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私は視覚障害をお持ちの方々を用件先にご案内する視覚障害者ガイドヘルパーという仕事をしている。この仕事のお陰で生活の中に常に歩く時間が持て、他者と共に歩くことで一人で歩いている時には得られなかったからだの発見がある。 ガイド中移動の際は私達ガイドの右肘(左利きの方は左肘)を持ってもらい歩くのだが、個人差はあるものの大抵の方は「持つ」というより「触れる」に近い感じだ。しかも歩き出して暫くすると私の腕と同化しており、そこに腕が置かれていることを忘れてしまう感じだ。脚は私の肘やからだから伝わってくる情報を的確に感じとりながら進んでいく。このようなからだの在り方に気付く様になってから、野口先生が書かれた「重さに貞く」の一文が私にとって説得力を持って感じられる様になった。 「からだの動きからいうならば人間の脚は魚の尻尾であり、腕は魚の胸鰭である。したがって動きの主エネルギーは脚から伝わってくるのだが、その先端は薄く柔らかく筋肉はないということが原理であることを忘れてはならない」古生物学の分野でヒト科の生物の起源を太古の昔迄遡ると魚であった事が認められている。私がガイド中に感じた視覚に頼らないからだは、視覚を中心としたからだの在り方よりも原初的なからだの要素を内包しているのではないだろうか。私達も自分自身のからだの進化の歴史に目を向けてみることで、今迄気が付かなかった自分のからだの在り方に気付くかもしれない。このような経験からこの日のレッスン担当者として「脚を魚の尻尾のように、腕を魚の胸鰭のように」というテーマで取り組んでみた。私が最初に取り組んだのはマッサージである。自分自身の重さの流れを味わうにはからだの中が空いてないと難しい。からだの中の詰まりをほぐす為、二人組になりマッサージを行った。 暫くすると、「わぁ~」「あぁ〜」「う〜」など、日常ではあまり耳にすることがない声が聞こえてくる。このような声は自分のからだを自分でマッサージする時には発しないものだ。他者の手や腕が体の中に入り揉みほぐす事でからだがほどけて隙間が出来、その解放感が声となって現れる感じを受ける。親しい間柄でない限り他者とこのように素直に触れ合う機会は日常にはなかなか無いものだ。「日常生活の中で身につけてしまった不要なものを剥がし合う語りかけ」と言っても過言ではないだろう。更に興味深い事は、相手の呼吸をからだで感じながらマッサージするとしている側も共に開放されていく感じがするから面白い。私は以下の野口先生の言葉が好きだ。「体操は自分でやるマッサージ、マッサージは人にやってもらう体操、と言ってもよいほど本質的には共通なものである(原初生命体としての人間より)」次に寝にょろに取組んでみた。寝にょろとは、二人組になり、一人が仰向けに寝る。なるべく力を抜いて楽に、すべてを地球(床)にまかせ、空気に浸りきった感じで。もう一人が片脚、或いは両脚を色々な方向にゆすりながら引っ張る。ゆすり方や引っ張り方のテンポ、リズム、強さ、大きさなどを変え、引っ張る方向を色々に変えてみる。二人の協力によって、生身の人間のからだの動きの原初の在り方を味わうという動きであるが、この日は仰向けでなく、マッサージからの流れで、うつ伏せの姿勢のまま始めてみた。うつ伏せでと思ったのは、背中を上にすることで、魚の気分でやってみたいと思ったからだ。うつ伏せは、顔や胸が圧迫されて苦しい感じもややあるが、その流れが後頭部を伝わり頭の先に抜けていく感じを味わえる。皆さんの動きを見ていると、足の先から小さく始まった波が、からだの中を通り頭から抜けていく様は、魚、或いはウミヘビが水の中で泳いでいるようであった。 次に寝にょろで重さの波を感じたからだの感覚の中身をイメージしながら目を閉じて歩いてみた。私は時々外を歩いている時、「右足(脚)にのる、左足(脚)にのる」と、自分のからだに語りかけながら重さを味わい歩いてみるのだが、のっている方の足に地面に対して垂直に重さを流し込めている時には、次に歩みを始めるもう一方の脚は踵→土踏まず→指先へと重さの波が順々に移動していく心地よさを味わえる。 更に指先が最後に地面から離れる瞬間の足のしなりは、例えるなら魚の尻尾だ。ほんの一瞬ではあるが、ヒラヒラした尻尾の感じが心地良いし、脚が軽くなる。私が実感した事を皆さんに試して貰おうとしたが、残念ながら終了時間がきてしまった。 野口先生の魚の動きの原理のお陰で歩くことが楽しくなり、長い距離を歩いても以前より疲れを感じなくなった。水の中を泳ぐ魚の尻尾をイメージしながら歩くと、例えアスファルトの上でも、気持よく歩ける瞬間がある。 36億年前の生命の誕生から、多細胞生物→魚類→爬虫類→哺乳類と進化し、現在ヒト科の生物である私達が今ここにいるのだから、私達は、ご先祖様のからだの在り方に思いを馳せ、まだ眠ったままになっている感覚や機能を自分のからだに貞(き)いていきたい。益田俊子
Jun 18, 2022
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「やすらぎの動きから始めましょう」 本日の伝え手である寺島さんから声かけがあり、床に腰を下ろし脚を左右へ楽な所まで開いた。 からだ全体の中身を出来るだけ弛めながら重さを床にあずけ、お尻、脚、上体も楽にして休む。 その状態から左右、前後にゆすりながら床と仲良く触れ合う。 一般的には「開脚 」と呼ばれているこの動きを、野口体操では「やすらぎの動き」と呼ぶ。この名は名前の通り、野口先生の実感によって 名付けられたものだが、私は残念な事にこの動きで一度もやすらいだことがなかった。 ところがこの日は少し違った。 左側の腰にのっているからだの重さを感じながら、弛めた薦骨をゆっくりと移動し、右側の腰へと重さを流し込もうとした時、からだがバランスを崩しぐにゃりと動いた。 やすらぎの姿勢からの腰回しはいつもある一定の円を描きながら回っていたので、この様にぐにゃりと崩れた感覚を味わった事がない。 ぐにゃりとした瞬間からだの中に水を感じた。回し続けていると重さの流れ方の具合で微妙な差異も出て、流れが速くなったり遅くなったりする。 この時、私のからだの中に川が流れている感覚があった。目をつぶり自分の中の川の流れを味わった。 私は先日球磨川の氾濫による被災地から戻ってきたばかりで、雨のやまない被災地で泥にまみれた家屋や道路を呑み込むように流れていた水の記憶が、からだに鮮明に残っていた。 そこに響いていた重い水の音が目をつぶると今でも耳の奥から聞こえてくる。 薦骨が弛みバランスを崩しながら腰が回った時、私のからだの中の水と球磨川の水が重なったのかもしれない。 自分のからだの中には球磨川の水が流れ ている....そんな気がした。 このやすらぎの動きをやることで得た感覚は、この呼び名に及ぶとまではいかなかったが、私のからだの中を流れている水を感じる事の出来た貴重な体験であった。 「動くこと、生きることはバランスを崩すこと、それを微調整することの連続である。微調整の感覚能力こそ、よりよく生きることの基本である。 (野口三千三ノートより) 益田俊子
Nov 26, 2020
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「寝にょろ」(力を抜いて仰向けに寝ている人をゆすってみる動き)について野口先生が書かれた文章の中の一つにこういう言葉がある。 「生きている人間のからだ、筋肉をなるべく休ませた場合、骨を内に含みながら、そのままの全体が液体的であることの実感をつかむために、適切な運動であると思っている」 (『原初生命体としての人間』より) そのままの全体が液体的である実感とはどんなものだろう。 寝にょろの動きをする前に、ビニール袋に水を入れてなるべく空気を抜いた状態の水袋に触れた。 水袋は中身の伝わりがよく見え、自分のからだに乗せてみることなどで重さということも体感できるので液体的な世界を味わう手がかりとしてはとても頼もしい存在だと思う。 水袋に何回も繰り返し触れていく中で、思い感じたことがある。 まず触れ方のこと。水袋に触れる際に表面だけに触れる時と、中身に触れようとする時では自分のからだの様子が随分違った。中身に「より触れよう」と思って触れる時の手や腕が、からだの外についている手や腕ではなくからだの中の方から生まれ出てくるという感じがあって面白いと思った。 それから動きのこと。水袋を床に置いて50cm程移動させる。袋の1ヶ所をつまんでそのまま引きずるようにして動かすのと、水袋の底に手を入れて差異をつくることで中身を動かして袋を転がすように動かす。はじめの方の水袋の重さは「重荷」とも言いたくなるような重さだが、後の方は「重さを軽くつかう」とは、こういうことか!と思う、生きた重さという感じがあり、質量としてのものの重さではなく、次々に変化していく出来事としての重さだとも思った。 「・何かそこにある「もの」が主体ではなく、「こと」が 主体であり存在である。 ・「こと」とは「事・言・異・殊」であり、ものの在り方(働き・作用・所作・状態・様相・性質・関係等)を指示する語である。一言で言えば「関係及びその変化」と言えよう。 ・体操とは、今「もの」であるからだを、「こと」としてのからだに生まれ変えらせようとする営みである。」 (『原初生命体としての人間』より) 水袋に様々な方法で触れていくうちに、自分のからだもほぐれていく様に思う。それは他の人を見ていてもよくわかった。 水袋を頭に帽子のように乗せてみたり、「胎児の姿勢」(力を抜いて寝て足をまるめて頭の先にぶらさげる動き)になったところでお尻にのせたり、巨大な水袋に全身をのせて座る、四つん這いになって背中にのせたりと、思うままに面白く関わっていくと、よりよくほぐれていくようだった。 そんな風に液体的な世界がからだに伝わってから、自分のからだではどうだろうかと静かに横になってみた。 楽に寝た状態でゆっくりと大きく息をすると、からだの中身が波をつくっているのを感じた。からだには水袋と違って右と左がある‥と気がつき、それをたしかめるようにしていると左右に差異ができで中身が動くように感じた。 液体的なからだを思うことで少しからだが動き、それは考えて動きをつくろうとすることと違うように思い、このことはとても大切に思えた。 私は仕事で身体介助をしているのだが、ある日人のからだを抱える時に、ふと寝にょろのことを思い出して「どちらのからだも水袋」というイメージで抱えてみた。力は入れないで、深く大事に抱えこむような体勢に自然となって楽だった。「今、自分のからだはやさしいな」という言葉がうかんだ。「やさしい」というのは、気持ちや感情というより、からだのあり方や状態のことをいうのかなと、からだで実感したところから言葉が出てくるという経験がとても面白く、自分にとっては確かである気がした。 寝にょろを追い求めていく中で得た、私にとってのいくつかの発見や実感をこれから動いていく中で展開していけるように体操に取り組んでいきたいと思う。 加藤知子
Oct 13, 2020
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脳天逆立ちは正座の姿勢から入ることが多いが、この時は立った姿勢から下りていき、その流れを大事にしながら逆立ちへむかうということをやった。 脳天逆立ちは好きな動きで、からだがすうーっと楽になって気持ちも良くなることがあるがこの時は更に「おふろに入っているみたいだ」と感じて、これは初めてだった。包助(野口体操では「補助・幇助」のことをこのように言う)のlさんにそのことを伝えると、私のからだが「ほわほわ」としていたから「おふろ」というのもわかる気がするとのことだった。 立った状態から下りていく時、頭にたくさん穴があいていてそこから息が抜けていくイメージをもっていた。湯気。それでおふろのようだと感じたのだろうか。 一方lさんはにょろ転(生きた水袋としてのからだが重さの流れに添ってにょろにょろと床の上をまわる動き)から脳天逆立ちへむかった。 逆さになる時の動きが、貝や海の中の触手のある生物が伸びあらわれてくるようだった。にょろ転のゆったりとした渦のような流れが逆立ちによく伝わっていたのだと思う。不思議な感じがしておもしろかった。 息やイメージで脳天逆立ちといってもまったく異なる世界があるのだろうか。ほかのどんな動きでもそうなのだろうか。 息の重要性やイメージの話はクラスでも多く出るが、このようにはっきりと実感したことはなかった。自分のからだでたしかめていきたい。 動いていて「ああ、おもしろいなあ!」という時のからだは気持ちが良く澄んでいる。 この日のlさんとの逆立ちはとにかく楽しかった。 加藤 知子
Jan 26, 2019
