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今日は長男くんとお出かけしました。まずは、地下鉄経由で大阪駅に向かいます。12時10分ほど前に到着。目指すは、札幌行き「トワイライト・エキスプレス」いました、いました「トワイライト・エキスプレス」 12時ちょうど、静かにはるか札幌に向けて発車しました。 (長男くん、なんだか合成写真みたい。)よぉく見ると、天使がらっぱ吹いてます。環状線で弁天町に向かいます。途中、ユニバーサルスタジオ仕様の電車と遭遇。 記念にぱちり。弁天町の「交通科学館」に来ました。2人とも初めて。大人400円、こども100円です。館内には、D51やC62などのSL、0系(初代)新幹線、昔の客車や電車、高速バスや飛行機などの実車・実機が所狭しとならんでいて、長男くん、大喜び。また、ミニSLや鉄道模型も楽しめました。新幹線ができる前に東京ー大阪を走っていた特急「こだま」です。2時半からは、普段は施錠されていて、内部を見られない車両の中に入れてくれる「ミュージアム探検ツアー」に参加。戦前生まれの、皇室や外国の要人などを乗せた寝台車などを探検しました。 かつての要人が利用した車両の個室(左)と、二等寝台(右)です。1938年生まれなんだって。
2005年06月25日
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今日は父の日。午後から、長男くんの幼稚園で父の日のつどいが持たれました。まずは、お部屋で、神さまを礼拝して、今日のつどいが始まりました。ついで、園庭に移動、ドッジポール。まずは、園児同士の対決。長男くんのたんぽぽ組は、ライバルあやめ組に2連勝。これまで、練習の時には、1勝もできなかったそうで、子どもたちは大喜び。 ミニ・ビデオはここをクリック! 続いて、お父さん同士の対決。ぶんぶんボールが飛び交い、けっこう、まじな試合運びとなりました。試合結果は、こちらもたんぽぽ組の圧勝に終わりました。最後は、近くの教会の牧師先生のメッセージ。勉強ができること、よい子であること、何かができること・・・世の中には、いろんな基準がありますが、何をもって、よい子育てとなるかという問いかけがなされました。本当の幸せは、神さまとの関係が回復され、神さまとの親しい交わりによって与えられることを、もう一度、教えられました。 まだイエスさまを知らない子どもたちも、親御さんたちも、いつか、イエスさまのことを知るきっかけとなって欲しいと思わされました。
2005年06月19日
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礼拝の中で唱和されている「ハイデルベルグ信仰問答」今日の箇所は第十六主日。 問42 キリストが私たちのために死んでくださったのなら、 どうしてわたしたちがさらに死ななければならないのですか。 答 私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、 むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです。 問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、 わたしたちは他にどのような益を受けますか。 答 この方の御力によって、 わたしたちの古い自分が、 この方と共に十字架につけられ、殺され、葬られる、 ということです。 それによって、肉の悪い欲望はもはやわたしたちを支配することなく、 わたしたちは自分自身をこの方への感謝のいけにえとして 献げるようになるのです。 問44 なぜ「陰府(よみ)にくだり」と続くのですか。 それは、わたしが最も激しい試みの時にも、このように確信するためです。 すなわち、 わたしの主キリストは、 十字架とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた 言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、 わたしを救い出してくださったのだ、と。問42 キリスト者にとって、死は、罰や償ではなく、「新しい命」への入口だなんて、すてきだな。ハレルヤ!問43 2000年前の十字架が、古い自分が処理された場所・・・。 だから、あの時、私たちもイエスさまと共に死んだんだ。だから罪がもはや支配することがないんだ。問44 主は、人の悩み・苦しみ・悲しみ・恐れを、生身の人として、つぶさに身に引き受けられた主。 だから、人のどんな劣悪な状況さえ、ご存じで、憐れむことのできるお方なんだなぁ。いつもいつも、ハイデルベルグ信仰問答の深さ、いや神さまの深さに、ただただ驚くばかり! 感謝 感謝 感謝!
