『福島の歴史物語」

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2019.11.01
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     帰 米 二 世

 戦後75年に近い今も、アメリカの日系人コミュニティの中に、『帰米二世』という言葉が残されている。しかしこのことは、なにもアメリカのみのことではない。海外へ出た日本人の二世の中でも、アメリカ、カナダ、ブラジルなどで生まれ、戦前の日本で教育を受けた後、再び各々の国に帰った人たちのことを、『帰米( kibei )二世』『帰加 ( kika )二世』『帰伯( kihaku )二世』などと呼んだのである。この帰米二世という単語は、日本語である。これらの人たちを『帰米二世』と一括りに言い表す同義語は、英語にもポルトガル語にもない。これは日系人社会という閉鎖的社会で起きた出来事であるから、他の人種の人たちとは無関係であったことからすれば、やむを得ないことであった。

 これらについて私は、『 Memories of the Kibei Niseis ・帰米二世』というレポートをまとめたが、その取材先がハワイであったことから、帰米とは言え、ハワイ二世の人たちのことについてのみになってしまった。通常、『帰米二世』といえば全米の二世を指すが、そのためにこの内容は、ハワイに帰った二世が中心となっている。彼らについての定まった用語はないが、あえて言えば、『帰布(きふ)二世』とでも言えるような立場の人たちの話である。私は故郷福島に関係のある歴史を調べているため、これらの取材対象者は福島県出身の帰米二世たちに限られている。なお文中、まぎらわしいと思われるであろうが、『帰布二世』という筆者による造語を多用した。『帰米二世』と『帰布二世』とを混同なさらないよう、お願いしたい。

     注 布哇=ハワイ.略して『布』とも表記する。

 これら 『帰米二世』や『帰布二世』について話す前に、こういう人たちが生まれた前段階としての状況を話す必要があると思われる。明治元年(1868)、福島県全域が戦場となった戊辰戦争が終った。しかし明治に入ってからも、凶作は明治二年(1869)、明治三十五年(1902)、明治三十八年(1905)と相次ぎ、餓死する者さえあった。特に明治三十八年と大正二年(1914)の凶作は被害が大きく、天保以来の大凶作に匹敵するものであったと伝えられる。

 この自然条件に加えて、長子相続という制度があった。これは全財産がその家の長男に与えられるというもので、俗に「かまどの灰まで俺のもの」という言い方さえされていた。必然的に次・三男は兄を手伝うか、仕事を見つけて家を出るしか方法がなかった。それでもこれ以前の世代までは余力があったようで、次・三男にも田地を分け与えて分家という形をとっていた。しかしこの方法も長い世代の間で続けられたため、明治期には各家とも分け与える田地もなくなってしまっていた。余談ではあるが、このことから、馬鹿なことをすることをタワケ(田分け)と言うようになったといわれている。このために急がれたのは一般農民の北海道への入植であった。入植者には政府により、種々の奨励策が施された。農耕用の土地を優先的に与えられ、その保有権を保証されたから、本土で土地を持てなかった農民層には極めて魅力的で希望を与えるものではあったが、なにせ寒冷の地である。今までの農耕の技術では役に立たず、何を植えるかも試行錯誤の状態であった。当時を揶揄する言葉に『しっちょいからげてどこさ行く、行くとこ無いから北海道』というものがあったが、当時の世相を表していると言えよう。

    注 しっちょい=着物の裾。

 政府は北海道の実効支配を優先し、日本の領土と確定する意味においても、ここへの植民を優先させていた。明治七年(1874)、政府は屯田兵の制度を実施した。この制度は若い入植者を北海道に送り込み、開拓にあたらせながら北海道防衛のためとの理由で兵士としたものである。しかし民間の自由意志に任せておいては定住が進まなかった上、寒冷地である北海道開拓の苦しさからそこの土地を捨てて流亡する者も多かった。その流亡しようとする先に、ハワイが見えていたのかも知れない。ハワイは北海道と違って常夏の国であり、しかもすでに、『元年者』と言われる日本人が移民していたことも知られていたからと思われる。それに何と言っても北海道入植の困難さを伝え聞いた人たちにとって、暖かな気候と、伝えられる高額な賃金が、誘い水になったのではあるまいか。

