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■2021.3/29(月)♪薩摩京都の名のある知覧浮世忘れた夢の里知覧節という歌があるということは、今回の旅行ではじめて知った。また、歌われた知覧(ちらん)は、特攻隊基地のあったところということしか知らなかった。知覧麓(ちらんふもと)は、南九州市にあって石垣と緑の生垣がる美しい町。麓と呼ばれる外城の武家屋敷群が数多く残っている地区をガイドさんの説明を聞きながら歩いた。■門1■▲家の格によって門の形が違う。▼■門2■▲家の格によって門の形が違う。▼■門3■男性のみ入ることが出来る「男玄関」。▲当時、高価だった紅がらで塗った壁は、分限者(ぶげんしゃ)=金持ちのみが出来たこと。▼武家屋敷群があり、7つの庭園が国の名勝に指定され公開されています。庭園は7つのうち6つが枯山水式庭園(水を使わず砂や石で風景を表現する庭園方式)です。▲水を使った庭園、知覧武家屋敷唯一の池泉様式「森重堅庭園」。名勝に指定された理由のひとつに「琉球の影響」がある。▲石垣の端っこが、上がっているのは、琉球の影響ということだ。▲屋敷の一画に母ヶ岳を借景とする美しく優雅な庭園が造られています。(右の山から生垣に続くライン)▲石垣の右半分は、麓川から拾ってきた石で造り、隣の左半分は、加工した石で造っている。当然、加工した石垣の方が高くつくので、武士の階級が上ということだ。あちこで石敢當(せっかんとう)を見た。■石敢當(せっかんとう)1■■石敢當(せっけんとう)2■平山亮一庭園の玄関のすぐ脇で、細長い手水鉢(ちょうずばち)のようなものを発見!実はこれ、「太刀洗(たちあらい)」といって、血で汚れた刀を洗うための水溜めなんです。▲猪の目。日本古来から伝わる文様で、獣の目力で魔除けの意味。▼金具にも飾り模様として猪の目が使われていた。石敢當(せっかんとう)にしろ、猪の目にしろ、昔の人の平穏無事への願いを感じる。麓川に掛けられた石積アーチ橋の矢櫃橋。大河ドラマ「西郷どん」では、知覧麓で多くの撮影があった。●佐多姓が多いのは、鹿児島が「佐多」姓のはじまりだから。鎌倉時代の文保2年(1318年)3月15日、島津宗家4代当主忠宗の三男・忠光が大隅国の佐多(現・鹿児島県南大隅町)を与えられたことにより、「佐多氏」を称したのが始まりである。忠光はさらに、文和2年(1358年)に足利尊氏により薩摩国知覧(現・鹿児島県南九州市知覧町)を与えられている。■薩摩の小京都:知覧麓(ちらんふもと)■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.19
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*孫を飼うより犬を飼え*という言葉がある。犬なら番をしたり、猫でも、ネズミをとる。孫はいくら可愛がっても世話しても役にたたぬ。恩知らずだ、という意味だそうだ。。長女のミナは今年の4月にちゅんを出産。その時、言った言葉は、「ちゅんを、おばあちゃんに見せてあげたいわ。」「おばあちゃん」というのは、82歳の私の母。視力、聴力も落ちて歩くのも容易ではない母。それでも、父が生きている間は、老人ホームで楽しそうに暮していた。1年半ほど前、父が亡くなって、老人ホームで淋しく暮している。9月の中頃にミナから電話があった。「あんまり、寒くならんうちに、おばあちゃんに、ちゅん(ミナの子ども・私の孫)を見せたいねん。一人での遠出は無理やから、お母さん、一緒に行って。」私は二つ返事で引き受けた。母の近くに住む私の妹に相談すると、「私が、お母ちゃんを連れて、車でそっちに行くわ。」話がとんとん拍子に決まって、10月のはじめの日曜日に、妹と母が来ることになった。**孫を飼うより犬を飼え**「山村の四季」創文社 宇都宮貞子 長野・更埴の諺 --*--*--*--*--*--*--*--*--*--●先週の今ごろは、会社の旅行の帰路。しんどい、一週間だったので、今日は、歯医者に行ったり溜まった用事をして過ごす。■□■テレビしびれて■□■★てるてる家族★人間ドキュメント~俺たちのシンクロ~大好きだったテレビドラマ「ウオーターボーイズ」。そのモデルになった、川越高校、水泳部のシンクロにかける夏。◎日本ちょっと昔話◎ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★10月11日「運動会デビュー:おもちゃとり 」UP
2003.10.11
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6月16日放送の「秘密のケンミンSHOW」で、大阪府民が、ふくらはぎがつることを、「こぶらがえり」というと言っていた。大阪以外の京都府や岡山県などでも「こぶらがえり」。東京などでは、「こむらがえり」。「おかしいな、大阪は・・・。」( ̄▽ ̄)と皆、大笑い。しかし、おかしくないのだ。「こぶらがえり」は「こむらがえり」の変化したものだ。「さむい」→「さぶい」。「ひも」→「ひぼ」。「ほっかむり」→「ほっかぶり」と同じように「ば行」が「ま行」に変化したものだ。 かつては、京都から言葉が同心円状に広がった。まるで、カタツムリのようだということで「蝸牛考」(蝸牛とはカタツムリの意味)という本がある。日本におけるカタツムリの別称はデンデンムシ・マイマイ・蝸牛(かぎゅう)などがある。柳田國男はカタツムリの方言(デデムシ、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジ)の分布の考察を通して、『蝸牛考』において方言というものは時代に応じて京都で使われていた語形が地方に向かって同心円状に伝播していった結果として形成されたものなのではないかとする「方言周圏論」を展開したカタツムリの方言にツブリというのがある。これは、ツムリが→ツブリになったのだと私は推測している。湿気を好むカタツムリは、梅雨の今、喜んでいるだろう。■カタツムリ■■言葉の謎!「さぶい」と「さむい」■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年6月17日*父の麦わら帽子:スターダストメモリーズ/♪よしわらタケノコ~*・・・・・・・・・・・・・・
2011.06.17
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9月26日(月)~28日(水)、紀伊半島に行ってきた。関西以外の人だったら「紀伊半島ってどこ?」ってなるかもしれない。上の地図の赤〇部分が紀伊半島。 それを大きくするとこうなる。■9月26日(月)(和歌山県)橋杭岩、太地(たいじ)。■9月27日(火)(和歌山県)宇久井半島の散策、遊覧船クルーズ、「浮島の森」散策。■9月28日(水)(三重県)丸山千枚田、夫の友人で大阪に住んでいた人で今は「津」に住む家族を訪ねた。3日間の走行距離は、636kメートル。大阪の隣の県だけれども、和歌山、は遠く感じる。三重県に至っては、関西とも関東とも違う。たぶん、「伊勢湾圏」なのだろう。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.10.01
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■銀二貫■舞台は商人の町・大坂天満。仇討ちで父を目の前で亡くし、あわや自分も討たれるかというところを、偶然居合わせた寒天問屋・井川屋の主人・和助によって銀二貫と引き換えに救われた松吉。生きるために武士の身分を捨てて井川屋の丁稚となった松吉だが、商人の道を歩むことに心が揺れていた。大火で焼けた天満宮再建のためにかき集めた銀二貫で松吉を救った和助や、信心深いが故に松吉に辛くあたる番頭の善次郎から、商人としての厳しい修行と躾を受ける。そして、井川屋の暖簾をめぐる数々の事件を乗り越え、松吉は商人として成長していく。得意先の料理屋の娘・真帆との淡い恋あり、涙あり笑いありのなにわ商人の人情劇。 商人の街大坂・天満を舞台に■「みをつくし料理帖シリーズ」■の高田郁が描く人情時代劇。 本も読んだことがあるし、テレビドラマでも見た。今回再読したのは、先日、伊豆に行った時に、黄金崎で■ところてんを買った。■その時、「銀二貫」の中に、寒天の元、天草を求めて伊豆に行ったという話が載っていたのを思い出して、確認したかったからだ。 以下、寒天に関する箇所。◎は私の注釈。●「伊豆の天草で作った寒天、いうのがあるそうだすな。何でも、伊豆の海で採れる天草は味も濃うて、腰の強いええ寒天がでける、とか。」●彼は伊豆をつぶさに回り、中でも南伊豆の天草が際立って上質なのを知ると、それを買い入れる手はずを整えた。下田から紀伊半島を巡って大坂に入る廻船の手配、港から大川に乗り入れる上荷船など煩雑な手続きを終えて戻ったのだった。輸送の重量を減らすべく、現地で天草の選別をし乾燥させるのだ、という半兵衛の話に、和助も善次郎も舌を巻いた。◎丹後の天草を使って、寒天発祥の地、京都・伏見で作っていたが、丹後の天草が手に入らなくなくなったために、伊豆に行く。●淀屋、住友、鴻池、それに三井。この大坂で財をなした大店には、すべて武家の地が流れている。◎★淀屋■徳川の天下統一後、■家康は常安を召し出し、冬の陣、夏の陣への功によって苗字帯刀と岡本三郎右衛門と名乗ることを許した。そのうえ山城八幡の山林300石を与え、八幡の侍格に取り立てた。★鴻池遠祖は尼子氏家臣の山中鹿之助と言われる。鹿之助の死後、子息の新六直文が武士を捨て摂津国鴻池村(現伊丹市鴻池)において酒造を始め、鴻池流という清酒を開発した。●「あれが天満の青物市場や。見てみ、大根を仰山積んだ船が行くやろ?天満の大根、天王寺の蕪(かぶら)、難波の干瓢(かんぴょう)、吹田の慈姑(くわい)・・・大坂中の美味い食材が集まる場所なんやで。」◎■東横堀川に農人橋(のうにんばし)■という橋があるくらいだから、大坂の町も野菜が沢山作られていたのだろう。●(略)天満橋を渡りきったところには東町奉行所が控える。そこから東側に広がるのは大阪城。自然、天満橋には武士の往来も多い。淀屋の闕所(けっしょ)以後、侍と関わるとろくなことはない、例えば井川屋の番頭の善次郎なども、そうした理由で天満橋を避けるひとりだった。◎井川屋は、京都からの船便を使った時は、天満橋を使った方が便利なのだが、わざわざ遠回りして、天神橋を使う。●黒羽二重の一張羅を着こんだ和助と、同じく一張羅の黒縮緬を羽織った善次郎とが、いそいそと高麗橋を通りゆく。和助の黒羽二重は松葉屋の大旦那の形見分けの品、善次郎の黒縮緬に至っては、山城屋の旦那に借りた古着である。何度も何度も涙で文字が見えなくなるほど感動した。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.30
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ぎゃーーー!!!昨日、街で和服姿の女性の帯がドクロの模様だった。すれ違ってから振り返ると、なんと後ろにも大きなドクロ!!!ドクロの模様は、よく見るけど、こんなにビックリしたのは初めて!ドクロ、大嫌い!!前々からドクロの柄が大嫌いだったが、これでますます嫌いになった。 先日、テレビを見ていたら、博多・華丸 大吉の大吉が出ていた。彼の取り扱い注意は、ドクロの衣装を着せないことだそうだ。小さなドクロの模様でも、「死をイメージするから嫌だ」と大吉。 あと、彼は「迷彩柄」もダメ!!私は依然■迷彩色と赤ん坊■という記事をアップした。1歳の孫が迷彩柄のズボンをはいていて、何の気なしに着せる親の多いこと・・・。うちの娘もその一人。迷彩柄は、衣類だけでなく、バッグやリュックにもなっている。迷彩柄は、兵士が目立たないように木々や草など周りに溶け込ますための柄。もし、兵士の服が真っ赤だと目立って襲撃されるではないか。迷彩柄は、本来、兵士の柄だというのに、「みんな、どこに戦争に行くんや?」と思うくらい普通に身に着けている。それだけではない。 夏になると「グラディエーター・サンダル」というのが巷に出る。グラディエーターサンダルとは、足の甲から足首にかけて、何本もの細い革バンドで覆ったデザインのサンダルのこと。語源は古代ローマの剣兵士(グラディエーター、グラディアトル)が履いていたものに似ていることから。まあ、古代ローマは、大昔のことだから、「グラディエーター」にまで目くじら立てないけど、履くならそのことを知って欲しい。博多華丸・大吉は大好きで、特に、大吉は、シュッとした感じが芸人ぽくないので大好きだ。もちろん、力みのないトークもいい。大吉がドクロや迷彩柄が嫌いというので、よけいに好きになった。 ■博多華丸・大吉■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.05.21
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冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。 (現代語訳)冬は早朝(が良い)。雪が降った朝は言うまでもなく、(降りた)霜がとても白いときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを急いでおこして、(部屋の炭びつまで)炭を運んでいくのも、たいそう(冬の朝に)ふさわしい。昼になって、生暖かく(寒さが)だんだんとやわらいでいくと、火桶に入った炭火も白い灰が多くなっているのは(見た目が)よくない。 「枕草子」の冬はつとめての「つとめて」とはなにか?もちろん、早朝というのは、学校で習った。しかし、早朝といわずに、なぜ「つとめて」というのか。■その答え■があったので書いておく。「つとめて」の「つと」の意味が下のとおり。1 ずっと以前から。早くから。「彼は夙にその名を世に知られていた」2 朝早く。「冬はつとめて」の「つとめて」は、「つと」からきたようだ。私は、「冬は遅めに」・・・起きる。_| ̄|○ 今日は、節分。春は名のみの風の寒さよ。 テレビでは、青いジャケットで漫才をする、昭和をまとった漫才師■銀シャリが■青いジャケットならぬ、青いダウンを着て寒そうに街歩きをしていた。 ところで、■「枕草子」の名前の由来■がここにかいてある。 内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答したので、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜された…と記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、では肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。 枕の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。1.備忘録説:備忘録として枕元にも置くべき草子という意味(顕昭所引教長卿註で説かれたのをはじめ、近世の契沖・村田春海らに継承され明治まで広く支持された説)2.題詞説:歌枕・名辞を羅列した章段が多いため(「枕」を「枕詞」「歌枕」などの「枕」と同じく見て、内容によって書名を推量した説で、『磐斎抄』『春曙抄』などに見える)3.秘蔵本説:枕の如く人に見すまじき秘蔵の草子(関根正直説)4.寝具説:「しき(史記→敷布団)たへの枕」という詞を踏まえた洒落。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.02.03
