旅行記 クライストチャーチ '18.09月 0
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浅間(せんげん)と名の付く神社がいくつもあることを知ったのは、先月末、「さあ、明日が富士山への出発だ」という夜だった。元来私はどこへ行くにも下調べをしない。行き当たりばったりでこれまでも旅を続けてきたものだから、それが海外ではなく国内でも、一人ではなく母を連れていても変わらない。ただ今回は、富士山がご神体であり、御祭神がコノハナサクヤヒメ命である浅間神社をお参りしようと何故か心に強く思った。当初、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社参拝を決めていた。本宮とあるのだから容易に気付いても良さそうだが、全国に浅間神社は1300もあるようだ。それらは主に関東甲信、東海地方に祀られており、四国に住む私にとって聞きなれていなかっだけだ。しかし、行く直前に行先が変わるのも私のクセ。偶然、富士山の北口にあたる山梨県富士吉田市にも1900年の歴史をもつ神社があることを目にする。参道には古木が繁り、高さ18mの日本最大木造鳥居が聳えるという。人の多い場所を好まない私は、そのひっそりとした独特な雰囲気に気持ちが固まった。実際に訪れてみると、空気が冷たく澄んだ深い木々の向こうに、厳かで霊験あらたかな古社が控えていた。ここも世界文化遺産「富士山」構成資産として登録されている。そして、富士吉田口登山道の起点でもある。北口本宮冨士浅間神社ー御祭神ー 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 天孫彦火瓊々杵尊尊(テンソンヒコホノニニギノミコト・木花開耶姫の夫) 大山祇神(オオヤマヅミノカミ・木花開耶姫の父)ー由緒ー人皇12代景行天皇40年(110年)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)御東征の砌、箱根足柄より甲斐國酒折宮に向かう途次、当地御通過、大塚丘にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。
2018.04.14
「でね、一度住職さんに釈迦如来さまと薬師如来さま、阿弥陀如来さまのどれが一番偉いのですか?と尋ねてみたことがあるんです。さて、どれが一番偉いと思う?」私はなんとなくピンときて、「お姿を変えてるだけで、どれも同じ」と答えてみた。「お、正解!」はじめは時間を気にしていた私も、西明寺の従業員であるというおじさんの話に段々のめり込んできて、時を忘れ聞き入っていた。ペンライトを再び秘仏である薬師如来像が入っている箱に戻す。そこには4つの紋が描かれていた。「左端は徳川の葵の紋、右端もご存知、菊のご紋。」「左から二番目は、江戸時代にこの寺を復興させた望月家の紋でして、望月家といえば甲賀忍者、、、」「え?忍者?」こんなところで忍者の話が出ようとは、恥ずかしながら忍者といえばハットリくんしか知らない私はびっくりしてしまった。いや、ここは近江の国なのだから忍者が出ても不思議じゃないかもしれないが、心構えができていなかった。「あの松尾芭蕉が伊賀の忍者だったのも有名な話だよね。」「へ?松尾芭蕉が忍者???」頭の中、どんぐり眼(まなこ)にへの字口の松尾芭蕉が回っている。「そうだよ、松尾芭蕉は幕府のお庭番で、当時貧しくてお米もあまりとれなかった東北の人々が年貢を誤魔化していないか調べるために、表向きは俳人として奥州と北陸を巡った記録が「おくのほそ道」なんだよ。」頭の中、くるくるほっぺにふくめん姿の松尾芭蕉がスパイをしながら歌を詠んでいる。「え?これ有名な話だよ。」驚く私におじさんは続ける。「で、甲賀の望月家もそう。幕府より指示を受け、島原の乱で知られる隠れキリシタンを見つける諜報活動をしてたわけだ。」「任務は果たせたけれど、それによって多くの百姓たちが命を落とした。その罪滅ぼしもあってこの寺に入り復興させたといわけ。」「なので、ここに望月の紋がある。」「もうひとつはさっきお話ししたように、生まれる前と現世、そして死後の世界がくるくる回るのを表現したもの。」「色んなお話を伺いましたけど、私的には松尾芭蕉が忍者っていうのがすごく面白かったです。」頭の中、まだ黒装束で手裏剣を持った松尾芭蕉が古池の前で腰かけている。「芭蕉もいいけど、自分の干支の十二神将像にお願いするのを忘れずにね。いい、干支を間違えたら聞いてもらえないからね。」それにしても、さすがは近江の国。花見に彦根を訪れて、まさか忍者にまで話が及ぶとは、まして隠れキリシタンまで登場するとは思いもしなかっただけに非常に興味深かった。国宝の古い建物ばかりじゃない歴史を感じながら、帰路車を走らせる。
2018.04.11
「まあ、ここに座りなさい。」国宝の本堂の中に足を踏み入れた私に、お寺の男性が声を掛けてくださった。「どちらから見えられたのですか?」「四国の香川です。」「じゃあ、ライバルというわけだ。」???「ここはね、天台宗のお寺なんですよ。」「ああ、お大師さま、、、」彦根城の帰り、いたるところにある桜並木に目を奪われながら、湖東三山のひとつ、西明寺を訪ねた。一番美しいのは紅葉の季節らしいが、8年ほど前、同じく湖東三山の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れた際、京都とはまた違う趣きの深さに感動し、他の二つの寺院もお参りしたいと思っていた。湖東三山とは、琵琶湖の東側にある三つの天台宗寺院をまとめてそう呼ぶ。「ここの本尊の薬師如来さまは秘仏でね、実は私も見たことがない。」この後、40分ほど説明が続くことになろうとは知らない私は、「へえ」と本堂中央に座した。写真の薬師如来像は左手に薬壺を持ち、右手の薬指は少し前に曲げられていた。薄暗くてよく見えなかったが、薬壺を持つ左手も僅かに薬指のみ曲げられているようだった。「薬指は薬師如来さまからいただいた指でしてね、薬などはこの指で塗ると治りが早いですよ。」「生きている間は誰しも病気をしますから薬師如来さま、生まれる前は釈迦如来さま、亡くなった後は阿弥陀如来さまが守ってくださります。釈迦如来さまは手のひらを見せる形、薬師如来さまは先ほども言ったように薬指を曲げてらっしゃる。そして、指で輪を作ってらっしゃるのが阿弥陀如来様。」こういう話をじっくり聞く機会がなかった私は、少し前のめりになって真剣に頷いていた。秘仏の薬師如来像を祀った箱の両側に並ぶ十二の像にライトを移して説明を続ける。「あんたの干支はなにかな?」「ネズミです。」「じゃあ、子年の像を拝むんだよ。それ以外に拝んでも聞いてもらえないから。」薬師如来を守護する十二神将は、生まれ年の干支の守り本尊とされている。「ここの十二神将立像は、文字の読めない人にもわかるように頭上に干支を乗せてるのでよく見てごらん。」「この像が造られた当時、日本にはトラと羊が入ってきていなかったから、この二つは本物と全然似てないのが面白いだろ。」西明寺の十二神将像は、運慶の弟子の作と伝わっている。「ここはね、宝くじとギャンブル以外はなんでも言うことを聞いてくださるからね。それも一つだけじゃない、いくつお願いしても聞いて下さる。」別に頼み事をしようと思ってお参りにきたわけじゃない私は、何をお願いすればよいか思いつかずきょとんとした。「もしも他の方のお願いを代わりにする場合は、その人の干支に向かってするように。」「実は、私も息子もここでお願いして癌が治ってね。・・・・・・・・・・・」おじさんは非常に話が好きらしい。住職さんではないとのことだった。「あ、国宝なのはこの建物の本堂と三重塔。どちらも鎌倉時代の作で、まず本堂が滋賀県第一号の国宝に指定されて、その数年後に三重塔。二天門は室町時代作で重要文化財。」「実はこのお寺も戦国時代に織田信長に焼き打ちされたんだけど、本堂と三重塔、そして二天門のみ焼かれずに済みましてねえ。」昔習った教科書では、信長といえば延暦寺の焼き打ちとしかなかっただけに驚いた。話は延々とその後も続いた。外は青空が広がり、さきほど歩いた庭園では陽の光が眩しく踊っているに違いない。この寺のお庭は蓬莱庭と呼ばれ、薬師如来や十二神将などをあらわした石組と鶴亀の形をした島が浮かぶ池が美しい。苔の緑に心鎮まる。ー 龍應山西明寺略縁起 ー西明寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。平安、鎌倉、室町の各時代を通じては祈願道場、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧房があったといわれている。源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられている。戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当寺も焼き打ちをしたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存しているのである。江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興され現在に至っている。
2018.04.08
犬を連れて遠出をすると、色々な方によく声を掛けていただける。彦根城では、お隣の岐阜県より来られた女性に話しかけられた。ご主人が写真を撮るのが好きで、桜の時期はよく彦根を訪れるらしい。「うちも犬を飼ってたんだけどねえ、孫のアレルギーのせいで犬を飼えなくなって淋しくて。息子は私の実家のある富士宮市にいるんですけどね、ほら、帰ってくるときはいつも孫を連れてくるから。」一面、溢れんばかりに咲き誇る桜の木の下でしばらく会話を続けた。聞けば、静岡の息子さんから「今日の富士山」の写真が毎日送られてくるという。「あ、私たちも富士山へ行ったばかりです。」と、今度はうちの母。「え?どうやって?」「犬がいるものですから、娘が車を運転して。」「え?一人で富士山まで運転ですか?」はい、ここでもちゃんと驚いてもらえた。笑実は先月下旬、私たちは再び富士山を目指していた。とはいっても、これで四度目となる富士山行きは、山梨にある馴染みのペンションを基点として伊豆と鎌倉へ足を延ばすためだ。伊豆は両親の新婚旅行の地であり、鎌倉も母にとって父と旅した想い出の場所。時間が足りなく駆け足の旅となったが、その間もずっと富士山はわれわれを見守っていてくれた。11月下旬と比べると、春霞のせいか少し淡く優しい富士山ではあったが、山梨側からは一度も雲に隠れることはなかった。富士山という共通の話題に話が弾む。「そうそう、息子が教えてくれたんですけどね、富士山の写真を東から西に向けて飾っておくと災難から守ってくれるんですって。」「へ~、富士山が」 母は熱心に聞いていた。私はというと、じゃあ災難は東から来るのか?と心の中でツッコミながらも桜を写真に収めることに懸命だった。しかし、何事も素直さが大切。数ある富士山の写真のどれを引き延ばして飾ろうか。ただ今、検討中である。2018-03-28 9:22精進湖(山梨県富士河口湖町)
2018.04.07
4月3日、ちょうど満開を迎えた桜を観に彦根を訪ねた。彦根へは、どんなに車を飛ばしてもわが家から5時間は優に掛かる。だが、彦根城の桜が一番好きだと母は言う。濠を囲む咲き誇った無数の桜の競演もさることながら、一本一本の枝ぶりも花弁のまとまりも別格の美しさだと私も思う。彦根行きを決めたのは、先月末のことだった。その日の朝、行きつけの喫茶店で古い雑誌を開いた私は、こんな記事を偶然目にした。「城にはなぜ桜が咲くのか」その中で、日本城郭史学会代表(当時)の西ケ谷恭弘さんはこう語っていた。(以下、抜粋)日本の城址を訪ねると、近くに靖国神社が建てられていることが多い。明治4年の廃藩置県により、日本のほとんどの城郭は破却され、その跡地の広々とした城址は、招魂社や学校、軍用地などに利用される。招魂社は東京では靖国神社、地方では護国神社と呼ばれ、戦死者の霊を祀る社であり、その霊を慰めるため桜が植えられたのがそもそものきっかけである。明治政府は桜が一斉に散るさまを「潔し」とし、武士道精神に関連付けて桜の植栽を進めた。護国神社の桜は、やがて城址も埋め尽くしてゆく。折しも明治34年、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」が発表され、城と桜の結ぶつきを強めた。城と桜は、明治維新以降に結びついたもの。戦国から江戸期まで、何の関係もなかったと、西ケ谷さんは言っている。本来、城に植えられた木は松だった。松並木は防風林となり、夜警の松明や柵を作る用材にも使え、樹皮の下の白く柔らかい部分は水でふやかせば救荒食にもなる。また、松脂は油や止血剤にもなり、松茸も採れる。松山城や高松城など、名前に松を冠する城が多いのはその名残である。読みながら、そうだったのかと納得した。以前も彦根で花見をした際、昭和9年に桜を植えるまで彦根城に桜は殆どなかったと耳にしていた。また、彦根城前には滋賀懸護国神社が鎮座している。私が20代半ば頃、職場のデイサービスで「同期の桜」を泣きながら歌っていた明治生まれのおじいさんの顔も思い出された。今では桜のない城など想像すらできないが、名城には桜が本当によく似合う。そう改めて感じた花見となった。
2018.04.06
日ごと天気が移り変わる春、休みと好天が重なった今月2日に弾丸観梅ツアーを敢行した。思い付きは前夜だったが、そうと決まれば早起きなんかは苦でもない。早朝5時に家を出て、龍野西SAで厚切りトーストに姫路アーモンドバターのモーニングを堪能、10時過ぎ大阪城公園に辿り着く。予定では9時半には到着するはずだったが、田舎では縁のない駐車場事情と融通のきかない道路事情に戸惑ってしまった。大阪城公園の梅林が素晴らしいことは以前母から教わっていた。20年以上前になるが、大阪城を訪れた際に天守閣から見下ろした先に広がる梅林に驚いたという。いつになく寒さ厳しい冬が長引き、梅の開花が大幅に遅れた今年、まだ満足に梅を見ていないことから大阪行きを決めた。雪に縁のない生活で車は夏タイヤのまま、近場でウロウロするしかなかった鬱憤をここで晴らそうとも思ったわけだ。急な遠出に少し面倒くさがっていた母も、大阪城と聞いて腰を上げた。結果、大満足の一日だった。天下の名城は梅の花もよく映える。屋台のたこ焼き屋のお兄さん曰く、「今年は寒かったからやっと咲き出したところ。2~3日前から多くの人が集まるようになってきたよ。」一気に暖かくなったからか、咲きはじめにしては開いた花が多かったように思う。小梅が愛らしい。公園内では梅に囲まれ囲碁を打つおじいさんやお弁当を広げる人々、中国や韓国はもちろん、フィンランドやフランスなどの外国人観光客とも大勢すれ違った。みんな自国の言葉で話しかけてくるので、何処から来たのかよくわかる。それはもちろん、私にではなく私が連れている愛犬たちに。犬を連れて入場できることも嬉しかった。20年前と比べると人出が多く、人混みになれていない私たちには大変だったが、母は父との思い出の場所を懐かしむことができたようだ。それならばと、父を追憶する旅を母にプレゼントしようと今あらためて計画中である。
2018.03.06
先月は本栖湖より千円札裏面の富士山を拝んできたので、今日は10円玉表面へ。宇治の平等院鳳凰堂。10円玉、10円玉と思っていたら、一万円札の裏面に描かれているのだって平等院の鳳凰像であるし、二千円札裏面はここ宇治も舞台になっている源氏物語絵巻と紫式部の絵柄である。と、別に貨幣柄を追っているわけではなく、今年最後の紅葉狩りに奈良を訪れ、その帰りに京都へも立ち寄った次第。奈良から四国への帰り、交通量が多く走りにくい阪奈道路を避けるのに京滋バイパスが頭に浮かんだのだ。京滋バイパスは名神高速より南を走るため、京都市内ではなく宇治の平等院へ行こうということになった。平等院にはこれまで一度だけ訪れたことがあった。大学入試の二次試験の帰りだったと記憶しているので、もう20年以上昔のことになる。もちろん世界遺産に登録される前の話であるから入園者もそう多くなく、まして外国人の観光客には全く会わなかったように思う。鳳凰堂内部に入るのだって当時は入園料だけで良かったような気がするが、今は別料金の上、解説付きの団体行動にまごついてしまった。過去の記憶が美化されているのかもしれないが、昔の鳳凰堂の方がしっとりしていたなあと残念に思った。それでも、本尊の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像を目の前にすると「ほお~」とため息が出てしまう。阿弥陀像は平安時代の仏師・定朝の作であることはうろ覚えながら頭に残っていたのだが、彼の作と確実に言い切れるものはこの本尊のみということを初めて知った。定朝が完成させた寄木造りのまさに頂点のような作品。その柔らかさは、実に極楽浄土をイメージするのに相応しい阿弥陀様のように感じた。こうして今年最後の紅葉狩りは、平等院の阿弥陀様のお顔のような柔らかい色合いで締めくくることとなった。
2017.12.05
「富士山を間近で見るぞ!」と心に誓い、4月四国から山梨まで車を走らせた。そこには確かに日本一の富士山が鎮座ましましてはいたが、首の周りに白いストールを巻いていたり、イングリッド・バーグマン張りにお洒落に帽子を被ったりと、すっきり全貌を拝むことはできなかった。そこで8月、再び東へ車を走らせる。私としては、これまでは縁もゆかりもない山梨が一気に身近になっていく。葡萄も買った、葡萄ジュースも買った、信玄餅も買った。そして夕暮れ時には雲も晴れ、ほんのり赤く染まった美しい富士の御山を拝むことができたのだった。大満足してのその帰り、立ち寄った奥飛騨での定宿のおかみさんに、「次は雲のない雪を被った富士山を見たくなるから」と告げられる。その暗示にかかったかのごとく、3ヶ月後に今年三度目の山梨行きを決行することになろうとは自分でも振り返り可笑しくなる。片道600kmは優にあるだろうか。軽自動車でそう簡単にブンブン行ける距離ではない。だが私は5日前、すでに富士山を見るための定宿になりつつある鳴沢村のペンションに泊まっていたのだった。2017-11-24 8:45 田貫湖畔(静岡県富士宮市)「富士五湖というけれど、実はもうひとつ湖が静岡側にあるんだよ。」「田貫湖っていうんだけど、そこからの富士山も綺麗だから一度行ってごらん。」一気に山梨まで走った春夏とは違い、今回は朝一番田貫湖到着を目指して四国を出た。2017-11-24 9:15 田貫湖初冬の空気は冷たく澄んで、富士山をくっきり浮かび上がらせる。こんなに迫力ある存在感のある山だったんだ。淡くほわんと目の前にあった夏の富士山からは別人のような力強さを感じた。圧倒された。2017-11-24 9:25 田貫湖畔2017-11-24 13:25 河口湖畔(山梨県富士河口湖町)2017-11-24 15:00 本栖湖(山梨県身延町)2017-11-24 16:55 ペンションより(山梨県鳴沢村)今年の富士の初冠雪は例年より遅く、しかも10月下旬には台風のせいで一度雪が溶けてしまうことがあった。まさか11月下旬まで雪のない富士山はないだろうと思っていたが、いかにも前髪をぱっつんと切ったかのような雪の被り方も好みではない。どうだろう、私の思い描く姿を富士山は見せてくれるのだろうか。天候はたぶん大丈夫だろう。だが、直前の急な冷え込みにもスタットレスタイヤを持たない私は微かな不安を抱いていた。2017-11-25 6:15 ペンションより2017-11-25 6:45 ペンションよりそして予報通り、天気は快晴。しかも道中思うほど冷え込みもなく、富士山4合目まで難なく愛車で走ることができたのだった。「最近まで富士山の雪は少なかったんですが3日前の夜に雪が降りまして、そうですねえ、今の富士山はひとつき先の景色ですね。」ペンションのご主人は、例年なら12月上旬まではお椀をかぶせたような雪の被り方だと教えてくれた。本来なら、私の好まない前髪ぱっつんの富士山だったのだ。2017-11-25 9:05 ペンションより運がいい。2017-11-25 9:55 本栖湖2017-11-25 10:05 本栖湖2017-11-25 10:05 本栖湖2017-11-25 10:10 本栖湖2017-11-25 10:35 朝霧高原(静岡県富士宮市)2017-11-25 11:05 白糸の滝(静岡県富士宮市)どんな姿であろうとも富士山は別格だと私は思う。いつまでもどこまでも見飽きることなく見続けられる。次はどんな表情を見せてくれるのだろうか、目が離せない。けれど今回、これほどまでに神々しい姿を見せてくれるとは。富士山に感謝することしきりである。2017年、いい一年の締めくくりになった。
2017.11.29
「ついで」というのは神仏事では褒められたものではないが、せっかく奈良まで来たのだからと東大寺に立ち寄ることにした。いや、東大寺というよりは「奈良の大仏さん」に会いに行こうと思ったのだった。「奈良といえば大仏さん、大仏さんといえば奈良」だろう。奈良県内には何度も足を運んでいる私だが、ここ10年近く大仏さんを訪ねていない。そういえば、奈良公園の鹿さんたちにも挨拶しよう。それになんといってもこの旅の本命、運慶を中心とした慶派一派による「南大門の金剛力士像」を忘れちゃいけない。そして東大寺の中で最も天平時代に思いをはせることのできる「八角燈籠」も楽しみだった。飛鳥からは100年ほど歴史は浅いが、それでも700年代。日本はどんな未来を目指していたのだろうか。なんか久しぶりに「奈良に来たー!!!」という感じだった。今年は10月7日~9日に「鹿の角切り」があったらしい。そして、秋は鹿さんの恋の季節、発情期のため注意するよう教えてもらった。
2017.10.13
「わしは六甲を見ながら育っとったんか、と思ったわけよ。」ふらり立ち寄った「ぶどう」と掲げた産直市のおじさんは、二上山と畝傍山、甘樫丘の遥か向こうに連なる山々を指してそう言った。なんと、明日香村から神戸の六甲山が見えるんだそうだ。そろそろ西日本では終わりに近い頃だろうか、色も味も濃い巨峰を味見する私に、おじさんは教えてくれた。石舞台古墳の傍にある食堂で昼食をとった私たちは、桜井市にある二つの寺院を巡るため車を走らせていた。どこもかしこも日本の古代史に登場する場所、おじさんの話は尽きない。「ここは小原(おおはら)地区といって、藤原鎌足誕生の地でね。」懐かしい日本の原風景が広がっている。奈良県は飛鳥地方。今年5月、キトラ古墳と高松塚古墳壁画を見学して以来の訪問だった。車窓からは、黄金色に実った稲穂にすでに色あせた赤い彼岸花の景色が続く。青空の下、ススキの穂は気持ちよく風になびいている。ところどころ古代へといざなう史跡案内の道しるべが道行く人の目を引いていた。ここはいつ来てものどかでいい。そして今回のお目当てが、ここ飛鳥でしか出会えない仏像を巡ることだった。一つは聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩。あのアーネスト・フェノロサが激賞したという天平時代のミロのヴィーナスだ。お姿全体から溢れる堂々たる優美さと指先まで行き届いた繊細さに、よくぞ廃仏毀釈の波を乗り越えてくれたと心底思う。そして、ここは郊外のひっそりとしたお寺であるため、国宝の観音菩薩と一対一で好きなだけ対面できる贅沢さえも味わえた。* * *現在、興福寺中金堂再建記念特別展として『運慶』展が東京国立博物館で開催されている。それに触発されたわけではないが、「ちょっと快慶を観に行こう」と思い立ったのが、この飛鳥旅のはじまりだった。ちなみに、『快慶』展は、奈良国立博物館にて今年の春に大盛況で幕を閉じている。国宝級の仏像が並ぶ特別展も悪くはないが、なにせ人の多さが気になる私は年々そういう展示ものから足が遠退き、またどれもこれもがメインの仏像ではすべての印象がぼやけてしまうこともあり、面倒ではあるが一つ一つ足を運べたらという想いが飛鳥まで私の背中を押してくれた。それは、日本三文殊のひとつである安倍文殊院のご本尊、国宝・渡海文殊菩薩群像。(安倍文殊院HPより)今から800年以上も昔に大仏師・快慶によって造立された、説法の旅路の文殊様が4人の脇侍を伴って雲海を渡っている姿を現したものだ。獅子に乗った文殊菩薩像は高さ7mにもなり、日本最大の文殊様でもある。もうなんと言えばよいのか、素晴らしい、美しい、神々しい、圧倒されるなどという月並みな表現では到底表しきれないものがそこにあった。いつまでもいつまでも見ていられる、見ていたいお姿。飛鳥の地でまた新たに出会えた尊い仏像に、はるばる車を走らせた疲れも一気に吹き飛ぶ。境内には可憐なコスモスが風に揺れ、のどかで優しい飛鳥の秋がそこにあった。
2017.10.06
「私にとって、富士山はいつもそこにある景色なの。」もう25年以上前のことだが、東海地方の某大学の2次試験を受けた際、静岡県は三島出身だという女の子と出会い、受験日の1日を共に過ごした。「逆に、富士山のない景色の方がフシギなぐらい。」その時、彼女の台詞で一番印象に残ったのがそれだった。そして、当然ながらよく目にする富士山の写真は常に堂々と鎮座ましまし、だからといってはなんだが、私は静岡県や山梨県に行けばその景色を当たり前のごとく見れるものだと思い込んでいた。もちろん天気の悪い日は地元の低い山々でさえ姿を消すが、どこか富士山は特別のような、そう信じたいところがあったのだと思う。ところが初めて山梨県を訪れた今年4月は深く雲をまとっており、すっきりと姿を現すことは決してなかった。山頂周辺は風が速く、頭を隠す雲たちはあっという間に遠く流れていきそうなのに、次から次へと新たな雲が生まれては富士の御山から離れない。裾野の広さに感動したものの、やはり富士山も他の名峰と同じくそう簡単には全貌を見せてくれないのだ。期待が大きかっただけに、がっかりという気持ちがなかったといえばウソになる。いつもそこにある富士山、富士山のない景色の方がフシギと言った三島の彼女の言葉が逆に私を寂しくさせた。確かに、いつも富士の全貌が見れるとは彼女は言ってない、しかし。この8月25日も、新東名高速の新富士ICを降りた時には重い雲があちこちにただよい、今回も無理だなと諦めのような思いが胸に広がった。どっと疲れが私を襲う。そして、悲しかった。どうしてそこまで富士の全貌にこだわるのかというと、それは綺麗なみ姿を母に見せてあげたいという気持ちの他にもうひとつ。以前ブログにも書いた昨年9月に亡くなった私の尊敬するある女性が山梨出身であったから。その方の面影と重なる富士の優美さを見ることで、私はどこか慰められたかったのだろう。だからその姿が全て現れた時、心の底から嬉しかった。尊いなと思った。美しいと感じた。今度は雪を被った気高い姿を見せてくださいね。そっと富士の御山に手を合わせる。
2017.09.02
長野県松本市の中町通りにある「やまへい」という漬物屋さんがお気に入りの母。お店の奥様とお喋りするのも楽しいからだ。松本を訪れるとその「やまへい」さんと松本城には必ず立ち寄ることに決めてある。その日、お昼を少し回っていたにも関わらず、松本城では蓮の花が美しく咲いていた。しばしお城と蓮に見入っていた我々は、お決まりの「やまへい」さんへと向う。愛犬を連れての旅なので、店に入るのは母だけにして、私は犬と一緒に店先に置かれた長椅子に腰を下ろした。「遠くから来たの?」一人のおじいさんに声を掛けられた。おじいさんは手持ちの袋から一つ桃を取り出し、「この時期なら、信州の土産にこれ以上のものはないよ」と教えてくれた。「川中島白桃と生で食べられる白いトウモロコシは、ここをまっすぐ行った処にあるマルシェで売ってるから、ぜひ寄ってみな。」四国に住む私はこれまで川中島白桃という桃に出会うことがなかった。周りの友人たちに聞いても、まず知らない。近頃になってようやく地元の産直でも色の悪い小さな桃が、一応「川中島白桃」と名乗って置かれてあるのを目にするようになったが、手に取ることはもちろんなかった。それに、海を挟んで向かい側の岡山は桃の国。今年も岡山へ出掛けた際に購入した清水白桃に大満足した私はそれ以上を望んでいない。けれど、時々耳にする「川中島白桃」が気にならないわけではなかった。「やまへい」さんから出て来た母に犬を預け、私は小走りでマルシェを目指した。「これが川中島白桃ですか?」ピンク色をした綺麗で大きな桃だ。はあはあと少し息切れしながら、籠の中に4個だけ転がるその桃を指し、店員さんに尋ねた。「もう残りはそれだけになってしまいました。今が食べごろです。一個でも十分食べごたえがありますよ。」私は川中島白桃を2個買った。今朝、常温に置いてあったその桃の1個を氷水で15分ほど冷やし、食べてみた。想像していたよりは清水白桃にも近い味を感じたが、その果肉の締り具合には驚いた。食べごたえがあるというより、母と私の2人では1個食べるのも多いくらいだ。すごく重い。「桃」はドイツ語では男性名詞、フランス語では女性名詞なんだそうだが、清水白桃がフランスで川中島白桃がドイツといった感じ。これはどちらが美味しいというより好みの問題なんだろうが、私には重すぎだ。しかし正直なところ、そう感じたことにホッとしている。もしも川中島白桃の方が清水白桃よりも私の好みであったなら、これから毎夏、四国では手に入らない美味しい川中島白桃を求めて彷徨わなければならなくなるから。それにしても、「桃」を絵に描いたなら、一番おいしく映るのは川中島白桃だろうなあ。本当にいい色をしたとても綺麗な桃だった。(信州の川中島白桃と甲州のブドウがこの旅の戦利品)
2017.08.28
4ヶ月ぶりの再訪。今、山梨県は鳴沢村に来ている。定点観察のペンションより本日の富士山。15:1116:2216:3517:0417:1317:3317:4917:5317:5918:1018:1518:2018:2318:26
2017.08.25
