2010年09月09日
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韓国では俳優ばかりか歌手まで、

その魅力が、日本ばかりかアジアを席巻し、
日本が占めていたソフトパワーの地位を奪ってしまった。
たかがサブカルチャーと言って、済まされる問題ではないと思う。
東アジアで地殻変動が起きている。
なぜ日本は斜陽したのか。
日本のどこがダメなのか。

スポーツ選手が肉体を鍛えるのは理解できるが、

逞しい肉体を顕示するという韓国流の現象に、
なんとなく違和感を感じる。
この違和感はどこから来るのか。
逆の問いも成り立つ。
日本の俳優はなぜ肉体を鍛えないのか。
ペ・ヨンジュンは写真集を出すために、
脂肪分のない鳥のささみしか食べなかったそうである。
専門のトレーナーをつけて、過酷な筋力トレーニングをした。
歌手のピは映画のワンシーンを撮るために、
半年間肉体を鍛えつづけた。
韓国の俳優、歌手の成功は、

なぜそこまでこだわるのか。
日本人と韓国人の自意識の違い、
肉体に対する考え方の違いはなぜ生まれたのか。

 中学に入るとそうそう、教練の時間が二倍になった。
 そのうちに、ゲートルを巻かなければ校門をくぐれないようになった。

 成長しきらないわれわれの声帯から、
 あの銃剣を突き出すときの「ぎゃっ」という掛声が発せられても、
 嗜虐的であるべき「ぎゃっ」が、
 青臭い被虐的な「ぎゃっ」になってしまうので、
 校庭には異様な凄惨な雰囲気がただよっていた。

戦時中に、青春を過ごした三島由紀夫の文章である。
軍事訓練が日常化し、隣組の婦人会でも竹やりの訓練が行われた。
今から考えてみると、実に不可思議な社会である。
中学生が銃剣を握り締めて、掛声を発しながら剣先を前に突き出す。
頭に思い浮かべているのは仮想の敵である。
殺せ、ためらうな、一突きで仕留めろ、油断すれば自分が殺されるぞ。
狂気さえ窺わせる光景である。
しかもそれは中学の校庭で行われるもので、日課になっている。

人の営みには、男らしさ、女らしさがある。
生物として進化してゆく過程で、
性の分化がふたつの群れを作り、日々の暮らしの役割分担を発達させた。
外敵から身を守る必要性から、男性の肉体を強靭なものへと進化させ、
子供を産んで育てる必要性から、
女性の肉体を丸みを帯びた柔らかいものにした。

男らしさが最も高揚するのは戦争である。
日中戦争から太平洋戦争に至る時期は、日本の歴史では例外的な時期、
いまだ体験したことのない時期だった。
皆兵性である。
男性がみな戦場に行かなければ勝てないという総力戦は、
未体験の出来事だった。
この時期をなんとか乗り切ろうとして、社会全体が男らしさを高揚させた。
文人や画家が戦地に行き、男らしさの高揚のために命をかけて仕事をした。
その結果どうなったか。
敗戦である。
男らしさを極度なまでに高揚させた社会が崩壊したのである。

 現代文化における肉体の不在の意味は、肉体的精力の衰退ではなくて、
 肉体表現の普遍性の衰退なのである。
 展覧会で、手をあげて宙を睨んでいる青年の裸像に、
 希望とか理想とか名付けられているのを見れば、
 われわれはもう吹き出さざるにはいられない。

ギリシャにおける精神と肉体の幸福な邂逅が、
現代社会では失われてしまっていると三島由紀夫は述べる。
印象派、後期印象派、世紀末美術、さらにムンクやピカソが登場すると、
美しい肉体という理想は完全に過去のものになる。
ギュスターブ・モローの青年像について、
白蝋のように美しく、しかも青年特有の野蛮な力を、
ことごとく抜き取られていると三島は指摘する。
敗戦を経験し、男らしさが崩壊してゆく過程を目の当たりにした若者たちが、
西洋の世紀末美術やデカダンス文学に、
新しい美の形を見出したのは当然の流れだった。
さらに追討ちをかけるように、
アメリカのフェミニズム運動が押し寄せてくる。
セクハラ、ジェンダーフリー、男女共同参画、ドメスティックバイオレンス、
ここまで来ると、男らしさは社会的なデメリット、負担でしかない。
社会全体が男らしさを排除しようとしている、そんな印象すらある。

 私が不思議に思っているのは、
 中国で日本の歴史書を幕末、明治からいろいろ読んできましたが、
 日本に来て現実の生身の日本人とつきあうと、
 どう考えても、いまの日本人と歴史書に書かれた日本人とがつながらない。
 幕末、明治或いは戦前の日本人と、これが同じ人種とは全然思えない。

日本に帰化した石平さんの言葉である。
700年続いた武家文化は、
明治時代の軍人たちに形を変えながらも継承された。
将校が戦場では役に立たない日本刀を身につけていたのは、
自分たちが武士の末裔であるという誇りのためだった。
1945年の敗戦で、武家文化は長い歴史を閉じた。
軍事裁判とGHQの占領政策で、
軍人という種族そのものが消えてしまったのである。

男らしさには悪の刻印を押されたと言ってもよい。
男らしさを賛美しようという意思は、詩や小説、映画から消え去った。
日本で作られる戦争映画は、平和は尊いというメッセージがなければ、
製作できないほど表現の自由がなくなった。
60年経った今でも日本軍を美化する映画は作られていない。