2005年06月19日
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夜7時から、市内の別の教会で開かれた韓国のオンギジャンイ賛美宣教団のコンサートに、家族で行って来ました。一昨年、昨年に続いてのコンサート参加です。一昨年・昨年のメンバーとは、ほとんど入れ替わっていたのですが、不思議と違いは感じられないのです。オンギジャンイはオンギジャンイなのです。そして、オンギジャンイの姿勢から気づかされていることなのだけれど、やっぱり、メンバー一人一人が、コンサートの場であるにも関わらず、礼拝行為を楽しんでいることが伝わってきました。その場で、主の臨在を喜んでいるんですね。そのことを、ぼんやり感じるのではなくて、もう確信レベルで感じられるのです。 主がともにいらっしゃること、主のすばらしいみわざ・栄光を感じる時にあふれ出てくる感謝と賛美。その状態のまま、コンサートに臨んでいるっていう感じでしょうか。あっという間の2時間弱でした。奥さまは、新しい日本語版CDと、楽譜を購入していました。今日のコンサートのあった教会は、ノルウェーからの宣教師の先生が牧会しておられました。オンギジャンイの日本側のコーディネートをしている韓国人の朴先生と、そのノルウェー人宣教師が、日本語を使って会話をする様子が、不思議な感じでした。いえ、違和感は全然ないのですが、外国の人同士が日本語でコミュニケーションしていることに気づくと、妙に感じられて。この教会は、自分の出身教団と、ちょっとだけ接点のある教団に属していました。ノルウェーからの宣教師の先生に、かつてお世話になった知り合いの宣教師ご夫妻のお名前を出したところ、奥さまの小さい頃からご存じだということでした。その宣教師ご夫妻は、東北にいるとばかり思っていたのですが、何と今、関西にいらっしゃるということも、教えてくださいました。うわぁ、びっくりびっくり。洗礼は幼児洗礼だったので、中学2年の時に堅信礼というのを受けて信仰告白したのですが、その時導いてくださった宣教師の先生なのです。近いうちに、必ずお会いしに行こうと心に決めたのでした。
2005年06月18日
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今日の一日一章聖書日課はエレミヤ書27章です。今日は、エレミヤ書の裏のテーマともいえる「偽預言者」ということが、ものすごく心に迫ってきました。 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの 預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。 (9節)ふと思い浮かんだ、とある国の近代史と重ね合わせ、当時の状況をじっくり考えてみました。まず、このままバビロンの圧制に屈服し続けて生き延びようと考える派閥と、時期を見計らって圧制に反旗を翻すべきだという全く逆の派閥が、政治的に対立していたのではないだろうかということ。とりあえずバビロン隷属派が主導権を握っていましたが、次第に反バビロン派が力をましていたのではないかということ。(ちょっと推測ね)そして、「自分たちの国を取り戻したい、いや、神の民である我々の国だからこそ取り戻さねばならない」と主張することが、当時のユダヤでは、愛国的で、宗教的にも信仰的な言動とみなされていたのではないかということ。(もうちょっと推測ね) もしかしたら、ユダヤ教のネットワークが反バビロン独立運動の一つの拠点となっていたではないかということ。(完全に推測ね)そんな中、「偽預言者」は、当時の閉塞感・もやっと感を吹き飛ばすかのように、「バビロンに仕える必要はない」(14節)、「見よ。主の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる。」(16節)という、いわば「願望」「希望」「耳に心地よい」ことを、根拠なく語り続けていたのです。聖書に、「偽預言者」と書いてあるから、そうだったと分かりますが、リアルタイムでこの環境にいたら、はたして自分はどう判断できただろうか、と考え込んでしまいました。「偽預言者」は、外見的には、とても「愛国的」「信仰的」にさえ見えたような気もするのです。変な例えですが、戦争の真っ最中に、「敵に降伏せよ」とのメッセージを語れば、非国民というレッテルを貼られてしまうでしょう。しかし、「神風が吹いてきっと勝つ! 勝利は近い! 欲しがりません、勝つまでは!」というメッセージを語るならば、愛国的言動として、歓迎されるに違いありません。正しいことであっても、それを主張することが、非常に困難な環境。エレミヤが声を上げたのは、きっとそんな状況の中でだったのではないかと考えるのです。次に、「偽りの預言」とは、根拠のない、安易な目の前の救い・いやし・解決のことばのように思えてきました。相手の耳に心地よい、相手自信が実は聞きたいと思っている願望のことです。「祈っているからね。」「神さまがついてるから、絶対、祝福があるよ!」「だいじょうぶだよ、がんばれ!」いくら相手を励ましたとしても、安直な解決や気休めを語ることは、ある意味で「偽預言」なのではないかということです。「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。ー主の御告げー こうして、その土地を耕し、その中に住む。」(11節)と言われたとおり、この時のユダは、いったんバビロンに仕える必要がありました。主によって計画されたのです。どんなに愛国的であろうと、信仰的であろうと、どんなに人を慰め、勇気づけることばであろうと、それは「偽預言」だったのです。願った通りの解決、祈った通りの結果が与えられる時もあるかもしれません。そうでなかったとしても、最終的には、神さまの方法による解決は必ず与えられます。しかし、それは、万能の御手をもって働かせ、すべてを御支配される方の意思と計画と方法によるのです、寸分の狂いもない。ある試練や望ましくない状況は、ある目的のために、一時的にかえって悪化することだってあるのです。その場合、そのことによってのみ、主にあるところの最善が行われるのです。人知を越えた主の完璧な取り扱いがなされるのです。相手の目を神さまに向けさせることないまま、人間的な発想と方法をもって、人を元気づけたり、励ましたり、解決を与えようとすること、そのことが「偽預言」なのではないかと、深く探られました。
2005年06月18日
