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2024年3月7日夜、広島駅北口(新幹線口)から歩いてホテルに宿泊しました。私はホテルを予約するのが苦手で、宿を探さないといけないと思いながら、あっというまに時間が経ってしまいます。結局出張の当日にスマホで検索して東横インを予約しました。いつもは広島駅の南側のホテルを探すのですが、今回は北側になりました。北側に宿泊するのは初めてです。↓ 広島駅北口。(2024年3月7日)↓ ホテルグランヴィア広島。↓ シェラトングランドホテル広島。↓ 広島駅と、シェラトングランドホテル広島。↓ 東横イン。ーーーーーーーーーーーー↓ 2024年3月8日。↓ 広島駅とホテルグランヴィア広島。↓ 広島駅とシェラトングランドホテル広島。↓ 広島駅南北自由路。↓ エキキタ サンフレッチェ フットサルコート。↓ 仏舎利塔。↓ CHUGOKU JR BUS。↓ HIRODEN BUS。
2024.03.20
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明けましておめでとうございます。2024年度も宜しくお願いします。年末年始は東海道・山陽新幹線の自由席が全て予約席に変更され、予約が難しいとのうわさがあったので、田舎への帰省を諦めていたのですが、妻がスマホで予約をトライし、日程を変更することでやっと往復席を予約できました。長男は仕事の関係で帰省しないことになり、私、妻、長女の3人分を予約していました。ところが乗車当日、長女は仕事の関係で予約したのぞみに乗ることができず、結局、長女はひかりに乘り、立って帰りました。窓際の席も取れないので、来年は年末年始の帰省を止めるかどうか考えたいと思いました。2023年12月30日に山口県の田舎に行き、2024年1月2日に戻りました。田舎では80歳を過ぎた私の両親が待っており、いつもの通り、食べて飲んでの正月でした。妻の田舎も車で30分の所なので、年末に挨拶に行きました。ーーーーーーーーーーー2023年12月30日、山口県の田舎に着いた。ーーーーーーーーーー【2023年12月30日 昼食】↓ 田舎にあるオランダのプレート。ーーーーーーーーーーーーー【2023年12月30日 夜食】↓ ふくじゅ (冨永酒造株式会社:山口県周南市)↓ ふぐの刺身。↓ ハマチ、サーモン、ホタテの刺身。↓ 長女が新潟に行ったとき購入した「焼きのどぐろせんべい」。ーーーーーーーーーーーーーー【2023年12月31日 朝食】ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓【2023年12月31日 昼食】ーーーーーーーーーーーーーー【2023年12月31日 大晦日の食事】↓ 私の父が一番気に入っている「雁木(がんぎ)」(八百新酒造株式会社:山口県岩国市)。「雁木」は中々手に入らず、大事な日に飲むことにしている。↓「雁木(がんぎ)」(八百新酒造株式会社:山口県岩国市)。↓ 「雁木」を飲みながら、NHK 紅白歌合戦を見る。↓ あのちゃん。↓「ゲゲゲのゲゲゲのゲロチュウ」だと思っていたが、歌詞を見て、正式な歌詞を理解した。ーーーーーーーーーーーーーーー【2024年1月1日 朝食】↓ 上撰松竹梅 御神酒 純金箔入り(宝酒造:京都市伏見区)。↓ 田舎で作ったおもちが入っている。ーーーーーーーーー↓ コーヒーと、手作りのお菓子。栗の中身をこして、団子に固めたもの。とても美味しい。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【2024年1月1日 昼食】ーーーーーーーーーーーーー【2024年1月1日 夕食のおせちの準備】↓ 大栗。本当に大きい。↓ 長女が出張で秋田・大曲に行ったときのお土産を食べた。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【2024年1月2日 朝食】ーーーーーーーーーーーーーーー【2024年1月2日 昼食】母親の手作りのハンバーグが大好物なので、田舎に帰ったらお願いしている。
2024.01.01
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2023年10月頃から、山口の田舎に住む両親から、クマ目撃ニュースの連絡が頻繁に入るようになりました。最初は、田舎の家から数キロ先でクマを目撃した人がいたという話だったのですが、その後、家から500メートル先の道路をクマが歩いている姿が2回目撃され、そこは両親の毎日の散歩コースだったので、散歩を控える事にしたそうです。そして最近になり、家から数百メートル先の近所で、庭の柿がクマに食べられ、根元にクマの糞があったそうです。その家にそれ以外の被害はなかったそうなのですが、私の両親はびっくりして、自分の家の庭の柿を全部取って、急遽、私の家に送ってきました。熊は歩くのが速く、一日に20~30キロは山中を移動するらしいのですが、クマの目撃情報地図の範囲に、田舎の家が入っていました。クマに襲われたら大変なので、音を出したりして気をつけてと、両親に言っています。ーーーーーーーーーーー↓ クマに関する両親とのラインのやりとり。(私、妻、私の田舎の両親)クマの目撃範囲の中に、田舎の家が入っている。↓ 親の住む田舎ですが、近所の庭の柿がクマに食べられたそうで、クマが柿目当てに来てはいけないと、両親が自分の庭の柿を全部取って、私の家に送ってきました。
2023.11.29
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2023年9月17日、18日は、山口県の両親の家に帰省しました。両親、私、妻、長男、長女が集まり、バーべキューをしたり、母親の手作り料理を食べました。田舎の家は両親が自分たちで造りました。私が小学生の頃、広島市南区に住んでいましたが、毎週末は車でこの場所に来ては、少しずつ家を造っていました。結局、10年近くかかったと思います。当初、土地の一部には池があり、ゲンゴロウなど水中生物を採っては水槽に入れていました。小さいミキサーがあり、木型にセメントを入れてはブロックを作り、鉄筋コンクリートの基礎ができました。木材もカンナで削ったりしていました。全て自分たちで行ったので、修繕も自分たちで行っています。今でも父親が新しい部屋を造ったりしています。父は物を作るのが得意で、機械の分解、修理など、毎日のようにしています。自動車関連は特に強く、いまだに耕運機などが壊れたら全てばらして、修理して組み立てています。バーベキューができる建物も自作です。毎回、ここで肉や野菜を焼きます。お盆前には、肉などの食材を車で買い込んでいたそうですが、台風のため帰省できず、9月になってから皆で食事をすることができました。両親は80歳ですが、元気です。年に二回は、田舎に帰ろうと思っています。ーーーーーーーーーーーーー↓ 山口県の両親の家。↓ シイタケ栽培。↓ バーベキューをする場所。↓ 父親の手造り。↓ バーベキューのための火おこし。↓ 部屋に戻る。 妻より長女の方が背が高かった。↓ カニを食べる。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 田舎で母親の料理を食べた。↓ 私は母親の作ったハンバーグが大好きで、田舎に帰ったら必ず食べる。
2023.11.08
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2023年9月15日、妻と一緒に山口県の私の実家に帰省しました。夜に長男、長女がやって来て合流しました。翌日2023年9月16日は、皆で妻の実家に移動して宿泊しました。私の田舎と妻の田舎は、車で30~40分程度の距離です。食事と酒で、盛り上がりました。ーーーーーーーーーー↓ 妻の実家で食事をした。
2023.11.07
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FIVBパリ五輪ワールドカップバレー2023「広島から世界へ刻むバレーボールの歴史」が、JR広島駅ビルの工事場所の壁に紹介されていました。(2023年9月15日撮影)↓ 左から、井上愛里沙さん、関菜々巳さん、髙橋藍さん、古賀紗理那さん、石川祐希さん、西田有志さん、石川真佑さん、関田誠大さん、林琴奈さん。↓ 多田徳雄氏(1889年~1976年)草創期の日本バレー普及に尽力したバレーボール選手、指導者、日本男子代表初代監督。1917年、東京で第3回極東選手権(現アジア競技大会)が開催された。開催国日本も出場する流れとなったが、当時はバレーボールチームや専門家がいなかった。そのため、海外から専門家を招き、急遽他スポーツの選手を集め出場したが、試合は大敗に終わった。しかし体育指導者たちはバレーボールに興味を持ち、普及に努めた。特に広島師範学校(現広島大学)の教師たちは体育教材に取り入れるなど、熱心に研究、そこで学んだ多田徳雄は日本初のバレー専門チームを結成するなど、バレーボールの普及に尽力した。↓ 広島が誇るボールメーカー。「ミカサ」、「モルテン」。「ミカサ」1917年 広島護謨株式会社設立。1935年 「ミカサボール」の商標で販売開始。1964年 東京オリンピックで、ミカサバレーボールが採用(日本製として初採用)される。1969年 国際バレーボール連盟から公式球と認定され、更に国際大会唯一の公式試合球として認められる。「モルテン」1958年 モルテンゴム工業株式会社 設立。1959年 第1号ボール完成。スポーツ事業に参入。1960年 日本バレーボール協会より検定球として認められる。1969年 国際バレーボール連盟より公式球として認められる。「ボールの聖地」広島そのルーツは伝統産業「広島針」。江戸時代、武士の内職として「たたら製鉄」の鉄を使った針作りが盛んになった。明治時代に入ると機械化が進み、広島針は地域経済の中で重要な位置を占める一大産業へ。朝鮮戦争で、その需要は一層拡大した。戦地の服を直すため輸出が大幅に伸び、帰りの便を使った輸入が増加。多く持ち帰られたのが「生ゴム」であった。ゴムを利用して手縫いされたボールの製造が始まり、広島のボール産業が成長した。↓ 猫田勝敏氏広島が生んだ「世界一のセッター」猫田勝敏。専売広島(現JTサンダース広島)に所属 広島で生涯をバレーボ-ルに捧げた。オリンピックに4大会連続出場し、金・銀・銅のメダルを獲得。日本バレーを世界の頂点に導いた。↓ 左から、小野寺太志さん、石川真佑さん、西田有志さん、古賀紗理那さん、石川祐希さん、関菜々巳さん。
2023.11.05
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2023年9月15日、工事中のJR広島駅を出て、バス停を通り、広島JPビル郵便局で広島カープの「カープ坊や」ポストの写真を撮りました。昔は、広島駅前郵便局という名前だったと記憶しています。雰囲気がかなり変わってきました。広島市内を走る「青バス(広電バス:広島電鉄株式会社)」と、「赤バス(広島バス株式会社)」も写真を載せます。ーーーーーーーーーーーー↓ 広島JPビル郵便局の「カープ坊や」ポスト。↓ 広島JPビル郵便局。↓ 広島JPビルとJR広島駅ビルの間に、広島テレビのビルが見えた。↓ 広島テレビ。↓ 工事中のJR広島駅ビル。↓ 福屋広島駅前店。↓ 青バス(広電バス:広島電鉄株式会社)。↓ 赤バス(広島バス株式会社)。
2023.11.03
