~嵯峨野書院、 1999 年~
著者の赤阪先生は、リサーチマップによれば 2014 年まで埼玉学園大学人間学部の教授でいらっしゃったようです。管見の限り直近の論文である「ヨーロッパ中世史における異性装」『アジア遊学』 210 (歴史の中の異性装)、 2017 年、 210-224 頁の著者紹介によれば、関西学院大学文学研究科の非常勤講師でいらっしゃるようです。
本書の構成は次のとおりです。
―――
はじめに
第I部
第一章 神が裁く
第二章 神の裁きから人の裁きへ
第 II 部
第三章 「地の国」の神判
第四章 「神の国」の神判
第 III 部
第五章 神判解釈の試み
第六章 神判の終焉
おわりに
註
あとがき
索引
―――
第一章は、いわばテーマ別に神判を紹介します。たとえば、熱湯の中に手を入れ指輪などを取り出す釜審(3日後に回復していたら無実)、熱鉄審(熱せられた鋤の刃の上を裸足で歩き、3日後に状態をみて回復していたら無実)、冷水審(水に入れて沈めば無罪)、決闘裁判などなど、いろいろな神判が紹介されます。
第二章は、古代世界から近世までの神判の状況を、時系列で整理します。たとえば、ゲルマンの部族法典に見られる神判の種類、カロリング期以降に神判に関する記録が増加すること、 1215 年の第4回ラテラノ公会議で神判禁止の決議がなされるものの、一部地域では神判が継続することなどが紹介されます。
第三章は、世俗権力による神判の状況と神判への態度を、第四章は教会による神判の状況と神判への態度を、それぞれ分析します。
第五章と第六章は先行研究の整理と批判となっています。
神判には中世においてすら肯定する意見も批判的な意見もあり、またそれは地域や時代によってまちまちで、いちがいに「中世の神判はこういう機能であった、このような意義をもっていた」と結論することは困難なようです。第五章と第六章は、先行研究の説得的な説を紹介しつつも、しかし完全に賛同することはありません。また本書独自の定義を示すこともなく、慎重な態度をとられています。あくまで本書は、中世の神判についての紹介、そしてその重要性の提示と問題提起を行うというスタンスであるように思います。
本書でもっとも興味深かったのは、「はじめに」です。こうした中世の神判(あるいは、自分たちの社会にはない他の社会の、はたからみれば奇妙に思われる儀式など)を、ただの非合理なものと切り捨ててしまって良いのか、という問題提起に共感しました。むしろ「問題は、彼らがそのように考えたりするのはいったい何故なのかと問うことではないのか。そうすることによって、我々の思考のありようそのものも相対化される可能性を、我々自身がつくりだすことができるようになるのである」 (5
頁 )
。
記事の冒頭に紹介した 2017 年論文のように、赤阪先生は興味深いテーマの論考を多く発表されています。また、文体も読みやすく、本書もたいへん読みやすい一冊です。同時に、多くの史料や先行研究に裏付けられており、興味深くもあります。
以前から関心をもっていましたが、この度入手でき、読むことができて良かったです。
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