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日本周遊紀行(10)上越 「越後・上越」「上越」のことであるが・・、新潟県を地域で呼ぶと通称三つに地域を云い、北部より下越、中越、そして上越の各地方のことである。地理的な表現だと下越が上方で上越が下方になる・・? しかし、地名というのは古来より伝承されたものが一般的であり、「上越」という地名は、当地に平安期の「国府」が存在したのが大きな理由だろう・・?、しかも「京」に近い地域を“上“としたのであろう。この上越は小昔の昭和期までは、懐かしい名称の「高田」、「直江津」と其々の地域に分かれていた。高田地区はやや内陸に在り、妙高山麓にちかいこともあって、豪雪地帯で有名である。 この地区には越後で最大とされた高田藩の拠点であり、、高田公園・高田城がある。 戦国末期、徳川家康の六男「忠輝」が築城したもの。直江津・・、直江の津は中世より拓かれた港町であり、「津」は港を意味する。 上杉家の家臣、「直江氏」が現在の直江津の辺りを本領とし、津(港)の支配権を所持していたようである。地名は戦国時代末期に、上杉景勝の家臣・「直江兼続」が、姓名を取って直江津港を開いた事に由来する。 直江兼継は、越後の二代目藩主・上杉景勝の主席家老であり、文武兼備の智将でもある。戦国末期、家康が上杉景勝に「謀反の疑いが有る」と、言掛りを付け、その上杉景勝に疑いを晴らす為に「大阪へ来い」と使者を会津(上杉景勝の領国)に派遣する。 この返事を上杉景勝に代わって家老の直江兼継が「謀反などありえない、大坂へ行く必要はない、来るなら来い・・、」と言う、云わば果し状」(直江状と呼ばれる)とも云うべき檄文を届ける。この返書が家康を激怒させ、「関が原の役」の引き金となったともいわれる。上杉家は関が原の役で交戦する事なく敗者となったが、兼継は勝者の家康に面会の折、死を覚悟して「私は、天下一の弓取り内府公(家康)と戦いたかった」・・ともらしたという。 家康は、兼継の男気に惚れ、本来ならば上杉家断絶・切腹のところ、気骨ある人物を殺すには惜しい男と観て、上杉家そのものも米沢へ減封(120万石から30万石に)されただけで済んだという。兼継は上杉景勝より6万石を貰っが5万石を同僚、家臣に分け与え、更に5千石を小身の者に与え自分は5千石で暮らしたという。現在、NHKで「風林火山」を放映中でお馴染みであるが・・、上越には何といっても「春日山城址」がある。 標高190mの春日山山頂に築かれ天然の要害を持つ難攻不落の城で、戦国期の名将「上杉謙信」の居城であった。「謙信」は初名は長尾景虎といい、越後の龍と恐れられた戦国屈指の闘将である。 山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、後、仏門入道して上杉謙信と名のった。戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。 宿敵・武田信玄や、関東の雄、北条氏康・氏政父子を相手に、生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという“正義の人”でもある。さて、豪雪地帯の上越地方であるが・・、「トンネルを抜けると雪国であった」というのは同じ越後でも越後湯沢のことであったが、こちらも大の雪国である。日本の国土で雪国(積雪寒冷特別地域)と称される地域は、日本の国土の約6割、人口は2.5割を占めるといわれ、高齢化は全国平均を上回るスピードで進展しているという。 一昔前までは、雪国の地域である日本海側を「裏日本」と称し、少雪国の太平洋側を「表日本」と称したようである。雪国の対極にあるのが暖国・表日本であり、積雪寒冷特別地域以外の地域で、いわゆる太平洋ベルト地帯である。 かの明治維新以降、先進工業化が優先的に整備され、日本人口の7割、工業生産出荷額の約7割が集中するなど、日本の産業、経済、サービスの中心であることは確かである。昭和の宗匠・田中角栄が、『上越国境の山地をブルを総動員して削り取ってしまおうか・・?』と冗談とも、本気とも取れる発言をしたことは知る人ぞ知るであるが・・。雪国は弱者であり、絶えず豊かな暖国から支援されてきたといわれるが・・??。雪で閉ざされ暗く、高齢化率も高いから未来も暗いのであろうか・・?、否であると。 雪国の代表の一つである新潟の人口は、明治20年ころまでは、東京、大阪、兵庫を抜いて日本一であり、昭和40年代の初めころまで納税額もトップクラスだったそうである。また、江戸期以前の日本海には、上方(大阪)と蝦夷(北海道)とを結ぶ物流航路が存在していたのは周知で・・、高田屋嘉兵衛でも有名な北前船である。大阪からの「下り荷」は塩、酒、雑貨、北海道・東北・北陸からの「上り荷」は海産物、米、材木が主体であり、中継港の敦賀、新潟、酒田は繁栄を極めたなど、経済でも暖国に引けをとらない時代もあったのである。雪国には、雪で閉ざされた時期を生き抜く衣食住の知恵がある。 また、自然の雪ダムで水が豊富で、食料自給率も高く、米、酒が旨く、自然が豊富でもある。 21世紀に世界が抱えるであろう問題は、地球温暖化、食糧問題である。日本も確実に直面するであろう、これを克服する素地は暖国にはない、・・が雪国にはあると。21世紀は、あるいは雪国の時代ではないか、これから雪国の反攻が始まるというが、さて・・!!。次回は、「出雲崎」.
