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松尾大神の後は北側にある「 萩園辻日枝神社跡」を目指すが、
萩園通りは交通量が多く危ない
ので下見されていた住宅街を歩き北上、鶴嶺通り沿いにある施設へ。
鶴嶺西コミュニティセンター
所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園2360−1
同センターはどなたでもいつでも自由に利用いただける1階フロアと、登録団体やグループがお
使いいただける2階フロアで構成されている「神奈川県みんなのバリアフリーまちづくり条例」
適合施設です。
外気温が高く熱中症に注意してトイレ休憩も兼ね立ち寄った。
鶴嶺西コミュニティセンター入口。
館内は冷房も効き気持ちよかった。
施設内には飲食可能なフリースペースやミニ体育館仕様の多目的室、授乳も可能な幼児スペー
スなどのほか、会議室、調理のできる調理室があり、健康増進や勉強のサポート、健康増進や
レクリエーションなども楽しんでいただけるような環境が整っていますと。
ホールでは飲食も可能で、休憩時にちがさき丸ごとの方から熱中対策の飴を頂く。
約15分ほど休憩して各自水分補給。
今日の散策コース(今宿・萩園コース)
距離:3.14km
① 旧相模川橋脚
→ ② 上国寺
→ ③ 日蓮宗信隆寺
→ ④ 松尾大神
→ ⑤ 萩園辻日枝神社跡
→
⑥ 三島大神
→ ⑦ 十二天神社
11:00
共同墓地
センターで約15分ほど休憩して後にし、鶴嶺通りを東へ進み辻西交差点手前を左折。
住宅街にある墓地へ入り、古い墓石が並びどれも ”和田家” の名が。
墓地の前を横切る南北の道を 「花女郎道」
と呼ばれていた。
”花女郎道”は、松尾神社の手前を左折して、大きく「く」の字に曲がった道を北に向かい、鶴嶺
通りを横断し、萩園の日枝神社東側の共同墓地の脇に出る道を言う。
松尾大神から鶴嶺西コミュニティセンターまで歩いて来た道がそうであったようだ。
また、花女郎道にまつわる伝説が二つあると。
ちがさき丸ごとの方から、こちらが「和田家本家の墓地である」と。
和田家と言えば、旧和田家の旧家が浄見寺の山門東側に ”民俗資料館旧和田家住宅” として移築
され、市指定重要文化財(昭和57年)に指定されている。
和田家本家の墓地。
施錠されており近寄れなかったが、墓石は北向に並んでおり右から3番目が初代であると。
左側が初代の墓石。右側には笠付きの立派な墓石が並んでいたが説明板がないので?。
個人の墓地であるので説明板はないのであろう。
左側(東)の墓石。
和田家は江戸時代に萩園村の村役人を勤めた旧家で、住宅はここより北にあったと。
和田家の住宅は、安政二年(1855)に建てられ、五代にわたって使用されたもので、市に寄贈を
受け、昭和五十七年(1982)に解体、同六十年(1985)に浄見寺の東側に移築復元された。
萩園辻日枝神社跡
所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園2340
かつての神社跡は新地になり境内はコンクリで固められていた。
社号標石には「萩園辻 日枝神社」。
境内跡地の北側にお堂の基礎、その奥に庚申塔が一つ立っている。
右側には稲荷様のような小さなお祠があった基礎。
境内へ入らず周りで説明を聴く。
かつては並木に囲まれた社殿がありました。令和3年寄進の碑が建てられており、工事によって
庚申塔などが残されたことがうかがえます。残された庚申塔に「山王大明神」とあることから、
大山咋命が祀られていたと考えられます。明治12年(1879)『皇国地誌』村誌には「本村福村孫
七の所有地であり、裏には何年も経たような老木があり暴風で倒れてしまったという。この社
も十二天神社と同時に勧請したものだろうか」という内容が記されています。
(当日配布されたパンフレットから)。
境内に入っても良かったのであろうが。
庚申塔は以前はお堂の中に置かれていたが、現在は青空の下に置かれている。
庚申塔は「板碑型」で、龍前院型の3猿です。
寛文2年(1662)1月
月日・「南無妙法蓮華経 山王大明神」・三猿
正面右側「寛文二壬寅□月吉日
□□吉日」
〃左側「惣□□中
施主辻村
常顕寺□ 敬白」
かつての萩園日枝神社をネットから。
境内はイチョウ並木になっていたようだ。
以下の資料はちがさき丸ごとの方から、
山王さま (日枝神社)
寛政四年(1792)の建設という堂内に安置されている本尊は庚申塔(次頁)で、寛文二年(1662)に
祀られたもので、お堂はそれから130年後に造られたことになる。
お堂に向かって右側に稲荷様のような小さなお祠があり、地神様が祀られている。安政五年(18
58)一月吉日「大工須賀」とある。地神様を祀ったところは村内にこの外一か所もない。
上の地図の中に「花女郎道」が記載されている。
裏道を歩き「茅ヶ崎市立萩園中学校」の校門。
萩園中学校西側塀際にある花壇。
黄色のユリが綺麗に咲いていた。
アガパンサスも満開に。
右側のネットは萩園中学校のグランド。
突き当りは萩園通り(八王子道)。
萩園中学校の北側に三島大神の長い立派な玉垣が続く。
