ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2026/06/23
XML
テーマ: 鉄道(27798)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その12~


11.ローカル私営鉄道
1)京都電燈株式会社・・・京福電鉄と叡山電車の原点は電力会社

 明治20年、京都電燈会社が設立され、明治26年に京都電燈株式会社(以下、京都電燈)に改称された。京都電燈は、関西から北陸をテリトリーとし、明治24年稼働の日本初の一般供給用水力発電所である蹴上発電所からの電力を背景として、電灯の本格普及、京都市の産業振興に大きく貢献し、日本初の事業用電車である京電を明治28年に走らせる原動力ともなった。その後、九頭竜川に水力発電所を作り、大正3年に越前線(新福井/大野口間)を開通させた(図1)。 当時は、夜間は照明用に需要があっても、昼間は需要が少なく、昼間の余剰電力活用のため、電力会社が鉄道経営をすることも珍しくなかった。
 この動きと並行して、明治40年8月に神戸川崎財閥により、嵐山電車軌道が設立され、明治43年3月には、嵐山駅/京都駅(現・四条大宮駅)が開通した。これを大正7年4月に京都電燈が合弁し、嵐山電鉄部の下に置いた(図2)。
 さらに京都電燈は大正14年9月に、叡山電気鉄道部平坦線(出町柳駅/八瀬駅間)(図3)、同年11月、嵐山電鉄部北野支線(北野駅/高雄口駅[現・宇多野駅])間)(図5)、同年12月に叡山電気鉄道部鋼索線(ケーブルカー)(西塔橋[現・ケーブル八瀬]/四明ヶ嶽[現・ケーブル比叡]間)の営業を開始した(図4)。大正15年3月には、北野支線高雄口駅/帷子ノ辻駅間が開通し、嵐山本線と結ばれた(図5)。


 京都電燈は、昭和2年12月に京阪電気鉄道との合弁会社として鞍馬電気鉄道を設立し、昭和3年12月に山端駅 (現・宝ヶ池駅)/市原駅間を開業させ、昭和4年12月市原駅 /鞍馬間駅を開業し全通させた(現・叡山電鉄鞍馬線)(図6)。また、昭和3年10月に、比叡山に架空索道線「叡山空中ケーブル」(高祖谷[こうそだに])駅/延暦寺駅間)を開通させた(図7)。
 福井では吉崎電気鉄道(大正12年設立)の経営に、大正14年頃から参加し、昭和2年に三国芦原電鉄に社名を改め、昭和3年12月に福井口駅 /芦原駅(現・あわら湯のまち駅)間を開業し、翌年1月、三国町駅(のちの電車三国駅、現・三国駅)まで延伸した(図8)。


 時代が経過し、戦時の配電統制令により、昭和16年に、発送電部門と配電部門の譲渡命令が出された。鉄道事業などの陸上輸送部門は、昭和17年3月に設立された京福電気鉄道に譲渡、配電部門は関西配電(関西で電気供給事業を営む大阪市・神戸市・京都市の3市を含む合計14事業者が統合されてできた会社。関西電力の前身)と北陸配電(北陸電力の前身)に譲渡され、発送電部門は日本発送電(株)に譲渡された。京都電燈は清算に入り、昭和19年に清算が完了した。


2)京福電気鉄道・・・「福」は福井の「福」だったのだが
 京都電燈から鉄道事業を引き継いだ京福電気鉄道(以下、京福電鉄)に、昭和17年8月、京都では鞍馬電気鉄道、福井では三国芦原電鉄が合流し、それぞれ鞍馬線(図10)、三国芦原線となった(図11)。昭和19年1月には叡山空中ケーブルを廃止した。さらに福井では、昭和19年12月、永平寺鉄道(大正13年設立)(金津[かなづ])駅/永平寺駅間)、丸岡鉄道(大正2年設立)(本丸岡駅/長田町駅間)を合弁し、それぞれ永平寺線、丸岡線とした(図11)。昭和25年頃には京都と福井で合わせて120.9 kmもの路線網を擁することになった。

