道の駅・宿 0
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2022/7/23かみさんの体調も回復し、予定していた春日井市民納涼まつり花火大会を見物。二人で花火見物なんて何十年ぶりだか。打ち上げ場所は春日井市の落合公園。この日ばかりは車で市内に踏み込めばどこも渋滞、近づきたくはない。混まなくて花火が見える場所はないかと守山SAとか検討したが、選んだ場所はJR神領駅の北側の内津川左岸堤防。駅から5分も歩けば堤防に到着、近くにコンビニもあり申し分なし。最初は我が家だけだったったが打ち上げ開始の7:30近くには近隣の方が続々見物に。空気を震わせて打ち上がり夜空を彩る花火、二人だけで眺めるのは……記憶がない。体調が悪ければ中止と云っていたが、余程見たかったのだろう。見事に体調も良くなり、こうして二人で見ることが出来た。難を言えばもう少し高度が欲しいところだが、それだけで満足だ。この日だけかもしれないが、内津川の堤はおやじの気持ち同様に心地よい風が通り抜け、蚊の心配もなく快適に眺めることが出来た。帰りの電車も混みあう事もなくガラガラ、夕涼みがてらの花火見物にはなかなかいい場所だった。
2022.07.24
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以前掲載の七社神社から知多四国霊場六十一番札所御嶽山高讃寺までは5~6分程の所要時間。東を走る国道247号線西阿野交差点を渡った左側に鎮座しています。訪れたのは2021/11/20、紅葉には早く、夏の様な日差しが降り注ぎ歩いていても喉が渇く陽気。境内入口に数台分の駐車スペースもあるようです。右に「御嶽山高讃寺」の寺号標、左に六十一番札所の石柱があり、そこから僅かばかりの石段を上れば長い参道が続く。参道は竹林と落葉樹が両脇を覆い木陰に包まれ、長い参道の中ほどに瓦葺の仁王門がある。高讃寺の創建は古く、684年(白鳳12)天武天皇の勅願寺として行基により創建されたと伝わり、最盛期には七堂伽藍、300坊を越え、知多三山の一つに数えられという。戦国時代には織田信秀と今川義元の兵火で伽藍の大半を焼失、その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火による焼失を経て、現在の姿となります。仁王門の仁王像は度重なる兵火による焼失を避けるため、ため池に沈められたと云う。後に池から引き上げられ安置されたものがこの仁王像。門脇にこの仁王像の解説とこの像に伝わる昔話が紹介されている。「昔、樽水本宮山の前方下の御嶽の池の中から引き揚げられた仁王様。大勢の村人が話し合い樽水洞雲寺へ運ぼうと綱を引いたり、後ろから押すなどした。しかしどうしても動かず弱り果て、高讃寺の仁王様だ、高讃寺へ運ぶ事で話が纏まり、「それ引け」と引いたところ、それまでビクともしなかった仁王様は足でも生えたように軽く動き、無事高讃寺に安置でき目出たし〃。注・戦国の天文6年(1537)織田、今川両氏の戦火を逃れ三岳の池の中へ、幾数年後の江戸初期寛文年間現在地へ「池の中から出て来た仁王様」が眼前の此の仁王様」池から出て来た力士像二躯は県の文化財に指定され、鎌倉時代のものとされる。昭和、平成と解体修理を受け、その際に体内から寛文と記された墨書きが見つかり、記された前回修理年などから鎌倉時代の作と推定されるようです、作者や正確な作成年度は不詳。全高は3㍍程で知多半島の木造彫刻物では最大だそうだ。暑い日には寺叢が作り出す木陰が心地よい、今頃は葉も落ちて空が良く見通せるかもしれない。参道脇に複数の堂があり、正面に観音堂が見えてくる。参道左には三つの堂と地蔵郡がある。中ほどの堂に安置された石仏は馬頭観音だろうか。下に邪鬼らしい姿が彫られているような、ひょっとして青面金剛かもしれない。さらに右のやや大きな堂の内部には千躰?仏が安置されていた。