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.浜頓別・クッチャロ湖日本周遊紀行(54) 「オホーツク海道」流氷海道「オホーツク」を往く・・、ポロ沼と猿払川付近は既に浅黄色に変色した草紅葉(くさもみじ)が浮島のごとく偏在して、絵の様な美観が漂っている。 そして、間もなく「浜頓別」へ達したようである。浜頓別・クッチャロ湖の白鳥(資料)浜頓別・クッチャロ湖の白鳥公園、白鳥は未だ来ていないが、10月半ば以降シベリヤより飛来するという。正式名は「コハクチョウ」、その数一万数千羽、勿論日本最大の飛来地で「ラムサール条約」にも指定されている。 一部はここで越冬するが大部分は本州を南下し山形・新潟・宮城方面へ飛んでいってしまう、ここは中休みの地である。 三月の暖気、ここを中継してオホーツクをこえて、元のシベリヤへ帰って行き繁殖する。「ラムサール条約」とは・・、イランの首都テヘランの北、カスピ海の近くに「ラムサール」という町がある。1971年に水鳥と湿地に関する国際会議が開かれ、「特に水鳥の生息地として国際的に大切な湿地に関する条約」が取り決められた。 この条約は、この町の名前をとって「ラムサール条約」と呼ばれる。湿地には泥炭地、湖沼、河川、海や入り江、干潟、マングローブ湿地や人工的なダムなどがあり、すなわち水の在るところはみんな湿地であると定義している。 「ぴかぴかの靴が泥で汚れてしまうために立ち止待ってしまう所、そこから先こそが湿地である」、テッド・ホリス博士(イギリスの生態学者/ラムサール条約の発展に貢献)は言っている。 湿地には微生物をはじめ魚や貝、昆虫、鳥、獣、そのにいろいろな植物が育ち繁殖している、このように大切な湿地を世界の国々が守って、特に国を越えて飛んでい水鳥たちを中心にして、湿地の環境を守っていこうという国際条約である。1996年6月には93カ国837カ所が、2000年2月には、118カ国1016カ所、2001年2月には、123カ国1060カ所が登録湿地となっている。日本は1980年にラムサール条約に入り、釧路湿原が最初の登録湿地になり、次いで1985年に伊豆沼・内沼、1989年にクッチャロ湖、1991年にウトナイ湖などが登録湿地になった。今は、人っ子一人いない寂々とした湖岸に、木製の桟橋が沖中へ延びている。桟橋の中ほどで、屈んで(かがんで)水中を覗くと藻草が微かに揺れていて、手の平大のモズク蟹・・?が一匹這っていた。 水草の茎を差し出すと”両はさみ”で挟んだ。 ソーッと引き上げるとそのまま付いてくる、水面を出たところで片手でヒョイと摘んで桟橋へ載せた。 蟹は気が付いて慌てふためく。暫く(といっても、ホンの1分少々だよ、)遊んで離してやった。 『北の果て 我一人来て クッチャロの しばしの休み 蟹とたわむる』 小生網走から美幌峠を越えた処に「屈斜路湖」がある。 韓字読みでクッシャロと呼んでいるが、アイヌ語源の意味ではこちらと同名の「クッチャロ」が元々らしい。どちらも同じ意味のアイヌ語から名前がつけられ、クッチャロ湖の語源は、「トー・クッ・チャロ」と言われ、日本語では「沼から水の流れ出る口」、「沼ののどもと」、「沼の出口」という意味になる。又、この辺り一帯は明治中期には一大金の産地として名を上げた。 頓別川の上流部、ウソタン川では今でも砂金探しの観光地になっていて、地図を見ると、砂金山、金ヶ丘、ウソタン砂金地、金山神社等、金にまつわる名称が多く残っている。明治33年に浜頓別を流れるウソタン川で発見された重さ768グラムの金塊が、日本最大のゴールドラッシュの始まりであったといわれる。ところで、採取高というのは常に極秘とされているために正確な生産高を把握することが難しいといわれているが、地元の『殖民広報』によると砂金採取量は、明治32年をピークに年々減少していると記しながらも、明治32年176貫(660キロ)、33年120貫(450キロ)、34年107貫(401.25キロ)、35年52貫(195キロ)、36年32貫(120キロ)と記録されている。 又、『浜頓別町史』は大正7年までの産出高累計550貫(2650キロ)と記している。現在のように機械力が駆使されていない時代に2トンあまりの採金は、驚異的な数字であり、ウソタン砂金地がいかに豊富な埋蔵量であったかを物語っている。現在でも、ウソタン川近郊には「砂金採掘公園」なるものも在り、 500円の入場を払って砂金掘り体験をすることができる。 一日にとれる砂金の量は微量ながら、埋もれている夢とロマンの大きさはゴールドラッシュ時代の昔と変わりないという。 毎年8月上旬には「ウソタン砂金フェスティバル」が開催され、又、周辺には砂金採掘全盛時代を忍ばせる石垣や金鉱跡などの遺跡も残っている。さて、「オホーツク文化」についてであるが・・、浜頓別のクッチャロ湖畔には、「オホーツク人・文化」の遺跡が多く出土しているという。更に、枝幸町(えさしちょう)、興部町(おこっぺちょう)界隈も遺跡が多く発掘されている。 尤も、当地域に限らずオオホーツク海の沿岸地域は古代遺構が数多く発掘されていて、この地は克って「オホーツク文化」が栄えた地なのである。 北海道特有の擦文文化(「手塩」の項で若干述べた)とアイヌ文化の中間に位置し、北海道の北部と東部辺りに7世紀から13世紀にかけてオホーツク海沿岸を中心に栄えた文化といわれる。年代は、奈良時代から鎌倉時代の始め頃にあたるとされ、オホーツク文化の担い手をオホーツク人とも呼んでいる。 そして、この文化は「アザラシ」と深い関係があるといわれる。 アザラシとオホーツク文化・・、当時の北方地域の人びとはアザラシの皮や腸を衣服にし、油を食料や明かりにして、肉を食料に骨を釣針やモリ先などにと無駄なく利用している。 オホーツク文化より後のアイヌの人びとも同様な暮らしをし、アザラシや魚の油を、ほたて貝に入れて明かりとしたりした。つまり、アザラシは当時の人々にとって最も生活に身近な動物だったのである。オホーツク人は、ロシアや中国の国境近くのアムール川(黒竜江)の海域をサハリンから南下したと考えられ、彼らは先ず北海道の北部で生活し、しだいに東へ南へと範囲を広げていった。その痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいるが、その後のオホーツク文化はアイヌ文化に取り入れられたともいわれる。人々は、アザラシ等の海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送り、彼らの遺跡から出土した生活痕からは多くの釣針やモリ先、アザラシやトドや魚などの骨が出て来ている。これらの遺跡は海岸そばに限られ、内陸には存在しないという。 このことはオホーツク人の生活は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣狩猟に重点があったともいわれる。 流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためとも考えられている。 遺物に描かれた絵や模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたらしい。 又、海獣の他に既に豚と犬を飼い、どちらも食用にしていたらしい。 ただ、道東では豚飼育は低調だったが、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩ったとされる。 集落は海岸のそばに置かれ、住居は竪穴式で何十人も収容できる大型の住居や、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居もあり、大規模住居は中心集落で見られるという。『古代人が生活し食べていくのに、オホーツク沿岸ほど良いところはない』 といわれる、おそらく世界一だろうと。流氷と共にやって来るアザラシやオットセイなどの海獣はシベリヤやサハリンと酷似していて、流氷は無味漂白のように思えるが、実際は「食の倉庫」であった。 オホーツク海の魚貝類をはじめサケ・マスなどの回遊魚は、「食」のほうが川を上って向こうからやって来るのである。又、気候・季節的にみても面白い・・??、オホーツク気団という「寒気団」がある、これが発達して東風(コチ)が吹くと稲作がダメージを受ける。 「やませ」である。 だが同時に、この北の地域は豊漁になる、大寒流がオホーツクから千島列島を抜けて太平洋に流れ込む、一部は日本海へ向かう。 此れが「親潮」である。 それにしても「親潮」という名前がいい、北の漁業者が感謝をこめて付けた名だそうで、この海流は栄養に富みサケ・カニ・タラ・ホタテ・ホッキ等魚貝や海藻を育てる。 要するに、オホーツク海は稲作社会にとっては恐ろしい海だが、漁民にとっては「親のような海」なのである。この現象は、今も変わることはない。次回は、流氷の町・紋別の意外・・!..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.30

.【北海道・オホーツク海道】稚内⇒⇒⇒⇒根室日本周遊紀行(53)猿払 「或る海難事故」「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。 気のせいか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。 猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。海岸の公園(道の駅)に来た。 猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている道の駅の公園である。この中に目を引いたのが、海岸が一望に見通せる所に「インディギルカ号遭難慰霊碑」というのがあった。その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい。その「インディギルカ号遭難」とは・・?、珍しい形のモニュメントと石碑が据えてある。 そして、その石碑には日本語とロシア語で・・、『 昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれに乗合せていた人々に最後の時がやってきた 「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族1064名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メートルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有の惨事となった 身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続けながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主義共和国連邦から寄贈された花崗岩である』 と記してある。昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)オホーツク海に、一艘の大型輸送船が咆哮していた・・!、ソ連船インディギルカ号だった。 カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気状況は北海道北部沿岸に暴風警報を出すほどであったという。 同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい。本来、ウラジオに向かうには宗谷岬の北方より西に進路を執らねばならぬのに、この時の時化(しけ)と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。 そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童(おおわらわ)だったという。 しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという。遭難者は700人を超えた。昭和14年(1939年)とは、どのような時代だったか・・?昭和14年(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものが日本とソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」というのがあり、所謂、日本とソ連は険悪な対立状態の間柄であった。 しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという。 この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っているという。序(ついで)ながら「ノモンハン事件」とは・・、ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。 初め、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の戦渦であったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。 当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。 以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみが「ハルハ河戦争」(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日~5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日~6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し壊滅的な打撃を受けた。 その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、近年になって(1990年代)ソ連側から資料が公開され、ソ軍の戦死者・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。余談だが・・、以降、日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである。つまり、猿払村の人道的配慮は生かせれてはいなかったのである。後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている。 1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・「樫野埼」住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今現在でも続いている。このことは「西日本編・串本」の項で述べるとして、両遭難事件の因果は異なるであろうが、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。「猿払村」は日本最北の村、昔は相当な貧村に喘いでいたようだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源など一体となって、大きく発展しているという。次回は、流氷海道「オホーツク」..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.29

.写真:本土最北の地・「宗谷岬」のシンボルマーク(小生が訪れた時刻を指している)日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」遂に、北の果てへ来た、そして稚内から宗谷岬に向かう。途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある。北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。 「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。 さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。 最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと。調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。 宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。 その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。 1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。海面より少々高目を、「宗谷岬」を目指して進む・・、岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが、しかし今は遠い・・?。 その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。 更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。 忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。 忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。 林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。 両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。 日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。 又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ。明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。 その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。『宗谷岬』 歌:千葉紘子 流氷融けて 春風吹いてハマナス咲いて カモメも啼いて遥か沖ゆく 外国船の煙も嬉し 宗谷の岬流氷融けて 春風吹いてハマナス揺れる 宗谷の岬幸せ求め 最果ての地にそれぞれ人は 明日(アシタ)を祈る波もピリカの 子守のように想い出残る 宗谷の岬流氷融けて 春風吹いてハマナス揺れる 宗谷の岬海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。 何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。因みに、日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 小生はこの呼名は余り好きではないが、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たるとかで、使われてないようだが・・?。「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下することのなる。次回からも御期待下さい。稚内の関連リンク稚内 「宗谷岬」稚内 「野寒布岬」稚内 「九人の乙女の碑」稚内 「氷雪の門」次回からは、「猿払」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.28

.北海道最北の地・「サロベツ原野」と原野に立つ森繁久弥氏の句碑日本周遊;温泉と観光(15) 「サロベツ原野」 天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。 この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。 北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。 5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。 満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。 ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。 色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。 又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。 このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。 しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。 地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。 草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。 定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。 北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。 道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。「こうほね」という妙な名であるが・・?、小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。 川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。 処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の 海に立つ富士 』「富士」とは、無論、利尻富士のことである。ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。 又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。 森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。 もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。 そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。気がつくと道標に「稚内26km」とあった。北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。次回は、 北端の最終章「宗谷岬」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.27