萩園通り(八王子道)の北方向を望む。
道幅が狭く歩道も狭いので歩行者には危険である。
三島大神の山門へ、先の信号は「三島大神前」。
11:10
三島大神(みしまおおかみ)
所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719
萩園通りに面した境内に社号標石「神奈川縣指定村社 三島大神」。
境内入口に、ひと際朱色が目立つ鳥居が迎えてくれた。
以前に比べ新しい感じがした。
後日のタウンニュース 茅ヶ崎・寒川版 2024年7月5日(金) で再建を知る。
鳥居を186年ぶりに再建
かつての鳥居は江戸時代後期の天保九年(1838)に建立された。近年は老朽化で傷が目立つよう
になり金属板等で補強していたため、数年前から再建の検討が進められた。
その結果、従来の鳥居に愛着を持つ人が多く、これまでの「両部式」とし材質も木材に色も鮮
やかな朱色に決まった。再建費用約七百万円は地域住民や企業などから寄付を募った。
製作は千葉県の企業に依頼、6月11日(火)に建立されたと。訪れた一週間前に再建されたのだ。
また、新しい鳥居は神輿の出入りがしやすいように従来より約50センチ高くしたと。
玉垣も修復したようで文字が朱色でくっきりと。石柱には「鳳舞遥天瑞靄高」と。
鳥居の扁額「三島宮」。
参加者は社殿前の日陰に集まり皆さん水分補給。
境内西側に建つ神楽殿。
日陰に入り説明を聴く。
三島大神の祭神は、大山祗命 (おおやまつみのみこと) 。
「明神」「黙り明神」ともいわれています。神輿を大変嫌う神様で、浜降りのために通る寒川の
神輿も、この神社の前を通るときは黙るといいます。また、寒川の方から来る時は、明神が右
手にあり、「だめだ、だめだ」と押してくるので、左の方に力のある人が入らないと神輿が倒れ
てしまうといわれていました。祭神は女神ともいわれています。しかし、戦後の昭和25年 (19
50) 3月には神輿を新調し、同年7月から浜降祭りに参加するようになったといいます。
(配布されたパンフレットから)。
拝 殿
拝殿に貼られていた「東海道中 お寺めぐり」。
拝殿の彫り物を見上げる。
市指定重要文化財 第四一号
東川斎桂山筆 源為朝図
東川斎桂山筆(とうせんさいけいざんひつ) 源為朝図は、三島大神の社殿に保管されている絵馬
である。
絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードを取材し
たものであこと、画風や款記から、狩野派に師事した町絵師の東川斎桂山による制作であること、
また、奉納者や奉納年が天保七年(1836)であることが明らかになっている。本絵馬の奉納理由を
直接伝える資料は残されていないが、源為朝が疱瘡などの疫病除けのモチーフとされる例がある
ことから、図柄を広義の魔除けと捉えることができるほか、奉納された天保年間は飢饉や水害を
はじめとする不安定な世相に対する意識を反映したものと考えられる。
なお、東川斎桂山は、「金指桂山」「藤原美信」とも名乗り、江戸時代末期、没する弘化三年(
1846)までの間、相模国各地で活動し、本市をはじめ、海老名市、相模原市、平塚市でその作品
が確認されている。以上のことから、本絵馬は、江戸時代末期の茅ヶ崎における庶民の生活文化
を伺うことができ、また、当時の相模地域の民間における芸術文化の受容を知るうえで重要な資
料であると考えられる。
令和三年(2021)三月
茅ヶ崎市教育委員会
ちがさき丸ごとふるさと発見博物会
ガイドブックから引用
◆ 萩園村 三島大神 東川斎桂山筆 絵馬「源為朝図」
茅ヶ崎市指定重要文化財 (令和3年(2021)指定)
三島大神は、文化3年(1806)「東海道分間延絵図」には見えないが、天保12年(1841)『新編
相模国風土記稿』より、萩園村の鎮守であること、元禄11年(1698)に鋳直された大鐘のあっ
たこと、また、神仏分離以前には、境内にあった本地堂に薬師如来や十二神将の安置されて
いたことなどが知られる。いまとなっては茅ヶ崎市域において数少ない、伊豆の三嶋神社(静
岡県三島市)と同じ大山祗命を祀る社である。
本作は、扁額形式の大型絵馬であり、残された墨書銘から、天保7年(1836)、狩野派に師事
した絵師・東川斎桂山による制作で、菊地小兵衛・野崎常吉らによって奉納されたことが知
られる。
東川斎桂山は、相模国高座郡杉久保村(現・海老名市)に生を享け、藤原美信とも名乗り、弘
化3年(1846)に没するまで、平塚や海老名、相模原などに作品を残した絵師。本作の図柄は、
平安末期の武将・源為朝が伊豆大島へ流されたのち、鬼島へも渡ったという鬼島渡海伝説を
モチーフとしたもの。天保期は飢餓や水害に見舞われるなど不安定な世相であったため、本
絵馬にも厄除けの意味を想定でき、当時の民間信仰のあり様が垣間見える。
本作の図柄は、平安末期の武将・源為朝が伊豆大島へ流されたのち、鬼島へも渡ったという
鬼島渡海伝説をモチーフとしたもの。
11:15
人数を数えなかったが定員20名以上が参加していた。
ー 続く ー
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