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それは確か74年頃、TY250そっくりのデザインだけで嬉しかったです。自然の中を走るには、MR50のロードタイヤではちょっと不安で。田舎住まいの筆者としては魅力的なこのバイク、兄貴が買いました。10万円ちょっとで、乗った感じはトライアルばいくそのものでしたけど50ccらしく、色々な用途に使えるように考えられていてさすがにヤマハだなぁ。と感心。シングルシートはトライアルなので当然。キャリアが自然に収まる設計であったり。これで河原を走ると、クラスメートの女の子が後ろに乗せてってー(笑)なんて言うのでそういう時、キャリアに座布団を敷いて乗せてあげるのです(笑)。大柄な車体は、そういう時も便利で低速重視のセッティングもよい方向でした。
2012.02.11
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今も買えるんですね。基本設計は80年頃じゃなかったかな。13万円くらいと、50cc並の値段。バイク屋さんでみましたけど、あの頃と変わらない。いいなぁ。今度買おうかな、と思っていたら、ホンダのCG、と言う昔のJXみたいなバイクと、カワサキのエリミネータも、なつかしバイクっぽい。ちょっと前まではSR250もそうだったらしい。GS250とかもあったみたい。みんな海外生産。いいなぁ。ほかにないかしら(笑)
2011.12.31
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たしか1975年あたりだと思います、筆者はこのバイクを買おうと思っていました。渋い色合いで、長いマフラー。低い車体でコンパクト、軽い。立派なバイク流行りで、当時はなにも人気がありませんでした。でも、後のレーサーブームよりも先に32psのハイパワー、これはRGに引き継がれています。エンジンは別物ですけど。
2011.11.27
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近所に、短いワインディングがあります。 どこの町にもあるような。 そこを走ってたとき、おまわりさんにスピーカーで「そこのRZV!停まりなさい」 (笑)おお、RZVがわかるのか(笑)。 なーに?、とそばに寄ったんですけど ただ珍しいから見たかったらしい(笑)。 うーむ、希有であることは認めるが(笑)。 それでいいのか公務員(笑)。 ちなみに、交通警官。 RZV、ネットワークの情報では一万台作られなかったとか。世界中で。 ホントにそうなら、相当希少だろうなぁ。 僕の身辺にはごろごろとしていたが。
2011.11.12
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1984年、これが発売されると噂があった。限定2000台と言う話だった。僕は、酷使に耐えかねて壊れかけたCBX750を前に、どうしようか考えていた。ミシュランのタイアは三角に減っていたし、ミッションはがたがたでパワーかけるとすっぽ抜ける有様だった(笑)
2010.01.22
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1983年のお正月だったと思う、なんとなく手に入れたこのバイク。特に気に入って買った訳ではなかった。でもホンダエンジンの良さは分かっていたし、とにかくパワーのあるバイクがほしかったから買った。スムーズでフラットトルク、軽快な操縦性でツーリングには最適、16インチ前輪だったが,割と安定型のハンドリングは好ましかった。バイクが求めるとおりに走らせると、ドリフトだろうとウィリーだろうと自動操縦っぽく出来るのは、最近のホンダのバイクとそっくり。コーナーに深く回りこんで、バランスさせて静かにワイド・オープンさせると18インチの後輪に全体重の慣性が掛かるようにしていれば難なく後輪がドリフトしながらコーナーリングするのには驚いた。(後のCBR900RRなんかの感じに近い)。でも,飽き足らずに,僕はモリワキ集合を付けてO&Tのバックステップ(当時は改造規制が厳しかった)。とエアクリーナー流量増加改造+メインジェット145->195として1速で全開加速すると必ずウィーリーになってしまうバイクになってしまって。面白かったけれど、ミッションは持たなかった(笑)やっぱり。友達が、出たばかりのRZV500Rを持ってきて、夜中に最高速バトルをしたらギアリングの関係でスタートはこちらが早い。160km/hくらいまでは互角。180km/hを越えるあたりから空気抵抗で(RZVの方が小さいので)。じりじりと離れていく....みたいな感じでした。でも、こっちは4ストで、どこまでもそのままツーリングできそうな感じでした。こんな、とんでもないバイクに乗っていたら、過去を振りかえる、なんて気分になる訳もなく戻ってこなかった朋ちゃんを追いかける、なんて事もせず,他の女の子と....なんてやってたのですが、今、思うとCBX750Fのおかげで道を誤ったような気もするが(笑)ま、いいか。結果オーライで。
2008.03.25
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もともと、なんとなく..という僕等だったから特に、はっきりと形にはめるのは苦手だった。僕も、朋ちゃんもそういうタイプだった(?)のだろう。だけれども、僕らの周りの人達が、彼等の見たいようにみて僕等を誤解する。そういう感じだった。バイト仲間のみんなもそうだったし。朋ちゃんの両親も。中学校からの友達で、今でもずっと友達....なんて言うのを変に思っていたことだろう。そして、朋ちゃんを求める男達も僕をどうカテゴライズしていいのか分からなかったらしい(笑)。カテゴライズする必要なんて無いんですけれど...と僕は思っていた。でも、朋ちゃんには、朋ちゃんなりの理由があって。それが、ふとした時に見せる憂いの表情となって現れているらしい、と言う事が解ったのは、つい最近の事だ。この頃は、その理由が解らずに。ただ、僕等は時々会って楽しく過ごしたし、それだけで良いと僕も思っていた。僕自身もまだ、自分の力を試したい年頃だったから平凡な家庭を持って埋もれるには早い、とも考えていた。でも、今振り返るとこの頃の朋ちゃんは、安穏な家庭に入る事をひょっとすると望んでいたのかもしれない、とも思う。そして......XV750Eに不調が発生し始めた頃、なんとなく僕らは疎遠になった。XVの故障は、直せば直せる(スイングアームブラケット折れ、ミッション・ドグクラッチ磨耗)。でも、僕等の楽しかった日々はもう、戻らなかった。僕のバイト先の隣の病院に居るから、時々買い物に来ていた朋ちゃんはその頃からぱたり、と来なくなった。僕は僕で、淋しいとは思ったが今までも何度かそういう事があって、また、ふらりと戻って来たりする朋ちゃんだったからそういう感じかな、と思っていた。しかし、これは本当のラストだった。思えば、あの岬での日がラストだったのかもしれない。僕はXV750Eを手放し、出たばかりのCBX750Fを手に入れた。並列4気筒は好きではなかったが、なんとなく、パワーが必要なように思ったから。朋ちゃんが結婚した、と聞いたのはそれから2年余り経った日の事だった。それもまた、中学校の時の幼馴染、ユウコの口から聞く、のだけれど。
2008.03.23
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その僕の言葉を、どう受け取ったのかは解らない。けどそれからも僕らは、時々一緒の時間を過ごしたりした。友人の勤めている書店の2階にあるカフェ・テラスへ行って僕はコーヒー、彼女はレモネードを頼んだり。朋ちゃんは、レモネードが好きだった。夜勤明けで眠いのかな?なんて思って尋ねて見ると「んー、スッパイのが好き」なんて言って、周りのウエイトレスたち(僕はここでバイトしてたこともあるのでみんな友達)をどっきりさせたり(笑)。そうそう、この頃良く行った地下のカフェに朋ちゃんを連れていった事もあった。その店は、前に、朋ちゃんとの事で悩んでいた時に元気づけてくれた、由布子さんの店だった。僕等を見て、由布子さんは一瞬、驚いたように僕等を見ていたが(その、悩んでいた頃...、僕等はもうダメになると思っていたらしい)。すぐに、にっこりと笑った。そして、朋ちゃんが席を外した時に「良かったわね」と耳元で囁いた。うん、いろいろありがとう、と僕も笑顔で返した。でも、レモン・ロック(砂糖ナシのレモネード)を朋ちゃんは頼んでそれをふたりで分けて飲んだり、僕のエスプレッソを平気で飲んだりするので(なぜそうするのかはわからなったが)。由布子さんも呆れていた(笑)そよ風が吹くように、毎日は過ぎて行った。僕は、あいかわらずバイトの毎日だったし時々、朋ちゃんはナースの格好のまま、僕のバイト先にやってきては「すこし太った?」なーんて腕をつまんだりするので朋ちゃんだって、と、僕も朋ちゃんの腕をつまんだりしたり。そんな所を、バイト仲間の久美ちゃんや、くだんのNさんに見られるとますます、誤解が広まる(笑)。いくら、幼馴染だって言っても、誰も聞こうとはせず.....。でも、本当に僕らは恋人、なんて関係じゃなかった。ただのタンデム・ツーリング・フレンド、みたいな感じだった。愛ってなんだろう、なんてこの頃は考える事もなかったし一緒に居て楽しくて、その人を大切に思えていればそれでいいと僕は軽く考えていた。
2008.03.22
