話は終了。それから数時間後、警察(末尾に110番が入ります)から電話があり、その内容は以下のようなものでした。・着信時に「録音する旨の警告アナウンス」を自動再生し、録音する機器と海外からの電話を受信拒否する設定を無料で出来るので付けますかとの内容。この話は定期的に自治体で無償配布・取付を進めており、募集件数を定め先着順で設置しているそうです。偶然締め切った後に一組残ったので声がかかったようです。断る必要もなく、これで少しは怪しい電話が減る事を期待し、設置してもらいました。下の写真がその機器になります。当日は警察の生活安全部の二名の私服警官の方が警察手帳を提示(見せられても本物なのか分からないのだけど)の上で自宅を訪れ、10分程で設置してくれました。内容は既設電話機に繋がるケーブルを外し、この機器に接続、そこから既設電話機に接続するもの。これにより着信があると最初にこの機器が発信者に「録音する旨の警告アナウンス」を発し、その後に電話が鳴るようになります。サギ電話に多い、海外発信に対しては受信拒否申請の書類を提出する事で着信拒否ができます。その為の申請書類に記載すれば、彼らの手で届け出先に投函してくれます。以上で設置・着信拒否の設定を完了し、今日で二日経ちましたが、電話が鳴る前のアナウンスで大半は切っていくようになりました。それでも固定電話の留守電に変わるまでコールする相手もいますが、大体はメッセージも残さず切っていきます。大原則として、お国から本当に用件があれば、向こうからやってきます。国の機関から電話はかかって来ません、警察や税務署も同様です。なのでそうした電話に吃驚する必要は全くないし、指示に従う事はありません。警察にしても自身に後ろめたいことがなければ、驚く必要はありません。むしろそうして出入りがあった方がいいとも思っています。なので、我家は速度取り締まり、一旦停止取り締まりの際に緊急車両の駐車場として使ってくださいとも申し出ています(なかなか取り締まりは実現しないけれど)。この総務省を語るサギ電話は他府県でも多発し、自治体も警鐘を鳴らしており、紙上でも実例が報告されています。・読売新聞オンライン記事はこちらまた、こうした機器の設置の募集は「名古屋市公式webサイト」に要綱が公開されています。それ以外にも防犯カメラ設置補助金が出る自治体もあるので、こうした制度は利用しない手はないと思います。いずれにしても世のなか、苦労せず巧みに金を得るための知恵を絞る者はます〃増えて来るでしょう。突然のこうした場面に遭遇したら、身元の確認と連絡先を聞いたうえで、一旦電話を切り#9110に連絡するよう習慣にして、被害に遭わないように疑ってかかってください。株や為替も同じです、儲かる話を人に教える訳がない。そのうち、カメラぶら下げて街を徘徊しているだけで通報される、そんな予感もする。荒んだ国になったものです。2024/12/11
2024.12.11
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今年も早いもので師走となり、毎年12月に入ると、年末年始の酒の買い求めに市内の酒蔵を駆けまわるのが恒例行事ですが、今年もそんな時期になりました。今年は少し遅めの買い出しとなりましたが、当日は雲が垂れ込み、北風が吹きすさび、冬の到来を実感させられる寒さでした。買い出しの際に渡る矢田川の河川敷では、最近まで生い茂っていた草木の緑や芝が、冬の様相に変わっているのを目の当たりすると、季節の移ろいを感じます。温かみを帯びていた矢田川の水も、今では冷たく感じられ、一層冬の訪れを実感します。写真は市内東区の金虎酒造。毎年濁り酒「初しぼり」と大吟醸を買い求め、酒粕と梅酒の梅をもらいに行くのが恒例行事となっています。