『福島の歴史物語」

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2014.01.11
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     福島県田村郡三春町

 この町は、旧磐城国田村郡の西端の阿武隈山地の山あいの底にへばりついた、人口一万人位の古い小さな町である。そして、この底の中央にある、小高い、その割に急峻な丘の上に、永正元年(一五〇四年)舞鶴城という典型的な山城が築かれてから、初めて町としての体裁を備えた城下町である。三春藩五万五千石の中心であったこの町には、古い歴史を反映して、文化的にも誇れる幾つかのものが残されている。町内各所には、古い創建に成る神社仏閣があり、重要文化財の仏像を始め、絵画の雪村、句の今泉恒丸、郷土芸能の三春盆踊り、三匹獅子、そして今にのこる三春人形、三春駒などの工芸品など、また、明治に入ってからも、若山牧水、竹久夢二などともゆかりがあり、最近では大林組社長の大林賢四郎、歌会始・読人の秋田一季、洋画の大江孝、歴史の高橋哲夫そして女性登山家の田部井(旧姓・石橋)淳子を生んだ町である。また我が家に残っている嘉永元年(一八四八年)の火災のため焼失した三春愛宕神社再建の寄付帳の中には、式守家の署名と軍配の形の判子が押してある。現在の国技・相撲の行司の式守家との関係とも考えられ、娯楽的なものも含めて、一通りのものが藩内に揃っていたと思われる。

 勿論、藩という組織そのものは、政治、軍事を基盤として成立して来たものではあるが、当然それらを維持する経済力を有していなければならなかった。であるから三春藩も経済的には自立しなければならなかった。他藩からの移入(例・会津の酒)を禁止しながら、他藩に移出していたものに、生糸・蓑・菅笠・藁工品・馬、そして時代が下がってからは、タバコなども加わるなど、今の国際間の輸出入のような関係もあったようである。

 地勢的には高い山こそなかったが、褶曲が激しく谷が侵入し、山また山、谷また谷の錯雑した地貌を呈していたが、その谷地を通じて交通路は大いに発達していた。その主幹線として、東方に向かう常葉街道、小野新町街道が浜通りを結び、北には小浜街道、西北には本宮・二本松街道、西方郡山に西南笹川・須賀川街道、南方には守山・石川街道と四通八達、江戸までの間道を含め、その他数多くの里道が四方に通じていた。

 当時の水運は、伊達郡梁川町以北仙台まで阿武隈川を利用して行われていた。郡山は奥州街道に接し、本宮の南で、この川の西に位置していた。つまり三春と郡山は、阿武隈川を挟んで、東の山地と西の平野に相対していた訳である。

 当時の郡山を中心とした安横平野は、一部を除いて水利の便も悪く、農耕不適格地として広がっていた。ただ、地理上たしかに郡山村は、奥州街道とのいわき=新潟線の十字路に位置してはいたが、それに類した周辺の町としては、三春をはじめ、花の本宮と言われた宿場町、そして行政の中心、更に物資の集散地でもあった城下町、二本松・須賀川に囲まれていた。そのために、これら周辺の町からは、郡山村へ特別の用向きは無かったのである。会津方面から北へ行く人は熱海から本宮を、南へ向かう時は須賀川か白河を経由したと思われるし、磐城・田村方面から北へ行く人は本宮か二本松、そして南へ向かう時は須賀川を経由したものと思われる。そして藩政時代にはこの奥州街道に沿った間道も発達していた。この間道は奥州街道が各大名の通り道であり、殿様優先の交通体系を嫌った当時の商人たちの産業道路として利用されたものである。(郡山女子大・田中正能先生は、絹の道と表現)。このような状況であったために、郡山経由の道路は、わずかに南北縦断か東西横断の時に、近道として利用されたに過ぎなかったと思われる。

     戊辰戦争と三春

宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのはなんじゃいな
              トコトンヤレ トンヤレナ

              トコトンヤレ トンヤレナー

 この町も、戊辰戦争を避けることが出来なかった。三春藩を含めて、奥羽越列藩同盟が組織された。だがはじめの会津藩救解同盟の段階では平和的な同盟であり、大部分の小藩にとっては、仙台・米沢といった大藩へのいわばお付き合いでお茶をにごしておくこともできた。しかしその救解同盟が攻守同盟に変わり、仙台藩を盟主として白石に奥羽越公議府が開設され、反薩長の姿勢を強化してくるようになると、話が変わってきた。それは今までのあなたまかせの立場を放棄し、小藩といいどもそれぞれが独自に自藩の将来の生き残り策を決定しなければならぬ羽目に追い込まれたことを意味した。そしてそれはなにも小藩に限ったことばかりではなかった。仙台藩も米沢藩も同じことであった。

 恭順論が主導権を握ったところでは奥羽越列藩同盟に離反して「裏切者」の汚名を残し、対戦論の勝ったところでは西軍に壊滅的打撃を受け、「朝敵」として悲劇を迎えることとなる。この同盟に参加した全ての藩で、恭順論と対戦論が交錯したように、当時十一才という幼少の主君を戴いていた三春藩(五万石)も例外ではなかった。大政奉還間もなく朝廷支持を表明したものの、それを公表できなかった。なぜなら表だって反対をすれば、磐城から小野にかけてあった笠間藩飛地のように、周囲の各藩に攻め滅ぼされるのが目に見えていたからである。

 三春藩は京都に帰順の使者を送ったものの、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟が攻守同盟に変化し、この要求により会津・仙台両軍を主力とする白河の攻防戦に派兵し、やむを得ず西軍と兵火を交えた。当時の二本松藩は白河藩(十一万石)をも預かっており、その版図の中にあった白河城での攻防戦は、二本松藩をして奥羽越列藩同盟に対し多大なる義理を生んだことになったと思われる。しかしその後の棚倉城奪還の浅川の戦いで戦線の背後に回って挟み撃ちにした黒羽藩を三春藩の攻撃と言い触らされたことから、「三春狐」のいわれなき悪名が広がった。三春藩が挟み打ちにしたと信じた仙台藩は、これの実情調査のため、仙台藩の氏家兵庫を三春藩に派遣した。その返事によっては幼かった三春藩主・秋田信濃守映季を人質とするか、三春・守山藩を討伐することとしたのである。その氏家兵庫は、なぜか事態を穏便に済ませたのであるが、結局、三春藩の主張を認めざるを得なかったのではあるまいか。

 三春藩は、隣藩・二本松藩に共に恭順の誘いをかけた。しかし二本松藩は三春藩からの帰順要請の使者を殺害してしまったのである。二本松藩は西軍の攻撃に曝され、落城していった。それにも拘らず、三春町の人々は、今なお残る「三春狐」の呼称の苦味に堪えているのである。当時西軍の歩卒たちが放歌して言うには、

  「会津肥後守力が強い二十三万右手で投げた」
  「会津猪、米沢狸、新発田狐に、だまされた」
  「会津・桑名の腰抜け侍、二羽(丹波氏・二本松藩主)の兎は
   ぴょんと跳ね 三春狐にだまされた」

 ところで一般庶民は、もっと確かな目で歴史を見つめていた。
  「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。



 三春藩は白河や棚倉そして須賀川のような周辺の町村の殆んどが戦場となり、二本松少年隊・会津白虎隊に象徴されるように徹底的に破壊され尽くした中で、三春のみが戦火をまぬがれ、辛くも町全体が生きのびた。この無血入城の交渉にあたって活躍した人物が河野信二郎(広中)であった。そしてこのときの交渉相手であった西軍の参謀が板垣退助であったのは、その後に起きた福島県の自由民権運動にとって、大きな幸運であった。河野広中はその自由民権運動のリーダーとなり、西の土佐、東の三春といわれる程の活動をしたが、時の明治政府の反自由党勢力と戦って入牢を繰り返した。戊辰戦争の時の三春帰順の中核的存在であり、「三春狐」とそしられた彼の、精一杯の努力と見るのは私の身びいきであろうか? しかし大正四年には農商務大臣にまで登りつめたが、同十二年、彼の自由民権運動の総仕上げであった普通選挙法施行の準備中に、病死してしまったのである。彼の銅像は、郷里・三春町の舞鶴城跡を見上げる場所と、福島県庁に建てられている。




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最終更新日  2014.01.11 17:01:25
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