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旧三光院跡前を西に向かい、ゴールの大野町駅に向かいます。矢田川に架かる常滑線の踏切を越えて記念橋を渡り、再び踏切を渡り、矢田川右岸堤防道路を100mほど遡った大野町駅の東に今回の風宮神社は鎮座します。矢田川右岸堤防道路沿いの小さな森の先が神社になります。 社頭はこの堤防道路から左に進みます。社頭全景、神明鳥居の先の拝殿と後方の本殿、左の社務所が主な建物で、右側の背の高い建物は山車庫になります。境内の目の前は常滑線大野町駅で社地の西側を赤い電車がホームに滑り込んできます。 社頭の鳥居は大正十一年に建立されたものです。拝殿正面全景。 切妻・妻入りの拝殿は四方を木戸で閉じられ暗い印象ですが、全て開け放てば風も抜ける明るい印象に変わることだろう。妻壁には「風宮」と彫られた大きな木製の額が掛けられている。 また、本殿後方には稲荷社が祀られていました。当神社について愛知県神社庁、現地解説などから以下のように纏めてみました。 ■ 概要・社格 風宮神社は、愛知県常滑市大野町に鎮座する神社で、近代社格制度では「旧無格社」に分類される。 港町として栄えた大野地区において、風の神を祀る地域の氏神として信仰されてきた。 ■ 鎮座地 常滑市大野町5-25古くから海運と漁業で栄えた大野の町に位置し、地域の生活と深く結びついている。 ■ 祭神 級長津彦命級長戸辺命 いずれも「風の神」とされ、古事記・日本書紀に登場する神々で、風を司り、五穀豊穣、航海・漁業の安全など、風に関わる利益を持つとされる。 風の神が祀られている点は、港町の地域性を現している。 本殿域には境内社5社を祀る。 ■ 由緒 創建年代は不詳である。記述として享保年間(1716〜1736)に編纂された『尾張志』に「風宮ノ社」と記されており、江戸時代には既に当地に鎮座しており、少なくとも300年以上の歴史を持つ神社であることがわかる。■ 沿革 明治六年(1873)「据置公許」となり、合祀・廃止されることなく地域の神社として存続が認められた。近代以降も大野地区の氏神として祭礼が継承され、現在に至る。 ■ 社殿 本殿(神明造)、拝殿、社務所、山車庫。明治二十七年(1894)、神明造の本殿を建立。 ■ 山車 紅葉車(常滑市指定文化財)」紅葉車は、風宮神社の氏子橋詰町に所属する山車です。文久三年(1863)名古屋御車大工久七によって造られ、彫物は瀬川治助の作。 山車は山にからくり人形を載せた名古屋型で、市の有形民俗文化財に指定され、人形戯と囃子は市の無形民俗文化財に指定されています。人形は豊太公の他三体。精巧な装飾を持つ山車は、大野地区の祭礼を象徴する重要な文化財となっている。■ 例祭日 五月三日夜神楽・五月四日本祭日、農作業が本格化する時期にあたり、風の神に豊作や安全を祈願する祭礼として行われてきた。江戸時代末期から続く祭礼では、高須賀町(唐子車)、十王町(梅榮車)と橋詰町の紅葉車の3輌の山車が大野橋に巡行される。拝殿後方から本殿域正面の眺め。 中央が風宮神社本殿で、本殿右に二社、左に三社の境内社を祀るも、木札の文字が読み取れず社名は分からない。5本の鰹木と内削ぎの千木が載る風宮神社本殿には級長津彦命・級長戸辺命の二柱を祀る。本殿域左に一社だけ横向きの社、こちらも木札の文字が読み取れず社名は分からない。風宮神社本殿のすぐ後方の大野町5-16の線路際に写真の奉納鳥居が連なっている。 これが風宮神社の境内社なのかは定かではないが、鳥居の額には「稲荷神社」とある。奉納鳥居を抜けた先は赤い屋根の覆屋があり、その下に朱塗りの本殿が祀られている。手前に一対の木造の灯籠があるが、柱から折れ倒壊寸前。 参道に大きな狛狐はなく、祭壇の前に小さな狛狐が見守るのみ。覆屋に護られた本殿はさほど傷んでいないが、せっかくの木造灯籠は痛々しい。 愛知県神社庁に登録はなく、稲荷神社の創建・祭神等の詳細は不明。尚、稲荷神社社頭の左に歩行者専用の踏切があり、大野町駅からのアクセスは非常にいい。第十一回歩いて巡拝 知多四国 風宮神社・稲荷神社祭神 / 級長津彦命・級長戸辺命創建 / 不明礼祭 / 5月4日氏子域 / 常滑市大野町所在地 / 常滑市大野町5-25参拝日 / 2026/01/17 三光院から風宮神社 / 旧三光院跡前を西に向かい記念橋を渡り、矢田川右岸を100mほど遡った常滑線沿い、距離約1km・10分。関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 69番札所 宝苑山 慈光寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 68番札所 竜王山 蓮浄院 宝蔵寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 67番札所 松尾山 三光院
2026.02.27
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前回の68番札所宝蔵寺から、県道267号線を東に向かい、矢田川を越え右に進んだ住宅街の一角に今回最後の札所になる松尾山 三光院が鎮座します。67番札所 松尾山 三光院山門全景。 門前左に「新四国67番」の石標が立てられ、薬医門の左の柱に「時宗 松尾山三光院」、右の柱には「小倉山 蓮台寺」の寺号札が掛けられています。どういうこと? この寺は正和三年(1314)に創建された、時宗の小倉山蓮台寺で、50m程南に塔頭寺院67番札所 松尾山 三光院が鎮座しましたが、伽藍の老朽化に伴い、本寺である蓮台寺の境内に三光院本堂が建てられたもので、境内に本堂が二つあることになります。蓮台寺本堂(右)と67番札所 松尾山 三光院本堂の眺め。 蓮台寺は、大野城の初代城主佐治宗貞の墓や佐治一成に嫁いだお江にまつわる伝承が伝わる古刹です。佐治氏の居城・大野城が戦火に掛かった際、お江たちは難を逃れ蓮台寺に逃げ込んだとされ、境内の松に着物を掛け、井戸に身を投げたと見せかけお江をかくまった。 その松は「衣掛けの松」と呼ばれ最近まで現存していたようですが、その松も枯れてしまい今は存在しません。また、薬医門に繋がる西側の築地塀には、お江たちが逃げ込んだ後に閉じたままとなった「開かずの門」などが伝わっています。蓮台寺本堂の山号額は「小倉山」です。 山号が「松尾山」ではないのも冒頭の理由からです。小倉山蓮台寺について常滑市誌(1976)では以下のように記しています。 『「時宗」この宗派に属する寺は、小倉にある蓮台寺とその塔頭三光院の二か寺である。蓮台寺は正和三年(1314)即伝上人を開山として、(一説には覚阿上人という)一色道秀によって創建された。 古くは花園天皇の勅願所として一山一七坊の巨刹を誇っており、寺領も佐治駿河守や織田有楽によって寄附されていた。しかし慶長五年(1600)の九鬼の兵火によって蓮台寺と塔頭三光院のみが残ったにすぎない。 連歌師 里村紹巴が「富士見道記」の中に、小倉道場にて「身に入るや 夕汐風の 朝涼み」とよんでいる。蓮台寺・三光院とも本尊は阿弥陀如来である。』としている。 常滑市誌編纂当時、時宗の寺院は常滑市二寺、県内に十一寺とあり、県内では最も少ない宗派。平成24年、その一つ三光院が蓮台寺境内に移転、見方によってはひとつに統合されたとも取れるが、廃寺ではないので二寺に変わりないのか。 移転前の三光院跡地には閉じられた山門と壁が残るだけで、境内は駐車場になっています。蓮台寺本堂内陣の眺め、本尊は阿弥陀如来。67番札所 松尾山 三光院本堂、こちらに大師像が安置されています。 三光院について知多四国ガイドブックでは以下のように紹介されています。『三光院は正和三年(1314)、小倉山蓮台寺十七坊の一院として創建されています。 蓮台寺の鬼門除を担い、阿弥陀如来、聖観音、不動明王を安置したため三光院と称したといわれています。知多、三河を領有した一色氏の庇護を受け、さらに応仁・文明の乱(1467)の後に知多半島西岸一帯を領有した佐治氏からも寺領を寄進されるなど、隆盛を極めましたが、佐治氏の衰退とともに寺院は荒廃の途をたどりました。 慶長五年(1600)には九鬼氏が当地に侵攻、寺の記録や什物のほとんどが兵火によって焼失したと伝えられています。平成二十四年、本堂、庫裏の老朽化により、同じ小倉の地にある親寺、蓮台寺境内東に本堂を移転。 その際、本来は五十年に一度の本尊御開帳が特別に一週間行われました。』堂内中央、お前立の後ろにある大き目の厨子に秘仏聖観世音菩薩が安置されており、常滑市の指定文化財になっているそうで、文化財一覧から像容を探してみましたが掲載されていなかった。 写真では切れてしまったが、お前立の右手に見える光背は不動明王だろうか、更に右側に阿弥陀如来像が安置され、堂内左側の金色の厨子に弘法大師像が安置されています。境内西側の寿山塚。 写真右奥に初代大野城主「佐治駿河守宗貞」の墓だと伝わる寿山塚があります。天文元年(1532)宗貞は死去、法名を斉念寿山といい、宗貞が建立した佐治家菩提寺斉念寺に埋葬する事もできたろうが、主君の一色道秀が建立した蓮台寺に葬ることを希望したと伝わります。うきよをば ひかりてらせるだいじひは よにもかがやくおくらかやま今回頂いた梵字カード 第十一回歩いて巡拝 知多四国 67番札所 松尾山 三光院宗派 / 時宗本尊 / 聖観世音菩薩創建 / 正和三年(1314)開基 / 一色道秀開山 / 即伝上人札所 / 知多四国 67番札所、知多西国観音16番札所、知多本四国38番札所所在地 / 常滑市小倉町5丁目66参拝日 / 2026/01/17宝蔵寺から三光院 / 県道267号線を東に向かう、矢田川を渡り左岸沿いに下り三光院まで約750m・徒歩10分ほど。関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 69番札所 宝苑山 慈光寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 68番札所 竜王山 蓮浄院 宝蔵寺
2026.02.26
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風神様(龍田神社)は千葉県香取市北部に位置し、利根川を挟んで田園地帯が広がる香取町津宮の右岸に鎮座する神社です。 最寄り駅はJR香取駅、箱に乗車券を入れるだけの無人駅で、大きな空が広がる想像を超える長閑なところでした。駅から北に200m程歩いた地域公園が風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮の鎮座地になります。風神様(龍田神社)が鎮座する公園の眺め。 公園の正式名称は分からないが、Gマップによると風神様(龍田神社)公園と表示される場所で、園内には遊具も置かれています。こうして公園内に神社が佇む光景は名古屋でも見られますが、二つの鳥居をドーンと構えるこの姿はあまり記憶がない。上の地図は明治とほぼ現在のJR香取駅と風神様(龍田神社)の鎮座地になります。 左の明治時代の地図には鹿島線の敷設前で、現在の鉄路と駅は昭和6年になってからです。当時は津宮集落と佐原を結ぶ街道が東西に延び、一ノ鳥居が立つ集落から南に参拝道が続き香取神宮を結んでいます。 街道沿いの集落は山手方向に広まりをみせ、鉄道が敷かれたとはいえ、田畑の多くは今も残り、明治時代の面影を色濃く保っているといえます。風神様(龍田神社)が先か、公園が先かというと良く分からないが、少なくとも地図上に鳥居の印はみられません。 推測ですが、鉄路や駅の建設、利根川河川工事に伴い周辺は相当開かれたはず、公園内に複数の社もあることから、これらによりここに纏められたようにも思えます。公園西側に2体の石像と石標が建てられています。 右側の石塔は月待塔と思われます、全文読み取れませんが十六夜の文字がなんとか読み取れます。月待塔は名古屋でも郊外で良く見かけますが、十六夜塔は見た記憶はないかも。さて、月待塔の左の二体の石像が分からない。 胡坐と印相を組んでいるように見えます。