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. 大菩薩峠・紀行(38) 「奥多摩湖とむかし道」 .小河内ダムと奥多摩湖(奥は水と緑のふれあい館)奥多摩むかし道MAP(奥多摩町観光)青梅街道(国道411号線)の舗装道路を歩くのは若干しんどいが、渓谷沿いの道なので意外に楽しい。余慶橋辺りが中間点であろうか、丹波のバス停まではあと少々である。まもなくキャンプ場や山の家、民宿などが現われて、間もなく丹波の集落に到着した。バスの停留所は、停西東京バス氷川駅行(昭和46年から奥多摩駅に改称)となっていた。 又、道際の近くにに旧青梅街道・大菩薩峠の案内板が立つ。そう、この集落は大菩薩峠越えの甲州街道裏街道として発展した宿場集落でもあった。かつての裏甲州街道(青梅街道)であった大菩薩峠への登山口でもある。ところで、大菩薩峠が多摩川水系と富士川水系との分水嶺となっていて、この分水嶺や山岳尾根の様子,そしてバスの路線などから考えると丹波山村(小菅村も同様)は東京都に属していそうなのであるが,そうではなく実は山梨県となっている。実は現在も山梨県側の丹波や小菅は、同県内からの路線バスは走っておらず,全て東京都側の奥多摩駅からの便となっている。氷川(現奥多摩駅)との交通事情がよくなったのは大正時代における改修や昭和になってからの小河内ダム建設(奥多摩湖)に伴う補償としての道路改修により、車の通行ができやすくなったのである。 奥多摩湖の堰堤・小河内ダムは東京都奥多摩町(都心から約65km)にあって、標高530mに位置し、多摩川上流域を水源とする集水域は東京都奥多摩町、山梨県丹波山村、小菅村及び甲州市の4市町村にまたがる。ダム上流域に降る雨や雪(年間約1,600mm)が丹波川、小菅川などに流れ込んで集まり、貯えられた水は、ダム直下の多摩川発電所で発電に使用後、多摩川に放流され、水道原水として取水されている。集水域面積は約263km2(都内区部面積の約40%)の広がりをもっておりその内の60%以上が東京都の水源林となっている。建設計画自体は昭和初期に遡る。だが、ダム建設予定地である旧小河内村の用地買収の難航、着工寸前に起こった水利紛争、戦争激化による建設工事の中断等により、着工から19年の歳月をかけて竣工した。主要堰堤工事は1938年(昭和13年)に 起工、1957年(昭和32年)に竣工している。完成当時は、東京の水源は主に多摩川水系に依存していたが、現在は都の水源の約20%となっています。 しかし、小河内ダムは東京都の独自水源として、利根川水系の渇水時や事故時には放流量を増やすなど、住民の安定給水の確保に重要な役割を果たしている。 尚、小河内ダムは、建設から50年以上が経過しているが、耐震性調査を行った結果、想定される最大級の強さの地震に対しても安全であることを確認している。 堰堤の規模は、標高:530m(堤頂の道路部)、型式:非越流型直線重力式コンクリートダム、高さ:149m、長さ:353m、流域面積:263km2、有効水深:101.5m、有効貯水量:185,400千m。奥多摩湖から下流、氷川(奥多摩駅)から昔の青梅街道(旧青梅街道)が、「奥多摩むかしみち」として保存されていたて、山深い道を通り、奥多摩駅から奥多摩湖まで歩くことができる。初心者向けのハイキングコースで、舗装路・未舗装路・アップダウンとそれなりに変化のある道で、全工程の距離は約9km、ゆっくりで凡そ4時間の行程である。奥多摩駅前の観光案内所ではコースマップを無料配布している。主な見所は奥多摩駅より湖にむかって、羽黒坂、羽黒神社、小河内ダム建設のための鉄道廃線、人馬の休憩所跡、馬頭観音、不動の上の滝、巨岩を御神体とした白髭神社、耳神様谷底へ落ちて死んだ馬を供養するための馬頭尊、縁結びの地蔵尊、馬の水飲み用の石桶、むし歯直しのお地蔵さん、中山集落、青目不動尊(非公開)、そしてゴールは奥多摩湖畔で「奥多摩水と緑のふれあい館」(入館無料)がある。 『終』【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.14

. 大菩薩峠・紀行(37) 「尾崎行雄」 .東京・永田町の憲政記念館に立つ、晩年の「尾崎行雄」銅像明治維新後、多摩川上流域の山林は過度の伐採や開墾、焼畑等が行われており、そのため森林の荒廃や水質の汚濁がしばしば発生するようになった。 更に、東京府は降雨のたびに水源である多摩川や玉川上水の水が濁ることに悩まされてきた。そこで、その原因を探るた水質専門家による調査を依頼し、結果、東京市の飲料水や東京府の農業用水を安全に確保するために多摩川上流域に広がる森林を「水道水源林」として管理を開始するようになった。東京府が水源林経営に本格的に着手してから9年後の1910 年(明治43)、『 水源林の経営は、市民に水を供給する責任を負っている東京市が行うべきである 』との尾崎行雄東京市長の判断によって、東京市による水源林の経営が始まったのである。水道水源林の位置は、山梨県塩山市、丹波山村、小菅村、東京都奥多摩町に分布していて、水道水源林の面積は約22,000ha 、そのうちの64%が山梨県に属している。多摩川の水源林は保水能力のない針葉樹林は少なく、7 割以上がブナ、栂、ミズナラ、カエデ類を中心とした天然の落葉樹であり、人手があまりかからない良質の林で形成されている。尾崎行雄(1858-1954)は神奈川県津久井町(現、相模原市)の出身で、95才という長寿を全うした。代議士生活63年(25回連続当選)という世界一の記録保持者(二番はイギリスのチャーチル)で、「憲政の神様」ともいわれ、一貫してクリーンで明朗な政治家であったという。この間、東京市長時代は明治36年から9年間に及ぶ。犬養毅(第29代内閣総理大臣、五一五事件で暗殺)とは大の親友で、民主主義のために闘った二人は尾崎とともに「憲政二柱の神」と仰がれた。犬養が昭和7年5月15日に陸軍の政治テロにより射殺されたとき、イギリスにいた尾崎は、『 我が友の 殺されたるを夢として 聞かんと祈り眞かと思ふ 』と悲墳の歌を作っている。昭和12年、老齢尾崎が79才のときの議会演説で、『 日本帝国はどこに行くつもりで舵をとっておるのか・・! 』と、決死の覚悟で軍部の横暴や軍事費の増大を批判した。 このもの凄い演説は新聞にも大きく取りあげられ、全国から感動の手紙が続々と届いたという。しかし、尾崎の必死の努力は空しく軍国主義はますます進んで、日中、太平洋戦争に突き進んでゆくことになる。次回最終、「奥多摩湖とむかし道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)。
2012.03.13

. 大菩薩峠・紀行(36) 「三条河原」 .当時東京市長の「尾崎行雄」の顕彰碑間もなく三条新橋を渡って、奥多摩地域の本道(青梅街道)に達した。この辺り、三条河原とか言うらしい。 三条河原とは、三重河原が変じて付されたとも言われる。実際には丹波本流に泉水谷が合流する二重河原なのだが、黒川金山で有名な、黒川谷を併せて三重河原と言う。近くに「尾崎行雄水源地踏査記念碑」があった。 木立に囲まれて石積みをした立派な石碑が建立されている。天皇陛下ならともかく、自治体の首長が視察しただけで碑が建つというのも大げさな気がするが、当時の「尾崎行雄」がよほど偉かったのか、それともこんな山奥までくるのがよっぽど大変だったのか、時代が違うといってしまえばそれだけだが、当時としては、大事な件だったのだろう。石碑以外に石碑の案内板が掲示してあって、案内板を読むと、以下の説明がなされていた。『 明治42年(1909年)5月、当時の東京市長尾崎行雄は、多摩川の荒廃した水源地帯を踏査し、これを買収して水源の涵養を自ら行うことを決断、給水百年の計を樹立しました。この記念碑は、昭和38年(1963年)、この尾崎市長の功績に対し東京都民の感謝の意を永遠に伝えるために、市長が踏査したこの地に設置されたものです。 』前述したように、大菩薩嶺から東側の山梨県の丹波山村の山は東京都の所有で、東京都水道局が管理する森林の内半分以上は山梨県側にある。小菅村や丹波山村は山梨県の村であるにもかかわらず下水道普及率が高く、特に小菅村の水洗化率は100%だと言う。これは多摩川水系の水源を守るための東京都の施策で、東京都の現在の水資源確保は約100年も前に尾崎行雄が将来を見据えた決断から生まれたものだった。当時の東京市長・尾崎行雄が水源地踏査をしたのは明治42年で、小河内ダム(奥多摩湖)ができたのは、踏査から48年後の昭和32年の頃であった。 尾崎行雄の先見の明がばければ、今日がなかったことにもなる。一人の人間の英断がかくも貴重なものであることを示す顕彰碑だった。次回、「尾崎行雄」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.12

. 大菩薩峠・紀行(35) 「小室川谷」 . 晩秋の小室川谷気が付くと「小室川谷」の出合に達していた。この谷は沢歩きでも人気があるらしく、数人の若者が遡行準備に忙しそうである。泉水谷では大黒茂谷も沢登りでは人気があるが、谷の長さ、深さ、バリエーションのどからみるとやはり、ナンバーワンの谷は小室川谷だろう。泉水本谷にも廊下や魅力的な淵があるし、大黒茂谷も荒れたとはいえ、奥多摩・大菩薩らしいの渓だが、流程、渓相共に小室川谷が素晴らしい。小室川谷には、有名な石門ノ滝などの奇石や数多くの滝があり、淵も綺麗で側壁も高く変化に富んだ渓相が続くので、沢登りの世界でも魅力的な谷としてその名が知られているという。『 丹波に泉水有り 泉水に小室川谷有り 』と渓流マンのベテランが、ガイドブックに書いているように、泉水谷は今も奥多摩の名渓である。小室川谷は大菩薩嶺と大菩薩峠の間の「妙見の頭」付近の稜線に突き上げる多摩川流域では代表的な沢の一つである。水量も多く、標高差1100m以上の長い道程で、連続する滝やゴルジュ、ちょっと深めの楽しそうな釜、大高巻、渓中泊など沢登りを満喫することができる。ただ、渓相は厳しく、尾根まで10時間以上は有するハードなコースで、沢登りとしては中、上級者向きといったところであろう。尚、この小室川谷は形のいいヤマメ釣りの本場で、渓流釣りとしての人気もある。次回、「三条河原」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.09

. 大菩薩峠・紀行(34) 「泉水谷林道」 .新緑期の大黒茂谷峠の丸川荘から朝一番の徒歩で、時間的にも充分の余裕があり、今は、奥多摩の更に奥の大自然を満喫しながら歩んでいる。冬枯れの時期、どちらかと言えばモノトーンの自然色ながら、そこここには緑の大樹も数多くみられる。樹はまつ科の栂(つが)である。樅(もみ)と混同されやすいが、樅はどちらかと言うと温帯地域に多く、対して栂は高位度の寒冷地に植生しやすい。 見分けるには枝先の葉が左右に生えているのが樅で、四方八方に生えているのが栂である。大菩薩の北側は高度が高いために樅はほとんどなく、栂、コメツガが主林木であることから、黒木(針葉樹および針葉樹林のこと)が茂っていて、そこから流れ出す谷を「大黒茂」と称するのは納得である。 ルンルン気分で泉水谷の大峡谷の歩道を進む。沢音や小鳥の囀り(さえずり)を聞きながら自然と一体になり、何とも言えない満足感、充実感で満たされているのが意識できる。やはり自然は有難く多くの物を教えてくれる。”回想、山へのキッカケ・・!”小生の山歩きは実のところ、数年前までは考えてもみなかったことであった。元より田舎育ちで、自然の真っ只中、自然を相手にしながら成長してきた。従って、自然と言うものには特に意識することなく、日常の生活の中でも当たり前の存在であった。成人になって偶々(たまたま)勤めが東京に転勤になり、通常、身に付けたことの無い背広にネクタイで満員の電車に揺られ、着いた所が丸の内のコンクリートジャングル、それでも都会は何かと便利でいいなあとは思いつつ、ついつい、田舎の暮らしが懐かしく思える時もあった。こんな折、職場の同僚で山歩きの好きな友人に、半ば強引に連れて行かれたのが、丹沢の山(塔の岳)であった。元より、野山での遊ぶ経験はあったが、一つの山の頂へ向かって登るということは初めてであった。心配していたとおり最初の20分くらいでばててしまい、疲労と吐き気でギブアップ、それでも「君のぺースで行くから」という言葉に、悪いと思いながらも、ゆっくりゆっくり歩いて、何とか頂まで達した。そして、下山後の何とも奇妙な感触を未だに覚えているのである。田舎のムンムンする草の香りと、山での木の葉の匂いは共通するのかもしれない。その後は、誘われるままに丹沢の各山、関東周辺の山、谷川岳、八ッ岳、そしてアルプスの各山と休日になると山歩きを楽しんでいたのである。とまれ、あまり懐かしさには浸ってはいられない。 ここからバスが通う「丹波」まではゆうに2時間はかかるのだ。次回、「小室川谷出会」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.08

. 大菩薩峠・紀行(31) 「おいらん渕、一の瀬集落」 .写真;おいらん淵一ノ瀬高橋に残されている廃校になった小学校。中央の時計と左右のスピーカーが現役のようである。丹波三条から更に3kmほど上流、青梅街道が一の瀬方面に向かう分岐近くの淵に「おいらん渕」というのがある。戦国時代の黒川千軒といわれたころ、金山の近く女郎郷に金山坑夫慰安の為の遊女を多く置いていた。ところが武田家が滅亡し、金山経営できなくなって廃山しようとした際、当時数十人もいた遊女たちを金山の秘密が漏れることを防ぐため渕へ沈め たという。 この際、柳沢川に宴台をつくりその上で演舞をさせ、舞の最中に宴台を吊っていた藤づるを切って宴台もろとも淵に落としたという。 これが「おいらん渕」の伝説の元になってといわれる。下流丹波山村にはその遊女の死体を引き上げお堂を建てて村人たちが供養したと伝えられる。現在、お堂は朽ちて無くなったが、この地を「おいらん屋敷」とも呼んでいて、付近に供養塔も立つ。 「おいらん淵」の近く、丹波川が一之瀬川に変わる林道に沿って登ってゆくと、白樺林が美しい一の瀬高原に出る。(多摩川の上流の一之瀬川合流地点から約7km下流の奥多摩湖までを丹波川といい、奥多摩湖から下流は多摩川となる。 「丹波(たば)」が「多摩(たま)」の語源であるとの説もある。)一の瀬高原(標高1100~1300m)は一之瀬、二之瀬、三之瀬の集落があり、北には雁坂嶺、笠取山、唐松尾山、飛龍山、から雲取山に至る標高2000m前後の山並みがそびえている。無論、この集落は多摩川流域の最深部に位置しているこの地区は多摩川の源流部であるが、実際の源流は山梨と埼玉の県境にある標高1,953mの笠取山の山頂直下南側にある水干(みずひ)と呼ばれる場所で、ここから最初の東京都民を潤す、1滴の水がしたたり落ちるのである。集落は静かな里山の風景に溶け込んだように形成されていて、茅葺屋根の素朴な古い民家や黒川金鶏寺という古寺が点在している。 お堂の屋根には武田菱の家紋が設えてある。家々は、時が止まったような昔のままの姿で、古き日本のふるさとをテーマとした映画のセットのような感じだ。そう、ここは武田信玄の隠し金山「黒川金山」の黒川金山衆の末裔の地と言われている。金山が閉山になった後、関係者は、全国に散っていったが、一部の人たちがこの地に住み着いて、農業や林業などをしながら暮らしていたらしい。これが、一之瀬集落の起源ということなので、現在住んでいる人たちの祖先は、金山で働いていた人だったのかもしれない。周回道路の犬切峠を越えて南に下ると一ノ瀬高橋字三角地区、高橋部落があり、山中に放光山高橋寺や黒川鶏冠神社の里宮などがある。黒川の山頂にある小祠・鶏冠神社の奥宮は、黒川鶏冠山の頂上にあったことは先に記したが、黒川金山の守護神である鉱山の神・金山彦命という祭神をを祀ってある。御神体は、山名にもなっている鶏(ニワトリ)大権現とも伝えられる。一ノ瀬集落は、昭和初期は100世帯ほどあったとされるが、現在は29世帯に49人が在住されている。 その中で高齢者が半数を超え、学童は一人もいないという。一之瀬高橋に伝えられている華やかな「春駒踊り」は金山衆の末裔の集落である証でもある。現在、冬場はほとんど人は住んでなく、一つだけあった分校も今は廃校になっているとのこと。 ただ夏は民宿やキャンプ場がオープンし、結構賑わうらしい。尚、周辺に数件ある民宿は家庭的なもてなしと、野菜の煮物や手打ちそばなど、おふくろの味が魅力だという。多摩川源流・水干への登山は、一の瀬からだと片道2時間以上は必要であろうか。次回、「学校沢」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.06

