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水面とほとんど同じ高さのゴンドラから見るヴェネツィアは、我々に全く違った印象を与えてくれる狭い水路はいくつもゴンドラが交差するが、ゴンドリエーレたちは船をぶつけるようなことはない。のんびりと客待ちするゴンドリエーレたちは橋に腰をかけたりとゆったりとしている。あくせく働かないのが彼らの流儀でもある。日本の国とは大違いである。ゴンドラはサンマルコ広場横から出発するサンマルコ運河から、大運河方向に向かう大運河に入るとホテル街である、其処にはヴェネツィア市民の日常の足であるヴァポレットは、観光にもとても便利な乗り物である特に大運河を縦断する1番線はヴェネツィアのほとんどの見所を網羅した観光船である。1日券を買えば、気が向いたところで何度でも乗り降り出来これだけでヴェネツィアを隅々まで見て廻ることが出来る。我々3匹の侍は、勿論無料である、チョコピーが足を痛めているのでヴァポレットに乗って水の都ならではの途中下船の旅に出ようと思う。大運河1号線には色々なホテルが立ち並ぶここヴェネツィアのホテルで先進7ヵ国首脳会議が開かれた所でもある、G7サミットである。勿論わが国の総理大臣も出席したところである。我々3匹の侍もチョコピーがフランス代表・ラッキーがアメリカ代表・そして僕が日本代表我々もヴェネツィアのホテルで忠犬3ヵ国首脳会議G3サミットを開催することにした。ゴンドラに揺られながら、大海原本当に気分爽快である。チョコピーとラッキーは新婚さんからお菓子を頂いて美味しそうに食べていた。ゴンドラはサンマルコ運河からサンマルコ広場へと帰ってきた。僕とラッキーはサンマルコ広場を散策するため足の悪いチョコピーをフランス人のミッチェルさんにお願いしてホテルまで送ってもらうことにした。僕とラッキーは足を痛めている、チョコピーのために薬屋を探すためである。いろいろ探し廻るけど何処にも薬屋らしき店は見当たらない必死に痛みをこらえているチョコピーの姿が目に浮かんだ僕とラッキーは必死に薬屋を探した。1時間は探したであろうか、僕とラッキーが石畳に腰を架け思案している時突然ラッキーが「リュウお前は胃腸が弱いだろ、だからパパがくすりを持たしてくれたはず・・」「くすり袋の中に、リュウの薬と痛み止めがあるはずだ、筋肉緩和剤もな~」僕はラッキーの云ったことに薬を持たされたことに気がついた。僕とラッキーは一目散にチョコピーのいるホテルへと向かった。
2006.01.31
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3匹の侍達はサン・マルコ寺院にやってきた。チョコピーは足の痛いのにやっとの思いで此処まで来たに違いない。でけど、我々の前では決して痛いとは言わなかった。少し腫れているようにも見えた。中の散策はチョコピーを残して、ラッキーと僕とで見て廻ることにした。チョコピーは少し寂しい様子であった。僕はラッキーに此処は速目に切り上げて、チョコピーとゴンドラに乗り迷宮散策をしてみようと、話した。3匹の侍はサン・マルコ寺院を後にしてサンマルコ広場を通ってゴンドラ乗り場へと向かった。チョコピーの顔は少し微笑んでいるように見えた。ヴェネツィアの交通機関は船だけである。勿論車は1台もない足の悪いチョコピーにはゴンドラが一番と思う。ゴンドラだとチョコピーの足の負担が軽いと思ったからである。ラッキーは勿論賛成である。冒険心の旺盛なラッキーは大喜びである。迷路のように入り組んだ水路、何百年も人々が暮らす普通の建物、無数にかかる名もない橋・・・。ゴンドラしか見えないヴェネツィアの探索に心は躍った。僕は水面から眺めるヴェネツィアの歴史を見たかった。ヴェネツィア街は120以上の小さな島が集まってきておりこの島々の間を走る運河は170以上であり、運河に架かる橋は400以上を数える。この迷宮のような街を何百年もの間変わることなく往来しているのが、ヴェネツィア名物のゴンドラだ。幅僅か数メートルの狭いリオ(小運河)を、縫うように進むゴンドラから見上げる風景は、陸の上からや水上バスから見るものと違って特別な物である。チョコピーとラッキーは新婚さんのゴンドラに乗り僕はチョコピーを可愛がってくれる肥えた女性のゴンドラに乗ることにした。いよいよゴンドラでヴェネツィアの歴史探索3匹の侍達はそれぞれに心が弾んでいるに違いない。ヴェネツィア滞在の思いでは3匹の侍にとって最高の思い出にこの特別な風景を心に刻みこもうと思った。
2006.01.30
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中世の雰囲気をそのまま残すヴェネツィア。壮麗な寺院や教会、運河沿いに残る華麗な館。ヴェネツィア派の名画が並ぶ博物館など見所は尽きない町である。我々3匹の侍は、サンマルコ広場からドゥカーレ宮殿に行くことにした。朝起きてからチョコピーの歩き方が少しおかしいのに気がついた。だがチョコピーは痛がる様子もない3匹揃ってサンマルコ広場を散策した。すごく多い人並みである、僕とラッキーは人の波を掻き分けて歩いた。後ろを振り返るとチョコピーは居ない、良く見ると随分後ろから足を引きずるようにして歩いている。僕とラッキーはチョコピーのところに急いでいった。チョコピーはすごくいたそうである。ヴェルサイユ宮殿での散歩でかなり足を痛めたようである。チョコピーに引き返してホテルで休もうかと聞いてみた。チョコピーは大丈夫、痛くないから行こうと、反対に僕達をけしかけた。すごく痛いと思うけどチョコピーは弱音を吐くことなく歩いている。なんと我慢強いチョコピーかと思った。チョコピーを挟むようにして3匹の侍達はドゥカーレ宮殿目指して歩き出した。9世紀ヴェネツィア共和国の邸宅兼政庁として建設され14~15世紀にかけて、ヴェネツィア・ゴシック様式に改装され、大評議会の間や元老院の間などの装飾、各サロンを飾る絵画も見事なものがあると聞いている。チョコピーは足の痛いのを必死にこらえて歩いている僕は何度もチョコピーに大丈夫かと聞くと、決まって大丈夫だからね、心配しなくてもいいよと答えが返ってくる。まだ朝の9時と云うのに観光客は数を増している昼近くになると、この広い広場も人でうずめられるのである。正面のサンマルコ寺院は9世紀の初めに聖マルコの遺骨を祀るために巨万の富を注ぎ込み建設されたものである。
2006.01.29
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朝10:00パリ・シャルル・ド・ゴール空港に行く3匹の侍達はいよいよ、「アドリア海の女王」と呼ばれた海上国家の栄誉の跡を散策すべくヴェネツィアへ向かって出発した。本島を分断する大運河と其処から小枝のように延びる小運河、水上バスに乗り、ゴンドラに乗り揺られながら美しい水の都ヴェネツィアへの旅立ちは心が弾んだ。8世紀から1000年余の長きに渡って続いたヴェネツィア共和国、宗主国はビザンチン帝国ではあったがドージェと呼ばれる首領を置き、自治は確立していた。ヴェネツィア共和国が最も繁栄し輝いたのは15世紀から16世紀にかけてのこと、東方との貿易権を得てヨーロッパと東方を結ぶ貿易で富を築きあげた。3匹の侍達はまずヴェネツィアの海の玄関となるサンマルコ広場に行くことにした。14~16世紀に栄えた地中海貿易では商取引が行なわれ、共和国の繁栄と共に、政治、宗教並びに文化の中心地ともなっていた。今でもヴェネツィアの最も重要な建造物、博物館がこの広場の周辺に集中している。サンマルコ広場を囲む建物には、ヴェネツィアン・マスクやグラスの店が立ち並ぶ。サンマルコ広場は11世紀から建設が始まり16世紀に現在の形に整備されたヴェネツィアの中心。正面にサンマルコ寺院、左右に時計台と大鐘楼がそびえその奥を行政長官府の大理石の柱廊を囲む長方形の広場はナポレオンをして「世界で最も美しい空間」と言わしめた広場に並べられたカフェのテーブルには世界中から集まった人々の憩い、さながら巨大なサロンの雰囲気である。3匹の侍達は世界中から集まった人の多さに驚いていた。
2006.01.28