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・薄く長い和紙の動き・風・鳳の動き・気の動き・紙や布は自然の原理だけに従って動く・この動きと一つになることによって・・・・紙に敬語を付けると紙様(かみさま)どんなことを教えてくれるのか。 (野口三千三) 今日はレッスンで大きさ、形、厚さの異なる様々な和紙に触れた。遅れて行った私の顔に先輩が和紙で触れて下さった。和紙はとても温かかった。日常手にしている紙とは全く違い、空間に舞う感じも布に近く、でも布ではこの様な軽さは出ない。和紙特有の軽やかさが、二度と同じ動きはないといった感じが、見ていて自然で美しかった。実際の動きに入り、和紙に触れた事で、からだが軽いイメージを持つ事が出来た。だからといって全て軽やかに動けるわけではないが・・・体操を始めた当初、イメージを持つとからだが変わるということが、本当に分からず、嫌だとさえ思っていた私が、今なら前より少し分かる。イメージをもらうことで、からだが自由になる楽しさも前より分かる。以前レッスンで、「イメージは外にあるのではなく、自分の中にある」と言われた事を思い出した。今日和紙に触れ、感じたものが自分のからだの中に伝わっていく通り道があったのだと思う。分からないと言っていた長い期間、私は感じる事に任せられず、余計なことを考えていたのだと思う。余計な事を持ち込まず、より感じられるからだになれたら、また違った実感が味わえる様になると思う。 相馬 律子
Nov 25, 2018
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2018年10月2日(火)のクラスの板書は、「気持ちよさ」についてでした。「生きることの基本的なことについて、それが自然の原理によって行われたとき、神はそのことに特有の快感(気持ちよさ)を感ずる能力を与えている」(野口三千三)今日はこの快感(気持ちよさ)について、わたしなりに感じたことを書きたいと思います。先日、わたしは取引先と仕事上のトラブルを抱えていました。職業上詳しい内容については差し控えますが、本来信頼関係に基づく顧問先との関係が結べないと感じたのです。わたしは、顧問先に「どうかご協力をお願いします」という内容のメールを送りました。体力的な疲れを感じるようになっていたわたしは、もうこれ以上、この仕事を続けていくのは難しいのではないかとさえ思い込むようになりました。そんな気分のあるとき、野口体操をやりました。ぶら下げ、にょろ転……すると、少しずつ体が楽になり、気持ちも解放されていく気がしました。野口体操は毎日少しずつやっているのですが、その日の感覚はいつもと違いました。まるで、特別の快感(気持ちのよさ)が自分に舞い降りてきたのではないかと錯覚するほどでした。体が少しずつ元気になるにつれ、わたしは自分の心が弱かったのを強く自覚したのです。弱い自分と対峙することで、逆にわたしは気力を取り戻していきました。絶対的な強さもない、絶対的な弱さもない、その思いがわたしを一杯にしています。「心が折れなければ、まだまだできる」わたしは自分に言い聞かせました。自分のからだと心の健やかさは自分が護らなければならない。では、そのためには何が必要なのでしょうか?「無理をしなければ出来ないことは、出来なくともよい。急がなければ出来ないことは、しない方がいい。無理は無理だ。無理をしている中は、自然の神の声(理)を貞くことはできない」野口先生の言葉で、わたしが大好きなものの一つです。 向笠卓爾
Oct 23, 2018
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わたしが、今年の始めに野口体操の下落合教室に通い始めてから、7か月ほどが経ちました。8月7日の下落合教室で、花崎さんは各人に、「自分の好きな動きは何ですか?」と問われました。わたしが答える番になりました。「ぶら下げの動きが好きです。でも、いつも考えているのは苦手な動きのことばかりです」答えながら、これは野口体操の考え方ではないなと思いました。野口三千三先生は、自分の気持ちがいい感覚を追究するようおっしゃっていますので、苦手な動きにとらわれているわたしの感覚はすでに袋小路に入っている気がします。しかし、日常のわたしの生活ぶり、仕事ぶりはやはりそういう苦手なこと、うまくいきそうもないことへの危惧で一杯だということも思い起こされました。野口先生は別のところで、「他人の評価やメジャーによる評価にギリギリに束縛されて生きる生き方は、今すぐ止めたらどうかと思う」ともおっしゃっています。わたしは、この言葉を読んだとき、素晴らしい爽快感を味わったのですが、それは自分が束縛されて生きているせいでもあるのでしょう。わたしはそういうものから解放されて、自分の目で見て、自分の感覚でとらえられるようになりたいと切に思いました。先生は「自分の生身の感じを大事に育てることは『おへそのまたたき』のような簡単な動き一つだけでも充分にできるのだ。いくつもの動きを、何十分もウンウン言ってやらなければならないというものではない。どんな小さな運動、どんな軽い易しいと思われる運動でも、まるごと全体のからだで動くのだ」とおっしゃっています。自分なりにそれを今の自分の言葉で翻訳すると、「マイナスな状況に引きずられるのではなく、あるがままの状態の中で、易しいと思えるような小さな問題にもからだ全体でぶつかっていく」ということになるでしょうか。それぞれ体験した時間によって、感じ方も異なります。しかし、今の自分が感じていることを大事にするしかないのですから。生きていくことと動きの中で、自分自身の感覚を探っていければ、日々その中で自分なりに様々な発見をすることができれば、それにまさる喜びはないでしょう。「才能とは、今、ここで、このことに対して、新鮮な興味を持つことのできる能力である」今日の板書にある野口先生の言葉です。 向笠卓爾
Aug 17, 2018
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7月3日の教室のテーマは「砂に貞く」でした。 伝え手である寺島さんが持ってきた色々な種類の砂を、触ったり見たりしました。 「砂は地球のほどけた姿である(砂は私の御先祖様の御遺骨である)」 野口三千三 板書のことばを思いながら、砂が入った袋やビンに触れたり、傾けて流れを見たりしました。砂といっても細かさや内容物によって流れ方が違ったり、同じように見える砂の粒も虫眼鏡で見ると一つ一つ違う表情をしていて生き物のようにも見えたりしました。 そんな様々な砂から、からだの中がさらさらと流れていくイメージをもらい動いてみます。 仰向けで寝た状態から足の重さをだんだん頭の方へ流していき、丸くなる「胎児の姿勢」から仰向けに戻り、上半身の重さを足の方へ流していき起き上がってくる「おへそのまたたき」という動きを、からだの中に留まることのない細かい砂が流れ続けていくイメージでさらさら・・・・と声に出し繰り返し動いてみます。すると普段の自分の動きとは違う呼吸の動きが生まれてきました。 野口先生は本の中でこのように書いています。 「五十音図の行の問題、列の問題はとても重要な意味を持っています。」「サ行の『さ・し・す・せ・そ』はどの音をとってみてもすじみちがはっきりしている。」「ラ行の音は動きや変化を表す音です。」 さらに教室では「さ行」はまっすぐに空いていて方向性がある。「ら行」は螺旋、動きがある。と、教えていただいたのでそれを組み合わせると、さらさら、するする、そろそろとなります。特にさらさらは、わずかな波や動きがありながらも全体としては真っ直ぐで滞りがなく、細かく流れていくイメージがあります。さらさらという音を声に出しながら動くと、その呼吸でからだの中も変わってきます。 イメージはからだの動きの助けになります。では動きのイメージを持つ手がかりになるのは? 音を丁寧に声に出していくとその音により呼吸が変わります。呼吸が変わるとからだの中身の動きが変わります。からだの中身の動きが変わると普段の自分の動きとは違う動きが生まれてきます。ことば、音は今まで味わったことのない動きのイメージを持つ手がかりになるのだと改めて実感しました。 澤浦 いづみ
Jul 27, 2018
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寺島さんのレッスンでは毎回、野口先生が過去に板書したことばを紹介してくれます。この日紹介してくれた野口先生のことばの中にこういうことばがあります。まるごと全体の自分のからだが液体的になることはできる(体液主体説を言ってみても…)しかしイメージとしては自分のからだが気体となり流れ動いていく即ち「風」になる…それを本気でやってみる―それが新しい可能性発見の手掛りとなる…と思っている。野口体操では様々なイメージをもって動くということがあります。なぜ野口先生は様々なイメージで動くということを繰り返し検討されたのでしょう。野口先生は著書のなかで楽だということは、楽しいことで、それは美しいことだ。楽だということは、気持ちがいいことだ。気持ちがいいということが最初で最後の基準ではなかろうか。と書かれています。楽、気持ちがいいということは野口体操の動きの条件だと思います。もちろんレッスンをしていない生活の中でも楽だ、気持ちがいいと思うことはあります。ですが、先輩方の動きを見ていると普段の生活の範囲からはみ出しているもの、他の生き物のように見えることがあります。それを見たとき、自分は日常的な範囲でしか楽、気持ちがいいということを捉えられていないのかもしれないと思うのです。気持ちがよいということ自体の可能性を探求する、それが様々なイメージで動くということなのかもしれません。自然の原理の中で生きていれば、あれも気持ちがいい、これも気持ちがいいとなるはずです。それはとても魅力的な生き方です。ですが、いざイメージをもって動こうと思うと意気込んで自分を窮屈にしてしまう感覚があります。レッスン中、大先輩である寺島さんが動いている自分のところへやってきて、もっと地球の中心の深いところから反作用をもらえないの?とおっしゃいました。探っていると今までの動きより抜けるような気持ちよさを感じる瞬間がありました。自然の原理原則がはっきりしなくては、たとえどんなイメージであっても楽でいることはできないと感じました。先輩方の動きは一瞬にしてからだまるごと全体がイメージそのものになり、またその中で自由に遊んでいるように思えます。まだそこまでは行けなくても自分が確かめられるところから、あれ、これも気持ちがいいという新たな感覚を探る自分なりの小さな遊びを続けていきたいです。大久保岳
Jun 28, 2018
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2016年9月20日の教室は『「本当」ということ』という内容で進められました。 「本当」というのは、「あ」→「あれ」→「そう」→「うーむ」というように「あ」で開き、受け入れようとし、「あれ」で疑問をもち、「そう」で理論的に理解し、「うーむ」でからだに納得させる、落としのみこむ、そこまでで「本当」「当然」になる。ということでした。 色々な動きを音を出しながらやってみます。 立って一歩一歩、歩く。半身にのりきった状態でもう片方の半身を「あ〜」と声を出しながら足の裏から頭の先まで空けて、「し」で大地を踏む。「あ」の音によってうまくからだを空けることができる時とそうでない時があります。うまく空いた時は自然と「し」で踏んだ時、足の裏から重さが大地に流れたと同時にまたからだの中に入ってきます。 私は日常の生活の中でも自分の声やことばにもどかしさがあります。話しをしていてもことばが浮いているような、自分の声でないような感じがするのです。 しかし今回、自分のからだから出た「あ」の音によってからだが空いたり空かなかったりすることを感じることができました。 音を、ことばを出しながらからだを動かすことは、私にとってごまかしのきかないことです。 からだを空けることのできる「あ」はどんな「あ」だろう、何回も声に出してみます。空いたら次に進みます。自分の発した音で、今の私のからだがどう変わっていくかを感じることができれば、手がかりを見つけられるかもしれません。「あ」は始まりの音です。はたしてこのことが自分にとって「うーむ」となるのか、時間がかかっても探していきたいです。澤浦 いづみ
Jan 10, 2017
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今回のテーマは「ほ」でした。ハ行の音は気体的であると野口体操では言いますがそれは頭で思い描けば分かる気がします。ですが実際のからだがそうなれるかというとなかなかうまくいきません。からだで分からないのですから本当に分かってはいないのだと思います。日常生活の中でからだがほっとする瞬間はいつなんだろうと考えたのですがあまり思いつかないなと思いました。では自分はどんなからだで日々過ごしているのでしょう。お腹がすいてるみたいだ。レッスン中に伝え手である寺島さんに自分が言われた言葉です。その言葉を聞いて、そうかと納得してしまいました。なにか物足りなさを感じている時間が多いからだと。自分がしてきたいろんな選択は今ここにはない、何かが欲しい、それが大本にあったのだと思います。住むところも群馬、東京、大阪、神奈川と転々とし、一つのことが長続きしません。まさに自分にうってつけの言葉だなと思いました。そして、日々そう過ごしているのだと思います。「ほ」の状態とは小さな部分と部分を密着状態から引き離して、相互の関係を自由に変化できるように解き放たれている全体をいう。 (9月27日野口体操教室板書より)解き放たれている。なんと魅力的な言葉なのでしょう。今の自分には分かりませんが、からだが変われば、すべてが変わるはずです。
Oct 8, 2016