. 大菩薩峠・紀行(30) 「黒川千軒」 .黒川金山の坑口跡黒川千軒の遺跡群;テラスといわれる住居跡が無数に存在する青梅街道の泉水谷出合、つまり三条河原から少々上った黒川谷へ入ってから凡そ1時間30分、水源付近から黒川千軒の遺跡群が顔を出す。石垣らしきものが現れてきて、これはテラスと呼ばれるもので、黒川千軒の中心部の番兵小屋跡や家や作業場(精錬所)等十数ヶ所の跡が残る。次に、黒川金山循環路と呼ばれる急な斜面には何れも石垣で仕切られた数十ヶ所のテラス群が不規則に並んでいる。 その最奥部に坑道口である坑道跡が現れる。 黒川千軒は、沢沿いに幅約300m、長さ約600mにわたって家や作業場などが無数に建っていたらしい。凡そ400年前、これほどの山奥に賑やかな鉱山街があったことは驚きである。そこには戦に敗れた信州や武州の民が連れてこられて奴隷のごとくこき使われ、そして二度と故郷へ帰ることなく死んでいったのだろう。 事実、黒川金山には信玄が戦で勝って捕虜となった人達が大勢連れてこられたとのことで、塩山の「放光寺」には金山で犠牲になった人達を鎮魂する仏像が祀ってあるとのこと。彼らが命に代えて掘り出した金は甲洲金として武田信玄の躍進の原動力となった。 今は朽ち果てた遺構が悲しい過去を物語るだけで、やがて忘れ去られようとしている。本来なら、周辺自治体か国で管理保存して、現世、後世の世に残しておくべき遺構なのであろうが、何せ余りの山中深く入組んだところである。 その遺構も近い将来土に返ることだろう。黒川金山の北方、一之瀬高橋地区には竜喰谷金山、牛王院平金山 、更に北方、奥秩父の山域にも数箇所の金鉱山があったらしく、それらに由来する地名が数多く残されている。黒川金山は武田晴信(信玄)の隠し金山であったという伝説とほぼ一致し、武田信玄の親、信虎の代(1530年)に始まり、信玄の子、勝頼の代で廃坑(1576年)になったとされ、46年間に亘って採鉱されていたことになる。 それ以前にも、多摩川の源流部の一之瀬川が柳沢川が合流するあたり、更に下流右岸の黒川と泉水川が合流するあたりにおいて、既に、武田一族が金山を手掛ける以前に砂金掘りで相当賑わっていたといわれている。 ところで、黒川金山跡(標高1200~1400m)の地下には、モグラの穴道のように間歩(坑道)というのが縦横にはり廻らされているという。その間歩は年月を経るとともに陥没や崩落がおきていて、あちこちに大小の痕跡が残っている。 そのためか過去に金山に足を踏み入れて、帰らなかった人もいたという。現地では入山時、山道から反れないようにと、又、坑道の探索には十分な注意が必要という。次回、「武田の金山衆」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.03.01

. 大菩薩峠・紀行(29) 「黒川金山」 .黒川鶏冠山の山頂直下にある「鶏冠神社・奥ノ院」大菩薩の北部直近の地に黒川鶏冠山(標高1710メートル)という山がある。 その東側山腹の黒川谷源流部に黒川金山跡がある。黒川金山の歴史は、既に平安、鎌倉、室町時代を通じて資料などにも残されていて、当地を支配していた豪族三枝、安田、武田氏とのかかわりを伝えている。 又、実際の採鉱については戦国期の武田信虎時代からとも伝えられ、特に武田信玄時代が最盛期であったとされている。 武田軍の軍用金の多くはこの黒川金山から産出された。ところが子息の武田勝頼の頃には衰えて一時閉山となったが、徳川時代になって、大久保長安らによって再び採鉱がおこなわれたという。その後金の産出量が減少し閉山となった。黒川金山には、黒川千軒といわれた時代の坑道跡、坑夫の住居、作業場の跡がみられる。この地域は他にも竜喰金山、牛王院金山などがあり歴史的にも注目されているという。 また、金山を管理する金山衆は、在地武士団を形成して塩山市内上萩原、下於曽、熊野方面に住居を構えていたとされる。 鶏冠山の山頂には黒川鶏冠(とさか)神社の奥宮が祀ってあり、この宮には大同2年(807年;平安時代頭初)と刻まれた鰐口(わにぐち;お堂の前に布を編んだ太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴)と、天正5年(1577年;盟主・信玄無く、長篠の合戦に敗れて武田家の衰退がはじまる。 勝頼の時代)の銘の入った金鏡が奉納されていたといい、その歴史の深さが記されている。黒川金山の遺跡として坑口、坑道、坑道の陥没ヶ所、製錬場、作業場、石組み、炭焼場など雛壇状に整地されている。又、作業場も兼ねたであろう居住地跡は建物もなく草木に覆われているものの、黒川千軒の形跡を今に止めている。次回、 「黒川千軒」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.29

. 大菩薩峠・紀行(28) 「東京都水源林」 .東京の奥多摩地区の水源林(都水道局)ところで、この辺り奥多摩の森林一帯は「東京都水道水源林」となっており、東京都水道局の管理地になっているらしい。元より、多摩川の上流域には東京都水道局が水源かん養を目的に管理している水道水源林があり、その面積は東京都区部面積の35パーセントにも及んでいるという。森林に降った雨は、落葉などが積もる腐葉土をゆっくりと通過し、土にしみ込み、地下水として蓄えられ、そして、川に少しずつ流れ込む。当然ながら水源林は、水道飲料水の水をはぐくむとともに、土砂がダムに流れ込まないようにする働きをしているのである。東京都水道局は、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内ダム貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため、多摩川上流の森林を「水道水源林」として管理している。その範囲は、東京都最西部の奥多摩町から山梨県下の小菅村、丹波山村、甲州市に至る分水嶺まで、凡そ東京都の面積の約10%に相当しているという。奥多摩一帯の水源林は既に江戸時代から徳川幕府の直轄地として管理され、地域住民は幕府より入会券なるものを発行され許可を得て、生活に必要な薪などの資材や山菜物を採取していたらしい。山林は明治になって一旦民間に払い下げられたが、東京都(府)が再び民間から次第に買い戻し現在に至っているという。昭和32年には水源地として小河内ダムを建設し、今の奥多摩湖が出来上がっている。尚、面白いのは、この地域は小菅村、あるいは丹波山村と山梨県域にありながら管理者が東京都(水道局)なのである。そして、この地域には当然ながら山梨県自治体の山の家など公共施設などもある。 使用するのは山梨県村民は当然ながら、直接、間接的には東京都民ということか。さて「泉水谷」とは、大菩薩の丸川峠から青梅街道の三条新橋へ至るまでの巨大なV字峡谷を総称して言っているようだ。泉水谷の渓相を眺めながら林道をてくてく歩いていくと、右手に大菩薩嶺から派生している大菩薩北尾根の巨大な稜線が望める。又、左反対側は黒川鶏冠山(1710m)の絶壁のような巨大な山腹が、泉水谷に向かって落ちてきている。後で気が付いたのだが、この黒川鶏冠山こそ戦国期から甲斐・武田家が金を掘り当てた黒川金山そのものであったのだ。次回、 「黒川金山」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.27

. 大菩薩峠・紀行(27) 「牛首谷」 .大菩薩嶺から北側の主な山域図(クリック拡大; 資料;黒川金山については後ほど)泉水谷(牛首谷)は雪に閉ざされた深い谷は小鳥のさえずりもなく静まり返っていた。 雪を踏む無機質な音だけが身体に微かに響いてくる。 それにしても湿った雪は珍しくアイゼンに絡み付いてきて歩きにくい。元より人の気配の少ない泉水谷である。薄暗く深い谷間(たにあい)は、今にも熊でも出てきそうな不気味な雰囲気でもある。 尤も、山屋としてはこのぐらいの山の異様さは当たり前でもあるが、時によっては何故か心臓がザワつくときもある。最近、熊が人里に出てきて悪さをするとか、山で熊に襲われたとか、はたまた、人と熊とが格闘したとかなどニュースで聞くときがある。熊にばったり出会った時はどうするか・・?熊の威嚇とはどんな風なのでしょうか・・?、そして身を防ぐ処方は・・?。昔からよく言われるが、死んだふりをするとよいとか、熊の手と唸り声を思うととてもできない。 背中を見せて逃げるのは最悪で、じっと見合うのがベストだともいうが・・?。やはり、ばったり出会わないためにも熊よけの鈴やラジオが必要だともいう。熊にも人間を恐れる本能があり人を避けながら生活をしているというが、時には人里に出てきて人をおどかすともあるようだが。 それにしても奥多摩の熊は人を恐れない新世代の熊だとも、噂に聞いたことがある。不気味な思いを抱きながら、尚も下って行くとやがて林道の接点に出た。 このあたりからカラマツの枯れた樹木林になり、様相が変わってきていて雪も大分少なくなってきた。 この辺でアイゼンを脱ぐことにした。 ふかふかの雪が今度は直接脚に伝わってきて、優しく心地よい響きである。牛首谷を降りたところが、渓流が十文字に合流している地点である。意外と広く開けたばしょで、昔はこの辺りには泉水小屋(1346m)といって小集落、山小屋(水源地管理小屋・・?)などがあったらしいが、今は更地となって跡形もない。所々に「東京都水道水源林」の表札がが立ち、水源森林の涵養保護を訴えている。 そして、その為の水源森林の巡視路が縦横に付けてあるようだ。 一見すると登山路と巡視路とを混同しやすく見誤りの恐れがあるようだが、そこは、ポイントポイントに案内板が設えてあるので注意して行けば迷うことはないようだ。現に、牛首谷を降りる際にも3~4箇所ぐらいの巡視路の分岐と案内がついていた。この牛首谷出会いから三条新橋までが「林道泉水横手山線」といい、この橋から先は「泉水中段線」といって、約7km先で国道411号線(青梅街道)に突き抜けている。次回、 「東京都水源林」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.25
. 大菩薩峠・紀行(26) 「泉水谷へ」 .丸川荘で一夜を明かした翌朝、再び彼と一緒に食事をし、彼と一緒に記念写真を撮り、彼と一緒に小屋を出た。そして、主人も見送りに出てくれて、「貴方は相当に山慣れしていらっしぃますね。」とお世辞の言葉を戴いた。 チョッと照れながら、「否、そんなことはないですよ」と自分としては、実際謙遜ではなく、山に関してはまだまだ未熟だとと思っているのである。彼はこの後、大菩薩峠をへて小金沢連峰を縦走し、湯ノ沢峠から初鹿野へ至らしい。小生とは逆の方向である。小生はこの後、小屋の後ろから泉水谷を降りて、奥多摩から丹波へ向かう予定である。従って、彼とはここで別れた。彼とは名前を名乗りあっただけで所在などは聞かず、所謂、山での一期一会の邂逅であった。山の良さとは存外このようなことも含まれるかもしれない。自然の有り難味を感じながら丸川峠の小屋裏のからは泉水谷を示す道標に従い、「泉水谷を経て丹波」の道標を見送って直進する。急斜面を下っているとき突如上の方角から、「ヤッホー・・!!」と声がした。あれ・・!、彼は私と同時位に出立したはずであったが・・?、忘れ物でもしたのであろうか・・?、と一瞬おもったが、こちらもピッケルを振りながら、「ヤッホー、お元気で・・!!」と返してやった。今では枯れ落ちたカラマツの植林がずっと続いている。大菩薩方面と泉水谷方面への道を分け入ると、先ず「東京都の水源林」という立て看板が目に入る。 そう、ここは山梨県の丹波山村でありながら、総面積の七割は東京都の所有地だという。 さらに行くと、ウラジロモミ、ツガなどの森が出てくる。 ツガ林は苔むしていて雰囲気でもある。 次回、 「牛首谷」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.24

. 大菩薩峠・紀行(25) 「丸川峠賛歌」 .丸川荘の只木さんは、東アルプス合衆国・大菩薩・笠取州・丸川峠村の村長さんでもあるらしい・・?。えー・・!!、東アルプス合衆国って何・・?東アルプス楽集国とは、秩父多摩国甲斐立公園内の山岳地域で営業している一部の山小屋で構成する仮想国の愛称らしい。範囲は、秩父多摩甲斐国立公園内を4地域に分けて各州とし、平成15年3月27日の総会で建国したという。「北・中央・南アルプスがあって、東があってもいいんでねーか、奥秩父はちょうど東に位置して高度はちょっと足りないけど、水と森の東アルプスが、」 これは、今はなき金峰山荘の主人、故・林 袈裟雄氏(小生、暫くのあいだ、お付き合いをさせて頂きました)の持論で提案でもあったという。そして今回、秩父多摩国立公園も秩父多摩甲斐国立公園と改名されたのを期に、山小屋を預かる人達が音頭をとって、秩父多摩地域を仮想の国を愛称として、「東アルプス楽集国」というチョット洒落たネーミングで建国し、登山客が楽しく集える国を目指すことになったという。【丸川荘】位置/丸川峠 標高1700m連絡先/〒404-0022 塩山市上萩原2689-10 只木 貞吉 電話 0553-33-9006 山小屋直通 090-3243-8240収容人員/約40名営業期間/通年12~4月は祝日・土・日のみ営業(平日は応相談)宿泊料金/1泊2食付き>6615円/素泊まり>4200円 寝具不要3400円要予約 暖房費525円水場/あり。水は泊まりの方のみ差し上げます。スライド映写会あります。丸川荘ホームページ; ; http://www5.ocn.ne.jp/~touge17/「丸川峠賛歌」 (作詞作曲 橋本良春)音符画像一 峠を渡る風さやか 二 空青く鳥は行く 三 山なみに陽は落ちる 揺れて可憐な白い花 咲いて招くよ夏の花 染めてくれ行く茜雲 雲は流れて泉水谷へ 辿る尾根道ひたすら行けば 山は黄昏ランプの灯り 心通うよこの草原に 心安らぐこの草原に 心憩うよこの草原に 今日も来ました丸川峠 今日も来ました丸川峠 今日も来ました丸川峠(丸川荘H・Pより拝借しました) http://www5.ocn.ne.jp/~touge17/ 次回、 「泉水谷へ」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.23

