韓国時事 0
在日史 0
全54件 (54件中 1-50件目)
『風の島~済州』 柳銀珪(Ryu Eunkyu) ソウルから汽車に乗って木浦に着き、そこから船で済州島に渡った。そのとき私は20 才で、大学で写真を学んでいた。済州の港の検問はやけに厳しくて、「遠いところにやって来た」という実感がわいてきた。今から25年前の済州島は、韓国人の新婚旅行先として人気を集めはじめたところで、海辺の風光地では観光客を目当てにした開発が行われていた。しかし私の関心は、人々の暮らしの方にあった。島の人々は、海辺から少し離れた村に住んでいた。そういう村はまだ、観光開発とは無縁の素朴な場所だった。島の人々は、私が聞いてもわからない言葉で互いに話をしていたが、私には標準語で話しかけてくれた。私は一人で村人の家に何日も民泊するうちに、済州島の人々のあたたかさに触れ、どんどんこの島が好きになっていった。2 年の間に数度、私は済州島に渡った。観光地には行く気がしなくて、ただ村の人々の暮らしを撮り、村から見える風景を撮った。済州島には、いつも風が吹いている。強い風に吹かれながら、人々は暮らしを営んできた。華やかに変貌をとげた今の済州島に吹く風は、25 年前と同じだろうか。なつかしい写真を整理しながら、私は島の人々や風景を思い出している。この写真の中に吹いていた風を、心に感じながら……。※柳銀珪写真展 『風の島~済州(チェジュ)』ギャラリー渡来大阪市生野区桃谷4-5-15 班家食工房2階10:00~18:00(休館日なし)TEL:06-6718-1100※柳銀珪写真展 『変わるものと変わらないもの~青鶴洞(チョンハクドン)』6 月3 日~6 月9 日ビジュアルアーツギャラリー大阪市北区曽根崎新地2-5-23TEL:06-6341-4407※シンポジウム写真の国際交流を考える「東アジアの写真~韓国・中国~」講演:柳銀珪6 月3 日(日)14:00~16:30ビジュアルアーツ専門学校 新館3 階 アーツホー
2007.05.26
コメント(0)
「パッチギ!LOVE&PEACE」(パッチギ2)が封切り! 仕掛け人、シネカノンの李鳳雨氏とは・・ その佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞したのが1974年10月。ノーベル平和賞について興ざめし、平和の二文字に絶望した時でもありました。 『パッチギ! LOVE&PEACE』にはこの日の新聞が出てきます。そしてこの映画が始まります。【映画】『パッチギ! LOVE&PEACE』 http://www.walkerplus.com/tokyo/latestmovie/report/report4880.html【挿入曲=イムジン河の記事】 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/trackback/1466000/42722034この映画を配給したのがシネカノンで、その代表が在日の李鳳宇氏です。昨年の1月にソウルの明洞に日本映画を上映する映画館をオープンされましたが、そこで「上映したい日本映画はどんなものですか」という質問に、「日本人というのがどういうものかをわかってもらえるような映画を上映したいと思います。」と答えてました。配給会社シネカノン代表の李鳳雨さんは、「映画が好きでたくさん作りたいなら、監督よりもプロデューサーになるべき」という言葉のとおり、初プロデュース作の『月はどっちに出ている』(1992年)=在日監督、崔洋一(チェ・ヤンイル)監督、以降、精力的に製作を続けています。自ら作品の原案を練ることも当たり前、の映画プロデューサーです。去年の『パッチギ!』に続き、今年は『フラガール』も大成功。配給では、最初の作品となったK・キエシロフスキーの『アマチュア』以来、これまで国内外150本以上もの作品を扱ってきたそうです。また、韓国と日本の映画交流の立役者であることも忘れてはいけません。現在は渋谷、有楽町、神戸、ソウルに直営映画館を持ち、興行主としても頼もしい存在です。巧みな話術で、もう、ほんとに引き込まれてしまいます・・・面白おかしく語った先には「これって映画になるでしょ?」という思惑が。こんなに面白く語られたら、スポンサーも気持ちよく出資できるってものでしょう。私の好きな韓国映画を日本に紹介してくれたのも、シネカノンでです。林権澤監督の作品、『太白山脈』、『風の丘を超えて─西便制』、『祝祭』、『春香伝』。これらの作品がすべて小説を原作にしています。ニック・パークの「ウォレスとグルミット」やエドワード・ヤンの「麻将(邦題:カップルズ)」を日本に紹介したのもシネカノンです。ちなみに吉祥寺の「諸国空想料理店 KuuKuu」跡地にオープンした「韓国百菜食堂 minari(みな李)」は、シネカノンの経営だそうです。(東京在住の方、知って増すか?)日本観客100万人突破という驚異的な記録を立てた「シュリ」。その裏にはシネカノンの果敢な広報戦略でシュリ神話を作り上げた結果とも言えるでしょう。「輸入当時には50万人ほどだと予想した」と話し始めたイ・ボンウ氏は「封切られる前の8カ月間徹底的に準備をしたのが功を奏した」と分析。「日本人の中で、既存の韓国映画ファンは40代の知識人層。それより多くの年令層の関心を集めるのが第一の課題だった。韓国映画はレベルが低い、アートムービーしかないという日本人の偏見も障害物だった。広告料だけで3億円を使った。大冒険だった。”韓国映画といって見下すな。こんな映画もあるぞ”」という基本的なコンセプトで大々的な物量攻勢を浴びせ、その結果今まで映画館の収入総額が14億円。その後ビデオの版権2億円が追加されテレビ版権もけっこう得られたとのことです。しかしシュリの成果はこれだけではないとも言われています。 シュリ以降、今、日本には韓流ブームが起きました。映画だけでなく韓国文化全般に対して関心が高くなったのも周知の事実です。。日本の配給業者の態度も180度変わり、韓国映画なら無条件で契約するという映画館の社長もいたほどです。韓流がれ去ったと言われ、韓国内でも邦画の入場者が37%も減ったといわれる中、このパッチギが韓国内で人気なのも何か皮肉な現象だといえるかもしれません。氏は「パッチギ」の舞台となった、京都の朝鮮高校出身で、自身の経験を交えた作品とも言えます。映画の中での加茂川は当時、向こう岸は日本人の暮らす街。そしてこちら側は在日が暮らす「バラック小屋」の集落。それをそのまま表現したかったと話してました。(私とは友人を通しての知人)映画の中で、棺桶が家に入らない時、木づちで入り口を壊す場面は、「幼い頃、筋ジスで亡くなった一回り上の兄の葬儀の時、父が泣きながら壊した情景」だったそうです。「人物をできる限りあぶりだす事で、その時代背景が浮かび上がると思います。私は映画の中で、お涙頂戴!と言う映画は作りたくありません。笑いの中から、自然と出てくる悲哀の涙、それを観客に訴えたいんです。」その言葉の中には私が話す、「在日を見れば日本が見える。」の言葉がそのままリアルに表現されてると思います。回の二部作品も「亡くなった兄の病気を治そうと全国の病院を走り回った家族の思い出」だそうです。皆さんも是非、この映画に足を運んでください。そして、まだ、一部の作品を見てない方は、是非、レンタルビデオで鑑賞してみてください。http://www.youtube.com/watch?v=Ab5v8gDs6ec 井筒監督 政治思想を辛口に語る。書籍紹介 映画『パッチギ! LOVE&PEACE』のすべてがわかるサブテキスト。 書籍名 : 愛、平和、パッチギ! 著者名 : 井筒和幸/著 李鳳宇/著 出版社名: 講談社 発行年月: 2007年5月 価格(税込): 1,600円 目次 第1章 HISTORY2つの李家の物語(李鳳宇)歴史なしには平和も未来も語れない(井筒和幸)第2章 TALK(姜尚中×李鳳宇対談)済州島で、日本で考えた東アジアと僕たちのこと(加藤和彦×井筒和幸対談)『イムジン河』から『あの素晴しい愛をもう一度』へ第3章 MAKING撮影日記「今日も明日も編集室」(井筒和幸)プロデューサー日記「今日までそして明日から」(李鳳宇)
2007.05.24
コメント(0)
「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん・・・ 劇作家、つかこうへい氏が17年前に書いた「娘に語る祖国」の本を私は大切にしています。当時、同じ立場で「自分は娘に何を語れるのか?」と、この本を前にして自問自答したのを思い出します。本の中では歴史認識において私とは立場の違いも感じましたが、最後の部分で「人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るようなやさしい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか」とある部分に私なりに共感を覚えました。しかし,2作目の「娘に語る祖国『娘に語る祖国 「満州駅伝」─従軍慰安婦編』(光文社,97年3月刊)の「従軍慰安婦問題でパパが誤解していたこと」という部分にると,「実はね,パパはいろんな人に取材をしたんだけど,従軍慰安婦の人たちは必ずしも悲惨じゃなかったんだ」そして、「パパは作家として,国としての歴史的事実よりも,一人の人間の小さな事実,その時 のその人の心の動きに興味があるのです。・・・と、ここまでくれば???違うんじゃないか?と嫌悪感すら感じました。今回の受賞を素直に喜ぶべきなのか?それとも右翼と言われる埼玉県の上田知事すら引用するこの2作目の内容が”本来の演劇での受賞と同時にマイナス要因にならなかった”と色眼鏡で見てしまうのは私だけでしょうか?カミングアウトした在日が、一歩でもお前に進む事が大切だと思い記事にしてみました。つかこうへい氏のHPにはこんなコメントが載せられている。つかこうへい 紫綬褒章受賞『私は韓国人であり、日本に国籍がございません。このような大切な褒章を受けるということは思ったこともございませんでした。私の両親は、もう二人とも亡くなりましたが、戦時中、日本に参りました。生きていれば、この栄誉をきっと喜んでくれたと思います。本当にありがとうございました。』 つかこうへいつかこうへい=本名:金峰雄(キムボンウン)春の褒章西日本新聞「韓国人の励みになれば」、「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん談 紫綬褒章を受章した劇作家で演出家のつかこうへいさん(59)は在日韓国人。「日本の戸籍がないので、夢にも思わなかった。両親は亡くなっていますが、生きていたらきっと、喜んでくれたでしょう」としみじみと喜びをかみしめた。 大学在学中に演劇活動を始め、「熱海殺人事件」や後に小説版が直木賞を受賞した「蒲田行進曲」などを次々と発表。1970-80年代、若い世代の圧倒的な支持を集めた。 一方で俳優や劇作家、演出家の育成にも力を注いだ。94年に「北区つかこうへい劇団」を旗揚げし、小西真奈美さんや黒木メイサさんら人気俳優を輩出。「いろいろな役者を育ててきたことも評価されたと思います」 夏に各地で上演する「売春捜査官」は、娘が父である総理大臣を弾劾する物語。「権力と闘う姿勢はこれまで通り変わりません。弱者の目線で、ものづくりを続けていきたい」 2007年04月28日身を削って芝居で闘うhttp://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job03.html4月25日の演劇批評です。【演劇】北区つかこうへい劇団 ★北区つかこうへい劇団「売買捜査官~女子アナ残酷物語」 (北とぴあ・つつじホール@王子)木村伝兵衛部長刑事は東京警視庁でただ一人の女性捜査官として事件を解決してきた。そして今回の「容疑者大山金太郎が幼なじみで女子アナに憧れる山口アイ子を痴情の果てに絞殺した」一見単純な「熱海殺人事件」にはなぜか巨悪がちらつく。長崎県の原子力発電所に勤めていた大山金太郎は被爆していたのだ。何故なのか?禿げた上にホモセクシャルであることに悩む部下・万平の制止を振り切り、部長は敢然と真相に切り込む。そして国家権力に一歩もひかず立ち向かっていく部長の元に赴任してきたのは元恋人の熊田留吉。二人は長い時を経て誤解を解き、思いを通じ合わせる。しかし熊田に課せられた本当の任務は・・・そして大山金太郎の殺意の真相は、売春の元締めをすることでしか日本で生きる場所を見つけることの出来なかった在日朝鮮人・李大全と、六本木ヒルズの住人と合コンをする女子アナに憧れる女の悲痛な叫びがあった。はたして部長の戦いはどのような結末を迎えるのか!?桃組を観劇。若手公演だったけど、当初は「若手ふるい落とし公演」と冠がついていた公演で、劇団の方針が「ダメなら即クビ」だから、皆、フルパワーで熱演していましたね。滝のようにしたたり落ちる汗、久々に観たな・・・作品も2006年版に手を加えており、観やすくなっていたし・・・これで千円。かなりお得な公演です。つかこうへい=本名:金峰雄:直木賞作家。 1948年4月24日生まれ。福岡県嘉麻市(旧嘉穂町)出身。A型。慶應義塾大学文学部中退。在学中から作品を発表。在日韓国人であり、金峰雄という本名を持つ。 ■受賞作18回岸田国士戯曲賞(昭和47年)「熱海殺人事件」 第14回ゴールデンアロー賞演劇賞(昭和51年) 第28回キネマ旬報賞脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第6回日本アカデミー賞最優秀脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第42回読売文学賞戯曲賞(平成2年)『飛竜伝'90』《戯曲》
2007.04.30
コメント(0)
今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起こす。 長い文ですが時間がありましたらお読みください。決して、過去の出来事を賞賛したり、評価しようとするものではありません。今、この時だからこそ、一人でも多くの人に”教育”について、そして、在日の人々が何故民族教育に対してこれ程までに拘りを持つのか。それが決して思想信条では無い部分を知ってもらい、これから先を考えたくてアップしてみました。1945年8月15日の解放(終戦)後、南にはアメリカ軍が進駐し軍政が布かれます。又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり、在日が帰るに帰れない状況が生まれきました。4・3事件は、済州島ので20万の人口で3万とも8万とも言われる島民が犠牲になりました。済州島だけでなく麗水・順天等々で1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、それは、めまぐるしく情勢が変化します。それでも帰国しようとした時、、マッカーサーの率いる当時の占領軍は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして所持金は1000円(当時の金額ですが、)、ともかく1000円しか許可しなかったのが事実です。その連合軍の命令は1945年~47年まで継続されます。日本へ来て、苦心に苦心を重ねてね築き上げた財産を持って帰れない状況が続きました。生活の土台が故郷に無く、日本に来ていた1世の中には大正時代から暮らし、それ以外でも、徴兵や徴用,動員で日本に来た人たちは、生活の土台が故郷にもないわけです。そんな中、帰ることを前提としながら、ともかく、「われわれの子女に朝鮮の民族の魂を宿らせよう。」そう思いつつも戦前は許されず、皆、日本学校に通わせました。戦後になって「民族の歴史、特に言葉を教えなければならない。」そういう思いが爆発し、雨後の筍のように学校ができ始めます。1945年~47年と、戦後3年の間に、国語講習所という名前でスタート。後日、正規の学校となって行きます。統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。中等学校7校、生徒数3,300人。青年学校が33校、生徒数1,800人、これだけの学校が日本全土に出来ました。初等学校566校、そのうちでも大阪だけで66校に達しました。(この中には韓国系の建国学校もあり、このデモにも参加し、閉鎖反対運動を反対繰り広げました。) 【GHQと日本政府による弾圧と4.24阪神教育闘争】 しかし、G・H・Qと日本政府は「朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない。」と通告してきます。韓国は軍政が布かれているから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう図式です。政府は、戦前の同化政策を継続使用とし、そんな状況下。1948年には、「朝鮮学校」という存在そのものが、「天敵」として見えてきます。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、最初に山□県の学校から公布されます。(吉田内閣、何とも皮肉な?)そして、神戸・1948年4月12日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言う理由。「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出ます。在日が自分の言葉を取り返し、真のアイデンティーを探そうと大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がりました。神戸や岡山でも。朝鮮の学校のある所は全ての規模に膨れ上がります。神戸では四月一五日、在日代表たちが県知事と交渉する約束をしていたにもかかわらず、突然拒絶されたため、抗議の座り込みしていたところ、全員が逮捕された。続いて二三日には民族学校の閉鎖が強制執行されます。24日、同胞たちは兵庫県庁前で約一万人の集会を開き、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目が合意されます。同時に、警察に15日に逮捕された人々を釈放させる約束も取り付けました。集会参加者たちは要求を勝ち取った感激を味わいながら、帰路に着きますが、同日深夜、神戸軍政司令部は突如非常事態宣言を発し、合意文書の無効を宣言するとともに、3日間で1,732名を無差別逮捕しました。大阪でも、4月23日、15,000名の在日同胞が、大阪市庁(現、大阪府庁)前に集まり、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求します。その時は、赤間文三が大阪府の知事でしたが、逃げてしまい、副知事が交渉を持ちます。その場で副知事は「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」まさに信じがたい論理で説明がなされます。本質的には同化政策を繰り返す意図です。今もその意図は変わらず、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」の不条理が続いています。(これが世にいわわれる阪神教育闘争の由縁です。)これに抗議し、民族教育を支援する市民や父母が逮捕され、留置場に入れられ、翌24日には、それに抗議し、再び、15,000名の群集が、前日逮捕された人たちの留置場に分かれて釈放を要求して抗議のデモを行いました。これに恐れをなした占領軍の神戸司令官、アイケルバーガーが24日、非常事態宣言を出し戒厳令が布告されます。そして、戦車、装甲車を出動させ弾圧を始めます。しかし”民族教育を守る闘い”に全大阪の在日同胞たちが結集し、その数45,000人が大阪市庁(現府庁)前の、大阪城公園に結集し、大阪支庁を取り囲んみます。警察も占領軍の指示によって8,000名が出動し、45,000名の市民とと対峙すました。 【少年、金太一君、警察の発砲で射殺】整然と隊列を組むデモ隊は、手に武器を持たず、スクラムを組んで整然と隊列を組んでいました。府庁の3階まで座り込みをしていましたが、官憲が武力で鎮圧しようとしたため、一旦退去しようとしますが、警察は「5分以内に退去せよ!」と、それは挑発でしかありませんでした。45,000人が解散するにはそれ相応の時間を要しました。その最中、消防車のホースでデモ隊を蹴散らし、混乱に一層拍車をかけ、まして、私服を着た挑発分子が紛れこんで。時を見計らい、「デモ隊が暴れてる!」ということで、銃をデモ隊に発砲し始めました。 そして、少年、金太一(写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去と葬儀)という16才の少年が後頭部を撃たれ亡くなりました。この時、警察の弾圧で3000人ぐらいが逮捕されたと記されて。犠牲者は、金 太一(キム・テイル)少年が射殺され、神戸のパク・チュボム先生は捕まって獄中で死にました。そして重軽傷者数百名、裁判を受けて33人が追放になりました。勿論、占領軍による軍事裁判です。この時、デモに参加した動員数は延べで120,000人といわれてます。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。そして、この崇高な民族教育を守ろうとした闘争を、日本政府は「破防法」として位置づけ、以降、朝鮮総連を「破防法指定団体」とし、日本政府からすれば、この時の朝連(総連の前身)のイメージをそのまま今日まで引っ張っているのは事実です。 【大阪市との民族教育に関わる覚書】1949年10月19日、正式に朝鮮学校閉鎖命令が出て、警察隊が朝鮮学校に押しかけ、ガラスを割ったり戸を潰し突入してきますが、父母や子供たちは一緒に抱き合って学校を死んでも守るんだと闘いますが、結局、閉鎖の赤紙を貼られ、ついに朝鮮学校は閉鎖されます。 しかし、この最中に大阪市と覚書と言う形で協定を結びました。その後も交渉は続き、1948年5月3日に文部大臣と、朝鮮連盟(朝鮮総連の前身前身)との間で次のような覚書が交わされます。・閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。・朝連が推薦する教員を認める。・国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。・認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。」この覚書が、今日、現在日本学校の中にある「民族教室」の基礎となっています。しかし、4・24の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じるわけです。戦後、子どもたちが自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような在日の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができました。民家の空室や工場、そして倉庫の片隅などを作り替えて教室にしまし。そこに自分たちの作った机や椅子、黒板が持ち込まれました。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まり、いわば寺子屋ができあがったわけです。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあり、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行けなかった現状でした。だから子どもたちは喜んで朝鮮語の講習会へやってきました。こういうバラックみたいな学校で勉強すると「朝鮮学校、ボロ学校」そういうように言われたらいしいです。それでも、学校で勉強し、民族性守ったのもつかの間、ついに66校あった学校が全て閉鎖されました。ただ一つ、大阪市内の西今里公立朝鮮中学校だけが(現本庄中学校向かい)、その分校としてありました。今は、中大阪朝鮮中級学校となっています。その西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでした。講師で朝鮮人の先生が数人。その頃になれば日本の先生が授業してたと当時を振り返ってお年寄りが話されています。故金太一のオモニの話「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」【朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へ】生野区には、在日韓国・朝鮮人が75%在籍しているという学校があります。その学校では在日の子供たちが大多数を占めています。学校名は御幸森小学校(みゆきもり)です。コリアンタウンがある近くにある学校です。その子達は富士山は習っても、白頭山は知らないんです。ウリマルを全然知らんない、それこそ、日本人でもない、韓国・朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいます。http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007042600046&genre=K1&area=K1F
2007.04.24
コメント(0)