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2023年9月15日、広島駅で特殊詐欺撲滅ポスターを見ました。JR広島駅は工事中で、工事現場の壁に掲示されています。全国ポスター展282億円!これは何の金額がわかりますか?昨年、全国で発生した特殊詐欺の被害総額です!そして広島県でも昨年、5億円近くの被害がでています。1件あたりにすると約250万円。ものすごい金額ですよね。全国の都道府県警察でも色々工夫を凝らして「特殊詐欺被害防止ポスター展」を作って被害を防ごうとしています。特殊詐欺の手口は全国共通です。この度は全国警察が作った様々なポスターを楽しみながら眺めていただき、さらに被害防止に必要な対策や知識も知っていただこうと考え「全国特殊詐欺被害防止ポスター展」を開催することとしました。またポスター展の実行に当たっては、この趣旨に賛同いただいた西日本旅客鉄道株式会社広島支社様の全面的なご協力をいただいており、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。それでは日本全国からの特殊詐欺撲滅に向けた熱いメッセージを旅気分で最後までご覧ください。ーーーーーーーーーーーー↓ 広島県 達川光男さん。↓ 長崎県 前川清さん。↓ 佐賀県 コロッケさん。↓ 高知県 吉田類さん。↓ 大阪府 NMB48 小嶋花梨さん、NMB48 塩月希依音さん。↓ 愛知県 「南知多の具志堅」こと海苔漁師の森下さん。↓ 長野県 ニッチローさん。↓ 新潟県 稲垣啓太選手(パナソニックワイルドナイツ)↓ 山形県 テツandトモさん。↓ 福島県 城島茂さん。↓ 東京都 警視庁犯罪抑止対策本部 ストッポ君。↓ 宮城県 楽天イーグルス 早川隆久選手。↓ 青森県 梅沢富美男さん。↓ 富山県 高原兄さん。↓ 工事中のJR広島駅。
2023.11.02
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2023年8月のお盆に、山口県に帰省する予定でチケットを購入していましたが、台風7号のため交通網が大混乱になる予想がでたため、キャンセルしました。田舎の親が首を長く伸ばして待っているので、改めて帰省することにしました。2023年9月15日早朝、妻と一緒に新幹線で東京から広島に移動します。社会人の長男、長女は、それぞれ別便で移動し、山口県で合流することになりました。母方の祖父母の墓が三滝にあり、墓参りのため広島駅で可部線に乗り換え、三滝駅で下車しました。祖父は1945年8月6日原爆投下前後で、色々な体験をしたのですが、孫の私には話をしませんでした。祖父が亡くなる少し前に、私が祖父に質問し、1時間程度、当時の事を教えてくれました。内容については、このブログの中で少し記載しておきます。三滝墓園で墓参りをした後、再び広島駅に戻ります。往復は、JR西日本227系・ レッドウィング(Red Wing)に乗車しました。広島は、どこにいっても広島カープの赤が基調色です。↓ JR西日本・可部線 三滝駅。 JR西日本227系・ レッドウィング(Red Wing)。↓ JR西日本・可部線 三滝駅。 ↓ 可部線。↓ 太田川放水路。↓ 三滝マップ。三滝墓園に行く。↓ 三滝墓園。母方の祖父母が眠っています。祖父は戦前、広島の中国憲兵司令部に勤務していました。呉上空で交戦して墜落した米軍機の米軍兵達を司令部内で捕虜としていました。祖父は毎日、米兵と会って話をしていたそうです。祖父は米兵について報告をするため、原爆が落ちる数日前に、東京の司令本部に出張しました。そして東京にて、広島が爆弾により壊滅したとの情報を聞きます。広島の状況を調査するように命令が出て、祖父はすぐに広島に戻ります。海田あたりで鉄道が不通になり、徒歩で広島市内に入ります。市内は建物がほとんど無く、海まで見渡せる景色にショックを受けたそうです。市内の人々悲惨な姿、そして死体の山々。夜は死体を燃やす火とリンによる人魂のような光を見て、涙が止まらなかったそうです。司令部も壊滅し、勤務者も米兵も死んでいました。米兵の識別票のようなものを見つけました。(その後、GHQにそれを渡したそうです)米軍機墜落で亡くなった米兵のため、祖父は墓を作ってGHQに報告したとのことです。広島で調査を行っていたため、被爆したので、原爆手帳を持っていました。もし祖父が原爆投下前に東京に出張していなければ、祖父は原爆で亡くなり、今の私はいなかったことになります。祖母はその頃、岡山県の総社市に疎開していました。色々な事がありましたが、祖父は90歳で亡くなりました。↓ 三滝駅に戻る。↓ 太田川放水路。↓ 横川駅。↓ オタフクソースの看板。↓ 本川。↓ 新白島駅。昔は、広島城が見えたと記憶しているが、今は見えない。↓ 広島駅 ekieにて。 広島カープグッズ。
2023.11.01
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2022年12月30日朝、私と妻は新幹線で東京駅から新広島駅まで移動し、山陽本線で山口県の岩国駅に快速で行きました。岩国駅の先は1時間に1本しかないので、待ち時間に岩国駅の「IWAKUNI COFFEE(岩国珈琲)」で食事をしました。店内では、ガラス越しに駅前の景色が綺麗に見えました。岩国駅から山陽本線で、田舎の最寄りの駅に着くと、父親が車で迎えに来ていました。車で20分以上かかる場所に田舎の家があります。長男は夕方に最寄りの駅に着いたので、私が車で迎えに行きました。長女は最終電車で最寄りの駅に着きました。私は酒を飲みすぎて寝てしまい、妻が車で迎えに行ったそうです、↓ JR岩国駅改札横の「IWAKUNI COFFEE : 岩国珈琲」↓ 店の窓から、駅前の景色が良く見える。↓ カツカレーを食べた。↓ 瑞風(みずかぜ)は、2023年1月22日に岩国駅に停車する。
2022.12.31
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広島県廿日市(はつかいち)市にある世界遺産の厳島(いつくしま)神社ですが、約70年ぶりとなる大鳥居の大規模修復工事で組まれた足場を撤去するので、その前に大鳥居の工事用通路が解放されました。厳島神社から工事用通路を通って、修復した鳥居を間近に見る事が出来ます。山口県に住んでいる私の母が、2022年11月18日に厳島神社に行きました。干潮だったので、歩いて鳥居まで行けたそうです。母がスマホで写真を撮り、メールで送ってきたので、ブログに紹介します。ーーーーーーーーーー↓ 2022年11月18日 広島県廿日市市 宮島の厳島神社の鳥居。鳥居のそばに回収工事用通路が設置されているが、干潮だったので、岸から歩いて鳥居まで行けたとの事であった。↓ 宮島の鳥居。↓ 改修。↓ 宮島の五重塔。
2022.11.18
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前回のブログで、河合奈保子さんの歌「まどろみスケッチ」を聴くと、鳥取砂丘を思い出すと書きました。1988年4月に、広島から兵庫県の竜野へ車で行き、揖保川に沿って北上し、兵庫県養父・加保坂付近にある水芭蕉(みずばしょう)生息地を訪れました。水芭蕉というと尾瀬などが有名ですが、加保坂の水芭蕉は、日本の西南限に生息する水芭蕉だそうです。私はその時初めて、野生の水芭蕉を見ました。その後、鳥取市の鳥取城址を通り、鳥取砂丘に行きました。広大な鳥取砂丘を見ると、思わず海辺まで叫びながら走りました。河合奈保子さんの歌「まどろみスケッチ」2番の「今 砂丘を駆けだす私 あなたの足に 追いつけなくて」というフレーズが、何度も頭の中を駆け巡りました。この曲を聴くと、当時の旅の出来事がよみがえってきます。ーーーーーーーーー兵庫県養父・加保坂付近の水芭蕉。日本の西南限に生息している。ーーーーーーーーーー↓ 鳥取城址。↓ 国立公園 鳥取砂丘。↓ いなばの白兎クッキー。↓ 鳥取砂丘にて。↑ 写真を3枚つなげてみた。↑ 足が砂丘の穴に入った。ーーーーーーーーーー↓ 河合奈保子さんのアルバム「スカイ・パーク:SKY PARK」 1983年6月A面5曲目 「まどろみスケッチ」(作詞:来生えつこ、作曲:筒美京平、編曲:大村雅朗)
2022.07.23
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2022年1月2日早朝、岩国錦帯橋空港内にある「ボーイング787操縦室模型」を見ました。案内には下記記載があります。「ボーイング787操縦室模型ANAの最新鋭機ボーイング787の実物大操縦室模型です。左側が機長席、右側が副操縦士席です。ボーイング787は機体の多くに炭素繊維素材が使われているため、従来型機に比べ軽量で燃費が約20%向上し、機内の気圧や湿度も地上とほぼ同等に保たれています。窓も一回り大きく、スイッチでガラスの濃淡が変わる電子式日よけを採用しています。主翼や胴体の接合部などの主要部品の約35%は日本製であり、準国産機といえます。ANAは2011年、この飛行機の世界最初の商業飛行を行った航空会社です。【(模型)製作者のご紹介】ANA岩国空港所 砂田重雄整備士山口県周防大島町出身で、ANAには1973年4月に入社しました。岩国ー東京線に使われているボーイング737やエアバスA320だけでなく、ボーイング787、ボーイング777、ボーイング767の合計5機種の飛行機の整備資格を持つベテラン整備士です。この模型はANA岩国空港スタッフの『開港一周年をお祝いしたい』という気持ちに応え、2013年9月から約3か月間、余暇の時間に趣味の日曜大工の腕を活かしてひとりで作り上げてくれました。残念ながらお客様に実際の飛行機の操縦室はお見せできませんが実物そっくりに作られたこの模型で、操縦室に入った感覚をお楽しみください。ANA 岩国空港スタッフ一同 」↑ ボーイング787操縦室模型 正面。↑ 機長席。↑ 副機長席。↑ 模型の裏側。ーーーーーーーーーーーーーーーーボーイング787操縦室模型の案内
2022.02.01
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2022年1月2日早朝、山口県の岩国空港に行き、売店で買い物をしました。↑ 2022年1月2日早朝。岩国錦帯橋空港。↑ 岩国錦帯橋空港。↑ 岩国空港入口。↑ 空港内売店。↑ つまんでちょんまげ。ーーーーーーーーーーーー【吉田松陰のポテトチップ】ーーーーーーーーーーーーーーーー【ふぐ煎餅】ーーーーーーーーーーーーー【赫赫(かくかく)】ーーーーーーーーーーー【獺祭(だっさい):旭酒造】ーーーーーーーーーー【錦川が育んだ酒蔵 酒造所在地MAP】↑ 画面左から「金雀(きんすずめ):堀江酒場」、「金冠黒松(きんかんくろまつ):村重酒造」、「雁木(がんぎ):八百新酒造」、「五橋(ごきょう):酒井酒造」。ーーーーーーーー「金雀(きんすずめ):堀江酒場」ーーーーーーーーーー「雁木(がんぎ):八百新酒造」ーーーーーーーー「五橋(ごきょう):酒井酒造」ーーーーーーーーーーー「金冠黒松(きんかんくろまつ):村重酒造」ーーーーーーーーー萩のチョンマゲビール。ーーーーーーーーーー広島カープの「カープぼうや」とコカ・コーラ。ーーーーーーーーーーー作家の宇野千代が愛した漬物。↑ 漬物が旨ければ、一日が幸福です。↑ 岩国出身の作家、宇野千代。ーーーーーーーーーーーー山口県立萩美術館・浦上記念館 すぽっと展示。
2022.01.31
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父親は毎年、年末に近くなると、門松をひと門作って近くの神社に奉納します。↑ 杖を作って、自由に使えるようにした。↑ 父が作った門松。(右側)↑ (左側)。↑ 寛政9年。(1797年)