. 大菩薩峠・紀行(24) 「丸川荘の主人」 .室内に飾られている「手作りコケシ」丸川荘主人:只木貞吉氏その内、ボツボツと宿泊の登山者の姿が現われだした。その中に小生の直ぐ隣に居場所を構えた東京の堀越君という一青年があった。まだ、かなり若く20前後といった好青年で小生同様の単独者であるが、冬山における完全武装の重装備であった。聞くところ近日中に穂高に入るためのトレーニングであるとのことであった。彼は中学の時から山の味を覚え、現在社会人ではあるが、生涯山歩きを楽しむと意気巻いていた。「何故、山に来るんですか・・?」と、山好きの小生が山に来ていて尋ねるのも妙だが、それとなく聞いてみた。 或は、気の利いた山に関する哲学的な考えを、チョッと期待したが・「特別、下でやることもなく、自分は山に向いているように思うのです。」とアッケラカンとしたもんであった。 そして、「モット言うと、下では物事を集中して、夢中になって何かをヤルってことがないが、山に来ると苦しいながらも一点に集中し、目的に向かってただヒタスラ歩いて行くという、この感じが好きなんですね。 勿論、綺麗な景色もいいですけど・・!」この後の一言で、彼の山に対する心意気が判ったような気がする。 尤も、この言はは、或いは山男全般に言えることかも知れない・・!!。食事の時にビールを注ぎ合いながら、彼との山談義は尽きなかった。彼は敢えて、持参した寝袋へ潜り込んだ。 寝袋の中で今何を思っているのだろうか・・?。丸川荘主人・只木貞吉氏は木彫りの名人で、小屋の隅のアチコチに手彫りの彫刻品が所狭しと並んでいる。小屋全体はお世辞にも大きくて立派な小屋とは言い難く、どちらかと言えば平屋建ての平凡な山小屋である。しかし、室内はホンワカと家庭のような温かみががあり、何より主人の只木さんの人柄の良さがが登山客を引きつけているのであろう。只木さんは、東アルプス合衆国・大菩薩・笠取州・丸川峠村の村長さんでもあるらしい・・?。えー・・!!、東アルプス合衆国って何・・?次回、 「丸川峠賛歌」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.22

. 大菩薩峠・紀行(23) 「丸川荘」 .雪の丸川荘本日の泊まり宿は峠の山小屋・「丸川荘」である。玄関を入ると夫婦者らしい方が迎えてくれた。「どうぞお休み下さい。 どちらからかえ・・?」「はい、峠(大菩薩)からです。 今夜こちらで御厄介になろうとおもっております」「おお、そうかね。 それにしてもお早いお着きだね」暫くは主人らしい人と雑談に耽る。木彫りのコケシのことや、最近の登山者のマナー、登山者事情など興味深い話題もあり、大菩薩の雪質のことや、数年前の大雪の時は峠で1mもあったそうだ。飾ってある仏像や観音像なども手作りだそうで、その見事さにびっくり。名の知れた規模の大きい建物と違って、こちらはこじんまりとしたワンルーム形式の山小屋であった。時間のせいもあってお客は今のところ小生一人のようであった。山小屋の雰囲気とはいいもんである・・!!。丸川荘は東京オリンピックの2年後の年、昭和41年(1966年)に先代小屋番の渕井万吉の手によって建造され、その後二代目の小屋番である只木貞吉氏に引き継がれ、現在に至っている。先代小屋番は、創業当時に独学で「木彫り」を始め、数多くの作品を残したというが、二代目・只木貞吉も、先代から木彫りの技術を引き継ぎ、現在も意欲的に創作している。こちらの丸川荘の建物は近年改築されたらしく比較的新しい造りであるが、あくまでも山小屋らしい簡素な造りのようであった。今でも昔ながらのランプの明かりを使っていて、発電機のように騒音もなく夜は静寂そのもの。 動物たちの息遣いさえも聞こえてくるようだ。山小屋は山旅をする人の仮の宿であろう。 夜露を忍び、身体を横に出来て保温が保てればそれで良いのである。この丸川荘はご夫婦で営んでいるらしく、如何にも我が家といった感じで好感が持てる。親父さんの話では、下界の人とよく話をし、懇親を深めていて、今では独特のコケシ作りに精を出しているらしい。このご夫婦の人の良さに引かれて、常連の登山客も相当数いるという。山が好きで、山に来る人にとって山小屋とはかけがえのない「家」である。しかも、その中に景観溢れる自然美があり、人間味豊かなもてなしをを受ければ、当然そこには世俗の紛らわしさを超えた憩いの場所となり、忘れ得ぬ想いとなるはずである。特に単独行者にとっては、いかにも痛感するものである。次回も、「丸川荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.21

。 大菩薩峠・紀行(22) 「丸川峠の道」 .丸川峠からの分岐標識この丸川峠の特徴は五方向へ分岐しているところである。今通ってきた大菩薩嶺へのコース。 峠からミゾ沢左岸に沿って雲峰寺の裏手、裂石へ直接下るルート(丸川峠道)。北部の方向は二通りあって、寺尾峠から水源林道を経て鶏冠山(黒川山)や青梅街道・柳沢峠へ至るコース。 もう一方が牛首谷から泉水谷を経て三条新橋に至るルートと牛首谷へ降りないで直進し、大黒茂谷へ向かうルートである。この北方ルートは何れも東京都の水源地のエリアで、泉水谷の水源林事業に通うために拓かれた道でもあり、事業林一帯には監視、管理の為のルートが縦横に付けられているのである。 そのため登山者にとって、或る時はどれが登山道なのか惑うこともシバシバあるらしい。 それでも標識は充分に設置されていて、良く確認して行けば迷うことは無いとも言われる。丹波山村,小菅村は山梨県であるが,東京都による水源涵養林の指定がされている区域をもっている。 このため丹波山村には東京都の水源涵養林の管理事務所が設けられていて、山梨県といえど東京都の水源地として重要な役割を担っているのである。因みに、この地域である広大な丹波山村の総面積の7割は、水源涵養地としての東京都の所有地だという。次に、丸川峠は近代になって重要な交通の要所ともなっていた。周辺一帯が東京府民の水源地になっていることと相まって、水源地域が丹波山村、小菅村という山梨県の行政区域に属しているということである。従って、丸川峠を挟んで塩山、奥多摩の泉水谷間は同県内の地域の連絡通路であり、又、東京の水道管理者は山梨県への至近の通用路でもあった。この重要な道路ということで、明治期の東京府時代には泉水谷に事業経営を興し、この地点を経て塩山方面にロープウェイを通そうと試みたことがあったともいわれる。 その為に今日といえども唐松の造林事業など、樹林の整備、伐採などを行った跡形が僅かながら残っているのである。気が付けば、この丸川峠から麓の裂石、雲峰寺へはほんの一投足の4kmほどに過ぎないのである。丸川峠付近は、その名のごとくほとんど川のような窪地の隘路である。 笛吹川支流の上流の谷川が大きく曲流しているというところから、山の天辺の峠でありながら川の名前が付いているのも判るような気もする。この峠から富士山も遠く見られるが、飛竜山を眺めた景色は相当立派である。次回、 「丸川荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年)大菩薩峠紀行(1970年)丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.18

. 大菩薩峠・紀行(21) 「丸川峠」 .秋枯れの丸川峠と丸川荘さて、いくぶんかお腹を満たした後、身体があまり冷えないうちに大菩薩の頂上を降りることにした。本日の山行目的地は、大菩薩峠から頂上の嶺を経て丸川峠へ向かい、その後、奥多摩方面へ向かう予定である。丸川峠への道は、このピークから北へ向かうことになる。こちらは峠付近の賑わいは無く、特に今頃の時節は余り人も入っておらず、静かな山歩きが出来るはずである。樹海に囲まれた雪深く、しかも細い山道は初めて“山へ入って来たんだな・・!“ という実感が得られて満足である。頂上から僅かの間急な坂道を下るが、後はだらだらしたほぼ平坦な巻き道のような道中をを進む。コメツガの樹林帯と降り積った雪とのコントラストが何ともいい感じである。40分ほどで明るい原っぱが目に飛び込んできた。 原っぱといっても盆地のように窪んでいる穏やかな地形である。そこは丸川峠であり、その中心にこじんまりとした如何にも山小屋らしい雰囲気をもった建物が確認できた。 丸川峠は山並みの鞍部(コル;峰などの低い部分、底)を上がりきって下るという極端な地形ではなく、両側が開けた窪地で、高原状に開けた心地よい静寂境である。現在は雪に覆われているが、普段の峠付近はやや窪んだ高原地形に、夏には草花が一面に咲き乱れ、お花畑のように美しいところである。次回、 「丸川峠の道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.16

. 大菩薩峠・紀行(20) 「大菩薩嶺・山頂」 .大菩薩峠の山頂・嶺(晩秋と積雪期の二題)妙見の頭のピークを反れ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。暫くすると左側へ向かう分岐に達した。勝縁荘や富士見山荘へ至る近道コースであるが、今は雪に埋もっていて2、3の足跡を確認できるのみであった。更に10分程登ると「雷岩」という分岐に達した。雷岩というから巨大な岩が立ち塞ぐよにあるのかな、と思ったが尾根筋に岩が露出している程度であった。 それとも当時までは巨岩があって、落雷によって打ち砕かれ現在の姿になったのだろうか・・?。分岐は唐松尾根を経て、福ちゃん荘に至道であった。こちらは先程の富士見山荘の分岐と違って、充分に歩かれた踏み跡があった。介山荘からほぼ1時間といったところ。ここからは正面に富士山、手前に丹沢の山並み。 そして右に南アルプス、乗鞍、そしてそれらより近い位置に金峰山など見渡せる。その内、斜面が急になって樹林帯に入ってゆく。 尾根の吹き晒しの中の徒歩から、漸く風のない樹林帯に入ったと思ったら既にそこは頂上であった。介山荘から1時間半弱といった行程であった。狭い頂上スペースの一角に「大菩薩嶺・標高2057米」と、寂しげに標識がたっていた。「峠」は、余りにも有名になりすぎて俗化され、それに比べて、こちらの頂上は林に囲まれてヒッソリと地味であった。又、2000米を超える山岳地でありながら、この地まで登りきったという、あの独特の達成感、充実感、満足感が今一つ得られないのはどういうことか・・?。やや複雑な気持ちを抱きながら、とまれ、木立の下で休息を取る事にする。宿屋でしつらえてもらったオニギリを持参のコンロで暖かいスープを腹の中に押し込んで、どうやら人心地がついた。食事後のデザート・・?のミカンを齧っているとき、どこからともなく「チチチチ・・・」と小鳥が飛んで来て、しばらくこちらの様子を伺いながら、食事をしている直ぐそばまでやってきた。 しかも、二羽お揃いのカップルであった。小生の食べ物の内、ミカンをねだっているようなので、手のひらに載せて試してみたら、可愛いことに二羽とも手のひらの上で啄み(ついばむ)始めた。 その可愛いこと・・!! 。ご存知、大菩薩嶺は深田久弥氏による「日本百名山」の一座でもある。『 中里介山の「大菩薩峠」が出て、この峠はひどく有名になったが、私が初めて行った大正12年には、まだ訪ずれる人も稀で、五月の晴れた日曜にも拘わらず、全く登山者には出会わなかった。嘘のような話である。 ・・・ 私は雁ヶ腹摺山とか大菩薩とかいう名前に大変魅力を感じた。 ・・・ むかし甲州街道を何かの理由で憚った旅人は、この裏街道を採用した。その最高所大菩薩峠の上には妙見堂があって、そこに立つと甲州、武州方面の山岳重畳が見渡された。明治初年、青梅街道が丹波川に沿って付替えられてから、峠を越す人も少なくなり、道は荒れるにまかせたが、その廃道が再びハイキングコースとして復活し、現在の繁盛を見るようになった。今の大菩薩峠は、妙見堂のあった昔の峠より少し南に通じている。 ・・・ 大菩薩峠が大勢の人に親しまれるようになったのは、その名前の文学的魅力だけではない。初心者にとってまことに格好な山だからである。東京から日帰りできるし、いろいろ変化のある安全なコースが開かれているし、展望は素晴らしく雄大だし、それに二千米の空気を吸うことができる。峠から大菩薩嶺にかけて甲州側は明るいカヤトで、寝ころんで富士や南アルプスを眺めているのは、全くいい気持ちである。大菩薩嶺は峠から40分位で達せられる。この連嶺の最高峰である。「嶺」と言う寺は「とうげ」と読ばれて、以前は大菩薩嶺とは大菩薩峠を指す名称であったらしいが、今はその名は最高峰に移されて、ハイカーの間では略して「れい」と呼ばれている。地図もそうなっている。「甲斐国志」には大菩薩嶺(だいぼさつとうげ)とあって、その名の起こりを ・・・ 大菩薩峠の登山口に雲峰寺という古いお寺がある。本堂は入母屋造り桧皮(ひわだ)びきの美しい建物で、国宝に指定されている。天平17年(745年)行基菩薩が山中で修行しているうちに霊感があって、ここの一寺を建てたと伝えられている由緒あるお寺である。大菩薩という名はこの寺から由来したとも言われる。・・・ 』(抜粋)深田氏は大菩薩嶺を、以上の如く記している。次回、「丸川峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.15
。 大菩薩峠・紀行(19) 「続・妙見大菩薩」 .再び、妙見菩薩、妙見信仰のことであるが・・!妙見信仰は、古来、金の開発と結び付く信仰であったとする説もある。金は「きん」と呼ばず「かね」であって、黄金=金、白金=銀、赤金=銅、黒金=鉄、青金→鉛などと、これらの金属鉱山の開発、採掘などに妙見信仰と深く結びついていたことは良く知られている。その根拠は、天空の星は金属であると昔の人は考えていた節があり、そこに鉱山神としての星神信仰が発生したことは充分に考えられるのである。大菩薩嶺の北方に鶏冠山(黒川)が間近に聳えている。 この山は甲斐武田の金山稜として名高い。又、大菩薩嶺から南へ延々と続く尾根を小金沢連嶺と称し、この小金は黄金か或は小鉄か定かではないが、いずれにしても金属が出たことには相違ないであろう。これらの金、及び金属の類を甲斐武田の財政を賄うために武田の陣屋へ大菩薩峠を越えて運ばれていったことは当然であり、そのための峠に旅人や大切な資源を守る為に妙見社が祭られたことも尤もな事である。大菩薩峠の北に妙見の頭(妙見社)があることは、大菩薩嶺は実は妙見菩薩の山であるといえなくもない。甲斐の守護神・武田神社の宝物殿には、「赤い軍扇に金の七星」、つまり北辰妙見信仰の象徴が飾られているという。 甲斐の覇王・信玄の父君である武田信虎は熱心な妙見信者であったのである。更に、黒川金山の採鉱については武田信虎時代からと伝えられている。このことは黒川金山を守護する為に甲斐の覇者・武田信虎が、金山近くの主要通路である大菩薩峠に妙見社を建立し祭らせ、更に、金山関係者や地元民に妙見信仰を広め金山の隆盛を図ったのであろう。黒川金山は、とくに武田信玄時代が最盛期であったという。だが、当の信玄本人は仏の人で、仏門に帰依して信玄(元は晴信)と名乗っている。信玄自身は、武門のならいで毘沙門天、不動明王を厚く信仰し、そして神威を借りたのは諏訪明神であった。従って、信玄自身が妙見菩薩を信仰した形跡は無いようで、以降は甲斐の地に妙見信仰が広がることはなく、金山が衰退するにしたがって妙見信仰も途絶えてしまったのかもしれない。序ながら、妙見信仰について 北極星や北斗七星を神格化して祭ったもの、それが妙見信仰である。 平安時代には民間で信仰が盛んになり、貴族の間でも修法が盛んに行われ、その後も中世には武士の軍神として、近世には商家や町人に諸願成就の仏様として信仰を集めたとされる。 妙見信仰は北辰妙見と言わることもあり、北辰の名は千葉周作、坂本竜馬の「北辰一刀流」などでも親しまれているのは周知である。 平安京の始祖・桓武天皇が妙見信仰を深く拝したことは先に述べた。中世、関東房総の名族として名高い千葉氏は桓武天皇の子孫で、千葉介常重は平安後期には下総国千葉庄(現在の千葉市)を本拠地として武士団を形成している。 常重の子・常胤は、相模の「石橋山の戦い」で敗れた源頼朝が安房に逃れてくると、これを助け、源平や奥州の合戦の勝利に貢献し、その功績で下総国・上総国をはじめ現在の宮城、福島、茨城、山梨、愛知、岐阜、佐賀、鹿児島など全国20数ヶ所にわたる広大な所領を獲得し、併せて「妙見信仰」を広めたという。この千葉市の流れを汲む福島の相馬氏も妙見信仰の一族で、有名な「相馬野馬追い」(国の重要無形民俗文化財)は妙見社より発祥した神事で、現在に至るまで祭事として行われていることは周知である。次回、「大菩薩嶺・山頂」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.14