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4月末から、2冊の本を並行的に読んでいます。そこから芋づる式にいろんなイメージが湧いてきたので、書き留めておきます。イエスさまを宿すマリヤがエリサベツを訪問した時、エリサベツのお腹の中の胎児ヨハネは喜び踊りました。(ルカ1:41)妊娠中の妻を思い出します。まさに風船のような妻のお腹がありました。流れ星が夜空を横切るように、胎児ちゃんのかかとでしょうか、すぅ~っとお腹を移動していく様子がはっきり分かりました。胎児ちゃんの活動が始まると、妻が「そろそろ活動し出したわよ」と教えてくれます。夫婦2人で(下の子がお腹の中にいる時には上の子といっしょに)、胎児ちゃんのその活動を待ちわび、お腹を観察しては、喜んでいました。動いていなくても、お腹の形が変形している時があります。中で突っ張っているのでしょうか、妻が「これがかかと」と指し示すその固い部分を触っては喜んでいました。出産2か月くらい前までが一番、活動が活発な時期だったでしょうか。出産が近づくにつれ、胎児ちゃんも十分大きくなり、のびのびとできなくなったようです。「胎動」ということばがあります。本当にすばらしいことばですね。新しい命の誕生が間近なこと、内なる命が生きていること、そして待ち望む楽しさを経験させてくれます。神さまが与えて下さった一つの祝福であることを思います。内なるイエスさまを思います。イエスさまは胎児として、肉として、人の内に宿る存在となって下さいました。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです。」 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」 「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」イエスさまを信じた時、このプロセスが私の内にも起こり、イエスさまが私の内にも宿って下さったのです。今、主が私の中で、安息しておられる! そして、胎動!私の中でイエスさまが喜んでおられる!私のお腹の中で活動し、喜び踊る生き生きした命として!内なるイエスさまが、愛おしく愛おしく感じられてくるのです。 ♪ わがものなる 主を宿す この喜び 言いがたし 主 のたまえり 我などて 汝れを捨てて 去るべき (現代語訳 わたしのものである主を宿す。 この喜びはなんとも表現できません。 主はおっしゃられます。「私はどうしてあなたを捨てて去ることができよう。いやできない。」)こんな聖歌だったか、賛美歌だったか、昔よく歌った歌のリフレイン(折り返し)のフレーズが浮かんできました。主を感じる時に来る、何だか分からない「喜び」・「うれしさ」・「ことばにしきれない実感」のもとは、これだったのですね!強力な「実感」と「感謝」と「感動」と「胎動」が感じられて、しかたがないのです。そして、また、イエスさまの側においても、ご自身を宿して安息させてくれる場所を探し、求めておられたことを覚えるのです。 ーーー ーーー ーーー以下、すてきな気づきを与えてくれた2冊の本の箇所です。 知りなさい、創造主があなたをほかの被造物よりもどれほど尊いものとされているかを。創造主は、天も、月も、 太陽も、美しい星も、またその他世界にお造りになったいかなるものをも、神の像(かたどり)とはされませんで した。あなただけがあらゆる知性を超える本性の像(かたどり)、朽ちることのないの実の似姿、まことの神性の しるし、幸いな生の受け皿、真の光の刻印となったのです。その光を見るとき、あなたは神の姿になってゆきます。 あなたの清さから生じてあなたを照らす光、この光を通してあなたの内に輝いている御方を、あなたは模倣します。 この世にはあなたの大きさに匹敵するものなど何もありません。天の全体は神の手の中におさめられ、地も海も神 の御手の広がりに包まれています。 しかし、神はそれほど偉大で、全被造物をその手の中に収めることのできる御方であるにもかかわらず、ご自身の 全体をあなたの内におさめられるのです。神は、あなたの本性の中に入り込むときにも窮屈さを感じることなく、 あなたの内に住まわれます。そしてこう言われます。 「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く」(コリント人への手紙第二6:16) キリストによっておとめの内に神性が輝き満ちるということが実際にマリアの身に起こったのですが、これと同 じことはすべての清められた魂にも起こります。主はもはや肉として来られるのではありません。 「わたしたちは、もはや肉に従ってキリストを知ろうとはしない」からです。 (コリント人への手紙第二5:16) 福音が告げているとおり、主は霊的に私たちの内に住まわれ、御父もキリストと共にそこに宿られます。このよ うにして、幼な子イエスはわたしたち一人一人の内にお生まれになるのです。 (「来てください 沈むことのない光 ~初期キリスト者たちのことば~」124~126頁) 4 教理の説明中心の説教で見失われるもの 前章で男性原理優先の世界ではしばしば、キリスト教に関する知的理解や教理の説明が優先し、その方向は神と私たちの“関係性”を必ずしも豊かなものにしないのではないかと述べた。それでは、キリスト者に期待される“関係性″とはいったいどのようなものなのだろうか。次のレポートは、あるセミナーの折に一人の参加者が書いたものである。 〈『人を知り人を生かす』(工藤信夫著、いのちのことば社)を読んで〉 久しぶりに読んだこの本の中に、現在の私が投影されているかのような記述を少なからず発見した。そこには、以前はあまり気に留めなかった部分が多くあり、本というのは、読む人の「時」によって、語りかける内容を変えてくるのかもしれない、面白いものだなあと思っている。 そして、今から書くのは、「必要とされること」(四四頁)という章に私が見つけた、母教会で求めながらついに今に至るまで聞くことのできないことばについてである。 教会が人々を神に立ち返らせるとは、「神はあなたを必要として世に送り出された」ということを伝えることです。 同時に、「教会はあなたを必要としている」と会員に明確に伝達する責務があります。 「神は私を必要としておられる……」 これは、私にとっては、神様と私との関係における「基本的信頼」の発見のようなものであるが、このことに気づいたのは、数年前のある朝のことである。 突然「もしかしたら、神さまは私とお話ししたいのかもしれない」とハッとしたと同時に、サーッと何か「神さまの寂しさ」のようなものが私の胸をよぎったのだった。 「神さまは私を求めておられる」 それが一層強く刻まれたのは、その後しばらくして、クリスマス物語を思い巡らしていた時のことである。 赤ちゃんは母を求めて、やさしい胸が欲しくて泣く。ベビー・イエスも同じではないか。ひとりでは生きられないから、愛する人を求める。マリヤやヨセフや、その他の周りにいる人々を、イエス様は必要とされた。