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■2020.11.27山口市から美祢市に行って秋芳洞と秋吉台を見る。■秋芳洞■は、山口県の中央部・美祢市にあります。周囲は「秋吉台」と呼ばれるカルスト台地で、数々の洞窟や鍾乳洞があり、その中で一番大きい観光洞窟が「秋芳洞」。その規模は東洋でも屈指と言われ、観光洞では日本一の規模を誇っています。昭和天皇がまだ東宮だったころにご訪問され、それをきっかけに宮内庁が「秋芳洞」と命名され、今に至っているそうです。10kmほどもある洞内のうち、1kmほどのコースを様々な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が彩っているようすを見学することができます。秋芳洞から秋吉台まで車で移動。広大な秋吉台をガイドさんの案内で1時間コースのカルスト台地を歩いた。■秋吉台■秋吉台(あきよしだい)は、美祢市の中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。1955年に国定公園(秋吉台国定公園)に、1964年に特別天然記念物に指定されています。▲草木が生えていないのは、毎年野焼きをするから。野焼きをしないと左の中のように木が生えて森になるという。雨水が石灰岩の割れ目に沿って集中的に地下に浸透する過程で周囲の石灰岩を溶かすため、地表にはドリーネ(doline: 擂鉢穴・落込穴; 語源はスロベニア語の谷、米語ではほかにsinkhole)と呼ぶすり鉢型の窪地が多数形成される。ドリーネでは、野菜などが作られるがこれを「ドリーネ耕作」という。(▲ドリーネ耕作の跡。)明治・大正時代になると、秋吉台上にたくさんあるドリーネの底は、農業に利用されるようになり、ドリーネを耕すことからドリーネ耕作と呼ばれた。昭和20年代の後半までは、ドリーネの積極的な利用がありましたが、合理的な現代農業の発展で、生産性の低い秋吉台のドリーネ耕作は衰退の一途をたどり、現在ではほとんど見ることができなくなっています。■ドリーネ耕作■ ドリーネ耕作は水はけが良くゴボウやサトイモの栽培に適した場所。だからこのあたりは、ゴボウ料理が名物だそうだ。秋吉台の中の道を通って、「別府弁天池」。■「別府弁天池」は、■全国的にも有名な景勝地である秋吉台や秋芳洞の麓、別府厳島神社の境内にひっそりと佇む湧水。環境庁が指定する“日本名水百選”にも選ばれています。南国の海のようなコバルトブルーとか、宝石のようなエメラルドグリーンとも呼ばれる美しさ!その神秘的な色合いに、思わず誰もが見入ってしまうに違いありません。その美しさをカメラに収めようと、多くの人がスマホを持って撮影しています。何故青いの?この青さの秘密は、石灰岩で構成されたこの地特有のカルスト地形にあります。「別府弁天池」では、カルシウム分を含んだ透明度の高い水が湧き出ています。その湧水が太陽光に照らされ、青色の光のみが反射することにより、このような神秘的なブルーに見えます。池が最も美しく見える天候は、光が反射しやすい晴れです。しかし時間帯によっては池に木の影が不要に映り込みすぎるので、薄曇りの天候も良いです。風は強過ぎず無風状態の方が、池の表面が波立たず、より美しく見えます。湧水を飲むことも出来、専用の給水所も設置されています。「1杯飲めば1年、2杯飲めば2年長生き」と長寿が保たれ、財宝が授かるとも言い伝えられるパワースポットでもあります。▲宿の窓から見た、山口市の景色。この日も山口市に泊まる(連泊)。●89Km ●12602歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.25
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「大野亀」、 「トキの森公園」、「佐渡歴史伝説館」・・・と2日目は、早朝から観光地巡り。 「佐渡歴史伝説館」のお土産屋さんには、北朝鮮に拉致されていた曽我ひとみさんの夫、ジェンキンス氏が働いていた。看板娘ならぬ、看板オジサンで、パネルもあった。「お仕事中」という文字がパネルにあったが、お休みの時、彼を目当てに来る人は、ここで記念撮影をするのだろう。彼は、決して楽しいという表情ではなかったが、お菓子を買った客と記念撮影をしていた。日本語は、少しは分かるのだろうか?英語で育って、脱走兵として北朝鮮に行き、ハングル語を覚え、英語を教え、そして、今、日本にいる。言葉というものは、相手と分かり合えるための、最も重要なツール。 曽我ひとみさんと同じように、北朝鮮に拉致された、蓮池薫さんがいる。彼は大学時代に拉致され、帰国後、大学に復学、本を出版するなど、自分の失われた人生を取り戻そうとしている。ジェンキンス氏は、アメリカにも、日本にも、北朝鮮にも、居場所のなさを感じているのではないだろうか?でも、ジェンキンスさん、あなたは、あのお土産屋さんになくてはならない人だと、自信を持ってください。ジェンキンスさんの売っている、お菓子の収益の2%は、拉致被害者救出のためのカンパとなるというので、1つ買った。■佐渡ガ島へ■■6月23日(火)*たらい舟*妙宣寺(みょうせんじ)■6月24日(水)*大野亀*トキの森公園*佐渡歴史伝説館(昼食)*七浦海岸 夫婦岩*尖閣湾(せんかくわん):海中透視船に乗った。*佐渡金山*北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう):ガイド氏の解説付き。■佐渡の流人(るにん)で有名ベスト3!■■佐渡へ:交通■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.06.28
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(▲■ニュージーランド・オークランドの牛の像、本物そっくり!!■うし年ですから・・・と牛についてあれこれ書いている。大坂に住む私は、古い言葉に「こって牛」というのがあるのを思い出した。(▲ギリシャで見た牛の像)■こって牛■大阪の河内では、黒い大きな角の有る牛で、強情そうな牛を、「こって牛」と呼びます。それが転じて、親や目上、親友の、忠告等を自分の我をはって言う事を聞かない、強情者の事を、可愛さも含めてけなす言葉です。 最近、「こって牛」という言葉を聞かないが、昭和40年代のテレビドラマ「どてらい奴」のサブタイトルサブタイトルに、■走れ!コッテ牛■というのがあった。 大阪の方言だと思っていたが、調べてみたら各地にある。鹿児島。■こって牛■●意味●牡牛。雄牛。●由来/語源●「ことい牛(特牛)」の転訛です。ことい牛は、力の強い雄牛のことです。●用例●産まれたた、こってじゃしたや?おなめじゃしたや?(産まれたのは、雄牛でしたか?雌牛でしたか?)■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■商いは牛の涎■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.01
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憂きことを海月(くらげ)に語る海鼠(なまこ)かな黒柳召波(くろやなぎ しょうは) 別号を春泥舎という江戸中期の俳人。与謝蕪村の高弟。クラゲとナマコの対話という題材は珍しく、句も新鮮だ。「あわれ」と「をかし」を兼ね備えている句といえよう。理屈をいえば、海底にいながら人にねらわれて食われるナマコが、水面にいるのに食用に不向きなため比較的安全なクラゲに対して、身の憂さ、辛さをぼそぼそ話している図と解されようが、そこまで理詰めに解さずとも、単に浮遊するものと這うもの会話と見るだけで面白い。「折々のうた」大岡信 一番上の写真は■沖縄の水族館。■この句は、冬の句の入っていたけど、季語は「海鼠(なまこ)」で冬だそうだ。知らなかった・・・。■クラゲはプランクトン■クラゲは水に浮いて漂っている浮遊生物、つまりプランクトンです。プランクトンとは「遊泳能力がないか、あっても弱いため、水の流れに逆らえず、水中で浮遊生活を送る生物」と定義されています。 実はクラゲは自力で泳いでいるというより水の流れに沿って漂っているのです。 傘をリズミカルに動かすことでちょっと泳いではいますが、この行動は体液を循環させる目的もあります。クラゲは泳ぐ力がほとんどないというこの事実だけでもびっくりですね! 「海月姫(くらげひめ)」<ストーリー>とある古びたアパート、天水館(あまみずかん)。そこで暮らす倉下月海(つきみ)はオタク女子友達と共同生活を送っていた。「男を必要としない人生」を信条に、自らを「尼~ず」と呼び、それぞれのオタク道を極めるゆるい毎日。そんな彼女達の前に女装美男子・蔵之介と童貞エリート・修の兄弟が出現!動揺する尼~ず達に、心のより所でもある聖地(=ボロアパート)が強奪の危機まで勃発。自分の大切なものを守るため、自分たちの居場所を守るため、尼~ずと蔵之介はタッグを組み、最後の大勝負にうって出るーー。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.02.08
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(▲土佐堀川と堂島川が分かれる場所。右が土佐堀川)■土佐堀川■土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つである。旧淀川は、上流の大川(おおかわ) から中之島をはさんで北の堂島川と南の土佐堀川に分かれ、中之島西端で再び合流して安治川(あじかわ)となる。名前の由来:『大阪市史』 によると、豊臣期に周辺一帯に土佐藩の商人が群居した 「土佐座」 があったためと伝えられている。淀屋橋から下流は、川沿いが緑地になっている。江戸時代の豪商「淀屋」があったのは、淀屋橋のすぐそば。 大川町は道路を建設するときに河岸側の建物を取り払って、昭和10年(1935)2月に現在のような遊歩道公園になっている。かつては、ここらは「大川町」という地名だった。土佐堀川は「大川」とよばれていた名残だ。この公園には、「方面委員民生委員始祖」として林市蔵大阪府知事の像がある。☆大川町公園(大阪市北区中之島1丁目5)への行き方 地下鉄御堂筋線・京阪本線淀屋橋駅(徒歩3分)■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋錦橋(にしきばし) - 歩行者専用の橋肥後橋(ひごばし) - 四つ橋筋の橋築前橋(ちくぜんばし)常安橋(じょうあんばし) - なにわ筋の橋越中橋(えっちゅうばし) - 歩行者専用の橋土佐堀橋(とさぼりばし) - あみだ池筋の橋湊橋(みなとばし) - 新なにわ筋の橋端建蔵橋(はたてくらばし)■難波新川跡■■西横堀川跡■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.03.08
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■2020.11.28(土)この日は、下関市の長府という歴史のある地区に行って、ガイドさんと1時間ほど町を廻った。(☚横枕小路)■下関市にある城下町・長府は、■大化の改新後に長門国に国府が置かれ、「長府」と呼ばれるようになったと『日本書紀』にも記されている歴史ある町です。●このように「府」がつく地名は、歴史的に中心地であった。それなにに「府」を嫌って「都」にしたいといっていた大阪維新の会って歴史を学べと言いたい。平成25年度には「都市景観大賞」で大賞(国土交通大臣賞)も受賞した美しい町並み。■長府観光■城下町として知られる長府のなかで、その面影をもっとも残す通り。散策していると、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような雰囲気に浸ることができます。合戦に備えた配慮がされており、武家屋敷の土塀は防壁として築かれているほか、路地はT字になった部分が多く迷路のように作られています。●横枕小路●武家屋敷が建つ古江小路と並んで、歴史を感じさせる通りが横枕小路です。学問の神様としても有名な「乃木神社」の横を東西に抜ける細道で、道幅が狭いため車は通行できません。長府を代表する練塀(ねりべい)と呼ばれる塀が続く道は樹葉に覆われており、まるで江戸時代へと繋がるタイムトンネルのよう。▲長府中学校門から毛利邸へ抜ける高低のある通りを「切り通し」と呼び古江小路とともに練塀の多くある地域です。▼▲あっちも▼こっちも絵になる風景・・・。長府はもっと取り上げられるべき町だと思う。功山寺近くにも絵になる風景が・・・。●功山寺●維新回天の旗揚げが行われた寺。鎌倉期創建の禅寺で長府毛利家の菩提寺。幕末に高杉晋作が維新回天の旗揚げをした場所として知られる。純唐様建築の美しさを保つ無彩色の仏殿は国宝に指定されている。●長府毛利邸●1903年に、長府毛利家の第14代当主・毛利元敏公によって建てられた邸宅。明治天皇もご宿泊され、一部の部屋は当時のまま残されています。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園が魅力で、新緑や紅葉の季節になると一段と見ごたえを増します。四季折々の山野草が生けられた母屋では、セルフサービスの緑茶で一息つくことができます。城下町・長府のほぼ中心に位置しているため、散策途中の休憩に最適です。●乃木神社●明治天皇の崩御の際に殉死した軍人・乃木希典(のぎまれすけ)を、文武両道の神として祀る神社。1920年1月30日に創建され、学問の神様としても知られています。(▲「乃木の誉」というお酒)1859年に長府に転居した彼は、西郷隆盛による西南の役で官軍として参戦するなど、多くの武功をあげました。▲乃木家の井戸と碑▼境内には、彼が幼少時代に育った家が復元されているほか、夫婦の銅像も建てられています。▲ 乃木さんが休めをして小鳥来る ガイドさんの知人の句古い町の中を「壇具川」という川が流れている。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う「壇ノ浦」裏は近いが、壇ノ浦と壇具川になにかゆかりがあるのだろうか?左に関門大橋を見ながらこの日の宿へ向かう。▲宿からの眺め。●69Km ●7919歩■山口県のおすすめスポット■■下関は戦いのまちだった。■■平家を弔う赤間神社と松本清張の文学碑■■下関ふく物語■■絶景・角島大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.27
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■あきない世傳(せいでん)金と銀11風待ち編■内容紹介(出版社より)湯上りの身拭いにすぎなかった「湯帷子」を、夕涼みや寛ぎ着としての「浴衣」に──そんな思いから売り出した五鈴屋の藍染め浴衣地は、江戸中の支持を集めた。店主の幸は「一時の流行りで終らせないためにはどうすべきか」を考え続ける。折しも宝暦十年、辰の年。かねてよりの予言通り、江戸の街を災禍が襲う。困難を極める状況の中で、「買うての幸い、売っての幸せ」を貫くため、幸のくだす決断とは何か。大海に出るために、風を信じて帆を上げる五鈴屋の主従と仲間たちの奮闘を描く、シリーズ第十一弾!!【目次】◆第一章 咲くやこの花 ◆第二章 十年の辰年(たつどし) ◆日向雨(ひなたあめ)◆第四章 英断 ◆第五章 万里一空 ◆第六章 悪手、妙手◆第七章 錦上添花(きんじょうてんか)◆第八章 天赦日の客 ◆第九章 深川へ◆第十章 土俵際 ◆第十一章 三度の虹 ◆第十二章 触れ太鼓 ●読書メモ● ◎は私の感想。◆第一章 咲くやこの花●勝栗(かちぐり)ぃ、橙ぃ縁起物ぉ、蓬莱飾りぃ天秤棒をしならせて、迎春用の物売りがまだ眠そうな声を上げる。●衣紋かけには、花嫁衣装となる藍染紬の綿入れ。◎冬であれば、花嫁衣裳でも綿入れだった。 ●難波の梅の名にしおう。匂いも四方にあまねく。一花ひらくれば天下みな。春なれや万代の。なお安全ぞ.めでたき。難波津に 咲くやこ の花、と歌われた梅。◎難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまを春べ 咲くや この花 王 仁(わ に)訳:難波津に梅の花が咲いている。冬ごもりをして、今こそ春が来たといって梅の花が咲いている。■この和歌は、■百済から日本に渡来し、儒教や漢字を伝えたという王仁(わに)が仁徳天皇の即位を祝って詠んだ歌といわれています。『古今和歌集』の仮名序で、紀貫之が「歌の父母のようにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介しているように、習字でまず習うものがこの歌でした。平安時代の『源氏物語』にも、光源氏がまだ幼い紫の上に結婚を申し込んだ際、祖母が「まだ難波津の歌さえもちゃんと書けない子ども で す か ら 」 と 答 え る 場 面 が あ り ま す 。 さて、競技かるたでは、試合の始めに、百人一首には入っていない歌を読み、試合開始の合図とします。これを「序 歌」と言います。