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実際、この子はガンバりすぎ、みたいなところがあったので中学3年の時も、アタマ良いのに受験勉強を頑張り過ぎて居眠り半分で学校に来て、スカートの横のチャックを開けたまま歩いていたり(笑恥)、好きな男の子を一途に想い過ぎて叶わず(そんなものですね)。みんなの前で泣いちゃったり、と懸命なところが可愛らしい子だった。22歳になったこの頃は、どこから見ても清楚なお嬢様、と云う感じであまりに完璧なので、却って男が寄ってこないと笑っていた。本当は、そういう事を開けっぴろげに言うような面白い子なのだけど。だから、外見に惹かれた男は、最初のデートとかでイメージが崩れて(笑)あまり続かない、なんてことも言っていたりした。僕は、昔から知っているので「だから、自然で居られていい」とも。時々会って、映画見たり、オートバイで海岸を走ったり。不思議と、妙な下心は起きなかったから(ホントです)。仲良すぎる、ってのはそういうもんだろうと思った、この頃。彼女はナースだから、夜勤明けで眠いだろうに、と思って誘わないで居ると、時々僕のバイト先のスーパーに来て「また誘ってね」なんて言うもんだから....そりゃ、薄いピンクの白衣でナース・キャップ付けたままでスレンダー美人の朋ちゃんが来て、そんな事を人目憚らずに言えばどうしたって目立つ。(まったくの偶然だったのだが、彼女の勤め先は僕のバイト先の隣である。それで再会したのだ)。そういう訳で、バイト仲間の女の子たちにはすっかり誤解されてしまった。その中のひとりに、あのNさんが居て「ショックだった、あんな綺麗な彼女が居たなんて」と誤解(です)。されてしまうのでした。そう、僕等は彼と彼女、なんて関係じゃなかったのでした。でも、そう見えてしまうのかも.....秋が来る頃、XVで近所の岬まで流しに行った事があった。岬、ひと気の無い秋のウィークディ、海岸には誰も居ないのでふざけて僕等は腕組んで歩いたりした。中学の頃からそうしてふざけてたので、別にどうと言う事はない。その時、朋ちゃんは水平線の方を見ながら話し始めた。いろんな男の人が、私のところに来て、タイヘン。嫌、なんだけど.....中にはね、「もう、放したくない」なんて言う人も居て。誘われるのが怖くて。その人たちが、私に何を求めているかも解るの。気持ちもなんとなく。でも、私から.....一緒に居たいって思うのは。そう言って、朋ちゃんは僕の方を見た。なんだか、ちょっと新鮮に思えた。......どうして、私に付き合ってくれるの?「...どうしてって....『誘ってね』って言うから.....。」ホントは、もう少し気の効いたことを言いたかったけれど僕もまだ22歳の青年だったから、照れもあった(笑)....それだけ?なんか、他に言わせたい事があるみたいだな、と僕は思った。それが、何かも大体解る。でも、そんなこと、中学校の頃から解ってる事じゃないか、とも思った。若者らしい反発、みたいなもんだろう。「いや....それだけじゃあなくて...こうして一緒に居たいんだ」それは事実だった。でも、彼女が次に言った言葉は、衝撃だった。「いろんな男の人がね、アタシの体を求めてくるの。ううん、もちろんそんな事、許さないけど。....ねえ、あなたも同じ?」あまりにショックだったので、僕は2の句が継げなかった。僕の中では中学生のままだった朋ちゃんはもう、どこかに居なくなってしまったんだ。そんな風にも、思った。....今、思うと、朋ちゃんのこのコトバの意味も判る。どうすればいいかも分かる。だけど、当時の僕にはそれは言えなかった。僕が好きだったのは、出会った頃の朋ちゃんだったんだ。そういう、子供っぽい思いが僕を支配した。どういう気持ちで彼女がこう話したか、も考えずに。僕は、そしてこう言った。「いや...よく解らないけれど、一緒に居たいんだ」こう言うのが精一杯だった22歳の自分。でも、今でも思う。僕は、愛したかっただけ。でも、愛したかったのは7年前の朋ちゃんで、22歳の彼女は似て非なる存在だったからこれはこれで良かったんだ、と。その愛には、勿論desireも含まれる、としても。
2008.03.21
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中学生の頃、なかよしになった朋ちゃん、高校生になってから偶然街で出会ったり、学生じゃなくなってからもばったりどこかで会ったりして(笑)まあ、田舎の狭い街だからそんなこともあった。別に下心があるじゃなく(本当に。)昔の仲間が見違えるように綺麗になっていくのを見ているのは楽しかったし、この子はなんとなく憂いを含んだまなざしをする子でなんか、元気づけてあげたいな、と思うような子だったから時々、電話をして一緒に海岸をツーリングしたりした。もともとお友達だったから、家の人も知っているしその辺りはとても便利だった。XV750Eというバイク、シートが幅広くて大きくて。楽しく走るには良いバイクだった。Vツインのエンジンも、75度クランクだからどことなく、好きだったSRに似ていて、そのあたりも気に入っていた。朋ちゃんはバイクに跨るのを恥かしがって(いつもロングのスカートだった)。横座りしているので、時々おまわりさんに叱られたけれど当時のことだから、それでいちいち違反を取ったりはしなかった。秋の日だったか、やっぱり海辺を走っていたら、後ろの朋ちゃんがヘルメットを取って長い髪を風に任せてたのには、さすがにビックリして「だめだよ、捕まっちゃうよ」と言うと「あ、あたしなら平気」と.....自分の免許から違反点数が引かれると思っていたらしい(笑)そんな可愛い彼女は、中学の頃と変わりなく思ったがもう22歳、見た目はスラリと長身で、人目を惹くような美人になっていた。(スカウトも多かったらしい)。その、外観と中身のギャップが面白いのだけど(笑)。
2008.03.19
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なんか、春霞みたいな曲だな、と思って聴いてました。今日。 ロバータ・フラックさんの歌が有名ですけど、僕が聞いてたのはリー・リトナー&ジェントル・ソウツとか、ボブ・ジェームスとかのインストルメンタルのものが多かったです。 今日みたいに空が霞んでる時には似合う曲ですね。 こういう曲を聴いてると、古い記憶を思い出したりして。 そうそう、一緒にオートバイに乗ってくれた彼女たちの言葉とか.... 「一緒に居ても自然で居られるから....」Tちゃん(当時22)XV750E時代。 「すごいショックだった、だって....彼女が居たなんて.」Nさん(当時19) CBX750F時代。(誤解です。笑)。「なんか、自由だし、それに、やさし-し」Uさん(当時17)RZV500R時代。 と、なぜか「自由」「自然」とか言われる事が多かったな、なんて思います。 自分は全然自由じゃないんですけど(笑)そう見えるらしい。 feel like makin'love を聞くと、やっぱ題名のイメージを生々しく思えるのはロバータ・フラックさんのかな。歌だ、って言うのもあるけれど。 リー・リトナー盤も、ピアノをパトリース・ラッシェン嬢が弾いていてなんとなく女の子だなぁ、という弾き方のところはイメージかなー、って。 愛ってなんでしょうね(笑)。feel like makin' love って言うとたぶん、優しい、暖かな気持ちになる、って事なんでしょうね。だってGentle Thought だもんね(笑)
2008.03.16
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この曲、邦題を「そよ風の誘惑」と言うのですね。今日はホワイトディだな、なんて思っていると、遠い昔の出来事とこの曲の事を思い出しました。その頃はホワイトデーと言うとマシュマロとかクッキーを返す、なんて言う日になっていて、僕はと言うと仲の良いグループの男子、タケくんと一緒に手作りでクッキーを作ったのでした。そのグループは男子4人、女子4人、みたいな感じだったのですが特に4カップルというわけではなくて、みんなが仲の良い友達、と云う面白いスタイルだったのです。でも、何故僕がクッキーを焼く事になったか?と言うとグループの1人、ユウコちゃんが僕に手紙付きでチョコレートをくれたのでそのお返しに、「やっぱ、手作りだよな」と言う事で...おそば屋さんのタケくんに手伝ってもらって(笑)懸命に作ったのでしたっけ。その、ユウコちゃんは他に本命さんが居た(と思う)ので、その人に渡せたかどうかは知らず。まあ、それはともかく、それでも貰えたのは嬉しくて。この年の2月14日は忘れられない日になりました。その、ユウコちゃんが好きだったオリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」。美しいハーモニーの曲で、ポール・モーリアさんとかもカバーしてますのでお耳にされた方も多いか、と思います。僕ももちろん好きでした。今もこの曲を聞くと思い出します。この頃を。今、みんなどうしてるんだろうか?なんて思います。学生じゃなくなってからも、時々会ったりはしてて時々、僕もオートバイに二人乗りしたり、なんて事もしてましたがグループのなかでカップルになった人は居なかったみたいでした。まあ、そんなものかもしれません。なんか、仲良すぎちゃったんでしょうね。
2008.03.15
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電話に出る女の子の声で始まる、可愛らしい曲ですけれど今夜は曲の話はアトにして、”恋の診断書”がほしいと切望するあるお二人の話から行ってみたいと思います。彼は40代も半ばで独身、とはいえ、別段冴えない男と言う訳ではなくただ、あまり恋愛に積極的になれないと言う性格が災いしてこれまで、ずっとチャンスを見送ってきた、と云う人物。2年前、彼はオフィスで打ち合わせをしているとき、視線を感じました。その視線の主は、見覚えの無い若い女の子でした。じっと、遠くから彼を見ているので、彼も不思議に思いつつ、取り合えず微笑みを返すとその彼女も、にっこりと微笑みを返してくれたので、彼はなんとなく優しい気持ちになりました。それから幾度かそんな事があり、彼も特別気にしてもいませんでした。彼自身、そんなことは時々あったので...気にするまでの事もなかったのです。ある日、オフィスでの打ち合わせの際、会議室にくだんの彼女がぽつり、ひとりで居ました。何故、そこにいるのか不思議でしたが、彼も黙っているのも変だと思い話しかけてみると、その彼女はにこやかに、優しく会話をはじめました。20代の半ば、彼の姪くらいの年齢なので、彼自身はさほど意識せずに話しを続けましたがなんとなく、彼女に好感を持ちました。もちろん、それは慈愛のような、年少者を慈しむ心が主だったと思います。この時は。それから1年余り、そんな、さりげない、約束の無い出逢いが続きましたがある時、彼女があまりに塞ぎこんでいる事に彼は気付きます。尋ねて見ても、何も話さないので彼は、そこのオフィサーにそれとなく聞いてみると、その彼女がそこのオフィスに居られるのがあと1月だ、とそのオフィサーは彼に告げました。彼は、なんとなく胸苦しさを憶えました。この感覚はなんだろう?彼は考えます。そして、回想します。それまでの彼女と過ごしたわずかな時間に感じていた柔らかな気持ちの事を。それは、ひょっとして恋なのだろうか、とも思いましたが.....自分より20歳も下の娘にそんな感情を抱くのは良くないし、そんな筈もない。と、彼は否定します。それは慈愛だ、と。でも、彼はまた思い出します。2年前から、彼を真っ直ぐに見詰めていた彼女の視線を。.....あれは、もしかして.....。彼自身にも憶えがあります、若い頃、そういう瞳をみた憶えが。しかし、また彼は考えます。それは、若い娘が罹る一過性の熱病のようなものだ。そのうちに、彼女に相応しい若いパートナーが見つかるだろうと。そして、二人には別れの時が訪れます。彼女は何かを訴えるような瞳で彼に接するのですが彼は、あくまで年上の友人、と言うスタンスで接します。もちろん、彼自身も辛かったのだろうと思います。彼自身、この気持ちは何なのだろうか?とも思い胸苦しさにひたすら耐えています....経験した事のない痛み、診断が下されたとすればこれは恋なのか?と悩みながら。------*-----キャロル・ダグラスの「恋の診断書」(Doctor's order)は、愛らしくて弾むようなR&Bの名曲ですけれど僕は、なんとなくこのおふたりのことを思い出してしまいました。さて、彼の選択は正しかったのか?彼女は、これからどうするのだろうか?と.....おふたりに名医の診断書が届くといいですね。
