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窓辺に寄るヘンドリッキェ久しぶりで絵の世界にご一緒しましょう。今回は、オランダの巨匠、レンブラントです。彼の正式な名称は、レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)です。彼は1606年7月15日に生まれ、1669年10月4日、63歳で死にました。17世紀を代表するオランダの画家で、油彩だけでなく、エッチングや銅版画やデッサンでも知られています。生涯、数多くの自画像を描いたことでも有名です。青年期の自画像レンブラントは1606年ライデンで生まれました。1631年、25歳のときにアムステルダムに移住。26歳のときに「トゥルプ教授の解剖講義」(1632年)で名声を得ました。37歳の時の「夜警」(1642年)も集団肖像画の傑作として知られています。「トゥルプ教授の解剖講義」彼は、26歳のときにすでに名声を博し、浪費癖もあったようで、多額の借金を抱えてやがて返済不能に陥いりました(1656年)。最初の妻を37歳の時に亡くし、その後、愛人の女性から婚約不履行で訴えられるなど、生活上のトラブルが続きました。晩年は息子にも先立たれ、困窮のうちに亡くなり、共同墓地に葬られました。また、意外なことに、レンブラント自身は色盲であったとも言われています。彼の作品は、光と影が劇的な効果を生み出しています。「光の画家」と呼ばれることもあります。 彼の作品の魅力はなんといっても、聖書的な主題です。「放蕩息子の帰還」や「ダビデを待つバテセバ」「エルサレム陥落を嘆くエレミヤ」「目をえぐられるサムソン」「十戒を砕くモーセ」などがたくさんありますが、ここでは、「エマオでのキリスト」をご紹介しましょう。「エマオでのキリスト」 夕闇迫るエマオの宿での復活のキリストの顕現。意気消沈した2人の弟子にご自身を表したキリスト。そのパンを裂く様子で、主イエスだと彼らは悟りました。わたしたちも、聖餐や礼拝においてキリストの現臨に触れて生きる力が与えられるのですね!「晩年の自画像」レンブラントはわたしの大好きな画家の一人です。
2007.08.31
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昔、田舎の家に「家の光」という月刊誌がありまして、その最初の方のページに世界の名画が載っていました。小学校6年生のときに、ゴッホの「自画像」か「スモモ畑」の絵があって、その斬新な、絵の具を叩きつけるような表現に幼いながら感動し、自分の持っていた水彩の絵の具を、そのまま指でべたべたと塗りつけて、描きました。先生にほめられて自信を持ちました。あの時の、人生に対する、チャレンジというか、冒険心と言うか、自分の主張をしながら人生を創造するんだという感覚が、青春の第一ページだったような気がします。ゴッホの絵は糸杉とか燃えるようなひまわりが有名ですが、今日は初期のころの絵をご紹介したいと思います。1884年 「職工」 ヌエネン時代暗い部屋で一日中、織物をしている当時の人々の生活を描いています。ゴッホは後期印象派の代表的画家といわれます。現在は高い評価を得ていますが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけ。それでも生活していけたのは弟テオドール(通称テオ)の援助があったからだそうです。彼は、1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれました。祖父、父共に敬虔な牧師でした。彼には兄がいたのですが、数週間で死に、両親は、ヴィンセントに、その兄の面影を求め、この幼い時のゆがみが彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたようです。彼は性格が激しく、家族を含め、他者との接触が苦手で、一人で過ごす時が多かったようです。1869年から美術商の伯父の手伝いをしたが、失恋により美術商への熱意を失い退職。それから、牧師を目指し貧しい人々の為に、自らも貧民のような生活をしながら献身的に奉仕。しかし、あまりにみすぼらしい有様に、1879年に伝道師の仮免許を剥奪され、暫く炭坑に留まり伝道の補助を行ったそうです。1880年、26歳のときに、に画家となる事を決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を始めました。1881年に実家に戻り、自宅に画室を作り、画家となりました。後にゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をすることになりますが不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われ、自らの左の耳朶を切り取り、女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院。1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃で自殺を図り2日後に死亡。37歳という短い生涯でした。短い生涯の間に、彼は800点の油彩画を残しました。「靴」1886年 パリにて「悲しみ」1882年同棲していた女性クリスティーヌ(愛称シーン)がモデルと言われています。彼女はゴッホにあった時にすでに妊娠していたそうです。心優しい彼は娼婦のシーンを幸福にすることを使命と思いましたが、なしえませんでした。1888年アルル時代の自画像。ゴッホの生涯は、激情と悲惨と優しさと病気とがまじりあった劇的な生涯でした。牧師として歩んでいいる自分には複雑に感じるところが多々あります。
2007.07.19
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今晩のNHK迷宮美術館と言うクイズ番組で、少年期のピカソのデッサンとか、坂本繁二郎のことや青木繁とのライバル意識などやっていて、こちらの書いたのとかなり重なったりして不思議に感じましたね。ゴッホもピカソも坂本繁二郎も、お母様の愛情に支えられたようですね。お母さんの愛情は、世界で一番強いですね!この絵はピカソの10代の絵だけれどモデルはお母さんではないようですね。
2007.07.13
