昨夜の『リーガル・ハイ』を観て、その認識を新たにした。
というのも、夫と離婚調停(~裁判)になったとき、下された「判決」が、イコール”真実”ではないからだ。
私の主張が認められれば、夫が”私の真実”を理解して受け入れるかと言えば、その可能性はゼロに近い。
夫には”夫の真実”があるからだ。(言うまでもないが、私にはそれは認められないと思うから、裁判にもつれ込むことになるわけだ)
でも、人間は、自分の真実の中でしか生きられない、いや、生きてはいけない。
その理由は、人は”自分のために生きる権利”があるからだ。
しかし、異なった”真実”を持つ2人が、それぞれの主張をすると、どういうわけか”真実”はひとつではなく、話が食い違ってしまう。
裁判と言うのは、それを第三者の意見を交えて決着を着ける場所だというのは間違いないが、それが正しいという保証もない。
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