    注 元年者=白人入植者の持ち込んだ病疫により、明治期以前

      に、ハワイの人口が激減した。カメハメハ5世は、日本人

      労働者の招致を徳川幕府と交渉するよう、在日ハワイ領事

      のユージン ヴァン リードに指示、300人の渡航許可を

      得た。しかし幕府が明治政府と入れ替わったため、明治政

      府はこの交渉結果を無効化した。

      明治元年、リードは、153名の日本人労働者を、無許可

      でハワイに送り出した。そのためこの人たちは、『元年
      者』
と言われるようになった。なおホノルルのマキキ墓地
      の丘
に、 元年者の記念碑が建立されている。

 移民希望者たちは、世界情勢などの説明を受けたが、それでもやはり、先行きは不安であった。そのハワイへ移民として出て行こうとする若者たちやその親たちにとっても、決断に至るには相当の葛藤があったに違いない。親たちとしても、度重なる不作や新政府による旧士族厚遇への不満があり、しかも日清・日露戦争へ子どもたちが徴兵されて戦死した者も多い上、またその戦争遂行のための重税にあえいでもいた。そしてさらには、特に福島県で巻き起こっていた自由民権運動とそれに対する弾圧などを目の当たりにし、せめて子どもたちにはよい社会生活をと思う気持ちが沸き上がってきたとしても不思議ではなかったと思われる。

 このような状態の中で、親たちは不承不承ではあっても、子どもたちのハワイへの移民を承知せざるを得ない状況にあったのであろうと思われる。親の苦労を見て育った子どもたちにしてみれば、不安があったしても、自分の努力で何とか家運を盛り立てたいと考えたのも無理はないと思われる。それであるから、移民をしようとする多くの若者たちは、いずれカネを貯えて『故郷に錦』を飾る気概で家を出た。彼らには、ハワイに永住する積もりなどは、最初からなかったと思われる。親の元に帰り、家業を続けて資産を護り、それを次の世代に譲りながら家名を存続させるということは、当たり前のことであった。当時の倫理観は、このようなものであったのである。これから老いるにもかかわらず送り出す親の側も、それを期待していたのではあるまいか。それにしてもハワイ移民の募集者が同じ福島県出身の勝沼富造であったことが、彼らに移民することへの安心感を与えていたのかも知れない。移民をして行く子と残る親との間に、別離の寂しさや悲しさはあったであろうが、親は子を心配して早く帰ることを望み、子もまた早くカネを稼いで親に楽をさせたいという、暗黙の了解があったのであろう。むしろ親子ともに責任と義務を負い、覚悟を決めて別離をして行ったのではないだろうか。移住をして行く若者たちは、身軽な単身者が大半であった。これら移民となる子とその親との心情的関係については、すでに想像の域に入ってしまっている。移民となって行った人たちの親に、当時の心境を聞く術(すべ)は、ない。

 このような事情にあったから、移民となって日本を出たのは、農家の次・三男が多かった。しかも相続の情況は商家や職人の家でも同じようであったから、彼らの子どもたちによる移民も、少なからずあったのである。ハワイへの移民となった商家や職人の子どもたちは、ソロバンを鎌に持ち替え、プランテーションで働くことになる。手につけた職に就くことは難しかったのである。いずれにせよここでの労働は、辛酸の連続となった。

    注 プランテーション=近世植民制度から始まった前近代的

      農業大企業およびその大農園。熱帯、亜熱帯の植民地で、

      黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向け

      た単一の特産的農産物を生産した栽植企業。

                  (デジタル大辞泉・小学館)

 明治十八年(1885)一月、日布移民条約が締結され、第一回の移民九百四十六名が『東京市号』でハワイへ出航した。この条約は明治二十七年に両国の合意の上で廃止されるのであるが、この間に二万九千人の日本人がハワイに渡っていた。これ以後は、日本国内の民間移民会社を通じた私的移民時代となる。