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僕とラッキーはチョコピーが庭園に来るのを待って3匹の侍揃って散策することにした。緑と水に満ちた広大な庭園ルイ14世がル・ノートンに造らせたこの庭園は広さ100万平方メートル以上に及ぶ。ギリシャ神話の神々の像が見守る噴水や池、運河など豊かな水も溢れ、その周りに花壇、遊歩道が配されている。100万平方メートル以上もある広大な庭園を歩いて廻るには最低でも4~5時間はかかる。効率よく廻りたい人や体力に不安のある人は園内の乗り物が便利である。トラム型で4両編成のプチ・トラムは宮殿→プチ・トリアノン→グランド・トリアノン→グラン・カナル→宮殿を30分間隔で周遊している。そのほか優雅な馬車で当時を偲びながら周遊もできる。チョコピーはすごく肥えてきたので、馬車で周遊したいと言ったが、時間がかなりかかるので止めることにした。我々3匹の侍は噴水を見た後宮殿の周辺を歩くことにした。すごく花が咲き乱れ心を洗われるようである。花園に入りラッキーとチョコピーは走り回っていた。僕もなんともいえない気持ちである。宮殿の左手にある庭園に来た時チョコピーが僕に合図した、其処にはベルサイユの薔薇で見るマリー・アントワネットを見ることが出来た。我々3匹の侍はヴェルサイユの薔薇でしか知らないマリー・アントワネットだが、此処に来て王妃マリー・アントワネットの肖像画を見ることにより真実に迫ることが出来た。間も無く帰る時間である、名残惜しそうに何時までも宮殿を見つめている、チョコピーだがバスに乗り遅れないようにチョコピーを促した。帰りのバスに乗り込むと、3匹の侍達はぐったりとなっていた。さようならヴェルサイユ!さようならマリー・アントワネット!さようならレオナルド!バスは一路パリ目指して走り出した。
2006.01.27
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チョコピーは我々を連れて、王妃の昼寝用の小部屋に案内した。この部屋で1789年10月暴漢が王妃を襲い、王妃を守ってレオナルドが銃に撃たれて死亡した部屋である。チョコピーは感慨深そうに王妃の小部屋に案内した。マリー・アントワネットが1781年に改装したこの部屋はヴェルサイユ宮殿の中でも当時の状態を比較的良く保った部屋である。何時もこの部屋で王妃とレオナルドはくつろいでいたのである。僕はチョコピーに云われるままに周りの臭いをかいでみたレオナルドと王妃の体臭が残っているかと思い・・だが225年前のことである、何一つ臭いは残ってはいなかった。3匹の侍は色々とかぎまわったが王妃の遺品らしき物は無かった。3匹の侍はチョコピー総務大臣の案内で鏡の間に行き着いた。総鏡張りであり1661年~78年ルイ14世の活躍を描いた天上画やシャンデリアがすごく豪華な「鏡の回廊」である此処で毎夜の如く舞踏会が模様された回廊でもある。突然チョコピーがマリー・アントワネットと2人の子供が「鏡の回廊」にきていると叫んだ。真剣に叫ぶチョコピー・・・あたりを見渡したが我々3匹の侍以外には誰も居ない、ラッキーに聞いて見たが3匹の侍以外には見当たらないといった。レオナルドの子孫であるチョコピーには我々の傍に王妃と2人の子供たちが見えているに違いないと思った。この時のチョコピーはもはやレオナルドの姿そのものであった。チョコピーは王妃と2人の子供たちとで「鏡の回廊」歩いて見たいと言い出した。僕とラッキーは宮殿の庭園で待っているから、心行くまで王妃と回廊を散策することを許した。チョコピーは心から喜び王妃と2人の子供たちと一緒に「鏡の回廊」を歩き出した。僕やラッキーの目にはチョコピーと一般観光客しか見えなかった。
2006.01.26
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チョコピー総務大臣の案内で王妃の寝室に来たすごく豪華であり、チョコピー総務大臣とラッキー外務大臣はベットに上がった。僕は何時も床で寝ているので、ベットは苦手であるチョコイーはきっとマリー・アントワネットと何時も一緒に寝ていたであろう、レオナルドのことを思い出しているのであろう。ルイ16世の寝室よりも王妃の寝室が豪華に見えた。チョコピーとラッキーはなかなかベットから降りようとはしなかった。3匹の侍は此処で自由行動にし集合を決めて、1時間後に集まることにした。僕はルイ14世に会いたくてたまらなかった。”太陽王”ルイ14世権力の象徴として半世紀かけて建設されたヴェルサイユ宮殿。その銅像が建っていた見るからに野心的な国王にふさわしい銅像である。広い宮殿の中にひと際目を引いた、ルイ16世の時に王政は崩壊、このヴェルサイユ宮殿も3代で幕を閉じたのである。企業にしても、家族にしても3代目の人により繁栄もし没落もする、3代目が一番大事な時代であるとルイ14世を見ながらそう思った。ラッキーがいつの間にか、僕の傍に来ていた。チョコピーはまだマリー・アントワネットの寝室にいると言う。僕にはチョコピーの心情が良く解る。祖先のレオナルドを偲んでいることであろう、それを解って一人にしたく、ラッキーが此処に来たのであろう・・3匹の侍も今ではすっかり互いの心が通じ合うようになっていた。
2006.01.25
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チョコピー総務大臣は、祖先のレオナルドをこの目で確かめたいと思った。リュウ官房長官とラッキー外務大臣を従えて王妃マリー・アントワネットの部屋を視察した。1789年にはヴェルサイユ宮殿からパリのチュイルリー宮殿が新たな住まいとなり、衛兵隊に守られてきたヴェルサイユ宮殿は当時の面影を残していた。王妃の部屋にはマリー・アントワネットの肖像画が掲げられていた。なんとその肖像画の中に王妃と忠犬レオナルドが描かれているではないか。チョコピー総務大臣は、感激のあまり叫んだ、「祖先がいると!」なんとチョコピーに瓜二つのワン公である。チョコピー総務大臣は横にいるラッキー外務大臣にこれが僕の祖先のレオナルドであると説明した。ラッキー外務大臣は信じられない顔付であった。王妃と三人の子供の肖像画の中にもレオナルドはいた。ラッキー外務大臣はあまり感動が無いのでチョコピー総務大臣はリュウ官房長に誇らしげに、レオナルドの話をした。リュウ官房長はチョコピー総務大臣の気持ちを察してかチョコレート色のチワワであるレオナルドとチョコピーの250年わたる歴史をラッキー外務大臣に話していた。本を読んでいるマリー・アントワネットの傍にもレオナルドはいた、王妃を守るためにオーストリアからついてきたレオナルド、まだ14歳のマリー・アントワネットの遊び相手としていき続けたレオナルドは、すごく立派に見えた。チョコピーのこんなに喜んだ顔を見たことがない3匹の侍としてこの無銭旅行は目的を果たしとように思えた。ラッキー外務大臣は観光客を見渡している、素敵な人がいれば就いていきそうな目つきであった。
2006.01.24
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ヴェルサイユ宮殿に来てからのチョコピーはすごく元気である、あたかも自分の館に来ているようにはしゃいでいた。此処ではチョコピーにすべて任せことに決まった。チョコピーはまず、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットから、尋ねて見たいと、言い出した、ラッキーは初めてのことなので、何も言わなかった。僕は広大な庭園をマリー・アントワネットを偲んで散策したかったが、チョコピーの案に従い宮殿内から見て廻ることにした。今ではルイ16世と王妃マリー・アントワネットを偲んで全世界からの観光客は大勢やってくる。ルイ14世の銅像はあるものの、多くはルイ16世と王妃の展示が主である。1755年11月2日、マリア・テレジアの15人目の 子供としてオーストリアに誕生し1764年フランスの王太子ルイ・オーギュストの 結婚相手の候補となる。1770年5月フランスの王太子ルイ・オーギュストと ヴェルサイユ宮殿にて盛大な結婚式我々3匹の侍はまずルイ・16世から訪問することにした。ルイ・16世が国政を司る部屋から、次々にチョコピーが我々を案内した。チョコピーとしては王妃に可愛がられた忠犬レオナルドのことが気になっているようである。ルイ16世の寝室に来た、此処で3匹の侍は国王が信頼の置ける家臣をこの部屋に入れて色々相談をしたようである。我々3匹の侍は家臣になったつもりで椅子にかけた。僕が内閣官房長官勿論伯爵である、伯爵総務大臣チョコピー伯爵外務大臣ラッキー3大臣が一同に会して、国王との話し合いに参加している。国王は「外務大臣ラッキー君どうだね世界の情勢は?」「内務大臣チョコピー君最近の王妃の金遣いはやはり激しいかい~、劇場を建ててくれというが財政はいいのかな~」「官房長最近の大臣達は国政に全力を費やしていると思うかね?」などとルイ16世は話しているであろうと思った。それにしてもこの椅子の座り心地はあまり良くなかった。