全日本かるた協会の依頼により、文学博士で歌人でもある佐佐木信綱氏が、この「難波津に」の歌を序歌として選定しました。◆第二章 十年の辰年(たつどし) 「気のせいか、と思うたんだすが、さいでん(先ほど)から、妙な・・・(略)◎「さいでん」とは言わず、「さいぜん」と言うのだがと調べたら、やはり■さいぜん■とあった。「ざ」を「だ」という地方は和歌山などにあって、「ぞう」を「どう」、「どうぞ」を「どうど」などと言う。作者の高田郁氏は、兵庫県出身。●店主と支配人は手分けして集めた帳簿類を、広げた風呂敷包みの真ん中に置いた。漬物石を載せてぎゅっと包むと、二人して庭の井戸てと急ぐ。息を揃えて手を放せば、帳簿類の入った風呂敷包は井戸の底へと吸い込まれ、どぶん、と大きな水音が響いた。◎火事の場合の帳簿の残したか。帳簿に用いる紙は、水に強く破れにくいものを選んでいる。しっかり乾けば水に漬けても文字が滲むことがない。◆第七章 錦上添花(きんじょうてんか)●相撲と同じく、歌舞伎も楽日を千秋楽と呼ぶが、これまで散々、火事で焼失しているため、徹底的に「火」を避けて、「千穐楽」の字を当てる。◆第九章 深川へ●親和文字◎■三井親和(元禄13年(1700)ー天明2年(1782))■深川に住んでいて、深川をとても愛していたということで、深川親和と名乗っていたそうです。当時の江戸では、「どの祭りにも深川の親仁(おやじ)出る」とかの川柳があったりしたほどで、親和の書いた神社や商家などの「のぼり」や「扁額」がそこら中に溢れていて、江戸を代表する書家だったということ。また、親和が書いた筆跡を模様化して着物や帯にした親和染めというのもあったくらい、ブームになった人だったそうです。五鈴屋でも親和文字で浴衣を作り大評判となる。◆第十章 土俵際●「勧進相撲では取り組みの終わったあと、土俵の上には着物や羽織の山ができる」「着物や羽織の山?」何故そんなものが、と幸は眉根を寄せ、首を傾げた。(略)「それが祝儀の代わりなんですよ。興奮のあまり、褌一丁になる客も大勢いる」 ◆第十二章 触れ太鼓●相撲の興行を公に知らせるものは太鼓で、しかも二種類ある。まず、初日前日、棒にぶら下げた太鼓を打ち鳴らして、江戸市中を回り歩く「触れ太鼓」。十五人ほどが一組となり、「江戸太鼓」「深川太鼓」「品川太鼓」「浅草太鼓」「四谷太鼓」の五組で、満遍なく、明日からの興行を知らせて回るのだ。今ひとつは「櫓太鼓」。初日、朝七つ(午前四時)から打ち始めて、勧進大相撲の開催を周囲に知らしめる。この櫓太鼓は興行の間中、朝七つから夕七つ(午後四時)まで打ち続ける。◎♪お江戸日本橋七つ立ち~という歌があるが、朝4時に出発したのか!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.29
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■2020.11.29(日)■100年の時を超え大正ロマンあふれる門司港駅が復活!■駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定された門司港駅。老朽化への対応や耐震補強を行うため、2012年に保存修理工事が始まり、翌2013年から、駅舎を素屋根(囲い)で覆っての解体・修理・補強・組み立て工事が行われました。約6年の歳月を経たその工事も2019年に完了。大正時代の創建時の姿が甦りました。[注]現役の駅舎で国の重要文化財に指定されているのは、現在、門司港駅と東京駅の2つだけです。門司港駅の保存修理工事は、創建時(大正3年)の姿に復原することを基本方針としました。外壁は石貼り風にモルタルを塗り、屋根には天然の石盤をふきました。また、失われた屋根まわりの飾りを復原し、昭和4年に設置された正面車寄せのひさしは取り除いています。なお、正面の大時計は大正7年に取り付けられたものですが、その歴史的価値から残すこととなりました。▲旧一等二等待合室。▲旧一等二等の待合室説明と▼一等2等待合室の暖炉。▲旧三等待合室。入り口が美しい▼こちらも暖炉がついている。旧三等待合室は、スターバックスカフェになっている。2階には、貴賓室がある。天井は、最も格式の高い天井様式、格天井(ごうてんじょう)。2階にあるレストランで、お茶をした。高い!!( ;∀;)その後、5時発のフェリーに乗り、夕食のバイキング、風呂・・・。瀬戸内は波静かなり秋夕焼(ゆやけ) はるな翌朝まだ暗いうちに大阪港に着いた。●24km ●8136歩■「「Go To キャンペーン」を利用して旅行に行ってきた。■今回の山口行は、出発前から、(コロナ禍の第3派)の拡大が、ジワジワと報道され始めていて、不安な旅立ちでもあった。旅の経過とともに、輪をかけたコロナ感染者拡大の情報が、テレビに溢れかえり・・・ほとんど感染者の出たことのなかった山口県でも、岩国市でクラスターが発生するなど、緊張感も感じていたが・・・危惧したことは、起きなかったのは、幸運だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.29
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よく行く映画館が4階にあって、そのビルの2階に、けっこう大きな本屋があった。いつも映画を2本見るのだが、映画の合間に2階まで降りて、立ち読みしたり、たまには買ったり・・・。その本屋が今年なくなった。_| ̄|○読みたい本は沢山あるのに、次々に本屋がなくなって困るんだわ・・・。そんな読みたい本リスト。★カフェーの帰り道。時代を映す鏡であった仕事「女給」を通し、大正から昭和を生きた市井の女性の人生を描き出す直木賞受賞作品。図書館で60人待ち。★木挽町のあだ討ち雪の夜、木挽町の芝居小屋の裏手で、菊之助なる若衆が果たした見事な仇討。白装束を血に染めて掲げたるは父の仇、作兵衛の首級(しるし)。二年後。目撃者を訪ねる武士が現れた。元幇間、立師、衣装部屋の女形……。皆、世の中で居場所を失い、悪所に救われた者ばかり。「立派な仇討」と語られるあの夜の〈真実〉とは。人の情けと驚きの仕掛けが、清々しい感動を呼ぶ直木賞・山本周五郎賞受賞作品。今月映画を見て、読みたくなった。図書館で10人待ち。★絡繰り心中おもな登場人物は若き日の遠山金四郎、狂歌師の太田南畝、浮世絵師の歌川国貞。この3人が絶妙のチームワークで花魁殺しの真相に迫っていくというストーリー。金四郎が笛方見習いとして、木挽町の芝居小屋森田座に出入りしていることといい、彼が事件にかかわる人々に次々と話を聞いていくという話のプロットといい、いずれも「木挽町のあだ討ち」を思わせる。と思っていたら、作者は、「木挽町のあだ討ち」の永井紗耶子氏。■2026年3月見た映画■*嵐が丘*レンタル・ファミリー*木挽町のあだ討ち*ブルームーン*スペシャルズ*パリに咲くエトワール*アメリと雨の物語*マーティ・シュプリーム 世界をつかめ■2026年3月■土筆*そこここに土筆生えにし昭和かな*三月や僧の頭(こうべ)の青きかな*ゆっくりといつも通りの春来る*三月来(く)句を詠みあくびしてる間に*この道で正解なのか三月来(く)■書き残したネタ■*YouTube・・・本の読み方*旅行*本*熊の被害と「クマとクマのすむ森を日本に残すために」*チップ*枇杷の樹*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*少年に枇杷熟れ桑熟れ椋熟れてとどめにムベの熟れゐし昭和 大野展男・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2026.03.31
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NHK大河ドラマ■花燃ゆ■が12月13日終わった。総集編は12月26日にあるそうだ。最後は、主人公、みわ(ふみ)を迎える、山口県・萩の吉田松陰の家族様子。松陰の兄、杉 民治は、子どもたちに学問を教えていた。その妻は、子ども(生徒)に「た(食)べり。」と握り飯を配る。「たべり」とは、食べなさいという意味。 結婚して、兵庫県、高砂市に住む妹が「たべり」を使うが、山口県でも使われていたのかとビックリ。さっそく調べてみて、またビックリ!「食べり」というのは、北九州、福岡あたりで使われているそうだ。北九州と山口県は近いから、同じ言葉を使うのは当たり前だ。しかし、兵庫県の一部で使われているとは・・・。そして、大阪の泉州地方でも使われているらしい。「たべり」とは、食べなさいという意味と書いたが、北九州の場合は、少し違う。座ってというのに、「座れ」と言わず、「すわり」と言い食べろと言う代わりに「たべり」という。■命令形が「イ段」になるそうだ。■九州一の歓楽街中州でも、初対面のお姉さんたちは「もっと飲み♪」「こっちに座り♪」「これ食べり♪」「また来(き)♪」「もう寝り♪」という。 どれも「イ行」だ!! そういえば、私も使う。「座り」。娘に、ちょっと文句が言いたい時など「ちょっと、そこに座り」という具合に使うのだ。「飲み」も使う。幼児などに、「これ飲み」というふうに・・・。「帰り」。これは、「もう帰って」という意味。「帰れ」という強い命令ではない、弱命令表現だ。 それにしても、「たべり」という言葉が、北九州、山口、兵庫県の一部、大阪の泉州地方で確認されたというのは、驚きだ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.12.20
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★関東に住んでいた■友人が亡くなってから■もう2年になる。彼女は、亡くなる前夜、私に別れの電話をくれた。しかし、私が気がつかなかったので、留守電メモになっていた。すぐ気がついて、翌日早く、新幹線で彼女の自宅に行き、数時間、たわいもないことを話した、。笑いながら・・・。その数時間後、彼女が亡くなった。時折、「お先に、逝きます」という彼女の声を聞いていた。今月も聞こうと思ったが、留守電メモは消えていた。::::::::::夫が、定年退職する。夫は仕事と別れる。写真の花束は、娘たちからのもの。メッセージは、孫のちゅん太が書いた。この不景気な時代に、定年まで、健康で勤められたことは、ありがたいことだ。「弥生三月さよならの月」という俵万智の歌は、さびしいが、もうすぐ、桜が咲く!■3月に見た映画■*アメリカン・スナイパー■2015.3.15*シェフ■3.15*イントウ・ザ・ウッド■3. ■書きのこしたネタ■*大阪市のレトロビル*JR環状線(大阪)の発車メロディ*古い針箱*植物の痛み*天才プルシェンコ*皇帝ダリア*四国ネタ*電気自動車*「ビッグイシュー」*ごんご*ダウントン・アビー*「大阪人の格言」*警察のポスター*小浜島・・・漂着ごみ*は行とぱ行の歴史*渡し舟*西行寺*娘の引っ越しの荷物が多いことと簡素な引っ越し*街で見つけたデザイン。*白虎隊の歌*「君をだいて」*「とっさの方言」*からほり御屋敷再生複合ショップ「練」*近つ飛鳥*近つ、遠つ*キラキラネーム*和泉市の美術館*もっと緑が欲しいのだ!(駐車場)*みどり学*あさぶら*小説「アーレンガート」*「北極星」*アルミ缶エコ*江戸時代、和歌山の防災意識*子供と春の花と桜・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.03.31
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■3月10日(金)悪天候で船に乗れず、■ベイ・オブ・アイランズ地方■のワイタンギに行った。(▲ここの案内板は、英語とマオリ語で書かれている。)1840年、英国の君主と先住民マオリの間で締結されたワイタンギ条約は、ニュージーランド近代国家形成の礎となるものです。ワイタンギ条約は、英国の君主と先住民マオリとの間で1840年に締結されました。同条約締結を機に、ニュージーランドは英国領となりますが、マオリが有する土地や文化の継承は約束されました。同条約はニュージーランド最初の条約と考えられています。 ワイタンギ条約条約は草案の後、翻訳されました。1日かけた内容の議論を経て、ワイタンギ条約は、ベイ・オブ・アイランズのワイタンギの地で1840年2月6日に締結されました。43の北島の首長がその日のうちに条約に署名しました。条約は使者によって国中に広められ、8ヶ月の間に500を上回るマオリ族の首長から署名を得ることに成功したのです。条約締結の舞台となった土地や建物は、今日もワイタンギ条約記念館として保存され、観光名所となっています。大きなマオリ集会所、植民地時代の使節団の家、歴史的な旗竿や、細長いワカ・タウア(マオリの戦闘用カヌー)などがあります。このワイタンギ条約を簡単に記すと、第一条 マオリの主権の譲渡。第二条 マオリの土地、森林、水産資源などに対する権利の保障、およびマオリ族が土地を売却する場合のイギリス国王の先買権。第三条 マオリに英国民としての特権を与えることという内容でした。今では、このワイタンギ条約が結ばれた日を記念して、ワイタンギデーという祝日に定めています。 ワイタンギ条約記念館 この建物は民家として使用されたNZの建築物としては最も古いもので、現在は記念館となっています。ガイドブックによると「イギリスのジョージ王朝時代に象徴されるエレガントでかつシンプルなデザインが特徴」だそうです。 マオリの集会村 マオリの村にはそれぞれの村に必ず1つ集会所があったそうです。そして、それぞれの部族によって、木彫りのデザインが違うのです。 世界で最も大きな「ナトキマタファオルア」と呼ばれるマオリの戦闘用カヌーが、毎年ワイタンギ・デーに海に出ます。ナトキマタファオルアは、長さ35.7メートル、幅2メートル、重さ12トンと大変大きく、80名の漕ぎ手と55名の乗船が可能とされています。すぐ横には、マオリの集会所もありますが、もう一つの見どころは、 巨大なカヌーです。その長さは 35m だそうですが、とにかく大きいです。マオリの先祖がこういったカヌーで太平洋を渡ってきたのかと、思わずひとりで想像してしまいました。 ◀カフェ。「さくらロッジ」4連泊する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2017.04.22
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あまりにも有名な、オードリー・ヘップバーン主演の「ローマの休日」。今から50年以上前の映画なのに、今も多くの人を魅了してやまない、この映画。テレビでは何度も見ていたのですが、この度、映画館で見てきました。■あらすじ■ヨーロッパ最古の王室の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪。ローマでは、駐在大使主催の歓迎舞踏会に出席する。強行軍にもかかわらず、元気に任務をこなしていた王女だが、内心では分刻みのスケジュールと、用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにいささかうんざり気味。就寝の時間になると、侍従たちを前に軽いヒステリーを起こしてしまう。 主治医に鎮静剤を注射されたものの、気が高ぶっているため、なかなか寝つけない。ふと思いついた彼女は、宿舎である宮殿をひそかに脱出する。夜のローマをぶらぶら歩いていた彼女は、やがて先ほどの鎮静剤が効いてきて、道ばたのベンチに身体をぐったりと横たえる。 そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人の新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)。若い娘がベンチに寝ているのを見て、何とか家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としていて埒があかない。彼女をそのまま放っておくこともできず、ジョーはアンを自分のアパートへ連れて帰り、一晩の宿を提供する。 ・・・・・・・・・・・大阪の天王寺動物園前にあった、「動物園シネフェスタ」が3月31日をもって閉館した。それにともなって、最後に、24本の映画が、上映された。「ローマの休日」は、そのひとつ。この映画の一番の魅力は、オードリーの輝くような美しさ。この映画によって、無名の女優からハリウッド伝説のスターになったオードリー・ヘプバーン。バレリーナのように1グラムのムダ肉もない、スレンダーな長身。大きな目、濃い眉、美しい口元・・・。輝くばかりに美しいオードリー。この映画が大ヒットしたのは、ひとえにオードリーの美しさのおかげ。サブリナパンツ、ヘップサンダルなど、1950年代の若い女性は、オードリーのマネをしたほど、大きな影響を与えた。ところで、この映画が出来た頃、「ローマの休日」というタイトルが、問題になったとか。それは、愚かなという意味があったからとか。+++古代ローマ市は「パンとサーカスの都」と言われた。古代ローマの皇帝達は人気取りのために国家の祭りや記念日をどんどん増やした。そういう祝日祭日にはいろいろな催し物を開催する。要するに市民は只で遊んで暮らせたわけだ。競馬、戦車競争、演劇、公衆浴場、宴会・・・。宴会は続きます。どんどん食事はでます。出席者、満腹でもう食べられません。そうすると侍(はべ)っている奴隷を呼ぶ。宴会場にはたくさんの奴隷がいるんですが、孔雀の羽を持っている奴隷がいる。その奴隷がその貴族に近づく。貴族は上を向いてアーって口を開ける。奴隷がその口の中に羽を突っ込んでグリグリするんです。満腹の喉に異物を突っ込まれますからね、ゲーッて吐くんです。お腹の中のものをすっかり吐き出して、貴族はまた新たな皿に挑むのです。吐いた汚物はというと、別の奴隷がきれいに処理してくれる。彼ら吐くために食っているのです。+++こういう退廃的な暮らしぶりを「ローマの休日」というらしい。映画、「ローマの休日」は、50年以上たっても色あせることなく、美しい。ところで、私は、火曜日から木曜日まで、休日です。食べすぎて「ローマの休日」にならないように、と思うのですが・・。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月23日*遊び唄:ゴムとびの唄「二宮金次郎」*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.04.23
