『福島の歴史物語」

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2013.10.21
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     イギリスの炭坑軌道

 一七二大年、イングランド北東部の炭坑利権の問題に端を発して、それまで独立していた三つの炭坑主のグループが一つになり、いわゆるグランド・アライズ (大連盟)を結成した。三つのグループとは、レーベンズワースのリドル家、ニューカッスルのモンターグ家、それとジョージ・ポーズである。この年、今後はそれぞれの利益を持ち寄るという協約が交わされた。その協約にはまた、輸送の合理化のために、各自の炭坑の一部を軌道でつなぐという一項があった。その結果、石炭を送り出すタイン川から内陸部にかけて十三キロメートルにわたる「本線」を敷設するなどめざましい発展を見ることとなった。

 この線路の交通量は非常に多く、そのために、貨物を積んだ「列車」と空の「列車」が途中で衝突しないように複線とした。このグランド・アライズの線路が敷かれた場所は丘陵の多い地帯であったので、勾配をなだらかにするために、かなり大がかりな土木工事が行われた。

 たとえば、タンフィールドに高さ三十メートル、底辺の巾九十一メートルの土堤が築かれた。しかし最も歴史的な建造物は、コージー・アーチと呼ばれる橋梁で、これは鉄道専用として作られた橋としては世界最初のものであった。一七二七年完成のこの橋は、石造でアーチは一つ、長さ三十一メートル・巾七メートル、その上を軌間一二一九ミリ(四フィート)の複線の鉄道が走っていた。しかしまだ人を乗せるように、出来てはいなかった。

     イギリスの馬車鉄道

 一八〇一年ロンドン市内に馬車鉄道が開通し、一八〇三年には同じロンドン市内のワーズワース=クロイドンの間も開通した。更にその後ストックトン=ダーリントンの間に敷設された鉄道では、最初は馬車鉄道として開通したが二年後には蒸気機関車が導入された。しかしこの蒸気機関車、ジョージ・スチーブンソンの「ロコモーション号」の重すぎる自重量、牽引力の弱さや遅いスピード、そしてレールの低い耐荷重力などが絡まって再び馬車鉄道に戻り、一八三三年以降になってからようやく全面的な蒸気機関単による運行となった。

     フランスの馬車鉄道

 一八二八年、フランス最初の馬車鉄道は、サンテチエンヌ=アンドレジューの間を非公式に運転していたが、同じ年の八月一日より公式運転が開始された。しかしこれとても最初は石炭輸送用であり、縦に並んだ二頭の馬が石炭を積んだ七台の荷車を引いた。だがその後運行された旅客用車両は、イギリスのストックトン=ダーリントン鉄道のものより工夫が凝らされており、ボディには屋根がつき、客車を.二つに区切った乗合馬車風にゆったりしたものであった。ところが更に凝って二階式にしたものもあった。

 一階の三つに区切った各客室の両側は開放されており、雨風を防ぐ時には、カーテンを閉めるようになっていた。しかし二階は完全に吹きさらしであった。この客車は、一八三二年に蒸気機関車が採用されるまで使われた。この二階式の一階部分が、つまり屋根の下は主人たちが、二階には召使や従者たちが乗っていた。厳しい差別を具現していたのである。

 同じ年、エチエンヌ・リヨン鉄道が設立され、ジボオール=リーブデギヨー間を開業したが、この鉄道でも一八四四年に蒸気機関車が導入されるまで、馬車鉄道が運行されていたのである。

     アメリカの馬車鉄道

 アメリカでは一人〇〇年初頭、リッドレイ・ブリセンツ花崗岩会社が、いくつかの馬車鉄道の線路を敷いたが、これは、いずれもバンカーヒルに記念建造物を作るためのもので、三マイルの距離を広いゲージで作ったのが最初であった。

 一八三〇年五月、ボルチモア=エリコツツミルズ間で最初の四二キロメートルの路線が旅客輸送を開始した。動力には馬を用いた。なぜなら、バタブスコ川流域の高低の多い渓谷地帯ではどうしても急カーブが出来るので、蒸気機関車はとうてい使用できないと考えられていたためである。

     オーストリアの馬車鉄道

 一八三二年に開業したオーストリアのリンツ=パプスブルグ帝国のヴデヨヴィーチェ間の馬車鉄道は、世界長初の国際間馬車鉄道であった。この鉄道は、一八二五年から一八三二年にかけて、技師フランツ・アントンリッター・フォン・ケストナーによって建設されたもので、その開通式には皇帝フランツが出席するなど、当時の人々が馬車鉄道によせた熱気と期待が感じられる。

 更に四年彼の一八三六年には、オーストリアのグムンデンにまで延長されたが、その総距離数二百キロメートルは、世界最長の馬車鉄道でもあった。この長大な馬車鉄道の目的は、グムンデンより岩塩を運び出すことにあった。そして、その途中にあったドナウ川を、今でいうフェリーボートで渡ったのである。この船は動力を使わず、川に渡されたロープをたよりに、水流を利用して前進したもので、現在でも観光用として使われている。

