『福島の歴史物語」

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2014.11.21
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カテゴリ: 戒石銘


 元文元(1736)年、隣藩・三春藩の東郷で強訴が起こった。
 このような周辺の状勢もあり、昨非は民勢の回復こそ年貢収納向上の基本であると考えていた。そこで改革の基本方針を次の三点とした。

  1 年貢収納法を現行の田からは米、畑からはカネを止めて元に戻し、三カ年の定免
    制を実施する。
  2 手余り地対策に公田作りを推進する。
  3 社倉(お救い倉)の運営を実態に合わせて改善する。

 ところが、この年は冷雨が続いて元禄の凶作をしのぐ大不作となり、翌年も冷雨で不作となって期待された財政の好転にはならず、社倉も空のままであった。

 元文二(1737)年、昨非は郡奉行に抜擢された。郡奉行は藩全体の年貢収納、民事・治安行政全般を統括し、その下に郡代がいて担当地域における年貢の管理や民事・治安などを担当していた。つまり昨非は、ようやく藩政改革の地位に就いたことになる。

 昨非の改革は軍制、教育、農政、税制など藩政全般にわたる広範囲なものとなった。さらに昨非は手余り地の公田化が進捗しないため百姓に耕作を強制したり、半知借上を強行したり、税種目を増加するなどしたため、重臣をはじめ藩士や領民からの反感も強かった。しかし藩主の高寛、家老の忠亮などの後ろ盾により、多くの反対を押し切って文武両道の義務化等の教育制度をはじめ、軍制・士制・刑律・民政などの重要施策を次々と改革していった。特に、刑律では耳そぎ・指一つ切り・両足大指切り・焼きごてなどの残虐な刑罰を禁止し、民治の面でも藩主外遊の際には先触れなどの煩雑な制度を廃止して農民の作業の妨げとなるのを防ぎ、また役人が出先の民家で長い時間にわたって接待を受けないように弁当持参の原則を確立した。さらに藩士教育では、毎月城内において三日間、昨非の自宅において六日間の受講を義務化することで教育普及にも力を注いだ。当時、藩の租税は年貢(地代)と小物成(雑穀、現金納)から成り立っていた。また毎年四月に人別改め人面改めや宗門改めが行われ、そのために村人が集められた。郡山村の宗門改めは如法寺の境内で施行されていた。

 元文三(1738)年、二本松藩はまたも大雨洪水に襲われた。その損耗一万七千九百石と言われる。九月十八日、平藩では百姓総一揆が発生した。そして翌・元文四(1739)年八月十八日、平藩は一揆の首謀者十二名を処罰したのである。迅速な対応であった。二本松藩では寛保二(1742)年、またも発生した大雨のため、甚大な被害を被ることとなった。三春分領(五千石)でも訴訟が起こり、白河藩でも百姓の打ち壊しが発生した。このようなときに進められた昨非の改革ではあったが、肝心の経済振興策がなかった。結局、百姓たちの負担は増え、家臣の既得権益は侵されることになり、反対派の声が次第に大きくなっていった。しかし昨非は、不作の続く状況の中で夫役(労役)が相当あり、農事の時節に遅れて田畑の手入れも雑となり、結果引き起こさせる収入減という百姓の生活の現実を憂えた。さらに百姓たちの労働意欲をもっと高めるためにも、実収入を増やすべきだと考えた。

 寛保三(1743)年、昨非は郡代となり、江戸用人となった。郡代は代官と同じで支配地においての藩主の代理であり、用人は家老に次ぐ重臣で家老の職務全般を補佐、いわば事務役・連絡役・折衝役としての性格を持っていた。昨非に期待した大抜擢であった。
 延享元(1744)年、福島藩の渡利村の百姓たちが減免を願い、江戸表に訴え出た。それを知った昨非は、藩の兵制・刑法の改正、藩財政確立を急ぐために酒税や新税の賦課を要請した。

 もともと二本松の国許で藩政に携わっていた藩士たちには、昨非が江戸に住んで楽をしているように思えた。それであるから江戸から命令を下し、推し進めようとする改革が面白くなかった。重臣たちの中にも、猛烈に反対した人も結構多くいたのである。これまで自分たちの手の内で好きなように政治を担ってきた重臣たちの目には、突然やってきた余所者に何から何まで慣例を覆されると考えられる事態は、何とも始末の悪い状況であった。「武芸は武士の本分、儒学は弱々しい人間のやることだ」と考えていた藩士たちにとって、昨非の半強制的な学問のおしつけに反発を感じ、あげくの果ては脱藩する者も出た。しかし昨非は一向に気にせず学問を奨励した。改革反対派は、昨非を陥れようと内密に画策をはじめていた。藩主や家老を後ろ盾とした昨非の施策に、表だって反対はできなかったのである。

 延享二(1745)年、福島藩で増免反対打ち壊し一揆が発生した。二本松藩でもまた  不作の上、江戸屋敷が類焼してしまったのである、この復興のための御用金取り立てが行われ、そのための「領内村々大概帳」を作成提出させるなど、種々の方策を講じた。この年、藩政改革を志し、日夜奔走している間に心身共に使い果たした家老丹羽忠亮が志なかばにして病に倒れ死去したために反対派の声が次第に大きくなり、藩政改革に熱意を失った藩主高寛は隠居をし、長男・高庸にその家督を譲ってしまった。高庸も最初は昨非とともに改革を進めたが領民や家臣の批判が高まっていったため、高庸と重臣たちは、新参の昨非の方針に非協力的になっていった。残された家老たちも、はじめのうちこそ忠亮の政策を踏襲していたが次の藩主丹羽高庸の消極的態度に引かれ、昨非は次第に浮いていった。藩主高庸は改革の遅滞の反動で保守派の家臣を登用し、「昨非討つべし」と叫ぶだけで、何の対案もない家臣が重用された。このような中でも幕府の課役は相次ぎ、主なものだけでも享保十五(1730)年には、日光廟の修理を命じられている。この修築費用を出すのは藩にとっては、大変な物入りであり、さらに俸給をけずられる藩士たちも出てきた。藩士たちの生活もまた苦しくなっていたのである。