.北海道最西端の「ダイヤモンド道路」と称される「雄冬岬」とパーキングエリア日本周遊;温泉と観光(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」北海道の最西端の地・「雄冬岬」・・、札幌から日本海側の海岸沿いを留萌まで走る国道231号は、難関だった「雄冬岬」の部分が開通してから留萌方面へは相当近道になったらしい。石狩街道をまっすぐ北上し、その後20数kmは海岸沿いを走ることになり、厚田までは比較的平坦な海岸線であるが、その後は切り立った崖っぷちのような部分でトンネルもも多く、深い山の中を走る様である。この道路を別名「ダイヤモンド道路」とも呼ばれるという。平成の始め頃、「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまで、長い間「幻の国道」と呼ばれていた。 この切り立った断崖部分の道路建設は大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったので、ダイヤモンドという名前が付いたという。 この西端の岬を「雄冬岬」(おふゆみさき)というが、この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 因みに後の二つは室蘭市の「地球岬」、根室市の「落石岬」である。 秘岬といわれるだけあり、岬からの眺望は日本海の雄大さと周辺の荒寂ぶりがかなり印象的である。岬の最寄の雄冬集落(所在地は増毛郡増毛町)は、往時は、札幌側からの往来が不可能で、増毛側からもかっては冬季通行不能であった。 ここへの交通は事実上一日一往復された増毛~雄冬間の定期航路しか実質的な交通手段がなく、且つ、この定期航路も時化での休航が珍しくなかった。そのため雄冬集落は長い間「陸の孤島」と呼ばれ北海道を代表する秘境の一つであった。 国道231号線の浜益から雄冬の国道が開通し、全通の悲願が適ったのが1981年(昭和56年)11月10日のことで、これで「陸の孤島」から解放された。 しかし、直後の1ヶ月もしないうち国道上の雄冬岬トンネルで大規模な崩落事故が発生し、国道は通行不能となり、雄冬集落は再び「陸の孤島」へ逆戻りする悲劇に見舞われたのである。 復旧工事が完了し雄冬岬トンネルの再度の開通したのは、2年半後であった。だが、「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の度々の通行止めは依然続いているという。現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、又、急峻な崖から海岸線に滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである。この辺りの陸地、というより山域は増毛山地と言われ、その主峰・暑寒別岳の最高峰を(標高1,491m)中心に南暑寒岳(1,296m)・郡別岳(1,376m)・浜益岳(1,258m)・雄冬山(1,198m)・天狗岳(973m)と千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。暑寒別川の秋、ここまで来ると、山域の薄暗い雰囲気から海水浴場もある開けた長閑な地域になり、増毛の町並みも望まれる。 その河口から150m程のところに暑寒別橋があり、下をのぞくと巨大な黒いものが蠢いている、良く観ると魚の姿が所狭しと群がって川上を目指しているのである、サケだ・・!、放流されたサケたちがはるかな旅を終えて、故郷の川をめざして帰ってきているのである。ここで「鮭の遡上」を間近に観なくてはと、堰まで行くとパシャパシャと水面をたたきなから、秋サケの群が上がってくる。 60~80cm、いや、1mもあろうかと思える黒みががかった銀色の体が目の前で跳ねる迫力に、思わず後ずさりした。 堰を上るのに流れ来る水流に押し戻されては、また挑戦するサケの奮闘ぶりに思わず喝采し頑張れ・・!、と拍手を送られずにはいられない。 川面を埋め尽くし、背びれを立てて遡上し、時おり豪快なジャンプを見せる光景に暫し見惚れ感動する。その姿は自然界の神秘と生命の尊厳を教えてくれるのである。 サケは増毛にとって、かってのニシンにかわる貴重な資源だという。この川で生まれたサケは3年、4年後に帰ってきて、生命のドラマを演じていると。当河川は北海道でも有数らしく、ものすごい数の秋サケの遡上中はラジオでも報じていたようである。因みに増毛町の漁獲の統計を見ると、全漁獲のサケの割合は最盛期の半数ちかくになっているようだ。一時を楽しんだ後、増毛の町を横切って再び海岸に出ると、やがて留萌市に入った。「市」だけあってやはり大きいタウンである。 夕暮れが迫ってきたので、G・Sに寄りながら温泉地を尋ねる、市郊外に「神居岩温泉」というのがあるらしい。夕刻の時間帯で本来なら人々が活発に往来し、夕餉の支度に忙しい頃合いのはずだが・・??、何故か町並みは閑散としていた。 それが、何故か心に引っ掛かったのである。「神居岩温泉」は、留萌市街地から留萌川を渡り運動公園の手前、チョイト山に入ったところに在った。一軒宿の鄙びた温泉ホテル兼日帰り温泉施設であり、神居岩は「カムイワ」と読むらしい。 早速ながら、浴室に入った瞬間すごい臭いがした。 漢方皇源薬湯風呂とやや長ったらしい名の浴槽で、ここから薬湯臭を発しているようだ。 一方、冷鉱泉の沸かし湯もあり大浴槽に使用しているらしい。 二種類の泉質があり、どちらかというと薬湯風呂がウリのようである。 温泉は濃密な泉質を期待したが、浴感はあまり感じられずサッパリしたもんであった。泉質は、単純硫黄冷鉱泉とナトリウム-塩化物泉で、昔アイヌの人々が病気や傷を癒したとも言われており、現在も、このお湯目当の湯治客が多いとか。同じ館内には広―い和室の無料休憩所が在ったことは嬉しかった。 食堂兼休憩室で、食事をしながら今日一日のまとめを行う。休憩室の大型スクリーンが大相撲を放映していて、小生もファンである大関「魁皇」が優勝したことを報じていた。 そう、今日は日曜日だったのである。次回は、 「サロベツ原野」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.26

.「小樽運河」日本周遊;温泉と観光(13) 「小樽運河」余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。 以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。 因みに、景観100選には道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所程らしい。 ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい。当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。 当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという、これが現在の「小樽運河」である。歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であって、「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。 回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150~250万くらいの悪くない稼ぎであったという。 その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。 「ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。 しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。 帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。 だが、「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかったという。明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。 その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。 小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。 ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという・・、享年52歳。小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであった。 明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。 運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 大正12年12月には小樽運河が完成している。最盛期には、艀(はしけ)が400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽-札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。 新橋-横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。 輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか。 小樽-札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。 この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。 その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。 小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している、という点で驚異的であるという。 戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「遺産観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである。次回は、雄冬岬と神居岩温泉.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.25

.恐竜の背中の様な「神威岬」と「神威岩」日本周遊;温泉と観光(12)積丹半島 「神威岬」積丹半島・「神威岬」であるが・・、積丹半島の中央部先端が神威岬である。 そこは80mの切り立った細い岩峰が延びていて、”恐竜の背中”の様なその頂上付近には「チャレンカの道」呼ばれる、良く整備された遊歩道が付けられている。 眼下にはシャコタンブルーと言われる大海が広がり、その透明度は約20m以上ともいう。その岬の先端から沖合いには、乙女の化身と言われる、高さ41メートルの「神威岩」が天を刺している。剣状の神威岩には、ある伝説が伝えられる、『 日高地方の平取の酋長の娘「チャレンカ」は、源義経を慕って神威岬まで何十里も追って来たが、義経はすでに船出した後であり、彼女は悲しみのあまり、この岬から身を投じて果てた。 その後、彼女は岩と化し、常しえに愛を訴える神威岩になったと・・、 』尤も、北海道の義経伝説は、和人のアイヌ対策上広められていったというのが一般的らしい。この岬は、アイヌ人達によって江戸末期(1856年)こ頃までは女人禁制の地で、船に女人が乗ると海が荒れて遭難すると信じられていた。 岬の先端付近に建っている灯台は、北海道に現存する灯台としては五番目に古く、明治中期の1888年に初点灯しているという。 「神威岬」は幕末まで女人禁制だった・・、この辺りには女性を嫌う恐ろしい神がいて女性が乗った船を沈めるなどという伝説が信じられていた。実際に、この灯台を巡って遭難事故も起きている。 この神威岬の海岸には大人が立って歩けない程の小さな手掘りのトンネルが今も残っているという。何故、このトンネルが堀られたのかは、大正元年10月に神威岬灯台職員の悲しい出来事があったからと言われてる。神威岬灯台は明治21年に建てられ、当時、灯台職員とその家族が居住していた。 家族は、買い物をするのにも余別の部落(神威岬の東)まで片道4KMの山道を通らなければならない生活をしていた。その山道は、馬の背のような崖の道が続き、強風で一歩踏みはずすと海に転げ落ちそうなところが何カ所もあった。 荒れた日などは子供や女性はとても歩くことが出来ず、海岸の岩や大きな石を飛び跳ねながら歩くのが普通であったという。 切り立った崖からは落石があったり、特に絶壁が海に突き出たところなどは、凪の日や干潮時を見計らって波の間をすばやく渡らなければならなかった。1912年(大正元年)10月の或る朝のこと、三歳の次男を連れた灯台長の奥さんと、若い職員の奥さんが食料品の買いだしのため、海岸を歩いて余別の集落まで出掛けた。 行く途中、その危険な岩場で思いがけない大波が寄せ、一瞬のうちに三人は海にのみこまれ行方不明になてしまったという。この事故以降、村人はトンネルを掘るよう役所に陳情したが、「一般の道路でないため作れない・・、」と断られてしまう。 そこで村人は、自らトンネルを掘る作業を開始した。 そのころは現在とは違い満足な道具もなく、すべて手掘りであった。 両方から掘り進めるうちトンネルの中央が食い違ってしまい、困り果てて作業は中断していたが、ある日、反対側からハンマーの音がかすかに聞こえてきた。 今度は両方から鐘を鳴らして実験をしてみたところ、かすかにお互いの鐘の音が聞こえ位置の確認ができた。中央で食い違っていたトンネルが少しずつ近づき、誰からともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えながら堀り進み、遂にトンネルは貫通したという。 それ以来、誰言うと無く、このトンネルの名は「念仏トンネル」と言うようになり、念仏を唱えながら通ると安全だと言い伝えられている。今、このトンネルの前に、「念仏トンネル由来の碑」が立っているという。ところで最近、日本の灯台の全てが自動制御になっており、従って灯台守、つまり現在「灯台」で暮らしている人は殆どいないといい、目の前の官舎は専ら灯台の航路標識事務所になっている。 実際は灯台守、つまり海上保安官が灯台の保守管理などの仕事しているが、やはりこちらも人員に余裕はないらしく、非番(当直明け)の時はもちろん休みの時も、灯台やブイや機械に不都合があれば容赦なく呼び出され、夜や荒天時の出動もあるという。小生、幼少の頃習った好きな歌の中で、「灯台守」があった。『灯台守』 イギリス民謡 凍れる月影 空にさえて 激しき雨風 北の海に真冬の荒波 寄する小島 山なす荒波 猛り狂う思えよ 灯台 守る人の その夜も 灯台 守る人の尊きやさしき 愛の心 尊き誠よ 海を照らす「ソ-ラン節」と並ぶ北海道のもう一つの民謡に、先に紹介したが「江差追分」があるが、この江差追分の数多い歌詞は、義経伝説や神威岬以北への和人や婦女子通行禁止を背景にして作詞されたものと言われる。『 蝦夷地海路の 御神威様はネー なぜに女の足とめる 』、 「御神威様」とは神威岬のことである。次回は、小樽運河.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.01.24

.台風直後、通行止めの国道229号線と積丹岬の「島武意海岸」周遊紀行;温泉と観光(11) 「積丹半島」積丹は「ソーラン節」の発祥の地・・、「半島」に到って、国道229から神威岬を目指したが神恵内(かもえない)地区で通行止めに合ってしまった。 バリケードが有り一人のガードマンが立っていて、左側に案内板には・・、『 通行止の案内 国道229号 神恵内村大森~柵内間 災害のため通行止 』 と有った。災害というのは今年(2004年)の「台風18号」の事である。 九州をかすめて日本海に出た台風は、9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を北上して、衰えるどこか発達して、網走管内雄武町で最大瞬間風速51.4m、札幌市でも50.2mを観測し、北海道大学の銀杏並木や大通り公園の樹木の倒壊等はTVのニュースで映像にも映された。 道内の観測点の14ヶ所でも過去最高を記録したといい、道内では死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える災害となった。その被害は、青函連絡船が強風で転覆し、約1600名の死亡者を出した1954年9月26日の「洞爺丸台風」に次ぐものではないかとも言われる。積丹半島の最大の観光地であろう神威岬や積丹岬は、半島の先端にあり本来なら神恵内の村から、車でほんの10分か15分ほどでいけるところであるが。 「神威岬」への直行は断念せずるを得ない、幸いに神恵内から峠越え(当丸峠)の道道998号線が長大な積丹半島を横断しているので、そちらから向かうことにした。 峠を越えて海岸に出た後、積丹岬へ向かうため国道229を左折して積丹岬を目指した。 大きな駐車場があったが・・、実は、ここは岬ではない、人々がやっとすれ違える背丈程の暗くて狭い「トンネル」を通過したところに、本来の岬が飛び込んできた。出たところに展望スペースがあった。 積丹の海岸美を代表する絶景、島武意海岸(しまむいかいがん)が眼下に現れた。 日本の渚百選にも選ばれた海岸であるが、ここは一見、何処かの風景に似ていた。 そう、下北の「仏が浦」である。 だがスケールは違った、仏が浦の方が雄大である。 急な坂を下ると五分ほどで積丹岬を回る自然遊歩道が延び、積丹岬灯台や女郎子岩、神威岬や遠く余市のシリパ岬も望めるという。因みに、このトンネルは観光のためではなく、明治28年ニシン漁が盛んだった頃に海岸から干場までニシンを運ぶために掘られたそうである。当地「積丹」は、嘗ては、北海道の経済的中心であった「小樽」を起点に、難所で名高い積丹半島を経て江差へと至るその海路で、ニシン漁で賑わった土地柄である。なかでも、積丹半島の歴史には鰊に因んだ数多くの伝説や逸話が今に伝えれられている。 その節、北海道を代表する民謡・ソーラン節は、ニシン漁で賑わった積丹(積丹か、余市か・・?)が発祥の地と言われている。 「ソーラン節」は、網起しによって集められた鰊を船着き場に陸揚げするため、大きなタモ(網)で鰊をくみ上げる時に歌うことから名付けられた歌であるとか。『ソーラン節』(沖揚げ音頭) 北海道民謡ヤーレン ソーラン(*繰り返し)[ハイハイ]ニシン来たかとカモメに問えばわたしゃ立つ鳥 波に聞けチョイヤサエーエンヤーサノドッコイ ショハードッコイショドッコイショ北海道は、江戸時代になってこの地を治めていた松前藩がアイヌとの交易をおこなっていたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることになった。 その後、商人が漁業を請け負う制度が発達(場所請負)し大いに栄えた。 江差地方が凶漁に見舞われた頃は、ニシンは日本海をどんどん北上し、暫くは積丹半島周辺がニシン漁のメッカとなっていたのである。百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として海上輸送がメインであった。 大正期に入り、海岸沿いの道路には大小数多くのトンネルも完成し、積丹半島も馬車交通路の時代を迎えた。 こんな時期、積丹も同様大正初期よりニシンの漁獲が落ち込んでいき、漁獲量の減少とともに多くの人々がこの地を去っていった。戦後になって「ニセコ・積丹・小樽国定公園」の指定を受けたのをきっかけに、一躍観光地として脚光を浴びるようにようになり、さらに近年、積丹半島と神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れるようになった。 「北海道遺産」とは、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、推進協議会によって選定されたものを指し、2001年10月に第一回が選定され、現在52件が指定されている。引続き、「積丹半島」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.20