2022.01.27
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2016年9月3日、広島おりづるタワーに行きました。12階の広場からは、原爆ドームを見下ろすことができます。防護ネットが張ってあるため、写真を撮るとネットが入ります。入場料はちょっと高い気がしました。スロープを降りると、「ブラックジャックによろしく」などで有名な漫画家・佐藤秀峰さんの平和をテーマにした作品が沢山飾ってありました。広島市民球場の跡地を見ると、外野の観客席の一部が残されていました。↑ おりづるタワー。広島市中区大手町1丁目にある。↑ 12階の「ひろしまの丘」。↑ おりづるタワーのスタッフの方。手はおりづるの形。↑ 私も真似た。↑ 原爆ドーム。↑ 手前は広島商工会議所。川の向こうは中国新聞社。↑ 広島平和公園。↑ 散歩坂。↑ 滑り台。下の階に行くと、ネットが無い所があり、写真を撮った。↑ 広島市こども文化科学館。プラネタリウムのドームがある。↑ 広島城。奥は基町高校。手前は広島市立中央図書館。↑ 広島城。↑ 広島城の天守閣。↑ 広島市民球場跡地。球場は広島駅近くのマツダスタジアムに移転。↑ 広島市民球場の外野席が一部残る。後ろは広島県立総合体育館と小アリーナ。↑ 広島市民球場の外野席部分。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 「ブラックジャックによろしく」などで有名な漫画家・佐藤秀峰さん↑ 佐藤秀峰さんの紹介。↑ 佐藤秀峰さんのメッセージ。↑ 佐藤秀峰さんの作品が沢山展示されていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 路面電車で横川駅に行った。↑ 横川駅。
2020.08.16
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前回のブログで、学生の頃に書いた火の玉の漫画を載せましたが、続けて恐怖の話コーナー②の漫画を載せます。別に怖い話ではないのですが、学生の頃、予知夢やデジャヴのような体験をしたことがあり、不思議に思っていました。
2020.08.15
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私の父方の祖父は、山口県柳井市で農家をしていました。江戸時代、岩国城主・吉川家による年貢の取り立てがあまりに厳しく、飢饉で自分たちの食べ物さえ無い状態になり、祖先は年貢の取り立てを緩くしてもらうよう訴えを起こしました。ところが一揆とみなされ、祖先ははりつけで処刑されました。生き残った農民が村に石碑をこっそりと作り、それが残っていることが郷土史の本に書いてありました。小学校の頃、夏に父方の田舎に行くと、祖父、父、叔父が色々な話をしてくれました。今でも印象に残っている叔父の話を書きます。山口県光市には海軍工廠(かいぐんこうしょう)があり、戦時中は軍事用品を作っており、叔父も学徒動員として毎日働かされていました。1945年8月14日、叔父は仕事がいやになり、こっそり工場を抜けて、海軍工廠近くの海岸で魚釣りをしていたそうです。すると昼頃に急に米軍B29爆撃機の編成隊が海軍工廠に爆弾攻撃をし、工場はほとんど壊滅し、700人以上の人が亡くなりました。叔父はたまたまその日、工場を抜けて助かりました。もし働いていたら死んでいた事でしょう。祖父の家の山側に、人が一人入れる穴があります。祖父が何年もかけて、毎日少しずつ掘り進めた穴です。ひと山越えた向こう側までトンネルを通す計画で、米軍が攻めて来たとき、家族が逃げられるようにしたかったそうです。穴はかなり奥まで伸びているそうですが、入り口は蓋をしています。田舎の近所で、死んだ人の幽霊が時々立つ場所があります。祖父はその幽霊に会うと、「おまえはもう死んだのだから成仏しろ」と説教をするのに、なかなか成仏しないとぼやいていました。下の漫画ですが、私の父親から聞いた本当の話を、学生の頃に漫画にしたものです。学校から帰る途中の共同墓地を通ると、よく火の玉を見て怖かったそうです。火の玉は結構移動するらしく、家の屋根に落ちたら、必ずその家に不幸があるとして恐れられていました。
2020.08.14
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私の母方の祖父の思い出と、祖父が原爆、米兵と関わった事について書きます。1945年7月28日5時、沖縄の読谷(よみたん)飛行場を米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」、「タロア号」など全部で33機が飛び立ち、昼に広島県呉市にある日本海軍戦艦「榛名(はるな)」を攻撃しました。榛名の対空砲火で「ロンサムレディー号」は山口県玖珂郡伊陸(くがぐんいかち)に落ち、「タロア号」は広島県佐伯区八幡(さえきくやはた)に墜落しました。私の祖父は当時中国憲兵隊司令部に勤務しており、馬に乗って墜落した「タロア号」を見に行ったり、司令部で米兵捕虜に質問したりしたそうです。その後「ロンサムレディー号」機長のカートライト氏など3人が東京の本部に送られ、祖父も本部に報告をするため東京に出張していました。1945年8月6日8時15分、広島に原爆が投下され、壊滅状態になりました。祖父は広島の状況を確認するため広島に戻り、広島市内にほとんど建物が残っておらず、瀬戸内海まで見渡せたことにショックを受けたそうです。中国憲兵隊司令部の軍人と捕虜の米兵は全て亡くなっており、米兵が居た場所で骨を拾いました。またGHQの命令で、タロア号が墜落して米兵が死亡した場所に、墓標を建てて写真を撮りました。祖父は、戦争時代の事を一切家族に話しませんでした。私の母親も、何一つ聞いていないと言っていました。祖父が亡くなる少し前、私がぜひ戦争の事を聞きたいとお願いした時、1時間だけ話をしてくれました。ノートにメモを残したのですが、それが私の唯一の記録です。歴史研究家の森重昭(もりしげあき)さんが「原爆で死んだ米兵秘史」、「爆撃機ロンサムレディー号 被爆したアメリカ兵」という本を出版され、その中に祖父の手記と写真があることを知り、読んでみました。私が海外に住んでいたため知らなかったのですが、祖父は米兵の事について放送局から取材を受けていたそうです。私が祖父から聞き取ったメモ、祖父の手記から、少し紹介します。・祖父は大正5(1916)年2月に広島で生まれました。旧制の修道中学校を卒業し、就職をしましたが、昭和12(1937)年の日中戦争が始まった年に徴兵検査で広島11連隊に入隊します。翌年の昭和13(1938)年に馬に乗れるとの理由で東京の憲兵隊に入ります。毎日の勉強は厳しく、法律など寝るのを惜しんで覚えたそうです。隣の建物は、有名な陸軍中野学校でした。成績は2番で、記念に陸軍大臣の銀時計を頂いたとの事で、うちの田舎に置いてあります。・日中戦争が始まってから、中国の上海、南京、青島など各地に行ったそうです。東京にいるとき、司令部の建物で吉田茂氏を毎日見ていたと言っていました。・昭和20(1945)年4月20日付で東京から岡山に赴任し、6月1日付で広島の中国憲兵隊司令部に配属されます。・7月28日に米軍爆撃機B24爆撃機の「ロンサムレディー号」などが呉で戦艦「榛名」の高射砲を浴び、墜落します。生き残っていた捕虜は中国憲兵隊司令部に連れていかれ、祖父は学んだ英語で米兵と話をしてみたそうです。・7月30日にロンサムレディー号の機長であるカートライト氏など3名を、東京の司令部に連れていく事になり、隊員が汽車で20時間かけて移動したが、途中の大阪駅で汽車を乗り継ぐとき、群衆が米軍捕虜に石を投げつけ、それを防ごうとした隊員にも石が飛んできて大変だったらしいです。・「タロア号」が江波の高射砲で撃墜され、五日市方面に墜落するのを見た祖父は、自動車が無かったので馬に乗り佐伯区八幡の現場に行き、現状を確認しました。その途中の広島市草津町で米軍捕虜3人を乗せたトラックとすれ違い、街道に集まった町民は万歳と絶叫していたそうです。・祖父は8月3日、事務連絡のため広島から東京本部に汽車で移動し、4日夕方に到着しました。・8月6日8時15分に原爆が広島に投下され、祖父はその一報を同日午後4時に本部で聞きました。一報は「今朝8時頃広島に敵機3機来襲、新型爆弾1発の投下により広島市は瞬時にして壊滅せり」でした。・祖父は広島での状況を報告する命令を受け、8月7日早朝に東京を出発し、9日朝に広島駅の二つ手前の海田市駅に着きました。それより先は広島が被災して不通だったので、徒歩で広島駅に向かいました。広島駅から見る広島市内は一面焼け野原で、その中に点々と逓信病院、福屋百貨店、産業奨励館(原爆ドーム)、光道小学校などの残骸が見える程度でした。焼け野原の向こうに艦船が浮かんだ江田島の海が見えた時は、凄まじい破壊力に愕然としたそうです。死体が炎天下であちこち転がっており、腐敗の悪臭が漂います。夜は死体を焼く火や燐の火の玉が見え、思わず涙ぐんだそうです。・終戦直後にGHQの命令があり、祖父は佐伯区八幡の「タロア号」墜落現場に行き、米兵供養のため「米軍勇士之墓」と墨書きした6基の十字架を建立し、写真を残しました。その後米兵の骨はアメリカの遺族に引き渡されたそうです。・終戦後、公職追放命令が出たので祖父はおもちゃ屋を開き、子供5人を育てました。岩国城の祭りでは、乗馬ができる祖父が兜、鎧を身に着けて侍の恰好をし、馬で街を巡ったそうです。・戦争の事は何一つ一切言わない祖父でしたが、遺言には、祖父が持っていた戦争関係の資料とレコードは孫の私にと書いてあり、田舎に保管してあります。レコードは歌謡曲、洋曲、映画のテーマ曲などありました。祖父は皆の前で英語の歌を歌うことがあり、アメリカに興味があったのだと思います。・祖父は原爆手帳を持っていました。病気もありましたが、90歳で亡くなりました。↑ 私の祖父と岩国基地のキーフ少佐。1998年7月29日、中国憲兵隊司令部跡地に設置された米兵被爆死者慰霊銘板の除幕式。↑ 2016年9月3日に私が撮影した米兵捕虜慰霊の銘板。広島市中区基町12-8、宝ビル北側。↑ 中国憲兵隊司令部の被爆後の写真。↑ 原爆で死んだ米兵秘死/森重昭/光人社/2008年8月11日発行。↑P1 出撃の半年前に撮影したロンサムレディー号の乗組員。(フランシス・ライアン氏提供)↑P2 1945年7月28日、呉港外の江田島小用沖に繋留中、米空母艦載機の攻撃を受ける戦艦「榛名」。この日日本軍によってロンサムレディー号とタロア号のB24爆撃機2期、艦載機20機の米軍機が撃ち落とされた。↑P.3 祖父が撮影した写真。1945年7月28日、B-24爆撃機タロア号が墜落した広島市佐伯区の現場(藤田明孝氏撮影)。↑ P.4 呉空襲で戦艦「榛名」が撃墜したロンサムレディー号と同型のコンソリデーテッドB24。↑P.5 ロンサムレディ号の胴体には、大海原で助けを求める全裸の孤独な貴婦人の絵が描かれていた。(デイビッド・H・ロジャース氏提供)↑ P.6 祖父が撮影した写真。1945年7月28日に飛行機が撃墜されて以降、広島市佐伯区の墜落現場に建てられたB24爆撃機タロア号の搭乗員マービン、カークパトリック、アリソン、パシフィールド、ジョンストン、フォールスの墓標。土葬されており、戦後、米軍が遺骨を持ち帰った。(藤田明孝撮影)P.7 広島に原爆を落としたエノラ・ゲイ。1945年8月6日午前1時45分にデニアン北飛行場を出撃し、8時11分に広島上空に到達、同15分に原爆を投下した。