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. 大菩薩峠・紀行(29) 「黒川金山」 .黒川鶏冠山の山頂直下にある「鶏冠神社・奥ノ院」大菩薩の北部直近の地に黒川鶏冠山(標高1710メートル)という山がある。 その東側山腹の黒川谷源流部に黒川金山跡がある。黒川金山の歴史は、既に平安、鎌倉、室町時代を通じて資料などにも残されていて、当地を支配していた豪族三枝、安田、武田氏とのかかわりを伝えている。 又、実際の採鉱については戦国期の武田信虎時代からとも伝えられ、特に武田信玄時代が最盛期であったとされている。 武田軍の軍用金の多くはこの黒川金山から産出された。ところが子息の武田勝頼の頃には衰えて一時閉山となったが、徳川時代になって、大久保長安らによって再び採鉱がおこなわれたという。その後金の産出量が減少し閉山となった。黒川金山には、黒川千軒といわれた時代の坑道跡、坑夫の住居、作業場の跡がみられる。この地域は他にも竜喰金山、牛王院金山などがあり歴史的にも注目されているという。 また、金山を管理する金山衆は、在地武士団を形成して塩山市内上萩原、下於曽、熊野方面に住居を構えていたとされる。 鶏冠山の山頂には黒川鶏冠(とさか)神社の奥宮が祀ってあり、この宮には大同2年(807年;平安時代頭初)と刻まれた鰐口(わにぐち;お堂の前に布を編んだ太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴)と、天正5年(1577年;盟主・信玄無く、長篠の合戦に敗れて武田家の衰退がはじまる。 勝頼の時代)の銘の入った金鏡が奉納されていたといい、その歴史の深さが記されている。黒川金山の遺跡として坑口、坑道、坑道の陥没ヶ所、製錬場、作業場、石組み、炭焼場など雛壇状に整地されている。又、作業場も兼ねたであろう居住地跡は建物もなく草木に覆われているものの、黒川千軒の形跡を今に止めている。次回、 「黒川千軒」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.29

. 大菩薩峠・紀行(28) 「東京都水源林」 .東京の奥多摩地区の水源林(都水道局)ところで、この辺り奥多摩の森林一帯は「東京都水道水源林」となっており、東京都水道局の管理地になっているらしい。元より、多摩川の上流域には東京都水道局が水源かん養を目的に管理している水道水源林があり、その面積は東京都区部面積の35パーセントにも及んでいるという。森林に降った雨は、落葉などが積もる腐葉土をゆっくりと通過し、土にしみ込み、地下水として蓄えられ、そして、川に少しずつ流れ込む。当然ながら水源林は、水道飲料水の水をはぐくむとともに、土砂がダムに流れ込まないようにする働きをしているのである。東京都水道局は、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内ダム貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため、多摩川上流の森林を「水道水源林」として管理している。その範囲は、東京都最西部の奥多摩町から山梨県下の小菅村、丹波山村、甲州市に至る分水嶺まで、凡そ東京都の面積の約10%に相当しているという。奥多摩一帯の水源林は既に江戸時代から徳川幕府の直轄地として管理され、地域住民は幕府より入会券なるものを発行され許可を得て、生活に必要な薪などの資材や山菜物を採取していたらしい。山林は明治になって一旦民間に払い下げられたが、東京都(府)が再び民間から次第に買い戻し現在に至っているという。昭和32年には水源地として小河内ダムを建設し、今の奥多摩湖が出来上がっている。尚、面白いのは、この地域は小菅村、あるいは丹波山村と山梨県域にありながら管理者が東京都(水道局)なのである。そして、この地域には当然ながら山梨県自治体の山の家など公共施設などもある。 使用するのは山梨県村民は当然ながら、直接、間接的には東京都民ということか。さて「泉水谷」とは、大菩薩の丸川峠から青梅街道の三条新橋へ至るまでの巨大なV字峡谷を総称して言っているようだ。泉水谷の渓相を眺めながら林道をてくてく歩いていくと、右手に大菩薩嶺から派生している大菩薩北尾根の巨大な稜線が望める。又、左反対側は黒川鶏冠山(1710m)の絶壁のような巨大な山腹が、泉水谷に向かって落ちてきている。後で気が付いたのだが、この黒川鶏冠山こそ戦国期から甲斐・武田家が金を掘り当てた黒川金山そのものであったのだ。次回、 「黒川金山」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.27

. 大菩薩峠・紀行(27) 「牛首谷」 .大菩薩嶺から北側の主な山域図(クリック拡大; 資料;黒川金山については後ほど)泉水谷(牛首谷)は雪に閉ざされた深い谷は小鳥のさえずりもなく静まり返っていた。 雪を踏む無機質な音だけが身体に微かに響いてくる。 それにしても湿った雪は珍しくアイゼンに絡み付いてきて歩きにくい。元より人の気配の少ない泉水谷である。薄暗く深い谷間(たにあい)は、今にも熊でも出てきそうな不気味な雰囲気でもある。 尤も、山屋としてはこのぐらいの山の異様さは当たり前でもあるが、時によっては何故か心臓がザワつくときもある。最近、熊が人里に出てきて悪さをするとか、山で熊に襲われたとか、はたまた、人と熊とが格闘したとかなどニュースで聞くときがある。熊にばったり出会った時はどうするか・・?熊の威嚇とはどんな風なのでしょうか・・?、そして身を防ぐ処方は・・?。昔からよく言われるが、死んだふりをするとよいとか、熊の手と唸り声を思うととてもできない。 背中を見せて逃げるのは最悪で、じっと見合うのがベストだともいうが・・?。やはり、ばったり出会わないためにも熊よけの鈴やラジオが必要だともいう。熊にも人間を恐れる本能があり人を避けながら生活をしているというが、時には人里に出てきて人をおどかすともあるようだが。 