2009.10.29
【東北・日本海道】 新潟(糸魚川)⇒⇒⇒⇒青森(大間)日本周遊紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡辺りを支配していた古代女王であったとされる(古事記)。糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠(ひすい)を支配する巫女であったとも言われ、「奴奈川姫」という名は「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、個人名ではなくこの地方の代々の女王を指す可能性もあるともいう。この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主(オオクニヌシ)の命は、能登半島に上陸し少名彦命(スクナヒコ)と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて「越の国」に渡ることになる。越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸し、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は、現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後地方の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦(ネチヒコ・姫川沿い糸魚川市根知)は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入したが、結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子を生む、この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命(諏訪地方参照)である。一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいう。 大国主神は侵略と脅しであり、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。つまり、征服者と被征服者の関係であったと・・、その後、奴奈川姫は、大国主の子である建御名方命を産むのであるが、「奴奈川神社」(糸魚川市の一の宮)によると、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるというが。 大国主命はその内、本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った、出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かったのである。 大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。 そこで、姫は、姫川の奥深く逃げ込み、追っ手が厳しくなると姫川に無念の入水をしたという。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが・・、 『ぬな河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも』 「万葉集十三巻」よりこの中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。 古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」(糸魚川市一の宮、美山公園北・ 縄文時代の遺跡で、古代にはここでヒスイ加工が行われていたという)からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。太古の紀元前4000年頃には世界最古のヒスイ文化が実証されているともいわれる。古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や、大平洋岸までヒスイが運ばれているという。陸奥の国の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されている。神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉(まがたま)を身につけ霊力を発揮して統治していた。 古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭りに用いられた。そのような重要な祭器であったから、このうちの特に霊力の強いものが「三種の神器」の一つとなったといわれる。「神璽」(しんじ・皇位のしるし)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト・神話、岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作ったとされる神、天孫降臨の1神)と呼ばれる職人集団の祖神である糸魚市川の姫川流域、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸などは、我が国での殆どの翡翠が産出するという。糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉みだされ地表付近に出現したといわれる。 硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流、小滝川「ヒスイ峽」の翡翠は良質であり、糸魚川市、青海町の産地と共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられているという。 現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は、海外、ミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・.
2009.10.28