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前回のブログでも触れましたが今回の教室のテーマは原初音韻論遊びです。野口先生は『からだに貞(き)く』の中で「このむ」「すき」「ほれる」の違いについて書いています。「このむ」の「こ」はカ行です。カ行には非常にまとまりのいい感じがあるけれど、その中でも特にこの「こ」はまとまりがいい。要するに主体性がはっきりしていて、必ずしも相手に夢中になっていない。相手をある程度客観視することができる状態の関係です。それに対して「すき」というのはどうか。「す」というのはサ行です。「さ・し・す・せ・そ」は、どの音をとっても、すじみちがはっきりしている。すっきり、さわやか、すぐ、すーっと、などみんなすじみちがついている。だから「すき」という場合には、対象と自分とがよく結びついているわけです。つきはなしていないで、つながっているんです。すじみちがはっきりしているということは、夢中じゃない。第三者の存在もある程度分かっている。それでは、「このむ」「すき」と「ほれる」はどう違うのか。「ほれる」は前にも出てきましたね。「ほれる」の「ほ」は気体的で、境目がはっきりしない。対象と自分との関係が、いっしょくたになっている。それでもう、自分と相手との関係さえもはっきりしない。まして第三者なんて、まるでわからなくなっている。そういう状態が「ほれる」という状態です。引用『からだに貞(き)く』自分は言葉を使う際このような実感をもって使ってはいないと思います。まして日常生活で自分が使う言葉というのは知らないうちに限られてしまっているように思います。からだは常に中身を変化させているのだと思うのですが、それを様々な言葉として取り出さず「すき」なら「すき」という言葉にまとめてしまっている。もしくはからだの様々な変化を貞(き)くことができないという事なのではないかと思いました。普段使う言葉が限られているという事は自分の言葉、からだをいつの間にか枠のようなものにおしこめているという事にもなると思うのです。痛感するのは、気付かずに生きてしまっているということです。ですが、言葉になる以前の音というものはこんな自分でも発しているなという実感はあります。疲れて風呂に入れば「あー」と声を出します。ため息をつく時は「あーぁ」と言ってしまいます。野口体操で言葉について思いをめぐらすようになると、今書いたような言葉以前の音が言葉になるという事、言葉の始まりというのは本当に不思議だと感じます。そして、現代を生きていると言葉を自分とは切り離した道具のように、もうすでにあるものとして扱うことに慣れてしまっているように感じています。原初音韻論遊びで心置きなく遊ぶことができればもう知ってしまっている言葉を改めて知ることができるのかもしれません。
Sep 29, 2016
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この日のテーマは野口先生の2冊目の著書『野口体操 からだに貞く』の中に書かれた言霊説についてです。言霊説というのは自分の実感からは遠い発想のように思います。なぜなら日常生活のなかでは言葉というものを情報交換の道具にしか使っていないように思うからです。野口先生は言葉の一音一音をからだで検討することを原初音韻論と名付け、その音の持つイメージをからだで追体験するということを行いました。からだと言葉のつながりを感じられないからだにとっては、言葉は自分から遠いもののように感じます。音、言葉によって自分のすべてが変わってしまう、そんな透き通った体になれれば今は信じられない言霊説にも愛着が持てるようになっていくのではないでしょうか。レッスンの中で伝え手である花崎さんに背中の表情が変わらないと言われました。自分では気持ちよく動いているつもりだったのでその場ではどういうことを言われているのか分かりませんでした。しかし、思い返してみると自分は常日頃の気持ちよさしか求めていなかったのではないかと思いました。それは野口体操の動きを道具のように扱っているということになるのではないでしょうか。そんな私の動きはもうすでにあるもの、私自身からは遠いもの、今生まれて来たもののようには見えない、そういうことなのではないかと思いました。
Sep 2, 2016
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8月2日今日のレッスンのテーマは砂です。砂の入った袋を見、触り砂のイメージをもらいます。野口体操ではものからイメージをもらいからだで確かめるということをします。人間は自分のからだを設計し工場で作ってきたわけではありません。気がつけばこのからだで、この自分だったのです。これは人間も自然という大きなものの一部であるという事ではないでしょうか。その自然の一部である人間の動きが同じく自然の一部であるもの、今回は砂ですが、そのものの持つ原理原則と無関係であるはずがないからです。砂をよく見るとひとつひとつの大きさや種類の異なるものの集合体だということがわかります。袋自体を傾けるとサラサラと低いほうへと流れていきます。自分のからだの中でもこれと同じことが起きている。そう思いからだを動かしていきます。そんな風に体を動かすと今現在不必要なことを思わなくてもいいように思うのです。たとえば私はここが固いからとか、恥ずかしいとか、どうやるのだろうとか。本当に大事なことは自分で勝手に思う価値観ではなく、今現在イメージを探求しているからだを感じる事なのではないでしょうか。そうすると自分でも思いもしない私が現れるのではないか。そうなれたらと思います。またからだの原理原則をからだで分かってくるとイメージに没頭できるということがあるように思います。今でもいらないことにとらわれてしまうことがあります。そんな時はやはり気持ちがよくはありません。気持ちよさを手掛かりに本当に大切なことに気付けるようになりたいと思いました。そうすれば今必要ないものと必要なものに気付きもっと生きやすくなるのではないかと思います。今現在こうなりたい、こうしたいというイメージを描き、それを味わうことを思えば、方法がおのずと湧いてくる。そんな風に生きられれば人生をサラサラと心地よく生きていけるのではないでしょうか。そして、それが生きる力があるということにもなると思うのです。
Aug 19, 2016
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7月26日のテーマは健康でした。「健康とはいい気持ちの多様さとその深さがよくなる能力をもち適応と創造によって常にいい気持ちの流れの中で生きることをいう。」野口体操教室では毎回、その日のテーマに沿った野口先生の言葉が板書されます。何年か教室に通っていると板書の内容は以前も目にしているはずなのですが、その時の自分の状態により毎回違って自分に響いてきます。常にいい気持ちの流れの中で生きるという事を思ってきたのだろうかとふと思いました。自分は自分を貶める考えに閉じこもってしまうことがよくあると思っています。そんな自分を人と違うんだと自慢に思ってみたり、なんてダメなんだと否定してみたり、もう三十だし恥ずかしいなと思ったりといろいろしてきました。大前提としていい気持ちで生きたいと思っているのか、適応と創造が足りないのかと思いつつ動きの時間が始まりました。この日、動きの中でからだを分けるということを行いました。右と左を分け、さらに右の中を分ける。そうやっていると右と左では別人のような気がしてきました。自分というものは沢山の違うものが薄い生きた袋に包まれているだけじゃないかという気までしてきました。自分で思っている、自分を貶める考えに閉じこもりがちだということも自分の体の中にあるたくさんの異物の一つで、それをも活用して気持ちいい流れの中に生きたらどうなのかと思えてきました。自分という集合体をすべて総動員して気持ちいいを追及する。気持ちいいだけではもったいない。
Aug 11, 2016
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この数か月で自分の周りの環境が目まぐるしく変化しました。新しい仕事、新しい住まい、新しい人間関係。生活のすべてがかわりました。特に仕事はからだを動かす仕事で、へとへとになって一日が終わります。そんな中、野口体操の教室に久々に行った時なんと気持ちの良い時間なのだろう、自分のためにこれは必要だと思い、改めて自分のために体操を続ける決断をしました。普段、生活をしている時は時間やルールなど自分の外側にあるものに自分の行動を決められてしまいます。野口体操では自分の内側にある原理原則をもとめ、自分はどうしたいのかそこからはじまります。こういった時間は他では味わえないと痛感しました。また仕事をしている時どうしたら楽にできるか、さぼるという事ではなく楽にできるかのヒントも野口体操を続けながら探りたいなと思いました。特に今は道具の扱い方のことを考えています。自分の外側にある重さをどう内側の重さとつなげるか、それによって作業をした後の体の疲れ具合は全くちがいます。外側の重さを自分の重さの方向の近くにということかなと考えています。長年仕事を続けている方にコツを聞くと慣れればからだの感覚でできるようになると言われます。からだはもとから楽な状態を知っていて、それを感じる能力の問題という事でしょうか。
Aug 11, 2016
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実感についてと板書されレッスンがはじまりました。自分は実感ということを厄介に思っています。芝居の稽古をしていた時、自分では相手役に話しているつもりなのに演出家からは話しかけていない、喋っていないと言われたことがありました。自分は動揺しました。誰かに話しかけるとはどういうことなのか。今、目の前にいる人間と話せているという実感とはどういうものなのか。話すということを疑いだすと、日常生活でもそれは成立しているのか分からなくなりました。体操をしていてもそうです。土台から末端へと重さが流れているのか。自分はどう感じているのか。疑い出したらきりがなく、どんどんと何も感じられなくなっていくことがあります。野口先生は本の中で実感はあやふやなもので、だからこそ確かめることをしなければいけないと書いています。確かめるにはまず信じることから始めなければならないと最近思うようになりました。土台から末端なんだよといわれて、あ、そうなのかと信じればいいのに。そうなのか?という疑問から始まってしまい、いつまでも分からずじまいに終わります。そうなのかな?と疑っている間は今ある自分が疑っているのです。いまだかつてない私をもとめて、今ある自分で感じようとするのはおかしな気がします。別の言い方をすれば、自分は無意識に何かを信じているんだと思います。ですがそれは確かめられたことではなく、自分が生きるための防御策のようなものなんだと思います。なのであやふやなままなのです。本気でその気になって信じてみる。疑問符だらけでうるさい状態から、信じて静かに待っている状態へ。本気になって確かめた私だけの実感をもとめていきたい。大久保岳
Mar 10, 2016
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野口体操の教室では、あきらめるということばを明らかに見るといいます。今ある自分の状態に目を向けて、そこを認める。自分を装うのではなく、素直に自分を見つめ返す。そこには一般的に言われている、あきらめることは良くない、あきらめずに頑張り続ければいつかは報われる。そんな言葉とは全く違う印象があります。自分の存在を真っ向から認め、見つめることができるのでしょうか。自分は何かをしようとする時、もっと良くありたいという思いが混じりこんできます。この良くありたいというのは何をもって良しとするのでしょうか。自分の感覚からくる良しと思えるものなのか。自分の感覚とは離れた、決められたルールに則る良しになっていないのか。自分は後者の思いに付きまとわれます。頑張れとは、その後者の良くあろうということを大きくすることだと思うのです。野口体操で重要なのは自分が、人間が勝手に思い描く良いことよりも、重さに任せ、自然の声に耳を澄ませることだと思います。そのためには良くあろうということはノイズ、雑音になってしまいます。雑音の先に見る私は偽りの私です。また、一般的に自分を認めて優しくなろうという人は、甘やかすばかりでそのノイズに無頓着なように思います。自分は何に突き動かされているのか、自分の基盤を突き詰め、さらにそれをさらけ出す。その厳しさ、勇気がなければ本当の優しさにはたどり着けないのではないでしょうか。遠くの目標物に目をやり、外からの情報にばかり振り回されるのではなく。今ある自分、からだ。そこからしかはじまらない。そうしなければ自然の声はからだの声は聞こえてこない。そんな印象に惹かれて自分は野口体操を続けています。全く違う発想。プラスとマイナスのように発想が真逆に変わる。そして、動きが変わる。そこが野口体操の醍醐味だと思います。しかし、自分にはまだわからないことばかりです。なぜ自分は良くあろうなどと思うのか、この「せこさ」はなんなのか。そんなものすべてをさらけ出し明らかに見つめることができるまで、自然の神の声を確かに聴くまでは生きていたいと思うのです。 大久保岳
Jul 30, 2015