それにしても奥多摩の熊は人を恐れない新世代の熊だとも、噂に聞いたことがある。不気味な思いを抱きながら、尚も下って行くとやがて林道の接点に出た。 このあたりからカラマツの枯れた樹木林になり、様相が変わってきていて雪も大分少なくなってきた。 この辺でアイゼンを脱ぐことにした。 ふかふかの雪が今度は直接脚に伝わってきて、優しく心地よい響きである。牛首谷を降りたところが、渓流が十文字に合流している地点である。意外と広く開けたばしょで、昔はこの辺りには泉水小屋(1346m)といって小集落、山小屋(水源地管理小屋・・?)などがあったらしいが、今は更地となって跡形もない。所々に「東京都水道水源林」の表札がが立ち、水源森林の涵養保護を訴えている。 そして、その為の水源森林の巡視路が縦横に付けてあるようだ。 一見すると登山路と巡視路とを混同しやすく見誤りの恐れがあるようだが、そこは、ポイントポイントに案内板が設えてあるので注意して行けば迷うことはないようだ。現に、牛首谷を降りる際にも3~4箇所ぐらいの巡視路の分岐と案内がついていた。この牛首谷出会いから三条新橋までが「林道泉水横手山線」といい、この橋から先は「泉水中段線」といって、約7km先で国道411号線(青梅街道)に突き抜けている。次回、 「東京都水源林」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.25
. 大菩薩峠・紀行(26) 「泉水谷へ」 .丸川荘で一夜を明かした翌朝、再び彼と一緒に食事をし、彼と一緒に記念写真を撮り、彼と一緒に小屋を出た。そして、主人も見送りに出てくれて、「貴方は相当に山慣れしていらっしぃますね。」とお世辞の言葉を戴いた。 チョッと照れながら、「否、そんなことはないですよ」と自分としては、実際謙遜ではなく、山に関してはまだまだ未熟だとと思っているのである。彼はこの後、大菩薩峠をへて小金沢連峰を縦走し、湯ノ沢峠から初鹿野へ至らしい。小生とは逆の方向である。小生はこの後、小屋の後ろから泉水谷を降りて、奥多摩から丹波へ向かう予定である。従って、彼とはここで別れた。彼とは名前を名乗りあっただけで所在などは聞かず、所謂、山での一期一会の邂逅であった。山の良さとは存外このようなことも含まれるかもしれない。自然の有り難味を感じながら丸川峠の小屋裏のからは泉水谷を示す道標に従い、「泉水谷を経て丹波」の道標を見送って直進する。急斜面を下っているとき突如上の方角から、「ヤッホー・・!!」と声がした。あれ・・!、彼は私と同時位に出立したはずであったが・・?、忘れ物でもしたのであろうか・・?、と一瞬おもったが、こちらもピッケルを振りながら、「ヤッホー、お元気で・・!!」と返してやった。今では枯れ落ちたカラマツの植林がずっと続いている。大菩薩方面と泉水谷方面への道を分け入ると、先ず「東京都の水源林」という立て看板が目に入る。 そう、ここは山梨県の丹波山村でありながら、総面積の七割は東京都の所有地だという。 さらに行くと、ウラジロモミ、ツガなどの森が出てくる。 ツガ林は苔むしていて雰囲気でもある。 次回、 「牛首谷」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.24

. 大菩薩峠・紀行(25) 「丸川峠賛歌」 .丸川荘の只木さんは、東アルプス合衆国・大菩薩・笠取州・丸川峠村の村長さんでもあるらしい・・?。えー・・!!、東アルプス合衆国って何・・?東アルプス楽集国とは、秩父多摩国甲斐立公園内の山岳地域で営業している一部の山小屋で構成する仮想国の愛称らしい。範囲は、秩父多摩甲斐国立公園内を4地域に分けて各州とし、平成15年3月27日の総会で建国したという。「北・中央・南アルプスがあって、東があってもいいんでねーか、奥秩父はちょうど東に位置して高度はちょっと足りないけど、水と森の東アルプスが、」 これは、今はなき金峰山荘の主人、故・林 袈裟雄氏(小生、暫くのあいだ、お付き合いをさせて頂きました)の持論で提案でもあったという。そして今回、秩父多摩国立公園も秩父多摩甲斐国立公園と改名されたのを期に、山小屋を預かる人達が音頭をとって、秩父多摩地域を仮想の国を愛称として、「東アルプス楽集国」というチョット洒落たネーミングで建国し、登山客が楽しく集える国を目指すことになったという。【丸川荘】位置/丸川峠 標高1700m連絡先/〒404-0022 塩山市上萩原2689-10 只木 貞吉 電話 0553-33-9006 山小屋直通 090-3243-8240収容人員/約40名営業期間/通年12~4月は祝日・土・日のみ営業(平日は応相談)宿泊料金/1泊2食付き>6615円/素泊まり>4200円 寝具不要3400円要予約 暖房費525円水場/あり。水は泊まりの方のみ差し上げます。スライド映写会あります。丸川荘ホームページ; ; http://www5.ocn.ne.jp/~touge17/「丸川峠賛歌」 (作詞作曲 橋本良春)音符画像一 峠を渡る風さやか 二 空青く鳥は行く 三 山なみに陽は落ちる 揺れて可憐な白い花 咲いて招くよ夏の花 染めてくれ行く茜雲 雲は流れて泉水谷へ 辿る尾根道ひたすら行けば 山は黄昏ランプの灯り 心通うよこの草原に 心安らぐこの草原に 心憩うよこの草原に 今日も来ました丸川峠 今日も来ました丸川峠 今日も来ました丸川峠(丸川荘H・Pより拝借しました) http://www5.ocn.ne.jp/~touge17/ 次回、 「泉水谷へ」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.23