参道右の堂には弘法大師の像が安置されているようで、堂に掲げられた額は願王・・・色褪せて読めない。手水舎と「御嶽山 高讃寺」の縁起。宗旨 天台宗総本山 比叡山延暦寺開創 白鳳十二年(684)天武天皇勅願寺として行基菩薩が現在地より北東1㌔、三岳の地に天竺伝来の高木で本尊の聖観世音菩薩他を彫刻安置したのが始まり。三百の堂宇を有する七堂伽藍を完備した巨刹だった。天文六年、文禄年間、江戸中期、明治と焼失。県文化財の寺宝は平安時代の木造聖観世音菩薩、同木造阿弥陀如来像、鎌倉時代の木造仁王像など多数。手水舎から目の前の石段を上れば観音堂は目の前。右側が本堂と寺務所(納経所)境内周辺はもみじが多く見られ、本格的な紅葉シーズンには赤く染まるのだろう、住職の話では「今年の紅葉は今一つ」と云われていたが、一面赤く染まった境内に佇む石仏の姿も見られるのかもしれない。寺務所から見た本堂、観音堂。鬱蒼とした寺叢が建物を覆わんばかり。観音堂。向拝の付く寄棟瓦葺で周囲に高縁が付く。外陣には多くの奉納額が掲げられ、その多くは冨士登山のもの、奉納年も様々で明治、大正、昭和のものや、色褪せて文字の読み取れないものなど残り、古くから冨士講が根付いていたようです。格子天井には白い顔料だけで絵が描かれていますが、一部の花を除き識別できない。圓通寺でも同様の絵が描かれていたのを思い出すが、何を表したものか読み取れない。内陣左には金色の飾り金具が施された社に弘法大師。中央に観世音菩薩。堂内右、ピンボケではっきりしないけれど千手観音らしき姿も見える。はりあげて ほとけのくどく こうさんじ あのよにまでも ひびきわたらめ知多四国八十八箇所霊場六十一番札所天台宗 御嶽山 高讃寺創建 / 684年(白鳳12)開山 / 天武天皇開基 / 行基本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 常滑市西阿野字阿野峪71-1七社神社から御嶽山高讃寺徒歩ルート / 東へ徒歩5分程関連記事 / 「七社神社」常滑市西阿野半月 、知多四国八十八箇所霊場「六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所」さて次はここから北に約3㌔先の六十三番札所 補陀洛山 大善院を目指す。陽気が良すぎて水が飲みたい、出がけに自分の水を持ってくるのを忘れていた。すぐにコンビニか自販機くらいあるだろうと目の前のコンビニをスルーしたのが失敗だった、奥条7の交差点までの国道沿いに・・・ない。
2022.01.06
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白兎川下神社のある「道の駅神話の里白うさぎ」から西へ、東郷池東岸に鎮座する伯耆国一ノ宮「倭文神社」までは移動時間は40分程。やがて県道右手に大きな池「東郷池」が見えてきます。「倭文神社」も随分と近づき、東郷池の地岸沿いを走っていて見つけたのが「宮戸弁天」予定外ですが県道沿いの池畔に佇む小さな神社の姿に魅かれ立ち寄り参拝する事にした。県道沿いにパーキングがあったことも立ち寄った理由の一つ、駐車余地がなければ恐らく立ち寄る事はなかっただろう。杉の杜に包まれ、大岩が幾つも積まれた小さな神域。宮戸弁天と呼ばれ、宮内の七弁天の一つが祀られています。弁天様は御存知のように七福神唯一の女神、財福や知恵、長寿を授けて頂ける事で良く知られます。そこには解説板が建ち、その内容によればこれから向かう倭文神社と所縁があるようだ。「宮戸弁天」「古来より伯耆(ほうき)一ノ宮の七弁天として付近7カ所に弁天さまが祀られていた。宮戸弁天はその一つ、祠が残るのは宮戸弁天だけである。もとは小島で倭文神社の祭神下照姫が魚釣りをしていた場所。下照姫の使いの白蛇がここから龍湯島までの間を往復した伝説もある。今は埋め立てられ陸続きとなっている」とある、倭文神社参拝に向け、これは何かの導きなのかもしれない。