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久しぶりのブログ更新です。教室はどうなっているかと思われている方もおられるかもしれません。教室は確かに続いています。 野口先生が教室を開かれた初期から参加されている先輩方の動きはますます深みを増して、まるで人間国宝のようだと、毎回感嘆しています。若手も、教室と並行して先輩に教えを請いながら勉強会を続けています。 その若手の中からブログを書きたいとのうれしい申し出がありました。大久保岳さんです。これから少しづつ岳さんの視点で、野口体操と教室について、思うこと発見したことなどを綴ってもらいます。どうぞよろしくお願いいたします。(せ)
Jul 30, 2015
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2013年もいよいよ大晦日。 新年を迎える準備はおすみでしょうか? 年明けから、日曜クラスは閉じることにしました。経済的な理由からです。日曜クラスに来てくださっていた方たちにはほんとうに申し訳ありません。 残念なお知らせではありますが、スタッフ一同意気消沈しているわけではありません。むしろ火曜クラスに集中して、野口体操をたのしみながら、ますます動きと考え方を深めていきます。 月謝も値下げします。平日の午前中なのでご都合がつかない方もおられるとは思いますが、関心を持ってくださる方にできるだけ参加していただければと願っています。 先輩たちの動きはまさに 「年をとればとるほど柔らかくなる」 との野口三千三先生の言葉を体現して、驚くべき深化をみせています。私たちだけで習っているだけではもったいないくらいです。是非一度教室にいらしてください! みなさま、どうぞよいお年をお迎えください! (せ)
Dec 31, 2013
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10月1日の教室は卵との対話をしました。 生卵を床に立ててみる。立っている卵を見ると、実にすくっと立っていて、倒れるところを見ると本当にうまい具合に倒れていた。卵の中身全体が動くのがわかるような、軽やかだが重さを感じる倒れ方だった。立っている時も倒れる時も安心して任せきった上で自立している感じがした。 卵を立てた上で、二人組で脳天逆立ちをする。脳天逆立ちは脳天を決めたらその点にからだの重さを注ぎ込み続けながら立っていくのだが、私は今まで腰を乗せる手前までいくと背中と足が突っ張ってしまい、それ以上脳天に重さを乗せる方向へは自力ではいけなくなってしまうと思っていたのだが、包助をして下さっていた大井さんの「もう少しこちらへ歩いてきて」の言葉で背中がふっとゆるみ自分が思っていた所より先へ歩いていけた。不安定さへの怖さと、これ以上は行けないという私の思い込みがからだを固めていたのだと思った。もし辛かったら全体で徐々に変わっていき、細胞のお互いがお互いを助け合えるからだが「まるごと全体のからだ」なのかもしれないと思った。そして実際に、からだでそのことを実感できないかぎり、分からないのだと痛感した。『立っている生卵は、美しいということ、正しいということの基礎原理「当り前(当然)」と、動きにおける一般原理「信じること→任せること→ゆとり(余裕)‐新しい可能性」とを私に教えてくれているのである』 野口 三千三 本当に自分の重さを信じることができれば、手がかりを見つけることができるかもしれないと思った。
Oct 14, 2013
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7月2日の教室は「やすらぎの動き」の対話をしました。「やすらぎの動き」は足を開き座った状態での動きです。私はこの動きは苦手という意識がずっとありました。座った状態でとても腰が立つところまではいかないのでその姿勢自体がつらいと思っていたからです。対話は話しかける人と話しかけられる人で一緒にやる動き。自分一人だけで動いている時には感じられないことが感じられます。私は今回スタッフの寺島さんと組みました。私が話しかけるほうになった時、寺島さんのからだがとても気持ちよさそうに感じました。からだ全体に波を感じることができ、からだは右半身、左半身に分かれている透明な柔らかい管なのだと感じられたのです。私は立っている姿勢で動く動きではそれが感じられるのに、座って足を開く姿勢では、苦手、つらい、という意識が先に立ち、自分でからだを、胴体、腕、足と別々にとらえていたことに気がつきました。からだが左右2本の管ならばどんな動き姿勢になっても胴体の真ん中まで足になったり、腕になったりするのです。そのまま皆で尻歩きも赤ちゃんのように自由にしてみる。気持ちがいい。からだが気持ちがいいということは、こういうことだったなぁと改めて思いました。(い) 「「ほんとうにお前、今、気持いいのかい?」と、たえず私のからだに問いかけて、あくなき問いを問いつづけること、それが私の体操です。」野口三千三
Jul 21, 2013
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昨年来、しばらく休止していましたこのブログですが、書き手を一新して再開します。突然の休止で、それまで読んでくださっていた方には大変申し訳ありませんでした。これからまた、今までとはちょっと違った形で、野口体操と教室のようすをお知らせしていきます。どうぞよろしくお願いいたします。 さて、先日の体操のテーマは「ふさ(房、総)」でした。「ふさ(房)」は、糸を束ねている部分にほんのちょっとひねりを加えると、全体が椀あるいは皿のように大きく広がります。そのイメージで、右足、左足と重さを交互に乗せ替えながら腰にひねりを生み出すと、腕がちょうど房の糸のように、からだに巻き付くように、あるいは少し浮きながら、左右に振れます。 そのとき、からだの重さを地球に乗せて、その重さで「作用」することで得られる「反作用」のエネルギーを、足の裏から脚、腰のなかに伝えていきます。反作用のエネルギーは、右足(の裏)→右脚→右腰→左腰→左脚→左足(の裏)と伝わり、また左にあたらしく重さを乗せて反作用を新しくもらって…という具合に流れていきます。そのエネルギーが腕にも伝わって腕が振れるのです。決して、力づくで腰をひねるのではないのです。 ところが、腰の中を反作用のエネルギーがなかなかうまく通らないことがあります。そうすると腕にも伝わりにくく、なんだかぎこちない動きになってしまいます。からだはエネルギーの通り道ですから、その「通り道」がうまく空かないと、同じ動きでも似て非なる動きになってしまいます。教室のみなさんと、その違いを感じながら、繰り返し試してみました。「ふさわしい」というコトバは、「ふさ(房・総)」と同根のコトバだと、野口三千三は指摘しています。和語の「ふ(気体的な動き)−さ(筋道)」は、「ふさふさしていて抵抗の少ない自然の動きの象徴」であり、そのような動きは「ふさ」本来の「一本一本がお互いに優しく触れ添い、しっくり調和がとれ、もつれないでそろって釣り合っている状態」に、からだの裏(なか)がなるとき、はじめて実現できるのです。(せ)
Jun 12, 2013
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野口体操の「逆立ち」は、二人でやる逆立ちです。「ふつうの逆立ち」と呼んでいます。やがて一人でできるようになるために二人でやっているのではありません。逆立ちをする者とその人に寄り添って共に逆立ちをする者は、ずっと二人の逆立ちをやります。それが自然でふつうだからです。なぜって、関係こそが人間らしい営みの基本です。そして、人間の関係は二人から始まっています。しかし、その一人ひとりは自立していなくてはほんとうの関係は取れません。「ふつうの逆立ち」は、人間関係における基本的な問題を見事に捉えています。「包助」と「包助者」「包助」のある逆立ちは「ふつうの逆立ち」です。「包助者」は、「ふつうの逆立ち」をする者に寄り添う協力者です。この両者がいなくては「ふつうの逆立ち」は成立しません。今週は日曜日・火曜日の教室ともに「包助」だけをやりました。逆立ちはスタッフの寺島康子がしました。「足で立った状態から『重さという生きもの』になったからだが、自らの重さのエネルギーだけで、逆さに立ってしまうという在り方なのである」(野口三千三)「ふつうの逆立ち」に誰よりも近い逆立ちをする寺島です。その寺島も、「包助者」によっては立てません。「包助」なしでは野口体操の「逆立ち」とは言えません。そして、「ふつうの逆立ち」でどうしても大切なのは、寄り添う側「包助」です。誤解をされています。逆立ちをする人が「主役」だと。一人で逆立ちができるのが技術的に上位だと。この誤解があるからだけなのでしょうか?「ふつうの逆立ち」をするとその人の普段の人間関係が見えてきます。受容、信頼、協力の内容があいまいになり、具体的ではなくなります。自分がやってもらいたいこと、自分が安心できることすら不確かになります。関係そのものが取れなくなります。さらにはっきりすることは、それでも自分のやり方を換えようとはしないことです。もっと言えば、自分はそうはやっていないと思っていることです。そもそもは、自分がそうなっているとを感じないことです。いろいろ言い分もあります。「包助」は、その言い分を充分出し切るのに、絶好のからだの動きです。「逆立ちすることよりも、よりよい『包』になることが、全人間的には重要な問題だといいたい」(野口三千三)
Nov 1, 2011
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火曜教室は、イギリスから帰った花崎摂の授業が行われ、久しぶりの花崎の授業をたのしみました。そのときの経験を相馬律子が寄せてくれました。彼女は、月一回やられている「課外授業」のメンバーの一人です。【相馬律子の野口体操 ――「脳点一点逆立ち」と「生卵が立つ」ということ】「前回に引き続き「逆立ち」のレッスンが行われた。野口体操では、中身のあり方が重要であり、その動きに必要な中身のあり方がある、と言われている。今日は、生卵とうで卵で中身のあり方が異なることにより表出される動きが違う、ということを経験した。ゆで卵はひねりを加えるとくるくると独楽の様に回り続けるのに対し、生卵はまわす側の思うようには動かない。次に生卵を床に立てることを行った。生卵の中身は液体である。生卵の中身を感じながら立てようとするのだが、立つ瞬間には今までの迷いがなくすッと立ってくれる。教室の全員が卵を立てることができた。今日行った「脳点一点逆立ち」と「生卵が立つ」ということは同じ「立つ」ことの原理を含んでいる。「脳点一点逆立ち」をやってみて、痛みや、からだが力んでしまう感覚の方が強く感じられ、私の中身が生卵の様に液体にはなれなかった。まっ直ぐ立つということと自分の中身のあり方との関係が「逆立ち」をすることでハッキリしたレッスンでした。中身のあり方を色々な動きで探っていきたい。」「立っている生卵は、美しいということ、正しいということの基礎原理『当たり前(当然)』と、動きにおける一般理論『信ずること→任せること→ゆとり(余裕)-新しい可能性』を私に教えてくれているのである」(野口三千三)
Oct 25, 2011
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大阪の教室からKさんがお出でになりました。「期に一回、東京教室に参加できます」という特典を利用しての参加です。けれどもそんな規則を超えて、Kさんいつでもどうぞ、と待っています。Kさんには、大阪教室のみんなが余りあるほどのお世話になっています。静かに見守ってもらっており、何かコトがあればとっさに判断して必ず動いてもらえる、そんな信頼を負担感なく持っていられます。それほど悦んで楽しんでみんなと自分をつないでいるKさんなのです。Kさんと触れ合っていると、野口先生のこんなことばを思い出します。「すべての人間にとって一番大切なものは優しさである。一体、人間にとって優しさより大切で、優しさより強いものが他にあるだろうか」(野口三千三)「健康」の「康」は、大和ことばで言えば「やすらか」です。いつでもどうぞ、とみんなが待っているMさんもお出でになりました。「老いても人の役に立ちたいのです。」今Mさんは、野口体操教室を月一回にして集中的に学校に通っておいでです。Mさんならではの着眼で、それがやがて野口体操と結びついて新しい道が拓く予感です。日曜教室は、そんなお二人の参加を得た今日から、「逆立ち」のコーナーに入りました。「逆立ちになったとき大切なことは、新鮮で繊細で余裕のある開放の実感が明確になることである」(野口三千三)今まで学校教育でやられてきた「倒立」ではない「逆立ち」。その意味するところを伝えたいと熱が入り興奮しているのは伝え手です。ところが、「静かな興奮を感じています」Mさんならではのことばです。実に、からだの内や感情が「なみ・うず・らせん」となって感じられます。つたわった、通じあった、伝え手のおおきなよろこびです。二人が加わってて教室は泡立ちました。「逆立ち」の意味するところがさらに鮮やかになりました。
Oct 23, 2011
