倭人のことが初めて書かれた 、山海経 、 海内北経 は
【葢国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。】
と記しています。
葢国とは、穢(カイ)国と考えられますが、 倭という民族は、
北は高句麗領域から、南は日本列島に至るまで大きく広がっていたのです。
そして、そのうちの楽浪海中の倭人が、時折、楽浪郡か燕を訪れて挨拶していた
ことになります(漢書地理志、燕地)。 燕は箕子朝鮮のことです。
魏志鮮卑伝には、 【鮮 卑王、檀石槐が烏侯秦水までやって来たが、川に魚が見えるのに
捕えることができない。汗人が魚を捕えるのに巧みであると聞き、東方に軍を出して汗国を
討ち、千余家を捕えて烏侯秦水のほとりに移住させ、魚を捕えて食料不足をしのいだ。
今に至るまで、烏侯秦水の付近には汗人数百戸が住んでいる。】
という注が見られます。
この汗人は干 人(呉人 )とも、干(カン)は呉の別表現とされ、呉越は干越と表記されて
います。 時代は後漢の霊帝、倭国大乱の頃。
後漢書では、この 汗人 が 倭人 に置き換えられているのです。
中国、春秋時代の後半、長江河口部には「 呉 」という国が栄え、南方の「 越 」や
西方の「 楚 」 北方の「 斉 」と激しく対立していました。
長江河口部北方、呉の領域に干という地名が存在したようです。
これは【呉越同舟】で知られる「呉」の国のことです。
そもそも神武時代には未だ朝鮮人も日本人も存在せず、朝鮮半島南部と九州とはワンセット
の文化圏でした。『隋書』百済伝は【百済の人には新羅、高句麗、倭などが雑っていて
また中国人もいる】と記されています。これより先、朝鮮半島には、ツングース、オロチョン
モンゴロイド、チュルク族など、穢族や伯族、韓(三韓族)、倭人(北倭)がいました。
このうちの北倭と扶余族=ウラルトゥ(ウガヤ)人=神武が共同して、百済を建国したのです。
現皇室の祖、神武たちは船に乗って、朝鮮から北九州へ渡来し、邪馬壱国を建てたのです。
【日本書紀】は道臣命が神武軍団の指揮官として大来目(おおくめ)を率いていたと
記していますが、大来目とはメコン流域のクメール人のことです。
倭人とは秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり
扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し
近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散していったのです。
神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことです。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治しました。
神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことです。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治しました。
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