. 大菩薩峠・紀行(24) 「丸川荘の主人」 .室内に飾られている「手作りコケシ」丸川荘主人:只木貞吉氏その内、ボツボツと宿泊の登山者の姿が現われだした。その中に小生の直ぐ隣に居場所を構えた東京の堀越君という一青年があった。まだ、かなり若く20前後といった好青年で小生同様の単独者であるが、冬山における完全武装の重装備であった。聞くところ近日中に穂高に入るためのトレーニングであるとのことであった。彼は中学の時から山の味を覚え、現在社会人ではあるが、生涯山歩きを楽しむと意気巻いていた。「何故、山に来るんですか・・?」と、山好きの小生が山に来ていて尋ねるのも妙だが、それとなく聞いてみた。 或は、気の利いた山に関する哲学的な考えを、チョッと期待したが・「特別、下でやることもなく、自分は山に向いているように思うのです。」とアッケラカンとしたもんであった。 そして、「モット言うと、下では物事を集中して、夢中になって何かをヤルってことがないが、山に来ると苦しいながらも一点に集中し、目的に向かってただヒタスラ歩いて行くという、この感じが好きなんですね。 勿論、綺麗な景色もいいですけど・・!」この後の一言で、彼の山に対する心意気が判ったような気がする。 尤も、この言はは、或いは山男全般に言えることかも知れない・・!!。食事の時にビールを注ぎ合いながら、彼との山談義は尽きなかった。彼は敢えて、持参した寝袋へ潜り込んだ。 寝袋の中で今何を思っているのだろうか・・?。丸川荘主人・只木貞吉氏は木彫りの名人で、小屋の隅のアチコチに手彫りの彫刻品が所狭しと並んでいる。小屋全体はお世辞にも大きくて立派な小屋とは言い難く、どちらかと言えば平屋建ての平凡な山小屋である。しかし、室内はホンワカと家庭のような温かみががあり、何より主人の只木さんの人柄の良さがが登山客を引きつけているのであろう。只木さんは、東アルプス合衆国・大菩薩・笠取州・丸川峠村の村長さんでもあるらしい・・?。えー・・!!、東アルプス合衆国って何・・?次回、 「丸川峠賛歌」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.22

. 大菩薩峠・紀行(23) 「丸川荘」 .雪の丸川荘本日の泊まり宿は峠の山小屋・「丸川荘」である。玄関を入ると夫婦者らしい方が迎えてくれた。「どうぞお休み下さい。 どちらからかえ・・?」「はい、峠(大菩薩)からです。 今夜こちらで御厄介になろうとおもっております」「おお、そうかね。 それにしてもお早いお着きだね」暫くは主人らしい人と雑談に耽る。木彫りのコケシのことや、最近の登山者のマナー、登山者事情など興味深い話題もあり、大菩薩の雪質のことや、数年前の大雪の時は峠で1mもあったそうだ。飾ってある仏像や観音像なども手作りだそうで、その見事さにびっくり。名の知れた規模の大きい建物と違って、こちらはこじんまりとしたワンルーム形式の山小屋であった。時間のせいもあってお客は今のところ小生一人のようであった。山小屋の雰囲気とはいいもんである・・!!。丸川荘は東京オリンピックの2年後の年、昭和41年(1966年)に先代小屋番の渕井万吉の手によって建造され、その後二代目の小屋番である只木貞吉氏に引き継がれ、現在に至っている。先代小屋番は、創業当時に独学で「木彫り」を始め、数多くの作品を残したというが、二代目・只木貞吉も、先代から木彫りの技術を引き継ぎ、現在も意欲的に創作している。こちらの丸川荘の建物は近年改築されたらしく比較的新しい造りであるが、あくまでも山小屋らしい簡素な造りのようであった。今でも昔ながらのランプの明かりを使っていて、発電機のように騒音もなく夜は静寂そのもの。 動物たちの息遣いさえも聞こえてくるようだ。山小屋は山旅をする人の仮の宿であろう。 夜露を忍び、身体を横に出来て保温が保てればそれで良いのである。この丸川荘はご夫婦で営んでいるらしく、如何にも我が家といった感じで好感が持てる。親父さんの話では、下界の人とよく話をし、懇親を深めていて、今では独特のコケシ作りに精を出しているらしい。このご夫婦の人の良さに引かれて、常連の登山客も相当数いるという。山が好きで、山に来る人にとって山小屋とはかけがえのない「家」である。しかも、その中に景観溢れる自然美があり、人間味豊かなもてなしをを受ければ、当然そこには世俗の紛らわしさを超えた憩いの場所となり、忘れ得ぬ想いとなるはずである。特に単独行者にとっては、いかにも痛感するものである。次回も、「丸川荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.21

。 大菩薩峠・紀行(22) 「丸川峠の道」 .丸川峠からの分岐標識この丸川峠の特徴は五方向へ分岐しているところである。今通ってきた大菩薩嶺へのコース。 峠からミゾ沢左岸に沿って雲峰寺の裏手、裂石へ直接下るルート(丸川峠道)。北部の方向は二通りあって、寺尾峠から水源林道を経て鶏冠山(黒川山)や青梅街道・柳沢峠へ至るコース。 もう一方が牛首谷から泉水谷を経て三条新橋に至るルートと牛首谷へ降りないで直進し、大黒茂谷へ向かうルートである。この北方ルートは何れも東京都の水源地のエリアで、泉水谷の水源林事業に通うために拓かれた道でもあり、事業林一帯には監視、管理の為のルートが縦横に付けられているのである。 そのため登山者にとって、或る時はどれが登山道なのか惑うこともシバシバあるらしい。 それでも標識は充分に設置されていて、良く確認して行けば迷うことは無いとも言われる。丹波山村,小菅村は山梨県であるが,東京都による水源涵養林の指定がされている区域をもっている。 このため丹波山村には東京都の水源涵養林の管理事務所が設けられていて、山梨県といえど東京都の水源地として重要な役割を担っているのである。因みに、この地域である広大な丹波山村の総面積の7割は、水源涵養地としての東京都の所有地だという。次に、丸川峠は近代になって重要な交通の要所ともなっていた。周辺一帯が東京府民の水源地になっていることと相まって、水源地域が丹波山村、小菅村という山梨県の行政区域に属しているということである。従って、丸川峠を挟んで塩山、奥多摩の泉水谷間は同県内の地域の連絡通路であり、又、東京の水道管理者は山梨県への至近の通用路でもあった。この重要な道路ということで、明治期の東京府時代には泉水谷に事業経営を興し、この地点を経て塩山方面にロープウェイを通そうと試みたことがあったともいわれる。 その為に今日といえども唐松の造林事業など、樹林の整備、伐採などを行った跡形が僅かながら残っているのである。気が付けば、この丸川峠から麓の裂石、雲峰寺へはほんの一投足の4kmほどに過ぎないのである。丸川峠付近は、その名のごとくほとんど川のような窪地の隘路である。 笛吹川支流の上流の谷川が大きく曲流しているというところから、山の天辺の峠でありながら川の名前が付いているのも判るような気もする。この峠から富士山も遠く見られるが、飛竜山を眺めた景色は相当立派である。次回、 「丸川荘」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年)大菩薩峠紀行(1970年)丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.18