.山中の鄙びた「宮内温泉」と露天風呂日本周遊;温泉と観光(10) 「宮内温泉と象の花子」象の花子で有名になった山里の湯・・、<br>北海道・渡島半島は、南北に細長く伸びた半島で全般に山が多く、それも海岸付近までせり出した山岳地域であるといってもいい。 道内における原野や平原湿地、拓けた地域の石狩平野、十勝平野などの平地といわれるところは比較的多いが、この半島にはそれらは皆無といっていい程存在しない。 しかも、この狭い幅の半島に1500m級の山も在り、渡島半島は山岳地帯中心の半島なのである。 瀬棚町から島牧村への境界地も、例にたがはず山岳地で、ここに海岸より水平にして5~6kmの地点に、標高1520mの「狩場山」が控えているのである。 その山塊は急傾斜を伴って海岸に落ち込んでいる。この断崖のような急傾地を無理やり削り取って付けたのが、今の国道229号線であり、先人のご苦労を偲ぶのみであるが。しかも、日本海に面しているので、豪雪地帯でもあり、トンネルの他に雪避けのドームやスノーシェードを多く取り付けているのも特徴的でもあろう。数々の墜道を潜り抜けてヨウヨウに島牧の集落に着き、近場に「道の駅・よってけ島牧」があって、「よってけ」と云うので寄りましょう。そう、温泉である。 案内された「宮内温泉」(ぐうないおんせん)を目指して、山中へ更に分け入った。 海岸より、泊川を遡って4kmほどの山の中に一軒宿の小さな温泉があった。途中、「熊注意」の看板が数多くあったが、背後は山合いに囲まれ、周囲には人家は全く無くなく、林の中に隠れるようにして存在している。もちろん日帰り入浴、立ち寄り湯はOKである。 玄関前に無造作にある駐車場へ悠々と留めて、いざ・・!入場、否、入湯。玄関はいると横の受付から御主人が出てきたので、入浴料金450円を支払い、早速、脱衣所へと向かう。内湯には湯船が2つあって左側が中温湯、右側が高温湯となっていて、窓の向こう側が露天風呂となっているようだ。 早速、浸かる・・。無色透明でやや塩味のするサッパリした温泉で、身体にジーンとしみわたる、 適温である。内湯もいいが、天気の良い日はやはり露天風呂である。 四角い湯船が野趣豊かに佇んでいる。 宿の主人が言っていたが、湯船には若干の「コケ」が付いてる。 これはこれで又結構である。横のパイプからは、バルブ調節も出来るだろうが、お湯がザブザブと溢れ出ている。周囲は森が広がっていて、清々しい気分になる。浴槽は広いという感じではないが、一人での入浴なので、実に極楽!極楽!あぁ~いい気分!! 宮内温泉は、江戸時代(安政年間)には発見されたという北海道でも古い温泉だという。 又、先ほど北桧山の温泉センターでチョコット聞いた話だが、この温泉は「象の花子」が湯治したとして知られているという。象の「花子」は、戦前に上野動物園にいたものが有名だが、こちらは札幌円山動物園の「花子」であった。『象の花子』について・・、宮内温泉は、ゾウの花子が湯治に来たことで有名であるとか。花子と名付けられたゾウは沢山いるが、宮内温泉に来た花子は1964年にタイのバンコクから日本の子どもたちにと先ず京都市動物園に贈られたものという。 その後、1966年にさっぽろ・円山動物園に移り、1967年の開園と同時に、今人気絶頂の旭川・「旭山動物園」にもやってきた。 しかし、越冬中に「くる病」にかかり、左後足が湾曲し立てなくなったため展示することができないと判断、安楽死させてやってくれと1968年に札幌市の剥製標本会社の「信田修治郎」氏に売却された。 当初は薬殺し、標本を北海道大学に納めるつもりであったが、病気を治してやることができると考えた信田氏が面倒を見ているうちに再び立ち歩けるようになったという。 その話がマスコミを通じて全国に広まり、日本中の子どもたちのアイドル的存在になった。その後、「ゾウの花子の会」という全国組織までできる程であった。 しかし、1970年、旭川冬祭りに出演した際に骨折症状が出てしまい、再び立てなくなってしまったのである。 そのため、その年の8月から長万部町の「二股ラヂウム温泉」で湯治をすることとなった。 だが、この温泉場は冬期間には閉鎖されるため、11月にこちらの「宮内温泉」に移転したのである。 島牧村では村をあげて「花子」を歓迎し、宮内温泉に浴槽付きの「花子のお宿」という小屋を建てて長期に渡って面倒を見ることとなった。 花子は7時から健康診断、10時に食事、16時まで歩く練習をして就寝するという毎日を送っていた。宮内温泉の滞在期間中には、「ゾウの花子の会」の招きで南米パラグアイ大使一家、茨城県議会一行が訪れるなど、かなりの人気を誇っていたらしい。 関東地区・花子後援会の会長は当時衆議院議員の三ツ林弥太郎氏であり、また、1972年には偶然宮内温泉を訪れた笹川良一氏が花子を見て感嘆、日本顕彰会から信田氏が社会福祉貢献者として表彰されたほどであった。1975年、回復した「花子」は宮内温泉を離れ、その後は本州を旅して回ったらしい。 1980年、「花子」は募金で集まったお金を元に飼主の信田とともに南米パラグアイに移住し、そこで一生を終えたという。 パラグアイでも人気があったらしく、パラグアイ日経ジャーナル創刊号は「花子、念願のパラグアイ移住、南米の大地を歩く-日本の子どもたちの夢と希望を背にして-」 という記事を表紙で取り上げている。旅館入口前の右側のスペースに花子の住んでいた小屋があったが、現在は取り壊されて残っていない。 建物の外にある露天風呂は、野放図の状態で所謂、野天風呂であった。 この地にかって、象の花子を入れるため大きな露天風呂があったのであろう。 温泉は、やや黄緑がかった色でヌルヌル感がある。表示によると、泉質ナトリウム-炭酸水素塩・硫酸塩泉、源泉の温度48.8℃は入浴には適温であろう、湧出量3000L/分と多い。実は、この宮内温泉から更に山には行ったところに、「黄金温泉」、「大判の湯」、「小判の湯」といった露天風呂があるらしい、雰囲気はいずれも熊に出会いそうな奥山である。 又、海岸より一つ手前の山路を辿ると、「賀老の滝」というのがあり、日本の滝百選に選ばれた高さ70m、幅35mの大瀑布であるとか、ここにも「千走川温泉」というのがあるらしい。いずれにしても、道南のこの辺りは、都市や主要観光地から遠く離れているので、北海道人も最後の秘境と認める地域・島牧村である。 狩場山を中心とした、周囲は人家もまばらな地で、結構、良い温泉が点在しているようである。【宮内温泉データ】宮内温泉旅館 http://www.guunaionsen.ftw.jp/ tel 0136-75-6320【泉 質】 ナトリウム-炭酸水素塩・硫酸塩泉(旧:含芒硝ー重曹泉) 無色透明・微妙塩味・無臭【泉 温】 49度【湧出量】 自噴毎分3000 リットル【施 設】 内湯男女別 1 浴槽 2 露天風呂男女別 1 無料休憩室1 洗い場にはシャンプー類あり・タオルなど持参次回は、 「積丹半島」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.19

.日本周遊;温泉と観光(9)知内・福島 「歌手と横綱」歌手の横綱と相撲の横綱の地・・、国道228の海岸の際を走る。 車窓を開けて気持ちよい潮風を吸いながら、「道の駅・しりうち」で一息入れる。 気がつくと「北島三朗の故郷」と大きな看板が目に入った。 そうなのだ・・!ここはサブちゃんのふるさと・出身地である。小生も含め、演歌好きの大多数は、北島三朗のファンでもあろう・・?。 演歌ひとすじ三十余年・・、「女シリーズ」、「仁侠シリー」、「一文字シリーズ」をはじめ、ヒット曲多数。 長年に亘る舞台公演やTV 時代劇など出演し役者としても高い評価を受ける。 新宿・コマ劇場の公演を二度ほど拝見したが、その情熱と豪華絢爛の舞台には思わず拍手を送った。 海外公演も多く、文化人としても国際交流に貢献しているともいう。観客の拍手を勲章とし、終りなき芸道を今も現役で歩み続けている。北島三朗の地元での談話『 知内町で生まれ育った私にとって、知内町は「心のふるさと」です。 毎年8月のお盆に故郷に帰ると、子どもの頃、海や川で泳いだ事、 森にカブト虫を探しに行った事、秋サケの遡上を見に知内川に出かけた事、冬手づくりスキーで朝から夕方まで遊んだ事。 などが思い浮かび「自然豊かな知内町」を痛感する次第です。 是非、一度、私の生れ故郷「知内町」へ遊びに来て下さい。 』次に、やって来たのは「福島町」である・・、 街へ入って間もなく、今度は元横綱「千代の山・千代の富士」の記念館が目に付いた。 一段高いところに鉄筋コンクリート造りの建物で、正面に土俵入りを模った銅像と大きな太鼓櫓に旗幟(のぼり)が風に揺れていた。この両横綱は、こちら福島町の出身であった。先ずは、往年の相撲ファンならよくご存知の、第41代横綱・「千代の山 雅信」(ちよのやま まさのぶ)についてである。始め、双葉山の所属する立浪部屋への入門を希望していたが、「双葉山に勝てる男になるために”」と言われて1942年(昭和17年)敢えて「出羽海部屋」に入門した。 最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元三代目・両国)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。戦後の娯楽の少ない時代に、ラジオから流れる大相撲放送は何よりも楽しみであった。小生も小さいながら(小学生)相撲好きの父と一緒に、夢中になって聞いたもんである。 当時は「大相撲全盛」の時代でもあり、四横綱の羽黒山、東富士、照国、そして千代の山といわれた「横綱四天王」の時代であり、中でも千代の山が一歩抜きん出たように思っていたが。 現在では最も多くの横綱を輩出している北海道だが、その第一号はこの「千代の山」であった。 武器は突っ張りで、初土俵から9場所で入幕し、いきなり全勝する。 前途将来を嘱望されるが、体の故障と気の弱さがたたり、昭和28年に「横綱返上問題」を起こしてしまい、期待されたほど大成はしなかった。昭和42年1月場所の後、年寄「九重」として出羽海部屋から独立する。実際は出羽海一門から破門された形となり、このことが話題にもなったが、「北の富士」(北海道美幌、留萌、旭川出身の第52代横綱、現、NHK大相撲専属解説者)を育てている。 尚、千代の山は「吉田司家」ではなく、相撲協会が推挙する形式になった第一号の横綱でもあるという。因みに、横綱に推挙された力士は、横綱推挙式と共に初めて披露するのが奉納土俵入りで、明治神宮において行われる。明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(大正9年に創建)の神宮外苑における地鎮祭の奉納相撲に始まり、次いで明治神宮創建(明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする)を奉祝して相撲大会が行われた。 横綱の推挙状授与式について・・、 横綱の推挙状は江戸時代からはじまり、元より相撲司(平安時代の頃、相撲大会にあわせて式部省が設置された臨時の機関及びその任にある者)の「吉田司家」からその邸宅の祭場で授与されていたようである。 横綱に推されたら力士は、吉田家に赴いて荘厳な雰囲気の中で起請文を差し出し、司家から免許状や故実書(過去の事を記入してある書類)、そして「横綱」を授かったという。第40代・東富士までは司家より横綱免許状が出されていたが。しかし制度が変わり、昭和26年第41代・千代の山より明治神宮の神前において相撲協会から推挙状が出されることになったという。 神前ではじめて横綱推挙式と手数入り(でずいり:土俵入り)が行われ、以来、恒例として横綱推挙式は明治神宮で行われることとなっている。 序(ついで)に、「手数入り」の「でず」とは「技・わざ」を意味し、吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来するという。更に序ながら「相撲の歴史」について簡略に・・、日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(タケミナカタノカミ:大国主の子・諏訪大社祭神)と建御雷神(タケミカヅチノカミ:高天原の神・鹿島神宮の祭神)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が「相撲の起源」とされる。又、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとしては、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速 (たぎまのくえはや))の戦いであるとも・・(これは柔道の起源ともされている)。時代が進み平安期の頃は、相撲はいつしか闘いよりも、豊作を願い神に奉納する神事や余興になっていた。戦国時代になると、再び武術としてのは相撲を奨励するようになり、戦国大名・織田信長も毎年大勢の相撲人(すまいびと)を集めては上覧相撲をとり行った、今の土俵の原形は信長による発案だと言われる。 またこの頃より、弓取り式、力士の四股名そして行司も登場したという。相撲が武術として大きく発達した時代であり、力士が武士(もののふ)である由縁もまたここにある。江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為の庶民的な勧進相撲になり、年寄り株制度の原型や改良された土俵、四隅には柱が立てられ櫓が組まれた。 決まり手も48手が成文化され、いよいよスポーツとしての相撲が始まった。大相撲としては、江戸時代後期に入り、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸期の相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、「雷電」や「不知火」が活躍したもこの時代である。 昭和時代になると土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前・戦後のラジオ中継に続きテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。 近年、相撲は国民的な娯楽になり、近代スポーツとしての確固たる地位を獲得し、長大な歴史のある「相撲」は、時代に留まることなく今も進化し続けている。 しかし、外国人が台頭する今の大相撲の実情を憂う声もある。次に、昭和後期の名横綱「千代の富士」である。第58代横綱・千代の富士 貢(ちよのふじみつぐ)は・本名は秋元貢、身長183cm、現在は年寄・九重。 現役時代の異名・愛称はウルフと称した。史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数の大横綱で、小兵ながら速攻と「上手投げ」を得意にして一時代を築いた。 立ち会い一瞬で左前ミツを拝むように掴むや否や電車道で土俵際に追いやり、最後は返す刀で鮮やかな投げ技で相手を土俵に叩きつける豪快な相撲っぷりは見事であった。右上手、左前三ツの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。四股の美しさも特筆すべきもので、高々と上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。 横綱 『千代の富士』経歴幕内優勝 31回(全勝優勝7回、歴代2位)殊勲賞 1回、敢闘賞 1回、技能賞 5回通算成績 1045勝(史上最多)437敗159休場所数 125場所 金星 3初土俵 昭和45年九月場所(15才)新十両 昭和49年十一月場所(19才)新入幕 昭和50年九月場所(20才)横綱昇進 昭和56年七月場所(26才)現役引退 平成3年五月場所(35才) 次回は、宮内(ぐうない)温泉と「象の花子」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002.
2010.01.18

