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先週の3月25日夕刻に上野、東京文化会館小ホールにて行われた表記演奏会に出かけました。ロンドーの来日はこれまでに2017年、2019年、2023年の3回で、亭主共はいずれの回も同じ会場で彼の演奏を堪能。日本デビューとなった2017年はゴルトベルク変奏曲の一本勝負でしたが、その後2019年は主に18世紀のフランス・クラヴサン音楽、2023年にはハイドンやモーツアルトをハープシコードで弾くという変化球プログラムでした。ところが、今回はなんと亭主が愛してやまないルイ・クープランを集中的に取り上げることに加え、使用楽器も彼が活躍した17世紀フランスの初期モデルを名製作家ディヴィッド・レイがコピーしたものということで興味津々。昨年のアナウンス早々にチケットを予約してこの日を待っていたところでした。もちろん、ロンドーが今回のプログラムにルイ・クープランを立てた理由は明らかで、彼は2024年に演奏会活動を中止して8ヶ月ものあいだルイ・クープランの全作品(オルガン曲も含む)の録音に取り組み、同時代のクラヴサン音楽やリュート作品からの編曲も含めたCD10枚からなる大作を昨年暮れにリリース。その間、2025年9月からヨーロッパ各地でルイ・クープランを中心に据えたリサイタルを開催しているとのことで、このところロンドーの頭の中はルイ・クープランのことで一杯なのだろうと想像されます。亭主の方も昨年末に件のCDセットを落手し、週末をいくつか潰して全録音を一通り拝聴したところなので、改めて彼の演奏を生で聴くには絶好のタイミングです。ところで、今回のリサイタルのもう一つの目玉である初期フレンチモデルの楽器は、日本のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である千成千徳(せんなり しげのり)氏の所蔵で、2018年に納入されたものだとか。ところが翌年に千成氏が他界し、その後はコロナ禍などもあってこの楽器は表に出ることはなく、公開の場で披露されるのは今回が初めてとのこと。コピー元の楽器は17世紀の製作家ヴァンサン・ティボーの手になるものですが、その後フランスのクラヴサンはルッカース製に席巻されてこのような初期フレンチスタイルは廃れてしまったため、当時の響きを伝える大変貴重な楽器とされています。招聘元のアレグロミュージックによると、前回の来日時(2023年)にこの楽器のことを知ったロンドーは「次回の来日時にこの楽器をぜひ弾きたいと、毎日のように訴えてきた」とのことで、招聘元も彼の熱意に絆されてなんとか楽器を借り受けようと奔走したようです。なので、この演奏会は彼の夢がようやく叶う場となったというだけでなく、クラヴサン音楽を愛する聴衆にとっても、貴重な楽器の音を名手の演奏で聴くことができるまたとない機会になったと言えます。というわけで、亭主共も当日会場に着くなり、舞台上のこの楽器を繁々と眺めることに。まず印象的なのがその外見で、全体的にガタイが大きく重量感があります。調律師が鳴らしている音からは、これまで耳にしたことがあるどの楽器よりも大きな音量に聞こえます。音色もルッカースやそのラヴァルマンモデルよりはイタリアンに近く、特に低音の響きが明るい感じです。(ロンドーが実際に弾いている間にも同様の印象を持ちました。)さて、開演時間が近づいて聴衆が着席したところで、注意事項についてのアナウンスが流れるのを聞いていると、演奏中は会場の照明を落とすだけでなく、非常灯も消灯すると言われてびっくり。(何かと「安全」にうるさいこのご時世、文化会館側がよく許可したものです…)まもなくスーッと照明が消されて会場は闇の中に。舞台上の楽器が仄暗く照らされている中、ロンドーは例によってラフな格好(焦茶色のセータに黒いズボン)で登場。楽器の前でしばらく沈思黙考の後、まず一音だけトーンと響かせるところから演奏が始まりました。その後の1時間強、聴衆は暗闇の中で全員が息を凝らしてロンドーの演奏を傾聴。入場時にもらったパンフレットには当日のプログラムが印刷されていましたが、これほどの暗がりの中では全く判読不能です。