. 大菩薩峠・紀行(21) 「丸川峠」 .秋枯れの丸川峠と丸川荘さて、いくぶんかお腹を満たした後、身体があまり冷えないうちに大菩薩の頂上を降りることにした。本日の山行目的地は、大菩薩峠から頂上の嶺を経て丸川峠へ向かい、その後、奥多摩方面へ向かう予定である。丸川峠への道は、このピークから北へ向かうことになる。こちらは峠付近の賑わいは無く、特に今頃の時節は余り人も入っておらず、静かな山歩きが出来るはずである。樹海に囲まれた雪深く、しかも細い山道は初めて“山へ入って来たんだな・・!“ という実感が得られて満足である。頂上から僅かの間急な坂道を下るが、後はだらだらしたほぼ平坦な巻き道のような道中をを進む。コメツガの樹林帯と降り積った雪とのコントラストが何ともいい感じである。40分ほどで明るい原っぱが目に飛び込んできた。 原っぱといっても盆地のように窪んでいる穏やかな地形である。そこは丸川峠であり、その中心にこじんまりとした如何にも山小屋らしい雰囲気をもった建物が確認できた。 丸川峠は山並みの鞍部(コル;峰などの低い部分、底)を上がりきって下るという極端な地形ではなく、両側が開けた窪地で、高原状に開けた心地よい静寂境である。現在は雪に覆われているが、普段の峠付近はやや窪んだ高原地形に、夏には草花が一面に咲き乱れ、お花畑のように美しいところである。次回、 「丸川峠の道」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.16

. 大菩薩峠・紀行(20) 「大菩薩嶺・山頂」 .大菩薩峠の山頂・嶺(晩秋と積雪期の二題)妙見の頭のピークを反れ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。暫くすると左側へ向かう分岐に達した。勝縁荘や富士見山荘へ至る近道コースであるが、今は雪に埋もっていて2、3の足跡を確認できるのみであった。更に10分程登ると「雷岩」という分岐に達した。雷岩というから巨大な岩が立ち塞ぐよにあるのかな、と思ったが尾根筋に岩が露出している程度であった。 それとも当時までは巨岩があって、落雷によって打ち砕かれ現在の姿になったのだろうか・・?。分岐は唐松尾根を経て、福ちゃん荘に至道であった。こちらは先程の富士見山荘の分岐と違って、充分に歩かれた踏み跡があった。介山荘からほぼ1時間といったところ。ここからは正面に富士山、手前に丹沢の山並み。 そして右に南アルプス、乗鞍、そしてそれらより近い位置に金峰山など見渡せる。その内、斜面が急になって樹林帯に入ってゆく。 尾根の吹き晒しの中の徒歩から、漸く風のない樹林帯に入ったと思ったら既にそこは頂上であった。介山荘から1時間半弱といった行程であった。狭い頂上スペースの一角に「大菩薩嶺・標高2057米」と、寂しげに標識がたっていた。「峠」は、余りにも有名になりすぎて俗化され、それに比べて、こちらの頂上は林に囲まれてヒッソリと地味であった。又、2000米を超える山岳地でありながら、この地まで登りきったという、あの独特の達成感、充実感、満足感が今一つ得られないのはどういうことか・・?。やや複雑な気持ちを抱きながら、とまれ、木立の下で休息を取る事にする。宿屋でしつらえてもらったオニギリを持参のコンロで暖かいスープを腹の中に押し込んで、どうやら人心地がついた。食事後のデザート・・?のミカンを齧っているとき、どこからともなく「チチチチ・・・」と小鳥が飛んで来て、しばらくこちらの様子を伺いながら、食事をしている直ぐそばまでやってきた。 しかも、二羽お揃いのカップルであった。小生の食べ物の内、ミカンをねだっているようなので、手のひらに載せて試してみたら、可愛いことに二羽とも手のひらの上で啄み(ついばむ)始めた。 その可愛いこと・・!! 。ご存知、大菩薩嶺は深田久弥氏による「日本百名山」の一座でもある。『 中里介山の「大菩薩峠」が出て、この峠はひどく有名になったが、私が初めて行った大正12年には、まだ訪ずれる人も稀で、五月の晴れた日曜にも拘わらず、全く登山者には出会わなかった。嘘のような話である。 ・・・ 私は雁ヶ腹摺山とか大菩薩とかいう名前に大変魅力を感じた。 ・・・ むかし甲州街道を何かの理由で憚った旅人は、この裏街道を採用した。その最高所大菩薩峠の上には妙見堂があって、そこに立つと甲州、武州方面の山岳重畳が見渡された。明治初年、青梅街道が丹波川に沿って付替えられてから、峠を越す人も少なくなり、道は荒れるにまかせたが、その廃道が再びハイキングコースとして復活し、現在の繁盛を見るようになった。今の大菩薩峠は、妙見堂のあった昔の峠より少し南に通じている。 ・・・ 大菩薩峠が大勢の人に親しまれるようになったのは、その名前の文学的魅力だけではない。初心者にとってまことに格好な山だからである。東京から日帰りできるし、いろいろ変化のある安全なコースが開かれているし、展望は素晴らしく雄大だし、それに二千米の空気を吸うことができる。峠から大菩薩嶺にかけて甲州側は明るいカヤトで、寝ころんで富士や南アルプスを眺めているのは、全くいい気持ちである。大菩薩嶺は峠から40分位で達せられる。この連嶺の最高峰である。「嶺」と言う寺は「とうげ」と読ばれて、以前は大菩薩嶺とは大菩薩峠を指す名称であったらしいが、今はその名は最高峰に移されて、ハイカーの間では略して「れい」と呼ばれている。地図もそうなっている。「甲斐国志」には大菩薩嶺(だいぼさつとうげ)とあって、その名の起こりを ・・・ 大菩薩峠の登山口に雲峰寺という古いお寺がある。本堂は入母屋造り桧皮(ひわだ)びきの美しい建物で、国宝に指定されている。天平17年(745年)行基菩薩が山中で修行しているうちに霊感があって、ここの一寺を建てたと伝えられている由緒あるお寺である。大菩薩という名はこの寺から由来したとも言われる。・・・ 』(抜粋)深田氏は大菩薩嶺を、以上の如く記している。次回、「丸川峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.15