.汐見橋より見た「湯の川温泉」の夕景日本周遊;温泉と観光編(8)函館 「湯の川温泉」函館の癒し場・「湯の川温泉」へ・・、先程予約しておいた本日の宿・「湯の川温泉」へ向う。 夕刻も深まった函館市内は時間帯のラッシュ時で、首都圏並みの渋滞気味であった。市街地より沿岸に沿って東へ凡そ5km程であろうか、町内の一角、海岸沿いに温泉タウンはあった。湯の川温泉は「函館の奥座敷」、「北海道三大温泉」の一つに数えられるとともに、道内でも指折りの古湯という。 脚光を浴びたのは、承応2年(1653)に遡るといわれるが、古湯とはいっても比較的新しいほうであろう。松前藩の藩主の子・千勝丸が、医師も見放すほどの重い病気にかかり、藩主は千勝丸のために家来たちに温泉を探させた。 その時に発見されたのが、この湯の川温泉だと言われている。その湯に千勝丸を湯治させたところ、まもなく全快したといい、以後この湯が病気に効くことで、病弱な人たちに重宝されてきたという。その後、戊辰戦争、明治維新(1868年)の折には、榎本武揚、土方歳三率いる旧幕府軍と新政府軍との間で起こった箱館戦争では、傷病の兵士たちの療養にも使われたそうである。「湯の川温泉」の湯の川はアイヌ語でユペツと言い、ユ(ユウ)は湯とか温泉を意味し、ペツ(ペット)は川を意味する言葉で、つまり温泉の川、湯の川と呼ばれていた。 「湯」はサラリとした感触で無色透明、泉質はナチリウム・カルシウム・塩化物泉で慢性リューマチや神経痛に効果があるといわれている。 特に、温泉に浸かりながら眺める津軽海峡のイカ釣り船の漁火は、函館の風物詩として全国の温泉愛好家憧れの的となっていると。 公衆浴場は3軒、「日の出湯」、「長生湯」、「永寿湯」が存在する。どれも地元の人が多く通う浴場である。中でも永寿湯は湯の温度が40~45度と熱いので有名だとか。小生が泊まったのは温泉街の中程にある「ホテル新松」である。 一流観光ホテルのピカピカさは無く、どちらかと言えばビジネス観光ホテルの気安い格安ホテルであろう。しかし、部屋の調度といい、温泉浴場といい不足は無い。浴槽は広く、やや高温の源泉がタップリと流入し、その分が掛け流されている。やや、きな臭い温泉臭がただよって、入ると熱めだが体に馴染んで気持ちがいい。 ジックリ入ってると温泉効果も十分期待できそうである。 宿の食事は、絶品豊富で食べきれない程で、「ウニ」や「イクラ」がたっぷり入った野菜鍋も実に良かった。ところで小生は、一般に温泉宿に泊まった場合、夕・朝で少なくとも3回入る事にしている。 宿へ着いたら先ず体をほぐすのに一風呂、就寝前に歯の清爽と合わせて浴びて、朝は目覚めと洗顔とリフレッシュのため入ることにしている。 朝は顔と体を軽くマッサージしながら、湯疲れしないためにも短時間にするのが良いだろう。次回は、「知内、福島」の記念館【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.17

.同様に稚内公園(望郷の丘)に立つ「氷雪の門」日本周遊紀行(52)稚内 「氷雪の門」さて次に「氷雪の門」とは、戦後、樺太における邦人の苦難の過去、歴史を示した慰霊の碑である。ソ連軍の侵攻を知った樺太の日本人は、北海道へ緊急避難することを決め輸送を始めた。この時は、あの北支満州へ侵攻したのと同様に、樺太でも大混乱を極め、港へ着くまでは様々な苦労が有ったと言われる。 先ず、ソ連の潜水艦が出没、留萌沖では「小笠原丸」などが魚雷攻撃で沈没、1800人の犠牲者が出した。樺太・大泊港はソ連軍によって封鎖されるまで77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという。 樺太と千島の戦闘では、日本軍3000、民間人3700人が戦死している。このことは8月15日の日本の無条件降伏が決まった終戦後のことである・・!!。 更に、68000人の邦人はシベリヤに抑留され、強制労働を強いられた。この門は、これら戦時、否、戦後における望郷の念と、樺太で亡くなった日本人を慰霊する為に建立されたもので氷雪の門の間には、氷雪に耐え、たくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像が立っている。「引揚船」について・・、不可侵の約束を一方的に破ったソ連軍の侵攻が満洲・樺太・千島などではじまり、北方では樺太の老幼婦女子や逓信省職員の北海道への避難搬送が急務となった。 そこで依頼を受けた「小笠原丸」は、8月17日に急遽稚内港を出発して樺太南端の大泊港へ急行し、そこで約1500名の引揚者を乗せて稚内に運んだ。 しかしまだ大泊には数万の避難者がおり、休むまもなく「小笠原丸」は2度目の搬送のため大泊に向かった。8月20日出発して同午後に大泊に到着、やはり約1500人を大至急乗せて午後出航し稚内に帰港した。 ここで1500人中900人を降ろし、残りの600人を乗せて、北海道西側海岸沿いに稚内から小樽へと急いだ。 しかし、航程あと3分の1で小樽・・というところで、惨劇が起こったのである。このときの「小笠原丸」は、もう戦争は終わったからと安心して灯火管制もせずにいたのだが、8月22日午前、突如として潜水艦による魚雷攻撃をうけ、たちまち沈没してしまったのである。海岸(増毛町)から約4海里(1海里は1852m)の場所だった。 浮かび上がった潜水艦は、海面を漂って助けを求める婦女子たちに機銃掃射を浴びせて虐殺また虐殺、十分に殺し終わったところで悠々と姿を消したという。老幼婦女子600人の他に乗組員と警備隊が100人ほどいたが、その一部が救命艇に乗って陸地に急ぎ、漁港に急を知らせた。 知らせをうけた漁港では至急漁船で救助に向かったが、乗船者の多くは船室に詰め込まれていたのと、危うく海面に逃れた人たちも機銃掃射で虐殺されたのとで、一般乗客で海岸にたどり着き運良くボートに乗れたのは、わずか19名だったと言われている。 また甲板にいて、かつ泳ぎの達者な乗組員と警備員も、助かったのは4割のみであったという。同じその日、その付近で、やはり緊急手配された引揚船の「第二新興丸」(2500トン)と「泰東丸」(880トン)も同様に魚雷攻撃を受けた。 小型の「泰東丸」は撃沈されて生存者はなく・・、大型の「第二新興丸」は大破されて多くの犠牲者を出しながらも、かろうじて近くの留萌港にたどり着いたという。「泰東丸」の犠牲者数は約400名、「第二新興丸」のそれは667名だったと言われている。じつは「第二新興丸」には、用心のために小さな大砲が積まれていた。 潜水艦は民間船というので油断して浮き上がったため、この大砲による日本側の必死の反撃によって、敵潜は沈没したという。 だが沈没した潜水艦が、他の2隻に魚雷を発射したものと同じだったのかどうかは分からないという。いずれにせよ、結局、合計して1700名余(あとの調査で1708名とされたらしい)の老幼婦女子が戦争終結後に犠牲になったわけで、空前の残虐行為であったことは確かである。 緊急避難時だから乗客名簿などあるはずもなく、したがって遺族にとっては、海で犠牲になったのか陸で殺されたのか、それとも樺太のどこかで生きているのか、それすらも長いことわからないと言われる。南無阿弥陀仏・・!!。この後は同じコース(函館から)で「温泉と観光」を訪ねます。【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.16

,稚内公園(望郷の丘)に立つ「九人の乙女の碑」日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」野寒布岬を後にして、海岸に沿いを「稚内」の市街地へ向かう。海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。 又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。その「九人の乙女」のことであるが・・、日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。『戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・、」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。 戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。』しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』と、一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる。昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。昭和天皇の詠み歌 『なすべきを なしをへてつひに 命たちし 少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』香淳皇后の詠み歌 『樺太に つゆと消えたる 少女らの みたまやすかれと ただにいのりぬ 』昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。次に同じく稚内・「氷雪の門」、【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.15

,野寒布岬(現在時間を表している)日本周遊紀行(52)稚内 「野寒布岬」「もう、これ以上北へ行く、先の道はありません」・・、ノサップ(野寒布岬)の最先端部である、敢てゆうなら最北第二の岬・・?へ遂に来たのである。北端の地は、タイル貼りされた小奇麗な園地の中央にイルカのモニュメントがあって、何故か、その上に大時計がぶる下がっていた、時に10時30分を指していた。実は、日本最北の地は稚内の東にある宗谷岬であるが、ノサップ岬(野寒布岬)は稚内市街にも近いせいか周囲にも人家も結構多い(航空自衛隊の基地も近くにある)。 日本海の夕陽が綺麗ということもあるが、名前の通った宗谷岬に比してやや地味なのは否めない、果たして・・?。宗谷岬は、これから向かいます。ノサップ岬の名・野寒布岬は、根室のノサップ岬・納沙布岬と紛らわしい。 あちらは日本最東端で日の出の岬、こちらは日本最北端(二番目)で夕陽の岬であろう。「ノサップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味であるらしい。 確かに地図を見ても、宗谷が上顎、野寒布が下顎で宗谷湾の口を開けている様子が判る。 一方、根室の方はやはり下顎に納沙布、上顎に知床で根室海峡が口を開き、しかも国後島を今にも噛み付こうとしている、「国後は俺のもんだ・・!!」と云わんばかりに。 ノサップのアイヌ的解釈は的を得ていると思われる。岬の隣に「ノシャップ寒流水族館」があった。月曜の午前ということもあって小生以外の入場者は見当たらないろうであるが、入場口近くで若い女性がアザラシに特訓をしていた。 多少の挨拶的会話をしながら、気がついたのが水槽の中央にかなり大きめの一頭のアザラシが半身を出して直立不動の姿でじっとしている。「このアザラシはどうしちまったのですか・・?」「日向ボッコしてるのでしょう、もう歳ですから!」「・・? 水中で日向ボッコ」・・?、「歳とると、動物も人間も一緒だね、日向ボッコは・・、」館内に大回遊槽が有った。そこにはホッケ、カレイに混じって幻の魚と言われる巨大な「イトウ」がいた、 あれっイトウが海水に・・?「イトウ」という魚・・?、ところで、長い間イトウは完全な淡水の魚であると思われてきたが、現在では中には降海する固体がいることが確認されていると。 降海すると言っても、沿岸部での生活がほとんどで、遠洋にでることはないという。かつて、イトウは北海道だけでなく、岩手県以北に広く分布していたことが知られているが、青森県小川原湖付近にて1940年4月に捕獲されたものが最後の記録となって、その後は姿を消しているという。一般的に、サケ・マスの類の魚たちの産卵期は秋であるが、イトウは春に産卵をするという、このことは寒冷な気候に影響を受けたことが要因であるとも言われている。 性質は非常に獰猛で、反面強い警戒心を持っている。 強さと臆病さが混在した性質が特徴的だと言えるだろう。 成熟するまでにオスで6年、メスで8年かかる。体長も30センチメートルになるまでに5年、1メートルクラスになるには15年以上かかると言われている。 イトウが幻の魚と言われている所以には、こうした時間のかかる成長過程が背景にあるものだと思われる。どちらかと言えば鈍重なボッーとした顔をしている印象を受けてしまうが、これはイトウがそうした生きるためのスピードを必要としなかった。必要とする場所に生息してこなかったという歴史がそうさせているのだという。 丸太のように太く長い体は、イトウの鈍重な印象を強くしていると。アメマスの仲間にも言えることであるが、こうした湿原の川に棲息している魚類としては、太く丸い体形が向いているものと言われる。 ヤマメやニジマスなどのように、速い流れの中をスピードつけて泳ぐ必要がないのだから、そうした環境に適応した結果、現在のイトウの体形であるのだろうと想像されると。 非常に貧食で主に魚を食すが、大きく成長したものはカエル、ヘビ、ネズミなどの小動物さえも丸呑みにしてしまうと言われ、その食性にからむ伝説は数知れないという。次回も「稚内」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.14