それでも最初の「組曲ニ長」で取り上げられた曲はまだ馴染みがあって見当がつきましたが、ゴーティエの「メザンジョー氏ののトンボー」を過ぎたあたりから怪しくなり、ダングルベールの有名な「シャンボニエール氏のトンボー」まで来たところでようやく「これで3分の2ぐらいだな」と分かる程度。最後の曲となったフランソワ・デュフォーの「ブランクロシェ氏のトンボー」(例のCD5枚目に所収)もそれとわからず仕舞い。ロンドーが弾くのを止め、少し間を置いて椅子から立ち上がったのを見て、ようやく亭主も含めた聴衆はそれと知って拍手を送ることに。その後、一曲だけ演奏されたアンコールはルイ・クープランの「ブランクロシェ氏のトンボー」でした。(その他、曲目の詳細は招聘元のHPを参照。)最後に、この演奏会を聴いての亭主の勝手気ままな感想を少々。まず、全体のコンセプトはおそらく「クラヴサンによるルソン・デ・テネブル(暗闇の朝課)」ではないかと思われます。今年はルイ・クープラン生誕400年の節目の年ですが、ロンドー自身はちょうどルイが没した時と同じ35歳となり、自分が6、7歳の時に最初にルイの音楽をクラヴサンで弾いて以来、クラヴサン奏者として彼の全音楽を「生き直す」のに相応しい年齢になったことを強く意識していると想像されます。実際、プログラムに目を落とすと、「クープラン氏に寄せるトンボー(Tombeau de Mons Couperin)」というお題が付いています。これはとりも直さず「故人を追悼するための演奏会」を意味し、おそらくロンドーはリサイタル中に冥界からルイを呼び出し、彼に憑依させるためにあの暗闇を用意し、ルイになり切って鍵盤に向かっていたのかも、と妄想させられます。(前述の10枚組CDのジャケットも闇の中にロンドーの顔が仄暗く浮かぶというもので、同じノリであるように見えます。)当日の演奏を聴いていて気付いたことには、ロンドーは和音の構成音をできる限り同時に弾かないようにし、アルペジオやトリルをこれでもかと多用していました。これはおそらく当時のクラヴサン音楽におけるスティル・ブリゼ(〜リュートの模倣)を意識したものですが、あまりに多用されるので演奏全体の印象がやや平板になったという点で残念に感じられました(「過ぎたるは尚及ばざるが如し?」)。今さら言うまでもなく、四百年も前の音楽が実際にどのように鳴り響いていたのかは知る由もありません。ルイ・クープランの音楽に対する思い入れが過ぎて、演奏スタイルにある種の縛りがかかってしまったのかも。もっとジャズやロックのように自由に弾いていいんじゃないの、と言いたいところです。なお、暗闇の演出についてもう一言。前述のように、これは「トンボー」というお題には相応しいと思います。が、どうやらロンドーは同じことを「オール・バッハ プログラム」の回でもやったとのことで、いくらなんでもそれはやり過ぎだろうと思います。聴衆は音楽を楽しむために来ているのであって、彼らに常時宗教儀礼のような緊張と集中を強いるのは(演奏家と聴衆の立場の非対称性を考えれば)やはりフェアではないのでは?このような「集中的聴取」は、かつては北米ヨーロッパのクラシック音楽の演奏会でも主流でしたが、今では日本だけに特有の「お作法」のようです。演奏家にとって都合がよいからといって、聴衆をあたかも米俵のように暗闇の中で沈黙させるのには疑問を感じます。(これは興行における問題として招聘元にも考えていただきたい点です。)
2026.03.29
