『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2015.01.21
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カテゴリ: 戒石銘


 藩政を揺り動かした大一揆が一応収まった寛延二(1749)年十二月二十一日以後、二本松藩はただちに一揆首謀者の探索を開始した。

 先ず領内十組の各代官が『遠慮』を申し出るが、杉田組代官鱸治部弥と本宮組代官吉田兵衛門だけは、組下の百姓、町人が一揆に加わらなかったため『遠慮御免』とされた。十二月二十六日には、針道組代官三沢定左衛門が役職取り上げられて小普請入り、郡代原勘兵衛と郡奉行三浦治太夫、錦見幸右衛門も役儀取り上げられ謹慎を命じられ、代わって新郡代に渡辺弥次兵衛、新郡奉行に上崎藤馬、石黒角太夫、丹羽紋右衛門が任ぜられた。針道組代官以外の九代官は従前通り務めることになった。針道組の新代官には広瀬七郎右衛門が任じることなどで、藩としての処断を現した

 他方領民支配の安定化対策と、一揆指導者の処断の準備も着々と進められた。今回の一揆に際し、積極的に蜂起したのが針道組と大槻組であり、同調に留まったのは小浜組、糠沢組、渋川組、郡山組、片平組であり、動かず批判的であったのが本宮組、玉ノ井組、喜久田組であった。

 寛延三(1750)年の正月下旬、二本松藩は一揆首謀者らの捕縛のため四〇〇余騎を準備した。そして二月二日午前二時より、村々の頭目と目される者の捕縛をはじめたのである。善右衛門は自らが自首して出た。「責任者は自分一人であり、全員が無罪である」と主張したのである。しかしこの主張にもかかわらず、一揆頭取らの探索や捕縛は、この一月下旬から二月中にかけて徹底的に行われたのである。

 針道組の村々に対しては、物頭、町奉行、郡奉行、代官らが四百余騎を率いて出張し二月一日夜、小浜の名主郡右衛門、伝兵衛宅を本陣として、同二日から二手に分かれて村々を襲い、頭取と思われる二十四人を捕縛した。安積三組、糠沢組へも捕り手が派遣され、多数が召し捕られた。捕らえられた百姓たちは『棒問、鉄砲問、湯問、水問、木馬問、種々の拷問にかけられ』たという。このことは、一揆解散の切り札とした。年貢半免その他を約束した御教書も反古となったことを意味した。半免御用捨は高百石につき『御救金』二両の下付と引き替えに撤回され、さらに『御用米金』『未進残米』の納入は、翌年(寛延三年)六月まで延期するはずが二月から徴収されたのである。

 一揆の指導者、活動家に対する処罰、騒動参加の村々へのお咎めについての藩の最終的な評定は寛延三年十一月から十二月にかけて行われ、十二月十二日にその判決が言い渡された。もっとも積極的に動いた針道組六ヶ村(田沢、上太田、東新殿、西新殿、南戸沢、茂原)と安積郡大槻組五箇郷に対する詮議が特に厳しかったことは言うまでもない。その内訳は獄門二人、死罪一人のほか財産没収、領分払い、田宅取り上げ、他村への村替えなどである。なお五箇郷については三人が村替えとなったのみで、十八人全員が針道組からの処分者であった。針道組の善右衛門は『村民の不参加を脅し出訴強要、役人への雑言』を理由に獄門となった。家族全員も他領に追われた。代官が二〜三年で替わる天領とは違って、封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を義民として祀ることもできなかった。次は、今に残る処分の詳細である。

針道組 田沢村 宗右衛門 百姓(頭取) 小浜町で組頭をして村人帰村の足止め、
                   役人への雑言獄門。
針道組 上太田村 善右衛門 百 姓   出訴強要 役人への雑言獄門。
針道組 東新殿村 寿右衛門 長百姓願書連判強要        死罪。
針道組 南戸沢村 理左衛門 長百姓(頭取) 徒党勧誘 
                     田畑家財家屋敷没収領分払。
針道組 西新殿村 伝右衛門 長百姓(頭取)城下願書直訴
                     田畑家財家屋敷没収領分払。
針道組 茂原村  勘次   百 姓  願書下書きを書く
                     田畑家財家屋敷没収領分払。
針道組 東新殿村 加兵衛  長百姓  村方勧誘 田畑家財家屋敷没収領分払。
針道組 東新殿村 藤左衛門 長百姓  連判世話       領分払。
針道組 田沢村  辰之助  百 姓  村方勧誘       領分払。
針道組 田沢村  小四郎  百 姓  村方勧誘 田畑三分の一取上げ領分払。
針道組 田沢村  定八   百 姓  白状しないので
                     田畑三分の一取上げ領分払。
針道組 田沢村  喜六   百 姓  役人への雑言、足軽に手向かい白状せず
                     田畑三分の一取上げ領分払。
針道組 田沢村  三右衛門 百 姓  出訴強要、白状せず
                       田宅取上白岩村村替え。
針道組 田沢村  重蔵   百 姓  勧誘、 田宅取上玉井村村替え。
針道組 茂原村  卯兵衛  百 姓  願書文言世話 田宅取上八丁目村村替え。
針道組 西新殿村 惣左衛門 百 姓  願書判名主取次強要
                       田宅取上片平村村替え。
針道組 杉沢村  多三郎  百 姓  連判願世話  過料人足三十人。 
針道組 杉沢村  吉兵衛  百 姓  連判願世話  過料人足二十人。
大槻組 大槻村  十郎兵衛 百 姓   村役人と藩役人への応対雑言
                          船津村村替え。
大槻組 大槻村  林右衛門 百 姓   村方世話、白状せず稲沢村村替え。
大槻組 大槻村  善蔵   百 姓   役人へ虚言報告  駒屋村村替え。 
  (2001 二本松・安達の歴史   二本松・安達の歴史編纂委員会より)

