東方見雲録

東方見雲録

2025.10.15
XML
カテゴリ: 文化



吉田は日独伊三国同盟に反対し、太平洋戦争の開戦も阻止しようと画策した。軍部からは自由主義者、親英米派として「要注意人物」の烙印を押されるが、戦時中も終戦工作を続け、1945年4月、ついに憲兵隊に連行され、40日間、拘束された経験もある。

戦後も吉田は統制経済を嫌い、1949年からは自由主義的均衡政策である「ドッジライン」を積極的に受け入れた。インフレ抑制のために、GHQ経済顧問でありデトロイト銀行頭取だったジョゼフ・ドッジが実施した政策だ。戦後間もない日本は、アメリカの支援や政府の補助金に支えられた統制経済によって復興を目指した。しかし、ドッジはそれをインフレを招く「竹馬経済」と批判して、財政と金融の引き締めによって自立と安定を目指す政策へと転換した。

軍事力を強さとする大日本帝国に対して、経済の強さをもって自由主義陣営で確固たる地位を築こうとしたのが吉田である。吉田が重視していた英米流の自由主義も、大衆の生活に落とし込めば、田中の実益主義にたどり着く。田中は、動物的な勘で、その可能性を吉田から感じ取ったのではないだろうか。

こうして2人の軌跡をたどると、吉田と田中の経済優先という理念の根底にあったものが「反戦」だったことがわかる。そして、これは「軍事力に依存しない平和主義」に連続する。

日本の軍隊を解体し、戦争放棄を求めたアメリカだったが、共産主義勢力との冷戦が激しくなり、1950年に朝鮮戦争が始まると、一転して日本の再軍備を求めてきた。アメリカとの協調路線を重視した吉田だったが、再軍備は「愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢」(同前・中巻44頁)だと反対した。財政的な負担が大きすぎるというのが第一の理由である。さらに「理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」(同前45頁)という国民感情への配慮も大きな理由だったという。

結局は、吉田の時代に、治安維持のための警察予備隊が、自衛権行使のための自衛隊となって、事実上の再軍備を迫られることになった。「自衛隊は事実上の軍隊ではないか」と追及されたが、吉田は「戦力」とは「『近代戦争を有効に遂行し得るだけの装備編成を持つ』ところの実力部隊」(同前54頁)であると定義した。そして「軍隊と呼びたければ軍隊でよいし、それにはいわゆる戦力は欠けているのだから、日本の自衛隊は正に戦力なき軍隊であるかも知れない」(同前55~56頁)と柔軟だった。

この柔軟性が、長く続く自衛隊違憲論の原因となったことは間違いない。しかし、一方で、「日米協調」でありながら、対米追随に堕することなく、「軽武装」を貫いて「経済」を優先しようとする「適度な距離感」と「したたかさ」が表裏一体となって、過度な「軍拡」を防いできたのである。

田中も、この「したたかさ」を後に高く評価した。後年、秘書であり、大番頭だった早坂茂三にこう語ったという。早坂は、共産党員の経験もあり、新聞記者から田中の秘書になった。



引用サイト:現代ビジネス 菊池 正史   こちら

関連日記:2024.01.28の日記 戦後保守政治の流れ 55体制   こちら
関連日記:2025.03.22の日記 日米地位協定   こちら
関連日記:2025.01.24の日記 保守本流 石橋湛山   こちら
関連日記:2024.12.15の日記 協調外交の道を説き続けた石橋湛山   こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.10.15 20:17:26
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: