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RC200t @ Re[1]:セナのいた季節(1989-1994)(05/21) 元H@さんへ >やっぱりあの時代の象徴な…
元H@@ Re:セナのいた季節(1989-1994)(05/21) あの頃のF1はセナを軸に面白いレースが数…
元H@@ Re:ミスター・フォゲッタブル(プロスト JS45 無限ホンダ)(04/08) お久しぶりです。 このクルマ、私も購入し…
2024.07.28
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カテゴリ: F1
​幼年期の終わり​ ​からつづく)

 量販フォーミュラカーを購入して参戦するカスタマーチームから、自社でマシンを設計製造するコンストラクターへ舵を切った「フランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズ」ではあったが、マシン設計の知見も予算も十分とは言えず、そうして出来上がったマシンは戦闘力もお世辞にも高いとは言えず、マシンのネーミングライツと引き換えに得た大口スポンサーにも見放された、というのがここまでのオナハシ。



 マルボロがスポンサーから退いた(完全撤収ではないようだが)ため、マルボロパッケージを模したカラーリングを廃止、マシン名も「イソ-マルボロFW」から「ウィリアムズFW」へ変更せざるを得なくなったが、考えてみればこっちが正常状態だ。3台建造したFWをシャシーナンバー毎にFW01、02、03と振り分けて、FW02と03(製造年が一番古い01はTカー)がシーズン序盤を戦う。
新車FW04がデビューするのは1975年第4戦スペインGPから。ただし資金不足で用意できたのはレギュラードライバーのジャック・ラフィット用の1台だけだった。



スパーク1/43 ウィリアムズ FW04 フォード
1975年アメリカGP DNS
#20 レッラ・ロンバルディ

 毎度毎度の資金不足で2台目のFW04が登場するのはなんとシーズン最終戦。チームは運営資金を捻出するために1台には必ず資金持ち込みのドライバーを起用したが、ここワトキンズ・グレンではそれまでマーチで参戦していたイタリアの女性ドライバー、レッラ・ロンバルディに新造シャシーを委ねた。因みにレッラの持ち込みスポンサーは母国のコーヒー会社ラヴァッツァだ。

 スパークのFW04なら奇跡の2位表彰台を果たしたラフィットのドイツGPなのかもしれないが、現時点(そしてこれからも、だろう)で、決勝を走りポイントを獲得した唯一の女性ドライバーという観点でロンバルディ車を選択。スポーツカーノーズにチョイ足しのフロントウイングもイカれててよろし(笑)。



スパーク1/43 ウィリアムズ FW05 フォード
1976年アメリカ東GP DNF
#21 ワーウィック・ブラウン

 冠スポンサーなしでも、ペイドラの持ち込み資金でなんとか一年を乗り切れはしたものの、このままではジリ貧状態を抜け出すことはままならない。そんな状況をこれ幸いと狙う者が「お金も出すけどクチも出していい?」とばかりにすり寄った。北海油田で一山当てたカナダの実業家、ランボルギーニ愛でも有名なウォルター・ウルフである。チーム存続のためには背に腹は代えられないフランク卿はこの条件を呑み、チームの株式60%を譲渡して自分はチームマネージャーへ降格した。
 新体制となった1976年は、シーズン当初から新車FW05を投入出来た。ただしそれは資金面での不安が払しょくされて新車開発が軌道に乗ったということではなく、前年思わぬ好走し優勝までしたヘスケス308Cを知的財産権ごと買い取って改修したもので、FW04との繋がりはない。



 前年の優勝実績から、イチから新車を開発するより金もかからんしある程度は結果も期待できる、つまるところコスパよしと判断したのかわからんが、大事なことは後のワールドチャンピオン、ジェームズ・ハントがドライブしたからだってことがすっかり抜け落ちてる。ここら辺ウィリアムズというチームの(というかフランク・ウィリアムズのといったほうがいいか)の哲学「いいマシンさえありゃドライバーなんざ誰でもいい」の萌芽が見て取れるね。B級とまでは言わないが少なくとも超一流ではないジャッキー・イクスとアルトゥーロ・メルツァリオのドライブでは優勝どころか入賞すら出来ない始末。
 この体たらくを好機とばかりに、76年末にウォルター・ウルフはフランク・ウィリアムズをチームから追い出して新たにウォルター・ウルフ・レーシングを名乗った。



 のちに跳ね馬126C2やティレル019を創り出すことになるハーベイ・ポスルスウェイトが統括設計しFW05を大改造したWR1が、77年開幕戦で優勝し、デビュー戦で勝利という栄誉に浴する。
他方、チームを追い出されたフランク卿は新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を興し、77年はマーチを購入して参戦した。その間にアラビア語を勉強してサウジアラビア企業の資金援助を確かなものとし、長年のジリ貧状態から遂に抜け出してFWシリーズとして初めて戦闘力の高いFW06を生み出す。
 その2台のマシンの分岐点として位置するFW05は、もしも開発予算が潤沢だったなら名車となってたかも知れない。





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Last updated  2024.07.28 03:18:24コメント(0) | コメントを書く


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