京都国立近代美術館を後にした私は京都最古の禅寺・建仁寺に赴いた。洛バス100号に乗れば、近代美術館から建仁寺の最寄りとなる清水道まで乗り換えなしで行くことができる。そのお目当ては俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(原本は京都国立博物館へ寄託)ではなく、天井画の「双龍図」と海北友松の襖絵「雲龍図」。この寺には龍や風神雷神図以外にも、禅宗の四大思想である地水火風を表すとされる「〇△□乃庭」に禅庭の「潮音庭」など見どころは沢山あるのだが、その日の私は龍に集中と決めてあった。時間に余裕がなかったこともあるが、とにかく大迫力で龍が見たい!そんな気分だった。であるから、寺に到着するや一直線で法堂(はっとう)へ向かう。法堂の天井に双龍が描かれている。小泉淳作筆「双龍図」・縦 11.4m、横 15.7m(畳108枚分)これは建仁寺開創800年を記念して、構想から2年の歳月を経て平成13年10月に完成し、平成14年に開眼法要が執り行われたもの。建仁寺の歴史の中で、この法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、創建以来初めての天井画となるらしい。通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いのだが、この双龍図は阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられ、その二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿なのだと説明書きにあった。頭上一杯の大迫力でしばし動けず。海北友松筆龍は仏法を守護する存在として、禅宗寺院の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物の火災から護るという意味が込められているのだそうだ。龍の大胆にうねる構図と大きく見開いた眼(まなこ)は描く者によってその表現は千差万別であるが、それぞれに趣きがあって出会うたびに胸に届くものがある。海北友松の龍は特にしびれるものがあった。海北友松(かいほう ゆうしょう)は安土桃山から江戸時代にかけての絵師であり、父は浅井家に仕える武将であったらしい。若冲より100年以上昔に生きた人なのか。ちょうど今年の4~5月に京都国立博物館で開館120年を記念して彼の特別展があったらしいが、その情報を知らなかった私は惜しくも見逃してしまった。いや、海北友松という人物自体、恥ずかしながら知らなかった。改めて、自分は日本画家の絵師に対して全く知識がないことを痛感する。ここで、せっかく一人で京都のお寺に来ているのだからと写経に挑戦することにした。般若心経は頭の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」くらいしか知らないけれど、どうせ紙に書かれた文字を筆でたどるだけだから私にもできるだろう。筆の代わりに筆ペンもお寺に用意されていることもあり、気軽に申し込みを行った。書き始めて2~3行目だったと思う。とにかく文字が薄い。画数が多く少し崩された文字、ましてや常用漢字にないものはなかなかわかりづらかった。顔を近づけたり遠ざけたり、どうにかしてその線を辿ろうと努力するものの薄くて見えない。用紙を持ち上げて透かしてみるもはっきりとせず、自然と目を細めながら手を伸ばして見ようとする自分に気づきハッとした。も、もしや、老眼?????40代にもなるとそろそろと聞いてはいたが、とうとう私もその仲間入りなのか?老眼とは老いる眼と書く。 そう、老いると書くのだ。そうなると、もう心鎮まるはずがない、心穏やかなはずもない。最初こそ一文字一文字丁寧に文字を追っていたが、見えにくい文字がどんどん現れてくるたびに心は乱れていく。そして、いくつの文字を誤魔化しただろう。こうして、自分としては生まれて初めての写経は45分かけて未完成のまま完成した。あんなに満足した龍もそっちのけで、頭の中は老眼の二文字がぐるぐる巡る。すぐさまスマホで「老眼」を検索する。すると、どうも老いた眼の症状に私はまだ当てはまらないようだ。単なる疲れ目か、眼鏡の度数が合わなくなったか。しかし建仁寺以来、老眼疑惑が私に付きまとって離れないことをこの場で白状しておこう。
2017.07.18
昨年の熊本地震でショックを受けたのが熊本城と阿蘇大橋、そして阿蘇神社倒壊の映像だった。神社の楼門と拝殿の無残な姿には居たたまれない気持ちになった。神様がいらっしゃる場所なのにどうして、とも思った。別府港から高速で湯布院へ、そこから下道で2時間ばかり。至るところで地震の爪痕を目にしながら走った。阿蘇神社も復旧工事中で大きな囲いがされており、私はどうお詣りすればいいのか戸惑い、無料のボランティア案内を頼むことにした。案内役の女性は気さくな人柄で、手水の手順から丁寧に説明してくださった。「ここは神武天皇の孫にあたる『健磐龍命(たけいわたつのみこと)』を中心に、その子孫を含め12の神様を祀ってあります。なので、それぞれお得意の分野がございますので、どんな願い事でも叶えてくれますよ。」そんな話から始まったと思う。私は去年の地震で倒壊するまで、実はこの神社の存在すら知らなかった。「もともと有名な神社だったんですねー。」「結婚式で謡われる高砂の歌をご存知ですよね。」「ああ、『たかさごや~この浦舟に帆を上げて~』ってやつですね。」母も熱心に聞いている。「そうです。その高砂の歌に阿蘇神社の神主さんが出てくるんですよー。」どうやらあの歌詞は、播磨の国・高砂の浦を訪れた阿蘇宮の神官が松の下を掃き清める老夫婦にその松の謂れを問うところから始まるらしい。詳しいことは世阿弥作・能の演目『高砂』にゆだねるが、「千歳飴の袋にお爺さんとお婆さんの絵が描かれてるんですが覚えてます?」私と母はお互い顔を見合わせて首を傾げた。「お爺さんとお婆さんが箒と熊手を持っているのですが、それぞれどちらを持ってると思います?」「お婆さんの手に箒、お爺さんの手には熊手が描かれています。どの絵もそうなってるはずです。」「ほらあ、『おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで』って言うじゃないですか。『おまえ百(掃く)までわしゃくじゅうくまで(熊手)』、ね、分かります?高砂の松の下を掃き清めていたお婆さんが箒を、お爺さんが熊手を持っていたそうです。機会があれば、また見ておいてくださいね。」「で、これが参道になるのですが、珍しい横参道なんですよ。」「横参道?」「普通、参道は拝殿に向かうように伸びているのですが、ここは神社に並行して参道があるんです。」「昔から阿蘇山の中岳火口は神霊池と呼ばれ、その新宮と国造(こくぞう)神社を結んでいるのがこの参道です。」参道から一つ中に入ると修復中の楼門と拝殿の前に出た。「楼門は国の重要文化財なので元々の材木を使って復元することになります。なので実はこれ、まだ解体の途中なんです。」「番号をふって、取り壊す方が大変ですものねー。」「でも、ここの修復には伊勢神宮を受け持った宮大工さんが携わってくれてるんですよ。変な言い方ですけど、ここで技が引き継がれることは嬉しいです。」母も私も一つ一つに「へえ~」と興味深く聞いていた。「拝殿があった時は見ることが出来なかった神殿を今なら見ることができますので、ぜひお詣りなさってくださいね。」「神殿は無事だったんですか?」「損傷はありますが、楼門や拝殿のように倒壊はしなかったんです。」「大きな揺れだったのにこの辺りは被害が少なく済んで、みんな阿蘇神社が身代わりになってくれたと言ってます。それまでも参拝される方に身代わりのお守りを勧めてたんですが、あれからここで身代わり御守りを買っていかれる方が多くなりました。」聞けば楼門は重要文化財なので国から費用が出るらしいが、拝殿などの修復費用の一切は神社負担となるらしい。復旧には7年ほどを要するとのこと。私たちは身代わり御守りを買った後、少しばかりの御奉賛をさせてもらうことにした。偶然それに対応してくださって神官さんが地震当日当直だった方で、当時の話も聞かせてもらえた。「全然想像もしてなかったけど、阿蘇神社にお詣りできて本当に良かった。」母は今でもそう言ってくれる。改めて、この地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞い申し上げます。そして、一日も早い復興を願っています。帰ろうとする私たちを先ほどのボランティア女性が見つけて駆け寄ってきた。「お母さんがくまモンをお好きだと聞いて。ちょうど今貰ったものなんですけど、お母さん、どうぞ。」そのあと、阿蘇神社の北宮とも称される国造神社も参詣した。
2017.06.04
5月24日から一泊二日で大分と熊本を訪れた。九州へはこの1年半で三度目の訪問となる。それまで滅多に行くことはなかったし行く機会もなかったのだが、設備の整った清潔で環境のいいドッグラン付ホテルと出会ってからはお犬様孝行をするために度々足を運んでいる。笑それは由布岳を真正面に仰ぐ場所にあり、いつもならその美しい姿を存分に眺めることができるのだが、その日は残念なことに深く雲に覆われていた。けれどおかげで適度に芝生も湿っており、すでに真夏のようにギラギラした太陽を浴びることもなく、二日間好きなだけドッグランで遊べた彼らにとってはいい時間だったのではないかと思っている。その他の観光はというと、福岡や佐賀などに足を延ばすことも考えたのだが、何故かいつも阿蘇方面へと走ってしまう。今回は阿蘇と、大分県は杵築市にお邪魔した。杵築は国東半島の南端にあり、その昔は3万2千石の小さな城下町。今は和服の似合う町として大きくPRしているらしい。それは一言で云えば趣きある坂の町。それもただ坂が続くのではなく、なかなか面白い創りをした町なのである。市の観光協会の表現をそのまま借りると、日本でただ一つといわれる『サンドイッチ型城下町』。杵築城を中心に据え、『塩屋の坂』と『酢屋の坂』というそれぞれの坂の上にある南北の高台に屋敷を構えた武士たちは、その谷あいで商いをする商人たちの町を挟むように暮らしていた。二つの坂は、商人の住む谷町通りを挟み向かいあうように一直線に結ばれている。高台に続く武家屋敷通りも当時の面影を色濃く残しており、確かに着物を着てそぞろ歩いてみたいと思わせてくれる。ここで昼食をとることにした。前日、ホテルで見たテレビで「大分県民のソウルフードは『からあげ』か『とり天』か」みたいなのをやっていて、どちらを食べようかという話になった。谷町通りで立ち寄った和菓子屋さんのおかみさんは「私は『とり天』の方が好きですかねぇ」と言う。では、ランチは『とり天』にし、『からあげ』はテイクアウトにしようと決まった。大分を車で走っていると、いたるところでからあげ屋さんを見かけるのだ。入ったお店は笑食(わらべ)さん。なかなかのボリュームだが、とても柔らかくて美味だった。そして、これだけ食べたのだから満足する。満足しすぎて、もうしばらく鶏はいいやということになり、からあげは次回までお預けとなった。デザートは、和菓子屋さんで買ったイチゴの葛アイス。
2017.06.01
もうひと月になる。愛犬2匹を連れて母と2泊3日の旅に出掛けた。私の運転ではこれまでで最も遠出となる『飛騨・信州・甲州の旅』。終わってみると、3日間で1585kmも走っていた。飛騨の目的は『奥飛騨温泉』。2年半前に利用した宿がとても気に入って、今回で四度目の訪問となる。これまで松茸の美味しい秋口に行くことが多かったのだが、宿の奥さんが「次はぜひ4月においでください。この辺りで採れた野草の天ぷらがとても美味しいから、せめてGWまでに来ていただけるとご馳走できますよ」と教えてくれていたこともあって旅程に入れた。そして、本命の行き先というのが『富士山』だった。それは決して登るのではなく見上げるだけの為だ。これまで高速道路のSAだったり新幹線や飛行機からだったりと、一応富士の御山を見たことはあるが、そうじゃなく一つの場所で心ゆくまでのんびり眺めていたいと思ったのだった。その思いが去年の暮れ頃から段々と大きくなって、もう行くしかない!と立ち上がった。それは山梨側からの富士山。そうなると、奥飛騨から山梨までの道筋には信州の松本があり、母の好きな松本城も外せない。お城の近くの中町通りにあるお気に入りの佃煮屋『やまへい』さんにも立ち寄ろう。そうやってどんどん行程ができあがった。ところが、天気予報では三日間のうち二日があいにくの雨。しかも、富士山の麓に滞在する日に限って天気が悪いという予報だった。私はその口惜しさを奥飛騨温泉で泊まった宿の奥さんに零してみた。宿を経営するご夫婦は横浜にも家があり、富士山周辺についても非常に詳しい。奥さんは、「じゃあ、裾野を見てきたらいいわ。遠くの方は富士山の裾野を知らないでしょ」と言った。裾野?その時はなんで裾野?と正直思ったのだが、それは訪れて一番納得したことだった。奥さんに教えてもらわなければ、悪天候で富士山の全貌を見れないくやしさだけが残ったと思う。とてもいいアドバイスをもらったことに感謝。本家本元の富士の裾野を見てしまうと、日本各地の富士山にはもう『富士』の名を使えないなと、地元・讃岐富士を思い浮かべながらそう思った。それくらい富士の裾野の広さに心打たれたこの旅は、実は開花の遅れた満開の桜も彩を添えてくれた。ちなみに、富士山麓ではオウムでなく鶯がよく鳴いていた。そして、今後富士山を見に行くという方には、「それなら裾野を見て来るといいわ」とアドバイスすることに決めている。ペンションより本栖湖精進湖西湖中央道より松本城樹齢1100年の臥龍桜(岐阜県高山市)せせらぎ街道(岐阜県郡上市)
2017.05.23
璉珹寺を出たのが16時少し前。その日午前3時起床の私は、そのまま帰路に就くつもりだった。それでも帰宅は午後8時を回るだろう。阪奈道路を目指して奈良市内を走っていると、ICの手前で看板に唐招提寺と薬師寺の文字が現れた。ふとキトラ古墳で出会った女性との会話を思い出す。「今日はこの後どちらへ?私一人暮らしだから、良かったら泊まっていってもいいのよ。」「いえ、今日は日帰りの予定なんです。でも、キトラ以外の予定は全く立ててないです。」「なら、石舞台からすぐのところにある談山神社はどう?中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をしたところ。」「そうですねぇ。」これまでに二度そこを訪れている私はあまり乗り気じゃなかった。「じゃあ、唐招提寺と薬師寺がいいんじゃない。」どちらもすでに行ったことがある。けれど、それは20年以上も前のことだ。薬師寺は『凍れる音楽』と謳われる東塔が修理中で観れないのが残念だけど、唐招提寺の落ち着いた雰囲気はいいかもしれない、そうちらっとその時思ったのだった。時計は午後4時を過ぎたところ。えいっと車を左折した。そこから唐招提寺まではすぐだった。大きな駐車場に車を停めて南大門をくぐると、大勢の観光客が引き上げた後のひっそりとした金堂が目に入って来た。懐かしかった。大学時代、一週間ほど滞在した奈良はレンタサイクルであちこち巡った。ここもそうだ。この南大門の先に見える金堂の外観は有名すぎて、それでも昔から好きなお寺だったなと、しばらく立ち止まってその景色と向き合った。そこに立つ盧舎那仏と薬師如来像、そして千手観音像の迫力は言葉にならないほどだった。作は奈良時代。改めてすごいなと感心した。たぶん、22歳の私はそれらに圧倒されすぎて、それ以外は見ずに帰ってしまったか、それともそれ以外の記憶は全く飛んでしまったか。私は受付でもらったリーフレットを見て、ぐるり境内を一巡することにした。拝観時間は残り40分しかない。講堂と鼓楼を見て、礼堂・東宝の横を通って開山堂へ。開山堂には鑑真和上の御身代わり像が祀られている。有名な国宝の像は毎年6月5、6、7日の3日間のみ開扉され、それ以外は御身代わり像を参拝してもらおうとつくられたらしい。それは本物を模造して、当初のお姿を再現しようとしたものだ。しかし私は、その像に心を打たれることはなかった。御身代わり像に手を合わす人たちをするりと抜け、私は鑑真和上御廟に向かうことにした。5人の団体にガイドさんが一人、先客がいた。何食わぬ顔でガイドさんの話に耳を傾ける。「当時、お坊さんの墓を建てることはなかったんです。像を作ることもなかった。なので、絶対とは言い切れませんが、これは日本で初めてのお坊さんのお墓ということになります。」「そして、この細い木をご覧ください。これは瓊花(けいか)という木なんです。瓊花は鑑真和上の故郷、唐の揚州にあった花なのですが、ながらく門外不出の花でした。」「昔の皇帝がその花をたいそう気に入って門外不出としたのです。ですが鑑真和上遷化1200年の昭和38年、特別に揚州からいただいたものがこちらに植えられています。」「花が咲く時期は4月下旬から5月上旬、残念ながらもう終わってしまいました。」その時、「あそこに見えるのは花ではないですか?」と誰かが言った。「あれ?ホントですね!普通ならもう終わっているのですが、日当たりが悪くてまだ残っていたのですね。」それは紫陽花によく似た花だった。わずかしか咲いてはいなかったが、それでもその珍しい瓊花を見れたことはツイテるなと思った。そして鑑真和上に手を合わせた後、正倉院よりも古い日本最古の校倉造である経蔵と宝蔵を見て、再び金堂でお参りをし、南大門を目指す。ここで今回のいにしえの旅は終わった。やはり、やはり奈良はいい。時空を超えて再び奈良を訪れよう。