長崎市長暗殺犯が在日朝鮮人で本名「白正哲」という情報はデマ・・・・・ 長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。☆朝鮮人「日米同時銃撃事件」一考 (「博士の独り言」。なおこのブログは日本屈指の人気ブログであり、影響力がきわめて強い)http://grandbee.iza.ne.jp/blog/entry/154426/http://tinyurl.com/3yhyj3伊藤一長・長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた犯人の指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲」であることが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので小稿に報告する。一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。まさに、悲惨な両事件は、朝鮮系による「日米同時銃撃事件」であった。「やはり」と思われる方もおられるに違いない。無防備、無抵抗な者を銃撃する。後ろからフイ撃ちする。身体の中でもっとも無防備な顔面を狙う。これらは、朝鮮人の犯罪の特徴である。要注意のご参考まで!日本の尊厳と名誉を守り、国民の手で日本を取り戻しましょう!〔コメント欄より〕来訪者の問い ↓「さきほど、NHKのニュース9を視聴しながら、長崎の銃撃テロの犯人が在日との情報があるが調べているのか?と、コールセンターに問いあわせをしてみました。担当の男性に応対が引き継がれましたが、現在までそのような情報は知らないとのことでした。はっきりした場合、正確な情報を元にした報道をお願いしたい、と伝えました。ブログ主の返答 ↓「一般人相手のコールセンターのレベルでは、視聴者の声を受ける、聞くレベルです。また、個人情報保護法の問題もあり、情報が開示されない場合もあります。深いところは教えてくれないでしょう。当該情報は取材者レベルによるものですが、あくまでも情報開示の責任は通信社ではなく(故に、通信社名はここに記さず)、筆者に置いての情報として上記に開示しました。以上が、あらましです。」●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○☆城尾哲彌の本名は白正哲なのか、長崎県警に電凸してみたよ(解決不能)http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20070419/p2http://tinyurl.com/ysxg5q全く信用出来ないので、長崎県警に電凸しました。(略)最初は女性の方が出られました。女性:はい、県警です。hagakure:すいません、長崎県警の方でしょうか?女性:はいhagakure:えーと長崎市長が撃たれた件についての報道で、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?女性:なんでしょうか?hagakure:報道では犯人の名前が山口組系水心会の「城尾哲彌」となっているんですが、一部インターネット上では犯人は実は在日朝鮮人の方で本名が「白正哲」というそうなんですが、これは事実なんでしょうか?女性:少々お待ち下さい。hagakure:はい。ここで、年配の男性に代わる。男性:もしもし?hagakure:はい。男性:お電話代わりましたけど。hagakure:あ、はい。長崎市長を銃撃した犯人の名前なんですけど、報道では「城尾哲彌」となってますが、インターネットでは実は犯人は在日朝鮮人の方で、本名が「白正哲」という情報が流れているんですが、これは本当でしょうか?男性:えっと、犯人の名前?hagakure:はい。男性:ウチは哲彌っち聞いとるけどね。hagakure:え?哲彌ということは本名は「城尾哲彌」で間違い無いと言う事ですか?男性:そうやね。hagakure:では国籍も日本人ということですよね。男性:そういう風に聞いてるよ。hagakure:分かりました。ありがとうございます。お忙しい所、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。失礼します。男性:はーい、どうも。と言う事で、長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。-- はなゆー 転載元:Peace_Communityーはなゆ さんより
2007.04.19
コメント(0)
判決! 2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決 (続報) http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46807292.html 不当判決!! 2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決 (続報) 本日午前10時、京都地方裁判所101大法廷で在日無年金高齢者裁判の判決言渡しがありました。弁護団は30分の時間枠を要請していましたが、結果は「原告らの請求をいずれも棄却する 訴訟費用は原告らの負担とする 」 という主文のみのまさしく「秒殺」の判決でした。傍聴席が満席となり裁判所の門前で待機していましたが、すぐに「不当判決」の垂れ幕を掲げた事務局メンバーが出てきました。正直いって一切期待していなかったつもりでしたが、悔しさと情けなさに涙が出てきました。戦前・戦中と「日本人」として義務を課しておいて、戦後は「日本人」ではないと一方的に放り出し、さんざん辛酸をなめさせて補償もせず、人並みの老後を保障もせず、死ぬまで働けというのか。今目の前にある現実を救済する術はいくらでもあるだろうにと。判決後の報告集会で80歳~87歳の原告は、命のある限りとことん戦い抜くと口々におっしゃいました。本当に命をかけた闘いであり時間との競争です。早速明日から控訴に向けた準備にはいります。多くのみなさんのお力添えをお願いします。判決全文はA4版42ページに及び、アップには時間がかかりますのでご了承ください。判決の内容を事務局メンバーがまとめたものを以下に貼り付けます。(転送・転載可)山下寛裁判長・衣斐瑞穂裁判官・脇村真治裁判官には「判決要旨」もご準備いただけませんでした。在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟第一審(京都地裁)判決要旨 2007年2月23日 京都地方裁判所第2民事部原告らの請求をいずれも棄却する訴訟費用は原告らの負担とする■ 国際人権規約に違反していないA規約は、自動執行力は持たない。裁判規範性もない。 ・・・平成元年3月2日最高裁判決 「政治的責任の宣明にすぎない」B規約は、自動執行力はある。裁判規範性もある。国籍も26条の「他の地位」にあたるから、国籍を理由とする差別は許されない。 ただし、差異を全てなくして全て同じに扱うことを求めているのではなく、異なる扱いも一定の限度で許容している。 そして、社会保障制度については 立法府に裁量権がある。 外国人については、社会保障の責任はまず、その者らの本国にある。 だから、『限られた財源の下で福祉的給付を行なうに際し、在留外国人に比して日本国民を優先的に取り扱うことを立法府の裁量の範囲内として許容していると解される』(『』は原文通り) 在日韓国・朝鮮人の歴史的経緯・ 社会保障は社会構成員に対して実施されるべき面はあるが、それがすぐに在留外国人も日本国民と同一の社会保障を受ける権利を有していることにはならない。・ 在日韓国・朝鮮人が本国から何の救済も受けていないとしても、それがすぐに日本が在日韓国・朝鮮人に対して日本国民と同一の社会保障を与える法的義務があるという根拠にならない。・ 在日韓国・朝鮮人が日本国籍を喪失したこと自体が無効とは言えないから、日本国民と同一の社会保障を与える法的義務があるという根拠にならない。・ また、税金を払っているとしても、そのことが日本国民と同一の社会保障を与える法的義務にはならない。・ 昭和60年改正まで国民年金から除外され、任意加入もできなかったとしても、それがすぐに日本国民と同一の社会保障を与える根拠にはならない。 経過措置を作るか作らないかは裁量の範囲内。・ 国籍条項は国際人権規約、憲法に違反していないから、それを是正する必要はない。・ 難民条約批准にあわせた改正であり、在日外国人に経過措置を作らなかったとしても、立法裁量からの逸脱ではない。・ 『在留外国人に比して日本国民を優先的に取り扱うことは締約国の裁量事項』だから、日本国民には経過措置を作り、在日外国人には経過措置を作らないのも、同じ裁量の範囲内。 故に国際人権規約には違反しない。■ 憲法に違反しない憲法の基本的人権の保障は、日本国民だけではなく、在留外国人にも及ぶもの。それは14条(平等原則)も同じ。ただし、14条は「絶対的平等」ではなく、『合理的理由のない差別を禁止する趣旨のもの』であり、合理的根拠に基づく区別は許される。国民年金は一部国庫負担であるから、立法府が広範な裁量権をもっている。外国人の社会保障の責任はまずその本国にあるから、『その限られた財源の下で福祉的給付を行なうにあたり、日本国民を在留外国人より優先的に扱うことも許される』故に外国人を除外したことは憲法に違反しない。経過措置を作らなかったことも同じ理由で違反にならない。■ 国際慣習法に違反しない世界人権宣言は国連の考えを表明したものに過ぎず、法的拘束力を持つものではない。故に国籍条項が国際人権宣言に違反すると言えない。■ 国家賠償法に違反しない国籍条項も、経過措置を作らなかったことも、国際人権規約にも憲法にも違反していないから、立法不作為にもならない。在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会京都市南区東九条北松ノ木町12NPO法人 京都コリアン生活センター エルファ内TEL 075-693-2550 FAX 075-693-2555http://zainichi-nenkin.hp.infoseek.co.jp/
2007.02.23
コメント(0)
サッカーJリーグ 柏レイソルズFW 李が日本国籍取得、五輪の秘密兵器 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46748683.html 柏キャンプでシュート練習をする李忠成(撮影・為田聡史) 柏FW李が日本国籍取得、五輪秘密兵器 スポニチ2007/02/10北京五輪出場を目指す、サッカーのU-22(22歳以下)日本代表に「秘密兵器」が誕生した。在日韓国人4世の柏FW李忠成(21)が9日、日本国籍を取得した。ルーツとなる韓国で代表を目指す道もあったが、生まれ育った日本で夢に向かって進むことを決断。昨年9月22日の申請から約5カ月を経て、認可された。この日の同代表の北京五輪2次予選メンバーには選出されなかったが、追加招集される見通しだ。新しい力を加えて反町ジャパンが、五輪切符をつかむ。 待ちに待った吉報に、安堵(あんど)感でいっぱいになった。柏の鹿児島合宿に参加中の李は、午前練習後にチーム広報から、日本国籍取得の認可が下りたことを告げられた。当初、見込んでいた1月末をすぎても連絡がなく、気をもんでいた。「ホッとした。延び延びになって2月は気持ちを切り替えていた。その矢先の出来事だった」と、ほおを緩めた。李「僕は日本生まれの日本育ち。これから生きていく上で、日本の社会で骨をうずめるための決断です。」 この結論に至るまで、悩みに悩み抜いた。東京ユース時代、同世代のMF梶山が日本、呉章銀が韓国代表に招集される中、国籍が決まらない状況に苦しんだ。在日韓国人として韓国代表への夢もあった。04年にアジアユースを控えたU-19韓国代表候補に選出。だがルーツの国でありながら言葉が通じないジレンマに陥り、ホームシックにもかかった。W杯ドイツ大会に出場したFW朴主永ともプレーし「力の差は感じなかった」と手応えがありながら最終的には落選した。 悔しさを抱いて乗った帰りの飛行機で父鉄泰さんに思いを告げた。「やっぱり日本がいい」。昨年7月に鉄泰さんが渡韓。韓国代表コーチで影響力のある洪明甫氏に関係者を通じプレーを収めたビデオを渡し、日本国籍取得の意向を伝えた。だが反応はなく、9月に国籍取得申請に踏み切った。 正確な左足シュート、182センチの長身を生かしたポストプレー、そしてDFの裏を突くスピード。昨年はJ2で31試合8得点の成績を残し、反町監督が視察した7月神戸戦でも得点を挙げ、高評価を決定づけた。晴れて日本人になったこの日、くしくもU-22代表の発表があったが、現段階で招集されなかった。だが協会関係者によれば、18日からの熊本合宿中の追加招集に備えることを、李サイドに伝えている。「代表は特別なもので目標」と話す李が、日本代表の一員になる日は近い。 変わりゆく運命に対する覚悟がある。韓国メディアの中には日韓の歴史的背景から批判的な報道もある。「韓国も僕にとって大事な国。でも覚悟の上です。理解してもらいたいというより、これからどう頑張るかで人の道を示せばいい」。新たな人生の船出の日に、名前も変わった。「イ・チュンソン」から「り・ただなり」へ。日本人・李が日本サッカーのために戦う。【広重竜太郎】[2007年2月10日8時41分 紙面から]fwapyのコメント:民族や国籍と言う狭間で苦悩する在日です。しかし、着実に本名で、コリアンージャパニズとして社会の表舞台で活躍する在日の若者が増えてるのは間違いありません。先日アップしましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/44210442.html 日本ハムの森本 ヒチョリに続くホンワカする記事でした。・・・
2007.02.15
コメント(0)
この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46807292.html 【ご案内】2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会来る2月23日(金)午後10時より京都地裁第101法廷において在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟の判決言い渡しが行われます。一人でも多くのみなさんのご参加をお待ちしています。以下支える会のビラから貼り付けました(転送歓迎) 在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟 2/23判決へ!「これまでこんなに一生懸命働き続けてきたのですから、人並みの老後を送りたいのです。」(Aさん)「まわりにはたくさんの同胞がいます。私と同じぐらいの年齢になっても、年金を受けられないので、お風呂に行くのにも子どもからお金をもらって通っているというような人たちです。」(Bさん)「今、一世のオモニ、アボジたちがたくさん苦しんでいます。そういうような人にも助けてやってください。」(Cさん)「日本でずっと働いてきて、税金もずっと納めてきたのに、今でも年金ももらえないので、この年でも仕事をしています」(Dさん)「私が差別を受け、苦労したことはなん何の証拠もありません。私がしゃべることを信じてもらうしかありません。」(Eさん) この、オモニたちの訴えを、日本の裁判所はちゃんと受け止めてくれるのだろうか?同じ在日無年金障害者たちの訴えを、京都地裁は、大阪高裁は「外国人より自国民優先」「司法の関知するところではない」と、無情にもしりぞけてきた。 大阪で闘っている在日無年金高齢者たちの訴えも、大阪地裁、大阪高裁と突き放されてきた。無年金障害者たちへの救済法からも在日無年金障害者は閉め出され、在日無年金高齢者たちは最初から除外されている。この救済法に在日無年金者も含めてほしいという請願を昨年約4万名の賛同署名と共に国会へ提出したが、審議すらされなかった。 なぜ何故ここまで拒絶されねばならないのだろう? 在日韓国・朝鮮人の多くは、かつての日本の植民地支配のために、本国で生活できなくなってやむを得ず日本に渡ってきた人々と、その子孫である。日本の敗戦後も、もはや帰れる場を持たず、そのまま日本でずっと働きつづけてきた。 それこそ身を粉にして働きつづけ、税金も納め、約百万人と言われる在日韓国・朝鮮人たちは日本社会の一員として貢献してきた。それなのに、年金はなく、70歳、80歳になっても生きるために働きつづけている人々がいる。働きつづけ、身体を壊し、在日無年金高齢者たちは次々と亡くなられている。 この人々に年金を保障してほしい、人並みの老後をおくれるようにしてほしい・・・という訴えが、何故ここまで拒絶されねばならないのだろう? 在日無年金問題は、実は矛盾だらけである。 「在日外国人」のなか中でアメリカ人だけは年金制度への加入が認められてきた. 同じ在日外国人高齢者・障害者でも、年齢によって年金をもらえるもの者、もらえないもの者が分けられてしまっている。そして、日本で長年苦労してきた人々がもらえないのに、一方では日本に来たばかりの外国人はもらっている。更に一方では、保険料どころか税金すらはら払ってきていない日本人が、「日本人」であるというだけで年金を保障されている。在日無年金外国人は、例え日本に帰化して「日本人」になったとしても、それでもなお年金はもらえないのである。在日無年金高齢者・障害者に対してなお年金保障を拒絶する理由などはどこにもないのである。 国連も日本政府に対して、「在日無年金問題の早期解決」を勧告した。韓国政府も、ずっと日本政府に対して「早期解決」を要請してきている。何よりも日本の中から多くの人々が(日本人も含め)数十年にわたって「解決」を求めてきている。 私たちも、韓国を訪問し韓国政府にも訴え、そして、今年も決してあきらめずに請願署名を集めている。また今年は福岡でも同じ在日無年金高齢者たちの訴訟が提訴される予定である。 こうした中で、京都地裁は、在日無年金高齢者たちの血を吐くような思いの訴えに対して、はたしてどのような判決を示すのであろう?差別判決を決して許さないためにも、2月23日午前10時、京都地裁第101号法廷へ!在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会 京都市南区東九条北松ノ木町12 NPO法人京都コリアン生活センター・エルファ内TEL 075―693―2550 FAX 075―693―2555
2007.02.15
コメント(0)
北朝鮮だけが「憎むべき敵」か? この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46944303.html この国の北朝鮮バッシングは病的だとも思える。 もちろん、北朝鮮の独裁政治体制は問題だし、経済状況も最悪だ。拉致問題の解決も急がれるべきだろう。 拉致事件の犠牲者やその遺族の方にとって、その(限りなく犯人と思われる)容疑者である北朝鮮当局が「憎むべき敵」であることは論を待たない。彼らが自らの立場や感情を公の場で発露するのは問題ないし、むしろ必要だろう。 しかし、例えば、自動車の欠陥のために起きた事故の犠牲者やその遺族にとって、その自動車を製造したメーカーは「憎むべき敵」だ。また、国が安全と認めた薬品をつかったところHIVに感染したしまった人々にとって、厚生労働省は「憎むべき敵」となるだろう。その構図は拉致問題と変わるところがない。 どうして、マスコミは北朝鮮についてだけ、拉致被害者の感情を自分のことのように同情・共感するように国民に強いるのだろうか? どうして、マスコミは欠陥自動車を作った企業や国民の安全を守らない官庁を国民共通の「憎むべき敵」として象徴しないのだろう? どうして、拉致問題とは何の関係もない在日コリアンは北朝鮮がらみで様々な嫌がらせを受けるのに、加害企業や国家公務員の家族に対しては、それが起こらないのだろう? 転載元: とだ たくみのブログ
2007.02.14
コメント(0)
【要請】許すな!制裁・在日コリアンへの人権侵害 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46752386.html 3・1朝鮮独立運動88周年 今こそ対話で平和の実現を!3・3集会=許すな!制裁・在日コリアンへの人権侵害=小泉政権を引き継いだ安倍新政権は、公然と任期内の改憲を掲げ、昨年末には教育基本法改悪、防衛省昇格と自衛隊の海外派遣を本来任務とする法律を通過させました。また一歩「戦争のできる国」への道が強まりました。これらの動きは、世界的規模の米軍再編や米ブッシュ政権によるイラク侵略戦争への無条件支持と追随、そして対北朝鮮強硬策、在日コリアンへの弾圧や人権侵害と表裏一体です。北朝鮮の核実験発表で、安倍政権はここぞとばかりに好戦的態度を示し独自制裁まで強行しています。朝鮮半島の非核化と平和の鍵は、半世紀以上にも及ぶ米朝間の停戦(準戦時状態)を終わらせ、対話により米朝・日朝国交樹立を実現していく以外に道はありません。安倍政権の下でいまどういう事態が進行しているのか、これに対していま平和実現への課題とは-ともに考え、東北アジアの平和のために声を挙げよう。 日時 3月3日(土)午後6時開場/午後6時半開会 場所 文京区民センター(3A)[地下鉄三田線・大江戸線「春日」下車すぐ、丸の内線「後楽園」下車3分【講演】東北アジア情勢と平和実現への課題 武藤一羊さん(ピープルズプラン研究所) 在日コリアンへの人権侵害・弾圧実態 人権団体から(要請中) 【報告】NHK番組改ざん問題裁判控訴審判決について 西野瑠美子さん(VAWW-NETジャパン) 平和・国際教育で中学教諭を不当解雇-都教委との闘い 増田都子さん(不当解雇と闘う当該者) 都による土地取り上げに抗する枝川朝鮮学校の闘い 支援団体から(要請中) 大統領選を控えた韓国の動向について 宋世一さん(在日韓国民主統一連合)ほか 韓国民衆歌謡 ノレの会 【参加費(資料代込)700円】 主催 「3・1」集会実行委員会 連絡先 日韓民衆連帯全国ネットワーク(03-5684-0194) 基地はいらない!女たちの全国ネット(03-5670-4837) 「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)(03-3818-5903) 新しい反安保行動をつくる実行委員会5(03-5275-5989) 許すな!憲法改悪・市民連絡会(03-3221-4668) 在日韓国民主統一連合(03-3862-6881) 北朝鮮人道支援ネットワーク(ハンク・ネット)(090-1398-6807)(郵便送付先 東京都文京区小石川1-1-10-105 日韓ネット気付) 転載元: ロシア・CIS・チェチェン
2007.02.10
コメント(0)