左の像の台座に「大日」と刻まれている事も分かりますが、不思議な形の頭部の印象が強く像のイメージが浮かばない、謎の像だ。 これらも周辺からここに移されたものだろうか。東側から公園入口の全景。 朱の鳥居と石鳥居が建てられており、朱の鳥居の先は渕生稲荷神社、石鳥居の先は三つの石の社を祀る風神様(龍田神社)。月待塔の奥には竹で作られた鳥居を構える御霊宮が祀られています。朱の鳥居の先の渕生稲荷神社本殿。 小さな狛狐が守護する社に祀られる祭神は倉稲魂神と思われる。当神社の創建について千葉県神社名鑑(1987)・佐原市史(1966)から調べてみたが詳細は分からなかった。 以前は香取神宮正参道の一ノ鳥居が立つ利根川岸右岸付近に鎮座していたものが、明治44年(1911)の河川改修工事に伴いこちらに遷されたらしい。石の鳥居を構える龍田神社社頭。 左手の解説には風神様として親しまれているようだ。風神様(龍田神社)解説。『香取神宮の末社、”天候の神”・”お百姓の神”と尊ばれた風の神々である、うかのみ玉命、しなつ彦命、しなつ媛命(風神三社)を祭っている。境内東側に元渕生(ふじき)の利根川岸にあった「渕生稲荷神社」が明治44年の河川改修工事のため当地に合祀された。また昭和44年には、鹿島線開通による香取駅の拡張工事のため、香取駅南側にあった「御霊宮」を境内西側に遷した。風神様には五社が祀られている。』とある。鳥居右の手水鉢はもはやプランターと化していた。 銘を探してみたが分からなかった。龍田神社の三社。 小さな竹の鳥居が立てられ、その先に石の社が三社祀られている。左後方に石碑がありましたが碑文を見忘れました。風神三社を祀るとあるが、中央の社には赤い鳥居もみられるので、こちらが宇迦之御魂神と仮定しても、左右の二社はどれがどれやら分からない。 龍田神社について千葉県神社名鑑(1987)には記載はみられず、佐原市史(1966)に「香取神宮 元末社 竜田神社 級津彦津神、級津姫命神、倉稲魂神」と記され、元末社とある。香取神宮小史(1933)に目を通したところ摂末社に「龍田神社 級津彦津神、級津姫命神、倉稲魂神」として記されており、其々龍の表記こそ違うが同じ内容のものです。 ただ、佐原市史には「元末社」と記されており、昭和初期以降は境内摂社ではないようだ。解説にある「御霊宮」。 こちらも竹製の鳥居が立てられ、その先に石の社が祀られています。以前は香取駅南側にあったが、鉄路開通により昭和44年(1969)に園内西側に遷されたもの。 書籍から祭神や創建に繋がる記述を探してみましたが見つからなかった。境内西側から御霊宮、龍田神社、渕生稲荷神社の眺め。 神々に見守られながら、遊具が置かれた園内で子供らが遊ぶのだろう。かつては舟で津宮に上陸し、鳥居をくぐり香取神宮へ向かう参拝者で活気づいた町も、車で訪れることが多くなり、津宮から歩いて詣でる物好きは少なくなったのではないだろうか。風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮創建 / 三社とも不明風神様祭神 / 級津彦津神、級津姫命神、倉稲魂神 参拝日 / 2026/01/28所在地 / 千葉県香取市津宮712関連記事・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』
2026.02.25
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前回掲載した宝苑山 慈光寺から、次の第68番札所・竜王山蓮浄院宝蔵寺は、名鉄常滑線の踏切を越え、常滑街道を南に進んだ先の大野町三の交差点の右側に鎮座します。慈光寺のすぐ南にある名鉄常滑線の踏切を越え、左方向に向かい、常滑街道の大野町三の交差点まで距離にして約400m、時間にして5分程で到着できます。 この辺りは71番大智院・70番地蔵寺・69番慈光寺・68番宝蔵寺・67番三光院・66番中之坊が徒歩20分圏内に集まっており、効率よく巡拝できる。常滑街道沿いに「卍第68番宝蔵寺」の寺号標があるので、そこから民家に挟まれた細い参道の先に「火防大師霊場」の石標の立つ入口に続きます。 当日は庫裏前で自慢の自家製クッキーや漬物が振舞われ、巡拝者を温かくもてなしてくれたのがなにより嬉しいものです。どちらもおいしく、僅かばかりの気持ちと「ごちそうさま」の感謝の一声が接待を受けた者のマナーだろう。宝蔵寺の伽藍は、正面が本尊 千手観音を安置する本堂で、右側の立派な建物が弘法堂と手前の庫裏が主な建物になります。境内の尾張大野散策路② 宝蔵寺の解説。 『竜王山蓮浄院宝蔵寺は、真言宗智山派の寺院で、約五百年の歴史があります。江戸時代、宮山の金蓮寺の一坊でしたが、同寺が兵火にかかったため、大野へ移りました。 当寺は、知多新四国第六十八番札所で「ひぶせの弘法さん」と親しまれ、火防札、雷除札が有名です。』金蓮寺は弘仁年間(810〜824)、弘法大師が創建したと伝わる古刹で、中世には十二坊前後の塔頭を抱える大寺院として栄えたという幻の寺院群。 往古、当地を支配し大野城を築城した一色氏や佐治氏から崇敬され栄えた。中之坊の鎮座地でもある宮山に聳えていた大野城は、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが知多半島にも及び、このとき織田方の一成の大野城は豊臣方の兵火に掛かり、周辺の寺院や宮山金蓮寺も延焼し廃寺の道を辿ったとされ、金蓮寺の本尊千手観音と法灯を受け継いで現在地に再興したのが宝蔵寺とされる。一方でこんな話もある、本能寺の変の後、天正10年清須会議で尾張国は織田信雄の領地となり、佐治一成はその家臣に組み込まれたが、天正11年(1583)に、秀吉の政略から、お市の娘であるお江が一成に嫁いだ。 しかし同年3月、小牧・長久手の戦いで佐治一成が佐屋街道の渡しで大野船を提供し、家康を大野に渡したことが秀吉の知る所となり、お江は離縁され、一成自身も大野城を追われ、佐治氏の衰退とともに寺勢は衰えていったともされる。弘法大師が開いたとされる金蓮寺は、今は現存せず、城と共に焼け落ちたか、佐治氏追放により廃寺となったのか幻である。弘法堂全景。正面に軒唐破風の付く寄棟瓦葺の木造建築で、本堂と見紛うばかりの重厚な建物です。 「火防大師」はこちらに祀られています。知多四国ガイドブックでは宝蔵寺について以下のように記されています。 『真言宗智山派龍王山 宝蔵寺 宝蔵寺は弘仁年間(810〜824)、弘法大師が創建した宮山金蓮寺の遺跡と伝えられています。文明年間(1469〜1487)、佐治駿河守為隆が大野城を築いた際に祈願所となりましたが、天正十二年(1584⁾の落城の時、開山の覚賢法印が春日定朝作と伝わる本尊を奉じて現在地に移し、堂宇を整えています。 また、当寺の弘法大師像は火防大師として名高く、火防、雷除けに霊験あらたか。大師が知多半島を巡錫の後、熱田の宮(熱田神宮)で千日護摩行を修法された縁によるものです。 この火防大師をまつる人は、末代まで火難を逃れると伝えられ、篤く信仰されてきました。堂内には、大師の霊徳を慕った信者が高野山から移した、消えずの燈明が納められています。 「火防大師」と名高い宝蔵寺では「火防札」、「雷除札」が授けられる。一家に一枚と求める人も多く、ご利益を授かったという声も多い。 本尊 千手観世音菩薩開基 弘法大師 開山 覚賢法印御詠歌 火のあとと仏の顔は心して 再び三度ふりかへりみよ』とある。内陣の「消えずの燈明」と「火防大師」、左は光背の形から不動明王だろうか。 火災の話題が絶えない昨今、「火防札」は火災保険と共に必需品かなぁ、しっかりと拝んでおこう。第十一回歩いて巡拝 知多四国 68番札所 竜王山 蓮浄院 宝蔵寺宗派 / 真言宗智山派本尊 / 千手観世音菩薩創建 / 天正12年(1584)開山 / 覚賢法印札所 / 知多四国68番札所所在地 / 常滑市大野町3-30参拝日 / 2026/01/17慈光寺から宝蔵寺 / 名鉄常滑線踏切を渡り常滑街道を南下、大野町三の交差点の手前右側距離300m・徒歩4分。関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 69番札所 宝苑山 慈光寺さて、この辺りで丁度昼ご飯の時間となる。 常滑街道沿いのこの辺りは意外に飲食店が少ないところ。大野町三交差点の南にある「とり伊」に立ち寄った。 どて丼の知名度が高いようで、どて大好きのかみさんが今回の巡拝に合わせピックアップしていた。当然かみさんはどて丼。 この日最後の札所は近い、駅も近い、となれば冷たいビールで喉を潤したくもなる。どてが苦手な自分は写真の10食限定のランチ、刺身定食(@1000)をオーダー。 居酒屋風の店内には短冊がかけられ、市場であまり流通しない珍しい魚の刺身などあり、夜の部に訪れたい店です。お腹も満たされたところで、次の札所67番三光院に向け、大野町三交差点を東に向かいます。とり伊所在地 / 常滑市大野町2-193
2026.02.22
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70番札所 摩尼山 地蔵寺の巡拝を終え、次は69番札所 宝苑山 慈光寺を目指します。地蔵寺から慈光寺は、西に向かい、かつて大草城のあった大草公園内を横切り、その先の名鉄常滑線沿いを目指します。距離は約600m、10分もあれば辿り着けます。写真は公園内にある大草城跡。地蔵寺から続く尾根の西端、標高にして10mほどの高台に位置し、南側以外の周囲は小規模な堀や土塁が築かれています。ここに至る途中、東側の堀(蓮池)を越えますが、水を湛えたこの堀に水源はなく、湧水か雨水に依存していたのでしょう。先に巡拝した中之坊寺が鎮座する城山の尾根にはかつて大野城がありました。しかし立地は水利が悪く、当時の城主 織田長益(有楽斎)は、北側を流れる前山川と矢田川を越えた先の大草の丘に城を築こうとしました。しかし、長益は築城中に領地替えとなり、その後は受け継がれることなく、未完のまま荒廃していった城跡。現在は公園に整備され、天守風の展望台が建てられています。上まで登っていないが伊勢湾や東部田園地帯の眺望は良さそうです。大草公園から西に向かい名鉄常滑線の線路が見えてくると、写真の地蔵堂が現れる。ここから右が69番札所 宝苑山 慈光寺になります。地蔵堂から先、石垣と塀が連なる立派な伽藍を持つ寺で、かつての大野城主 一色満範の菩提寺である。広大な駐車場があり、車で訪れても困る事はないだろう。山門から境内の眺め。この日は本開催ということもあり、境内には出店も出て賑わっていた。本堂と弘法堂の眺め。慈光寺の歴史は以下のようなもの。 『臨済宗 妙心寺派 宝苑山 慈光寺慈光寺は応永元年(1394)、大野城主・一色満範が菩提の建立を発願し、臨済宗大本山 鎌倉 円覚寺の清源大和尚を招いて開創した。 境内の山門脇には、開山の清源大和尚と開基の一色満範が手植えした椎の老木がある。本尊の聖観世音菩薩は、創建時に仏師春日定朝に祈願し、四十二歳の厄年だった仏師が「一刀三礼入魂して作った像」で「厄除観音」として信仰される秘仏。 弘法堂は大正七年に改築、昭和十六年に大修理が施された。その天井には川合玉堂(1873-1957)の弟子・川合玉琴による花鳥風月図が描かれている。 本堂は、官材檜を使い昭和三十八年に五年の歳月をかけて再建されたもの。 「願い石」弘法堂前に据えられた「願い石」は、石に空いている細長い穴から大師像を覗き、願い事をすると成就するといわれている。 本尊 厄除聖観世音菩薩開基 一色修理大夫満範 開山 円覚寺清源大和尚』入母屋瓦葺の本堂、昭和中期に官材檜で再建されたもの。寺号額。本堂左の弘法堂、昭和十六年に修理を受けた方形屋根の向拝付きの木造建築。 左手に台座の上に乗せられた大岩が「願い石」で、縦にあけられた穴から、堂内の弘法さまを覗くと願いが叶うとされる。堂内の眺め。中央が厄除観音と呼ばれる聖観世音菩薩で、左が弘法大師、右が子安観音が安置されている。知多市の文化財一覧には登録されていないようです。堂内格子天井の花鳥風月図。境内西側の二社相殿、秋葉社と天神社を祀り、この他に手水舎の奥に稲荷社が祀られている。むすびつる つゆにえんあるおおくさの さとやじこうにてらされつあり次の札所は、目の前の常滑線の踏切を越え、400m先に鎮座する68番札所宝蔵寺です。第十一回歩いて巡拝 知多四国 69番札所 宝苑山 慈光寺宗派 / 臨済宗妙心寺派本尊 / 厄除聖観世音菩薩創建 / 応永元年(1394)開山 / 円覚寺 清源大和尚開基 / 一色修理大夫満範札所 / 知多四国69番札所、知多西国17番札所所在地 / 知多市大草西屋敷4参拝日 / 2026/01/17地蔵寺から慈光寺 / 大草公園から西に向かい、名鉄常滑線の線路手前の慈光寺まで徒歩8分。関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺過去記事・鎌倉 『臨済宗大本山円覚寺』
2026.02.21
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前回掲載した津島神社に隣接する知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺、正式名は摩尼山 東光院 地蔵寺と称します。今回はこちらを掲載します。津島神社の社頭右側に山門を構え、伽藍は大日如来堂、大師堂、少し東に離れた本堂が主な伽藍。境内全景。左の寄棟造の建物は大日如来堂で、天平年中 行基菩薩が当地に来錫し伽藍を建立した際に安置した大日如来の座像を安置する。往古の地蔵寺はこの大日如来が本尊だった、この像は知多市の文化財に指定されている。右手の入母屋瓦葺の堂々たる建物、当初これが本堂かと思い込んでいたが、こちらが大師堂。手水舎は境内中央に置かれており、山門右側に休憩所が用意されているのがありがたい。大師堂全景、大きな蘇鉄が印象に残る。大師堂から右手の本堂に向かう境内に鎮守社が祀られているが、社名は読み取れなかった。本堂の傍らの「摩尼山 地蔵寺 歴史」、内容は以下。『天平年中(729~749)行基菩薩が当地に来錫し伽藍を建立し大日如来の尊像を彫刻し安置して山号を大日山と呼ぶ寺号はわかっていないが寺が建立された。その後、五百年間この寺は無住で伽藍は荒れ果てていった。草が生え土地は荒れ果てて狐の棲みかになり、近隣の住民がこの地を「大草」と呼ぶようになった。文永年中(1264~1274)池鈴山 蓮華寺 中興 良敏上人がこの地に来て大日如来を拝し、その姿の美しさに感銘を受けて伽藍を再興し大日尊を安置し、また京都の岩蔵山観勝寺(今は廃寺)の大図上人から授かった地蔵菩薩(弘法大師作)の尊像を本堂に安置し、この寺の山号を「摩尼山」寺号を「地蔵寺」と呼ぶようになった。地蔵寺としての歴史はここから始まる。永享年中(1429~1441)政舜が蓮華寺より来て住職となり、さらに尾張の津島牛頭天王社から津島牛頭天王を勧請し鎮守とした。また、地蔵寺を本寺とする東光院、福生院、奥之坊、大日坊、今寺の六つの寺院を建立した。その後、火災に見舞われるなど災難に遭い、寺の規模を縮小させ、第十世秀雄代(1624~1644)東光院の薬師如来と地蔵寺の地蔵菩薩を合祀して摩尼山 東光院 地蔵寺となり今に至る。』とある。この中に前回掲載した津島神社と思われる記述があり、永享年中に鎮守として津島から勧請とあるのが興味深い。神社名鑑には「長享二年(1488)の棟札が残る」とあり、神社創建はこの時期と思われます。織田長益(有楽斎)が水利の悪い大野城に代わり、ここに大草城を築こうとしたが、地蔵寺と津島神社が鬼門封じの北東になるよう城の位置に影響を与えたようだ。地蔵寺本堂全景。 入母屋瓦葺の裳階屋根の妻入りの建物で、本尊で弘法大師作と伝わる地蔵菩薩を安置する。本堂の裏側には不思議な伝承の伝わる水掛地蔵を安置します。 手前の手水舎には水掛地蔵が現れた古井がある。本堂正面全景。 裳階屋根と軒唐破風の付く風格のある建物で左の斜面には無数の水子地蔵が安置されている。本堂裏側の水掛地蔵。本堂前の古井戸からあがった地蔵の伝承について解説が残されている。 『井戸からあがったお地蔵さん江戸中期の享保年間、常滑の久米に一人の盲目の女性が住んでいました。 名をお竹さんといい、当寺に七日七夜参詣したところ、その満願の日に、夢のお告げがありました。「我は竹林中の古井戸に在る地蔵だが、汝、我を助け出して我を信仰するならば、盲眼必ず開かん」と。 その霊夢に感動したお竹さんが早速、地蔵尊を古井戸から探し出し洗い清めたところ、夜明けとともに目が開き、輝く光を見たと伝えられています。評判は広まり、近郷からのお参りが絶えなくなりました。』これが井戸からあがった水掛地蔵。 柄杓で水をすくい地蔵像に掛ける事で願いが叶うとされ、江戸時代から人々の悩みから救って来た。自分も年相応に白内障も進み、老いを感じるようなるとお竹さんの気持ちもわかるようになってきた。 自分だけならともかく、頼みの綱のかみさんも白内障の仲間に加わるようになり、ここはお地蔵様にお願いするしかない。だいじひの せいがんたてし じぞうじの ほとけのこうとく おおがざらめや第十一回歩いて巡拝 知多四国 70番札所 摩尼山 地蔵寺宗派 / 真言宗本尊 / 地蔵菩薩創建 / 天平年中(729~749)開基 / 行基菩薩中興 / 良敏上人縁日 / 2月、8月の23、24日所在地 / 知多市大草東屋敷37参拝日 / 2026/01/17津島神社から地蔵寺 / 津島神社の東に隣接関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社
2026.02.20
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前回の熊野神社からの引き続きとなる今回は、熊野神社から北東に約2kmほどの大草城の東側に鎮座する津島神社となります。熊野神社から国道155号線を北上し、矢田川右岸を下りながら、右手に見える小高い丘の上を目指します。大草城の東の尾根にあたるこの場所には、知多四国七十番札所 摩尼山 地蔵寺が鎮座しております。津島神社は門前左に隣接する様に社頭を構えています。津島神社社頭全景。 鳥居左に手水舎、正面の拝殿と後方に流造の本殿と境内社が祀られている。境内は桜が植えられ、もう少し暖かくなれば一面が艶やかなピンクに染まるのだろう。社号標は「津島神社」鳥居前を守護する狛犬は子持ち、毬持ちのもの。境内の全景。手水舎の先、裳階風の建物が社務所、右の拝殿は切妻瓦葺で平側に向拝が付くコンクリート造り。 どれも近年改修された様で綺麗な建物が占める。拝殿から本殿方向の眺め。津島神社拝殿額。愛知県神社名鑑(1992)による解説。 『十一等級 津島社 旧指定村社鎮座地 知多市大草字東屋敷三七番地 祭神 素戔嗚命、稲田姫命、五勝々命、天穂日命、天津彦命、天津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命由緒 創建は明らかでない。 長享二年(1488)再建立の棟札がある。江戸時代には牛頭天王ノ社と称した。 徳川時代、武門山澄家の崇敬厚く、宝刀の献納があった。明治四十年十月二十六日、伊勢湾台風によって本殿、拝殿が倒壊。 昭和五十二年造営復旧した。例祭日 七月十四日 社殿 本殿 流造、拝殿、社務所、神庫、氏子数 三〇〇戸』とある。尾張志に「牛頭天王」と記されているおり、一説には京都八坂神社から勧請される。たまたまかもしれないが、地蔵寺や津島神社(牛頭天王社)は大草城址の北東の鬼門にあたる。また、当社の歴史の中に遷された記録も見つからない。織田長益(1547-1622)が大野城に代わり大草城を築城しようとした際、既に存在していた地蔵寺や津島神社に合わせ城の位置を決めた可能性もある。拝殿から回り込んで本殿域を眺める。 一段高く積まれた本殿域に、中央に流造の本殿、左右に境内社が祀られている。境内社は右が稲荷社、左が八幡社。流造の本殿。左から覺明社、山神社、御嶽社、秋葉社、居森社と並ぶ。お隣の地蔵寺は参拝客も多いが、こちらの津島神社も参拝する方は見られない。第十一回歩いて巡拝 知多四国 津島神社創建 / 長享二年(1488)の棟札が残る祭神 / 素盞嗚尊 稲田姫命 五勝々命 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野櫲樟日命 湍津姫命 市杵島姫命 田心姫命境内社 / 稲荷社、八幡社、覺明社、山神社、御嶽社、秋葉社、居森社例祭 / 7月14日氏子域 / 知多市:大草所在地 / 知多市大草東屋敷37参拝日 / 2026/01/17熊野神社から津島神社 / 西に向かい国道155号線を北上、新海交差点信号を左折、大草城方向へ2km・30分関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺・第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社
2026.02.17
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前回お伝えした第十一回歩いて巡拝知多四国 66番札所 中之坊。 今回は境内西側に鎮座する村社 熊野神社を取り上げます。熊野神社境内から眺める社殿、右側が66番札所 中之坊の本堂です。 社殿は一対の狛犬が守護する拝殿と幣殿・本殿(鞘殿)が連なるもので、本殿左に境内社が纏められており、この他に境内左側に社務所がある。中之坊は多くの人で賑わうも、隣接する熊野神社に訪れる人影はない。 拝殿は入母屋造で、四方は腰壁付きのガラス張りで、屋根は瓦葺の妻入り。拝殿額はなく、狛犬の台座に刻まれた熊野神社の文字以外それとわかるものは少ない。拝殿前の狛犬は子持ち毬持ちで、寄進年を見忘れましたが、風貌は昭和か大正時代のものと思われます。本殿の全景と境内社、本殿は春日造で、内削ぎの千木が載る、鰹木の数は分からなかったが恐らく4本載っていると思われます。 熊野神社は和歌山県の熊野三社から勧請された自然信仰の神社で五穀豊穣・家内安全・災い除けの御神徳が得られるとして崇敬されている。当神社の由緒について愛知県神社名鑑(1992)では以下のように纏めています。 『十二等級 熊野神社 旧指定村社鎮座地 常滑市金山字屋敷二四番地 祭神 熊野加夫呂命、伊邪那美命由緒 社伝によれば、往昔紀伊国熊野三社を当村字大屋敷へ勧請村内氏神とす。年歴は詳かではない。 その後文久二年(1862)今の社地に遷した。明治五年、村社に列格する。 昭和七年九月十九日、指定社となる。例祭日 四月三日(第一日曜日) 社殿 本殿 春日造、幣殿、拝殿、氏子数 八〇戸』とある。境内社は左が秋葉神社、右が山之神神社。境内の南側に一対の常夜灯と鳥居(1967)が建てられ、南側の斜面に参道がある。鳥居の先から参道を見下ろす。 正面に溜池があり、参道は右に伸びているようです。この溜池、明治時代の地図まで遡ってみても描かれており、古くから城山周辺の田畑を潤してきたようだ。 石段脇に社号標と由緒書きが立てられています。石段を下り社号標と境内鳥居を見上げる。 社号標は「村社 熊野神社」と刻まれ、大正4年(1915)に建立されたもの。由緒書きには以下のように記されています。 『當社祭神 伊邪那美命 熊野加夫呂命沿革 紀伊國熊野三社を當村大屋敷へ勧請し村内氏神とす。年曆不詳なれども享保十二年(1727)八月の記録に長禄参已卯年(1459)社殿修覆の棟札存すとあれば、今より五百年以上の歳月を経過したること明なり、文久二年戌年(1862)今の地へ移転す。 境内未社 秋葉社(火産霊命)、山神社(大山祇命)、昭和二年十一月十日 』そこまでの歴史を持つような神社には見えないかもしれないが、往古からこの地に祀られてきた神社だ。 興味本位から旧鎮座地を探して見たが定かにはならなかった。第十一回歩いて巡拝 知多四国 熊野神社創建 / 不明(長禄3年(1459)の棟札)祭神 / 伊邪那美命 熊野加夫呂命境内社 / 秋葉社 山神社例祭 / 四月三日(第一日曜日)氏子域 / 金山所在地 / 常滑市金山字屋敷24番地参拝日 / 2026/01/17中之坊寺からアクセス / 同一敷地内関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社・第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺
2026.02.16
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下総国一宮・常陸国一宮巡拝のため訪れた千葉・茨城、大洗シーサイドホテルで迎えた最終日は大洗から水戸を目指し帰路に着くことになる。この日の日の出は6:42。 窓の外は既に朝陽が上ろうとするタイミング、二人して水平線から上がる日の出を見に神磯の舞台に向かう。6:38。舞台や海岸沿いには多くの人がその時を待ちわびている。 しかし、生憎沖に大きな雲が垂れこめ日の出は拝めそうにもない。駄目かな?ならばせめて赤く染まれ。6:43。雲の間から日の出が顔を見せてくれた。6:55。太陽は雲を抜け空を暖かく染めてくれた。 この光景が見たかっただけに、これで切り上げホテルに戻る。7:16。朝焼けに照らされ、大洗磯前神社のニノ鳥居と三ノ鳥居が神々しく輝く。ホテルラウンジから眺める大洗の朝。7:28。 エレベーターホールから大洗磯前神社の社叢と早朝の街並み。自分やかみさんは神話や神の存在を信じる方ではない。 しかし、一日の始まりや終わりに訪れる僅かな時間、自然が魅せるドラマには、感動とともに自然に生かされているような気分を覚える。7:32。 朝食。納豆・鮭・海苔、これだけで御飯二杯は軽くいけそうだ、しかし御飯は一杯にしておかないと、液体の米が飲めないんだよね。 ゆっくり朝食を済ませ、9:00にcheck out。ホテル前のバス停から、9:23発の水戸行のバスに乗車、水戸市街の大工町バス停まで揺られていく。10:24。 お腹も満たされ、暖かい車中で睡魔と闘いながら約45分、水戸市街の大工町バス停に降りたつ。出迎えるのは藁納豆を被った水戸ちゃん。 ここから一路、梅の名所偕楽園方向へ。梅にはまだ早いが、水戸の東照宮を目指して3.3km程食後の運動。 昨晩1本酒を空けたとはいえ、リュックの重みは、ほぼ酒と水、これがずしりと圧し掛かってくる。歩き始めて5分程か、歩道右側の別雷皇太神の社頭で立ち止まる。 左側に「別雷皇太神」の社号標と「関東三雷神 別雷皇太神」の大きな看板が立てられている。写真は社頭の「向町の散々楽」の解説。 室町時代から続く伝統芸能「棒ささら」について書かれている。竹竿の先端につけた獅子の人形を操り舞わせるものを「棒ささら」と呼ぶようで、全国でも茨城県内に数例しか伝わっていない珍しい祭りなんだそうだ。 江戸時代には水戸東照宮の祭礼や、明治天皇の水戸巡幸の際にも上演された記録が残るという。そんな伝統を誇る祭礼が行われる別雷皇太神、参拝しておこう。 県道342号線沿いに社頭を構え、一対の石灯籠と鳥居が建てられ、歩道から境内に向け石段が設けられている。こちらの灯籠、右手のものを見ると竿のない不自然なもので、空襲を物語るものかもしれない。 これ以外に拝殿前の灯籠も同じく竿はなく、基壇の上に笠が載せられたものがある。不自然さを感じるが、こういう形の灯籠なんだろうと思えるくらい普通に思えてくる。 茨城県神社誌(1973)から由緒を調べてみると、社殿は戦時中の空襲で焼失しており、灯籠はそれを伝える戦争遺構のようだ。社殿全景。 正面に入母屋造で千鳥破風・唐破風向拝が付く拝殿と本殿が続き、右手に境内社が纏められています。水戸の中心街にある境内に、鶏の朝鳴きの声が聞こえてくる。 当社の創建は第45代聖武天皇神亀元年(724)。勅命により常陸国主藤原宇合が蝦夷征伐におもむく際、東北地方鎮護の神として、京都の「加茂別雷神社」の御分祀を当地に祀ったことが創始。 現在の水戸地方に鎮座する神社では第一の古社とされる。由緒によると、この地方を治めた佐竹氏、徳川氏の産土神として信仰され、特に雷難消除、武運長久の守護神として崇敬され「水戸の雷神さま」として関東一円に知られたという。 また、桜田門外の変の水戸浪士たちは別雷皇太神で祈願成就を祈ったともされます。大正13年東京上野の「電気博覧会」では、会場鎮護の神として、当社の御分祀が祀られ、その後は東京都電気局の守護神として祀られ、当時の市電や市バスには当社の御神札祀られていたという。 現在は、茨城県東海村に遷されて電気、原子力の守護神として祀られている。当社は昭和20年の水戸戦災により、社殿・社宝・資料のすべてを焼失。 戦後の混乱期に再建されたが狭隘となり、昭和43年に現在の社殿に生まれ変わった。境内右手の境内社。 この一角に聖徳養蠶神社、電気神社、淡島神社が祀られています。因みに、関東三雷神とは金村別雷神社(茨城県つくば市)、雷電神社(群馬県邑楽郡)と当社 別雷皇太神を指し、北関東一円は雷が多い地域のようだ。 近頃あまり耳にしなくなった「地震・雷・火事・おやじ」。時代は変わり、巷から雷おやじは消え去ったが「地震・雷・火事」だけは今も消える事はない。別雷皇太神。祭神 / 別雷命所在地 / 茨城県水戸市元山町1-1-57再び偕楽園へ向かおう、偕楽園表門まではここから約0.7km徒歩10分ほど住宅街を抜けた先に偕楽園の表門が現れる。 兼六園、後楽園とならぶ日本三名園のひとつで梅の名所として知られる。11:10。 偕楽園 好文亭表門到着。切妻茅葺の屋根で全体は黒を基調とした腕木門で通称黒門と呼ばれる。 漆喰の白がアクセントとなり、落ち着いた佇まいの門。偕楽園は天保十三年(1842)に創設され、その正門になるのがこの黒門。 昭和20年の水戸空襲で園内の好文亭など大半を焼失したが、黒門だけは焼失を免れた。創設当時は好文亭の表門として必ずここをくぐったものだろうが、現在は駐車場のある偕楽園駅側がメインとなりここを訪れる人は少ない。 門をくぐり、綺麗に手入れされた竹林を左手に進む。 好文亭中門。 竹林からクマザサが生い茂る杉木立の先に佇む茅葺き屋根の門、この先に好文亭がある。 当日の梅の開花状況、陽当たりの良いところはこうして咲き始め、春の香りを漂わせている。 今でこそ花見といえば桜が代名詞ですが、現在主流のソメイヨシノや彼岸桜など江戸時代に入ってからのこと、往古の花見はこの梅が主役で、道真が好んだというのも頷ける。見晴らし広場から眺める好文亭、戦災で被災後に再建されたもの。偕楽園内マップ、南側にJR偕楽園駅はあるが、梅祭り期間だけ開かれ、それ以外はクローズなので要注意。偕楽園所在地 / 茨城県水戸市元山町2-2-5ここから東門を抜け、すぐ先に鎮座する東湖神社と常盤神社に参拝。東門茶屋街を抜けた左に鎮座する東湖神社。 常盤神社の摂社で祭神は藤田東湖命を祀る。5月4日が例祭で、合格祈願、学業成就、事業の繁栄に御利益がある。東湖神社祭神 / 藤田東湖命創建 / 昭和18年(1943)所在地 / 茨城県水戸市常磐町1-3-1常盤神社(別格官幣社)。 御祭神は高譲味道根命(徳川光圀)、押健男國御楯命(徳川斉昭)。明治6年(1873)に、徳川光圀、徳川斉昭を慕う藩士により創建された神社。常盤神社祭神 / 徳川光圀、徳川斉昭創建 / 明治6年(1873)所在地 / 茨城県水戸市常磐町1-3-1上は境内から南に続く正参道の眺め、ここを降りて左に向かいます。 写真は偕楽園駅から南にあるJR貨物の集積所。常盤神社社頭から水戸東照宮までは約2km、30分、一山超えた先の宮町に鎮座します。12:30、県道50号東照宮入口交差点着、水戸東照宮の鳥居はこの交差点の左側に立っています。所在地 / 茨城県水戸市宮町1-1水戸東照宮社頭。 なにやらゴチャゴチャした一帯の高台にニノ鳥居が立っている。東照宮に続く参道右側は飲食店が連なり、その横に東照宮の社号標があり、そこから石段が上に伸びている。水戸市内を見下ろす高台に築かれた境内の社殿の眺め。 後方は壁のように集合住宅が聳え、街中の神社の典型的なものかもしれない。社殿は唐門と拝殿・幣殿・本殿が繫ながるもので、元和七年(1621)に水戸初代藩主徳川頼房が、父の徳川家康の霊をこの地に祀ったのがはじまり。唐門から拝殿の眺め、東照宮としては控え目な意匠ですが、黒漆塗り?の柱に金の三つ葉葵の紋、天井には梅の絵が施されるなど贅沢さは隠せない。 社殿は水戸東照宮は元和七年(1621)、水戸初代藩主徳川頼房公が、父徳川家康公の御霊をこの地に祀ったことにはじまる。趣のある国宝の社殿は空襲で焼失し、現在の社殿は昭和三十七年に再建されたものの、東日本大震災で被災し復旧されたものが現在の社殿。水戸東照宮は現在も工事が行われており、境内東側には鐘楼が作られており、ビニールシートで覆われた梵鐘「常葉山時鐘」が吊るされていた。 もともとは水戸城で時を知らせる太鼓に変わり、寛文7年(1667)に徳川光圀が鋳造させたもので、後に鐘から太鼓に戻された宝永元年(1704)、東照宮に遷された。更に時は流れ、明治に入ると、政府の命で1872年から4年間、旧県庁で時を知らせた。 しかし、2011年の東日本大震災で鐘楼を失い、梵鐘が鳴る事はなかったが、この楼門が完成すれば水戸の町に「常葉山時鐘」が再び鳴る事になる。この工事中の楼門から東に出た権現さん通りの国道50号線脇に写真の派手な鳥居が建てられていた。 今も尚、改修の手がやまない水戸東照宮です。水戸東照宮祭神 / 徳川家康、徳川頼房創建 / 元和七年(1621)所在地 / 茨城県水戸市常磐町1-3-112:30、参拝を終え、昼食のため怪しいお店に向かう、国道50号線沿いに左に向かう。 南町1丁目の信号の角にある雑居ビルの二階、細くて暗くて急な階段を上った先の黄門そば。TVの「思うまい店」で紹介されたうどんと蕎麦の店、怖いもの見たさで訪れたものの、ビルの入口もさることながら、メニューも想像以上に怖いものだった。 自分は普通盛のざるそば(@900)、これが普通。これはかみさんが頼んだけんちんそば、これで小盛である。 とにかく量が多い、かみさんに至っては野菜ゴロゴロのけんちん汁ですら強敵。この汁の中に麺を漬けて食べるのが流儀なんだが。 麺は蕎麦の風味の欠片もなく、ひたすら空腹を満たす分にはいいのかもしれない。蕎麦のつけ汁は薄口で、この量を食べるにはもう少し薬味と濃いつけ汁が欲しい。 1000円以内で腹を満たせないご時世、これ一杯食べれは晩御飯抜きでもいけそうな感じ。お勧めはしないが、笑いたい方、とにかく腹を満たしたい方には向いているのかも。黄門そば所在地 / 茨城県水戸市南町1-3-11この麺はかなりの強敵。 ここから水戸駅まで約10分ほどあるが、そんなものでは腹ごなしにもならない。13:30、JR水戸駅北口デッキ到着。 黄門さま御一行に挨拶して茨城の旅を終え、東京から新幹線に乗り名古屋に向かう。・・・ところがこの日は午前7時ごろ上野で起きた停電により、常磐線は運休となり14:00運転再開見込みとのこと、急ぎの旅でもないのでまあ慌てる事もない。 かみさんが混みあうJR窓口で問い合わせと新幹線のチケットを買い求める間、隣にある角打ちで軽く一杯ひっかけながら待つ。所在地 / 茨城県水戸市宮本1-115:30、ホームに降りる。 ホームは運転再開を待つ乗客と、動くに動けない列車が連なっている。右手に乗るべき電車は見えている、寒いホームで待たせるなら車内に入れてくれればいいのだが。 つい最近もJR東日本やらかしていただけに、人出不足や人材の技量など、インフラの機能確認が後手に回っているのは明らかだろう、老朽化する都市インフラは益々形を変え牙をむいてくるのだろう。 何時だったかな、左の特急が走り去り、右の車両が滑り込み、やっと暖かい車中に座ることができた。 後は東京まで辿り着けばいい。東京駅で土産と崎陽軒のシュウマイ弁当を買い求め「のぞみ」に乗車、名古屋まで寝ていけばいい。DAY3移動ルートはこちら。自宅に辿り着き、遅い晩御飯はシュウマイ弁当。 出張の際には良くお世話になり、シュウマイも土産に持ち帰ったものだが、シュウマイ弁当を食べた事のないかみさんは、帰りに買っていくものリストに上がっていたものだ。まだ、胃の中に奴がいるが、せっかくなので美味しく頂く。それにしても今回の一之宮巡り、昨年もう一泊して潰しておけば良かったのかも。 あの時、かみさんは打診したというが、自分がいい返事をしなかったという。心境は覚えちゃいないが、大洗まで片道200kmの道のりを考えると、遠いなぁということくらいか。 blogも下総国一宮・常陸国一宮巡拝の三日分書き終えて漸く旅も終わった。だんだんと遠くなる。