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先週の「クラシックTV」(NHK-Eテレ)で、エリック・サティが「謎多き先駆者」として紹介されているのを録画でチラ見しました。番組のうたい文句からもわかるように、クラシック音楽の業界(特に音楽興行に関わる演奏家など)では、サティがドビュッシーやラヴェルと同格の作曲家(?)として扱われる一方で謎めいた音楽家とも称され、いかにも彼を持て余しているように見えます。何故こういう中途半端なことになっているのか?そのわけは、サティが19世紀ドイツの「真面目な音楽」を中心とした近代西洋音楽のあり方そのものに対する徹底した批判者であるにもかかわらず、音楽業界が彼をあくまでそのような西洋音楽の伝統に連なる一員とみなし、その枠の中で捉えようとする姿勢にあります。例えば、「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」という作品は、同じ旋律を840回繰り返すという点で演奏家・聴衆双方にとってもまさに「嫌がらせ」そのもの。これが19世紀以降の「演奏会」に対する批判であることは明白であるにもかかわらず、いまだに「奇妙」、「不思議」などといった曖昧な態度で肯定的に接し、果ては実際に演奏するという愚直さに陥ってしまう演奏家や、それを真面目な音楽として受け取ろうとするかのうような聴衆の存在は、クラシック音楽の異様さと当事者の無自覚ぶりをあぶり出しています。同じような状況が、ジョン・ケージの「4分33秒」という「作品」とそれに対する聴衆の接し方にも見られます。ところで、サティの音楽や彼の言行に込められた教養主義的なクラシック音楽に対する批判は、当事者たちにはスルーされる一方で音楽学や芸術哲学の分野では受け止められ、特に「反・芸術」や「制度批評」の文脈で深く掘り下げられてきたようです。例えば、サティが提唱した「家具の音楽(Musique d’ameublement)」は、「演奏会」という制度への最大の皮肉です。件の番組中では、この曲を前にしてサティが「音楽を聴くな!」と観客に求めたエピソードを紹介し、これを「BGM・環境音楽の先駆け」として好意的に紹介していました。しかしながら、サティがこの曲に込めた意図は、19世紀的な「崇高な芸術を静聴する」という儀式化された音楽体験を徹底的に揶揄するもので、番組のような扱いをすると「芸術の権威を剥ぎ取る」という作曲者元来の意図を隠蔽することになってしまいます。前述の「ヴェクサシオン」については、 それがクラシック音楽の型である起承転結という「物語」への拒絶を意図している点がまず指摘されるべきでしょう。さらに、 この曲がが題名の通り演奏家に対する身体的な嫌がらせであり、同時に「名演」や「感動」を期待する聴衆への拒絶である点も明らか。ジョン・ケージが1963年にあえてこの曲を実際に連続演奏させた意図も、これを従来の「音楽作品」ではなく「概念芸術(コンセプチュアル・アート)」の先駆として位置づけるためのものだったと言われています。ケージは、サティの中に「19世紀位以来の直線的な進歩主義からの解放(脱出)」を読み取ったというわけです。実際、少しネットで調べると、社会学者ピーター・バーガーの「前衛芸術論」(1984)などの文脈において、サティやケージの試みは「作品そのもの」ではなく、「それを取り巻く制度(コンサートホール、静粛、入場料)」を浮き彫りにするための装置であると定義されています。「何も弾かない演奏者」を真剣に見守る聴衆の姿は、クラシック音楽という「宗教」の形式がいかに強固で、時に滑稽であるかを逆説的に証明していると言えるでしょう。ここまで来れば、クラシック音楽業界がサティを「謎多き音楽家」と呼ぶ理由がはっきりします。なぜなら、彼の思想を真っ向から受け入れると、自分たちの立脚点(音楽作品の権威や芸術的価値)が崩壊してしまうからです。もっと言えば、音楽業界にとってサティの作品を「批判」として受け取ると商売しにくいが、彼を「不思議な変人」としてブランド化すればCDやチケットが売れる、という商業主義的な動機が働いていると想像できます。そのためには、サティを「音楽の父」バッハから始まる音楽史という一本の線の中に組み込む(「正典化」する)方が好都合。「クラシックTV」の番組内容もこのような正典化の路線に従っただけと言えます。ちなみに、番組でMCは「サティがドビュッシーやラヴェルから慕われていた」といったコメントも出ていましたが、これも一方的なもので、サティ自身は彼らにも批判的な目を向けていました。なぜなら、彼は当時のフランス音楽界を支配していた「崇高で、真面目で、仰々しい」空気感に対して強烈な違和感を持っていたからです。