写真のように酒蔵入口に杉玉と紅白の幕が張られ、商品が陳列されていました。販売所でいつものように、今年のにごりの出来を伺うと、「今年は昨年同様、とにかく元気が良くて開栓に10分かかったと聞いています」とのことでした。…昨年は「異常な暑さで熟成が進み過ぎでいまひとつ」と聞き、開栓、のど越しも???の印象があったと思います。昨年のブログを見て見ると履歴はなく、昨年の初しぼりの印象を女房の記憶とともに振り返るといい印象はなかった。恐らくそうしたこともあって履歴に残さなかったのだろう。なので、これは試し買いで1本飲んでからと思っていましたが、2000円以上でないと酒粕がもらえないので2本買い求め、咋晩試飲しました。去年はほんとに元気がなく、味もなんかいつもと違うものでした。期待を込めて開栓。少し開けると液面はモコモコと吹き上がり、噴き出す直前で栓を締めて収まるのを待つ。これを繰り返し、開栓できたのが約10分ほど、ことしの濁りは確かに元気がいい。そこから、おりを均等に混ぜ込んでグラスに注ぎ味わう。酸味を伴うスッキリとした飲み心地の初しぼり、今年の感想は違和感はなく、女房ともども美味しく頂けました。750ml入り1375円。例年買いだめしても正月までなかなか持たないけれど、これなら大量買いしても失望しないだろう。二回目の買い出しに行く事にしよう。正月に戻っくるだ息子達に、なにも伝えず開栓させてみようか。金虎酒造は弘化二年(1845)、善光寺街道入口の山田村で初代大阪屋善兵衛が酒造業を始めたことにはじまります。名古屋の数少ない酒蔵で、屋号の「金虎」は名古屋城の金鯱と、三代目善兵衛が寅年であった事に由来するそうです。金虎酒造(株)名古屋市北区山田3-11-16今年は19号線沿いに矢田川を越え、庄内川左岸にある東春酒造まで足を伸ばしてきました。過去に訪れた際、こちらの東龍どぶろくを見かけ、ずっと気になっていました。幸心交差点を左折した先にある、直売店。東春酒造は、創業元治2年(1865)、創業者の佐藤東兵衛は名古屋城の櫓を建造する予定の材木を譲り受け、善光寺街道筋に酒蔵を建造、屋号を龍田屋として酒造りを始めたことにはじまります。創業当初は、近隣の高牟神社で所蔵していた管原道真公の肖像掛け軸より「菅公」の銘柄でしたが、商標登録が遅れたため、創業者の「東」と屋号の「龍」を取り、東龍に改めたられたという。ウオーキングイベントの試飲会で馴染みもあり、直売店の北側には庄内川の氾濫とともに生まれた水屋造りの酒蔵など、古くからの土地柄を示す建物が今も残ります。店内。・・・あのとぶろくはない。お店の人に「どぶありますか?」と伺うと、「冷凍庫にあります」とのことでした。冷凍して販売されている様でした。冷凍庫から出てきたどぶは、カチカチに冷凍され、瓶の表面は霜で包まれ、素手で触ると指がくっついてしまう程強烈に冷凍されていました。この飾っ気のない外観、ずっと気になっていたので今回1本買い求めました。冷凍のとぶろく、どんなものか。ラベルの品目を見ると「その他の醸造酒」とあります。全くろ過を経ていない、どぶろくの品目表示は「濁酒」と表示されるので、素朴などぶろくを求めるなら品目表示は「濁酒」で見定めるのがいいかもしれませんね。現在、冷蔵庫で解凍中なので融けるのを楽しみにしています。東春酒造株式会社所在地 / 名古屋市守山区瀬古東三丁目1605番地地下鉄名城線大曽根駅から金虎酒造、東春酒造まで約2.5㌔、40分程。
2024.12.10