日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」「日本三大崩れ」、というのをご存知であろうか・・?。北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流が流れている、そして、その河岸に道路、鉄道、民家がひしめきあっている。姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原の湧水は青木湖からの浸透水であるとの説もある。全長わずか58キロで平均勾配1000分の13という急流であるため、度々洪水におそわれている。 近年では平成7年(1995年) の大洪水の災害で姫川温泉が甚大な被害を受け、国道、JR大糸線がかなりに亘って流失寸断され長期不通となった。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。尚、この年に息子と白馬の大雪渓を登ったとき、あの白馬大雪渓が例の大雨の影響で完全に土砂で埋まっていたのを思い出した。元より、日本は国土の約70%が山地であって、これらの山々は地質的にも脆弱な山域が多く、 火山や地震で大規模な崩壊を起こす山も数多くあるという。 主な大規模崩壊地としては、富山県「鳶山崩れ」、山梨県と静岡県の分水嶺・安倍川の 「大谷崩れ」、そして長野県「稗田山崩れ」を三大崩れと言うらしい・・。この崩壊は20世紀の日本における最大の崩壊ともいわれるという。姫川中流域にある「稗田山崩れ」は、明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているといわれる。 その前後の江戸期、昭和期のおいても数回に亘り浦川上流地区の稗田山系において土砂崩落があり、被害を出している。この辺りは、糸魚川・静岡構造線の断層地帯に含まれる、そのため脆弱な不安定な地形を形造っているという。 この忌まわしい現場を1976年(昭和51年)、「幸田文」氏が72歳にして「稗田山大崩れ」を視察、見学している。 文氏は明治の文豪・幸田露伴の次女で、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねて一種のルポルタージュ文学として『崩れ』を紹介している。72歳にして「崩れ」に興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で荒々しい崩落地の様子を記述してある。普通、このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは想像し難く、老文学者で高齢の女性を掻き立てたエネルギーは何なのだろうかと。 生まれつき好奇心が強く、たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのかとも思う。 そして、あのお年でなお、あそこまで執着できたのかと尊敬する次第である。「稗田山崩れ」の現場の途中には、幸田文による「歳月茫々脾」が、遭難稗と共に建立されている。幸田 文氏の『崩れ』、「歳月茫々・・稗田山崩れ」の断片 『この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ8km、高さ河床から約300mのところまで、ほぼ1kmの厚さですべる落ち、その莫大な量の土砂が大音響とともに浦川の谷に落ち込み、浦川はたちまち埋め尽くされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原形を姿を止めぬ姿になってしまった。更に、この新平原は下流に移動し、行く手にあるものは田畑も人家人命も、全て押しつぶし呑み込み、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢いのあまり対岸の大絶壁に打ち当たると左右に分かれて堆積し、堆積のの長さ凡そ2km、高さ65mのも及び、ために姫川は堰きとめられて、冠水の長さ5kmという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地を浸した。 そのままにしておけば渦は上流へ拡がるので、水路を切って水を落したところ、まずい事に土砂交じりの濁水は沿岸を削って流れ、下流に氾濫し、町も美田も潰されて、惨憺たる河原へと変じた。(以上は村人による「小谷ものがたり」より)。崩壊が始まって2度、3度しつこく続けられた災害である。破壊家屋27棟、失われた人命23人、10kmに亘って変貌した土地・・。 今この村を、集落を訪れても昔日の面影はない・・が、あの時埋まってしまった家々も、その家の人達も、今もってそのままになっています。 掘り起こす事の出来ないほどに、深く埋まったのです・、と村人が言う。連れ立って話してくれる村の人は実直に、事の起こったことに対し「・・という話です、・・だそうです、・・らしいけれど 」という。 道野辺に生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々の思いに打たれる。だがここのそうした想いを、からりと晴れ上がるような、これまた感動の強い話を聞いた。 聞けばこの人今66歳、災害の時はお母さんの胎内の中、だったという。稗田山の崩れは午前3時でまだ真っ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ゴーッという土石流の轟音で驚いたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。 どういうわけでそうなったかわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打ち上げられ、無事みごとに助かったのである。 なぜ転々する土砂の上で、土中に巻き込まれる事なく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下の中でどうして錯乱もせずに無事にいられたのか、気丈でもでもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。こんな怖い目にあったのは非運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運ともいえよう。 凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。ここにこうして稀有の天助をうけた一人の人が、静かに落ち付いた暮らしを続けていると思うと、崩壊と荒涼と悲鳴ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。 「 あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおいくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われた、としか思えないのである・・、 』後日であるが、幸田 文氏の『崩れ』を読み・・、そして、別宅・白馬の近くでもある、その現地を訪れてみた。崩壊地手前の耕地の一角には崩壊に関する説明碑、幸田文氏の「崩れ」の碑文が在り、又、平成7年の大洪水の被害に関する記念碑も立っていた。更に、山間の奥まった所、吊橋から稗田山塊と思しき上空をを見上げると、垂直の岩肌がいかにも陰惨に見える。 切り立った崩落部分は一山全山が崩れ落ちたのだろう、と想像させる程、周囲が大絶壁、断崖となって岩石というよりも茶色の土が露出しているのである。 見渡しても、何しろ視界の180度以上の山塊が崩壊しているのである。 撮影に際しては空から撮るか、よほどの広角レンズでもないと、まとめて撮れないくらいである。 自然の脅威に圧倒されるばかりであった・・!!。吊り橋の手すりに寄りかかり谷底を見ると、余りの高さに怖さで身体が縮む想いであった。 ところでこの吊り橋は、その後の日本列島に長大型橋の時代を迎えるが、その横浜ベイブリッジや瀬戸大橋を初めとする吊橋架橋の礎(もと)になったともいわれる。次回は、「糸魚川」.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・.