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■以前からPC不調■だったので、新しいのを買った。前回のは、2009年11月に買ったのだからもう5年以上たつ。いや、5年しかたっていないといいたい。その間に、いろんなことがあった。 ■娘、レイが2年間イギリスに行った。■■私が骨折した。■■妹と姪と私でヨーロッパに。■イギリスでレイと落ち合い、一緒に旅行。■3.11大震災。■■単身、ドイツに。■ドイツでレイと落ち合い、二人でドイツとパリを旅行。■体調不良で倒れる。■■親友の死。■ PCは単なる機械かもしれないが、5年間の記録を紡いできた大切なものだ。これまで、ありがとう!新しいPCは、慣れるまで使いにくい。また、新しく単語登録をしなければならないし、キーボードの感覚も違う。なにより、文字が小さい。老人には、向かない。↑ここで、「えん」とキーを打てば泣いている顔文字が出ることになっているのだが、まだ登録していないので(涙)としよう。こうやって、少しづつ慣れていくしかないのだろう。今度のPCが、なにを記録するだろう・・・。■前々回のOC■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.05.09
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■ロボジー:あらすじ■制御不能じゃ。弱小家電メーカー、木村電器で働く小林・太田・長井の3人組はワンマン社長から、ロボット博での企業広告の目的で、流行の二足歩行ロボットの開発を命じられる。しかし、ロボット博まであと1週間というところで、制作途中のロボット「ニュー潮風」が大破。窮地に追い込まれた3人は、ロボットの中に人間を入れて急場をしのぐことに。問題は、誰が中に入るか。そこで痴呆の疑いをかけられているガンコ老人・鈴木を起用し、当日も何とかその場を乗り切ることに成功。だが、鈴木の予定外の勝手な活躍により「こんななめらかに動くロボットは見たことがない」と評判になってしまい…。 「ウォーターボーイズ」や■ハッピーフライト■など、面白い映画を作る矢口史靖監督作品。面白くないはずがない。主人公は、ロボット「ニュー潮風」、いえ、ロボットの中に入って、ロボットのふりをする、鈴木老人。鈴木老人役は、ミッキー・カーチス。私の年代だと、歌手として有名だ。調べてみると、年齢のわりに活躍している。★ミッキー・カーチス★第1回「日劇ウエスタン・カーニバル」でデビュー。ロカビリー三人男として爆発的なブームを起こし、同年、映画『結婚のすべて』で俳優としてもデビュー。また“日本初”の音楽プロデューサーとして、ガロやキャロルなどを担当する。96年『KAMIKAZE TAXI』では、第69回キネマ旬報助演男優賞を受賞。また、落語家「ミッキー亭カーチス」として立川一門会で真打として落語を披露するなど、多彩な顔を持つ。射撃、カーレース、宇宙研究から彫金、養蜂まで、幅広い趣味を持っている。そして本作でいよいよ、本人が昔から憧れていた名前「五十嵐信次郎」として、73歳にして矢口映画の主役を務めることとなる。老人の哀しさと飄々とした味があるかっこいい役者だ。することもなく、暮らしていた老人がロボットをめぐって、元気になっていく。やっぱり、なにか目的を持つことが、老人には必要なのだと思った。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年2月15日*新歳時記:バレンタインデー/サルビア歳時記:2月の季語*・・・・・・・・・・・・・・
2012.02.15
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私の子どもの頃、大人と幼児の使う言葉が分かれていた。大人は、きちんとした言葉を使い、子どももそれにならった。しかし、幼児は、幼児特有の言葉を使った。●べべ服のこと。(着るもの全てに使った)江戸時代から使われていたようで、たまたまつけたテレビの時代劇で使っていた言葉。当時は普段着とよそゆきがきちんと分かれていたので、いつもと違う服を着ていると「ええ、べべ着てどこ行くん?」と大人は幼児に語りかけた。●とっと鳥全般をいった。●こっこ鶏のこと。鳴き声からか。 ●てんてん手ぬぐいのこと。タオルもてんてんと言っていた。京都に■てんてん■という手ぬぐい屋さんがある。てんてんは京ことばと言っているが、全国的なものだと思う。 ●ぽんぽんおなかのこと。「ぽんぽんを冷やしたらいけん」と親たちに言われ、幼児たちは、暑い時にも、母親の作った腹掛けだけはしていた。●ぽん大便のこと。おなかが痛いというと「ぽんをしてみぃ」(トイレに行って来い)と言われ、■へんなれぽんなれ(屁になれ大便になれ)■と背中をさすってもらった。「へんなれ、、ぽんなれ??」娘が聞く。 「おまじない。『屁になれ、ウンチ(ぽん)なれ』ってね。」 「じゃあ、『へんなれ、ぽんなれ、へんなれ、ぽんなれ・・・』」と娘は言いながらおなかをさする。「へんなれ、ぽんなれ・・・」。 私が、小さい頃、おなかが痛いというと、父がそう言いながら、さすってくれた。 父もきっと小さい時、そう言われたんだろう。 父の父もきっと、そう言われたんだろう・・・。「へんなれ、ぽんなれ・・・」には、まだ続きがあると、コメントをいただきました。「へんなれ、ぽんなれ、おおばたけのこえなれ」というそうです。 「屁になれ、ポン(大便の幼児語)になれ、大畑の肥になれ」という意味。 「ポンジュース」という有名なジュースがあるが、社長が命名した時、社員は大反対だったそうだ。「ポンジュース」のポンは、日本のポンから。この他にも沢山の幼児の言葉が使われていたが、それは大人や子どもたちから暖かく守られているかのような優しい言葉だった。そして、幼児が子どもになると、自分より下の子どもたちを大切に守っていた。最近、幼児の虐待をよくテレビのニュースで耳にする。貧しかった昔、より今の方が幼児を大事の出来ないのは、なぜなのか・・・。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年9月26日*父の麦わら帽子:目次* ・・・・・・・・・・・・・・
2013.09.26
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■4月22日(日)■【日本人が知らない穴場】スロベニアの首都リュブリャナを訪れるべき7つの理由■突然ですが「リュブリャナ」という名前の町を聞いたことがありますか?「聞いたこともない」あるいは「聞いたことはあるけれど、どこにあるのか知らない」「どんな町なのか想像がつかない」という方がほとんどではないでしょうか。 リュブリャナは中欧の小さな国、スロベニアの小さな首都。日本ではまだまだ知名度が低いですが、魅力満載の素敵な町なのです!(▲ケーブルカーに乗って城まで登る。)リュブリャナの象徴ともいえるリュブリャナ城は丘の上に建っていて、そこは旧市街が一望できる、とても見晴らしがいい場所です。人口27万人。一国の首都としては小さい。だが、この小ささが心地よい。歩いてみるとその理由が分かる。見上げれば丘の上にリュブリャーナ城、街の中心にはリュブリャニツァ川が流れ、通りの両側にはルネッサンス、バロック、アールヌーヴォー様式の建築が小さなエリアに点在する。赤い屋根の旧市街の街並みを縫って足を運べば、いつしか現在と過去がないまぜになって、ここだけの世界に浸れる。そんな街がリュブリャナだ。◆1年中、賑やかで楽しい。◆リュブリャナ旧市街内は車の乗り入れが禁止されているため、歩行者天国!騒音や排気ガスとも無縁で、のんびりとして街歩きや、カフェのテラス席でのひとときを楽しめます。◆比較的安く旅が楽しめる◆リュブリャナは見所がコンパクトにまとまっているため、市内観光のために基本的に交通費がかからないのも節約派の方には嬉しいポイントです! ■リュブリャニツァ川(Ljubljanica)■は、スロベニアを流れる川である。全長は41kmで、そのうち20kmは洞窟内などを通る地下河川となっている。リュブリャニツァ川はスロベニア首都のリュブリャナ中心地を流れている。川に架かる橋で有名なものに三本橋と竜の橋がある。町のシンボルはリュブリャナドラゴンで、ドラゴンは力や勇気、大きさの象徴である。竜の橋はしばしば、ウィーン分離派が生み出した橋の中ではもっとも美しい橋と見なされている。1895年にリュブリャナはマグニチュード6.1の震災に見舞われた1895年リュブリャナ地震(英語版)。当時の人口は31,000人で、10%にあたる1,400の建物が破壊され大きな被害をもたらしている。震災後は再建がウィーン分離派様式により各地区で再建が行われた。 1888年 1903年1898年。いずれも、ウィーン分離派様式(アールヌーボー)の時代の建物。実はリュブリャナにあるリュブリャナ大学には日本の大学との交換留学のプログラムがあります。案内をしてくれるのは、18年前、交換留学生として、この地に来、ここでスロベニア人と結婚、2児の母親の女性だ。ガイドの終わりに、夫氏が二人の息子さんを連れて、彼女を迎えに来た。男の子2人は、将来、イケメン間違いなし!!もちろん、日本語もペラペラだ。ガイドさんは、日本語、英語、スロベニア語がペラペラ。夕食は、市街地のレストランでスロベニア名物のソーセージ。2018.4.22(日)■ホテル■オーストリア・トレンド・リュブリャナリュブリャナ【スロベニア】連泊。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■■2018.4.21(土)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.04
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2月20日(木)~22日(土)まで、◎石垣島→◎西表島(いりおもてじま)→◎上地島(パナリ・アラグスク島)→◎由布島→◎小浜島→◎竹富島と八重山諸島の島を巡ってきた。お土産は、石垣島せんべい、アーサ(海藻)、パパイヤの佃煮、サータアンダギー、手ぬぐい、Tシャツ(マングローブの模様) お酒好きの娘ふたりには、「おじぃ、自慢のオリオンビール」を1缶づつ・・・。などなど、恐ろしいほど買いこんだ。しかし、持って帰れないものもある。関空から石垣島行きの飛行機に乗り込もうとした時に気づいたのが、上の写真。 南西諸島から持ち出さないで! 南西諸島などの一部の地域からは サツマイモや柑橘類の苗木などの持ち出しが規制されています。ミカンキジラミ、アフリカマイマイ、アリモドキゾウムシ、イモゾウリムシ・・・。 植物に付着しているこれらの病害虫が広がるのを防ぐためです。お土産の手ぬぐいについては、またいつか書く。 ♪オジー自慢のオリオンビール三ツ星かざして高々とビールに託したウチナーの夢と飲むから美味しいさオジー自慢のオリオンビールオジー自慢のオリオンビール サータアンダギー首里方言で「サーター」は砂糖、「アンダーギー」は「アンダ(油)」+「アギー(揚げ)」で「揚げる」、揚げ物を意味する。「アンダンス」というのも買った帰ったが「油味噌」という意味。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年3月24日*お彼岸のトリビア:お彼岸は、ピクニックの日であった*・・・・・・・
2014.03.24
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■7月21日(金)ドン川に架かる、バルガウニー橋やドン川の岸辺を散策した後、また、美しい通りを通ってオールドアバディーンの中心地まで行く。途中、シートン公園という大きな公園があった。子どもも緑の中で成長するので感性も豊かになるのだろう。公園に置いてある、ごみ箱さえも、絵になる。◀キングスカレッジオールド・アバデーンの町のシンボルともいえる。1494年に設立された由緒ある大学。校舎は1506年に完成したという。王冠をかぶった形の中央部のチャペルは美しいゴシック様式だが、通り過ぎただけが残念・・・。▲聖(セント)マハー大聖堂は、アバディーン最古の大聖堂。市内は時が止まったように静かだ。石造りの家と道。アバディーンは、花崗岩の産地で重厚な町並みだ。ランチをしようと、「この辺に食べるところはありませんか?」と老婦人に聞いた。彼女は、地元の人らしく、外食することもないのか、ほかの人に聞いてくれた。そして「美しい町でしょう」という。「ほんとうに・・・。」と私。ランチの後、車で「ゴードン・ハイランダー博物館」に行った。キルトの軍服で勇敢に闘った兵士たちの歴史。博物館に入ったら、東洋の端の国から、スコットランドといういわば、辺境の地に来た私たちに、ものすごく丁寧に説明してくれて困った。英語、半分しか分からんわ。(ノД‘)建物にあるのは鹿の絵。スコットランド北部に位置する山岳地帯、ハイランド (Highlands)は、ケルト民族の言語や慣習が残ることで知られています。■我が心は*ハイランド*にあり ■ by ロバート・バーンズ。我が心はハイランドにあり,我が心は此処にあらず。 我が心はハイランドにありて鹿を追う。 野の鹿を追いつつ,牡鹿に従いつつ, 我が心はハイランドにあり,我何処へ行くも。 いざさらばハイランドよ,いざさらば北の国よ。 剛勇の生地よ,価値ある者の国よ。 我何処を彷徨うも,我何処を漂泊うも, ハイランドの山を我永遠に愛す。あちこちで鹿のイラストやマークを見た。鹿は、スコットランドの守護神なのか、日本のサッカー代表のヤタガラスみたいな・・・。違うか・・・。(▲B&Bに駐車場がないから、2日間、パーキングに止めた。)7/20(木)★Marischal Apartments ■アバディーン■7/21(金)23 Marischal Street アバディーン AB115AD イギリス 44-1224-581616 *駐車場なし。部屋は広い。自炊。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.08.19