それは、赤ちゃん時代だけのことにとどまらないのではないだろうか。 そう、私たちは誤解しやすいが、実は神さまは完全無欠な方ではなく、共に生きる私たちを「必要」とされる方なのではないだろうか。 けれども、私が教会で聞いてきたことは、「あなたは罪人です。その罪を負ってイエス棟は十字架の死を遂げられ復活された。……信じる者は救われる」ということだけで、そこには、「必要(ひつよう)」の「ひ」の字もなかったような気がする。 教会貝となってからも、奉仕するのは義務のようなもの。決して「教会があなたを必要としているから」という語りかけはなかったと記憶する。 今思えば、神さまが私に対して「わたしはあなたのそばにいる」から「あなたにそばにいてほしい」という、誤解を恐れず言えば、“愛の告白”のような語りかけをしておられるのかもしれないのに、教会というところは、高い位置から人を罪人ときめつけ(もちろん罪人ではあるのだが)、免罪符のような奉仕を“労働”として要求する。極端にいえば、“救いの論理”だけが、そこではあまりに強調されてきたように私には思える。(以下略) (「これからのキリスト教」 工藤信夫著 37~39頁)(工藤先生の本の引用の内容は、今の教会の中に横たわる課題に対して語られていることが本題なのですが、今回はそれとは別に、「私たちを必要として生まれてくださったベイビー・ジーザズ」という概念がものすごく鮮やかに感じられました。)
2005年06月16日
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あなたなしに生きていけませんあなたは私のつくり主あなたは私のあがない主あなたは私の救い主わたしは、あなたなしに生きていけません主よ、あなたは、人を「住まい」「宮」として創造されました被造物である人の中に住まわれることを望まれたのです実際に、へその緒を通して人に依存する胎児の形をとって、人の中に宿られました「わたしも、人に依存することなしに生きていけない道を選んだのだよ」そして今、霊として、信じる者の内に住む方の、こう語りかける声が聞こえてくるのです「わたしも、あなたを必要とすることを選んだのだよ あなたなしに満足できないのだよ あなたが、住む場所を提供してくれたことが喜びなのだよ」 主よ、あなたご自身をこの身に宿しているこの奥義を感謝します
2005年06月15日
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今日の礼拝メッセージは唄野先生の担当。一日一章聖書日課、エレミヤ書21章から「いのちの道と死の道」というメッセージ。子どもメッセージは、放蕩息子の弟の話。お父さんは、財産の分け前を要求して旅立つ弟息子を見送りました。弟は、やんちゃで、決められたことを守るのが大嫌いでした。お父さんは、この弟が、自分で身をもって経験しなければ納得しないことを知っていました。だから、この弟息子が、すっからかんになること、苦労することが分かっていながら、見送ったのです。弟息子が、家にいた時の良さに気づき、戻ってくるのを待ちわびながら。この過程を通してのみ、弟の回復が与えられ、父の家に喜んで住むことができるようになったのです。さて、エレミヤ書21章。セデキヤ王が、エレミヤにパシュフルとゼパニヤを遣わす。(1節) その背景。2つの強大国エジプトとバビロンにはさまれ、この時、バビロン側についたユダは、同盟関係ではなく、バビロンの介入を招き、神殿の宝物、軍の中枢、技術者を根こそぎ、バビロンに持って行かれてしまっていた。国としては残ってはいるものの、非常に不安定な状態。こんな時こそ、王が信義一貫し、国をまとめ上げる必要。ところが、バビロンの支配を受けながら、一方でエジプトの動向をも気にするユダの姿。(実際、後にエジプト側に寝返り、悲惨な目に) 「どうか、私たちのために主に尋ねてください。 バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。 主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、 彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」 (2節)伺いを立て、弱い中にある自らの姿を告白し、かつての奇跡に思いを馳せる、一見、信仰的な問いかけ。しかし・・・・願いを求めているだけ ー 身に裁きをもたらしたのはユダ自身の偶像礼拝のゆえ。 その悔い改めがまったくない。・「~かもしれませんから」 ー 確信のない、別のことばで言えば、あわよくばと言う感じ。・恵み(いいとこ)だけ求め、主ご自身を求めない。 イスラエルの神、主は、こう仰せられる。 『見よ。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが、 わたしは、あなたがたの手にしている武具を取り返して、それをこの町の中に集め、 わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、 この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。 そのあとで、ー主の御告げー わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんから のがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。 彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』 (4~7節)王から遣わされた祭司たちに、こんな裁きの預言が宣告される。特に、目に見える敵はバビロンだが、実際に戦い、ユダを滅ぼそうとしているのは、主ご自身(5節)であることが語られる。聖書には、目に見える現実と、背後にある霊的世界のことの両方の記述。たとえば・・・ 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 エペソ人への手紙 6:128節以降、「いのちの道と死の道」が置かれることが述べられる。 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、 出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。(9節)なんと、神さまの語る「いのちの道」とは、圧制者バビロンに連行されること。逆に、エルサレムにとどまることが「死の道」。骨まで腐っていたユダには、そうするしか救いと回復の方法はなかった。異国の地で補囚となってでも、生き延びて「新しい人」とされる必要。