. 大菩薩峠・紀行(18) 「妙見大菩薩」 .ナイスイラスト・・!「とよだ時・山岳ゆーもあ画」(http://toki.moo.jp/)より、寸刻拝借しました。大菩薩峠の上部にはには妙見ノ頭、妙見岩という岩峰がある。そこには克って妙見社(妙見宮、妙見菩薩)と言うのが二社が祀られていたとされる。何時ごろからは定かでないが、一社は小菅村において鎮座のもの、もう一社は萩原村(塩山市)が設けて鎮座させたものといわれる。これによって「大菩薩峠」という名称が付けられたとも言われる。尤も、大菩薩の名前については諸説あり、平安後期の源新羅三郎義光に因む八幡大菩薩説、それに塩山市上萩原に祭られる観音菩薩説(現在の神部神社に相当・・?;裂石より凡そ3km下部に鎮座していて、神仏混交時代・十一面観音菩薩が祀られていた。境内には岩間温泉が湧いている)、もう一つは妙見菩薩が峠の一角に奉られたことによるとされている。江戸時代の地誌『甲斐国志』に出てくる妙見菩薩に関する文献がある。『甲斐国誌』によれば、『峠ニ明見大菩薩社アリ』とあり、又、『小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。 萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ』、と、両方の文ともに妙見菩薩を祭る社が大菩薩峠(旧峠)に二社あったと記されている。それでは、一体「妙見菩薩」とは如何なる仏神なのであろうか・・?妙見とは、「妙見大菩薩」の事で、妙見大菩薩とは密教の仏様で北斗七星(北極星)を象徴とした天空の中心をつかさどる仏様の「妙見さん」として古くから信仰されてきたという。そして、国内においては「妙見大菩薩の信仰を妙見信仰」ともいう。つまり「妙見」という言葉そのものが「仏典」を根拠とする「仏教用語」であり、各地に「妙見」という地名があり、これらは妙見信仰が盛んであったことに由来しているという。その妙見信仰を理論的に説いたのが真言宗の祖、弘法大師・空海だとされる説もある。「妙見菩薩」は中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、通常は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ「天部」(天界に住む神々、十二天・天文神の総称)に分類されているという。古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされ、これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになったと言われる。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということで、真意は「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」ということにある。妙見菩薩が日本に登場するのは渡来人によるもので、仏教伝来とほぼ同時期と考えられている。 因みに、平安京を開いた桓武天皇も妙見信仰を崇拝していたとされ、それだけ重要だった妙見信仰が朝廷周囲、朝廷を取巻く貴族、朝廷を守る武士団にも影響があったことは充分想像される。そして、妙見信仰と板東武者の結びつきも深いものが有るとされている。中世においては千葉氏や九戸氏(南部藩)が妙見菩薩を一族の守り神としており、千葉氏の氏神とされる千葉市にある千葉神社では今日でも妙見菩薩を祀っている。尚、奥州・九戸氏は南部氏の祖・源光行(南部光行)の子で、甲斐源氏の出身であり、南部の姓は甲斐の国から始まったものである。序ながら、大菩薩の名前が生まれたのは、源義家の弟・源新羅三郎義光が、奥州遠征の折に「南無八幡大菩薩」を唱えたことからその名前が付いたと伝承されている。新羅三郎義光(源義光)は平安時代後期の武将で、甲斐源氏の祖といわれるが、彼自身、甲斐の国には直接関わりは無く、歴史的には義光の子である源義清(武田冠者)とその子清光が常陸国那珂郡武田郷に土着して武田氏を称し、その清光ガ常陸より甲斐に進出してきたことにより甲斐の祖となったのである。新羅という名は義光が元服する際、大津の園城寺(三井寺)の新羅明神堂の前で行ったことで新羅義光と自ら名乗ったとされている。源義光、そして孫の甲斐武田の祖・源清光が妙見信仰を拝していたかどうかは定かでない。更に、義光が奥州遠征の際、如何なる理由で甲州・武州の大嶺(大菩薩)を越えたのかは不明である。だが、伝承というものは“人づてに聞くこと”、“言い伝え聞くこと”なので、それなりの要因はあったのだろう・・?。次回、「続・妙見大菩薩」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.13

. 大菩薩峠・紀行(17) 「賽の河原」 .写真:賽の河原と非難小屋介山記念碑から少々上ったところは、サッパリと稜線が開けたところである。避難小屋であろうか・・?、目的不明の山小屋が左手にヒッソリと立っている。丸太で造られた小屋は吹きさらしの中に立っていて、いかにも寂しげであった。この辺りは「サイの河原」(賽の河原)と称するらしく、小さな石積みが数個見られる。「サイの河原」とは、一般には死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の途中、つまり三途の川の河原のことで、普通、荒涼たる風景が広がっているところである。ただ、当節は雪で覆われていて面影は覗えない。「賽の河原」について民間信仰の間では、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされている。 そのような子供たちが、賽の河原で自らと親の供養のために積み石(ケルン)による塔を立てて供養すると言う。 しかし、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信もある。 そのことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」、「徒労」の意でも使用されるともいう。しかし、その子供たちは最終的には「地蔵菩薩」によって救済されるとされる。小説・「大菩薩峠」で中里介山は、実際この大菩薩峠をイメージして書いたのだろう。『 どうじゃ与ハ、恐ろしいことではないか。頑是(がんぜ)ない子供がやっと積み上けた小石の塔を、鉄の棒を持った鬼が出て来て、みんな突きくずすのじゃ。なあ、これを他人事(ひとごと)と思ってはいけないぞ、追善作善(ついぜんさぜん:先祖や死者に対する供養)のつとめというをせぬ者には、みんな鬼が出て来るじゃ、何をしてもみな成り立たないで、みんなくずれ出すのじゃ。よいか、他人事と思ってはいけないぞ 』賽の河原で思い起こすところは、北八ヶ岳の白駒の池から稜線の高見石を経て渋の湯へ至る途中、高見石からの西側斜面が広大な礫石群に覆われていて、この一角を賽の河原の称している。高見石から渋の湯までの道は岩、岩、岩の道で、炎天下の賽の河原をピョンピョンと下らなければならず、足に痛みが走ったのを昨日のように覚えている。賽の河原辺りが、実際の「大菩薩峠」があったとされている。 その上部に「妙見の岩」という岩峰があり、現存しているかどうか定かでないが、妙見社(妙見宮、妙見菩薩)と言う社が二社が祀られていたとされる。一社は小菅村鎮座のもの、もう一社は萩原村(塩山市)が設けて鎮座させたものといわれる。妙見菩薩は、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩とされ、民間に広く信仰せれた一つで、国土を擁護し災害を滅除し、人の福寿を増すといわれる。妙見菩薩は、峠越えで難渋している往来する旅人を見守っていたのかもしれない。そして、中里介山は小説・「大菩薩峠」の中で・・、『 妙見の社の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります 』と記している。次回、「妙見大菩薩」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.10

. 大菩薩峠・紀行(16) 「五百円紙幣」 .今までの樹林帯の道と違って、今度は見通しよい尾根道である。晴天のこの日、周囲の大展望を満喫しながら前進するが、時折の強風にはいささか往生する。振り返ると正面に丸みを帯びた巨大な山容の熊沢山がデーンといきり立っている。熊沢山の向うが石丸峠、峠の向うが小金沢連峰の山並みが美しく波を打っている筈である。その後方に見える富士の姿は格別で、一段のその雄大さを誇っている。そういえば発行されたばかりの「500円札」(1969年;昭和44年発行)の裏面の富士の姿は大菩薩からの見た写真であった。大菩薩峠の南側の山稜には小金沢連峰が延びているが、その北から順に牛奥雁ガ腹摺山、雁ガ腹摺山、笹子雁ガ腹摺山と、「雁ガ腹摺」という特異な名を冠する山が三つある。 何れも「旧五百円」の紙幣裏面に富士山の図柄とともに描かれていることは特に有名で、知る人ぞ知るであろう。つまり、紙幣に使われるだけの価値のある景観を持つ山並みなのである。紙幣の表側の肖像は明治の元勲・岩倉具視であり、裏側が富士山の絵柄で原画は大月市の雁ヶ腹摺山山頂から撮影された写真とされている。尚、現在は五百円紙幣は発行されておらず、代わりに五百円硬貨が発行されているのは周知である。写真、旧500円紙幣の表裏の図柄今では貴重になった日本銀行券「五百円札」(72×159mm)の裏と表富士山の雄姿を、雁ガ腹摺三山が引き立てている。表の肖像:岩倉具視、発行開始日:昭和44年(1969年)11月1日支払停止日:平成6年(1994年)4月1日次回、 「賽の河原」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.09

. 大菩薩峠・紀行(14) 「小説・大菩薩峠」 .本・「大菩薩峠」そして、大菩薩峠といえば中里介山の長編時代小説・「大菩薩峠」が有名である。小説「大菩薩峠」は世界最長を目指し、江戸期の幕末を舞台に書かれた時代小説で、中里介山が大正2年から昭和16年までの約30年にわたり数種の新聞に連載され、昭和19年4月28日の作者の死によって未完の長編小説の傑作巨篇と言われている。幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州・大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わったとされる。世界最長を目指して執筆された時代小説で、作者自身は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。因みに、現在の世界最長小説はヘンリー・ダーガー作の『非現実の王国で』だそうで、最長時代小説は山岡荘八作の『徳川家康』(小生、若年のころ読破済み)である小説『大菩薩峠』は、武州、甲州に跨る大菩薩峠のことを以下のような書き出しで始まる。『 大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里に跨がる難所がそれです。 標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂きに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた。 それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いづれも流れの末永く人を湿ほし田を実らすと申し伝えられてあります。 江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和へ出る、これがいわゆる甲斐裏街道、(旧青梅街道)であります。 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、下って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上り煩う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上は今新緑の中に桜の花が真盛りです。 』と介山は、大菩薩峠のことを概略、以上の如く書き出しで説明している。そして、その後の物語の概略文言は以下のように始まっている。『 時は幕末(安政5年)、その大菩薩峠で一人の老巡礼が武士・机竜之助に問答無用の不意打ちで斬殺される。 老巡礼の孫娘お松は、通りがかった盗賊裏宿の七兵衛に助けられ、養育される。竜之助は、峠のふもとの武州沢井村の沢井道場の若師範であった。甲源一刀流の師範宇津木文之丞は御岳神社の奉納試合で竜之助と立ち会うことになっていたが、その内縁の妻お浜は妹と偽って竜之助を訪ね、試合に負けてくれと懇願する。竜之助は拒絶し・・・、 』 と始まる。小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた標高2000m近い山奥を歩かなければならなかったのか・・?、江戸期に甲州街道が開かれてからも、実際、多くの人々はこの大菩薩峠を越えていたのである。ここは別名・甲州裏街道といわれ、人物往来の副幹線道路だったのであり、従って、そこを机龍之介や旅人が歩いていても不自然ではないのである。尚、小説・大菩薩峠の主人公・机龍之助のモデルは「北一輝」だという説がある。中里介山は、北一輝(戦前の日本の思想家・社会運動家。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。二・二六事件の理論的首謀者とされ、処刑された)が「二・二六事件」の首領として代々木原で処刑された直後に、「北一輝の判決を聞く」という詩を詠み感化されたというが・・?、両人は並々ならぬ交流があったともいわれる。介山は大菩薩登山道脇にたたずむ勝縁荘の傍らに「三界庵」という庵を建ててしばし逗留し、執筆したともいわれている。次回、 「中里介山」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.07
. 大菩薩峠・紀行(13) 「旧青梅街道」 . 1603年(慶長8年)、江戸城築城のために青梅(成木)で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備されたといわれる。 当時の名称は青梅街道、又の名を成木街道と称していた。更に、現在の青梅街道に対して旧青梅街道と称し、またの名を甲州裏街道とも呼んだ。江戸時代中頃には絵図や紀行文などには、既に「青梅街道」との記述されているという。この街道で、甲州から武州青梅に抜けて江戸に至るのに最大の難所とされたのが大菩薩峠であった。 内藤新宿(現在の新宿)で甲州街道から分かれ、武州青梅、大菩薩峠を経由して塩山、甲府へいたる道で、再び甲州街道合流するので「甲州裏街道」とも呼ばれた。江戸より八王子、大月、笹子峠を越える甲州街道(概ね、現在の国道20号線)より二里短く関所も無いため、庶民の旅客にも多く利用された。 但し、塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在したという。尤も、理由あって正当には関所を越えられなかった人々が人目を避けて歩いたルートだったともいわれる。そのため「裏甲州街道」とも呼ばれたとか。大菩薩を訪ねる人は、過去の旅人がどんな思いでこの峠を越えたのか、空想を巡らしながら歩くのもよいかも。とにかく、車道(馬車、牛車)を通すことを断念するほどの難所で、時期や気象条件によっては遭難者も多く出たともいわれる。その後、1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。旧青梅街道の大菩薩峠を越えるルートは、現在は登山ルートにもなっていて登山地図でも確認できる。実際の順路は、奥多摩、丹波山村の丹波部落(たばぶらく)から大菩薩の山中に入り、越ダワ、この辺りから現在の登山道でもある追分、サカリ山を右に見ながらノーメダワ、フルコンパ(一昔まで小屋があったらしい)、そして難路ようやく大菩薩峠に到る。峠の直下には「荷渡し場跡」というのがあるらしい。荷渡し場の標識には『 萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた 』と記されている。『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところだろうか・・?、尚、旧青梅街道には更に脇道もあって、小菅村の小菅部落から小菅川の南側の川久保、大マテイ山を正面に見ながら棚倉、そして「牛ノ寝通り」という長い尾根道を登って、大菩薩峠から30分ほど南東へ下った「石丸峠」を越えていた。次回、「小説・大菩薩峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.06

. 大菩薩峠・紀行(11) 「富士見山荘」 .人気の無い山小屋らしい雰囲気の「富士見山荘」朽ちかけている富士見展望台富士見平から見た富士山又、富士見山荘は勝縁荘とは異なって、さっぱりと開けたところに建っていた。このあたり「富士見平」とも言うらしい。昔使っていたのだろうか・・?、玄関横の壁に荷車の車輪が飾ってあり、その上の屋根には薪ストーブ用の懐かしい煙突が立っていた。それがいかにもマッチしていて、建物はいかにも山小屋らしい素朴を滲ませている。小屋横には見晴らしようの縁台が設えてあり、確かに秀麗な富士の姿が遠望できる。山小屋前の道路横に車が駐車しているが、小屋の関係者か又は登山者が駐車しているのか定かでないが、両小屋共人の気配が全く無く森閑としていた。両小屋の前にはジープが止まっているが、歩き難かった轍(わだち)は、この車のせいであった・・?。 物資輸送用・・?の車であることは判るが、それにしてもこんな山の中まで車が入ってくる必要があるのか・・?。生きた自然に接するための諸行として、自らの足で山に入る我々にとって、ここで、こんなところまで機械文明の利器を見せ付けられるとは、或は、文明の利器がここまで入り込めるような道路が必要なのかどうか・・?。はなはだ落ち着かない不自然さを感じ、又、疑問の一つも生じたくなるのである。現在、「勝縁荘」、「富士見山荘」は現在営業はしておらず、廃家になっていて、朽ちるのを待つばかりとなっている。 勝縁荘の家の前には益田勝俊氏の顕彰碑が立つ。尚、富士見山荘は、NHKの連続テレビ小説・「ゲゲゲの女房」(2010年04月~2010年09月 毎朝)で、村井一家(水木しげる)が富士山の見える別荘として購入したロケ地でもあった。次回、「大菩薩峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」※当方、事情で写真は所有してないため、情景によっては所々に個人、公的機関等の 許諾不要と思われる無料のフリー写真または素材を使用させて頂いております。 もし、問題が発生しそうな場合は直ちに削除いたします。連絡は「fc2ブログ」のコメント欄へお願いします。※.
2012.02.01