2006.01.23
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絶対王政時代の富と権力を象徴する豪華絢爛な宮殿。 「太陽王」と呼ばれた野心的な国王ルイ14世が、自らの権力の象徴として建設を命じたのがヴェルサイユ宮殿である。1662年から約半世紀かけて造られたこの宮殿は当時の一流建築家ル・ヴォー・室内装飾家ルプランなどが携わり、常時2万人の人夫と6000頭の馬が働いたという。(1789年代のヴェルサイユ宮殿)今我々3匹の侍はヴェルサイユ宮殿を見ることにより王妃マリー・アントワネットと愛犬レオナルドを探るべく、心が弾んだ。(現代のヴェルサイユ宮殿正面)チョコピーは自分の祖先レオナルドを深く知るためにもすでに体調を整えてヴェルサイユに来たのである。1770年5月フランス王太子ルイ・オーギュストとヴェルサイユ宮殿で盛大な結婚式を挙げてから1789年10月パリの市民が「パンを求めて」ヴェルサイユに行進。国王一家はパリへ移ることになる王妃マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿での19年間が今なお厳然と生き続けているのである。3匹の侍達は1789年のヴェルサイユ宮殿と今の宮殿を見比べながらマリー・アントワネットに迫って行きたいと思った。チョコピーはすごく元気が良かった、僕は此処ではチョコピーにしたがってついて行こうと思っている。依然として、広く人々の興味をかきたて、同情を誘う人物であり続ける王妃マリー・アントワネット。この現実離れした悲劇の女性の秘密を3匹の侍達が探ろうとしているのである。
2006.01.22
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セーヌ川ディナークルーズの途中にライトアップされたエッフェル塔の傍を通った、昼間のエッフェル塔と夜のエッフェル塔では全く違った雰囲気である。僕はこの景色をパパに見せたいと思った。パパは何処にも行った事がない、唯 カタログや写真で行った気分だけを味わっている。僕達3匹の侍は確かに無銭旅行には違いないがこうしてフランスに行かしてもらった、パパやチョコピーのママ、それにラッキーのママに感謝の気持ちで一杯である。チョコピーは何時も夜の8時にはお休みの時間だが此処では8時には寝られない、キットチョコピーのママは元気かどうかを心配してると思う。ラッキーも陽気に振舞ってはいるが、おそらくママのことを思い敢えて、陽気に振舞っているように思えた。セーヌ川ディナークルーズから見るエッフェル塔は僕達3匹の侍を心から歓迎するかのように光輝いていた。パパ有り難うと僕は心の中で感謝した。
2006.01.21
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夜はセーヌ川ディナークルーズである、皆それぞれおめかしをして、出かける準備に忙しそうである。僕達3匹の侍は何時も普段着のまま、特に僕は薄手の毛皮である。その点、ラッキーやチョコピーは立派な毛皮だから、何処に行って恥ずかしくない。出発まじかになって、チョコピーがお留守番をしたいと言い出した、ラッキーを探すのに相当に疲れたと思う、又明日はヴェルサイユ宮殿に行く日でもあり寝ておきたいとのことである。その時すっかりチョコピーと仲良しになった婦人が床だと疲れが取れないから、留守の間自分のベットで寝ておきなさいと、いわれチョコピーを自分のベットに連れて行った。僕とラッキーはセーヌ川ディナークルーズ行きのバスに乗り込んだ。あたりは真っ黒でありセーヌ川は周りの明かりで神秘的であった。ディナークルーズでは美人歌手の歌声に聞きほれながらフランス料理を美味しくたべている。ラッキーが僕を誘って何時もラッキーを可愛がってくれる婦人の傍に連れて行った。婦人はラッキーを見つけ、フランスパンとステーキを僕達にくれた。いくときドックフードを控えめに食べたのですごくフランスパンは美味しかった。ラッキーはまだ食い足りない様子で、今度は新婚さんの所にいき、パンを貰っていた。僕はチョコピーにも美味しいフランスパンを食べさせたいと思った。食事会はたけなわで、ワインを飲んだり、ダンスをしたりして最高に盛り上がっている。今頃チョコピーはぐっすり寝ているだろうかと気にかかった。
2006.01.21
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ラッキーは時間の経つのも忘れてルーブル美術館を散策した。2階は絵画や彫刻、工芸品や装飾などさまざまな分野の美術品が揃う。ドノン翼には「モナリザ」や「ナポレオンの戴冠式」「カナの婚礼」など大作が目白押し。「シュリュー翼のナポレオン3世の豪華絢爛な居室も目を見張るものがあった。3階に行こうとしたとき、ふとリュウとチョコピーの顔が浮かんだ、キット自分を探しているに違いないフランス美人に別れを告げて急いで出口へ向かった。外ではリュウとチョコピーが首を長くして待っていた。随分待たせたことに、申し訳ない気持ちで一杯であった。僕はリュウとチョコピーに謝った、リュウは一言これからは3匹の侍は離れてはいけないよと云った。3匹の侍達はバスに乗り込んだまだチョコピーを可愛がってくれる婦人と、その友達は着ていなかった。やや暫らくして9人と3匹がそろいバスはオペラ座に向かった。オペラの殿堂「オペラ・ガルニエ」第二帝政時代の壮麗な大劇場・・1875年に完成した通称”オペラ座”バロック様式や古典様式をたくみに取り入れた豪華絢爛のつくりで第二帝政時代の最高傑作と称されている。1778年王妃マリー・アントワネットがこのオペラ座の舞踏会で始めて美貌のスウェーデン貴族フェルセンに会いそれ以後マリー・アントワネットとフェルセン伯爵の長期にわたる関係が続いたのである。それからと云うものは、ことある度に王妃とフェルセンはオペラ座の舞踏会にヴェルサイユ宮殿から来たのである。3匹の侍達は唯、唯、オペラ座の豪華絢爛さに言葉が出なかった。
2006.01.20
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天気がよくポカポカと暖かい、チョコピーは1時間は熟睡したようである。キット夢の中でママと会っていたに違いない。チョコピーが起きたので、先に行ったラッキーのことがすごく気になった。ルーブル美術館までチョコピーと当たりの景色を見ながら、歩いた、歩いてみるとかなりの距離であった。ルーブル美術館に来てみると広大な建物でありラッキーを探すのは困難を極めることである。簡単に入り口で待つように云ったが、何処が入り口か解らない。あちらこちらと、チョコピーと2人で探したがラッキーの姿は何処にも見当たらない。もうラッキーは成犬である、必ず我々のところに来るものと信じたいが、人懐こいラッキーだから見ず知らずの人についていくことが気にかかった。広大な建物である、ウロウロするよりルーブル美術館の正面で待つことにした。ラッキーはリュウよりルーブル美術館の入り口で待つように云われたが、一緒に来た人たちはみんな中に入っていった、一人で待っていたが、1時間を過ぎてもリュウやチョコピーは来ない。僕もリュウやチョコピーと一緒にいればよかったと思ったが、ツイツイ新婚さんにジャレついていたのでここまできてしまった、反省しても始まらない。リュウはすごく鼻が利くから、僕を見つけてくれるだろう、そう思いいい人が来たら、一緒に入る事に決めた。肥えぎしな、フランス美人が入場しょうとしていたので僕はついて中に入った。凄い広さに驚いたシュリー翼の「ミロのヴィーナス」を筆頭に、彫刻をメインとしたフロアー。特にギリシャ、エジプト、オリエントの古代美術には僕は感動した。ルーブル美術館は世界最高のアートの殿堂として有名であり、12世紀に建てられた広大な宮殿を利用して1793年に開館した世界最大規模の美術館。メソポタミア文明や古代エジプトなど紀元前の美術品13~19世紀にかけてのヨーロッパ絵画など所蔵数約300万点の及び、その中から2万6000点を展示されていた。見るだけでも10日はかかると思われる。僕は夢中になりフランス美人と見て廻った外でリュウとチョコピーが僕の来るのを待っていることは知る由も無かった。