。 大菩薩峠・紀行(19) 「続・妙見大菩薩」 .再び、妙見菩薩、妙見信仰のことであるが・・!妙見信仰は、古来、金の開発と結び付く信仰であったとする説もある。金は「きん」と呼ばず「かね」であって、黄金=金、白金=銀、赤金=銅、黒金=鉄、青金→鉛などと、これらの金属鉱山の開発、採掘などに妙見信仰と深く結びついていたことは良く知られている。その根拠は、天空の星は金属であると昔の人は考えていた節があり、そこに鉱山神としての星神信仰が発生したことは充分に考えられるのである。大菩薩嶺の北方に鶏冠山(黒川)が間近に聳えている。 この山は甲斐武田の金山稜として名高い。又、大菩薩嶺から南へ延々と続く尾根を小金沢連嶺と称し、この小金は黄金か或は小鉄か定かではないが、いずれにしても金属が出たことには相違ないであろう。これらの金、及び金属の類を甲斐武田の財政を賄うために武田の陣屋へ大菩薩峠を越えて運ばれていったことは当然であり、そのための峠に旅人や大切な資源を守る為に妙見社が祭られたことも尤もな事である。大菩薩峠の北に妙見の頭(妙見社)があることは、大菩薩嶺は実は妙見菩薩の山であるといえなくもない。甲斐の守護神・武田神社の宝物殿には、「赤い軍扇に金の七星」、つまり北辰妙見信仰の象徴が飾られているという。 甲斐の覇王・信玄の父君である武田信虎は熱心な妙見信者であったのである。更に、黒川金山の採鉱については武田信虎時代からと伝えられている。このことは黒川金山を守護する為に甲斐の覇者・武田信虎が、金山近くの主要通路である大菩薩峠に妙見社を建立し祭らせ、更に、金山関係者や地元民に妙見信仰を広め金山の隆盛を図ったのであろう。黒川金山は、とくに武田信玄時代が最盛期であったという。だが、当の信玄本人は仏の人で、仏門に帰依して信玄(元は晴信)と名乗っている。信玄自身は、武門のならいで毘沙門天、不動明王を厚く信仰し、そして神威を借りたのは諏訪明神であった。従って、信玄自身が妙見菩薩を信仰した形跡は無いようで、以降は甲斐の地に妙見信仰が広がることはなく、金山が衰退するにしたがって妙見信仰も途絶えてしまったのかもしれない。序ながら、妙見信仰について 北極星や北斗七星を神格化して祭ったもの、それが妙見信仰である。 平安時代には民間で信仰が盛んになり、貴族の間でも修法が盛んに行われ、その後も中世には武士の軍神として、近世には商家や町人に諸願成就の仏様として信仰を集めたとされる。 妙見信仰は北辰妙見と言わることもあり、北辰の名は千葉周作、坂本竜馬の「北辰一刀流」などでも親しまれているのは周知である。 平安京の始祖・桓武天皇が妙見信仰を深く拝したことは先に述べた。中世、関東房総の名族として名高い千葉氏は桓武天皇の子孫で、千葉介常重は平安後期には下総国千葉庄(現在の千葉市)を本拠地として武士団を形成している。 常重の子・常胤は、相模の「石橋山の戦い」で敗れた源頼朝が安房に逃れてくると、これを助け、源平や奥州の合戦の勝利に貢献し、その功績で下総国・上総国をはじめ現在の宮城、福島、茨城、山梨、愛知、岐阜、佐賀、鹿児島など全国20数ヶ所にわたる広大な所領を獲得し、併せて「妙見信仰」を広めたという。この千葉市の流れを汲む福島の相馬氏も妙見信仰の一族で、有名な「相馬野馬追い」(国の重要無形民俗文化財)は妙見社より発祥した神事で、現在に至るまで祭事として行われていることは周知である。次回、「大菩薩嶺・山頂」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.14

. 大菩薩峠・紀行(18) 「妙見大菩薩」 .ナイスイラスト・・!「とよだ時・山岳ゆーもあ画」(http://toki.moo.jp/)より、寸刻拝借しました。大菩薩峠の上部にはには妙見ノ頭、妙見岩という岩峰がある。そこには克って妙見社(妙見宮、妙見菩薩)と言うのが二社が祀られていたとされる。何時ごろからは定かでないが、一社は小菅村において鎮座のもの、もう一社は萩原村(塩山市)が設けて鎮座させたものといわれる。これによって「大菩薩峠」という名称が付けられたとも言われる。尤も、大菩薩の名前については諸説あり、平安後期の源新羅三郎義光に因む八幡大菩薩説、それに塩山市上萩原に祭られる観音菩薩説(現在の神部神社に相当・・?;裂石より凡そ3km下部に鎮座していて、神仏混交時代・十一面観音菩薩が祀られていた。境内には岩間温泉が湧いている)、もう一つは妙見菩薩が峠の一角に奉られたことによるとされている。江戸時代の地誌『甲斐国志』に出てくる妙見菩薩に関する文献がある。『甲斐国誌』によれば、『峠ニ明見大菩薩社アリ』とあり、又、『小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。 萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ』、と、両方の文ともに妙見菩薩を祭る社が大菩薩峠(旧峠)に二社あったと記されている。それでは、一体「妙見菩薩」とは如何なる仏神なのであろうか・・?