堀米庸三『ヨーロッパ中世世界の構造』
~岩波書店、 1976 年~
以前紹介した 『正統と異端』 の著者、堀米庸三先生による、これまた有名な論文集です。
本書の構成は次のとおりです。
―――
I
一 中世国家の構造
二 マックス・ウェーバーにおける前近代的支配―封建制と家産制―
三 西洋における封建制と国家
II
四 古ゲルマン農制をめぐる諸問題
五 封建制の最盛期とはいつか
六 中世後期における国家権力の形成
七 戦争の意味と目的
八 自由と保護―ランスフリーデ研究の一序論―
III
九 グレゴリウス改革と叙任権闘争
一〇 中世秘蹟論争の一争点― ORDINATIO IRRITA の解釈をめぐって―
十一 皇帝権と法王権―カノッサ事件の一考察―
あとがきにかえて(石川武・平城照介)
―――
第一部は中世における国家とは何かという理論的考察、第二部は第一部を受けて、その具体的な構造を考察、第三部は聖俗の権力関係を考察する、という構成です。
専門用語をドイツ語などのまま記載し、邦語が当てられていないなど、正直、今の私には理解が難しい部分が多く、大した紹介はできません。(最近は、なるべく日本語を当てるのが主流になってきていると思いますが。)
いくつかメモしておきます。
・「私の家臣の家臣は私の家臣ではない」という言葉がありますが、これはルイ9世治下のフランスにおいて、ギョーム・デュランという人物の法書に見られるということ。
・「神の面前にあるとの確信こそ中世における裁判の核心をなすものであり、この確信のある限り権利闘争が実力=暴力を以て行われようと平和的方法で行われようと、法的意味における差別も価値の上下も全く存在しえない」との指摘 (268
頁 )
。
・教皇文書において、レオ9世 (
位 1049-1054)
にいたるまで、「その紀年をキリスト紀元によらず、ローマ帝国の慣習のままに、専ら皇帝治世年によっていた」との指摘 (311
頁 )
。これは意外でした。
・グレゴリウス大教皇 (
位 590-604)
以来、教皇が、自らを「神の僕の中の僕」と表現する言葉があります。これは従来「謙譲による精神的優越」を示すものと一般に理解されてきましたが、なぜへりくだるものが優越しえるのか、という興味深い問題提起がなされます (312
頁 )
。これに対して、中世における自由の観念についての分析を通じて、著者は、「神により近くあるということは、他方、神キリストの本質である無償の愛の実践と同義であり、自由であることは、転じて愛の奉仕となる。キリストにおいてよく人に仕えるものは神に近いものであり、従って自由なのである。「神の僕の中の僕」とはかくて、神に最も近きもの、従ってこの回想の頂点に立つものとなる。」との回答を示しています (315
頁 )
。
単なる個人的なメモとなってしまいましたが、このあたりで。
難解でしたが、なんとか目を通すことができて、良い経験になりました。
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