 翌・延享三(1746)年、二本松藩に御巡検使が入国した。藩では幕府の御目付衆が視察に来るというのに、『政策の変更など目立つことをするのは不味い』という思惑から、昨非に提案を取り下げさせていた。この年の作柄は中作であったが、延享四年は不作となった。会津藩でも気候不順のため、三万石余の年貢がとどこおっていた。江戸の昨非は旗奉行格となり、十一月、番頭格に任じられて伊勢・美濃国の川浚い手伝い普請に副奉行として赴き、翌年に工事が終わって幕府に賞された。旗奉行は家老に属し、藩主の軍旗・馬標(うまじるし)などを管掌した。番頭は、平時は警備部門の内で最高の地位にあるものを指し、戦時には備の指揮官となることが多い。昨非は軍政農政を掌握し、実質的最高位についたことになる。

 寛延二(1749)年三月、昨非は高まる抵抗に抗して、藩政改革と綱紀粛正の指針を明示し、また藩士を戒める目的で二本松城内の藩士たちが通る通用門の地点に巨大な花崗岩の天然石を据え付け、黄庭堅の『戒石銘』を刻印させた。戒石銘は、毎日ここを通る藩士たちはいやが上にもこの碑を見なければならなかった。反対派にすれば、それはそれで癪の種であった。

   爾俸爾禄 汝の俸 汝の禄は  
   民膏民脂 民の膏 民の脂なり
   下民易虐 下民は虐げ易きも
   上天難欺 上天は欺き難し
(お前たちの俸給は、領内の農民達の汗と脂で働いたたまものより得ているのである。農民から年貢を搾り取るなど虐げることはできるが、天までだますことはできない)

 この碑は昨非の提言により建立されたとされているが、実際は前の藩主・高寛の命によって刻まれたものであるという。戒石銘の原典は、中国の後蜀(こうしょく)の君主・孟昶(もうちょう)が935年に作った二十四句九十六字の戒諭辞(かいゆじ)(戒め諭(さと)すことば)に求められ、さらに北宋時代の君主・太宗が大平興国八(983)年(日本年号永観元年)四月に戒論辞から四句十六字を抜出し、戒石銘として州県の官吏に示し、官吏の戒めとして用いられたとされているものである。中国では日本の平安時代中頃に戒石銘が誕生し、平安時代末頃には広く各州県の門前に戒石銘碑が建てられたことが知られている。戒石銘は、武士に対しての戒めの意味であったが、藩主の自省を求める意もあった。

 非常時の際の改革であるからこそ団結して事にあたろうとする昨非に、『公儀共に一統の御定め』という形式論を楯に、結局重役たちは「今まで通りでよい」と決議し、昨非の提案を葬ってしまった。提案はなかったことになり、重役たちの判断も責任も回避されることになった。『百姓の意欲を高め、民力回復を第一に』という甘い提案があったことが漏れて百姓の間に広まれば、「どうなるか分からない」ということの方が、重役たちの関心事であったのである。

 このような状態の中で、昨非に対して快く思わぬ者たちが会合を重ねていた。ともあれ突然やってきた他所者に政策を覆されたのであるから、もうそれだけで面白くなかったのである。

「それにしても、先年、昨非は隣の会津藩との間で起きていた藩境を巡っての領土問題を
うまく丸めたからな」

「うーん。それがあるから、やりにくい」

「何とか奴を、早いうちに引きずり落とす方法がないかね」
 相談のために集まっていた藩士たちの話が途切れた。

「昨非を引きずり落とすいい方法がある」
 藩士たちは、一斉に発言者の顔を見た。

「戒石銘を利用しよう」
「あれをどう利用する?」

「左様。どうせ百姓どもは字が読めぬし、読めたとしても城中の戒石銘のある所にまで入れるはずがない。そこでだ。戒石銘を別に解釈して百姓どもを煽るのよ」
「・・・」

「まだ気付かぬか。この周辺でも、丁度一揆が多く起きている。もちろん領内の百姓どもも動揺しておる。恐らく煽られれば、一揆に走るに違いない。戒石銘が一揆の原因ともなれば、昨非も安泰ではおられまい」

「なるほど、で、戒石銘をどう利用する?」
「『下民は欺き易い、虐げてでも民の膏脂(あぶら)をしぼり、それをお前らの俸禄とせよ。どうせ上に立つ者は何も知らず、騙すのは簡単である』ではどうだ」

「おう・・・」
 どよめきが走った。

「しかしそれを、誰が言いふらす? 我らでは事が露見しよう」
「そこはそれ・・・修験者にでもカネをにぎらせればいい」

 そう誰かが言い出すと、話し合いの輪が縮まった。反対派はこの読み方をして昨非を貶めようとしていた。わざと曲解した意味を、領内に喧伝しようとしていたのである。そしてこの画策は、見事に成功した。「一揆が起こるかも知れない」という情報により行われた緊急会議で、「このような事態にまで発展した最大の要因は、昨非の戒石銘にあるようだ」という声が大多数を占めたのである。

 城内での会議も紛糾した。小姓役の上田某が、「事の起こりは岩井田昨非にある。昨非の首を斬ってこれを城外にさらせば、騒動は自ら鎮まる」などと公然と言い出したのである。藩内においても、昨非は難しい立場に追い込まれていた。





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最終更新日  2014.11.21 10:37:17
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