セレンディピティ

セレンディピティ

2011/05/15
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 倭人のことが初めて書かれた 、山海経 
 海内北経 
 
  【葢国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。】 
と記しています。 
 葢国とは、穢(カイ)国と考えられますが、 倭という民族は、 
 
 北は高句麗領域から、南は日本列島に至るまで大きく広がっていたのです。 
 そして、そのうちの楽浪海中の倭人が、時折、楽浪郡か燕を訪れて挨拶していた 
 ことになります(漢書地理志、燕地)。 燕は箕子朝鮮のことです。 
  
 魏志鮮卑伝には、 
 【鮮 
 卑王、檀石槐が烏侯秦水までやって来たが、川に魚が見えるのに 
 捕えることができない。汗人が魚を捕えるのに巧みであると聞き、東方に軍を出して汗国を 
 討ち、千余家を捕えて烏侯秦水のほとりに移住させ、魚を捕えて食料不足をしのいだ。 
  今に至るまで、烏侯秦水の付近には汗人数百戸が住んでいる。】 
という注が見られます。 
 この汗人は干 人(呉人 
)とも、干(カン)は呉の別表現とされ、呉越は干越と表記されて 
 います。 
 時代は後漢の霊帝、倭国大乱の頃。 
 後漢書では、この 汗人 
 倭人 
に置き換えられているのです。 
 中国、春秋時代の後半、長江河口部には「  
」という国が栄え、南方の「  
」や 
 西方の「  
」 北方の「  
」と激しく対立していました。 
 長江河口部北方、呉の領域に干という地名が存在したようです。 
 これは【呉越同舟】で知られる「呉」の国のことです。 
  
 そもそも神武時代には未だ朝鮮人も日本人も存在せず、朝鮮半島南部と九州とはワンセット 
 の文化圏でした。『隋書』百済伝は【百済の人には新羅、高句麗、倭などが雑っていて 
 また中国人もいる】と記されています。これより先、朝鮮半島には、ツングース、オロチョン 
 モンゴロイド、チュルク族など、穢族や伯族、韓(三韓族)、倭人(北倭)がいました。 
 このうちの北倭と扶余族=ウラルトゥ(ウガヤ)人=神武が共同して、百済を建国したのです。 
 現皇室の祖、神武たちは船に乗って、朝鮮から北九州へ渡来し、邪馬壱国を建てたのです。 
 【日本書紀】は道臣命が神武軍団の指揮官として大来目(おおくめ)を率いていたと 
 記していますが、大来目とはメコン流域のクメール人のことです。 
 倭人とは秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり 
 扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し 
 近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散していったのです。 
  
  
 
神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族の
タケミカヅチのことです。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、
3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。
卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。
その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都を
ここに移して統治しました。
 
神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族の
タケミカヅチのことです。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、
3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。
卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。
その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都を
ここに移して統治しました。





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最終更新日  2011/05/19 03:13:45 PM


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