爆発直後テニアン基地に攻撃成功を打診し、午後1時58分、無事基地に到着した。P.7 テニアン基地に帰還したエノラ・ゲイの搭乗員と地上整備員。2列目中央の飛行服を着用しているのが機長のボール・ちべっつ陸軍大佐。エノラ・ゲイとはチベッツ大佐の母親の名前であり、機体の守り神として機首の横に記されていた。エノラ・ゲイの12人の搭乗員全員がアメリカ政府より表彰された。P.8 広島上空に出現したキノコ雲。エノラ・ゲイは8月6日午前8時15分に9,600メートルの高度から原爆を投下した。原爆は投下から43秒後に広島上空約600メートルの高さで激しい閃光とともに爆発し1秒後に直径280メートルの火の玉が出現、キノコ雲は高さ約1万メートルの成層圏の下端にまで達した。P.8 コンクリートの建物以外、何も残っていない原爆投下後の広島の惨状。1990年5月15日の厚生省(当時)の発表によると、広島の被爆死者数は20万1990人、長崎9万3966人で、合計29万5956人が原爆の犠牲となった。P.18 米兵捕虜搭乗機墜落地点(1945年7月25~28日)①B-24ロンサムレディー号、②B-24タロア号、③SB2Cヘルダイバー、④TBMアベンジャー。P.132~133 中国憲兵隊司令部で何があったのか。P.133 祖父(藤田明孝)が写真と記事に紹介されている。P.134 中国憲兵隊司令部後に設置された被爆死した米兵捕虜慰霊の銘板。 P.137 被爆当時の基町一帯の軍事施設の配置。P.137 中国憲兵隊司令部の場所。 爆心地から400m。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ 爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵/トーマス・C・カートライト/訳者:森重昭/日本放送出版協会/2004(平成16)年7月25日発行。P.122~123 P.122 中国憲兵隊司令部跡地に掲げられた記念の銘板。ロンサムレディー号の6人を含む全部で11人の原爆犠牲者の冥福を祈るものである。これは広島の森重昭氏が発案し、何人かの浄財の提供を受け建立された。(写真提供:森重昭氏)P.194~209 祖父の手記。証言 原爆による被害前後の中国憲兵隊司令部追憶記/元中国憲兵司令部勤務憲兵准尉/藤田明孝ーーーーーーーーーーーーーーー2020年8月7日 朝日新聞朝刊。 原爆ドームと平和記念公園周辺(4枚を1枚に合成)8月6日午前、広島市中区 上田幸一撮影。↑ 爆心地(島病院)、広島市役所、広島県産業奨励館(原爆ドーム)↑ 本川国民学校。広島県商工経済会(現広島商工会議所)の建物屋上から南側を撮影したパノラマ写真(1945年9月)。
2020.08.13
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広島市紙屋町の宝ビル(広島市中区基町12-8)に、原爆で死亡した米兵捕虜の慰霊銘板があります。ここは、中国憲兵隊司令部があった場所です。原爆で日本人や近隣アジアの方々が亡くなられましたが、連合国側の米国人、英国人、オランダ人が含まれていたという話は知られておらず、歴史研究家の森重昭(もりしげあき)さんが長年調査をされ、本にまとめて発表されました。米軍捕虜については、私の母方の祖父も深く関わりがあります。1945年7月28日、米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」、「タロア号」そして多数の艦載機は広島県呉市を攻撃しますが、呉港の戦艦「榛名」の対空砲火で撃墜されます。撃たれた「ロンサムレディー号」は山口県玖珂(くが)郡伊陸(いかち)に落ちました。機長のカートライト氏などが捕虜となり、中国憲兵隊司令部にて尋問が行われます。私の祖父は司令部で勤務しており、米軍捕虜と英語で話したと言っていました。また、広島県佐伯区八幡(さえきくやはた)に爆撃機「タロア号」が墜落したというので、祖父は馬に乗って移動し現場検証をしました。途中の広島市草津町付近で、捕虜3人を乗せたトラックとすれ違った時は、町民が捕虜を見て「万歳、万歳」と絶叫し、圧倒されたそうです。司令部での尋問は「日本の他の大都市は米軍の大空襲に見舞われているが、なぜ広島はいまだに攻撃しないのか」という内容が主だったようですが、米軍は何も知らないと言うばかりなので、機長のカートライト氏を含め3人が東京憲兵本部に移されて、そこで詳しく話を聞くことになりました。私の祖父は一連の出来事を報告をするため東京に移動したのですが、その後、1945年8月6日に広島に原爆が投下されました。広島が全滅したとの連絡を受け、祖父はすぐに広島へ向かいました。広島に着くと、市内は焼け野原で建物がほとんど無く、瀬戸内海まで見渡せた事にショックを受けたそうです。中国憲兵隊司令部にいた軍人、米兵捕虜は全員死亡でした。終戦直後、GHQの命令により、祖父は広島県佐伯区八幡の墜落現場に行き、「米軍勇士之墓」と墨書きした6基の十字架を建立し、写真に収めました。また、憲兵司令部留置所の跡地で米軍捕虜の骨を拾い集めたり、米軍の認識票を見つけ、米軍に引き渡したそうです。歴史研究家の森重昭さんは、米軍捕虜について長年調査され、米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」の機長カートライト氏が米国に無事戻った事を知り、大変なご苦労をされて、カートライト氏とコンタクトを取る事に成功しました。カートライト氏は森氏の招待により、1999年に来日されます。カートライト氏は1946年2月に除隊後、1954年に農学博士となり、テキサス農業工科大学名誉教授になられました。中国憲兵隊司令部跡地に掲げられた銘板は、ロンサムレディー号の6人を含む全部で11人の原爆犠牲者の冥福を祈るもので、森重昭さんが発案し、何人かの浄財の提供を受けて1998年7月29日に建立されたそうです。写真は2016年9月3日に撮影しました。↑ 広島市紙屋町の宝ビル(広島市中区基町12-8)にある、原爆で死亡した米兵捕虜の慰霊銘板。↑ 銘板。↑ Site of Former Chugoku Military Police Headquarters. Photographed by Toshio Kawamoto.旧中国憲兵隊司令部の場所。 川本俊雄(かわもととしお)氏撮影。写真中央:被爆後の中国憲兵隊司令部。写真右上:ロンサムレディー号のメンバー。写真左上:タロア号のメンバー。↑The atomic bomb dropped on Hiroshima August 6, 1945 devastated the city and its people with a force beyond any known before. U.S.Air Force and U.S.Navy airmen interned as POWs at the Chugoku Military Porice Headquarters which was located at this site, near the epicenter, were among the victims of this holocaust. This plaque is placed in the memory of these brave and honorable men. May this humble memorial be a perpetual reminder of the savagery of war.1998.7.29(訳してみました)1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、それまでの人知をはるかに超えた力で街と人々を壊滅させた。米国空軍と米国海軍の飛行兵は、爆心地に近いこの場所にあった中国憲兵隊司令部に捕虜として収監され、大参事の被害者となった。この銘板は勇敢で名誉ある米軍犠牲者の記念として設置するものである。このつつましい記念碑が、残虐な戦争を永久に忘れないための一助になることを願って。1998年7月29日 ↑ 2016年5月27日。オバマ米国大統領と歴史研究家の森重昭さん。広島平和記念公園にて、↑ 私が持っている資料。右:爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵/トーマス.C.カートライト/森重昭訳/NHK出版/2004(平成16)年7月25日発行。中:原爆で死んだ米兵秘史/森重昭/光人社/2008年8月11日発行。左:文藝春秋(平成28年7月号)/文藝春秋/平成28(2016)年7月1日発行。P120~128「独占手記 オバマは広島で私を抱きしめた/歴史研究家/森重昭」。文藝春秋(平成28年7月号)/文藝春秋/平成28(2016)年7月1日発行。P120~128「独占手記 オバマは広島で私を抱きしめた/歴史研究家/森重昭」。↑ 銘板の下にある新聞記事。記事を上から読んでください。↑ ココカラファインの建物の右下に、慰霊銘板がある。↑ 広島市内。↑ そごう。紙屋町。
2020.08.12
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2020年8月1日、広島市本通りにある広島アンデルセンのビルが建て替えられ、リニューアルしたというニュースを見ました。広島アンデルセンのビルですが、元々は1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。その後銀行合併で帝国銀行広島支店となりました。1945(昭和20)年8月6日に原爆が投下されたときには、猛烈な爆風のため、屋根は抜け落ち、爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。戦後、建物を広島アンデルセンが買い取り修復を行い、1967(昭和42)年にベーカリーをオープンしました。広島アンデルセンの建物を2018年6月29日に撮影したので、紹介します。私は中学生の時、アンデルセンのサンドウィッチを時々食べていました。↑ 帝国銀行広島支店(爆心地から約360メートル)。原爆により破壊されるも、形は残った。↑ 広島アンデルセン本通り店にある看板。↑ 帝国銀行広島支店(爆心地から約360メートル)この建物は、1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。原爆が投下されたときには、合併により、帝国銀行となっていましたが、猛烈な爆風のため、屋根は抜け落ち、爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。戦後、何度か修復され、現在はベーカリーとして利用されています。↑ 広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)。写真は2018年6月29日撮影。↑ 広島アンデルセン。↑ 広島本通り。左側にアンデルセンがある。↑ アンデルセン前の交差点。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【2020年8月1日、広島アンデルセン リニューアルオープン】↑ 広島アンデルセン 完成予想図 (広島アンデルセン ホームページより)
2020.08.11