http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46484292.html ↑yahooで色んな意見を頂いてます。もし、時間がありましたら、覗いてみてください。そして、yahooに出来ましたらコメントを頂けたら・・・・。在日として、そして、一市民として・・・・一昨日の【べっけん】の”とってもあいごー”さんからの転載記事についてのコメントを書いて見ました。誤解があってはいけないんで、一応、前置きしておきます。決してこの場で、反北、総連パッシングをする気はありません。一人の、在日として、在日の人権や権利を声高に訴えたい!、その反面、北からの脱北の支援をすると言う、自分の中では”人権”と言う、ひとつのキーワードが成り立ってはいますが、自分自身の中で起こっている、「よじれ」現象。”在日”として考えたら結果として自分自身が空に唾を吐いてるかもしれません。 在日韓国・朝鮮人は、日本の植民地支配という歴史』的な経緯によって日本で暮らすようになりました。80年以上の長きに渡り、この社会で色々な差別の中にあっても、人間としての尊厳と、民族としての誇りを守り、必死の思いで生き続けてきました。行政の不条理や社会的差別を受けながらも、なお在日韓国・朝鮮人として国際政治や南北政府の動向に翻弄されながらも、人としての”誇り”だけをなくすまいと歯を食いしばって生きてきました。日本社会の中にあって、「在日」の存在そのものが、多民族、多文化共生の社会の大きな力になると信じ、日本社会が差別のない平和な社会になる事を願って生きてきました。 それは、決して歴史への”恨=ハン”だけではありません。又、日本社会に対して植民地支配の歴史を語り続ける事によって、その事実を真摯に反省し、それを元に、同じ市民として共に暮らせる社会を築こうと常に働きかけてきました。それは「歴史の反省」こそが、差別のない平和な社会づくりに繋がると信じてきたからです。戦後、レッドパージによる朝鮮連盟解散を受けて、その主流が朝鮮総連、そして、その左翼思想に反旗を翻して出来た民団組織、個々には色んな問題を抱えてはいても、当時の軍事独裁国家である韓国政府を支持できない6割以上の在日がこの”在日朝鮮人”の基本的な権利と財産を守るのが主たる目的とした組織の傘下に集まったのも、しごく当然の成り行きだったと思います。そして、その傘下組織の在日の多くが朝鮮総連の組織に加入し、在日として、この社会の逆風の中、生きてきたと思います。一方で北朝鮮の広報機関となってしまった組織が、まじめな大部分の在日の知らない所で変貌を遂げながら、北の政権の御用機関と化してしまった所に問題の根の深さがあると思います。北朝鮮政府が「拉致疑惑」を一貫して否定し、むしろ、「拉致疑惑」は日本側の完全な”でっち上げ”とまで言い張ってきました。又、朝鮮総連も”でっち上げ”と声を大にして主張してきたのも事実です。結果的に、この両者は社会を欺いてきたことになり、その責任は重大です。一方、在日社会の多くも、日本社会と同じく”拉致問題”には、ほとんど関心を示してこなかったのも否めません。それ以上に、問題は、北朝鮮(政府)が拉致事件を「不正常な関係にある中で生じたこと」を理由に軽視し、朝鮮国営通信に至っては日本の植民地支配の事例を上げながら拉致事件を正当化する宣伝まで行っていた事実です。 また、在日社会の中でも、植民地支配を引き合いに出して拉致事件を論じる人がいます。植民地支配の歴史研鑽は、それを語り継ぎながら、今の市民社会を明日に向かって豊かにするために用いるものであって、北朝鮮の蛮行を隠蔽するために引き合いに出すものではないはずです。今の日本社会では、こうした言動や態度が「開き直り」としか理解されないことを悟るべきです。 そして、同じように北朝鮮(政府が)”開き直り”の論拠を、日本の「過去の清算」に置いている点でしょう。彼等は「日本は過去の植民地支配を反省したというが、”責任者処罰、謝罪、真相解明、国家賠償”など、全て曖昧にしてきた」と事あるごとに声高に言い放って来ました。今回の拉致事件で、北朝鮮側も、これを真似て、「真相解明」などを曖昧にしようとしているのはあきらかです。 しかし、植民地支配の辛酸な過去の被害を受けてきた民族だからこそ、拉致事件は誠実に「謝罪と真相解明」をし、そして国家賠償をするのは当然の事です。拉致事件の「完全解決」で、未来に禍根を残さぬようするのが、北の政権と、それに組織として裏で手を貸した総連そのものが厳しく断罪されるべきだと思います。 北朝鮮による「拉致事件」が白日の下にさらされた今日、在日社会がこのまま沈黙を続けることが許されるのでしょうか?私はこの機に乗じて、捜査当局による人権を無視した「別件」での過剰なまでの”総連パッシング”には当然、抗議し憤りを覚えます。それより、私が危惧するのは一、聞こえてこない”総連組織”による日本社会への謝罪と反省。二、その犯罪を知らなかった、黙認してた、その暴走を結果として許してしまったであろう、傘下組織の人々の中央に対する抗議の声のひ弱さ。三、”総連パッシングは”結果として”在日パッシング”であるとわかりながらも、動けないで黙認を続け、”人権侵害”のコメントすら出せない民団四、内政干渉?の批判が怖いのか、「在日の人権に対して留意されたし」と暗に、プレッシャーすら、かけられない韓国政府私を含めて、今一度、在日が、自分自身を見直し、今、何が出来るのか、何をしなければならないのかを自問自答する、大切な時期ではないかかと思っています。韓流ブームは、決して嫌韓の流れを遮ることは出来なかったし、日本の世論が、今までの様に”在日社会”を応援したり同情してはくれません。ともすれば、その長い間の同情こそが、今回の事件を引き起こし、収集のつかない、反省の無い組織にしてしまったのかも知れません。無条件に”北”を支持し、総連を支持してきたであろう、左翼や労働運動の団体も、今こそ、自分たちの反省を含め、愛すればこそ”総連批判”をすべきではないでしょうか?北の楽園と、宣伝して帰らせた、日本の政府、日赤、そして報道、マスコミ各社は、今、北パッシングに躍起となっていますが、彼らは、自己批判をしたのでしょうか?今になって、「”拉致”は国家犯罪だ。」とわめいていますが、20年前から、民団や被害者家族はその事実を語っています。その時期、日本政府や自民党、野党までもが、そして日本社会そのものが、この事件そのものに感心を示さず、耳を傾けようともしなかったのも事実です。他者を批判する前に、各人が己の非を恥じ、自己批判し、素直に詫びる謙虚な気持ちから新しい出発が、そして、市民の太い連帯が又、出来あがり、それが強い塊となって、捜査当局の不当な人権侵害に抗議する世論となるであろうと思っています。そして、人権侵害を声高に唱える日本政府は、「別件=べっけん」逮捕の繰り返しをし、果たして「人権」を語る事が出来る程、在日外国人としてこの地に生活している人々の「人権」守っていると言えるのでしょうか?そしてその行為を放置している、マスコミは、北の人権侵害、総連パッシングの報道に明け暮れ、足元で起きている人権侵害が見えてるのでしょうか?しかし、私たち在日が、第一に抗議するべきは、長年、多くの犠牲の上に培ってきた在日社会の存在そのものを卑しめ、変質してしまった”総連”そのものでしょう。この”拉致”と言う問題が人権問題であるからこそ、この1世紀近く戦って来た”人権”問題がすべて水の泡に化してしまったと言う現実は大きな歴史の汚点であることに間違いはありません。今こそ、本国志向ではない、”在日”の為の組織に衣替えしないと、その存続に明日は無いでしょう。今、日本社会の世論の動向を見ながら行われてる、国家権力による「何をしてもスルー!」の、「別件」捜査が繰り返されてる現状を組織存続の危機では無く、在日社会そのものの存亡にかかわってると言う認識を皆が持つべきでしょう。日本の世論を敵に回した在日社会が反省せず、過去と同じスタンスで”被害者意識”で居続ける限り、心ある、在日は今以上に風化の一途を辿るでしょう。ここで、日本社会に対して目に見える形での、努力、変化を見せつけない限り、文化活動や市民運動すら、在日の社会活動そのものが、戦前の様な”肩身の狭い”行動の制約を受けかねないかもしれません。最後に、現在の北朝鮮の指導者達は、果たして、日本の過去を糾弾し、日朝国交回復を論ずる資格なんかあるんでしょうか?・・・拉致事件被害者、家族の”悲痛な叫び”は、まさに植民地時代にわが民族が上げた”悲痛な叫び”であり、その痛みは在日韓国・朝鮮人が一番よく知ってるはずです。以下の発言は、数少ない総連組織から出された謝罪のコメントです。「金正日総書記が拉致事件を認めたことにより、これまでの報道、論調そのものが過ち、誤報であったことが明らかになった。「読者に迷惑を与えたことを率直に反省している・・・いくら祖国の報道を信じ、それに依拠してきたとはいえ、先入観に基づいて展開した編集部独自の検証記事などはジャーナリストとしてあるまじき行為だった」(朝鮮新報:朝鮮総連の機関紙) 「拉致問題が事実であったことは私たちにとって青天の霹靂であり、大きな衝撃を受けざるを得ませんでした。すべての総連の職員と在日同胞もこの予想だにしなかった現実に直面し、言葉を失っています・・・私たちは今、この厳しい事実を前にして言い表せない悩みと痛みを抱きながら『拉致問題はありえない』と明言してきたことに深い自責の念を禁じえません・・・ 総連組織をよりどころに生活してこられたすべての同胞のみなさまに甚大なる衝撃と苦しみを与えたことに対し、朝鮮総連愛知県本部常任委員会として心からのおわびを申し上げます。かさねて、朝鮮総連の活動を理解し、支持してくださった親愛なる日本のご友人のみなさまと、拉致の被害に遭われた方やその家族のご心痛に思いをはせるとき、申し上げる言葉もありません。また、亡くなられたと発表された方やその家族・・・心より深い哀悼の意を表する次第であります」(朝鮮総連愛知県本部常任委員会)「在日韓国・朝鮮人の中にも、植民地支配を引き合いに出して、拉致事件を論じる人があるが、憂慮すべきことだ。被植民地支配の歴史は、未来を豊かにするために用いるものであって、北朝鮮の蛮行を隠蔽するために用いるものではない」(在日コリアンのある市民団体声明)
2007.02.02
コメント(0)
もし私が嫌韓なら (2)連続で、面白くないでしょうが、ついに連続編を書いておきます。メール等で、対峙する立場の何人かが、resを下さったんで・・・。やっと嫌韓の熱が冷めたら、今度は「在日問題」って形になってきたみたいなんで一応・・・。昨年の10月に浅い認識の著書「嫌韓論」を出した、山野車輪の新作が出ました。前にも触れましたが彼は大人漫画を書いて、もう飯が食えないから故郷に帰ろうと思ってた矢先に「ゴーマン」を見て模索したのが「ヒット」したとされています。今回の新作”在日の地図 ~大韓棄民国物語 ”も、出版元である。文化者社や海王社のサイトを見てもこのマンガのことが載っていません。ちなみに海王社も晋遊社同様、アダルトコミック関係の出版社です。すなわち、それだけ嫌韓本が商売になるということだったんでしょう。「韓国人につけるクスリ」という本も続編が出ていますが、嫌韓本というのはそれだけ美味しい商売なんでしょう。しかし、この新刊はアマゾンランキングで、発刊当時でも、140位、今や、2,106位です。本来、在日に関心の無かった社会が、政府やマスコミ誘導の報道にも嫌気がさしてきたんでしょう。嫌韓流ブームが過ぎ去ったというより完全に一ジャンルとして定着したので話題性もないんでしょうね。著者=山野車輪の本が事実無根の内容で無根出に乏しく、読者を馬鹿にした嘘の連続か、一部分を抜粋して見ます。山野車輪は韓国語が全く分かっていないにもかかわらず、知ったかぶりをしています。たとえば同音異義語の例として、「そうかん」という発音の単語を挙げていますが、これをハングルで書くと「壮観」=チャングァン「創刊」=チャングァン(激音)「送還」=ソンファン「総監」=チョングァン(激音)「相関」=サングァンとなります。ごらんのように、全く違います。もちろん韓国語には同音異義語はあります。しかし、ハングルは大抵、一文字が漢字語の音声に合わせて作ってあるのが普通です。山野車輪はこんな初歩の基本も知りません。韓国語は日本語と真似たものという偏見でだけで書いているのは明らかです。それは、「ハングルはひらがなのようなもの」という認識にも現れています。日本語の文章をわざとひらがなで書いたりしていますが、これは例によって「マンガ嫌韓流」のコピーです。例えば、「漢字を廃止し全てをハングルで書くってことは日本語で例えると全てをひらがなで書くことと似たようなものだからな」という文章が出てきます。・・・・韓国語削除・・・・(rakutenは韓国語が出ないんだ(泣;)yahooなら出るのにな~)ご覧の通り、全く違います。韓国語の文章の場合、一単語ごとに一マス空ける(分かち書き)するのがのが普通です。また、今の文章には漢字語は4つしか出てきません。次に・・・・・・韓国語削除・・・・・・(A.二つの国の関係が良くなるでしょうか?)(B.独島(竹島)がある限り良くならないでしょう。)つまり、韓国語にはもともと、漢字語でない単語や表現がたくさんあるわけです。全部が日本語と同じわけではありません。山野車輪は、「ハングルは音でしか判断できない」といいますが、語学というものが全く分かっていません。「聞いて理解する」「話すことで意思を伝える」というのは語学の基本です。そもそも、日本語と韓国語は音が違います。たとえば、日本語は基本音節は、ひらがな50音ですが、韓国語の場合、母音は21個、子音は19あり、反切表といってハングルの基本音節は400あります。そして、一般に使われているハングル文字は1,180個あるといわれています。さらに、日本語の場合、子音で終わる言葉は英語で言うと“n”しかありませんが、韓国語の場合、“n”“ng”“l”“m”“k”など色々あります。つまり、日本の"ひらがな"文字とは全く違うのです。どっちが優れているという問題ではありません。次にハングルの特徴です。ハングルは基本的に左側が子音、右側が母音という構造ですが、下にも子音が来て一文字で3つの音を表現できるというものがあります。たとえば人の名字の"キム=金"は、英語では→kimですが、ハングルでは“韓国語=キム"と一文字で表現します。同様に朴=パクは英語では→parkですがハングルでは“韓国語=パク”一文字です。見ての通り、ハングルは漢字語にも一応対応しており、それ自体に意味はあります。ちなみに、一漢字語に対応したハングルは基本的に一つですが金だけは、例外的に金は(キム)と(クム)の二つがありますが、どちらも金という意味です。ちなみに、韓国語の教科書を読むと、こんな笑い話が載っていました。小学生の子供がお父さんに対して、「なぜ、金行といわずに銀行というのか?」というものです。ちなみに、銀行は“ウネン”といいますが、金行は“クメン”といいます。つまり、元の漢字語の意味が分からなければ、こんな変な質問は出てくるわけがないのです。(ややっこしいかな?)「マンガ嫌韓流」は、韓国語が分からない人間に対してしか通用しない子供騙しです。 韓国ではまったく漢字を使ってないかのような書き方ををしています。さらに、ハングルだけで文章を書くと、ほとんど意味が分からないかのようなことも書いています。ご存知だと思いますが、韓国でも漢字は使いますし、ハングルとのへいよう混在書物は至る所にまり増すし、駅名はハングル、漢字、英語併記です。こんな、一夜漬けの、馬鹿馬鹿しい本、「在日論」にしても、著者が、1度、もしくは2度、おのぼりさんでkorean-townに来て、見て、後は、本からのネタでしかありません。100年以上に及ぶ、在日歴史がいとも簡単に、この様な形で、書かれてるのが実態でしょう。 又、彼の本の中に「朝鮮学校の”チマチョゴリ引き裂き事件”は朝鮮総連の自作自演」と書いてあります。それを元ネタに、それが真実のごとく、実際に見たかの様にnet上で書ききまくる嫌韓の人々、中身の無い、がさネタとも言える内容に対しても、「よくまとまった本だ」と評価するnet右翼はどんな見識をもってるのか不思議ででなりませんません。私が、この場でバトルや個々の揚げ足取りの問題を語って、政治研鑽をしたくないのは、こんな部分です。そんな事に、時間と神経を費やして、勝ち負けに一喜一憂する気はさらさらありません。そこらを理解してくださって、ピントはずれな、コメントや下記逃げをしないで、下さればと願ってるんですがね。net右翼の可愛い諸君!こんな本で、わかった振りして、カキコするよりかは、他の方法で攻撃しないと・・・。でも、別に関心は無いけどね、
2007.01.25
コメント(0)
朝鮮半島の「祭祀」 祖先への追慕 拠り所に こんな記事がありますた。 読売新聞 心のページより 2007/01/24伝統脈々 在日に一体感 「祭祀(チェサ)」という祖先崇拝の儀礼が朝鮮半島で受け継がれている。日本で言えば法事だが、儒教の影響が強く、毎年の命日や正月、盆に行われるなど、その趣は異なる。在日コリアンにとっては、自らのルーツやアイデンティティーを再認識する場であり、心の拠(よ)り所にもなる行事だが、正しい作法が分からないという人も増えてきたという。厳粛に行われる儀礼と、しきたりを脈々と守り続ける人たちの思いに触れた。父の遺影に深々と頭を下げる玄徳準さん(手前から2人目)ら。「祭祀」は在日コリアンの心の原点でもある(大阪市生野区で) 在日コリアンが多く住む大阪市生野区。韓国・済州島出身の玄徳準(ヒョンドクチュン)さん(60)宅で昨年12月27日夜、親族ら約40人が集まり、15年前に67歳で亡くなった父の明植(ミョンシク)さんの祭祀が行われた。 2階の一室に設けた祭壇には供え物がずらり。3段に重ねたリンゴとバナナ、メロン、その奥には牛肉の串焼きと焼き魚、卵料理、さらにはワラビやモヤシ、モチ、ご飯などもある。 まず玄さんら兄弟が頭を畳に擦りつけるように2度、礼をした後、1人ずつ祭壇に献杯。そのたび、進行役を務める末弟がそれぞれの供え物に銀の箸(はし)を移し置く。「アボジ(父)が杯を空け、供え物を順に召し上がる」のだという。 続いて、出席者が順に2礼。最後に玄さんの妻の高明子(コミョンジャ)さん(59)から「ママと一緒に礼をしなさい」と促された孫のこころちゃん(2)が祭壇の前に進み出て、深々と頭を下げた。 約30分で、全員が礼を終えると、供え物のお下がりを食べる小宴「飲福(ウンボク)」が始まる。互いの近況や故人の思い出など、アルコールも入って話がはずむ。 明植さんは戦後に来日して金属加工業を始め、貧困や差別と闘いながら家族を養ってきた。「今の自分がいるのは祖先があってこそ」と玄さん。祭祀についても「アボジが毎年やっているのを見て覚え、その通りに素直な気持ちで臨んでいる」と、祖先への深い感謝を強調する。 ただ、供え物をつくる女性の負担は大きいという。高明子さんは「前日から下ごしらえをして、翌日も片づけ。やはり疲れます。日ごろ会えない人も皆、亡父の顔を見に来てくれると思えばこそ、続けられる。でも、娘の時代になれば、きっと変わるでしょうね」と話した。 現在のような祭祀は、中国から朝鮮半島へ約600年前の高麗末期に伝わった儒教や朱子家礼によって始まり、李朝中期に形式が整ったとされる。 供え物の配置や数、作法の手順などは細かく決まっている。出身地や家によって違いもあるが、4代前までの祖先のそれぞれの命日と、盆や正月などに長男の家で営む点は、ほぼ同じ。しかし、それでは長男の家の負担が重すぎるとして、兄弟で分担する例も増えているという。 「昔は果物も5段、7段と重ねた。借金を重ねてまで行う家も多かった」と金容海(キムヨンヘ)さん(80)は話す。1990年に「知っておきたい『祭祀』」という本を出版。伝統的な作法を伝えながらも、時代に合った簡素化を進めようと提唱している。 実際、金さんが先月6日に生野区の自宅で行った亡父の祭祀では、供え物の魚を東、肉類を西側に置く「魚東肉西」や、魚の頭を東に向ける「頭東尾西」などの様式を厳格に守る一方、果物は3種で2段とするなど、簡素化。「大切なのは真心。親を追慕することを通じて、各地に散らばって暮らす一族が集まり、結束を確かめ合うことが大事だ」と、力を込める。 在日社会は変わりつつある。朝鮮半島出身の1世が少なくなった反面、日本文化に囲まれて育ち、日本国籍を取得する在日コリアンが増加。2001年に約49万6000人いた韓国・朝鮮籍の特別永住者は05年には約44万8000人に減っている。 祭祀を行わなかったり、手順や意味を正確に知らなかったりする人も増えた。在日本大韓民国民団大阪府地方本部にも問い合わせの電話がかかるという。 「在日朝鮮人社会における祭祀儀礼」を著すなど、宗教社会学的観点から在日社会の祭祀を研究する梁愛舜(ヤンエスン)さん(57)は「かつて本名や母国語を奪われ、いま日本語や日本文化に囲まれて暮らす在日コリアンにとって、祖先とのつながりを確認する意味を持つ祭祀は、守るべき最後の砦(とりで)だと言う人もいる。時代が変わっても、受け継いでいくことが重要だ」としている。文・竹田和弘、写真・泉祥平
2007.01.24
コメント(0)
人種主義とたたかい、外国人人権法と人種差別撤廃法の実現をめざす 種主義とたたかい、外国人人権法と人種差別撤廃法の実現をめざす 全国ワークショップ ・2007 ■1. 開会/オリエンテーション■2. 基調講演 阿部浩巳さん(神奈川大学法科大学院教授) 「国際人権法と日本の外国人制度ー9.11以降の世界と日本」■3. 分科会【分科会A】「政府の労働力移入政策と日系人、研修制度」コーディネーター:矢野まなみさん(移住連)● 報告者(1)渡辺英俊さん(移住連)(2)リリアン・テルミ・ハタノさん(甲南女子大学助教授)(3)鳥井一平さん(全統一)【分科会B】「改悪入管法と改悪外登法への対抗軸」コーディネーター:佐藤信行さん(外キ協)● 報告者(1)旗手 明さん(自由人権協会)(2)鍬本文子さん(大阪外登法問題交流会)【分科会C】「地域社会における反差別・人権保障システムを考える」コーディネーター:丹羽雅雄さん(弁護士)● 報告者(1)康由美さん(弁護士)(2)自治体人権担当者(未定)(3)郭辰雄さん(コリアNGОセンター)コリア国際学園設立準備委員【分科会D】「外国人の子どもの教育の権利をどのようにして守るか」コーディネーター:師岡康子さん(弁護士)● 報告者(1)金光敏さん(コリアNGОセンター)(2)小島祥美さん(前・可児市教育コーディネーター)(3)島本篤エルネストさん(神奈川県外教)■4. 全体会 各分科会からの報告と提案 「私たちの共同の課題とは何かー緊急の課題/中長期的な課題」■5. 共同アピール ■日時 2007年2月12日(月)午後1時~■場所 大阪市立中央青年センター■資料代 1,000円※プレ企画 「コリアタウンフィールドワーク」日時:2006年2月11日(日)午後2時場所:JR大阪環状線鶴橋駅改札集合費用:1,000円 ■事務局 外国人人権基本法連絡会全国ワークショップ事務局: RINK TEL 06-6910-7103 コリアNGOセンター TEL 06-6978-7676
2007.01.21
コメント(0)
「阪神淡路大震災から12年」に思う 民団新聞より 2007/1/17 あの日に見た助け合い・地震発生から2度目の日曜日となった95年1月29日、旧正月を控えたこともあり、民団西神戸支部の前では大がかりな炊き出しが行われた 吉成 繁幸(フリー・ジャーナリスト)多文化共生こそ防災の基本 阪神淡路大震災からきょう17日で、ちょうど12年になった。犠牲者に深甚なる哀悼の意を表すとともに、いつ襲ってくるか分からない大災害に賢明に対処するためにも、多文化共生社会の実現を早めるべく改めて決意を固めたいものである。というのも、東京都が阪神淡路大震災の発生日前日にあたる16日、定住外国人を対象にした防災訓練を初めて実施したとの報に接し、複雑な思いにとらわれざるを得ないからだ。外国人問題 敵視が危うさ増幅=対処能力は日常が育む都が初めての対外国人訓練 都は大災害が発生した場合、「東京都外国人災害時情報センター」を設置し、被災した外国人が必要とする情報の収集や区市町村の情報提供を支援するとともに、区市町村からの要請に応じて防災(語学)ボランティアを避難所や病院などに派遣する。今回はそのマニュアルに即して、ボランティアの参集や外国人との相談対応などの訓練を行った。 阪神淡路大震災による犠牲者は、被災後の疾病や自殺など関連死を含めて6433人に達した。このうち、外国籍は255人。韓国・朝鮮が148人、中国が48人、ブラジル8人と続く。国籍不明者も40人いた。韓国・朝鮮人が集住する神戸市長田区が激甚被災地であったにせよ、外国人の割合はきわめて高い。 また、阪神淡路大震災はもちろん、2004年10月に発生した新潟中越地震の際も、外国人が情報から孤立して不安に陥り、言語や生活習慣の違いから日本人との摩擦が生じた。こまごましたトラブルの集積が、大問題に発展する可能性が指摘されてきたところだ。 阪神淡路級の大地震が東京で発生すれば、被害と混乱はその比ではない。他の自治体に先んじるべき都が、ようやく重い腰をあげたことは評価しつつも、都の外国人に対する基本姿勢を見るにつけ、付け焼刃に過ぎないのではないか、との疑念はやはり残る。石原慎太郎都知事が2000年4月、陸上自衛隊第1師団を前に行った発言を忘れるわけにはいかないのだ。 「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もし大きな災害が起こった時には大きな騒擾事件すら想定される。こういうものに対処するためには、みなさんに出動願って、災害の救助だけではなしに、治安の維持も大きな目標として遂行していただきたい」。 こう訴えた石原知事は実際、同年9月3日、「防災訓練」の名のもとに銀座に装甲車を走らせ、東京上空に軍用ヘリコプターを舞わせ、東京湾に艦艇を浮かべさせた。 「三国人」呼ばわりはもとより、外国人が騒擾を起こすと決めつけ、治安対象にするこの物騒な言動は、謝罪も撤回もされていない。外国人敵視発言を繰り返して平然とする首長のもとでの、外国人支援訓練がどれほどの効果をもつのか。確実な対策は日常性の中に 外国人の不安や日本人との摩擦を取り除く使命をもつボランティアも、ほとんどが被災者になる。大震災発生直後のもっとも肝心な数日間、充分な活動ができる保障はなく、拠点への参集すら危ういと見なければならない。 日本人・外国人を問わず、最も基本的かつ確実な防災対策は、日常性のなかにこそある。これはすでに、多くの自治体が達した結論でもある。埼玉県・市町村国際政策推進会議多文化共生研究会は、昨年1月にまとめた「在住外国人に係る震災対策について」の報告書で、こう指摘した。 「多文化共生社会とは、国籍や文化の違いを超えて、お互いを理解し、尊重しながら『共に生きる』社会であり、地域で外国人が孤立化することのない社会であると考える。まさに、多文化社会の実現こそが、最も有効な防災対策といえるのではないだろうか」。 阪神淡路大震災の外国人犠牲者数は、地震など自然災害は人々を国籍や民族に関係なく襲いかかるという、当たり前の事実をいやというほど示した。家族や身近な人を奪い去り、住居や職場を瓦礫にさせた自然の猛威の前に、ただただ放心し、その後もながく喪失感にさいなまれた被災者。ここにも日本人と外国人の違いはなかった。 しかし、被災という受動的な側面ばかりでなく、救援・復興という能動的な側面でも、国籍と民族を超えて立ち向かった事実を思い起こしたい。民団をはじめとする在日諸団体も、炊き出しや救護活動に率先した。各地の韓国会館は、韓国の政府・国民から民団に寄せられた救援物資の集積・配布センターとなり、ボランティア活動のサポート拠点にもなった。 当時、韓信協の最大手組合であった関西興銀は震災直後、当面費用がなくて困っている被災者に国籍を問わず、無担保・返済期限なしで5万円、電話用にと1000円分の小銭を貸し出した。利用者は6000人を超した。並みいる大手金融機関も、これだけ大胆な活動はしていない。 外国人の心意気が、被災者をどれほど勇気づけたことか。危機を前に発揮された助け合い精神は、「この地で共に生きてきたし、これからも共に生きる」という無意識の意識に支えられていたはずだ。外国人も日本人もお互いを理解・尊重し、大災害に対する危機意識を同じくして、地震国・日本での生活の仕方を不断に確認する作業が欠かせないのである。(2007.1.17 民団新聞)
2007.01.19
コメント(2)