. 大菩薩峠・紀行(10) 「勝縁荘」 .別荘のような勝縁荘福ちゃん荘からそのまま林道沿いを進むことになる。高度が増すに従って雪の量も多くなり、特に日陰の部分はクラフト状になっていて歩きにくい。 おまけに車のタイヤの跡が生々しく付いていて、歩行の妨げとなっている。ヒトッキリ歩いた後、今度は勝縁荘、更に富士見山荘という山小屋があった。 更に、この上の峠にある有名な介山荘もあり、いやはや山小屋の多い山地である。勝縁荘は林にかこまれて未だひっそりとしている。 見たところ、山小屋とは一風変わった山荘というか別荘のような建物で、玄関間口のついた洒落た本格建築な造りである。勝縁荘は昭和初期のものといわれ、中山介山もこの山荘で執筆したという。勝縁荘主人は、現在の介山荘の主人の祖父に当たる方で、(益田勝俊氏)地元出身の樋口一葉の研究家でもあったらしい。 「日本百名山」を著した深田久弥氏は、大菩薩嶺のところで次のように記している。『大菩薩峠の名が文学に現れたのは、中里介山より遥か以前に樋口一葉がある。 その「ゆく雲」の中に、「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて・・」とある。 一葉の両親は峠の下の萩原村の農家出身で若い時東京へ出た。 そして一葉が東京で生まれたが、おそらく両親から土地の風景を聞かされていたのだろう』さらに深田久弥氏が大菩薩を訪れたとき、この勝縁荘に泊まっていた。 そして、次のように記していた。『ある秋のさ中に、私は数十年ぶりで大菩薩岳を訪れた。 土曜の晩、山小屋勝縁荘に泊まって、山荘のあるじ益田勝俊さんから、いろいろ面白い話しを聞いて、夜の更けるのも忘れた。 あくる日曜、あさ表へ出ておどろいた。 蜿蜒たるハイカーの行列が登ってくるではないか。 大かたはズック靴に小リュックという軽装で、中にはレーン・コートに短靴・手提げというのも混じっている』大菩薩周辺において、大正から昭和にかけて日本の古きよき時代の文化人が登場するに及んで、歴史を彷彿させるものがあるが、この先、更に大菩薩に関して歴史的に興味深い事柄が登場してくるので、是非ご期待戴きたい。次回、 「富士見山荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.01.31

. 大菩薩峠・紀行(9) 「福ちゃん荘」 .福ちゃん荘福ちゃん荘前の分岐標示上日川峠から、のんびりと15分もあるくと、間もなく「福ちゃん荘」という、これまた大きな山小屋があった。この福ちゃん荘は昨年(1969年)に大事件を起こした地として、極めて記憶に新しい。【 赤軍派(1970年安保闘争を目前にした共産主義者同盟の最左翼連合)などの活動が活発な頃、武装訓練と称して大菩薩峠周辺の山中で行うべく、山梨県塩山市(現在の甲州市)の山小屋の『福ちゃん荘』に潜伏していた。この地に、1969年11月5日早朝、警視庁と山梨県警合同の警察部隊が突入、その場に居た53名のメンバーが凶器準備集合罪で現行犯逮捕され、武器なども押収された事件である。彼らは「11月闘争」と称して刃物、鉄パイプ爆弾、火炎瓶等の凶器で武装し、8つの部隊が大型ダンプカー等5台の車に分乗して首相官邸及び警視庁を襲撃し、人質をとって獄中の活動家等を奪還するという作戦を企てていた。彼らの中には幹部らの甘言により何も知らされずに動員された高校生なども多かったという。事後の捜査によって重要メンバーの多くが逮捕され、赤軍派は大打撃を受けた。しかしこれ以降、弱体化したとはいえ赤軍派は日本共産党(革命左派)の神奈川県委員会(通称、京浜安保共闘)と統合した連合赤軍を形成し、日航機「よど号」のハイジャック事件(1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件)や山岳ベースを拠点にした「あさま山荘事件」(1972年2月19日に始まる、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が起こした事件)へと突き進むことになる。世間に強烈なインパクトを与えた一連の連合赤軍事件は、この場所(福ちゃん荘)がルーツで、一般にこの事件のことを「大菩薩峠事件」とも呼ばれている。 】「福ちゃん荘」は大菩薩峠からはやや離れた麓に位置しているが、いまは何事もなかったかのようにヒッソリと静まり返っていた。福ちゃん荘の前からは二つの分岐があって、左手は直接大菩薩嶺へ向かい、一方の林道を直進すると「大菩薩峠」へ向かうことになる。無論、小生はお目当ての「峠」に向かうことになる。」次回、「大菩薩峠」祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.01.30

. 大菩薩峠・紀行(8) 「上日川峠」 .上日川峠;上の道が大菩薩峠へ上日川峠に建つ、現在の「ロッジ長兵衛」久しぶりの単独行であるが別に何のことはなく、マイペースで歩けて実に快調である。直ぐに、みそぎ沢の手前から丸川峠への分岐道現れた。丸川峠は大菩薩嶺の西側に連なる尾根を越す峠で、奥多摩へ到る丸川道ともいって、本日小生が訪れる予定の峠で山小屋の丸川荘がある。しばらく林道づたいに進むが、やがて林道と別れて立派な千石橋を渡ると、いよいよ本格的な山道となる。勾配も急になってきて、山歩きらしい雰囲気になってきた。ただ、日蔭部分は雪が残っていて、更に、路面はアイスバーンになってきた。滑りやすいので、急な斜面はピッケルで足場を作り、バランスを取りながらの前進である。振り仰ぐと南アルプスの稜線が朝日に輝いている。 甲斐駒ケ岳と鋸岳のギザギザ稜線、白峰三山の秀麗な曲線、特に北岳の正面に当るバットレスの岩壁が縞模様に覗える。程なくして「上日川峠」についた。 この地は塩山、裂石からきた道と向こう側の田野、初鹿野へ通じる道の峠になっている。又、砥山峠から大菩薩峠へ延びる林道も拓かれていて、十字路の峠になっているユニークな峠でもある。 因みに、日川道の砥山峠の南部先端には下日川峠がある。そしてこの峠には長兵衛山荘という大きな山小屋があった。 小屋の前には椅子やテーブルがたくさん置いてあって、既に開店準備といったところである。その昔、長兵衛という者がいて、この辺りを根城に峠を越える旅人に対して金銭衣類を掠め取った山賊稼業をしていたという噂を聞いた。一方、ロッジ長兵衛の長兵衛とは、安政の頃、この峠に棲んでいた山に暮らす住所不定の山の民のことだともいわれる。 この長兵衛さん、何かとよからぬことをしたとかしないとか、ともあれ山族の名前から山小屋の名前が付いたというのは以外であった。 一息入れた後に、次に目的である大菩薩峠へ向かう。 ここから延びる林道もあるが、平行して山道も付いているので当然ながらこちらを歩むことになる。次回、「福ちゃん荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.01.27

. 大菩薩峠・紀行(7) 「甲斐の覇王・武田家滅亡の地」 .武田家一族を祀る景徳院の山門(wiki)武田勝頼と一族の墓稜(wiki)序ながら、雲峰寺前の林道はこのまま上日川峠を越えて、日川沿いに初鹿野に達している。 その手前に大和村・田野地区があり、この地に天童山景徳院という古刹がある。大和村は武田家滅亡の地として知られ、この寺院には武田家最後の当主・武田勝頼とその一族が祀られている。信玄亡き後、嫡子勝頼は織田信長との「長篠の戦い」で散々に敗退する。合戦以降、仇敵・信長との関係は小康状態が続いていた。勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)より強固な韮崎の地に新府城(韮崎市)を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。そして、遂に天正10年(1583年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲斐侵攻が始まる。武田軍は次々と城を落とされ、終に、甲斐国国主武田勝頼は新府城をも捨てて、家臣の郡内領主小山田信茂を頼り落ちのびるが、更に、信茂の謀反に遭い逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首されたという。この後、織田信長が本能寺にて横死すると甲斐の国は国主不在の状態となった。甲斐は最終的に徳川家康が領するが、家康は同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院・景徳院を創建している。家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、それは国主不在となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。尚、田野・景徳院の上流に天目山棲雲寺がある。この寺院も武田氏所縁の寺で、室町期(1417年)、上杉禅秀の乱(室町時代、関東地方で起こった戦乱で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)に加担したとして、室町幕府の討伐を受けた甲斐守・護武田信満(甲斐武田氏の第13代当主)がこの山中で自害したとされる。信満の遺骸はこの寺に運ばれて葬られたとされ、棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。武田信玄も軍旗・軍配・陣中鏡を同寺に奉納したと伝えられている。追い詰められた勝頼一行は、一縷の望みを掛けて武田氏ゆかりの地である、この天目山棲雲寺を目指したのであった。甲斐大和、国道20号線の入口には、「武田家終焉の地・甲斐大和」と大きな看板が立つ。元より、塩山地域には古寺が多い。雲峰寺をはじめ鎌倉時代後期には、鎌倉から夢窓疎石を招いて建立した恵林寺や抜隊得勝(ばっすいとくしょう;南北朝時代の高層)が建立した向獄寺、更に慈雲寺、放光寺など古刹、名刹があり、何れも武田家所縁の寺院で多くの著名禅僧が入国し、甲斐国における臨済禅の中心地となったとされる。次回、「上日川峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.01.26

.「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ> 大菩薩峠・紀行(6) 「続・雲峰寺」 .写真;国の重文:雲峰寺本堂裂石の古刹・雲峰寺は公道に面していて、参道より200段近い高い石段を上ると本堂、書院、庫裏などが建つ。室町期(戦国期)に武田信虎によって再建され、武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財に指定されている。山号は「裂石山雲峰寺」で、開創は天平17年(745)というから奈良朝時代でありかなり古い。日本の歴史上初めて朝廷から僧としては最高位の大僧正の位を授かった「行基」(668~749年)が成したといわれている。寺の縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れたとき霊雲が烈しい光を帯びて当山の上にまたたき、山や谷を大いに震わせた。そして、山中にある高さ15メートル余りの大石がにわかに真二つとなり、巨大な石の裂け目からは萩の大樹が生え、さらには石の上に燦然と十一面観音が出現したといわれている。それを目の当たりにした行基はその萩の木を崇高な心で切取り、十一面観音像を彫って一庵(雲峰寺)に奉祀しを開基したと伝えられている。裂石や萩原、そして大菩薩という地名の由来はこの名刹からうまれたともいわれる。甲斐国の府中からみて鬼門にあたるこの寺は、平安後期、甲斐の国を支配するようになった武田氏によって、武運長久の祈願寺として深く崇敬され、禅宗へと転じることとなる。室町末期の天文年間に入ると火災によって諸堂すべてを消失しましたが、その再興に向けては武田信虎(武田信玄の父)が印判状(押印、認印;現存している)を与えて励ましたという。又、永禄元年(1558)には武田信玄が武運長久を祈願する文書を納め、再建を果たしている。 現在の本堂、庫裏、書院、仁王門はこの時期の建立と考えられ、何れも国宝に指定されている。 武田家の家宝もあった日本最古の「日の丸の旗」が残るといい、後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後甲斐武田氏に伝わったものとされている。また、この寺には天正10年(1582)武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた「孫子の旗」(有名な風林火山の旗)六旗をはじめ、信玄の護身旗である「諏訪明神旗」、そして「馬印旗」といった武田軍の軍旗が所蔵されているとのこと。 天正十年(1582)には武田勝頼が一族とともに天目山麓の織田信長との合戦に敗れ自刃し、甲斐の名門・武田家は滅亡する。その折、家臣たちが再興を期して武田家の重宝をひそかに当山へ納めたといわれている。後令泉天皇から清和源氏の源頼義(陸奥守・鎮守府将軍;平安後期、前九年の役で奥州の安倍氏と戦う)へ下賜された武田家家督相続の証である日本最古の日の丸の御旗や風林火山の孫子の旗など、武田家代々の戦勝祈願の寺としてさまざまな宝物がこの寺に託されたという。 次回、「武田家滅亡の地」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.01.25

.「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」(スティーブンソン)大菩薩峠・紀行(5) 「雲峰寺」 .雲峰寺の山門へ続く参道石段民宿・松葉荘の明けの朝、朝日が窓から差し込んできて、余りの明るさに目が覚めた。窓を開けると、先ず山間の清冽な空気に触れる。 山並みが朝日の映えて鮮やかである。正面やや右手の山間に大きなお堂が見えている。 「雲峰寺」(うんぼうじ)と言うらしい。上空は真っ青で、一点の雲もなく、今日一日の好天を約束してくれている。ハヤル気持ちで朝食もソコソコに、早々に出立する。左手に雲峰寺の参道階段が上方に延びている。何でも、武田信玄ゆかりの寺院らしく、帰りがけ時間があれば是非立寄りたい。この「雲峰寺」というお寺はただの田舎の寺院ではなく、かなりの由緒があるらしい。歴史的にも奈良の高層・行基が開祖し、1200年以上の年代を経ているという。 しかも甲州・武田家にも所縁があり、そして何より中里介山がこの寺に滞在して名作「大菩薩峠」を執筆したことでも知られている。 更に、小生・田舎の檀家寺と当の雲峰寺は本山が同一の京都・臨済宗妙心寺に属しているのである。こんな訳で古刹・雲峰寺について、チョッと述べたい。参道より200段近い高い石段を上ると本堂、書院、庫裏が建つ。室町期(戦国期)に武田信虎によって再建され、武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財に指定されている。山号は「裂石山雲峰寺」で、開創は天平17年(745)というから奈良朝時代でありかなり古い。日本の歴史上初めて朝廷から僧としては最高位の大僧正の位を授かった「行基」(668~749年)が成したといわれている。次回、更に「雲峰寺」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.01.24