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2015年8月29日、新幹線で東京から広島へ移動し、高校時代の友人と合流して広島市立中央図書館へ行きました。約35年前に行ったのが最後でしたから、本当に懐かしかったです。高校時代は、学校の帰りにここで本を読んだり借りたりしました。休日に図書館へ行ったときは、昼に食堂でスパゲッティを食べていました。自習室で勉強の恰好をすることもありました。↑ 広島市立中央図書館の食堂でソフトクリームを食べる。昔はスパゲッティをよく食べていた。↑ 食堂。高校の友人。↑ 図書室入口。↑ 図書室入口。廊下の奥には別の図書室がある。↑ 自習室と友人。ーーーーーーーーーーーーーー【広島城】↑ 広島城に行った。ーーーーーーーーーーーー広島に行ったら、必ずお好み焼きを食べる。私は必ず「肉玉うどん」。
2020.08.10
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2016年5月27日、アメリカ・オバマ大統領は原爆地広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑前で所感を述べました。また大統領は4羽の折り鶴を折り、2羽は広島平和記念資料館で大統領を出迎えた2人の子供達に渡し、核兵器廃絶に向けたメッセージを記した後、別の2羽の折り鶴をメッセージに添えました。↑ 原爆死没者慰霊碑前で所感を述べるオバマ大統領。2016年(平成28年)5月27日 広島市広報課提供。President Obama Expressing His Opinion in fromt of the Cenotaph for the A-bomb Victims.May 27, 2016 Courtesy of Public Relation Division of Hiroshima City.↑ オバマ大統領。↑ 広島平和記念公園。 原爆死没者慰霊碑と原爆ドーム。↑ オバマ大統領の広島訪問。 原爆死没者慰霊碑前で所感を述べるオバマ大統領。2016年(平成28年)5月27日。↑ アメリカのバラク・オバマ大統領は2016年(平成28年)5月27日に、核兵器保有国の現職の国家元首として初めて、平和記念公園と広島平和記念資料館を訪れました。広島平和記念資料館では、被爆し白血病で亡くなった佐々木禎子さんが病気の快復を願って折った鶴など数点の展示を見た後、自らが折った鶴4羽を広島市へ送り、核兵器廃絶へ向けたメッセージを記しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↑ オバマ大統領が折った鶴と、メッセージ。↑ オバマ大統領の自筆メッセージ。↑ オバマ大統領のメッセージと訳。↑ 左側上説明:オバマ大統領から子供達へ手渡された折り鶴 2羽。中央下:子供達へ手渡された折り鶴の1羽。右側上説明:オバマ大統領がメッセージの傍らに添えた折り鶴。(2羽のうち1羽は長崎原爆資料館に貸出している)↑ オバマ大統領から子供達へ手渡された折り鶴。広島平和記念館でオバマ大統領を出迎えた2人の子供たちに手渡されたものです。2羽のうち1羽をアメリカ・シカゴで開催する原爆展へ貸出しています。↑ オバマ大統領の広島訪問。↑ メッセージを記すオバマ大統領と安倍首相。後ろに見えるのは、平山郁夫氏が描いた「平和のキャラバン・東(太陽)の陶壁画です。2016年(平成28年)5月27日 外務省提供。↑ 被害者坪井直氏と言葉を交わすオバマ大統領。所感を述べた後、オバマ大統領は被害者と言葉を交わしました。2016年(平成28年)5月27日 広島市広報課提供。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【原爆の子の像】↑ 原爆の子の像。像のモデルは原爆による白血病で亡くなった佐々木禎子さん。製作者は菊池一雄氏。佐々木禎子さんや多くの患者が、折り鶴で千羽鶴を作れば元気になると信じて折り続けた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【国立広島原爆死没者追悼平和祈念館】↑ 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。国として原爆死没者の尊い犠牲を銘記し追悼の意を表すとともに、永遠の平和を祈念するため、2002年8月に開館した。↑ 平和祈念・死没者追悼空間。壁画には、爆心地付近から見た被爆後の街並みを死没者数約14万人*と同数のタイルを用いて表現している。その下には、被爆当時の広島地域の町名を表示している。*1945年(昭和20年)12月までの死没者数
2020.08.09
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2016年9月3日、広島平和記念資料館に行きました。以前見に行ったときと比べ、再現人形が無くなっており、展示が変わっていました。↑ 広島平和記念公園の慰霊碑と原爆ドーム。↑ 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」↑ 広島平和記念資料館の入場券。↑ 米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」がマリアナ諸島のテニアン島を出発し、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、広島上空で投下した原子爆弾「リトルボーイ」の模型。↑ 原爆は地上600mで爆発し、同時に火球を生じた。赤い球は、1秒後の火球(直径280m)を示している。↑ 原爆投下後の広島の惨状。原爆ドームが見える。↑ 中央は原爆ドーム。↑ 折り紙。↑ 広島平和公園。
2020.08.08
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広島市の原爆ドームです。2016年9月3日に撮影したものです。この歳になっても、未だに「原爆を許すまじ」、「広島平和の歌」、「長崎の鐘」のメロディーラインと一部の歌詞を覚えています。原爆ドームの近くに児童文学者・鈴木三重吉の碑があります。鈴木三重吉は明治15(1882)年に原爆ドームの近く(エディオン広島本店付近)で生まれました。東京帝国大学では夏目漱石の講義を受けました。児童文学誌「赤い鳥」を作り、日本の児童文学に影響を与えました。【原爆ドーム】↑ 原爆ドーム。(旧広島県産業奨励館)↑ 原爆ドーム。昭和20(1945)年8月6日、史上初めての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した。その1個の爆弾によって20万人を超える人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。昭和42(1967)年8月6日 広島市。↑ 元安川。左から広島商工会議所、原爆ドーム、おりづるタワー。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)】 原爆ドームのそばにある。↑ 赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)「千鳥」、「桑の実」などの名作によって明治大正期の文壇に生彩を放った鈴木三重吉(1882~1936)は、明治15年にこの地に生まれました。大正7年、少年少女の雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本最初の童謡童話が誕生しました。綴り方や自由詩をしどうして児童の創造を高め、外国の名作童話も紹介し、我が国の児童文学の父とよばれています。この碑は昭和39年6月、被爆地ヒロシマの文化の復興のシンボルとして建てられ、平和への願いが込められています。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)の作品。碑には「私は永久に夢を持つ。ただ年少時のごとく。ために悩む事浅きのみ。三重吉」と刻まれています。↑ 鈴木三重吉 1926年。 「赤い鳥」創刊 1918年。↑ 広島出身の児童文学者、鈴木三代吉の胸像。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏の作品。「私は永久に夢を持つ。ただ年少時のごとく。ために悩む事浅きのみ。三重吉」。圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏の作品。
2020.08.07
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2019年8月12日昼、山口県下松市美里町にある「のん太鮨・下松店」へ行きました。妻の母が、毎年お盆になるとこの店でご馳走してくれます。ここの鮨は美味しく、いつも楽しみにしています。↑「のん太鮨・下松店」。↑ 店内の風景。
2019.12.11
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2019年8月11日、山口県の田舎でバーベキューをしました。毎年恒例で、お盆の帰省時に庭の四阿(あずまや)で行います。両親が炭や肉を用意しており、酒を飲みながら肉や野菜を焼き、色々な楽しい話をします。ここの家や四阿は、両親、父の兄、父の友人が手作りで建てました。私が小学生低学年の頃、週末になると車で広島からこの場所に来て、家を少しずつ造っていきました。当時は土地の端に小さな池があり、私はヤゴやタガメなどを捕まえて水槽に入れて、広島に持って帰るのが楽しみでした。土地に溝を掘り、セメントミキサーで混ぜたセメントを型に入れて固め、ブロックを積みました。木材も直接取引で購入していました。家ができるのに2年以上かかったと思います。いまだに父は、自分で家の改修や部屋の増築をしています。↑ 田舎の四阿(あずまや)で、バーベキューの準備をする。↑ 炭。↑ やぶ蚊対策で、蚊取り線香をいっぱい用意する。↑ 家も、この四阿も手作り。↑ 炭に火をつける。↑ 団扇の代わりに、エアーコンプレッサーで炭を燃やす。↑ エアーコンプレッサーを使う。↑ 煙対策で保護眼鏡をかける。↑ 赤くなってきた。↑ 裏の畑で取れた玉ねぎ。↑ 裏の畑で取れた枝豆。↑ ビールを飲む。↑ 肉を焼く。↑ 日が沈みそう。↑ どんどん焼いては食べる。↑ 食事が終り、色々な話をする。↑ 使えそうな炭は壺の中に入れておき、残りは水を掛ける。↑ 月が出てきた。
2019.12.10
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2019年8月10日、山口県の田舎に帰りました。【2019年8月10日】↑ 山口県岩国駅。↑ 家に着き、スイカジュースを飲む。【居間】↑ 夕食時間になる。 私の父と長男。↑ 味見をする長女。↑ 唐揚げ。↑ 飲み始める。↑ 餃子が出る。【2019年8月11日の朝】↑ 朝食。【居間と台所】↑ ヨーロッパの人形、土産物。国や地域ごとに分けている。↑ ヨーロッパの人形、土産物。国や地域ごとに分けている。【玄関】↑ オランダで購入した絵。【寝室】↑ かき氷を作る。
2019.12.05
