M17星雲の光と影
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自宅へ向かう電車のなかで座って本を読んでいると、二十歳前後のカップルが隣に座る。「あのさあ、私の顔さあ、鼻がもう少し高かったらなあって思うんだけど。」「えっ」「このへんがさ、こんな感じにさ、もうちょっと高かったらって思わない?」「うーん、どうだろう」「私、鏡見ながらよく思うんだよね。でもお母さんもお父さんもへちゃだからしょうがないんだけどさ」「……」「どう思う?」「うーん、よくわかんない」「なによ、よくわかんないって。鼻がもう少し高いほうがいいか、そうじゃないかって聞いてるだけでしょ」「それはそうなんだけど。なんだかうまく想像できないんだよ」「何が?」「その、おまえの鼻がもう少し高くなったところがさ」「想像したくもないってこと?」「いや、そうじゃなくて、想像しようと思っても、なんだかうまく想像できないんだよ」「なんで?」「いや、なんでかはよくわかんないんだけど。とにかくうまく想像できないんだよ。」「どうしてよ、かんたんなことでしょ。いま目の前に私の鼻見えてんだから、この鼻をこういうふうにぴゃってちょっと高くすればいいだけでしょう」「うん、オレもそう思うんだけどさあ。なんかできないんだよな、それが」「へんなの」私は読みさしの本を閉じ、こころのなかでそっとつぶやく。そこな青年。なかなかだいじなところに触れてるぞ。彼が言わんとしているのは、頭の中で彼女の鼻だけを分離してイメージすることができないということである。残念ながら彼女にはわかってもらえなかったみたいだが、そして、彼自身にもよくわかっていないようだが、彼がほんとうに言っているのは、実は「愛している」ということなのである。愛を定義するのはむずかしい。ほとんど定義不可能ではないかとも思う。ただし、あえてむりやり定義するとすれば、それは「対象の一部を分離してとらえることができなくなる」ということではないだろうか。頭のなかで彼女の姿を想像してみる。たとえば、そう、彼女の手を想像してみよう。もちろんそれはできる。ほっそりとした白魚のような指(別に屋台で売ってるこげたフランクフルトのような指だってかまわないが)。その時、その手だけを分離することができるだろうか。それがあなたの彼女であれば、その手は手首へ、手首は前腕へ、前腕は上腕へ、上腕は肩へと自然につながっていくのではないだろうか。これが見知らぬ他人の手であったとすれば、その手を想像する段階で、既に手首は存在していない。手だけが脳内スクリーンにぽっかりと浮かび上がるはずだ。なぜそうなるのか。それは彼の頭のなかで彼女の存在がつねに全体としてとらえられているからである。全体ということばはあるいは不十分かもしれない。この場合の「全体」はけっして部分の総和という意味ではない。有機的なまとまりをもったひとつのものとでもいうくらいの意味である。そういう状態でしか対象をとらえられなくなった時、人はそれを「愛」と呼ぶのではないか。これは別に男女の「愛」に限らない。親族でも友人でもペットでもモノでもなんでもかまわない。それがあなたのこころに「愛」を感じさせるものであれば、その一部を分離してイメージすることはきわめて困難な作業になるはずだ。別に確信があるわけではない。しかし、なんとなくそういう気がする。そんなことないよ。オレなんか一部分だけくっきりと想像できちゃうよ。そういわれれ方もいるかもしれない。しかし、その場合、前提として置かれた「対象に愛を感じている」という条件の妥当性そのものを考え直したたほうがいいのではないか。愛するミュージシャンについて、私はそのミュージシャンのある時期からある時期までを限定して「愛している」ということはできない。たとえ、その音楽生活に深刻な破綻や挫折や蹉跌があったとしても、それ以降を切り離し、「それ以前の彼の音楽を私は愛していた」ということはできない。もしできたとしたら、そもそもその音楽家を愛していたわけではないと私は思う。作家についてもそう、映画監督、俳優、脚本家、画家、詩人、学者にしてもそういえるだろう。「愛」ということばは、そのどこかに必ず「全体」を含んでいる。物事を客観的に、合理的にとらえるためには分析作業が欠かせない。そんなことは最低限の推論能力の備わった人間には誰にも明らかなことである。しかし、その分析作業が突然不可能になる瞬間がある。もちろんそれが分析能力の衰退、減退による場合もあるだろう。その場合にはおそらく失望感がこころのなかに広がる。しかし、分析作業の限界を感じて、なおかつ、こころのなかに青空が広がるように静かで穏やかなよろこびが感じられる時、その人のこころには愛が降り立ったと考えるべきではないだろうか。不思議なことに、人は自分自身に対しては、いつも体の一部を分離してとらえることができる。それができないのであれば、この世に美容整形などというものが存在するはずもない。だから、おそらく「愛」は自分に向けて発動されるべきものではないのだ。それはあくまでも他者に対して投げかけられるべき感情なのだ。隣に座ったカップルの女性は、まだ自分の鼻の先端を指で少し上に持ち上げながら、思案顔である。彼氏は頭の後ろで腕を組みながら、彼女の全身をなんとなく眺めている。おまえの鼻が高かろうが低かろうがそんなのオレには関係ない。それが目であろうが、耳であろうが、口だろうが、体のどの部分であろうが同じことだ。だって、オレはおまえを部品の寄せ集めだと思ったことなんて一度もない。おまえはいつだってオレにとっては「全体」なんだ。どこも切り離すことができないひとつの存在なんだ。そしてこの世にひとつしか存在しないオレにとっての全体なんだ。オレにわかるのはそれだけだ。それを隣に座っているオヤジが「愛」っていおうがいうまいが、そんなことどうでもいい。世の中には分けられないものもあるんだ。オレのいいたいのはただそれだけだ。ただそのことをいうためだけにおまえはオレのそばにいる。そして、オレはおまえのそばにいる。オレはそう信じている。でもこんなこといったってわかってはくれないよなあ。そこな青年。君がいまそう考えているとしたら、それはとてもすてきなことだ。二人のカップルと妄想状態の一人の男を乗せて、日曜夕方の京浜東北線の電車はものうげに北を目指して走っていくのだった。
2008.06.08
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