2008.03.13
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kaze ni dakarete /山口美央子('81)これ、nirvana というタイトルのLPのB面に入っていた曲でした。この頃は「ルビーの指輪」のヒットのアトだったので井上鑑さんとパラシュートの面々が、そう、NYの「stuff!」みたいに売れていた時期で。この曲もそういう、井上さんサウンドで全編。全編、ボイスはエフェクト操作されて、なんかボコーダーみたいな感じ。で、歌詞とサウンドは、なんか軽い目の若い女の子と言うイメージの曲が多かったのです。当時は女子大生ブームだったから、そのせいもあるんでしょうね。いえ、女子大生そのもの、と云うかレコードを買う男子学生(が当時は購買層の多くだった...と思います)から見た夢的存在の女子大生、みたいな感じの。でもって、この kaze ni dakarete は、その中ではちょい外れて純粋な内面、を描いた感じでした。♪気がついてほしい、私のこの想い。とか。♪心はもう...あなた、このままdakisimeteとか。随所に半音進行があり、当時の優しいサウンド趣向が伺えます。とってもいい曲でした。でもまあ、昔も今も女の子の内面ってそうは変わらないと思いますけど(にこにこ)。つい最近も、こう、好きな人のことを一生懸命に想って、相手の人が困ってたりするぐらいにまっすぐ一途に思い込み過ぎて。それでも通じなくて、泣いてる子が居ましたっけ。けっこう可愛い子だったんですけど、でもまあ、相手はどう見てもその子の叔父さんくらいの年で。不条理に愛されたその叔父さんも面食らっていると思うのですが(笑)(まんざらでもないふうでしたけど...でもまあ、分別のありそうな方でしたのでそれもまた辛いですね。)なんとなく、僕はこの「kaze ni dakarete」を思い出してしまいました。その、可愛い女の子のキモチがよく分かった感じがして。
2008.03.06
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I honestly love you ですね。 静かな曲で、たしか'74頃、この曲を思い出すと なんか、遠い昔のクラスメートの女のコの事とか思い出したりして(笑) いい感じの曲なのです。 静かなピアノとストリングスで歌は、ささやくように。 素朴な感じがとっても人気な感じでしたっけ。 その頃、僕もこの曲を聞きながら、クラスメートの女のコの事を思い浮かべたりして(笑恥) そう、そういうのって自分の中の恋心と遊んでいる、みたいなところがあって。 ずっと後になってそのコと付き合ってみてから、なーんか「イメージと違うなぁ」 なんてがっかりしたり(笑) もう、I honestly love you を聞いていた頃のあの楽しいような切ないようなキモチを ぶつける対象はどこにも無かったんだ、なんて...... そう思った青年期も過ぎて(笑)今ではいい想い出ですね。 反対に、青年期を過ぎると、不条理に恋心を抱く若い女のコのキモチもよく分かったりして (笑)いろんな経験は無駄にならないもんだなぁ、なんてつくづく思ったり。 この「愛の告白」を書いた人は、たぶんそのキモチを思い浮かべたんでしょうね。
2008.03.03
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このKH250、28psにデチューンされたとは言え(たしか、最終型SS250も28psだったと思う)。音と雰囲気は、ジェット機のようでした。120°クランク2st3気筒ですから、位相がずれてハーモニーする吸排気音だけで、乗って居ると楽しかった。当時のバイクですから、点火は当然ポイント式でポイントカバーを開けると、120°間隔で3コポイントが並んでいて。ハイコストですけどシンプルな作りで、メンテしやすかった。プラスネジの固定を緩めてマイナスドライバーでギャップを調整、エンジン側とポイント側に渡る割れ目を、マイナスドライバーで捻ってギャップの広さを調整するんです。ポイントは3個あるんで、バランスよく調整するのは大変でしたがそこはそれ、みんなサンドペーパーを工具入れに入れといて暇な時にポイントを磨いて、ギャップを調整するんです。でもこのプラスネジ、普通の安いユニクロメッキのネジだったんでバカ力を入れて締めると、直ぐにねじ切れてしまって勝手に自動進角してしまうんですね(笑)。こうなると、ポイントのフレームにタップして..ってなるけどそんな細いタップはあんまり無い、んで..オーバーサイズのタッピングビスで誤魔化したりしてました、みんな。中古車買ってココ見ると、違うサイズのビスが入ってたりして...今だったら電子進角で、ポイントなんて無いんでしょうけどでも、古くなると電子式イグナイターは割に壊れるみたいで..
2007.08.23
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この頃のKH400は、ゾク・ライダーに支持されてました。当時は大きいバイク、マルチシリンダーが人気でもちろん、中型しか(事実上)乗れないから、と云う理由もあるでしょうけれど4フォア人気の後だった、と云うのもありました。で、KH400はゾク・ライダーに圧倒的人気を博しなぜか、白レンズ、生ゴムグリップ、旗棒にシボリハンドルと定番の改造をするのです。今のミニバンに白レンズつけたりするのは、この頃から見るとゾク・ファッションっぽい(笑)。ま、それはそれとして。当時の若者ですから、やっぱ抑えが利かないしハッピーにノーテンキな奴らも多かった。そういう連中が、考えることはやっぱり一緒で走りと、ケンカと、あとは、オンナのコ。KHライダー、ススムくんもそのひとり。僕のトモダチにいるススムくんは、のんびりしていていい奴なんだけどでも、ツッパリファッションで、彼女もそんな感じ。で.......ある夏の日、パパになってしまったのです(笑)。抑えが利かなかったんでしょうね。やっぱ。で、みんなで♪~こんにちは赤ちゃん~♪と、コーラスしてましたっけ。ゾクの連中は。ススムくん「やーめてくれ~」とアタマかかえてましたが.....でも、皆で面倒みたみたいでした。ゾクって、そういう面倒見が良かったのね。当時。
2007.08.16
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この初期型SR400は、ブロックパターンのタイアがついていました。当初、ツーリング向けのオートバイとして売りたかったのかストリート・スクランブラー的なハンドルの高さとステップ位置でそれぞれ、ラバーマウントで震動を伝えないような設計になっていました。ロードスポーツとして考えると、操作のダイレクト感がややスポイルされるこの設定も、当時のヤマハは割と好んで採用しておりました(RD400などもそうでした)。そして、このタイア。オフロードの心得があれば、SR400でちょっとした林道を走るくらいのことは容易くできますし、トライアルの真似事みたいな事もできたりします。そのためのブロックパターンタイアだったのですが、意外にユーザーはロードスポーツ志向が強く(当時はXT500もありましたので)後に前タイアを18吋に落し常識的なタイアを付けて、SR400は初期型にあったハンドリングの癖も軽減されてその頃から大学生などに人気を博して行く事になります。でも、このブロックパターンのタイア、割とソフトで良い感触でした。前3.50、後4.00と太く、ドライブ・チェーンもそれに合わせて750並みの太さでしたが、かなり余裕を持たせた設計だった事が解ります。上手な人はテールを滑らせて、オフローダよろしく道路を走っておりましたしそういう事をしても大丈夫な足回りだった、のでした。
2007.08.14
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’78型のSR400は、柔らかいグリップがついていました。これ、強制開閉式のキャブだったのですが、それを操るには適当なグリップ。クラシカルなナット止めのバックミラーと良く似合いました。レバーから、クラッチワイアーのところにもカバーが付けてあって細かいところをよく考えて居るな、と感心したものでした。ワイアーにアブラを差すと、ゴミがくっついて黒くなるんですね、あそこ。もっとも、この頃のSRのクラッチワイアはテフロンライナーが入っていて注油不要なんですけれど....まあ、それはさておき。単気筒400のエンジン、結構新車の時はよくエンストしました。アクセルコントロールになれなくて、ガバっとあけて、エンスト。すぽん、って止まると、さすがは単気筒400、惰性で掛かったりしなくて。キーーーー。って、後輪がロックしてしまうんです。低速だけですけどネ。
2007.08.12
