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38 神のいつくしみを【解説】 今日の詩編89は表題に「エズラ人エタンの詩」(列王記5章11節参照)とあります。実際にそれほど古いものではないにしろ、かなり昔に起源をもつ詩編と考えられています。全体は、ダビデ(ダビデの王家)に対してなされた神の約束の実現を求める祈りで、そこから、ダビデの子孫に連なるメシア=キリストに対する預言と考えられるようになりました。詩編集の第三巻の最後に置かれていて、53節は第三巻の栄唱となっています。 ナタンの預言(第一朗読)にも関わらず、旧約のダビデ王家は、「助けを求める名もない人と、見捨てられた人を救い、貧しくふしあわせな人をあわれみ、苦しむ人に救いをもたらす」(詩編72参照)という、本来の王の務めを果たさなかったために、王国は滅んでしまいますが、主キリストと新約の民で、その預言は成就されます。 この答唱句はまったく拍子が指定されていません。と言うのも、順番に、四分の三、四、五、三、四。と変わってゆくからです。ですが、歌うと、まったくそれを感じさせず、歌詞の意味どおりに、自然に歌うことができるから不思議です。 冒頭は、75「神よあなたのことばを」などと同じく、オルガンの伴奏が八分音符一拍早く始まります。「とこしえに歌い」と「代々につげよう」では、Fis(ファ♯)が用いられ、伴奏でも、ことばを意識しています。 答唱句の終止は、五の和音で、上のFis(ファ♯)が用いられているところは、五の五の和音(ドッペルドミナント)と考えることもできますが、旋律は、G(ソ)を中心に、上下に動いているので、教会旋法の第八旋法に近いようにも考えることができます。また、最初にもあげたように、拍子が指定されず、グレゴリオ聖歌の自由リズムが生かされています。「主のまことを」で、旋律が最高音C(ド)となり、和音も、ソプラノとバスが2オクターヴ+3度に広がります。 詩編唱は、鍵となるG(ソ)を中心に動きます。 答唱句の音域や、詩編唱の和音からは、あくまでもC-Dur(ハ長調)で、終止は半終止と考えるほうが妥当ですが、それほど単純ではなく、作曲者自身の、グレゴリオ聖歌から取り入れた独自の手法といえるかもしれません。【祈りの注意】 冒頭、オルガンの伴奏が八分音符一拍早く始まりますが、これを良く聴き、「かみ」のアルシスを生かしましょう。前半は一息で歌いたいところですが、息が続かない場合は、「いつくしみを」の付点四分音符に、一瞬で息を吸ってください。最初は一息でいかないかもしれませんが、祈りの流れに、毎回、こころを込めると、徐々にできるようになるのではないでしょうか。最初から「無理」とあきらめずにチャレンジしてください。 この「を」を、付点四分音符で延ばす間、少し cresc. すると、祈りが、次の「とこしえに」へ向かって、よく流れてゆきます。ただし、やり過ぎないようにして、最初の、音の強さの中で、cressc. しましょう。 「歌い」の後で、息をしますが、祈りは続いていますから、間延びして流れを止めないようにしましょう。この後、よく耳にするのが、「まことを」の四分音符を、必要以上、二分音符ぶん位、延ばしてしまうものです。「主のまことを、代々に告げよう」は一つの文章、一息の祈りですから、「を」は四分音符だけで次へ続けます。 このようになるのは、おそらく、答唱句の最後で rit. することが背景にあるかもしれませんが、これは明らかにやりすぎです。rit. しても、四分音符は四分音符として歌います。 詩編唱は解説でも書いたように、第一朗読の「ナタンの預言」を受けて歌われます。「わたし」は神ご自身ですから、詩編を歌う人は、神のことばを受けた預言者その人になって歌いましょう。この預言は、主の降誕によって実現します。この答唱詩編は、今日のミサだけではなく、「主の降誕」のミサにまでこころに響くことが必要ではないでしょうか。この答唱詩編は、待降節から降誕祭への橋渡しもしてくれていると考えることができると思います。【おことわり】 今日の答唱詩編の解説と祈りの注意の一部は、同じ答唱句が歌われる、「聖母の被昇天の答唱詩編」から転載いたしました。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968 )
