
22,000年前、地球は最も寒冷な時期を迎え、海水面は120mばかり低下し
シベリアと北海道は陸続きでした。したがって、マンモスは北海道まで南下し
それを追って細石刃を携えた人々が北海道に渡って来たと考えられます。
千歳市に持ち込まれた細石刃核(20,000年前)とシベリアの細石刃核(22,000年前)は、い
ずれも「蘭越型」に分類される細石刃核で間違いなくシベリアからやってきたとされています。
「蘭越型」・・・北海道における細石刃石核とその製作技法のタイプの一つ。他に峠下型・ホロカ型・札滑型・白滝型・オショロッコ型・射的山型など種々ある。
さらに最近、精密な分析装置を使ってサハリンのソコル遺跡やオコンギ遺跡の8つの細石刃
が調べられ、それらはすべて北海道の白滝産の黒曜石であることが分かりました。
すなわち、当時北海道とサハリンとで黒曜石を介した、人の行き来があったということが裏付
けされました。 細石刃はその後、5,000年の時をかけて、日本の広い地域で使われるよう
になったようです。
シベリアの寒冷化から食糧危機に陥った原日本人の一部はシベリア・ブリアートから南下をはじめ、集団の一部は北部はアムール川を下り
サハリンに入り北海道を経て日本列島の本州最北端、三内丸山遺跡に
縄文文化の一大センターを開きました。
もう一つの集団は、中国東北部を南下しウスリー江・豆満江から日本海にでて
朝鮮半島東海岸から朝鮮海峡・対馬海峡を渡り日本列島へ入りました。
この日本列島の北と南からきた原日本人たちは、ここで縄文文化を発達させつつ
南下した縄文人と北上をつづけた縄文人とが衝突したところが
日本列島の、ほぼ中央、長野県から山梨県にかけての八ヶ岳山麓一帯でした。
ここで遭遇した北と南からの縄文人たちは、互いに同じ民族であったことを知って歓喜し
盛大な祭りをしたことを物語るのが、八ヶ岳中信高原国定公園の八ヶ岳山麓から出土して
いる
華麗な縄文土器です。
八ヶ岳山麓に花開いた縄文人の生活、ここには、 あの国宝 「縄文のビーナス」、
重文「仮面の女神」の2体の大型土偶が出土しています。
世界最古の土器も漆器も日本列島で見つかっています。
最古の土器は16500年前に津軽半島の外ヶ浜町で発見され、ついで佐世保、
若狭湾、揚子江流域、アムール川流域でも15000年前の土器が出土しています。
土器の製作は東アジアに共通で、定住生活の始を意味し新石器時代(縄文時代)
幕開けの指標になっています。最古の土器や漆器が造られたのは、最終氷期で最も寒い
2万年前から間氷期へと温暖化が進んだ時期です。
日本列島中央部の植生も亜寒帯針葉樹林帯から温帯落葉広葉樹林帯(ブナ帯)へと代わり、
象などの大型哺乳類は絶滅していきました。食生活も狩猟中心から、ドングリなどの採取や
漁猟などに多角化し定住生活が始まりました。そいう時期に定住生活の必需品として土器や
漆器が作られ始めたと考えられています。これは日本列島だけでなく東アジアの新石器時代
に 共通の現象です。津軽の三内丸山が栄えたのもこの頃です。
三内丸山は縄文海進の頃には海を見下ろす丘だったと考えられています。
最盛期には100戸、500人ほどの集落であったと推定されています。
獣や魚の骨が多数見つかっています。魚はマグロ、マダイ、ヒラメ、ブリ、ボラ、マダラ、 サメ、
カニ、集落の周りには栗やイヌビエの畑も見られ、豊かな食生活をしていたことが見られます。
糸魚川産のヒスイや北海道産の黒曜石などもあり、遠距離交易が行われていたことも明らか
に なっています。三内丸山遺跡に立てた6本の巨柱をたてる祭りは、ひろく北アジアでおこな
われて いました。アラスカ・カナダへ渡ったモンゴロイドのインデアンも、
遥かヨーロッパに移ったコーカソイドのゲルマン人も、それぞれトーテム・ポールや
メイ・ポールを建てています。八ヶ岳に近い長野県諏訪大社では、古くから重要祭祀の
〈御柱〉行事 があって、7年ごとに境内に巨柱を建てていますから、これら巨柱祭祀は、
北アジアのシャーマニズムがその信仰の基本になっていると考えられます。
シベリア・バイカル湖の東に住むブリアート族は、 日本人に最も近いDNAを持つ民族です。
このブリアート族は温暖期が終わった5000年ほど前から南下を始め、
南東に向かった民族が朝鮮人、日本人の祖先、
南西に向かった民族がチベット人、ブータン人の 祖先となっています。
中国人のDNAからその特徴をみることはできません。 日本人と中国人のDNAは
全然異なり、日本人と中国人の間の骨髄移植は不可能なほどです。
南東方面に南下したブリアート族は最初から朝鮮人と日本人の先祖に別れていて、
朝鮮人が日本人の先祖と言うわけではありません。これは日本語が朝鮮語から
別れてできた言語とするには違いが多過ぎて、早い時期に日本語と朝鮮語に別れ、
両者が独自に発達したとしか考えられないからです。
日本列島へ渡来した縄文人たちは、平和を愛し漁猟・採集を主とした民族でしたから
北方の騎馬民族のように攻撃的ではありませんでした。
彼らは河川・海洋から巧妙な魚介類をつかって豊富に魚貝類をとり、これを交易品に
して 先進文化圏の中国などから文化・文物を入手していたようです。
特に古代中国は貝を 財貨にしていたので、倭人たちは南海海中から宝貝(子安貝)
などを大量に採集して 交易をしましたから、中国から貴重で高級なもの、
例えば絹織物・青銅器・ガラス玉器などを 手に入れていました。
PR
カレンダー