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わたしは西洋絵画の中では、ボナールが一番好きです。1970年のころ、よく東京でボナール展が開催されました。美術館で、彼の絵をずーッと見ていると、彼の色彩に、酩酊したような陶酔感を覚え、終わりのころはくらくらしました。ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867年10月3日 - 1947年1月23日)は、ナビ派に分類される19世紀~20世紀のフランスの画家です。後期印象派とモダンアートの中間点に位置する画家です。ボナールは、日本美術の影響を強く受けたことから「日本的なナビ」と呼ばれました。また、室内情景などの身近な題材を好んで描いたことから、ヴュイヤールとともにアンティミスト(親密派)と呼ばれています。1867年、陸軍省の役人の子として、パリ近郊フォントネー=オ=ローズに生まれました。1887年、大学の法学部に入学しましたが、そのかたわらアカデミー・ジュリアンに通い、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会いました。1888年にはセリュジエを中心に、後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成しました。「ナビ」は旧約聖書の「預言者」を示すヘブライ語で、時代を先取りすると言う意味を持たせたようです。1890年、日本美術展を見て感銘を受け、以後の作品には日本絵画の影響が見られると言われます。1893年、後に妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会いました。これ以降のボナールの作品に描かれる女性はほとんどがマルトをモデルにしているそうです。マルトという女性は、病弱な上に神経症の気味があり、また、異常なまでの入浴好きで、一日のかなりの時間を浴室で過ごしていたそうです。それで彼がマルトを描いた絵は、浴室の情景が多いのだそうです。ボナールの絵の平面的、装飾的な構成にはセザンヌの影響とともに日本絵画の影響と見られています。一部の作品に見られる極端に縦長の画面は東洋の掛軸の影響と考えられ、また人物やテーブルなどの主要なモチーフが画面の端で断ち切られた構図は、伝統的な西洋美術には見られないもので、浮世絵版画の影響と思われています。ボナールの画面は1900年頃からそれまでの茶系を主調とした地味なものから、暖色を主調にした華やかな色彩に変化します。光を浴びる裸婦」などはその記念碑的作品です。ボナールの華麗な色彩表現は、マチスと共に「色彩の魔術師」と呼ばれています。転機となった「光を浴びる裸婦」ボナールは、病弱なマルトの転地療養のためもあり、1912年にはパリ西郊ヴェルノン、1925年には南仏ル・カネに家を構え、これらの土地でもっぱら庭の風景、室内情景、静物などの身近な題材を描きました。1947年、ル・カネで地上の生涯を終えました。裸の自画像です。
2007.06.27
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これらのデッサンは、じつはあのピカソの14歳の時のデッサンと11歳のときのデッサンなのです。驚きですね。パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペイン生まれ。フランスで制作活動をした画家・彫刻家。キュビスムの創始者であり、20世紀以降で最も有名な芸術家。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な画家であるとギネスブックに記される。ピカソの洗礼名は聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、「パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」[1]である。フルネームはこの後に、父称と姓「ルイス・イ・ピカソ」が続く。ピカソ自身は自分のフルネームに無関心で、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父の名のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになったのだそうです。あるところで2002年に上野の森美術館で開催された「ピカソ 天才の誕生 バルセロナ・ピカソ美術館展」の本が手に入ったので、大変興味深く読みました。この上掲のデッサンのほかにも、15歳で以下のような人体デッサンができたといいますから驚きですね。当時は、男性以外のヌードは美術学校でも許可にならなかったのだそうです。
2007.06.22
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ジャン・シメオン・シャルダン(Jean-Baptiste Siméon Chardin1699年11月2日 - 1779年12月6日)は、ロココ時代のフランスの画家です。18世紀直前の1699年パリに生まれ、ロココ美術全盛の18世紀フランスを生き抜いた画家ですが、ロココ様式の享楽的な華美な作風とは一線を画し、穏やかな画風でつつましい生活や静物画を描き続けました。シャルダンは、初期の静物画『赤エイのある静物』でアカデミーに認められました。彼はその日常的・現実的な題材、静物画に、写実表現が特徴的です。その光と影の描写は、同時代の画家のなかでもきわだった近代性を示していて、後の印象派に通じるものがあると言われています。晩年のパステルの自画像も有名です。丸眼鏡を掛けた老画家の姿は絵画一筋に生きてきた画家の実直な風貌がよく表されていますね。上掲の作品は「食前の祈り」で、彼の代表作。わたしは中学生のころに、その作品に触れて、その祈りと真実に、時間を越えた家庭のすばらしさを感じました。キリスト教的な「敬虔さ」を訓練するお母さんの愛と信仰が感動的ですよね。もうひとつ、「なべと卵」と題する静物画。落ち着いた質感と堅実な描写、安らぎを与える色彩と光・・。僕はかなり保守的なのかな・・・。
2007.06.14
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コロー1796年にパリの裕福な織物商人の子供として生まれました。子供のころから画家になりたいと考えていましたが、親に反対され、26歳のときにようやく画家になることを父親に認められたといいます。当時、景画家として有名だったミシャロンのもとで、学びました。また、彼は1825年~1843年の間に3回もイタリアに旅行し、イタリア絵画に触れ、そこで明るい色の使い方や光の取り入れ方を学びました。1840年ころからサロンでも入選し、パリ万博の美術展でも非常に評価が高く、画家としての地位をかため、後にはサロンでの審査員も行いました。晩年は貧しい画家やモデルたちに援助をして『コロー親父』と親しまれつつ、1875年にパリでなくなりました。 彼の明るい、自然を見つめる優しい作風は、後の印象派の画家達に大きな影響を与えました。わたしはコローの夢のような美しい自然に、時間を忘れてしまいます。コローのような風景画を一枚書いてみたいですね。
2007.06.08
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