意外と知られていない、芥川賞受賞の在日作家、今は亡き李良枝 年始の慌しさに11日の父の法要と、相変わらずバタバタと時間だけが過ぎてしまいました。時間の合間に、一息と思い、出張や移動の最中、久しぶりに在日韓国人作家で、今は亡き李良枝の本を読みました。処女作《ナビタリョン》と、記念すべき第100の芥川賞受賞作品《由熙》は、1992年、37歳で亡くなった・イ ヤンジャ(李良枝・Lee Yangji)、在日韓国人(二世)の作品です。 在りし日の李良枝 『由熙/ナビタリョン』講談社 著者の李良枝のことは、芥川賞を受賞したころから知ってましたが、発表した頃は、自分自身が、興味を抱くほどで無かった気がします。10年以上前に買った《由熙》は、本棚に鎮座?ホコリをかぶっています。38歳の若さで亡くなったことは知っていましたが、その人柄や内容にはあまり関心が無かったのも事実です。 何気なく、図書館に週末出入りし、韓国語の詩集を読んでる時に、ふと思い立って全集を借りて読んで見ました。若い頃、在日作家の芥川賞第一号受賞作家の《李恢成のうすを打つ女》も、同じく、芥川賞受賞作家、玄 月も在日、2世、3世の世代の違いがあると論評されますが、私は"同じ視点”としか見れない、それが私には(文学を語るレベルに無い)どうしても同じにしか、見えてこない分、新鮮に思えないのは事実です。先ほどの《李恢成》は、『時代と人間の運命-エッセー編』(同時代社、1996)の中で、在日同胞文学者の若い世代の作家たち(第三世代の作家)の一人として、李良枝を紹介していました。 「第三世代の作家たちが何よりも切実さを感じて書く作品世界とは、おまえとわたしの次元、、主に個人的な精神世界を反映したもの」「こうした潮流は何よりも在日同胞生活の変化からくる構造的矛盾の反映」「何年か前に夭折した李良枝がそうです」と。 (私には言語明瞭、意味不明。もっと目線を下げて批評して欲しいと思います・・・。)《由熙》は韓国に留学した在日韓国人の由熙が大学を中退して日本に帰るところから話が始まり、回想で話が組み立てられます。視点が由熙の下宿先のオンニ(お姉さん)にあるため、全体に客観的で抑制の利いた文章になっています。由熙は韓国社会に馴染むことが出来ずに、下宿先を転々とし、舞台となるこの下宿で初めてオンニとアジュモニ(おばさん)という信頼できる韓国人に出会い心が交流するのですが、結局は韓国を去ることになってしまいます。 《由熙》では由熙の日本での生活が語られることはありません。だからどうしても《ナビ・タリョン》の延長として読んでしまいます。 由熙は韓国を愛そうとし、ハングルを愛そうと努力します。もちろんそれがウリナラであり、ウリマルであるからです。しかし彼女はどうしてもそれが出来ない。多分日本でハングルを勉強してたときはそうでもなかったのでしょうが、韓国ではそこにいる人とつきあわなければならない。雑踏と騒音の中でも足が竦んでしまう由熙。書くことは完璧なのに、発音が一向に上達しない、努力さえ出来ない由熙。カセットでテグム(大琴)を聴きながら448枚もの日本語の文章を書き綴り、ハングル文字を読むことも書くこともせず、ある時は、日本語の朗読をしていた由熙。 夜中に独りで人事不省になるまで酔い、涙と洟にまみれながらノートに書いたハングル文字。オンニ私は 偽善者です私は 嘘つきですウリナラ愛することができませんテグム 好きですテグムの音はウリマル(韓国言葉)です試験でウリナラ(わが国)と書かなければならなかったのに、どうしてもそれが書けなかった。手が凍り付き、どうしても前に進むことができない。 時間があれば、”由熙”を、是非一度、ご一読ください。著者・李良枝のプロフィール 1955年、在日韓国人二世として静岡県に生まれる。 9歳のとき、父母が日本に帰化したため、こどもの自分も帰化していたことを15歳にして始めて知る。韓国語を学び、伽や琴併唱(カヤグムピョンチャン)の第一人者朴貴姫(パククィヒ)先生に師事するものの、韓国語の発音をうまく歌にのせることができず伽や琴を断念するが、韓国巫俗伝統舞踊を踊る金淑子(キムスクチャ)先生の舞踊に魅せられ師事。1964年両親が日本に帰化。田中淑枝(たなかよしえ)が本名となるが、良枝の字を使う。未成年のため、自動的に日本国籍を取得(当時、16歳の長兄は日本帰化に反対していた)。両親の不仲は、別居から離婚裁判へと進む。何度か家出を繰り返し、京都へ。観光旅館にフロント兼小間使いとして住み込む。旅館の主人のはからいで、京都の高校に編入、日本史の教師との出会いを通じて自分の血である民族のことを考え始める。 上京後、韓国の伽椰琴、巫俗伝統舞踊に魅了され、20歳で伽椰琴(カヤグム)と出会い、25歳のとき韓国に留学。 そのころ、「冤罪事件」として知られる丸正事件の主犯とされた李得賢氏の釈放要求運動へ参加し、ハンガーストライキを行う。 27歳のとき、ソウル大学に入学、このころから小説を書き始める。27歳ではじめての小説「ナビタリョン」を発表。両親の離婚成立。小説「由煕」で第百回芥川賞受賞。出雲市や富士吉田市にて韓国巫俗伝統舞踊発表会開催。 1988年,34歳で発表した「由熙」で芥川賞を受賞。 ソウル大学卒業後、梨花女子大学舞踊学科大学院へ入学。 出雲、富士吉田、ソウル等での踊りの公演を行う。 大学院単位取得後、日本で小説執筆等に専念。1992年5月22日、急性心筋炎のため、逝去。享年37歳。著書目録 【単行本】 かずきめ 1983年講談社 刻 1985年講談社 由熙 1989年講談社 石の聲 1992年講談社 【全集】 李良枝全集 1993年講談社 【文庫】 ナビ・タリョン 1989年講談社文庫 由熙/ナビ・タリョン 1997年講談社文芸文庫
2007.01.13
コメント(3)
『嫌韓流』『抗韓流』・・・韓流の向かい風吹く 「新年、さぁー頑張るぞ!」と年末にひいた風邪が少しましになり起き上がったら、早々、メールboxにはに100通近くバカ右翼?からのメールの山でした。不特定の極少数の輩が名前とIPアドを変えて送りつけてるんでしょうが、まぁ~凝りもせず根気強く、時間の浪費も苦にならないのか、頑張るな~と感心させらられます。こんな根気強い営業マンが会社にいればいいな~とうらやましい限りです。年末にブログ仲間の友人が、「嫌韓のブロガーやネット右翼は政府に雇われてnet上で書きこしてるんだ!」と驚くような裏話をしてました。でも、長い間、同じ視点でしか語ってこないスタイルを見て「まんざら嘘でもないな」と納得したりしてます。そこでこの連休を使って、年始から、嫌韓サイトの質問やらをnet上で繰ってみました。又、不毛の記事か?と思われるでしょうが、相変わらず、攻撃?を受けてる私はどうしても内容を深く調べて自分なりに納得したいと思いました。時間があれば記事の詳細を一読願えればと思います。2005年の記事ですが、これを読めば何ら変わってない、内容の嫌韓メールの中身が少しも進歩してないのが良くわかります。 《中央日報》2005.10.21 『嫌韓流』『抗韓流』・・・韓流の向かい風吹く韓国や韓国人を卑下、歪曲の内容が詰まった日本マンガ本『嫌韓流』20日午後、東京新宿紀ノ国屋書店。東京の大型書店の1つであるこの書店1階中央には常に話題の書籍が陳列される。その半分は韓流関連本だ。《クォン・サンウの秘密、韓国ドラマ完全解剖》など30種にのぼる。 ところで最近変なマンガ本1冊がこのコーナーに登場している。韓流を憎むという意味のがそのタイトルだ。発行2カ月で30万部が飛ぶように売れた。 本を開くと『韓国はワールドカップ時の審判の誤審のおかげで4強に進出した』『植民地時代ハングルが学べなくしたのは韓国人校長たちだった』など韓国に対する卑下と事実にの歪曲がぎっしりだ。本の中には右翼教科書の「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二名誉会長ら、極右関係者の韓国非難文も掲載されている。 この本を読んでいた大学生松浦進さん(21)は『率直に本の内容がすべて当たっているとは思わないが、初めて知る内容が多く、新鮮な感じも伝わる』」と話した。 今年の上半期に出版された「韓国男性に恋してはいけない36の理由」という本も目立つ所に陳列されている。「あのヨン様も、実はこんな男だったのか」という見出しが目を引く。内容は《『韓国の男性はどんな所でもつばやたんを吐いて、言葉より拳が先に、セックスも自分の思うとおりだ』などだ。 この書店の関係者は『嫌韓関連本は主要出版社で扱ってくれないのでたいてい中小出版社を通じて発行されている』とし『嫌韓流』がベストセラーに入ると小規模出版社が商売気で似たような本を出す可能性がある」と予想する。 海外各国で韓流の風は相変らず荒々しい。最近KOTRAが70カ国100都市に住む5200人を対象に調査した結果、韓流のおかげで韓国に対するイメージが大きく向上したということがわかった。特に中国の回答者の82%、日本の回答者の78%が『韓国に対して良い考えを持っている』と回答した。 韓流熱気が熱いから日本と中国の一角では反韓流気流も表れ始めている。日本には韓国を憎むという嫌韓流が、中国には韓流に対抗しようという抗韓流がある。 中国の有名俳優張国立氏は先月28日『韓国ドラマ『大長今』(宮廷女官チャングムの誓い)を見て頭に来た。中国が発明した鍼術をまるで韓国が発明したかのように描いていた』と責めた。 彼はまた『中国はこれまで外部から侵攻されたが、文化的に奴隷になったことはない』とし『中国のメディアが韓国ドラマを放送し称賛すればそれは中国を文化奴隷に仕立てること』」と述べた。人気タレント唐国強氏も「今から韓国ドラマの悪い点を見つけて正面攻撃を展開すれば怖いものなし」と韓流と闘う宣言をした。 ドラマ制作者たちも韓流卑下に同調している。中国映画ドラマ制作センターの広報担当者は「韓流にもう後はない。韓国ドラマは大部分放送局で製作されるため深みがなく、完全でもない」と批判した。 日本の場合、放送や新聞が「嫌韓」を直接取り上げない。ただ検証の不可能なインターネットが問題だ。マンガ【嫌韓流】も厳密に言えばインターネット上の各種【アンチ韓国】サイトに出回る話を拾い集めたものにすぎない。日本ポータルサイト《ヤフージャパン》検索窓に【反韓】と打てば数百の関連サイトが検索される。 『パクリ大国南朝鮮』」というサイトに入れば1970年代から今まで韓国が知的財産権を侵害したと主張する歌やマンガ、ゲームなどの事例が整然と並ぶ。初期画面には『それでも韓国は2003年世界知的所有権予算委員会議長国に選ばれてます』と皮肉ったタイトルが掲載されている。 ポータルサイト《楽天》」掲示板には『韓国男子高生の40%が痴漢をした経験があり、4%は婦女暴行をした経験がある』」とし『日本国内で在日韓国人による性犯罪が頻繁に発生するのは韓国人特有の性文化による』」という文が掲載されている。 『2002年ワールドカップ』当時競技場建設費用を日本が貸したが、返済されていない!という内容は嫌韓サイトのお決まりのカテゴリだ。 北京=ユ・グァンジョン特派員 東京=キム・ヒョンギ特派員
2007.01.07
コメント(0)
脱北者の処遇:日本と韓国ではこんなに違う! 韓国と同じく、北朝鮮による拉致問題に直面している日本政府の対応は、韓国とは全く違うものだ。 北朝鮮拉致被害者・脱北者人権連帯の都希侖(ト・ヒユン)代表は4日、自らの体験を例に挙げ、「同列で比較するのが恥ずかしいほどだ」と話した。 都代表は2004年5月、中国・瀋陽で「韓国人」と聞いていた脱北者のAさんを紹介された。ところが、都代表と会ったAさんは「わたしの名前はヒロセコウイチだ」と打ち明けた。 Aさんは9歳だった1960年、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系の男性と再婚した日本人の母とともに北朝鮮に渡った日本人だった。都代表がこのことをソウルの日本大使館に伝えたところ、大使館はAさんの情報をすぐさま東京へ連絡し、翌日には日本人失踪者であることを確認した。 それから日本の外務省は、中国の日本大使館を通じて中国政府との交渉を行い、Aさんを日本に帰国させることについて承諾を得た。都代表は韓国人の脱北者を韓国大使館に引き渡した時と同様に、「どこへ連れて行けばよいか」と日本側に尋ねた。当時、韓国大使館が脱北者のいる所まで迎えに来るということはなかったためだ。 ところが日本側では「われわれが責任を持って迎えに行くので、そちらから近い場所を指定してほしい」と求めてきたという。そしてAさんは、身元が確認されたからわずか2日後、日本側の関係者に付き添われ、瀋陽の日本総領事館に連れて来られた。Aさんとともに脱北した2人の子どもに対しても、同じ手続きがとられた。また、日本のNGOはAさんの妻の脱北も事実上「あっせん」した。安容均(アン・ヨンギュン)記者朝鮮日報/朝鮮日報JNS
2007.01.05
コメント(0)
2007.01.02
コメント(0)
日本人がいちばん 力道山を知らない。「みんな日本人」という夢 ! 『力道山』は、日韓両国の共同製作、プロレスラー・力道山を題材とした映画。韓国では2004年12月に公開され、日本では2006年3月より全国上映され映画です。主人公はこの作品の役作りのため8Kg体重を増やし、プロレスを学び、韓国俳優が必死で日本語特訓をした日韓合作の力作です。是非、時間がありましたら是非ごらんください。 私事ですが、昔、子供の学級担任が家庭訪に来た世間知らず?の教師が必ず発する言葉に「奥さんは、いつ日本に来られたんですか?日本語お上手ですね、奥さんは入籍されてますか?(日本以外の東アジアは夫婦別姓です)」と、ピント違いな質問をされたり、感心されたりの繰り返しでした。毎度、その誤解を解くのに嫌気がさしながら説明する度に、「人権教育を声高に叫ぶ教師が、結局、何も勉強してないのか!」、と思い知らされる日常でした。今も、多くの在日外国人が、同じような体験をしてるんだろうな~と思っています。 日本に生まれ育ったら日本語ができるのは当然、なのに、この社会は、いともかんたんに「外国人」と決め付けて色分けしてしまう。違いを違いとして受け入れるよりも、完全な異邦人と捉えた方が楽だからでしょうか。毎日の生活の中でこんな「初歩的」な問題を理解できないか?と思ってた時、8年前に出た『もう一人の力道山』(イスンイル著)と言う本に出会いました。今も私の本棚の片隅にあります。以前から、「日本の」戦後復興のシンボルである力道山が、現在の北朝鮮出身であるというのに興味を持って必死で読みました。著者は関係者一人ひとりの記憶に埋もれた過去の断片から、今までだれも描かなかった在日コリアンとしての力道山の苦悩の日々を書いています。アメリカ大リーグのハンク・アーロンがベーブ・ルースの記録を破る前後、人種差別的な脅迫状に悩まされつづけていたいたという事実は昔ではなく、たかが二十数年前の出来事です。 隠身辺警備が必要だった当時のハンク・アーロンhttp://hochi.yomiuri.co.jp/column/hiruma/news/20060509-OHT1T00504.htmしかし、アーロンは脅迫状に対して毅然とした態度をマスコミに示して、見事に最多本塁打の記録を達成しました。そして、今、現役を引退して久しい、ハンク・アーロン氏が、その脅迫状事件のことを「あれは昔の話だ」という言い方では決して語らない事でしょう。彼は、「脅迫手紙が過去のものではなく、これからも我々は人種差別に対して闘っていかなければならない」と明言しているのが印象に残っています。ところで、「日本の」本塁打王・王貞治は在日中国人であり、そのハンクアーロン氏の記録を日本球界の中華民国国籍を有する王貞治氏が塗り替えたのも、何かの因縁でしょうか。最多通算安打数を誇る「日本の」安打王・張本勲は在日コリアンであり、彼らが「日本」記録を打ち立てようとしたとき、ハンク・アーロンのような人種差別的な圧力があったのだろうか?もちろん、ないわけがないだろう。ここでブログをアップして、色んな人間模様を見直すと、自分が気づかなかった、様々な事実に出会ったり、又、いろんな人から教わる話の中から、在日を通して「人として」の人間像を覗けて、毎日学んでいます。決して、在日だから・・・と強調したり、突っ張ってる考えはありません。それだけはご理解ください。「スポーツは強ければよい、楽しめればよい、」と言いますが、少なくとも、その主人公である人々はその違いの中で生きてきたのは事実です。そして、又、今も、その中で生きてるのは事実です。ただ、ここに日本の二面性があると思います。多くの日本人たちはこここにあげた、力道山、王貞治、張本勲が「日本の」ヒーローであると素朴に思い応援していたに違いありません。もちろん日本人のファンの相当数が、「彼らが日本人でない」ことを知っています。しかし、「そんなことは大きな問題ではない」というのが共通の意識ではなかったでしょうか。これが一見、民族・人種問題に寛容な日本社会の一面であるかの様にも思えます。 しかし別の角度で見れば、王貞治に昔、日本人風の名前を使うような圧力があったり、張本がじっさいに通名に変えざるを得なかった社会的な圧力が存在します。(事実、中途で本名(張勲)宣言を球団に申し入れて却下されています。これが民族・人種問題に不寛容な日本社会の一面であるのも事実です。この一見相反する態度は、日本社会が「まあまあ、そう目くじら立てずに。力道山も王貞治も張本勲も日本人なんだ」という曖昧さの中に”犯罪的なまでの日本人への同化意識が巣食っている”と少し辛口で言い放てば反発を買うでしょうか?つまり、日本に住む人間には2種類しか存在しない。日本人か外国人である。そして、力道山、王貞治、張本勲は、本人たちがどう思っていようと、日本人が認めた「日本人」である、という強力な同化意識でしょう。この本の出版の後、明らかになった事実を元に追加された、「補遺 力道山の鞄」として巻末に納められている証言では、「日本のヒーロー」と祖国統一の夢に引き裂かれていった力道山最後の日々を垣間見ることが出来ます。おそらく当時、街頭テレビで力道山の空手チョップに熱狂した人々のほとんどは、彼が朝鮮の出身者であることを知らなかったでしょう。(当時の私もそうでした)その点では、王貞治や張本勲と事情が違うし、たとえ知っていたとしても、日本人は彼を「日本人」として受け入れ、声援を送ったでしょう。別の言い方をすれば、力道山が自分の出自にかかわらず、「日本人」というアイデンティティーを受け入れる限りにおいて声援を送ったと思います。力道山こと金信洛の心は、彼が日本で得た名声によって3つに引き裂かれていた。ひとつは飽くまで彼を「日本の」ヒーローとして、つまり、悪役「外人」レスラー VS 正義の「日本人」力道山として活躍させようとする日本プロレス興行界、2つめは、彼の実の兄や娘が暮らす北朝鮮と日本でそれに対応する組織である総聯、3つめは、日本と同じ「西側」である韓国と日本でそれに対応する組織である民団。(ちなみに、力道山はもともと力士として日本に呼ばれたが、相撲をやめて日本のプロレスを起こしたのは、この本によれば角界の人種差別が原因とのことである。たしかに、高見山、小錦、曙の昇格問題はまだ記憶に新しいでしょう。力道山が刺殺されたのは、東京オリンピックを間近にひかえ、南北合同選手団を要請する国際オリンピック委員会と、南北別々の選手団を主張する2つの朝鮮が対立していた時期です。(結局、参加したのは韓国選手団だけ)「日本の」ヒーローとして成功すれば成功するほど、自分の出自を隠さなければならない皮肉、しかも冷戦の激化にともない、2つの祖国に引き裂かれる思い。それが、日本人の決して知ることのなかった力道山の苦悩であり、同時に、今なお残る在日コリアンの苦悩の側面であると、この本に書かれています。韓国人の視点で見た、それも8年前の本なんで、多少の時代のギャップや認識の違いは否めません。先ほど、ハンク・アーロンの事に触れましたが、まさに力道山の生き方は、在日コリアンの抱える苦悩を凝集していたという意味なのでしょう。力道山の苦悩も又、「過去のこと」ではないということでしょう。日本社会の同化意識、つまり、日本人と外国人を峻別して、相手が日本人である限りにおいて「寛容」であり、外国人としての違には拒絶するという意識は、非常に根深いのも日本と言う社会の特徴でしょうか。アメリカの人種差別のように、問題が先鋭化しない分、かえってタチが悪いとも言えるかもしれません。聖徳太子の唱えた「和をもって尊しとなす」日本人は、日常生活に「違い」を持ち込まれることを本能的に嫌っている様に思えます。だからほんのかけらでも、民族とか人種とかいった「違い」を持ち込まれると、「そう堅いこと言うなよぉ」と、逃げるのかも知れません。女性差別にしても、民族や人種の差別にしても、日本社会は「違い」がまったく存在しないという居心地の良い「単民族」のなかに生きて、その夢見心地を破られると、異常に違和感を感じるのが日本人的であると、私の目には思えてなりません。。その”違和感”が「排他」という表現にあらわれている。日本社会で力道山が戦後復興という「夢」のスターである限りにおいて彼を受け入れ、今も彼の功績を称えていると思います。しかしその影で、多くの在日コリアンたちが力道山と同様の辛酸をなめていたことを、きれいにスルーしてしまっているのは最初の教員のレベルを見ても判る事実です。力道山も王貞治も張本勲も、日本人の「夢」の中ではあこがれの「日本の」ヒーローでしょう。ただそれが「夢」である限りにおいて。在日外国人に対して「あなた日本語お上手ですね」と言い続ける社会、その「夢」にすっかり慣れてしまい、重要な感覚を完全にマヒさせ、人の痛みが判らなくなってしまった社会ですが、このブログが”知ること”の手がかりのきっかけになってくれたらと、思い続けて”在日”を市民として、個人として"語って行く”つもりです。コツコツト・・
2006.12.24
コメント(0)
統一コリアのチャンピオン=ボクサー洪 昌守:ホンチャンス(徳山昌守)の闘い 洪 昌守・ホンチャンス(徳山昌守)は、One Koreaと縫い取りをしたトランクスを着け、朝鮮半島をあしらった「統一旗」を持ってリングにあがるチャンピオン。在日コリアンの悲願「祖国統一」を、ボクサーとして拳で表現している証です。彼はどのようにして、WBC世界スーパー・フライ級チャンピオンの座についたのか。同じ在日として少し、書いて見ました。彼がデビューする前、近くの焼肉店で働くアルバイトの青年が「兄さん、今度、4回戦にデビューします。絶対世界チャンピオンになるから応援してください。」こんな話を7年前のある日、髪を茶髪に染め、人懐っこい顔をして話しかけてきたのが、後のチャンピオン、ホンチャンスでした。「頑張りや!」と言いながら、店を出るなり「あんな髪の毛染めて甘いな~l」と仲間内で話していたのを覚えています。でも、大阪城公園でトレーニングに励む姿を良く見かけます。気軽に「ホンチャンス~」と声をかけると手を振ってくれます。一緒に撮った写真が何枚かありますが、私の顔が映ってるので・・・。笑まず、彼は洪昌守(ホンチャンス)の本名でリング登録し、その名前での放映を望んでいますが、通名の徳山でないと試合も組まない、TV放映も出版も出来ないと言う制約があります。この事実を知ってって欲しいと思います。私がブログ紹介文で書いてる様に本名で生きると言う、ごく当たり前の事が出来ない社会、彼を通しても見えますね。 2つの「史上初」をつくったボクサー徳山昌守、史上初、TV放映されなかった世界タイトルマッチ、これは日本ボクシング史上初である。 史上初=その1 ホンチャンスがチョー・インジュに挑戦したWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ(2000年8月27日、大阪府立体育館)が、テレビ放映なしだったことです。国内で行われた世界タイトル戦で、日本のジム所属選手がリングに立ち、テレビ放送がまったく行われなかったのは、初めてのことです。異国で生まれ育ち、日本語も話さない外国人選手でさえ、国内での世界戦のテレビ放映は、限定的とはいえ、実現していました。一方、ホンチャンスは日本で生まれ育った。ボクシングの試合はすべて国内でしか経験していません。さすがに、この時は、まだ、目に見えない○○の時代は続いているのだと実感させられました。間違いなく、ホンチャンスの出自が原因だったんでしょう。東京の朝鮮学校を卒業した在日朝鮮人。いわゆる日本におけるエスニック・マイノリティーに属する人間、在日だからでしょう。勿論、大阪で行われた試合、。大阪のジムに所属はしているが、在日であり、東京出身(大阪の風土?)であるという二重の意味で異邦人として扱われたのは間違いありません。東洋太平洋チャンピオンのホンチャンスには「勝ち目がないから、テレビ放映の価値なし、と決め付けられたのがテレビ放映無しの理由だ。」とTV当局は話すでしょう。しかし、過去には勝ち目なさそうなマッチメーキングでも、“純?”日本人の場合、なんとか地元のテレビ局なら放送してくれていたのは間違いありません。史上初=その2もうひとつの「史上初」は、在日を公表して世界王座を獲得した、ということです。ホンチャンスの勝利を聞いたとき最初に気になったのは、メディアは、どう報じるのかということでした。「在日」で初の世界王者ではないだろう、ということは予測していましたが、そうした場合、どのように「在日初」ではない、という事実をニュースの中で説明するのだろう?この試合の2週間ほど前に、先ほどの焼肉屋で、試合のポスターが店内に貼ってあるのを見ました。ポスターは「南北はひとつ」というようなフレーズで、はっきりとこの試合が「南北」の対決であることが“売り”になっていることが誰の目にも明らかでした。ホンチャンスが朝鮮籍であることを公表しているし、このタイトルマッチ自体が、“南北”の対決であること。在日であるという事実を抜きにしてこの試合の結果を報道することはメディアの常識としては難しいだろうと予想はしていましたが、結果は肩透かしでした。ほとんどの報道は「在日を公表している選手としては初」という表現でお茶を濁していました。ただそれだけでした。なんだ、そういう“逃げ方”もあったのか?でも、せっかく新時代を象徴するようなボクサーが現われたというのに、旧態然としたメディアは、時代の流れを読むことも、変えようと努力することさえしない。政治的な問題を絡ませたくない。おそらくボクシング関係者のほとんどすべてもそう思っていたのでしょう。世界王者になったホンチャンスの気さくで、おごらない性格は大阪人の心を捉え、当時、大阪のローカル放送では人気がフィーバーし、庶民ボクサーとしTVをはじめマスコミに引っ張りだこでした。「ONE KOREA(コリアは一つ)」のトランクスに身を包んでリングに上がるホンチャンスは、己のアイデンティティーを強烈に主張していました。しかし、彼も又、時代に、政治に翻弄されるチャンピオン・・・自らの意思を貫き通す事はいばらの道を歩む事?リングで幾度となく、統一国旗の朝鮮半島の統一国旗をまとい、応援団に答える彼が、時代に翻弄されはじめます。拉致の問題が世論として盛り上がりを示しだした2002年には、彼が民族学校出身者、”北”の支持者だということが世論の矢面に曝され、マスコミはおろか、関西大学の学園祭さえも大学実行委員会からドタキャンされるという事態に陥りました。パッシングの嵐は日に日に強まり、「あの時は、精神的にも落ち込んで、最悪でした」と当時を振り返って知人に話してました。でも自分が出来ることは「リングで勝つこと」と原点に返って再び、トレーニングを再開、紆余教説を繰り返しながら再びチャンピオン座に返りつきました。今でも、気さくな庶民派チャンピオンの態度は変わらず、人に色紙を頼まれれば、必ず、数日後には、手元に届いています。年末のプライドに出る、出ない、転出する、しないでスポーツ紙上をにぎわせていますが、彼の事、最後は、自分の道を自分で切り開いてくれると信じています。前にも取り上げましたが、日ハムの森本ヒチョリやソフトバンクの孫正義etc..本名で暮らすという、ごく当たり前の事の積み重ねが、この社会の国際化に大きなインパクトを与えると信じています。最後に、k-plaza.comインタビューを転載します。-リングの上で己の力を証明することだけだ。されているようですが、韓国を訪れたときの印象、また、今だから話せる裏話などがありましたら、教えて下さい。 徳山選手: まず空港降りてからの報道陣の多さにびっくりした。韓国を訪れたといっても、今回は試合で行ったので減量もしてたし、ほとんど観光は出来ずでした。だから印象なんかも特になし。次行くときは是非観光で行って見たい。 -今までボクシングをやっていて一番つらかったこと、またうれしかったことはなんですか? 徳山選手: つらかったことは、毎朝のロードワークと減量と日本タイトル挑戦に2度失敗したこと。うれしかったことは、世界チャンピオンになったことと、毎試合前の計量が終わった瞬間。 -チャンピオンになってから、今までとは違う、何か大きな変化はありましたか? 徳山選手: 自分の中では自信がついた。 自分よりも周りの対応が変わった。どこ行ってもちやほやしてくれて、正直悪い気はしない。でも、そこで自分を見失って天狗になったらそこでそいつは終わり。「実れば実るほど頭をたれる稲穂かな」 -試合前にはハードな減量や、試合に対する恐怖感など、色々なことを感じると思いますが、そのようなプレッシャーをはねのける精神力の強さは一体どこからくるのですか) 徳山選手: とにかく「勝ちたい」という気持ちから、、、。 洪 昌守:プロフィール 1974年9月東京都生まれ。5人兄弟の末っ子。(兄2人・姉2人) 朝鮮籍の在日3世。東京朝鮮中高級学校高級部卒業後、父親の会社に就職するが、ボクシングへの夢をあきらめきれず、単身大阪へ渡る。94年9月にプロデビューし、95年度全日本フライ級新人王を獲得。99年9月東洋太平洋スーパーフライ級王者に。2000年8月世界タイトル初挑戦で韓国のチョウインジュを破り、WBCスーパーフライ級王者となる。通算9度の 世界タイトルの防衛。■洪 昌守公式サイト PC版:http://www.chang-su.com/ 携帯版:http://www.chang-su.com/i/