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2019年8月10日、JR広島駅の「カルビープラス広島駅店」に入りました。ジャガビーのポッタ人形が目につきます。「ありがとう70th」という掲示版が置いてあり、カルビーの前身「松尾糧食工業株式会社」が1949年に設立され、最初は「カルビーキャラメル」を製造販売していた写真があります。カルビーの社名は、カルシウムの「カル」と、ビタミンB1の「ビー」を組み合わせた造語です。1964年に「かっぱえびせん」を発売し、1971年には「仮面ライダースナック」が一大ブームを巻き起こします。仮面ライダースナックは当時20円で、購入すると付いてくるカードが目当てで、一生懸命買ってはカードを集めていました。友達の家に遊びに行っても、おやつは仮面ライダースナックがでてくるので、食傷ぎみになりました。ラッキーカードが当たると、仮面ライダーアルバムがもらえます。このアルバムにカードを入れて友人と見せ合うのが流行りでした。持っていないカードを友達と交換する事もあります。友達が持っているカードの中に、どうしても欲しい物があり、私の大事にしている10枚のカードを出すなら交換できるという話になりました。迷った挙句、私の10枚と友達の1枚を交換しました。その日は大喜びで家に帰ったのですが、次の朝、どこを探してもカードが見当たりません。母親に見なかったかと聞くと、もしかしたらズボンのポケットに入れていたのではという話になり、洗濯中のズボンを見ると、ぼろぼろになったカードが出てきました。その日は大泣きでした。この歳になっても仮面ライダーカードというと、あの日の泣いた事を思い出します。手元にある「昭和40年男 Vol.39 2016年10月号 【特集 俺たちの宝物】/株式会社クレタパブリッシング」に、全ての仮面ライダーカードが紹介されており、とても懐かしくなります。小学生の頃、夏休みの宿題で「社会科見学」をする課題があり、私は友人と一緒にマツダの広島工場を見に行き、休み明けに発表しました。クラスメートの中にはカルビーの工場見学をした人たちもいて、沢山のカルビー商品をいただいたと自慢していたので、うらやましかった記憶があります。広島駅辺りにはお好み焼きがあり、色々とまわっていますが、この日は「福ちゃん」に行きました。お好み焼きですが、私は「肉玉うどん」をいつも食べています。↑ JR広島駅の「カルビープラス広島駅店」。↑ カルビー70周年。 「知ってた? カルビーの始まり」パネル。↑ カルビーの前身「松尾糧食工業株式会社」が1949年に設立され、最初は「カルビーキャラメル」を製造販売していた。↑ 飴の成型機の紹介。Calbee:カルビーは創業当時、広島市内でキャラメルの製造をしておりました。その当時使用していた機械です。↑ 飴の成型機。↑ 1964年 かっぱえびせん発売。大人気のかっぱえびせんを買い求める人達でにぎわいました。↑ やめられない とまらない 8月10日はかっぱえびせんの日。↑ カルビーのキャラクター「かっぱえびくん」。↑ Jagabee:ジャガビーのゆるキャラ「ポッタ」。↑ ポッタ。↑ 昭和40年男 Vol.39 2016年10月号 【特集 俺たちの宝物】/株式会社クレタパブリッシング。↑ 昭和40年男 Vol.39 2019年10月号 p14~p15。仮面ライダーカード。p16~p17。p18~p19。↑ p20~p21 総数540枚超! キミは何枚集めた?↑ p14。 記念すべき①番。 仮面ライダー第1話は「怪奇蜘蛛男」だった。カード①番も「蜘蛛男」になっている。↑ p14。仮面ライダースナックのデザイン。↑ p17。 仮面ライダーアルバムの紹介。↑ 広島駅のお好み焼き「福ちゃん」。↑ 肉玉うどん。 小学生の時から、お好み焼きは肉、卵、うどんと決めていた
2019.12.04
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2019年4月7日、岩国・錦帯橋と桜の風景です。吉香公園には、岩国第三代藩主の吉川広嘉(きっかわひろよし)の銅像があります。1673年に吉川広嘉の命により、5連アーチの木造橋が建造されました。翌年の1674年に錦川の増水で橋が流されましたがすぐに再建しました。1950年の台風で再び橋が流されました。コンクリートの橋にするかどうか議論されましたが、木造橋の希望が多く、木で再建されました。2002年~2004年には平成の架け替えが行われています。錦帯橋は橋面に沿って210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mで、江戸時代からの伝統工法による木組みの橋です。↑ 吉香公園にある第三代岩国藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)像。↑ 皇太子殿下ご成婚記念植樹。↑ 記念植樹されたゴヨウマツと、吉川広嘉の像。↑ ナニコレ珍百景で紹介された「日本一ソフトクリームむさし」。↑ 錦川河川の桜。↑ 錦帯橋を渡る。↑ 錦川と桜。 山頂には岩国城が見える。↑ 河川敷から見た錦帯橋。↑ 橋の裏。↑ 名勝 錦帯橋。↑ 皇太子殿下行啓記念碑。
2019.04.29
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広島県呉市の大和ミュージアムで、呉・三宅本店の「千福純米酒 この世界の片隅にラベル」を買った後、山陽本線で山口県の田舎に行きました。田舎の庭は、白い桜、紅のモクレン、黄色いレンギョウが美しく咲いていました。庭のあずまやで、花を見ながら両親と食事をして、酒を飲みました。↑ クハ115-3003。 呉→広島→岩国はレッドウィングで移動し、山口県岩国駅で115系に乗り換える。↑ 夏みかん色になった車体。 山口県は県道のガードレールも夏ミカン色。↑ 山口県 JR岩国駅。↑ 下関行き。↑ 車内。↑ 今津川。↑ 門前川。 左側の中州には、米海兵隊岩国航空基地、海上自衛隊岩国航空基地、岩国錦帯橋空港などがある。↑ JR南岩国駅から見たレンコン畑。↑ 瀬戸内海の沿岸を山陽本線が通る。【田舎の庭】↑ 田舎の庭。 白い桜、紅のモクレン、黄色いレンギョウなどが咲いている。↑ 黄色いレンギョウが夕陽に映える。↑ 桜が美しい。↑ レンギョウ。↑ 呉の大和ミュージアムで買った、呉・三宅本店の「千福純米酒 この世界の片隅にラベル」。庭のあずまやで、庭を見ながら食事ができる。↑ 純米酒と刺身。 夏はテーブルの中央で炭の火おこしをし、肉、野菜、海産物を焼いて食べる。↑ 母親が作った夕食。 庭でとれたフキの料理もある。
2019.04.25
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大和ミュージアムにある戦艦大和の資料を少し紹介します。↑ 戦艦大和。↑ 「ブロック工法・先行艤装」従来の工法では、艤装(ぎそう)の大半は進水してから行われていたが、大和では船体の組立と平行して艤装を行う先行艤装が採用され、建造期間を短縮することができた。こうした技術は、戦後、造船業だけでなく高層ビルなどの建築にも活用されている。「生産管理システム」大和の工事では工数制御方式などの科学的管理方法を本格的に取り入れた。これにより問題の早期解決や工事の進行具合の把握が容易になり、これまでのどの艦船よりも、重量比で低工数、低コストで建造することができた。こうした技術は、戦後約10年で日本が世界一の造船国となる礎となった。↑ 「球状艦首(バルバスバウ)」艦首の水線下に球状の突起をつけることで、速力27ノットで約8%の造波抵抗を減らすことができ、有効馬力の節約と航続距離の増大につながった。戦後、この球状艦首は、世界の大型タンカーから漁船に至るまで幅広く利用されている。↑ 「46センチ3連装主砲」大和の主砲は重さ約1.5トンの砲弾を約40秒ごとに1弾発射できた。砲塔は1基あたりの重量が2,760トンもあり、これは駆逐艦1隻の重量に匹敵する巨大なものだった。主砲などを製造した工作機械は大型船のクランク軸製造に使用され、砲塔の組み立てとその性能を調査するためのピットは、現在、原子炉の圧力容器の漏れを調査する水圧試験などに利用されている。「弱電技術」大和では士官室と一部の兵員室に冷暖房が使用されており、夏でも27度くらいの気温が保たれ、他の艦からは「大和ホテル」と呼ばれていた。冷凍・冷蔵庫も223.4立方メートルという非常に巨大なもので、乗組員が約1か月無寄港で十分に食べられる量の食料を積んでいた。こうした技術は、戦後、弱電(家電)技術の基盤となっている。↑ 「製鋼技術」大和の特殊な装甲板は佐々木清技術大佐(のち技術少将)により開発された。従来の装甲板に比べ対弾効力が高く、製造期間は約半分という画期的なもので、製造原価の低減にも役立った。こうした技術は、戦後、特殊鋼の製造に活用されている。「発電と配電技術」大和の発電機は、225ボルト、600キロワットのディーゼル型4基、ターボ型4基の計8基で4,800キロワットの発電力があった。また、攻撃を受けたときの被害を最小限にするため、1基を1室に配置し、各室ができるだけ遠ざけられていた。こうした技術は戦後、大型発電機の発達を促した。「主機(タービン)」大和は4基の艦本式(かんほんしき)タービンを搭載し、出力150,000馬力を発揮した。↑ 「精密光学機器」目標まで距離を測る大和の15メートル測距儀は世界一の大きさと性能を持っていた。2組の上下像合致式とステレオ式の3連装式で構成され、目標を正確に測距できた。こうした技術は、戦後、カメラなどの精密光学機器に大きな影響を与え、日本の精密光学機器産業を世界有数のものに育て上げた。↑ 「推進器」大和の推進器(スクリュー)は3枚翼、直径5メートルという日本初の超大型推進器だった。広海軍工廠の鋳造鋳物技術の集大成と言えるもので、戦後の鋳物技術の基盤となっている。「操縦性能(舵)」従来の戦艦の2枚舵は左右に並べて装備されていたが、大和では約15メートル離して前後に装備し、同時に被害を受けにくいようにした。旋回性能も船体が大きいにも関わらず良好だった。↑ 現存する戦艦大和の設計図面。↑ 大和中央断面図。現存する設計時の青焼き図面(縮尺1:25)を実際の大和の原寸大に拡大したもの。船体中央部の41センチ厚装甲板が読み取れる。↑ 大和の生涯。↑ 昭和16年(1941年)12月16日に竣工後、大和は連合艦隊の旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたったが、時代はすでに航空機主体となり、支援任務が多くなる。戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えた。↑ 大和 公試。昭和16年(1941年)10月~12月。↑ ミッドウェー海戦。 昭和17年(1942年)6月5~7日。↑ トラック島。 昭和17年(1942年)8月。大和は連合艦隊旗艦としてトラック島に進出。↑ マリアナ沖海戦。 昭和19年(1944年)6月19~20日。↑ レイテ沖海戦。 昭和19年(1944年)10月24~26日。↑ 沖縄特攻。 昭和20年(1945年)4月7日。1945年4月6日、沖縄へ向け山口県徳山(周南市)を出港した大和以下の第ニ艦隊は翌7日、九州南西沖の海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けた。大和は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、14時23分沈没した。↑ 【沈没した艦船】大和、矢矧、朝霜、磯風、霞,濵風。 【帰還した艦船】冬月、初霜、雪風、涼月。↑ 冬月、初霜、雪風、涼月の4隻が佐世保へ帰還した。
2019.04.24