2026.02.15
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千葉県香取市佐原で迎えた一宮巡り二日目。 二日目は千葉県のJR佐原駅から利根川を越え茨城県鹿嶋市のJR鹿島駅に移動し、最初の目的地 常陸国一宮 鹿島神宮に向かいます。ホテルで朝食を済ませ、徒歩数分の佐原駅から9:17発の鹿島行きの電車に乗車。9:38鹿島神宮駅到着。 駅南口から、目の前の丘陵地の頂に鎮座する鹿島神宮に向け、徒歩700m・約15分程の地味な上りが続きます。なだらかに続くレンガ敷きのせせらぎ通り。 目覚めていない体には地味な上りはきついものがある。10:10参道到着。 10分ほどで尾根にある参道に出る、左に向かうとニノ鳥居に至ります。一ノ鳥居ではと思われますが、一ノ鳥居はこの参道を右に下り、距離2.2km・徒歩30分強の北浦河畔の沖に朱塗りの鳥居が建てられており、そこが正参道になります。 往古の鹿島三社巡りは水運が主で、香取神宮の一ノ鳥居も過去には水面に建てられていました。時間が許せば向かってみるのもいいだろう。写真上は参道脇の靇神社。 祭神は高龗、闇龗の龍神が祀られており、鹿島神宮の水を司り、神宮の火伏のため、この参道に二社、楼門に四社、御手洗池の二社を合わせ八龍神として祀られたもので、靇神社は参道にあった二社をここに合祀し、この地区の鎮守としたという。創建は調べていないが、境内には元禄7年(1694)に寄進された燈籠が残ります。下はニノ鳥居全景、本来なら鳥居の先に朱塗りの楼門が見えるはずですが、訪れた時は修復作業中で養生シートに覆われ存在感がない。上の写真は豊前国一之宮 宇佐神宮の西大門の養生シート。 規模は違うかもしれないが、シートに門の全貌がプリントされ、雰囲気を損なわない工夫がされていた。上は参道脇の鹿島神宮由緒で内容は以下。『鹿島神宮御由緒御祭神 武甕槌大神社格 勅祭社・別表神社・ 常陸国一之宮・旧官幣大社創建 皇紀元年(BC660)例祭日 九月一日境内地 二十一万坪御由緒神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は、香取の経津主大神と共に出雲国へ向かわれ、国譲りを成就し皇孫の国たるべき日本の建国に挺身された。とりわけ東国における神功は大きく、関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。 初代・神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の「韴霊剣」の神威により救われた。皇紀元年、BC660年の頃と言われる。以来、皇室を始め藤原氏等の崇敬も篤く、中世・近世には源頼朝、徳川将軍家等の祈願や寄進が寄せられた。そして、江戸時代に利根川から江戸を結ぶ水運が開かれると、東国三社参り(鹿島・香取・息栖)が流行、庶民にも鹿島信仰は広まり、現在に至るまで東国最大最古の神社として朝野の崇敬を集めている。』下は境内マップ。参道の楼門をくぐった右側に本殿が鎮座し、参道を更に直進した先に奥宮が鎮座します。要石は奥宮から右に進んだ先にあります。二十一万坪とされる広大な境内は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されています。写真は参道右の樹々の中に鎮座する末社の稲荷社(保食神)。参道左側にひっそりと佇む鳥居がある。鳥居をくぐると、左に末社の三社祀られており、手前から熊野社(伊弉諾命・事解男命・速玉男命)、祝詞社(太玉命)、津東西社(高龗神・闇龗神)。上は正面の坂戸社・沼尾社遥拝所。 摂社の坂戸社・沼尾社は離れた場所にあるため、こちらから遥拝できます。下は右側に祀られている末社の須賀社、祭神は天照大御神の弟神である素盞嗚尊をお祀りする。上は正参道正面に聳える朱の楼門なんですが、修復作業中で御覧のように味気ない様相。下は楼門をくぐった先の参道。 訪れた時は2月3日の節分祭に向け、舞台の設営に大わらわ、時期が良くなかったようだ。右手の入母屋造の建物が鹿島神宮の拝殿・本殿で、左が社務所になります。拝殿・幣殿・石の間・本殿が連なる社殿は、元和5年(1619)、徳川2代将軍の秀忠公が寄進したもので重要文化財に指定されています。右側の本殿は檜皮葺の三間社流造で、棟には3本の鰹木と外削ぎの置き千木がのるもので、祭神の武甕槌大神が祀られています。拝殿前から眺めた社殿全景。 鹿島神宮では狛犬を見かけません、幣殿方向にも姿はないようです。私達の後ろから「これが本殿か」という声が聞こえましたが、楼門の正面に社殿があるものと捉えれば、参道を開けるよう立つ社殿は、印象としては外れていないかもしれない。社殿左の朱塗りの建物は宝庫で、その奥に佇む社は摂社の三笠社で鹿島神宮が鎮座する三笠山の地守の神をお祀りします。上は社務所前に鎮座する摂社の高房社。 武甕槌大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した建葉槌神をお祀りし、本殿を参拝する前に、まず高房社を参拝するのが習わしとされる。下は重要文化財の仮殿。 入母屋檜皮葺で向拝が付くもので、元和4年(1618)、社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納したもの。江戸時代は楼門を入った真正面に鎮座していたが、その後2回の移動で現在の場所に遷された。 『この仮殿は旧本殿を奥宮として遷し、その跡地に新しい社殿を造営するまでの間、神様をお遷していた建物。現在は摂末社所管社の分霊をお祀りしている。摂社奥宮・高房社・三笠社・跡宮・息栖神社・沼尾神社・坂戸神社末社須賀社・熊野社・津東西社・祝詞社・稲荷社・潮社・阿津社・熱田社・御厨社・国主社・海边社・鷲社・押手社・年社所管社 大国社』上は社務所の奥に鎮座する末社の御厨社で御饌津神をお祀りします。下は御厨社の右鎮座する祖霊社。終戦後の昭和22年、成蹊学園内の鹿島神社の社殿を移築したもので、氏子中の戦没者・祖霊をお祀りします。現在改修工事中でした。再び本殿前に戻り、左手に続く参道を進み奥宮や要石に向かいます。社叢の中、綺麗に掃き整えられた奥宮に続く参道。 人工物は一切なく、午前中の早い時間であれば、時代劇に迷い込んだかのような光景が続きます。事実、映画のロケ地として実績があるようです。奥宮に向かう参道の右側に祀られている末社 熱田社(素盞嗚尊・稲田姫命)。 明治以前は七夕社と呼ばれていた社で、須賀社と同じ素盞嗚尊が祀られている。10:45奥宮に到着。 この時間だとまだ参拝者の列がありませんが、昼をも近づくと参拝待ちの列ができていました。檜皮葺の流造の社殿の大棟には、金色の巴紋や桐紋が光り輝いています。摂社 奥宮(武甕槌大神の荒魂)。現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納されたもの。後の元和五年(1619)、2代将軍 徳川秀忠により現在の本宮を建てるにあたり、旧本宮はこの位置に遷され、奥宮とされた。10:45要石に到着。香取神宮同様要石が地震を起こす鯰の頭を抑えていると伝えられている。かつて徳川光国が要石はどこまで深く埋まっているか、その根源を見極めるため、人夫をかけて掘り返そうとしたいう記述が水戸黄門仁徳録(1888)の「西山公鹿島の要石を堀給ふ事並霊夢の事」として残されている。『一日がかりで二町ほど掘り返したが日暮れとなり「今日はこれにて、また早朝より堀べー」と翌日再び要石に戻ると、何事もなかったかのように元に戻っていたという。それから百姓・町人も動員し昼夜問わず掘り進めたが根源まで辿り着くどころか、疲労困憊休息を入れると再び元に戻ってしまい、掘ることを諦めた』と記されています。一町は約110mなので当時としては一大プロジェクトだったが目的は果たせなかった。水戸黄門仁徳録は国立国会図書館のwebでも公開されており、読んでみると面白い。地表に現れている要石は只の石ころにしか見えないが、実は奥深い不思議な力を秘めている。要石周辺の芭蕉句碑と寛永5年(1628)に寄進された燈籠や銘の読めない古い手水石が置かれている。11:15御手洗池へ。HPによれば『1日に40万リットル以上の湧水があり、水底が一面見渡せるほど澄みわたった池です。昔は参拝する前にここで禊をしました。現在では、年始に200人もの人々が大寒禊を行います。』毎分280literか、それくらいの勢いはあったかな。鹿島台地の頂に鎮座しながら、後ろの山肌からこれだけの水が湧き出ることも不思議だ。御手洗池から湧水茶屋一休の眺め。 少し早いが次の目的地までの移動もありこちらで昼食。御手洗池の湧水で仕込まれた蕎麦と三色団子。御手洗池に対面するように末社の大黒社(大国主命)が鎮座します。明治以降に鎮座された新しい社で、夏越祓の日、西瓜を供えて参拝するのが習わしのようです。12:20、参拝を終え鹿島神宮駅に向かい次の目的地大洗へ移動します。鹿島神宮祭神 / 武甕槌大神創建 / 皇紀元年(BC660)所在地 / 茨城県鹿嶋市宮中2306-112:30、大洗行きのカラフルな気動車に乗車。 遠目に二両編成のように見えるが実は一両、なんともローカル色豊かなこの車両で大洗まで小一時間揺られていく。13:42、JR大洗駅到着。 アニメも疎くこのキャラクターについて語れないが、かみさんの話によれば、大洗の町おこしの一環に取り入れているという。そんなことからマンホールのデザインにもキャラクターが採用されており、これから歩けば撮る機会はあると思い、撮らなかったら二度と現れなかった。 上の写真は大洗の町を象徴するプレーンなデザインのもの。下は磯浜古墳群・磯浜海防陣屋跡の解説。古墳群は磯浜町の永町商店街北側の住宅の建つ丘陵地にあり、姫塚古墳(円墳)・五本松古墳(墳形不明)・五本松下古墳(墳形不明)・坊主山古墳(前方後円墳)・日下ヶ塚古墳(常陸鏡塚)・車塚古墳(前方後円墳)の3世紀から4世紀後半に作られた6基からなる古墳群。磯浜海防陣屋跡は江戸時代後期、海外から押し寄せる船舶の監視業務の為、この丘陵地に建てられていたという。14:03駅から東に向かい、1.4km・約20分先の月の井酒造店に立ち寄る。こちらは有料試飲ができるので、月の井銘柄の味を知ることができる。当日は下の銘柄が試飲でき、月の井新酒しぼりたてと月の井純米大吟醸を試飲。味は好みの好き嫌いがあるのでなんとも言えないが、試飲の印象では買って帰る程でもないかというのが感想。試飲は出来なかったが、お楽しみで月の井純米にごりを買い求める。リュックには昨日の東薫二本と合わせ3本が収まる、筋トレに丁度いいか。月の井酒造店所在地 / 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町638それでは20分ほど東に進み、目的地の大洗磯前神社に向かう。15:00、県道2号線の大洗鳥居下交差点到着。 ここに聳える大鳥居は、大洗磯前神社の一ノ鳥居にあたり、交差点を直進した左側にニノ鳥居があり、長い石段の先の社殿に続いています。今夜はこの通りの右に建つホテルに宿泊します。交差点からは、ニノ鳥居ではなく、左の丘陵地に続く車道を上って、大洗磯前神社を目指す。下はその途中の与利幾神社一の鳥居。 こちらを参拝してから大洗磯前神社に向かいます。15:10与利幾神社到着。 拝殿前から下を見下ろすとニノ鳥居の先に大洗海岸・鹿島灘を一望できる。大洗磯前神社境内西側に鎮座する境内末社で、安永6年(1777)に創建されたもの。 信濃国諏訪大社と所縁があり、祭神は大己貴命を祀ります。社殿はシンプルな外観の木造の入母屋造で、向拝梁の龍の彫飾りや木鼻の装飾は見事です。 