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加藤清正公誕生地とされる妙行寺から、北に徒歩2~3分ほどの場所に鎮座する常泉寺を今回掲載します。こちらは豊臣秀吉公が産湯を浴びたとする井戸がある日蓮宗の寺院です。常泉寺は妙行寺北隣の通りに面し山門を構えています。参道の入口左に「豊太閤御誕地」、右に「日蓮宗常泉寺」の寺号標が立ち、参道の少し先に山門が建てられています。山門全景。山門左の太閤山常泉寺、南無妙法蓮華経と刻まれた題目塔。山門から境内の眺め。山門から本堂方向の眺め。太閤山常泉寺は豊臣秀吉公生誕地に秀吉公に命じられた加藤清正公と開山である圓住院日誦上人により創建されました。正面は本堂で右手の庫裏へ続きます。山門をくぐった左側の苔むした境内には題目塔があります。右側には四季桜が淡いピンクの花を付けていました。左手の水子地蔵と本堂の眺め。本堂の山号額。堂内で祀られている御神体の豊太閤像は木食興山上人の彫刻とされ、当初は大阪城に祀られていたもので、清正公が秀頼公にお願いし、常泉寺へ遷されたものという。本殿前の「むすびの輪」むすびとは「結ぶ」で、糸によりしめくくる事です。世の中は結縁で成り立って います。縁とはゆかり、てづる、たより、つきあいなど多くの意味があります。ハート印は人の生命を表しています。1、本堂の前でお祈りします。2、お願いを込めて下の輪(自分の思い)次に上の輪(御仏の意志)を廻します。3、同じ山がピッタリと合えば願いが叶います。二つまでのズレはあと一息。三つ以上のズレは努力が肝要とみます。お参りした後は、この上下の輪を回すのが習わしのようです。境内西側の手水舎と太閤像の眺め。豊臣秀吉公像。像の解説は以下。「豊臣秀吉公没・三百年記念事業として太閤秀吉公像を明治31年(1898)に建立。昭和19年(1944)、戦争による金属強制徴収となり、台座石のみとなる。昭和58年(1983)放火により本堂全焼となるも、篤信者の支援、檀信徒一丸となり、同62年(1987)に本堂落慶を迎える。続いて この台座石に心をとめた方の寄進によりその翌年5月、秀吉銅像が再建された。」秀吉公産湯の井戸。こちらの解説は以下。「秀吉公産湯の井戸」は現在もその姿をとどめています。秀吉公が生まれた際、この井戸はほかに類をみないほどの清水が豊かに溢れていたといいます。このことから「常泉寺」という名がつけられたと縁起書にも記されています。しかし昭和40年代、市の発展に伴う地下水の変動を受け、この泉も枯れてしまいました。多くの人がまた清水湧き出る泉を取り戻したいと願い、平成に変わるときに再現を試みたといいます。その甲斐あって清泉はよみがえり、今でもこんこんと清水が湧き出しています。」とあります、それまでより下がった水脈を求め掘り進めたようです。一度は枯れた地下水も今ではこうして滾々と湧き出しています。 境内西側の常泉寺解説と秀吉手植の柊。「長泉寺太閤山と号し、日蓮宗。慶長年中(1596~1615)円住院日誦上人の創建という。この地は、織田信長に仕え、足軽から身を起して、後に天下を統一した豊臣秀吉誕生の地と伝える。境内に伝承として、秀吉手植の柊(基木より五代目という)と秀吉産湯の井戸がある。なお、誕生地については、中中村(現中村中町あたり)とする説もある。名古屋市教育委員会 」写真は中村公園側の境内入口。入口付近の解説は以下の通りです。「日蓮宗 太閤山・常泉寺 豊臣秀吉公誕生地御神体 太閤秀吉公肖像宗派 日蓮宗 総本山 身延山久遠寺創建 慶長年間(1596~1615)秀吉公生前の命により豊臣秀吉公廟堂として家臣、加藤清正と圓住院日誦上人によって創建。秀吉病没、慶長3年(1598)後、大坂夏の陣、慶長20年(1615)秀頼とその母 淀殿自刃、秀頼の子、国松処刑よって豊臣家滅亡となり、当山も灰燼となるも、当山第二世真英院日探上人が太閤像を背負い、難を逃れる。