2009.10.27

日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」我が第三の故郷になった「白馬村」白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である。信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた・・、これを通称「千国・塩の道」といっている。日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世~昭和初期まで主として使われた生活の道である。 こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・!」と言い残している。 実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが・・、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが。この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。..【小生の主な旅のリンク集】(本文は下記)・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・.
2009.10.26

日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」信州・「松本城」 西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。ここで「石川数正」について・・若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。次回は、安曇野から白馬.
2009.10.25

日本周遊紀行(5)諏訪 「御柱祭」奉納された「御柱・心柱」御柱の意外性・・!!その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かなおんべ(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が御柱祭である。この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが。古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。 一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。 地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている。古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名であるが、高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。 超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。 大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。 祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。柱は、神の依代(よりしろ)である。 御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある。五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいう・・。それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている・・、その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると・・。つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない。序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる。1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。次回は信州・松本.
2009.10.24

日本周遊紀行(4)諏訪 「諏訪地方」諏訪の地は「御柱祭り」一色であった・・、<秋宮の「御柱祭り」風景周遊中の今年(2004年)は諏訪の街とその周辺は7年ぶりの大舞台の地であった。 あの有名な「御柱祭」が、既にこの春季に行われたが。諏訪大社・上社本宮のすぐ横の路上にて、丁度、御柱を曳行する秋の祭りに遭遇した、聞けば、「里宮・小宮」の秋例祭で今年は本宮の御柱祭なので、それに倣って挙行しているとのこと。 全国各地の諏訪系神社では同様に御柱にちなんだお祭りが行はれるらしい、それも秋祭りが多い。諏訪大社は、諏訪湖の南北に上下・二社ずつ対座し、四ケ所に鎮座する神々である。 諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。全国に分布する分社は一万有余社を数えると言われ、我が家の近くや実家にも「お諏訪さん」「諏訪様」の通称で庶民の間に鎮座している。神様は出雲系(大国主)の神であることに先ずびっくりであったが、全国的にも親しまれ敬まわれ巾広い信仰を有していて、歴史的にも当然のように古い。祭神は建御名方命、八坂刀売命の夫妻神が奉られている。 建御名方命(タケミナカタ)は、大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供で、諏訪の国の国造りの神である。 建御名方命は地元の諏訪の美しい神、八坂刀売命(ヤサカトメ)を娶ることになる。その後、両人は諏訪大明神となり、これが現在の諏訪大社のはじまりという。上社は建御名方命、下社は八坂刀売をそれぞれ祀り、名前の「ミナカタ」は「水潟」の意で、元々は大国主や出雲とは関係のない諏訪湖の水の神であるとされる。八坂刀売は下社の背後に聳える白樺高原や霧が峰の山の守護の神とされる。記紀神話(古事記、日本書紀)に基づくと、大国主命の「国譲り」、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫った。 これに対して建御名方命は国譲りに反対し、大和王朝の代表である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦った。結果、戦に負けたことから諏訪まで逃れてきて、その地で王国を築いたということになっている。「国譲り」では、大国主の出雲での末子の建御名方はどうしても承知せず、力比べを挑んだが、逆に投げ飛ばされて出雲から逃亡し、武甕槌が追って科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ)にいたるまで追い詰め、建御名方は遂に降参し、今後、この地からはどこへも出ないことを約束して命だけは助けられた。つまり、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。八百万の神が出雲へもう出るため、この月を「神無月」と言われるが、諏訪の建御名方の神は出席を許されず、この地方だけは「神有月」と言われる。「御柱祭」については次回へ・・、
2009.10.23
日本周遊紀行(3)甲府 「甲斐・甲府」甲斐の国の府は「甲府」・・、国道20号は勝沼を過ぎると「甲府」である。 今年(2007年)、NHK大河で「風林火山」を放送していますね、皆さん見てますか。「甲府」という名称は、永正16年(1519年)に武田信虎(信玄の父)が居館を躑躅ヶ崎館(つつじがさき:現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から「甲府」と命名したことに始まります。武田信玄の信玄とは法名で、本名は「晴信」である。甲斐守護を代々務めた甲斐源氏武田氏の信虎の嫡男として生まれ、隣国の信濃を平定し、越後の上杉謙信との「川中島の戦い」は余りに有名である。現在このあたりが放送の真っ最中ですが、戦いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、駿河、上野(こうずけ)、遠江(とうとうみ)、三河と美濃の一部を領するようになるが、上洛の途中に信玄は三河で病没することになります。 信玄は「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬軍は戦国最強と評され、今もなお広く人気を集めている戦国武将である。 信玄死後、側室の子である四郎勝頼が家督を継ぐようになるが、勝頼の母は、あの諏訪の姫「由布姫」である。勝頼の時代、台頭してきた織田信長、徳川家康の連合軍に鉄砲を主力とした集団新鋭兵器の登場、所謂「長篠の戦い」で破れる。 その後の武田家は次第に衰退してゆき、天正10年(1582年)、信長の追手に追われた勝頼は笹子峠付近で進路をふさがれ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である大和村・天目山を目指した。 しかしその途上、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき追手に捕捉され、身内とともに自害して果てたという。(天目山の戦い) 享年37。これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡することになる。 その後、家康が入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、田野寺(現、甲州市大和村・景徳院)を建立している。現在、境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる「甲将殿」がある。甲斐・武田氏は、清和源氏の本流と言われ、元は「常陸の国」の出身である。NHKのドラマは山本勘助が主人公であるが、今後の武田四郎勝頼との関わりも楽しみである。次回は、「諏訪」.