2006.01.20
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今日はすごく天気がいい、チョコピーはまだ婦人の膝の上で心地よさそうに眠っている。間も無くエッフェル塔に到着するのでチョコピーを起こした、まだ眠たい様子であった。エッフェル塔は眺望も抜群のパリのシンボルである。1889年にパリ万博のモニュメントとして建設当初はパリの景観を損なうと批判を浴びたが今では凱旋門と並ぶパリのシンボルとして設計者の名がつけられた。塔の高さは320mである。3匹の侍はバスから降りて、一目散に草むらにか駆け込んだ何せシッコが溜まっていたからである。フランスの公園にはほとんど公衆トイレはない、だから一番困るのはトイレである。僕達は草むらでようを足せるけどね~・・・・。一緒に観光している新婚さんから記念写真を撮って貰った、結婚式からそのままフランスに来たといっていた。すごく綺麗なお姉さんである、すっかりラッキーはお姉さんに懐いていた。僕とチョコピーは何時も行動を共にした、まだ眠そうなチョコピー迷子になれば大変と思い目が離せない。時間が来たので3匹の侍はバスに乗り込んだチョコピーは又婦人の膝の上に抱かれていた。バスはコンコルド広場に着いた。コンコルド広場はフランス革命の時1793年10月16日王妃マリー・アントワネットがギロチンで処刑されたところであり、ルイ16世を始めとして2000名の人がギロチンで処刑されたところである。今はその名を変えコンコルド広場となっている。僕達3匹の侍は処刑された2000名の人に黙祷をささげた。広場には車の往来が激しく、ラッキーが飛び出して轢かれはしないかと、すごく心配した。だがラッキーは新婚さんの傍から離れようとはしなかった。チョコピーは僕と一緒に肥えた婦人と歩いている、抱いて欲しいという素ぶれである。コンコルド広場からチュイルリー公園を抜けてルーブル美術館までは散策しながら歩いていくコースである。チョコピーはきつそうに歩いている、僕はチョコピーにチュイルリー公園で一休みしてはどうかと、聞いてみたチョコピーはうなずきチュイルリー公園に入っていった。ラッキーに先に行って、ルーブル美術館の入り口で待つようにお願いした。チョコピーは公園の芝生を見つけて体を横たえた、すごくきつそうである、おそらくいつもなら、10時間は寝るチョコピーだが、時差の関係で睡眠不足、それになれない床での睡眠は、熟睡は出来なかったに違いないと、思われた。横たわるとすぐに寝息を立てて眠りについた、チョコピーのいびきはかなりのものであるすごく疲れているせいかもしれない。我々3匹の侍はルーブル美術館には入れないかも知れないと思い、見学の時間をとってチョコピーを寝かせてあげようと思い、僕は見守ることにした。チョコピーはおそらくママと一緒にふかふかのベットで寝ている夢を見ていると思った。チョコピーの寝顔はすごく爽やかである。
2006.01.19
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世界的に有名な目抜き通りシャンゼリゼ。おしゃれなカフェやレストランが立ち並ぶ全長2Kmの華やかな大通り。バスはシャンゼリゼ大通りを通り凱旋門へと向かっている、チョコピーは昨日の婦人にちゃっかり、膝の上に抱かれていた。この婦人は日本に残した自分のチワワを抱いている感覚で、チョコピーの頭をナデナデしながら、外の景色を見ていた。ラッキーは婦人の横に座っていたこのバスは大型バスではあるが8人しか乗っていない全く贅沢な観光バスである。僕は一番後ろの席で2匹の侍を見守っている。バスは間も無く凱旋門へと向かっている。ナポレオンを讃える栄光の門1805年ナポレオン・ボナパルトがオーステルリッツの戦いで勝利したのを記念し、自らこの古代ローマのような壮麗な門の建設を命じた。完成は、ナポレオンの死後15年を経た1836年。門には彫刻家リュードによって描かれ軍の活躍を表すレリーフが散りばめられている。チョコピーは婦人に抱かれ気持ちよさそうにコックリコックリと居眠りを始めた、おそらくママのことを思い浮かべながら眠りについたようである。僕はチョコピーとラッキーにお金持ちに見えて肥えた婦人の傍についていきなさいと、アドバイスしたことが大成功であったと思った。60人乗りの観光バスに添乗員さんを入れて9人のたびそれに我々3匹の侍を入れてたったの12人それに9人の人は皆ワン公が好きな人ばかりに見える。僕はいい無銭旅行が出来るなあ~と一人で微笑んだ。バスは今セーヌ川を走っているこの道は凱旋門からコンコルド広場そしてルーブル美術館に通じる道である。バスはセーヌ川沿いを走りながらエッフェル塔へと向かっていた。
2006.01.18
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僕達は疲れもあったのか皆、朝までぐっすり眠った。僕は何時もお家を守るために、なかなか熟睡は出来なかったが、此処では完全に熟睡が出来た。ホテルの屋上で朝食を食べて、何処に行こうかとみんなに相談した。チョコピーは昨日の婦人と一緒に行きたいと言った。ラッキーもまたフランスは、初めてのことだしツアー客と一緒がいいと言い出した。ラッキーとチョコピーの意見を取り入れチョコピーを可愛がってくれた婦人たちのツアーに便乗することにした。ラッキーとチョコピーはホテルの玄関から中に入り、得意の鼻で昨日の婦人を見つけることが出来た。その時ボーイが一枚の写真をチョコピーのところに持ってきた。写真を見るとチワワ同盟のチクワちゃんとクッキーちゃんの写真である。写真の裏にはデカチワ隊長チョコピーさんへ元気帰ってきてねと書いてあった。チョコピーはすごく感激した、こんな所まで僕のことを心配してくれる人がいることを・・・。ラッキーが写真を見てチワワ同盟てなんだい?デカチワ隊長チョコピーとはチョコピーのことだよねェ~?ブログを見たことが無いラッキーには解らないことであった、僕が簡単に説明しラッキーもなんとなく解ったような顔をした。とんだ朝からのハプニング、僕達3匹の侍はツアー客と一緒に今日一日観光することに決定した。フランスの町々には華やかなパリの姿が見え出した。
2006.01.17
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空港を出ると、それぞれのコースに分かれた。幸いにも、チョコピーとラッキーのご婦人はお友達で同じコースでの観光らしい。僕の選んだ人は、違うコースの人らしく空港を出るとすぐに離れていった。チョコピーとラッキーのご婦人はお家でもチワワを飼っているらしく、2人ともチョコピーをかわるがわる抱いていた。何処からか変な声がした「どうしてかわるがわる抱くの、それを云っちゃあーおしまいよ、だってチョコピーは重たいんだも~んね」体重只今5.3Kgだもんね。キット2人のチワワは小さいチワワと思うよ解ったあ~。間も無く2人連れのご夫人はホテル コンコルド ラファイエット パリに着いた勿論チョコピーとラッキーも後からついて入ったのである2人のワン公と思われ誰もとがめる人はいなかった。やはり血統書付のワン公は違うな~と僕はちょっぴり羨ましかった。僕が中に入るとおそらく野良犬と思われつまみ出されると思い外で2匹を待つことにした。だがチョコピーとラッキーはなかなか出てこない中の様子を見るとラウンジで2人のご夫人から水を飲ましてもらっていた。すっかり打ち解けている様子である。1時間は経ったであろうか、やっと2匹は出てきた僕達はホテルの非常階段から屋上に上がった。寝床を探すためである。屋上に上がると、フランスの町々が見えた。凄いビルの林立である。チョコピーとラッキーは初めての経験らしく、こわごわと、景色を眺めていた。不思議なことに、看板はなくネオンもない又洗濯物は何処にも見当たらない。唯ビルのみである。1~2階はオフイスか商店後はみなマンションである。フランスでは美観を損なうため、標識や看板、洗濯物は外から見えないように法律で決められていると云うことである。寝床を屋上の片隅に決めた後、夕食のドックフードを食べることにした。だか日本では夜中の2時である食べたのはラッキーだけでした。ラッキーが食べ終わってから、明日の準備のためホテルの周辺を散歩することにした、チョコピーはすごく眠そうであった。