 昭和31年7月には、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」(ロープ比叡駅/比叡山山頂駅間)を開通させた。昭和34年4月に比叡山頂遊園、昭和39年10月、八瀬遊園(平成13年11月閉園)、昭和39年12月、比叡山人口スキー場(平成14年9月廃業)と集客のための施設を開業していった。
 一方で、1960年代から1970年代にかけて、福井地域の不採算路線・区間の廃止が行われた(図12)。
・昭和43年11月、丸岡線(本丸岡/西
 長田間)廃止
・昭和44年9月、永平寺線の一部(金
 津/東古市[旧・永平寺口]間)廃止
・昭和49年8月、越前本線の一部(勝山/
 京福京福大野[旧・大野三番]間)廃止
 また、昭和35年頃、京阪電鉄は、近畿日本鉄道との間で奈良電気鉄道をめぐって株式の争奪戦となっていたが、京阪は自社の持つ奈良電気鉄道の株式を近畿日本鉄道に譲渡し、代わりに近畿日本鉄道は自社の持つ京福電鉄株を京阪に売却することになり、昭和37年7月、京福電鉄は京阪グループ入りした。令和7年3月31日時点で、京阪ホールディングスが43.17%の株式を保有する親会社となっている。

 このような経営努力のなか、平成12年から平成13年にかけて、越前本線で半年の間に2件の列車衝突事故を起こしてしまう(死傷者計、55名)。国土交通省中部運輸局から福井地区各線の列車運行停止を命ぜられた。京福電鉄は事業継続が困難になったとして、永平寺線の残存区間(東古市[旧・永平寺口]/永平寺間)を平成14年10月に廃止後、平成15年2月に福井地区の鉄道事業(越前本線・三国芦原線)を廃止して撤退、えちぜん鉄道(第3セクター会社)へ事業譲渡した。
 最盛期には120 kmを超えた営業路線は約13 kmとなった。以降、京福電気鉄道は、鉄道事業については、嵐電を中心とした事業に集中することになるが、平成20年1月の京都市営地下鉄の太秦天神川延伸開業により地下鉄と接続することにより旅客数が増え、さらに近年はインバウンド旅行客の増加もあり、堅実な経営がなされている。なお、叡山ケーブルの高低差561mはケーブルカーでは日本最大を誇る。
  図13~図16に、現在の京福電鉄の路線、及び、かつては京福電鉄の路線だったが、現在は他社によって運行されている路線を現在の所有会社名とともに示す。


 ここで、比叡山のロープウェイについて触れておこう。前述のように、京都電燈は昭和3年10月に、「叡山空中ケーブル」を開通させた。それを引き継いだ京福電鉄は、昭和19年1月に叡山空中ケーブルを一旦廃止した。しかし、戦後しばらくして、昭和31年7月に、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」を開通させた。しかし、同じ場所に復活させた訳でなく、図17(次ページ)に示す昭和3年開通(初代)の「叡山空中ケーブル」は高祖谷(こうそだに)駅/延暦寺駅間、昭和31年開通(第二代)の「比叡山ロープウェイ」はロープ比叡駅/比叡山山頂駅間とルートが全く異なっていた。初代はその駅名が示すように、延暦寺参拝を主目的としたもので、高祖谷駅は、ケーブル駅から約500メートル離れており、しかも山道であり、図18に示すように、籠も利用された。




3)叡山電鉄
 前述した昭和60年7月の叡山電鉄の京福電鉄からの分離独立の理由は経営状況の悪化であるが、この経営状況の悪化は、昭和53年10月の京都市電の全廃がもたらしたといわれている。沿線から市中心部に直結する路線バスに客が流れ、叡山電鉄の利用客が一気に減少した。これを救ったのが、平成元年10月の京阪電車鴨東線(三条/出町柳間)の開業であった。出町柳での電車での連絡が可能となり旅客数が倍増した。しかし、累積損失の解消をするまでには至らず、京福電鉄傘下での再建は不可能と判断され、京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に、平成3年10月に株式の60%を京阪に売却、その後、平成14年3月に京阪電車が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社になった。