2005.11.29
以前、わたくしの友人で、神学部の先輩である、宮越俊光氏の『早わかりキリスト教』を紹介しましたが、11月30日付で、やはり、神学部の大学院の先輩で、神学博士の石井祥裕氏による新刊『神とともにある生活』が、パピルスあいから発売されます。そこで、この新刊について、ご紹介したいと思います。 この『神とともにある生活』は、「カトリック生活」(ドンボスコ社)に連載された記事を中心に、そのほかの記事も加えてまとめられたものです(あとがきより)。石井氏は、一貫して、信徒・会衆の一人としての立場から、典礼を単に儀式・祭儀ではなく、生活に密着させたもの、著者のことばを用いれば、「ライフスタイルとしてのキリスト教」「キリスト教を生活の様式としてとらえ」ようとしています。 本来、キリスト教=信仰生活は、神学的な議論や法的規定が先にあったわけではありません。氏が指摘しているように、「教会の実践は、神学上の議論よりもはるかに広く、かつ、生きたものなのです。ある実践形態が神学や典礼上の問題として浮かび上がるかどうかは、教会の置かれた状況によっているのです」(同書51ページ)。 PART1は「入信のミステリー-キリスト者となるプロセス」を、イエスの洗礼にまで遡り、古代教会の実践なども十分に考察し、洗礼-堅信-聖体という入信の三秘跡を、いかに共同体として豊かな体験にするかを主眼にとらえています。 PART2の「神の民のまつり-一年のめぐりの中で」は、氏が研究課題ともされている、聖書朗読に焦点を当てながら、教会の典礼暦を振り返り、オーストリア留学中の体験も踏まえて、典礼を生活に密着したものにできるかを考えています。 PART3「展望-キリスト教の未来を開くために」は、本書のまとめというよりも、氏の研究と実践の集約とも言うべきもので、過去二千年の教会と典礼を反省し、これからの教会と典礼への助言となっています。 第二バチカン公会議以後の典礼については、とかく解釈が分かれますが、氏も冒頭で書かれているように、「以前は信者が儀式の主要部分を担うことが少なかったものを、信者が積極的に分担し、参加するという、教会の歴史からすれば、本来の形に立ち返った、共同体的な礼拝行為の正確を明確化したところに特徴があります。」この『神とともにある生活』は、平易な文章で書かれ、一項目も短いものですが、『聖書』と古代教会の資料に基づいた=それはまた、教会の歴史と伝統の本質に遡り、反省し、踏まえており、教会の典礼の実践の歴史の豊かさと深さを伝えてくれています。 前教皇ヨハネ・パウロ二世の広島での『平和アピール』に「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」という一句があります。これからの典礼を考えるとき、この数百年の出来事や、現代の法的規制にだけとらわれると、教会の典礼の伝統の本質を見失う恐れがあります。教会の実践と伝統の本質である、『聖書』と古代教会の歴史までを振り返ることこそ、典礼をわたしたちの生活そのものにするためにもっとも大切なことです。 その意味でも、教会の実践と伝統の本質である、『聖書』と古代教会の歴史から典礼を省察した、この『神とともにある生活』は、典礼・信仰を生活そのものにするための、よい道案内をしてくれる座右の書ということができます。
2005.11.26