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四国・愛媛県と本州・広島県の間に広がる数多くの島。その島と島を結ぶ形でかけられた橋が通称「しまなみ海道」。10月23日の早朝、フェリーで四国の東予港に着いた、夫と私は、朝食をとった後、亀老山(きろうざん)展望台に登った。朝早くといのうに、数人の人が来て写真を撮っていた。ここ以外にも、橋を見に来る人は多い。 上は今年の2月に行った、淡路島と徳島を結ぶ橋。ここでも夕焼けの橋をカメラにおさめようとする人で賑わっていた。けれども、高額な通行料が災いして自家用車の利用は振るっていない。橋脚になっている島民さえ最大30%の優遇割引制度があるにもかかわらず、本土側に駐車場を確保してバスや海上タクシーを利用しているのが現状。 島の暮らしを便利にするためにというなら、フェリーの値段を一部負担する、便数を増やすなどという手があったのにと思う。それにこの巨大な構造物が後、何十年か後には、老朽化して使えなくなる。そうなると巨大なごみ。その時のことを考えたら、ただありがたがってばかりもいられない。この巨大な構造物は、島民のためというより政治家と企業のために造った橋ではないかと疑ってしまう。なにより、私は、橋の風景よりも、自然の風景を美しいと思う。 **本州四国連絡橋**本州四国連絡橋(ほんしゅうしこくれんらくきょう)は、本州と四国を道路・鉄道で結ぶ橋または道路である。本州四国連絡高速道路株式会社及び独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構(2005年9月30日までは本州四国連絡橋公団)が管理・運営し、以下の3ルートがある。本四架橋と呼ぶこともある。*神戸・鳴門ルート(通称:なし)[供用内容: 神戸淡路鳴門自動車道] *児島・坂出ルート(通称:瀬戸大橋)[供用内容: 瀬戸中央自動車道、JR四国 本四備讃線] *尾道・今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道)[供用内容: 西瀬戸自動車道] 1999年5月1日の尾道・今治ルートの開通をもって3ルートがそろい、事業としてはほぼ完成している。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月3日*柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 /「芋たこなんきん」と私の昭和:陶椀 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.11.03
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■4月2日、3日と滋賀県に行ってきた。■■4月3日(火)■石山寺(いしやまでら)■は、京都府の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。春になるとソメイヨシノ、シダレザクラ、ヤマザクラ等約600本のサクラが境内に咲き誇る。花の寺とも呼ばれ、梅・桜・ツツジ・花菖蒲・紅葉などが四季折々で咲き誇り、訪れる人を楽しませる。この日は、ツツジが満開だった。■東大門(重文) - 参道入口の門の仁王像。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立だが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。●くぐり岩●このあたりの岩は全部大理石である。岩の中をくぐることが出来る。この池は、天平時代のものである。●石山寺本堂●紫式部が源氏物語を書いたお堂。 石山寺縁起絵巻第四巻第一段には、紫式部が源氏物語の成就を願って石山寺に籠もり、とっさに浮かんだ情景を経典の裏に書き記したとあります。奈良時代に東大寺の開祖良弁上人が如意輪観音を安置する草庵を建立したのが始まりで、平安時代に観音信仰が盛んになると本堂の前面に礼堂を設けるようになりました。 観音様は華厳経典で補陀落山上に住まうとされていることから、本堂は山の高いところに造られるため、その前に建てられる礼堂は京都清水寺のように懸造(かけづくり)になることが多いのです。この本堂も礼堂部は懸造であり、相の間で正堂と繋がっています。平安時代中期にはすでに礼堂が存在していたようですが、現在の礼堂は桃山時代に淀君が寄進し、全体の屋根を架け替えて改築されました。■●経蔵(重文)■●経蔵(重文)経蔵は、本堂北東の一段高くなったところ、三十八所権現社本殿の背後に建つ高床の校倉で、かつては国宝淳祐内供筆聖教(しゅんにゅうないぐひつしょうぎょう)や重要文化財石山寺一切経(いっさいきょう)・校倉聖教(あぜくらしょうぎょう)等を収蔵した建物である。 建築年代は明確ではないが、木鼻(きばな)の意匠や校木(あぜぎ)の断面形状、垂木(たるき)や桁の反り増しの形状などから、16世紀後期頃の建立と考えられる。 ●石山貝塚●貝塚とは縄文時代に人々が食べた貝の殻が捨てられて堆積したもの。現在の石山寺の前あたりには、東西約20メートル、南北約50メートルにわたり貝層が堆積し、淡水産貝塚では日本最大の規模。貝層からは人骨や動物の骨など豊富な遺物が出土。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.04.06
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■よーいドン!■という番組の中で、田村けんじが、素人と一緒に日帰り旅行するというのがある。2月26日、見ていたら、気になって仕方がことがあった。 田村けんじ(以後、タムケン) 「(梅干しの種飛ばしで優勝して)30万もろたら、どうする?」素人女性「呑んで、食って、チョン」。タムケンは、この言葉が気に入ったのか、以後度々使っていた。しかも、「呑んで、食って、チョイ」と間違えて使っていた。ナレーターも「呑んで、食って、チョイ」と間違えて使っている!!挙句の果てに「チョイってなんですか?」と素人に聞くタムケン。芸人やったら大阪の言葉ぐらい知っとけ!!ヽ(`Д´)ノプンプン 「呑んで食ってチョン」は、飲んで食べたらお終いということ。チョンとは、舞台などで、「チョン」と拍子木などで終わりを告げることからだろう。■くてちょん■ともいう。くては=食って。大阪らしい単語 くてちょん。くて は 食うて 衣食住で一番基本の 食べること。 食うてそれで ちょん つまり おしまい。 働いているのですが 食べていくのが精一杯で 食べたら そのあと何も残らない。 収入がぎりぎりで大変なんやという表現なんです。 『給料も上らんので 食てちょん ですワ』 タムケンは、商売で儲けて、「くてちょん」の生活を知らない芸人なのか?関西弁の基本だと思うのだが・・・。収録を見ながらスタジオで話す形式だったから、他の人やプロデューサーが訂正さすことも出来ただろうに・・・。言葉を生業とする芸人やテレビ界が・・・となんとも、不愉快だった。と、ぼやきながら、3月がはじまった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.03.01
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■6月20日(木)■4日目■銀のしずく記念館。知里森舎■を後に、洞爺湖(とうやこ)に来た。■洞爺とは、■湖に面した丘の意味でアイヌは、トウヤ又は、トヤと呼んでいた。洞爺湖を中心に、昭和新山、有珠山、中島などの景観はその規模に於いて北海道一である。国内9番目の湖であるカルデラ湖・洞爺湖。周囲50kmで、面積は70.7km2に及ぶ。洞爺湖の特徴の一つは、ほぼ円形の湖の真ん中にある「中島」の存在であろう。実際には4つの島が洞爺湖の中央部に浮かび、そのうち最大の島を「中島」(または大島、ポロシリ)と呼ぶ。面積は4.85km2である。洞爺湖温泉街とを結ぶ遊覧船の発着場もあり、気軽に行ける島はこの島のみである。南東には最も小さい面積の「饅頭島」(ポンモシリ)があるが、マムシが多いので入ってはいけないとの言い伝えがあることから「ヘビ島」とも呼ばれ、唯一上陸不可である。中島の南西には「観音島」(カムイチセモシリ)があり、さらに南西にある「弁天島」(トプモシリ)とが砂州でつながっている。 中島に上陸して、散策路のゲートからはしばらくウッドチップが敷かれた道が続く カラマツ林です。カラマツが倒れている!!2004年の台風で倒れたそうだ。台風は、北海道に着くまでに、温帯低気圧になるため、上陸するのは、まれだそうだ。倒れている木のそばで、新しい木が沢山育っているのが嬉しい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.20
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アケビが食べたいと思いながら数十年。アケビの苗を植えて数年。裏庭に植えているアケビに今年、はじめて、実がなった!!たったひとつだけのアケビを記念写真にとって、その場でパクリ♪「・開花や結実には年月を要する。 」というが、本当に長い道のりであった・・・。来年からは、毎年食べられるのだろうか?と今からワクワク♪■【アケビとは】 ■・本州、四国及び九州の山野で普通に見られるあアケビ科の蔓性植物。他の樹木に絡みつきながら成長する。日本のほか中国や朝鮮半島にも見られる。 ・9月~10月にできる紫の実は長さ7センチほど。甘い香りを放ち、種の周りにある半透明の果肉は食べることができる。熟すに従って自然に開花する様子(「開け実」)がアケビの語源となった(諸説あり)。なお、「アケビ」は果実のみを指し、木全体を呼ぶ場合は「アケビカヅラ」というのが正しい。 ・葉は柄が長く、5枚一組で生じるのが普通だが、葉が3枚のミツバアケビもある。ミツバアケビは、より高い山地に生じる品種で、花は同じような紫色だが、やや色が濃い。新芽を「木の芽」としてクルミと共にゴマ和えにして食すのはこのミツバアケビ。 ・アケビは、実以外にも、若菜を食したり、ツルを利用して籠を編んだり、木部から利尿剤を生成したりと人間の生活には昔から関係が深い。 ・4~5月になると花が、垂れ下がるように咲く。奥ゆかしく野趣があり、茶花、生け花そして盆栽にも使われる。 【育て方のポイント】 ・日当たりの良い場所であれはどこでも育つ。 ・庭に植える場合、他の樹木を傷めないよう棚を作り、定期的にツル先を確実に剪定して管理する必要がある。 ・開花や結実には年月を要する。 ■11月に見た映画■*最初の晩餐*小さい魔女とワルプルギスの夜*永遠の門 ゴッホの見た未来*決算!忠臣蔵*第三夫人の髪飾り■書き残したネタ■*読書ネタ*丁寧すぎる言葉*牡蠣の殻ネタ*一人称について*プラスティックごみ。 *白樺のかご*天蓋ベッド*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.11.30
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春風や鼠のなめる墨田川 小林一茶上五を「春雨や」「長閑(のどか)さや」とする句稿もある。墨田川の川べりに並ぶ家から慣れれだす残飯、残菓のたぐいをあさる鼠だろう。しかしそのことはいわず、鼠が墨田川をなめていると大きくとらえたところに、江戸の春の情感が一気に溢れた。 一茶は生涯に二万句前後詠んだという多作家で、駄作も少なくないが、この句のように「奇々妙々」(江戸における一茶の後援者で、自らもすぐれた俳人だった夏目成美の評)の作がああるのはさすがだ。 朝日新聞・「折々のうた」大岡信著■折々のうた■過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。朝日新聞連載一年分に加筆。■小林一茶■信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。 明治25年(1892年)頃から、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶のことを注目し始めたと考えられている。子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897年)刊行の「俳人一茶」の中で、 一茶の句の特徴は滑稽、風刺、慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。一茶の有名な句。我と来て遊べや親のない雀 一茶の親友ともいうべき夏目成美は、「しなのの国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り」と、一茶のことを紹介している。このことから一茶とは、一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観に基づく命名であると考えられる。 ところで、大ヒットした「USA」という歌を歌うのは、DA PUMPのISSA(いっさ)=一茶。「一茶」という名前は、お茶が沖縄では健康や長寿のために愛され、縁起を運ぶものとして飲まれること、求(ISSAの父)が小林一茶が好きだったことで名づけられ、兄弟は全員「茶」が付いている。コロナ騒ぎで3月、4月と休みだった句会は、5月も休み。( ;∀;)上の写真は、2月10日から3泊4日で行った東京でうつした墨田川。■猪のバトン受け取る鼠かな■■昭和のこども茶碗(ねずみ)■■必殺、ねずみ返し!■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.01
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■11月11日(木)後半■間の宿(あいのしゅく)■を後に、田子の浦にやってきた。田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部赤人(約:田子の浦を通って(視界の開けたところまで)出て見ると、真っ白に、富士山の高いところに雪が降り積もっていることだよ。)山部赤人の富士山を詠んだ歌の碑があった。山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は反歌田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 山部赤人のこの歌を習ったのは、高校の時で、この時はじめて、長歌と反歌というのがあると習った。この時の先生は、50代くらいの女性で、当時の私は、大変な年寄りと思っていたが、今の私よりも随分若い。先生は、「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「から」という意味です」と言ったが、50年以上前のことなのに、昨日のことのように思い出す。最近のことは、すぐ忘れるが・・・。山部赤人は柿本人麻呂と共に、「山柿の門」と称えられている。「山」は、「山上憶良」という説もあるが・・・。■『山部赤人がこの歌を読んだ背景』■国守として東国に赴任することになった山部赤人は、一族郎党を引き連れて奈良の都から旅を続けていた。これまでは陸路であったが駿河の国、田子の浦からは海路をとり、さらに東を目指す。一行のほとんどの人間にとって初めての船旅ではあるが幸いにも海は穏やかで、時折り快い風が皆の間を吹き抜けて行く。陸に目を向ければ、さほど遠からぬ所に富士の山がくっきりとその美しいなだらかな稜線を見せているのも他では見られぬ珍しい光景である。山部赤人の碑の近くに船の形をした、ディアナ号の学習施設があった。■ロシアの最新鋭船・ディアナ号津波の悲劇■嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。言葉も分からない、寸法を測る単位も違う、日本の船大工が、ロシア人と協力して作り上げた船は戸田(へだ)で造られたので「ヘダ号」と名付けられた。この日は、「国民休暇村・富士」に宿泊。コロナ禍とは思えないほど、混雑していた。また、近くにあるキャンプサイトも沢山のテントが・・・。部屋からも田貫湖と富士山が良く見え、暮れ行く富士、夕焼けの富士が見えた。朝から富士三昧の一日だった。ここまでクリアに見える日は、年間そう多くないとガイドさんが言っていた。富士三昧の一日。ホテルの部屋から。●8692歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.17