2009.10.22
.日本周遊紀行(2)山梨 「甲州街道」 「甲州街道」について・・、私の旅・「日本一周」の出発路は国道412号から、相模湖駅前で20号線になる、往時の「甲州街道」と呼ばれる筋道であった。甲州街道は、甲斐国(山梨県)へつながる道で、江戸幕府によって整備された五街道の1つである。「甲州街道」と言っても今、は国道20号のことを指しているが、江戸期における同街道は「旧甲州街道」とも称している。旧街道は、内藤新宿(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈で当時内藤家の中屋敷のあったところ)、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれていた。ところで、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し江戸城に直結している。家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。参勤交代であるが・・、 沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。 では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった・・。この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。 武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。江戸幕府で事変があった時、将軍は、半蔵の部下達に守られながら、甲州街道を進み、そして、百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 つまり、甲州街道は、徳川将軍家の逃げ道であり、軍事用の目的があったのである。 天領の甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていた。ただ、甲州街道の大行列に「お茶壷道中」というのがあったという。幕府に献上される「京・宇治の茶」で、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入った。この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある。 このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間続いたという。笹子峠から勝沼にかけて・・、江戸末期、慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦で官軍に敗れ、再起を図る近藤勇が新選組を母体として結成した「甲陽鎮撫隊」が甲府城奪取に向かったのもこの街道であるが、笹子峠を越え甲府の手前の勝沼で新政府軍に敗れ、虚しく江戸に帰還している。同じ場所でもう一つの悲劇があった、それは江戸期の直前であったが・・、450年の歴史を誇る名門・武田氏の滅亡の地でもあった。天正9年(1581年)、武田勝頼は織田信長、徳川家康の連合軍によって築城中の「新府城」(韮崎中田、七里岩台地上に位置する平山城)は陥とされ、武田氏ゆかりの地である天目山を目指して逃げたが、しかしその途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害して果てる(天目山の戦い)、こうして甲斐武田氏は事実上滅亡した。街道沿いに、ぶどう寺とも呼ばれる古刹「大善寺」がある。718年奈良時代に僧・行基の創建とあり、遠く中国から運ばれてきた葡萄の種を薬草として植えた事が始まりでこの地に伝わり、勝沼甲州葡萄の発祥の寺とされる。 武田家が追い込まれた天正10年3月、大月の岩殿城を目指した勝頼一行がこの寺に泊まり、武田家再興を祈願して薬師堂に一晩こもったとされる。この時の記録を住職の理慶尼(武田家の親族)が細かく書きとめ、寺の古文書「武田勝頼滅亡記」として一冊ずつ保存されているという。大和村(現、甲州市)田野に勝頼一族の菩提寺「景徳院」がある。又、大和村から勝沼町(現、甲州市)に入ってすぐの深沢橋の袂に「近藤勇」の像がある。.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・.