2006.12.15
コメント(0)
今こそ、日本人シンドラー・故 布施辰治 弁護士と人権 大衆の味方、正義の弁護士 布施辰治弁護士(1880(明治13)年~1953(昭和28)年没 大正・昭和期の弁護士、社会運動家。2004年10月12日、日本の植民統治からの独立を訴える朝鮮人運動家らを弁護したことから、外国人で始めての「建国勲章」を受章した、日本人シンドラー・故 布施辰治の話です。受賞は、1919(大正8)年の「3・1独立運動の直前に東京で独立宣言を発表した「朝鮮青年独立団」の関係者や、関東大震災後の朝鮮人暴動のデマの中の1926(大正15)年に大逆罪(金子文子。神奈川県生まれの無政府主義者で、朴烈の妻。大逆罪で逮捕され死刑判決を受け、のち無期懲役に減刑されるが、4か月後獄中で縊死(いし=首をくくって死亡)・朴烈(パク ヨル)が、天皇を暗殺すべく爆弾の入手を画策したとされる「でっち上げ」事件に問われた朝鮮人運動家らの弁護に当たったことなどが受賞の理由です。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41052976.html http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41080347.html http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41178367.html 布施が少年時、漢学塾に通っていた頃、日清戦争から帰った村民に「オレは朝鮮軍を追撃した。普通の百姓が集まっただけのものだった」と聞いて朝鮮人に同情を感じた(「ある弁護士の生涯」)という。また、併合後の大正初期、「朝鮮の独立運動に敬意を表す」という一文を書いて検事局に呼ばれたというが、これは原文もなく、時期も明らかでない。しかし、これらの挿話のなかに早くも朝鮮に対する関心と同情がみてとれる。立身出世を求めず、清貧を重んじて哲学を学ぶために」上京、1902(明治35)年に明治法律学校(現・明治大学)卒業後、司法官試補(現・検事)となり宇都宮地裁に赴任する。しかし、親子心中をはかって自首した母親を殺人未遂で起訴することに忍びず、また法律の社会的不備を痛感し、新聞に「桂冠」を発表し、「虎狼(ころう=貪欲で残忍な人のたとえ)の為なる我が職を」辞任、弁護士となる。以後、トルストイの影響から人道主義の立場を貫き、社会運動擁護のために、東京市電値上げ反対騒擾(そうじょう)事件(1906〔明治39〕年)、東京市電ストライキ事件(1911〔明治44〕年)、米騒動(1918〔大正7〕年)、天誅(てんちゅう)事件、釜石鉱山・足尾銅山・八幡製鉄所ストライキ事件(1919〔大正8〕年)、暁民共産党事件(軍隊赤化事件=1021〔大正10〕年)、第1次共産党事件、関東大震災の時に起きた亀戸事件(甘粕事件)、朴烈(ぼくれつ) 大逆事件(1926〔大正15〕年)、朝鮮共産党事件、台湾農民組合騒擾事件をはじめ、各地の小作争議、労働争議の弁護・救援にあたる(1910〔明治43)年の明治天皇の暗殺を計画したとされる大逆事件に際して、被告幸徳秋水の妻、管野スガの弁護を申し出たが、筆頭弁護士磯部四郎(19231~1954〔明治19〕年大審院判事に就任)から「君は法廷の発言で問題を起こしそうだ。あぶなくて弁護させられない」とことわられている。 布施辰治の朝鮮観を示す一文「日韓の併合は、どんなに表面の美名を飾って居ても、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略であったと思う。故に日本の資本主義―各世界の資本主義が未だ倒れないで、愈々断末魔の暴威を振ふ今日、資本主義的帝国主義で侵略せられた朝鮮民衆の愈々搾取せられ、益々圧迫せらるるのは当然の帰結でせう。……、特に朝鮮民衆の搾取と圧迫に目立つのは、舞台が舞台である事とあまりに美名の下に併合した併合が、其の実のあまりに非道い鮮やかな対照の残虐を暴露してゐるからだと考へます(後略)」そして、「私は此の意味に於て、朝鮮民衆の解放運動に特段の注意と努力とを献じる要ありと信じます」と結んだ。布施辰治の生涯は、朝鮮民衆にとり、まさにこの決意を実現するための困難をきわめた実践の連続であったと言える。彼はこの後、4回にわたり朝鮮本土に渡っている。義烈団事件、宮三面事件、朝鮮共産党事件等でそのすべては朝鮮独立を闘って捕えられた独立闘士や、大地主や東拓のために土地を奪われた小作人たちの苦境を救うためのものであった。 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の問題での、激しい抗議活動、そして虐殺事件の真相調査活動、併せて犠牲者追悼会で「殺されたものの霊を弔ふの前に、先づ殺したものを憎まねばならぬ、呪はねばならぬ。そして其の責任を問ふべきものである。」と官憲と日本人を糾弾する追悼演説を残してる。布施は、神戸三菱・川崎両造船所の労働争議において警官隊が抜剣し、労働者を刺殺する等の労働争議弾圧(人権蹂躙事件)に対する調査団活動が契機となって、1921(大正10)年に結成された弁護士団体「自由法曹団」に加入。1901〔明治34〕年明治法律学校卒業後にアメリカに遊学、幸徳秋水ら社会主義者と知り合う。大正期に東京で起きた社会主義者の事件のほとんどを弁護、また「米国伯爵」を自称して、反語・皮肉・暗喩(あんゆ。隠〔いん〕喩=「…の如し」「…のようだ」などのたとえの形式をとらない比喩〔ひゆ〕)などを駆使して権力を愚弄(ぐろう)するとともに権威を揶揄(やゆ)し続けことから、「奇言・奇行の人」といわれる)とともになる。'''権力の布施に対する集中的な弾圧であった。布施の弁護士活動が天皇制権力にとって邪魔(目障り)だったのである。「借家人の借家権は、家屋その他の焼失とともに消滅する」と主張、「焼跡にバラックを立てる権利はない」との論調に対して、布施は、「借地が焼けても借家人と家主との関係は切れていない。〈当時の東京市民のほとんどの〉借家人は焼跡にバラックを建てる権利がある」と主張して弱い立場の借家人を擁護する論陣をはった)。公娼廃止〔廃娼〕運動の団体として「廓清会〔かくせいかい〕が1911(明治44)年の東京の遊郭吉原が全焼したのを契機に組織され、機関誌「廓清」を発行した)運動にも加わり、『法廷より社会へ』『法律戦線』などを刊行、「弁護士の戦線を拡張して法廷の戦士より社会運動の闘卒を任ずる自己革命の告白」を行い「自己改革」の証しとして1、取扱う事件を冤罪者の事件や富者の専横に苦しむ弱者の事件、さらには筆禍舌禍事件や無産階級の社会運動を迫害する事件に限定すると共に、2、弱者のために無料法律相談を行い、3、社会時事講演を継続的に行う』ことを明かにした。第2次世界大戦の敗北で弁護士資格が回復された(1945年12月、弁護士活動再出発の祝賀会が母校の明治大学記念館で催される)布施は、自由法曹団再建に際して顧問に就任、戦後の弾圧事件(世にも不思議な3大事件の)三鷹(みたか)事件(弁護団長)、松川事件や血のメーデー事件などの弁護活動を精力的にこなした。1949(昭和24)年11月12日には、3,000人(うち在日朝鮮人800人)を超える人々が参加した「布施辰治誕生70年記念人権擁護宣言大会」が明治大学記念館で開催されたが、その4年後の1953(昭和23)年9月13日、73歳11ケ月の権力との戦いの生涯を閉じた。同年9月24日、壇上に布施の言葉「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために.」が掲げられた「告別の会」が東京・日比谷公会堂で開かれ、2,000人を超える大衆が参列したとされる。 布施は文子の骨を引き取り、朝鮮の朴烈家の墓地に埋葬する。朝鮮人の心と一体化した文子の心情に、布施は己れの心をダブらせたものであろうか。 日本敗戦は復活した布施弁護士に大活躍の場を与えることになる。日本人関係の事件としては、三鷹事件や松川事件などの弁護人にもなるが、朝鮮人聯盟に関係するものとして、神戸朝鮮人学校事件、国旗事件、深川事件、朝聯・民青解散事件、東京朝高事件、台東会館事件などの弾圧事件の弁護を引受けて在日朝鮮人の権利よう護に尽力するのである。 かつて私は少なからぬ先輩たちに布施辰治の話を聞いたが、一致した評価は、「布施弁護士ほど朝鮮人が頼りにした人物はいなかった」であった。なぜか今、義の人布施辰治がいれば。参考文献布施柑治著『ある弁護士の生涯』(1963・岩波新書) 布施柑治著『布施辰治外伝―幸徳事件より松川事件まで』(1974・未来社) 自由法曹団編『自由法曹団物語 戦前篇』(1976・日本評論社)その布施の朝鮮観(韓国)と実践行動の一端をみることにしたい。1923(大正12)年4月号の「赤旗」(雑誌)の「無産階級から見た朝鮮解放問題」
2006.12.14
コメント(4)
あなたは何を信じますか?宗教や信仰の話ではありません。大メディアや、より多くの人たちが言うことが真実?そうとは限らないことは、もう何度も経験してきました。法の下で裁かれた結果の判決?いくつもの冤罪や判決が覆ることを私たちは見てきています。真実か嘘かを判断することは、容易ではありません。「客観的な事実」? そんなもの「民族固有の領土」という言い回しと同じか、それ以上に意味がありません。(「領土」は紛争当事国同士の協議や約束ごとで決まるものです)「真実」は争い合う者同士の妥協によって成り立ちます。個人にとっては、「真実か虚偽か」より「信じられるか否か」の方がより現実的で実益もあります。すべてを信じ、すべてを疑う(ある程度信じ、ある程度疑う)。判断力や創造力を失う最も危険な環境は、一方の主張しか聞けない状況にとどまっていること。そして、その偏りに気づきさえしなくなってしまっていること。権力者は信じられないほど用意周到に、巧みな笑顔で「味方」を募り、「敵」に攻め込ませます。「真相」は争い合う両方にそれぞれ存在します。権力者が最も恐れるのは、一人ひとりが判断力を持ち、おいそれと群れたりしなくなること。「敵」と争わさせることが簡単にはできなくなってしまうからです。【おまけ】大時代的な表現や、相容れない「敵」「味方」を前提にした言い回しは、どこかの黄昏政党のアジテーションばりでいただけません(結果的に自分たちを利さない)が、それは稚拙な表現力の問題だと大目に見つつ、一般紙の記事を読むときと同様に(書き手の意思を強烈に意識しながら)信じうるべき情報とそうでない部分を読み分け、咀嚼してゆくための格好のテキストです。mixiから転載 >>先月27日、警察当局から不当な強制捜索を受けいわゆるマスコミから「北へ大量輸出を図った女」として扱われ深刻な人権侵害にさらされている本人・在日朝鮮人女性(74)がインターネットテレビGyaoに出演し、その真相について詳しく語っています。以下、URLです。 http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0026498/ >>「真実を語るから取材に来てといっても、テレビ局は、一切来ない!」、「まるで自分をスパイのように報道している。」、「脅迫が相次ぎ、まさに殺人的だ」と悲痛に語る女性の姿を見て、日本当局とマスコミに対する憤りを感じざる得ません。 >>たくさんの方々にこの映像を見ていただいて、真実を知っていただいて、これを広め、普通の社会に一歩でも近づいてくれればとご紹介します。 警視庁公安部の朝鮮総聯東京都本部などと在日朝鮮人女性に対する強制捜査の不当性について 去る11月27日、警視庁公安部による朝鮮総聯東京都本部などと在日朝鮮人女性(74・東京都世田谷区在住)に対する大々的な強制捜査が強行されました。 公安当局が行った強制捜査の発端は、この同胞女性が朝鮮民主主義人民共和国訪問の際に自らの病気治療と健康管理のため必要不可欠な医薬品(強力モリアミンS 点滴薬・栄養剤)を近所の医師から購入したことをとらえ、これを「薬事法」第24 条第1 項「医薬品無許可授与」と同法第84条第5号、同「教唆」容疑に当たるとしたことからです。1.病弱の同胞女性の栄養剤持参が違法行為になるのか? 公安当局が「薬事法違反容疑」で捜査しているこの同胞女性は、今年の5月19日から30日まで、新潟から出航する「マンギョンボン-92」号に乗って共和国を訪問しました。 彼女は数年前、甲状腺ガンと婦人病による大きな手術を数回受けており、過去にも祖国を訪問する際にはこの栄養剤を携行し、税関検査でこれまで一度も問題になったことはありませんでした。 彼女が今回、栄養剤60パック(1パック200ml)を持参しようとしたのは、以前に祖国訪問した際に体調を崩して入院し、2ヶ月以上滞在せざるをえなくなった経験からであります。 高齢の彼女は、医師から薬を購入したことが罪になるとは思いもよらなかったといい、自分の体調を心配して人道的見地から医師も栄養剤を提供してくれたと話しています。 彼女は今回の祖国訪問に関わる手続きを、居住する朝鮮総聯渋谷・世田谷支部を窓口にして総聯東京都本部で行ない、さらに、荷物検査などの出国手続きのためこれまでどおり数日前に荷物を祖国訪問新潟出張所に送りました。 新潟税関当局の検査の際、税関職員は祖国訪問新潟出張所職員に対し、彼女の荷物の中に栄養剤が入っているので、荷物の持ち主が税関に出向くようにと指示しました。 出港前日、税関当局を訪れた彼女に対し税関職員は、医師の処方せんがないので栄養剤を持っていくことを許可することはできないという説明があり、「祖国訪問中に自分が使うもので、医師から買ったものだから当然何の問題もないと認識している」と主張したものの、結局この薬を持参することを断念して指示どおり新潟税関当局に託しました。 しかしながら出港当日、新潟税関職員は、栄養剤60 パック中、自らが使うようにと5パックだけは携行しても構わないと彼女に戻し、残りの55パックは税関職員から託された新潟出張所職員が彼女の自宅に送り届けました。結果的に新潟税関当局も、人道上の配慮をして彼女が栄養剤を持っていくことを許可したのです。 彼女の栄養剤購入と祖国訪問の経緯をみると、そこには公安当局がいうような彼女が医師を「教唆」したという事実は一切存在しません。 「教唆」とは、他人をそそのかして犯罪を実行する決意を生じさせることを意味しますが、もっぱら故意による場合を想定しています。 彼女が医師をそそのかそうとするような人物であるわけがなく、本人も「とんでもない」と明確に否定しています。2.常軌を逸した公安当局の強制捜索 【略】3.今回の強制捜索の不当性 【略】4.不当な政治弾圧と人権侵害を中止せよ 【略】2006年12月7日在日本朝鮮人人権協会転載元: ■とってもあいごー●
2006.12.13
コメント(0)
在日のジョーン・バエズ 李 政美=イ ジョンミの世界 http://leejeongmi.com/ 5年ぶりに「在日のジョーン・バエズ」、李政美のコンサートに行ってきました。以前より、バージョンアップした歌と研ぎ澄まされた音楽は”満足”そのものでした。HPに彼女のCDの歌があります。その中で私が好きな”花”の韓国語バージョンがあります。朝鮮語版(CDは朝鮮語と表記)オリジナルは、喜納昌吉の「すべての人の心に花を」カンムルン・フロフロ・オデオディ・カヌニャサラムン・フロフロ・オデオディ・カヌニャウロボセヨ、ウソボセヨオンジェンガ・オンジェンガ・コチュル・ピウォヨ(オリジナル)川は流れてどこどこ行くの人は流れてどこどこ行くの泣きなさい笑いなさいいつの日かいつの日か 花を咲かそうよ 全国でミニコンサートを開いています。HPを覗いてみて、もし時間がありましたら是非一度、足を運んでみてください。2007年2月24日(土)ナヌムの家支援 ―新井英一&李政美ジョイントコンサート【東京都千代田区】 日 時 2007年2月24日(土) 17:00開場、18:00開演 場 所 日本教育会館一ツ橋ホール(東京都千代田区一ツ橋2-6-2) 主 催 コンサート実行委員会 共 催 日本教育会館 チケット 前売り3500円、当日4000円購入方法:郵便振替先に枚数分のチケット代金をお振り込みください。お振り込み確認後、チケットを発送いたします。郵便振替先:東京00130-0-649705加入者名:志沢小夜子 予約・問い合わせ オフィスとんがらし(TEL:09-5670-4585/FAX::03-3694-7390/e-mail:nanum-support@leejeongmi.com) 12月15日(金) チョンミさんとパーッとやろうパーティ・2006 【東京都豊島区】 日 時 12月15日(金) 19時開宴(18:30開場) 場 所 琉球センター・どぅたっち(豊島区駒込2-14-7/TEL:03-5974-1333) サポート 矢野敏広(ギター&マンドリン) 参加費 3500円(飲み物・料理付 3500円 要予約 35名位予約・問い合わせ どぅたっち(TEL:03-5974-1333、e-mail:dotouch2009@ybb.ne.jp) 2007年1月27日(土) 李政美トーク&コンサート 【大阪市東住吉区】 日 時 2007年1月27日(土) 14時~ 場 所 矢田人権文化センター(大阪市東住吉区矢田5-8-14) サポート 矢野敏広(ギター&マンドリン) 参加費 無料 申込み・問い合わせ 大阪市立矢田人権文化センター「李政美トーク&コンサート」係(1/13必着)(TEL:06-6697-3311,FAX06 -6697-2720)) 2007年1月28日(日) 李政美コンサート 【大阪市旭区】 日 時 2007年1月28日(日) 16:30開場、17:00開演 場 所 子どもセンターあさひ(大阪市旭区高殿6丁目17番10号)アクセス:アクセス:地下鉄「関目高殿」駅下車 4号出口から北へ徒歩5分、京阪電車「関目」駅下車 徒歩10分・市バス「高殿7丁目」下車 すぐ サポート 矢野敏広(ギター&マンドリン) 料 金 一般:3,000円 学生2,000円 予約・問い合わせ 子どもセンターあさひ(TEL:06-6951-0055/FAX:06-6951-0056/e-mail:asahi@kodomo-center.org
2006.12.10
コメント(0)
日本人の考えてる外人さん達って・・・ 最近は忙しくて全然勉強をしてないんですが、、、学生の頃はエスペラントのサークルにはいってまして、色んな国の人と交流してました。色んな国の人と出会えるけど、皆が皆エス語を話せるわけでもないから、結局英語になることも多々ありましたが、知らない国の人達と話せるだけでも、それはそれで貴重な出会い。面白いもんです。早稲田に日本エスペラント学会のビルがありましてね。タマにのぞくと・・・昔フラッと遊びに行ったら、佐渡かどこかの漁師さんみたいな容貌のおぢさんが居ました。ドカジャンに真っ黒な日焼けに深い皺。ごま塩になりつつあるけど50代ぐらいかなって感じ。どうみても漁師さんって感じでしょ。これで港で網の修理でもしてたら、マンマだよ。めずっらしい人が居るねぇと思ったら・・・控えめなんだけど、むちゃくちゃ流暢な英語で挨拶してきました。 え~っ!!!よくよくお話を聞くとカンボジア人の方で、大学の先生をされてるとか・・・昔は英語の教授だったけど、最近の流行でベトナム語を教えていらっしゃるって話でした。で、記憶が曖昧なんですが、途中からエス語が中心で会話になったかと思います。Tio okazis antau multaj jaroj, do mi ne bone memoras. 昔の話なんで良く覚えておらず・・・あまり時間も無かったし、重たい話をする雰囲気でも無かったので、食事や普段の生活とかの軽めの話に終始しました。ホロコースト体験者で、今は生活のためやむを得ずベトナム語の先生って事実をサラッと話す態度はびっくしでした。。。「何が佐渡の漁師だよ」って、自分を反省しました。や、佐渡の漁師さんも大変なお仕事だけど、思いこみってのはヤバイなと思ったという程度。。。三国人と嫌っておきながら、何故か日本って中国や韓国には門戸は開いてますよね。で、何故かそれ以外のアジア諸国には門戸が堅いというか。。。たぶん中国・韓国が飛び抜けてアジア圏では大国だし、日本国内に団体が多々あるせいだとは思いますが・・・今日のTB先はタイ留学生の方の記事ですが、最近はタイ留学生も少ないんじゃないかなぁ。日本に留学しても日本で就職できないし、多少無理してでも英語圏で留学の方がつぶしが効くしね。日本国内は「自分探し」の願望でパチンパチンに膨らんでる人達で満杯なせいもあって、外から日本に勉強に来たい人達の気持ちなんて、あまり想像の範疇にはいってませんよね。ワーホリでわざわざオージー英語を勉強してどうするんだろと思いますが・・・(問題発言ですな、すんません・・・)アジア系の人達を見ると、違法入国の違法滞在者で、マナー知らずって決めつける土壌が出来上がってるし・・・でも、最近はえーころ加減な英語の先生で寄生虫状態の白人の方が多いような気がします。ノ●とかに通ってる皆さん、先生がオドオドしたら分厚いWebsterの辞書とか取り出すと面白いよ。中国・韓国には妙に頭が挙がらないし、さりとて他の東南アジア諸国は眼中にはいってないし。だからと言って欧米と対等に渡り合ってるわけでもなし・・・ まぁ、それが日本人の性格か。。。『武士は喰わねど、、』なんて変な意地はあっても、現実的に処理する能力はまだ足りない気がします。大東亜秩序構築みたいな妄想は勘弁して欲しいんですが、もっと他国との上手な連携を考えてみてもいいのかなぁと。Kangさんのブログはクロックを検索してて偶然に見つけたというのが正直な所。あまりに日本人ライクな感じなんで、『ネ泰人』疑惑も持った程です。でも、TBの記事を読んで考えさせられました。感想は分かれるところと思いますが、タイトルの <無知は罪> は普遍の事実。http://blogs.yahoo.co.jp/sawasdeeka1012/18015331.htmlぜひ、ご一読を。で、参考程度に下記のリンクもご覧ください。三国人http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E4%BA%BA日本エスペラント学会http://www.jei.or.jp/ヒトラーとポルポトhttp://blog.goo.ne.jp/a1214/e/099d0d1fe4625068c49b482bbbe5476a02nov06 転載元: シルクロードから嫁が来た!!