バビロンの圧制に身を任せよ。その中にあって、主が共にいて下さる。そして、苦しみの中に、喜びが生まれてくる。苦しみに身を任せよ。しかし、そこに回復のプロセスがある。私たちの人生でも、苦しみに身を任せることが必要な局面。苦難・試練を経ることによってのみ、体験できる回復と、主の愛と恵みがある。冒頭の放蕩息子もそう。弟は、父の元を自ら離れることで、世の冷たい現実、自分の限界、父のありがたさ、家の安らぎを、はっきり知るようになった。父は、犠牲を払う道・方法で、弟を旅立たせた。それしか、回復の道がないと知っていたから。神さまは、その人が傷つくことと分かっていながら、その人の自由にさせて、自主的に戻ることを待たれることもある。イザヤ書・エレミヤ書と読み進めてきたから、よけいに、今日のメッセージが深く入ってきました。待たれる神さま、苦しみながら回復のために苦しみを与える神さま。ちゃんと、必要なプロセスがあって、回復や、信仰の成長が与えられるんですね。アーメン。自らすすんで出て行ったか、攻撃されてそこに連れて行かれたかの違いはありますが、故郷を離れ、身ぐるみはがされ、ぼろぼろになって主に立ち返る・・・。 弟の姿と、滅び行くユダの姿がだぶってきます。イエスさまも、故郷を離れ、さげすまれる悲惨な人生を引き受けられたことを思いました。でも、イエスさまは、ご自身の回復のためではなくて、人類の救いのために、それを自ら引き受けられたんですね。 いろんな思いと感謝がわき上がってくる今日のメッセージでした。
2005年06月12日
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今日の一日一章聖書日課は、エレミヤ書20章です。 主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。 あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。 私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、 骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。 私が多くの人のささやきを聞いたからです。 「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」 私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。 「たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう。」と。 しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。 ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。 彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。 正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。 あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。 (7~12節)預言者は、「栄光」と「苦悩」の両方を経験するといいます。その狭間にあって、エレミヤも、使命を果たすことによる希望と苦悩の間を行ったり来たりするかのようです。誰も耳を傾けないどころか、かえって迫害さえ受けるようになったのは、神さまのことばを語ったからとエレミヤはこぼします。そして、それは、神さまに起因すると叫ぶのです。しかし、ぼやきのように始まる祈りですが、この祈りを通して、エレミヤの心境は、「神さまにうまいこと惑わされた」と思うぼやきから、主にあって突き動かされ語らざるを得ないことに気づくように、変化していくのです。これこそ、祈りのダイナミズムではないでしょうか。11節では、もう「横暴な勇士」と共にあることが確信させられています。目に見える現実はぼろぼろですが、環境は悪くなる一方ですが、勝利の確信が与えられているのです。その秘訣は、「正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主」に、ぼやきであっても、自分の「訴えを打ち明け」たからだとエレミヤは証しするのです。でも、次の瞬間には、また現実の重さに圧倒されていきます。(14~18節) なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。 (18節)この「勝利の希望」と「現実の厳しさ」のはざまを行き来しながら、エレミヤは歩んでいくのです。もしかしたら、直面する肉体的・精神的苦痛が恒常的であり、その合間合間に、神さまからの供給・養いを受けながら、忠実にその使命を果たしていったのかもしれません。さて、このエレミヤがぼやく原因となった事件に目を留めさせられました。 祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いた (1~3a節)神さまの警告を語り続けるエレミヤは、祭司によって捕らえられ、むち打たれ、牢につながれたという事実だけが、たんたんと述べられています。 祭司に捕らえられたのです。宗教指導者からだけにとどまらず、周囲の群集からもひどいことばを浴びせられたことでしょう。むち打たれ、足かせにつながれ、牢の中で一晩を明かします。エレミヤにとって、自分を捕らえた、祭司であり宮の監督者パシェフルは、ある意味で最も神さまのことばを聞いて欲しかった存在だったのではないでしょうか。しかし、警告を受け入れてもらえるどころか、はずかしめを受け、その彼に裁きを宣告しなければならなかったのです。こんな状況の中から、「主が私を惑わした」という表現が出てきたことを深く思わされました。
2005年06月11日
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今日はあいにくの雨模様。家族で、近くのショッピングセンターに行きました。おもちゃ屋売り場のとなりにゲームセンターがあったので、家族で遊びました。長男くんは、今はやりのムシキングのゲーム、残りの4人はUFOキャッチャーを楽しみました。UFOキャッチャー、一人5回くらいずつやったのですが、なんと大漁大漁。たくさん取れました。すごいすごい。一番すごかったのは、一回で13個もとれました。(普通、穴の周りに煙突のように円筒形の囲いがあって、クレーンでその中に落とすUFOキャッチャーが多いですが、この店にはいくつか、その筒がなく、穴の周りに商品を積み上げているUFOキャッチャーがあったのです。上手に商品の壁を崩すと、一気に取れるのです。)お昼は、先日に引き続き、ガチャポンのあるくるくる寿司へ。なんと、今日も、先日に引き続き大当たり!。5回チャンスがありましたが、そのうち3回当たりました。すごいすごい。家に帰ってからも、みんな大喜び。大きめの品物は、広げるとナップザックのようなかばんに変身です。