例えば、サティはドビュッシーの「印象主義」さえも、伝統的な枠組み(ドイツロマン派への対抗意識)に縛られていると感じていました。サティはドビュッシーの傑作オペラ『ペレアスとメリザンド』に対してもこう言い放ちました。「素晴らしいが、背景が足りない。木を描くなら、その枝に吊るされた果物も描くべきだ」これは、ドビュッシーの音楽が「雰囲気」に流され、構造的な明晰さを欠いていることへの、彼なりの鋭い批判でした。一方、ドビュッシーがサティの音楽を「君の音楽には形式(フォルム)がない」と批判した際、サティは後日、『梨の形(フォルム)をした3つの小品』というタイトルの楽譜を持って現れました。「ほら、形(梨の形)があるだろう?」というわけです。これも単なるジョークではなく、音楽的な形式論をあざ笑う最高に知的な嫌がらせだったと見るべきです。サティは作曲家が「芸術家」として神格化されることを極端に嫌いました。彼は公的な書類の職業欄に「作曲家」ではなく「器械技師(ジムノペディスト)」や「測量技師」と書くことがありました。音楽を感情の表出ではなく、あくまで「音の配置」という作業として突き放して見せるポーズです。また、父親から入学させられたパリ音楽院(コンセルヴァトワール)を「世界で最も下劣な場所」と呼び、わざと落第するような行動をとって逃げ出しています。後に40歳を過ぎてから、あえて保守的な音楽学校(スコラ・カントルム)に入学し、首席で卒業することで「伝統的な技法など、その気になればいつでも習得できる」と証明してみせた、というわけです。彼は自分の真意が理解されないことを逆手に取り、「変人」の仮面を被ることで、既存の批評家たちからの攻撃をかわしていました。遺産が入った際、彼は全く同じベルベットのスーツを7着購入し、そればかりを着て過ごしました。これは「ベルベットの紳士」という記号になりきり、私生活を匿名化する戦略でした。「私は非常に若い時に、非常に古い世界にやってきた」とはサティの言葉ですが、彼は自分が理解されないことを嘆くのではなく、むしろ理解しようとする側(伝統的な聴衆や批評家)の無理解を、彼らをあざ笑うための武器に変えていたとも言えます。サティが毒を吐き、変人を演じ続けたのは、「音楽を特別なものにしない」という信念を守るためでした。彼にとって、音楽を「感動の道具」にすることは、聴衆による感性の搾取に等しかったのかもしれません。サティのこうした「戦略的拒絶」を踏まえると、現代の我々が彼を「癒やしの音楽」として消費している現状を、本人は草葉の陰でさぞや滑稽に思っていることでしょう。
2026.03.22
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このところ、亭主の関心はイスラエル・米国によるイランへの軍事攻撃にハイジャックされていて、これに関連した報道にどうしても目が行ってしまいます。「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗もここに極まった感がある一方、問題の根本があのような大統領を生み出したアメリカという国にあることも明らか。そこで、この週末にヨーロッパとの対比という観点から考えてみることに。まず、冷戦(資本主義 vs 共産主義の対立)の終結以降の国際紛争には「宗教的な対立」が大きな影を落としているように見えます。そもそも米国は17世紀に英国で国王ジェームズ1世から迫害を受けた清教徒たちが、それから逃れるために海を渡って作った国。大統領が就任式で聖書に手をかけて宣誓するところからもわかるように、米国はキリスト教を軸とした「宗教大国」でもあります。そのため、宗教を否定する共産主義には極めて不寛容で、1950年代には議会による共産主義者及びその同調者とみなされる人たちへの政治的な迫害(マッカーシズム、あるいは「赤狩り」)も行われました。一方、これと対照的なのがヨーロッパで、16-17世紀に起きた宗教戦争でヨーロッパ全土が荒廃した経験から徐々に脱宗教化(=世俗化)が進み、18世紀には啓蒙主義の時代へと移っていきました。