.「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン) 大菩薩峠・紀行(4) 「山の宿」 .民宿。松葉荘一杯機嫌で夜の新宿駅を発ち、中央本線の「塩山駅」へ着いたのが夜中の11時半も回っていた。降るような星空の下、駅周辺をブラついて宿屋らしきものを物色したが、結局、見つからなかった。駅前で最終列車の客待ちをしていたタクシーを見つけて、「すいません、 明日、大菩薩へ登る予定で宿を探しているんですけど、どうしても見つからないで、何とかなりませんか・・?」「ホウ、大菩薩ネ・・、駅の周りじゃなかんべ・・!、 チョット待って、裂石辺りを当って見るべ」気さくな運ちゃんは駅前の公衆電話で、心当たりの宿屋を当っているようである。ニコニコしながら戻ってきて、「ワダシの知り合いの宿屋が承知してくれたよ、 サア、乗ンなせ」「裂石は大菩薩の登山基地ですよね、丁度、良かったです。 因みに距離的にはどのぐらいありますかね・・?」「そうよな、10キロ位じゃなかろうかね」塩山の駅を発って、小さな町並みを過ぎると、たちまち山間に入ってきた。月明かりに照らされて、山並みがかろうじて覗える。「運転手さん、ぼんやりと山並みが見えているけど、大菩薩はどの辺りですかね・・?」「おう、あの正面に見えているのがそうだよ。 そうよな、裂石からだといろんなコースがあるようだが、峠まで2時間半、頂上の大菩薩嶺までは3時間もみたらいいんじゃないかの」話好きな運ちゃんと世間話をしながら、たちまち目的地に着いた。「こちらの宿屋だよ」 といって、案内されたのは程よく道路に面している宿であった。安くない余計なお宝を運ちゃんに払い、改めて礼をいって別れた。宿の玄関を叩く。宿屋は「民宿・松葉荘」といって、都合の良いことに登山道(林道)に沿って建っていた。既に前もって連絡がついていたので、真夜中(夜中の零時)というのに宿の主人であろうお上さんがニコニコ顔で迎えてくれた。部屋に案内されながら、「明日の朝食はどうしましょうか・・?、6時からやっておりますが 」「そうですか、是非お願いします」次回、「雲峰寺」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.01.21
.「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン) 大菩薩峠・紀行(3) 「出発;新宿・のんべ横丁」 .山歩きを始めた頃,500円札の絵柄にもなった大菩薩嶺に登りたいと思っていた。そして、中里介山の長編時代小説・机龍之介の[大菩薩峠]はあまりにも有名であるのもその理由の一つかもしれない。 しかし、小説は読んだことがない。その大菩薩へ向かったのは、定刻までの仕事を終えてからであった。多少時間があるので、新宿西口駅裏のお馴染みの薄汚れた食堂街で軽く一杯と夕食を摂った。因みに、駅裏の食堂街というのは、新宿西口駅裏のバラックのような小さなカウンターバー形式の飲食街・・?で、破れた赤提灯が並ぶ「のんべ横丁」である。 別名を、「ゴキブリ横丁」だの「ションベン横丁」だのと、いろいろ異名のあるところであるが、「思い出横丁」というのが、取り敢えずの本名らしい。 とにかく財布の軽い呑み助の溜まり場である。新宿というと歌舞伎町、四・二丁目、ゴールデン街と遊び所は多々あるが、ポケットが軽い身分の小生などは新宿へ遊びに行って用を済ました後は、概ね、こちらの西口駅裏あたりで一杯やるのが気兼ねが無くて気分が楽なのである。「ちあきなおみ」の唄に、♪♪・・・新宿駅裏 「紅とんぼ」想いだしてね 時々は・・♪♪、・・というのがあったが、まるでその歌そのままのような世界が、新宿西口の駅裏には今でも存在しているのである。 次回、「塩山」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
2012.01.20
.「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン) 大菩薩峠・紀行(2) 「峠の概念」(2) .『 人が旅をして越し方と行く末の中道に立ち、越し方を懐かしみ行く末を祈るため手向けし、祈願する。その邂逅は、縹渺たる旅情である。 山が有り上が有り下が有る。 その中間 に立つ地点を「峠」という。そこは、煩悩と菩提の境であり、不化衆生の聖賢の位置である。 そして、正しく天上と地獄の人間の立場である。 人生は旅であり、旅は無限である。 峠というのが有って、そこに回顧があり低徊(思案に耽りつつ行ったり戻ったりすること)があり、中心があり、要軸がある。 峠に立って、人生は始めて荒涼索漠から救われる。 』大菩薩峠の「介山荘」より(昭和45年:1970年3月)「峠」という一文字で、これだけの意味合いも持つのも驚嘆に値するのである。中里介山の小説でも有名である「大菩薩峠」へ出かけることにした。大菩薩峠は江戸時代まで現在の青梅街道が無かった頃は、旧青梅街道として武蔵と甲斐を結ぶ重要な峠として利用されていた。旧街道は武蔵国と甲斐国を結び大菩薩峠はその最大の難所でもあったという。甲斐の国から大菩薩峠(今の賽の河原あたり)を越えると、街道は丹波山道と小菅道に分かれる。峠は米や塩、木材などの物資の輸送と交換の拠点として利用されていたという。(詳細後報)そして、青梅街道は明治初め頃の道路改修により、柳沢峠を通る新ルートに変更されており現在に至っている。次回、「大菩薩へ」祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.01.19
.「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン) 大菩薩峠・紀行(1) 「峠の概念」 . 先ず、何より「峠」と言う字は国字だそうである。 国字というのは、その国の国語を表記するための文字、その国で公式に採用されている文字のことで、舶来の漢字ではなく日本で作られた純粋の字・「和字」のことである。そういえば、「峠」という字を和英辞典で引いても、単純に「pass」或いは「a mountain pass」(山を越える)としか出てこない。 逆に、passを日本語に訳すと「通過する」,「通り越す」、〈人や物のそば;間)を「通り過ぎる」等しか記されてなく、「峠」と言う字は見当たらない。「峠」という本来の字は、英語には存在しないのである。「峠」と言う文字は見るからにスッキリしていて、判り易い文字である。更に、読みの響きもいい。峠はトウゲと読むが、昔はタウゲと読んでいたらしい。「タウゲ」はタムケ(手向)が転じたものといい、如何にも意味有りげである。 それは旅の人、通行者が旅の安全を叶えるために道祖神に「手向け」をするからといわれる。 尤もで、「手向け」とは手を向ける、手を合わせる、合掌するという日本人特有の自然神から根ざした感性なものである。通常用語の「手向ける」(最近は余り聞かれない・・?)は、神仏や死者の霊に物をささげる。 旅立つ人にはなむけをする、 等の意味をもつ。更に、「手向け」には以下のような意味合いがある。「手向けの神」:旅人が道中の安全を祈るために幣物《へいもつ:神に奉献する物の総称》を手向ける峠などの神、「手向け草」:旅人が行路の安全を祈るために神に供える物。 布・糸・木綿など。万葉集1:「白波の 浜松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ」「手向け花」:神仏・死者の霊などにたむける花「手向山」:道路や坂の神などに幣帛《へいはく・幣物に同じ》をたむけることにきまっている所、又それのある山他に「手向け歌」、「手向け水」などなど・・、神聖な呼び名がある。峠は、一般には山の坂路を登りつめた所、山の上りから下りにかかる境の意味である。次回、「峠の概念」(2)【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.01.18
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ;http://www.google.com/ig#t_0 山を歩く、登山を楽しむ・・! 、人生はよく山に譬えられる 人生、山あり谷あり、だが、人生は惰性でも生られる山は惰性では登れない・・!!今まで晴れていたが、何時の間にか霧が発生して視界が遮られた、 地獄のように、こっぴどく吹かれた。後の天国のような青天井、断崖あり落石あり、この先、前へ進もうか退こうか、一歩、踏み出そうか、止めようか、この時の一瞬の落差変貌が人生の命運を決する時もある。山は、登りも下りも辛くて苦痛の連続であるだが登りの苦痛は、快感にも変わる、マラソンと一緒だ・・!辛くて下山するのも良し、頑張って到達した山頂から、雲海を眺めるのも良し、総ては自分で選択する、それは人生そのもの結果として、脱落した者には後悔が残り、達成した者には満足感が残る、 躊躇して退いてから後悔を積み重ねる人生よりも、更に一歩踏み出して得られる満足感、達成感万感を重ねる人生の方がやはり素晴らしい。 山頂から望む周囲は夢世界で広大無限、 下界は人々がひしめき合うちっぽけな世界天上世界は人々の日常的な悩みなどは吹っ飛ぶ、登山することは、立体的な三次元の体験もさることながら、現実の世界で、夢を見れる場所でもある。さあ・・!、今日も夢を見に行こう、間もなく「大菩薩紀行」を掲載いたします。【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.01.14
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(68) 「南アルプスを自然遺産に・・!?」 .2006年(平成18年)頃より南アルプスを世界自然遺産に登録するための地元有志の運動が始まったという。その名を「南アルプス世界自然遺産登録推進協議会」といい、関係10市町村により設立された。構成市町村:山梨県-韮崎市 南アルプス市 北杜市 早川町 長野県-伊那市 飯田市 富士見町 大鹿村 静岡県-静岡市 川根本町【主旨内容抜粋】『 南アルプスは、日本列島のほぼ中央に位置し、南北150km、東西50kmという重厚な峰々が連なる山岳地帯です。南アルプスは白根山系、甲斐駒山系、鳳凰山系、赤石山系からなり、昭和39年には国立公園に指定されました。区域は、北は長野県の鋸岳(のこぎりだけ 標高2685m)、南は静岡県の光岳(てかりだけ 標高2591m)までの範囲で、主峰である北岳は標高3,193mで富士山に次いで日本第2位、さらに間ノ岳は標高3189mと日本第4位の標高を持つなど3000m級の山々が13座もある「日本の屋根」と言われるほど大きく高い山塊が魅力となっています。また、南アルプスには、キタダケソウをはじめとする南アルプスのみで見られる数多くの希少な動植物が生息しています。特に氷河期から生き続けてきたライチョウは世界の最南端に生きており、絶滅が危ぶまれています。さらに、地形地質では、大陸と太平洋側からのプレートの褶曲1によって形成された非火山性の山地であり、地球の地殻構造の歴史を抱きながら現在でも年間数ミリ程度隆起しているという造山活動が見られます。このように南アルプスの自然環境は世界的に見ても傑出した自然環境を有し、また国立公園内には生活環境を有しない、まさに自然の宝庫とも言うべき環境が残されているのです。私たち南アルプスを取り巻く全ての人々にとって、貴重な南アルプスの自然を後世にそのまま受け継ぐという大きな使命を担っています。 』 以下 略ところで、南アルプスの地下に「リニア新幹線」(リニア)と通すというが・・?。ルートとしては首都圏から山梨リニア実験線を経由し、名古屋に至るまでのルートとして木曽谷ルート、伊那谷ルート、そして「南アルプスルート」の3案が検討されていた。JR東海は、距離が短く経済合理性が高いとされる「南アルプスを貫く直線ルートでの建設は可能」とする地形・地質調査結果に基づき、南アルプスルートでのリニア中央新幹線の建設方針を2008年に固めたという。南アルプスルートは、甲府市付近から赤石山脈(赤石岳地下近辺)を経て名古屋市付近へ至る直線ルートである。これらのトンネル本坑及び斜坑、更に付帯工事を含めると総延長は凡そ20kmのトンネル建設になるという。これらの大工事は自然環境への負担も大きく、自然保護という自然遺産の基本的概念から見れば大いなる問題があると関係者は問題視(特別反対はしていない・・?)している。この問題について「ユネスコ」の見方については・・、「工事を行うのは地下あるいは登録予定エリア外だから影響は少ない」という考え方もあるが、 アジア初のユネスコ事務局長に選出された松浦晃一郎氏の著書には次のように書かれている。 『 最近ユネスコが注目しているのは、「景観」という概念だ。つまり緩衝地帯およびその周辺も含めた景観全体が「顕著な普遍的な価値」の公正をなしている、というものである。従って、伝統的な考えに基づいて、緩衝地帯の中でのみ開発規制を敷けば十分というわけではなくなってきている 』松浦晃一郎氏(2008)『世界遺産ユネスコ事務局長は訴える』 講談社 この一文を見る限り、上記の見解、思惑では南アルプスの世界遺産登録は困難とする見方もある。果たして・・・??。 終【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.25
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(67) 「寸考;南アルプスの林道」(2) .ヨーロッパに初めて日本の山々を紹介したウォルター・ウェストンが南ア・北岳に登頂したのは1902年の事であった。 既に、100年以上も経っている。 勿論、この頃は夜叉神トンネルや、南アスーパー林道なんてものは存在もしなかった頃の事であった。 一行は芦安村から鳳凰三山を越えて野呂川を徒渉ししながら、当時の芦安村長・名取氏らの協力を得てキャラバン部隊を結成し、登山には10日間もの歳月を要したという。尤も、ウェストン氏が北アの穂高に入って穂高岳を登頂したのは更に5年前のことで、勿論、この当時は上高地などは拓けておらず、(上高地が今の姿になったのは、大正期に焼岳が噴火を起こし大正池を造った)道程としては松本から島々~徳本峠~明神~穂高であった。 上高地、穂高へ入るには、徳本峠(とくごうとうげ、2135m)という前衛の急峻な山塊を越えなければならなかったのである。序ながら・・、旧年の岳人さん、山屋さんなら御承知であろうが、上高地に入るには釜トンネルという名物の山岳トンネルがあった。 何かと物議をかもした名物・釜トンも、地元の要人が片側だけの車の通行では不便であるとして、2005年新釜トンネルが完成した。言えることは、このトンネルは上高地だけの行き止まりであった。 大衆の人々の生活、利便性においては全く無関係であり、ただ、観光目的以外には考えられないのである。無論、上高地も年間を通じて一般車の乗り入れは禁止である。そもそも何のための一般車両通行全面乗り入れ禁止なのだろうか・・?。新トンネルは、事実、観光バス・タクシーの専用道路であり、その背景には観光客の大集団を招き入れ、当地で営業を営む業者の生活の利便を一層豊かにする事だけが本来の目的になってしまったのである。 つまり、新トンネルは上高地景観保護には無縁で、観光業・観光客保護のためではあるまいかともいわれているのである。近年は上高地の風物や原風景を保存する事よりも、観光業者に便宜をはかり、誘致した観光客を手厚く保護し、尚一層、増員を計るという、真の目的が見隠れしているのである。自然を守り、自然と共存するということは、自分に厳しく自然に優しい付き合い方が大切なのだと「竹沢長衛」氏は言っていた。又、現在の南アルプスや上高地をウェストンが見たとしたら、どう感じるのだろうか。尚、林道バス運行関係者によると・・、南アルプスの豊かな自然環境を維持していくためとして、マイカー規制で入山する人から「マイカー規制実施経費」の一部を負担するらしい。(1人 片道 100円)協力金はマイカー規制が円滑に行われるよう、ゲート管理や乗換駐車場の管理などに充てるらしい。即ち、バスの通行費用の他に管理料金が必要になる。利用者協力金は、南アルプスの自然環境の維持を目的としていることから、マイカー規制区間を通行される全ての人に協力を依頼しているという。無論、歩行者や駅等からバスを利用してきた客も同様らしい。次回、「南アルプスを自然遺産に・・!?」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2011.12.25
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(66) 「寸考;南アルプスの林道」 .序ながら、北沢峠と南アルプス林道いついてチョコット述べてみたい。 山梨県南アルプス市と長野県伊那市の境界にある南アルプスの峠一つで、南アルプス北部に位置する甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳などへの登山拠点としての主要地である。北沢峠(2032メートル)そのものは、シラビソやコメツガの原生林などに囲まれて、視界、展望は全く利かない。 左右から甲斐駒ケ岳へ通じる双児山からと仙丈ケ岳へ通じる小仙丈の急峻な尾根がぶつかり合う谷間に当る。元より、昭和初期以前までは人跡未踏、手つかずの大原生林であった。 この峠を開いたのが、かの竹沢長衛氏であった。 しかし、信州・伊那側である戸台からは比較的容易に入ることが出来たが、甲州側からでは余りにも深い山域であった。夜叉神トンネルが開通し、野呂川林道が開通して広河原が開けても尚、北沢峠は奥山に一角であった。 野呂川出会いから南アルプス林道の開削工事が始まって、漸く北沢峠は日の目を見るのである。 それは昭和の中期になってからのことであった。そして、北沢峠が脚光を浴びたのは昭和40年頃からであった。自然保護団体の反対を押し切って山梨県は広河原から北沢峠まで野呂川に沿って林道を開削し自動車通行可能道路を造り、昭和56年に遂に信州と甲州が車道として繋がったのである。この区間の林道は甲州側では「南アルプス林道」、信州側では「南アルプススーパー林道」と称している。 もっともこの区間は当初から自家用車を締め出し、代わりに地元専用のマイクロバスを登山者の足として有料での共用であった。林道であるから当然ながら治山治水、林業の振興が主目的であるから、それらに関係する伐採、造林や奥山の河川工事などの作業を行うものと思われがちであるが、実はそれらに関する車両の通行を一度も見たものはいないという。 事実、双方の営林署も営林活動はしてはいないようだ。又、通商道路、生活道路としては全く用を成していない。 信州・伊那方面から諏訪、甲府までは幹線道路や高速道路で短時間で往来することが出来るからである。 つまり、建設当時から大義名分で営林事業しかないはずであるが、結果としては主目的は全く達していないようで疑わしい林道開発であった。標高の高い場所の樹林は、一度伐採すると何百年も経過しないと蘇生しないそうである。又、伐採された道路部分は保水力が失われて崩壊しがちなことは当然で、次に必要なのが造ったものを保全管理するというアフターケアが必然で、その補修工事にも莫大な費用がかかるであろう。現在の林道利用は、季節によって両方の入口、始点に厳重な鉄柵のガードと監視員が目を光らせて、自動車はおろか自転車の進入も許さない。 許可できるのは地元の専用マイクロバスのみで、登山者や観光客を満載して峠まで運んでいる。つまり、南アルプス林道は地元バスの専用道路で、観光客が歩かずに達してしまう俗人が闊歩する「俗地」となってしまったのである。 つまり、南アルプスの大原生林の北沢峠は観光地化してしまったのである。昨今の旅行代理店の国内旅行案内を見ると、何と北沢峠への観光コースが出ていて、東京などを基点とする日帰り旅行の案内まであったそうだ。引き続き、「南アルプス林道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.25