2006.12.09
コメント(0)
1945年終戦を向えた時、強制連行で日本につれてこられた人や自ら日本に渡ってきた人、かなりの朝鮮人が日本には住んでいた。韓半島が日本から解放され喜びもつかの間、またもや共産主義と民主主義という思想により半分に切断された。一つの国が分断されることにより韓民族は北朝鮮と韓国どちらかの国籍の選択をせざるえなくなった。多くの人は自分の故郷によって決めたり、なかには思想によって選んだり、そして地上樂園と言われた北朝鮮を選んだ人も多かったそうだ。冷戦時代に徹底した反共教育を行ってた韓国側としては北朝鮮の国籍を選んだ人がいる事は隠したかったのかもしれない。でも彼らが日本に連れられ植民地時代をどう生きたかだけではなく、その後どのような運命をたどったのか知るべきだったと思う。国とか民族とはいったい何なのだろう?私は今まで自分が受けた教育と現実の状況を知って混亂した。この事に関して強く考えるようになったのはある女の人とであってからだ。私が彼女にあったとき彼女は北朝鮮から韓国へ国籍を変えたばかりだった。彼女は小学から高校まで朝鮮学校を通った在日3世だった。彼女は自分の通った朝鮮学校を話してくれた。授業に思想教育の時間があって資本主義の批判や将軍様を讃える演説をしながら、なかには涙を流す学生もいたという。ホームルームの時間に「今日○○さんは日本語を使いました」とつけ愚痴をする時間もあったそうだ。私は「ありえない」と爆笑しながらも彼女の話に半信半疑だった。でも彼女の話してた内容はのちに「GO」という映画によりそっくり証明された。 はじめは彼女の話をただの興味とお笑いで聞いていたが話を聞くにつれ私はある疑問を思った。韓国は民主主義国家で言論の自由が保障されてる。メディアや言論媒体を通じていろいろな情報が入ってきて鎖国の北朝鮮とは違うと信じてた。でも一歩離れてみたら私が今まで何の疑いもなく受けてた半共教育も今も連日のようにニュースで流れる北朝鮮の鎖国と何の違があるのだろう?そう考えはじめたら韓国だけでなく、テレビから流れるニュースも、世界中で行われてる戦争の大義名分やいろいろな事が全部嘘っぱちに思えてきた。この頃から「今もしかして洗脳されてるんじゃないの?」と自分に問いかける癖ができた。もう一つ驚いたのは北朝鮮から韓国に国籍を変えられる事だった。北朝鮮籍で朝鮮学校を通って共産主義教育をうけた彼女が韓国人となり、韓国のパスポートを作ってグアムに行くとはしゃいでいた。私にはとても理解しがたかったが、改めて北朝鮮と韓国と一つの民族だと思った。 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.25
コメント(0)
リアルパッチギ(青春時代編)第二章5-2 ほほ~~~い!一週間のご無沙汰でした。映画「パッチギ!2」の撮影も順調に進んでいるようです、いやいや主演の中村ゆりちゃん、かわいいですね!(うちの娘の方がかわいいかな?またまた親ばかでした~~~!)前回の「パッチギ!」は1968年の京都でしたが、今回の「パッチギ!2」はその6年後の1974年アンソンとキョンジャが東京に引っ越してきて生活を始めると言うところから始まるそうです。そう、1974年といえば、私が青春のど真ん中にいた時代です!!!!そうそう、前回のリアルパツチギ(青春時代編)は、キョンジャ!じゃない、ミョンジャ(仮名にします)との初めて出会ったところで終わりましたね。やっぱつづきを書かないといけないかな???(もったいぶってないで、早く書け~~~~)はいはい、というわけで記憶を30年前に引き戻すことに致します!(あかん、最近ボケが少し入ってきて記憶が????)ミョンジャとの強烈な出会いから、一日後、朝お店で掃除をしていると「チリン、チリン」と入り口の鈴がなり、いきなりミョンジャが「おはようございます~~」と入ってきて、そそくさと着替え、手伝いだしました。お、どうしたのかと兄さんに聞くと「ミョンジャは高校卒業して、就職するまでの間、店を手伝いにきたんや~」とのこと、おお~~これから毎日会えるんだ~~と心の中で叫びました!!それからの日々は、楽しくもあり、辛くもありの毎日でした。なぜ辛いかと言うと、私は、中華料理屋でバイトをしながら定時制高校に通っている身分ですし、実家も貧乏ですし(今思うと、実家の貧乏なんか関係ないと思いますが、当時はそれもコンプレックスと感じていました)何もない自分から見ると、はるか上の高嶺の花ですんで、「ほれたらアカン、ほれたらアカン」と自分に言い聞かせていました。それに毎日のように、どこで聞きつけたか、チョチョンの仲間や野球部の仲間が、それはもう羊に群がる狼のように、ミョンジャを口説こうと押し寄せてきてました。そんな光景を横目で見ながら、どうせ俺みたいな奴なんか、ミョンジャが相手してくれる分けはないと思い、密かに恋心を秘めたまま、決して悟られることの無いように、無関心を装い心を閉ざしつづける毎日でした。(なんせ皆さんご存知の通り、この頃は恥ずかしがり屋でとってもシャイな私でしたもんで!!今の私からは想像も出来ないでしょう、がはははははは~~~)そしていよいよ、ミョンジャが、大阪に帰る日がやってきました。ミョンジャを迎えにきたのかどうか分かりませんが、大阪のオモニの妹のおばさんもやってきてミョンジャと一緒に大阪に帰るというので、お店のヒョンニンが「荷物が一杯やから、東京駅までおくってや~」と、一言「イェー」とばかりに、いそいそと荷物を持ち、ああこれでお別れなんだと心の中で呟きながら終止無言のまま、東京駅の新幹線乗り場まで送くっていきました。大阪行きの新幹線が到着し、席をさがし荷物を棚に置き、さあいよいよお別れの時が来たと思い「それじゃあ、元気でね」と、心を閉ざしたまま挨拶をかわし帰ろうかと思ったその時!それこそ神様のいたずらか!運命なのか!とんでも無いことが起こりました。 みなさんなんだと思います。 で つづく。て言ったらみんな怒るだろうな~~~いやいや本当にびっくり、窓の外を見ると、な、なんと動き出しているではありませんか!!!!え、え、どうしたの???そうです!降り遅れてしまったんです。ほんとかよ~~ぜんぜん発車のベルなんか聞こえなかったぞ!どうなっちゃたんだ~~「あははは~~」振り向くと、大阪のおばさんと、ミョンジャが笑っていました。「ま、しゃ~あないわ、次の駅で降りてもどったらええやんか!」とおばさん。「そうですね、次は確か新横浜か?え、え、まてよ、これって確かひかりだよな~~て、次は名古屋ですよ」と私、それからの名古屋に着くまでの2時間、おばさんそして、ミョンジャと色々な話をしながら過ごしました。いままで秘めていた、私の心の中を悟られないようにしながら楽しくもあり、辛い時間でした。そしていよいよ、名古屋駅に近づき、「もうまもなく、名古屋駅に到着いたします」とアナウンスおばさんに別れを告げ、ミョンジャと共に出口のデッキに立ち,お互い何も話さずじっと目を見つめあいました。もうこれでミョンジャともついにお別れか!と思った瞬間私は、何も考えず口では言えない苦しみを吐き出すかのようにミョンジャを抱きしめました。するとミョンジャもぎゅっと力を込めて抱き返してくるではありませんか。そうお互いの気持ちを確かめるかのように!・・・・そして駅に着き 「プシュー」と扉が開き、「名古屋~、名古屋~」私は後ろも振り向かず分かれの言葉を交わすことも無く、飛び出すようにホームに出ました。それから、東京に戻るまで、ミョンジャへの引き裂けるような恋心を胸に秘めじっと耐える自分がいました。 つづく!と、まあここまで書きましたが、これからが本当の始まりです。南北に引き裂かれた恋人同士がリムジン河を、はさみ大恋愛を繰り広げるんですねえ。(こらこらそんな、大袈裟なんか!!)映画をも凌ぐ、リアルパッチギ、期待してください。これからは、R15指定にせなあかんかな~~?なんせ最年少のブログチングは幼稚園児やからな~~ま、いいか、一部表現を訂正しながらソフトタッチでいきます。よろしく!!!!がははっはは~~ 転載元: ■「パッチギ!」■(人生を突き破れ、リアルパッチギ,)
2006.11.20
コメント(0)
教育基本法改正:参院で審議入り 「在日の子はさらに委縮」 友人の金 光敏氏のコメントを新聞で見つけたので紹介します。毎日新聞/大阪ニュース - 11月18日(土) 朝刊 教育基本法改正:参院で審議入り 「在日の子はさらに委縮」3世の金光敏さん ◇愛国心教育強まれば「在日の子はさらに委縮」--学校飛び回り支援する金光敏さん指摘 教育基本法改正案が17日、参院で審議入りした。教育の機会均等を定めた現行法の下でも、十分な教育を受けられなかった在日コリアンらは複雑な思いを抱いている。 大阪市生野区の在日3世、金光敏(キムクァンミン)さん(35)の亡くなった母呉勝子(オスンジャ)さんは戦後、鉄くずを拾って家計を助ける傍ら、小学校に通ったが、教室で「外人」といじめられ、自然に足が遠のいた。 それでも、国語辞典を引きながら懸命に新聞を読み、子どもたちの学校の書類はたどたどしい字を書いて提出した。「私は、学校に通えんかったから頭が悪い。あんたは高校に行っておくれ」。そう嘆く母がふびんで、恥ずかしかった。狭い長屋の一室で靴作りの内職を続け、金さんが高校生の時、がんのため42歳で亡くなった。 教育基本法制定から59年。在日の人々にとっては、その理念が十分に生かされてきたとは言いがたい。日本在住の外国人が約200万人に達し、学校現場の多国籍化は進む一方だが、在日の子どもたちの多くは本名を隠しながら生きているという。 在日コリアンの教育支援の専門家として、府内の学校を飛び回る金さんは「愛国心教育が強まれば、在日の子はさらに委縮する。改正案を進める人々は、日本の学校には、日本人の子どもしかいないと思い込んでいる」と指摘する。【大場弘行】関連記事 KOREA NPOセンター事務局長 金 光敏氏【日韓】「戦争を知らない世代が、経済発展した韓国に違和感を覚え、差別意識を再生産した。」オーマイニュース・鳥越編集長[2006/08/01] ◇嫌韓流に苦悩の船出 「朝鮮メディアが反日活動を国内でやろうとしている」「日本に『朝鮮のアカニュース』は要りません」 7月になり、こんな書き込みが次々と寄せられている。今月28日創刊のインターネット新聞「オーマイニュース」の「開店準備中ブログ」だ。 韓国で00年に創刊した「オーマイニュース」の日本版。「市民記者」として登録すれば誰でも記事が書け、読者も意見を書き込める新媒体だ。 市民記者を増やす目的で6月に開設したブログ。韓国生まれのメディアのためか、記事と無縁の韓国攻撃も目立つ。書き込みは誰でも読める状態のままだ。 編集局内で議論が続く。氏名など事前登録した人だけが意見を書き込める「登録制」導入時期の議論だ。市民記者は約330人。 「根拠のない中傷が飛び交っては、誰も市民記者にならない」と危機感も強い。1日から、書き込める権限を登録済みの市民記者に限り、創刊後は読者である「準市民記者」を含め事前登録した人に限ることとした。 編集長の鳥越俊太郎さん(66)は「戦争を知らない若い世代が、経済発展した韓国に違和感を覚え、過去にあった差別意識を再生産した。 ネットという匿名の場に、ネガティブな感情が噴出している。書き込み可能な読者の登録制は、当初からの予定通り」と語る。 昨夏出版の「マンガ嫌韓流」。「嫌韓流2」と合わせ67万部売れた。日本人大学生が「韓国人自身も日韓併合を望んだ」などと、在日韓国人らを論破する。 戦後補償や外国人参政権、竹島領有などの問題で、韓国側の主張を否定する。 作者の山野車輪氏は、文書で答えた。「自分も参加していた一部のインターネット世論が反映されたもので、嫌韓流に描かれてあることが、彼らが考える歴史認識や問題意識であると思う」。 出版元「晋遊舎」の担当編集者も「ネット上で、マスコミの韓国や北朝鮮報道への不満を書き込んでいる若い層が買ってくれた」と分析する。 ネットが支える「嫌韓」。在日コリアンの人権・教育保障に取り組む「コリアNGOセンター」の金光敏(キムグァンミン)事務局長(34)が7月、大阪府内の公立校教師対象の研修で、在日コリアンの生徒が差別を受けた状況を説明した際、若い男性教師が言った。「韓国も反日運動をしてるじゃないか」。 金さんは「実際にあった差別の話をしているのに、すぐに国の論理に飛躍させる。『嫌韓流』などの影響では」と感じる。最近、同様の発言をぶつけられる機会が多い。
2006.11.19
コメント(0)
異民族への視線ーマルセ太郎異聞ー 【マルセ太郎さんの自伝、『芸人魂』(講談社)。決して上手な文章とは言えないですが、面白くやがて哀しい男の人生を魅力的に描いています。すでに絶版だと思いますが、古本屋などで見かけたら是非買って読んでみて下さい。少なくとも田代まさしの自伝よりかは面白いことは保証します(笑)】最近の靖国神社論争や日韓の北朝鮮への温度差の影響なんでしょうか?ブログやインターネット掲示板を見ると、随分在日コリアン含めた韓国関係の文化や人々を非難する内容が多いです。僕は、別に韓国が特別に好きなわけでもありません。また、韓国政府や韓国人、在日韓国人の対応は、日本人には理解しにくい部分もあります。正直なところ、アンタら、そりゃ違うやろ!と思うこともしばしばです。しかし、インターネットの話題の中には、ヒステリックに民族そのものを全否定しているものも多く、疑問を感じます。そして、そんな文面を見ながら、孤高の芸人 マルセ太郎さんのことを思い出していたのでした。大学時代、先輩と居酒屋で好きな芸人について話をしたときでした。ひょんなことから、形態模写が上手い芸人は誰か?と言う話題になり、様々な芸人が出てきた後、先輩の口からひょっこり出てきたのが、マルセさんでした。『ああ、そんなんいましたね。』冷酒に舌鼓をうちながら、興味なく相槌をうった記憶があります。僕もマルセさんの名前は知っていました。しかし、あくまで名前程度で興味も関心もありませんでした。正月の特番か何かで徳光アナウンサーの後ろで延々得意のゴリラの形態模写をしていた奇妙な芸人って印象ぐらい。結局、この時は、マルセさんのことはそれ以上話題にならず、あっという間に他の話題に移りました。そして、社会人。僕は、東京の本社に配属になりました。付き合っていた彼女も遠距離になり、デート三昧の休日は、一人盛り場をうろつく日々と変わりました。そんな退屈な週末のある雨の日、見たかった映画が満員で入れず、仕方なく入った場末の小劇場。そこで、偶然マルセさんに再会したのでした。演題は、マルセさんが1本の映画を丸々演じ、語る『スクリーンのない映画館』と言う奇妙な一人芝居でした。薄暗く、小汚い劇場は、驚くほど閑散としていました。僕を含め、お客さんは、10名もいなかったと思います。そこいらの学生演劇の方が余程集まるでしょう。あまりの少なさに何かのドッキリ企画ではないかとさえ思ったほどです。実際、マルセさんはこの頃、どん底状態。ほとんど世間から忘れられた存在でした。熱心なファンが何とか支えている状態だったと後で聞きました。客の少なさ(しかも半数以上は、明らかにマルセ信者)と言う状態に居心地が悪く、出て行こうかとも思いました。しかし、結局最後まで出て行きませんでした。何故なら、彼は題材とした映画『泥の河』をオリジナル以上に繊細に切なく演じていたからです。映画は終戦後間もない大阪で出会った少年と少女の交流を淡々と描いた作品でした。マルセさんの表情や仕草は、映画を思い出させるだけでなく、静かな気迫を伴って伝わりました。それは、僕の記憶にある“単なるゴリラの物真似をする妙な芸人”とは大きく違うものでした。誠に不恰好、しかし、真摯な熱演ぶりは、まさに彼が信奉し、名前を拝借したフランスのパントマイム演者 マルセル・マルソーを彷彿とさせるものでした。当時、マルセさんは、東京の某所に小さな店を開いていました。お店と言っても『人力車』と言うただの小さなスナックでした。このお店、芸人だけではとても食べていけないマルセさんが奥さんと一緒に営んでいたのでした。僕は、この店に時々マルセさんがいると聞き、何回か行ったことがあります。(ちなみにこのお店、無名時代の映画監督の崔洋一さんや作家のヤン・ソギル(梁石日)さんも来ていたそうです。ヤン氏の小説、特にデビュー作の『タクシー狂騒曲』は大好きな作品だけに、一度店で会って話してみたかったです。)確かに運がいいと、店の奥にマルセさんがいて、いろいろな話をしてくれました。人様に忘れられた単なる貧乏芸人。当然テレビにも出ないし、風貌もサエない労務者風。人気のタレントみたいな洗練された部分など微塵もなく、苦労ばかりが顔に出た単なるくたびれオヤジ。しかし、僕にとっては、憧れのスターです。大阪の下町 生野区出身のマルセさんは、大阪での子供時代の話や芸の苦労話を面白おかしく聞かせてくれました。僕は、憧れのスターが語りかけてくれる話を夢中になって聞きました。ある日、ひょんなことから彼が在日コリアンであることを知りました。しかし、在日コリアンであろうと、ブラジルであろうと、アフリカであろうと、日本であろうと、関係ありませんでした。何故なら、僕にとってそんなことは、さして重要ではなかったからです。そんなことより、彼の演技や芸こそ重要であり、大切だったからです。好きな芸人の芸を見れて、その人の店で心行くまで深酒ができる。それだけで、十分嬉しかったのです。その後、演芸に造詣が深い永六輔さんなどに再評価がされたものの、2001年、マルセさんは、大してブレークすることなく、亡くなりました。ここ数年、芸人ブームで様々な人がテレビや舞台で活躍しています。しかし、僕は、まだマルセさんほどの静かな迫力を持つ芸人には出会えていません。売れる売れないで判断すれば、芸人として落第だったマルセさん。しかし、そんな彼が僕にとって何故偉大だったのか?それは、単に芸の魅力だけではないでしょう。“国籍や出生、民族で判断するな、その人のありのままを見て判断しなさい。”そんな事を芸を通して僕に教えてくれたからだと思います。文化や民族が違えば確かに食い違いもあるでしょう。しかし、そんな違いを超え、人物を見据えて付き合っていくことはできないのでしょうか?『こいつは〇〇だから』と言うレッテルを貼らずに対人間として接することはできないのでしょうか?僕は必ずできると思います。彼の芸からそんなことを学んだ僕は、外国人と結婚しました。それもイデオロギーも文化も全く違う旧ソビエトの国、辺境の地、中央アジア出身の人でした。披露宴も新婚旅行もない出発でしたが、仲人は、天国のマルセさんだったと勝手に信じています。 転載元: シルクロードから嫁が来た!!
2006.11.18
コメント(0)
《「平和憲法を死守するのが在日の使命」》と遺言1/23に記事をアップしましが、http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/24338076.html 私が、在日なのに何故、「九条」に拘るか?平和は私の名前から由来してます。そして、昨年末亡くなられた、私の尊敬する師であり先輩だった金敬得氏の、この思いがあるからです。在日第一号弁護士、故金 敬得氏が残した遺言は、今、日本に暮らす全ての市民に命をかけて語りたかった先輩のメッセージだったと思います。在日韓国人の故・金敬得弁護士1/23に記事をアップしましが、http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/24338076.html 私が、在日なのに何故、「九条」に拘るか?平和は私の名前から由来してます。そして、昨年末亡くなられた、私の尊敬する師であり先輩だった金敬得氏の、この思いがあるからです。在日第一号弁護士、故金 敬得氏が残した遺言は、今、日本に暮らす全ての市民に命をかけて語りたかった先輩のメッセージだったと思います。在日韓国人の故・金敬得弁護士、《「平和憲法を死守するのが在日の使命」》と遺言■故・金敬得弁護士:「海外同胞は平和憲法死守が使命」以下は20061/25 日付の朝日新聞の抜粋です。在日韓国人で初の弁護士で、海外同胞の人権運動に身を投じた故・金敬得(キム・ギョンドゥク) 弁護士(56)が、在日韓国人には日本の平和憲法を守る使命があるという遺言を残した。 「日本国憲法の平和主義は、植民地支配・侵略に対する反省の結果としてできた。在日韓国人の存在は植民地支配によるものだ。ナショナリズムを克服するためには平和が何より重要 だ。在日韓国人こそ、平和憲法の体現者だ。」 胃癌で闘病生活を送ってきた故人は昨年10月、病床で事務室の職員にこのような内容を口頭 で残した。分量はA4用紙で8枚。 在日海外同胞である故人は遺言で、1976年に司法試験をパスしたが当時日本人にだけ入学 を承諾していた司法修習所が帰化を慫慂したことなど自分が経験した差別を紹介したうえで、 最近の日本社会の改憲の動きを批判的に指摘した。 金氏は、「韓国と日本、北朝鮮と日本の架け橋である在日は、平和憲法を東アジアに広げて ゆく使命を持っている」と書き残した。 関連記事萬物相】金敬得 2006/1/3朝鮮日報▲金嬉老「清水署の小泉よ、忘れたわけではあるまいな。“この朝鮮人ヤローども。何をやってもだめな奴らだ”と侮辱したあの日のことを。その代価を払う時がやって来た。私の命と引き換えに答えてやろう」 金嬉老(本名:権嬉老)の手帳には、貧困と差別の中、心の奥底に刻まれた憎しみが一杯にしたためられていた。彼はヤクザ2人を殺害し、人質をとった後、31年の受刑生活を送った。 ▲力道山。本名金信洛(キム・シンラク)。シルム(韓国式相撲)で頭角を現わした彼は14歳になった1938年、日本人刑事が日本の力士に育て上げようと、日本に連れて行った。 日本人の息子として入籍し、帰化した後、プロレスラーになった力道山は1963年、ヤクザに刺されるまで生まれ持った体格とカリスマで英雄になった。力道山の興行性を高めるため、日本の興行社は彼の履歴から朝鮮という文字を完全に抹消した。 ▲先月28日に他界した金敬得(キム・ギョンドゥク)弁護士は巨大な差別を前に金嬉老式でも力道山式でもない、日本の中で韓国人として生きる道を先頭に立って開拓した人物だ。56年生まれの彼は人生の半分を徹底した日本人、半分を誰よりも熱烈的な韓国人として過ごした。 彼は日本で生まれ育ち、司法試験に合格したが、帰化しなければ司法研修院の教育は受けられず、よって弁護士の資格も得られないとの通達を受けた。彼は「これ以上、差別から目をそむけず、むしろ堂々と韓国人として生きよう」と考えを改めた。 ▲彼は1976年、朝日新聞の投稿欄で宣言した。「私はこれまで私の中の“韓国的なもの”を拒否して生きてきた。韓国語を学ぶこと自体も拒否し、道で母に会っても知らない振りをした。これからはこんな生き方はしない」 アルバイトで母校早稲田大の庭掃きをしながら、司法当局と孤独な闘いを続け、ついには差別の壁に穴を空けた。3年後、金敬得は日本初の外国人弁護士となったのだ。 ▲「日本の政策は、差別というフライパンに豆でも炒るかのように在日韓国人を入れ、負けて飛び出す人を1人ずつ同化させる政策に過ぎない」。彼の批判は強烈だった。 従軍慰安婦の訴訟にはじまり公務員の国籍差別訴訟まで、韓国人の痛みが込められた裁判には常に彼がいた。胆道がんという重病をわずらったが、闘病生活さえ惜しんで走り回った。 彼が生前、悔しく思っていたのは、毎年1万人ずつ増えていく海外同胞3世の帰化問題。その中でも血筋を隠すための「逃避性の帰化」だった。 彼は、世界に類を見ない閉鎖的な日本の国籍政策と慣行が帰化を急がせているとみた。この強要される帰化の隊列が長蛇化すればする程、短くしてこの世を去った彼が惜しまれてならない。 キム・ヒョンギ論説委員 hgkim@chosun.com
2006.11.06
コメント(0)
新井 英一webサイドより、 あらい えいいち。1950年3月福岡生まれ。15歳で家を出て岩国の米軍キャンプなどで働き、ブルースに魅せられる。21歳で渡米し、放浪生活の中で歌手を志し独学で歌作りを始める。日本で生まれ育ち、朝鮮半島の血を引く自らを「コリアンジャパニー ズ」と呼ぶ。 帰国後、内田裕也氏に見い出され、アルバム『馬耳東風』(1979年)でデビュー。 1986年、様々な葛藤と不安を抱き、亡くなった父親の故郷である韓国・清河(チョンハー)を初めて訪れる。数年後、その旅の思い出と共に自らのルーツと半生をストレートに歌い上げた『清河への道~48番』を作り、1995年に一枚のアルバムとして発表。TBS-TV「筑紫哲也ニュース23」のエンディングテーマ曲に選ばれ、テレビ、雑誌、新聞等で取り上げられ話題となる。そのアルバムは第37回日本レコード大賞「アルバム大賞」を受賞。韓国KBS-TVでドキュメント特別番組が放映され、日本でもNHK「わが心の旅」、テレビ朝日「報道特別番組21世紀への伝言」等多数の番組に出演。またライブにおいては国内はもとより、N.Y.カーネギーホールなどでのアメリカ公演に加え2000年はパリでもライブを開催、そして2002年には韓国ツアーが実現。念願であった「清河村」でのライブを成功させている。2004年アルバム『生きる』をリリース。今もなお、国内外問わず精力的に妥協することなく唄い続けている。岡山ライブインタビューで●新井さんにとってブルースを唄うということはどういうことなのですか?★音楽的にジャンルにこだわってはいないんですが、あえて言えば若い頃に出会った黒人音楽に感銘を受け、その音楽的背景にあるブルースの魂のようなものが好きなんです。●今、新井さんが音楽を通してアピールしたいこと、訴えていきたいことは何ですか?★一人の人間として情熱を持って何かに向かっていく。年齢も国籍も関係なく一生懸命生きていくことがぼくからのメッセージになればいいですね。 どんな人間でも夢を持つ、幸せになる権利はあるはずです。若い人たちに伝えていきたいことは、諦めないでほしいということ。ぼくは学校というものが嫌いで、楽器も独学なんですが、ギターは25歳、ピアノは35歳から始めたんですから(笑)。●「清河(チョンハー)への道」は48番まであるとても長い楽曲として仕上がっていますが、どういう心境で作り上げていった作品なのですか?★あれはぼくが40歳になって作った曲なんですが、最初は8番まで7分ほどの作品でした。その時は自分でもこの作品を48番まで作るなんて思ってもいませんし…。 あの作品は自叙伝的なものなのですが、ぼくの思いを全部伝えたくて作りあげた結果48番まである長い作品となっていました。45歳になって全部出来上がった曲なんですよ(笑)。清河への道('95年, meldac MECR-25045)'95年日本レコード大賞アルバム大賞受賞作。父の郷里である清河(チョンハー)を訪ね、自らの半生を綴った全48番に及ぶ大作。新井英一という一人の男の不器用でタフな生き様が、リアルに吐き出されている。 オオカミ狩り('98年, OMAGATOKI OMCA-1013)旧ソ連の反体制派歌手ヴィソーツキイの作品をはじめ、ゲンスブール、ジャック・ブレル等の作品を収録。全13曲入り。パリのミュージシャンとのジョイントが話題を呼んだ最新作。
2006.10.28
コメント(0)
ワンコリア フェスティバル ■ マイマイ・フェスティバル2006 同時開催 第22回 ワンコリアフェスティバル2006~差別なく共に生きるための異文化交流~つなげよう!違いが輝く、豊かな明日日程 :10月29日時間 :11時~16時会場 :大阪城公園 太陽の広場 プログラム : ●ステージイベント 韓国タレント キム・ヘソン(チャングムの誓い)、クォン・ヘヒョ(冬のソナ タ)ほか SANTA(在日ミュージシャン)、金昌幸(在日パフォーマー)ほか ●ドラマ「チャングムの誓い」イベント 韓国伝統茶試飲コーナー チャングムファッションショー ●サイン会 キム・ヘソン、クォン・ヘヒョ サイン会 などなど。 和太鼓・タイ舞踊・中国舞踊・手話コーラス・二鼓&スペシャルアンサンブル・フィリピン民族舞踊・ ラテン音楽 呼びかけ :RINK 主催 :マイマイフェスティバル実行委員会 TEL06-6910-7103後援 :世界人権宣言大阪連絡会議/部落解放同盟大阪府連合会/タイ国政府観光庁協力 :(特活)コリアNGOセンター・ワンコリアフェスティバル実行委員会
2006.10.25
コメント(2)