その表れのひとつが、啓蒙主義時代における古代ローマの歴史への関心の高まりです。これは、「キリスト教以前の世界」を参照することで、宗教に対する理性の優位性への歴史的証拠を見出し、キリスト教の精神的支配から脱却しようとする試みであったという見方もできます。同じような指摘が、18世紀に出版された「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボンをはじめ、前世紀の著名な歴史家の一人であるピーター・ゲイなどからもなされています。とはいえ、このような見方をそのままヨーロッパにおける「理性の勝利」という単純な構図に当てはめることにはいくつかの重要な問題があります。まず、啓蒙主義者の多くは必ずしもキリスト教を全否定して「理性のみ」の無神論に走ったわけではありません。ヴォルテールをはじめとする思想家たちは、伝統的な教会のドグマ(教義)は否定しましたが、宇宙を創造した「神(知性)」の存在は信じていました。(このような考え方は、最も無神論に近い立場にあると思われる現代の物理学者の中にも見られます。)彼らが称賛した古代ローマの徳(ストイシズムなど)は、実はキリスト教的な道徳観と完全に切り離されたものではなく、むしろ「迷信を除いた純粋な信仰」のモデルとして再解釈されていました。また、彼らの主張の目的は、「理性の優位」という哲学的なものよりは、当時の政治体制への批判という極めて現実的な目的が優先されていた点も見逃せません。モンテスキューらがローマを参照したのは、教会の支配を脱するためだけでなく、当時の「絶対王政」とは別の選択肢(共和政や均衡ある権力分立)を見出すためでした。つまり、彼らが求めていたのは「神学からの解放」と同等以上に「政治的自由」であり、古代ローマは非キリスト教的な統治の例というより、あるべき国家モデルのカタログとして消費されていた側面があります。もうひとつの問題は、啓蒙主義者が持っていた中世に対する過度な偏見です。彼らは自らの文明を「光(啓蒙)」、キリスト教支配下の中世を「暗黒」と定義しました。古代ローマからルネサンスに至るまでの間に、キリスト教神学の中で発展した論理学やスコラ哲学が、近代的な「理性」の形成を準備した側面があることは無視されました。彼らが称賛したローマの「理性」は、実際には多神教的な儀礼や呪術と密接に結びついていましたが、啓蒙主義者は自分たちの都合の良い「哲学的ローマ」のみを抽出し、歴史的実態を歪曲していたという批判があります。もし啓蒙主義が純粋に「宗教に対する理性の優位」を証明したかったのであれば、古代ローマの負の側面(残酷な見世物、非合理的な予兆の信奉、奴隷制)についても批判的に評価すべきでした。実際には、彼らはキリスト教がローマを滅ぼした(ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の論調)と論じることで、キリスト教を有害なものとして描く一方で、ローマ自体の内部崩壊や非合理性には目をつぶる傾向がありました。したがって、この運動は「宗教から理性へ」という一方的な進歩ではなく、「既存の宗教権威を打倒するために、別の権威(古代)を召喚した」という、権威のすげ替え作業であったと捉えるのがより正確かもしれません。とは言うものの、エドワード・ギボンの「キリスト教(宗教的熱狂)がローマという合理的秩序を内部から侵食し、崩壊させた」という史観を現代の宗教対立や紛争に重ね合わせる視点は、依然として現代的なアクチュアリティを持っているように思われます。ギボンがローマ帝国を理想化した最大の理由は、その「宗教的寛容」にありました。多神教のローマは、各民族の神々を帝国の秩序内に併存させる柔軟性を持っていました。(これは日本における神道の在り方とも通じるところです。)キリスト教という「唯一絶対神」を掲げる排他的な信仰は、帝国の多様な統合原理を破壊することになりました。冷戦後の紛争(ユーゴスラビア、中東など)において、世俗的な国家枠組みが崩壊した後に「宗教的アイデンティティ」が突出して排他的な対立を生む構図は、ギボンの指摘した「宗教による公共性の解体」と強く共鳴します。