後に、徳川幕府の許しを得、学問所として再建され、徐々に寺本来の姿に復し近年に至る。昭和58年4月放火され灰燃の憂目に あうも、同年8月篤信者の支援を受け、檀信徒有縁が一丸となり、 復興に尽力し、同62年4月落慶を迎える。当山伝承による寺宝太閤秀吉公束带唐冠木彫座像後陽成天皇御下賜の采配太閤秀吉公所持の茶釜(十六菊花紋入り)太閤秀吉公愛用の硯秀頼公自筆の書 一幅秀吉公御手植えの格で作った茶杓木下長嘯子の軸 一幅」とある。上は前回妙行寺で使用した尾張名所図会の挿絵になります。右上に描かれているのが常泉寺で、境内中央に秀吉手植の柊、秀吉公産湯の井戸が描かれています。左側の集落が現在の中村公園になり、公園内の生誕地とされる一角に、玉垣で囲われ「豊公誕生之地」の石標が立てられています。入口右の木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)宅跡の石標と解説。内容は以下。「長嘯子(木下勝俊)は、木下家定の長子、北政所(秀吉正室)の甥である。豊臣秀吉のもとで若狭九万石を領したが、関ヶ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った。 こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。歌文に秀れ、著書も多く中でも歌集「拳白集」は名高い。」 常泉寺宗派 / 日蓮宗山号 / 太閤山創建 / 慶長11年(1606)開山 / 圓住院日誦上人開基 / 加藤清正本尊 / 大曼荼羅所在地 / 名古屋市中村区中村町木下屋敷47妙行寺から常泉寺徒歩移動 / 北へ3分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地)
2024.12.09
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弁財天から西に10分ほどの中村公園に向かいます。今回は中村区中村町木下屋敷に鎮座する妙行寺を訪れます。ウォーキングイベントで何度か訪れたことはありますが、じっくりと写真に収める機会がなく今回改めて訪れる事にしました。清正公通の歩道に埋め込まれた「一の谷馬藺後立付兜」のタイル。中村公園周辺は地名にも現れるように木下藤吉郎の出生地で、後に戦国時代を治めた豊臣秀吉の所縁の地です。この兜は秀吉の愛用したもので、兜の後ろから後光のようにも見える放射状に立てられた29本の刀のようなものは、捻あやめ(馬藺)の葉を模したもので、しょうぶのゲン担ぎからデザインに用いられたようです。なんとも秀吉らしい派手なデザインだこと。清正公通を西に進むと写真の開運清正公大霊祇の幟の立つ妙行寺山門が現れます。妙行寺山門正面全景。この日は生憎と清正公通が工事中で、伽藍全景は収められなかった。山門右の「清正公誕生地」と刻まれた題目。山門から境内。下は山門脇の「妙行寺御案内」の内容です。「通稱 清正公さま沿革 永仁二年(一二九四)日像吉薩により真言宗より日蓮宗に改宗天文時代 (1535)、中興 日勢上人、正悦山妙行寺と改稱再建慶長十五年(一六一〇)清正公名古屋城築城の砌、普請小屋を貰いうけて御先祖・御両親の菩提を弔う為、堂宇を比処誕生の地に建立す。清正公堂安置の御尊像は肥後本妙寺第三世日遥上人の作なり境内には文化七年目(1810)尾張儒臣泰鼎選、丹羽盤恒子書加藤肥後候旧里碑清正公銅像、宝物殿、鐘楼法界萬霊供養塔、浄行菩薩を祀る洗心殿等がある年中行事節分会 2月当日、清正公御正当大祭 7月23日・7月24日、御会式 11月、毎月例祭 24日」HPからの抜粋は以下。