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実体化しないために 、
民間ベースの花見の陣取り合戦のような風合いも帯びてきた。
竹島は日本領土と言いながら、韓国が実効支配し、ヘリポートまで
造作している。
秀吉の「一夜城」とまではいかないだろうが、魚釣島では何も
見あたらないのはどうしたものか?
今は、所有者は日本の一般人なので、造作もできないかも。
政府間の正当な領有権の確認も必要だ。
日本政府は、マニフェストを守らずに、新しい方針を先取りし、
消費増税を先行したが、尖閣諸島はきちんと先取りできるだろうか?
尖閣諸島が、一般日本人の立ち入り禁止場所であり、他方で
外国人が「公言領土侵入」しても、無罪・強制帰国優遇措置である。
実効支配 していても、日本国民が何らかに、有効利用できないなら、
無意味ではなかろうか 。
東京都が地権者から購入して、都民の海洋遊園地として国民が
有効利用できるよう、または、国が購入して先端防衛基地建設、
日米共同防衛訓練場所として、オスプレイを配置するくらいの
政治的な決断 が欲しいものである。
資源が見つかるまでは、民間企業に探査させるなどの措置さえ
できないのだろうか?
呆け頭には難しい話はこれくらいにしよう。
さて、随分昔のこと、調査団に入れなくて訪問できなかった国・
タンザニア連合共和国の基本事情をWEB紙面で追ってみたい。
タンザニア連合共和国
年月 |
略史 |
---|---|
(それ以前) <タンザニア大使館情報> |
タンザニアは人類発祥の地といわれる。北部にはルイス・リーキー博士が175万年前のものとされる現代人の祖先、ジンジャントロプスの化石を発見したオルドパイ渓谷がある。さらにオルドパイ渓谷から南へ30キロメートルしか離れていないラオテリでは、360万年前のヒトの足跡が発見されている。 アラブ商人が2000年前にはタンザニアの海岸に到達し、7世紀頃にはザンジバルに定住するようになった。タンザニア内陸部への通商ルートが確立されたため、アラブ人の影響を受けたスワヒリ文化とスワヒリ語が沿岸部から内陸部へと浸透していった。 16世紀には一時ポルトガル人が定住していた。キルワには、ポルトガル人が1505年に建造した砦の遺跡「ゲレーサ」がある。しかし17世紀後半、ポルトガル人は象牙や奴隷の売買を始めたオマーン人に取って代わられた。 象牙はインドで大変な需要があった。インドでは既婚女性は象牙の腕輪を身につけ、亡くなったときには一緒に埋葬された。18世紀には象牙は日本とも取り引きされていた。 日本では「根付け」の生産に必要とされていた。 奴隷は象牙を海岸に運ぶために働かされていた。 奴隷は、ザンジバルの丁子(クローブ)プランテーションやモーリシャスの砂糖プランテーションでも必要とされていた。またペルシャ湾岸、ヨーロッパ、アメリカ大陸に輸出される奴隷もいた。 |
(19世紀) |
[オマーン帝国のサイードがソマリアからタンザニアに至るアフリカ東岸諸都市を攻略し、ザンジバルにストーン・タウンを建設し、1840年(マスカットから)遷都。奴隷貿易、移植したチョウジを特産品として栄えた。1861年にはオマーン・スルタン国と分離、サンジバル・スルタン国として香辛料交易、奴隷貿易で、栄えて、スワヒリ商人は内陸部まで入り、探検家リビングストン、スタンリーの活動を助けた。これらヨーロッパの探検隊は、宗教的、あるいは政治的な目的(「列強によるアフリカの植民地化分割」)を帯びており、探検の目的は奥地へのキリスト教の布教や、奥地の首長との政治関係樹立を行っていった] |
1881年 |
ドイツ領となる。 |
1920年 |
英国委任統治領となる。 (第二次世界大戦では、軍の動員で出征し、東アフリカ戦線ではイタリア軍と、ビルマ戦線(インパール作戦)では日本軍と対峙した。 タンガニーカから87千人。) |
1961年 |
独立(ニエレレ首相) |
1962年 |
共和制移行(ニエレレ大統領) |
1964年 |
タンガニーカ・ザンジバル合邦、タンザニア連合共和国成立 |
1985年 |
ムウィニ大統領選出 |
1990年 |
ムウィニ大統領再選 |
1995年 |
ムカパ大統領選出 |
2000年 |
ムカパ大統領再選 |
2005年 |
キクウェテ大統領選出 |
2010年 |
キクウェテ大統領再選 |
<資料出所:外務省、WIKIPEDFIA,世界経済のネタ帳など>
国名 |
タンザニア連合共和国 |
渡航危険情報発生 |
ザンジバル・ストーンタウン周辺暴動に関して 「注意喚起」。 ブルンジ国境付近「渡航延期」、 インド洋沿岸部(ザンジバルを含む)、タンガニーカ湖岸ならびにルワンダ国境付近「十分注意」 |
国名の由来 |
タンザニアを構成するために連合したタンガニーカとザンジバルの名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前を複合して1964年に命名された。 |
幸福度(エイドリアン・ホワイト氏) |
121位 |
通貨 |
タンザニア・シリング(T.shs) 1ドル=約1,578タンザニア・シリング (2012年1月現在) |
国花 |
ばら |
国旗 <タンザニア大使館情報> |
タンザニアの旗には緑、金色、黒、青の4色が使われている。黄色(金色)で縁取られた黒い帯が左下から斜めに旗を分けていて、左上の三角形が緑色、右下の三角形が青。 黒は人々、緑は大地、青は海、金色は鉱物資源をあらわしている。 1964年に、それまでのタンガニーカとザンジバルの国旗をもとに、現在のタンザニア連合共和国の国旗が制定された。 |
国の標語 |
スワヒリ語: "自由と統一" |
面積:平方キロ |
945千平方km (日本の約2.5倍) ケニアとの国境近くのキリマンジャロ山(5,895m)の大部分は当国にある。 ビクトリア湖も南半分近くは当国領内。 |
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