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マフラーを換えると、低速があまり効かなくなってくるのですが’78年型のSRは、VMキャブでしたから、スロー調整でごまかしたりしました。でも、パワーを稼いでいないエンジンだから、そこそこ走ります。僕は、ダンストール・マフラーのバッフルの内側に、金タワシを詰めこんで背圧を調整したりしてました。そうすると、結構ノーマルジェットでも楽しめる。音だけは低くなって。この初期型SR400、加速ポンプ無しのVMキャブだったのでガバっ、とアクセルあけると スポン、って止まってしまうんです。エンジン。昔のクルマと同じで、低速はキャブだからゆっくり、って感じだったんですね。(クルマ、セリカGTVとか、バーキン7とかもそんな感じでしたっけ)。500は加速ポンプ付きで、キジマだったかな、加速ポンプキットを売ってました。でも...トモダチはコンチマフラーを付けたり、スーパートラップや、ヨシムラ(だったと思う)レーシングマフラーを付けてる奴も居ましたが...そうなると、キャブもみんな、京浜のCRとか、デロルト(笑)とか。ファンネルにしてセッティングすると、シグナルGPじゃ無敵でしたっけ。500にした友達のSRと、よくRZVでシグナルGPをやりましたがRZVは1速がハイレシオなんで、クラッチを痛めそうでいっつも負けてました。80km/hまでは。
2007.08.02
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ダンストールマフラーは、高回転が伸びます。音は、なんか直管のレーサーみたいな音。ネジとめのバフルがついているので、それを付けて、間に金タワシ(笑)を詰めこむコトで結構、背圧の調整ができます。そう、スーパートラップのディスクみたいな感じで。でもこのダンストール、中は金網一枚で、ほとんど直管でした。全部とっぱらうと、もーウルセーのなんの(笑)いい音だったけど。メッキはかなり上質な感じでした。長田モータースで売っていたトライアンフマフラーは、手叩きのメッキマフラー。でも、メッキの質はダンストールよっか落ちます。音は、ポコポコって感じで割と静かでした。低速向き。その後、トモダチがデイトナで売っていたダンストール風マフラーをつけたりしました。これは、ちゃんと消音があるみたい。で、バッフルも付けられません。低速がダメってコトもなく、でも、高回転もあんまり伸びない。スーパートラップは、いろいろ調整できるんでカッコと音が気にならない人は、これがいいかしら。チューニングして500のハイコンプにしたりすると、このマフラーしかなさそうな感じ。
2007.07.29
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AJ8、と云うのはヤマハ社内の呼称で、日本仕様の1978年型、のこと。ボクが持ってたのは最初期型、ブラック・ゴールドの型でした。ブラッククリアーの中に、金色のメタリックが透かしで見えてなんとも高級感のある塗装は、流石当時のヤマハでした。走りもおちついたもので、ゆっくり走ってよし、ペースを少しあげても楽しく、ツーリングスポーツとして理想的な乗り味の良いバイクです。これに、トライアンフふうマフラー(当時、長田モータースで売っていた)やダンストールマフラー(これは、本物)を付けたりして....箱根や伊豆、八ヶ岳や紀伊半島、伊勢志摩とか富士山、寸又峡...いろんなところに走りに行ったものでした。乗っている間が楽しく、せいぜい60kmくらいで田舎道を辿るようなツーリングが好きな人には今でも最適なバイクかな、なんて思ったりします。最近のは、いろいろなところが変わって、より、乗りやすくなっているみたいですね。500も乗りましたが、ツーリングだったらどっちかと言うと400の方が楽しいかも。SRXもそんな印象で、600よりも400の方がツアー向き、みたい。
2007.07.28
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僕の持っていたのは初期型で、マフラーがストレート(本当に)のやつ。純正でストレートだから恐れ入る。塗装のアルミフレームのせいか、いまいち人気が無かったこれを中古で買ったのは、'88くらいだったろうか。タンデム・ツインはびょ^~ん、と云う妙な音(笑)を立ててのんびりと回る。でも、速い速い。加速はそう早く感じないが、でもそれは僕がRZVのトルク感に慣れていたからで(この頃、NSR400とかも乗ったが、全然速く感じなかった。むしろNSR250の方がコーナーが鋭くて凄いと思った。でも加速は速い50ccくらいにしか感じなかった)。実際は結構加速も良かったらしい。実感なく加速が良い、ってのはホントは速いバイクらしくて例えばYZF-R1なんかも、普通に乗って居るとあまり速いとは感じない(R6もそうだ)。でも、スピードは乗って居る。このKRもそんな感じで、何せコーナーが軽快なのでブレーキを掛けなくては、と云うストレスがない。全開・全開。で、コーナーが来たら適当に減速してひょい、とバンクさせてまた全開。面白いようにクルリ、と曲がってまたフル加速。この感じはGPZ900Rなんかに近い。こいつで箱根をひょいひょいと走りまわっていたが、燃費も15くらいは走るし、なかなか楽しいバイクだった。たしか、最高速も180くらいは出たと思う。いいバイクだった。また乗りたいバイクだ。
2007.04.03
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最近の4輪車では直噴エンジンの開発が盛んです。新しい燃焼概念の実現が、新しいインジェクターと精密電子制御の実用化によって可能となったからですが、この技術を応用して、2ストロークの直噴エンジンが再考されたら良いな、と2スト・ファンの僕は思ってしまいます。例えばリーン過給をするならば、昔あったUDエンジンのような形でも可能なのではないか?とも思ったり。排ガスも綺麗にできると思うのです....が。RGΓとか、YZRみたいなバイクがまた走れば面白いです。
2007.02.11
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RZVの部品の事でお困りの方が居られるご様子で、僕にできることはこうしてあちこち尋ねて回る事、位ですから....どなたかご存知の方、情報をお願い致します。オーバーサイズピストンが無くて困ってるそうです。↓ここです。http://www2.ezbbs.net/27/shoo/
2006.10.11
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走行12000km、84年式 51X(輸出仕様パワー)。タイア10分山、バッテリー・リアディスク新品。屋内保管、ワンオーナー車。外観は綺麗ですがアンダーカウル下にヒビ(2cm程度)あり。スペアのフロントフェンダー、交換したリアディスク、ブレーキパッドあり。40万くらいで売りたいそうです。車検は切れていますが、時々エンジンを掛けています。快調です。ご興味がおありの方は、左の「メッセージを送る」から僕のところへどうぞ。
2006.05.30
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この、GS400はなぜか、ストリートライダーたちに支持された。ヨシムラスズキのGS1000がレースで活躍していた為もあるだろうかと思ったりもするけれどまあ、ショート集合管とシボリハンドルが似合うタイプだったせいもある。友人でこのGS400を気に入ってしまった、タバコ屋の息子エイジもそのひとり。赤いGS400を買って、フルノーマルで乗っていたが....学校にバレテ、停学。免許ももちろん取り上げられた。彼は「動かないGS、エンジンがダメになってしまう」と言って知り合いに売った。高校卒業後に買い戻す、と言う約束付きで。普通はそんな約束など忘れてしまうものだが、彼は高校卒業後に本当にその約束を果たし、GS400に乗って嬉しそうに走りまわっているのを僕はストリートで幾度か、XS750specialのハンドル越しに見かけた事がある。そしてその後、彼はエンジニアになってスズキに就職。(笑)。僕も、現場で何度か会った事があったが...もう、遥か昔の事だったが僕らは、互いの頬を軽くはたきあい(もちろん、平手で、嬉しさの表現だ)。「おい、元気にしてたのか~、痛いか?、わっはは」と。再会を祝した。男気のあるいい奴だ。今は、結構偉いサンらしい。いやはや、一台のバイクが人生を決めてしまう、と言うのも面白いな、と思った次第。
2006.05.27
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ススムと同じ学校の自動車工業課に行っていたヨーイチは、学校に隠れてバイクに乗っていた。当時は3無い運動の真っ只中、それでも彼はバイクが大好き。僕は県立高校だったんで、バイクは黙認状態だった。だから、僕がバイクで走っているのを見てヨーイチはとっても羨ましそうにしていた。それで、最初はYAMAHAのDT125Mを親に買ってもらって乗りまわしていたがもともとストリートライダーの彼が、トレールDT125に乗るのはちょっと無理があったしブレーキや足回りが、そういう乗り方には向いていなかった。だから、当然のように街で事故を起こした。出会い頭事故だった。DT125がもし、RD125だったら事故にならなかっただろうと僕は思った。ハンドリングがオフロード向きに出来ているDT、トレールタイアとブレーキの利きが災いして彼は、無理につっこんできた軽自動車を避けられなかったのだ。運悪く、軽のドライバーはヒステリー気味のババアで事故を警察に通報されてしまい、ヨーイチは退学になるところをなんとか停学で助けてもらった。が....これに懲りない彼、「ロードバイクだったら事故にはならなかった」と考え学校を自主退学、モータースに勤めてローンでGS400を買った。出たばかりのGS400は、プレーンなガソリンタンクの色と造形でなんだか2気筒のCB400Fみたいなイメージでストリートライダーたちに受け入れられた。パワーもあったしハンドリングも素直、DOHCサウンドと皆に言われていた吸気音、ストレート・ポートを通過する吸入気が渦を巻くその音を皆は愛した(本当はこの渦が起きない方がパワーが出るのだがこの頃はそんな流体解析なんて無かった)。でも、効率とかはどうでも良くて。楽しいこの吸気音は、たとえばケッチのそれのようにストリート・ライダーたちを魅了した。もちろん、ヨーイチもそれを喜んでいて夜のストリートを、爆走していた。今、「旧車会」と言われる集団でGS400が走っているのを見るとこの頃のヨーイチのことを思い出す。ヨーイチ、元気?