宮戸弁天は地元では古来から「一ノ宮の弁財天」と称され、祭神は七福神の一人弁才天。いろいろ調べて見ましたが「東郷町史」に上記解説内容が記されていました。しかし付近の7ヶ所とはどこなのか、いつから祀られていたのか等の詳細は分かりません。ただ、唯一残ったのが「宮戸弁天」のみという事です。町史によればかつては倭文神社境内にも小さな池があり、そこにも弁天が祀られていたとあります。それは境内整備に伴い池を埋めたので廃絶したとありました。唯一の弁天様という事でしょうか。何れにしても池畔を背景にし、磐座のような岩の上に佇む社の姿は琵琶湖東岸の「藤ヶ崎龍神」に通じる神秘的な雰囲気が漂います。解説にもあったように「宮戸弁天」は以前は島だったようです。現在は県道側から陸続きで容易に参拝が可能になっています。社頭は杜で隠れてわかり辛いかもしれませんが、解説板から左に進むと石の明神鳥居が建っています。鳥居は池側に向かって建っていて、池畔には船着き場の痕跡が残っています。島だった頃はここから上陸し参拝したのでしょう。鳥居から先に複数の岩が組まれ、その上に社が祀られています。その神域を包み込む様に杜が取り囲んでいます。宮戸弁天本殿。燈籠とか寄進年度を見れば良かったが忘れていました。本殿域を包み込む杜。本殿側面。流造で千木は外削ぎで鰹木は4本、弁天様は確か琵琶を持った七福神唯一の女神です。千木や鰹木で男神・女神の識別はやはり無理があるようです。小さな社ですが木鼻、虹梁などにはしっかり彫が飾りが施されています。池畔沿いに少し離れて見る宮戸弁天。島だった頃、美しいと伝わる下照姫が、朝もやに包まれた水面にその姿を落とし釣りに興じる姿は幻想的だったろう。東郷池に佇む宮戸弁天の姿も下照姫の姿に通じるものがある。湖面に向いて立つ鳥居の先には倭文神社の鎮座する御冠山も間近に見えている。これから向かう倭文神社のお使いは「蛇」とされます。町史によれば境内には蛇が多く、過去に倒壊した御神木の中は空洞で、蛇の巣となっていたそうだ。倭文神社の祭神が下照姫命をはじめ、出雲系の神が多いことに由来する様で、東郷池には下照姫命のお使いといわれる白蛇がいて、弁天岩付近から対岸を往復していたという民話も残るそうだ。この光景に水面を渡る白蛇、その姿はあまりいただけない光景かも知れないが、下照姫の隣で日がな糸を垂れるのは釣果が無くてもありかも知れない。2021/10/25宮戸弁天創建 / 不明祭神 / 弁財天所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内白兎神社から車ルート / 国道9号線を西へ、「新川浜入口」で左折県道320号線「湯梨浜町役場入口」を左折県道185号線➡県道234号線経由40分程関連記事 / 鳥取白兎海岸「恋島・白兎川下神社・淤岐之島」・ 藤ヶ崎龍神御冠山を目指し車を進める事にしよう。
2021.12.26
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海蔵寺参拝者駐車場の西側の道路を左に1~2分程歩く、住宅地の中、前方右側に広い空間が現れます。若宮神社の社地で、道路から振り返れば海蔵寺本堂の大棟が見えるくらいの距離感にあります。知多四国を歩いていたからこそ出会えた神社です。住所は半田市乙川若宮町、町名からして若宮神社の名を冠している。面白いのが周辺の住宅街と神社神域の境界となる玉垣が社地を囲っていない。若宮神社境内全景。横長の切妻平入拝殿に千鳥破風と唐破風が付きその後方に覆殿らしき建物の伽藍。境内左に境内社が二社祀られていました。社頭から境内全景。車道に面した社地はどこからでも境内に立ち入る事ができます。訪れたのが9月も終わろうとしているのに、まだまだ半袖で十分な陽気でした。深い杜がある訳でもないので境内は明るく、風の通りがとても良かったのが印象に残っています。