2005年06月11日
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今日の一日一章聖書日課は、エレミヤ書18章。 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。 それから、私に次のような主のことばがあった。 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。 ー主の御告げー 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。 (1~6節)イザヤ書でも語られたように、神様は陶器師であり、イスラエルの民が、まさに陶器師の手にあることが記されます。4節 「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」という箇所の「再び」ということばが心に響いてきました。主は、立ち返らない民を滅ぼすという悲しくきびしい決断をしなければなりませんでした。しかし、それは、はじめの粘土を放棄し、新しい粘土で新しい器をつくり始めるのではなく、もとの粘土を使い、いったんは壊すけれど、他の器につくり替えるということが述べられているのです。ことばを変えるならば、見捨てられることはないということです。 なしたまえ 汝が旨 陶(すえ)つくり 我が主よ 我はただ主の手の 内にある土くれ 汝が旨のなる時 ○○(世の人だったかな?)は見るべし (見るなりだったかな) 我が内にますきみ キリストの姿を確か聖歌だったと思いますが(歌詞も出所もうろ覚えで、申し訳ないです)、思い出しながら、この箇所を味わいつつ、こんなみことばが迫ってきました。 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを 私は堅く信じているのです。 エペソ人への手紙1:6 ただイエスさまに信頼してお任せしていけばいいんですね。 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。 (7~10節)続く箇所で、「その時」「もし」というフレーズが二つ対比されます。あなたは、私の手の内にある粘土であると言いながら、神さまは、私たちの悔い改めを望まれるのです。何とかして、祝福を与えたい、わざわいを与えたくないという、神さまの側の燃えたぎる思いが感じられてきます。にも関わらず、エレミヤが記すのは、一向に悔い改めようとしない民の姿・・・。 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。(12節) 彼らは言った。 「さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう。 祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから。 さあ、舌で彼を打ち、彼のことばにはどれにも耳を傾けまい。」 (18節)単に悔い改めないというだけではなく、それが彼らの明確な「意思」であり、意識的な「選択」であったというのです。神さまの御思いと、民の考えのギャップの大きさに、何ともいえない悲しさを禁じ得ませんでした。でも、預言者たちは、身をもって、このギャップに直面したわけで・・・。 しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をみな、ご存じです。 彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。 彼らを、御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。 (23節)この最終節のエレミヤのことばが、何とイエスさまの十字架のことばと違うのでしょうか。そんな、ある方の分かち合いに、エレミヤの悩み・苦悩と、十字架を喜んで耐え忍ばれたイエスさまを思う時とさせられました。
2005年06月09日
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イエスさまと散歩しましょう。イエスさまと歩んでいると、イエスさまは、いろんなところに連れて行ってくれます。時に、過去に連れて行ってくれることがあります。そんな時は、思いっきり過去を振り返りましょう。いろんな過去があります。楽しかった場面があります。横で、イエスさまが愛と喜びと微笑みを持って、見守って下さっていたことが分かります。振り返りたくない、思い出したくもないような、つらかった場面もあります。イエスさまは、時にそんなところにも連れて行ってくれます。 失敗 傷ついた出来事 悲しみ 苦痛 病気 試練 争い 傷つけてしまった人 うらまれてしまった人 忘れてしまいたいこと・・・でも、今度は、イエスさまがいっしょです。一つ一つのつらい場面ですが、イエスさまはもう一度、そこに連れて行き、踏み直させてくださるのです。えっ? なぜかって?それは・・・その暗い「過去」を追体験する自分とまったく同じ思いを、「今」「ここで」イエスさまも感じてくださるからです。そして、あの時も、イエスさまが、同じ痛み、つらさ、悲しさ、苦しみ、傷を感じていてくださっていたことに目を開かせてくれるのです。私たちが受けた傷の分だけ、イエスさまも傷つき、血を流され、私たちが流した涙の分、イエスさまも泣いてくださっていたということを。イエスさまが、つらい過去に導いてくださる時、イエスさまご自身も、私たちの痛み・悲しみ・傷を「追体験」してくださるのです。文字通り「共感」「体感」し、身に負ってくださることで、私たちの涙をぬぐい、過去の傷を癒してくださるのです。いや、そのために、その「過去」に招き、連れて行って下さるのです。「過去を振り返らない」ということは、過去に目をつぶる、思い出さない、忘れようとするということではありません。その「過去によって縛られている状態」「傷」「うずき」から解放されるということです。振り返ることを恐れる必要がなくなるから、その過去に自由に行き来できるようになり、振り返らないように気張らなくてもよくなるということです。それは、ただ主イエスさまによる不思議な解放なのです。イエスさまに導かれた時、思い切って、イエスさまが導かれる場所に行ってみませんか。 もう、イエスさまがいっしょなのですから。