255 待降節アレルヤ唱【解説】 主の降誕の祭日の4週間前の日曜日から待降節が始まりますが、待降節に入ると、「アレルヤ唱」の旋律も独自の旋律に変わります。「アレルヤ唱」の旋律は二つあり、待降節第1主日から、12月16日までは255/256が歌われます。この旋律を聴くと「待降節が始まった」と思われる方も多いと思います。ホームページのアレルヤ唱のページにも書きましたが、「アレルヤ唱」は、もともと三つの「アレルヤ」が歌われて、章句をはさんでいたものを、前と後ろで二回ずつ歌うようにしてあります。「アレルヤ唱」の「アレルヤ」の部分は、北海道の「厳律シトー会灯台の聖母修道院」所蔵のグレゴリオ聖歌の旋律を使用して作られています。 【祈りの注意】 前と後ろで二回ずつ歌われる「アレルヤ」は、途中できらず、一息で歌うようにします。「アレルヤ」の意味は「ヤー(ウェ)=主をたたえよう」ですから、待降節とは言え、福音でわたしたちに語りかけてくださる「主キリスト」を迎えるのにふさわしい歓呼の声にしたいものです。前後各二回目の「アレルヤ」の「ア」は、前の「ヤ」から数えて3つ目の八分音符になりますから、きちんと三拍目に入れるようにしましょう。それが、「アレルヤ」を生き生きとさせることにもつながります。ちなみに、最初の「アレルヤ」は「アレルーヤーア レルヤーーー」二回目は「アレルヤーーーア レールーヤー」となります(太字は1拍目、アンダーライン は3拍目)。 その他の注意点などは、ホームページのアレルヤ唱のページをご覧ください。待降節の間も、主をたたえる「アレルヤ」を生き生きと世界に響かせてください。
2005.11.22
179 わたしは神をあがめ(2) 【解説】 今日の答唱詩編はで歌われる「わたしは神をあがめ」は、有名なマグニフィカト=マリアの賛歌です。主日で歌われる答唱詩編としては、唯一、新約聖書の賛歌が歌われます。この賛歌については、さまざまなところで、解説もされていますので、多くは、説明を要しないかもしれませんが、ひとつだけ、知っておきたいことがあります。それは、この、聖母マリアが歌った賛歌は、旧約聖書の思想、表現を集約して創作されていて、とりわけ、サムエル記上2章の1-10節にある「ハンナの歌」に似ていると言われています。このことは何を表しているかというと、聖母マリアは聖書(この時代は旧約聖書しかありませんでした)によく親しんでいて、自分の祈りを創作するくらい、聖書をよく知っていた、ということです。 ちょうど、先日、ベネディクト十六世も『啓示憲章』40周年を記念した国際会議への参加者にあてたメッセージで、「霊的生活」を豊かにするために「聖なる読書」を奨励されています。教会の母である聖母マリアの模範はいろいろとありますが、「聖書に親しみ、聖書を深める」ことこそ、最高の模範であり、わたしたちもそれに倣う必要があるのです。 この賛歌の旋律は、答唱句の部分も「マリアの歌」の本文を歌う部分も、どちらも、「晩の祈り」で使われている旋律の音の範囲内で動いています。答唱句の最低音C(ド)は「晩の祈り」の第一唱和の最低音であり、また、「寝る前の祈り」の最低音にもなっています。本文の部分は、共同祈願以降の基音G(ソ)を中心にしていますが、その動きが「朝の祈り」で歌われる「ザカリアの歌」とは反対になっていて、「教会の祈り」全体の構成を考えて作られていることがわかります。 これらの詳細については、ホームページの「教会の祈り」の「福音の歌」のページをご覧ください。【祈りの注意】 技術的なことですが、普段の答唱詩編と異なり、答唱句が2つあり、さらに、答唱句を繰り返すところが、3節の後・6節の後・最後の栄唱の後となっています。オルガニストと会衆の皆さんは、答唱句を歌うところを忘れないようにして、しっかりと入るようにしてください。 この「マリアの歌」を歌う先唱の方は、まさに、聖母マリアになりきって歌ってください。第一朗読で読まれる「イザヤの預言」は、イエスがナザレの会堂で安息日の礼拝で読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と言われた箇所で、まさに、イエス御自身がこの預言のことばを実現する方として来られたことを表しています。「マリアの歌」は、この預言の実現をさらに預言するものと言えるでしょう。それはまた、聖母マリアが、この預言の実現であるイエスを先取り(預言)するお方でもあるからです。 そして、もう一人、この預言を先取りするものが洗礼者ヨハネであり、今日の福音でその使命が語られているのです。
2005.11.17