2009.10.21
【中部道】 神奈川(厚木)⇒⇒⇒⇒新潟(糸魚川)出発・・、本日は平成16年(2004年)9月20日、秋の彼岸の入り、そして何より「敬老の日」である。日本の人口の凡そ1/5が65歳以上の高齢者が占めるといわれが、小生も本年65歳を迎えこの割合の中の一人になった。 つまり年金生活を送るようになってしまったのである・・、だからどうなんだ・・「別に・・」、歳月の経過とともにたまたま65才に成ったにすぎない、ただそれだけである。 そして今年の今日(きょう)、「日本一周の旅」に出掛けるタイミングになっただけである。 勿論、これまでに思案し、計画し、準備し、そして万端、整えたつもりである、愛車の整備も含めて。本日は旗日である、その為か世間は何となく普段より静かな雰囲気である。上(カミ・妻)さんも休日休勤の”のんびり曜日”であるが、小生の出発とゆうことで早朝より起きて準備を整えてくれた。そして発車の際は車の横で道中の無事を祈ってくれた。上さんに暫しの別れを告げて先ずは、第二の我が家である長野・白馬村の別宅へ向けて車を走らせる。 いつものルートである国道412号を経由する。愛川町に入り「中津川」の清流を右に見ながら、半原へ・・、そして半原の尽きる所に宮が瀬ダムの巨大なダム堰堤が遠望できる。(宮が瀬ダムについては「厚木」の項で詳細を記載)愛甲郡愛川町半原は日本を代表とする「撚糸」の町として名を高めたことは余り知られていないようだ。 撚糸とは、糸に撚(ヨリ)をかけることで、糸は勿論絹糸のことである。山間の地、半原は中津川などにより大気中に適度の湿気があり、そのため養蚕産業や糸を扱うのに良い条件となっていた為といわれる。 それに明治の頃はまだ電気がなかったため、この繁盛ぶりを支えたのが中津川であり、動力にその水を活用して「水車」を動かしたのであった。其の優れた製品は主に江戸、桐生(埼玉県)、足利、それに郡内に接した八王子に商いに行ったとされる。津久井の町に入る・・、神奈川県の北西部に位置する津久井郡は自然に恵まれ、郡土の70~80%は森林におおわれている。 津久井は大自然豊かな町であり、歴史と民話の里でもある。そして、近年ではダムの町としても知られる。津久井は県下の水源の町で、宮が瀬ダムより遥か以前に町内には五つの湖(相模ダム、沼本ダム、道志ダム、城山ダム、本沢ダムなど昭和20年から40年にかけて完成している)が在り、神奈川県の発展に貢献し、現在でも大都市への水と電力の供給源として大切な役割を果たしている。いずれも、長い年月をかけて湖底に沈む集落の方々との土地交渉・移転先等々の話し合いが行われた末に完成している。因みに宮が瀬ダムは平成12年(2000年)に竣工している。R412・・、相模湖の手前に「ピクニックランド」の広大な遊園地がある。子供達がまだ幼少の頃、数度遊びに連れて行ったもんであるが・・、このピクニックランドにも意外なエピソードがあった。遊園地の南端に「正覚寺」という名古刹がある。 鎌倉初期、源頼朝が西行法師を鎌倉に招聘した折、この名僧も正覚寺を訪れている。この時西行は・・、 『吾妻路や 間の中山は ほどせばみ 心の奥の 見ゆばこそあらめ』と詠み、寺院境内の片隅に歌碑が残っている。又、近年では民俗学者・柳田国男が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて10日間滞在し、帰りに遺して行った当時の有名な一句 『山寺や 葱と南瓜の 十日間』を残している。 この事が縁で最近では正覚寺は俳句の寺としても名を成している。西行が詠んだ「・・間の中山・・」とは嵐山の意味で、裏山に控える優美な山を、京の嵐山になぞらえて詠んだといわれている。そして近年の昭和30年代には大活躍したプロレスラー「力道山」が正覚寺を訪れているという。丁度、TVの普及期、力道山はカラテチョップを使って大型外国人をやっつけたことでもしられるが・・。そのかたわら力道山はリキ観光株式会社という事業家としても大いに手を広げ、昭和37年には相模湖町で土地の開発事業を計画し、このため正覚寺も裏の山林5ヘクタールを譲渡協力したという。それが現在の相模湖ピクニックランドの前進であった。その直後に力道山は突然の事故で帰らぬ人となりましたが、開発事業は三井物産に引き継がれ、「相模湖ピクニックランド」として現在に至っているのであった。中央道の相模湖から大月へ、そのあとは一般道の国道20号、所謂、甲州街道を北上する。街道の大月には名勝・「猿橋」がある。長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚が立てられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えている。 市内にある桂川(相模川の山梨側の名称)の峡谷に架かる橋で、日本三奇橋の一つとしても知られ、往時は甲州街道に架かる重要な橋であった。猿橋については、7世紀に「猿が互いに体を支えあって橋を作った」のを見て造られたと言う伝説があり、名称もここからきている。 鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。 甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため、往来が多く、歌川広重が描き、荻生徂徠など多くの人が訪れた感想や詩・句を記録している。笹子トンネルを抜けると、既にここは甲斐の国・大和村そして勝沼である。次回は、「甲州街道」.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・
2009.10.20