「日蓮宗正悦山妙行寺といい、昔は此の地より二丁程(約220㍍)東方にあり、正起山本行寺という真言宗の大伽藍なり。永人二年日蓮宗の僧日像菩薩京都弘通の為御通行の折、受法し、日蓮宗に改宗す。後に堂宇は悉く焼失、天文年間 日勢上人正悦山妙行寺と改め再建し、今の山号寺号となる。慶長十五年、家康公の命により加藤清正公、諸大名と共に名古屋城築城の折、妙行寺を清正公誕生の地に移し、ご先祖ご両親の菩提をとむらう為に再建した。 清正公堂に安置する御肖像は、肥後本妙寺第三世日遥上人の作で、上人の父は朝鮮慶尚道河東の人で、姓は余、名は寿禧、字は天甲という。上人は十二才の時清正公に虜われ、日本に連れ帰られ、清正公の御仁徳を慕い、本国に帰らず日本に留り、出家して日蓮宗総本山身延久遠寺に修行し、後に清正公が建立する熊本本妙寺の第三世住職となり、高麗遙師と呼ばれた。慶長十六年六月清正公御逝去の後、日遙上人は清正公の御尊像二体を彫刻し、その一体を本妙寺に安置、他の一体を清正公誕生の地妙行寺に寄贈したものが清正公堂に安置する尊像です。山門をくぐると正面に毅然とした清正公の銅像が聳えています。右手は洗心堂で手水と「あらい浄行菩薩」が安置されています。境内右手の鐘楼。南妙法蓮華経と刻まれている梵鐘、池の間にも細かな文字が刻まれていますが読み切れませんでした。鐘楼から西方向の境内の眺め。正面が清正公堂で、右手の寄棟の建物が本堂になります。清正公堂の左の門をくぐった先に「清正公誕生之地」の碑と加藤肥後候旧里碑が建てられています。境内から眺める薬医門。洗心殿。洗心殿。切妻瓦葺の手水舎で、内部にあらい浄行菩薩が安置されています。「あらい浄行菩薩 諸々の願いを成就 水子の供養 お釈迦さまのおつかわしになった佛さまの中のお一人で、水徳をそなえた尊い佛さまです。人の世の迷いは限りなく多く、この迷いをなくす為に出現された佛さまです。人は自分の心の中の佛心を、水をかけ、あらい清めて、無病息災・諸願成就・水子供養と、明るく前進させましょう。正悦山 」加藤清正公像。長烏帽子形兜には「南妙法蓮華経」と刻まれ、清正公が法華経に帰依していたことが伺われます。清正公の旗印は蛇の目ですが、それ以外では桔梗の紋を用いていたようです。後に肥後守となり、難攻不落の熊本城や城下の整備に貢献した名将です。向拝の付けられた入母屋妻入りの清正公堂。名古屋市教育委員会の「加藤清正生誕の地」解説。「清正は幼名を虎之助といい、永禄5年(1562)この地に生まれたといわれる。天正(1573~)のはじめ秀吉に仕え、数々の武功をたてた。とくに賤ヶ岳の七本槍は有名である。のちに肥後国(熊本県) 54万石の領主となった。慶長15年(1610)名古屋城築城の時、自分の誕生地に城の余材をもって妙行寺を再建したと伝えられる。寺内には、秦鼎(はた かなえ)の撰文 「清正旧里之碑」がある。」堂前の狛犬、阿形は松の影に潜んでいました。寄進年は未確認ですが、素朴な姿の狛犬です。向拝と大棟の眺め。シックな外観に、金色の桔梗の紋の入った飾り金具が上品なアクセントになっています。堂の扉には蛇の目と桔梗紋が輝く。上は天保3年(1832)に編纂された尾張名所図会、その挿絵に当時の妙行寺が描かれていました。伽藍配置そのものは現在と大きく変わっていないようです。挿絵の右上は秀吉が産湯を浴びた井戸のある「常泉寺」が描かれ、現在と大きく変わっていないことがわかります。左手には豊国神社・・・、豊国神社の印象が強いこのあたりですが、ここに神社や大鳥居が築かれるのは明治に入ってからのことで、当時はまだ野原です。本堂。優雅に流れる屋根の寄棟造。棟瓦には正悦山の山号が入る。本堂の山号額。