妙見とは、「妙見大菩薩」の事で、妙見大菩薩とは密教の仏様で北斗七星(北極星)を象徴とした天空の中心をつかさどる仏様の「妙見さん」として古くから信仰されてきたという。そして、国内においては「妙見大菩薩の信仰を妙見信仰」ともいう。つまり「妙見」という言葉そのものが「仏典」を根拠とする「仏教用語」であり、各地に「妙見」という地名があり、これらは妙見信仰が盛んであったことに由来しているという。その妙見信仰を理論的に説いたのが真言宗の祖、弘法大師・空海だとされる説もある。「妙見菩薩」は中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、通常は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ「天部」(天界に住む神々、十二天・天文神の総称)に分類されているという。古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされ、これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになったと言われる。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということで、真意は「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」ということにある。妙見菩薩が日本に登場するのは渡来人によるもので、仏教伝来とほぼ同時期と考えられている。 因みに、平安京を開いた桓武天皇も妙見信仰を崇拝していたとされ、それだけ重要だった妙見信仰が朝廷周囲、朝廷を取巻く貴族、朝廷を守る武士団にも影響があったことは充分想像される。そして、妙見信仰と板東武者の結びつきも深いものが有るとされている。中世においては千葉氏や九戸氏(南部藩)が妙見菩薩を一族の守り神としており、千葉氏の氏神とされる千葉市にある千葉神社では今日でも妙見菩薩を祀っている。尚、奥州・九戸氏は南部氏の祖・源光行(南部光行)の子で、甲斐源氏の出身であり、南部の姓は甲斐の国から始まったものである。序ながら、大菩薩の名前が生まれたのは、源義家の弟・源新羅三郎義光が、奥州遠征の折に「南無八幡大菩薩」を唱えたことからその名前が付いたと伝承されている。新羅三郎義光(源義光)は平安時代後期の武将で、甲斐源氏の祖といわれるが、彼自身、甲斐の国には直接関わりは無く、歴史的には義光の子である源義清(武田冠者)とその子清光が常陸国那珂郡武田郷に土着して武田氏を称し、その清光ガ常陸より甲斐に進出してきたことにより甲斐の祖となったのである。新羅という名は義光が元服する際、大津の園城寺(三井寺)の新羅明神堂の前で行ったことで新羅義光と自ら名乗ったとされている。源義光、そして孫の甲斐武田の祖・源清光が妙見信仰を拝していたかどうかは定かでない。更に、義光が奥州遠征の際、如何なる理由で甲州・武州の大嶺(大菩薩)を越えたのかは不明である。だが、伝承というものは“人づてに聞くこと”、“言い伝え聞くこと”なので、それなりの要因はあったのだろう・・?。次回、「続・妙見大菩薩」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.13

. 大菩薩峠・紀行(17) 「賽の河原」 .写真:賽の河原と非難小屋介山記念碑から少々上ったところは、サッパリと稜線が開けたところである。避難小屋であろうか・・?、目的不明の山小屋が左手にヒッソリと立っている。丸太で造られた小屋は吹きさらしの中に立っていて、いかにも寂しげであった。この辺りは「サイの河原」(賽の河原)と称するらしく、小さな石積みが数個見られる。「サイの河原」とは、一般には死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の途中、つまり三途の川の河原のことで、普通、荒涼たる風景が広がっているところである。ただ、当節は雪で覆われていて面影は覗えない。「賽の河原」について民間信仰の間では、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされている。 そのような子供たちが、賽の河原で自らと親の供養のために積み石(ケルン)による塔を立てて供養すると言う。 しかし、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信もある。 そのことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」、「徒労」の意でも使用されるともいう。しかし、その子供たちは最終的には「地蔵菩薩」によって救済されるとされる。小説・「大菩薩峠」で中里介山は、実際この大菩薩峠をイメージして書いたのだろう。『 どうじゃ与ハ、恐ろしいことではないか。頑是(がんぜ)ない子供がやっと積み上けた小石の塔を、鉄の棒を持った鬼が出て来て、みんな突きくずすのじゃ。なあ、これを他人事(ひとごと)と思ってはいけないぞ、追善作善(ついぜんさぜん:先祖や死者に対する供養)のつとめというをせぬ者には、みんな鬼が出て来るじゃ、何をしてもみな成り立たないで、みんなくずれ出すのじゃ。よいか、他人事と思ってはいけないぞ 』賽の河原で思い起こすところは、北八ヶ岳の白駒の池から稜線の高見石を経て渋の湯へ至る途中、高見石からの西側斜面が広大な礫石群に覆われていて、この一角を賽の河原の称している。高見石から渋の湯までの道は岩、岩、岩の道で、炎天下の賽の河原をピョンピョンと下らなければならず、足に痛みが走ったのを昨日のように覚えている。賽の河原辺りが、実際の「大菩薩峠」があったとされている。 その上部に「妙見の岩」という岩峰があり、現存しているかどうか定かでないが、妙見社(妙見宮、妙見菩薩)と言う社が二社が祀られていたとされる。一社は小菅村鎮座のもの、もう一社は萩原村(塩山市)が設けて鎮座させたものといわれる。妙見菩薩は、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩とされ、民間に広く信仰せれた一つで、国土を擁護し災害を滅除し、人の福寿を増すといわれる。妙見菩薩は、峠越えで難渋している往来する旅人を見守っていたのかもしれない。そして、中里介山は小説・「大菩薩峠」の中で・・、『 妙見の社の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります 』と記している。次回、「妙見大菩薩」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.10