 ハワイでの生活は、移民たちが思い描いていたものとは大きく異なっていた。プランテーションでの労働条件は極端に悪く、生活には厳しいものがあった。頭で考えていたように簡単にカネが得られる仕事ではなく、労働は過酷であった。ハワイの白人農園主は、同じ白人であるポルトガル人をルナ(人夫頭)として雇い、多くの中国人労働者をプランテーションで使っていた。そこへ日本人移民が入ってきたのである。新たな日本人移民が、以前から入植していた中国系移民の職を奪うと考えられ、彼らから恨まれたのである。これらの差別などから身を守るために、日本人移民は、ただ黙々と働くのみであった。そのことが、白人農園主から勤勉な日本人移民、との高い評価を受けるのである。

 労働には大別して栽培と粗糖製造があった。栽培は数班ずつに分かれ、ポルトガル人のルナの監視のもと、炎天下の重労働に耐えなければならなかった。機械的なリズムで砂糖キビを切り、手をゆるめれば途端にルナに怒鳴られ、蛇皮の黒鞭が飛んでくることさえあった。切り倒された砂糖キビは、日本人女性労働者が束にして貨車まで運び、さらにナイフのように鋭く尖った葉をそぎ落とすのが彼女たちの仕事であった。粗糖工場の中は、地獄の炎のような暑さと機械の絶え間ない騒音であふれていた。その上若い男たちは一人暮らしのため生活も荒れ、せっかく稼いだ金も、ばくちや売女に使ってしまうという状態であった。

 当時のアメリカでは、南北戦争以降、奴隷売買や半奴隷的契約労働者の輸入こそ禁止されていたが、ハワイでは『主人と召使法』があったため、日本人労働者は契約満了を絶対的に義務づけられていた。それでなくとも、日本とは海を隔てた遠いハワイから、高額の船賃も出せず、逃げ出す方法もなかった。つまりは、ハワイに住むことしかできなかったのである。ハワイ民謡とされるホレホレ節が、それを物語っている。

      ホレホレ節

     注 ホレホレ=砂糖黍の枯れ葉を手作業で掻き落としてい

       く作業。

  ハワイ ハワイとヨー夢見て来たが 流す涙はキビ(畑)の中

  国を出るときゃ笑顔で出たが 今日もカナケン(キビを刈る作業)

  生地獄

  工場(製糖)勤めは監獄務め 鉄の鎖がないばかり

  ルナの目玉に蓋しておいて ゆっくり朝寝がしてみたい

  雨が降りますヨー洗濯もんは濡れる 背なの子は泣くマンマ焦げ

  る

  条約切れるし頼母子(たのもし)おちた 国の手紙にや早う戻れ

     注  頼母子=少額のカネを出し合って積み立て、病気や緊急

       の事が起きた人に貸し出す組織。『おちた』は、そのカ

       ネを一番高い利子で入札するか、または抽選で当たって

       借りること。

  つらい条約逃げよかここを 今日も思案の日が暮れる

  行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国

 日本からハワイに移民した人たちの意識として、現地に骨を埋める覚悟で故郷を出た人もあったであろうが、必ずしもそういう人たちばかりではなかった。できるなら短期間によく働いて多くを稼ぎ、『故郷に錦』を飾りたいと望む人も少なくなかった。いずれ故郷に帰ろうと考えていたこれら移民たちが、自分たちの子どもを幼いうちから故郷に住む祖父母たちに預け、日本での習慣や教育に慣れさせておきたいと考えたのも無理はなかった。ハワイで生まれた日系二世たちが日本に戻された主な理由は、親である移民一世の、このような意向にあったのである。

 ところが日米関係が緊張するにつれて、問題が発生する。日本に戻されていた二世たちの多くはアメリカ国民であるとともに日本国籍を持つ二重国籍者であったために、アメリカと日本の双方で兵役の義務が発生していた。ハワイで生まれ、子どものとき日本に送り返された子供たちの多くが、ハワイに帰りはじめた。その彼らは、『帰米二世』というレッテルを貼られたのである。