2006.05.14
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普通、ケッチというとこの400を意味する場合が多く、「ケッチのニーゴー」と250を呼称してました、僕らは。で、この400の方のケッチ、どうして人気があったかと言うとみんな、パワーフィルターをつけて吸気音を楽しむのですがその音が、排気量が大きい分良く楽しめた、って言う単純な理由(笑)ゾク系ストリートライダーの感覚ってそんなものでした。「ポーポー言う?」って"poh"という擬音でケッチを意味してたりしました。どうやってポーポー言わせるか、と言うと...走り出したら上のギアに入れて、無理に全開にする訳です(笑)そうすると、マフラーの芯をフタだけにして切った抜けマフラーから低音、パワーフィルタにしたインテークから吸気音。120°クランク2スト3気筒だから、位相のずれた吸排気音が、マフラーの長さの分だけコーラスするように聞こえて楽しい、って(笑)のどかな時代でした。FRPのフロントフェンダーの先を尖らせたり、白いウィンカーレンズを付けてミュージックホーンを鳴らして絞りハンドルで。♪~ぽ~~~~~~ぽっ~♪ミュージックホーンはクワイ河マーチとか、♪~パラッ、ぱぱらパッパッぱーーーー♪(笑)。文字通りパッパラーーーみたいな奴らでしたがでもみんな気の良い奴らで。最近の尖がってる一見普通の少年たちよりも健康的な感じのするストリートライダーたちでした。そりゃ、ケッチで飛ばしてれば楽しいからつまんない事なんて忘れちゃうよな。あの音と加速感。最高。
2006.05.13
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Kawasaki、と小文字で書くのはその頃はレーシングマシンだけだったのですが最後の方のKHは、ポイントレス点火にもなってライムグリーンにKawasaki、と..レーシーなムードをちょっと漂わせるKHでした。Z400FXが出てからは、ストリートライダーのKH人気も薄れて次第に、収束してゆくのですがむしろ、2ストマニアにとってはそれは好ましい傾向らしくライムのKH250は、割と程度の良い中古車が多いみたいです。250について言えば、SSの最終型からずっと28ps、とカタログの上での馬力は変わらないのですが乗った感じは、次第にマイルドになってゆく感じがしましたっけ。やっぱKHは、生ゴムグリップとZ2ミラー、旗棒が似合うかな(笑)。例のメカニックS君は、今はSS750に乗っています。
2006.05.09
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このKH250、フレームは400と同じだからエンジンスワップが流行ったのは前書いた通り。マウントは一緒だから、エンジン丸ごと拾ってきて(盗んできて?)乗せかえる奴が大かった。このS君はそういう事はせず、普通に250のまま乗っていた。でも、ポイントがしょっちゅう狂うのと、キャブの同調がダメになるんで工具をいつも持ち歩いていた。シート下、テールカウルに紙やすりを入れていた。このKH、当時のバイクの常でシートは右ヒンジで開くようになっていた。鍵でシートを開いて、パコ、と右にシートが開くのだ。で、ぼんやりしているとシートの下に鍵を入れたまま閉じてしまったり(笑)。でもS君はメカニックの卵だったから、シート・ヒンジのコッタ-ピンを外してシートをずらして鍵を取ったりしていた。その様子がちょっとバイク泥棒っぽいので(笑)お巡りさんが来た事もあった。「自分のバイクだってば」と言っても信用されなくて困ってたらしい。軽自動車だから車検証は無く、届け出済み証なんて家に置いてある。警察無線でSH,Z照会をされたりしてた(笑)。まだ、アナログ無線の頃だったから、皆に傍受されて笑われてたらしい。
2006.05.07
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僕は、高校を卒業してからこのXVを買って、ミシュランの48を入れてマフラー・エアクリーナを改造、XJ750Eの純正ハンドルに変えて峠を飛ばして遊んでいた。結構速く、そして楽しかった。ビッグツインだったんで、吸排気系の改造でトルクが増えるだろうと言う目測は当りかなりのパワーを見せてくれたXVだったが、ただ、発生する熱量が増えるんでオーバーヒート気味になる事だけは避けられなかった。だから、街乗りはノンビリ走っていた。当時流行り始めていたウォークマンを聞いたりして。ジョン・レノンが好きな友達に借りた「ダブル・ファンタジー」を聞きながら走ったりしていた。(Jus' like )Startin' over、と言う歌い方が好きだった。その頃、久しく会って居なかった朋ちゃんと偶然再会し、XVのタンデムに乗せて海へ行ったり、映画を見に行ったりした。「それってデートだろ」って友達に言われたけど、僕はそんなつもりは無かったりした。Love, agein Jus'like startin' over、とジョンが歌ってるように、ってそのレノン好きな友達が言うんだけど、僕は中学生の頃の延長のつもりで居たし、朋ちゃんも、「フツーで居られるから、一緒に居ても楽で良い」なーんて言っていた。そういう友情ってあるんだろうと今でも僕はそう思ってたりする。XVの銀の、つるっとしたガス・タンクのオーガニックな曲線を思い出すとこの頃のことを僕は思い出したり、する。
2006.05.06
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で、このKH250はどっちかというとストリート系(ゾク系かな)に好かれていた。マフラーの芯を切って、フタだけにする。エアクリーナーを取って、パワーフィルタ(K&Nは高いので、ニセモノ)にする。3連エアホーンをそこに隠す(当時は捕まったんです)。ハンドルをすこし絞る(すりぬけが楽になる)。シビエの凹面ヘッドライト(当時は白熱球が標準だったんで、レンズごと変えていた)。Z2ミラー(これはまあ、定番)。白いウインカーレンズ...とか、こんな感じでストリートを走りまわっていたのが、当時の高校生たち。田舎だったし、道も空いていたからそんなに迷惑じゃなかったのか親たちもそう煩くは言わなかった。このKH、固定ステップだったからコーナーで寝かし過ぎるとステップに引っかかって転んでしまうのが欠点だったがオーナーのS君は、僕の真似してハングオン。(当時はそう言っていた。僕は旧いバイクが好きだったんで、マイク・ヘイルウッドの事を本で知っていつもハングオンで乗っていた。でも、田舎でハングオン・ライドはまだ珍しかったらしく「あれ、何やってんの?」とか言われてたらしい。)だから、ストリートレーサーじゃ結構速い方だったらしく病院コーナー(という名所があった)では一番速かったみたいでケッチのS、って言えば「ああ、あいつ?」ってな感じだった。S、今じゃ割と有名なカスタムビルダーらしいが、まあ(笑)。
2006.05.06
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友人のリードギタリスト、S君はこのKH250の青に乗っていた。B-3型だったと思う。まだ3個ポイントの頃だった。だけど、この彼、学校に中型2輪免許の所持を知られていたんで免許を学校に取られてしまって、いつも不携帯で乗っていた。それだけならまあ、よくあるハナシ。でもこの彼には、とっても楽しい友人が居た。その彼はバイクオッケーの学校だったんで、当然免許は持っている。仲の良いその友人と、同時にKH250を買った、それくらいの仲良し。もう、勘の良い読者さんはおわかりだろう、このS君と彼は「契約」を結んだ。免許証不携帯で捕まったら、彼の名を語る代わりに罰金を払う、と言う契約だ(笑)。S君はその彼の住所以下個人情報を全て暗記していた(笑)。涙ぐましい努力である。このS君と僕、一緒にツーリングに行ったりしたのだが(もちろん彼は不携帯。)。幸運にも一度も捕まる事はなかった。のどかな、いい時代の話である。僕は、このS君と同じ高校だったのだが学校は特に免許の処女じゃなかった所持を調べる事も無く、無事に高校を卒業した。もちろん、密告するような人間も居なかった。学校も知っては居たが、事故を起こさない、暴走族に入らないような人間が免許を所持していても別にどうこう、言う事はなかった。教師が教育者らしかった時代である(笑)。良い学校に行っていたな、と回想する。
2006.05.05
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ハツミちゃんの恋僕ら、なかよしグループのひとり、ハツミちゃんはとってもかわいい子。髪はセミロングでふんわりウェーブ(天然パーマ)で、丸顔、大きな目、黒めがちの瞳、で男子注目のグラマーさんで(笑)なぜか、この子も吹奏楽部、コーチの高橋先生のお気に入り。担当楽器はクラリネット、だから朋ちゃんとおなじパート。それで、僕らのなかよしグループにいた。なぜか、僕らのグループは音楽系の子が多かった。僕は軽音楽だったし、朋ちゃん、ハツミちゃん(初美ちゃんだね)、タケもそうだった。だから、クラブの無い日にはみんな一緒に楽器を弾いて遊んだりしてたし時には、リコーダーの得意なブラバンの名トランペッター、トヨヒサと僕とで「てんとう虫のサンバ」なんかを歌って、一緒に歌ったり....そんな中学生活を送っていた僕ら。楽しい事ばっかりで、こんな日がずっと続けばいいな、と僕は思っていたりした。でも、僕の知らない内に、みんなそれぞれ悩みをもっていたんだな、と思わせる出来事が僕のまわりでも起きた。それは、いつものような放課後のこと.....僕はLM(軽音楽クラブのこと)の集まりがなかったので2年F組の教室で、クラリネットの初美ちゃんと、朋ちゃんと僕のギターでなんか、アンサンブルをやっていた。みんなにこにこと楽しげに、良い感じで演奏が続いていた。がらがら、と教室の戸が開いて、G組の野球部員、ヒロアキが飛び込んできた。その時、一糸乱れぬ朋ちゃんと初美ちゃんのアンサンブルが一瞬、乱れた。僕は初美ちゃんの方を見た。音で、初美ちゃんと朋ちゃんの違いはわかる。初美ちゃんは、なぜかヒロアキの方を見ないように目を伏せる.....この、ヒロアキ君は社会、歴史が得意だけれど野球も得意と言う女の子にもてそうなキャラクターだった。けれど、特別なGFはいない、と言うウワサだった。ユニフォーム姿のヒロアキは、僕に「脇田は?」と聞いたけれど僕が「部室じゃない?」と言うとそのまま、慌てて駆け出していった。ギターを弾きながらだったから、僕らのアンサンブルは続いた。けど、なんか間伸びしたので僕は、曲を途中で終わりにした。初美ちゃんはクラリネットを下ろして、まどの外を見るように僕らの視線を避けた。その意味が僕はわからなかったけれど、朋ちゃんはじっと、初美ちゃんをいたわるような目で見ていた....しばらく、F組の教室、僕らのグループの間に沈黙が流れた。他に誰もいなかったから、しん、と僕らの間に閉じた時間がこぼれてゆくようだった。