朝鮮人「帰国」事業 問われる日本政府の責任 日本赤十字も「国益」に関与で新資料(朝日新聞・04-9-21より引用)テッサ・モーリス・スズキ(Tessa Morris‐Suzuki) オーストラリア国立大教授(日本史)1951 イギリス生まれ。日本および朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府ともに「過去の清算」を求めているにもかかわらず、日朝国交正常化への険しい道は、「過去」にかかわる基本的に異なる解釈によって遅々として進まない。 日本政府にとり清算すべき過去とは、北朝鮮による日本人拉致事件であり、北朝鮮政府のそれは、より古くより大きな日本による朝鮮半島植民地化の歴史である。しかし両国政府によって無視され続けてきた清算されるべき過去もまた存在する。 1959年から一時の中断をはさみ84年まで続いた「帰国事業」では、9万3千数百人の在日朝鮮人が北朝鮮に「帰国」した(日本人配偶者を含む)。その中には、現在でも北朝鮮で存命している人がいる。しかしかなりの数の帰国者はのちに労働収容所に収監され消息を絶ったか、またある者は国境を越え中国に逃れた(脱北者)。隠された主要な動機 帰国者の圧倒的多数が朝鮮半島南部にルーツを持つ人々だったのは、よく知られている。彼ら彼女らが新生活を求め、日本を去り北朝鮮に帰国する決断をした際、その選択はどのような状況下でおこなわれたのか。 在日本朝鮮人総連合会(総連)は、日本国内で大規模な帰国運動を展開し、在日朝鮮人の一部の人々は確かに、平和で社会主義の「祖国」建設に貢献できると信じ、帰国していった。 しかし、最近秘密指定が解かれた赤十字国際委(ICRC)の資料(以下、ICRC文書)は、この帰国事業にかかわる長く隠蔽された過去に、新しい光を当てた。その光によって浮かび上がってきたのは、日本政府および日本赤十字社(日赤)の果たしていた役割である。総連主導による大量帰国運動は、58年の8月に開始された。しかしその3年近くも前から、日本政府と日赤は、在日朝鮮人の大量「帰還」について国際委に働きかけていたICRC文書によって確認されたのは、そうした働きかけの実態である。 国際委への一連のロビー活動の中心人物は、外務省から出向してきたばかりの井上益太郎・日赤外事部長だった。1956年1月に彼が国際委に送付した書簡には、芦田均元首相と岡崎勝男元外相から、与党が在日朝鮮人の帰国への支援運動を始めるという非公式の示唆が日赤側にあった、と書かれている。 56年の段階で、6万人という在日朝鮮人の大量「帰還」の可能性が日本政府と日赤の間で検討された。この方針における隠された主要な動機は、(井上氏の手紙によれば) 「(在日朝鮮人は)性格が粗暴で生活水準は低く無知蒙昧」で、日本の治安や福祉にとって負の要因になっているとの認識だった。福祉の削減と同時期に たとえば、外務省から同意を得た文書だとして井上氏は国際委に次のように書き送った。「彼らの意思とは無関係に、生活が苦しい在日朝鮮人を北朝鮮か韓国に帰国するよう日本政府が仕向けられない限り、在日朝鮮人の生活問題は解決しない」 また重光葵外相も、日本を訪れた国際委の特使に、「日本で悲惨な生活を送る女性や子供たちが、早く自分の国へ帰るよう希望する」と告げていた。 ほとんどが水面下で進められた右の政策と期を同じくして、56年ごろ、在日朝鮮人への生活保護支給を削減させるキャンペーンが厚生省によっておこなわれた事実を、ここで想起すべきだろう。在日朝鮮人への福祉は打ち切られたか、支給額が大幅に削減された。かくして「日本で悲惨な生活を送る女性や子供」は、より悲惨な状態へ追い込まれたのである。 この厚生省のキャンペ-ンが、大量の在日朝鮮人の帰国計画と連動しておこなわれていた可能性も、ICRC文書から推測できる。こうした在日朝鮮人への福祉削減は彼らが北朝鮮で仕事を見つけようとする動機になるだろう、と井上氏は国際委に書き送っていた。 在日朝鮮人帰国事業にかかわる多くの真実は、まだ闇の中に閉ざされたままだ。しかし今回発見されたICRC文書から、次の2点が明らかとなった。1、本来NGOであるはずの日赤が「国益」を代行した。2、以前から疑われていた以上に、日本政府は帰国事業に深く関与しておりその事実は計画的に日本国民および在日朝鮮人たちから秘匿された。とするなら、帰国者たちがたどった運命について、北朝鮮政府はもとより日本政府も責任を 負う必要がある。少なくとも切迫した問題として、元在日朝鮮人脱北者たちが、「日本に帰国」を望む場合、日本政府にはその人たちを積極的に受け入れる歴史的責任があるのではなかろうか。2004/09/16ASAHI北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに 在日朝鮮人9万人余が北朝鮮に渡った帰還事業(59~84年)に先立ち、日本政府や有力政治家、日本赤十字が55年から赤十字国際委(本部・ジュネーブ)に積極的に働きかけていたことを示す秘密文書が、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授(日本史)の調査で明らかになった。大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。 帰還事業は、帰った人が行方不明になったり「脱北」したりした実態が後にわかり、実施の経緯について議論がある。 文書は、赤十字国際委が秘密扱いを解き今年公開した。帰還事業は一般に、58年の在日関係者の運動や北朝鮮政府の呼びかけなどで機運が高まり、それを受けて59年2月に日本政府が実施を閣議了解したと説明される。公開された文書は56年7月に国際委が帰還実現へのあっせんを提案する以前のもので、この時期に日本の政治・行政が積極的に行動したことを示す資料はほとんど知られていない。 55年12月の国際委への書簡で島津忠承・日赤社長は「帰還が韓国との間に問題を起こさないなら、そしてそれが北朝鮮の赤十字でなく国際委の手で遂行されるなら、日本側は全く異論はなく、むしろ期待を寄せるものである」と述べ、国際委の関与による大量帰還の実現を要望した。追伸には「この書簡は日本の外務省と法務省の有力当局者の完全な了承を得ている」と書いていた。 56年1月の国際委への書簡で日赤の井上益太郎外事部長は、与党に帰還支援を始める兆しがあり、「芦田均元首相や岡崎勝男元外相が(略)在日朝鮮人の帰還を支援する政策を具体化すると、非公式に私たちに伝えてきた」と記し、国際委の協力決断を促していた。 56年春に国際委が日本に送った特使のメモには、重光葵外相が「とりわけ日本で悲惨な生活を送る女性や子供たちが早く自分の国へ帰るよう希望する」と特使に述べたと記されていた。 また、島津社長は57年2月の書簡で、同封の文書が政府の同意を得ている事実は公表しないでほしいと要望していた。背景には、韓国を刺激したくないという政府の意向などがあったと見られる。 モーリス・スズキ教授は「日本政府が早くから大量帰還政策を秘密裏に進め、日赤がその『国益』を代行した構図が見えてきた。北朝鮮政府や朝鮮総連だけでなく日本政府や日赤にも、帰還事業について説明責任がある」と語っている。 (東亜日報)SEPTEMBER 16, 2004 在日同胞の北朝鮮送還、日本政府の「追放事業」だった 朝日新聞報道 在日同胞の北朝鮮送還事業(1959~1984年)が、日本政府と政治家、日本の赤十字社などが共同で進めた事実上の「追放事業」だったことを裏付ける文書が公開された。16日付の朝日新聞が、今年「秘密解除」された国際赤十字連盟の文書を引用して報じた。 朝日新聞が豪州の国立大学調査チームから入手して報じた内容によると、1955年12月当時、日本赤十字社代表は国際赤十字連盟あてに書状を送り、北朝鮮送還事業への支持意向を伝えた。日本赤十字社は書状で、「帰還(北朝鮮送還)が、韓国との間で問題化されず、北朝鮮赤十字社ではなく国際赤十字連盟によって進められるならば、日本側は異義がなく、むしろ期待感を寄せている」とし、支持の立場を示した。 また、同書状の追伸では「この書状は、外務省と法務省の有力当局者から完全な承認を得ている」としており、日本政府も北朝鮮送還事業を「朝鮮人整理」のレベルから支持していたことを示している。1ヵ月後、日本赤十字社・外務部長名義の書状で「芦田均元首相らが、在日朝鮮人の帰還を支援する政策を具体化する方針だ、と非公式的に伝えてきた」と記した内容も、こうした日本政府の態度を見せている。 調査チームは、日本赤十字社が送った最初の書状から7ヵ月後に、国際赤十字連盟が北朝鮮送還事業の仲介役を正式に提案した点を指摘し、「日本政府と政治家、日本赤十字社などが最初から北朝鮮送還事業に積極的にかかわっていた」との見方を示した。 日本赤十字社はまた、57年2月に国際赤十字連盟あてに送った書状で、北朝鮮送還事業が日本政府の同意を得ているとの事実が公開されないことを願う、という意向を伝えたこともある。北朝鮮側が行った宣伝と日本内の追放工作によって北朝鮮入りした、およそ9万人にのぼる在日同胞の相当数は、スパイ容疑で粛清または行方不明になった。MAY 18, 2004 22:30日本、北朝鮮送還事業は追放政策 朝日新聞が18日、日本政府と各民間団体が1959年から、人道主義を名分に積極的に支援していた在日朝鮮人の北朝鮮送還事業は、実は「貧しく犯罪率の高い、頭を悩ませる存在」を追放した側面が強いとの見方を報じた。 明治大・川島高峰教授が調べた外務省資料によると、1959年12月13日付の日本政府資料「閣議承認」は、北朝鮮送還事業を承認した目的について「基本的な人権による居住地選択の自由、という国際社会の通念に基づいたもの」と説明している。 しかし、川島教授が入手した「閣議承認に達するまでの内部事情」と題付けられた極秘文書は「在日朝鮮人は、犯罪率が高く、生活保護対象の家庭が1万9000世帯にものぼり、それに必要とされる経費が年間17億円に達する」とした後「本人が希望する場合(北朝鮮に)帰還させようというのが、一般の世論であり、与党内での圧倒的な意見」とし、北朝鮮送還事業の政治的な側面を強調している。 また、この文書は、北朝鮮送還事業の時期と関連「(国交正常化に向けた)日韓会談が再開された後に実施すれば、反響が大きいだけに、会談が中断されている時期に、最も大きな障害を除去」することを明示し、韓国の反発を意識し、急いで承認したとの事実を裏付けた。当時、北朝鮮側との交渉にあたった日本赤十字社・井上益太郎外事部長は、59年3月24日付の電報で「北朝鮮送還者らが、再び日本に戻れないとのことを認識しているのかどうか、確認する必要がある」と強調している。 これについて、川島教授は「当時、日本政府が北朝鮮帰国者に、日本への再入国はほぼ不可能だとの事実を隠したまま、北朝鮮送還事業を進め、社会的な差別を抜本的に解消しようとせず、差別対象者を減らす方法で、問題を解消しようとしたもの」との見方を示した。
2006.10.24
コメント(0)
【孫正義社長と日韓新時代】 《日本に帰化しているのに「孫社長」?》ソフトバンクの孫正義社長さんといえば、いろいろな意味で日本のIT業界に旋風を巻き起こした先駆者です。在日の方ですので中学までは「安本正義」という日本名を使用しておられましたが、これはあくまでも「通称名」であって、安本姓で帰化していたわけではありません。だから、高校(久留米付属高)を中退されてアメリカに留学した時もパスポートの本名は「孫正義」の名前で、その下にカッコで「通称・安本正義」と書いていたとのことです。アメリカでは、ずっと「孫」の本名で通されました。さて、1980年にアメリカのバークレー校を卒業され、翌1981年に日本で「日本ソフトバンク」を設立しました。そして、いよいよ孫社長が日本国籍を取得しようとしたのだけれども、これが簡単じゃなかったのです。なぜかというと、「孫」という“韓国名”では日本国籍は取得できないといって役所が受け付けないわけです。つまり、「孫」という名前の日本人が存在すれば受け付けるのだけれども、日本人で「孫」という人はいないのでダメということ。。。孫さんは、「アメリカではどんな名前でも国籍を取れるのに、日本はどうして“日本名”でなければいけないのか」という不満があったそうです。その後、日本人である奥さんが裁判所に行って「孫という韓国名に変更してほしい」という申請をしました。これは、ものすごくめずらしい事例なので裁判所は何度も念を押して確認した上で、奥さんの名前を“夫”の名である「孫」に変更しました。ちなみに、日本人で韓国名に変更した例はほとんどないそうです。さて、ここからが面白い。。。再び、孫正義さんが日本国籍を取得するために役所に出向いて行きました。そして、「日本国籍を取りたいけど、孫という韓国名をそのまま名乗りたい」と堂々と主張しました。「孫という名前の日本人が存在しないからダメ」という役所の見解に対しては、「いや、帳簿をみて調べてくれ。一人だけいるはずだ」と。すると一人だけいました。奥さんでした。(笑)《「帰化」とは一体なんでしょう?》このようにして、晴れて孫社長は日本に帰化されたわけですが、いわば孫社長は日本の役所に対して「孫」という韓国姓のまま日本国籍の取得を“認めさせた”と言うべきものであって、従来の「帰化する」というイメージからは遠い感じがします。それと同時に、一体「帰化する」とはどういうことなのかと、しばし考えさせられるエピソードだと思います。日本の役所の形式主義的な面はいまさら指摘するまでもありませんが、既に「朴」はパク、「崔」はチェ、「金」はキム、「盧武鉉」はノムヒョンと読む時代になり、「孫社長」を「まご社長」と読む人もいないわけですから、そろそろお隣の韓国・朝鮮人の方が帰化する際の氏名についても、次第に融和政策の方針を検討してもいい時代になっているのかもしれません。2003.8.23江本武忠(参考文献)清水高著「インターネットの超新星・孫正義」財界研究所、1999【発行・編集】 ケン・ハービー事務所1、「試験官!」孫正義は、アメリカの大学検定試験の会場で、突然、手を上げて発言を求めた。「私は、日本人なので、英語がよくわかりません。しかし、英語さえわかれば、問題は解くことができる。だから辞書を使うことを認めてほしい。それと、辞書を使う分時間が余分にかかるので、時間も延長してほしい」なんとも、常識では考えられない行動に出たものである。そして、教育委員長と直談判し、認めさせてしまった。この話は、自分の主張に正当性があれば貫き通すという、孫正義の性格を表すエピソードとして、よく知られている。 そんな孫正義であるが、子供の頃は、在日韓国人ということで,哀しい思いをしばしば受ける日々を過ごしている。高校時代のアメリカ留学は、そういった意味でも、孫を大きく変えることになった。日本へ帰国後は、国籍のコンプレックスを吹っ切って、日本名の「安本」を捨て「孫正義」と名乗るようになった。2、ビルゲイツを含む、デジタル情報革命で活躍している人たちには、共通の出会いがある。それは、インテルが発売した8080と呼ばれるマイクロプロセッサーだ。孫は、その写真を、いつも鞄に入れて持ち歩いていた。ある日、アイデアを思いついた孫は大学の教授と共に開発に掛かり、ついに音声付きの電子翻訳機を完成させた。そして、それを持って日本の企業へ売り込んだのである。その売り込み方法にも、孫らしさが伺える。企業を回っても思ったように反応が返ってこない。本命であったシャープでさへも、発想の面白さには関心を持ってもらえたが、契約には至らなかった。「トップと直接話しがしたい」 そう考えた孫は、以前シャープの弁理士だった男を見つけ出し、当時、電卓の大御所と評された、佐々木専務なる人物と面会することができた。佐々木は孫に聞いた。 「もしシャープが契約をしたら、契約金は何に使うのですか」 孫は答えた。 「スタッフに分配し、残りは会社の経費に使います」佐々木には、大学生が会社を経営し、お金を会社の発展の経費に当てるという考えが、とても新鮮だった。そして、結局、孫と契約することになる。やがて、世界に先駆け、ポータブル翻訳機「IQ3000」が発売され、孫は1億数千万円を手にいれることになった。3、1981年9月、日本ソフトバンクを設立。当時、本格的な卸業者がなかったパソコン・ソフトウェアの流通業を目指した。早速、エレクトロニクスショーでブースを借りて出店し、成功を収める。孫の噂を聞きつけて、上新電機の社長が事務所にやってきた。事務所の扉を開けた瞬間、その社長は愕然とした。なんと、机が2つ並んでいるだけだったのだ。それに、社長はといえば、ひとつ間違えば、学生に見えた。しかし、孫は、情熱だけは誰にも負けないと説得し、ついに独占契約を取り付けることに成功する。また、ソフト製作会社であるハドソンとの独占販売権も手にいれた。やがて、評判は口コミで広がり、事業は雪だるま式に拡大していった。創業2年目には、販売加盟店が4600店舗を突破。業界トップの座についた。そんな絶好調の波に乗っていた孫に、病が忍び寄る。4、健康診断で肝炎と診断された孫は、入院生活を送ることとなった。入院生活中、孫は徹底的に本を読んだ。あらゆるジャンルの本を読み、結局、3年半の入院の間に読んだ本は4000冊を超えた。1996年、インターネット事業への本格的参加を目指し、アメリカのヤフーへ35%の出資参加を果たす。続いて、ヤフー・ジャパンを、97年秋に株式公開させた。当時「YAHOO!」はヤッホーと読まれるくらい無名の存在だった。 と言うよりも、インターネット自体が、まだあまり知られていなかった。一連の出資に対しアナリスト達は、単なる「バブル男」と揶揄していたが、99年に入ると、ネットブームが起こり、日本のヤフー株は急騰する。その頃、ビル・ゲイツは、来るべきインターネットの時代に対し、ブラウザソフトを押さえる事が鍵だと考えていた。 そして「インターネットエクスプローラー」で、勝負を賭けた。結果は、「ネットスケープ」に大きく水をあけ、圧勝だった。しかし、世界を制覇したビルゲイツでも、ソフトの世界では、孫に出遅れたのだった。今日まで日まで、孫は日本経済にさまざまな影響を与えてきた。例えば、日本では常識であった「メインバンク制」から「コアバンク制」への切り替えを果たした。これには、最近、テレビを賑わしてた北尾吉孝氏が推進役となった。野村證券からスカウトされ、ソフトバンクに入社した北尾氏だが、銀行と全面対決し、グローバル化の流れにも乗り、ソフトバンクを銀行の束縛から解放させたのだった。また、孫は社内改革として、決算を毎日行なう「日次決算」や「電子稟議」などを取り入れた。特に、日次決算では独自のソフトを開発した。本来、ソフトバンクは、ソフトを販売する会社であり、何万ものソフトを販売しているが、このソフトだけは決して販売しないという。これからの孫は、どのように変貌していくのだろうか。ドッグイヤーと言われるように、環境変化の激しい時代である。10年後の孫正義は、まだビジネス界の主役を続けているだろうか。税込価格 : \1,050 (本体 : \1,000)井上 篤夫著出版 : 実業之日本社 発行年月 : 2005.10志高く 孫正義正伝 (単行本) 井上 篤夫 (著) 出版社: 実業之日本社 (2004/05) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)孫 正義(そん まさよし、1957年8月11日 - )日本の実業家。略歴1957年 佐賀県鳥栖市に在日韓国人3世として誕生。4人兄弟の次男で通称名は安本正義。 1973年 久留米大学附設高等学校に入学。 1974年 久留米大学附設高等学校を中退し、米国セラモンテ高等学校(サンフランシスコ)に編入。 1975年 米国ホーリーネームズ大学に入学。 1977年 カリフォルニア大学バークレー校経済学部に編入。 1979年 自動翻訳機の売込みで得た資金を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。 1980年 カリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士(カリフォルニア大学)。日本へ帰国後、福岡市にコンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。 1981年 福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。 1983年 慢性肝炎で入院。社長職を退き会長となる。 1986年 社長職に復帰。 1991年 孫正義の名で日本人に帰化。 1994年 ソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。 1996年 米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。 1996年 オーストラリアのメディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の21%を取得。後に朝日新聞の反発に遭って撤退。 2001年 ヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo!BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。 2004年 日本テレコム株式会社(現ソフトバンクテレコム株式会社)を買収し、同社代表取締役会長に就任(2006年10月に同社代表取締役社長に就任。)。 2006年 ボーダフォン株式会社(現ソフトバンクモバイル株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任。逸話家系 もともと孫家は中国の武家(将軍家)であり、22代前に韓国に亡命してきたと本人が語っている。(『文藝春秋』1999年11月号) 人生の目標 19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
2006.10.20
コメント(2)
浅知恵よりまともなことをしよう!こんなサイトをみつけました。 http://www.controlarms.jp/campaign/why01.phphttp://www.controlarms.jp/campaign/guncontrol01.phphttp://www.controlarms.jp/campaign/guncontrol02.php「北朝鮮」が核実験をしたから日本も核武装をしなければならない、核武装と軍拡を視野に入れた憲法「改正」をしなければならない、こんな人間の「浅知恵」に反対します。その浅知恵の結末がどうなるか、私たちはすでに色々な事例で知っているはずだ。 知らない人のために語ってあげるホラー・ストーリー『猿の手』。「どんな願いでも3つだけ叶えるという「猿の手」のミイラ。それを手に入れた夫婦は「お金が欲しい」と願う。すると、息子が事故死して保険金が手に入る。悲しんだ夫婦は「息子を帰してほしい」と願う。すると、ゾンビになった息子が帰ってくる。3つ目の願いをかけた後に夫婦はこわくなって、猿の手を暖炉の中に放り投げる。在日コリアンに対する脅迫と嫌がらせをやめさせるよう、みんなで一斉に新聞に投書しませんか。 私たちが今なすべきことはそういうことじゃないかという気がします。恐怖や不安で浮き足立つより、いま目の前で現実に迫害され、侮辱されている人のことを考え、何かするのがまっとうなんじゃないだろうか。 投書フォームを作ってみようと思いましたが、頭が回らなかったので、知恵を貸してください。banquoさんいわく、投書フォームを作って同じ文面でもいいからとにかく多くの人が投書したりファックスしたりすることで運動が広がるとのこと。 転載元: キリスト者として今を生きる
2006.10.14
コメント(0)
朝鮮学校生徒たちへの嫌がらせをやめよ! 新聞投書用に書いてみましたが、なんだかいかにもボツにされそうな気がしてきた。。。現実をとらえようとすると言葉がスパッと出てこないんです。文才の問題かもしれないけど。それでも思いを書いてみました。新聞投書をしてみようという方は、下のでよろしかったら、どうぞ全文ないし一部を適宜無断に使ってください。(もっといいのが書けると思うんですが。。。)北朝鮮の核実験以来、朝鮮学校に通う生徒たちへの脅迫や嫌がらせが相次いでいるというニュースを10月○日付けの○○新聞で知りました。私は直接子供たちへの脅迫や嫌がらせを目撃したわけではありませんが、ブログをやる中で、在日コリアンに対するさまざまな悪意と差別の書き込みを目にします。「北朝鮮に帰れ!」と言ったあからさまな暴言と侮辱の他にも、脅迫が「自作自演」であるとか証拠がないのに騒ぎ立てているといった非難も多く目にします。 朝鮮学校生徒への脅迫がどの程度客観的事実であるのか、正確に何件の「事件」があったのかを知る術はありません。しかし嫌がらせを経験したと発言する在日の方がいて、「それは自作自演だ」「客観的証拠がないからウソだ」と執拗にネットに書き込むこと自体に悪意と差別を感じています。 思えば小林よしのり氏のマンガ『嫌韓流』も韓国の対日批判の正当性を否定し、韓国こそが偏見の塊であるとの主張をしていました。何が「正しい歴史」であるのか、どこからどこまでが偏見であるのかを判断することは難しいです。であればこそ、私たちは他者の声や訴えに耳を傾け、他者の視点から物事を見てみようとつとめるべきではないのでしょうか。隣国の言うことは間違いだ、在日コリアンの訴えている苦痛は存在しない、と決めつけること自体の中に、私は差別と他者に対する軽視を感じるのです。そしてこういう決めつけが横行している現象を見て、朝鮮学校の生徒たちへの脅迫と嫌がらせもおそらくあるのだろうと推察しています。北朝鮮の核実験には憤りを感じますが、そのことと朝鮮籍の在日コリアン、朝鮮学校生徒たちとは何の関係もありません。隣国の核実験と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、私はこの閉塞していく日本社会を怖いと感じています。 転載元: キリスト者として今を生きる
2006.10.14
コメント(3)
私の地元出身、そして金城選手の父親は近鉄バッファローズ時代からの知人です。PRFにも書いていますが、私は人間らしく、ごく普通に本名で生きる、同じ日本に住む市民として、そんな人に優しい社会を願っています。「祖国は韓国、母国は日本」そう言いつつも、韓国へ留学した在日の大部分が3ケ月を過ぎたら、”自分のイアデンティー”の部分で、葛藤し落ち込むといいます。祖国と思い続けた韓国社会の中にある”在日”に対する、無知から来る蔑視と、差別の現実を目の当たりにしてに落胆するんでしょうね。その蔑視や差別に対して韓国語をしゃべれないがため、反論できず、歴史を学ばなかった為に抗議すら出来ない自分自身に苛立ちを覚えるものが通常のパターンです。自分自身が頑張らなければ、学ばなければ、日本に居ても、韓国に居ても、何も始まらないのが在日の”今日”です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より、金城 龍彦(きんじょう たつひこ、1976年7月27日 - )は、プロ野球横浜ベイスターズに所属する外野手。背番号は1番。プロフィール出身地 - 大阪府大阪市東成区 血液型 - A型 投打 - 右投両打 球歴 - 近大付高→住友金属→横浜(1999~) 指名順位/年度 - 5位/1998年 英語表記 - KINJOH 守備位置 - 三塁手→外野手 来歴1976年 - 元近鉄バファローズの選手である父・金城晃世の三男として生まれる。 1993年 - 高校は近大付高に在学。予選決勝で松井稼頭央(現ロッキーズ)、福留孝介(現中日)擁するPL学園に勝ち、甲子園出場を果たした。当時のポジションは投手。当時、現楽天の藤井彰人とバッテリーを組んでいた。 高校卒業後は社会人野球の住友金属に所属。 1999年 - ドラフト5位で横浜に入団。当時の背番号は37。プロ入りすると同時に打者転向。 10月3日の対中日戦で初出場 2000年 - 結果を残さなければ2軍落ちという状況でプロ第1号となる代打本塁打を槙原寛己から放つ。これをきっかけに打撃の才能が開花。三塁手のレギュラーに定着し、首位打者と新人王のタイトル獲得。同時受賞は史上初、一時打率は4割を超えていた。 中略 2005年 - 打順が3番に。R・ローズの球団記録にあと一本と迫る191安打を放った。そして守備面でも評価されゴールデングラブ賞も初受賞する。また、2006年3月に開催されるWBC日本代表に選出された。 母国でのヤジ 横浜ベースターズの金城選手 ≪2006.08.09 朝日新聞 朝刊 国と私≫ ↓ 韓国選手の歓喜の輸は、やがて太極旗(国旗)を先頭にしたウイニングランになった。 「優勝したみたいやな」。横浜ベイスターズの金城龍彦(初)は、ベンチ前のさくに寄りかかったまま、悔しそうな表情でそれを見つめた。 3月15日、米カリフォルニア州アナハイム。野球の国・地域別対抗戦(WBC)2次リーグで日本は韓国に敗れた。日本での1次リーグに続く敗戦だった。韓国系米国人の多い町で、スタンドは韓国への応援が圧倒的だった。似たようなアウエーの雰囲気を、以前にも感じたことがあった。中略 94年夏。韓国・ソウルの東大門野球場に金城はいた。韓国の高校野球全国大会「鳳風大旗争奪大会」が開かれていた。「韓国の甲子園」と言われるこの大会に、日本から在日韓国人のチームが参加。3年生の金城も、その一員だった。 最初の試合で「おかしい」と感じた。観客からは自分たちへのヤジが飛び交う。ストライクとボール、アウトとセーフ。審判の判定は不利なものばかりのような気がした。「勝たせるな」という空気が、球場を包み込んでいた。中略二つの祖国揺れる心中略 「ぼくらは敵なんやな」。 初めて訪れた祖父母や父母、そして自らの「祖国」。日本を出発する時の高揚感が、急速に冷めていく。準々決勝で敗れると、猛烈なホームシックにかかった。 祖国のことを知ってほしい、好きになってほしい。堺市に住む在日本大韓野球協会会長の韓在愚(69)、そんな思いで選手を集め、毎年韓国ヘ連れて行った。審判ともめるのは毎度のこと。かつては観客から「パンチョッパリ(半日本人)」というヤジが絶えず、ツパをかけられる選手すらいた。 「これで、母国愛って生まれるのか」。 韓は自問した。年々、選手や資金集めが難しくなった。56年から始まったチーム派遣は、97年を最後に中断している。中略アナハイムでの日本の敗戦。かつてプロ野球・鑓識に所属した金城の父、晃世(60)はテレビの前で悔しがった。一方で割り切れない思いもした。息子がいなければばどっちを応援するだろう。「複雑やな」。晃世は何度もつぶやいた。 晃世は大阪で生まれ育った在日2世。日本は「お世話になっている国」と言う。「自分の国」と言えば、韓国だ。祖国の伝統は大切にする。法事には必ず子供たちも出席させた。自らは国籍を日本に変えることはないが、子供たちには本人の判断に任せた。 金城は首位打者と新人王を獲得した00年に結婚。その後、日本国籍を取得した。「ずっと日本に住むし、子どももいる。絶対、そっちの方がいい、と」韓国に連敗した3日後。準決勝で日本は三たび韓国と対戦し、完勝した。「日本代表の一人として世界の舞台で戦えることがうれしかった」と、金城は言う。それでもなお、日本人になりきれない自分を見つめる。 「血はやっぱり韓国人だから」 今も帰省すれば、母の韓国制料理に舌鼓を打つ。伝統を受け継いでいるという意識も強い。「結局、中ぶらりんなんですよ」韓国に住む韓国人、日本に住む日本人。何の葛藤もなく「祖国」と呼べる人たちがいる。「ちょっと、うらやましい」と思う。(敬称略)