2017.05.22
先月のこと、行きつけの珈琲屋さんで、特別企画として「仏をたずね、京都・奈良へ」と題した雑誌を目にした。ちょうど石舞台古墳で花見をした数日後のことで、帰りに拝した飛鳥大仏と中宮寺の菩薩半跏像の余韻からまだ冷めきれていない私は自然とその雑誌に手が伸びた。そこでふと目に留まったページに、白い女性の美しい阿弥陀如来像が袴を履いて立ってらした。その像は鎌倉時代作、モデルは光明皇后とある。女人の裸形という珍しさもあってか、頭の片隅にそれは深く刻み込まれた。キトラ古墳、高松塚古墳、天武・持統天皇陵と巡った帰り道、せっかく奈良まできているのだから一つくらいお寺参りでもしようかなという気になった。その時思い出したのが、その女人像だった。場所は奈良市内、奈良公園の近くにある璉珹寺(れんじょうじ)という小さな寺で、もともとは紀氏の氏寺である紀寺だったところだ。雑誌で見かけなければ、きっと足を踏み入れることのなかった場所。フシギな縁を感じながら門をくぐった。2人の女性が立ち去ろうとしているところに私が入り、薄暗い本堂の中はお寺の方と私だけという静かな時間になった。御住職の語られるテープを流していただき、御本尊を見上げる。写真のお顔よりもうんと柔らかい表情をされていた。説明にそって仏様の頭を見ると、それはよく見られる丸まった螺髪ではなく綱を巻き上げたようになっており、指と指との間は水かきのような曼網と呼ばれる膜があり、それは一切の衆生を救い上げるという意味なんだとか。「どうぞ間近に。」テープが終わるとそのお言葉に従って、手を伸ばせば届く場所でゆっくりとじっくりと拝させていただけた。本当に華奢で女性らしい美しさ。金色の袴には細かく様々な図柄が織り込まれている。その袴は50年に一度お取替えされるのだという。平素は秘仏とされるこの像は、昔は袴のお取替えを行う時だけ御開扉されていた。しかし、現在は毎年5月の一箇月間のみ御開扉され拝観することが許されている。本堂を出たのち奥の部屋へと案内される。そこには平成10年に取り替えられるまで仏様が召されていた、一つ前の袴がガラスケースの中に納められていた。その真ん前に座り、説明を受ける。写真には写っていないが、鶴の模様が沢山入ったその袴をじっくり覗くと、そこには先ほど飛鳥で出会ったばかりの「玄武・朱雀・白虎・青龍」も描かれていた。白虎はひときわ浮き出る白っぽい糸で織られており、それが袴の印象を明るく見せている。この絵柄はこの仏様だけのもので、それは昔から変わっていないのだそうだ。ここでも出会えた四神の絵。飛鳥の帰りにここに立ち寄ったのも、やはり何かの縁だったのだろうか。お庭を眺めながら琵琶茶で一服していると、「これもご覧くださいな」と一冊の雑誌を持ってきてくれた。それは創刊40周年記念特大号と書かれた『クロワッサン』という雑誌だった。「あ、これを見てここに来たんです、私。」私が席を立った時、また別の見物客が現れた。一気に押し寄せるのではなく、入れ代わり立ち代わり、ちょうどいいペースで参拝者が続くその場所は、境内にニオイバンマツリやオオヤマレンゲが咲き競う小さな小さな寺だった。
2017.05.21
「もうこの頃になると防衛やら他のことにお金が必要だったのか、古墳も小さくなっちゃったわね。」声の主はまた彼女だった。「ホント、私の町にある地方豪族の古墳の方がまだ大きいくらいです。でも、さすが高貴な方のお墓だけあって中はすごいですよね。」「この向こうに天武・持統天皇陵があって、この一帯はその血筋の者たちの古墳が集まってるのよね。」天皇に近い存在ならば、この壁画のように当時時代の最先端だったものが描かれているのも頷ける。たぶん、優秀な渡来人たちの存在が大きいのだろう。「鎌倉時代に一度盗掘されてるらしいけど、その後古墳に入ろうとする者はいなかったのかな?」私が一人呟くと、「たぶん、たぶんだけどね、祟りを恐れて入らなかったんじゃないかしら。」ということは、鎌倉時代の泥棒はその後不幸な最期を迎えていて、それを祟りととらえて後世まで言い伝えられた、、、彼女の真剣な表情に、なぜかそうなのだと納得させられてしまった。展示物の中には、その泥棒さんが盗掘時に使った瓦器片も発掘品に並んでいる。以上、キトラ古墳での話。「きっと高松塚でも会えるわね。」そして、キトラ古墳横に建てられら壁画体験館・四神の館の駐車場で別れてから5分後、私たちは高松塚壁画仮設修理施設の前で再会した。予約なしでも見学の許可を戴いた私は、彼女と同じグループで修理室に入ることができた。そこはキトラのそれと違って、実際に壁画を修理している場所、その場所にずらっと並べられた石室の断片を窓越しに見学するというものだった。それは博物館のように見せる展示をしておらず、非常に見えにくいという印象を誰しもが持ったと思う。そして、思うより小さい絵というのが一番の感想だった。なので手前にあった玄武や青龍、飛鳥美人を描いた女性群像などは比較的よく見えたのだが、少し離れた場所に置かれた男性群像や天文図は全く見ることができなかった。けれどみんな夢中だ。みんな夢中でガラスに張り付いていた。だって、あの壁画が、あの飛鳥美人が目の前にあるのだから。気が遠くなる時を越え、こうして壁画と向き合っているなんて、それぞれにみんな胸に浪漫を抱いているみたいだった。僅か10分の見学だが、こんなすごいものを無料で観させてもらえることもありがたい。日本人みんなの宝物なんだなって、じーんとなった。「たぶんここの埋葬者は忍部ね。」彼女の解説はまたここから始まる。「近くに古代米のランチが食べられるお店があるんだけど、一緒にお昼食べない?」それからもう1時間、私は彼女の古代飛鳥物語を延々聞くことになる。
2017.05.20
ちょうど一週間前、何気なくテレビを付けるとNHKの歴史秘話ヒストリアで高松塚古墳の壁画について取り上げられていた。高松塚古墳といえば今から45年前、飛鳥美人で有名な鮮やかな色彩の壁画が見つかり、考古学史上まれにみる大発見と騒がれた史跡。それは遠い記憶の歴史教科書に数多く並ぶ写真の中でもひときわ印象に残っていた。その高松塚古墳の壁画修理作業室が公開されることを、番組最後に知らされる。これで17回目、これまでだって公開されることを知らないわけではなかったが公開時期に間に合ったのは初めてのこと。私は早速文化庁のホームページを開いてみた。しかし期間中の応募定員はすべて満員、この番組で応募した人も多いだろうが、その競争に負けてしまった。けれど未練がましく探していると、「キトラ古墳」の文字が目に入る。キトラ古墳も一時期話題になった考古学ファン憧れの場所。その石室内からも壁画が発見されており、今のところ壁画の残る古墳は国内ではキトラと高松塚しか見つかっていない。そして、そこでも壁画公開が行われているという情報を目にすることができたのだった。5月16日、私は先月も訪れた奈良は明日香村へと車を飛ばす。応募したキトラ古墳の壁画見学の参加証が届いたのだ。急きょ決まったことで、前もっての知識は全くないが気にしない。それは訪れて知ったこと、キトラも高松塚に勝るとも劣らない壁画が存在したということだ。高松塚と同じ、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が描かれており、その姿もほとんど同時期のものゆえかよく似ている。残念なことは、どちらの古墳も鎌倉時代に盗掘を受け南壁に盗掘孔があけられており、そのせいで高松塚の朱雀は残っていないのだが奇跡的にキトラのものは助かった。そして高松塚においては石棺を囲むようにある女性群像などの代わりにキトラには十二支が描かれ、頭上には現存する世界最古の科学的な天文図が広がっている。ちなみに高松塚の天文図は略式のものだ。今回はその中の青龍と十二支の寅のみの公開であったが、内心鳥肌が立つほどの興奮であった。有名な高松塚が見れないのは惜しいけれど、実はキトラの方が凄いんじゃないか、、、そう思いながら目の前の壁画に見入っていた。壁画は現在、そのままにしておけばやがて崩れてしまう極端なもろさであるために石室内より取り外されている。「私は高市だと思う。」急に声がして振り向くと、隣りに立つ年配の女性が私に向かってそう呟いた。この古墳の埋葬者が誰なのか断定はできないが、様々な説の中から天武天皇の第一皇子で太政大臣にまでなった高市皇子だろうと彼女は言う。私も高市だといいなと思っていたので、素直に彼女の話に耳を傾けていた。「高松塚とキトラは兄弟。」古墳自体も類似点が多いが、高松塚の埋葬者も天武天皇の皇子である忍部皇子が最有力候補とされている。「あなた、高松塚壁画も見に行くんでしょ?」「いえ、応募するにも満員で無理だったんです。」「大丈夫よ。当日必ずキャンセルが出るから行ってみなさい。」彼女に出会わなければキトラの壁画だけで満足していたかもしれない。私は壁画見学後、キトラ古墳を見てから高松塚壁画にも足を延ばしてみることに決めた。「キトラは本当に可愛い古墳よ。」こんもりと小さく盛られたその古墳は、まさか内部にこれほどまでの宝物が埋もれていたのか信じられないほどひっそりと存在していた。長い長い時間、ここで埋葬者と共にそれらは眠りから覚めるのを静かに待っていたのだろうか。私はしばし古墳の前に立ちすくんでいた。
2017.05.19
今年は桜の開花予想が立てにくく、まずは第一弾で訪ねた土佐国分寺は全くの空振りだった。もちろん地元にも桜の名所は山ほどあるが、この時期だからこそ花見を兼ねての遠出がしたい。高知くらいの距離ならば外れを引いても諦めはつくが、片道200km以上もの距離を走るのであればできるだけ最高の状態でと思ってしまう。一昨年と去年に行った彦根城が大当りだっただけに余計に期待もしてしまう。だが、桜の開花状況に天気と休み、この3つをクリアするには雨の多いこの時期特に難しい。その中で選んだのが、4月10日(月)、奈良県は明日香村。近くには藤原京跡もある日本の古都だ。同じ古都なら京都でもいいのだが、「歳がいくとあの人混みはどうにもこうにも我慢ならない」と田舎者の母が言う。もともと私も奈良好きで、大学時代は一週間ほど滞在してあちこち巡ったこともある。当時、明日香村もレンタサイクルでユニークな巨石や古代浪漫を探してまわった。その明日香村にある石舞台古墳。築造は7世紀初めとされ、蘇我馬子の墓という説が有力だ。城と桜、神社仏閣と桜、瀬戸の島々と桜、桜には色んな景色が似合うのだが古墳と桜という組み合わせも私には新鮮で面白かった。その日はあいにく薄曇りであったが、なかなかの趣きだ。近くには聖徳太子の生誕地とされる橘寺や日本最古の仏像を祀った飛鳥寺もある。何度訪れても心癒される場所。飛鳥大仏を拝んだのはこれで三度目だったのだが、初めてその美しさに見惚れてしまった。内から滲み出る慈悲のようなものが感じられたのだ。桜も良かったが、最も心に刻まれたのが飛鳥大仏だったような気がする。帰りには足を延ばして斑鳩の里にも。お目当ては法隆寺ではなく中宮寺の本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)。遠い遠い昔の人たちも向き合った仏様に、しばし包まれた時間だった。
2017.04.14
そして、今回見たかった景色が阿蘇五岳。熊本県阿蘇市の大観峰から見るこの景色だった。阿蘇のカルデラもよく見えた。実は中学の修学旅行ですでに一度訪れていたのだがほとんど記憶になく、それでも頭の片隅にこの景色が残っていたのか、行きたい、行きたいという気持ちは日増しに大きくなっていた。そして、やはりここは気持ちのいい場所だ。空は雲一つなく晴れ、小春日和の恵まれたこの日、柔らかい涅槃像を拝ませてもらった。ここから望む阿蘇五岳は、その姿から涅槃像に例えられる。大観峰に到着したのが午前11時過ぎ。ジュースを2本買い、展望台などでゆっくりと寛いで出発したのが12時10分。帰りの船は午後2時発ということで、1時40分には港に着かなければならない私たちだった。この雄大な景色に後ろ髪をひかれながら、一路別府港へ。寄り道する余裕など全くなかった。僅か1時間弱の熊本滞在。微力ながら熊本の復興の応援をと、その気持ちはどこかにあった。確かに金銭だけが応援ではないけれど、四国に戻って改めて振り返り苦笑した。熊本で使ったお金、それはジュース2本のたった260円也。
2016.11.24
その1 湯布院の動物病院にて。「この子の名前はなんていうの?」と先生。「ウルスです。」「ウルフくん?」「いえ、ウルスです。」「もし、また倒れることがあったらその時、まずウルフくんの脈をみること。心臓は空打ちをしてる可能性もあるので、足の付け根で確認できるよう練習しておいてください。」「そして、その時のウルフくんの状態を動画で撮っておいてください。そうすると、病院に運ばれてからの対処に役立ちますから。」「再びこういうことがあれば先天性の可能性もあります。5歳までなら先天性、それ以降は後天性で、後天性の場合は脳腫瘍などが考えられるのですが、ウルフくんはまだ3歳でしたよね。」延々と「ウルフくん」を繰り返す先生でした。ウルスはドイツ語の語源で「くま」なんだそうですが、九州で「おおかみ」くんデビューです。笑その2 湯布院で迎えた朝。ホテルでの就寝前。「6時に目覚ましかけとくからね」と、私は母に伝えました。そして次の日の朝。ピピピ ピピピ ピピピスマホが6時を知らせます。「クリスとウルスを外でトイレさせなくちゃ」、私は目覚ましを止め起き上がりました。その横で、「地震、地震」と慌てる母。「地震?」「今から地震が来るよ!」どうやら母は私のスマホの目覚ましを、緊急時の合図と勘違いしたようです。「だって九州だし。この前の鳥取の地震でも同じように鳴ったから。」湯布院・金麟湖
2016.11.16