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「脳点一点逆立ち」から「普通の逆立ち」に入りました。もちろん、「脳点一点逆立ち」をやりたい人はそれを深めます。野口三千三は何故、「脳点一点逆立ち」を「普通の逆立ち」の前に位置づけたのか。「脳点一点逆立ち」は、頑張らない実感をより持ちやすいのです。頑張らない感覚とは、不安定を安定と感じられる感覚です。掌で立つより脳点で直に立つことの方が、その感覚を捉えるのはより可能です実際の暮らしから見て、胴体から肩関節へ、そこからつながる腕のながれは、胴体から股関節へ、そこからつながる脚のながれに比べて大変不自由です。つまり肩関節の方が真っ直ぐではないのです。掌で立つことはその分不安定で頑張ろうとします。だから、先に「脳点一点逆立ち」で頑張らない感覚、不安定を安定と感じられる感覚を充分からだに憶えさせておくことが肝心です。野口三千三は何故、「ふつうの逆立ち」と呼ぶのか。「倒立」ではないからです。「逆立ち」の方がほんとうの(ふつうの)逆立ちだからです。さらに、「包助」と一緒になって二人で逆立ちをします。「脳点一点逆立ち」も「普通の逆立ち」も、「包助」と一緒に二人で逆立ちをすることも、共通の基盤は頑張らないことです。Sさんにはいつも教えられます。先週も今日も積極的に自身の在りようを確かめられました。これではないな…、と思いながらも、今それしか出来ないから、自身も承知の上であえて、「頑張る脳点逆立ちなら筋肉で立つことはできます。」と、汗をかきながらやってみせてくださいました。「脳点一点逆立ち」も「普通の逆立ち」も、誰が見てもカタチは整っていました。しかし、「足で立った状態から『重さという生きもの』となったからだが、自らの重さのエネルギーだけで、逆さに立ってしまうというあり方なのである」(野口三千三)ではありませんでした。今までそうやって来て、これからもそうやって行ってもそれで充分通用するやり方を、ここまで来て本気で見直そうとされているSさんです。これは違う、これではない。違和感はSさん自身が直感されています。ほんとうに気持ちのいい「逆立ち」がSさん自身のからだの中に在ります。
Oct 18, 2011
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「あなたは今、原初生命体ですか?」(野口三千三)野口三千三は、自分に、そしてわたし達に問い続けました。「あなたは今、原初生命体として生きていますか?」2011年の今日、今、人間は進化の極みにいます。一人ひとりの進化においても同じことが言えます。おそらくもっともっと進化し続けるでしょう。どこまで行くのか、その計り知れなさに夢を抱く人もいれば不安を持つ人もいます。しかし、実は、このからだは生命の起源からの38億年の記憶が刻み込まれています。その以前、地球誕生からの記憶と言うべきでしょう。忘れていると言っても、しょせん現在の私の脳が忘れているだけ。現在生きているからだはその38億年の記憶と蓄積なしには存在しません。2011年の進化したこのからだと、同じからだの中に在る38億年前の生命の起源における「原初生命体(コアセルベート)」とが、行ったり来たりする経験が「体操」です。その経験をする時間が体操の時間です。自分はからだが硬いとか、今こんな問題を抱えているとか、何か気づきが欲しいとか、現在の進化し切ったからだの側だけに立ってその課題をなんとかしようとする問題解決の場ではありません。ただ「原初生命体」に遡るただ「体操」をする。自分の裏(なか)に刻み込まれて在る38億年前の世界を、ひたすら実感したい、味わおう、とすることこそが一番やられなければならないことです。2011年を生きるからだは時々方向を見失います。進化といわれる情報が頬笑みながら手招きします。手招きされた方向に乗って行けるかと足を踏み出しても、からだは付いて行けません。凝り・不自由さ・痛さ・硬さ…として感じられているそれを、疾患と言ってしまう前に、自らの中に生き続ける原初生命体に遡ってみよう。原初生命体と行き交う時間をたっぷり持って、からだはほっとします。わたし達は、そこから始まったのですから。
Oct 16, 2011
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花崎 摂がイギリスから帰ってきました。卒論で根を詰めて体調を崩し、帰国が遅れたのでした。火曜日の教室は、花崎と交代でやってきました。少し落ち着くまでからだを馴らす期間は取ることになるかもしれませんが、教室は再び今までのリズム、二人の伝え手の交替に戻ることになります。野口三千三が遺した教室で、わたし達は野口三千三が創始した野口体操の「検証と継承の授業」をしています。わたし達とは、五人のスタッフと教室に参加されている全ての人たちを指します。たった一日だけ覗きに来ただけの人や、すぐ止めてしまったひとも含まれた全ての人です。何が気に入らなかったのか、何故止めてしまわれたのか、思い当たることも、皆目意味の分からないことも、スタッフ会議で一つ一つ話し合われてきました。反省すべきこと、譲れないことがつぶさに話し合われ、授業の内容を深めてきました。その上で、スタッフ一人ひとりの視点を変えた切り口と個性で授業が展開されてゆくことは必要だと考えています。イギリスから帰った花崎の、新しく捉えた野口体操をお楽しみいただけるのも間近です。教室は、今日から「逆立ち」に入りました。「健康とはなにか」(野口三千三)の項の一番最後に、野口三千三が「逆立ち」を持って来たのは何故か?「筋力によって、ゴマカシ・デッチアゲ・ゴリオシ……のむりやり倒立の罪悪を考えたことがあるだろうか」(野口三千三)その罪を明確にするには、今までの「倒立」から「逆立ち」へと、概念を変えねばなりません。それは、からだとからだの動きのイメージを根こそぎ変えることでもあります。「逆立ち」は、時間をかけてゆっくり自分のものにしてゆくに価値あるからだの動きです。
Oct 11, 2011
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【☆★大阪で野口体操を★☆――そんな探険をしていることの大きな意味】大阪で5年目、九期の教室が幕を開けました。伝え手は、そこに受け手がいて、そのひとたちから学ぶことで力になってゆきます。今期は18名のグループですが、新しい参加者が6名です。この新しい6名とどんな関係を持ってゆけるだろうか…。野口体操を間にしてそれぞれの課題をどこまで深めてゆけるのか…。まだ始まったばかりのドキドキわくわくはハネムーンの感覚に似ており、すべてはこれから知り合ってゆくことになります。あとの12名は実に頼もしい。この中に、4年間一期からお付き合いを頂いている方が5人もいらっしゃいます。4年前からの人と6ヶ月前からの人、期は違っても12人は交じり合って、一つの調和を成しています。受け入れる側と新しく入ってきた人たちの関わりが実にいいのです。大阪にこの12名の野口体操のグルーップが在って、そのグループが月一回一堂に会して「からだの動きの実感を通して自然とは何か、地球とは何か、人間(自分)とは何かを探険する営みを体操という」(野口三千三)大阪で、からだの実感で、そんな探険をしていることの大きな意味が感じられて来ました。これは手前味噌でもなく、大げさでもなく本当にそうなのです。すべては1人から始まる、と言われます。そのとおりです。その一般論を具体的に見せてくれるのが、この1人×12人のグループです。教室の前とあととは違う。まして4年前とは確実に違う。その変化がお互いを信頼させ、その変化の中でつながっているのです。教室がこの12人の内容を持って熟してきたのです。そこにスタッフや伝え手が同席させてもらっています。このグループは教室以外で集って何かをしているわけではありません。教室が終ればそれぞれの場に帰ってゆきます。しかし、つながっているのです。たった12人(やがて新しく加わった5人、来月からの一人も加わって18人になるでしょう)から生まれるもの。そのつながりが生んだものは必ず世界を変化させてゆくことでしょう。それを確信できるようになりました。それを繋いでいるのが野口体操です。
Oct 8, 2011
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うーん、今日の授業は疲れました。終ってから授業のからだを解くのに、しばらく時間がかかりました。基本的で本質的なことを地道にコツコツと…。それを何より大切にしています。大自然という大きな視野の中に身をゆだねるために、だから、どうしても身につけておかなくてはならないことは、基本的で本質的なことを地道にコツコツやることの中にあります。むやみに息をつめて頑張ることが地道にコツコツだとは思えませんが、だらだらやっていても何の発見もありません。繊細で緻密な感覚が大切になります。長年の付き合いのある美容室の先生は、サッカーを趣味とされています。もう50代になるからだで、一週間に二度も練習試合を粉すほどの熱心さです。強引な父親ではない彼ですがその思いは熱く、三人の子供にもサッカーを教え、現在は三子の長男だけがプロを目指しています。美容室に行くとそのほとんどがサッカーの話です。彼は確信をもって言います。「いい選手には、地道にコツコツと繰り返し練習して自然と力が抜けないとなれません。」つまりは、そのことが出来るようになって始めて力は抜ける、というのです。「それには、地道にコツコツと繰り返し練習するしかないと思いますけどねえ。」どうどう巡りのようですが、明快で説得力がありました。挟みを片手に訓練でやる反復練習の動きをフロアーでやって見せてくれました。興味を持っていろいろ質問をしました。見て聴いて思いました。たぶん、サッカーの練習は部分割りしてそれを繰り返し練習するのだろうか。その部分は個人に負かされていて、それを繰り返す中で個人的に感覚が開かれ力が抜けてゆく。その上で、全体でそれをつないで流れをつくってゆくのではないか。野口体操はどうか。からだの中身が体液として捉えられているのか?その体液の重さを感じられるか?からだの動きはからだの中の体液の流れだと実感できるか?からだの重さを感覚すること、重さの流れをからだの中に創ることとは、いきなりまるごと全体から始めることです。最初からからだの力が抜けていることを要求されます。この得体の知れない違和感が観念を超えて、一つの実態となって感覚されるまで繰り返すしかありません。地道にコツコツと。力が抜けて初めて現れる世界です。「『頑張り』がなくなった時、『重さ』が主役の『透明な力』の世界が現れてくる」(野口三千三)
Oct 4, 2011
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今やどんな病気も、当人に告知されます。もう20年も前、弟の癌を主治医が弟に直接告知して家族はおろおろしました。まだあの頃は、告知ということばすら社会的な課題でした。では、精神の病気も他の病気と同じように認識されているのかと言えば、決してそうではありません。家族すらそれを認めようとしない、他人には知られまいとし、他人もまた、聞くのをはばかるだけでなく陰で噂をする。当人は、知っても対応できないからか。知的な衰えがおこり、客体化できる力も衰えるからか。それとも知ってもしあわせにはなれないからか。自分のことは自分が知る権利があります。なのに、彼等はほとんど自分の真実を知らされているとは思えません。嘘を言わないのは当然のこと。出来るかぎり本当のことを言う。そうやってきました。信頼関係がそこにあるとしたら、そのことが一番の理由だと思うぐらいです。今日は、「老い・死」に終始してしまいました。ああ、今日は何とか無事にここに来れました。――みんな笑っています。この病院への往復はバスです。片道1位間以上はかかります。最近、往きで眠ってしまって終点まで行ったことが二度ほどありました。――三回でしょ!?え? ああ、そうかあ…、でも、終点まで3つほどしか停留所がありませんから、実際に遅刻をしたのは一度きりです。帰りは、お客さん、終点ですよお。 なんて肩を叩かれることが何度もあります。乗り物で眠ってしまうなんて、以前には考えられなかった。しようがないなあ、年取ったなあ…。――頷きながら、身を乗り出してきます。脅しをかけているのではありません。やがてやって来るのではなくて、今、この瞬間も老いに向かっています。みんなに年を考えたって、もうそんなに時間は無いのです。形のあるものは壊れる腐らない生ものは不自然でしょ?生きているものは死ぬ。ほんとうの財産はこのからだしかありません。放ったらかしておくなんて、もったいない。自分のからだを味わい尽くしてから死んでいかなきゃ。――彼等は死を受け入れる力も持っています。じぃーとしていては、からだの中には何も起こらない。頭の中でグルグルと考えているだけでは。からだは何も言ってくれない。何を味わったらいいのかも分からない。自分のからだの中身を味わい尽くしてから死ぬ。うん。いいことばだと思うなあ。どう? いいことばだと思わない?――もう一度笑ってくれました。どうやったらからだの中身が感じられるのか、どうやって味わうか、一緒にやってみましょう。「そのぐらい実感というものは、ある意味ではあやしいんです。あやしいからこそ、私たちはもっともっとそれを確かめる作業をやらないと、生きているすべての事柄がほとんど宙に浮いてしまうようなことになりかねません」(野口三千三)
Oct 3, 2011