天塩川河口・鏡沼海浜公園に「松浦武四郎」像と歌碑が立つ日本周遊紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」歌碑より・・・、『蝦夷人の みそぎなしける 天塩川 今宵ぞ夏の とまりをばしる』『ながむれば 渚ましろに 成にけり てしほの浜の 雪の夕暮れ』国道232号沿いの「道の駅・てしお」に着いた。赤レンガの建物が印象的な静かな道の駅で、ほぼ町の中心街に位置しているようだが、手塩の町そのものが全く静かなのである。北海道開拓の歴史は、アイヌ語で「ベツ」と言われる「河・川」から始まったといわれるが、尤も、文明の発祥、人の生活基盤そのものが、川から始まったのであるが。 原始林に覆われていた北海道で、唯一の交通手段は川船だったのである。天塩町は、北海道第二位の川といわれる天塩川の河口にあり、川の恩恵を存分に受けている。無論、海、川の船運を基盤として発展したものであろうが。天塩の地名は古くから使われていて、「天塩の国」と云われ、古い文献にも良く登場している。 明治期まで十勝、釧路、石狩などと同じように増毛から稚内あたりまでの広域を「天塩の国」と呼んでいたようで、遠くシベリア・沿海州にまでつらなる太古からの歴史を持っていたともいう。北海道は勿論、東北北部からは大陸は目の前にあり、縄文期のころより相当なる繋がりを持ってはいたのは確かなようであり、天塩川河口の川口地区には当時の大きな集落跡があり、先住民族の遺跡が残されている。復元された竪穴住居は千数百年前の擦文文化期(さつもんぶんか)の頃といわれ、当時の住居を模してつくられたものでである。 擦文文化期とは北海道特有の文化で(一部、青森県北部も擦文文化圏に含まれるようであるが)、縄文後期には本州より弥生文化が伝わり、この時期に弥生と縄文が融和混合した頃の文化をいうようであり、本州の古墳時代から飛鳥時代に相当する年代でもあると。 縄目の模様の縄文土器に対して「擦文式土器」とは、刷毛で擦ったようなの文様の土器が登場したことによるもので、その時代は北海道と本州の関係は更に強まり、本州北部の文化とほぼ同じになったとされている。 擦文人の集落は河川のまわりに立地していて、その集団は縄文人を祖先にもち,後世のアイヌ民族を構成した集団でもあるという。因みに、北海道の文化の変遷をみると、縄文時代(前期、中期、後期などに分かれ、1万から2千年前)、続縄文時代(2千年前、石器・鉄器:青銅器の併用時代)、擦文時代(5、6世紀~ )、アイヌ時代(12、13世紀~ )に概ね分けられるという。天塩町は、明治期の北海道開拓史以前から日本海、天塩川での船の往来が多かったところである。特に、江戸期には「テシホ場所」が置かれ、交易や漁業が繰り広げられ、当時の天塩川河口には7~8百石積の船(大型和船)が行き交い栄えていたといわれる。 その後暫時、開墾を繰り返し、次第に町としての機能を形成し、大正期には木材積載船で賑わう港町として栄えるなど、町は一気に人口を増やし市街地がにぎわいをみせることになる。手塩の街のイメージは、やはり大河・「天塩川」に重なるのである。天塩川(てしおがわ)は、北見山地、上川町の北に位置する天塩岳付近に源を発し名寄盆地を北上、音威子府(おといねっぷ)から天塩平野に出て幌延町と天塩町の境を西へ流れる。しかし、海岸目前で浜堤、砂丘に行く手を阻まれ、従って、海岸線沿いを10kmほど南流した後日本海に注ぐことになる。 長さ256kmは日本で4番目に長いが、大きな支流が少ないため、流域としては10番目にとどまるという。 天塩川の流域を地図で追って行くと音威子府(おといねっぷ)から先の下流域の平地に至ると、いたる所に三日月湖が残されているのが判る。特に顕著なのが幌延町の南部にある湖・沼などが歴然としている。 「三日月湖」(みかづきこ)とは、蛇行する河川が長期の侵食などの影響により河道を変えてしまった際、旧河道が取り残されて池や湖となったものである、河跡湖(かせきこ)とも呼ばれる。 多くの場合、この湖が三日月形となっているため三日月湖と呼ばれる。「北海道」という名は探検家・「松浦武四郎」が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話から誕生したという。天塩川流域に関する詳細な調査は、江戸幕府の命を受けた松浦武四郎が最初で、幕末の安政4年(1857年)6月のことであった。 その調査記録を要約・刊行したものが「天塩日誌」であり、日誌には、それまで知られることのなかった蝦夷地最北端の内陸部の様子を詳しく観察し、川の流れや深さ、川岸の様子、自然や生き物をアイヌ語地名とともに記されていると。 そこには、アイヌの人々の生活の様子とともに前人未踏の天塩川の自然が描かれてると。 又、武四郎はその中で、音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの家に宿泊し、「アエトモ」という長老から話を聞き「ホッカイドウ」という名の発想をしたという。 武四郎は、アイヌの言葉を十分理解していたが、「カイナー」(男の意、カイチーが女の意)という言葉を不思議に思っていた。アエトモは「カイ」とは「この国に生まれた者」という意味で、ナは敬語であると武四郎に話した。 武四郎はこれを元に、この国は「北のカイの道」である、つまり「北加伊道」と命名し、その後「加伊」を「海」にあて「北海道」という名が誕生したという。音威子府村では「北海道命名の地」を宣言しており、天塩川の川辺には碑が建立されている。 又、手塩町の天塩川河口には「松浦武四郎」の像が立つ。天塩・テシオとは、アイヌ語のテッシから由来されており、「梁」(やな:川の瀬などで魚をとるための仕掛け。 木を打ち並べて水を堰1ヵ所に流すようにし、そこに流れて来る魚を梁簀(やなす)に落し入れて取るもの)を意味している。これは、天塩川に自然に出来た、梁のような場所が数多くあり、天塩川をテッシ・オ・ペツ、魚を捕獲する梁のようなところがたくさんある川という意味からから転訛したといわれる。次回は、最北・「稚内」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.13
.日本周遊紀行(50)遠別 「稲作北限」初山別の風光の良い日本海道から、遠別町の「道の駅・富士見」へ来た。 富士見という名称が少々気になったが・・、小生が住んでいるのは関東圏は西部の神奈川県であるが、周辺地域には所々にその富士見という地名や所名は在る。 勿論、日本一の富士の山が見えている。 又は、かって見えていたという意味合いからである。道の駅の裏側高台には、憩いの場所「富士見ヶ丘公園」の広大な緑地があった。 そこの展望台からの眺めはすこぶる良い、遠別川とその向こうに遠別の町並みが望まれ、正面は紺碧の日本海であった・・、とその右手洋上に浮かぶのは利尻島と利尻山、つまり秀峰・利尻富士だったのである。 ハハーンこれで納得した、「富士見」は利尻富士のことだったのである。ここから眺める遠別地域は、遠別川を中心とした美しい景観が連なる穏やかな雰囲気が伝わり、周辺は丘陵地帯が大部を占めるが、遠別川に沿って田園も広がっている。 生活基盤は、日本海の恵みを受けた漁業が中心の地であろうが、水田が広がる農業もそれなりの生業であるようだ。この地が水稲の北限と言われる・・?、稲作の北限・・??、 遠別の地域そのものが既に日本列島の最北の地なのである。云うならば「水稲稲作の最北地」と表現した方がよさそうである。この辺りの沿岸地域は、酷寒の北海道の北域にも関わらず対馬海流(暖流)の影響により比較的温暖といわれる。合わせて南部にピッシリ岳(1,031m)を主峰とする天塩山地が連なり、この山地に源を発する遠別川は延々80km余にわたるが、この川の水温が、この地にしては比較的高めであることが幸いしているという。これらが、遠別川流域での日本における“水稲北限の地”でもあるとの理由とか。 しかも、世界的に見ると遠別町より北部の地域での稲作は行はれているが、その殆どが陸稲であるとのことであり、水稲としては世界最北の地でもあるらしい。ところで、稲作の発祥源は・・?、明治30年頃、遠別町に初めて入植したのが越前福井の武生(たけふ)の団体であった。 その後、愛知、千葉、熊本県等の団体が入植し、個人移住も続々入植したという。北海道入植者は何処も同様に、特有の原野、密林の開墾から始まる。 それらの伐採、土地の開墾、そして耕作は困難を極めるが、当地への入植は時代も進んでいて機械化も進み、遠別の地性(地勢)もその割りに良かったのだろう、入植は淡々と進んだようである。 開基以後、遠別の農業は馬鈴薯、麦や豆といった畑作が中心であったが、越前団体らは入植後すぐに水稲栽培を試み、試行錯誤のうえ国土の最北地に稲作を実らせたのであった。尚、越前・武生は、福井県・越前平野の最南端にあり、古き越前の国の国府(奈良期の政庁)が置かれていて、かつては「府中」とも呼ばれた。( 旧武生市役所や公会堂は旧国府跡地)この越前平野は、県内の水田面積の凡そ半分を占める大稲作地帯が広がり、国内でも有数の米どころである。 この地は又、大陸から「越の国」(当時は北陸地方一帯を指す)へ弥生の文化、文明が直接伝わった所でもある。 その中心が「武生」であり、越前平野へ稲作文化を広めていったともいわれ、いわば、わが国の稲作の発祥の地の一つと言えるのである。 これら、稲作の遺伝子を持つ人々が、最北の地・遠別を目指したのであった。武生の人々に倣って各地域で水田熱が起こり、大正10年頃には急速に水稲栽培が本格化したという。因みに、現在も当地区出身者の人々が、四世を中心に多数生活していることか。この地名の由来は、内地からの遠い別れの地「遠い別れの地」、「遠別町」などと想像してしまうのだが・・?、実際はアイヌ語の「ウイベチ」(相語る川)からだという。他に、「ウイエベツ:さわがしい川」、「ウエンベツ:悪い川」という意味でもあるというが・・?、稲作の実る肥沃な地を造りだす川にして「悪い川」と言うのはチト頂けないが・・?。次回は、「手塩」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.12

