めいてい君のブログ
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略史
先コロンブス期
BC4000~1000年に先住民アラワク族(タイノ人)が南米大陸ギアナから移住。島をアイティ(Haiti)などと呼び、島全体に5部族(100から300万人)がいたという。ドミニカ文化の中に食事、言語、家族構成、モラルが残っている。
1492年
<スペイン植民地時代、スペイン領サント・ドミンゴ>
コロンブスがイスパニョーラ(小さなスペインの意)島発見。 二度の植民失敗の後、コロンの弟バルトロメ・コロンが1496年サント・ドミンゴを建設、「新大陸初めてのスペイン植民地となる。先住民は金鉱山の酷使、疫病の発生で、ラス・カサス神父の告発も空しくほとんど死亡。サトウキビ・プランテーションがカナリア諸島から導入され、不足した労働力はアフリカ黒人奴隷で補った。1502年にサントドミンゴに設置されたイスパニョラ島総督が植民地貿易を統括し、1526年からは南米ベネズエラ全土をも管轄した(しかし、ベネズエラは1717年以降ヌエバ・グラナダ副王領、1777年以降はベネズエラ総督領に移管されるなど変遷)。イスパニョーラ島の統治は数世紀にわたり疎かにされ、島の西部が無人化した後、仏海賊の定住地となる。
1697年
<島の西部(現ハイチ共和国)を 仏領サン・ドマングとして失う >
スペイン・仏間の 「 リスウィク(ライスワイク)平和条約 」で、同島の東側 (島の2/3)がスペイン領サント・ドミンゴ ( 現在のドミニカ共和国 )、西側 (島の1/3)が仏領サン・ドマング (現在のハイチ共和国)、と決められる。
<仏領サン・ドマングのメモ>
仏領サン・ドマングでは、1730年代から仏技師がサトウキビ生産性向上のため複雑な灌漑設備を作り上げ、多数の黒人奴隷に厳しい労働を使役することから、黒人奴隷の反乱に神経を尖らせる必要が生じ、白人農場主達は厳格な階級制度を定め始めた。逃亡奴隷の集団襲撃には当初、統制が欠けていたが、僧侶マッカンダルの出現で反乱が1751年~1757年に起こり、指揮者の火炙りの刑では終わらず、死後も襲撃、示威行為が続いていた。1789年には仏領サン・ドマングは世界の砂糖の40%を生産し、最も価値ある植民地であった。島内には、カリブ海地域の黒人奴隷百万人の半数がいたとされる(仏人の白人入植者は4万人)。
1791年
< 仏領サン・ドマングでの「ハイチ革命」とその後の被支配 >
1791(~1804)年に反乱が起こる。2ヶ月の暴動で2000人の白人が殺され、280箇所の砂糖プランテーションが焼失したという。この革命は、自由黒人の共和国としてハイチの建国を目指すもので、奴隷解放も意味する。1795年「バーゼルの和約」で仏・スペイン戦争の結果 全島が仏領サン・ドマング となる
1804年
<全島が「ハイチ」として仏より独立>
国土は何年にもわたる戦争で痛めつけられ、農業は疲弊し、正式な商業というものは存在せず、大衆は教育も無くほとんど技術も無かった。島人口は革命前550千人→革命後300千人。
1809年
<東部は分離,再びスペイン領に戻る>
サント・ドミンゴ は再びスペインの支配下に戻り、1814年パリ条約で東側が正式に スペイン領 となる
1821年11月
<東部独立の試練とハイチによる再占領>
サント・ドミンゴ は、南米大陸で進められていたシモン・ボリーバル達の解放戦争に触発され スペイン人ハイチ共和国 として独立したが、王党派と独立派の内戦の隙を突かれて、1822年隣国 ハイチ軍による占領 (~1844年)を受ける
1844年
<再独立・ドミニカ共和国成立>
ハイチの独裁政権・植民地支配に反発する勢力は高まり、独裁者失脚後に、革命軍がハイチ人を一掃し、 ハイチから独立、ドミニカ共和国 が誕生、 ペドロ・サンタナが初代大統領 に就任。
1861~1865年
< 再びスペイン植民地を受容、再々独立、隣国ハイチの脅威 >
大統領は相次ぐハイチとの戦争に耐えきれず、 スペインに併合を申し入れ、1861年自身はサント・ドミンゴ総督に就任。 屈辱的併合はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と組んだドミニカ人自由派が独立運動を激化させ 1865年再び独立 。しかし、ハイチの脅威は大きく、二度にわたり米国に併合を求めたが、米上院の反対にあって頓挫。1875年にハイチとの平和条約が締結し独立の歩となる。