拝殿後方の本殿は一見すると流造風ですが、妻側の屋根が折れ曲がり、妻壁に風雨が当たるのを嫌ったような珍しい屋根を持っています。右側の参道を進むと、石尊宮、茶釜稲荷神社、大甕磯神社、櫛形山神社、福神社など小社が祀られており、更に進めば大洗磯前神社の随神門へ続きます。15:20、随神門に到着。切妻銅板葺の桁行三間、梁間二間の随神門で正面や妻壁に施された透彫りは手が込んでいる。享保15年(1730)、水戸藩2代藩主徳川光国の命により建てられたもので、両の間には随神が安置されています。大洗磯前神社については日を改めて掲載します、ここでは主に社殿の掲載とします。上は社殿全景、拝殿は入母屋造で千鳥破風と唐破風向拝が付くもので、落ち着いた外観ですが、細部の意匠に拘りが見られます。本殿の屋根は、珍しい茅葺屋根で、三本の鰹木と外削ぎの置き千木が載るもの。屋根の形は与利幾神社本殿の屋根形状に酷似するものです。祭神は大己貴命・少彦名命を祀る。大洗を訪れた目的は、この本殿と大洗海岸に建てられた神磯の鳥居を見るのが最大の目的。当初あまり興味を示さなかったかみさんですが、鹿島灘から上る朝陽に照らされる神磯の鳥居に魅かれたようで計画に取り込んでくれた。そうした事から、すぐ近くの海岸沿いのホテルを選んでくれました。さあ、三ノ鳥居をくぐり、この石段を下りてホテルに向かおう。下は県道173号線沿いに聳える二ノ鳥居。大洗磯前神社祭神 / 大己貴命・少彦名命創建 / 斉衡3年(856)所在地 / 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町689015:50、県道沿いにある神磯の舞台から大洗海岸の岩場に立てられた神磯の鳥居の眺め。 夕焼けには早いが、この日は雲が多く、空が赤く染まるか微妙な天気だ。ここの代名詞は鳥居の先から上がる朝陽の光景が知られるだけに、明日の朝の天気は気になるところ。16:00、神磯の舞台から徒歩2~3分程の大洗シーサイドホテルに到着。 海側の窓から鳥居の姿もよく見られる。取り敢えず展望風呂で疲れた足を癒そう、ビールは風呂上がりまで我慢だ。この日はベッドではなく和室の部屋食、海に来てビーフシチューもないだろうが、価格を考えれば十分美味しく、妥当な値段だろう。ベッド以外では眠れないかみさん、申し訳ないが今晩は我慢してもらうしかない。明日の日の出は6:40、飲み過ぎて寝過ごしてしまう、それだけは避けたいな。大洗シーサイドホテル所在地 / 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6880-9
2026.02.12
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前回お届けした知多市南粕谷本町の貴船神社、社頭からコース沿いに東海知多線を1.4km・約20分ほど南に向かい、常滑市金山屋敷に鎮座する66番札所 中之坊寺に向かいます。東海知多線の新海東交差点をひたすら南下します。 途中、矢田川、前山川を渡り、正面に見えている小高い丘陵地に66番札所 中之坊寺は鎮座します。66番札所 中之坊寺境内全景。 納経所には長蛇の列ができており、納経印を頂くにも時間がかかりそうだ。本開催の参加者も以前に比べ減ったと聞くが、こうしてみると巡拝ブームは今も衰退してはいない。伽藍は写真の本堂と右手に庫裏が主なもので、本堂左手に村社 熊野神社(別途記載)が鎮座します。 本堂は寄棟瓦葺で、軒丸瓦などに「中」の文字が入り、正面には大きな向拝が付く。ガイドブックによれば66番札所 中之坊寺について以下のように解説されています。 『真言宗智山派 八景山 中之坊寺中之坊寺は、聖徳太子開創といわれる宮山金蓮寺一山九ヶ寺中の中之坊の一坊として開かれ、八景山 能見中之坊と称しました。 天文年間 (1532~1555)、金蓮寺院家宝珠院の秀雅法印によって開創されたと伝えられます。天正十二年(1584)、兵火に遭って金蓮寺は伽藍を焼失、一山も破却されました。 同十九年(1591)、 秀雅法印の弟子・政憲が金蓮寺の御本尊・十一面観世音菩薩を奉じて中興。その後、時代とともに荒廃したが、明治三十年、二十三世照吽法印が堂宇を整え再興。 昭和二十九年、八景山 中之坊寺と公称するようになる。寺宝に、国指定文化財の「絹本著色仏涅槃図」をはじめ、奥州(現岩手県)中尊寺の宝物だった大般若経などを所蔵する。』 ここに現れる金蓮寺とは、奈良時代初期に弘法大師が創建したとする説もあるが、いずれにせよ往時の鎮座地一帯は隆盛を極めたようだ。当寺から西の尾根沿いの城山には大野城(宮山城)が築かれ、一帯が軍事拠点となっていたようで、周辺の屋敷・東屋敷・城下・大門等の地名はその名残だろう。堂内の眺め、普段は無住と聞いていたが、こうしたイベントの際は堂の扉も開放されるようだ。法の道 守る心の中之坊 堅き石瀬や かなやまの里第十一回歩いて巡拝 知多四国 66番札所 中之坊寺宗派 / 真言宗創建 / 天文年間 (1532~1555)開創 / 秀雅法印本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市金山屋敷25参拝日 / 2026/01/17貴船神社から中之坊 / 社頭からコース沿いに東海知多線を南に向かう。1.4km・約20分ほど関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院・第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社
2026.02.11
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2026年。 今年の一ノ宮参拝の幕開けは、1月28日~30日にかけ、公共交通機関を利用し千葉県の下総国一宮 香取神宮と茨城県の常陸国一宮 鹿島神宮から始まりました。 今回は二泊三日の初日の模様を掲載します。名古屋駅を7時過ぎの のぞみに乗り、東京駅から総武線、成田線で降車駅「香取駅」に向かう。香取神社のアクセスは佐原駅が一番便利ですが、一駅先の香取駅で降車しました。 利根川右岸の田園地帯に包まれた香取町の中心に位置する香取駅。乗車券を箱に入れるだけの無人駅で、想像していた以上に長閑なところでした。11:35。駅から利根川堤防へ向かう途中で見かけた風神様(龍田神社)の脇を通り過ぎる。所在地 / 千葉県香取市津宮712そこから100mほど直進し国道356号線の三叉路を左に進みます。 幅員の狭い国道沿いは歩道が整備されておらず、大型車が来るとヒヤリとする場面もあり、あまり気持ちの良い道ではない。国道から一本北に入り、集落の中を左方向に歩いた方が怖い思いをしないかもしれない。国道沿いを、500mほど西に向かった先の酒屋のある交差点が最初の目的地「香取神宮一ノ鳥居」。 右を眺めれば、利根川堤防の先に木造鳥居の笠木と貫だけが頭を出しています。 堤防に向かう。 二段になった法面に階段が作られ、小段に与謝野晶子歌碑(左)と常夜燈が立てられています。右の常夜灯は、津宮河岸の常夜燈と呼ばれる。 香取神宮・鹿島神宮・息栖神社の三社詣りの講の人々により、往事の利根川を行き交う船の目印、航路の安全を祈願し明和6年(1769)に香取神宮に寄進されたもので、宝珠の先端までの高さは2.8mほどの燈籠です。(香取市指定文化財)。左の歌碑は明治34年に与謝野晶子が当地津宮を訪れ、投宿した宿で「かきつばた 香取の神の津の宮の 宿屋にのぼる 板の仮橋」詠んだ歌が刻まれている。堤防の天端に立つと、一ノ鳥居(浜鳥居)と利根川の穏やかな流れが広がる。 往古は鳥居が利根川の水中に建っていたとされ、現在の鳥居は平成14年に再建されたものだという。今では静かな風景が広がっているが、かつては三社詣りの参詣客を乗せた舟がここに着き、表参道として賑わっていたのだろう。 さらに時代を遡れば、香取神宮の祭神・経津主大神は、この津宮浜鳥居河岸から上陸されたと伝えられている。約800年の歴史を持ち、12年に一度行われる香取神宮の「式年神幸祭」では、経津主大神が東国を平定した様子を模し、平安時代さながらの装束をまとった氏子たちが色鮮やかな御座舟でここに乗り付け、香取神宮まで巡行するという。香取神宮へのスタートはここからが始まります。 神社までは距離にして2.6km・徒歩40分で、神社付近になると緩やかな上りが続きます。所在地 / 千葉県香取市津宮鳥居から真っすぐに続く細い道路を300mほど進むと左手に沖宮神社、右手の杜の中に忍男神社 (東の宮)が現れます。 忍男神社から右に進んだ左手に瞻男神社(西の宮)が鎮座してます。どちらもコピーしたかのような社殿で東と西の繋がりを感じさせるものです。 東の宮の祭神は伊奘諾命、西の宮の祭神は大己貴命・綿津見命を祀り、香取神宮の境外摂社になります。道路左側の沖宮神社も香取神宮の末社のひとつで、綿津見命をお祀りします。 ここが古来からの参拝道ということです。所在地 / 千葉県香取市津宮560 なかなか電車が通らないJR鹿島線・成田線の踏切から北側の東の宮、西ノ宮の杜の眺め。 踏切から50mほど先に朱色の神橋と石碑が建てられています。 かつては細い流れの根本川が神宮参拝時の禊の場であったという。橋の袂に解説があり、内容は以下。 「董橋(草履抜橋、じょん抜き橋)根本川に掛かるこの橋は、香取神宮への表参道に掛かり、例幣使の参向時には、ここで身を清めたといわれ、衛兵の見張所もあったことから「董橋」の名がつき、「津宮大橋」とも呼ばれた。 人々は、この場所で豊富な湧き水の流れに身を清め、衣と草履を履き替えて神宮に向かったことから、「草履抜橋」「じょん抜き橋」と転化されたともいわれる。」董橋から約100m先の右側に桝原稲荷神社の鳥居と神道山古墳群の解説が現れます。 正面の神道山は全体に複数の古墳があるようで、気になる鳥居の桝原稲荷神社も山頂に鎮座するようなのでここは寄らなかった。左の解説の内容は以下のようなもの、 「神道山の大半は香取神宮の所有地で、昔は、香取神宮が「香取山根本寺」を置き寺領として與え守護させたが、安政年間(1780年頃)に廃寺となった。神道山には、古墳時代5〜6世紀に構築された古墳12基があった。 現在は主墳「前方後円墳」1基、陪塚と呼ばれる円墳が6基残っており、昭和52年に市指定の遺跡となった。なお、山頂には「枡原稲荷」も祭られている。」道は神道山を回り込む様に続き、南側の県道253号線に至ります。県道を越え、しばらくすると左手の丘陵地に続く道が現れるのでそちらに向かいます。 この道の突き当りが香取神宮奥宮への入口になります。道の中ほどに忽然と鳥居が現れます。 大坂の井と呼ばれ、4m四方の泉の中に鳥居が建てられています。かつては清冽な湧き水が湧出していたと思われますが、今はその面影はないようです。大井の井所在地 / 千葉県香取市香取1590大坂の井の先に大きな樹があり、その下に道祖神が祀られています。 文字が刻まれていますが全文読み取れなかったが、昭和3年に建立されたもののようです。12:40奥宮入口に到着。 ここから境内に入ると近道ですが、食事の時間でもあり、ここから右手に下った香取神宮 参拝者第1駐車場方向に向かいます。香取神宮参詣の表玄関といえる、第1駐車場付近の眺め。 平日にもかかわらず、県道55号線付近の入口には多くの駐車待ちの車列ができていた。遅い初詣客や直近でTV取材もあり、人気の高さが伺える。 お昼はこの県道沿いにある「川口園食堂」でアジフライ定食と決めた。店は昭和の食堂の面影が漂う外観で、店内も昭和世代の自分にはとても懐かしいものがある。 肉厚で大きなアジ二枚が盛られ、今は貴重な御飯が大盛でもないのにこれだけの量盛られている。この量を見てかみさんはすぐに小盛にしてもらったが、それでも普段倍以上の量がある。 普通盛ですら、普段の倍以上の量があり、サービス精神にあふれている。この揚げたてのアジフライ定食は850円。女性は小盛を勧めます。川口園食堂所在地 / 千葉県香取市香取1353-1食後の運動はの広大な香取神宮境内を巡拝します。 