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(65) 「甲州・広河原」 .広河原概略広河原付近より望む紅葉と北岳 広河原は野呂川と大樺沢合流点に位置し、文字通り広い河原を有する。山深い山峡の地としては珍しくサッパリと開けた地である。南アルプスの北部、北岳(3192m)や白峰三山(北岳、間の岳、農鳥岳)などの登山の拠点となっている。特に、北岳の山頂直下にある北岳バットレスと呼ばれる、大岩壁が圧倒的な迫力をもって真近に観られる。南アルプス最奥の集落・芦安からバスに乗り、南アルプス林道を経て、夜叉神トンネルを抜けると野呂川が作り出したV字谷の深い谷で、紅葉の名所でもある白鳳渓谷を経て広河原に到る。雰囲気はやや劣るが、「南アルプスの上高地」と呼ぶ人もいるほどである。尚、夜叉神トンネルを抜け広河原の間の崩れ落ちる白鳳渓谷の大岩壁は、糸魚川(いといがわ)-静岡構造線が通っている地域で、破砕帯といわれるような脆い岩肌が露呈しているところで、もろい岩質は時折、崩壊がおき南アルプ林道は通行止めになることも多い。 「白鳳渓谷」とは白峰三山と鳳凰三山(ほうおうさんざん)の間に横たわる巨大な渓谷から名付けられている。広河原には北沢峠行きのバス発着所や山の宿舎・広河原山荘もあり、近年、登山安全指導センターや売店が併設されていて、「南アルプスアルペンプラザ」も建てられている。尚、現在では広河原は7月~10月の全期間においてマイカー規制が行われ、この期間は南アルプス林道を利用して専用バスで芦安(駐車スペース 600台)から広河原へ(身延方面からは奈良田から広河原)、更に、公営のマイクロバスに乗り換えて北沢峠へ向かうことになる。次回、「寸考;南アルプススーパー林道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.25
,今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(64) 「甲州・南アルプス林道」(3) .峠を出発して以来、無論、人の気配、出会いは全くない。 数ある山歩きで、これほど人恋しく感じたこともなかっただろう。 車道なのに車の気配どころか、路面に轍(わだち)なども全く無い。 放置され、忘れ去られた状態の名ばかり(・・?)の林道は以降どうなるのか、逆に思案するほどである。 3000m峰を一登りせいもあってか、体調もいよいよ疲労の極に達しているらしく、ザックは肩食い込み、身体はロヘロに、脚はガクガクと不調を訴えつつあるようだ。 山岳の道のように急な下り勾配はないものの、緩やかな長い下りの連続は結構、脚部に負担がくるもので、このことは何度も経験済みであったが、それにしても・・?!。秋の陽は何とかというように、早い・・!、夕刻限には未だ早いが、両山塊が迫ってきている深い谷間のため、既に太陽は山陰げに落ちてしまっている。 従って、尚一層うら寂しく感じてしまうのかもしれない。それでも、遥か下方に開けた場所が薄ぼんやり見え隠れしてきた。 きっと広河原に違いなかろうが、まだ、かなりの遠方彼方にもみえるが、やっと目標のものが見え出してきて一安心である。大きて深い枝沢である「三好沢」というのを渡りきって、両側絶壁の林道を暫く進んだところで、名前の通りの「広河原」が遂にはっきりした姿を現した。 げんきんなもんで途端に力が湧いてくるのを覚える。すると二人連れに人物がこちらへ向かって、ユックリではあるが登ってくるようである。 挨拶もそこそこですれ違ったが、熟年の夫婦連れでシーズンの紅葉でも観に来たのだろう。思えば、峠からしばらくはシラビソ、栂やハリモミなどの針葉樹が主体であったが、下るに従って落葉前の広葉樹が彩を添えるように成ってきていた。 そんな中ではあったが、小生には紅葉を愛でるほどの余裕はなかったようだ。 確かに広河原周辺は黄色や赤が入り混じった丁度良い時節を迎えていたのである。そして、体調ややゲンナリしながらも、どうにか待望の広河原に達した。その名の通り野呂川の広い河原に開けた登山基地で、主に北岳や白峰三山のベースになっている。 数年前、この地をベースとして北岳を踏破した記憶がよみがえる。 それにしても南アルプスの上高地といわれる程の広河原であるが、未だ上高地には及ぶべきもない。17時の最終便には十分、間にあうので、体のクールダウンのつもりで周辺を散策する。北岳をやり終えたであろう連中が既に十数人たむろしていて、夫々に談笑している。 しかし、仙丈ヶ岳を登ってきたのは小生のみではなかろうか・・?!。次回、「甲州・広河原」 【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.24
. 今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(63) 「甲州・南アルプス林道」(2) .先にも記したが、本来の南アルプス林道(当初はスーパー林道と言った)は芦安村と上伊那郡長谷村を結ぶ全長58キロメートルの長大なる林道である。ただ甲州側では、1952年(昭和27年)に着工されて以来、今でも広河原以降は道路として開削はされたが、未だ保全管理、通常の使用はされていないようである。おそらくは地形が急峻で、もろい地質のため、たびたび落石や土砂崩れが発生して保全が遅れているのかもしれない。それにしても雄大さは県内トップクラスの林道には違いないが、景色は山、山、山の連続であり何かを見通すといった景色は余りない。 とにかく山の大きさ、奥行きの深さは半端ではない林道であることは確かだ・・!。暫くの間、半ば夢中で歩を進めているうちに、二股の出合いに達した。案内板も標識もないため、どちらが広河原へ向かう道なのか全く不明である。サアー困った・・!! 。地図を確かめ地形を探りながら、ある程度の確信をもって左手へ進むことにした。そこにはコンクリートのしっかりした橋が架けられていて、暫くして、ここが野呂川の出合であることが確認できた。 即ち、今度は野呂川の左側を進む様になり、行く先は目的の「広河原」であることは確かなようだ。 山の様相というか、野呂川谷の様子も以前よりも増して、一段と険悪になってきたようだ。左に迫る山塊は急斜面で圧倒的にせり出し、そして右側の山域も褶曲を繰り替えし、一部は陰惨な大絶壁となって峡谷へ落ち込んでいる。その野呂川の大峡谷は千尋(せんじん)のごとく切れ落ちていて、恐ろしいほどの、いよいよ深い谷底を覗かせている。その切り立った尾根と谷の側面に、頼りなげに一線の道筋がただひたすら延びている。その道は巨大な派生山塊、小さな派生尾根、その度に野呂川に落ちる大小の枝谷のために大曲、小曲がりを繰り返し、同じ風景の繰り返しで陰惨な風景は変哲がない。 一介の人間など、この大原生の自然に押しつぶさんばかりである・・!! 。 しかし、これらの人間がこの圧倒的な山容を切り崩して、一筋の道を強引に突けたのであった。 その道を今、トボトボと自らの巣へ戻ろうと必死の辿って入りのである。人間とはかってなもんで、今さっき享受を得るためにこの奥深い山中に分け入ったのに、今はただ、それらの南アルプスの圧倒的山域に、耐え難いほどの恐れをなしているのである。引き続き、「甲州・南アルプス林道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.24
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(62) 「甲州・南アルプス林道」 .さて、いよいよ国境(県境)を跨いで甲州側の南アルプス林道を向かうことになる。手元の登山地図を見ても南アルプス林道としての表記は無く、まして登山路としての明示もされてないので、所要時間などは全く不明である。地図上で概ね計ってみると凡そ10kmはあろうかと思われ、3000m峰をやり抜いて疲れた身体だと3時間程度もかかろうか・・??。昨日訪ねた「北沢長衛山荘」の入口辺りまでは人の姿があって、気持ちも安らか穏やかであったが、こちらを過ぎると様子が一変する。南アルプスの真っ只中、大原生林の中に一人取り残されたような、何かに追われているような妙な錯覚におちいる。林道は確かに車が通れる、或るいわすれ違いができる程度の幅はあるが、沢水の流れに抉られて(えぐられる)いたり、小石大石が道の中ほどまで落ちていて、このままではとてもじゃないが車なぞは通れはしない。今のところ、チョット荒れ放題の南アルプス林道で、熊でも出てきたら「ヤバイ」な思うほどである。両サイドはV字峡谷の山肌が迫ってきていて、何か圧倒的な威圧感を覚えるのである。 右側面は昨日、一昨日削り取ったような岩肌がむき出しになっていて、崩落しそうな危なっかしいところもある。 又、左手は北沢の沢は切れ落ちていて、遥か下方からの沢音が、何故か物悲しげに聞こえてくる。何しろ、頭上には甲斐駒ケ岳から派生していて鳳凰山(鳳凰三山)に連なる2500メートル以上の早川尾根(栗沢山、アサヨ峰、早川尾根の頭、赤薙沢の頭、高嶺)が被さってきているのである。普通の山道と違って、どうも前向きな気持ちになれず、急ぎ足でドンドン下る。幸い道が崩落している厄介なところはなく、しかもさすがに林道でゴロ石なども無く歩きやすいのは何よりであった。それにしてもこのような南アルプスの山奥に、よくぞこのような道をこしらえたものよと、逆説的に感心する次第である。 思えば、昨日登ってきた伊那側の林道(南アルプススーパー林道)も峠まで達していて、しかも向こう側は既に車が実際に峠まで入ってきていた。 こちら甲州側の林道は車道らしきものは付いているが保全管理が行き届いてなく、当然ながら車などの通行、運営はされていないようだ。元より、ここには細々ながら登山道はあったらしい。北岳の西寄りの野呂川の源流部である両俣(左俣、右俣の合流点)から点線登山路として記載されている。 但し、広河原からの登山道は拓かれていない。ただ赤線の点線登山路とは、管理が行き届かなかったり危険が多い。所謂、ハイグレ-ドなコ-スと言われていて、山あいなら極端な岩場や危険なルート、谷筋では渡渉や沢登りなどのハードな難コースで、とても一般向きではないルートである。次回も、「甲州・南アルプス林道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.24

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(61) 「再び北沢峠」 .二合目から北沢長衛小屋(現、駒仙小屋)への分岐北沢長衛小屋(現、駒仙小屋)からの仙丈ヶ岳への近道甲州・広河原方面への北沢峠林道さて、五合目の「大滝ノ頭」で火照った脚部を冷やし、気持ちも落ち着いたところで腰をあげて再び出発である。大滝ノ頭分岐を過ぎチョッと緩やかな道から、ウネウネ道をひたすら下る。 相変わらず急降下するような登山道である。 しかも大石を山道にわざと置いたような(じつはそうではなく、樹木に隠れて見えないが山全体がそうなのである)ゴロ石が連続していて、脚を取られやしないかと案じながら慎重に降らなければならない。思えば、この辺り登りの際にも些かうんざりした道であった。間もなく四合目を通過する。 歩き難い岩ゴロの急坂は相変わらずであり、弱点である左足の膝っかぶが熱くなってくるのを覚える。そして、どうにか明るく見通しの良い三合目までやってきた。 ここで再び脚部を休ませるための小休憩を取り喉を潤した。ここは右側に展望が開けていて、やや遠くなった感じであるが、懐かしい北岳が望めた。 勿論、登るときには霧が覆っていて望むべきもなかったが、これが最後の見納めかも知れない。その後、勾配も緩やかになり、二合目に到って北沢峠への二方向分岐の登山道に合流する。ここでは北沢長衛小屋(現、駒仙小屋)方面への近道を通りたいけど、これから向かう長丁場の南アルプススーパー林道を広河原まで向かうので、その道中を考え甘味飲料(ジュース類)を調達するために長衛荘へ下ることにした。後は一気呵成に峠へ向かって駆け下りる。お疲れさんの、ご苦労さん・・!、 といいたいところだが、この後、広河原まで長い長い林道が待っているのである。長衛荘でお目当ての「ジュース」を購入して、チョッと腹ごしらえをしてから、甲州・甲斐の国を目指して出発である。次回、「甲州・南アルプス林道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
2011.12.23

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(60) 「籔沢の頭と大滝」 .五合目の「籔沢大滝の頭」の分岐籔沢本沢にある「籔沢大滝」(伊那市)仙丈ヶ岳山頂凡そ約1時間少々で、懐かしの五合目の大滝ノ頭に到着した。 無論、馬の背、籔沢方面からの合流点でもある。ここで、ザックを下ろして大休憩をとる。数人の登山者も一息いれているようで、何れも、これから仙丈ヶ岳へ向かう人達らしい。分岐になっている所でもあり、或る女性のグループが地図を広げて指を指しながら、どちら方面に向かうか思案している様子でもある。下ってきた小生を見て、「上のほうは如何でしたか・・?」と尋ねてきた。「私は朝一番から登り始めたんですけど、霧が立ち込めて見通しが悪かったんで、ここから右手の籔沢経由、馬の背から頂上へ行きました。 馬の背過ぎた辺りから天候が回復し霧も晴れて見通しも展望も良くなりました」「実は私たち、どちらへ行こうか迷っているんですけど、如何ですか・・?」「そうですね、今からだと小仙丈方面が宜しいでしょう。 この先、チョット傾斜がきついですけど30分も登れば視界が開けてきます。 こちらがお勧めですね」 と、キッパリと稜線コースを示してやった。彼女たちも、安心したように意を決したようである。ところで、此方は「籔沢大滝の頭」であるから、籔沢大滝そのものがあるはずである。有りました・・! 、この地より北方の籔沢の支流、登山道では太平山荘から1500メートルぐらいのところ、籔沢への合流点の近くにあって展望台もあるらしい。豪快な大滝は落差70mの三段の滝であり、伊那市の名所にもなっているらしい・・?。 ただ、残念ながら現在は道中が崩壊激しく通行が出来ないという。次回、「再び北沢峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.22

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(59) 「自己流下山法」 .シラビソ林の急坂チョットしたスリリングな岩稜地帯を抜けると、再び、岩礫を敷き詰めたような樹林帯の中を下る。潅木帯の中に入り急斜面をどんどん下っていく。下りは登りとは異なって、足元を充分に気をつけながら、力を抜いてリズミカルに歩を進めるのがコツである。山歩き、山登りは勿論「上り」が苦しい。 だが、長丁場の急な「下り」は耐えがたいほど辛いと云う人も多い。ここで、降りの際に留意すべき点を、小生の独断で記しておく。『 降り編 』1、走らない、跳ねない、急がない2、リズミカルに3、有ればステッキを上手に利用する4、両手は必ず空けておく(物を持たない・ステッキは除く)5、小幅、小股(左右の膝を並べる感じで)6、登りとは逆に、軟らかく着地(カカトより着地、体重を抜く感じ)7、浮石、根っこ、枯葉など足の取られに注意・・!!8、濡れ靴、濡れ石、濡れ根っこ注意(滑り注意)9、急斜面は避ける(有れば出来るだけ迂回路を取る)10、きき足の反対の脚(弱脚、通常左脚)をカバーしながら11、膝が笑いだしたら(ガクガク)注意する(ゆっくりと)12、膝関節が痛みだしたらステッキを利用(出来れば両手:棒切れでもよい)などなど、重心はできるだけ爪先に掛け、膝を伸ばしきらないように、要は脚を取られて転ばないように注意しなくてはならない。足元に充分気を配りながらであるが、下りながらも木々の合間から周辺景色が見え隠れする。既にシラビソ主体の樹林になってきて、今度は林の木陰からゴツゴツした山頂の甲斐駒ヶ岳や鋸岳が見え隠れしている。 それにしても、意外と雰囲気の良い登山道である。 だが、次第に降下するに従って樹林帯が密生してきて見通しの悪い、やや薄暗い登山道に変わってきている。次回、「籔沢の頭と大滝」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.21