2006.01.16
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いよいよ飛行機は着陸態勢に入った。僕達は一緒に降りるべき貴婦人をそれぞれが選んでいた。17:30定刻どおり無事にパリ シャルル・ド・ゴール空港に着陸。日本時間24:30である。チョコピーは見るからにお金持ちに見える肥えた婦人の傍で寄り添うように歩いている。ラッキーもまたポッチャリ形の婦人と歩いていた。後ろから見ると2匹とも貴婦人が連れてきたワン公に見える、第一の作戦は成功した。ラッキーがチョコピーになにやら話しかけていた2匹の後から行く僕には聞き取れにくかったが話の内容はところどころは解った。「チョコピー!リュウはチャッカリしているね~僕達には肥えた女性を選びなさいと言って自分はスタイルのいい美人の女性だよ~」「チョコピーの選んだ人は肥えているけど顔立ちはイイジャン~」「僕が選んだ人は肥えすぎているよ、後ろから見たらすごくいいと思ったんだがねェ~」「ママと散歩してるみたいで嫌だな~フランスまで来てさ~」「パパがママに何時も云ってるのポッチャリがいいとわ言ったが其処までよッてね~」「ママはママでパパに反論しているの太るなら美味しいもので太りたいってさ~」飛行機から降りたとたんに元気になりラッキーはよくしゃべりだした。機内では青息吐息のラッキーだが。選んだ女性を見たときやはり、何時も可愛がってくれる大好きなママに似た人を選んだに違いないと思った。ラッキーは色々云ってはいるが、やはり誰よりもママが大好きである、だからママにそっくりな人を選んだに違いない。それにしてもラッキーのママに良く似た人である。チョコピイーが選んだ人はすごく陽気な人のように見えた、優しそうな顔だちである。きっとチョコピーのママは優しい陽気な人であると僕は思った。僕の選んだ人は、僕のそばにいた人とたまたま一緒に歩いているだけである。確かに良く見ると均整の取れた美人である。どうして肥えたお金持ちの人を選んだか、その理由は宿泊するホテルが一流ホテルと思ったからである。3匹はパリの地に第一歩を踏み出したのである。
2006.01.16
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外は暗くなっていた、日本時間で20:00でありチョコピーは何時もお家では寝る時間である。すごく眠たい様子である、空いた席でチョコピイーを寝せてやろうと思ったがあいにくの満席仕方がないので、3匹で片隅で寝ることにした。チョコピーは座敷犬であり、床で寝たことはない僕やラッキーは何時も外で寝ているので平気である。僕とラッキーは交代で寝ることにしてチョコピーを先に寝てもらうことにした。21:00ごろであろうか、チョコピーはスヤスヤと寝息を立てて寝ていた、だがチョコピーの目には大粒の涙が頬を伝って床を濡らしていた。僕達の前では元気に振り舞ってはいるものの初めてママと離れての旅はチョコピーにとっては大変なことに違いないと思った。おそらくママのことを思いながら涙を流しているに違いない。僕はパパから番犬として育てられているからチョコピーやラッキーを寝らづに見守って行こうと思う。そのうちラッキーも眠りに入った。何時間か経ったであろうか、飛行機は旋回しながら高度を下げた。窓からはフランスの景色が見えた、憧れのフランスはもう目の前である。僕はラッキーとチョコピーを起こして降りる準備をした。
2006.01.15
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飛行機は高度を上げ15000フィートになってから水平飛行に入った。間も無くして、スチュワーデスが飲み物を配りだした。それを見たチョコピーは咽をゴロゴロ鳴らしていた咽が渇いたのであろう。僕は日本人のスチュワーデスさんにお水を頼んだその時チョコピーは頭を横に振って、フランス人のスチュワーデスの方ばかりを見ている。僕はチョコピーはフランス人のスチュワーデスから水を貰いたいと思いお願いした。すごく美人のスチュワーデスであるマリー・アントワネットを思わせるような美人でもある。チョコピーは美人を見る目は高いな~と、つくづく感心した。やはり血筋は争えないものである。ペットボトルの水を貰ったが、どうして飲むかと思案していたら、チョコピーは袋の中から、水用の皿を出した、なんと手回しいいことキット、チョコピーのママが入れてくれたのであろう。僕達3匹はその皿で水を飲むことが出来た。まだ早いけど夕食のドックフードを水を飲みながら食べた。降りる時の話をしたまず第一に良く肥えた金持ちに見える婦人と降りること。顔立ちはそれなりの人でも構わない。その時ラッキーがどうしてなの~と聞かれたラッキーとチョコピーは血統書付の名犬である肥えた金持ちに見える人の傍にいるとそれだけで素晴らしくいいワン公に見えるものである。反対に痩せた婦人の傍だと、せっかくの血統書付の名犬でも、色あせたワン公に見えるからである。話を聞いたラッキーは納得したという顔に変わったきっと、ラッキーのママを想像したに違いない。じゃあ~リュウはどういう人がいいのかとチョコピーから聞かれた。僕がラッキーやチョコピーと同じ人を選べば、その人に失礼になる、僕は柴のMI犬である僕が傍にいればせっかくのダイヤの指輪も人はガラス玉としか見ないであろう、すべてがイミテーションに見られてしまう。だから僕は癒せて貧しい顔をした人を探すしか無いのである。チョコピーには理解出来ないであろうと思った。チョコピーの廻りにはそう云う人は居ないからである。
2006.01.15
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午前10時30分きちんと3匹のワン公は成田空港のロービーに集まった。僕はラッキーやチョコピーとは面識があるがラッキーとチョコピーは初めての出会いなので成田空港の庭で自己紹介をすることにした。チョコピーが始めに自己紹介をした「僕はチワワでレオナルドの子孫でチョコピーと言います宜しくね。」と挨拶をした。ラッキーはレオナルドの子孫と言っても解らないポカンーとしていたので、僕が補足した。250年前マリー・アントワネットに可愛がられたチョコレート色のチワワで忠犬レオナルドの話を簡単に話した。ラッキーはブログは見たことが無いので僕が書いた王妃マリー・アントワネットの話などは知らない僕の話を聞いたラッキーはまじまじとチョコピーを見て、さすがに元貴族の出だけあって威厳があるな~とつぶやいた。ラッキーもアメリカン・コッカー・スパニエルと云う血統書付のワン公である。互いに自己紹介も終わり確認事項に入った。僕は長旅のため、特に健康状態がすごく気になりチョコピーにお尻を絞ってきたのと、聞いてみた。チョコピーは大丈夫来る前に獣医さんに絞って貰ったと胸を張って答えていた。ラッキーすごく優しくて、利口なワン公だが好奇心が強くはぐれる恐れがあるので、何時も3匹一緒だよと念を押した。いよいよ僕達の無銭旅行の始まりである。僕はパパから出かける前に小さな布の袋を首に掛けられたその中に3匹の名前と住所、それにお年玉の残りのお金が入っていた。必要は無いと思うけどお守り代わりに持っていくことにした。飛行機に乗る際は、お金持ちで肥えた婦人の傍について乗ること。乗ったら一番後ろのトイレの横で待っておくこと。決して通路にいないこと、みんなは、手荷物を飛行機のボックスに入れるため踏みつけられる恐れがあるためである。この二点を確認して飛行機に乗り込むことにした。成田発 12:05 エールフランス航空 AF276便パリ シャルル・ド・ゴール 着 17:30(7時間の時差があり日本時間では24:30)飛行時間12時間の旅立ちとなったのである。