「普遍的な教義」が「世俗的な統治」を圧倒する時、社会の流動性が失われ、対立が激化するという警告として、ギボンの視点は極めて有効です。ギボンは、ローマの滅亡を単なる軍事的な敗北ではなく、「内なる知性のマヒ」として描きました。ギボンによれば、ローマ人は現世の統治や防衛よりも、キリスト教信仰における死後の救済や神学論争にエネルギーを注ぐようになったことが衰退の原因です。21世紀の紛争においても、合理的対話や経済的互恵関係よりも、宗教的聖地や教条的な正義が優先される現象が見られます。これは「高度に発達した文明であっても、非合理な情念によって自壊しうる」というギボンの文明論的危惧を裏付けるものと言えます。ただし、ギボンの見方にも「非合理な情念」の原因まで思い至らなかった点に限界があると言えます。実際の紛争の実態を仔細に眺めれば、その原因は資源分配や格差、政治的疎外にあり、宗教は「旗印」あるいは口実に過ぎないように見えます。啓蒙主義者は古代ローマを合理的・安定的な理想社会とみなしていましたが、実際には深刻な格差や軍事的腐敗を抱えた不安定な体制だったことを考えれば、それらこそが「非合理な情念」の真の原因と言えるでしょう。(これは現大統領の出現を促した米国の状況とウリふたつに見えます。)ギボンの視点は、「世俗的な公共空間をいかに宗教的熱狂(あるいは原理主義的なイデオロギー)から守るか」という課題を考える上で、今なお強力な「教訓」として機能します。しかし、現代の紛争を「宗教(暗黒) vs 理性(光)」という啓蒙主義的な二分法だけで捉えると、問題の背後にある経済的搾取やポストコロニアルな構造を見誤る危険があります。「宗教が文明を滅ぼす」のではなく、「文明がその包摂力を失ったとき、宗教が対立の言語として選ばれる」このようにギボンの言葉を読み替えることで、彼の史観は現代の複雑な紛争を解読するための、より洗練されたツールになると言えるでしょう。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』におけるこの「宗教への懐疑」は、現代の私たちが直面している「多文化共生と世俗主義の対立」というジレンマの先駆けであったと言えます。
2026.03.15
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西洋クラシック音楽、特に古楽に関わる日本の音楽家や音楽史家は、ある程度年齢や経験を重ねると、必ずと言っていいほど「日本人の自分が人生を賭けて西洋音楽をやっていることに意味があるのか?」という根源的な疑問に向き合うことになるようです。そして、その答えの一つとして辿り着くのが16世紀にイエズス会の宣教活動を通じて生起した日本と西洋文明との接触です。大雑把に言えば、この接触によって日本もヨーロッパの文化と繋がっていた(無関係ではなかった!)ので、彼らの音楽をやることは日本人にとっても何かしらの意味はある、という納得の仕方です。とはいうものの、当時の宣教師達が何を目的に日本に来ていたのかを考慮せずに、この「未知との遭遇」を僥倖であるかのように捉えるのは、あまりにも無邪気すぎると思われます。イエズス会自体はキリスト教の布教を目的として16世紀半ばに成立した修道会ですが、同会は「新大陸」での植民地獲得を目指すスペイン・ポルトガル王室の意を受け、いわば帝国主義の先兵として日本を含むアジアに進出してきました(たとえばこちら)。その戦略は明快で、現地の住民をキリスト教に改宗させ、さらには政治権力にも取り入って宗教的権威を上書きすることで彼らを支配しようというわけです。(これを察知した豊臣秀吉や徳川家康が禁教へと舵を切ったことはよく知られています。)外国の宗教勢力が日本の政治に影響を与えた、という点でイエズス会と似ているのが、このところマスコミでもよく取り上げられる旧統一教会です。両者には「宗教というソフトパワーを用いて、その土地の有力者(大名や政治家)に深く食い込み、背後の組織や国家の利益を図る」という共通の構造が見て取れます。