. 大菩薩峠・紀行(16) 「五百円紙幣」 .今までの樹林帯の道と違って、今度は見通しよい尾根道である。晴天のこの日、周囲の大展望を満喫しながら前進するが、時折の強風にはいささか往生する。振り返ると正面に丸みを帯びた巨大な山容の熊沢山がデーンといきり立っている。熊沢山の向うが石丸峠、峠の向うが小金沢連峰の山並みが美しく波を打っている筈である。その後方に見える富士の姿は格別で、一段のその雄大さを誇っている。そういえば発行されたばかりの「500円札」(1969年;昭和44年発行)の裏面の富士の姿は大菩薩からの見た写真であった。大菩薩峠の南側の山稜には小金沢連峰が延びているが、その北から順に牛奥雁ガ腹摺山、雁ガ腹摺山、笹子雁ガ腹摺山と、「雁ガ腹摺」という特異な名を冠する山が三つある。 何れも「旧五百円」の紙幣裏面に富士山の図柄とともに描かれていることは特に有名で、知る人ぞ知るであろう。つまり、紙幣に使われるだけの価値のある景観を持つ山並みなのである。紙幣の表側の肖像は明治の元勲・岩倉具視であり、裏側が富士山の絵柄で原画は大月市の雁ヶ腹摺山山頂から撮影された写真とされている。尚、現在は五百円紙幣は発行されておらず、代わりに五百円硬貨が発行されているのは周知である。写真、旧500円紙幣の表裏の図柄今では貴重になった日本銀行券「五百円札」(72×159mm)の裏と表富士山の雄姿を、雁ガ腹摺三山が引き立てている。表の肖像:岩倉具視、発行開始日:昭和44年(1969年)11月1日支払停止日:平成6年(1994年)4月1日次回、 「賽の河原」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.09

. 大菩薩峠・紀行(14) 「小説・大菩薩峠」 .本・「大菩薩峠」そして、大菩薩峠といえば中里介山の長編時代小説・「大菩薩峠」が有名である。小説「大菩薩峠」は世界最長を目指し、江戸期の幕末を舞台に書かれた時代小説で、中里介山が大正2年から昭和16年までの約30年にわたり数種の新聞に連載され、昭和19年4月28日の作者の死によって未完の長編小説の傑作巨篇と言われている。幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州・大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わったとされる。世界最長を目指して執筆された時代小説で、作者自身は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。因みに、現在の世界最長小説はヘンリー・ダーガー作の『非現実の王国で』だそうで、最長時代小説は山岡荘八作の『徳川家康』(小生、若年のころ読破済み)である小説『大菩薩峠』は、武州、甲州に跨る大菩薩峠のことを以下のような書き出しで始まる。『 大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里に跨がる難所がそれです。 標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂きに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた。 それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いづれも流れの末永く人を湿ほし田を実らすと申し伝えられてあります。 江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和へ出る、これがいわゆる甲斐裏街道、(旧青梅街道)であります。 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、下って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上り煩う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上は今新緑の中に桜の花が真盛りです。 』と介山は、大菩薩峠のことを概略、以上の如く書き出しで説明している。そして、その後の物語の概略文言は以下のように始まっている。『 時は幕末(安政5年)、その大菩薩峠で一人の老巡礼が武士・机竜之助に問答無用の不意打ちで斬殺される。 老巡礼の孫娘お松は、通りがかった盗賊裏宿の七兵衛に助けられ、養育される。竜之助は、峠のふもとの武州沢井村の沢井道場の若師範であった。甲源一刀流の師範宇津木文之丞は御岳神社の奉納試合で竜之助と立ち会うことになっていたが、その内縁の妻お浜は妹と偽って竜之助を訪ね、試合に負けてくれと懇願する。竜之助は拒絶し・・・、 』 と始まる。小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた標高2000m近い山奥を歩かなければならなかったのか・・?、江戸期に甲州街道が開かれてからも、実際、多くの人々はこの大菩薩峠を越えていたのである。ここは別名・甲州裏街道といわれ、人物往来の副幹線道路だったのであり、従って、そこを机龍之介や旅人が歩いていても不自然ではないのである。尚、小説・大菩薩峠の主人公・机龍之助のモデルは「北一輝」だという説がある。中里介山は、北一輝(戦前の日本の思想家・社会運動家。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。二・二六事件の理論的首謀者とされ、処刑された)が「二・二六事件」の首領として代々木原で処刑された直後に、「北一輝の判決を聞く」という詩を詠み感化されたというが・・?、両人は並々ならぬ交流があったともいわれる。介山は大菩薩登山道脇にたたずむ勝縁荘の傍らに「三界庵」という庵を建ててしばし逗留し、執筆したともいわれている。次回、 「中里介山」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」。