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■4月14(木)この日は、大山町の隣、鳥取県・米子市をガイドさんの案内で歩く。米子市(よなごし)は、鳥取県の西部に位置する市である。●後藤家●江戸時代、藩の米や、鉄の回漕の特権を与えられた廻船問屋だった「後藤家」。現在でも加茂川の京橋のたもと、その立派な邸宅が残されています。切妻屋根に本瓦、千本格子に家紋入の白壁……重厚な造りが当時の姿のまま保存されています。江戸時代に、木造平屋建てで本瓦葺屋根の民家はこの地方ではこの後藤家だけでした。全国でも数少ない、貴重な文化遺産となっており、圧倒的な存在感で、後藤家の往時の繁栄を今に伝えています。明治の初期までは、北側道路に面した敷地に数多くの蔵や付属建物も残されていたそうです。現在では母屋と一番蔵、二番蔵、味噌蔵だけが残されています。(建物内部は一般公開はしていません。)昔は、道の部分は、堀だったので、はしけが直接蔵に着いた。(▲雨が強く降っていたので、写真が曇っている。)近くに「後藤駅」という駅があるが、鉄道の敷設に尽力した米子の豪商・後藤快五郎に由来する駅名である。▲車の通っている道は、堀だった。●鹿島家●その鹿島家の中庭には、米子城修理の際、当家が拠出した費用の代わりに受け取られた鯱が、ある。江戸時代後期、嘉永5年に米子城の石垣を含む小天守閣の解体修理がなされた際、鳥取池田藩の命により富豪の鹿島本家・分家が、費用七千両を肩代わりし、その功労の対価として四重櫓に飾られていた鯱が鹿島両家に下贈された。鹿島家は同家の『永代記録第一』によれば、初代は岡山商人の高林三郎左衛門常吉である。米子へ小間物行商に来ているうち立町に定住することにし、親類の六兵衛も一緒に住んだという。このあたりは、今も鹿島家の土地だ。●坂口合名会社●(米子市尾高町66)米子の中心街の裏手、古い町並みが続く一角に2階建て石造の洋風建築が建っています。この建物は米子を基盤とした地方財閥坂口家の中核会社の建物として昭和6年に建てられました。▲坂口家江戸時代に米子で木綿商を営んでいた坂口家は、明治期になると醤油醸造や製糸業、石油卸、林業等の多角化を図り、やがて銀行経営や電力事業、倉庫海運までを手掛ける地方財閥に成長します。後身の坂口合名会社に引き継がれて今尚現存するこの建物は、近代の米子発展の基となった旧坂口商店本社として建てられたものです。主要な通りから一段奥まった狭い街路に面します。元々この一帯は坂口家の本家が置かれていた場所で、この建物も坂口家の敷地の一角に建てられていました。正面にジャイアントオーダー風の付柱を飾る石張りの重厚な建物。当時の銀行建物に類した意匠です。米子に残る近代建築の中で、竣工以来現在まで同一用途で使われている数少ない建物です。近代の米子が商業都市として発展する基礎を築いた坂口財閥の隆盛を伝える遺構として貴重なものとなっています。(▲雨が写ってる!!)●岡本一銭屋●岡本一銭屋は明治から続く駄菓子屋さんです。名物おばあさんが切り盛りされ、米子の子どもが集まってきます。ちびまる子ちゃんの世界、三丁目の夕日の世界の駄菓子屋さんです。■動画:岡本一銭屋■♪音が出ます!!町の中には、江戸時代、明治、大正、昭和(戦前)の建物が混在していた。■看板建築■旧理容館(米子市西倉吉町)看板建築とは、関東大震災の復興期にある昭和初期、東京で数多く建てられた商店建築。木造の店舗併用住宅で、建物正面が洋風に装飾されているのが特徴だ。裏側は和風建築なのだが、正面は西洋建築風でそれが1枚の看板板を取り付けたかのような趣であることから、看板建築と呼ばれるようになった。「かっぱのコンちゃん一家」は米子市尾高町の旧加茂川添いにあります。 「カッパロード」には他にもいくつもカッパ像があります。旧加茂川、天神橋横から出航し中海へ。船上からは米子城跡、米子市街、大山(国立公園)が眺められます。また、サンセットクルーズもあり、中海の夕陽を満喫できます。要予約。雨のため、乗らなかった。この日は、朝から雨。日吉津(ひえづ)のイオンモールで時間を潰す。この建物、右側は、太陽電気を作る壁になっていて、▼左側には、気温を下げるために芝生が植えてあった。時代やなぁ・・・。●7740歩■山陰(鳥取)紀行:鳥取に行く前に丹波篠山地方にある篠山城■■山陰(鳥取)紀行:重伝建・丹波篠山城下町■■山陰(鳥取)紀行:鳥取城と仁風閣■■山陰(鳥取)紀行:鳥取市・鹿野■■山陰(鳥取)紀行:倉吉市内観光■■山陰(鳥取)紀行:倉吉淀屋■■山陰(鳥取)紀行:光(みつ)の鏝絵と所子の重伝建■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.16
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■6/13日-2(月)江戸時代に津軽藩の城下町として栄えた弘前。明治時代に入って、外国人教育者や宣教師を積極的に雇い入れたことが1つの契機となって、多くの教会・洋館が建造された。太平洋戦争末期に空襲で焼け野原となった青森市のような戦禍を被らなかったことや、市民の文化財保護意識の高さなどから、そうした建築物の一部は現在も残り、旅行者の目を楽しませてくれる。◆弘前昇天教会は、◆イギリス国教会の伝統を引くプロテスタント系の教会です。1896(明治29)年に弘前で宣教が始まり伝道の講義所として設けられ、1921(大正10)年に宣教師ジェームズ・ガーディナーが設計し、大工の林 緑の手によって現在の聖堂が建築されました。◆旧弘前市立図書館◆設計・施工は堀江佐吉。1906年に日露戦争の戦勝を記念して竣工し、1931年まで図書館として市民に開かれていた。八角形の双塔を有する木造3階建のルネッサンス様式を基調としつつ、和風の建築様式も採用されている。外壁は白、窓の周囲は緑というコントラストが晴天時に映え、弘前公園周縁では随一のランドマーク。県の重要文化財に指定されている。◆旧第五十九銀行本店本館◆堀江佐吉が設計・施工し、1904に竣工した、明治期のルネッサンス風建築様式のものとして、日本でも有数の洋館。防犯・防火を考慮して造られた質実剛健な構造ながらも、「白亜の殿堂」と呼ばれる優美さを併せ持つ。会議室の天井に金唐革紙という壁紙を使うなど、現在でほとんど見られなくなった意匠が随所にあり、国の重要文化財に指定されている。現在は「青森銀行記念館」として一般開放され、1階は当銀行と日本の金融史を通観できる資料室になっており、2階は応接室、会議室、大広間などが復元され、当時の様子を今に伝える。◆カトリック弘前教会◆弘前におけるカトリックの本格的な布教が始まったのは、1878年。函館での布教活動を一段落させた神父が、津軽海峡を渡って一民家を教会としたのが先駆けという。その後、1910年になってドミニコ会のモンダナ神父が教会を設立。オージェ神父が設計し、横山常吉(堀江佐吉の弟)が施工した木造モルタルの平屋建で、ロマネスク風の趣がある。教会としては小規模なものだが、統一感のとれた美しさがある。高さ8mの祭壇は、アムステルダム(オランダ)の聖トマス教会にあった1866年製作のものを、譲り受けたという。弘前に来る前は、アントワープ(ベルギー)で開かれた展覧会で最優秀賞を受賞したというだけあって、美しいステンドグラスとともに一見の価値がある。(津軽三味線やリンゴのステンドグラス。)◆日本基督教団弘前教会◆外国人宣教師J・イングに感化を受け、キリスト教徒となった東奥義塾の学生らは、1875年に弘前教会を創立した。これが東北初のプロテスタント教会となり、後の1906年に竣工した教会が同じ場所にある。これは、明治期に建てたものとしては全国的にも非常に珍しい、双塔木造のゴシック建築物で、両塔の高さは20mもある。ノートルダム聖堂を参考に設計されたという。内部の礼拝堂は意外にも簡素な造りで、畳敷きの床など和洋折衷が特徴となっている。▼教会のステンドグラスと畳敷のベンチ。▲弘前市の中心部、百石町にある「かだれ横丁」。ここは居酒屋やバーやカレー屋さんなどが集まる地元密着型フードコート。「かだれ」とは津軽の言葉で「語れ」という意味。ここでガイドさんと別れた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆旧藤田家別邸◆1873年に弘前に生まれ、日活などの社長を歴任後、日本商工会議所の初代会頭に就任するなど、実業家として大正時代を駆け抜けた藤田謙一。1921年に故郷に別邸を建築し、ほぼ当時の姿で現存する。設計・建築を手がけたのは、青森県で数多くの洋風建築物を生んだ堀江佐吉の息子の金蔵と幸治。木造の2階建てで、八角形の塔屋があることで欧風らしさが醸し出されている。現在、1階は「大正浪漫喫茶室」という名のカフェと藤田謙一資料室として公開され、2階は貸会議室となっている。建物の右手には、総面積約2万平方メートル、東北第2の広さを誇る庭園がある。これは、藤田が東京から庭師を招いて造園させたもので、藤田記念庭園と呼ばれる。名園のほまれ高いので、別邸と合わせて見学したい。●15330歩 弘前泊・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.23
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■6/17(金)津軽半島の最北端、竜飛岬→蟹田フェリーターミナル→むつ湾フェリーで、下北半島に渡る。竜飛岬のホテルの朝のテレビでは、北海道の天気ばかり紹介していた。「どさんこワイド!」というテレビ番組があったり、野球は北海道日本ハムファイターズと改めて北海道と青森の距離の近さを知った。「向こうに見える岩が、鯛の形をしているので『鯛島』といいます」という船内放送があった。■鯛島が夕日を泳ぎ村暮れる■下北かるた■下北半島(しもきたはんとう)は、青森県北東部に位置する本州の最北端部の半島。半島全体が下北半島国定公園に指定されており、日本三大霊場に数えられる恐山などがある。旧斗南藩(「北斗以南皆帝州」から命名)にちなみ「斗南半島」とも呼ばれ、形状が「鉞(まさかり)」に似ているので「鉞半島」「まさかり半島」の別名もある。この日は、鉞(まさかり)の歯の部分を行く。フェリーが下北半島の脇野沢港に着いた。車で移動していたら、猿がいた!!■海山の恵み多き脇野沢 北限の猿も群れ遊ぶ(下北かるた)脇野沢港から北上し、佐井へ。天然の良港に恵まれた佐井湊は、鬱蒼と生い茂った豊富な南部檜(ヒバ)による交易により、室町時代から諸国の商船(北前船)で賑わいを見せていました。■古来栄えた佐井の村 北前船の来た湊(下北かるた)佐井から船に乗って、仏ケ浦に行った。仏ヶ浦(ほとけがうら)は、青森県下北半島西岸の下北郡佐井村南部に所在する景勝地。古くは仏宇陀(ほとけうた、ほとけうだ)と称した。国の名勝および天然記念物に指定されている。津軽海峡の荒波と風雪が作り出した荒々しい海岸線には如来の首、五百羅漢など、仏にちなんだ名前がつけけられた岩が集まることから仏ヶ浦と呼ばれる。大正時代にここを訪れた歌人・大町桂月(おおまち・けいげつ)は、「神のわざ 鬼の手つくり 仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」と詠んでいる。■仏ヶ浦は極楽の磯羅漢、如来が立ち並ぶ(下北かるた)船で佐井に帰り、偶然見つけた、■旧三上家住宅へ。■三上剛太郎は、明治38年(1905年)の日露戦争時に軍医として満州へ渡りました。仮包帯所で負傷兵の手当をしていたとき、ロシア兵に囲まれ全滅の危機に瀕した剛太郎は、ジュネーブ条約に基づく赤十字の精神に従い「手縫いの赤十字旗」を包帯所に掲げ、それを見たロシア兵は攻撃の手を止めたと言われています。そうして敵味方問わず多くの兵士を救った剛太郎の功績をたたえ、生家を保存し、展示館としました。晩年は佐井村の村医として村人に慕われた剛太郎が導入した、当時としては貴重なドイツ製レントゲン装置をはじめとする医療機器なども展示されています。その後、最果ての地 本州最北端の地 大間崎へ。■地続きを願って夢の海峡大橋(下北かるた)(▲大間崎から見える北海道)大間町の先端、北緯41度32分、東経140度54分の場所に「ここ本州最北端の地」の碑がそびえ立っている。■弁天島にゴメが舞う津軽海峡大間崎(下北かるた)大間崎と北海道の汐首岬は17.5kmしか離れておらず、弁天島の向こうには渡島連峰を望み見ることができる。マグロの一本釣りをモチーフに造られたモニュメントは絶好の記念撮影ポイント。また、ここより徒歩1分のところには、地元有志により石川啄木の歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の歌碑が建立された。地元では大間崎の沖合いにある弁天島のことを詠んだものと言われている。■つい観ゆる浜辺に咲きしハマナスの花(下北かるた) 朝ドラファンの私にとって、大間といえば「私の太陽」だ。『私の青空』(わたしのあおぞら)は、2000年4月3日-2000年9月30日に放送された連続テレビ小説第62作。ドラマの中で「りんごのふるさと」がよく流れていた。2000年代最初の連続テレビ小説。『連続テレビ小説』で初めてシングルマザーを題材としたことでも話題になった。全156回。脚本は内舘牧子。■りんごのふるさと■作詞・作曲:米山正夫、唄:美空ひばり1 りんごのふるさとは 北国の果て うらうらと山肌に 抱(いだ)かれて夢を見た あの頃の想い出 ああ 今いずこに りんごのふるさとは 北国の果て2 りんごのふるさとは 雪国の果て 晴れた日は 晴れた日は 船が行く日本海 海の色は碧(あお)く ああ 夢は遠く りんごのふるさとは 雪国の果て ああ 津軽の海よ 山よ いつの日もなつかし 津軽のふるさと●6206歩 青森県・大間泊6/9■青森県・青森市・三内丸山遺跡他■6/10■青森県:八甲田山雪中行軍で分かったこと■6/11-1■青森県・歩きゃ奥入瀬三里半■6/11-2■秋田県・青森県:十和田湖■6/12■秋田県:レトロな建物の小坂と青森県のレトロな建物、盛美館■6/13-1■ガイドさんと歩く弘前・弘前城■6/13-2■青森県・弘前市に洋館が多いのはなぜか?■6/14■青森県:弘前市:見なきゃ損!武家屋敷から白神山地(秋田側)へ移動■6/15-1■秋田県:世界遺産・白神山地をゆく■6/15-2■青森県:白神山地「十二湖」■6/16-1■青森県:弦の舞橋と太宰治の生家・斜陽館■6/16-2■青森県:ごらん、あれが竜飛岬、津軽海峡 梅雨景色■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.09