亭主には、彼らのいずれもが日本を政治的な「属国」にしようとしたように思われますが、その理由を歴史的背景と現代の構図から整理すると以下のようになります。1. 「トップダウン型」の浸透戦略イエズス会が戦国大名を、旧統一教会が国会議員を標的にしたのは、効率的に社会を動かすための「上部構造の掌握」という共通戦略からでした。 ・16世紀: キリシタン大名に対し、南蛮貿易(武器や硝石)という「実利」を餌に改宗を促し、背後のスペイン・ポルトガルの影響力を拡大させた。 ・現代日本: 保守系政治家に対し、選挙の「無償ボランティア」や「組織票」という喉から手が出るほど欲しい「実利」を提供し、政策決定や人事への影響力を確保した。2. 「資金の還流」という経済的属国化「属国」という言葉が最も現実味を帯びるのは、日本が教団の「ATM(資金源)」と化していた実態です。イエズス会の場合、日本をキリスト教化することで貿易利潤を得る側面がありましたが、旧統一教会はより直接的でした。 教団の教義では、韓国を「アダム(主人)国家」、日本を「エバ(罪人)国家」と位置づけ、日本は過去の植民地支配の罪を贖うために、韓国や全世界の教団活動を支える「経済的な使命」を負うべきだと説かれました。 このため、日本の布教活動は組織的な資金集めが最大の目的となり、集められた巨額の資金(累計数千億円規模とも言われる)は韓国本部への送金や、世界規模の政治工作、巨大ビジネスの原資、果ては教祖一族の豪華な生活費へと充てられてきました。これは、富が一方的に外部へ流出するという意味で、「経済的な搾取構造における属国」と言える側面があります。3. イデオロギーによる「思考の占領」「属国化」のもう一つの側面は、日本の国益よりも「教団の利益や教義」を優先させる政治家を醸成した点に見ることができます。 ・政策への干渉: 教団の教義に沿った「家庭教育支援法」の推進や、「選択的夫婦別姓」への反対など、本来日本の有権者の議論で決まるべき課題に対し、特定の宗教的価値観を忍び込ませることに成功した。 ・対韓・対米関係: 「日韓トンネル」構想や、文鮮明氏が提唱した世界戦略に日本の政治家が「お墨付き」を与えることで、日本の政治的資源を教団の権威付けに利用した。というわけで、16世紀のイエズス会が「十字架と剣」で植民地化を狙ったと言われるのに対し、旧統一教会は「投票箱と献金袋」を用いて、民主主義のシステム内部から日本を実質的にコントロールしようとした(国家の乗っ取りにも比せられる)と言えます。 「属国」という表現は多少過激であるものの、「日本の政治決定権が、日本国民ではなく外部の宗教組織の意思に左右されていた」という本質をよく表しています。今回の解散命令は「民法上の不法行為」という、ある意味で些細に見える理由によるものですが、その根底にある問題は非常に深く、16世紀の歴史に照らしても学ぶべき点が多いと思われます。
2026.03.08
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イタリア・ルネサンス期の造形美術をこよなく愛する亭主にとって、メディチ家といえばすぐに思い浮かぶのが「イル・マニフィコ(豪華王)」という渾名を持つロレンツォ・ディ・メディチ(1449-1492)。彼の実質的な支配の下、フィレンツェにおける芸術・文化は最盛期を迎えたと言われ、500メートル四方という狭いフィレンツェ旧市街は、絵画や彫刻の名作で溢れかえっている感じです。(亭主も若かりし頃にこれらを全部目に焼き付けよう、と1週間ほど街中を歩き回りました。)もう一人、よくその名を聞かされるのは「祖国の父」の尊称でも知られるロレンツォの祖父、コジモ・デ・メディチ(1389-1464)で、彼は初期ルネサンスのパトロンとしていわゆるクワトロチェント(1400年代)に活躍した画家や彫刻家を支援するとともに、プラトン哲学に心酔して私的な学芸サークル「プラトン・アカデミー」の基礎を築いたり(ここでの人文主義者達の活動が後の新プラトン主義の流行へと繋がる)と、「文芸復興」の影の立役者でもあったことが知られています。あともう一人の有名人が、前述のロレンツォの次男でローマ教皇「レオ10世」となるジョバンニ・デ・メディチ。