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教室が始まる20分ほど前、その方は突然お出でになりました。「今日でなくても、また次のチャンスでいいのですが、見学させていただけませんか。」ホームページから此処にたどり着いたとおっしゃいます。本来から言えば事前に連絡をもらって、お話ができる時間を取って来て頂いています。でもそんなことでお帰りいただくわけにはいきません。青梅からです。20分ほどの間にお聴きしました。以前、格闘技をやっていたこと。又からだを動かしたいと思って少しからだを動かし始めたこと。そうしたら、自分のからだが思った以上に硬くなっていたこと。柔らかいからだを取り戻したいと思って、パソコンで検索して此処に来たこと。「私は、生きるということの中で自分自身の『まるごと全体』が、オパーリンの『生命の起源』における『コアセルベート』の未分化・全体性のあり方とそっくりそのまま、重なり合い解け合ってしまうのを実感するのである。私は、この状態を原初生命体と呼んでいる」(野口三千三)「水袋」を手に、このお話しをました。ほんの20分やそこらでどれだけ伝えたいことが伝えられたか分かりません。相手の表情を感じながら、手探りのやりとりです。Oさんとおっしゃいます。しかし、Oさんの出現で今日の2時間の予定はすべて変更されたかと言えば、全くそうではありません。お陰様で、基本の基本を丁寧に繊細に確かめることができました。主題は、「絵画・書道においては、直線を描くことが基本だと言う人が多い。動きにおいては、重さの方向(地球の中心への方向・鉛直線)に、からだの主軸を一致させる感覚が基本となる。それは、どのような体勢になっても、地球の中心がどの方向かを感じ取る能力、といってもいい」(野口三千三)でした。この難解で高度な主題は、誰でも知っている単純な動きで確かめられました。実は、生きた人間の単純明快な動きの中にも、この能力がそなわっているからです。誰でも日常の中でやっている基本のそのまた基本の動きです。Oさんに、途中何度か皆さんの動きをみていただきました。「すごい…」とその度に言われました。その声を聴いて、伝えたかったこと・感じ取ってもらいたかったことが伝えられ感じ取ってもらえたがわかりました。終って、今日の経験を話してもらいました。「からだとこころが一つでなければ何もできないんだなあ、と思いました。自分はからだとこころは別になっているなあ、とはっきり分かりました。」何もできなくて、ほとんど突っ立っていることしかできなかった二時間。それなのにぐっしょり汗をかきながら、Oさんが経験されたからだの中身はきっと豊かな動きだったろうと思われました。「柔らかいからだとはどういう状態を言うのか」少なくとも、求めてお出でになったことへの洞察がここから始まろうとしていました。
Oct 2, 2011
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前の教室で「『吹き抜ける動き』って、どんな動きですか?」と質問されて、即座に答えました。すべての動きは吹き抜けています。そのとおりです。一つの概念あるいは一つのことばに一つの動き、と決められてはいない。すべての動きはつながっている。そのことはまず最初にはっきり伝えておきたかったからです。「わたしは最近『ふきぬけ』と『はききり』というコトバに強く惹かれている」(野口三千三)これは、野口三千三が、「お尻たたき」と呼ばれる動きの考察を深めるなかで光が当てられました。「ふきぬけ」「はききり」和語の持つ一つ一つ音の感覚、「それらがつながり合い、からみ合って生まれる無限のコトバの『生きもの』……。私はたまらない魅力を感ずるのである」(野口三千三)「くつろぎ」が「力を抜く」ことの最初のとっかかりであり最後の実感であるならば、「くつろぎ」と「ふきぬけ」と「はききり」は繋がる。繋がらなければふきぬけることも、はききることもできません。お尻を叩いた後のからだの状態が吹きぬけており、息もろとも半身のからだの中身がはき切られていなければ、「お尻たたき」そのものもくつろぎの中でやすらいではいなかったことになりましょう。やってみると難しい。いやあ、力の入ること入ること…。みんな同じように力が入るのに、自分だけ、と思ってしまってる。そこでみんなの苦労を見合いました。一番最初はスタッフの寺島康子。う~ん! いいかもしれない! 気分は上々だ!!あ、次の人からだんだん力が入ってゆきます、あ~あ、それを見ているともっと力が入ってくる。「もっとどんどん楽しくなると思っていたのに…。」そうだよねえ…笑ってしまいました。また何度もしつこく繰り返しましょう。自然の原理に問い続けていれば他の動きをやっていても、今度「おしりたたき」をやった時は、今までと少し違っているのですから。
Sep 27, 2011
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どう生きようがそのひとの勝手だといいます。生きているだけでいいといいます。ほんとうに生きているのなら、それでいい…。では、ほんとう、ってどういうこと?生きる、ってどういうこと?精神の仕事に関わっていて胸苦しい感情になるのは、この問いを追い詰めていくときです。なぜなら、問い追い詰め考察するだけではどうにもならないことが分かっているからです。都心だからでしょうか。この病院のデイケアは、そのほとんどが若いメンバーです。メンバーには中年のひともいますが、彼等は休職中の鬱病のひと達が主です。どんなに困難であっても、社会復帰を目ざす会社が待っていてくれます。しかし若者のメンバーは、統合失調症はもちろんのこと、たとえ鬱病であってもその悩みは重くて深い。この若者達はこの先どうするのだろうか?方向性を持つことができるのだろうか?精神の自立と経済的自立は寄り添ってくれるのだろうか?人間なら誰でも病む可能性を持っている精神の病。わたし達が作り出してきた社会が大きく影響を与えている精神の病。伝え手はどう関わればこの若者の力になるのだろうか?スタッフのチーフは言います。「ゆっくり、ゆっくりです。」ゆっくりなんかしていられないじゃないか。ゆっくりしていたらますます仕事に就けなくなるじゃないか。ゆっくり、って…そのうち保護者もいなくなる、本人も年取るじゃないか。我がことのように不安を増幅させてチーフを見ると、チーフはますます落ち着いて「ゆっくり、ゆっくりです。」人が生きる、そのイメージを確かに持っていなければこの落ち着きは出てきません。こだわりや思い込み、殊に絶対だと確信していること、それはほんとうにそうなのか、そこに自分自身の経験や実感はあるのか、と、からだの動きで問うことはできます。からだとからだの動きの概念はその大半が外から与えられたものです。しかし、からだの動きが変わることほど時間のかかるものはありません。口で言ったこととまったく逆のことを平気でしていても、それすら気がつかない人たちが多くいます。精神を患う人たちも自らのからだの存在を忘れている人たちが多い。そして頭痛・倦怠感など鬱陶しいからだだけが認識されています。ああ、ゆっくり、ゆっくり、からだが変わるまで付き合い、見守ってゆくことしか力になるものはないと腹を括るしかないのかもしれない。「どんな簡単に見える動きでも『無限の深さがあるんだなあ』と感ずる時、私は幸せを感ずるのである」(野口三千三)精神の病と関わっていることは野口体操の当然の仕事と思っています。
Sep 26, 2011
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一言で「力を抜く」と言っても、これほど伝えにくいことはありません。伝え手という他者から今日の主題がことばで伝えられる過程で、受け手の裏(なか)ではどんな操作が行われているのでしょうか。ことばが課題のように耳から入ってきて、その課題が頭脳に伝えられ、頭脳がその課題をからだに命令する。そんな操作が行われているのでしょうか。「今日は何も考えないでやりました。」そんなことばもよく耳にします。しかし、力を抜けない人にとって、それもあまり効果的ではないようです。たぶん、「体操をする」からです。体操は「する」ものではない。「負けて・参って・任せて・待つ。 間を空け間を待つ」「重さに任せる」「自然の原理に任せる」(野口三千三)ことばがからだを変えさせるものとして在るのか…、更にもっとからだを固めてしまうものとなってしまうのか…、そこは大きな分かれ目です。力の抜けないひとにとってはことばは観念としてしか聞こえていません。わくわく・どきどき、人をときめかしからだがゆるんでゆくことばは語る側と聴く側に共有されません。真面目で純情で一生懸命なこのひとにはことばよりからだの「確かめ」が必要ではないのか…。今日は、「くつろぎ」で確かめられました。「『くつろぎ』の状態とは、からだの奥の隅々の一つ一つ細胞まで、口をポカンと開けて『ろ』の感じになることである」(野口三千三)最初に口元で、次に顎で、それから首から上の顔・頭の中身をゆるめる動きで、「ろ」の状態を確かめました。少しずつからだまるごと全体を「ろ」の状態を広げてゆきます。でも…、立った動きに入った時にはからだ全体に力が入ってしまっていました。「力を抜く」それ自体が一つの大きな主題となっています。
Sep 25, 2011
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授業の最初に、板書された野口先生のことばが伝え手によって紹介されます。その伝え手の仕事を、野口先生のことばの「解説者」と取っている人もいますが、伝え手は解説をしているのでは全くありません。野口三千三のことばをわたしは、こう捉えてきた、わたしは、そして今、こう捉え直している、わたしは、このことばは半分しか分からない、わたしは、そうは考えないし了解できない、…ところで、あなたは?伝え手の真っ正直な姿がそこに在ります。わたしは、今、ここにいますがあなたは? 問いかけをするのが、伝え手の仕事です。もう一つの仕事は、野口三千三のことばをからだの動きでたしかめる場を提供することです。伝え手のからだの動きは、そのまま伝え手の今が表にあらわれたものです。からだの動きに全て表れます。誤魔化していれば誤魔化していると、取り繕っていれば取り繕っていると…。わたしは、こんなたしかめをやってきた。わたしは、ここまでたしかめた。わたしは、そして今、こんなたしかめをしている。…ところで、あなたは?まあ言わば恥さらしをしながら、不安定を生きているのが伝え手の存在です。「『不安定を作り出す(バランスを崩す)能力は動きのエネルギーを創り出す能力である』と積極的にとらえなければならない」(野口三千三)そんな伝え手に質問がありました。「『吹き抜け』とは、どんな動きなのでしょうか?」どの動きも、みんな吹き抜けています。足の下(土台)は開いて地球とつながり、上(末端)は開いて宇宙とつながる。下から上、つまり土台から末端は管です。自分のからだの中だけで事が起きて終ってゆくのではありません。「からだは地球の中心からぶらあがっている」「人間のからだは自然のエネルギーの通り道」「からだは真空の柱」 (野口三千三)これらは一つ一つ、味わうに価値あることばですが、同じことを言っているともいえます。共通しているのは、その時からだの中身は吹き抜けています。伝え手のこのことばも、やはり返答ではありません。今分かっているぎりぎりのことばです。ずーっと考えています。「吹き抜け」というイメージで動くからだの動きは、なんと言っても、やっぱり、「お尻たたき」のお尻を叩いたあとの放り出された脚の中身。うん。これが一番具体的で分かりやすく、それなのに粉せない動きだなあ…と。なぜあの時この動きを差し出さなかったのだろうか…と。一つの概念に一つの動きと決められているのではない。全ては繋がっていることを最初に伝えたかったのだ…と。次の授業では、「お尻たたき」のお尻を叩いたあとの放り出された脚の中身という具体的な動きで、「吹きぬけ」をたしかめましょう。
Sep 20, 2011
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「あきらめない」今いちばん輝きを持って伝えられていることばです。「あきらめる」とは「明らかに見る」ことです。だから、「あきらめない」とは「明らかに見る」ところから始まります。「あきらめない」と寄り添うようにしてあるのが、「しつこし」です。「『濤・渦・螺旋』こそ、すべての存在や動きに基本である」(野口三千三)これが分かりたい。そこにある法則が分かりたい。大自然の法則と、自然の一部である人間のからだが持っている共通の法則を捉えたい。どんな動きにも共通するであろう法則を、からだの動きとして捉えたい。しつこくやってきました。ああ、そうか、と実感できることが少しずつ増えてきました。あの動きにも、この動きにも確実にある法則。「濤・渦・螺旋」しつこくやってきて、からだの構造がそう出来ていることも分かってきました。しつこくやってきて、放っておけば、何もしなければ、動きは「濤・渦・螺旋」になってしまうことも分かってきました。「『濤・渦・螺旋』こそ、すべての存在や動きに基本である」ことが、この地球上で生きるすべてのものの自然の姿であるならば。それを明らかに見ることです。どんなに不自然に歪められてしまっているからだであったとしても、追い求めてしつこくやっていれば、からだは目覚めてくれます。もともとからだが記憶しているものだからです。からだは決してあきらめません。だって、その方が楽なんだもの…。