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■9月27日(火)-1納沙布岬(のさっぷみさき)は、北海道根室市にある岬である。ノサップ岬とカナで表記する場合もある。根室半島の先端、東経145°49′、北緯43°22′に位置する。離島を除けば日本の本土最東端にあたる。日本の実効支配地域において、一般人が訪問可能な日本最東端地点である。北海道で一番早い日の出として最も有名なスポット。 根室の日の出は、6月だと午前3時30分過ぎで、沖縄の那覇よりも約2時間も早い。 地名の由来は、アイヌ語の「ノッ・サム」(岬の傍ら)から。本来は岬の傍らにあった集落の名前である。根室市に所属し、珸瑤瑁水道を挟んだ海の向こうには現在ロシア連邦の占領・実効支配が続いている歯舞群島、さらには国後島を望む。歯舞群島・貝殻島までは3.7km、水晶島までは7kmしか離れておらず、肉眼でもその姿を見ることができる。また、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿を現す。納沙布岬灯台のほか、望郷の岬公園、四島のかけはし、北方館、望郷の家、望郷の塔といった、いわゆる「北方領土」関連の施設が多く設けられ、夏季は多くの観光客が訪れる。8月の月平均気温が16.5℃と、全国で一番低い。月平均最高気温は20.2℃と日本一の低さではないが、北海道でも夏が寒冷な地域のひとつとなっている。納沙布岬灯台は 、現存する北海道最古の灯台として良く知られています。 水晶島と納沙布岬灯台に挟まれている珸瑤瑁(ごようまい)水道は航路開設以来、 暗礁浅瀬により航海の難所として恐れられていました。このため明治5年(1872年)7月12日(旧暦)に 「日本の灯台の父」と称される英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により 初代納沙布岬灯台が建設、点灯されました。その時から数えて今年(2013年)で141年を迎えます。当時の灯台は六角木造で光源に石油を使用していました。昭和5年に現在のコンクリート造の灯台に改築され、職員が灯台に滞在し管理していましたが、 平成10年4月から無人化されました。納沙布(ノサップ)という地名は、稚内の野寒布(ノシャップ)と同様に、アイヌ語のノッ・サム(not-sam=岬の・かたわら)に由来します(上原熊次郎著『蝦夷地名考并里程記』/アイヌ語のノッシャム=則崎の際の意)。岬そのものを指す地名ではなく、岬の横にあったコタン(集落)のことを意味しているようです。灯台の下の海では、昆布漁が真っ盛りだった。岬の家は、昆布を干すための場所があって、沢山干してある。この家の老女が私たちに話しかけてきた。彼女の実家は青森県の下北半島で、結婚してここに来て住んでいるとのこと。「ここに来てよかった」と言っている。実家には帰ることがあるのだろうか?彼女にとって、ここが故郷になったのかもしれない。この日は、安倍元首相の国葬の日で、岬に半旗が翻っていた。このあたりは、北方領土が近く、いろいろな形で「返還」が言われている。根室の町には、千島通りという名前の通りもあったりして、古くから北方との行き来はあったことは、容易に考えられる。寛政元(1789)年5月、国後島(くなしり)とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人(ばしょうけおいにん)であった飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起(ほうき)し和人(わじん)71人を殺害した。松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者37人を処刑した。このできごとは、“寛政クナシリ、メナシアイヌの蜂起”と称されている。この墓碑は、死亡した和人71人の供養のために文化9(1812)年に造られたと刻まれているが、誰がどこで造り、どこに建立しようとしたか、なぜ浜に打ちあげられていたかは、明らかではない。おそらく海上輸送の途中で船が難破し海中に没していたものと推定される。日本のものをロシアに奪われたと言っているが、日本人が行く前からアイヌは住んでいたとすれば、アイヌから奪った土地ということになるだろう。トイレは名物の花咲ガニがモチーフ。▲泊まったホテルの部屋からみた根室。▼ホテルの食堂から見た景色。9/22-1■70代夫婦が北海道・東部をレンタカーで廻る■9/22-2■網走番外地/モヨロ貝塚/能取(のとろ)岬■9/23■道東の旅:網走駅/知床・オシンコシンの瀧/オロンコ岩■9/24■知床五湖/鮭の遡上を見た■9/25-1■知床観光クルーズ/知床横断・知床峠■9/25-2■日本最大の砂嘴(さし)野付半島:トラクターバスに乗る■9/26■野付半島でアザラシとキタキツネを見た/根室・車石■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.10.22
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■シーハイルの歌■作詞:林柾次郎、作曲:鳥取春陽1 岩木のおろしが 吹くなら吹けよ 山から山へと われらは走る きのうは梵珠嶺(ぼんじゅね) 今日また阿闍羅(あじゃら) けむり立てつつ おおシーハイル 私が子どもの頃流行った「シーハイルの歌」という歌。好きだったけど、「ボンジュネ」、「アジャラ」、「シーハイル」ってなに???これはスキーの歌だから、分からないと思って調べなかった。けれど、調べてみようと思ったのは、昨年6月に東北の青森県、岩手県、秋田県を旅行した時。■2022年6月14日(火)■青森県・弘前市をガイドさんの案内で廻った。良く晴れた日で、岩木山がすっきりと見えた。この日は、青森県・弘前市から東北自動車道を通って秋田県に移動。その途中、「阿闍羅PA」と書いてあるパーキングエリアを通り過ぎた。通り過ぎたのは、一瞬だったのが、その一瞬で、「シーハイルの歌」のことが半分以上分かった。弘前市の岩木山は、♪岩木の颪(おろし)が吹くならふけよ。そして、さっき通った「阿闍羅(あじゃら)PA」は、♪今日はまた阿闍羅(あじゃら)。そうしたら、「梵珠嶺(ぼんじゅね)」という地名もこの辺にあるのでは、と地図を見ると、あった!!梵珠山(ぼんじゅさん)は青森市と五所川原市に跨る標高468mの山。 東北地方に奈良時代仏教を布教した法相宗の道昭上人が釈迦三尊の文殊菩薩の文殊に因み、当時からまたはその後造語として「梵珠」と名付けたとされる。梵とはブラフマンとも言われる宇宙の根本原理。珠は数珠にも使われる文字で丸い玉を意味する。 そして、「シーハイル」とは、ドイツ語の 「Schi Helli」、「スキー、万歳!」、スキーヤーの挨拶言葉なんだそうだ。60年以上謎だった歌詞の意味が分かった、。「釈迦内」という地名もあった。 阿闍羅(あじゃら)PAのある大鰐町は津軽地方でも仏教の伝来は早く、国の重要文化財の指定を受ける大日如来像が祀られ、地方の信仰を集めていた。阿闍羅(あじゃら)という名の由来には、諸説があり、阿遮羅(あしゃら=不動明王)、阿婆羅(あばら=五輪塔)、阿闍梨(あじゃり=修行を積んだ僧)、さらに聖徳太子が宮殿内に大日如来・不動尊・聖観音の三尊を祀り、阿闍羅不動と称したことなどです。ドイツのヒットラーに敬礼する時、「ハイルヒットラー」というが、あれは「ヒットラー万歳!」という意味だったのだ。今頃、青森県では、スキー客が「シーハイル」と言い合っているのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.01.07
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(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長さは約2.5km、幅は約30~40m。途中で西横堀川と交差していたことから、この交点より下流を特に西長堀川と呼び分けることもあり、埋め立て後も西長堀という地域名として使われている。また、西横堀川交点には「口」の字型に4つの橋が架けられており、これが四ツ橋と呼ばれる所以である。長堀川は同点より上流では船場(右岸)と島之内(左岸)の境界を、下流(西長堀川)では下船場(右岸)と堀江(左岸)の境界を成していた。 『浪華長堀心斎橋記』によると、開削された時期は1622年(元和8年)、開削者は伏見から移住した有力町人の三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田新三らが中心になったとされる。また、道頓堀川と同様に全くの新規開削ではなく、開削以前にあった小河川を拡幅したものと推測されている。開削者のひとりである岡田新三は、美濃屋心斎と称して長堀川沿いに居を構え、心斎の屋敷前に架けられた橋が心斎橋の由来とされている。また、開削者たちの名前は長堀川沿いの町名となり、上流から長堀次郎兵衛町・長堀心斎町・長堀平右衛門町・清兵衛町の町名が1872年(明治5年)の改称まで存在した。 最上流部付近では、船場側となる長堀橋本町に平野七名家の筆頭であった末吉孫左衛門の別邸があり、島之内側となる長堀茂左衛門町には大坂銅吹屋の筆頭であった泉屋(のちの住友)が本店を構えていた。西長堀川の区間には土佐や阿波などの材木問屋が多く立ち並び、鰹座橋付近には土佐藩の蔵屋敷があった。さらに、西長堀川の区間は1622年以前に完成していたという説が有力である。長堀川は諸国物産の集散地として利用され、四ツ橋以西の長堀川沿岸は材木商が軒を並べて木材市として賑わいました。また心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、京都の白川石、紀伊の大崎石、近江の木戸石など、全国各地の名石が集積し、名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、手水鉢、道標、石仏、石臼など様々な商品に姿を変えていきました。ただの石が彫刻されて姿形を変えていく有様は、まるで魔法のような光景で浪花名所として非常に有名でした。そんな長堀川名残を求めて歩いてみた。地下鉄の最寄り駅は、人形や玩具の問屋街で有名な「松屋町(まっちゃち)。長堀川に架かっていた橋の名称は、現在も交差点、駅、バス停などの名称に使われており、著名なもののひとつに心斎橋がある。☚西 東☛東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。ということで、末吉橋に。▲末吉橋から眺める東横堀川長堀川は、ここから分流し始まる。長さは約2.5km、幅は約30~40m。▲高速道路が架かる下が東横堀川。長堀川の跡が目の前の長堀通り(道路)になっていた。長堀通 - 1964年、長堀川が埋め立てられるまでは末吉橋(すえよしばし)通と呼ばれた。▼長堀川は、船場と島之内の境界をなしている。道路の上に当たる部分が船場、手前が島の内。大きな商店が並んでいた■船場■は商い所といい役者や芸者が済んでいた ■島の内■は、粋所と言われていた。▲長堀川は埋め立てられて「クリスタ長堀」という地下街になっている。▼上流から(右=東)から●安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)●板屋橋 - 交差点名は「長堀橋東」●長堀橋 - 堺筋●藤中橋●中橋●三休橋 - 三休橋筋●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.04.06
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■不思議の国の数学者■正解よりも大切なことがある。学問と思想の自由を求めて脱北した天才数学者ハクソン。彼は自分の正体を隠したまま、上位1%の英才が集まる名門私立高校の夜間警備員として生きている。冷たく不愛想なため学生たちから避けられているハクソンはある日、数学が苦手なジウに数学を教えてほしいとせがまれる。正解だけをよしとする世の中でさまよっていたジウに問題を解く「過程」の大切さを教える中で、ハクソンは予期せぬ人生の転換点を迎えることとなる。円周率から作られた『π(パイ)ソング』のピアノ演奏など、数学を音楽で表現したシーンも盛り込まれている。 上位1%の英才が集まる、寄宿制の名門私立高校って、灘高等学校 を思い浮かべた。灘高校は、入るのももちろん難しいけれど、学習についていくのは、無い大抵ではないということをよく聞く。なんせ、日本中から天才クラスの頭脳が入学しているのだから・・・。1年生で3年生までやってしまう!!(林先生も1年生の時、3年生まで学習を終えたと言っていた。東海高校時代は成績優秀で、模擬試験で全国1位を取ったこともあり、余裕をもって東大合格を果たした天才だ。!!) 秋篠宮家の長男が通っている、筑波大学附属高等学校も超難関高校。入学をしたものの、ついていけてないというネット記事をよく見るが、頭にあった学習院高校に入っていれば、しない苦労だったのにと気の毒だ。 他の学生は、塾に通ったりしているが、ジウは、母子家庭で金銭的に無理。「「学力が伸びないのは本人の努力が足りないからだ」という人もいるがそうとは言えない。本人のあずかり知らぬ親の学歴や所得の影響も大きいのだ。良い大学に行ける子は親が裕福だから行ける。本人の環境の問題であり、本人の努力だけの問題ではない。」という親ガチャをここでも思う。 担任に、普通の学校に転校しては?と言われるが、名門校に進んだことを誇りに思っている母を思うとそれも出来ない。優しいジウは、実家に帰っても母親が働いている間にトイレ掃除までやってしまう孝行息子。 描き方は甘いかもしれないけれど、背景にあるのは激烈な受験システム、社会的格差、北と南の分断と韓国が抱える社会問題などなど・・・。しかし、終わりがほっとするいい映画だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.09
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■10月28日(月)-2♪松島の サーヨー瑞巌寺ほどの寺もない トーエーアレワエーエー エント ソーリャー大漁だエ「斎太郎節」で知られる松島町の国宝・瑞巌寺に来た。瑞巌寺は伊達政宗公の創建で、5年の歳月をかけて慶長14年(1609)に完成 しました。▲写真の提灯の「三つ引き両紋」。伊達家の1世である伊達朝宗が、藤原討伐の褒賞として源頼朝から下賜された家紋です。ガイドさんの案内で見て回った。▲門の近くにあるのが鰻塚。1923年(大正12年)9月、松島湾で捕れた鰻の供養として地元民の寄付金で鰻塚が建立された。▲瑞巌寺の門前にも鰻の店があったが、松島湾では、鰻が沢山獲れたのだろうか。瑞巌寺の中に入ると、岩に穴があいたのが沢山見られた。昔、ここで僧が修行していたのだとガイドさん。参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。赤〇をつけている列に杉並木があった。瑞巌寺は、国宝だから、伐った切り株も残しておく必要があるそうだ。建物の修理をする時も、新しくしても必ず古い方も残しておく必要があるのだそうだ。▲庫裡「庫裏」とも表記され、寺院で主として台所の役割を担う建物です。正面13.8m、奥行23.6m、切妻造の本瓦葺で、大屋根の上には入母屋造の煙出しをのせています。庫裡は実用本位の建物であるため装飾が施される例はあまり見られませんが、正面上部の複雑に組み上げられた梁と束、妻飾の豪壮な唐草彫刻が漆喰上に美しく設えられているのが特徴です。昭和34年(1959)、国宝に指定されました。関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行なったこと、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求めたこと、畿内から名工130名を招き寄せたこと等に、政宗公の意気込みが感じられます。■瑞巌寺HP■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず 殷富門院大輔 (いんぷもんいんのたいふ)瑞巌寺を見た後、次のガイドさんと一緒に雄島に行った。ガイドさんが、「みせばやな雄島の海人の袖だにも・・・」と言ったので「濡れにぞ濡れし色は変わらず」と私も一緒に言うと「ご存じでしたか?」とガイドさんが嬉しそうに言った。「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」 源重之 「みせばやな・・・」は、上の源重之の歌の本歌取り、「悪縁を断ち切る渡月橋」雄島へ上陸する際は、渡月橋(とげつきょう)という朱色の橋を渡ります。渡月橋はかつて僧たちが雄島に入る際に、陸地の俗世との縁を切ることから「悪縁を断つ橋」とも呼ばれています。雄島は「松島」の地名発祥とされている島。見仏上人という高僧は、12年間、島から一歩も出ずに修行を続けさまざまな奇跡を起こしたと伝えられている超人。その功績を称えられ、後鳥羽上皇から千本の松を送られたことから「千松島」と呼ばれました。そこから辺り一帯を「松島」と呼ぶようになった、というものです。芭蕉と曽良の二人もここに来ている。松島や鶴にみをかれほととぎす 曽良●(奥の細道の芭蕉に同行した)曽良にすれば、この景色にふさわしいのは、鶴でなくてはならない。鶴が美しい姿で島々を鳴きわたってくれれば、どれだけいいだろう。せめてほととぎすよ、鶴の姿をかりてはくれまいか●予(芭蕉)は口を閉じて(句作を断念して)眠(ねぶ)らんとして寝(い)ねられず。*芭蕉は、松島では句を作らなかった、いや作れなかった。「松島やああ松島や松島や」というのは芭蕉の句ではない。「奥の細道」より◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆松島湾は仙台湾の中央部に位置する支湾。湾内を遊覧船に乗って海から松島を見た。大型遊覧船の航路は松島港発着で松島湾内や奥松島を巡るものが中心だが、塩釜港と松島港とを繋ぐ航路もある▲街道をゆく仙台・石巻江戸時代には仙台城下と海運の拠点港がある石巻とを繋ぐ石巻街道があったが、このうち塩釜港から石巻港の間を船で繋ぐ航路は「松島海道」と呼ばれた。松尾芭蕉が奥の細道で塩竈から松島へ舟で渡ったとの記述があるが、これは「松島海道」の一部に乗船したものと考えられている。この地域の大部分の地層は第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩など侵食に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。そのため多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。*いづる間も ながめこそやれ 陸奥の 月まつ島の 秋のゆふべは著名な松島の月を詠んだ歌。「月待つ」と「松島」が掛詞となっている。*心なき 身にだに月を 松島や 秋のもなかの 夕暮れの空*所がら 類はわけて 無かりけり 名高きつきを 袖に松島*松島や 雄島の磯の 秋の空 名高き月や 照りまさるらん以上 伊達政宗。正宗は、漢詩や和歌に優れていた。小さな島にも名前があって、船内で教えてくれた。観光船の待ち時間に名物のずんだ餅を食べた。「ザ・観光地」な松島であった。●15104歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■10/21-1■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■10/21-2■レトロな銀山温泉/川北町・紅花資料館■10/22-1■山形市:山寺/斎藤茂吉記念館/山形城■10/22-2■山形県:山形市内観光:レトロビル/御殿堰/シネマ通り■10/23■上山市/上山城/楢下宿/旧山形師範学校■10/24-1■山形市:鴫の谷地沼/御釜/不動の滝■10/24-2■宮城県:名取市・閖上/大震災の跡/貞山堀■10/25-1■仙台市:仙台城と伊達政宗■10/25-2■登米市(とめし)・宮城の明治村/新旧北上川/石ノ森章太郎ふるさと記念館■10/26■南三陸3.11メモリアル/気仙沼市:震災遺構伝承館■10/27■石巻市3.11:明暗を分けた二つの小学校■10/28-1■石巻市:JR野蒜駅/東名運河■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.12.27