「本行寺」と号した真言宗寺院の頃は、現在地から約220mほど東にあったとされ、現在の中村小学校辺りに鎮座したようです。ここに至るまで清正公通を歩いて来ましたが、それらしい看板など見かけなかった。清正公堂左の庭園。この古い道標の奥に清正公誕生之地の碑が建てられています。手前の清正公誕生之地碑と加藤肥後候旧里碑。もとは中村公園の西方、大字高畑にある八幡社境内に建立されたもの。明治3年(1869)、妙行寺が清正公生誕地として確実視されたことからここに移された。文化7年(1810)冬十月の建立で、藩の儒臣秦鼎の発願で、文を撰し、丹羽盤恒子が書したものという。長年の風雨にさらされ、一部は剥脱しており、全文が読み取れる状態ではありません。主君として使えた秀吉は天文6年(1537)に隣の常泉寺で産湯を浴び、永禄5年(1562)ここで加藤清正が生まれた。この僅かな距離に、歴史に名を留めた武将が生まれたのは単なる偶然なのだろうか。妙行寺宗派 / 日蓮宗山号 / 正悦山創建 / 不明本尊 / 法華三法所在地 / 名古屋市中村区中村町木下屋敷22弁財天から妙行寺徒歩移動 / 中村公園方向へ10分訪問日 / 2024/11/08関連記事・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天
2024.12.08
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久し振りに市内中心部の神社巡り。地下鉄東山線中村日赤駅の2番出口に降りたちました。そこから中村日赤駅信号方向に進み、中村日赤病院のゲート横から敷地内に入り、左側にあるのが今回の目的地「弁財天」です。鳥居通の歩道を背にして、弁財天が祀られています。病院敷地内の一角に芝が張られ、玉砂利の敷かれた参道が本殿へと続いています。本殿前には石が組まれた小さな池があり、そこに石橋が掛けられています。境内入口に建てられた弁財天解説の内容は以下です。「弁財天名古屋第一赤十字病院が開院する以前、この地にはかつて「遊里ヶ池」という大きな池がありました。人々の憩いの場所として親しまれた一方、池の中の島には中村弁天寺 が建立され、中村遊郭で亡くなられた遊女の供養のため、近江の竹生島から弁財天の分 身が迎えられお祭りされていました。昭和のはじめ弁財天はこの寺とともに藤江町に移りましたが、この地のいわれに因み、 昭和12年の開院以後、この寺から新たな分身をお迎えし敷地内にお祭りしておりました。この度新病棟の完成にあたり、お堂を新築し再びここにお祭りしております。平成21年10月 」今年1月、周辺の素盞男神社を訪れた際に触れたように、この辺りは大正12年(1923)、現在の大須にあった「旭遊郭」がこちらに移され、栄華を誇った「中村遊郭」がありました。上は、昭和7年当時の遊里ヶ池と遊郭で、半島の先端に弁才天があります。もともとこの辺りは湿潤な土地だったため、遊郭を作るにあたって、ここから土を採り出し造成されたものでした。そうして掘り出された場所に水が溜まり、できたのが遊里ヶ池です。その後の弁天寺や弁財天については解説の通りです。昭和12年、病院建設にあたり埋め立てられた遊里ヶ池。遊女たちの霊を鎮めるため、病院拡張に伴いこの一角に見世棚造りの本殿が祀られた。かつての遊里ヶ池を偲ばせるような弁天池に佇む弁財天の全景。弁財天創建 / 不明(昭和12年弁天寺より分身を祀る)祭神 / 弁財天所在地 / 名古屋市中村区道下町3地下鉄東山線中村日赤駅下車、徒歩一分ほど。参拝日 / 2024/11/08過去記事 / 素盞男神社
2024.12.05
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