聖書カンタータ三部作『イザヤの預言』『預言書による争いと平和』『ヨハネによる福音』 今回は、これら聖書カンタータ三部作の精神と手法について記述したいと思います。これら聖書カンタータ三部作には、いずれにもピアノ伴奏の場合には「混声合唱とピアノのための」オーケストラ伴奏の場合には「混声合唱と管弦楽のための」という表題がついています。このことから、これら聖書カンタータ三部作は、単なる合唱曲ではなく、ピアノやオーケストラなどの楽器の部分にも、テキストに関連したメッセージが語られていることが分かります。多くの場合は、ピアノの伴奏で演奏されますが、ピアニストの方も、これらのテキストが語ろうとすることを、ぜひ学んでいただきたいと思います。 さて、これらの曲を歌ったこと、あるいは、棒を振ったことのある方は分かると思いますが、これらの曲の合唱の部分には、シンコペーションが全く用いられていません。実は、作曲者高田三郎氏の『典礼聖歌』でも、シンコペーションは全く使われていません。これは、『典礼聖歌』で、その手法と精神を取り入れたグレゴリオ聖歌の場合、「切分音というものは落ち着きがなく、祈りの音楽としてふさわしくないため、ソレム唱法では避けられて」(『典礼聖歌を作曲して』191ページ)いるからです。ですから、このことから考えられることは、これら聖書カンタータ三部作は、単なる合唱曲ではなく、合唱曲という音楽形式を使った「祈り」であるということです。これらの曲が、「祈り」としてふさわしく歌われ、人々のこころを揺り動かすときには、聖霊がその人々の口を通して働いていると言えるでしょう。 さて、高田三郎作曲の『典礼聖歌』も多くの合唱曲も、小節線の後は、いわゆる強拍ではなくテージス(休息)、小節線の前のアウフタクトは、弱拍ではなくアルシス(飛躍)です。これらについて、よくたとえられるのは、ゴムボールを上に投げ上げて、一番高いところに上がったときがアルシス(飛躍)、手に戻ってきたときがテージス(休息)といわれます。 これでは、よく分からないかもしれませんので、他にいくつかのたとえをあげたいと思います。ひとつは、回転木馬(メリーゴーランド)の木馬が、一番高く上がったときがアルシス(飛躍)、一番下がったときがテージス(休息)、水の上に石を跳ねさせたとき、一番高く跳ね上がったときがアルシス(飛躍)、水の上で跳ねたときが
2005.11.11
81 神よわたしに目を注ぎ 今日の答唱詩編の答唱句も、先週と同じ「神よわたしに目を注ぎ」なので、曲の解説は、先週のものをご覧いただくとして、今回は、少し違った視点から、この、答唱詩編について書いてみたいと思います。 今日の答唱詩編の詩編85は「平和の回復を求める祈り」と言われています。カナンに定住する前はもちろん、定着後も、イスラエルは周りの国々からの侵略に脅かされ、「平和」を享受することは、なかなかできませんでした。特に、バビロン捕囚による打撃は大きく、回復の希望を持つことすらできないほどでした。 このときに語られたことばが今日の「イザヤの預言」です。その預言と福音朗読に共通するのは「主のために荒れ野に道を整える者」です。福音書では、それは洗礼者ヨハネですが、キリストの預言職という視点から見れば、洗礼を受けたキリスト者一人ひとりと言うこともできるでしょう。 神の約束される「平和」は、ただ単に「争いがない」状態ではありません。神が神として認められ、神の支配が満ち満ちていることが「平和」なのです。 「救いは神をおそれる人に近く」、「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励む人」、「神のことばを聞き、心を神に向ける人に」「神は平和を約束される」のです。 こうして、「正義と平和はいだき合って」「栄光=キリストはわたしたちの地に住む」のであり、そのときこそ主は「力を帯びて来られ、御腕を持って統治される」のです。 今日の第一朗読=答唱詩編=第二朗読=福音朗読は季節でもあり、比較的関連があります。今日の詩編唱を担当される方は、これらの朗読をよく味わうと、詩編の唱和に深みが出るのではないでしょうか。もちろん、答唱詩編の解説もご覧ください。 次回の「わたしは神をあがめ」はいつもの解説に戻したいと思います。
2005.11.09