1882年
<独裁政治、独立時の賠償問題で米国被保護国(両国共)>
黒人のウーロー大統領の独裁政治 。1899年拙劣な政策で暗殺され混乱状態続く。1906年ウーロー大統領時代の外債債務返済が巨額のため、米国に「ドミニカ共和国の債務返済の保証を、自国の関税徴収の見返り」に提案し、同国の保護国となった。
同様に隣国ハイチも対仏賠償や各国へ債務返済ができず財政難、混乱が続いた。第一次世界大戦でドイツがドミニカ共和国、ハイチの混乱につけ込むのを避けるため、米国が1915年ハイチを占領。
1916~1924年
< 米国の軍事占領 >
米国によるドミニカ共和国の軍事占領
両国は米軍支配下で債務返済、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入、有力者私兵や軍閥に代わる警察や国軍を作るが、後にそれが両国・軍部独裁の「種」となる。1924年選挙でオラシオ・バラスケスが大統領に選出、同年7月にアメリカ軍は撤退。
1930~1961年
< トルヒーリョ独裁統治 >
トルヒーリョ将軍による独裁統治。1960年OAS(米州機構)総会で同人の非難決議が出されて、翌年に暗殺され、一族はバミューダに亡命。
1961年
< 混乱 >
バラゲール を首班とする国家評議会成立その後クーデターにより軍事評議会成立
1963年
< ボッシュ維新政権 >
総選挙を経て ボッシュ大統領 就任[ドミニカ革命党]の「立憲派(注)」
(注:土地改革を含む社会改革実践のための憲法)
1965年
< ドミニカ内戦と米海兵隊派兵 >
政府軍と反政府軍の武力衝突( ドミニカ内戦 )が発生。
ジョンソン 米大統領の米海兵隊派兵 で「立憲派」軍を鎮圧( パワーバック作戦 )
1966年
< 内戦終了後 >
バラゲール大統領 就任(1970年、1974年再任)[ 社会キリスト教革命党] トルヒーリヨの流れを汲む強権政治
1978年
グスマン大統領 就任[ ドミニカ革命党]
(財政状態は悪化を継続)
1982年
ブランコ大統領 就任[ ドミニカ革命党 党首]
(経済状況の悪化を背景に国際通貨基金の要請によって財政緊縮政策が進んだ)
1986年
バラゲール 大統領就任(1990年、1994年再任)[ 社会キリスト教革命党]
(観光業、ニッケル、在外ドミニカ人送金により経済回復を実現し「 ドミニカの奇蹟 」といわれる経済成長を達成。国内の貧富の差、汚職の蔓延。)
1996年
フェルナンデス大統領 就任[ ドミニカ解放党(PLD)]
(平均7%の高成長)
2000年
メヒーア大統領 就任[ ドミニカ 革命党(PRD)]
(2002年以降米経済停滞、観光収入減、大手銀破綻で経済悪化。汚職により支持を落とす。)
2004年
フェルナンデス大統領 就任(2期目)[ ドミニカ解放党(PLD)]
(IMFスタンドバイ協定に基づき、税制改革、財政政策(補助金削減、徴税制度改革等)、金融政策(価格安定等)、金融部門強化、電力部門改革に努め、為替レート安定、インフレ抑制等で実質的成果を上げ、2005年は9.3%、2006年は10.7%、2007年は8.5%の高成長)
2008年8月
フェルナンデス大統領 再任[ ドミニカ解放党(PLD)]
世界金融危機の影響、特に米国経済の急減速で対米輸出・米国移民送金・観光収入減の中、マクロ経済の安定的発展が課題。貧困削減、治安対策、失業対策、電力部門改革による電力不足の解消、貿易自由化の進展に伴う産業競争力強化等が重要な政策課題。2009年後半から実質経済成長率はプラスに転じている。大統領再選方式の改正(3選禁止から連続再選のみ禁止へ)、司法改革、国籍条項の改正等、2010年1月に新憲法を公布。同年5月の両院議員選挙でも過半数をPLDが獲得。
2012年5月
メディーナ大統領就任[ドミニカ解放党(PLD)]
新憲法規定で前大統領出馬せず、 与党PLDのメディーナ候補 が51.2%で、第一野党ドミニカ革命党(PRD)メヒーア候補(元大統領)を破り大統領に就任。
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