 これら頭取らへの処分のほか、針道組六ヶ村の惣百姓と村役人らに対して過料銭が課された。すなわち惣百姓に対しては『頭取申す旨に任せ、寺院または山寺に寄り合い延穀あるいは半免御用捨御願い小物成、小役等御免許御願い等、徒党強訴に及び候段重々不埒につき』として田沢村に四十四貫文、茂原村に十七貫文、東新殿村に二十九貫文、西新殿村に三十八貫文、南戸沢村に三十二貫文、上太田村に四十八貫文が課されている。村役人に対しては、『村々より徒党強訴を致し候儀を差し止めず役儀の甲斐これなく重々不埒につき』として六ヶ村の各名主一人につき二貫文、組頭一人につき一貫文、村目付一人につき一貫文、百石廻り(高百石単位に順番で勤める組頭)一人につき五百文の過料が課された。

 藩は寛延三(1750)年十二月に、以上の処分について「出訴落着請証文」を提出させたが、これには処罰者のうち『領分払い』『村替』の十六人、針道組六ヶ村の名主、組頭、村目付、百石廻り、長百姓代表(総百姓の代表として)および大槻村の長百姓代表が署名している。なおこの請証文には、領内全村の名主、組頭、村目付、長百姓を藩会所に呼び出して署名捺印させ(十二月十六日)さらにこの写しを全村に廻達して徹底させた。廻り達しの順序は杉田組→玉井組→本宮組→安積三組→糠沢組の順で、例えば糠沢組和田村の新左衛門手合いでは『寛延四年閏六月五日に高木村より請け取り写し取り』『扱下総百姓壱人も残らず逐一読み聞かせ、私共名主、組頭判形仕り同六日、同村名主源内方へ相渡し』ている。のちに藩は、両人の処罰の理由を次のように述べている。(落着請証文)

  一 西新殿村長百姓伝右衛門、去(寛延二年)冬同村西泉寺江村中百姓集まり
    候節、頭取仕切り、御金納米代当(寛延三年)夏迄延穀に御願申すべき旨
    相談に及び、願書の条文を認めさせ、村中の者共壱人たりとも収納致し候
    はば、その者より金米を借るべき由申し、一味致させ、願書同文言に三通
    認め、村役人江願出しても取り次ぎ申さず候はば、二本松へまかり越し御
    願申すべき旨、徒党致し候段不届至極・・・。

  二 西新殿村百姓宗右衛門、去十二月強訴以前、名主方へ村の者共願書持参仕
    り候節、同文三通の願書何故持参致し候かと名主相尋ね候えば、名主取り
    次ぎ申さず候は、御役人様方へ直に差し上げ候為三通持参致し候申し・・・。

 この一揆鎮圧の際に約束された年貢半免は、二つの一揆勢の猛威を恐れて単に一時しのぎに出したものであった。財政窮迫に苦しむ二本松藩がこの通り実行できるはずがなかったのである。藩は半免の約束を白紙に戻すため、一揆関係者の処分の後、さまざまな工作を行った。例えば十二月二十四日、本宮組村々の名主、検断らは、「半免御用捨」を辞退したいと、次のような口上書を提出した。

       乍恐以口上奉申上候
  一 近年打続き凶作につき、百姓共願い申し上げ、領内一同に半免御用捨成し
    下され候得共、恐れ入り存じ奉り候。私等持ち高の儀、右御用捨のところ
    お除き下されたく願い奉り候。もっとも村々小役人共の儀も私共同心の存
    じ寄りには相見え候得共、つぶさに相談つかまらざる者も御座候。此度は
    申し上げず候。
                              以上
     十二月二十四日      本宮組 名主 検断




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最終更新日  2015.01.21 10:45:02
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