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2019年4月6日、大和ミュージアムで1/10の戦艦大和を見ました。↑ 戦艦大和の艦首。↑ 1番主砲、2番主砲、15.5㎝3連装副砲塔。 ↑ 球状艦首・バルバスバウ。大和で採用され、水の抵抗を軽減した。↑ 10分の1戦艦「大和」。↑ 2番主砲の上に、25㎜3連装機銃が2基増備された。↑ 1番主砲。94式45口径46㎝砲。↑ ワイヤーリール。↑ 艦橋と煙突。↑ 25㎜3連装機銃、 12.7㎝連装高角砲などが並ぶ。↑ 後部主砲塔付近。対空兵器が並ぶ。↑ 艦尾。↑ 艦尾付近。搭載機の格納庫がある。カタパルトやクレーンがある。↑ 左舷のスクリュー。大和は4枚のスクリューを持っていた。↑ 零式水上観測機が搭載してある。↑ 後部3番主砲。そばには張り出し部分に25㎜3連装機銃がある。↑ バーチカルボトムの部分。↑ 船を安定させるため、側面にビルジキールの板がついている。↑ 右舷のスクリューと舵。↑ 大和ミュージアム。
2019.04.23
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JR呉駅から観光案内所を経由して、大和ミュージアムへ行きました。小学生の頃は、父親の運転で呉市にある音戸の瀬戸のツツジを見に行ったり、呉市川尻の野呂山(のろさん)の山頂に遊園地があったので、何度も連れてってもらいました。遊園地には「びっくりハウス」という遊具があり、ハウスの中の席に座ると、家がグルグル回る仕掛けでした。本当にびっくりして、大声で叫んだことを思い出します。遊園地はその後閉鎖されました。小学生の時、仲の良い友人と、下蒲刈島でミカン狩りをしたことも思い出されます。昔、大和ミュージアムを見ようと思い、三原駅から呉線に乗って行ったのですが、呉駅に夕方着くとミュージアムがすでに閉館して見られませんでした。市内の堺川のそばに屋台が並んでいたので、フレンチの店に入り、スパゲッティやワインを注文し、店主の方と色々話をしました。↑ JR呉駅。↑ この世界の片隅に。 こうの史代さん作。↑ 瀬戸内マリンビューの紹介。↑ 呉駅の改札口。↑ 呉市ロケ地マップ。 オリジナルは観光案内所で頂いた。こうの史代さんの絵。↑ 2018年7月 TBS日曜ドラマ「この世界の片隅に」。松本穂香さん、松坂桃李さん。↑ 呉市駅前。(北側)↑ 呉駅前のプロペラ。↑ 呉駅前。↑ 呉市の紹介。↑ 歩道で海側に移動する。↑ 呉駅から大和ミュージアムまでのルート。↑ 呉市観光案内所に立ち寄る。 こうの史代さんの絵。↑ 観光案内所内の平清盛像。↑ 小学生の時、広島の風土記という本を読み、平将門の「音戸の瀬戸」伝説を知った。平将門が音戸に水路を通す工事を行ったが、工事が終了しないうちに日が沈みそうになったので、扇で太陽を扇ぐと、太陽が再び上昇し、日暮れまでに工事が終わったとの伝説。↑ 大日本帝國海軍の帽子、制服。↑ 「すずさんが暮らした呉」。この地図が欲しかったが、在庫が無かった。↑ 野呂山(のろさん)。 小学生の頃、毎年のように家族で野呂山の遊園地に行った。↑ 「オモヒデさがししませんか 大和のふるさと呉」↑ 「思い出づくりしませんか 大和のふるさと呉」↑ 昭和町のレンガ倉庫(呉貿倉庫運輸株式会社)↑ 桜。↑ 呉中央桟橋ターミナル(左)、大和ミュージアム(右)。↑ 大和ミュージアム(左)、海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)右。入り口には、潜水艦「あきしお」が展示してある。↑ JMU ジャパンマリンユナイテッド呉事業所。 昔は、旧呉海軍工廠造船部があった。↑ JMU ジャパンマリンユナイテッド呉事業所。↑ 呉中央桟橋ターミナルからの景色。↑ 海上自衛隊練習艦「しまゆき」。↑ 海上自衛隊輸送艦「くにさき」。↑ ユネスコ記憶遺産登録。「朝鮮通信使関連資料」。↑ 朝鮮通信使再現行列。↑ 呉市下蒲刈島の松濤園(しょうとうえん)。松濤園には「朝鮮人来朝覚 備前馳走船行烈図」という、1748年に朝鮮通信使と船団の様子が描かれた絵図がある。↑「朝鮮人来朝覚 備前馳走船行烈図」より。↑ 朝鮮通信使の船。正使官船。↑ 副使船。↑ 大和ミュージアム前のネプチューン像。↑ 大和ミュージアム前にある、戦艦「陸奥」の主錨。↑ 戦艦「陸奥」船尾旗竿。↑ 戦艦「陸奥」船尾フェアリーダー(右舷用)。 ロープを使うときにフェアリーダーの突起の間にロープを通して、振れないように安定させる。↑ 戦艦「陸奥」の説明。 ちなみに陸奥記念館は山口県周防大島町にある。↑ 戦艦「陸奥」の図。↑ 大改造後、全力公試運転中の戦艦「陸奥」 昭和11年(1936年7月27日)。↑ 戦艦「陸奥」。↑ 戦艦「陸奥」41センチ主砲身(4番主砲塔左)。戦艦「陸奥」に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠(こうしょう)で開発したもので、「陸奥」の建造当時は世界最大の艦載砲であった。呉海軍工廠砲熕(ほうこう)部が大正7年に量産初号砲を完成させ、以降74門製造した。大正9年からは北海道室蘭において日本製鋼所も生産を開始し、24門製造した。ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で、大正10年に完成したもので、戦艦「陸奥」には昭和11年に搭載された。この主砲身の砲尾に「室2」が刻印されている。 ↑ 戦艦「陸奥」スクリュープロペラ。↑ 戦艦「陸奥」主舵。
2019.04.20
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2019年4月6日、広島駅から瀬戸内マリンビューに乗り、呉線を南下しました。水尻駅辺りまで、広島市の黄金山が良く見えました。桜と海を見ながら進みます。三原駅まで乗る予定でしたが、大和ミュージアムに行くことにし、呉駅で下車しました。↑ 広島駅を出発する。↑ 呉麺屋。↑ マツダスタジアム。↑ 海田市駅。↑ 瀬野川。↑ 瀬野川の二つの建物の間に、黄金山が見える。↑ 海田大橋近く。↑ 坂駅。↑ 広島呉道路。↑ 金輪島。↑ 坂町。↑ 金輪島の新来島宇品ドック。↑ 広島市南区の黄金山の塔が見える。↑ 水尻駅。↑ レッドウィング。岩国行き。↑ 坂町と黄金山。↑ 小屋浦駅。↑ 桜が見える。↑ 天応公園・呉ポートピア。↑ 天応公園・呉ポートピア。↑かるが浜駅。↑ 狩留賀海浜公園。↑ 川原石駅。↑ 二河川。↑ 呉駅。↑ 瀬戸内マリンビュー号。↑ 呉駅。 戦艦「大和」誕生の地。↑ 呉線の図。
2019.04.18
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山口県の親戚から、旭酒造の「純米大吟醸 獺祭 島耕作」と、白鶴酒造の「白鶴 純米酒 明治維新150周年」が送られてきました。山口県防府市まで買いに行ったそうです。家族で早速飲みました。あっという間に空になりました。↑ 旭酒造の「純米大吟醸 獺祭 島耕作」。↑ 白鶴酒造の「白鶴 純米酒 明治維新150周年」。↑ 向かって左から、「坂本龍馬」、「高杉晋作」。↑ 中央は「木戸孝允」。↑ 向かって右端は「西郷隆盛」。
2018.10.15
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2018年8月14日、山口県光市にある伊藤公資料館に、長女と行きました。伊藤博文は1841年にこの地で生まれ、9歳まで過ごしました。その後に萩に行き、吉田松陰の松下村塾で学びます。23歳でイギリスに留学し、30歳で財政制度調査のためアメリカに出張、31歳で岩倉使節団の特命全権副使として欧米を回ります。42歳で憲法制度調査のためヨーロッパに行ったり、45歳で特派全権大使として清国で天津条約に調印します。そして45歳(1885年)12月に、初代内閣総理大臣となります。合計4回、伊藤内閣を組閣しています。57歳でイギリス女王即位60年祝賀会参列でイギリスを訪問したり、61歳でアメリカでエール大学の名誉博士となります。65歳で初代韓国総監となり、69歳のとき満州視察の途中、10月26日にハルビン駅で狙撃され死去します。資料館は伊藤博文の遺品や、神奈川県大磯の別荘「滄浪閣」で使用していた家具などが展示されています。妻の梅子宛てに送った手紙が4通展示されており、妻が文字を勉強するレベルに合わせ、手紙もレベルが上がっているのが分かります。シアターでは20分の映像が流れ、伊藤博文の事を知ることができます。昭和38年(1963年)に発行された肖像入り旧千円札の第一号券が展示されています。伊藤博文の生家や、伊藤博文自身が基本設計をした旧伊藤博文邸を見ました。ハルビンでの死去のため、本人はこの家の完成を見ることはできませんでした。資料館の情報ファイルを見ると、知らなかった話が書いてありました。伊藤博文が渋沢栄一に対して、徳川慶喜の思い出を語った逸話が残っているそうです。ハルビンでの死去の数年前の事、伊藤博文が新橋から横浜へ行く列車に乗ると、徳川慶喜と偶然会いました。伊藤博文が、「慶喜公が大政奉還を断行したのは突然で、思い切った態度であったが、当時誰がその処置を進言したのか」と尋ねると、「私は、私の信ずるところに従って、何人の知恵も借りず、断固として決心した」とあり、その時の考えも資料に書いてあります。資料館に行かれたら、ぜひ読んでください。↑ 山口県光市 伊藤公資料館の看板。 光市の地図。↑ 光市内の伊藤公記念公園の場所。↑ 伊藤公記念公園。↑ 手前が旧伊藤博文邸で、後ろが伊藤公資料館。↑ 伊藤博文公像。↑ 伊藤博文公。↑ 伊藤博文公 略歴。↑ 旧1,000円札。↑ 伊藤公資料館。↑ 伊藤博文公の生家。↑ 産湯の井戸。↑ 旧伊藤博文邸(県指定有形文化財)
2018.08.17
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2018年7月の西日本豪雨による河川の氾濫で、山口県岩国市の旭酒造の蔵に泥が入りました。獺祭ブランドでは出せない酒を、漫画家で岩国市出身の弘兼憲史さんによる「島耕作」ラベルで、「純米大吟醸 獺祭 島耕作」として発売することになりました。2018年8月11日に山口県の田舎に帰省した時、「獺祭 島耕作」を購入しようと思い酒屋を何件か回りましたが、発売日の10日には完売したそうで、どこでも買う事ができず残念でした。山陽本線は柳井ー下松間が不通で、岩国ー柳井間も間引き運転でした。道路も各所で片側通行、全面通行の場所が多々ありました。弟が住んでいる広島県安芸郡熊野町でも土砂崩れがあり、12人が亡くなられ、大変な状況だと弟が言っていました。↑ 「純米大吟醸 獺祭 島耕作」完売。↑ 土砂崩れによる片道通行。↑ 片道通行。↑ 通行止め。↑ 2018年8月1日に広島駅で撮影。↑ 山陽本線の柳井ー下松間が不通。9月再開予定。 岩徳線10月再開予定。↑ 山陽本線、可部線。↑ 山陽本線、芸備線、呉線。
2018.08.15
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2018年7月1日、山口県周南市平和通りの「Melon de melon」で、4種類のパンを買いました。あまおう苺のメロンパン、塩レモンパン、白桃メロンパン、富良野メロンパンです。古本屋のマツノ書店では、ずっと探していた本を見つけ購入しました。徳山駅ビルが再開発され、周南市立駅前図書館になっていました。徳山市は周辺合併により2003年に「周南市」となり、今は「しゅうニャンし」として宣伝しています。↑ 周南市平和通りの「Melon de melon」。↑ あまおう苺のメロンパン。↑ 白桃メロンパン。↑ 塩レモンパン。↑富良野メロンパン。 ↑ マツノ書店。 古本を買った。↑ 徳山駅ビルが解体され、周南市立駅前図書館になった。↑ 周南市立駅前図書館/蔦屋書店。↑ 徳山駅前。↑ 「しゅうニャンし」キャンペーン。↑ 徳山周辺地図。↑ ①「柳井港:月性 げっしょう:尊王攘夷派の僧」 ②「岩田 :伊藤博文 いとうひろぶみ:初代内閣総理大臣」 ③「下松 :長岡外史 ながおかがいし:陸軍中将」 ④「徳山 :児玉源太郎 こだまげんたろう:陸軍大将」 ⑤「防府 :楫取素彦 かとりもとひこ:初代群馬県知事」 ⑥「岩国 :赤禰武人 あかねたけと:第三代騎兵隊総督」 ⑦「大畠 :大洲鉄然 おおずてつねん:浄土真宗本願寺派の僧」