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(58) 「小仙丈からの下山」 .山頂より下山コースの小仙丈尾根さて、仙丈ヶ岳からの下山である。小仙丈ヶ岳へのチョッとやせた砂礫の尾根稜線をたどることになる。山頂直下に籔沢カールから仙丈小屋へ至る分岐を過ぎると、稜線は小仙丈ヶ岳カールと籔沢カールの両側が切れ落ちている細い尾根を下ることになる。この痩せ尾根は氷河の侵食で削られた氷食山稜(アレート;山稜、特に痩尾根)の名残でもあるらしい。 「アレート」とは、両側の斜面が急峻な尾根のことをいい、登山用語では「痩せ尾根」とも言う。これにはいろいろな呼び方があり、鎌尾根(槍ヶ岳北尾根)、馬の背(仙丈ヶ岳)、剣の刃渡り(信州・戸隠山)、金冷やし(丹沢。大倉尾根)などと呼ばれる場合がある。アレート(仏: ar?te)のほかにグラート(独: grat)、リッジ(英: ridge)などとも呼ぶ場合もある。氷河の作用(氷食作用)によって作られた痩せ尾根は、日本では特にアレートと呼ばれる場合が多く、氷食によるアレートは氷河の流下が進行していくことで峰の両側からカールが拡大してできる。痩せ尾根が形成されて中でも特に急なものは、ナイフエッジ(英: knife edge;ナイフリッジ)とも呼ばれる因みに、小仙丈の尾根道は砂岩や泥岩からなっていて、中には浮石などもあり足をすくわれて危なっかしいところもある。 実は、砂礫や岩礫は氷河が消えた後に風化と侵食をうけザラザラ、ガラガラになったもので、特に、カール周辺の山肌にはこの傾向があるといわれる。 今では殆どがハイマツや標高の高い植物等に覆われてしまってすでにその荒々しさは姿を隠しているとか。とにかく所々に赤茶けた山肌が見えるほかは、全てが青い緑のジュータン(多種な高山植物も含んでいるのだろうが、目に見える殆どは這い松である)に覆われていて、それが果てしなく広がっている。小仙丈ヶ岳の稜線を行く雲上の散歩も、概ね、そのピークで終わりをつげる。その小仙丈山頂で最後の展望を楽しむ。 北方向を望べば、巨大な文字通りの馬ノ背尾根がうねっていて、その中腹にチンマリと馬ノ背ヒュツテが見えていた。無論、真正面には甲斐駒ケ岳の大迫力がいよいよ眼前に迫ってくる。 特に山頂より正面に派生している駒津峰や双児山、右手に鋭く切れ落ちている仙水谷との凸凹が何とも見ごたえがある。 それにしても双児山と北沢峠の間の傾斜、落差は相当なものだと改めて認識させられる。 尤も、登降に関しては峠から甲斐駒ケ岳への登りには仙水谷、仙水峠を経て駒津峰から甲斐駒本峰をやり、下りに双児山から北沢峠へ降りるのが一般的らしい。次回、「自己流・山での下降法」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.20
.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(57) 「ノスタルジック甲斐駒ケ岳」(2) .甲斐駒ヶ岳の開山甲斐駒ヶ岳が山岳霊場(駒ヶ嶽神社)として開かれたのは何時ごろのことかは定かでないが、横手の駒ヶ嶽神社は駒ヶ岳山頂を本宮とし、その前宮であるという。 由緒によれば 、「神の代に建御名方命(諏訪大社の主神)がこの地に至りし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、『この山はいと高く清すがすが々しき地なり、かれここに吾あが御親の神を祭るべし』と云うに始まる」として、改めて建御名方の父である大己貴命(大国主命)を出雲より遷宮したという。また、「白鳳年間(六七三)役の行者・小角(おずね)が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山を開闢(かいびゃく)したと伝えられている」 とも記す。駒ヶ嶽神社は江戸時代には駒ヶ嶽権現とも称し、神仏習合の地であった。 『甲斐国志』には、山頂に駒形権現・馬頭観音、そして摩利支天が祀られていたことも記している。山上のよく目立つ大きな分嶺を摩利支天と呼ぶのはそのためである。なお、尾白川の渓谷に沿う千ヶ尻にも、竹宇の駒ヶ嶽神社前宮がある。当時の甲斐側の登拝路は、山麓の横手駒ヶ嶽神社前宮から入る黒戸登山道と、竹宇駒ヶ嶽神社前宮から入る尾白川登山道の二筋があった。 尾白川登山道は、渓谷に沿って登り、千丈ノ滝の下流で左手の急坂を辿って、五合目の屏風岩のところで黒戸登山道と合流する。 そこから屏風岩の岩場を経て七合目の七丈小屋に達し、2日目は八合目で朝日を拝して山頂の本宮に到達するように開かれていた。現在もこの登山道は、甲斐駒登山のメインルートとして登山者に利用されている。勿論、信州側の北沢峠から登る人も多い。かつては飯田線の伊那北駅からバスを利用して戸台口まで揺られ、戸台河原から長い距離を歩いて北沢峠へ達し、それから入山することが出来る。 今は、(昭和50年後半以降)南アルプススーパー林道が開発されて北沢峠までバスで入ることができ、より一層入山が容易になっている。 次回、「仙丈ヶ岳下山道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.18

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈紀行(56) 「ノスタルジック甲斐駒ケ岳」 .山梨側から望む甲斐駒ケ岳(フリー画像2枚)古くから信仰の山として栄え、山道には祠や石碑、不動尊、仏像などが置かれている【ノスタルジックの甲斐駒ヶ岳】 ,登山に夢中になっていた昭和30後半から50年代、どれほど中央線の列車に乗っただろうか。新宿発23時45分や23時55分の鈍行の夜行列車に乗ることが多く、列車はいつも登山者やハイカーが列を成して溢れていた。その後、国鉄がJRになり特急など増便されるに及んで、夜行列車は殆ど廃止されてしまったようだが。昼間の中央線を利用するのは極わずかであったが、沿線には奥秩父の国師岳、甲武信岳、南アルプスの北岳・仙丈岳・それに鳳凰三山・八ヶ岳・槍や穂高、後立山連峰の北アルプス、それに木曾谷、伊那谷のアルプス群と、軒並み著名な山塊が次から次と現れる。 全てが懐かしい山群であった。その中に、甲府を過ぎたあたりから、左手の車窓に甲斐駒ケ岳が堂々たる白い山容を見せ始め、その勇姿が目前に迫ってくる。 甲斐駒ヶ岳は何時もその度に気になる山であった。しかし、30年ちかくも色んな山を彷徨した小生も、今は70歳を越えてしまった。 その間、何故か、どうしてか「甲斐駒ヶ岳」だけは登る機会を失ってしまったのである。果たして、この後、あの岩稜険しき山のピークに立てるかどうかは、はなはだ疑問を生じてしまうのである。それにしても甲斐駒ケ岳は、名前からして甲斐の国を代表する山塊であることは一点の曇りもない。甲斐駒ヶ岳は標高2965メートルの堂々たる山容で、山梨県北巨摩郡と長野県上伊那郡の県境に位置している。 甲斐駒ヶ岳あるいは単に甲斐駒と呼ぶのは甲州側の名称で、信州の伊那地方では東駒ヶ岳(東駒)と呼ばれているらしい。 伊那には何といっても頭上に中央アルプスの木曾駒ヶ岳(西駒;標高2956m)という、これまた名峰が君臨しているのだ。それにしても、これほど甲斐の地域に密着していて、そのものずばりの山名も珍しいのではないか・・?。甲斐駒ヶ岳は、その名の通り甲斐の駒、名馬からきた名称であろう。 周知の如く駒ケ岳という山名は全国に数多い。 何れも、駒すなわち馬にちなむ山名であり、山の形が馬に似ている、残雪による山肌の模様が馬に似ている、山麓に古代の牧があったことによる馬にまつわる伝説がある、などを由来とするものが多いが、甲斐駒ケ岳はそれだけでは留まらない。駒は高麗(こうらい、こま、高句麗のことで、古代の朝鮮王朝)に通じ、山麓に古代朝鮮からの渡来系氏族が住んだこともあるらしく、山上、山中には渡来系の神や半島の高句麗や新羅(何れも古代の朝鮮王朝)などからもたらされた仏像や石碑が祀られたケースもあったらしい。黒駒伝説と高麗人の里である甲斐国は古くから名馬の産地として知られていた。古くは大和朝廷の時代に諸国の牧馬から馬が供給されていたが、特に甲斐国造(古代の地方国の名前)が貢上する馬は、「甲斐の黒駒」と呼ばれ、国内では代表的な名馬であった。北杜市白州町から武川町にかけての一帯には、平安時代の頃には大きな牧場(まきば)が数箇所があって、毎年朝廷に30頭以上の野馬を献じていたという記録もある。 現在も牧原などの字が残る。次回も回想の甲斐駒ケ岳続きます。【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
2011.12.16

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈紀行(55) 「東駒ケ岳」 .小仙丈尾根より甲斐駒と鋸岳順調な雲上散歩であるが数箇所、慎重を要する岩場もあったが、難なく通過する。振り返ると、藪沢カールと小仙丈カールに突き上げられた仙丈ヶ岳山頂も指呼の間に望め、あらためてその壮大さ、大迫力に感服つかまつった次第である。又、特筆しなければならいのに、ついつい後回しになってしまったが、山頂からの眺めも秀逸であったが、道々、右手には国内第2峰・北岳(3092m)が野呂川源流部の大峡谷から突き上げていて、そのピラミダルな姿が視界から離れない。 数年前の同時期、同僚と登攀を済ましているので、懐かしさも込めてシミジミ見入っている次第である。そして、真正面には鋸の連山とその右端に淡白く輝く「甲斐駒ケ岳」、そして、甲斐駒の連なる早川尾根の栗沢山やアサヨ峰も大きい。尤も、こちら信州側では、戸台河原の入口標識にもあったように甲斐駒ケ岳を「東駒ケ岳」と称しているようである。右端には鳳凰三山(地蔵岳;2,764m、 観音岳:2,840m、 薬師ヶ岳:2,780m)の姿も良い。 この山塊は1970年5月に地蔵岳から夜叉神峠まで縦走しているので、特に懐かしく思い出される。 特徴的なのが地蔵岳頂上に屹立するオベリスク(高く長い直立した石柱)で、何処から見ても分り易い。 しかし、何といっても巌と聳える甲斐駒の特異な姿である。本峰頂のすぐ横、又は直下に「摩利支天」という巨大な山塊、岩山が迫出していることであろう。 岩山は標高約2,820メートルで、方位的には南東方にあり、仙水峠からは真正面に見える。 山頂には護身や勝利を司る女神・摩利支天がまつられている。石碑やほこら、摩利支天像、鉄剣などが奉納され、所狭しと林立しているという。摩利支天へは一般の登山道はないが、甲斐駒ケ岳の登山道から岩場を下り、鞍部(コル)に出ると、山頂に行く踏み跡がある。 ただ、鞍部までの下りが危険とされる。因みに、「摩利支天」は仏教の守護神の一神とされ、陽炎(かげろう)を神格化したもので太陽や月の光線を意味するという。 即ち、陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かず、隠形の身で自在の通力を有すとされ、これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があったとされる。日本で中世以降信仰を集めたようで、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。 又、毛利元就、山本勘助(地元、甲斐・武田信玄の伝説的軍師)、前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。日本の山岳信仰の対象となった山のうちの一峰が摩利支天と呼ばれている場合があり、その実例として、木曽御嶽山(摩利支天山)、乗鞍岳(摩利支天岳)、そして甲斐駒ヶ岳があげられる。次回、その本峰・駒ケ岳について一筆【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.15

.今何時・・?、時間は大和美人が知らせるよ。クリックすると各都道府県の時計美人と1分間の恋ができます。クリック=時計美人 美人時計 ; http://www.google.com/ig 南ア・仙丈ヶ岳紀行(54) 「仙丈ヶ岳より下山」 .小仙丈尾根からの仙丈小屋への分岐標識小仙丈尾根の右手に広がる小仙丈カール北岳と富士小仙丈尾根とウラシマツツジ紅葉ウラシマツツジいつまでも視界を全開放して黙して座っていたい山頂だが、さすがに時間の都合もあるので、30分ほどで腰を上げて下山開始する。帰りはお天気もほぼ回復したことだし、従って当初考えたいた通りの見晴らしのいい小仙丈ヶ岳の尾根道を下り、懐かしの五合目の大滝の頭コースへ復帰してから北沢峠へ戻ることにする。更に、この後は甲州側の南アルプススーパー林道から野呂川出合、そして広川原へ至るルートを下山することにした。間もなく稜線上にある仙丈小屋へ至る分岐を通過する。先程は小屋から右手方向に山頂を目指したが、こちらは丁度反対側のルート(小仙丈ルート)に相当する。頂上からの下山の途、辺りをベールのように包み込んでいたガスが、今度こそ完全に吹き飛んで、上空には白雲がたなびくノミの紺碧の青空になった。実は、この状態を待っていたのであり、実に爽快である。 小仙丈ヶ岳へはキバナシャクナゲが混ざった這い松の中の道を歩く。無論、既にして展望は極上である。白根三山(北岳、間の岳、農鳥岳)から甲斐駒ケ岳、鋸岳までの隣峰はもちろん、その向こうに八ヶ岳・奥秩父そして北岳のすぐ横に優雅な霊峰・富士山が仰ぎ見られる。目を転じれば雄大な伊那谷の向こうに中央アルプス、その右に次第に遠く御嶽・乗鞍・北アルプスの全連嶺、遥か白山までも見える。加えて、眼前にそびえる本峰への稜線とその東側を巨大にスプーンカットした小仙丈沢カールの眺めがまた雄大。カール斜面は這い松の緑に加えて、ナナカマドが紅葉の筆触が加わり一層見応えがする。さらに歩を進めると、驚いたことに藪沢カールの斜面は、濃い赤のウラシマツツジが所々、群生して紅葉に染められている。峠の長衛荘に同宿した人に教えられたところでは、今年はめったにない草紅葉の当たり年だそうだ。確かにダケカンバやナナカマドの低木帯ならともかく、這い松と高山植物だけの高嶺がこんなに鮮やかに染まるのは見たことがない。いい時に登ったものだと、いよいよ嬉しさ極まりなし。カールを真っ赤に染めるウラシマツツジは高山性で、通常山でよく見かける樹性のツツジとは異なり、地面すれすれ極端な這い性を伴いながら群生する。 どちかといえばコケモモを大柄にしたような特徴あるツツジである。 花は黄白色で釣鐘状の花をつけ、終わると8~9mmの果実をつける。 実は最初緑色だったものが、熟すにつれて赤色から黒色に変色する。 葉は縞網模様の文様が特徴で、秋に赤く紅葉する。 葉の表裏面のいちじるしい網目模様の特徴からウラシマ(裏縞)ツツジという。次回、「甲斐駒ケ岳について」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2011.12.14
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