.ウミガラス(オロロン鳥) 資料スタイルがペンギンによく似ている麗しき海鳥。ウミガラスの鳴き声は「ウォルルン オロロロ・・・」と鳴き、その鳴き声が「オロロン」と聞こえたところから、「オロロン鳥」と呼ばれている。絶滅危惧 1A 類(ごく近い将来に絶滅の危険性が極めて高い種)に指定されている。現在、日本では天売島だけで繁殖しているが、2004年、2005年と2年連続で繁殖数が0羽となった。この優雅な「海鳥」は最早、日本国内では見られないかもしれない・・!!。日本周遊紀行(49)羽幌 「天売島と海鳥」小平の「ニシン番屋」の道の駅に沿って海岸を一直線に延びる海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言う。小樽より国道231、国道232・サロベツ原野を経て稚内を結ぶ、日本海広域観光ルートであるが名称の由来は、あの「オロロン鳥」に由来する。羽幌町に到った。 後に、この町の海岸沿いにあるホテル・「サンセットプラザはぼろ」に泊まった折、洋上に焼尻島や天売島が望まれた。 日本で唯一の繁殖地といわれるオロロン鳥(海ガラス)がいるのは、この「天売島」(てうりとう)である。 その天売島へは、この先、羽幌の港より凡そ一時間の距離であるが。 天売島は人間と海鳥の「共生の島」といわれる・・!!。 周囲約12kmの小島で、羽幌から約27km沖合の日本海に浮かぶ。北海道本島に面した東海岸に400人近くが住み、高さ100m以上の断崖が続く西海岸には、八種類百万羽近くの海鳥が3月から8月にかけて、繁殖のために訪れるという。天売島に初めて倭人が住みついたのは江戸時代で、ニシンなどの豊富な資源に目をつけてだといわれるが、それまで天売島は、ほとんど人間が住み着かない「海鳥の楽園」だったに違いないと。以来、200年にわたって人間が定住し、海鳥との共生が続いているという。 この規模の島で、これだけ多くの海鳥が繁殖し、しかも、人間が生活を営んでいる地域である例は世界的にあまりなく、その意味で貴重な「共生の島」であるといわれる。 島は、周囲約12km.で砂浜はまったくなく、石と岩場の海岸で最高点184m.の西海岸付近が海鳥などの繁殖地である。 鳥類は、島の北西海岸で断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥が棲息する。 島民の生活基盤は漁業、観光で年間約3万人近くが訪れるということで、羽幌町からフェリーと高速船が出ている、ただし、高速船は6~8月のみとのこと。 ところで、近年になって人間と海鳥の「共生の島」も人間による様々な影響で海鳥に「変化」が現れているという。先ず、1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた「サケ・マス流し網」漁業による混獲で、夥しい数の潜水の名選手であるオロロン鳥が犠牲になったという。 もう一つは天敵のカモメや、島民・観光客が出すゴミに集まる海ガラスならぬカラスが増え、繁殖群が縮小され集団防衛できなくなったオロロン鳥は、卵や雛を捕食されやすくなったことなど。 又、オロロン鳥のみならず、ケイマフリ、ヒメウ、ウミネコなども減少し、海鳥の繁殖地と漁場が同じなので、延縄漁の仕掛けや、他の漁具で犠牲になっていることもあるという。 又、人為的なものもあって、プラスチック類の投棄、ゴミ類での汚染など、観光客によるマナーの悪さも挙げられるという。一方、世界各地の海鳥生息地では、一般的に古来よりの変動減少は余り見られないという。 日本では天敵の害よりも人為的によってオロロン鳥や他の海鳥の捕食食糧になる魚類を乱獲し減少させ、絶滅に追いやったともいわれる。1938年(昭和13年)、天売島が海鳥繁殖地として、国の天然記念物に指定された頃は、オロロン鳥は40,000羽いたという。 1956年(昭和31年)以降はニシンは凶漁で、それ以後ニシン漁業は消滅するが、同時にオロロン鳥は合わせるように激減し、1980年(昭和55年)頃には553羽、そして遂に平成16年には観察史上初のオロロン鳥繁殖数は0羽になったという。 更にオロロン鳥に合わせるようにウミネコの繁殖も0羽となったという。人の勝手で飼い猫を捨て、そのネコが野良猫化して海鳥を襲っている。 又、海鳥の繁殖地で漁業を営み、魚を減らして海鳥を餓死させ、また、漁網による混獲の犠牲になっているという。 捨てたゴミに集まるカラスが、野鳥の卵やヒナを奪う。それらは全て自然現象ではなく、人の生活の都合によって生じた人的行為の自然破壊であり、生態系の破壊を起こしているといわれる。人と自然とが調和のとれた共生・共栄をしなければ、やがて「共生の島」どころか「天売島から海鳥が完全に消える日」が訪れるという。過去、北海道ではニシン漁の乱獲によって「ニシン」の姿を消したともいわれる。「天売島」に人類が住み始めるのは、実は縄文期の紀元前5000年頃ともいわれる。海鳥繁殖地・天売島が国の天然記念物として指定された時期は、オロロン鳥が40,000羽もいて、それが1938年頃であった。 その後平成の年代になって、オロロン鳥が数十羽飛来確認するも、2004年の頃になって、観察史上初の繁殖数が0羽となった。 つまり、7000年の間、人とオロロン鳥は共生してきたが、僅か70年足らずで人類は、あの麗しきオロロン鳥を「見事に」滅ぼしたのである。又、1986年頃にはウミネコは60,000羽いたが、2000年には半減し30,000羽に、更に、2005年にはオロロン鳥の繁殖が2年連続ゼロになったと同時に、ウミネコの繁殖も絶滅となったという。 ウミネコは、僅か20年で絶滅した事になる・・!!。海鳥や他の生物が豊かなときはニシンも豊漁だったが、しかし、魚もすめない場所では海鳥も海獣も人も生活できない。 野生生物と共生・共栄できるように、いま人間活動・漁法の改善を真剣に考えなければならず、今日、野生生物に起きた悲劇は、明日は人々に降りかかってくることは確実であると。 そのことを「天売島」は教えているのである。 日本海沿岸を貫く海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言うが、今は何かその名が実に虚しい。その為かどうか・・?、最近では、この海岸国道をオロロンラインとは言わず、「天売海道」と称しているようだ・・??。次回は、「遠別).【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.11

