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学校教育というものは、もともと没個性を目指しているものなのかもしれない。しかし、最近の学校問題のゆがみは、この没個性教育の弊害が大きいのではないか。 前髪は何センチと決めてみたり、スカート丈をものさしで計ってみたり。何でもかんでも同じにして、はみ出ないようにするのが教育とばかりにやってきた。 いじめで自殺した子供がニュースで話題になり、テレビ番組で、イジメ問題を取り上げる。「なぜ、いじめるのか」という質問に、子供たちが、「だって、あいつ、変なんだ」と答える。「変わっている」ことが、いじめる理由になるのだ。「同じ」でなければいけないのだ。考えてみれば、大人たちがそう教育してきたのだから、子供が「変わっているのはいけないことだ」と思うのは当たり前ではないだろうか。 私は最近、「こういうのは異常なんでしょうか、正常でしょうか」と質問されることがあり、非常に不愉快に感じる。 何を指して「正常」「異常」と決めようとしているのか。人間を判断しようとし、自分ではそのものさしを持たないので、何かの権威に判断してもらおうとする。偏差値を信仰したり、統計を信仰したり、偉い先生の言う事を信仰したりする。 正常か異常かというのなら、歴史上の天才など、みな異常ではないか。誰もかれもを平均的な人間にしつけてしまったら、天才など現れないだろう。変わっているところは変わったまま、長所として生かせるように伸ばせばいいではないか。変わっていることを悩む必要など、まったくないのだ。 ある落語家が、「どんなふうに生きてきたのですか」の質問に、「わたしはねえ、『勝手にしやがれ』という気持ちで生きてきました」と言った。これはいい言葉だ。以来私は、「勝手にしやがれ」を心の中に置いている。 あれがいけない、これが正しいと白黒で決めつけようとする人に反発を感じると、心の中で「勝手にしやがれ」と叫ぶ。 これが、どんなに私の健康のために役立ったことか、平均像など、あれこれうるさくあなたを矯正しようとしてくる人など、勝手にしやがれ。迷ったときにはぜひ、このひと言を心につぶやいて欲しい。それと「知ったことじゃねえ」も最近特によく使う。 自分の個性を貫く勇気がきっとわいてくると思う。
アンケートをとって、「平均」を出すという方法がある。どれくらいの人が携帯電話を持っているか。日本人の平均身長は、平均勤務時間は、なおなど。自分が「平均」であるかどうか、気になる人もいるだろう。 「こんなにみんなが携帯電話を持っているのなら、私もやっぱり持ったほうがいいんじゃないか」 「私は、このたった10パーセントの『NO』のほうに入っているのか。私って異常なんだろうか」 しかし、「平均像」など、実はどこにも存在しない。あなたの周囲を見回してみて欲しい。この人こそ平均で、普通の人だと思える「平均氏」がいるだろうか。 たぶん、いないはずだ。みんなどこか変わっている。どこか癖がある。どこかでっぱっていて、どこかひっこんでいる。何もかも平均の人など、ひとりもいないだろう。 統計というのは、ひとつの目安である。平均というのは、デコボコをならした没個性のものである。あくまで数字の上だけで、現実のものではない。 だから、誰かが「普通はこうだ」「たいていはこうする」と言っても、必要以上に気にすることはないのだ。例えば、「そんなの、あいつがそう言ってるだけじゃないか」と大らかに思えばいい。実際、そうなのだ。私が言っていることなど、私の考えであって、平均でもないし、絶対的に正しいことでも何でもない。 平均にこだわるのは、情報化時代の弊害のひとつともいえる。情報が溢れていて、どれもこれも知らないと、自分が後れているように感じる。ある営業マンの男性が、「昔は、日本のプロ野球さえ見ていれば野球好きのお客さんと話ができた。今は、メジャーリーグもチェックしないといけないので、時間もかかる」 と嘆いていた。彼はスポーツ好きなので、これは半分冗談なのだろうが。 しかし、確かに、平均的に生きようと思うと、そのために膨大な時間を費やすことになる。平均の話題についていこうと思うと、それだけで一日が終わってしまう。自分が何をやっているのかさっぱり分からないうちに忙しく毎日が過ぎていってしまう。 平均なんか、放っておいたほうがいいと私は思うのだ。
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