広い社地の南側に常夜灯と鳥居が建ち、左には手水舎があるが社標はここには見られなかった。結界となる玉垣がないだけでこの神社が妙に身近な存在に感じられる。境内には由緒書きらしきものが見当たらなかったので手水鉢を診て見る。そこには弘化?5年戊申(1848)と彫られていた。読みにくいけれど元号の下に化が付いて五年の戊申というと弘化で間違いないだろう。綺麗な社殿の外観から想像できないくらい、古くからこの地で何世代にもわたり氏子達を見守ってきた神社のようです。上は1890年(明治23)頃の神社周辺、海蔵寺の直ぐとなりといっても過言ではない。田畑に囲まれた乙川村集落の北外れに鳥居は記されている。境内の燈籠や狛犬など目を通してみたが、鉢が一番古い寄進のようだった。どこまで遡れるのか地史など調べて見ましたが明確な記述は見つけられなかった。拝殿全景。コンクリート造りですがとても安定感のある外観で、破風がアクセントになり、いい姿をしている。拝殿前を狛犬が守護する。肉付きも良く、これ以上開きませんとばかり目を見開き眼光は鋭い。若宮神社で印象に残るのが拝殿の破風かもしれない。参拝を済ませ拝殿から本殿方向を眺める。拝殿から先は覆殿となっているようで、そこには石垣で一段高く積まれた台座の上に本殿が祀られていました。画像が不明瞭で本殿が良く分からないけれど、茅葺か檜皮葺の流造の様に見えます祭神は仁徳天皇(大雀命)創建等の詳細は不明。境内左に二社の境内社。左の社は秋葉神社。右の社が熱田神社。境内西側の杜が作る数少ない木陰の下に整然と祀られていた。どこからでも境内に出入りできる社地、少し調べて見ると…亀崎には山車がありました、この一帯にも山車が受け継がれているようで、3月の春の祭礼では浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛が、若宮神社とここから南に鎮座する乙川八幡社を二日間にわたり巡行されるそうです。山車の巡行のために玉垣で囲っていないのかも知れません。知多四国を巡りながら「チョットだけ」と寄り道するもんだから時間の過ぎるのが早い。かみさんの目が「次の札所いくよ」と訴えている。とてもお待たせしました、先に進もう。若宮神社の社頭から西の通りに出ると、社標はここにあった。2021/9/24若宮神社創建 / 不明祭神 / 仁徳天皇(大雀命)境内社 / 秋葉神社、熱田神社所在地 / 半田市乙川若宮町38関連記事 / 「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」知多新四国八十八箇所霊場番外海蔵寺駐車場からの徒歩ルート / 西に1~2分公共交通機関アクセス / JR武豊線「乙川」降車北に徒歩15分程
2021.12.03
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「羽黒新田の観音堂」 から羽黒八幡宮(八幡林古戦場跡)を目指し稲置街道を歩いて北上。五条川沿いの「尾北自然歩道」を遡りそこから羽黒小学校東側を南下すると左に杜が見えてきます。稲置街道から東に曲がりそびれ、五条川まで来てしまい遠回りしたけれど、なんとか目的地の「羽黒八幡宮」到着。羽黒小学校東側の通りから見る杜、この杜の東は名鉄小牧線が南北に伸びています。神社の入り口は通りに拝殿に繋がる脇参道がありますが、もう少し南側から左に入ると常夜灯のある参道が現れます。鳥居を構えるわけでもなく、参道の南側は住宅地が有りそこで遮断されています。以前は更に南に参道は伸びていた様子。常夜灯から境内の眺め正面に蕃塀があり、拝殿、本殿、拝殿右側に石の鳥居が見て取れる。蕃塀の先の左に手水鉢。拝殿全景。切妻の瓦葺で四方吹き抜けの拝殿です。本殿全景。7本の鰹木と外削ぎの千木の本殿、本殿域は鉄の柵と鉄の鳥居で囲われている。祭神は品陀和気命(応神天皇)創建はよく分からない、現在は羽黒八幡宮と呼ばれるようですが、以前は羽黒成海神社と称し鳥鳴海神を祭祀していたようで、経緯の詳細もよく分からなかった。