東方見雲録

東方見雲録

2024.01.27
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カテゴリ: 文化
① 享保の大飢饉

① 天候不順
② 害虫の大量発生

1731年末より天候不順が続き、年が明けてもその状態は続いていました。この天候不順は梅雨に入ってからは長雨を約2ヶ月もたらすことになり、日本は冷夏となりました。
それと同時に1732年夏はイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしていきます。
このダブルパンチにより、中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作となりました。

② 天明の大飢饉
天明の大飢饉はその被害が全国に広がるひどいものでした。大きな原因は3つあります。
① 天候不順
② 領主の判断ミス


1782年から天候不順が続き、翌年の1783年になっても天候は回復しなかったのです。
夏でも冬の着物が必要なほど寒かったと記されているほどです。
また1783年には現在も活動が活発な浅間山の大噴火も重なり、火山灰が土地を覆ってしまったのです。その結果、日照不足や作物の不作につながっていきます。
これらの影響により東北地方の被害は甚大で、犬や猫の肉・餓死者の肉にまで手を出してもなお、飢えには勝つことができなかったといわれています。

加えて、領主の判断ミスや指示遅れが重なってしまいました。それにより対応が後手後手に回り、疫病が広まるほど事態は悪化していきました。
最終的に死者数は、全国で90万人をこえ江戸時代最悪の飢饉となりました。

③ 天保の大飢饉
1833年から1837年にまでに及ぶ大飢饉が天保の大飢饉です。主に関東・東北地方の影響が大きく、その死者数は天明の大飢饉にも匹敵したといわれています。
主な原因は、
① 天候不順
です。とくに冷害の被害は大きく、夏であっても稲作をするには冬用の着物をきて、さらに暖を時々とらないとやっていられないほどでした。
引用サイト:歴史を振り返る   こちら










こちら


日本海新聞 01.19

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Last updated  2024.01.30 05:46:50
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