初美ちゃんは、クラリネットを持ったまま黙って教室を出ていった。うつむいたまま、頬染めて。朋ちゃんも、クラリネットを持って後を追った。ひとり、残された僕は訳がわからずに.....ギターを抱えて、教室を出た。別段ふたりのあとを追うつもりはなかったけれど廊下に、ふたりの姿がなかったから屋上か、3階に行ったのかな?と思い僕は、放課後のひと気のない廊下を静かにあても無く歩いた。廊下のつきあたりは音楽室。だけど、今日はブラスバンドの練習日じゃないので音楽室には誰もいない。なんとなく、グランドピアノの前に座って鍵盤に指を乗せた。知っている曲をいくつか弾く。「雨に濡れても」の伴奏を弾いて歌ってみたり。「青い影」(a whiter shade of pale)のコードを弾いたり。ショパンの「別れの曲」を弾きかけた時だった。演奏に集中していた僕の右隣に、初美ちゃんの細い指先が見えてハイノートのオブリガードを入れた。アンサンブル。フレデリック・ショパンの芳醇な、音の綾糸は綺麗に絡まって静かな教室に、まるでタペストリーのような広がりを見せた....ラスト・ノートが響き、僕は初美ちゃんを見た。もう、いつもの表情に見えたけれど、まだすこし頬の赤みがのこるそんな初美ちゃんは、いつもよりも綺麗に見えた。「八チャンさ....。」僕らは、初美ちゃんの事をテレ半分で八チャン、と呼んでいた。(タコの八チャン、と言うマンガがあったんだ)。もちろん、可愛いいこの子の事をからかうつもりじゃあなくてやっぱし、テレがあるからなんだけれど。初美ちゃんは、まだ恥ずかしいのか、僕と視線を合わさないみたいにうつむきかげんに話した。「ウン、クラリネットを返しに来たの。」「そう.....。」何と言っていいのかな、とコトバを選んでいるうちに音楽室に、朋ちゃんがパタパタと入ってきた。「あ、いたー!初ちゃん、かえろ?ね?しゅーねんも!」元気いっぱいの朋ちゃんに、僕は思わず微笑みをこぼした。初美ちゃんも、いつもの表情に戻った。けれど、ピアノの前に並んでいた僕らを見て、朋ちゃんはなんだかちょっと不思議そうな顔をしていた(^^)。「じゃ、また明日。」「うん、ばいばーい!」「さよなら」学校のそばの別れ道、国道のそばの三叉路で駅前町の方の初美ちゃんと、僕らは別れた。僕と朋ちゃんは、並んで田んぼ道をあるく。いつもみたいにクダラナイ話しをして、僕は朋ちゃんを笑わせたり、朋ちゃんもいつもみたいにはしゃいで歩き、うしろ向きにあるいてつまづいて転びそうになったり....そんな、普段と同じような帰り道を歩く。話が途切れた。ふと、朋ちゃんがすこしまじめっぽい顔をして、僕に言った。「あのネ、.....。」野球部のあの、ヒロアキ君って、GFいるのかなぁ?って僕に聞くので僕はどっきりして「あれ、朋ちゃんって..?」って言うと朋ちゃんは首をぶんぶん、って振った。紺色のセーラーと、プリーツのスカートがふるふる揺れた。コミカルなそんな様子に僕は笑ったけれど、「あれ、じゃぁ誰のこと?」朋ちゃんは、「ううん、いいの、なんでもなーい!」と言ってギターの、僕とおそろいのヤマハFG-122、ソフトケースに入ったそれを持って駆けだして「ばいばーい!」両手を振った。もう、いつもの帰り道、分かれ道のところだった。僕も手を振って「また明日!」って言った。夕映えが綺麗な日、だった。次の日。やっぱり放課後の、教室まだ、みんなが居たんだけれど。情報通のヒラタ(女)が、野球部のヒロアキ君に何かを言っていた。ヒロアキくんは、ちょっとおちゃらけた所がある。そんなところも女の子たちが好きになってしまう理由なのかもしれないな、と僕は思った。僕なんか、ギターとバイクだけだもの。クラス一番のインテリ女、恵子なんて、グループ日記にクラスの男の人気投票の結果?を書いてその下の方に僕の名前を書き 理由:ギターがよい。ギターがなければこんなところに名前がでてくるハゲがない(訳がない、の隠語)。こんな感じだったから。まあ、それはともかく。ヒロアキ君はストレートな奴だった。ヒラタ(女)の問いかけに「えー!、俺、あんなイノブタ女なんてダメ。」(笑)初美ちゃんの事を、テレ隠しにそう表現した。無論、これはヒロアキのテレだろう、と僕は思った。気立てが良くてグラマーな初美ちゃんに、少なからず好意を持っていたのだろう。でも、野球少年だし、ましてクラスのみんなの前では、そんな風に言うしかなかった。ヒロアキくんは。ハツミちゃんは、それを聞いて笑っていた。「イノブタじゃないよー!」っていつもみたいに。でも、どっか無理してるんじゃないかなぁ、そんな感じに見えた。ぎこちなかった。その日はブラバンの練習日だったから、僕はいつもの屋上へのぼる階段のところでギターを弾いていた。でも、なんとなく気になっていた。さっきのハツミちゃんの事が。あの、ヒロアキの態度はテレなんだ、って事をちゃんと伝えたい。でも、ヒラタがどうしてハツミちゃんの気持を知ったのだろう?この、ふたつの気持が僕の中にあったんで僕は、ギターを弾いても楽しくなれなかった。いつも、楽器を弾いているととてもいい気持になる。だんだん、音の波に浮かんでゆくようでギターは僕の手の一部になってゆく....そんな気持に、今日はなれなかった。....しかたないかな。僕は、ギターをケースに入れて階段を降りて行こう、とした。と.....かぼそいクラリネットの音、はやいパッセージのあの感じには聴き覚えがある。あれは.....僕は、屋上への重い鉄扉を開けた。薄暗い階段から出ると、眩みそうに明るかった。もう、夕方に近い時間だったのに。屋上で、あたりを見まわすと理科室の上、無線のアンテナのあるあたりにハツミちゃんの背中を見つけた。ハツミちゃんは、風にふんわりウェイヴの髪をなびかせて山を見ていた。左手にクラリネットを見て。「八ちゃーん!」僕は、努めて明るくそう言った。でも、ちょっとぎこちなかったみたい。ハツミちゃんは、びっくりしたように振りかえった。でも、丸い顔でにっこりと笑顔。ぼくは 、そのハツミちゃんの笑顔を見てすこし安堵した。ゆっくりとハツミちゃんの方へ歩いて行く。「どしたの??」「うん、あのサ、八チャンさ....。」さっきのアレはさ、テレなんだよ。それに、八チャンにジカに言われたんじゃなくてヒラタに言われたんじゃ、ああ言うしかないよ。「うん......。」ハツミちゃんは、ちょっと考えたような感じ。でも、いつもの顔をして。「そうネ。うん、ワタシが言われてもソウ言うカモ。.誰かにソウ言われても」ハツミちゃんは、なんとなく納得したようだった。すこし安心したのか、和んだ顔になった。僕は、ギターを出して、ちょっとコード弾きを始めた。テキトーにブルージーなコードから、転調して優しい感じに循環するパターン。2パート、スリーフィンガーで続けたら、ハツミちゃんはメロディを乗せた。それは、いままで聴いたことが無いような爽やかなメロディだったけれどクラリネットの暖かな音色に彩られて、それはなんともいえないような微妙なハーモニーになった。僕は、リズムを取りなおしてアルペジオで5パート目を展開していった。今日は、はじめて音に"乗れた"ような気がした....。この、ハツミちゃんは音大に行って、その後どこかのオケのメンバーになった、と風のたよりに聞いた。ヒロアキと一緒になったかは、知らない。でも、初めての恋ってのは、そんなものでいいのかもね、そう思う。今くらいの季節になると、時々、そんな事を思いだしたりもする。みんな、どうしてるかな.....。
2005.12.09
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そうこうしているうちに、僕等2年F組にもごく普通に(あたりまえだけど)冬が訪れた。僕等の学校では、卒業式に「仰げば尊し」ではなく「ハレルヤコーラス」を歌うので、そろそろ練習の時期になってきたから卒業、を意識してしまって僕らはちょっと、ブルーになったりもした。でもまあ、そこは元気な悪童たちの事...音楽の授業中に「ハレルヤコーラス」の練習をしていたが(今の学校からは考えられないことだけど、その頃は教師の裁量はこのくらい広かった)。みんな、ふざけ半分おもしろ半分でこの、コーラスを練習していた。僕は軽音楽サークルの関係で、音楽の渡辺せんせいとは親しかったので一応、せんせいは僕を信用しているフウだった。でも。僕も一応カッコつけたいお年頃。クラスの悪童たちの前で、せんせいの言う事を聞いて大人しく、なんてのはカッコ悪い、と...ちょっとふざけて反抗したくなるような、そんなキモチになる事もあった。だから......コーラスの冒頭、歌詞を替え歌にして「はーげるや、はーげるや」(ホントはハレルヤ)と悪童ドモといっしょに歌ったりして(笑)それを聞いて渡辺せんせい(アタマがちょっと薄い)怒るかと思いきや....ボクをじっと見て「いったいどうしたんだ」と、ちょっとさびしげに睨んだ。この感じは微妙で、温厚な先生の気持ちを考えると、僕ら悪童は何も言えなくなった。音楽をホントに好きで、だからこそキチンと歌いたい。ボクもそうおもっていたけれど、つい、格好つけてしまいたい年頃だから。なんて酷いことをしたんだろう、と僕らはちょっとショゲてしまった。先生がもし、あの時キレテ怒っていたら、僕等は乱闘になっただろう。でも、先生はそうしなかったし、ボクらの格好つけのキモチもよく判っていたのだろうと思う。それから、僕等は音楽の授業で替え歌はしなくなった。一緒にコーラスをしていた朋ちゃんも、これを見ていたけれど「しゅーねんって、ときどきヘンな子。」って笑っていた(笑)朋だってじゅーぶんヘンだろ、と言うとそぉ?と、にこにこと笑うので僕はそれで、もう他の事はどうでもいいかな、と、思ってしまった。
2005.12.06
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今は"X"付きで喜ぶのはX-rated Movieくらいでしょうか(笑)、でも、この頃はCBにXが付いた、と言うのはとんでもない事だった。海外でまず発表されて、それを雑誌で見た僕は「こんなバイクが乗れるだろうか?」とまず思ったものだった。その後、しばらくして友人のひとり、お金持ちの医者の息子が居てこのCBXを買った、と聞いて...乗せてもらう事になった。新車発表当時のことだから、今みたいに逆輸入車が普通に走ってる、なんて時代じゃなくて、本当に珍しかった事をよく憶えている。跨いでみると意外に軽く感じ、そして、タンクもシートもよく追いこんであって意外にスリム、足つきもそれほど苦にはならなかった。セルスタートで軽やかにエンジンは回る。意外に低速トルクは無い感じに思えたが、これは6気筒特有の感じで、トルクが無いわけじゃない、と気づくのは、スピードメーターの針が軽快に盤上を駆け上るのに気づいたから、だった。今より道路は遥かに空いていたから、僕はオフィス街から山の手へと伸びる4車線道路で思いきり、ゼロ発進をしてみた。あっけなくタコメーターはリミットまで回り、ポンポン、とシフトして行くとすぐに140km/hは出る。運転免許試験場の前をその速度で通過すると、原付免許試験を終えて出てきた高校生たちに注目されてしまったので、軽く、ブレーキングして80くらいに落としてクルージング。国道への四つ角を慎重に減速して左折したが、あっけなくカルく曲がる。ちょいと舵角がつきすぎる感じはこの頃のホンダ特有のひらり感だけど、危ない感じじゃあない。アクセルを開けていれば大丈夫、って感じのものだった。なかなか面白いバイクで、今年のスズキのショーモデルの6気筒を見たとき僕はこのCBX1000の初期型の頃のことを思い出したものでした。