市の情報では現在は羽黒八幡宮、祭神は応神天皇とある。拝殿右の石鳥居は忠魂社のもの。今日の平和への感謝を伝える場。きな臭い状況なってきた今、平和が当たり前で緊張感や危機意識があまり感じられない昨今をどう感じているだろうか。拝殿左から神社後方の全景。杜は杉を主として広葉樹の混じる。「羽黒八幡宮」の辺り一帯は1584年(天正12)、北から攻める豊臣秀吉と南から受けて立つ徳川家康・織田信雄が一戦を交えた八幡林古戦場跡。この戦いは小牧・長久手の合戦の前哨戦ともいえ、秀吉側の森長可と家康側の酒井忠次らの刃を交え、負け戦となった長可を逃がすため犠牲となった野呂助左衛門の供養塔「野呂塚」が残る。杜の北外れに掲げられている古戦場の解説板。野呂塚はここから名鉄小牧線歩行者用踏切を渡ると慰霊碑が建てらられています。羽黒八幡宮から来た道を戻り、五条川を渡り羽黒駅方向へ街並みに一際目を引く古い建物があり足を止める。1907年頃の旧加茂郡銀行羽黒支店で現在の県道27号線沿いに建っていたものをここに復元移築されたもの。当時の日本の様式に西洋の香りを織り交ぜた「擬洋風」と呼ばれる様式。洋の香りを漂わせながら唐破風が施された姿はどことなく銭湯をイメージさせる。名古屋では随分解体され姿が少なくなってしまった佇まいですが、時を経て逆に斬新にも思える。何でもそうかもしれないけれど流行は巡っている。古いものは煙たがられ取り壊し、新しいものに姿を変える、日本でよくある流れだ。こうして残したマインドに救いを感じる。上旧加茂郡銀行羽黒支店復元施設前の解説板。支店は東濃銀行、大垣共立銀行羽黒支店を経て1930年に廃止。その後個人住宅として購入され「愛北病院羽黒診療所」として利用されるが解体の必要性が迫っていたのを機に犬山市の羽黒まちづくり拠点施設としてここに移築・復元された施設。2013年有形文化財に登録された。現在は「小弓の庄」として羽黒地域の街づくりの拠点として利用されています。漆喰の白い外観は洋、唐破風の飾りなどは和そのものです。下羽黒周辺の案内図。小弓の庄から目と鼻の先の羽黒駅へ駅前の某コンビニの裏手で見かけた小社。かみさんは足を止める事無く快調に歩いて行く、置いて行かれるぞ。ここは詳細不明です。「羽黒八幡宮」創建 / 不明祭神 / 応神天皇所在地 / 犬山市羽黒八幡東3 公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「羽黒」降車し南へ、五条川を越え工程10分程羽黒観音堂➡羽黒八幡宮徒歩ルート / 稲置街道を北上徒歩約10分小弓の庄所在地 / 犬山市羽黒古市場5小社所在地 / 犬山市羽黒古市場7羽黒八幡宮➡小弓の庄➡小社 徒歩ルート / 徒歩約10分関連記事 / 御日塚神社、三十三観音堂 「羽黒新田の観音堂」
2021.04.07
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春日井市八事町八事と聞くと興正寺がある名古屋市昭和区の八事が思い浮かびます。春日井にもJR中央線「春日井」から西へ15分程の所に八事町があります。昭和区の八事とここ春日井市八事町は縁があるようで、そこから八事がつけられたようです。そのつながりの中身までは辿り着けませんでした。地蔵川右岸の弥生公園の北にあたり、鳥居町の南にあたる八事町。入り組んだ住宅街にある八事公園が目的地「八事 神明社」写真は公園の南西側の道筋。手前右側に八事公民館があり、その先に常夜灯と社号標が見えてきます。神社は八事公園の南に隣接して鎮座しています。参道から少し入り、大きな樹々の枝に覆われる様に神明鳥居が建っています。手水舎は左の常夜灯の後方にあります。鳥居正面から拝殿の眺め。公園の敷地にこんもりと盛られた社地があり、周囲は玉垣で囲われています。高く盛られた社地は古墳のようにも見えます。