2006.10.12
コメント(0)
私がリーダーを務める【在日コリアン女性コーラスグループ笑里】のコンサートが来る11月18日(土)に大阪府立健康科学センターで行われます。今回で第6回を迎える【統一を願うコリアン女性によるコンサート~大阪の空の下~】は大阪、京都、兵庫在住の在日本朝鮮文学芸術家同盟に所属するアーティスト達で構成され豪華ラインナップでお届け致します。(どこかの歌番組のセリフだな、こりゃ~)入場は無料!超お徳です。(自分で言っちゃいます~)どうぞ皆さん気楽にお立ち寄り下さい。 転載元: ♪在日KOREAN蘇錦-SALT♪
2006.10.10
コメント(0)
こんにちは、大阪ソウル会事務局です。別紙のとおり大阪ソウル会の9月例会の案内を送ります。----------------------------------------------大阪ソウル会は、日本人、日本で生まれた在日、ニューカマーが仲良く話し合える会と自負しております。日本全体を見ると、こういう雰囲気の会は残念ながら珍しいのが現状です。今月は、この在日コリアンの問題をテーマに、大阪市立大学大学院教授の朴一さんにお話いただくことになりました。朴一先生は尼崎生まれの在日韓国人で、テレビ、ラジオのコメンテイター、本の執筆などでお忙しい方です。朴一先生の話を聞いて、一緒に在日問題を考えてみましょう。皆さんお誘い合わせの上、ご参加くださいますようお願い申し上げます。■事務局 電話:06-6356-3927 Fax:06-6356-3591Mail:zbb64658@yahoo.co.jp・日時:2006年9月12日(火)18:30~21:00・場所:大阪市立生涯学習センター第二研修室(大阪駅前第二ビル6階) 大阪市北区梅田1-2-2-500 電話:06-6345-5000 ・会費:2,000円(講師料、会場費、資料代など)講師紹介:朴一(パクイル)大阪市立大学大学院経済学研究科教授 在日韓国人三世同志社大学大学院博士課程修了 商学博士専攻は朝鮮半島の政治と経済 日韓・日朝論 「在日と言う生き方」ほか著書多数 NHKTVアジアマンスリー 関西ニュース一番 ニュース9 MBSラジオのイブニングレーダーのレギュラーコメンテイターのほか大阪市の外国籍住民有識者会議の委員も務めている(大阪ソウル会事務局)〒530-0043 大阪府大阪市北区天満1-3-3 天満パークハウス801電話:06-6356-3927 FAX:06-6356-3591e-mail:zbb64658@yahoo.co.jp※本田さんはこちらに常駐しています。 大阪ソウル会宛のメールや電話はこちらにお願いします。
2006.09.12
コメント(0)
大阪の大手住宅販売、リフォーム会社、積水ハウスに勤務する在日の一社員が、訪問先で本名を書いた名刺を差し出したところ、「この朝鮮人、おまえの様な人間が、、、名前の読み方が二つものあるから、、」と差別用語を使いながら罵声を浴びせかけられると言う事件がありました。これに対して、被害者の社員は加害者を相手に、名誉毀損と謝罪を要求して大阪地方裁判所に訴えを起こしました。今回の裁判で注目すべき事は、この訴えに対し、社員の勤務先である積水ハウスが「今回の裁判に対し、会社として全面的に支持、応援をする」と態度を表明したことです。会社がこの様な態度表明をするのは始めての事で、人権被害について野放し状態の社会に一石を投げかける裁判として注目されています。重複送信していますので重複しているかたご容赦下さい。1回公判のお知らせ 積水ハウス在日社員裁判に関し大阪地方裁判所は、第1回公判の日程を9月13日に決定しました。公判自体は短時間(数十分程度)で終了します。公判終了後、関係者はなにわ橋法律事務所にて今後の裁判の打ち合わせとしての懇談会を行ないます。 第1回公判および懇談会の詳細情報は下記のとおりです。なお、一般の方でも傍聴になれます。事前の申込みは必要ありません。 記◆積水ハウス在日社員裁判 第1回公判場所:〒530-8522 大阪市北区西天満2丁目1番10号 大阪地方裁判所 第8民事部合議1係時間:10時~◆ 懇談会場所:〒530-0047 大阪府大阪市北区西天満1丁目2番5号 大阪JAビル12階 なにわ橋法律事務所時間:11時頃反差別ネットワーク人権研究会代表 田畑重志E-mail to:shigeshi.tabata@nifty.comURL:[http://homepage2.nifty.com/jinkenken/]「インターネットを生かした人権教育」購入先 amazon[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4180585197/250-7693449-6297814?v=glance&n=465392]
2006.09.08
コメント(0)
東大震災について、一部の方から「概略の説明をして欲しい」とメールがありました。簡単に説明だけしておきます。写真は、戦前は、使用禁止になっていた(ベルリンマラソンで優勝した孫 基禎氏でさえ付けて走れなかった)、朝鮮の国旗、大極旗に警察が 盗難防止の広告を意図的に重ね合わせて、朝鮮人=泥棒と言う、イメージつくりをしてたと言う、ほんの一部の証拠資料です。立場が逆なら?関東大震災1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東一帯を襲い、大規模な災害を引き起こしました。 震災直後、富士山が大爆発したなどといった自然災害に関するデマが発生しました。 ところが午後から夕方にかけて「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を投げた」「朝鮮人と社会主義者が暴動を起こしている」といったデマが流れ、政府の広報と新聞報道によってたちまち全国に広がっていき、民衆は「朝鮮人憎し、社会主義や危険」の感情をつのらせていきます。 政府は2日、「朝鮮人暴動」を口実に、関東一帯に戒厳令を出します。そのもとで、軍隊、警察、ならびに民衆が組織した自警団による朝鮮人と社会主義者、そして被差別部落の人々に対する大虐殺が行われるのです。 彼らは朝鮮人を捕まえるため、通りがかる人に朝鮮人がうまく発音できない「15円50銭」を発音させるなどの尋問を開始しました。 朝鮮人と分かると、日本刀や竹槍で突き殺したり、火あぶりにして殺りくを行いました。 妊婦のお腹を刺して殺したという証言もあります。(ドサクサの中、同じように、チュジュウゴエン、ゴジュッシェンとしか発音できない東北訛りの日本人も間違われて殺害されたと言われています) デマはどこから、何のために流されたのでしょうか? 当時支配層が一番恐れていたことは、震災の混乱に乗じて、1919年、朝鮮で起こった 3.1運動のような朝鮮人の独立運動が高まるのではないか、また震災によって衣食住を奪われた民衆が、米騒動のような反政府運動(米よこせ)を引き起こすのではないか、ということでした。 これらを未然に防ぐためには、軍隊の出動が不可欠だと思ったのです。 軍隊を出動させるためには戒厳令を出さねばならず、戒厳令を出すためには戦争や内乱の勃発といった法的根拠が必要でした。 そこで朝鮮総督府で治安責任者の経歴を持つ内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃らを中心に考案され、意図的に流されたのが「朝鮮人放火・暴動、社会主義者の政府転覆計画」デマでした。ここで、当時の警察の人事がかかわってきます。中国で関東軍が抗日パルチザン(日本は匪賊と呼んだ)討伐の戦いで負け、その責任を負わされ、相当数の軍人が東京の憲兵、治安部隊に左遷されたと言う事実があります。その国での敗戦経験で、朝鮮人怖しの意識、左遷人事に対する怨念、等が大量殺戮に大きく作用した一因ともいわれてます。そして関東大震災の犠牲者は政府発表2800人、被害者申請人数6600人のと言われる差を埋める為の事実確認すら行われていません。日本政府による真相究明も公式謝罪も80年以上たった今もありません。以下は、サイトの知り合いからのコメントと資料提供です。日弁連の資料に「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺事件は、過去ではなく現在のことです」とあります。特にこうした事件については、歴史的教訓を現在的に生かさないと意味がないと思います。http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
2006.08.31
コメント(0)
『母の戦争体験』母は昭和20年3月14日の大阪大空襲を経験しました。市内から8時間をかけて死体と瓦礫の中、当時15歳の母は疎開先の生駒山、額田まで8時間歩いて帰り着いたらしいです。この時、空襲で家が全焼し(もちろん、借家)類焼証明をもらい(当時はこの証明があれば交通費は無料だった)、北海道の室蘭に住む、親類を頼り、家族全員で東北本線に乗り、室蘭に疎開しました。当時「北海道は空襲が無いから来い」と富士製鉄(現新日鉄)で勤務してた母方の祖父の弟さんを頼っての疎開でした。到着して、間もなく、北海道で始めての米軍の海からの艦砲射撃、空からはグラマン戦闘機が情け容赦なく、無抵抗の市民めがけて機銃照射、みるみる死体の山だったそうです。幼い妹を背負った母めがけ後を追いかけて来て、15分の間、何度も水溜りに転んでは起き背に負った妹を捨てては、泣き叫ぶ妹を又、抱きかかえて逃げまとったと言う話でした。翌日、本土から疎開してきた人々に対して室蘭からの帰還命令が軍から出され、本土へ帰るため軍艦(船名は不明)に乗って青森まで辿り着いたそうです。乗船時に「非常時だから、女は乗せない軍艦に乗れたことを感謝しろ!」と言われた甲高い軍人の声が今も、耳に残ってると話してます。そして東北本線を乗り継いで仙台か千葉?付近まで来たところで、又、グラマンの襲撃を受け、汽車は脱線、命からがら逃げ出し、2日ぶりに水溜りのボーフラが泳ぐ雨水を飲みあさったそうです。ここで私が皆さんに知って欲しいのは、在日も日本人も同じ、戦争体験をしたって事です。戦争体験、終戦前後の貧乏生活は皆、同じように味わってきたと言うことです。ここには書きませんが、幼い頃から、「朝鮮人」と虐げられ、戦後も、そしてつい、何年前までも社会的な偏見や、蔑視行政のため、小学校も通えず、小学校時代から働き手になって生きてきた、皆、同じ人間なんです。
2006.08.15
コメント(4)
{写真/韓国人原爆犠牲者慰霊碑のレリーフ}歴史認識の原点回帰 慰霊碑やモニュメントの周囲にさまざまなメッセージが残されていく。 若者たちの平和への願いもその一つ。韓国人原爆犠牲者慰霊碑には、銅版の レリーフが立て掛けてある。「過去を忘れる人は未来を失う」表面や木枠は、かなり黒ずんでいる。 裏返すと、フェルトペンで「三重県大安中学校」とあり、男女六人の名前が 薄く残っていた。「彼らはもう二十二歳になりますよ」―。同中の二之部迪史校長が答えた。 彼らが広島を訪れた一九九四年、在日韓国・朝鮮人の語り部から話を聞いた。 「その話に感動して、ささげる場所を決めたのでしょう」 九九年、慰霊碑は公園外の本川橋西詰めから移設。レリーフも一緒に移動した。 歴史教科諸問題で日韓関係がこじれる今夏、このメッセージの意味は思い。 「中国新聞」 この碑をここに建てたのは、民団の呼びかけで、日本、在日、韓国の多くの人々の寄付で建てられました。この碑は、すべて韓国の石でつくられているそうです。長い間、公園の外にあった碑を公園内に移設するのには多くの人々の努力があったからです。死んだ人間にまで「差別」は追いかけてきます。上記の中学校の生徒の談話です。「日本人も韓国人も同じように苦しんだ。被爆してここで苦しんだのは日本人だけじゃないのに、扱いが…。」韓国人被爆者は4万人と言われています。私事ですが、父は当時陸軍の暁部隊所属で護衛艦に乗って呉港を出航し、この原爆雲を背に中国のミンポウに向かったと、生前話してました。私も、小学校の修学旅行で広島に行き原爆記念館を見学しました。その時、大きなショックを受けたのを今も記憶しています。私は、韓国や他の国からの知り合いが日本に来れば、デズニーランドや富士山に行くより先に、広島につれてゆきます。決して政治的な思いではなく、普通の人間として絶対、この悲惨さを見るべきだと言う信念からです。韓国に被爆者が暮らす地方の小さな地区があります。俗に「原爆村」揶揄されてます。そこに住む被爆者の方の話です。自分が韓国人でありながら韓国人社会から「差別」されると言うる二重の苦しみを味わっている」と言っておられました。日本にいれば、法律で保護されたりもしたが、特に、外国に出てしまったら、法的に、被爆者として治療すら保障されないのが現状です。彼らは自費で日本へ来て、裁判をして原爆患者の認定を勝らなくてはなりません。そして初めて、治療を受けられるのです。韓国在住の患者や家族には、そんな時間も、お金もありません。最後に先ほどの中学校の生徒さんが取材した被爆者の方のメッセージです。転載 『この世で、人間と核は絶対に仲良くなれない。平和記念公園の平和の灯は世界に戦争が無くなった日に消える。2年でも、1年でも、1日でも早く…。戦争をしちゃいけません。そして、差別をしちゃいけません。もっとよい日本にするために、お互いに力を合わせよう』この慰霊碑の横に、メッセージが置かれています。 『過去を忘れる人は、未来を失う』
2006.08.06
コメント(0)
昨日の外国人登録証の写真をご覧ください。桐の紋章がありますね。 日本のパスポ-トの表紙にある紋章は菊で、あれは天皇家の紋章ですね。桐は豊臣家の紋章で、天皇から豊臣秀吉に下賜されたものだそうです。日本の役所の書類に付されている印は、内側で処理するものに関しては桐、海外など表に提出するものには菊が使われているそうです。つまり菊は表で桐は裏。もっと言えば、菊は上で桐は下。おかしな話ですが、本当の話です。なら、在日は外国人なら外だから?どちらでしょうか?桐なんですね。それなら国民?いや??グロ-バル化の進展する現代に、何故こんな陰湿なことを日本の官僚機構はこっそり続けているのでしょうか。外国人登録証に桐の模様をつけているのは、その意味を考えると問題ではないでしょうか。こういうのはたぶん、単なる慣習などではないと思います。本質に関わる問題。指摘されても簡単にはやめないでしょう。在日はそういうことをずっと肌で感じてきました。昨日、この書き込みをしたら「日本のパスポートの中のページは桐の紋になってるで」と教えていただきました。ありがとうございます。22日の日記に外国人登録法案制定の経緯があります。面倒でも一度、目を通してみてください。結構、勉強になりますよ。日本の行政や立法府の裏が垣間見れる部分だと思います。ここで関連して言いたいのは、在日を都合で日本人にしたり、外国人にしたりもて遊ぶ日本丸に一石を投じたい。それだけなんでがね。
2006.07.25
コメント(0)
これがです。日本批判ではなく、こんな事もあるんだ~と、家族にも知って欲しくって今日は書いてます。私は、夫婦共、在日です。家内は日韓会談後に永住権を申請し取得してます。私は当時、まだ、朝鮮籍で「永住権取得は不法!」と運動していた側でした。その為、4-1-16-2という出入国管理法令で、3年毎に「在留延長許可」を法務大臣に申請して「許可してもらう」と言う形式の手続きを毎回、繰り返していました。そして日本をはじめ、ベトナム難民のボートピープルが大量にアジア各国に流入した1970年代、先進国の中で、一番最後に難民法を国会で批准し、ようやく特例永住者の申請ができました。この理不尽な悪法『外登法』の歴史的な経緯は22日の日記に書いてます。是非、読んでみて下さい。今日の話は子供の出生届けを役場に出した時の話です。区役所窓口でのやりとり、私 「子供の出生届けを出しにきたんですが」窓口担当「在留資格は、父親か母親のどちらになさいますか?」私 「え?どういう意味ですか?」窓口担当「母親は永住者で、父親は特例永住者ですから、どちらか選択してください」私 「え?どう違うんですか?」窓口担当「たとえば、子供さんが罪を犯した場合「永住権者なら8年の懲役刑で国外退去ですが、 特例永住者なら6年の懲役刑で国外退去です。あくまでも、過程ですがね、、」こんな非人道的な扱いの中で繰り返し、白黒?右左?の選択を求められて生きてます。政治音痴では自分を守れないんです。でも、今では、これを試練と思うより、視点を変えて「人の経験できない色んな出来事を経験出来、社会の裏側を見れるんだ」と感謝してます。国民総背番号制度の問題が言われてますが、我々はすでに、数十年前から管理されてます
2006.07.24
コメント(2)
{写真:王 貞治監督}TV情熱大陸で話された内容です。連日TV放送でソフトバンク監督、王 貞治氏の病気のニュースが流れてます。一日も早く回復されることを心から願っています。さて、華人と華僑の違いって知ってますか?同じ在日と言う立場からすれば、その動向が大いに気になるところです。私自身は、若い頃からこの人の生き様に拍手を送ってきました。(だからワールドカップ野球の時は何だか複雑な気持ちでした。) 華僑とは移民した一代目のことを指し、二代目以降は華人と言うそうです。でも、中には二代目以降でも、その国の国籍を取得しない(多くの在日韓国,朝鮮人同様)人にも華僑と言うらしいですが。中国で産まれないと華僑じゃないと言う人もいて、華僑社会も複雑です。王 貞治監督の娘さんも華僑と華人、すなわち、日本国籍を取得した娘さんと、そうでない娘さんがおられます。監督自身、国籍条項を理由に早実高校時代には甲子園で優勝しながら国体に出場できなかった経緯があります。在日韓国、朝鮮人にはよくあるケース)以下はTV情熱大陸で話された内容です。(3/12放送)『僕も第一回の(WBCで)「JAPAN」の枠のついた服を着て指揮をとるっていうのは大変名誉なことなんですよ。で、僕が思っている以上に周りの人は、僕が監督に選ばれたことを喜んでくれているしね。だから、やはり自分としてはこういうふうにね、受けた以上は、自分のできる最大限のことはしなきゃいかんと。だから僕は日本の国がよりいい国になってほしいと思う。僕は、今住んでいるのは日本だし、ただ国籍は中国だけどね、中国に関して自分は何にも意見を言う気もないし、台湾に対しても言う気はない。でも、日本に対しては、もっともっとね・・・。自分が一生ここで過ごす国だし、だから、いい国 になってほしいとは思っているよね。だから、そんな国になるためのひとつとして、今度のWBCがね。やっぱり日本人にすごく夢を与えるとか、そういうことになってくれればいいな、とは思うけどね。』以上が王 貞治監督の言葉です。「在日は日本に住んでいながら、日本の悪口しか言わない。」と、よく言われますが、私を含めて、こんな考えを持つ在日韓国、朝鮮人が大勢いるんのも、ご理解ください。
2006.07.18
コメント(2)
韓国での義兄弟は、日本で言う任侠の世界みたいな(少し不謹慎かな?)濃いつながりだ。親しくなれば兄(ヒョン)と呼ぶみたいにチング=親友も日本流の友人以上の関係だろう。シック(食句)が同じ釜の飯を食う仲で家族もそうだが、親しい関係で家族同然に付き合う人にもシックの呼称を使う。親しくなって終生付き合う場合`義兄弟の誓い`を昔の人は良くした。私の祖父と歌手の和田あきこ(さん)の父親とは同じ村(洞)出身で戦後の動乱期に同じ村の出身で日本に渡って来た大阪在住の者同士が義兄弟の契りを交わしたらしい。和田あきこ(さん)が今年、ようやくTVや雑誌を通してカミングアウトしたから迷惑はかからないだろう。和田さんのおとうさんは柔道場を開いて同郷の若者が頻繁に出入りしていたらしい。長い間、芸能界でカミングアウトする事はタブー視されていた。(今も変わりはない)そんな関係でデビュー当時、TV出演の時は両親の訛りがきついせいもあり叔父さん夫婦が両親として紹介され出演したのを今も覚えてる。自分の両親すら人前で正々堂々と紹介できない事にどれほど心を痛めたか?その行動に当時は見下してい私だが、今になって思うと辛かっただろう、と少しは理解できるかな?プロレスの力道山、極真空手の大山倍達をはじめ在日を日本人として位置つけないといけない社会に対して以前は腹立たしく思っっていた。でも今は只、情けなく思う。過ぎたる自主規制の報道。真実を報道できないマスコミ、、、
2006.07.14
コメント(0)
在日韓国人の最大の悲劇は?『日本による植民地支配』だと言う人もいれば、『6.25の朝鮮動乱』、いや、その後の『分断国家』」と色々な意見があります。ただ、私はそれが最大の悲劇だとは思いません。なぜならこれらの意見は韓国本国の社会にもあてはまるからです。なら何が原因でしょうか? 在米韓国人や他の移民との違は・・・。言葉と名前がその人の全て、中世ヨーロッパでそう言われてきました。私が考える原因はその2点(言葉と名前)です。創始改名から来る今日の”通名”を使用し母国語が話せない。この2点に集約されると思います。在日が色々な歴史背景の中で、通名を捨てきれず、日本社会に同化せざるを得なかった日本社会の中で生きる在日の悲哀だろうと思います。私は、在日の”日”がその全ての原因だと断定しています。日本と言う社会に住むことによって、長い年月、”氏、素性”を隠して日本語を話し日本の文化に溶け込みに日本人に成りすまして生きることによってこの社会で生活の糧を得てきたからだろうと思います。一部の例外はあるにせよ。その原因は忌まわしき「関東大震災後の朝鮮人虐殺」などが大きな要因でもあります。日本と言う韓国:朝鮮人に最も強い差別感情を有する国に生まれその国の言語しか話せない事が悲劇でもあります。そして、その反動として、悲しいかな本国(南北を問わず)での「在日」に対する差別意識がが形成され僑胞(キョポ)と蔑視されそして我々を日本の手先(親日派)と蔑むのでしょう。もちろん日本人がみな韓国人を嫌うのではなく韓国人が皆、在日を嫌うのでもありません。むしろ日本人の方がはるかに我々を理解してくれます。しかし、現実として差別社会システムとして形成されています。在日社会学者の姜 在彦先生が何時講演会で「韓国社会のマイノリティーである在韓中国人の現状を話された内容は在日の権利差別を声高く叫ぶ韓国政府が自国のマイノリティーの問題にようやく重い腰を上げたにしか過ぎないと言う話でした。これこそが韓国の(我々への)問題意識の欠如無視する事が差別そのものといってもいいでしょう。それは目に見えない、ちょっと油断すると見過ごしてしまう差別。愛する人に「おまえが韓国人(在日僑胞)でもいいよ」とプロポーズされたことのある人はもう一度その言葉を噛締めて下さい。「でも」とは何でしょう。これが差別です。これが悲劇です。私はこの台詞を腐るほど聞きました。そしてそれは友情を破壊するに足るものでした。皆さん、もう少し注意して下さい。のべつまくなしに差別感情を顕にする人は極まれにしかいません。その意味では差別は無くなった様に見えます。しかし、冷静に日々のマスコミ論調や政治家、官僚、役人の発言を耳をすまして聞いて見てください。我々が己の最大の悲劇に気づかないのは悲劇であり、喜劇です。
2006.07.13
コメント(0)
大阪市東成区=中道(旧川西町)付近、現玉出スーパー東成店隣近辺を戦前、戦後を通して俗称でミヨック トンネ(ワカメ長屋)と呼んだ。中野昆布、あの有名な都昆布の発祥地である。当時、チェジュド(済州島)で海女や漁師出身の人々がこの地に出稼ぎに来て住み着き、昆布つくりの為にワカメ天日干しの作業をこの一帯でしていたのがこの名前の由来らしい。現在もこの一帯の大地主は中野氏であるらしい。知ラナカッタ~ {写真は猫間川埋め立て跡、玉造近辺である}
2006.07.06
コメント(1)
【噴水台】 風の花 1997年9月3日。 ベトナムの航空機がカンボジアのプノンペン付近に墜落した。搭乗者65人全員が死亡した。 韓国人も21人が含まれていた。 事故が起きると、あたふたと駆けつけてきた人々がいた。 カンボジア在住の韓国人だった。 腕と足が切れていて、火に燃えて真っ黒に縮んでしまった遺体など。 とても目をあけて見られない悲惨な現場だった。 しかし、カンボジア在住韓国人らは脂汗をかいて「韓国人の遺体」を収拾した。 形体も分からなくなったのに、どうやって韓国人かどうかを判別したのだろうか。「肌着や靴下を見て韓国商品の『白羊(ベクヤン)または『サンバンウル』の商標がついていれば、とりあえず韓国人だと見なした」。カンボジア在住韓国人キム・ムンベク氏の話だった。 当時、取材で現場へ向かった記者は、遺体に押し寄せるハエの群れを追い払いながら「21の韓国人遺体」を守っている同胞を見て、涙がこみ上げてきた。 普通の人だと近づく勇気さえ出ない悲惨な遺体ら。 しかし、それらは「同胞が事件にあった」との便りに、事すべてを後回しにして駆けつけ、苦労を惜しまなかった。 海外在住韓国人のことを「在外同胞」という。「僑胞」、「僑民」ともいうが、最近では、在外同胞という言葉をたくさん使っている。 中国の朝鮮族(中国在住の韓民族のこと)である作家ホ・リョンスン氏は、在外同胞のことを「風の花」と呼んだ。 風が吹けば、それに載せられ、行くあてもなくさ迷い、風が止まった所に根を下ろして住む、との意味からである。 外交通商部の発表によると、この風の花は今年1月現在、173カ国・663万8338人にのぼる。 1863年に豆満江(トゥマンガン)越しのロシア領・ポシエート(Posjet)港口に、韓国人農民13号が移住したのがその始まりである。 それ以降142年間、南北(韓国・北朝鮮)人口の10%に近い数が外国に根を下ろした。 同胞は常に、母国の力になったりした。 97年の通貨危機当時、在日韓国人が4000億円を支援した。 済州道(チェジュド)の名物、ミカンも在日韓国人が苗木を持ってきてくれた。 60年代の経済開発の「元肥」になったドイツ借款の導入は、「人質のような移民」の結果だった。 ドイツは、いったい韓国のどこを見てお金を貸してあげるのか、と正した。 政府は結局、看護婦と鉱夫を「担保」に提供し、1億4000万マルク(約10億円)を借りた。 米ニューオーリンズ州の韓国人2500人余が、ハリケーン「カトリーナ」でほぼ全財産を失った。 推算によると、被害金額は1億ドル(約100億円)。 今回は、われわれが誠意を込めて、送るべき時だ。 ニューオーリンズの風の花を、このまま倒れさせるわけにはいかないだろう。 劉尚哲(ユ・サンチョル)アジアニュースチームチーム長
2006.06.05
コメント(0)
全54件 (54件中 1-50件目)