応挙は 大乗寺
の 「松に孔雀図」
を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・ 悟真寺
に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました( 図1
)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています( 図2


もう一度、応挙の家系図を 図3
に示します。応挙の次男・ 応受
木下萱斎
の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工 寺井久次郎
の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹( 国井家
に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子 国井(円山)
応陽
(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・ 国井(円山)応祥
が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる 駒池(円山)慶祥
円山真祥
氏(本名駒池真)といっしょに描いています。
さて、この悟真寺で 「応挙誕生地」
と書いた大きな石碑を見つけました( 図4
)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの 「応挙誕生地」の碑
を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑( 図5
・再掲)と悟真寺の碑( 図4
)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています【若冲と応挙】#56 付録4 若冲と同時代… 2021/10/29 コメント(4)
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