先日、「待降節第1主日(B年)の答唱詩編」を記述した際、B年は「ルカの年」と書きましたが、「マルコの年」の誤りでした。本文は訂正しましたので、お詫びいたします。 ちなみに、カトリック教会が主日に朗読する福音書は、次のように決められています。 まず、主の年(西暦)を3で割り1余ったら =A年:「マタイの福音書」2余ったら =B年:「マルコの福音書」割り切れたら=C年:「ルカの福音書」 の順に共観福音書を朗読します。 なお、「マルコ福音書」は短いので、途中、「ヨハネの福音書」も朗読されます。
2005.11.05
80 神よわたしに目を注ぎ【解説】 詩編80は、民の嘆きの祈りです。この祈りの伏線には、紀元前722年に北イスラエルを滅ぼした、アッシリアの侵攻があります。ここでは、イスラエルをぶどうの木にたとえています。神の導きによってエジプトから脱出した民は、神によってイスラエルに植えられ、北はレバノンの山まで、西は地中海、東はユーフラテス川にまでその枝を伸ばします。しかし、指導者と民背きのために、アッシリアによって滅ばされます。この、危機的状況で、神に救いを求めた嘆きがこの祈りです。 答唱句は、最初の2小節、中音部→三度の下降→二度の上行を繰り返します。「目を注ぎ」は、前半の最高音が用いられて、神の救いのまなざしが暗示されます。後半は、G(ソ)→C(ド)という四度の跳躍と付点八分音符+十六文音符のリズムで「強めて」を強調します。さらに、この部分、「強め」では、和音もソプラノとバスが2オクターヴ+3度開き、ここに強調点が置かれていることがわかります。「ください」は、倒置の終止を表すために、ドッペルドミナント(5度の5度)という、属調での終止を用いています。が、すぐに元調へ戻り、反行を繰り返しながら終止します。 詩編唱は、グレゴリオ聖歌の伝統を踏襲し、属音G(ソ)を中心にして歌われます。【祈りの注意】 答唱句で最初に繰り返される音形は、畳み掛けるように歌いましょう。この部分をメトロノームではかったように歌うと、祈りの切迫感が表せません。「神よ」と「目をそそぎ」という、四分音符の後の八分音符を、早めの気持ちで歌います。上行の部分も、上り坂でアクセルを踏み込むような感じで歌うと、祈りの流れが途絶えません。冒頭はmf 位で始め、上行毎に cresc. して、「強めて」で頂点に達し、音の強さも気持ちもff になります。その後は、徐々に、 dim.しながらrit. しますが、精神は強めたまま終わらせましょう。最後の答唱句では、特にこの rit.を豊かにすると、いつくしみの目を注いでくださり、強めてくださる神の手が、静かに優しくわたしたちの上に伸べられる様子が表されるでしょう。 今日からいよいよ待降節、典礼暦年=教会の暦は、新しい年に入ります。今年は「主の年」の数を3で割ると2余るのでB年=福音書では「マルコによる福音」が朗読されます。 待降節第一主日の福音は、必ず「目を覚ましていなさい」がテーマです。予断ですが、「グレゴリオ」というラテン語の原語、ギリシャ語の「ぐれ御レオー」という動詞の意味は「目を覚ましている」です。 さて、今日の答唱詩編は、直接には、第一朗読に結びつきます。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、まさに初心に立ち返ります。待降節の間、わたしたちも、キリストの到来を待ち望み、同じように初心に立ち返り、「目を覚まして」キリストがこられるのを待ち望みます。詩編唱の1節にある「光を放ってください」は、「世を照らす光=キリスト」を思い起こしましょう。詩編唱の6節の後半は、「目を覚ましていなさい」という、主の戒めを忠実に守る約束です。詩編を歌う方は、その共同体の代表として、この約束を神に告白するようにしていただきたいと思います。【おことわり】 今日の答唱詩編は、答唱が同じ、年間第32主日(A年)から転用し、加筆、修正しました。 【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968 )
2005.11.02
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