2005.12.04
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カントリー・ロードと言うと、最近は「耳をすませば」というアニメ(最近でもないか)のテーマソングになっていたりもしたけれど、僕らにとってはジョン・デンバー、そして、クラスメートのユウコちゃんにとってはこの、オリビア・ニュートン・ジョン。今の日本の音楽界からは想像もつかないだろうけれど、その頃は普通の中学生がごくあたりまえに洋楽ポップスを聞いている時代だった事は前にも話した通りでこの、ユウコちゃんはそのころ、中高生に人気だったオリビアの「カントリー・ロード」がなぜかとっても気に行ってしまったらしく、僕のギターで弾いて?とよくせがまれた。まあ、カントリー・ロードは簡単な曲なので僕も軽くアドリヴを入れて弾いたりもしていたが僕は、ジョン・デンバーのつもりでイントロはあの感じ、ユウコちゃんはオリビアのつもりで(笑)でも、英語がわかんない、と言うので、僕は英語の歌詞をノートに書いて渡してあげたりした。そうそう、「日立・ミュージック・イン・ハイ・フォニック」なーんてラジオ番組で録音したカセットも貸してあげたりした。もちろん、日立のパディスコ(ラジカセの名前)で録音したんだけれど。(笑、古すぎますね)。この頃はラジカセが流行っていたから。僕は、この、カントリー・ロードが「おはよう700」というTV番組で流れていたのを知っていたので、ユウコちゃんに教えてあげるとユウコちゃんはとっても喜んで、「ありがと。このクラスじゃしゅーねんがイチバン好き」なーんて、可愛く言うので僕も単純に喜んで居たりもした(笑)。ま、「このクラス」ってのは、彼女のイチバン!のヨシ君はクラスが別なのでそれで、ってのもあったがそれでもまあ、女の子に「好き」なんて言われるのは悪い気はしなかった。....でも、それを聞いてたクラスのモテナイ男ドモにヤッカミ半分でカラカワレルのには閉口したが(笑)。男はつらいよ、なんて言いながらその頃の僕はいつもの河原でTY50に乗って「Now , your days~♪」(ゴダイゴ)を歌いながらトライアルをしていたりした、のだが。そうそう、この「ナウ・ユア・デイズ」も、「おはよう720」のCFだったっけ。日石の。
2005.12.01
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レゴラリータ、と言う分野のバイクで、輸出専用モデルです。発売当時は大洋州などで原野を走る用途目的に作られましたが次第にレジャー用途に使われて、排気量拡大、パワー競争となってこのモデルが製作されました。型番から見て分かる通り、DT400ベースのスープ・アップバージョンです。電装を軽減してノービータイアを装備、サスペンションはYZとの中間的なセッティングでしたから、日本でも林道ユースなどに便利だろうと当時、僕は思ったものでした。しかし、電装の関係やノービータイアでの公道走行はNG,と言う理由などで日本では発売には至りませんでした(HONDAのXR200などを個人輸入して村役場のオジサンを騙して125cc登録したりする悪党は居たらしいですが笑)。流石にIT465を125登録する悪党はいなかったようです(250登録はちゃんと車体を見ますので、まず無理です)。おっと、脱線。このIT465、どうして僕が乗ったことがあるかと言うと僕はヤマハ社員だったので、休み時間に乗ったりしてました(笑)排気音もDTよりは大きく、迫力がありトルクも大きくて怖かったのを憶えています。
2005.11.27
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この頃のヤングマシン誌は、今と違って手作りの匂いがする感じのミニコミ誌、って感じだった。でも、表紙はいつもアイドルの子で、浅野ゆうこちゃん(昔ね、昔)がすらっとした脚をご披露しながら、かわいく微笑んでたり。村上里佳子ちゃん(今のRICAKOね)が、綺麗な長い髪をなびかせてバイクにまたがってたり....と。あの頃のアイドルって、ホントにかわいかったな。で....例の、ジョリンジョリンのユウコちゃん。僕が持ってたヤングマシンの表紙、黄色のTY50にまたがる小林麻美ちゃん(昔のね)を見て....「あ、これ、麻美ちゃーん。、ねね、あたし、似てる?」って(^^)。麻美ちゃんカットにした自分と、表紙を並べて僕に聞くものだから、僕もちょっと和んでしまったり....(ユウコちゃんは、僕がTYに乗ってることも知ってる)。で、そんな風にふざけてると、クラスの男ドモがなーんか、冷たい視線だったり。ま、当時の風潮としては、男が女と一緒に...なーんてのは軟派のする事だったから、ま、しょうがないんだけどネ。でも、朋ちゃんとか、ハツミとか、カズミちゃんとか女の子たちは割と好意的だったけど。今もそうなのかな~。で、このユウコちゃん、当時、流行っていた「カントリーロード」を聞いて、今度はオリビア・ニュートン・ジョンの真似をするのだけれど...
2005.11.19
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愛すると、どうなってしまうのだろう。なーんて、この頃の僕等はマジメに考えることもなくただひたすらに、こんな楽しい日々がずっと続く事を願った。でも、その「愛のゆくえ」を考えさせる事件が起こった。それは、ある冬の日の朝の事。クラブの早朝練習で早く、学校に来た陸上部のジュンが、屋上へ行ったところ3年生の男女が、抱き合っているのを見た、と言うのだ。それもいわゆるHUGではない、抱き合っている、だ。その男子は札付きのワルで名が通っている、しかし、番長グループに属さない無頼漢の藤村。女子は、と言うと、意外な事に割と美人で人気もあった(ただ、冷淡な感じもしたが)菅井さん、と言う3年生だった。僕等はクラブが違うので、このふたりと話したことはなかった。で、複数の生徒がこの二人の事を見た、といっていたのだが最初、僕等はウソだと思った。だって、何も朝の学校でそんなことをしなくても、と....。でも、その後。授業中に、その目撃者たちは皆、校長室に呼ばれた。緘口令を敷かされた、と言う。こりゃ、なんだか本当らしいな、と....2年F組の僕等グループは、ちょっと浮き足立った。そりゃまあ、興味が無いって言えばウソになる。でもまだ、中学生だしな.....。と。僕は、グループの女の子たちを見た。朋がすぐに気づき、「ナに見テンのよー、いやらし~(^.^)」って笑った。やっぱ、あいつらじゃこんなもんだよな、って僕はなんだか、安堵した。後日報で、あの二人は親が別れさせようと転校を画策、別れたくない二人は思い余って、と言う事だった。意外だ、と思ったのは、僕等は最初、ワルの藤村が無理に襲ったのだろうと思っていたからだった。そうじゃなくて、思い余って。別れの時期が来る事を意識していた僕らにとってその時、自分はどうするのだろう....なんて、考えさせるこの事件だった。秋は深まり、そろそろ冬の足音が聞こえてくる頃のこと、だった。
2005.11.15
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ヤマハの独創的バイク作りのある象徴のような1台、です。72度バンクV2気筒、グリースバスフルカバードチェーンドライブ、と言う方式を採用、同じエンジンでシャフトドライブ駆動のバイクがありながらわざわざ面倒でコストの掛かる設計にしたのは、フィーリング重視のヤマハらしいポリティカルな手法で、こういうところにヤマハファンは惹かれるのでしょうね。プレスバックボーンフレームで、今で言うセミ・ピボットレスフレーム的な設計であり、このためコーナーワークは快適、フルパワーを掛けるとトラクション旋廻をバイクが誘導すると言う楽しい特性でした。ヨーロッパでは人気を博し、スポーツ・ツアラーとしてジャーナリストも概ね好評でしたが、日本のライダーにはあまり人気がありませんでした。今になっていくらか人気が出てきていますが、やはり当時の価格で62万円(国内仕様750)は高すぎたし、1000と同じ車体で10ps低いと言うのが面白くなかったのか、日本では当時、不人気車でHY戦争に負けた後、XJ750と同様36万円というダンピング価格で売られた事を衝撃を持って見ていた僕でした。と、言うのは当時ヤマハ社員でした僕、本社でXV1000TR1を試乗しそのテールコントロールの面白さに魅せられて国内仕様750Eを定価で購入したのでして(泣)。1000よりスムーズな750、トルクでは負けましたがコーナーワークの楽しさは同じで、よく箱根の大観山などでテール・スライドさせて走らせていると「ヤマハの750はコントロール性が高いらしい」などと峠仲間の間で話題になったりしたもの、でした。で、ツーリングやタンデムライディングにもふかふかの乗り心地で人気だったXV,「想い出」編に出てくる朋ちゃんや他、いろんな女の子たちの評価も高いXVでしたがセミエア・アシストのモノクロスサスペンションはエア圧とダンピングが容易に調整できるので、その恩恵に預かった僕は楽しく、若い日々をエンジョイした(笑)のでした。今、再発売されたら乗ってみたいな、と思う一台です。BT1100も随分魅力的に思えましたが(笑)。現実的にはMT-03か、FZ-1、TDM900あたりになりそうです。XVの後継。
2005.11.13
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校庭の銀杏が枯葉を落とす事になると2年F組にも、ごく普通に秋が訪れた。傾いた陽射しがなぜか、とても愛おしく思えるようなこんな秋の日、僕らは退屈な授業をそれでも、進路決定の後だったから「こんな日も、いつか、想い出になってしまうんだろうな」なーんて、ちょっとアンニュイ(なつもりで笑)英語の、コワーイ鬼女先生の授業を受けてた。教科書を、読む。順番に。これは、どこの学校でも同じだ。次の順番は、例のインテリ、智子だ。ブラスバントの女子で、同じブラバンの脇田と修学旅行でくっついた即席カップルの(バックナンバー参照)子だ。鬼、女教師ペッパー(笑、この頃、『女刑事ペッパー』と言う外国ドラマが流行ってた。因みに、ピンクレディの「ペッパー警部」もここから取ったらしい。)が、「a next ,Tomoko? you read」と、智子に教科書を読ませた。例題。この日の例題は、be able to~(=can) を使う 作文。智子は、この時、隣の昭子を例にして「Akiko is able to make a daughter.」と、言ったので 僕等は眠かった頭が突然パチッ(笑)教室は大爆笑。智子も昭子も真っ赤になって「make a doll」と言い直していたがもう遅い。鬼教師ペッパーも、この時だけは 笑ってた。この鬼教師、an old missと、当時は呼ばれててそうそう、アニメの「ハイジ」に出てくる鬼教師みたいな感じだったっけ。僕は、すかさず昭子に言った。「Oh ! Akiko, Let's make Chindren.」....ますます、教室はにぎやかになった。ふざけてないと、なんか不安だったこの頃。僕らはばかハシャギして、そんなキモチを紛らわせてたのだろう。それと、やがて来る別れの予感も。