2018.07.12
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2018年6月29日12時半頃、広島市中区八丁堀交差点に行くと、路面電車が脱線していました。路線バスと接触事故があり、電車が軌道を外れていました。バスの車体も右横が凹んでいました。↑ 広島市八丁堀交差点。↑ 路面電車が軌道を脱線している。↑ 現場から移動したバス。右横が凹んでいた。↑ 待機する軌道保線作業の方々。↑ 脱線しているのが分かる。
2018.07.06
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2018年6月29日に、広島駅構内のベルギーワッフルの店「Manneken」で、3種類のワッフルを買いました。サッカーワールドカップのロシア大会、決勝トーナメント1回戦は、2018年7月2日に日本とベルギーが戦い、日本は2-3で逆転負けし、ベスト8進出は出来ませんでした。テレビで観戦していましたが、本当に残念でした。「プレーン半端無いって」。広島駅構内のベルギーワッフルの店「Manneken」。↑ 小便小僧と日本のユニフォーム。日本とベルギーの国旗。↑ 小便小僧の頬に「JAPAN」と書いてある。↑ クリームチーズワッフル。↑ メープルワッフル。↑ ストロベリーチョコワッフル。↑ ベルギーのゲント。 昔、アントワープからオステンドへ行くとき、ゲント経由で車を運転していた。↑ 2018年7月2日、 3対2でベルギーが逆転勝ちをした。 (2018年7月4日朝日新聞)↑ 日本は後半3分に原口元気選手が1点、後半7分に乾貴士選手が無回転のミドルシュートで1点を入れたが、同点とされ、後半終了間際に日本のコーナーキック後、ベルギーがすぐにカウンター攻撃をし、逆転の3点目が入った。
2018.07.05
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2018年4月24日、広島東洋カープの衣笠祥雄さんが亡くなられました。71歳でした。2215試合の連続出場記録があり、国民栄誉賞も受賞されています。広島に住んでいた頃は、広島市民球場によく行きました。カープが1975年にセリーグ初優勝をした年が、個人的には一番記憶に残っています。マジックが点灯すると、デーゲームの日は授業どころではなく、小学校の教室にあるテレビの前で、野球観戦となりました。当時、山本浩二選手、衣笠祥雄選手がホームランを打つのを楽しみにしていました。広島産業会館でカープ選手のサイン会があり、山本、衣笠両選手と握手をし、赤いカープ帽子にサインを頂いたことがあります。引越しを繰り返すうちに帽子が無くなってしまいましたが、大事に残しておけば良かったと思います。↑ 衣笠祥雄選手 1987年6月13日、連続2131試合出場 世界新記録達成。 ↑ 2018年4月25日 衣笠祥雄さん死去のニュース。 朝日新聞。
2018.04.26
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2017年4月9日、山口市阿東の徳佐八幡宮に行き、しだれ桜を見ました。徳佐八幡宮は平安時代の1182年に大内満盛により出来たとされ、1825年に大阪から取り寄せて植樹した参道のしだれ桜が有名です。↑ 山口市阿東の徳佐八幡宮。参道にしだれ桜が続く。↑ 周防の豪族である大内満盛氏が、八幡宮の本営である大分の宇佐八幡宮に勧請し、八幡の神を徳佐八幡宮に奉鎮した。1825年に大阪からしだれ桜を取り寄せ、参道に植樹した。↑ 参道のしだれ桜。↑ 徳佐八幡宮。↑ 栂(つが)の御神木。↑ つがは小さな松笠がびっしり枝に実るので、大昔から子々孫々が栄え続く事を願ったとの事。
2018.04.15
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津和野・鷲原八幡宮の流鏑馬を見た後、津和野の町をゆっくり歩きました。高校2年の時、クラスの友人たちと津和野に行き、津和野城跡、太鼓谷稲成神社を巡った事が思いだされ、懐かしい気持ちになります。毎年田舎に帰省するとき、SL山口号が予約できるか調べるのですが、希望する西側の窓側がいつも予約済みのため諦めてしまい、いまだに乗車したことがありません。SL山口号を写真に撮ろうと思い津和野駅に行ったところ、この日は故障のため、蒸気機関車が来ていないとの事でした。なかなか縁がありません。重連の姿も見てみたいです。↑ 津和野・鷲原八幡宮の流鏑馬奉納。↑ 津和野の町を歩く。↑ 津和野カトリック教会。↑ ゴシック様式の教会だが、中は畳が敷いてある。↑ 津和野の古橋酒造。↑ 初陣。↑ JR津和野駅。↑ D51型194号機関車が、津和野駅の横に展示してある。↑ 鷺舞(さぎまい)。津和野の弥栄神社の古典芸能神事。国の重要無形民俗文化財指定。毎年7月に行われる。↑ 津和野川と桜。↑ 津和野川、JR山口線、太鼓谷稲成神社の朱色の鳥居、山頂は津和野城跡がある。↑太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社の朱色の鳥居と津和野城跡。日本五大稲荷の一つだが、ここだけが「稲荷」ではなく、「稲成」。 城主は大内氏、吉見氏、坂崎氏、亀井氏と代わる。↑ 多胡家老門。亀井氏11代に渡り家老職を務めた多胡家の武家屋敷門。↑ 津和野役場。↑ 殿町通りと鯉。
2018.04.14
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岩国の錦帯橋のそばに、日本一ソフトクリームむさしがあり、165種類のソフトを売っています。錦帯橋に行くと、いつも寄っています。↑ 吉香公園。↑ 田中穂積さん作曲の「美しき天然」。古い歌だが、母が歌っていたのでこの歌を知っている。
2018.04.09
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岩国シロヘビの館に行き、国の天然記念物に指定されているシロヘビを見ました。シロヘビはアオダイショウが突然変異でできたと言われています。館の中には、山口県出身で「蟲師」を描いた漫画家の漆原友紀さんの絵で、シロヘビとエピソードが紹介されていました。↑ シロヘビ。↑ 岩国・吉香公園の「岩国シロヘビの館」。↑ アオダイショウとシロヘビの抜け殻。↑ シロヘビと名前の紹介。花に関する名前が付いている。↑ 漫画家 漆原友紀さんと絵。↑ 狐に化かされた話。↑ 岸根(がんね)。岸根村で毎年梅雨になると出てくるシロヘビを、村人たちは「梅雨左衛門」とよんだ。「玖珂郡志」↑ 六呂師(ろくろし)。 六呂師の田んぼにある大岩の割れ目から、毎年2匹のシロヘビが出てくる。でてこない時は、村人たちは早くシロヘビが出てくるように祈った。(享保増補村記)↑ 祖生(そお)。祖生の中村にある岩だが、梅雨になると割れ目からシロヘビがでてきた。いたずらで割れ目に木や竹を入れると、大風、大雨になると言われた。「玖珂郡志」↑ 今津。今津には役人がすむ宿舎があり、その西の倉庫には2頭のシロヘビが住み着いた。ネズミを餌とするシロヘビは、守り神として大事にされた。(錦川志)↑ 階段にいるシロヘビ。
2018.04.08
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2017年4月8日に、山口県岩国市の錦帯橋で桜を楽しみました。天気は良くありませんでしたが、桜の淡い色が美しかったです。↑ 錦川と錦帯橋。錦帯橋は中国・杭州の西湖にある橋を参考に1673年に建造された橋。釘は使っていない。何度も流されたことがある。↑ ソメイヨシノ。↑ 岩国寿司を買って食べる。↑ 淡墨桜。↑ イトザクラ。
2018.04.07
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2017年2月11日に、山口県光市の冠梅園(冠山総合公園)に行ったときの写真です。瀬戸内海と梅の景色を楽しみました。冠梅園には沢山の鳥が来ており、シロハラ、オスのジョウビダキの写真を撮りました。冠梅園の近くには室積海水浴場があります。↑ 瀬戸内海。↑ 国道188号線。山口県岩国市、柳井市、光市、下松市を結ぶ。↑ 山口県光市の冠山総合公園。↑ 郵便局の木「タラヨウ」。↑ 「タラヨウ」。↑ 冠梅園。↑ 紅梅。↑ シロハラ。お腹が白くて、くちばしの下側が黄色い。↑ オスのジョウビダキ。頭が灰色で、胸が黄色い。羽根の白いマークが特徴。↑ 紅梅と瀬戸内海。中央に峨嵋山が見える。↑ 右側に大水無瀬島が見える。↑ 紅梅。
2018.02.09
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真夜中の広島城です。基町のテニス場にも行きました。中学時代にテニス部の県大会があり、ここで生まれて初めて1勝しました。しかし、私にはそれが最初で最後の1勝になりました。夕方に広島駅に行くと、新幹線が来るので走って飛び乗りました。駅で広島の駅弁を買う時間がなく、新幹線内で弁当を買いました。今回は奈良の柿の葉すしです。何時の山陽本線で広島駅に行けるか未定のため、新幹線の切符はいつも自由席にしています。広島駅で新幹線乗車が一本遅れると、東京都内の電車の接続に影響するので、家には午前様になることがあります。以前は新幹線東京駅で下車して山手線に乗り換えていましたが、最近は新幹線品川駅で下車し、上野東京ラインを途中に挟むと、帰着時間が短縮できることがあり、早く帰られる組み合わせを色々と考えています。↑ 広島城。↑ 広島城の堀の外を歩いて一周した。↑ 廣島護國神社。↑ テニス場。ここで中学の時、1勝したと記憶している。↑ 福屋。↑ 広島三越。↑ 広島えびす大祭参道。↑ 新幹線内で買った柿の葉すし。↑ さば寿司。↑ さけ寿司。↑ 東海道・山陽新幹線限定 チップスター。
2017.11.19
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広島平和公園、旧広島市民球場跡地、広島美術館を歩きました。↑ 広島平和公園の広島平和都市記念碑。「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませんから」。原爆ドームが見える。↑ 広島平和記念資料館。↑ 原爆の子の像。↑ 平和公園レストハウス。↑ 路面電車軌道。↑ 「原爆ドーム前」駅。↑ 日本選手権シリーズ優勝記念。↑ セントラルリーグ優勝記念。↑ 衣笠祥雄 連続2131試合出場 1987年6月13日 世界新記録達成記念。↑ 旧市民球場跡地。↑ ひろしまラーメンスタジアムが催されていた。↑ 広島そごう正面入り口。↑ 広島美術館。↑ ウ”ラマンク展。↑ 城南通りへの地下通路。↑ 広島城へ向かう。
2017.11.18
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