『福島の歴史物語」

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2015.01.16
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カテゴリ: いわれなき三春狐


 日にちが明確ではないのですが、三春より二本松へ帰順勧告の使者を派遣している事実があります。二本松では7月27日に三春から来た使者を翌28日の朝に斬殺したとされているのですが、三春側の記録では27日(時間不祥)に殺されているとされています。どちらが正しいのかは不明ですが、これに関して二本松市史 第六巻 739ページに、次のような記述があります。

『三春は奥州一致の体ニ見せ候て官軍へ内通致しおり候や三春城下へ官軍入候と直ニこふさんと見へ御城共ニ無難ニ而是より官軍と成二本松領へ越候節先案内者ニ相成り候事と御座候右之次第候処三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげゆきニ御座候』(傍点筆者)とあり、また同誌936Pには『町兵は自警団的な役割を果たし、三春藩使者の警護に当たったのは、若宮・松岡の町兵で一ヶ月も前から訓練を受けていたと語っている。』ともあります。

 この『参りおり候処』という記述は、殺される何日か前から二本松に着いていたと考えてもいいのではないでしょうか。この殺すという判断は、二本松に新政府軍が近づいている恐怖の中で、たった半日や一日の短い時間の間での結論とは考え難いからです。

 また同じ二本松市史935Pに、『三春藩の使者が「町兵三人斗にて一人の御士を槍にてつき留、其後首討取候様子に御座候」とある。この使者は、三春藩の使者の中の大関兵庫のことと思われるが、明らかではない。』とあります。

 さらにもう一つ、『城下町に生きた人々 七六ページ』から転載してみます。
『二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。

 別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。

 二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。
 藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。』

   田村小史には、

 「七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる」と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、
「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」
と語り、家中の人(士族)は、
「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。」』

 これは二本松で出版されている本ですから、信用してもよいと思われます。このように二本松市史からは殺害日の確認はできませんが、『城下町に生きた人々』には27日に来た三春藩士を28日に殺害とあります。そして7月29日、二本松は落城したのです。

 三春・佐久間真氏所蔵の『明治維新三春藩殉難諸士事跡概況調書』には、次のような記述がある。

 ● 大山巳三郎 奥羽列藩同盟の関係上藩命により二本松藩に使したるものなら
   ん。七月二十七日三春藩帰順するを知るや、その故をもって二本松藩のため
   に虐殺せらる。行年 二十四歳 墓地 州伝寺。

 ● 不破関蔵 奥羽列藩同盟の関係上藩命により数士と共に仙台藩に使したるも
   のならん。時局逼迫するや数士を残置し渡辺喜左衛門と共に帰藩の途につき
   偶々二本松城下において大山巳三郎と会す 七月二十七日三春藩官軍に帰順
   するを知るや、その故をもって大山・渡辺両氏と共に遭難 戦死す。
    行年 五十九歳 墓地 福聚寺。

 ● 渡辺喜右衛門 不破関蔵に同じ。墓地 光岩寺。

 ● 高野村 農民 橋本周次 三春藩官軍に帰順した旨を、二本松城下に使者と
   して派遣せられたる藩士に通達すべく任せられたる、叡感勅書せられたる使
   者なり 大山・不破・渡辺と共にして遂に戦死したるものの如し。墓地 二
   本松城下。

 ● 大関兵吾 奥羽列藩同盟の関係上により福島藩に使したるものならん。三春
   藩官軍に帰順するを知るや、その故をもって仙台藩兵の為に惨殺せられ、首
   を梟れ体は阿武隈川に投せらると云う。行年 四十六歳 墓地 龍穏院。

 ここにある三春藩士三名の行動は、『奥羽列藩同盟の関係上藩命により』とあるだけで内容の記述はありません。しかしこの時期、三春藩が二本松藩に伝えることは、『恭順』以外は考えられません。そしてそれは恐らく、単に三春藩恭順の結果報告だけではなく、二本松へ恭順勧告をしたものと考えられます。『城下町に生きた人々』にある四名は、三春藩帰順の何日か前から二本松に恭順勧告のために滞在していた大山と、仙台から帰る途中の不破、渡辺、それと三春藩恭順を知らせに来た高野村の農民、橋本周次と思われます。

 また『二本松市史 第六巻 七三九ページ』によると、殺害されたのは一名であとは逃亡したとあり、『城下町に生きた人々』とこの死者数の点では一致していません。ただし、これを書いた人から見えない場所に逃亡後、そこで殺害されたとも考えられます。なお同ページに、「たんさくの御方・・・弐三人参りおり候処」(傍点筆者)と記述されていることは、二本松藩は三春藩による恭順勧告を、三春藩帰順の何日か前から受けていたことを示唆しているとも思えます。

 なお『城下町に生きた人々』にある7月27日は、三春舞鶴城無血開城の日です。この書と二本松市史との間には、二本松藩を訪れた日に若干の齟齬があるように思われます。いずれ調査の必要もあるでしょうが、三春藩恭順以前に勧告に来たとも考えられます。いずれにしても、二本松での戦争以前であることでは一致します。

 実はこの時期、三春に派遣されて龍穏院に宿泊していた二本松兵が、隣接していた荒町の馬頭観音の丘に兵を集め、舞鶴城攻めの気勢を上げていました。小野新町に兵を出して手薄となっていた三春藩は、三春領駐留の諸藩兵が呼応すれば三春城の落城は確実と思われました。何故なら、三春城は天明5(1785)年の大火で本丸・御殿までが焼け落ち、その後城郭としての再建には至らず、戊辰戦争の際には御三階のみが修復されていただけでした。つまり御三階は、籠城戦に耐え得る施設ではなかったのですから、重臣の細川可柳をこれの交渉に派遣したのでしょう。どうやら説得したとされますが、切り札として、二本松藩に恭順説得の使者を出したことを説得材料としたのではないかと思われます。

 二本松落城後の8月21日、二本松と会津の間の母成峠で、7時間に及ぶ激戦がありました。それに関連して、加藤貞仁氏のHP『幕末とうほく余話』に、次の文が載せられています。

『この戦いで勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。彼らは道なき深山を迂回し、会津守備隊の側面を奇襲したのだ。この奇襲部隊の道案内をしたのは、峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所をなくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすために、道案内を買って出たのである。』

 ここでも新政府軍は、挟み撃ち作戦を使っています。これは正面作戦を常とする同盟軍に対して、挟み撃ちを可能とする新政府軍の最新式? 戦術であったとも想像できることから、常套的に多用していたと考えられます。




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最終更新日  2015.01.16 11:37:39
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