2012.02.07
. 大菩薩峠・紀行(13) 「旧青梅街道」 . 1603年(慶長8年)、江戸城築城のために青梅(成木)で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備されたといわれる。 当時の名称は青梅街道、又の名を成木街道と称していた。更に、現在の青梅街道に対して旧青梅街道と称し、またの名を甲州裏街道とも呼んだ。江戸時代中頃には絵図や紀行文などには、既に「青梅街道」との記述されているという。この街道で、甲州から武州青梅に抜けて江戸に至るのに最大の難所とされたのが大菩薩峠であった。 内藤新宿(現在の新宿)で甲州街道から分かれ、武州青梅、大菩薩峠を経由して塩山、甲府へいたる道で、再び甲州街道合流するので「甲州裏街道」とも呼ばれた。江戸より八王子、大月、笹子峠を越える甲州街道(概ね、現在の国道20号線)より二里短く関所も無いため、庶民の旅客にも多く利用された。 但し、塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在したという。尤も、理由あって正当には関所を越えられなかった人々が人目を避けて歩いたルートだったともいわれる。そのため「裏甲州街道」とも呼ばれたとか。大菩薩を訪ねる人は、過去の旅人がどんな思いでこの峠を越えたのか、空想を巡らしながら歩くのもよいかも。とにかく、車道(馬車、牛車)を通すことを断念するほどの難所で、時期や気象条件によっては遭難者も多く出たともいわれる。その後、1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。旧青梅街道の大菩薩峠を越えるルートは、現在は登山ルートにもなっていて登山地図でも確認できる。実際の順路は、奥多摩、丹波山村の丹波部落(たばぶらく)から大菩薩の山中に入り、越ダワ、この辺りから現在の登山道でもある追分、サカリ山を右に見ながらノーメダワ、フルコンパ(一昔まで小屋があったらしい)、そして難路ようやく大菩薩峠に到る。峠の直下には「荷渡し場跡」というのがあるらしい。荷渡し場の標識には『 萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた 』と記されている。『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところだろうか・・?、尚、旧青梅街道には更に脇道もあって、小菅村の小菅部落から小菅川の南側の川久保、大マテイ山を正面に見ながら棚倉、そして「牛ノ寝通り」という長い尾根道を登って、大菩薩峠から30分ほど南東へ下った「石丸峠」を越えていた。次回、「小説・大菩薩峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」.
2012.02.06

. 大菩薩峠・紀行(11) 「富士見山荘」 .人気の無い山小屋らしい雰囲気の「富士見山荘」朽ちかけている富士見展望台富士見平から見た富士山又、富士見山荘は勝縁荘とは異なって、さっぱりと開けたところに建っていた。このあたり「富士見平」とも言うらしい。昔使っていたのだろうか・・?、玄関横の壁に荷車の車輪が飾ってあり、その上の屋根には薪ストーブ用の懐かしい煙突が立っていた。それがいかにもマッチしていて、建物はいかにも山小屋らしい素朴を滲ませている。小屋横には見晴らしようの縁台が設えてあり、確かに秀麗な富士の姿が遠望できる。山小屋前の道路横に車が駐車しているが、小屋の関係者か又は登山者が駐車しているのか定かでないが、両小屋共人の気配が全く無く森閑としていた。両小屋の前にはジープが止まっているが、歩き難かった轍(わだち)は、この車のせいであった・・?。 物資輸送用・・?の車であることは判るが、それにしてもこんな山の中まで車が入ってくる必要があるのか・・?。生きた自然に接するための諸行として、自らの足で山に入る我々にとって、ここで、こんなところまで機械文明の利器を見せ付けられるとは、或は、文明の利器がここまで入り込めるような道路が必要なのかどうか・・?。はなはだ落ち着かない不自然さを感じ、又、疑問の一つも生じたくなるのである。現在、「勝縁荘」、「富士見山荘」は現在営業はしておらず、廃家になっていて、朽ちるのを待つばかりとなっている。 勝縁荘の家の前には益田勝俊氏の顕彰碑が立つ。尚、富士見山荘は、NHKの連続テレビ小説・「ゲゲゲの女房」(2010年04月~2010年09月 毎朝)で、村井一家(水木しげる)が富士山の見える別荘として購入したロケ地でもあった。次回、「大菩薩峠」【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観東北紀行2010内陸部 ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」※当方、事情で写真は所有してないため、情景によっては所々に個人、公的機関等の 許諾不要と思われる無料のフリー写真または素材を使用させて頂いております。 もし、問題が発生しそうな場合は直ちに削除いたします。連絡は「fc2ブログ」のコメント欄へお願いします。※.
2012.02.01
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