九州ふっこう割第2期分が配布されたらしいよ、という情報が友人よりFBでアップされた時には、すでに宿の予約は完了していた。昨年宿泊した湯布院のドッグラン付ホテルがとても良かったので、今年も九州行きを計画していたのだった。本当は青葉が茂る頃と思っていたのだが、あの大地震。なので余計に行きたい思いを募らせての出発だった。今回も愛犬2匹を連れての旅。八幡浜港から船で別府へと向かう。その日は曇り空だったが、デッキにいても潮風が心地いいほど11月にしては気温が高かった。けれど船内は暖房が入っており、かなりの暑さを辛抱しての3時間弱。愛犬たちはその暑さと久しぶりのお出掛けに興奮し、水をがぶがぶ飲んでいた。別府から湯布院へは下道を通っても車で1時間ほど。相変わらず景色の美しさには息を呑むほどで、まさにドライブ日和。くねくね道のあちこちで車を止めては由布岳を見上げたり、色づいた木々を眺めたり、なかなか目的地にたどり着けない。やっぱり九州の自然は大好きだなーと深呼吸ばかりしていた。予定ではそのままホテルへ直行のつもりだったが、チェックインには少し早く、私たちは金麟湖の畔のカフェで一服することにした。でも、その判断が間違ってたのかな。多くの観光客で韓国語が頭の上を飛び交っていて、逆に私たちの方が遠慮がちになるほどだった。特に愛犬ウルスは何度も彼らの被写体となり、わけのわからない言葉にかなりのストレスを感じている表情。金麟湖の周りはせっかく見事な紅葉であったのに、ずっしり疲れを背負った午後になってしまった。そして、ホテルの玄関にて。白内障のために慣れない場所ではすぐに座り込んでしまうクリスを抱きかかえようとした矢先、バタンと大きな音がして振り向くと、そこにウルスが転倒していた。一瞬の出来事で、私には何が起こったのかさっぱりわからなかった。「え?ウルス?ウルス?」大きな声で呼びかけても、体を硬直させて横向きに倒れているウルスには意識はなく、私はその時ウルスが死んでしまったのかと思った。「なんで?うそでしょ?」必死で声を掛け体を擦る。心臓に耳を当てるとまだ動いているようにも思う。パニックになっている私を見て、ホテルスタッフの皆さんが駆け寄ってきてくれた。「〇山を呼んで!」後で聞いた話では、〇山さんという若い女性スタッフは動物を看護する専門学校を卒業されているとのことだった。「これは低血糖かも。砂糖を舐めさせてあげて。」「病院には電話しました。すぐに私の車で行きましょう。」少しづつ体の硬直もとけ意識を戻しつつあるウルスを抱いて、私は〇山さんの車に乗せてもらった。「病院はこの近くですから。ここ(ホテル)のワンちゃんたちも診てもらってる先生なんです。」「こういう時は、飼い主さんが落ち着くこと。ワンちゃんは飼い主さんの気持ちを敏感に察知しますから、飼い主さんが慌てているとワンちゃんも不安になるんです。」「私も沢山子犬を見てきましたけど、低血糖を起こして意識をなくす子は結構いるんですよ。」初めてのことで動揺している私の不安をなくそうと、運転しながらも彼女は話し続けてくれた。病院に着くころにはウルスも意識を取り戻し、元気はないものの普通の状態に戻っていた。ホテルの方達にはとても迷惑をかけてしまったが、あの時もし私だけだったらどうしていいかわからず、あたふたするだけだったと思う。そして、こんなにも親切にしていただいて、私もウルスも本当に恵まれていたなと感謝している。九州、温かい思い出がまたひとつ増えた。
2016.11.15
今年はずっと迷っていた。例年、紫陽花を見るのは「山陰のあじさい寺」と呼ばれる松江市の月照寺であったが、松江藩主松平家の菩提寺であるその寺も年々寂れてゆき、紫陽花の手入れも行き届かなくなった昨年の様が心にブレーキを掛けていた。兵庫県西脇市の西林寺が良さそうだ。いやいや、京都は大原三千院も美しいらしい。紫陽花が見頃を迎えた今の今まで迷っていた。そして昨晩まで、いや今朝出発する直前まで京都行きを計画していたのだが、なんとなく遠出するのが億劫になり、なんとなく紫陽花熱が冷めてきたこともあって、半日もあれば行って帰れる岡山は真庭市の普門寺へ急きょ向かうことにした。花の山寺とも呼ばれるその寺は、霧深い山中にひっそりとある。寺に近づくにつれ、道端に紫陽花が増えていく。このお寺、紫陽花の数は3000株と、各地にある有名なあじさい寺と比べると少ないかもしれない。しかし、そのひとつひとつがこれまで目にした紫陽花のどの名所よりも大きく、傷みも少なく、綺麗。そして朝露に包まれた紫陽花と、競って鳴く鶯の声がまだひんやりとした早朝の空気によく似合っていた。
2016.06.26
車を走らせ、サツキの美しさで有名な備中高梁市は頼久寺を訪ねてみた。縁側に腰を下ろし、愛宕山を借景とした枯山水のお庭を眺めるだけで静まる心。斜めの線となって降り注ぐ雨は音もなく、庭園の木々や小石を潤わせていた。大きなサツキの刈り込みは大海原を表しているのだと、説明にあった。小堀遠州初期の庭園。
2016.05.29
そんな一日になりました。緑の上で踊る光と影の移ろいに、息を呑みました。じーっと緑を眺めていると、心が満たされていきますね。京都市左京区は、瑠璃光院と蓮華寺にお邪魔致しました。
2016.05.21
私が高校1年の時であるから、もうかれこれ25年も前になるが、ある日、先生はさらっと太宰治の志賀直哉批判の話をしてから「城の崎にて」の授業に入った。一通り読んだ後、私を指名し感想を聞いた。だが当時、太宰好きだった私は先ほどの先生の話ですっかり志賀直哉を受け入れられなくなっていた。「私、この人の文章、嫌い。」内容は全く頭に入っていなかった。正しくは、「好かん」って答えたと思う。「わし、いらん話をしてしもたみたいやの。」先生はあの時、きっと苦笑いしていた。その後、ずっと志賀直哉を敬遠していた私だったが、何年も前に尾道を訪れたことで「暗夜行路」をきっかけに彼の作品を読むようになった。意外にも読みやすく、情景も自然と浮かんでくる。描写がいい。ただ、それでも「城の崎にて」はあの授業以来手に取っていない。11月下旬にしては暖かかった昨夕の城崎は、浴衣姿でぶらりぶらり歩く観光客で賑わっていた。いい湯だった。封印された「城の崎にて」、もうそろそろ解ける気がする。
2015.11.26
雨がひとしきり降った朝、紅葉を見に但馬の安国禅寺を訪れた。年々口コミで広まったその紅葉は、多い日には狭い境内に3千人もの人が押し寄せるそうだ。もちろん、お寺の方がうまく誘導してくれるのだが、できればゆっくり穏やかに観賞したい。香川から兵庫県豊岡市にあるお寺までは片道およそ4時間半掛かる。拝観時間は朝の8時から。朝一番ならそう人も多くないだろうと、再び得意の真夜中ドライブを決行することにした。(笑)この安国禅寺は、夢窓疎石の薦めによって足利尊氏が全国各地に国家安泰祈願のため建立した安国寺のひとつ。歴史は古いが、七堂伽藍を有したというその境内は享保2年(1717年)に火災により焼失し、現在建物はそれより北方に移されている。その本堂の裏庭に、樹齢100年を越えたドウダンツツジが広がっている。それが秋になると真っ赤に燃え上がるのだ。その僅か2週間、お寺は一般客にも開放される。安国禅寺に着いたのが7時半。駐車場は私が気づいた範囲で第4駐車場まであり、第3駐車場から入る細道は一般車両はご遠慮願いますとの看板が立っていた。だが、まだ時間が早いのと、母が高齢であったため、寺門を掃除していたご住職の奥様が、お寺のすぐ前に停まらせてくれた。「遠方から来てくださったんですね。」 気さくに声を掛けてくださり、「まだ拝観時間ではないですが、せっかくなのでどうぞ中へお入りください」とまで言ってくださった。恐縮しながら車を降りると、奥様は私の車のナンバーを見ながら、「私も香川の出なんですよ」と話し出した。そこから一気に親しみが沸いたように会話も弾んだ。私は写真を見て知っていたが、全く想像だにしていなかった母はこの瞬間、思わず「うわぁ」と声をあげた。知っていたはずの私も息を呑んだ。「上にあがって、もっと前の方でゆっくりご覧になってください。」私たちは祀ってある達磨大師にお参りもせず、そのドウダンツツジから目が離せなくなった。「昔は一本の株だった木が、子や孫でここまで増えましてね。それにここは雪深いところでして、本来なら上へ上へ伸びる枝が雪の重みでこんな風に横へ広がったんですよ。」「これは雪が造った芸術ですね。」奥様はこまごま用事をされながら、そんな話を聞かせてくれた。「それで、いつからこんなに有名になったんですか?」その時、上述したお寺の縁起を教えてくださり、「20年前、昔のお寺の跡地に千本ものナツツバキの群生が見つかりましてね。たぶん、当時お庭に植わっていた木の種からなんでしょうけど、それが先に話題になったはずなのに、今ではこのドウダンツツジの方が見事だと有名になりまして。」「春には白い可愛い花が一面に咲くんですよ。紅葉の方が見事だから、春は開放していませんけど。」 そう言って、2枚のポストカードをお土産にくださった。「へぇ、夜中に香川から来なさったんですか。 それは遠いところから、、」そう言いながら、お寺のおとこしさんがお盆に急須と茶碗を乗せて現れた。「せっかくやから、ドウダンツツジをバックにこれを真ん中に置いて写真を撮ってあげますよ。」まさかお茶までと一瞬思った私は、「そうお気遣いなさらずに」と喉まで出かかっていた言葉を飲み込んで正解だった。(笑)それは、まさに一幅の絵を見るようだった。奥様から戴いたポストカードは、そうだ、ドウダンツツジが大好きな恩師へのお土産としよう。
2015.11.13
阿蘇の壮大な風景は、気持ちが大きくなって好き。大きなカルデラに抱かれて、両手いっぱい広げたくなる。中学生の頃に登った中岳の噴火口は、9月に起きた噴火のせいで近づけず。草千里より先は通行止めだった。それでも、私が望んだ景色で阿蘇山は出迎えてくれた。可愛い米塚もすっかり秋模様。大分と宮崎の県境で見た一面ススキ野原は阿蘇でも見られた。杵島岳だろうか、ベルベットのような裾野はまるで高貴な方のドレスみたいで、嘗ての乙女心をくすぐってくれる。(笑)
2015.11.03
九州の旅はこれで六度目。ちょっと中途半端な数字だけど。(笑)中学時代、修学旅行で訪れたのが初めてのことで、その時は新幹線が博多駅に着いた時、友達と「はじめの第一歩!」なんて言って飛び降りたのを覚えている。当時、国語の教科書に草千里の写真が載っていて、のびのびとした阿蘇の風景に胸膨らませたものだ。実際は阿蘇山の中岳をウォークラリーで登山させられ、ゴールの草千里ではみんな疲れ切った顔で写っている。だが、その阿蘇の雄大な景色は私の大のお気に入りとなった。なぜか三十年近くも経って、母にも見せてあげたいと急に思い立った。それは、十月半ばのこと。愛媛は八幡浜港から大分県臼杵市へと渡った。一日目の行き先は、宮崎県高千穂町。臼杵石仏をするっと観光して、大分県の豊後大野市と高千穂町を結ぶ緒方高千穂線へと入る。これが結構な山道で、くねくねしたカーブがいくつもいくつも続いており、一向に先が開けない。まあ、四国遍路で険しい山道の運転には慣れていたので、あれに比べたらまずまずの道幅だし、勾配も急じゃないので運転そのものは苦ではなかったが、ほとんど対向車の来ない知らない山道が延々と続くと、いくら昼間でも不安になる。それでも、紅葉が始まったばかりの祖母山の頂に癒されつつカーブを縫った。このまま峠を越えると思いきや、いきなり電灯もない真っ暗で不気味なトンネルが待ち構えていた。でこぼこしたトンネルの壁面が意外と怖い。もしも独りぼっちだったら、小心者の私はきっと泣き出していたと思う。いつまでこの道続くんだろ。そんな時、一気に前方が明るくなり、一面見渡す限りのススキ野原が現れた。「うわーーーー!!!」思わず叫んでしまった。私は車を脇に停め、転がるように山の斜面を走って降りた。「後ろに乗ってるクリスもウルスもびっくりしてたよ」、と母。どうやら、愛犬たちもあきれるほどの勢いで、ススキ目指して駆け下りたらしい。棚田に輝く稲穂も美しかった。いい季節に九州へ来た。
2015.11.01
毎年、お盆の時期になると千葉に住む大学時代の親友から松戸の幸水梨が届く。ジューシーで甘いその梨を食べてしまうと、ああ今年も美味しい梨が終わってしまったなと残念に思う。豊水はちょっぴり酸味が強いし、新高梨は少しかたい。20世紀などの青梨はあまり好きじゃない。シルバーウィークに入る前、私は母と愛犬2匹を連れて、飛騨高山と信州の松本へ行って来た。信州は果物もおいしいだろうから、産直を覗くのも楽しみのひとつ。今の時期ならリンゴだろうか。さすがに松戸の幸水に匹敵するような梨はもうないだろう、そう思っていた。それは松本だったか安曇野だったか、道中偶然立ち寄った産直で信州ブランド梨の南水と出会った。行きつけのスーパーでは主に徳島産の幸水か豊水、鳥取産の20世紀がほとんどで、南水という種類の梨を私はその時初めて知ったのだった。それは、果汁が滴るほどの瑞々しさと上品で糖度の高い甘さを持ち合わせていた。その上、南水は年末くらいまで出回るという。ということは、まだまだこれから美味しい梨が楽しめるというわけだ。それは、ちょっとした感動だった。さすがは信州である。嬉しさを隠しきれず産直内を見回すと、そこにはまさに白雪姫が手にしたような真っ赤で美しいシナノドルチェも並んであった。南水梨はそのたまらない美味しさで、シナノドルチェはその美しさで、今日も旅を終えた私たちを楽しませてくれる。
2015.09.24
夏も終わりに近づいたので、潮風を感じながら2時間ばかりドライブした。どこがいいかなーと思いついた鷲羽山。瀬戸内海を挟んで岡山県は倉敷市児島にある景勝地だ。中腹を瀬戸大橋が貫いており、展望台からは瀬戸内海や瀬戸大橋の全貌がよく見える。たまには、いつもと反対側の瀬戸内の景色も悪くないだろう。瀬戸大橋が開通したのが昭和63年、私が高校一年の春だった。この橋がない頃は、四国は本当に離れ小島だったと思う。それまでに私が四国を出たのは僅か5回。小中学校の修学旅行、そして家族旅行の奈良と神戸、日帰りでの鷲羽山だった。家から汽車で1時間、高松港から今度は船に1時間乗って岡山の宇野港へと渡り、そこから電車に乗り換えて、あの頃は鷲羽山へ行くのでさえ結構大変だったと覚えている。「橋が出来てしまってからじゃ、もう橋のない景色は見られないから。」そう言って、中学時代の先生がまだ橋の架かっていない瀬戸内海の風景を何度も撮りに行っていたことも思い出した。急にこんな昔を思い出したのは、もう一つの夏が終わったからかもしれない。今年の甲子園は珍しく四国勢すべてが初戦敗退となった。私が学生の頃は四国は本当に強かった。四国四県すべてベスト8に残った年もあった。「一度でいいから、ベスト4が全部四国勢ってのを見たいな、」と言ったら、「それじゃあ、あとは甲子園じゃなくて地元でどうぞって言われるよ、」って冗談めいて笑ったのに。思えば、それだけ県代表というよりも四国代表って意識の方が強かったんだろう。地方になるほどその意識はあると思う。だから、昨日の決勝は仙台育英を応援していた。来年こそは、初の優勝旗を東北勢に持って帰ってもらいたい。
2015.08.21
大学時代、夏休みに広島から香川に帰省する際はいつも、岡山駅での乗り換えが楽しみでしかたなかった。今は改築して新幹線から在来線への乗り換えの距離が短縮されたが、当時は長い通路を歩かねばならず、その通路脇で、この時期ずらーっと並ぶのが、岡山産白桃の露店だった。箱詰めの高価な桃は眺めるだけ。少し傷のついた、しかし傷物でなければ結構なお値段になりそうな桃を探した。確か、学生だった私が買ったのは500円の傷桃1個だったように覚えている。それでも、大荷物とは別に大事に大事に抱えて帰ったのだった。今でも時々思い出したかのように、「あの時食べた桃の味は忘れられないね、」と母は言う。そういえばここ数年、桃を食べても地元産のものばかりだったと気がついた。隣町の特産品のひとつが桃ということもあり、貰ったり安く手に入ることが多かったせいもある。香川でも清水白桃を生産しているが、なんなんだろう、あの岡山産の別格なおいしさは。乳白色の柔らかい皮をつるっと手で剥いて、がぶりと齧り付く幸せ。(笑)先週、備中松山城からの帰りに、親友宅でその清水白桃をごちそうになり、お土産まで貰ってしまった。親友の家から車で10分も走れば、道路脇に続く桃畑。「春に桜が終ると、ここは一面桃の花でいっぱいになるのよ。」白桃の花は遅咲きなんだろうか。それにしても、桃の花がどこまでも広がる風景ってまさに桃源郷なんだろうな。その季節にも訪れてみたいし、でも、やっぱり一番は白桃の実がなる今がいい。(笑) 戴いた桃はあっという間になくなった。そして、「桃は岡山産の清水白桃じゃなきゃ!」と、改めて思った。「今年の桃はどの種も例年より早いから、清水白桃はもうすぐ終わるらしいよ。」岡山在住の友が親切に教えてくれた。そこで今日、私はわざわざ岡山に用事を作り、そのついでに産直市場をのぞくことにした。正確には用事の方がついでだが。(笑)こうはっきり書かれていれば、ここに桃があることは一目瞭然!安くて美味しい桃を狙う多くの人たちを押し分け、私も桃とり合戦に参加して来たのだった。(笑)たった今、また一つ食べてみた。うん、やっぱり桃は岡山の清水白桃じゃなきゃ!!