高く盛られ境内に続く石段の先に拝殿。瓦葺で向拝のある切妻造の平入拝殿、外観はシャープな印象を受けます。やや大振りの彩色された狛犬が守護しています。赤い彩色が施された目鼻立ちがはっきりした狛犬。向拝に架けられた「八事神明社」扁額。祭神は天照大御神。見落としているかもしれませんが、境内を見渡しても由緒書きが見つからず詳細は分かりません。拝殿左の少し下がったところにアベマキの御神木があり、その脇に二社が祀られています。左が菅原道真をお祀りする大宰府天満宮。右が五穀豊穣と子孫繁栄の神、御歳神、玉姫命をお祀りする田県神社。拝殿に続く石段の右に公園を見守る様に覆屋があり、中に小さな社が祀られています。訪れた時には気が付きませんでしたが、写真を拡大して行くと覆屋の右の柱に神社名が記されていたようです。アップ画像もなくそれ以上読み取れないので不明社とします。機会があれば書き加える事にします。八事公園から見る神社。この杜のこんもり感はやはり古墳の様です。神社はその上に鎮座しています。庄内川の北に位置し、地蔵川右岸の高台にあたり、川の影響を避けるにはいい場所。八事神明社古墳と呼ばれる古墳時代の円墳ですが、埋葬者等の詳細は分かりません。古墳の名残を感じさせるものは、このこんもりした社地以外は特に残っていない。庄内川沿いにはこうした古墳は多く、墳丘の上に神社が建てられるケースは珍しい物ではない。子供たちが集まる場所でもあり、古墳や神社に関する解説板が整備されるといいのかもしれません。住宅地に残る杜を訪ねると神社或いは城址か古墳。杜を目指せば何かに出逢う。「八事神明社」創建 / 不明祭神 / 天照大御神住所 / 春日井市八事町2-55公共機関アクセス / JR中央本線春日井駅から徒歩10分
2020.08.19
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高御堂古墳貴船神社境内から出土した神領銅鐸、その銅鐸を貴船神社に変わり保管するという瑞雲寺から北に徒歩2~3分のところに高御堂公園があります。公園北側にこんもり盛り上がって木々が生い茂る一画があります。緑を残し自然と親しめるいい公園だね、と思っていた。公園北側の歩道沿いのフェンスの先に「高御堂古墳」の石標を見付けた。このこんもりは古墳のようです。銅鐸ついでにひと回りしてみました。公園西側まで来ると春日井市教育委員会の「高御堂古墳」の解説板があった。それによれば春日井市唯一の前方後円墳だそうな。その年代は古墳時代(300~700年)に作られ、詳細な年代までは特定できていないようです。発掘調査から古墳の長さは63㍍で後方の幅が38㍍、高さが約7㍍、前方が幅29㍍高さ約5㍍だったようで、現在の姿は復元されたものらしい。後方部は3段、前方部は2段の平坦部分があり、そこ壺型の埴輪が置かれていたとされます。埋葬者や埋葬品は調査されていないので分からないようです。このこんもりは川砂と粘土で盛り上げられ、墳丘斜面に川原石(当然ながら庄内川だろう)を使い葺石として敷き詰めたようで、古墳周囲は溝に囲われていたようです。解説板あたりから見渡すと奥に向け高くなり、前方後円墳の形状がイメージできます。石槨内部は発掘調査がされていないけれど、鏡や玉が埋葬されていると考察されるそうです。過去を紐解く事業は景気に影響しない、大盤振る舞いの予算もこうした方向にはつかないのだろう。後方(東側)に回り込むと周溝の面影を強く留めています。町名の堀ノ内由来もこうしたところから来ているかもしれません。気になったのが周辺の「まむしにちゅうい」の看板です。これを見てしまうと迂闊に近づく気にはなれなくなる、無口な🐍も同じ気持ちだろう。公園内にこの看板、自然が残っているという事ですが、鉄砲玉の子供達から目を離せないかもしれない。高御堂古墳築造時期 / 古墳時代(300~700年)古墳形式 / 前方後円墳住所 / 春日井市堀ノ内町5-11-1(高御堂公園内)関連記事 / 瑞雲寺、神明神社、貴船神社、三明神社