2005.11.12
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50ccでも頑なに4stを守り続けた当時のホンダは、立派でした。そういう姿勢が、ホンダファン、コアな彼等の支持を得る所以であったのですね今、思うと。このCB50JX、ワイアー駆動のフロント・ディスクブレーキとか青い塗装とか、どことなく安っぽい感じでしたがそのチープさが、またよかったのですね。乗ればエンジンは静かで、2stとは違った落ち着きがありでも、飛ばせばスピードは乗り、なんと言っても一万回転以上回るエンジンで、そのノビの良さは格別、でした。よく、壊れないものだと感心しましたがやっぱりカブ号のホンダ、そこいら辺はお手の物だったようで僕の友人たちで、このエンジンを壊した奴はいませんでした。ま、CBに乗るような少年はおとなしめだった、と言うのもあるのですけれど(笑)
2005.11.10
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その、変奏曲ってのは...まあ、中学生の考えることだから本当にくだらないのだが(笑)ゴシュジン、ってのを言い換えて 「10の3乗!」って言う。10の3乗=1000だから....勘のいいヒトはわかるだろうけれど。うしろにズリをつける(笑)。で、これも2年F組の男子は喜んで言い合っていた。女子は訳わからずに「10の3乗ってなーに?」とか言ってたけれど例のどっきりサチコちゃんは、僕らと一緒に「10の3乗!」なーんて言っていたので、シンイチが「違うよ、キミの場合は10の4乗だろ!!」とか言うので男子は爆笑。女子は訳わからずにキョトンとしてたので僕は、朋ちゃんやユウコや、かずみちゃんにその意味を教えてあげたらみーんな、マユをひそめてクスクス(笑)ま、ホントにみんなが10の4乗してたかどうかは(ま、有り得ないけど)知らない。休み時間のF組教室のこの騒ぎに、数学の佐藤先生はポケ、として廊下で聞いていたそうな。どーして10の3乗がオモシロイんだろう?って。
2005.11.06
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ちょっとズレてるノボルくん(笑)インテリで思い出したけど、勉強のできるヤツってのはどっかしらボケ味、と言うかずれてるとこがある。E組の、ノボルくんもそう。彼は、生徒会長。だから頭がいいのだが、でも、ボケ味のある奴でどこか、にくめない奴だった。彼も、そう言えばブラスバンドだったっけ。どうボケてっか、と言うとだいたい、こんな感じ....僕らのクラスでは、その頃「ご主人ごっこ」ってのが流行ってた。これも、グループのタケが編み出した遊びだったが...おはよう、さよなら、なんて挨拶みたいに「ご主人!」って言うんだ。どうしてこれがオモシロイのか、と言うとゴシュジン=マスター。だからマスターベーションしてる?って言う意味の隠語として使ってたんだ(笑)もちろん、この意味を受けて、判ってるやつは「ゴシュジン」!!って同じ顔してテ上げて笑う、って寸法。もちろん、グループの女の子も例外ではなく、みんなで「ゴシュジン!」って言い合ってた。これをみてたノボルくん、なんか、おもしろそうだな、と僕らを見てて....ノリのいいシンイチが「ゴシュジン!」ってノボルくんにやった。その時、ノボルくん「メシツカイ!!」って返答(笑)一同、そのボケくあいに大爆笑。わかってないんだなぁ~。なんて。この遊びには変奏曲があって....
2005.11.04
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修学旅行は楽しかったな、と...僕は、思い出しながら旅行かばんを引っ張り出した。ちょっと、想い出に耽りたかった秋の夜だったから。雨の日の、バスの中の出来事。ホテルのロビー。夜の、ひととき。お土産を買いにいった、新京極。どれも、みな、楽しい想い出だな....と、机の前でぼんやり、壁に貼られたMUNCH-4 1200TTSの写真をみながら、そんな風に思ってた。ふと気づくと、青いバックの底のところに長い、黒い髪が一筋、さらりと纏わっていた。ひとめ見て、僕はそれが朋ちゃんの髪だとすぐに判った。ちょっと、特徴のある黒い髪だったから。....でも、どうしてこんなところにあるんだろ。たぶん、僕の学帽をかぶったりしてたから何かの拍子に紛れたんだろうな、と....そう思った。で、その髪が紛れてる青いバッグがとても、大切な想い出の品になるんだろうなとそんな風に思い、僕はそのバッグを、そのままにして押し入れにしまった。このバッグは、今でも大切な想い出の品、となっている。髪はどうしたか?って?それは、また後で(笑)お話しましょう。
2005.11.03
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このインテリまさと、でも、「インテリ」って言葉から想像されるような嫌味なイメージはなくて、本当にIntelligence、って言葉が似合う自由で知的な奴だった。だからこそ、DT250Mの良さが判る優等生だったのだし当時の風潮からすると忌避されていたオートバイに乗る、なんて事をためらわずに行う奴だった、のだろう。僕はこのまさとと、1年の時クラスメートだったが僕は、自由を愛する男だったので(笑)当時の学校、教師や、教師に気を使う生徒とは合わず良く、クラスで問題にされた。僕はただ、人に媚びるのは嫌だっただけだったのだが...当時の担任は、こんな暴挙に出た。ホームルームの時に、「こいつが嫌いな奴は手を上げろ」と、今ならイジメで告訴されそうな事をして僕がいかにクラスから疎外されているかを僕に追認させようとした、のだ。しかし、案外。クラスの女子の半数程と、男子のうち友達数名は手を上げなかった。女子の理由は、もちろん、僕のギターの腕を買っての事だ(笑)しかし。学級委員長だったまさとは、こう言う。「彼は自由だし、嫌な事があってもカラっとしている男らしい人です。だから、彼の事を僕は支持します」委員長のまさとのこの発言に教師も驚く(当然、教師に媚びると思っていたらしい)。このまさとの発言のおかげで、僕はクラスで市民権を失わずに済む事になる。本当に理知的な奴というのは、こんな風に人の意見に流されずに「オレはこうだ!」と自然に言える奴だろうな、と僕はこの時にそう思った。だからこそ、まさとは道無き道をゆくトレールバイクが好きだったのだろう。そして、たぶん、親の敷いたレールの上を歩くべくして生まれて来たようなジブンの運命にちょっと、残念な思いを感じていたのだろうか、と思う。でも、このまさとは今、親の敷いたレールの上から、その親よりも出世して独自の、道なき道を走る、と言う人生訓に沿って生きているのだろう、と思う。僕は...?どうなのだろうかと言うとずっと、はみ出し者のまま、だから(笑)。
2005.11.01
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M、と付くのは当時、モノクロスサスペンション付きのDTをこう呼んでいたからなのです。モトクロッサーからのフィードバックの1本サス・ユニットをガソリンタンク下に置き、トラス・スイングアームからロッドで繋ぐこのスタイル、当時はやや横剛性に問題があったようですがそれでも、公道レベルでは充分だったし、飛んだりはねたりしても底ヅキしにくく、ソフトなサスは乗っていてすごく楽、でした。エンジンはちょっとラフな感じでバラバラ回るのもヤマハの2スト単らしくこのDT250Mではエンジンも新設計されてYZみたいなラジアルフィンの空冷で、それがとても格好良く見えました。ちょっとエンジンは回転に伸びがない感じでしたが代わりに低速でも扱いやすく、河原でトライアルごっこをしても楽しいDT250M、こんな感じのトライアラーがあったらなあ、と当時、僕は思ったものでした。ヤングマシン誌でオリジナルのトライアルバイク「YM90」を作ったとき、モノクロスサスを作ったりしてたのも結構、このDT(というかYZというか)の影響が強かったみたいでした。昔のバイク雑誌は暇だったのか(笑)こういう時間のかかる面白い記事が多かったような気もして...
2005.10.30
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中学生の頃、僕はヤングマシンと言う雑誌を好んで見ていた。学校に持っていって見ていたんだけれど、教師も別に咎めようともしなかった。ま、田舎で交通量が少ない事もあるし、今と違って変なPTAとかが居なかったせいもある。だから、ごく普通の生徒でもバイクの本を見たりしてたし、教師が殊更バイクを悪者のしなかったから、偏見なくバイクを「ただの乗り物」としか見なかった。だから、元クラスメート、2年C組のインテリ、正人くんは僕の持っていたヤングマシンに載っていたDT250Mのフォルムを見て、人目ボレ(笑)道無き道を走破するのは格好良い、として高校へ入ったらDT250Mを買う、と宣言していた。後で、この正人くんは県立の進学校へ進み、予言通りに黄色のDT250Mを買って、山の林道を走り回っているらしい、とか..言う事だったが(笑)さて、僕の持っていたヤングマシンを見なければ、彼の人生が狂う事もなかったろう(笑)でも、彼の高校はバイク通学は禁止だが、バイクに乗ることはOKだったから別に、どうと言う事はない。でも、夏休みになると道無き道を求めてツーリングしてたらしいから成績に多少の影響が出て、それで大学のランクを下げる、くらいの事はあったのかもしれない(笑)でも、正人君は今では親の跡を継いで親父と同じ会社に入って、部長だったか、次長だったかその辺のポストに居るらしい、と聞いたしいまだにオートバイに乗って居る、と聞いた。DT250Mを持っているかどうかは知らないが、彼の家のガレージにはBMWのオフロードバイクらしき物体があったから(笑)道無き道を行くのは彼の人生目標、だったのかも...なーんて、思ったり(笑)そのスピリットで仕事に打ち込めば、彼のことだから成功するのは間違いないだろう、と僕は納得したも、した。成功してない僕が言うノモ変だが(笑)
2005.10.30
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