Sep 18, 2011
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いいなあ、よかったなあ…、と思うことが二つありました。一つは、今日の伝え手を大井弘子さんが担当したことです。同じ野口三千三に師事してきても、受け手によってその受け取った内容は異なります。人によって大事にするところが違うからです。先生亡き後すぐ、ビデオ「野口体操・自然直伝 第1巻 原初生命体の動き 第2巻 重さに貞く 第3巻 重さは思い、思いはイメージを、野口体操ビデオ制作委員会で創りました。委員会のメンバーは五人。その時、思い知ったのです。「理解とは誤解である」(野口三千三)と。先生は見事なまでに言いたいことを言い、伝えたいことを伝えておいでになりました。受けるわたし達も聴きたいように聴き、受け止めたいように受け止めてきたのでした。そのため五年の月日を使いました。五人で一つの作品を創るのにどれほど苦労したか知れません。あれから十年近く過ぎて、五人は好んで、今も同じ教室でその苦労を共にしています。当然のごとく、共通することと違うことがあります。それはますますはっきりしてきています。そのことを堂々と教室の皆さんに開示できることをうれしく思います。伝え手は、野口先生のことばを解説しているのでも、教育しているのでもありません。わたしはこう考える、こう思う。ところで、あなたは?もう一つ。久しぶりに生徒になれたことです。自慢なのは、五人のうち一人は伝え手ですが、あとの四人は完璧に生徒になり切っていることです。伝え手の真意を、耳は勿論のこと、からだじゅうをそばだてて貞(き)く。そして、受け取ったのは自分であるから、自分の裏(なか)に潜り込むようにしてその受け取ったものを貞く。そうして初めて、伝え手と受け手の関係がからだの動きで華開きます。このところ、生徒になる機会はあまりありませんでした。やっぱり生徒にならなければなりません。この集中した没頭感は、何物にも変えがたい時間です。
Sep 13, 2011
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「頑張り」なのか「したたしか」なのか。他人にやり過ぎを注意する立場です。「無理しないでね…。」しかし他人からも言われます。「無理しないでくださいね。」言いながら、言われながら、やり過ぎを注意するのは違和感もあります。よほど無謀な人でないかぎり、これは言ってもしようがないな…、と思うからです。大阪の教室で、こんな憎まれ口を叩きました。「みなさんは、無理をするなと口々に言いながら、お待ちしていますと言う。無理をしなければここには来れません。」みんな声を立てて笑ってくれました。「無理をしていますよ。でも、無理をしたいことにだけ無理をする、無理をしたくて無理をしているんです。」頷いた人たちが何人かいました。ほとんどが女性で、家庭を持ちながら社会で仕事をしている人たちでした。「『したたしか』は地球の関係など、大自然の原理により人間という小さな自然の能力を生かす在り方であり、『頑張り』は人間の意識至上の傲慢さからくる奴隷支配のあり方であるからである」(野口三千三)昨日は大阪の教室があり朝早くに家を出、期の終わりの納会があって夜中に帰りました。その準備は何日も前からやります。そして今日は、日曜教室でした。朝、疲れたからだが軋みました。でも、からだは知っていました。まだ終っていない。このまま休んでいても疲れは消えない。今日の主題は「ちから(霊力)」でした。「もともと、和語の『ち』が液体的或は気体的、更にそれを越えているものとして捉えていることは重大な問題を示している。『ちから』は流動的なもので『伝わり・流れ・なみ・うねり・吹き抜け、内部圧力の変化』の感覚で捉えるべきものであると思う」(野口三千三)疲れたからだがこのことばに感応しました。伝え手から吹き出る「伝わり・流れ・なみ・うねり・吹き抜け、内部圧力の変化』の感覚が受け手に伝わり流れ、「なみ・うねり・吹き抜け、内部圧力の変化の動き」が生まれ出ました。伝え手と受け手が生み出した世界でした。からだに溜めていたのは疲れではなくエネルギーでした。方向性を持ったエネルギーが昇華したのでした。これは、「頑張り」なのか「したたしか」なのか。「したたしか」と認定しました。
Sep 11, 2011
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八期が終わりました。特別な八期でした。動入もなく段階も踏まず、いきなり「自然の原理の動きの感覚を本質とするほんとうの力」「大自然の原理に任せ切った動きの感覚」(野口三千三)を提出された八期でした。八期は、予定どおり行けば3月12日が一回目でした。その前日、3月11日、あの大地震が襲いかかって来たのでした。その一ヵ月遅れで八期は開催されました。あれから6ヵ月。大阪の教室でも「地球と人間の関係」が自然に語られるようになりました。「生と死」も真っ直ぐに話されるようになりました。伝える側と受けとる側の溝がぐっと近くなりました。両者をつなぐ野口体操が、本来の姿で伝えられ受け取られるようになってきました。「よく分からない。」や「少し分かって、また分からなってのくりかえしですが、」という声も率直に伝えてもらいました。そこには、「奥の深い、つかみどころのないものに思われ、とことんついていこうと思います。」(8期Aさん)の声が続いていました。1期から出席されているMさんも、9期に参加する理由に「分からないので…」をあげています。これはすごいことだと思いました。1期から8期の間に4年の歳月があります。「ついで、いったん分けたそのものの中をさらに分け、そのものでないものもさらに分ける、という作業がつづいて行われ、その新しい関係をきわめる作業が……というように無限に行われていく」(野口三千三)新しい関係をきわめる作業は、分からないことが前提と思うからです。分からない中に身を置くことを厭わない。何よりもそれを楽しむことができる。みんなでいい「場」を創って来た4年間でした。8期の仲間が加わって新しく9期が出発します。そこにさらに新しい仲間が加わって、大阪の野口体操教室はゆっくりじっくり進化・深化・新化……します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【大阪での野口体操教室・9期・新規募集のご案内】 ・・・★2011年10月~2012年3月 ★・・・ 毎月第2土曜日 13時~17時大阪で始めて、4年。じっくりと教室が熟してきています。続いていくことが財産ですね。続けられていることに感謝です。半年に一度の会員の募集。新規メンバーの定員は、5名です。⇒ 詳しくは、こちら
Sep 10, 2011
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「腕まわし」と呼ばれて愛されてきた動きがあります。野口体操の「腕まわし」は、それまでやられてきたいわゆる腕まわし運動と違います。元来の腕まわし運動は、左右の腕を同時に後方や前方に回転させていました。そのやり方は、若いうちは難なく出来た人でもやがてすぐに出来なくなり、肘をまげて苦しそうにやることとなります。その上、そのやり方は、腕だけ胴体から切り離して独立させてまわしているのです。右腕と左腕が同じ方向に向かって回転させるのは不自然です。苦しいのを無理矢理やる必要もないのです。なぜなら、右腕と左腕は右半身と左半身の中に納めることができるからです。腕は胴体から新しく生まれたり、用のない時は胴体に吸収されたり…、「原初生命体に発想」(野口三千三)です。「そもそも腕は、何処からを『腕』と呼ぶのか?」(野口三千三)この問いも新鮮でした。死体解剖学で分断されたからだの教育を受けた者たちにとって、この不思議な問いは新しくからだを捉える入門となりました。「そもそも腕は、何処からを『腕』と呼ぶのか?」右半身ぜんぶ右腕。左半身ぜんぶ左腕。ええ? それでは、右半身ぜんぶ右足?左半身ぜんぶ左足?そう、そうなのです。ええ? じゃ、じゃあ、右半身ぜんぶ右腕?左半身ぜんぶ左腕ってこと?そう、そのとおりなのです。「腕まわし」は、右半身と左半身が正中面でまわっているのです。だから、「正中面まわし」と呼んでもいいのです。そもそもと言えば、「腕まわし」の時の腕は、末端にあります。従来の教育を受けた者たちには、まさに腕をまわす動きとして、腕の行方が気になる動きです。しかし、その腕に気を取られている人のほとんどは、腕が思うようにまわってくれません。では、何処から腕はまわっているの?足の下からです。からだは丸ごと全体つながっているのです。今日はそんなことをたしかめた教室でした。
Sep 6, 2011
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グループホームで自活しながらデイケアに通っていたSさんが、突然、逝ってしまいました。58歳でした。「メンバーはショックを受けています。」どうして? どうしたの?何を聴いてもスタッフは、「わかりません…。」と繰り返すばかりでした。スタッフが「わかりません…。」としか答えられない経緯を話してくれました。「くやしいです。もう少し何とかできたのではないか…。」涙ぐんでいました。無塩仏となって納骨されるSさんには、この病院が実家なのでした。Sさんは家族から遺骨の受け取りを拒否される事情を抱えていました。精神を病む人には間々ある不幸です。一概には家族を責められないのです。発病の急性期に受けた恐怖や困惑や被害が、家族にも傷となって残っており、再発する不安を持ってしまっているからです。この実態は、別にまた問題として解決して行かなければなりません。病院は、家族が傷を負ってしまっていることや、家族会をすすめても拒否する家族の無理解は知っています。精神を病む者が社会からどのように見られているのかも知っています。だから、この病院を実家と想う患者の気持ちも知っているのです。何故ならこの病院は、一つの宗教観によって設立され、当初は閉鎖病棟という形で患者を守ろうとしてきたのですから。今日は休みだの、担当者がいないだの、データーが出せないだの…そんなことが目の前で苦しんでいるSさんを入院させないで帰してしまう理由になると考えているのか。いつからそんなに腐ってしまったのか。スタッフはSさんの味方にはなれなかったのか。何故Sさんの前に出て闘えなかったのか。診てもらうこともなく、だから病名すら付けてもらえず、次の朝Sさんは息を引き取りました。その日からまだ半月足らずのデイケアでした。迷った末思い切ってSさんのことを話し合いました。同じ病棟だった兄貴分のHさんが言いました。「病棟の婦長さんも言っていたけど、あの子は、何度でも言ってやらなけれ憶えられない。でもいったん分かって憶えたらキチンとやる子でした。歩かなければダメだ言われて僕が連れ出したら、だんだん増えてコースを10回も廻るようになって、だからあの子は退院できてグループホームに入れたし、止めてしまった僕は今でも入院していて、あの子は、分かったらチャンとやる子で…」Hさんは、話を引き継ぐまで何度も繰り返しました。今日も元気を出して体操をやってもいいですか?「はい。」助け合うようにして、終わりまで誰一人席を離れてしまうことはありませんでした。
Sep 5, 2011
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浜松から「9月来4日に行きます」とメールをくださったMさんは台風のためお出でになれませんでした。四季に恵まれ、海に囲まれたこの細長い日本列島は、それ故に天災から逃れられません。それをちゃんと受けとめて、その上でどうするか…。人間らしい知恵を集めなければなりません。まして、人災の種を持ち込むなどとは、愚かしいもいいところです。その知恵の一つが、「大自然にまかせ切った動きの感覚」(野口三千三)を持つことです。そして、そのように行動することができることです。ストレートに政治的意見を言わなかった野口三千三は、では本当に口をつぐんでしまっていたのか。「野口体操」という個人名がつけられた、「からだの中身とからだの動きの実感を手掛かりとして探険する体操」を持って、はっきりと社会に物申しています。「大自然の力に抵抗する能力を力といい、そのような力の量を増すことを鍛錬という」――自然の存在以外の何ものでもない人間にとって、これほど傲慢不遜な態度はないと思うのだが。自然に抵抗する頑張り能力の量を増そうとして動くとき、当然のことに、その動きが自然の原理にあっているかどうかが分かるはずはなく、自然の原理の動き感覚を本質とするほんとうの力は荒廃するしかない。」そのようにからだの動きをして、「大自然にまかせ切った動きの感覚」をからだに滲み込ませていったとき、ひとはどうなるのでしょうか。きっと、今までと違った新しい力、新しい価値観、新しい美意識が身につきます。必死に守ってきたこと、大事だったことがどうでもよくなるかもしれません。ほんとうに大事なことは何か。ほんとうに守らなければならないことは何か。からだの動きから見えてきたこと、からだの動きの実感が探ってきたことによって「したたしか」になった何かが、世界を見る目を変えるかもしれません。そもそも感じ方が変わってしまったのですから。