彼が教皇時代のローマにルネサンスをもたらした(ミケランジェロやラファエロのパトロンとなり、彼らに数々の名作を委嘱)と言われています。(亭主もシスティーナ礼拝堂にある彼らのフレスコ画を目前にして圧倒されたことが昨日のことように思い出されます。)というわけで、もっぱらルネサンス芸術という窓を通してのみ彼らを見ていると、メディチ家の人々は皆が金払いもよく善良な芸術愛好家であるかのように錯覚しがちです。が、もちろんそんなことはなく、政治的には日本の戦国時代にも似て権謀術数が渦巻く乱世といってよい時代を生き抜いた人たちなので、それぞれの人生が波乱万丈。人物伝として今日まで文筆家の題材を提供し続けている所以でもあります。ところで、亭主が以前から気になっていたのが、ヘンデルやドメニコ・スカルラッティが若い頃に関わったメディチ家のトスカーナ大公コジモ3世(1642-1723)と彼の二人の息子、フェルディナンド(1663-1713)とジャン・ガストーネ(1671-1737)のことです。まず、フェルディナンド(長男なので大公子)の方は、1705年にドメニコが父アレッサンドロの紹介状を持って求職活動を行った相手。彼は「建築・素描・絵画に熟達したアマチュアというだけでなく、ハープシコードを上手に弾いた」ことで知られ、後にピアノフォルテの発明者として名を馳せるバルトロメオ・クリストフォリの雇い主でもありました。(アレッサンドロの紹介状を見ると、彼が息子へのオファーを切望してたことがヒシヒシと伝わってきます。)一方、同じ頃(1706~)に若いヘンデルはイタリアで武者修行に出かけますが、そのきっかけを作ったのがジャン・ガストーネ(フェルディナンドの弟)であったとされています。ヘンデルはハンブルクのオペラに関わっていた1705年に当地を訪れていたジャン・ガストーネと出会い、彼からイタリアに来るように熱心に誘われたようで、その場では断ったものの後に自分で旅費を工面してイタリアに渡ります。(その後ヘンデルとスカルラッティがローマで邂逅を果たし、鍵盤の腕比べの後で親交をかわしたことがよく知られています。)こういったエピソードから、亭主はルネサンス期から2世紀以上下った18世紀初頭においても、フィレンツェがメディチ家の支配の下で繁栄を保っているかのような印象を持っていました。ところが、今回表題の本を読んで、これが全くの幻想だったことを知ることに。同署によれば、フィレンツェがメディチ家の下で曲がりなりにも栄えていたと言えるのはコジモ3世の曽祖父フェルディナンド1世(1549-1609)の代までで、「あとはゆっくり百年をかけて衰退してゆく運命にあった」とのこと。コジモ3世の代には、トスカーナ大公国はすでにヨーロッパの小国へと落ちぶれ、メディチ家自体も貧しくなっていました。長命(享年81)だった彼の治世(1671-1723)の前半にフィレンツェを訪れたイギリスの歴史家は、あれほど美しかった花の都フィレンツェが見る影もなくなった、と驚いたとか。このような状況を考えれば、ドメニコがなぜフェルディナンドからのオファーを得られなかったかも容易に想像がつきます。要するに、当時メディチ家はすでに財政難に瀕しており、新たに宮廷音楽家を高給で雇うような余裕はなくなっていた、ということでしょう。その後、兄フェルディナンドが父親のコジモ3世より先に病没(男色による梅毒が原因とされる)して弟ジャン・ガストーネがトスカーナ大公職を継ぎますが、彼も兄同様のゲイで「若い男達と宮殿に閉じこもって、酒と遊びの自堕落な生活を延々繰り返した」とのことで、まるでバイエルン王ルードヴィッヒ2世の後半生そっくりだとか。当然のように子供もおらず、彼の死をもって初代からおよそ350年続いたメディチ家は絶え、フィレンツェはハプスブルク家の支配下に入ることに。こうしてみると、1685年組のヘンデル、バッハ、スカルラッティが生きた時代とは、まさに貴族が没落していく時代だったことがよくわかります。
2026.03.01
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