では韓国はどうか。
韓国は日本の鏡である。
しかしその鏡には、いまの日本ではなく、過去の日本が映っている。
日本の幻影と取っ組み合いの喧嘩をしているといっても過言ではない。
なぜ韓国人は日本を特別な存在として意識するのか。
憧れのためであり、恐怖のためであり、怒りのためである。
黄色人種の国として欧米諸国を敵にまわして戦った唯一の国。
欧米と肩を並べるまでに経済発展を遂げた国。
憧れと嫉妬、怒りと侮蔑、解きほぐせないほど複雑な感情を抱いている。
韓国の歴史教科書を開いて、愕然としたことがある。
朝鮮併合から敗戦に至るまで、ページ数がほとんどないのだ。
抗日運動の記録はある。
しかし日本の教科書のような事細かな記述に相当する部分はない。
植民地にされることは、民族の歴史に空白を作ることである。
この空白を埋めようとして、韓国人は日本を永遠のライバルとして闘志を燃やす。
男らしさを極端なまでに進化させた日本が、
韓国人の深層真理に傷のように深い印象を残しているのである。

朝鮮併合の終結後も、韓国の歴史は生易しいものではないかった。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、38度線での紛争、情報戦やスパイ事件、
北朝鮮の拉致事件、核開発と続いてゆく。
男らしさは、社会が危機に陥ったときに高まる。
危機を乗り越えるための、侵略されないための安全装置である。
韓国では国家の危機がたびたび訪れているから、
男らしさを捨て去るわけにはゆかなかった。
悪の刻印を押して、厄介払いするというわけにはゆかないのだ。
徴兵制がいまだにあり続ける国である。
北朝鮮、中国、ソ連と陸続きだから、自然が守ってくれるわけではない。
自分の国は自分で守る。
相手が力づくなら、こちらも力づくで守る。
三島の理想とした美、
精神と肉体の幸福な邂逅が、韓国では可能なのである。

李氏朝鮮の支配階級だった両班は、転んでも自分では起きないと言うほどに、
肉体労働を忌み嫌ったという。
筋肉隆々たる者は額に汗して働く下層階級に限られた。
筋肉は侮蔑の対象だったのである。
教養ある女性が恋をささやく相手は、繊弱な、筋肉のない男に限られた。
逞しい肉体は、下賎な職業の証しだったのである。
武家から軍人へと続く美意識の継承が、韓国の近代史にはないだ。 

皮肉なことに韓国人は、戦後になって初めて自国を守る自尊心を知った。
自分たちで自分の国を守る、それがどんなに尊いことか。
戦前は日本軍が守ってくれた。
日本軍に憧れて志願する若者もいた。
しかしあくまで隣の国の軍隊であり、自分たちの軍隊ではなかった。
韓国の俳優が肉体を鍛える背景には、複雑な歴史性がある。

 私は預言者ではないが、20世紀後半になって、
 再び芸術各ジャンルの交流と綜合の時代が、
 復活するという予感がある。

 私は、やはり男といえども完全な肉体を持つために精神を高め、
 精神の完全性を目ざすことによって
 肉体を高めなければならないという考えに到達することが、
 自然ではないかと思う。

三島由紀夫の言葉は、韓国のソフトパワーが、
日本に追いつき、追い越そうとしている現代の視点で読むと、
まったくその通りだと感じる。
日本はあまりにも男らしさを排除してしまった。
戦時中は、今とは正反対に女らしさを排除した。
谷崎潤一郎の『細雪』も、国民の士気を沮喪させるとして発禁になった。
内容が女々しい、もっと男らしい作品を書けということだろう。
源氏物語でさえ侮蔑の対象だった。
隣組の婦人会は、竹やりの軍事訓練から逃れることは許されなかった。

戦後は中庸を通り越して、まったく正反対の方向へ向かう。
男らしさを排除し、平和を声高々に叫び、
アメリカ軍が日本を守っている事実を無視し続けた。
中国や北朝鮮が軍事拡張していることを知りながら、
あたかも平和憲法が日本ばかりか世界を守っているという幻想に酔いしれた。
憲法9条を世界遺産にという思想は、
中学生に軍事教練をしていた時代の思想の、まさに正反対の場所にある。
極端から極端へ、その結果、日本のソフトパワーは韓国に敗北した。

なにごとにも中庸が大切である。
男らしさも女らしさも必要なのだ。
必要だから、自然に発達してきたのである。
その単純な真理の前に日本文化は瓦解した。
今の日本は男らしさばかりか女らしさまでも排除しようとしている。
女性の言葉遣いが変わり、
世代が下がれば下がるほど男女の差がなくなる。
女の子がそんな言葉を使ってはいけませんよ、
自分の娘をしつける母親がいなくなった。
男らしさも女らしさもない社会は文化として魅力がない。
武士と花魁のいた江戸は遠い昔話になった。
日本のソフトパワーはアジアで地位を落としている。
韓国は、かつて日本が占めていた場所に腰を据えようとしている。
ヨン様ブームで終わるかと思えた韓国文化が、
神話、東方神起、SS501、スーパージュニアになって、
アジアを席巻する。
そればかりかガールズグループ、少女時代やカラも人気が出てきた。
日本を含めてアジアの人々は、男らしさと女らしさのある文化に熱中している。
アメリカのフェミニズムに違和感を感じる。
自分たちの国の伝統とは違う、
そうした違和感も韓国文化の躍進を手助けしている。
軍事、経済ばかりか、文化までも中国や韓国に追い越されようとしている。
アメリカ軍に守ってもらえる安心感、
自分の国を自分で守らなくてもよい気安さ、
男らしさは古臭い、女らしさは古臭いという安易な革新主義、
庶民の心のほころび、油断が、日本の衰退、斜陽、情けなさを作ったのである。





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最終更新日  2010年09月09日 12時23分37秒
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