4)鞍馬寺鞍馬山鋼索軌道
 鞍馬寺の参詣者の利便を図るために、宗教法人鞍馬寺が運行するケーブルカーである。山門駅/多宝塔駅を結ぶ。昭和32年1月開業。鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、唯一宗教法人が運営している鉄道である。また総延長は0.2kmで、鉄道事業法に基づく路線では、日本一短い路線である。車両は1台のみで、歴代「牛若號」を名乗る。現車両は4代目。
 鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、現在唯一の運賃無料の鉄道といわれているが、実際には諸堂維持のための寄付金(200円)が必要である。乗車券は「寄進票」と呼んでいる。また、乗車することが宗教活動と見なされるため、「寄進票」は非課税扱いである。山門駅は「普明殿」という数あるお堂の一つで、内陣には「鞍馬山尊天」や、毘沙門天尊像が安置されており、信仰上も重要な場所となっている。
 ところでケーブルカーは単線で、上方駅と下方駅の中間点だけ複線になっていて、そこで上に向かう列車と下に向かう列車が停止せずにすれ違う方式が多い(鞍馬山鋼索軌道は列車1台のみなので異なるが)。すれ違い時に、瞬時にポイント切替をしないといけないはずだが、どのようにやっているのであろうか。
 通常の列車の左右両車輪には内側にフランジがついており、これでレールから脱線せずに運行することができる(図21)。しかし、このフランジがあるので、分岐では線路を動かして、進むべきレールに誘導する必要がある。例えば、図22で手前から来た列車を右側の線路に進ませたい場合は、写真のままのレールの状態でよいが、直進させたい場合は、矢印の方向にレールを動かす必要がある。これをポイント切替という。ケーブルカーはこのポイント切替が不要なのである。実は、ケーブルカーの車輪は図23のように、外側の車輪の両側にフランジがあり、内側の車輪にはフランジがないのである。すれ違い部の線路は図24のようになっている。2台の列車はすれ違うとき、それぞれ決まった側を走ることになる。このような理由からポイント切り替えが不要なのである。素人考えだが、スピードも普通の電車ほど速くないし、ケーブルで引っ張られているので、このような構造の車輪でも問題なく運行できるのであろう。

5)愛宕山(あたごさん)鉄道
 愛宕山鉄道は京都市電同様、過去に廃止されてしまった鉄道である。京阪電気鉄道と京都電燈の共同出資会社(昭和2年8月設立)による敷設で、愛宕山の愛宕神社に向かう参詣路線として建設され、昭和4年4月に平坦線(通常の鉄道)、同年7月に鋼索線(ケーブルカー)が順次開業された(図25)。


 また同社の手により、昭和4年、山麓に清滝遊園地が開園、園内にはテニスコート、ローラースケート場もあった。また同年、愛宕山には愛宕山遊園地が開園、直営ホテル、飛行塔、スキー場、テント村もあり賑わった(図26)。


 昭和初めの世界恐慌で業績が下降し、その後、戦時中の軍需物資不足に伴いレールを軍に供出したため、昭和19年2月に鋼索線が、同年12月に平坦線が廃線となり前述の観光施設も閉鎖された。戦後、当時の親会社であった京阪神急行電鉄や京福電気鉄道に再建や合弁を申し入れたが、両社とも自社の戦後復興に手一杯で支援はできなかった。このため再建を断念し、昭和34年10月に会社を解散した。
 平坦線の嵐山駅は京都電燈(現・京福電鉄)の嵐山駅に併設され、図27のように2線を使っていた。現在は使われていない北側(建物のある側)にもプラットフォームの屋根があるのは、その名残であろう。
 平坦線の清滝トンネルは戦時下、三菱重工業の分工場として、航空機の部品工場となった。
 供出されたレールなどは武器弾薬になることなく野積みされたまま終戦を迎え、鋼索線の機材は、傘松ケーブル(天橋立鋼索軌道)の復活(昭和26年8月)などに転用され、平坦線のレールは京都市電梅津線(昭和20年新設)に払い下げられたと伝わる。
 平坦線は現在道路として残るが、清滝トンネル部分は単線であったため、信号による片側通行となっている(図28)。近年では心霊スポットとしても知られている。


 図29は運行当時の鋼索線の写真である。清滝に鋼索線清滝川駅の跡が残っおり、往時を偲ぶことができる(図30)。














←前回「京都市の鉄道史」 ​   次回「京都市の鉄道史」→ 0





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026/06/23 11:10:24 AM
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ワルディー・ヨーリョ

ワルディー・ヨーリョ

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: