『福島の歴史物語」

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2014.12.21
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カテゴリ: 戒石銘


 十二月十九日、山根地方の一揆の状況は急転回する。たまたま公用で城下に詰めていた山木屋村の名主惣左衛門は、所用終わって帰村する途中、大平村島之内で一揆勢の代表と面会して『先ほど太守公御鷹野先より・・・御内々にて御上使下さるところ、その甲斐もなく相返し候段、不調法至極』と説得したので一揆勢も思い直し、改めて上使に願いに筋を言上したいと答えるに至った。惣左衛門はただちに城へ戻ってその旨を言上した。それを受けて、先に上使に指名された松井、平松の両人は惣左衛門に先導させて早馬で島之内に行き、一揆勢に向かい「この度上使として我々両人を差し向けらる。願いの趣、一々申し上げよ」と呼びかけた。これに対し一揆の代表者らは、はじめて具体的な願意を次のように申し述べた。

     乍恐奉願上一札之事
  一 近年打続き凶作にて、猶更当年は別して飢饉に相成り、御年
    貢半途に納め候得ば、後に残る米は只一粒も之れなく・・・
    御救下さるといへども御物成は一躰に増(まさ)り候得ば、是
    以て御救之有難き事少しも之れなく候、依って百姓共日々疲
    衰仕り、今日を営みかね候故、よんどころなく強訴、騒動致
    し候処、御上様厚き御憐れみにて御使者御下ヶ下され、願書
    早速御取り上げ下し置かる段仰せ付けられ、有り難き御言葉
    に随ひ願書差し上げ申候(下略)。

      ケ条書

  一 近年打ち続き百姓凶作故、上納延引之事。
  一 郡代、郡奉行、検見の仕方宜しからず、上作、凶作一円に御
    存知之れなく候事。
    附、百姓の言い分聞き入れざる事。
  一 不作に付検地願上候所、その場所ばかり御用捨にて、外高へ
    は平均に免上げ候事。御領内諸運上、御免下さるべく候事。
  一 漆不足代、御免下さるべく候事。
  一 領分人足、昼扶持下されず候事。
  一 出人の儀、高百石に面有一人宛の事。
  一 同与内金、二分三百文ずつ先規の通り仕りたき事。
  一 郡代、郡奉行、役替下さるべく候事。
  一 岩井田舎人、百姓方へ下さる事。
                       以上
  右の通り願上奉り候。此外願いの筋数多(あまた)有之候得共、先
 は荒増(此分)御用捨下し置かれ候はば、残らず引退(ひきのき)申
 すべく候。

  注1出人とは、若党・小者と称する藩・家中の奉公人を各村々に
    割り当てて出させたもの。享保二(一七一七)年の「御壁書」
    では、若党は高二百石に一人ずつ計五百人、小者は高百石に
    一人ずつ、計千人を毎年、町、在に申しつけるとしている。
    この割り当て人数が増えていたのであろう。

  注2出人の給金ははじめ年に一両二分であったが、のちには年二
    両二分に上げられた。それでも出人の支度金、生活費(江戸
    奉公の場合は旅費も含む)経費にはまったく不足だったので、
    各村では自主的に金銭を集めて補助するようになった。これ
    を与内金と称した。やがて藩はこの与内金を年貢同様に賦課
    し、強制的に取り立てるようになった。はじめは出人一人に
    つき二分三百文の負担であったが、延享のころには、この負
    担がさらに増したと思われる。

  注3岩井田昨非の身柄要求は、戒石銘の誤解によるものと思われ
    る。

 右のケ条書は上使の両人が書き留めたものと思われる。これを持って両人はただちに帰城して藩主に報告した。藩主丹羽高庸はこれを聞き、「一には御噴(いきどお)り、二ツには御落涙、第三には御先祖之御事を思し召させられ、この国の騒動する事も畢竟我が不徳にて如此(かくのごとし)・・・」と反省し、ややあって「(年貢)反面御用捨、未進残米等引延之事、用捨あるべし」と申しつけたという。この上意を受けて、一揆勢に対し次のような「覚」が発せられた。

         覚
  一 打続凶年に付、半面用捨の事。
  一 御用米金上納、来六月迄引延之事。
  一 未進残米、六月上納之事。
  右之分願共聞届候、此外諸願之分追って吟味之上沙汰に及ぶべき
  也
    寛延二年極月十九日(廿日)     丹(丹羽) 図書判
                      成(成田) 監物判

 この騒動は昨非の責任とする城内での声が多数を占めていたため、昨非自らが唯一騎にて一揆勢に乗り込み、説得に向かった。そして蜂起をした百姓たちを前に、戒石銘本来の主旨を説き聞かしたのである。

  おまえたちの俸禄はすべて、民の流す汗と脂である。民を虐げる
  ことは容易いが、上天を欺くことは出来ない。

 それを聞いた一揆勢の中には、『感涙に咽ぶものもあり』という状態であったという。しかし一揆勢としては、戒石銘の主旨は理解したものの年貢の問題は譲れなかった。諸記録はこのときの文書を「御教書」としているが、山木屋村名主惣左衛門にこの御教書が渡された(二十日未明か)。島之内に集っていた一揆勢にこれが示され、そして読み上げられた。この譲れなかった年貢の問題は、この御教書により、一揆側勝利の再確認を担保したものと思われた。一揆勢は『勝どきを作って・・・宿所々々に引退いた。所々を固めていた藩の諸役人も廿日午の刻(昼)には城内に引き上げた』。

 これですべてが解決し、生活がよくなるという保証はなかったが、概ね所期の目的は達成されたと思われた。一揆勢は、それぞれが笑顔で村へ戻って行ったのである。





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最終更新日  2014.12.21 12:34:52
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