2006.01.14
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パパからイタリアの雑誌を見せてもらった。僕もパパも旅行にはいけないから、もっぱらカタログと、雑誌や写真集を見ていった気分になっている。だから、パパも僕も夢でしか、何処にもいけないの夢なら、お金もかからないし、何処にでもいけるので本当に便利であると思った。僕は夢の中で、僕の親友のチョコピーとさくらちゃんを誘った、だけどさくらちゃんはまだ生まれて3ヶ月まだ5歳なのでさくらちゃんのママから、大きくなってから、誘ってねと言われた。僕はさくらちゃんの代わりに大好きなラッキー君を誘ってみたら、二つ返事でいくことが決まった。だから、僕とチョコピーとラッキーの3人でイタリアに行くことにした。3人とも2年23歳になったばかりである。僕達は2年で成人祝である、そのお祝いをかねて海外イタリア旅行に行くことに決定。僕はリックにドックフードを詰め込み、ラッキーはオヤツのササミの燻製とビスケットを持ってもらうことにし。チョコピーはすごく肥えてきたので、地図やウンチの袋やタオルなど小物を持ってもらうことにした。3人の集合場所は成田空港とした。成田までは3人ともかなりの時間がかかるがまあ~仕方が無いや~。
2006.01.13
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今日はすごく天気がいいのでパパとボール遊びをした。僕の好きなおもちゃは、ピコピコなるおもちゃだけど僕がリボンちゃんを遊んであげようと思ってピコピコしたら、泣き出したのだから今は僕一人で遊んでいるの、夜はピコピコのオモチャは使わないことにしてる、だってパパから叱られるからね~。昨年パパがサッカーボールを買ってきた。リュウサッカーをしょうといってボールを見たらバスケのボールじゃん・・。パパは何時もこれだから、家族から物を買うことはすべて信用がないことがわかった。だからパパには買い物を頼まないことが解った。仕方が無いのでバスケでサッカーをしただけど大きくて咥えることは出来ない。もう少し僕にあったボールを買ってくればいいのにこれじゃ、どうしようもない。色々挑戦したが僕には向かないみたい。パパがリュウサッカーボールは足で蹴るものだと云うが、僕の足は4本でどの足で蹴っていいのか解らない、仕方が無いので口に咥えるようにするが駄目だった。パパもうサッカーは止めようよと僕はパパに云ってこの遊びは諦めた。パパの発案した遊びは面白くない物ばかりである。
2006.01.12
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今日は散歩から帰るとパパからイタリアの本を見せてもらった。僕は行くことが出来ないからと云って、本を見せてくれたのだと思う。パパが本を見ながら、色々説明をしてくれただけどパパもローマを知らないので、パパの説明は解らなかった。特に地名はすべてカタカナ文字、パパの発音はナマッテいるので、ウソばかり云ってるように思えた。だけど一生懸命に僕に説明するパパを見て、解らないけど解ったふりをして、聞いてあげた。このうちの家族は誰一人として、パパの説明を聴く人は居ない、だから何時も僕が聞いてあげるの昨日忠犬ハチ公のテレビを見た、パパはすごく感激していた、だけど我が家では忠犬リュウである。あのテレビを見たパパは、僕に関して接し方が変わることを祈っている。
2006.01.11
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今年になって初めてパパの雷が炸裂した。僕が何度もパパに散歩をお願いしたが、パパはぐずぐずしてなかなか散歩に連れて行かない。僕はすごくウンチがしたくて、堪らない。クンクン云いながら、催促するも焼け石に水。だから僕のお年玉で買った、ベットを噛み砕いた。中から綿がすごく出たの、やっとみこしをあげたパパはベットから出た綿を見て「リュウ!おいで!」と大きな声で呼ばれた。この声は雷の落ちる前兆である、僕はとっさに犬小屋に非難した。雷は僕の小屋まで来て、外に引きずりだされた。目の前には僕が噛み砕いたベットと綿が散らかっていた。その前で雷は落ち続けた。同じことを2度したらパパはすごく叱る、1度目はパパは注意だけである。僕は自分のしたことは悪いと思っている、だけど僕には僕なりの理由がある。ウンチがしたくて、堪らない状態であった。僕の理由も聞かずに落ちてくる雷に、納得がいかなかった。僕の友達のワン公は雷を怖がる、だけど僕は雷は怖いと思ったことは無い、ピカーと光って1秒経ってドンとなる1秒後では1Km先である。僕のパパは「ピカドン」である、何時もピカドンを聞いているから、雷は怖くないのである。雷を怖がっているのは僕よりパパの方である。パパは目に涙をためながら僕を叱っているパパの顔を見たとき僕は心から反省せざるを得なかった。なぜならばパパの姿の中に親の厳愛を感じたからである。
2006.01.10
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1789年10月、パリ市民が「パンを求めて」ヴェルサイユ宮殿に押しかけ、王妃アントワネットを守るために、レオナルドとその妻は暴徒の銃弾で死亡残された長男アーノルドと兄弟3人は、国王一家がヴェルサイユ宮殿を去り、食べるものも無く、肩を寄せ合って生きていた。だが次男のミッチェルは寒さと空腹のため死亡死んだミッチェルを囲んで3人の兄弟たちが泣いているところに、宮殿内を警備している衛兵隊に助けられたのである。それから217年後の今、忠犬レオナルドの生命は世界の中に、チョコレート色のチワワとして生き続けている。此処イタリアのフィレンツェにもチョコレート色したチワワを見ることが出来た。まさにレオナルドの子孫に間違いない。日本においても、チョコピーとして優しいお母さんとお兄ちゃんに、育てられ、すくすくと成長している、忠犬レオナルドの血を引くだけあって、チョコピーもまた名犬である。お兄ちゃんと、お母さんを何時も守り今ではチョコピーの居ない生活はありえないほどの家庭環境へとなっている。チワワだもん!チョコピー日記の入り口はここです。フランスでもタイのバンコック、ローマでも今は至る所でチョコレート色をしたチワワを見かける。僕はすべてがレオナルドの子孫であると信じている。あのフランス革命で王妃の関係者はすべて処刑された、だがその中にあって唯一つの救いはレオナルドの子孫だけは今なお生き続けていることである。名犬レオナルドの魂は永遠に消えることなくいき続けるであろう・・世界の果てまでも・・・。僕が王妃マリー・アントワネットの生涯を書き終えたときパパから「リュウ本当に長い間ご苦労さん」と云われた、僕はこの一言がとても嬉かった。
2006.01.09
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ギロチン広場としてフランス革命の処刑場として使われた。其処にはルイ14世の銅像が掲げられていた。現在ではコンコルド広場として改名市民の憩いの場となっている。コンコルド広場の隣にチュイルリー公園がありその正面にルーブル美術館が見える。ギロチン広場・1793年1月21日 ルイ16世処刑7月3日 最愛の息子ルイ17世と 引き離され暗殺される。10月12日 革命裁判所に出頭10月15日 死刑判決を受ける10月16日 処刑・・断頭台の露と消え フランス王朝の終焉
2006.01.08