 私が『帰米二世』の取材に訪れたのはハワイであった。そのため内容はハワイの人たちのみになった。言ってみれば、それは『ハワイに帰った二世』であった。そこで私は、あえて『帰布二世』という単語を作った。ハワイは、布哇と書いたからである、太平洋戦争前にハワイに帰った『帰米二世』。問題は『帰布二世』たちが英語もよく分からず、価値観が戦前の日本人そのものになっていたことにあった。ハワイに残っていた子供たち、つまりハワイの二世たちとも全く話が通じず、同じ日系人なのに異なった二世たちが、ハワイの日系社会に存在してしまったことになった。そのため『帰布二世』たちは、ハワイ社会への適応に手間取ることになり、家庭内においてさえ、孤立や対立をすることになってしまったのである。兄弟でありながら一人は日本人となってハワイに帰り、一人はアメリカ人として育っていた。二人は生活を共有した経験もなく、兄弟と呼ばれても血がつながっている以外、何もなかったのである。『帰米二世』と漢字で書くと歴史的名称に聞こえるが、 Kibei と英語で、とくにハワイに住んでいた『在布二世』が言う場合、ほとんど軽い軽蔑語に近かったという。

 また、『帰布二世』たちと久しぶりに再会した親たちとも、考え方が違ってうまく噛み合わないこともあった。日本から帰った二世たちは、すっかり日本人の青年になっており、しかも時代的に軍国主義教育の影響を強く受けていた。ハワイに帰った『帰布二世』たちがそこで見たものは、排日の環境の中で貧しく生きている父や母の姿であり、アメリカに抵抗するでもなく、ただ黙々と働くだけのおとなしい両親であった。軍国教育を受けて帰ってきた『帰布二世』たちには、それが不甲斐なく見えたという。ハワイの日本人移民社会において、一世と二世、さらには『帰布二世』という血縁的つながりがあるにもかかわらず、日本軍の真珠湾攻撃によって、お互いを他人のように感じながら生きなければならない時代であったのである。それは、『帰布二世』はアメリカ国籍を有しながらも英語を母国語としない人々であり、生活習慣も価値観もそして感受性も軍国主義的ではありながら、それでもごく普通の日本人と同じであったからである。やがて『帰米二世』たちは、日本軍による真珠湾攻撃以後、日本への忠誠心と「自分はアメリカ人である」というアイデンティティの間に板挟みになるのである。

 それにしてもこの取材の過程で、幼児期、それも一歳に満たない子も日本に戻っていたことを知って驚かされた。この一歳に満たない子を日本へ連れて来て養育を依頼してハワイへ帰っていった親たちの心情は、どんなにか切ないものであったろう。恐らく過酷な労働に従事し、貧しい生活をしながら子育てが可能かという疑問、そして我が子の幸せを祈る願いがこのような選択を迫ったのではあるまいか。それでも、子どもの養育のために実家が受けることになる負担の大きさを思い、子どもの兄弟全部を戻す家庭は少なかった。掘っ立て小屋の住居に住み、アメリカとしては低賃金でしかも長時間の過酷な労働ではあったが、そこには日本では得られない安定した収入があった。そして移民たちは、その収入から爪に火をともすようにして実家へ仕送りを続けていたのである。

 多分、昭和二十六年か、現在の福島県立福島商業高校の卒業生名簿の中に『 斉藤誠 アメリカ』とあるのを見つけた。ただしそれ以上の詳細は分からず、正確に『 帰米二世』であったとは断定出来ない。それから当時、 棚倉国民学校に通っていた橋本敏雄さんが、ハワイから来たという男児と同級であったという。名は忘れたが、クラスのボスに対抗して勝ち、以後いじめられることはなかったという。その後間もなく敏雄さんは転校しているので、その後どうなったかは、知らないという。

 私の取材を受けてくれた人の中には、いまだにトラウマとしてショックを感じている人たち、また逆に明るく振る舞おうとする人たちがいる。その姿勢はいろいろであるが、どちらの人たちも平静に過ごそうとしているのが感じられた。



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最終更新日  2019.11.27 16:06:15
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