.小平鰊番屋(旧花田家鰊番屋)こちらは隣接する「道の駅・おびら鰊番屋」.日本周遊紀行(48)小平 「鰊番屋」昨夜は、留萌の神居岩温泉でゆっくりしたので、遅くなって海岸沿いの国道に面した小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」に着いた。 駐車場の横に大きな木造風の四角い建物が在ったのは気がついていたが、例によって一杯飲んで車中の就寝となってしまった。 そして今朝起きて気が付いたら、巨大なこの木造建物はニシン番屋で「旧花田家鰊番屋」とあったのに気が付いたのである。 すぐ隣に同じような建物で「道の駅・おびら鰊番屋」があった。巨大なこの木造建物が二棟建っていて些か紛らわしいが、手前北側の建物は番屋を模倣して造ったもので、本物のニシン番屋は南隣の「旧花田家鰊番屋」とあるのがそのようである。 国の重要文化財だという建物で、内部は当時のままの室内の様子や鰊漁具等が展示してある資料館になっている。僅かな入場料を払って中を覗いてみた。すぐ右手に鰊漁でヤン衆が使用した各種鰊漁具が展示されている。400平方mほどの溜まり場は三つの”いろり”が仕切られた居間になっていて、狭い通路土間を介して雛壇状の三段のデッキと呼ばれた寝台から構成される劇場的な大空間である。玄関土間の左方は主人の部屋や親方衆の部屋、客間、応接間などが当時のまま展示してあり、その豪勢さが偲ばれる。小平町では、先人たちが築き上げた郷土の歴史・文化の保存と継承を目的に、昭和46年重要文化財の指定とともにこれを買収し、3年の年月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復元したものという。昭和30年代まで日本海に押し寄せたという「鰊」。銀鱗が海を染めると言われたほど、産卵期の鰊が大群で本道の西海岸に押し寄せ、特に、小平町鬼鹿の海岸は千石場所とも呼ばれた。 中でもこの鰊番屋が建つ天登雁村(てんとかり:旧地名)の前浜一帯には、ヤン衆が歌う「沖揚音頭」が響き渡り、もっこ背負いの人たちで沸き返っていたという。この番屋は、当時の網元の栄華の様子を今に伝える歴史的建造物である。日本海沿いの主な鰊漁場には関係する家屋や旅籠が軒を並べたが、中でも鰊番屋は魚場主(網元)の親方や漁労、漁夫、農家の出身者、そして遠方からの出稼ぎ者等の宿泊施設として100~200人の大規模建物が目立った。その中にあって、この「花田家鰊番屋」というのは総勢で500人という規模の豪壮雄大な大建築物であり、道内に現存する最大規模の鰊番屋であるとのこと。 創立は一説には、明治29年頃といわれていたが、今時の解体調査の結果、建物部分の墨書やヤン衆寝所の羽目板の落書から親方生活部分の内部造作は明治38年頃と考えられ、ヤン衆生活部分はこれより2~3年早くできたものと推定されているという。 故・花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃、山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われ、この番屋建物は、すべて地元の山地から切りだし、船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものだという。 ニシン漁の最盛期には、この番屋の建物の他にも船倉、米蔵、網倉など100棟以上の付属施設が建ち並んでいたといい、 玄関を入ると左手に親方の住所兼執務所、右手に「ヤン衆」と呼ばれる雇い漁夫が溜まる場所を配置している。 往時は200人を超えるヤン衆がこの大空間にひしめき合い、ニシンの群来を待ちかまえていたのだろう。屋上階には見張り用の部屋もあるようだ。因みに、概ねこの時期に小平地区は、留萌炭田を抱える産炭地でもあって、昭和の中頃にはその最盛期を迎えていた。 鉄路も留萌本線留萌駅から留萌炭鉱鉄道、羽幌線、達布森林鉄道などが延びていて昭和40年代までは活況を呈していたという。 ニシンが去って、合わせるように炭鉱も下火になっていくのであるが、一時期はニシンと炭鉱で、この北海道の片田舎は、大いに沸きかえったのである。国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、後に紹介する北海道の名付け親・「松浦武四郎翁」の像が建っている。芳紀女性数人が、翁像の前で写真を撮ろうととしていたので小生が手を貸してやった。「ところでお嬢さんたち、この人どんな人だか知ってるの・・?」、「知らなーい」とあっさりしたもんである。 掻い摘んで松浦武四郎の人物像を話してやったら、「すごーい」、「道理でかっこいいと思った・・、」と、こんな具合であった。 彼女らは“わの字”の付いたバックナンバー車で、颯爽と北へ向かっていった。次回は「羽幌」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.10
.日本周遊紀行(47)厚田 「新撰組と名力士」広大な「石狩川」を渡って、山間づたいの海岸を行くと間もなく「厚田村」(現、石狩市)入った。この変哲の無さそうな寒村に歴史小説の大作家がいたことに気が付いた。 「子母沢寛」である。歴史物が好きな小生は、「勝海舟」や「新撰組始末記」は勿論読破しているが、「新撰組」は今現在、NHKの大河ドラマで放映中でもある・・!!(2004年度)。今迄、いろんな作家が新撰組またはこれに類する書物を出しているが、概ね子母沢寛の新撰組始末記が基礎になっているとも言われる。厚田村は、札幌から北へ約40キロ、日本海に面し、やはりニシン漁で栄えた漁村である。子母澤寛の祖父・「梅谷十次郎」は元々江戸の御家人で、江戸開城の後、彰義隊(1868年に旧幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として結成された組織。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で新政府軍に敗れ解散している)に参加して戦っている。その後、榎本軍とともに箱館に渡り、五稜郭で敗れている。 降伏した十次郎は士籍を離れ、厚田村にわたり隠遁生活をする傍ら、旅館などを営んでいたという。十次郎は、夜にもなると孫の「松太郎」(子母沢寛の本名:梅谷松太郎)を膝の間に入れて、大きな湯呑茶碗で酒を飲みつつ、「江戸弁」で江戸の話や彰義隊のこと、五稜郭戦争の話などをよくしたという。 そして、『 彰義隊は誰一人あの戦で勝とうとなんて考えていたものはいないんだ。(中略)それを覚悟で、命を投げ出しているのは、そ奴らに、人間の恩というものがどういうものか、それを知らせるためなんだ。それが武士(さむらい)の道というものである・・解るだろう 』・・と。 子母澤寛は、祖父の言葉として「蝦夷物語」や「厚田日記」でこう語っている。遠く海鳴りを聞き、日本海に沈む夕日をながめながら、「サムライの魂」をもちながら厚田村に生きた祖父・十次郎、そして孫・松太郎である。 戊辰の戦いに敗れ、北の大地に根付いた者たちに、同様の物語があっただろうことは想像に難くない。北海道そのものが持つ無骨さの一片は、そのサムライの精神なのかもしれない。新選組の最期の物語を語り継ぐ場としての北海道は、それに相応しく土方歳三や旧幕軍、新政府軍の多くの将兵がこの地に倒れたことも、無為ではなかったのかも。「燃えよ剣」で新選組・土方歳三の生涯を描いた「司馬遼太郎」は、ライフワークとなった『街道をゆく』の取材で北海道の厚田村を訪ねている。 、「新選組始末記」など一連の著作を世に送った作家・子母澤寛のふるさとは厚田村であるが、現住所の自宅は神奈川・藤沢市鵠沼に在り、作家生活はここ梅谷家で送り、墓地も近くの丘にあるという。 次に、昭和の名横綱「吉葉山」もこの厚田の出身とか・・昭和の破天荒横綱と言われた第43代「吉葉山」(池田潤之輔)は、日本海に面した鄙びた村落、厚田郡厚田村生まれている。彼にはいろいろなエピソードが残っている。 学問を志して北海道から東京へ上京した池田少年(後の吉葉山)は、上野駅で高島部屋の力士に捕まり、訳も分からずに部屋へ連れていかれてしまう・・?。 実は、この力士は青森から上京するはずの新弟子を待っていたのだが、その新弟子が途中で逃げてしまい、たまたま同じ列車に乗っていた彼が新弟子と間違えられてしまったというのである。これがきっかけで池田少年は、相撲界に足を踏み入れることとなった。入門後、彼は悪性の盲腸で死にかけたが、運良く一命をとりとめた。 四股名の「吉葉山」は、この時に救ってくれた医師・吉葉庄作にちなんだものと言われている。その後は順調に実力をつけていったが、十両目前で太平洋戦争に召集されビルマへと赴いた。一時「戦死した」との噂も流れたが、足に銃弾を受け、痩せ細った体ながらも何とか生還したという。 部屋に戻った時には、あまりの変貌ぶりに幽霊と間違えられたという。相撲界に復帰後は、とにかく体を回復しようと食べまくり「胃袋」というあだ名がつけられ、1年で50キロ太ったとの説もある。 色白で均整の取れた体格と俳優の市川 右太衛門に似た美貌に加えて明るく磊落な性格で人気を集めた。昭和26年9月場所12日目の「東富士」との対戦では同体となり、取り直しの一番は水入りの大相撲となった。再開後の相撲が再び同体となると、高熱と疲労の東富士は立つことができず吉葉山の承諾もあって協会預かりとなった。 歴史に残るこの死闘は、現在も戦後唯一の「預かり勝負」(勝負なし)となっている。昭和29年 1月に全勝優勝して横綱昇進を決定ずけ、大雪の中での優勝行進は「雪の全勝行進」と言われた。従軍経験が有ったので元軍人達の人気が高かったが、当時は絶頂を極め、祝宴続きで体調を崩して新横綱の場所を全休してしまった。 以後も優勝はできず、結局、「贔屓の引き倒し」(贔屓することによって、かえってその人を不利に導くこと)のような格好になってしまった。同時期の横綱として羽黒山、東富士、照国、千代の山、栃錦、鏡里、若乃花等がいる。いずれも小生が少年の頃の懐かしい面々である。引退後は後進の指導に熱心で、現役中に総檜造りの「吉葉山道場」を設立し、後に「宮城野部屋」となって多くの弟子を育てながら理事を務めた。通算で 37場所、通算成績・304勝151敗1分85休、優勝1、殊勲3、金星2、従五位勲四等旭日小綬章が追贈された。次回、「小平」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.09
.日本周遊紀行(46)北都・札幌 「雪祭り」その札幌の街のシンボルといえば、やはり「大通公園」であろう。特に冬の札幌は、「ホワイトイルミネーション」、「雪まつり」の期間だけで、2百万人が訪れる。都心部にこれだけのイベントができる場所があるのは、全国でも珍しいといわれる。市郊外に冬の競技で有名な大倉山のジャンプ競技場がある。昭和47年の冬季オリンピック札幌大会90m級ジャンプ(現ラージヒル)の舞台となった場所である。標高差300mにあるジャンプ台は着地面から約130mの高さ、ちょうど大通公園にあるテレビ塔が147mだからほぼそのてっぺんから滑り、そして飛ぶのと変わらないということになる。このジャンプ台から滑り降り、テイクアウトして飛行している時は札幌の町並みが一望できる。 特にナイターの時は、市街中央の大通り公園の直線的な灯りが、まるで飛行機が着陸する時の滑走路の「誘導灯」の様に煌びやかに輝いているという。この大通り公園で毎年行はれる「さっぽろ雪まつり」は、毎年2月に開催されている雪の祭典である。(他に、すすきの会場、真駒内⇒さとらんど会場)今年(2006年)で第57回を数える歴史がある。雪で作った大小の像を中心にしたもので、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からもおよそ200万人もの観光客が訪れる。北海道で最も大規模な冬のイベントの一つである。ところで、札幌は北の都市だから雪が多いと思われ、言われている。実際はどうなんであろう・・?。札幌市は北緯42度から43度、イタリアのミラノ、カナダのトロント、フランスのマルセイユなどの都市とほぼ同緯度線に位置するが、これらの都市は札幌の雪の量とは比較にならないほど少ない。 又、冬季オリンピックが開催された札幌と同緯度か、それより北にある都市であるオスロ(ノルウェイ)、アンカレッジ(アメリカ)、モントリオール(カナダ)などの都市と比較しても圧倒的に札幌が多く、北方都市としてはダントツ一位なのである。因みに、札幌の降雪量(降った雪の量の合計値)は平年でも5mを超すといわれるが、他の都市はせいぜい1m台なのである。道内の雪の降り方には三種類あるといわれる。一つ目は低気圧通過に伴う「低気圧型」、二つ目が、所謂、冬型といわれる西高東低の気圧配置となり、日本海側の山間部に多量の雪を降らせるタイプ、三つ目は「里雪型」で札幌では「石狩湾低気圧」といわれる。 この三つのパターンの繰り返しで、札幌には雪が大量に降るというわけである。これら大量の雪は当然除雪が必要になり、その予算・費用、労力は大変なもので、冬の生活を快適にしようとするほど、除排雪の量は雪だるま式に増え年間百億円にも膨らむといい、これは一般会計予算の0.2%にも当たる。さて、その一方で雪祭り用の雪は市街地に降った雪は殆ど使用されないという・・!!。汚れた雪をよそに捨て、きれいな雪を貰うということになっているらしい。何とも妙な具合であるが、これが現実らしい。さっぽろ雪まつりには、大量の雪が必要なため、石狩市の開発途上の新港湾に積もる雪が利用され、雪の四分の一は石狩市から戴くという。 「石狩市は、札幌雪まつりの生命線」ともいわれる所以である。札幌市の市章は「六花」である。 六つの花、六花は「ろっか、りっか」とも呼び、結晶が六角形であるところから「雪の異称」でもある。市のマークである外側の六角模様は、すなわち「雪」をもって北海道を象徴している。 ところで、雪の札幌をイメージした札幌の銘菓「白い恋人」がある。近頃、消費期限の偽造問題で揺れたが、札幌市内にある菓子メーカー・「石屋製菓」が製するものである。 ある年の師走、社長が近くの公園から歩くスキーを終えて会社に戻ってきたとき、「白い恋人たちが降ってきたよ」と、ある人の何気ない一言が、名前の由来だという。 1976年に発売され、色が白いことが北海道の雪景色を連想させることや、北海道限定販売にしたことが功を奏し、出張や旅行の際の土産品として人気を得た。 現在では年間約2億枚を売り上げるまでになり、北海道の土産と言えば「白い恋人」とも言われ、土産品の単品売り上げでは全国2位とされる。 因みに、1位は三重県伊勢の「赤福餅」で、伊勢神宮の土産として有名である、だが、こちらも同様に不適正表示や製品改竄問題で矢面に立たされたが・・。 序(ついで)ながら、道内で「六花亭」という製菓会社がある。 これは市章で「六花」をもつ札幌ではなく、十勝地方・帯広の会社である。 製品の一つに、「白い恋人」に並ぶとも言われる「マルセイバターサンド」というのがある。十勝地方の開拓に父といわれる、明治初期、伊豆・松崎からの入植者・「依田勉三」(詳しくは十勝の項)に因んだ御菓子で、クッキーとバターとレーズンを適度にマッチさせた感度は、北海道を代表する銘菓であろう。 道内の有志家、自称・北海道お土産探検隊と言われるその道の団体などは、味、品質は最高級で道内一位であるとしている。実は小生も北海道を訪れた際には、この「マルセイバターサンド」を最優先の土産品にしているのである。次回は、「厚田」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2010.01.08
.日本周遊紀行(46)北都・札幌 「札幌農学校」引き続き「札幌」のことです。札幌市は一見内陸部に在るようだが、ほんの一部小樽や石狩市に海岸面を譲ってはいるものの、石狩湾に極めて近い海洋性の都市である。 その石狩湾に近い札幌市街の北部、札幌市北区に札沼線(愛称・学園都市線)が北上しているが、この駅に「八軒」「新川」「琴似」「太平」「篠路」「拓北」といった駅名が続く。 またこの地域に発寒(はっさむ)や屯田町というのもあり、いずれも札幌開拓期に因んだ名称である。明治2年の廃藩置県で蝦夷地は「北海道」と改称されたが、明治政府は北海道開拓と北方警備のため、屯田兵(有事には軍隊となる開拓民)の募集を開始している。 そして、札幌では明治8年頃から九州、四国の士族が発寒、琴似あたりに屯田兵として入植し開拓が始まっている。 「屯田町」というのは無論開拓当時の名称がそのまま残ったものであり、昔は、「篠路兵村」(しのろへいそん)とも呼ばれていたという。 北海道に屯田兵制度が導入されたのは明治7年で、この制度は明治32年まで続けられたが、この間、屯田兵は、北海道の開拓に多くの貢献を果たし、札幌圏では琴似兵村、山鼻兵村、篠路兵村など四つの兵村を造ったといわれる。 これらの入植、兵村が札幌市発展の大元になっているのである。『 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴の筵 尽きせぬ奢りに 濃き紅や その春暮れては 移らふ色の 』周知の人もいると思うが、北海道帝国大学の「寮歌」である。北海道の開拓地といわれる屯田地区の東側、現、札幌駅の北側に広大な敷地を持つのが現在の北海道大学(略称、北大)で、1918年(大正7年)に創立されている。その前進である「札幌農学校」は、1876年(明治9年)に設立されている。 札幌農学校は明治初期、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した時期に、北海道・札幌に置かれた最初の教育機関であり、札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっている。初代教頭は、マサチューセッツ農科大学前学長のご存知ウィリアム・スミス・クラーク博士で、彼の言葉、「Boys Be Ambitious(青年よ、大志をいだけ)」は、あまりにも有名である。 クラーク博士は、北海道開拓使の招きにより、札幌農学校の教頭として来道した際、ウイリアム・ホイーラー(土木工学、数学、英語学)とP・D・ベンハロー(化学、植物学、農学)の両名の教授を伴ってきた。二代目のホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)らを輩出している。 市街地中心部、札幌の観光名所の一つに、ご存知「札幌時計台」がある。 札幌の歴史と共に歩んできた開拓当時の札幌の様子を、今に伝えているといわれる。今では貴重な存在となっているこの建物は、札幌農学校の演武場として、1878年(明治11年)に建てられたという。 基本設計を行ったのは農学校教師ウイリアム・ホイーラーで、故国アメリカの工法が用いられており、正面の入り口真上に「時計塔」が据え付けられたのは創建から三年後のことであった。明治36年には、時計台は札幌市に移管され、その後は図書館として使われるなど、市民により親しまれる存在となっている。 