2015.07.29
高野山へ行く前日、「そういえば、和歌山の美味しいものって何があるだろう?」とネットで検索してみた。梅や蜜柑では面白くない。高野山参詣の記念に仏前に供えれるものがいい、と思った。でも饅頭はありきたりだし、親しい方達にもちょっぴり印象に残るお土産になるものがいい、とも思った。そこで目を引いたのが「あんぽ柿」。渋柿を干したものではあるが、乾燥して黒ずんだ堅い干し柿ではなく、果肉がしっとりやわらかで半生のような柿のこと。香川ではお目にかかったことがないが、美味しそうだしちょっと珍しいかも、と興味がわいた。金剛峯寺を後にした私たちは、その「あんぽ柿」を探していくつか土産物屋を覗いてみた。けれど、高野山名物の麩饅頭やごま豆腐、高野豆腐に梅といったものばかりが並んでいるだけで、どこにも柿は見当たらない。時季が違うからかなと思いつつも通販では年中買えることを思い出し、高野山で見つからないなら和歌山港までの道中で探すことにした。スマホで再び検索し、産直市場をナビに入力。ちょうど高野山から和歌山市へ向かう途中にあるかつらぎ町が、平核無柿の生産日本一ということで期待が高まる。そしてナビの案内に従っていくと、途中「串柿の里」という看板が目についた。ナビが示す産直市とは違う方向だが、看板の数の多さに自然と「串柿の里」へ足が向いた。少しづつ「串柿の里」を山奥へ入って行くと、一軒の店で干し柿を見つけた。そこで聞くと、「あんぽ柿は季節のものだから、年内(11~12月)くらいしかないですね」と言われてしまった。諦めきれずに、もう一つの店で尋ねる。「ありますよ。あんぽ柿は冷凍だから、年中あります。うちにも保存しているのがありますよ。」「家はこの近くだから、入り用分取ってきましょうか?」「お願いします!!!」即、返事した。そのお店で食事も戴く。 素朴で懐かしい、田舎のおばあちゃんの味。きっと、あんぽ柿もそうだろう。無添加で素直な美味しさがギュッとつまった「あんぽ柿」。口にすると和歌山の自然が思い出される。帰宅早々、恩師の家を訪ねた。 「高野山のお土産です!」「まぁ、懐かしい。 昔は毎年福島の友人が送ってきてくれてたの。」あんぽ柿はもともと福島が発祥らしいことを、恩師の話で知った。だが、私にとっては高野山参詣の想い出の味として、これからも時々懐かしむだろう。恩師も、そしてきっと亡き父も喜んでくれたと思う。仏前に供えたあんぽ柿は、一段とおいしそうだった。
2015.06.15
私が人生の師と仰ぐ方が大の寂聴さん好きで、その影響か私も瀬戸内寂聴訳「源氏物語」を読んでいる。色恋沙汰も面白いが、嫉妬や嫌がらせなどの人間臭いところが千年前も今も全く変わってないのが興味深い。ストーリーは大和和紀さんの漫画「あさきゆめみし」を子供のころより何度も何度も繰り返し読んで頭に入っているのだが、文章として読むとまた違った新鮮さがあることに気が付いた。美しい日本語と和歌の数々。遠い時代の人々の繊細さに憧れる。その源氏物語の世界に色艶を添える藤の花。丹波にある白毫寺の九尺藤が見事だと聞いて訪ねてみた。せっかく光源氏に負けぬ男前をと思ったが。(笑)
2015.05.07
夜中1時に出発。(笑)今年の桜は『彦根城』と決めていたので、毎日ネットで開花情報をチェックしていた。数年前にブロ友さんがアップされてた写真に衝撃を受けてから、ずっと彦根城の満開の桜を狙っていたと言っても過言じゃない。一昨日の夕方、とうとう開花状況が満開となった。天気は少し前の週間予報では曇り時々雨であったのに、曇り時々晴れに変わっている。それ以降はまたも続く雨、曇り。土曜日なら高速も安い。帰宅後とっとと片付けを済ませ、急きょ彦根行きを決行した。道中二、三度休憩をし、朝7時半に到着。少しづつ人出が増してきていたが、お堀の周りをきっと毎日そうしているであろう人達が普段通り散歩やランニングを楽しんでいた。もう何と言っていいんだろうね。あまりの見事さに言葉を失うやら、我を忘れるやら。こんなにも素晴らしい桜の景色は、どう思い出しても生まれて此の方観たことがない。彦根城の桜は日本のどこにでもあるソメイヨシノなんだろうが、土や水もいいのかな。樹齢80年生が優等生なんだろうか。もともと城には桜が似合うし、お堀と桜、石垣と桜は定番と言えるほど調和するけど、彦根城が国宝だから桜も国宝級といった感じかも。(笑)とにかく、桜一本一本からして別格だった。桜にも格があるんだと、大袈裟ではなくそう思った。「今日はちょうど名古屋城も見頃だったんだけど、やっぱりこっちを選んじゃいましたね」と話すのは、名古屋からのカメラマン。今年は満開時にあいにくの天気とあって、悩んだあげくの選択だったようだ。「私の花見は毎年ここ。」 宝塚から来た可愛い愛犬連れの女性もいた。四国では滋賀県の知名度が低いからか、これまで彦根城の桜について聞いたこともなかったが、これほどだもの、有名なはずだ。朝一で来て良かったと思った。城好きの人は今年は姫路城へ足が向くかなと単純に思ったが、どうだろう、彦根城には桜にも天守閣にも独特の趣きと魅力がある。固定ファンも多いだろうな。琵琶湖も遠く望める。ちょうど青空も眩しくなって、これ以上にない花見日和となってくれた。そして、一番観たかったのが外堀の桜。溢れんばかりに盛り上がった一面の桜に、「この桜を観るまでは死ねない!」とずっと憧れ続けてきた。なので、もう思い残すことはない、、、というくらい満足できた彦根城の桜と、お城のすぐ目の前にある『たねや』のお菓子。(笑)
2015.04.05
修理のため、長い間その姿を仰ぐことができなかった姫路城。『大天守の再オープンは平成27年3月27日!』というニュースがちらほら届くようになって、頭の隅で「行きたいな~」と思っていた。しかし昨年の夏、久方ぶりに城の全貌が見えるようになり、そのあまりの白さに「白すぎ城」とまで言われた写真がネット上にアップされると、私も思わず「えー」となった。ほんとだ、白すぎる。汚れやくすみで褪せた姫路城の姿が脳裏に焼き付いたままで、本来の姿だというその白さに違和感を持ったのだった。それよりも、先に「白すぎ」という見出しの文字が飛び込んできて、「白すぎて変」というイメージが刷り込まれてしまったのかもしれない。だから、姫路を通過する際でも城に立ち寄ることもなく、これまで月日が流れてた。それでも、『3月27日グランドオープン!』の声が聞こえてくる。今週半ばからは祝いのプログラムがめじろ押しのはず。そしてオープンしてしまったら、ちょうど花見の時期と重なって、それは恐ろしい混みようが想像できる。今日は天気もいいし気温も高いし、、、ということで、白すぎ承知で行って来た。実物は、想像を大いに裏切って、その白さが殊さら美しかった。友人が教えてくれた。黒い板張りの岡山城に対して漆喰の姫路城、烏城と白鷺城、男城と女城。黒白の対比からしても、この白さが最も美しい。まだ天守に登れなくとも、城の周りは多くの人で賑わっていた。待ちわびていた日がもうすぐ来る悦びが伝わってくるようだった。まるでおしろいを塗ったような真っ白で愛らしい姫路城、おかえりなさい!(笑)そこらじゅうに植えられた桜の蕾も膨らんで、青空に映える天守を見上げながら、いい季節の訪れを感じた今日。人の入りが落ち着いた頃、今度は愛犬たちを連れてこよう。
2015.03.22
数日前から無性に訪ねたくなって、今日はひとり尾道にやって来た。レトロな喫茶店「帆雨亭」で、風情ある尾道の町を見下ろしている。奥からはコポコポと珈琲を注ぐ音。遠くでは、チンチン チンチン、遮断機が降りる音。まるで時間が止まったみたい。こんな日は珍しく、文学にでも耽ってみようか。
2014.01.17
遅まきながら、お雛様を見に行って来た。最近は私の住む田舎町の、アーケードさえ取り払った商店街でも、店先にお雛様を並べているのを見かけるが、昨日、ちょっくら瀬戸大橋を渡って、岡山は倉敷にある、江戸時代の塩田王のお屋敷までお邪魔した。以前から、そのお雛様を見たいと言っていた前職場の先輩方とともに。それは、倉敷といえども有名な美観地区からは車で40分、瀬戸内海に面した児島という場所にある。以前にもこのブログで紹介したが、国指定重要文化財・野崎武左衛門の旧宅だ。その界隈では、まだ町中にお雛様が展示してあり、野崎家別邸においては百畳敷の大広間で「おひな同窓会」なんぞも催されていた。過去に徳島の勝浦町へ「ビッグひなまつり」なる、3万体もの雛人形を見に行ったこともあるが、この度は数よりも、由緒あるお雛様の数々とその丁寧な飾り方に、一つ一つの人形に対する敬いの念というものも感じられ、結構感動させられた。そして、雛人形にも「格」というものがあるのだということを、つくづく感じた。それは、その家の格でもある。人形の価値そのものが、これほど高価で立派なものに出会ったことも少ないのだが、古さとお金だけでは出しえない「格」の高い人形を見たのは初めてかもしれない。「格」といえば、昔 好きだった漫画に、こんなことを書いてあったなって、思い出した。「父親(男性)は家庭の格を高めるために働き、母親(女性)はその格を守るためにつとめる」昔の旧家の在り方は、きっとそうであったろう。見ていて、背筋がピンとなるお雛様ばかりであった。こちらは、「享保雛」といって、明治5年に野崎家が池田家より拝領したもの。その池田家とは、ご存知、備前国岡山藩主を指し、今上天皇の姉君にあたる池田厚子さまの嫁ぎ先の家系である。以上、全て江戸時代のお雛様。また、この野崎邸には「明治天皇雛」という軍服姿の珍しいお内裏様もあったようだが、あまりにも見事な雛人形の数々に見落としてしまった。。。代わりにといってはなんだが、愛子さま(敬宮 愛子内親王)のお顔に似たお雛様を偶然見つけた時は嬉しかったりなんかして。(笑)そして、品の良いお雛様は、いつになく素敵な春を運んできそうだ。
2013.03.10