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死刑を目前に控えたマリー・アントワネットは心残りは息子の安否であった。王党派の将軍がルイ16世の息子をルイ17世と名乗らせ国王の地位につけようと云う噂が流れる。7月3日の夜10時ごろ、王妃の部屋に何人もの役人が乱入した。その一人が、マリー・アントワネットから息子を引き離すという、命令書を読み上げた。それを聞くと、王妃は怒りをあらわにし、息子を手放せない理由を次々に並べ立てた。しかし役人達は妥協せず王太子のベットに近づいた。すでに目を覚ましていた王太子は、甲高い声をあげて泣いていた。王妃はしっかり息子を抱きとめていたが結局彼らの命令に従う他は無かった。彼女は息子を抱き起こし、服を着せ、泣きながらキスをした後、男達の手に彼をゆだねた。その後最愛の息子ルイ17世は暗殺されたのである。マリー・アントワネットはそのことは知る由もなかった。翌10月16日、無数の群集がひしめく中で、マリー・アントワネットは断頭台に向かう馬車に乗ったその途上で彼女を救出しようとする動きにそなえてパリには3万人の部隊が配置された。元王妃を乗せた荷馬車は、ゆっくりと進んだ。彼女の白い髪はバッサリ切り落とされ、帽子からはみ出していた。顔は青ざめ目は充血していたが、背筋はピンと伸びていた。処刑場に到着して断頭台を目にしたとき、彼女は一瞬おびえたような表情をしたが、次の瞬間颯爽と荷馬車から降りた。そして王女の最後として断頭台の急な階段を登り頭をさっと振って帽子を落とすと、ギロチンの刃の下に首を置いた。(12時15分に処刑される)刃が落ちると、死刑執行人は血まみれの頭をつかみあげた。それを見た民衆は「共和国ばんざい!」と口々に叫んでいた。フランス革命を通してギロチンの刃で死刑執行されたのは延べ2000人の多くを数えた。
2006.01.07
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1793年10月15日午前8時、かってフランスに君臨した王妃マリー・アントワネットは、青ざめながら威厳に満ちた様子で裁判所の大法廷に姿を現した。喪服姿に喪章をつけた帽子をかぶった彼女は、検事と裁判官達が居並ぶテーブルの前に用意された椅子に腰をかけた。「オーストリア女」が犯した罪状が読み上げられた後41人の人間が虚偽で固められた証言を行なった。それらの証拠に対して、王妃ははっきりと反論した。裁判長は彼女を有罪とする決定的な証拠を引き出すことは出来なかった。マリー・アントワネットは、国外追放の刑に処せられることを期待していた。彼女が国家や国民を裏切ったという証拠は何一つ出てこなかったからである。しかし実のところ、王妃が死刑になる事は、初めから決まっていたのである、そのことをカムフラージュするために陪審員達は討議するふりをして、1時間あまりをすごした。審議が終了したという合図がでると、法廷は深い沈黙に閉ざされた。「マリー・アントワネット、これから陪審団の答申を言い渡す」と裁判長エルマンが告げ、検事フーキエ・タンヴィルが「被告人は死刑に処せられる」と叫んだ。その判決をマリー・アントワネットは身じろぎもせず聞き、呆然としたまま法廷を退出しょうとしたがすでに歩くことも出来ない状態であった。
2006.01.07
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今日は朝からの雪、外はすごく寒くなった。パパは夜遅くまで仕事をしていたので、寝坊しただからお仕事にはいけなかった。パパが僕に色々な話をしてくれた。お姉さんがお祈りしてる傍で2匹のワン公が目を閉じて寝ている。パパは2匹のワン公が死んでいるのではないかと思い近づいてみた、誰が来てもワン公は目を開こうとは、しない。お姉さんの膝の前に皿が置いてある、見ると2~3枚の硬貨が入っている。パパは5百円玉を入れたあげたその時チャリン~と云う音がした、その時1匹のワン公が目を開けたがすぐに閉じた。パパは僕に「リュウは朝から夕方まで何も食べずにパパの傍にいられるかい」と聞かれた。「リュウはパパが座ってタバコを吸っている時もじっとしてないもんね~」「すぐにボールを持ってきて、遊んでもらいたがるしね~」僕には到底出来ないと思った、何も食べず、身動きもせづ何時間も・・。パパは「リュウ、ワン公にはそれぞれの役目があるのこのワン公もお姉さん守り一緒にいることがたとえ何も食べずとも幸せかもしれないね~」ママがパパに話してたニャン公の話をしてくれた緊急センターに日本で云う「119番」通報があった係官が「もしもし」と声を掛けるが応答は無いだけど緊急事態には間違いない、電話を逆探知して現場に急行した。其処には体の不自由な人が倒れていた、部屋の中には誰も居ない、一体誰が「119番」通報をしたのか不思議に思った。あたりを見渡すと、電話の傍に1匹のネコが座っていた。身体障害者の主人を守るためにニャン公が「119番」通報をしたのである。僕はパパを何時も見守っている、寒いときでもパパはタバコを吸いに外に出てくる、僕はすぐ小屋から出てパパの様子を見るの、するとパパは寒いから小屋に入りなさいと何時も言われる、だけどパパが部屋に入るまで、僕は小屋には入らないでいる。だけどもしパパが倒れた時僕は果たしてこのニャン公のようなことが出来るか、わからない。このニャン公も主人を守ることで幸せを感じていると僕は思う。僕の親友のチョコpiはどんなに雪が降っても散歩してる、通りすがりの人から「かわいそうに・・」と言われた、散歩から帰る頃には足は雪ダルマ僕は傍からなんと言われようが、どんなに寒かろうが大好きなママと散歩することがチョコpiにとってこの時間が最高に幸せの時間かも知れないと思った。パパ云うように環境が違っていても、立派に役目を果たし、それぞれに幸せを感じていると思う。雪はやむことなく、降り続いている・・・
2006.01.06
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今日は中国人留学生の仁先生が来る日である。仁先生は日本に来て大学4年間ロシア語を学び卒業後教育大学修士課程で英文学を専攻している。市の施設でボランティアの一環として中国語を市民に教えている。パパは農政連のお友達から「桂林」に行くことを勧められため、今中国語を仁先生から習っています。日本の物価は中国の10倍でアパート代や学費の為アルバイトをしなくてはいけないので、パパの親友に(市が委託する)温泉にフロント掛としてアルバイトをお願いしたの。だから仁先生の履歴書を提出するために温泉に行くことになったのね。リュウいい空気を吸いにドライブをしょうと云われ僕と仁先生と車に乗りました。朝から曇り空、嫌な天気です、車はどんどん山道を走り続けた。ちょうど山の5合目に来た時から雪が降り出した、どんどん雪が積もっている。山道で道幅は狭く、Uターンする所も無い、前進あるのみである、S字形の狭い道は瞬く間に雪化粧、パパの顔色は段々青ざめていきました。凄い風と雪、7合目に来た時車のスリップ表示灯と警報ブザーが鳴り、車は横向きに旋回した。横に乗っている仁先生は血の気が引いていくのが僕の目に映った。VSCが作動して車は停止した。パパはローギアに切り替え、車を建て直して時速5kmで山道を登っていった。車の中では誰一人として言葉は出なかった。もし前方から車が来ていたら衝突は免れない状況であった。又車が停止しなかったなら、谷へ・・。登りつめてから、次は下り道、もう温泉にいくどころではない。下り坂は何度もスリップをした。パパの車の後ろには10数台の車が連なっていた。運転の下手なパパは決してスピードを上げようとはせず5kmを維持して走ったいた。温泉に行くことを諦め、車は町を目指して走っている。町に近づくにつれて、積雪が少なくなっていた。パパがサードギアに切り替えた時、仁先生はやっと口を開いた、「死ぬかと思いました・・・」と幸いにも仁先生は運転が出来ない、もし横に運転出来る人が乗っていたなら、30Kmのドライブは生きた心地はしなかったであろうと僕は思った。僕が住んでる町に来ると曇り空ではあるがうっすらと青空が覗いていた。1月5日僕達は天国と地獄を味わった。
2006.01.05