2005年06月09日
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水曜夜の祈祷会。 今日の学びの箇所は、ローマ人への手紙3:9~18から。軽く見ていると、時にとんでもないことになることがありますが、今日はそんな、軽く見てしまいがちで、軽く見てはいけない3つのこと。・自分の罪 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。 (12節)この箇所の「無益」、ギリシャ語の用法では、例えば「くさった牛乳」の「くさった」の部分に相当。あるいは「はえの落ちた牛乳」といったニュアンス。つまり、どんなに他が完璧であったとしても、ほんのわずかに過ぎない部分のせいで、そこにあるすべてを損なってしまうということです。13節以降では、人を損なうものが「罪」であることが語れ、具体例が列挙されます。 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。」 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 (13~18節)この一覧を見ると、いわゆる罪の中でも、「他者に対する悪意」について焦点が合わせられているように思えます。いわゆる「肉欲」と「うらみ」、どちらも罪ではありますが、どちらの害毒が大きいか。肉欲や道徳的なことに関しては敏感になる私たちですが、心の中における、他者に対する裁き、怒り、ねたみ、うらみ、嫉妬などは、なぜか、軽く見てしまうのか、直視したがらず、避けてしまい、また過小評価してしまう傾向があります。しかし、実際には「肉欲」よりも、この「他者に対する悪意」の方がより深刻で、人間関係を損ない、神さまとの関係にも影響を及ぼすものであることを、パウロは、ローマ書を通して示そうとしているのではないでしょうか。・聖霊の働き 神を求める人はいない。 (11節) 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 (13節) 人は、必ずしも困難や試練に出会ったからといって、容易に神さまを求めはじめる存在ではない。 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。 ヨハネの福音書 16:8人は、いろんなきっかけや出来事、あるいは人々を通して救いに導かれます。どんなに大きな転機やきっかけがあったとしても、その背後に、聖霊の働きがなければ、その決心はなかったのです。大きな出来事がなくとも、聖霊が働かれる時、人は、イエスは主と告白するのです。・救い8節で「善を現わすために、悪をしようではないか。」と揚げ足を取る人々の存在。私たちのために、傷のない完全ななだめの供え物として、主イエスが命を献げて下さいました。救いのかげに、大きな大きな痛みと犠牲が払われた事実を決して軽く見てはなりません。 3つとも、大きくうなずかされる内容でした。1番目の、「肉欲」より「他者に対する悪意」の方が悪質で破壊的という指摘が、今日、一番教えられたことだったように思います。
2005年06月08日
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今日の一日一章聖書日課は、エレミヤ書17章。1~4節で、ユダの民が完全に偶像崇拝に陥っている様子が描かれ、5節以降、神さまのことばが記されます。 「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。 その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、 葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。 彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」 (5~11節)裁きが近づく中にあって、人の罪と、主に従う者に対する祝福の約束が提示されます。 5節では、不信仰とは何かということが語られています。すなわち、形の上ではともかく、実のところでは、 人の力に、自分の頑張りに頼っているところに不信仰の本質があるというのです。という中谷牧師の解説にアーメン。最近まで、30数年間、まったく気づかずに陥っていたわなでした。 8節「その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」は、詩篇1篇を彷彿させる、神さまと直結する者の歩みが確かにされることの約束です。最近、強く感じることは、神さまの祝福って、単に苦難・試練・苦しみ・悲しみ・痛みが減ったり、なくなったりすることではないんじゃないかということです。この8節でも、「暑さ」「日照り」が取り去られ、経験せずに済むとは書いてありません。そこを経たとしても、決定的な影響を受けず、「暑さを知らず、葉は茂って」「心配なく、いつまでも実をみのらせる」という約束です。単に、心地よくないことが取り去られることが幸せとか祝福のように思っていましたが、これこそが、主に連なる者の真の祝福であるように思えてくるのです。14節以降、エレミヤの祈りが示されます。 「いやしてください」 「私をお救いください」 (14節) 「いやされない日を望んだこともありません」 (15節) 「私を恐れさせないでください」 (17節)エレミヤが置かれていた緊迫した状況が、ぴりぴりと伝わってきます。逆に、神さまの前に、ありのままの弱音を吐ける幸いを覚えます。聞いてくださる方がいらっしゃる。そして、その吐露の中で、神さまによる実際的な心の変化が起こっていくことを、エレミヤも体得していたのでしょう。19節で、再び神さまからの充電を終え、再び語り始めるエレミヤの姿が見られます。21節以降、神さまはエレミヤの口を通し、偶像礼拝を離れて主を第一とすることの象徴として、安息日を守れと告げられます。 安息日を守るということは、それだけ働く時間が減ることを意味します。そこで本当に神さまのおっしゃる通りに しても大丈夫なのか、本当に神様を信頼していいのか、ということが問われることになります。そういう意味で 安息日という制度は、本気で神様に信頼することを決断し、その決断を繰り返すことによって、神様への信頼を 身につけるために、さらには、その結果を見て、神様への信頼をさらに深めるために、神様が神の民に与えて 下さった制度です。分かち合いの中で、この中谷牧師の解説から、安息日が、エデンの園に植えられた「いのちの木」と重なってきたという発言が、とても印象的でした。
2005年06月08日