日本周遊紀行 「旅の準備」「日本一周の旅」への根拠は・・?思えば・・、今までの旅や旅行は殆どが短期間でスポット的な小規模の「お出掛け」であり、確か、定年前の休暇で、お上(妻)さんと北海道の10日間というのが最長であった。 定年になって暇とお金(・・?、・・××)と体力は充分備わっているので、単独で長旅を考えた場合、果たして何処へ・・?と、とりあえず考えてしまう。 何処かの海外旅行・・? 何れかの観光旅行・・? ハタマタ道府県巡り・・などと多々目的はあろうが、ただ肝心なのは漠然とではなく、目的、目標をしっかり絞って決行する事である。ところで、小生は日本(実は満州・・?)に生まれた日本人である(当たり前であるが・・)。従って日本の事をもっと知るべきである、という好奇心が頭をもたげるのである。 日本列島は細長い島国であり、海を眺めながら「海道を巡る!!」、道行きに地域の歴史や文化、自然を訪ねる・・、コレはいいと思った次第である。 言い換えれば「外国の事に関して」日本国内を在る程度知っておいて、其の後に行なうのが筋と考えている。 愛読書である司馬遼太郎の「街道を往く」シリーズを模じった訳ではないが、「海道を往く」である。 実は何年か前、職場の仲間に定年で暇(ひま)に成ったら日本一周でもしようかな・・などと、ペロッと口に出したことも有り、又、若い頃よりボンヤリと夢に描いていた事も確かであった。 そして、何時の日にか実行することを心に決めていたのも事実であった。 定年間際、その直後に先ず何を成すべきか・・??を考えながら、その夢が大きく膨らんで、そして、いよいよ現実のハコビと相成ったのである。 さて、現実のものとして実行のハコビ’まではよかったが、本当の意味であらゆる事を想定し具体的な運びをどうするか、を思案しなければならない。若い時分なら、無計画で明日にでも飛び出して行けばいいものをと思うが、事実、情報等によるとヤングマン達は自転車や徒歩で日本一周、日本各地を何日も、何十日も巡り、苦労や危険を覚悟しながら体験している人達も中にはいられるようである。 しかし、熟年の小生はこれは無理、年甲斐も無く、ではなく年甲斐を考えて趣旨・目的・目標を明確にし、尚且つ短期間で効率よく実行しなければならないのである。これらを条件を加味して、以下の実行項目を考察してみた。1 日本列島を2分割し、2回に分けて実行 2 分割は静岡ー糸魚川構造線(フォッサマグナ)を基準に東日本と西日本3 現在、住居は神奈川で、別宅が構造線上の白馬村に在る4 先ずは、「東日本」の海道沿いを巡る5 新潟・糸魚川を基点に日本海側を北上する6 東北、本州北端より北海道へ、そして、その最北部の稚内へ7 次にオホーツク海、太平洋を南下する8 千葉房総より自宅へ帰還9 手段はつまり脚(車)はワンボックスのマイカー10 ネグラは車内か現地の安宿(前日又は当日予約)のカタツムリ・ヤドカリ旅行11 安宿とはY・H、民宿、公営の宿、他12 途上、出来得る限り「道の駅」を利用する13 一日の走行目標は200~300Kmで、陽の有る内14 趣旨として最寄りの観光地、景勝地、名所旧跡等を巡る15 地域の歴史や文化に興味を持つ16 その町の個性、特徴、特色、主旨、趣向を知る17 名の有る「温泉地」、地域や隠れた温泉地を訪ねる (NHK・「ふだん着温泉」等)18 データシートを作成し、その日の内にデータ、日誌等を記録する19 持ち物・・装備品、持参品を事前にチェックし準備する20 衣類、特に下着類は出来るたけ現地で洗濯処置21 食、嗜好品、好みに応じて持参調理する、その他現地にて摂食22 車への積載は能率、効率よく美的に、ケースの使用が良い23 要所、要点は事前チェックし地図上に書き込む(地図は最新版)24 カーナビは絶対必要、そしてフル活用(ナビソフトは最新版)25 季節の良い時期を選ぶ(春期・5,6月頃 、秋期・9,10月頃)26 春季、先ず東日本方面へ・・、日本海側、北海道、太平洋岸へ、27 次年、「西日本」へ・・、先ず三浦、伊豆から東海道、近畿28 そして四国、山陽道から九州北部、西九州、鹿児島へ29 次に、東九州から北上して山陰、近畿(日本海)を巡り30 北陸、能登に至って糸魚川から姫川、別宅白馬へ・・と、ツラツラと並べて、自分なりに納得しながら着実に準備を進めた。 但し、沖縄県については余りに諸島、群島が多いため熟慮した結果、後日の訪問となってしまった。 因みに、その後家族と沖縄旅行へ行くきっかけがあったので、其の沖縄の概要や模様は近日述べたいとと思っている。 尚、沖縄県は本島ほか49の有人島と多数の無人島からなるらしい。さて、いよいよ出発である・・!!.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・
2009.10.19

剣岳登山と最近見た映画 「剣岳:点の記」と登山紀行【濃霧にかき消されていた、その姿は、今その全容を現にした。豪壮無比、急峻にして高邁、颯爽としたその風格は、胸を締め付けられるような感動を覚える。黒百合のコルから沢筋の八ッ峰の末端を底辺としたその形容は、真しくアルプスの金字塔の名にぴったりである。太刀の鋭さと鋼の強靭さを兼ね備えている、その名のとおりの「剱岳」であった・・!!】「立山・剣岳」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・
2009.10.18
.日本周遊紀行・昔の旅人たち 「正岡子規」次に「正岡子規」のこと・・、さて松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、 しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』 子規芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』と軽く一句捻っている。四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。他にも俳諧旅行で「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。 巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京この時、山形・最上川では・・、『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。発想の契機は、有名な芭蕉の『 五月雨を 集めて早し 最上川 』にあるともいわれる。元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。 子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り:ひねり」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』 余りにも有名な句である。