周囲に響きわたるその鐘の音は札幌市民の生活と共にあり、1963年(昭和38年)制定された「札幌市民憲章」には、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」とうたわれ、1970年(昭和45年)には重要文化財の指定を受けている。 因みに、ホイーラー教授から土木工学を学び、後に日本を代表する土木工学者となった広井勇教授がいる。更に、広井勇教授から教えをうけた吉町太郎一氏や山口敬助氏がいる。何れも、日本土木工学の先駆けとなった人物である。 吉町氏は旭川のシンボル「旭橋」を、山口氏は「豊平橋」を設計している。「旭橋」は、札幌市の豊平橋、釧路市の「幣舞橋」(ぬさまいばし)と共に北海道三大名橋といわれたが現在では、この橋のみが架橋当時の姿を残している。 旭橋は、旭川中心部と北部を繋ぐ市内交通の要衝である石狩川に架けられており、国道40号が通過している。 美しい姿から旭川のシンボルとしても市民に親しまれ、橋の近隣にある常磐公園と共に河川敷では「旭川雪祭り」の会場となり、名物巨大雪像とともに一服の風画を演出している。豊平橋は、石狩川の支流の豊平川にかかる橋で、国道36号を通す。札幌から千歳・苫小牧・室蘭方面に向かう要所にあり、1871年に豊平川に最初の橋として架けられた。 当初は美観溢れる三連アーチの橋で、北海道での名橋とされたが、度々洪水で流され、今はコンクリートの平橋に変わっている。 又、幣舞橋は、釧路市の中心部北大通から対岸の南大通りまでをつなぐ釧路川に架かる橋で、橋梁には4体のブロンズ像が配置、川沿いには広い遊歩道も整備されていて、釧路観光名所の一つである。 現在の橋は初代幣舞橋から数えて五代目として1976年(昭和51年)に建設されている。又、吉町氏の設計した日本での橋は、一関市の「北上大橋」(北上川に架かる国道284号が通る橋で、最近、美しい新橋が架けられた)、東京都・墨田川に架かる「白髭橋」、岐阜市の「忠節橋」(国道157号の途中、岐阜市の長良川上に架かる橋である)などがある。尚、白髭橋は、隅田川に架かる荒川、墨田、台東三区を結ぶ重要な橋であり、当時、橋場は江戸期の頃は風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店(おおだな:商屋)の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいたという。 江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の茅の原には水鶏が多く棲んでいたという。今も周辺には東京の歴史的名所が多数在る。いずれの橋もアーチ状の鋼鉄の橋で、新旧はともかく何れも類似形の美しく景観溢れる橋であるとのこと。屯田兵によって開拓が始まった北海道は、学術的には札幌農学校(北大)によって始まったといってもよく、特に国土を造る基礎となった土木工学は、その父といわれる「ウイリアム・ホイーラー」によって全国に波及していったといってもよい。北大寮歌『都ぞ弥生』(明治45年) 詞・横山芳介 曲・赤木顕次都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて星影冴かに 光れる北を人の世の 清き国ぞとあこがれぬ豊かに稔れる石狩の野に 雁遥々沈みてゆけば羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺黄昏こめぬ雄々しく聳ゆる楡の梢 打振る野分に破壊の葉音のさやめく甍に 久遠の光りおごそかに 北極星を仰ぐ哉寒月懸れる針葉樹林 橇の音凍りて物皆寒く野もせに乱るる清白の雪 沈黙の暁霏々として舞ふああその朔風飄々として 荒ぶる吹雪の逆巻くを見よああその蒼空梢聯ねて樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ次は、「札幌雪祭り」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《 スキーの記録 》「スキー履歴」.
2010.01.07
.日本周遊紀行(46)北都・札幌 「開拓期」余市から小樽方面へ向かったが、「小樽」については、この後別途・「温泉と観光」の項で述べます。小樽から札幌へ通じる途中に「銭函」という、有り難そうな地名がある。銭函地区の銭函駅は海岸近くの平地にあり、駅の南に続く山裾に市街地が広がっていて、駅のすぐ西に銭函川とその河口がある。 明治時代のはじめには、札幌へ向うのに海から至る交通上の要地であり、その後も小樽と札幌を結ぶ中継点として栄えた。 現在の町の規模は、札幌や小樽と比肩できないが、駅舎のホーム改札口付近には「銭函」が吊るして飾られ、更にホームに大きな銭函が据えられているという。 駅舎は昭和6年築の古い建物だとか。その「銭函」の由来を探ってみると、ニシン漁で莫大な利益が上がっていた頃、和人が付けたらしい。 幕末、幕府が計画した西海岸から東海岸への内陸道路の一部として、千歳街道が開かれ、この地が石狩への浜通りと内陸道路の分岐点となり交通の要所となった。 このころから新しくゼニハコ、漢字で銭函という地名が文書に現れてくるらしい。明治新政府となって、行政の中心が「札幌」に新設されることになり、その経営のため明治2年、開拓判官として「島義勇」(しまよしたけ)が銭函に仮役所を開いた。島義勇は銭函を、小樽の港と札幌との中間地点としての地の利を考えたのだろう。ところで、銭函の地名の由来だが、これには諸説があるという。昔、ニシン漁の漁業家や漁人、また開拓人の賃金支払のために「銭函」を置いてあったとか、他にニシンの豊漁でばく大な収入があり、浜に銭の函が積まれていたから、というものである。 だがニシンの豊漁でゼニバコだけが景気が良かったわけではなく、小樽沿岸はすべて同じだったはずだが、いずれにせよ、だれが考えたのか縁起の良い地名であるには違いない。この年8月には蝦夷地の正式名を「北海道」改称している。時折、金運祈願や商売繁盛を願って、記念入場券を求める人が結構いるという。「島義勇」について・・、新政府の議定(ぎじょう:明治政府の官制で三職の一つ、皇族・公卿・大名の中から選任された。三職は明治政府最初の最高政治機関で、他に総裁、参与がある)として鍋島の藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務に任命されると、島義勇を首席判官として蝦夷開拓御用掛に任命した。東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ:公家、政治家)長官とともに農工民200名をともない先ず、函館に渡る。 この時、島判官は札幌に本府を建設する特命があり、函館から陸路、磯谷、岩内、余市、小樽を経て10月に銭函に着いている。 この間の後志の旅を『函館以北実ニ世界第一トモ可謂悪路ニテ、人馬共ニ足ヲ入ルル処無之』と記している。困難を極めた道行きであったという。島判官は札幌に役所の建築が完成するまで、銭函から毎日馬に乗って出かけ指揮をとった。まず札幌まで貫通できる道路の工事をすすめる。 札幌周辺は大木が繁茂し見通しがきかず、途中には予想もしなかった湿地帯が広がっていたという。 島判官は毎日銭函から乗馬で往復し、道路工事や建設の進みぐあいを見て指揮をした。時には灯油も凍るような仮小屋で、夜通し熊よけの焚火をたきながら、人夫や犬と一緒にざこ寝の夜もあったという。判官は、銭函に着任してから1ヶ月たって、ようやく雪の中を札幌に入り、組立式の役所、住宅、倉庫などの建築を急ぎ、北1条西1丁目に官宅を築き、集議局の看板を掲げて移転した。後年、島義勇は、明治7年江藤新平らと佐賀の乱をおこし刑死したが、北海道、そして札幌開発の祖といえる人物であった。 現在、札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官として「島義勇」の像がある。 ところで当初、島義勇が目にした平原は(札幌)、豊平川一帯に広がる湿地帯が多く広がっていた。もともと「サッポロ」は、現在の豊平川にアイヌの人々がつけた名で、アイヌ語で「サリ・ポロ・ペッ」(湿原が広い川)と称し、これが「札幌」の起こりともいわれる。明治2年(1869年)に「北海道」と改称されて、開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まる直前、判官・島義勇は円山の丘からはるか東方を見渡し、札幌の街づくりの構想を練ったといわれている。 明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植し、人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築いている。大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口を拡大してきた札幌市は、昭和45年(1970年)には人口が100万人を突破し、国内でも堂々たる都市として認知され発展してきた。初めて札幌を訪れた人は、「札幌は碁盤の目だけど、意外に分かりにくい。同じブロックにあるのに住所が違う」。又、条・丁目の住所のため、市営地下鉄の駅名も「北十二条」とか「西十八丁目」などと味気ないといい、東京だと「両国」、「赤坂」などの地名を聞けば、マチのイメージが湧くのだけれど・・、札幌っ子でも「碁盤の目で味気ないし、面白みがない」と言う人が少なくない。 これは原野にゼロから都市建設を行った名残とされ、道内では旭川や帯広でも同じ住所表示である。因みに、同じような町並みに京都が在るが、京都は1000年以上の歴史があり、町の要所諸所に神社仏閣が一種の精神的な支えとして存在する。 札幌の地番は、歴史の浅い都市の宿命かもしれない。次回も北都・札幌「屯田兵と北大」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」..
2010.01.06
.日本周遊紀行(45)古平・余市 「トンネル事故」この先、積丹半島の沿岸を巡って先端の「神威岬」へ到ろうとしたが、先の台風の影響で国道が破損され通行不能であった。止む無く半島を横断してる当丸峠を目指した。峠を越えると古平川に沿って下り、間もなくその河口に達した。海に注いでいる古平川の河口には、サケの遡上を見物する人や釣り人で賑わっていた。秋サケが上って来ているのである。 鮭の一生は、多くは秋頃、日本に帰ってきて産卵・受精し、産み落とされた卵は、約2ヵ月でふ化して稚魚となる。 卵の中の栄養分を吸収しながら育った稚魚は、虫などを食べながらさらに成長し、そして川を下って海へ出る。海へ下った稚魚はその後、沿岸に沿って移動しながら北洋へ向かい 4歳頃になったときに、自分の生まれた川に戻り産卵し、ほどなく鮭はその一生を終えるという。更に、古平から余市にかけても険しい山合いが続く、そしてトンネルも多い。以前にこの辺りでトンネル事故が有ったのを思い出した。「豊平トンネル岩盤崩落事故」で、それは、「大岩塊がトンネル上部を突き刺していた」、そのような映像や記事が未だ記憶に残っている。 1996年2月10日、土曜日朝8時頃であった。 豊浜トンネル(国道229号線 古平-余市の中間地点)の上部にあたる巨大岩石(最大高さ70m・最大幅50m・最大厚さ13m・体積11,000m3・重さ27,000t)が大崩落し、トンネルの入口から約40mにわたって天井部分を押しつぶしたのであった。この事故で余別発、小樽行きの路線バスと乗用車1台が巻き込まれ乗っていた20名が亡くなった。 崩落した岩盤を取り除くのに手間取り、バス内の遺体が収容されたのは事故から1週間後だったという。バス19名に乗用車1名、計20名あまりの尊い犠牲を出した豊浜トンネル岩盤崩落事故現場、現在は新しく改修され、事故の痕跡を見る事はない。 小生が通った新しい豊浜トンネルは、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルを、事故のあった現場手前から迂回する形で繋ぎあわせたらしい。 二本のトンネルを一本とし、長くした形で開通している。 つまり、豊浜トンネルとセタカムイトンネルの半分ずつをそのまま利用している事になり、これは事故で亡くなられた遺族達の強い要望によるものともいう。尚、この辺りは元々、旧の国道(R229)が海岸沿いに走っていて、旧豊浜トンネルと旧セタカムイトンネルが在ったらしい。 その後、新道が山側に出来たため、旧トンネルと並行して新たに二本にトンネルが造られた、これが二代目のトンネルである。無論、事故のあったのは二代目トンネルの「豊浜トンネル」であった。事故後は、この両トンネルの途中から掘り進んで繋ぎ合わせて一本のトンネルにした、いわば新新豊浜トンネルともいえる。つまり、この地は旧トンネルと事故が発生したトンネル(新トンネル)と、それに事故後山側に造られた新トンネルと三本のトンネルが平行して存在するのである。 海岸際の旧両トンネルはコンクリートで封鎖された。勿論、事故のあったトンネルの不使用部も閉鎖されていて、事故現場を見ようと思っても、内側に当たるため陸上ルートからは不可で、船で直接行くしかないのである。 チョットややこしかったかな・・?古平側の新豊浜トンネルの入り口にセタカムイ「防災記念公園」駐車場があり、その一角が慰霊公園、山際に慰霊碑がある。因みに、古平町(ふるびらちょう)という町名は、アイヌ語の「フィーピラ」(赤い崖)から付いたそうである。余市には空飛ぶ有名人がいた・・??、昭和47年に札幌で開催された、冬季オリンピックのジャンプ金メダリストの笠谷幸生、それと、平成10年の長野オリンピックのジャンプで大活躍した斉藤、船木の両選手(ジャンプ競技は白馬村で開催された。 小生別宅のすぐ近くにジャンプ台、記念館等が有り、原田をはじめあの時の感動は今も記憶に残る)。そして平成4年、12年の2度にわたり、スペースシャトルに搭乗し様々な科学実験を行った、「毛利衛」氏もそうらしい。尚、積丹半島、小樽は「温泉・観光」の項で詳しく述べます【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2010.01.05
.日本周遊紀行(44)岩内 「雷電海岸と岩内大火」国道229号線を岩内方面に向かうと、又々、山が迫って険しくなり、トンネルも多い。ここは「雷電海岸」といい、積丹半島の西側の付け根に当る岩内町と蘭越町の町境でもある。スキーのメッカ、「ニセコ」の山塊が連なってきて、その西の端が代表的な山「雷電山」(1212)であり、この山の腹が強烈な断崖絶壁となって日本海にナダレ落ちているのである、謂わば荒々しい岩石海岸である。近年になって急峻な山肌に辛うじて道が付けられているが、新道を含め道路も整備されて新しいトンネルも次々完成しつつあり意外と走り易い。 長い「刀掛トンネル」(2754m)を抜けると「雷電温泉」の看板が立ち、数軒の旅館、ホテルが海岸の岩場にへばり付く様に点在する。 更に、ここより雷電山のそば、雷電峠の山道をおよそ3kmほど入った山中に、現代文明から隔絶された一軒宿の「朝日温泉」がある。江戸末期の創業と言われる古宿で、かつて海岸国道が出来る以前は、この峠を越えて岩内に到ったもので、山越えする人々のための峠の茶屋や駅逓が置かれていて随分とにぎわったという。 国道の開通に伴い、当時の趣のまま秘湯として山中に残されたらしい。 この地は今でも携帯電話、普通の電話も使えず、電気も通じず自家発電機に頼らざるを得ないという、野趣あふれる山の湯である。水上勉の推理小説・「飢餓海峡」は、洞爺丸遭難事故と岩内の大火をネタにしたものであるが、この朝日温泉も登場する。 昭和30年代頃までは山間を上下する大変な道だったようで、あの岩内の大火の後の様子を小説は、『 朝日温泉は雷電山のふもとにあった。 宿は石ころ道と川をはさんで、とびとびに建っていた・・、』と、 作中、岩内で襲われた登場人物たちが、この朝日温泉で出会うのであるが。 やがて岩内に着いた。バスセンターや道の駅、鉄道記念公園(・・?)等、岩内の中核地で、昼間ならかなり賑わう所だろうが、今はまだ閑散としている。岩内には、かって国鉄岩内線の鉄道があって、1985年国鉄合理化の煽りで廃線になっている。ところで、この「岩内」には大きな現代史の1ページがあった。 1954年9月26日洞爺丸台風のさなか、岩内の街に大火が発生し、何と町の八割が消失したのである。その日の夜8時20分頃、台風15号(洞爺丸台風)の接近で避難し、留守宅となっていたアパートから出火、岩内の町中を嘗め尽くし町全体の80%を消失した。 この時の焼死者33名、負傷551名、消失家屋3300棟、などであった。 丘の上には今も「大火の碑」がある。この同じ日、青函連絡船「洞爺丸」が函館湾内において、転覆遭難事故を起こし、1000人以上の犠牲者をだしている。 世界史上稀にみる海難事故であるが、このことは函館(2)の項で記載している。その凡そ10年後、この岩内大火(洞爺丸遭難も同様)を背景にした、水上 勉の推理小説「飢餓海峡」が発表され、映画化もされた。映画制作では現地ロケが行はれ、地元の人は多いに協力したとか。その主な筋書きは・・、『 昭和22年9月20日10号台風の最中、北海道岩内で質店一家3人が惨殺され、犯人は放火して姿を消した。その直後嵐となった海で、青函連絡船の惨事が起き、船客530名の命が奪われた。死体収容にあたった函館警察の刑事弓坂は、引取り手のない2つの死体に疑惑を感じた。船客名簿にもないこの二死体は、どこか別の場所から流れて来たものと思えた。 そして岩内警察からの事件の報告は、弓坂に確信をもたせた。 事件の3日前朝日温泉に出かけた質屋の主人は、この日網走を出所した強盗犯沼田八郎と木島忠吉それに札幌の犬飼多吉と名のる大男と同宿していたのだ・・、』人間の内に潜む心の闇を、スリラー仕立てで見事に描ききった堂々3時間におよぶ傑作超大作である。 監督・内田吐夢、出演は犯人役:三國連太郎、ベテラン刑事:伴淳三郎、遊女:左幸子らが熱演している。 この映画の冒頭に、かっての国鉄・岩内駅が映されているが、他に青函連絡船の遭難シーンや下北半島の主要観光地である仏が浦、湯野川温泉、恐山、下風呂温泉なども登場してくる。因みに、小生がこの地「岩内」を訪れた今日は、2004年9月26日で、奇しくも50年目のこの日に当るのである。小生にとっても実に奇遇な日にも成ったが。 本日、当の岩内町では、何か追悼などの行事が行はれるのであろうか・・??。次回は、「古平」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ FC2 H・P 《旅の紀行・記録集》日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2010.01.04
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