Sep 4, 2011
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うれしいことの一つに、休んでいた人たちとまた一緒に野口体操を学べることです。「お久しぶりです。九月もダメだけど、でも、10月は行けます。行けると思います。」Tさんから留守番電話が入っていました。浜松のMさんからもメールをもらいました。「ご無沙汰しております。 野口体操教室、7月休んでしましましたが、8月も休みとなります。 9月4日(日)には野口体操教室に行く予定です。 また、その時に。」それぞれ仕事の事情があって、今はなかなか思うように来れませんが、お二人とも何年間も毎週休むことなく出席されていた方達です。伝え手と同じく、お二人も多分、もうからだが野口体操を忘れることができないでいる仲間です。今日は、Oさんが久しぶりにおいでになりました。「時間を取れるようにしました。これから月に一度は教室に来ることができます。」Oさんは、新小岩に初めて教室を持った直後からの30年来の仲間です。他にもNさん・Iさん・Fさん、みんなその時のお仲間です。伝え手のほうもその分若く、野口体操をひたすら信じて、これこそが当たり前と思っていました。そのほころび・矛盾・未熟さのすべてを、皆さんは見守ってくれていたのでした。現在、勝手に未来を託して課外授業やっていますが、そのメンバーの相馬律子・澤浦いづみ・豊田早苗も新小岩教室でOさんの後輩として一緒にやってきました。Oさん、見ていただけたでしょうか。何をどう言ったらいいのか分からなかった相馬さんが、自分のことばを持ち、人との関係に自信が持てずに泣くしかなかったいづみさんが、自分を晒し、愛されていない認めてもらっていないと僻んでばかりいた豊田さんが、存在感を持ち、それがからだの動きに表れるようになりました。長い間辛抱図よく、見守り育ててもらったのは伝え手のほうでした。「それは偏に教室の皆さんが、このような考え方の教室に参加し、わたしの自分勝手な授業に対して率直に反応して下さったお陰である」(野口三千三)
Aug 30, 2011
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「したたかねえ。」と言ったほうも、言われたほうも、ちょっとイヤな感じが残りませんか?辞書で引いてみても、好意的な形容詞としては使われてはいません。しかし、「『したたか』は『したたしか(下手然)』、下(足元・土台・基礎・根源)を手や足で直に触れて、そうだ(しかり・然り)と実感し納得することである」(野口三千三)「したたか」ということばの本来の意味・内容を知ったら全く違ってきます。からだの動きから見ても、「すべてのからだの動きにおいて、下が確かであることが何よりも大切なことである。下から伝わってくるエネルギーによる動きから、ほんとうの強さ・ほんとうの速さ・巧みさは生まれるのである」(野口三千三)野口先生らしい授業を思い出します。その日も「下(足元・土台・基礎・根源)」が主題の授業でした。かつて、芸・大で野口先生の授業を受け、今では著名な建築家として活躍しておいでの教え子が教室にお出でになっていました。先生のからだはほころんで、眼はその教え子の動きを追いかけていました。突然、「あなたの建築したものは、土台なしに屋根から建て始めるのですか?」しばらく間があって、みんなクスクスと笑い出しました。先生のことばに、はっとさせられた感覚は忘れられません。すべての動きには足の下(土台)があり、その土台(足の下)は地球の中心と繋がっています。気をつけなければならないは、足の裏から下は見えないことです。感じるしかないのです。感じなければ、感じたい、感じよう、とするのです。頭、理屈では分かる、という人は、信じるしかないのです。信じよう、とするのです。カタチのないものが感じ取れてきます。見えないけれど見えてきます。そして、からだが変わり、からだの動きが変わります。エネルギッシュなのに頑張らなくてもいい動きに変わります。『したたしか(下手然)』だからです。「腕立てはずみ」でその変化が確かめられました。表に見える派手な動きに気を取られ、脚に裏が疎かになって行きます。「あなたの建築したものは、土台なしに屋根から建て始めるのですか?」(野口三千三)このことばが忘れられません。
Aug 28, 2011
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授業の終わったあと、必ずその日一番に感じたことを話して帰るひとがいます。Hさんです。今日Hさんが一番話しかったことは、「私は、ここに来る前から自分のからだ、特に背中が硬いと思っていました。最近、からだの中に石ころが入っている、と感じるようになっていました。今日は、私のからだはびっしりセメントが詰まっていると思いました。」内容よりは明るく笑って話されました。むしろ生き生きとしていました。思わず、すばらしい…、と答えてしまいました。自分のからだを実感し、その実感の変化を認識できたことを嬉しく感じている。それが分かったからです。教室に出席された当初は「出来ません。からだが動きません。」とだけ訴えていました。これまでもからだの動きに関心があって、他の幾つかの経験からしても、自分のからだは硬い、殊に股関節や背中は誰が何と言っても硬い、と思っているような迫力でした。「からだは丸ごと全体」(野口三千三)です。だからその証に「背中」や「股関節」とは呼ばない。背中も「胴体」、股関節は「脚口」と呼んでいることの深い意味あいを伝えても伝わらない。やっぱり口から出てくるのは「背中」や「股関節」でした。死体解剖で分断された身体の部分の名前を、生きた人間の実際のからだの動きにも何気なく使ってしまうのでしょう。教え込まれ暗記された身体の部位の認識が、からだの動きに影響を与えないことはありません。そして、その呼び方は、頭脳で理解されただけでは変更されるものではありません。例えば、「やすらぎの動き」は「開脚」。からだに「話しかける・触れる」もからだを「押す・信号」と呼ばれ、「対話の動き」そのものが成立しません。からだ、生きた実際のからだの動きが変わった分だけ、呼び方も不思議なほど自然に変わるのです。認識が変わればことばも変わります。頭(脳)もからだの一部なのです。「こころの主体は意識ではなく、非意識の自己の総体である」(野口三千三)
Aug 23, 2011
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一人ひとり違うのに、人の成長の過程を語るとき、およそ同じパターンの中で語られることが多いものです。ことばの貧困か、監察不足か、いや、ひとは法則を持っていると言うけれ…。Jさんの変化も、同じようなパターンの中で括弧で括られるようにしか言い表わせないのが、Jさんに申し訳ない気持ちです。デイケアの終わりには、スタッフも見学した人も部屋で休んでいた人も全員集まります。「終わりのひと言」から連絡事項まで司会者が運んでゆきます。「今日の級長」と呼んでも少しもおかしくはないのは、司会者は、その日の「朝のひと言」から終わりまで、一日を運んでいるからです。デイケアは自主運営されています。治療に直結するプログラムを組み立てるなどの大枠はスタッフによって決められますが、それを実際に運ぶのはメンバーです。精神の障害は人間関係の困難さに際立って現れます。この小さなグループを足場にして社会に踏み出してもらうための治療の一環です。「Jさん、司会ご苦労さまでした。」そのことばに添えられたスタッフの頷きや笑顔は、「Jさん、よかったよ。」のしるしです。Jさんの顔は司会を終えた達成感でした。スタッフの顔も自分がやり終えた顔です。彼の初めての司会ではないかと思います。Jさんが野口体操を大切に思っていることは分かっていました。「野口体操から教えられることは多いです。」いつも言われるこのことばは、知的な満足が言わせているのでした。ほんの少し唇が緩むだけ、時たま微笑むだけでした。「僕の問題は首の力が抜けないことです。」注意点として上げているのでした。今日、始まる前の打ち合わせで、Jさんの体調が伝えられました。「感情を表してくれるようになっています。言葉も多くなり笑い顔がたえません。」そして、Jさんが話してくれたとして「僕はいい方向に向かっている気がします。野口体操のおかげです。」ええ。 Jさんが。 自分からそんなふうに?恋人が影で好きだと打ち明けてくれたような嬉しさで、どきどきしました。待て待て。自分で見届けたい。声になっていました。からだに滲みたことばになっていました。思わず笑っていました。何よりも言われて変わろうとするからだが、うごうごし始めました。「Jさん、司会ご苦労さまでした。」の中身に込められた変化です。ずーっと見守ってきました。ここから新しく見守ってゆきます。「信じるとは、負けることである」「信じるとは、任せることである」「任せるとは、負けることである」(野口三千三)
Aug 22, 2011
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ご近所で「歩こうかい」なる会の世話役をやっている人の悩みが聞こえてきます。「だんだん出席しなくなり、結局止めてしまう…。」「健康」の漢字にこめられた意味を知り、噛みしめたら…。さらに、「健康」に対する和語として日本人が言い表わしてきたことば、「すこやか・やすらか」にこめられた意味を知り、噛みしめたら…。万歩計を腰につけて、歩くのが体にいいから歩く、それもいいと思う。でも、「歩く」が、どんな内容をもっているのかが頷ければ、「歩く」から、「健康とは何か」(野口三千三)を根源的に問い直すことができましょう。お盆休みで一週空いた教室は、「立つ・歩く」から始まりました。すべての動きは「立つ・歩く」を抜きにしては成り立ちません。右半身・左半身で地球と繋がって立つ。…どう立つか。立った半身が交替で移動する。…どう移動するか。地球からもらったエネルギーが、足の下からからだの中を通って末端(頭、腕)へと流れる。…どう流れるか、どの方向へ流れるか。これがからだの動きです。「立つ・歩く」だけの中に、確かめることは限りなくあります。「健康――すこやか・やすらか」の漢字と和語の中にそのすべてが在ります。「立つ・歩く」の内容は、まだ教室に来ても間もないTさんにとっても基本です。「今までやって来たからだのクセを直したいのです。いろいろ言ってもらいたいのです。でも、すぐには変わらないのです。じわじわとやってゆきたいのです。」じわじわと言うことばが新鮮で、Tさんの人柄と共に野口体操への思い聴こえました。一緒に、ゆっくりからだに貞(き)いてゆきましょう。
Aug 21, 2011
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お盆休みで一週繰り越した大阪教室は、異常ともいえる酷暑の真っ只中で開催されるだろうと、腹を決めていました。しかし、突然、異常な涼しさの中での大阪教室となりました。この暑さもこの涼しさも、やがて語り草にしたいほどの激しい変化でした。このまま秋が来るはずもなく、またすぐに茹だるような蒸し暑い日が待っていましょう。この差について行くからだを考えると途方にくれる人たちもいます。今日の主題は「健康」としました。「健康」は、毎日の暮らしを生きる感覚そのものの中にあります。一人ひとりの感覚よりも、食べ物から養生訓、そして溢れかえる健康生活用品。健康食品にいたっては、一錠の中にキャベツ10個・レモン15個・人参10本分……,などと得意げに並べ立てられると、毎日いっときに、何でそんなにからだに入れる必用があるのか、笑ってしまいます。「健康」の定義さえも他人から与えられています。「健康体操」もまた同じです。「ここまで足を上げて一日何回」「コノ筋トレ何回で、ココに筋肉をつけて、ココを強くすればココが治る」何ゆえ自分自身の実感無しに決めてもらい、実感無しに回数をこなそうとするのか。「健康とは、自分自身の価値観(今の自分にとって、よりよい、よりほんとうとは何かということ)を持ちうること、そして、それに従って行動することができることをいう」(野口三千三)「健康」について根こそぎ捉え直してもらいたいと思いました。健康と生きることは直接繋がっています。「健康とは」を考えることは「生きるとは」を考えることであり、「どう生きるか」は、「どうからだの動きをするか」へ繋がります。からだの動きが変われば生き方が変わります。癌の母上を、お盆に看取ったばかりのYさんがお出でになりました。緊迫した苦しい選択を迫られながら、ぎりぎりの毎日を送ってこられたYさんのからだの動きを見ながら、野口体操の意味を強く感じました。いつものようにロビーでの放課後の時間も、いつものようにYさんはそこに座っていました。その席でわたし達は、Yさんの経験から学びました。どう死んでいくかはどう生きてゆくかだと。「『健康という病気、『健康という死』こそ、幻想ではなく現実に存在するほんとうの健康ではないかと思う」(野口三千三)今ここで、Yさんと共に、こんな厳しくも優しく「生・死」を語り合うことができるようになったのでした。からだの動きで確かめられた「健康」は、「健康」な放課後のひと時となりました。
Aug 20, 2011
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