     帝制ロシアの馬車鉄道

 ロシアでは、一八三六年、六フィートのゲージで最初の鉄道が馬車により開始された。そして、こうしている間にも、蒸気機関車への胎動が始まるのである。

     蒸気鉄道への進展

 一七九七年にはイギリスのリチャード・トレビシックが三種類の機関車のモデルを開発し、ペニダーレンの鉄板軌道の上を走らせる実験をした。これを見た他の発明家たちは、滑らかな車輪の面と滑らかなレールの接触では、機関車に重い荷を引かせるだけの粘着力が出ないのではないかと考え、側面に歯の突き出たレールを敷設し、歯車の付いた車輪の機関車を走らせた。機関車の重量は、レールの頭部で受けるのだが、歯と歯のかみ合わせで、レールの表面の粘着力不足による滑りを防止したつもりであったのである。ともあれ、その後のアプト式鉄道を考えれば、これは当時の人々の創意工夫の力を示すすばらしい一例といえる。ここで当時の人々が、如何に多くの偏見を蒸気機関車に対して持っていたか、裏を返せば、それだけ馬に対する親近感を持っていたかということを見てみよう。

     蒸気鉄道への抵抗

 オーストリアでは、蒸気機関車は、平和な十九世紀に対する二十世紀の悪魔と非難された。例えば、人間の呼吸器官は時速二十四キロメートル以上のスピードには堪え得ず、肺臓は壊滅同様、循環器組織はがたがたばらばらになる。血液は乗客の鼻、目、耳、さらに口からふき出し、長さ五十五メートル以上のトンネルでは、全車両の乗客全員が窒息、運転士を失った狂暴な霊柩車として出て来る。スヒードを調整出来るような専門医師が運転士と同乗してくれないと、誰一人として蒸気機関車に乗る者のないことは確かであると主張した。

 またありとあらゆる分野の医師という医師が、新聞の第一面に登場し、いわゆる神経学の専門家は警告を発した。その記事によると、人間はすでに最近の刺激で精神的に過労になっており、この上に鉄道による旅行の緊張を受けると完全に狂気となり、暴れ回るであろう。蒸気機関車のスピードは男性を自殺に追いやり、女性は性的興奮に陥るにちがいない。凄い昔を立て、煙をはく蛇の一種をチラッと見ただけで、何の関わり合いのない通行人がギヤーギヤーしゃべり出し、病気になったと言う報告もイギリスから届いている、などと言いふらされていた。

 フランスでも、蒸気機関車から出る火花で森や作物が火災を起こし、悲鳴に似た騒音で住民は追い立てられ、家畜は逃げ出し、草花や茂みも煤煙で枯れてしまうと言う専門家もいた。

一八三五年、フランス国有蒸気鉄道網の法案が国会に上程されたが、笑うべき夢物語として却下されていた。その上実際に、機関士たちは未熟練で、特にカーブについては経験不足であった。レールの敷設に関しても遠心力を計算に入れ、外周部を高くすることも知らなかった。そのため列車がカーブでスピードを出し過ぎ、転覆して死者三十七人を出す事故を起こすなどしたため、馬車鉄道への回帰の気運は強かった。

     文化の流れ

 このような曲折はあったが、ヨーロッパ諸国において蒸気鉄道出現までのこの時期は、馬車や馬車鉄通を利用した道路上輸送の繁栄期であった。イギリスにおいては、すでにメール・コーチのルートが張り巡らされていた。

 ヨーロッパでも、中国でも、日本でも、馬車や牛車は先ず王侯貴族用の乗り物として発達した。そのためにヨーロッパの宮廷用馬車も日本の牛車も、まるで工芸品そのものという時代があったのである。

 馬車の歴史は交通史の一部分ではあるが、大袈裟に言えば文化の歴史でもある。ヨーロッパの文化は、古くはシルク・ロードを通って日本へ入って来たが、時代が下がってからはこのルートの他に、フランス(ヨーロッパ)→イギリス→アメリカ→オーストラリア、そして日本へというルートのあったことも、解明されて来ている。つまり馬車の場合このルートを通り、ヨーロッパで都市内輸送機関として発達した後イギリスに渡り、イギリスでも同じ目的に使われた。

 しかしアメリカに渡ってからは西部開拓のワゴンとなり、オーストラリアではゴールド・ラッシュにより発達、その後日本に渡って来た馬車は、生糸の輸出がその要因となって発達していったのである。

(1) 「駅馬車時代」 篠原宏 十四〜二十ページ
(2) 「鉄道ピクトリアル」 昭和五↑七年六月号 
    「トラムウェイ・その発達と変遷」 
                 大塚和之 三八ページ
(3) 「ローマの道の物語」 藤原武一四〇ページ
(4) 「図説・世界の鉄道」 クリス・ミルサム
               一〇〜一一ページ
(5) 「汽車と電車の社会史」 原田勝正 四三ページ
(6) 「エンサイクロフィデア・ブリタニカ」
(7) 「国際関係学研究 八」「オーストリア時代の
    ヒットラー(1)」津田塾大学 藤村瞭一 十七ページ
(8) 「ロスチャイルド王国」 フレデリック・モートン
    一〇三〜一〇四ページ
(9) 「駅馬車時代」 五一ページ
(10) 前掲書 三〇一ページ




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最終更新日  2013.10.21 08:44:23
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