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今日の一日一章聖書日課はエレミヤ書15章。 神さまとエレミヤの対話が書かれていました。 「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。」 (1節)今日の箇所は、こんな神さまの強い口調で始まります。そして、きびしい裁きの内容が続きます。ユダの民に、裁きを宣告し、悔い改めを求めていたエレミヤ。その結果、民のうらみを買っていることの嘆きを、エレミヤ自信が吐露し始めまるのです。 ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。 私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。 (10節)それに対し、神さまは、エレミヤに解放と救いの約束を述べます。(11~14節)ところが、エレミヤのダメージは想像以上に大きかったようで、ついには、神さまのことばに耳を傾けようとせず、かえって心を頑なにするユダの民へのいらいらを爆発させるかのように語ります。 主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。 あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。 私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。 (15節)もう、復讐してください、とまで口走るほど、エレミヤは預言者としてのつらい使命を果たしてきたのでしょう。神さまは、そんなエレミヤに対して「もし、あなたが帰ってくるなら」(16節)という答え方をしていることから、エレミヤはこの時、もういや! 信仰も使命も捨ててしまいたい、逃げ出したい、そんな思いだったのかもしれません。もしかしたら、すでに、預言者職をやめる決心をしていたのかもしれません。 「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。 もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。 彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。 わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。 彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。 ー主の御告げ。ーまた、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。」 (19~21節)一時はやめる決意をしていたかもしれないエレミヤの帰りを待つかのような、神さまの語りかけです。そして、不安といらいらを包み隠さず述べたエレミヤに、守りと救いの約束を下さいました。極限状況のエレミヤの不信仰っぽい言動ではありますが、神さまは責めることをなさらなかったのです。「あなたはわたしの口のようになる」「わたしがあなたとともにいて・・・」イエスさまのことばが思い出されてきました・・・。 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、 何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。 ルカの福音書 12:11~12 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、 また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。 わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。 恐れてはなりません。 ヨハネの福音書 14:26~27主の前に弱音を吐くことがあるかもしれません。でも、それを主にぶつけていくならば、心が変えられていきます。主の前を去ることがあるかもしれません。しかし、主は帰りを待たれるのです。極限まで追い込まれることがあるかもしれません。挫折や逃避があるかもしれません。でも、そこにこそ、主が働いてくださるのです。逆に、降伏するその時を待たれているかのようにさえ思えてきます。とにかく、どんなことでも神さまに持っていく時、神さまは、それらを幸いな過程・プロセスと変えてくださいます。神さまの方法・手順・処方・タイミングには、寸分の狂いも、間違いもないことを、もう一度、教えられました。
2005年06月06日
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子どもたちの吐きかぜですが、長男くんは金曜日中にほぼ復活、次女ちゃんも土曜日には熱が下がり、午後にはすっかり元気に。一昨日、早退した長女ちゃんは、実は、ただのかぜと腹痛だったようで、吐きかぜではありませんでした。ということで、長女ちゃん・次女ちゃんは、無事に、小学校の運動会に参加できました。やれやれ。長女ちゃんは白組、次女ちゃんは赤組でがんばりました。天気は薄曇りで、昼すぎからいいお天気に。運動会の結果は、次女ちゃんの赤組の勝ち。一時期はどうなるかと思いましたが、みんな元気になって、本当によかったです。
2005年06月05日
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日曜日に吐きかぜで苦しんだ長男くん、月曜日には急激に復活し、いったんは幼稚園に行ったものの、途中で調子が悪くなり早退。そのまま、飲まず食わずの2日間。火曜日には、次女ちゃんに感染した模様。何にも食べられないからお腹は空っぽなのに、気持ちが悪いという最悪の状態。ずっと点滴生活。今日は熱が下がったけど、3日間、何も食べてない状態。今度の日曜日の運動会は無理かな。そして今日、昼すぎ、奥さまから携帯メール。なんと長女ちゃんが、お腹が痛くなり学校を早退。今、迎えに行って帰ってきたところとのこと。今から発症すれば、ちょうど運動会がピークじゃないかぁ。なんとまぁ、とほほ・・・。ちなみに、今日は、長男くんあたりが、まだ完全復活ではないけれど、だんだん元気になってきて、今まで、何も食べてなかった反動か、お腹が空いたと言って騒ぎ始め。元気になったらなったで、たいへん・・・。いいことなんだけどね、それだけ回復したっていう。
2005年06月03日
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