2020.06.09
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宝生寺境内の一画に鎮座する「尾張ゑびす大黒社」以前記載した「秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路」の参道の突き当りになります。境内入口には数台駐車余地はありますが、車は宝生寺参拝駐車場をお勧めします。社頭右に「尾張ゑびす大黒社」社標が立っています。社頭右の手水鉢。龍はお休みの様です。南に延びる境内、社頭左から札所?かな、その先に個性的な造りの社殿が佇んでいます。こちらは1月5日、初えびす大祭が催されます。地元の方のみならず、遠方から訪れた参拝客で、この寂れた境内は人で埋まるようです。普段は訪れる方は少ないようで、こちらの御朱印は宝生寺で頂きます。御朱印収集を楽しまれている方は寺と神社の御朱印帳をお忘れなく。「尾張ゑびす大黒社」は瀬戸市内を見渡すことのできる高台、その端っこに北を背にして建っています。境内はこちらの大社造の本殿のみで鳥居も狛犬は見かけませんでした。高く積まれた石垣の上に切妻、妻入りの本殿が建ち、本殿に続く石段の傾斜に合わせる様に本殿の妻に屋根が繋がります。屋根の勾配は急ですが、緩やかな曲線を持っています。縦にスパッと切り落とされた外研ぎの千木と3本の鰹木が飾られています。斜めから眺める姿は美しいものがあります。これで周囲の桜が満開を迎えていれば一層映えるのでしょうが、本殿周辺の桜はまだ早かった。向拝柱の左に美保神社、奥の柱には事代主大神、 右に出雲大社、大国主大神と社名札がある。御存知のように島根県の出雲大社は縁結びの神様として広く知られ、国造りの神、農業、商業、医療の神「大国主大神」をお祀りします。美保神社は商売繁盛、漁業、海運、田の虫除けの神「事代主大神」をお祀りし崇敬されていますが、尾張ゑびす大黒社は正式な分社として1976年(昭和51)に造営されたもの、それから半世紀に満たないけれど地元では親しみを込め「えびすさん」と呼ばれているようです。参拝作法は「二礼・四拍手・一礼」、なかなか馴染めない。余談ですが、近頃「大黒様」と聞くと携帯電話のCMに登場する、あのキャラのイメージが真っ先に出てきてしまう、巣ごもりで相当すりこまれている。本殿側面全景。この右は崖っぷち。北側の赤津川の堤から丘の頂にポツンと鎮座する「尾張ゑびす大黒社」の眺め。丘の高みから氏子の住む麓の町を見守る様に佇んでいます、右の木々の生い茂る辺りが御嶽神社や秋葉社が鎮座し、右に少し下がった辺りに宝生寺があります。ここなら川が氾濫しても二度と被害に遭う事はないでしょう。本殿北側は麓の街並みと田畑の広がる光景が広がり、その先の瀬戸の街並みも見通せます。周囲の動きは手に取る様に見えます、家康がここに陣を置いた気持ちも分かるような気がします。巣ごもり生活は気も滅入ってきます。既に散ってしまっただろうけど、境内で咲き始めていた桜の写真を入れておこう。2020/3/29『尾張ゑびす大黒社』建立 / 1976年(昭和51)祭神 / 大国主大神、事代主大神住所 / 愛知県瀬戸市駒前町アクセス / 八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路』⇒大黒社は目の前
2020.04.24
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おはようございます御朱印担当と「隼人池 桜を愛でる お祭りと花風香る山崎川へ」コース参加してきまーす天気もいいし、桜も咲いているし絶好のウオーキング日和となりそう
2017.04.02
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