その前に右手奥の香取市循環バスのバス停で佐原行の時刻だけは調べておく。平日は本数が少なく、乗り遅れると次の目的地佐原まで2.8km・約40分歩くことになる。この参道には団子やわらび餅の店が連なっており、当日は多くの店が臨時休業。 唯一開いていた亀甲堂にはTVの影響もあり長い行列ができ、さすがのかみさんもすぐに食べるのを諦めた。タイミングも悪く、観光バスが数台立ち寄ったばかりで、参道は参詣者で溢れていた。境内の香取神宮の御由緒と日本書紀に記された香取神宮の解説。『御祭神 経津主大神 大神は天照大神の御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ、国土開拓の大業を果された建国の大功神であります。故に昔から国民の崇敬非常に篤く、国家鎮護、国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として廣く仰がれて居ります。 御創祀は神武天皇十八年と傳えられ、現在の社殿は元禄十三年の造営にもとづくものです。明治以降は官幣大社に列せられ、毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使が参向される勅祭の神社であります。』「日本書紀と香取神宮」より抜粋。 『香取神宮の主祭神である 経津主大神は、天照大御神の命を受けて「出雲の国譲り」を成功させ、日本の国づくりの基礎を築いた神様とされています。経津主大神は 日本書紀には登場しますが、古事記には出てきません。 日本書紀によると、葦原中国(あしはらのなかつくに=地上世界)の平定が何度も失敗したため、高天原の神々は「次に派遣するのは経津主大神がふさわしい」と判断しました。すると、鹿島の神である 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)が「経津主大神だけが立派で、私は違うというのか」と強く抗議します。 その結果、経津主大神に武甕槌大神を“副官”としてつけ、二柱を一緒に派遣したと書かれています。一方、古事記では、鹿島の神である 建御雷神(たけみかづちのかみ) に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を従えて派遣したとされており、日本書紀とは主従関係が逆 になっています。このように、日本書紀と古事記では国譲りの描写に違いがあり、非常に興味深いポイントとなっています。』 こうした差異は、両書が編纂された目的や政治的背景の違いから生まれたもので、日本書紀の方が国家的な史書として信頼性が高いと考えられています。一方で、古事記はより古い伝承の姿を残しているため、神話の原型を知る上では欠かせない資料となっています。上は香取神宮境内マップで参道の先の総門、楼門、本殿、奥宮の社殿の他に多くの境内社が祀られています。 それら全て回ると想像以上に広く、思いがけず時間を要します。長い参道の先に現れる石鳥居と総門。 総門は切妻造の八脚門で正面のみ軒唐破風が施されたもので、大鳥居の脇に大きな一対の狛犬が建立されていますが、広い境内の境内社を含めて狛犬はあまり見かけず、後は楼門の左右の間に安置される木造狛犬くらいのものだろう。 この総門の前が手水舎で、参道は右に向かい楼門に繋がる。上は楼門、入母屋屋根の朱塗りの門で左右の間に随神が安置されており、元禄13年(1700)の造営。 下は楼門から拝殿方向の眺めで、主な社殿は5代将軍の綱吉の命により造営されたもので、本殿・楼門は国の重要文化財に指定され現在に至っている。拝殿・幣殿・神饌所は、昭和11年から昭和15年にかけて行われた昭和の大修築を受けたもので本殿と幣殿、拝殿が連なる権現造。拝殿は入母屋檜皮葺で千鳥破風と唐破風向拝が付くもので、黒漆の落ち着いた色合いに、金の飾り金具や蟇股や斗栱などに施された彩色が上品な美しさを魅せてくれる。本殿後方から社殿の眺め。 透塀の先の本殿は、檜皮葺の三間社流造で9本の鰹木と外削ぎの置き千木が載る混みあう拝殿から本殿裏側に回れば裏詣りができるので、経津主大神に心行くまで参拝できる。御神徳は家内安全や産業指導の御神徳を授かれる。上は祈祷殿。 楼門の右側に建つ入母屋銅葺屋根の建物で、正面に向拝が付くもので、肘木の細工や彩色が美しい。江戸時代に建てられた「旧拝殿」で、昭和の大修築で造営された黒漆の拝殿に対し、当時の拝殿は朱塗りの建物だったことが分かります、現在は祈祷殿として使われており、千葉県の指定文化財。下は勅使門、総門下の鳥居の右側にあります。 茅葺屋根の門で、江戸時代中期はこの先に大宮司邸があり、勅使を迎え入れるための門です。大宮司邸は現在はなく、近代建築の神道館に置き換わっています。上は祈祷殿から弓道場に向かう下り坂の右側に鎮座する璽神社・大山祇神社。 この先にはまだ佐山神社、狐坐山神社など二社ほど祀られているようです。下は授与所から奥に向かった右側に鎮座する六所神社。上は押手神社、鎮座地は要石の前にあたり、社の前に一対の狛狐と祭壇には小さな狐が置かれています。 下が要石。映画でも取り上げられたもので、地震を引き起こす鯰(映画ではミミズ)をこの石が封じ込んでおり、これが外れると鯰が蠢き地震を引き起こす。要石から先に進むと広い空間が現れます、そこに鎮座するのは香取護國神社。 当地出身の4213柱の英霊が祀られています。上は匝瑳神社、本殿左後方に鎮座し香取大神の親神を祀る。 下は諏訪神社、楼門前の古神札納所の脇に鎮座します。境内社はこの他に多数ありますが、今回の掲載ではここまでします。奥宮は境内の西側に鎮座し、祭神の経津主大神の荒魂を祀り、社殿は伊勢神宮遷宮時の古材を使用して作られています。 さて、バスの時間も迫ってきたので、奥宮参拝を済ませバス停に向かおう。バス停へは奥宮社頭の右側の奥宮道を下って行けば表参道の朱の鳥居前に出られます。下総国一宮 香取神宮祭神 / 経津主大神創建 / 神武天皇十八年(BC643)所在地 / 千葉県香取市香取169715:25佐原行きのバスに乗り、香取神宮を後にして佐原の忠敬橋を目指す。15:40佐原に到着、バス停近くの「さわら十三里屋」に寄るも、かみさんが食べたかったものは売り切れで、やむなく小野川沿いの町並みを散策する。 上は伊能忠敬の生家と樋橋。下は共栄橋から中橋方向の街並みの眺め。この時期は柳の葉も落ち、水の透明度も良くないのかイメージとは少しかけ離れていた。 食べ歩きの目標もなくなり、少し早いが初日の宿に向かう。ホテルルートイン香取佐原駅前 佐原駅のすぐ隣に位置するので、電車で移動するには好立地。ただ、周辺にコンビニがないので、持ち込み品は早めに途中のコンビニで買っておく必要がある。 値段の割には大浴場もあり、部屋やベットも広く快適な宿でした。所在地 / 千葉県香取市イ92-6夕食は駅前の魚八十食堂へ。 こちらも昭和の風情漂う食堂で、値段の割に美味しいお店。二人でビール二杯と地酒を頼み、学生時代が懐かしいハムカツや家庭の味を思い出す唐揚げの他、刺し盛だのサツマイモサラダや甘辛ごぼうなど食べても4000円でお釣りがきた。 下手な居酒屋より安く地元に根付いた食堂です。魚八十食堂所在地 / 千葉県香取市イ81この後、山崎屋酒店で店主のお勧めの地酒を買い求めホテルに帰り二次会。 この酒屋は、種類も豊富で、店主の説明や対応も心地よく、買ってよかったと思わせる店だった。山崎屋酒店所在地 / 千葉県香取市佐原
2026.02.10
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与党の安定多数が報じられ、人気投票の様相を呈した今回の選挙。 自民党の安定多数だけは容認できない自分として、意思表示の票は投じてきた。姑息な議員に業界と肩を寄せ合いウハウハの議員、そんな連中の当選会見などは見る気すらない。 これでまた、一党による傲慢政治の悪夢が始まるのかと思うと、学びがないなぁと思うしかない。どこかその情報の入らない局はないもんだか。
2026.02.08
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前回お届けしためがね大師が鎮座する大智院。 山門からコース沿いに南に数分、大智院の西隣に今回掲載する貴船神社が鎮座します。貴船神社社頭全景。 社頭は左に由緒書き、右に「貴船神社」の社標が立てられています。正面の明神鳥居から南北に長い社地の奥に向け参道が伸びています。社頭の由緒書き。 『貴船神社鎮座地 知立市南粕谷本町1-120番地 御祭神 高龗神、大己貴神境内末社 正面左側 神明社(天照皇大神) 、正面右側 津島社(素盛鳴命) 境外末社 村上社(南粕谷本町二丁目)、社宮社(南粕谷東坂一丁目)、山神社(南粕谷本町三丁目)、山神社(南粕谷東坂一丁目)例祭日 大祭 四月第一日曜日、元旦祭 一月一日、春祭 二月吉日、秋祭 十一月吉日 由緒 当神社は京都左京区鞍馬貴船町にある旧官幣中社の貴船神社を本社に持つといわれている。 創建年代は不祥であるが、寛文十一年(1671)御改造の棟札がある。古来雨乞いの神、災害除去の神として崇敬される。 明治五年村社に列格、同、四十年後定社となる。水を司り給う高龗神を祀り、大己貴神を御祭神に仰ぐ貴船神社は貴船信仰とともにある。』 当社は愛知県神社庁に登録があり、愛知県神社名鑑(1992) に掲載されており、社頭の解説と同じ内容ですが、「昭和41年に本殿・拝殿が造営」とありました。参道中ほどから眺める社殿の眺め。 左に見える建物は社務所にあたり、その先に拝殿が見えてきます。境内は一対の狛犬が守護しており、手水舎は右手にあります。狛犬は子連れ、毬持ちのもので、寄進年は見ていませんが、大陸製の大量生産された物ではなさそうです。拝殿は切妻瓦葺の平入拝殿で軒に向かって、一間ほどの向拝が設けられたもの。 人目を引く派手な意匠や光り輝く飾り金具など見られないが、木造らしい木目と色合いが田畑が残る周囲の景観に馴染んでいる。また、この時期の境内は落葉に埋もれてしまう光景が多いが、綺麗に手入れされ地域の人々から崇敬されているのが伝わってきます。向拝の鬼板や瓦には貴の文字が入れられています。 懸魚の奥に掛けられている額は「貴船神社」とある。拝殿後方の本殿域。 岩を組み、一段高くされた本殿域に三つの社が祀られています。中央の流造の社に闇龗神、大己貴神が祀られています。 水源の乏しい知多半島には多くの灌漑目的の溜池があります、それとて天気次第で枯渇すれば、農民にとっては死活問題、最後はやはり神にすがるしかない。今では木曽川の水が半島先端の美浜調整池まで導かれ、師崎の沖に浮かぶ日間賀島や佐久島に導かれて愛知用水そのものが神と云っても過言ではない。 愛知用水ですら、水源の降水量により節水制限が実施される。やはり今も天に祈ることにかわりはない。 幸いにも生贄の儀式はないが、こうしたことは古来水事情の悪い地域では普通に行われていた。本殿左右の境内社については由緒にあるように、本殿左側が神明社で右側が津島社である。拝殿前から社頭の眺め。 鳥居の先には矢田川が流れ、その周辺には今も多くの田畑が広がっています。第十一回歩いて巡拝 知多四国 貴船神社祭神 / 闇龗神、大己貴神創建 / 不明(寛文十一年の棟札が残る)境内社 / 神明社、津島社境外社 / 村上社、社宮社、山神社、山神社祭礼 / 4月第1日曜日氏子域 / 知多市南粕谷本町、南粕谷、南粕谷新海、南粕谷東坂、南粕谷本町所在地 / 知多市南粕谷本町1-120参拝日 / 2026/01/17大智院から貴船神社 / 南に向かい一筋目を右に向かう、0.2km、徒歩約3分関連記事・第十一回歩いて巡拝 知多四国 七十一番札所 金照山 清水寺 大智院
2026.02.07