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僕がパパのところに来る前はインコを飼っていたことは聞いたことがある。今日は僕にセキレイのチイーコの話をしてくれた僕が親しくカモメのジョナさんとの話を聞いたからかも知れない。パパの職場は海岸にあり岸壁には500mのグリーンベルト地帯である。何時も朝の体操の後グリーンベルト地帯を散歩するその時いつもセキレイが遊んでいた。パパは何とかして友達になりたいと思ったがいい案が浮かんでこなかった。ある日パパは口笛を吹いてその後皿に餌を載せた餌は小さく刻んだパンである。だがセキレイはこちらに来る気配は無かった。パパは毎日毎日口笛を吹いては餌を置いた。1ヶ月後にセキレイは気がついたのか200mのところまで来るようになった、だがそれ以上は近寄らなかった。又1ヶ月が過ぎた、冬の12月である、パパは同じように口笛を吹き餌を皿に載せた。幾日か過ぎた時まだ子供のセキレイは、好奇心か20mまで来るようになった。1月の中旬、海岸は寒く吹雪が舞っていた、パパはセキレイが何処にいるのか解らないが同じように口笛を吹き餌をさらに載せた。その時1匹のセキレイが地上1メートルの高さで吹雪を掻き分け真直ぐパパの所に飛んできた、そしてパパが与えたパンを食べたのである。その時のパパは野生のセキレイと友達になれたことと雪が舞っているこの日にきてくれた感激で涙が止まらなかったと僕に話してくれた。それからは、パパが口笛を吹くと、何処からともなくセキレイは来るようになったのである。やがて成人したチイーコは彼女を連れてきた。パパは小鳥屋に行きセキレイの餌を聞いたパンを食べていると云うと小鳥屋はビックリした様子であった。セキレイの餌は虫ミルウオームと言う餌である、それからはつがいのセキレイにミルウオームを与えた。パパが会社に来る前には必ずチイーコとその伴侶が迎えてくれた。あるとき同僚が口笛を吹いたが、チイーコは来ることは無かった。やがてチイーコに可愛い2匹の子供が産まれ親子4人で来るようになった。すごく夫婦仲もよく子供たちもすくすくと成長した暫らくすると、子供たちは親元を離れ夫婦だけが来るようになったのである。パパがトイレに行くときもチイーコは着いてきた、散歩する時もヨチヨチしながら着いてきたのであるある日パパが会社に行くと草むらにチイーコが死んでいたあまりにも人になれすぎたのか、車に引かれたような死に方である。パパはチイーコの冥福を祈りチイーコがいつも遊んでいた場所にチイーコを埋葬して墓を立てた。チイーコがいなくなってからも妻のセキレイは来ていたが1週間たっとばったり来なくなったのである。パパはすごく落ち込んでいた、おそらく車の下で遊んでいたのであろう、悔やんでも悔やまれることではなかった。今でもチイーコの墓は海岸のグルーンベルト地帯にある。毎日海を見ながら子供の成長を見守っていることと思う。チイーコは何時までも何時何時までもパパの心に生き続けていると僕は思った。
2006.01.04
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「カモメのおばさん、何時も此処に来るの?」「そうさね~、はぐれた子供を待ってるの」「お前さんは誰だね」「僕はリュウといいます、今年で2年で23歳になります」「私の息子達も2年だね、はぐれてもう1年になるかね~」「じや~僕と同じだよ、キット元気に暮らしていると思うよ、心配は要らないと思うけどね~」「親から見れば何年経っても子供は子供だよ・・」「毎日来ているの?」「雨の日も、風の日も嵐の日にも此処で待っているのさ」「夫を早く亡くしたからね~、今は子供が頼りなのよ・・」「おばさん、心配は要らないよ、キット還ってくると思うよ」「おばさんは、よしてよね、私はカモメのジョナって云うの」「じゃあ~、ジョナおばさん、僕も此処に来た時は探してあげるね」「おばさんは余計だよ、ジョナさんでいいの・・」「此処は寒いから早くお帰り、向こうでぼーと立っているのがリュウのパパだろ気をつけてお帰り」僕はパパから鳥さんの母親は子供をすごく大事にすることを聞いた事がある。パパに懐いていたセキレイに餌をあげると、オスは食べても母親は自分は食べずに子供が待っているところに運んでいくパパは親に食べさせたいと、また餌をやると子供に持っていく何度繰り返しても、すべて子供に与えている。数日後母のセキレイが2匹の子供を連れてきた、丸々肥えて元気そうな小鳥は母の後を追い、パパがあげた餌(虫のミルウォーム)を2匹の子供の口に入れている。痩せた母鳥より2匹の小鳥が大きくなっている。いずれの世界でも母の愛情に勝るものは無いとパパは僕に教えてくれた。僕には父も母も居ないだけど、僕にはパパがいるパパは何時も母のようであり時として父でもあると僕は思った
2006.01.04
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今年は僕はすごく忙しかった。元日の朝紅白の後、午前0時から神社に御参りする人が僕のお家の前を行き交えし、僕はお家を守るために一晩中見張ってた。そして元日は12時から恒例の兄弟会、僕は子供のおもうりや、パパの孫のリボンちゃんやアスカチャンのお相手で本当に疲れちゃった。2日はリボンちゃんとアスカちゃんがリュウと遊びたいというので、僕は大サービスをした。リボンちゃんはまだ生まれて1歳前お家の中を這い回ることは出来ても、まだ歩くことは出来ないの・・だからリボンちゃんのパパに抱かれて僕の所に遊びに来たの、僕はまだ赤ちゃんには接したことが無いのでどうしていいのか、解らないので、リボンちゃんのアンヨをぺろぺろ舐めてあげた。パパからリュウ、アンヨを舐めたらいけないよといわれリボンちゃんを見てるだけでした。仕方が無いので、僕はリボンちゃんをあやすつもりで咬めばブウブウなる、おもちゃを鳴らした。リボンちゃんはビックリして泣き出したの、リボンちゃんのパパがお部屋に連れて帰ったの。僕はまだ赤ちゃんはあやすことが出来ないと思った。本当に忙しい新年の幕開け、今日は僕は1日ゆっくりしたいと思う。僕のことを気遣って、パパは今日はゆっくり体を休めなさいと云って、僕の所に来ることはしなかった。
2006.01.03
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兄弟会はパパが弟達の色々な出来事を聴くことが多い両親が亡くなった今はパパが親代わりのため兄弟達を見守っている。特に弟の二クラウスやジョージさんのことを何時も気にかけている。その弟の二クラウスがパパにパネル2枚をプレゼントした1枚はまちをつくる男たち・・・千早の始まりはこうして生まれた。もう1枚は新都市のセンターゾーンに暮らす贅のパネルである。そして弟の二クラウスは都市と、近接する自然(森と海)が調和し共存するまちへこれが弟、二クラウスの夢であった。パパは二クラウスが携わった2枚のパネルを両親の仏前に供えた。
2006.01.02
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僕のお家では元日は兄弟が皆んな、パパの所に集まるの、パパのパパが早く亡くなったのでパパが親代わりになったの。まだ小学生や中学生の弟達をパパが面倒を見たのそれから弟達はパパのお家から皆んな巣立って行ったのね。だから毎年1月1日は兄弟家族全員がパパのところにお年始に来るの。この日は僕はすごく忙しいの、みんなのお相手をしたり、子供たちのお守りをしてあげるの・・・。リュウ・リュウと云って、すごく皆から可愛がられたよ。去年はジョージ兄さんからお年玉を貰ったが今年はお年玉の交換会のときパパがぜろなおさんから造ってもらったリュウのお年玉袋をみんなに配ったのそしたら、皆リュウにお年玉をくれたの。パパは僕に見せた後、パパの財布に納まったみたいね~。なんぼ頂いたかは、僕は知らないが、僕の予想では壱万円はあったみたい。僕は心の中で「パパこのお金は僕のだからね!」と云ってやったの。夕方6時まで宴会が続いた、夕方の散歩は弟の子供で二クラスちゃんとワトソンちゃんが連れて行ってくれた。パパは久方振りにお酒を飲みながら兄弟の話を聞いていた。この日はパパは上機嫌でした。
2006.01.02
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初春を迎え皆様のご多幸をお祈り申し上げます昨年は色々お世話になりました、皆様の御蔭で何とかブログを1年間続ける事が出来ました色々とアドバイスを頂、心から感謝申しあげます今後とも宜しくお願いいたします平成18年1月元旦 リュウ
2006.01.01
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