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2002年2月に亡くなった父は、「21世紀が見てみたい・・・」とよく言っていた。父が生まれたのは、1912年、明治45年。戦後、1940年代の生まれの私も、岡山の家には、電灯が一つあるだけで、電機で動くものは、なにも無かった。 岡山から兵庫県・竜野市に引っ越した年1962年に初めてテレビを買った。それから洗濯機、冷蔵庫、電気炊飯器と・・・順調に電化製品が増えた。電化製品がうちに来るたびに、家族で感動したものだった。自転車が家に来たのも扇風機がうちにきたもの、1960年代だった。 1950年代の後半、ソ連が人工衛星を打ち上げた・・・。世界は絶え間なく進んでいるように感じた。父は、「今の暮らしよい世の中になる」と信じ、21世紀になったらどんなに世界が変わっているだろうかと言い続けた。先日、■「2001年宇宙の旅」■という映画を見てきた。1968年に制作された映画で、冬眠して木星に向かうというストーリー。 1968年から60年近くたったけど、月にさえ簡単に行けない。それどころか、地球温暖化が人間の暮らしを脅かす事態まで悪化し、21世紀になって起こった戦争も数知れず・・・。 うちには、パソコンやスマホ、電話、レンジ・・・。ありとあらゆる電化製品がある。しかし、かつてひとつづつ増えた電化製品に幸福を感じたような満足感はない。 父が生きていたら、今の世の中をどう思うだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2026.02.26
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■木挽町のあだ討ち■江戸に咲いた大輪の華、そのカラクリを解き明かしましょう。ある雪の降る夜、芝居⼩屋の森田座では大入満員で「仮名手本忠臣蔵」の千穐楽を迎えていた。舞台がはねた直後、森田座のすぐそばで美濃遠山藩士の菊之助が父の仇討ちを⾒事に成し遂げる。その事件は立会人と化した芝居の客たちの⽬撃により美談として語られることとなった。それから1年半後、菊之助の縁者を名乗る総⼀郎が仇討ちの顛末を知りたいと森田座にやってくる。総一郎が木戸芸者に話を聞くと、菊之助は森田座の厄介になりながら仇討ちの機会を伺っていたそうで、森田座の⼈々からは菊之助の素顔が次々と語られていく。そして、小屋を取りまとめる重鎮で戯作者の金治が出張から帰還したことで、仇討ちの真相が明らかになる。第169回直木賞・第36回山本周五郎賞をダブル受賞した永井紗耶子の同名時代小説を映画化。ある雪の降る夜、芝居小屋のすぐそばで若衆・菊之助が仇討ちを成し遂げる。1年半後、菊之助の縁者と名乗る田舎侍・総一郎が、事件の顛末を聞くため芝居小屋を訪れる。出演は、「きみの鳥はうたえる」の柄本佑、「国宝」の渡辺謙、「恋に至る病」の長尾謙杜。監督・脚本は、「東京タワー」の源孝志。★原作を読んだ友達が「(原作は)ものすごく面白かった。映画、見に行きます」とメールをくれた。上映最初の日、見に行って、よかったと電話くれた。★この映画のは、第169回直木賞・第36回山本周五郎賞をダブル受賞した永井紗耶子の同名時代小説を映画化。★冒頭の、雪の中のあだ討ちシーンの映像美。★あだ討ちから1年半たって現れた遠山藩の元藩士・加瀬総一郎=江本祐。しつこくあだ討ちについて聞いて廻る。彼は、いってもれば刑事コロンボ役。★この映画で初めて知った言葉、木戸芸者。木戸芸者とは、江戸時代の歌舞伎劇場で、木戸口の台の上で狂言の名題や役割を読み上げたり、役者の声色を使ったりして客を集めた芸人。彼らは、劇場の宣伝係として、狂言の出る前日などに活動し、観客を引き寄せる役割を担っていた。明治5年(1872年)に廃止された。★映画の舞台となったのは、木挽町。「木挽町」、その起こりは江戸時代に遡ります。慶長17年に三十間堀が開削され、その東側に南北に細長く町が形成されました。また、その名の由来は、江戸城改築にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためといわれています。今でこそ東銀座、銀座と名前を変えているものの、歌舞伎座や柳生道場など木挽町の名前は各所で親しまれ歴史に名を残す、由緒ある地名となっています。★「木挽町のあだ討ち」は、歌舞伎で親の仇を討つ伊能菊之助役は、市川染五郎が演じている。★見ている時は「?」や、はらはらだが、見た後の暖かい気持ちになるいい映画だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2026.03.12
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■トロフィー■父の大切なモノを売った・・・。朝鮮学校に通い、朝鮮舞踊に打ち込んでいた14歳のソヒはある日、日本の学校との交流会で未来と出会い、お互いにK-POPが好きという共通点で仲良くなる。ソヒと未来はライブのチケット代を稼ぐため、家の不用品をフリマサイトに出品し、それが高値で売れたことに味をしめる。やがて2人は、朝鮮学校の校長であるソヒの父が授与された北朝鮮の勲章までも売ってしまう。在日コリアンの少女の日常を描く孫明雅監督の長編デビュー作。 K-POPアイドルのライブにいくためにソヒが売ったのは父が大切にしていた、祖国・北朝鮮の勲章だった——家族、友人、そして朝鮮学校。そのすべてのものの間で揺れる少女、ソフィの物語。BTSのファン(ARMY)であることをきっかけに仲良くなった在日コリアンのソヒと日本人の未来。友情だけでは乗り越えられない、彼女たちが直面する現実の難しさを映画『トロフィー』(公開中)で描いたのは、是枝裕和監督が率いる制作会社「分福」の新鋭・孫明雅(そん・みょんあ)監督だ。 ★日韓主催のワールドカップがあったり、「冬のソナタ」のヨン様ブーム。日本人の韓国人に対する態度が変わったのは、2000年を少し過ぎた頃だと思う。★今は、韓国のアイドルやK-にPOPに日本人も夢中。映画の中で、「韓国語を教えて」と言うシーンがあって、日本と韓国の関係をうかがわせる。★ただ、ここで問題なのは、主人公、ソフィの父親は、北朝鮮出身。映画の中では、はっきりと言っていなかったが、韓国のアイドルを快く思っていないのだろう。だから、ライブを見に行くためにお金をくださいなどと言えなかったのだろう。★そのうえ、父は、朝鮮学校の校長をしているとはいえ、薄給。母親の給料を加えても生活は苦しい。それに文句を言わせないために北朝鮮は、父に勲章を贈ったのだろう。★入学者の減った朝鮮学校を舞台にした少女の成長物語。監督は、1989年、大阪出身。在日コリアン3世。いろんな辛さがあったんだろうな・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2026.07.16
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■大統領のケーキ■名誉ある「宿題」は、甘いケーキを作ること。9歳のラミアは学校のくじ引きで、フセイン大統領の誕生日を祝うケーキを準備する係に選ばれてしまう。翌朝、彼女は一緒に暮らしている祖母に連れられて、父の形見の時計と友だちの雄鶏ヒンディと共に町へ出かけるが、祖母の目的はケーキではなくラミアを養子に出すことだった。逃げだしたラミアは自分でケーキの材料を集めれば、祖母と暮らし続けられると信じ、クラスメイトのサイードと町を駆け回る。 くじ引きでケーキ係に指名された少女が、ケーキの材料を集めようと奮闘する姿を描くヒューマンドラマ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆独裁者に怯える社会が生み出した理不尽な押し付けに、小さな少女と少年が必死に応えようとする姿を、呆然と見つめ続けました。胸が締めつけられるような場面の連続なのに、その健気さと眼差しがあまりにも愛おしく、どうか生き延びてほしいと願いながら。戦争や暴力がいまなお無くならない時代に、この物語が突きつける厳しい現実と、かすかに灯る希望が、1人でも多くの方に届いてほしいです。呉美保 (映画監督)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆子どもたちは自分たちが巻き込まれている理不尽を理不尽と思うこともなく、暮らしも、思い出も、モラルも投げ捨てて、誰の幸福にもつながらないケーキの材料を求めていく。戦争や独裁は、多くの大人たちを愚かにし、子どもたちを取り返しのつかない破滅に向かわせることを、地べたに近い視点でよく見つめ直す機会になった。西川美和 (映画監督)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆独裁と腐敗、戦争と制裁、性差別と搾取、その不条理を一身に背負うラミア。彼女は時折クラスメイトのサイードと、「先にまばたきをした方が負け」とゲームする。そのまっすぐな眼差しは、「目をそらすな」と私たちに語りかけているようだ。安田菜津紀 (メディアNPO Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆映像が素晴らしい。今ではかなり失われてしまったイラクの巨大湿地帯アフワールの水上生活が描かれていることに感激した。町の風景もリアルだ。高野秀行 (ノンフィクション作家)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★1990年代の物語というから今から30年ほど前の話。主人公たちは、巨大な湿地で水上生活をしている。買い物に行くのも学校に行くのも隣の家に行くのも小さな手漕ぎの舟。たまに、モーター付きの舟も通るがほとんどは、手漕ぎで、小学生の主人公・ラミア9歳も自分で漕いで小学校に行く。★学校の先生がひどい。ラミアが弁当用に持ってきたリンゴも平気でまき上げる。★ラミアが住んでいる家は、湿地の中の小さな島のようなところで、家を建てるための材料は全て、湿地に生えている葦のようなもの。屋根も壁もすべて、葦で出来ている。★葬式も縁者が小舟を連ねる。夜、小さな灯りを灯した小舟が、お経を唱えるように声を出しながら、連なっているのが幻想的だった。★戦争は、ラミアたちの小学校にも容赦なく破壊する。彼女達みんな生きていて欲しい。★今ではかなり失われてしまったというイラクの巨大湿地帯アフワールの水上生活が夢のように美しく描かれていた。私の今年のベスト映画の一本に決定!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2026.07.22
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可愛らしい赤ちゃんの顔が見たくて、毎日覗いている北海道の方のブログで方言の話題が。方言大好きな私としては、ついついメモしてしまう。この日のタイトルは■「1人でおっちゃんこ」。■「おっちゃんこ」というのは初めて聞くが、コメントもいろいろ。★生まれた時から神奈川県在住ですが…「おちゃんこ」ですね。座ること。★滋賀では、おっちん、と言ってましたよ~!★うちは両親が長野でしたが「おっちゃん」でした。代わりがない方言は「ずくなし」かなー?なまけもの?みたいな意味だけどまたちょっと違う感じだそうです。◎「ずくなし」を調べてみた。「ずく」とは共通語に訳しにくい言葉だそうで、「ものごとに立ち向かう気力、活力」を意味し、それが「ずくなし」となれば、「面倒臭がり、役立たず、怠け者、無精者」となるらしい。★静岡ですが、ちゃんこですね。★岐阜県出身です。おちゃんこ、っていいますよ。★我が家も旦那さん関西人で「いずいわぁ〰︎。」って言ったら「いずいって何?」言われましたわぁ◎「いずいわぁ〰︎。」が「お座りは・・・」?いづめ人形は、冬にご飯を保温するのに使う籠(いづめ)に、幼い子を入れて寒さから守った風習から生まれた民芸品。飯を「いい」と読み「いい」を詰める「飯詰=いづめ」。そのいずめに座る人形を「いずめ人形」というが、「いずい」もこのあたりから来ているのではないかと思う。知らんけど( ´∀` )★「おっちゃんこ」写真を見て分かりました。関西地方は「おっちん」「おっちんとん」でこちら中国地方は「ちゃんこ」です。★私は東京うまれですが、座るときは、えんこ、えんちょで育った記憶があります。★奈良県はおすわりのこと、「おっちん」です。★おっちゃんこ使わないけど私は「ちゃんこしてね」って使うから分かりましたよー!愛知県在住です。★名古屋だと、「ちゃんこ」=おすわり です。子どもや赤ちゃん、子犬もです。可愛い子に対して「はい、ちゃんこして」って言います。お年寄りは、更に名古屋弁が強いと「はい、ちゃんちして」とか「はい、ちんして」って言います。何だか、「ちゃんこ」の丁寧バージョンが「おっちゃんこ」みたいな★私は関西ですが、「おっちょん」です。◎私は、「おっちん」、「おっちんとん」。◆ちゃんこ系◆ちゃんこして、ちゃんちして、ちゃんちゃんして、ちゃんちんして、ちょんちょんしてさらにはこれと似たものでじぇんこして、しゃんこ、じゃんこして、じゃんしてまた北海道などで多かったのが「おっちゃんこして」、「おっちゃんして」というものです。きっとこれはちゃんこに「お」を付けたものなんでしょう。◆おっちん系◆おっちんして、おっちんこして、おっちんとんしてこれは関西地方を中心に西日本で多いようでした。◆えんこ系◆えんこして、えんとして、えんこたんして、えんこちゃしてえんちゃしてというようなものや、ちゃんこと似た「えんちゃんこして」という言い方もありました。◆その他いろいろ◆あっとんして、あんがーして、おいんとして、おしゃんこして、おしゃんこらして、おちょきんして、おちんとんして、とんちして、とんとんして、べべちゃんこしてその他にもいろいろあるようです。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.02.25
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