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2026年最初の“歩いて巡拝・知多四国”に参加してきました。 1月17日(土)の本開催当日の天候は晴れ、年末からまったく歩いておらず体は鈍りきっている。上が本開催のコースマップ。 スタートは名鉄常滑線新舞子駅。駅前から東に向かい➡71番札所大智院➡66番札所中之坊寺➡70番札所地蔵寺➡69番札所慈光寺➡68番札所宝蔵寺➡67番札所三光院➡名鉄常滑線大野町駅をゴールとするもので、全長8.5km+α、六つの札所を巡拝するもの。いきなりの8km超えと知り、正直なところ足取りも気分も重かった。 とはいえ、これまで巡拝しただけに、投げ出すわけにはいかない。コンプリートを目標に、2026年の知多四国巡拝はスタートした。駅をスタートして約35分。春を思わせる陽射しの下、菜の花に彩られた道の先に、最初の札所・71番札所大智院と大楠の姿が見えてくる。大智院の西側に聳える大楠。 知多市の保存樹に指定され、伝承を伝える解説はあるものの、樹高を示す資料は見つからなかった。目測では20mを越えているように思われる。どれほどの風雪に耐えてきたのか想像もつかないが、主幹と思われる樹洞のある幹の根元からは幾重にも枝が伸び、地面に寄り掛かりながらも空へ向かって枝葉を広げているものもある。今も成長を続け、うねるように伸びる老木の生命力に神性を感じたのだろう。 樹洞の傍らには小さな社が祀られている。八百比丘尼の生まれには諸説あるが、一説では白雉5年(654)、福井県小浜で生を受けたとされる。 古代に人魚の肉を食べて800年生きたという不老不死の伝説を持つ尼僧で、各地にその足跡が残る。生誕地の福井にも近いことから、当地を訪れた八百比丘尼、あるいはその伝承を知る比丘尼によって植えられたのが、この大智院の大楠なのかもしれない。 伝承に従えば、この大楠の樹齢は1400年近くになる。山門は切妻造・瓦葺の薬医門。 大智院 略縁起(HPより) 金照山清水寺大智院は、聖徳太子の開基で、本尊「聖観世音菩薩」、前立「馬頭観世音菩薩」を安置する名刹です。 文明二年、寺内の興隆をはかり、次いで明応七年紹長和尚の時に、大野・宮前城主の佐治伊賀守為永公の祈願所となりました。当初は「楊柳山」と号していましたが、天正年間の戦乱にも兵火のかかることを免れたことから、元禄五年に「金照山」と改め現在に至っています。 当院の「身代大師」とは、弘法大師が知多巡錫のとき、大智院にて、「我を帰依する者、一切の罪を消滅し、諸の有情を安楽しらしめ、 業病難病を解脱す、福力常具足し、穀麦財宝ことごとく皆の意の如く得せしめ、悪業煩悩の心を開眼せしむべし」として、自らの尊像を残されたもの。安政年間、盲目の老翁が身代大師に一心におすがりしたところ目が見えるようになり、大師に自分の眼鏡を残したことから「めがね弘法」と呼ばれています。山門に掲げられている山号額は元禄五年(1692)当時のものです。2026年最初の本開催、最初の札所ということで境内は賑わっています。 正面の寄棟瓦葺の建物が本堂でお目当ての「めがね弘法」はこちらに安置されています。堂内に安置されている「めがね弘法」。 安政7年(1860)3月21日、伊予(愛媛)から訪れた盲目の国浅吉翁は、こちらの身代大師に祈願したところ、 盲目が治ったという。その代わり大師像の左目には傷が残り、翁は墨で黒く塗られた自分のめがねを大師像にかけていったとされ、以来その翁が残した黒い眼鏡をかけられています。本堂左から裏に回ると大きな慈母観音像があったが、作者や年代は不明。本堂左手の境内。 中央の入母屋造の建物が観音堂で、堂の前には今年の干支の狛馬が安置されており、脚光を浴びている。堂内には地蔵菩薩、馬頭観世音菩薩、随求明王が安置されています。堂内の格子天井には写真のように絵が描かれています。観音堂の右手には毘沙門天、大聖歓喜天など安置する堂がある。堂内中央の毘沙門天と左に大聖歓喜天、右に薬師如来?が祀られています。よのひとの あおぐもたかきたいちいん ふこうくどくのほとけいませば第十一回歩いて巡拝 知多四国 71番札所 金照山 清水寺 大智院宗派 / 真言宗創建 / 不明開基 / 聖徳太子本尊 / 聖観世音菩薩札所 / 知多四国第71番、尾張三十三観音第10番、東海三十六不動尊第22番、知多西国三十三所第18番所在地 / 知多市南粕谷本町1-196参拝日 / 2026/01/17新舞子から大智院 / 東に向かい東海知多線を南下、2.6km、徒歩約40分
2026.02.06
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新年最初の神社巡りは地下鉄上前津から鶴舞公園まで歩いてきました。 今回の不明社を訪ねてこの日の予定は終了となります。上の地図が不明社の現在地になります。鎮座地は七本松神社から東へ100m先の千代田三丁目になります。Gマップで小社と表示されており最後に立ち寄ることにしました。 右手の三角の空き地がマーカーの場所になります。ご覧のようにそこは既に整地され社の存在はありません。 情報が修正されていなかったのねと諦め、そのまま50mほど東に進んだ駐車場の右奥に今回掲載する不明社は鎮座します。大きな平面駐車場の片隅にその神社は祀られています。Gマップにあった社とは明らかに造りが違うことから、別のものと思われます。 このことからもGマップにあった社は既に廃社となったのでしょう。この社が町内或いは個人で祀られたものか、祭神など詳細は全く掴めません。 ただひとつ言えるのは、今も定期的に榊が供えられ、この社の神さまが崇敬されていることです。消えてしまう社もあれば、駐車場の片隅で崇敬され続ける社もある。 変貌を続ける街中の神社事情を象徴しているように思える。不明社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・所在地 / 名古屋市中区千代田3-14七本松神社から不明社 / 社頭から東に向かい、150m先の平面駐車場内。2026年最初の徘徊は、地下鉄上前津駅から鶴舞公園駅までの大須通沿線4.3kmを歩くもので、初歩きには丁度いい距離でした。参拝日 / 2026/01/09関連記事・北野神社・白山神社・山神社・中区上前津 地上に降りた屋根神さま・大池白龍大神・氏神社・七本松神社
2026.02.05
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大池白龍大神・氏神社を後にして千代田3丁目の七本松神社に向かいます。 神社までは約350m、徒歩5分程、七本松公園の東隣りの老松学区集会所脇に鎮座します。明治時代の地図と現在の地図を見比べ、鎮座地の移り変わりを確認します。 鎮座地は常盤七本松集落の中央に位置しており、東の飯田街道へ繋がる道が横切っています。当時の地図には鳥居の印はみられず、赤丸で囲った現在の大須通に鳥居の印が見られます。 確証はないが七本松神社の旧鎮座地と推測してもいいのかもしれない。集落の西を流れる精進川は、熱田神宮の南側の裁断橋を経て海に流れ、往古は熱田神宮の禊の場とされた。 蛇行を繰り返す川は、江戸時代から氾濫の要因となり対策が検討されていました。明治に入り新堀川の完成とともに精進川は埋め立てられ姿を消します、この掘削により出た土砂は鶴舞公園の造成にも用いられたという。 常盤七本松という地名は、この精進川沿いの当地に七本の松があったことが由来とされ、江戸時代はこの松に願をかけると願いが叶うとされ訪れる人も多かったとされる。かつては、正面の神前津集落と上街道を結んだ古い道筋に鎮座する七本松神社全景。 かつての七本の大きな松は既になく、七本松の地名も昭和44年には千代田に編入され今はもうない。社頭は大正14年(1925)に建立された石の神明鳥居と右側に七本松神社の社標が立てられている。 本殿の前には一対の常夜灯と狛犬が安置されており、すぐ目の前に神明造の本殿が祀られています。年代不明の狛犬は黒ずみや補修の跡が見られ、これらは何を語っているのだろう。本殿には6本の鰹木と内削ぎの千木が載る。 当神社は愛知県神社庁に属さないようで、一覧には名がなく、祭神や創建時期は不詳。地史に目は通していないが、それらから分かるかもしれない。境内から鳥居の柱と名木二代目七本松と刻まれた社標の眺め。 願いが叶う七本松は、江戸時代にはすでに一部しか残っていなかったとされ、長い時間と戦争を経て、残るのはこの石標と公園や七本松通として名残が残るくらいだろうか。七本松神社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・所在地 / 名古屋市中区千代田3-14七本松神社から不明社 / 東に向かい二つ目の交差点を右折・直進、二つ目の交差点を右折25m先の右。距離約350m・徒歩約5分。参拝日 / 2026/01/09 関連記事・北野神社・白山神社・山神社・中区上前津 地上に降りた屋根神さま・大池白龍大神・氏神社過去記事・『姥堂』名古屋市熱田区
2026.02.02
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大池白龍大神・氏神社。屋根神が鎮座するどんぐり広場から東に向かいます。新堀川に架かる宇津木橋を渡り、二つ目交差点を左折、250m直進した右側の中区千代田3のビルの南側に神社が鎮座します。大池白龍大神・氏神社社頭全景。 大須通の南側に位置し、東西に細長い社地が与えられ、北側と西側にビルが聳えており、奥は三方を建物で囲われています。窮屈そうな立地にありますが、南側が駐車場なので見た目ほど圧迫感は受けない。明治時代の地図と現在の地図を見比べ、大池白龍大神・氏神社の鎮座地の移り変わりを確認します。鎮座地は元禄時代、周辺田畑への灌漑目的のため、前津小林村の住民により造られた灌漑用溜池 大池(麹が池)があった場所で、池の直径は約170㍍ほどと、実に大きな池がこの地にありました。湛えた水は周辺の田畑を潤し、船遊びや水遊びの場となり、堤に植えられた桜の名所として賑わったという明治42年には大池町として名を残したが、大池は地域の変貌と共に役割を終え、明治44年(1911)埋め立てられたのが現在の当地です。大池町はその後も残り、昭和52年に現在の中区千代田3に編入と共に大池の名も消え去り、社名の大池がかつての当地を語るのみです。当神社は愛知県神社庁に登録はなく、創建時期や祭神など詳細は不明で、立地と社名から推測するしかなさそうです。社頭から境内の眺め。 提灯櫓の先の石造の神明鳥居は、昭和30年(1955)に「大池町三四丁目町会」が建立したもので、手前の幟立てにも「大池町三四丁目町会」と刻まれています。社標は見当たらなかった。境内に入ると右側に澄んだ手水を湛えた手水鉢があり、大きな龍が迎えてくれます。綺麗に岩が組まれた境内の全景。 細長い社地には手前の観音堂の他に二つの社が祀られています。堂内に祀られているのは馬頭観音。年代が刻まれていないため、見た目から推測すると、大正から昭和時代のものだろうか。 地図から見ると飯田街道へ繋がる大池の傍らに位置する為、それらの荷役の安全を見守るために安置されたのだろう。 右には白龍社が祀られています。 水を司るだけに、大池(麹が池)掘削当時の村人が田畑を潤す鎮守神として祀ったものかもしれない。綺麗に手入れされた境内奥の一社の眺め。 社の前には、見た目に比較的新しい小さな狛犬が安置されています。その前の社は「氏神社」とあります。 掘削にあたった前津小林集落の豊穣と繁栄を祈願して祀られたものと推測します。ここに祀られている神がどなたかは外見から判別できません。 この神社の祭祀を兼務するのが春日神社(中区大須3)とあるので、そちらに尋ねるともう少し現実的な話が聞けるのかもしれませんね。境内から社頭の眺め。大池白龍大神・氏神社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・所在地 / 名古屋市中区千代田3-4屋根神から大池白龍大神・氏神社 / どんぐり広場から東に向かい新堀川に架かる宇津木橋を渡り、二つ目交差点を左折、250m直進した右側。距離1.1km・徒歩15分参拝日 / 2026/01/09関連記事・北野神社・白山神社・山神社・中区上前津 地上に降りた屋根神さま
2026.02.01
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