3日前の夜のことだ。「今年のお正月は、白蛇を祀る神社に大勢の参拝客がみえたみたいね。」と母が言った。「柱に大きな白蛇の像が巻き付いた神社がテレビに映ってたよ。」「ふ~ん。 じゃあ どうせなら、本物の白蛇を見に行く?」 そんな私の何気ない一言で、その2日後 片道250kmもある山口は岩国市まで行くことになった。白蛇だけのために。岩国には昨年 白蛇神社も誕生し、その他 資料館などもあるらしいが、私の目的はご利益よりも白蛇を見たい好奇心だけなので、本当に白蛇しか見ていない。(笑)だが、何度見ても優美で清楚な姿がそこにはあった。ご存知、国の天然記念物『岩国のシロヘビ』は、岩国にしか生息していない。さすがに私も蛇は苦手だが、岩国の白蛇だけは心の底から美しいと思うし、可愛いとさえ思う。昨日も、思わず見惚れてしまってた。そこで白蛇を見るのは二度目か三度目か、それさえ定かではないけれど、何度見ても一目惚れしてしまっている。(照)私がいつも訪れるのは、錦帯橋の近くにある横山白蛇観覧所だ。そこには3匹の白蛇がいるのだが、今回 私が一番「べっぴんさん」だな~と思ったのがこの子。名前はサキちゃん、昨年の夏に生まれたそうだ。(写真はクリックで大きくなる)白蛇というだけでも有難いが、このサキちゃん、何気に黄金に輝いているように見えるのは私だけか?(笑)白蛇は弁天様のお使いと言われ、特に金運にご利益があるとされているが、その功徳は、五穀豊穣ばかりでなく、如意宝珠の力によって、希うことはことごとく叶い、福を得ることとなり、合わせて本来の能力である、音楽・学問・叡智までの力を授けてくださる万能の神様と認められているそうだ。(白蛇神社・御由緒による)本来、アオダイショウが突然変異して白化した白蛇は、丈夫でない上に天敵に狙われやすく、自然での生育が難しい。それにも関わらず、岩国ではおよそ400年前から記録に現れ、錦川の綺麗な水、旧家などの蔵や石垣、水路などといった生息条件に恵まれて、また、幸福を呼ぶ守り神として、昔の人々も大切に保護したことにより、その数を増やしていったとのこと。当時の人達も、その珍しさだけでなく、この「めんこい」顔にも惚れてしまったんだろうな。(笑)とにかく、特定の地域に集中的に生息しているのは世界でも例になく、非常に貴重だということだ。巳年の今年、そんな有難い白蛇で、ますます縁起を担ぎたいと思っている。皆さまにも幸運が訪れますように。<脱皮額『寿』>
2013.01.11
静岡の素敵なマダムが大道芸を楽しまれている頃、あ、マダムが大道芸を演じているわけではないですよ、念のため。(笑)私は岡山県備前市のカフェで、まったりと黒豆茶で寛いでいた。今年は、一足先に色づき始めた欧州の紅葉を楽しんだだけでなく、日本でも小さな秋を沢山みつけて満喫している。中欧の旅日記を一旦お休みし、今日は私がみつけた そんな小さい秋をいくつか貼りつけておこうと思う。すべて岡山で撮ったものだが、最初の6枚が備前市の旧閑谷学校にて、残り3枚が、県北の新庄村で森林セラピーに参加した時に目にした可愛い秋。紅葉には一歩早い感ではあったが、緑から赤へのグラデーションに思わず溜め息が洩れた昼下がりだった。
2012.11.01
エリザベス女王在位60年で賑わうロンドン。今年、オリンピックが開催されるロンドン。まさに今が旬であるその場所へ、およそ4時間ほどのドライブで行って参りました!早朝5時半にわが家を出発です。 それは、最近ちょっと気になっていた鳥取市の「砂の美術館」。鳥取砂丘の目の前にあるその美術館は、先月にグランドオープンしたばかりの世界初、屋内で常設展示される砂の美術館です。今年は注目のイギリスをテーマに、有名な建造物や歴史上の人物たちが迫力ある姿で見る人を感動させてくれます。まるで本当にイギリスを旅している気分になっちゃいます!どんなものか想像すらしていなかった私は、一つ一つ作品を目の前にする度、驚きの声をあげていました。札幌の雪まつりは寒いからちょっと~という方、鳥取で砂像なんぞいかがです?(笑) しかも年中見られます!To be or not to be; that is the question☆「Oh~, Romeo~,Romeo~, Why are you Romeo~~~~~?」エリザベス1世も即位前に幽閉されたことのある<ロンドン塔>窓からシンボルのカラスも顔を出している こちらが正面です。こちらが大英帝国の繁栄を築き上げた、その<エリザベス1世>ロンドンの風景に欠かせない<衛兵パレード>だって、このとおりです。あ、今年主役の<エリザベス2世>も、ご覧の通り豪華な馬車でお出ましあそばされておりました。そして、一番凄いなって思ったのがこちら。ご存知、<ウェストミンスター宮殿>ロンドンを象徴するビッグベンも間近で見ることができました。と、まだまだ多くの作品で埋め尽くされておりますが、これから行かれる方の為にこのくらいでやめておきます。(笑)この砂像たち、世界中から集まった15人の彫刻家の手によって、僅か12日で仕上げたものなんだとか!糊などは一切使用せず、砂と水だけで造られているそうです。今回の展示期間は来年の1月6日まで。その後は再び砂に戻され、また新たな砂像へと変身するようです。さぁ、本場イギリスは遠いな~ってお思いの、そこのあなた!鳥取砂丘のお隣りにあるイギリスへ、近々お出掛けしませんか?(笑)
2012.05.20
9月18日の出来事です。ブログのお友達・うさぎの春子さんに、大阪の今里にある韓国式中華料理店、『紫金城』へ連れて行ってもらいました!以前、「チャジャンミョンが食べた~い!」と私が日記に書いていたのを覚えてくださっていて、韓国料理屋さんではなく、中華料理屋さんでもない、韓国式中華料理店を見つけてくださったのでした。さすが、大阪!(*^^*)前にも書きましたが、私がクライストチャーチで韓国人の友人にご馳走してもらったのが、真っ黒なタレのかかった麺料理、『チャジャンミョン』です。韓国では中華料理店で見かけるものだそうですが、それは中国のジャージャー麺から派生した食べ物だから。韓国人のソウルフードと呼ばれるその麺を、NZから帰国後10年間、私の力だけでは日本で見つけ出すことはできませんでした。う~む、韓国式中華料理店にあったとは☆そして、何より嬉しかったことが、今回 食べたチャジャンミョンが、懐かしいクライストチャーチの韓国料理店で食べたものとよく似た味だったこと。最初の一口は、ちょっと甘さが違うかな~と感じたのですが、じゃがいもが沢山入ったトロミのある豆味噌のタレが、コシのある少し太めの麺にしっかりからんでくると、あ~、あの味だ~。と、体は大阪にありながらも、心は瞬時に2001年のクライストチャーチへ戻った感じでした。^^あ~、あの味だ~。 それこそ、さすがに表には出しませんでしたが、心の中は嬉し涙でボロボロ、ボロボロ。(笑)え~、え~、見た目は汚いですよ。食べる時はこれをグチョグチョ混ぜて、口の周りに黒いタレがビチョビチョ飛び散って、、、。(^^;え~、え~、それは決して上品な食べ物ではないですよ。ですが、お行儀の悪い私にはそんなことはどうでもいいことですし、何よりこれが思い出の味なのです。懐かしい大切な思い出を前にして、汚いとかお行儀が悪いとか、そんなことを気にする方が野暮なこと。(笑)実は、2月のクライストチャーチ大地震以降、私の精神状態は見えないところで何かが狂っていました。毎日、ふとした時に急に目頭がぎゅっとしめつけられて、車の中では一人泣いていましたし、どこか心が重く傷つき、決して晴れ渡ることがありませんでした。大聖堂が崩れた時、自分の心の半分までも崩れてしまったようで。ですが、9月に入ってラグビーW杯が始まり、オールブラックスの活躍と、彼らの逞しい姿に少し勇気づけられ、そして、この『チャジャンミョン』の味に、全てが失われたわけではないんだと気付きました。私なんかより、クライストチャーチとそこに住む市民の皆さんの方が、ずっと早くに立ち直って前へと向かっている。私とは比べ物にならないほど傷ついた人達が頑張っていることを、この『チャジャンミョン』の味で思い出したのでした。あ~、美味しかったぁ~。(o^ー^o)本当に美味しかった。 心の底から美味しかった。 涙が出そうなほど、すごく美味しかったです。うさぎの春子さん、どうもありがとうございました!!!!!また弱音を吐きそうになった時、大阪までチャジャンミョンを食べに行こうと思います。〈紫金城(しきんじょう)〉大阪府大阪市生野区新今里3-10-2606-6751-8844近鉄今里駅より徒歩5分
2011.10.01
「先生! おはようございます!」元気に石段を駆け上がる、幼い子供たちの声が今にも響いてきそう。けれど、祝日である今日(23日)はお休み。それでも、100年以上もに亘り子供たちを育ててきた誇りからか、堂々とした面持ちが 秋晴れによく映えて、一層美しさを増していました。岡山県にある高梁市立吹屋小学校は、木造としては国内最古の現役校舎です。~明治6年(1873)に開校し、同32年(1899)に吹屋尋常高等小学校と改称して、現在の場所に移転、木造平屋建の東校舎・西校舎が落成しました。 同42年(1909)に建てられた木造2階建の校舎本館は、現在も小学校として使われています。~ (市のHPによる)寂れた過去の景色ではなく、今も子供たちがここで学び、ここで遊び、泣いて笑って思い出を増やしている場所。剥げた色と歪んだ窓ガラスが時代を感じさせるも、味わい深い木のぬくもりを感じられる場所。清々しい風を頬に感じながら、23日の秋分の日、ドライブがてらにその懐かしい風景を目指しました。ミーン、ミーン、ミーン・・・あれ~? まだ蝉が鳴いてるよ~。 でも、ツクツクボウシじゃないんだ~。ころろろ~、ころろろ~・・・あれれ~? 今度はコオロギが鳴いてるよ~。夏の声と秋の声が仲良く合唱しているんだね!^^静かで素朴で、そして空気がとても美味しいね。 ここで勉強したら賢くなれそう。(笑)うん、うん。 それに心も身体もすくすく成長できるよね、きっと。 昔は銅山の町として栄えた吹屋地区。 当時、大勢の子供たちの姿がここにあったと思われます。けれど、現在の生徒数は僅か7人。できることなら このままずっと続けたいでしょうが、すでに今年度を最後に閉校することが決まっています。子供の数の減少だけでなく、兄弟だけの学校になるのもどうなのかと・・・。7人中、きょうだいが2組み5人ということも、閉校を決めた理由の一つになったのだとか。ということは、小学校としては今年が最後の運動会なのか~。初めてこの場所に立つ私でさえ、ものすご~く残念な気持ちになりました。便利さとは代えられない豊かさがここにある、それが町からも校舎からも伝わってきます。こっそり正面のガラスを覗くと、ピッカピカに磨かれた廊下が見えました。ふざけ合いながらも一生懸命雑巾がけをする子供たちの様子が想像できそうです。「先生! 今日は宿題出さないで!」「先生! 今朝、ちょっとだけ寝坊しちゃった!」な~んて声も聞こえてきそう。(笑) *すでにコンクリート校舎が当たり前で育った私ですが、私が卒業した小学校にも、20年ほど前までは昔の木造校舎が残っていました。朽ちた校舎は立ち入り禁止でしたが、一階だけは物置きとして掃除道具などが置かれていました。木造校舎前に植えられた木には、たくさんの蓑虫がぶら下がっていて、よく掃除をさぼっていた私たちは、それらの巣を破って、中の幼虫を出して遊んでいたのを覚えています。(笑)色んな思い出と一緒くたになっている あの風景だって、う~んと昔に感じられるのに。この校舎は今でも頑張ってるんだ。 そして、あと半年頑張るんだね。隠居するのは寂しいけれど、卒業生一人ひとりの心の中で現役を続けるんだろうね。それでも、いつか私が感じたように、この学び舎に通った小学時代がう~んと昔に思えて、きゅんとしてしまう日も来ることでしょう。その時、訪れる卒業生を、また大きな胸を開いて受け入れてくれますように。子供たちの笑い声が遠くなっても、この景色はいつまでも失われないことを切に願います。 「せんせ~! おはようございま~す!^^」 そして、あと半年、子供たちの笑顔をいっぱ~い留めてくださいね!