正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。 子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。 子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く吟人」と呼んだ。ところで、昔日は(江戸期の頃まで・・)、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代でもある、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。 特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無いようである。現代の文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。 その事を示す例として、近年では人々の足代わりに鉄道敷設が行われた。 その鉄道の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝の観光目的のために造られた事が挙げられるのである。小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。それは実に単純で「計画段階の楽しみ」(事前の下調べ)、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながら(事後の再確認)、アレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」程の大袈裟なものではないが、確かめて再び知識を得るのも楽しみである。 実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが。いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである。日本周遊紀行・「まえがき」 【終】.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・.
2009.10.18
昔の旅人 「松尾芭蕉」前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った御三方:「吉田松陰、松尾芭蕉、正岡子規」の旅の様子を記している。次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。道中でこれにはこんなエピソードもある・・、越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。 この時の一句に『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』を詠んでいる。 この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう。 推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。次に「正岡子規」のこと・・、【旅の案内、ついでにどうぞ・・、】 【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・2005・・南紀旅行2002・・
2009.10.18
.【旅の案内】 .前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った御三方:「吉田松陰、松尾芭蕉、正岡子規」の旅の様子を記したい。先ず、「吉田松陰」のこと・・、江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。次回は「松尾芭蕉」.【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・
2009.10.17
『旅・旅・旅』・・・、旅について「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・・、江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。さて、「熟年」になった今日・・、今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。例えば「旅」のことである・・。 或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。 「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。続きは次回へ・・、 【小生の主な旅のリンク集】・・・《日本周遊紀行・投稿ブログ》FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・【日本の世界遺産紀行】・・北海道・知床・・ 白神山地 ・・ 紀伊山地の霊場と参詣道・・ 安芸の宮島・厳島神社・・ 石見銀山遺跡とその文化的景観・・ハワイ旅行2007・・沖縄旅行2008・・北海道道北旅行・・北海道旅行2005・・南紀旅行2002・・【山行記】・・・《山の紀行・記録集》・・・「山行履歴」・・「立山・剣岳(1971年)」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/turugi1.htm白馬連峰登頂記(2004・8月)・・八ヶ岳(1966年)・・南ア・北岳(1969年)・・北ア・槍-穂高(1968年)・・谷川岳(1967年)・・丹沢山(1969年)・・西丹沢・大室山(1969年)・・八ヶ岳越年登山(1969年)・・西丹沢・檜洞丸(1970年)・・丹沢、山迷記(1970年)・・上高地・明神(2008年)・・《山のエッセイ》・・・「上高地雑感」・・「上越国境・谷川岳」・・「丹沢山塊」・・「大菩薩峠」・・《スキー履歴》・・・「スキー履歴」・・
2009.10.16
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