ワルディーの京都案内

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2021/08/09
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カテゴリ: 若冲と応挙
【2021年8月9日(月・祝)】

 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。


 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。

◆第3章 円山応挙(続き)

3-6 晩期(続き)
図1 悟真寺
 応挙は 大乗寺 の 「松に孔雀図」 を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・ 悟真寺 に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました( 図1 )。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています( 図2


図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立)
右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫



 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった 妙法院宮真仁(まさひと)法親王 (光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代 応瑞 、応挙の向かって左が3代 応震 、一番右が4代 応立 (おうりゅう)、一番左が5代 応誠 です。

図3 円山応挙家系図(再掲)
 もう一度、応挙の家系図を 図3 に示します。応挙の次男・ 応受 木下萱斎 の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工 寺井久次郎 の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹( 国井家 に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子 国井(円山) 応陽 (6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・ 国井(円山)応祥 が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる 駒池(円山)慶祥 円山真祥 氏(本名駒池真)といっしょに描いています。


                      @太秦・悟真寺      @亀岡・穴太寺近く

(「もっと知りたい円山応挙」から)
さて、この悟真寺で 「応挙誕生地」 と書いた大きな石碑を見つけました( 図4 )。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの 「応挙誕生地」の碑 を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑( 図5 ・再掲)と悟真寺の碑( 図4 )を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています


(続きます)


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最終更新日  2021/08/09 11:50:06 PM
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