2011.09.24
「急いでるところ すみませんね~。^^」え"~!!! ほんなら、許してよぉ~!(><) 思わず叫びそうになりました。「うっそ~? ダメなんですかぁ~?!」「みんなもやってるじゃないですかぁ~!!!」「これまで注意されたこともないですよぉ~!!!」「わざわざ香川から来たんですよ~!!!(それは関係ない?・苦笑)」私は必死で懇願しました。ちょっと気のいい近所のおじちゃんって感じのその人は、「まぁ、四国ではあまり厳しくないかもしれんけどね~、広島ではダメですね。」そのおじさんの正体は、正真正銘 広島県警の警察官なのでした。(><)*私は今日、ひろしま美術館で開催中の「平櫛田中展」を観賞する為、母と姉を連れて広島まで出掛けていました。その帰り道、私が通っていた大学の近くを通ろうと、ある交差点の赤信号で止まった時です。ちょいちょいっと手招きするのは、制服を着た警察官の若い女性。なんなんだろう?って思いながら窓を開けると、「これ、ダメなんですよ。 運転手の視界が悪くなるので違反になるんです。 免許証を出してください。」へ?だって、みんなも付けてるじゃない!!?運転席と助手席の窓ガラスに張り付けていた、取り外しできる吸盤タイプの日よけを彼女は違反になると言うのです。「え"~! だって、だって、これまで注意されたこともないんですよ~!!(><)」後部座席に座る姉も、「それって法律で決められてるのですか?」と応戦するも、、、「はい、道路交通法第○条の~~~によって定められています。」と相手は至って冷静です。「はい、はい、ちょっとそのサンシェードを貸してもらえますかね~。」もう一人、もうすぐ定年を迎えそうなお巡りさんも現れてきました。「それと、窓の大きさも計らせてもらいますね~。」納得のいかない私の表情に対し、彼らは続けます。「最近、事故がすごく多いんですよ。 さっきもここで事故が起きたばかりです。」ってことは、事故処理に来た警察官の前を偶然に通ってしまった運の悪さっていうわけぇ???(号泣)「もしかして、これって罰金もあるんですか?」恐るおそる見上げるように尋ねる私に、彼らは表情ひとつ変えずに「1点の減点と罰金は6000円です」と一言。(><。)。「え"~~~、6000円も~!!! ねぇ、許してくださいよぉ~!(><。)。。。」「まぁねぇ、四国では厳しくないかもしれんけどね~、広島ではいけんの~よね~。」懐かしい広島弁の響きが、この時ばかりは無情にも私を突き放します。(泣)「ホント、急いでるところ すみませんね~。^^」それでも、警察官にしておくには勿体ないほど(?)可愛い女の子と優しそうなおじさんでした。「ほんと、ごめんなさい。」と若い女性のお巡りさん。違反したのは私の方なのに、何故か彼らは終始 私に謝っていました。謝るくらいなら見逃してくれたっていいのにね~。(><)反則金の振込用紙を貰って、私は早々に車を出しました。で、数百メートル走った頃でしょうか、又も赤信号で停車している私の隣りに先ほどの警察官を乗せたパトカーが、、、。もう顔見知りの私達です。ニコっと笑って会釈を交わしました。もう用はないわよね!と、青信号になるやいなや私は車を走らせました。「そこの香川ナンバーの人、止まりなさい。」えっ? また私~?!(><) 今度は一体なんなのよぉ~!!!!!o(><)o「ごめんなさ~い! これ渡すの忘れてました~!^^」彼女から手渡されたものは、交通反則告知書でした。そんなものの為に追い掛けてきたのか、あなた達ぃ~。(><)「いやぁ~、ホント、すみませんね~。^^」最後の最後まで本当にいい人達でした、、、、、が、だったら、見逃してくれたっていいじゃないねぇ~。(T_T)いやいや、知らなかったとはいえ深く反省しております☆それから周りの車が気になって、しつこくチェックしてみました。あらら? 広島では運転席と助手席の窓ガラスにサンシェードしている車ってないんですね~。無知は私だけかとがっかり。。。ところが、香川に入って高速を降りてからのこと。あ、あの人も、あの人も、あの人もだ~!!!ちょっとあなた達、それって違反よぉ~!!!(`o ´)思わず悲鳴をあげそうなほど、香川ではいるわ、いるわ! わんさといるわ!!!違反車をそこら中で発見です☆それら全部の写真を撮って、広島県警に送りつけようかと思いましたが、、、、、帰宅後に調べてみると、例え取り外しできるサンシェードでも昨年から罰則化されたそうですね。ただ、都道府県によって取り調べの厳しさはまちまちなようで、とりわけ厳しいのが広島県、とりわけ緩いのが香川県(なんといっても、ほぼ毎年 交通事故数ワースト1ですからね~。^^;)といった感じでしょうか…。いやいや、広島県警が正しいのです。陽射しがキツクなって、ますます日陰が欲しくなるこれからの季節、皆さま、くれぐれもお気をつけくださいませ~~~。(T_T)
2011.05.14
いつの頃からだったか、凄くパワーのある場所に立つと、魂が震う感覚を覚え、その反面 著しく体力を消耗してしまうようになりました。ですから、よほど身体を鍛えておかなければ、普通の生活に戻るのにしばらく時間がかかってしまいます。イタリア旅行を計画した時などは、半年以上 毎日10km弱の距離を歩いて、古代ローマやルネサンスパワーに負けないように備えて臨みました。ところが、今回はすっかり油断していました。ところが、ところが、メキシコは過去に旅した場所でも一番といって過言でないほどパワフルで表情豊かな場所だったのです!尚もお腹の底からエネルギーが沸々と湧きあがってくるものの、体力的には相当参ってしまいました。*「ピラミッドを見た瞬間の大感激の後、皆さん 一気にテンションが下がるんですよ~。(笑)」と岡さん。真夏のチチェン・イツァは気温が高く陽射しが強いですから、かなり身体に堪えるようです。けれど、私が訪れた12月31日は暑いといっても季節は"冬"にあたりますので、それほど苦しまずに見学することができました。ですが、これも岡さんが仰った感じと同じかな~。ブログで"ククルカンのピラミッド"をアップしてしまったので、私のブログ更新熱も一気に下がってしまったみたい。(笑)ですので、ちょっとここらで気分転換。^^保養の意味も含めて、母を連れて日帰りで有馬温泉へと出掛けて来ました。* * *金泉銀泉で有名な有馬温泉は、下呂温泉と同じく日本三名泉のひとつです。とりわけ豊臣秀吉が愛した金の湯は、鉄分と塩分を多く含み、白いタオルが茶色になるほど濃い赤褐色をしています。私がここを訪れるのは初めてで、ちょっと有馬温泉には憧れとこだわりがありました。^^例えば、かんぽのような手頃な宿や大衆向けの大浴場でも 湯の素晴らしさに変わりはないはずですが、どうせなら老舗の名旅館で、ほんのひととき寛ぎの時間を持ちたいな~と思っていました。そこで見つけたのが『陶泉 御所坊』さん。午前11時半から午後2時まで、なんと1191年からの長い歴史を持つ名旅館にて、温泉と食事を楽しむことができるのです。与謝野晶子や谷崎潤一郎など多くの文化人が愛でてきた贅沢な場所ですから、雰囲気も格別☆あ、伊藤博文も御所坊ファンのひとりだったようです。どこからか漂うほのかな香の匂いが、より趣きを醸し出します。 私達は12時半頃に到着をし、先にお食事を戴くことにしました。お昼ですからほどほどに~と、3500円(税別)の季節のお弁当を選んだのですが、お弁当ということで、ちょっとした立派なお重にでも入ってくるのかな~?私はお座敷に重箱のイメージを抱いていたのですが、通された場所は、大正デモクラシーを思い起こさせる感じの、古き良き日本の伝統に西洋の趣きが上手く融合された、アンティークだけれどもモダンで洒落たお部屋でした。何気にひとつひとつデザインの違う凝った椅子に腰をおろし、ゆっくり部屋を見回すと、大きな棚にはあらゆる分野の本が並び、窓辺にはグランドピアノが置かれていました。ラッパの形をした蓄音器や赤々と燃える暖炉も目を引きました。よ~く見ると、インテリアの隅々にこだわりが感じられます。そして、それはお料理についても同じこと。小さな一品に至るまで、気遣いというか思いやりというのか、口に運ぶとまるで喜びが広がっていくようです。その憎いほどの心配りに感激しました~!お味はどれも上品な薄味。お弁当といっても、前菜からデザートまできちんと内容にあった器に飾られ、まさに今 出来上がりましたよ~という ほかほかの料理が次から次へと運ばれてきます。*さてさて、本命の金の湯ですが、、、はい、とても言葉で表せないほど気持ち良かったですよ~!(*^^*)熱くもなくぬるくもなく、ちょうど良い湯加減にたちこめた湯気。赤褐色の湯が柔らかく肌を包んでくれます。感触はさらさらしてるのに、内側からしっとり潤うような感じで、身体の芯から温まることができました。いつまでもいつまでも暖かいのです。足先はぽかぽか、背中や肩はじわ~っと中から熱を感じ、何故に有馬が日本を代表する温泉と言われるのか、身を持って理解することができたように思います。Wikipediaによると、有馬温泉は江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされているそうです。(笑)わが家から車で2時間半という さほど遠くない場所にあるのも有難いです。帰りの運転は眠くなるかな~と心配していたのですが、御所坊近くにあるカフェで飲んだ珈琲がとても濃かったおかげで、気持ち良い加減を残しつつ お目目はぱっちり大丈夫でした。来月は母の誕生月ということで、今度は姉を誘って、この御所坊にて ランチに神戸牛コースを選ぼうかな~とすでに計画しております。それまでに、柏木圭一郎著『有馬温泉「陶泉 御所坊」殺人事件 』も読んでおこうかしら~。^^ピラミッドでパワーを充電したら、次は有馬温泉で寛ぎの湯を楽しむのが通ですね!(笑)
2011.01.22
先日、ブログのお友達であるタケさんから、「慎太郎(都知事ではないですよ(笑))の切手が発売されたみたいですよ~。」と教えて戴きました。調べてみると、高知県下の主な郵便局で11月10日から限定1200枚で販売とありました。郵便局って土日休みじゃないの! しかも、通信販売を行いませんとのこと。(><)まぁ、縁があれば、、、程度に思っていたのですが、安芸郡北川村の「中岡慎太郎館」でも販売されている情報を入手☆(慎太郎館では通信販売も行っております。)私も慎太郎切手をGETしました~♪ほらっ!(笑)*タケさん、貴重な情報をありがとうございました。^^*中岡慎太郎の生家を訪れた3日後の11月3日、紅葉狩りにはまだ早い滋賀県の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れました。紅葉の名所と名高い百済寺ではありますが、広い境内に生い茂る緑を堪能するにも素晴らしいお寺です。その帰り道。 銀閣寺に立ち寄ろうと京都東ICで降り、そこで無性に私を呼ぶ声を感じました。そこまで呼ぶなら(笑)と、混雑する京の道をすり抜けて、京都霊山護国神社へと向かったのです。決して、神社を参拝した訳ではありません。 ここに眠る中岡慎太郎に会うが為!案の定、大勢の龍馬ファンでごった返しており、幼い子供でさえも「龍馬さん!龍馬さん!」と騒いでおりました。(ここで少し白けて、)そして 驚いたことに、龍馬と慎太郎のお墓へ行くには入場料を支払わなければなりません!しかも300円☆ (ここでさらに興ざめ・・・。(笑))また、龍馬と慎太郎のお墓だけがあると勝手に思い込んでいた私は、無数の墓石にたじろぎます。この神社は、明治維新実現のために倒れた志士たちの霊を慰めるために、明治天皇の発案で創建されたものだそうで、ここに祀られている志士の数はなんと1043人だとか!絶対に一人では来れない、夜には来れないと思いました。(><)その昔、三重大学を受験した帰りに、一人で伏見の寺田屋に立ち寄るほど龍馬ファンだった若かりし頃を振り返り、その時 受験疲れで龍馬の墓参りを断念していて良かったと、そんなことまで思い出しました。そう、高校時代の私は、大の龍馬ファンだったのです。こんなに沢山のお墓の中から慎太郎を探し出すことはできるかしら、、、。なんて不安もなんのその。親切にも「坂本龍馬先生之墓」と道しるべを立てて下さっております。それに、その他大勢の人達に続けば、自ずと龍馬の墓前に辿りつけます。そして、慎太郎は龍馬と並んで祀られていますからね~。龍馬のお墓に熱い視線を送る長い列をなす人々を横目に、しっかり慎太郎に手を合わせてきました。もちろん、龍馬さんを嫌いになった訳ではありませんので、そちらのお参りも忘れはしません。^^(左が龍馬、右が慎太郎)若い男女と年配の女性陣は、まず龍馬ファンと見て間違いなし?!もちろん、ここに来る多くの人の中には慎太郎を慕って来られる方も沢山おられるとは思いますが、僅か4日の間に、慎太郎の生家と墓地の両方を訪ねた者は私しかおりますまい。(爆!)もしも龍馬さんを好きだったあの頃にここへ来ていれば、きっと慎太郎には目もくれず。今 訪れることができたのも、何かの縁なのかな~と思います。*と、慎太郎からお呼びが掛かるほど相思相愛の私達。(笑)ある時、「中岡慎太郎」をWikipediaで調べていると、その孫である「中岡艮一(こんいち)」という人物が、1921年に当時の原敬首相を暗殺したと書かれているではありませんか!?え"~~~?????????!暗殺された慎太郎の子孫が、今度は暗殺する側に?????と、その時はもの凄く驚きました。ところが!慎太郎とその妻・兼との間には子供がないことを「中岡慎太郎館」で知ります。慎太郎の死後、綸旨(天皇の意を受けて発給する命令文書)を受けて姉の息子を養子にしたそうですが、その名は中岡照行といい、艮一の父・中岡精ではありません!!!艮一の祖父の名は中岡正というそうです。ただ、中岡正という人物が高知出身であったことは確かなようです。それも誤解を招く一つになったのでしょうか?事件後、中岡艮一の母は東京朝日新聞夕刊の中で、「祖父 正が土佐で勤王の志士であったとは死んだ良人から薄々聞いてはゐますが、噂のやうに有名な慎太郎さまのやうな立派なものでは決してありません。」と語っているようですが、それでも誤解は広まってしまったのですね~。(T_T)Wikipediaって、誰もが自由に編集に参加できるとあるだけに、こういう間違った情報があたかも真実のように記されて、それが事実として広まってしまう危険性が多々あるのですね。ついつい その記述を100%信用してしまいがちですが、これからは参考程度にとどめておき、大切なことはきちんとした文献で調べることにしよう。Wikipediaは手っとり早くて便利なのですが。。。現在、Wikipediaの「中岡艮一の祖父は中岡慎太郎である」という間違った記述は削除されております。けれど、広まった誤解を解くことはなかなか難しいようです。(><)
2010.12.05
高山市内で、八重歯の可愛らしい一人の青年と知り合いました。青年といっても、30歳前後にはなるでしょうか。「どうしても自然に還ろうとする働きがあるんですよ。」私達が訪れた(11/13)5日前に初雪が降った話をしながら、彼はそう口にしました。何気ない石段を指さし、長く厳しい冬を何年も何年も乗り越えているうちに、溶けた氷が石と石との間に染みわたり、その積み重ねが 一つ一つの石段すら持ち上げたり ずらしたり、「放っておくと、どうしても自然に還ろうとする作用が働くんです。」ここで暮らし始めて5年になるという その青年は、しみじみそう呟きました。自然に還るかぁ~。*これまで何度も飛騨高山までは足を運んでいるものの、その一歩奥にある白川郷へ赴くことは、今回が初めてでした。自然に還る。彼の言葉がとても心に残った私は、世界遺産に登録されている『白川郷合掌造り集落』もきっとそんな場所なのだろうと、素朴で懐かしい景色を想像しながら車を北へと走らせました。遠くの山々を5日前に降ったという真っ白な雪がうっすらと覆います。"国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。"まるで、かの有名な小説に出てくるような、白川郷IC手前には、つい そんな景色を期待してしまう11km近くにも及ぶ長~い長~いトンネルがありました。ますます想像を膨らませながら、車はトンネルに吸い込まれるように進みました。「そこには、今なお600人を越える人の生活が息づいています。互いに助け合って 家を建て田畑を耕し、雪と戦うなどして この貴重な遺産を守り継いできました。今の時代にとっては、この合掌造りは住みにくさと維持費の多さを克服することが必要です。この遺産を保存するためには、すばらしい風景を守るとともに、ここに住む人が息が詰まって逃げ出したくならないような、快適に住める環境づくりが求められています。」白川郷合掌造り集落の説明書の1ページ目には、そう記されております。 地球上のものは、例え人間の手が加えられたものであっても、放っておくと、月日とともに自然へ還ろう、自然へ還ろうとする働きがあります。自然は人の心を和ませてくれるけれど、ただ自然に任せ、ただ自然に還らせたのでは、この美しく懐かしい風景を残していくことはできない、そう改めて気付きました。まして、自然の厳しさと向き合っていかねばならないこの場所において、それを守り受け継いでいくことの大変さは、ただ観光に訪れた私達では簡単に理解できるものではありません。ただ、ちょっと欲を言えば、もう少し素朴さを残して欲しかったかな~。世界遺産に登録されて、観光客の数もうんと増加したのでしょうね。人の多さは我慢するとして、昔ながらの合掌造りの家のかなりの数が、旅館であったり、茶処であったり、お土産物屋さんになったりと、ただの農家の佇まいからは遠ざかってしまっていました。貴重な遺産を守り、ここで生活を続けて行く為には仕方がないこと、、、そう頭では分かっていても、それがちょっぴり残念でした。きっと私が期待し過ぎていたのでしょうね。^^さて、この白川郷の景観をより一層美しく見せる理由が、ほぼ規則的に屋根面を東西に向けて建てられているということ。その理由は3つほどありまして、一つが屋根の日照条件、2つには風に対する防御、3つ目には宗教上の点、とのこと。13世紀中頃、親鸞の弟子によって この地に浄土真宗が布教され、今でも信仰の篤いこの地方では、どの家も仏壇を所有しているそうです。しかも、その仏壇は火災の時などに建物の外部から壁を取り外して運び出せるように、南北のいずれかの壁際に配置されているのだそう。そして、仏壇が据えらる方向とはまったくの反対側に便所が配置され、それは隣りの家との関係においても同様で、仏壇と便所が決して向かい合わせにならないように、隣りの家とも基本的に、仏壇と仏壇、便所と便所で向き合わせになっているのです。この法則を実現するために、建物群の方向は一定の規則を守る必要があったそうです。
2010.11.21
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